009

「なんだか、こうして一緒に歩くのも久しぶりだな」
 王城の漆黒の床に赤い絨毯を敷かれた廊下を歩きながら、ヘンリーは隣に並ぶアウグストにそう話しかけた。その様は楽しげで、表情は嬉しげだが、そんな彼ら二人の腕は、仕事の山である書類で埋まっている。
 時刻はもちろん吸血鬼たちの活動時間帯である真夜中で、廊下の壁には燭台の火が灯されていた。漆黒の壁には、様々な絵画がかけられている。中には数枚、ヘンリーやルースにとっての姉でありドラクルにとっては妹に当たる第一王女、アンの描いた絵が交じっていた。
「全くお前ときたら、近頃ずっとドラクル兄上と一緒にいるばかりで。私やアンリ兄上のもとには顔も出さないときてる」
「そうかな。それは申し訳ございませんね、第三王子殿下」
 言葉を交わしながらも歩みは止めない。ヘンリーの言葉におどけてそうアウグストが言うと、彼は頬を膨らませた。腕を書類に塞がれているからなのかも知れないが、実に子どもっぽい仕草だ。ヘンリーは子どもの頃から大人っぽいと言われていたが、その分大人になっても子どものような面が抜けきれないのも、付き合いの長くて親しいアウグストは知っている。
「アウグスト」
「わかってるよ。ヘンリー。だからごめんってば。ドラクル様も今お忙しい時期だから、こっちも大変だったんだよ。あの方がどれだけ多忙を極めていらっしゃるか、君も知ってるだろう?」
 アウグストの友人である第三王子ヘンリーは、ドラクルを大変尊敬している。彼の兄上自慢をよく知っているアウグストは、自らの唯一無二の主君の名前を、印籠のように振りかざした。しかもこれが効果覿面だ。
「そうだけど……でも、ここまで全く顔を出さないとなると」
「なんだ、ヘンリー、君寂しかったの?」
「違う! いきなり何を言い出すんだよ! アウグスト!」
「あー、はいはい。わかったから耳元でわめかないでくれ。充分聞こえるから」
「アウグスト〜」
 ヘンリーの指摘どおり、アウグストが最近、友人である彼のもとにも顔を出さなかったのは事実だ。たまたま城内で擦れ違うことはあっても、そういったときは大抵アウグストはドラクルの使いの仕事をしている。それ以外の時間は公爵として領地の方も統治しなければならないので、個人的にも大分忙しい。
 それでもやはり兄王子を尊敬するヘンリーにドラクルの名前は有効で、彼は軽く息をつくと、腕の中の書類の山を見下ろした。束ではない。山だ。二人なら運べない量でもないから、と人手を断ったが、頼むべきだったかと今更になって彼らは後悔する。それでもそうなるとすぐ側にひとの目耳があるということになり、やはり二人きりでいるほど寛いだ話はできない。
 ヘンリーの方は、多分大丈夫だろう。護衛や使用人がぞろぞろ自分についていたところで問題ないに違いない。一般的に王族というのは、他者に裸を見られてもなんとも思わないくらいでないとやっていけない。
 だが、アウグストにはそれができなかった。彼自身の複雑な生い立ちは勿論、十年近く前から父王に虐待されるようになったため、よほど信頼した相手でなければ側にすら寄せ付けなくなったドラクルの姿を見ているアウグストには、余計な存在の目があるということに耐えられない。重すぎる秘密を抱える者は、他者の中で暮らすのに向いていないのだ。
 まだ事情を知らされていなかった頃、いつも通り彼の小姓として着替えを手伝おうとして、ドラクルに乱暴に手を振り払われたのをアウグストは覚えている。すぐに我に帰ったドラクルは公爵子息とはいえ一介の小姓にしか過ぎなかった自分に謝ってくれたが、そんな第一王子の様子を初めて見たアウグストは、呆然としてしまって言葉が出なかった。
 今となっては、あの時のドラクルは父王に散々いたぶられてきた後だろうから、辛い身体に他者が触れるのが嫌だったのだろう。それに気づきもせず近づいた自分が悪いのだと、アウグストはすまなく思う。
冷静沈着、品行方正、文武両道、才色兼備、あらゆる言葉を尽くして褒めちぎられるドラクルが、意外に短気でいざ精神的な防波堤が崩れると瞬間的な癇癪を起こしやすいことも、今ではアウグストも知っている。――ロゼウスに対するドラクルの態度で知った。
 だけれど、だからこそアウグストにとってドラクルは大切な主君なのだ。決して聖人君子などではない、誰よりも優れているくせに、誰よりも公正であることに努め、民と同じ目線でものを見ることのできるドラクルだからこそ。
 彼に理不尽な扱いをされているロゼウスに関しては、アウグストは特に感想はない。むしろ生まれながらに恵まれた立場であり、いつひとの権利を脅かすかもしれないのに平然と生きているロゼウスの態度は、アウグストの癇に障る。勿論ドラクルから真実のほとんどを打ち明けられているアウグストは、ロゼウスがそう言った事情をまるで知らないことも、彼がドラクルに素直にわがままを言えたのは、ドラクル自身もまだそれを知らず、彼らが普通の兄弟であった十年前までだとわかっているが。
「それにしても」
 アウグストの思考を、ヘンリーの声が遮る。
「こういうときは、やはり兄上の有能さを思い知るな」
腕の中の書類の山を見つめて銀の眉を下げ、ヘンリーは困ったように笑う。
 ドラクルが盗賊討伐の際に負った傷で伏せっている間、その仕事を肩代わりしているのはルースと彼だった。もともとの仕事もあるから、と王族二人で分担したのだが、それだけでもヘンリーはいっぱいいっぱいだ。しかも彼らが肩代わりしたのは、ドラクルの平常業務の一部でしかない。彼にしかこなせない仕事は、そのまま溜め込まれている。
 ローゼンティアにおいて、ドラクルという王子は間違いなく誰よりも有能だ。少なくとも、そう信じられている。疑うことなど考えられないほどに、ヘンリーなどはドラクルに心酔している。
「あーあ。私に兄上の能力の半分でもあれば、せめてもっと兄上を補佐することもできたのに」
 けれどその口から出る自己認識と願望についてもヘンリーの言葉は誠実で、だからこそアウグストは胸が痛む。
 このまま何もせずに日々を過ごしていれば、破滅の日は必ず訪れる。ドラクルの廃嫡も、それによってヘンリーが衝撃を受ける場面も、アウグストは見たくない。
 どうしてこのままでいられないのだろうか。あの幸せだった、十年前の冬の日のままで。
「……ねぇ、ヘンリー、私たちが初めて会った日を覚えてるかい?」
「なんだ? アウグスト。いきなりだな」
アウグストがヘンリーに語りかけると、彼は驚いたように眉をあげながらも、きちんと答えてくれた。
「ああ。よく覚えてるよ、アウグスト=カルデール。今じゃこぉんな立派な公爵閣下が、あの時は泣きべそだったな」
「……つられて泣き出したひとに言われたくないな」
 彼らの出会いは十一年前のことだ。ヘンリーとアウグストの二人は九歳だった。ドラクルが十六で、今の二人よりよっぽど若いのに随分大人に見えた。やはり昔から彼はしっかりしていたということだろう。そして自分は成長しても彼に追いつけない。あの時から、彼は遠かった。その遠さが心地良かった。
 アウグストの身の上もかなり複雑にして単純明快だ。つまり彼は正妻の子である兄より優れた能力を持つ、愛人の子どもなのである。僅差ならまだしも堂々と目に見える成果の違いに、周囲は兄ではなくアウグストを時期公爵にと推す。だからこそ兄に疎まれ、アウグストは幼い頃、殺されかけた。
 刺客から逃げる最中、たまたま出会って成り行きで一緒に逃げてくれたのがヘンリーで、その弟を探しに来て事情を知り、助けてくれたのがドラクルだ。
 忘れない。
 逃げ込んだ森の中、一緒にいたヘンリーと硬く手を握り合い洞窟の中で身を寄せ合った。いつ追っ手に見つかるかと息を殺して潜む中でひとの気配がして、青褪める二人の前に姿を現したのは、弟を心配して第一王子自ら捜索に来ていたドラクル王太子。優しい手が差し伸べられた時、張り詰めた緊張の糸が切れた。その後は後でドラクルはアウグストがまた兄に狙われないよう、アウグスト自身が充分に兄と渡り合う力を身につけるまで、自分の側に小姓として置いてくれた。
 だからアウグストにとって、ヘンリーと、そしてドラクルは特別なのだ。
「あの時のドラクル様は素敵だったよ。私はまるで、童話の中の白馬の王子様に助けられるお姫様の気分だったね」
「おいおい」
 アウグストの言い様に、流石のヘンリーも苦笑する。
 そうだ。本当の王子様……では実際はなかったわけだが、それでもアウグストにとってのドラクルはいつまで経ってもあの時の「王子様」なのだ。
 けれど自分は童話のお姫様ではない。だからこそ、彼の役に立ちたい。守られるばかりなどありえない。あの時受けた恩を返したい。生涯の忠誠を誓った主君のために。
 そのためなら、この国を捧げることだってできる。弟に爵位を奪われた自分の兄のような目には、ドラクルを遭わせるわけにはだかない。だって自分と兄の時には実力差がはっきりしていたし、兄はドラクルと違って人格者ではなかった。けれどドラクルがロゼウス王子に劣るなどと言う事は、アウグストは絶対に認めない。
「……ああ、でもそうだなぁ」
 腕の中の書類の山に再び目を落としながら、ヘンリーが呟く。
「今回のことも、もとはと言えばいくら剣の上手だからと言って、本来王太子であるはずのドラクル兄上に父上が盗賊の討伐なんていう危険な仕事を命じたのがいけなかったわけだし。腕っ節にだけ自信があるそういう輩がそういった荒事の解決を本来担当すればいいのに」
 その未来を信じて疑うこともない声音で、ヘンリーは夢見るように呟いた。
「早く、兄上が国王になってくださればいいのにな」
 隣でそれを聞いたアウグストは、けれど相槌の一つも返す事ができなかった。


010

 いつか、こんな日が来るのだとわかっていた。
「そこまで! 勝負あり!」
彼が手の中に残る重い痺れを意識したと同時に、上ずった審判の判定の声があがる。一拍遅れて、歓声が轟いた。
 弾き飛ばされた得物は、深く大地に突き刺さっている。首筋に突きつけられた刃は微動だにせず、それを握る先には、ロゼウスの驚いたような顔がある。
「あ……」
 ようやく我に帰ったロゼウスが刃を引いて、ドラクルはそっと息をついた。首筋に触れるとぴりりとした痛みが一瞬だけ走り、すぐに消える。斬られた薄皮一枚はすぐに癒え、けれど確かに傷ついた証に、指先に紅い色が残った。
「……った」
 この場の誰よりも、本人が呆然としている。ロゼウスはまるで信じられないような様子で、正面に立つドラクルの顔を見つめながら呟いた。
「俺……兄様に勝った……」
 四方から歓声が沸き起こる。拍手と口笛が鳴り響き、二人の剣の試合を息をつめて見守っていた王宮の兵士たちが、口々に囃し立てた。
「凄いぞ! ロゼウス王子!」
「あのドラクル殿下に勝ったぞ!」
「じゃあ今度からロゼ王子が王国一の使い手か!?」
「馬鹿言え! だいたい第一王子は病み上がりだろうが!」
「でも俺たち一般の兵士じゃ全然歯が立たなかった相手だぜ! すげぇよ! ロゼウス殿下!」
 訓練用の小さなコロシアムの観客席は階段状になっている。男たちの歓声が降ってくる中、ドラクルは背筋を伸ばして、ロゼウスと向かい合う。
「兄様、俺……」
 ロゼウスはまだぼんやりと、紅い瞳をぱちぱちと瞬きさせている。戦闘中とは打って変わって緊張感のないその様子に、ドラクルは複雑な感情を抱く。
 この十年間、ドラクルはロゼウスの教師役として、何もかもを教えてきた。剣も、戦術も、政治も。
 ドラクルの持てる力の全てを以って、ロゼウスを育て上げてきたのだ。かつてブラムス王に言われたとおり、ロゼウスを最高の王とするために。
 教えることに手を抜いていた、とは言わない。だけれど、本気で身を入れて指南していたわけでもない。技術も知識も叩き込みはしたが父王の言葉通りロゼウスを「最高の王」にしあげるという熱意まではなかった。
 それでも年々相手をするごとに、ロゼウスの力がドラクルの予想よりも遥かな確実さで増していく事は知っていた。
いつか、こんな日が来るのだとわかっていた。
「……強くなったね。ロゼウス」
 それが、今である。それだけ。
 審判が床に刺さった剣を引き抜いて、恭(うやうや)しくドラクルに差し出す。それを受け取って腰の鞘に収めてから、ドラクルはロゼウスに声をかけた。
「兄様のおかげです。兄様が教えてくれたから。俺は」
「いいや」
 これまで、誰もが越える事がかなわないと目されていた長兄を下した。その興奮と身体を動かした後の疲れに白い頬を紅潮させたロゼウスが、そのままドラクルにしがみつこうと寄ってくる。
「これは、お前の力だよ」
 わかっていたことを告げるだけだから、その言葉はすんなりとドラクルの口をついて出てきた。けれど、感情が追いつかない。薄い笑みを浮かべているはずの口元に対して、胸の奥が冷たい。
 まだ歓声はやまない。それどころか、観客席から次々と、訓練中に二人の試合を観戦していた兵士たちが出てくる。
「ドラクル殿下! ロゼウス殿下! お二人とも素晴らしかったです!」
「まさかロゼウス王子がドラクル王子を抜くなんて……」
「って言ったって、ドラクル殿下はこの前の討伐隊にやられた傷が回復したばっかりだろ、調子が悪いのだって当然さ」
 集まってきた者たちが口々に声をかける。そつなく相手をしながら、ドラクルは訓練場を後にした。極自然に、ロゼウスがついてくる。
「ロゼウス?」
「はい、兄様」
 聞きわけのよい犬のように、練兵場から帰るため道を歩くドラクルが立ち止まるのと同じにぴたりと立ち止まって、ロゼウスはドラクルを見上げてくる。
 夜半の風が気持ちよく汗を冷やしていく。けれど、早く戻らねば悪い病でも得て、寝台と仲良くする羽目になるだろう。
 それでもドラクルはなんとはなしに、立ち止まらざるを得なかった。
「……部屋に戻ろうか。お前も、何か父上から言いつけられた仕事があるんだって?」
「うん!」
 ドラクルの問に力いっぱい頷いて、再びロゼウスは寄ってきた。汗のにおいを風が散らしていく。腰に佩(は)いた剣は歩くたびにガチャガチャと音を立てる。練兵場は王城の居住区とは少し離れていて、二人は自室へと戻るために並んで歩いた。
 観戦をしていた兵士たちはああ言ってくれたが、ドラクルの身体は、すでに盗賊に受けた傷など痕も残らないほどに治りきっている。他でもないロゼウスの力によるものだ。
 それなのに、負けた。
 吸血鬼の成長は十代後半から緩やかになるのでもうすぐ二十七歳になるドラクルでさえも外見上は十七ほどに見えるが、それでもロゼウスよりは体格が良く、身長も頭半分ほど違う。身長が違えば肩幅や、全体的な身体の大きさが違うのも当然だ。
 それでも、ロゼウスが勝った。
 病み上がりなどという言い訳は通用しない、ドラクル自身が誰よりもそれを知っている。彼は負けただけ。純粋に対等に勝負をして、それで弟王子に負けたのだ。
 いや、弟などではない。ロゼウスは本当は、ドラクルなどよりよほど高貴で血筋が良い。本当の王の血を引く王子の能力は、ドラクルなど比べ物にならない程高かった。
 ドラクルはその扉を、開いただけ。ブラムス王の思惑通り、ロゼウスをその場所へと……自分以上の高みへと押し出しただけ。
 わかっていたのに、いざ突きつけられると現実に思考が追いついていかない。
「兄様、今日の残りは何をするの?」
「……ああ、今日は」
「あ。忘れてた」
「……ロゼウス?」
「ロザリーに用事に付き合ってって言われたの、すっかり忘れてた。ごめんなさい。先に戻ります……」
「ああ。ロザリーが暴れると手をつけられないから、早く行っておいで」
「はい!」
 話を振っておいて自分で決着をつけたロゼウスは、ドラクルに断って駆け出していく。その背中が遠ざかるのを見つめながら、ドラクルは冬の道に白い息を吐いた。漆黒の空にそれは溶けていく。
 ――あなたは馬鹿だ。
 頬を裂くような冷気に紛れ、いつかの冷たい自分の声が、耳元で蘇った。
 ――あなたは玉座を奪われたのではなく、あなたが劣っているから玉座を手にできなかったのだろう!!
 そうだ、これはドラクル自身が実父であるヴラディスラフ大公へと向けて言い放った台詞だった。あれ以来完全なる絶縁状態で顔を見ていない戸籍上の叔父なる父に、ドラクルはその残酷な真実を突きつけたのだ。
 今更自分だけがその現実から逃げるわけにはいかない。
 とうとうこの日がやってきた。そんな思いでいっぱいだった。別に何の前触れもなくやってきたわけではない。兆候はすでにあったけれど、それでもいざその瞬間が迫ると、頭が真っ白になるものなのだな、と思い知る。
 漆黒の廊下に揺れる燭台の炎さえも陰気に感じ、足取りも重く部屋に戻ると、来客がいた。
「お帰り、ドラクル」
「アンリ、アン……どうしたんだい? 二人とも急に」
 ドラクルの自室で、無断で寛いでいたのは第二王子と第一王女の二人だった。勝手知ったると言った様子で、テーブルの席についている。ドラクルはさりげなく視線を寝台やチェストの上に走らせ、見られて困るものがないか確認した。大丈夫だからこそ、特に注意もせず外に出たと頭ではわかっていたが。
 窓は開いていない。伝書鳩ならぬ、ローゼンティア名物の伝書蝙蝠も来ていない。エヴェルシードや地下組織の連中と連絡を取り合っている証拠の手紙や資料は全て処分済みだ。
「いや、時間が空いたからさ。それと、アンはドラクルに届け物があるんだって」
 アンリに促されて視線をすぐ下の妹王女に向けると、何やら大きな板を抱えたアンがそれを包んでいる布を外し始めた。硬く結ばれた紐に奮闘しながら、中身を取り出そうとする。
 どうやらその届け物とは、絵のようだった。第一王女のアンには政治的駆け引きや戦略を練る頭はないが、芸術に関する才能は優れていて、なんでもよくこなす。刺繍や料理と言ったことも得意だが、絵画を趣味とすることも城中の者が知るところだった。この王城の廊下には何枚か、アンの描いた絵が飾られている。
 荷物を解く合い間にアンは、持ってきたものの説明をする。その絵は結構大きく、抱える彼女の腰ほどまでもある。
「ほら、先日な、中庭で、そなたとわらわとここにいるアンリと、あとヘンリーとそなたの部下である公爵とで茶会をしたじゃろう」
「ああ……うん、そうだったね。それが?」
「その時に約束したじゃろう? 次はドラクルにも絵を描いてやる、と」
「え?」
 アンの言葉に、ドラクルは思わず数日前の記憶の糸を手繰り寄せる。
 そういえばあの時、話半分に聞いていたが確かにそんな約束をしたようだ、と。最近他に気をとられることが多くて、執務にも自らの反乱計画にも関係のない事は半分聞き流していたらしい。アンは自分の言ったことを相手が忘れたからと言って怒る性格でもないということも油断していた理由だろう。
「なんじゃ、忘れておったのか?」
 荷包みを開封する手をいったん休め、アンが呆れたように言う。怒ったような顔をして、腰に手を当てて見せるが勿論本気ではなくて、仕方がないと言うように苦笑しながら開封作業に戻る。
「手伝おうか、アン。それか、誰か使用人を呼ぶか」
「いーや、これはわらわが精魂こめて描いた作品じゃというのに、迂闊な者に触れてもらっては困る。それに、送り先のそなたに手伝わせてどうするのじゃ。いいから、ドラクルは黙ってらっしゃい」
「わかったよ」
 身長の半分以上もある板を開封するのが余りにも大変そうな様子だったので手伝いを申し出たのだが、彼女はつれなく断ってきた。アンが慌ててドラクルが絵に近づくのを阻止すると、ドラクルもそれ以上は動かず、ただ、適当な椅子を引いて腰掛けた。
 目の前には盤上遊戯が広がっている。
 また別の席に座っていたアンリが、その盤面を見つめながら呟いた。
「相変わらず高度な戦いを繰り広げてるよなぁ。ドラクルとロゼウスは」
 このゲームも、さすがに最近はドラクルとアンリやヘンリーが打つ事は少なくなってきた。自然と、相手はロゼウスに限られる。赤と緑の駒を置かれた盤面を見つめながらそんな風に嘆息するアンリの様子をドラクルはひたと見つめる。
「俺だったら、もうこんな戦いにはついていけないぜ」
「アンリ」
 局面は昨日の決着から動かしていない。それを、ドラクルは指差した。
「これ、どちらが私で、どちらがロゼウスだと思う?」
 ゲームで使われる駒は、赤と緑の二色。この盤上では、優位なのは、勝利を手にしているのは、赤い駒の方だ。
「赤だろ? だって、勝ってるし」
 考えもせずに即座にそう答えたすぐ下の弟に、ドラクルは力なく微笑んだ。
「残念。ハズレだ」
「え? ……まさか、負けたのか!? ドラクルが?」
 心の底から驚いたという様子で、アンリは叫んだ。
「信じられない。これ、じゃあ赤がロゼウスなんだな、確かにあの子にも才能はあったけど、勝ったんだな? あんたに」
 剣の腕もそうだが、盤上の遊戯でもドラクルはこれまで負け知らずだった。貴婦人相手のゲームではわざと負けて相手を喜ばせるなどという小細工も弄したが、弟たち相手の勝負では、いつも本気で対等の勝負を求められたし、ドラクル自身もそれを望んでいた。
「ああ。勝ったのはロゼウスだ」
 正面に座る第二王子アンリとも、その弟のヘンリーとも、部下であるアウグストとも、大人しげな顔に似合わず、えげつない手を使うと評判の妹姫ルースともこれまで何度も勝負をしてきた。けれどドラクルにとって、真剣な敗北を与えられたのは初めてだった。
 その相手は、ロゼウス。
「へぇぇ……あのロゼウスがなぁ。小さい頃は途中で盤を弄るなって怒られてた、あのロゼウスが……」
 まだ二十六歳だというのにいきなり昔を懐かしむ口調になって、アンリが腕を組んだままうんうんと頷く。それを見ながら、ドラクルは昨夜の勝負、そして先程の剣の試合へと思いを馳せる。
 確かにアンリの言うとおり、昔は盤上遊戯の醍醐味など、何一つ知らなかったロゼウス。剣と同じように、このゲームの戦い方をも彼に仕込んだのはドラクル自身だ。ロゼウスの行動は、一つ一つが鏡のようにドラクルへと跳ねかえってくる。
 いや、鏡のようならばまだ構わないのだ。鏡は主君に無断で成長したりしない。
 けれどロゼウスの優れているところ、また忌々しいところは、教えられたことを自らの力で何倍にも高められるところだった。ドラクルが教えた基本と応用技の幾つかなどすぐに使いこなし、自分で新しい手を創造する。
 その矛先はついに、ロゼウス自身をこの盤上に送り出したドラクルの喉元にまで及んだ。
 昨夜の勝負で、ドラクルはロゼウスに負けていた。こちらが思いもかけない手で、ロゼウスは勝負の行方を攫っていく。そして今日のように、彼は無邪気に喜んだ。純粋にドラクルに勝てたことが嬉しいというロゼウスの明るさに、逆にドラクルは自らが背負う影の暗さを思い知る。
「……もう、私の得意とするものは全部、奪われてしまったんだよ」
 それだけが救いだったのに。
 ドラクルは正統な王の血を引いてはいない、偽者の王子。それでもまだ王家に居座ることを許されたのは、いつか廃嫡になる日まで、この能力を買われたため。人よりも優れている。それだけがドラクルにとっての存在理由だったのに。
 それもはやり、ロゼウスが持っていく。ドラクルは一瞬、きつく目を閉じた。
 ああ、あの子が私の墓標となる。私の存在を地に埋めて、墓碑銘を刻む。
「ドラクル? それってどういう――」
 訝しげなアンリの言葉は続かず、代わりに憂いを知らない女性の声が響いた。
「ほら、できたぞ、ドラクル!」
「ああ。できたのかい? アン。そういえば思い出したよ、確か今度は『竜』の絵を描くのだと――」
 がさごそとやっていたアンがいつの間にかその音を止めている。かけられた声に反応して顔を上げたドラクルは、絶句した。
 目の前に広がったキャンバスには、予想と全く違う光景が映っている。
「……竜?」
「話を全て聞いておらなんだか? ドラクル。わらわはちゃんと言ったぞ。〈小竜公(ドラクル)〉の絵を描くぞ、と」
 こともなげにアンは言い放ち、自らの身体でその大きなキャンバスをドラクルの目の前に、絵がよく見えるように立てて見せる。
 そこには、ドラクルがいた。
「……私? と……ロゼウス?」
「ああ」
 そうじゃ、と頷くアンの声を半ば右から左に聞き流し、ドラクルは目の前に晒されたその絵を凝視する。
 そこには、ドラクル自身がいた。いや、今のドラクルよりも若い。彼自身はそう変わらないが、同じ絵の中にいるロゼウスの姿を見ればわかる。現在は多少頼りなげな風貌とはいえしっかりとした十七歳の少年に成長したロゼウスが、絵の中ではまだほんの子どもだった。
 そしてそんなロゼウスを見つめる、絵の中のドラクルの表情が。
「……ドラクル?」
「え? ちょ、ちょっと、どうしたというのじゃ、兄上!」
 突然俯いて顔を覆った彼の様子に、アンリもアンも驚いて取り乱したような声を上げる。
「……はは」
 俯いたまま、口元を押さえる手の下からくぐもった声をあげるドラクルの様子に、アンリとアンは視線を交し合った。けれど二人には、ドラクルが何故こんな反応をするのか、その理由がわからない。
 絵の中のドラクルは笑っていた。とても優しい顔で。
 ロゼウスを見つめる眼差しには、純粋な慈しみしか篭もっていない。今のように、一言では口にもできないようなこのどろどろとした複雑な感情も何もかも、持ってはいない。
 ああこれは、自分があの事実を知る前の一場面なのだとドラクルにはわかった。まだドラクルが自らの出生の秘密を知らず、本当の父親なども知らず、いつか廃嫡にされるという事情も知らず、ただいずれは自分が王位を継いで民を導き、国を守るのだと信じていた頃の絵だと。だからまだロゼウスが幼いのだ。
 ああこれは、こんな風に、今でも私はあの子を見ていられればよかったのに。
「……ははは」
 幸せな時間は長く続かない。けれど確かにその時、あの場所には確かにあったのだと。
「ねぇ、アン」
「な、なんじゃ?」
「どうしてこれ、昔なの?」
「ほぇ?」
「だって、私とロゼウスを描きたいなら今のこの姿でも構わないじゃないか。何故、昔の私とロゼウスなんだい?」
「へ? ああ……何故じゃろうな? 何故か、この時の様子が一番ふさわしいような気がして。特に深い意味があるわけではないんじゃが」
 わかっているはずのことをあえて問いかけると、穏やかな光景の製作者はそれを意識していなかったようだった。しかしドラクルの問に考えを刺激されたようで、アンは自らの描いた絵を見直しては首を傾げる。確かにドラクルの言うとおりなのだ。何故自分は今現在の兄弟ではなく、十年前の彼らを書いたのか。
 アンにはわからない。いや……
「なんだ、本当はみんな、とっくにわかっていたんじゃないか」
「ドラクル?」
「兄上?」
 アンもアンリも、ドラクルの様子に怪訝な顔をして覗き込んでくる。
「……なんでもないよ」
 ドラクルは最後まで表情を見せないまま、呼吸を整えてから口元を覆う手を外し、顔をあげた。
 そこにあるのはいつも通りの彼の顔で、特段変わった様子はない。笑顔もなく、涙もなく。
 だからこそアンにもアンリにも不思議だった。ドラクルがわからない。
 けれどドラクルがその本心を二人に明かすことはなく、次の瞬間にはアンに向けて、にこりと優しく暖かな笑顔を向けた。
 その笑顔がいつも通りであることが逆に二人を戦慄させるらしく、いつもならアンはドラクルが微笑みかけるたびに頬を紅く染めるのに、今日は多少強張った顔でそれを受けた。
「ありがとう、アン。これは大切に飾らせてもらうよ」
「あ、ああ。なんじゃったら、気に入らないと言うのであれば、描きなおすが……」
「いや、これでいい。ううん、これがいいんだ」
 油絵具が固まった絵画の表面を、そっといとおしげに撫でながら、ドラクルは妹姫にそう告げた。
「……そうか? では……これを進呈する。ドラクル王子」
「ありがとう。アン姫」
 後で壁に飾ると約束し、ドラクルはその絵を簡単に先程の包みにくるんで床へと置いた。
 そして、二人の弟妹に問いかける。
「……ねぇ、アンリ、アン」
「ん?」
「なんじゃ?」
 二人は、普段と同じように、何事もないような態度で応える。
「……国王になりたいと思った事は、ないかい?」
 一瞬だけ驚いたような顔をした二人は、すぐに破顔して答えた。
「ないよ」
「あるわけないじゃろ」
「何故」
 重ねて問いかける彼の声に、アンとアンリは迷いなく答える。
「そなた以上にローゼンティア王に相応しいものはおらぬ」
「ああ」
 ドラクルがいれば、もう何も心配はしないのだと。
 嫉妬すらしない彼らの優しさも、今のドラクルにはほんの少しだけ痛かった。


011

 皇歴三〇〇三年。
 年が明けて新年となった。誕生日と言う概念をもたない世界では年明けと共に全員が一つ歳をとり、ドラクルは二十七歳になる。
 目の前には父王がいる。
 いつまでも祝い事にばかり携わっているわけには勿論行かず、ようやくドラクルは政務に復帰した。ただし、その量はこれまでに比べて格段に少ない。減らされた幾つかの仕事に疑問を持ち、ひとまずその理由を尋ねるためにブラムス王の執務室を訪れた。
 漆黒の壁と床に紅い絨毯、暖炉。そして黒檀のテーブルという点は他の部屋と同じだ。しかし様々な仕事が持ちこまれるこの部屋は、隅の方に応接用のセットが一通りある他に、壁を埋め尽くすように本棚があることが特徴だ。
 ブラムス王から信頼を受けて任され、幾つもの役職と責務を抱えるドラクルにも足を運び慣れた部屋である。
「陛下」
 秀麗な面差しを書類に向けていたブラムスは、息子とされている第一王子の姿に一瞬、鈍く瞳を細めた。
「あの、先日のハノーヴ河口の堤防の補強の件なんですが……」
「ああ……あれは、もういいんだよ。ドラクル」
「え?」
「ロゼウスに任せたんだ。お前が伏せっている合い間にね。あの子の方がそれを仕上げてくれたから、お前はもう手を出さなくていいよ」
「は……」
 ロゼウスに任せた。その言葉に一瞬思考を止め、それでも何とか頷きかけたドラクルの背に、新たにブラムスの言葉が振ってくる。
「あと一年もすれば、あの子がこの国の王になるのだからね」
 冷やりと、首筋に鋭い切っ先を突きつけられる感覚。ドラクルは先日のロゼウスとの剣の試合を思い出した。自らの剣は彼の一撃により弾き飛ばされて、そして……
「父上」
「おかしい話ではないだろう? 十八歳になれば、ロゼウスも成人だ。思えば私が先代の国王から位を譲られたのもその頃だったよ。ならば今のうちから、執務に慣れさせておいた方が良いと思ってね」
「では……」
「これを見て御覧」
 有無を言わさず差し出された書類に、ドラクルは目を走らせた。そして、息を飲む。
「これは……」
「そうだ。ロゼウスが行った仕事の一つだよ。見事なものだろう?」
 それは、何十年も前から問題にされていた頻繁に氾濫を起こす川の堤防工事に関する案件だった。
 確か同じ問題が十年前にも起こり、その時はドラクルが処理したのだった。川の氾濫のたびに壊れてしまう堤防の強度を上げて築きなおした。しかし今回のロゼウスの提案した堤防工事の方法は、ドラクルとはまったく違う。
 溢れ暴れる川を強固な堤を築くことで強制的に押さえ込もうとしていたドラクルとは違い、ロゼウスの考案した堤の様子は、水を数箇所に分岐させて逃がし、暴れ川の勢いそのものを殺すというやり方だった。
 これまでのローゼンティアにはない、斬新な方法だ。
 何もかもドラクルはロゼウスに負けている。こんな形でまたしても突きつけられた。
「こちらへおいで、ドラクル」
 呆然としたまま抗うことも出来ず、ドラクルは父王の言葉に従って彼の側へと歩み寄った。先程の書類を返して、ブラムスの傍らからその手元にある、最新の技術によって加工された上等な紙を覗き込む。金の箔押しがきらきらと眩しい。
 そこに書かれていたのは、これまでの自分やアンリ、ヘンリーなど王国の政務に関わる者たちの異動一覧だった。来年の日付になっている。
「私は……ついに廃嫡と言う事ですか」
 無理矢理に搾り出したドラクルの声は掠れていた。けれどブラムスはそれを特に気にした様子もなく、一覧に流麗な文字で綴られた名前の列を指で辿った。
「ああ。そしてロゼウスが国王となる。他の者もその本来の地位に応じて異動だ。元々、今の体制では偏りができていたしね。ちょうど良い機会だ……どうした、ドラクル?」
 ようやく名目上の息子の様子に気づき、ブラムスが視線を手元の書類から、傍らの青年のもとへと移す。もともと吸血鬼族の白い肌を蒼白にしたドラクルの頬に手を伸ばして触れ、ゆっくりと下に滑らせるとおとがいを軽く持ち上げた。
「心配せずとも、別に廃嫡にしたからと言って、お前を蔑ろにしたりはしないよ、ドラクル。これまでのお前の功績を考えれば、素性を偽っていたことを差し引いても国の重鎮になれるだろう。ロゼウスの治世を、宰相として助けるがいい」
 息子にするというよりは愛人にするような仕草で、その頬を包み込む。事実、この十年のブラムスのドラクルに対する扱いは、とても父親が息子にするようなものではなかった。
「父上」
「……お前にそう呼んでもらうのも、この一年が最後だな」
 ブラムス王は言うと、紅い瞳をすいと細めた。頬を包んだ手をさらに滑らせて、ドラクルの身体を抱きしめる。
 吸血鬼は長命な種族だ。だからとうに成人を迎えた大人は、たかだか十年や二十年で外見が変わったりしない。子どもは早く成長するが、大人になると老化が極端に緩やかになる。ドラクル自身もこの十年ほとんど変わっていないが、ブラムス王はさらにだ。変わった者と言えば、あの頃はまだ十にも届かない子どもだったロゼウス。
 そして、目にはさやかに見えずとも、この年月の間に移ろい変わりゆくものは多くあった。着々と力をつけたロゼウスのことなどがそうだ。
ドラクルを抱きしめたまま、ブラムスは言葉を紡ぐ。
「お前にはヴラディスラフ大公位をやる。ドラクル」
「そんなもの……」
「フィリップを廃し、お前を奴の代わりに大公爵の位につける。アンリたちも可哀想だが、もとの身分に相応しい立場に戻ってもらう。悪い扱いはしないよ。ドラクル。望んでいた形とは違ったが、私はお前を愛しているよ」
「あ……」
 思いもかけない言葉に、ドラクルは完全に動きを止めた。信じられないと言った表情で、自分よりも背の高いブラムスを見上げる。至近距離で仰いでくる無防備な表情はまるで幼い子どものようで、ブラムスは穏やかに目を細めた。
 ドラクルはこれまでの十年間を思い出す。そして、それ以前の十七年間を思い出す。記憶を辿り、様々な思い出を反芻する。
 良いこともあった。悪いことも。ここ十年間はとにかく第一王子として偽りの身分を与えられながらも側にいた。毎日のように一日の終わりに寝室に呼び出され、時には愛人のように扱われながら、無慈悲に加えられる虐待に身も心も傷ついていないわけではなかった。けれど。
 ――私はお前を愛しているよ。
 ずっと、ずっと、欲しかったのはただそれだけだった。その言葉さえあれば生きて行けた。
「父上……!」
 これまで一方的に抱きしめられるだけだったドラクルが、自らもブラムスの背中に腕を回す。高価な服に皺がつくのも構わず握り締めて、その胸に顔を埋める。熱いものが目元に込み上げるのを堪えた。
 やり直せるだろうか。
 まだ、間に合うだろうか。エヴェルシードや地下組織の面々に要請した戦力を断り、反逆の意志を抑え、この国で、この人のもとで生きて行く事ができるだろうか。かなり完成に近いところまで計画は進めたとはいえ、決定的な行動は起こしていない。今ならば、まだ。
 そんなドラクルの逡巡を、しかしブラムスの言葉が打ち砕いた。
「王位を継がせることこそできないがお前は誰よりも優秀な王子だ。そう、ロゼウスよりも。お前ほどの才能には及ばないかもしれないが、あの子を支えて――」
「――え?」
 ブラムスの言葉に一瞬、何気なく挟まれた言葉の意味をドラクルは図り損ねた。今、何を言ったこの方は。
 ドラクルは思わず、ブラムス王の胸を突き飛ばして距離をとる。
「ちょっと待ってください、父上。あなたは私よりもロゼウスの方が統治能力も戦闘力も、全て上回ることを知っていたのでは……」
 ロゼウスの各方面の才能の凄まじさは、彼にあらゆる分野の知識と技能を手ほどきしたドラクル自身が誰よりもよく知っている。ロゼウスの力は、すでに多くの面においてドラクルを超えているのだ。ドラクルが自ら王位継承権を放棄する覚悟をつけかねているのも、この辺りが理由だった。
 単に王の血を引くというだけの無能者が玉座に着くなら、ドラクルは良心の呵責などまったく感じずにすでに反逆を開始していただろう。自信の力を謙遜も過大評価もせずに正確に測るならば、ドラクルの統治能力や外交手腕は王国でもほとんど並ぶ者のいない上位にあると言っていい。けれど、そのドラクルよりもロゼウスの潜在能力の方が本来は上だ。だからこそドラクルは迷っていた。血統のことを差し引いてもロゼウスの方が王として相応しい器ならば、自分は当然彼に玉座を譲るべきだ。それがこの国のためなのだから。
 しかしブラムスの言葉はその表向きの優しさとは裏腹に、ドラクルの一縷の期待を無惨にも打ち砕いた。
「何を言っている、ドラクル。今王子王女と呼ばれている子どもたちの中に、お前以上の能力を持つ者などいるわけないだろう?」
 まさか、ブラムス王はロゼウスの真価に気づいていないのか? 先程の堤防の件に関する報告を見ても?
 それはドラクルの能力を認める言葉。そして同時に、能力は認めながら結局は正統な血を引く王子ではないドラクルなど、王家にいらないのだと告げる言葉だった。
 ドラクルの中で、何かが音を立てて崩れた。
「……そもそも父上は、何故、私を廃してロゼウスを王位につけようと思ったのです?」
 その崩れた何かが、彼にその質問を発させる。
「決まっている。ローゼンティアの王位は、正統な王の血を引く者だけに与えられるべきものだ。そのためには、次の王は私とクローディアの正式な子であるロゼウスでなければならない」
「本当に? だって、私よりもロゼウスの能力が劣っていると感じていたのでしょう? ならば、あなたの正式な子どもたちの中では、ロゼウスが一番優れた存在だと思っていますか? 国のために、民のために、最も優れた者を王位に」
「有能であることは勿論重大な問題だが、それよりも血筋だ。この由緒正しき吸血鬼の王国の玉座に、資格のない者をつけるわけにはいかない」
「資格? 資格とはなんですか? 民を導くための能力ではないのですか? あなたはそんなにロゼウスのことを知らないまま、それなのに」
「勿論お前が教育したのだから、あの子もそれなりの執務能力はあるのだろう。だが……正直に言おう。私は今回のことを画策した我が弟、フィリップが憎い。奴の策略にまんまとはまり、お前を王位につけるわけには行かないし、玉座は正統な後継者に与えなければならないのだ。それがどんな相手でもな」
 一連のやりとりに返ってきた言葉に、ドラクルは愕然とした。ああ、この人は。
「……ドラクル?」
「……一つだけ、最後に聞かせてください。父上」
 先程とはまた様子が異なり、今度は一転して大人しくなったドラクルの様子を気にしてブラムスがその顔を覗き込む。
 これも嵐の前だ。
「あなたは、要は、ローゼンティアの王位が血統を重視することを盾に、弟大公とあなたを裏切った第一王妃に、復讐をしたいだけなのですね?」
「ドラクル、そんな言い方は」
「でもそうなのでしょう? だって、ロゼウスが私より劣った者だとお思いなのに彼を王位につけようということは。そして、無能な王を戴いた民がどうなるのかは、あなたにとっては、所詮重要な問題ではないと」
「そんな言い方をするものではない。お前がロゼウスを助けて政務を行えば、この国の治世は安定するだろう。ドラクル、お前を悪いようにする気はない。お前も、アンリやヘンリーたち、私の血を引かぬ王子王女たち皆。だから」
 一見優しげな言葉でこの二十七年間、対外的には親子として過ごしてきた青年をブラムスは懐柔しようとする。だが、次に搾り出したドラクルの声は掠れて低かった。
「ご自分だけが、目に見える範囲の相手だけが良ければ、それでいいのですか。あなたの下に集う何百万人の民は、どうでもいいと言うのですか?」
 ドラクルにはわかった。見えてしまった。透けてしまった。彼の言葉の裏側が。
 ブラムスの言葉は、上辺には慈悲深いように聞こえる。王族として血統を偽るという、本来なら処刑されてもおかしくないような立場にあるドラクルたちを生かしてくれるというのだから。だが彼の把握している情報を踏まえ、より深くまで考えると事はそう簡単には行かない。
 ブラムスはロゼウスの実力がドラクルに勝ることを知らず、その能力をすでに功績を挙げているアンリやヘンリーほどにも評価しないのに彼を玉座につけようとしていた。つまりそれは、無能の王を即位させてもいいということ。それで一番の被害を受ける民について、彼は何一つ慮っていない。
 彼自身複雑な葛藤の上に成り立った感情であろうが、ブラムスの出したその結論の根底には、何がなんでも正式な自分の子を王位につけて弟大公に復讐したいのだという気持ちが見え隠れしていた。血統を重視するという割には全てを知った十年前に対処するでもなく、民のためを思うには浅はかな決断を下したブラムスの中にあるのは、どこまでも自分本位な考えだった。
「ドラクル。何を言っている?」
「あなたは卑怯だ! 事実を知ったその時に私を殺す覚悟も無いくせに、今になって廃嫡などと言い出して! そのくせ、国にとって最良の決断をする判断力すらない! それもこれも全部、あなたが」
「黙れ!」
 鋭いドラクルの弾劾に、ブラムス王が目に見えて顔色を変えた。
「ちちう……――ぇッ!?」
 身体の脇に下げられていた腕が伸び、目にも留まらぬ速さでドラクルの首を締め上げる。その勢いで、ドラクルは部屋の奥へと押し込まれた。執務机に膝の裏を打ちつけ、それ以上後退できない。他に逃れる術がないため、両手で必死に首を絞める手を引き剥がそうともがく。
「ぐっ……!」
「お前に何がわかる!」
 ぎりぎりとドラクルの首を絞めながら、ブラムス王は声を震わせて言った。こんな場面でさえなければ、その響は泣いているように聞こえただろう。
「何がわかるというのだ、お前に! 私が卑怯だと? 違うだろう、真にこの国にとって害悪なのはお前だ、ドラクル!」
 先程とは立場が逆転し、今度はブラムスがドラクルを責める。
「お前がいたからいけないのだろう! お前さえ生まれて来なければ良かったのだ! そうすれば継承問題がこんな複雑化することも、私がフィリップやクローディアと争うこともなかったのに!」
 お前さえ生まれて来なければ良かった。いつか自身がロゼウスに投げた台詞を、ドラクルはブラムスの口によりそのまま返される。生まれて来なければ。
 自らの存在が、この国に災いと争いをもたらし、余計な問題を引き起こしているのは、ドラクルだとて承知している。
 だけれど、それは本当に彼自身のせいなのだろうか?
(私、は)
 ヴラディスラフ大公フィリップとどこの馬の骨とも知れぬ女の間に生まれた事は、ドラクル自身の関知するところではない。選べるものなら、生まれてくる先を選べればよかった。
 なのに、悲痛な叫びがドラクルの胸を裂く。
「どうして、お前は私の息子ではない――」
「……ッ!」
 明滅する視界の中、ドラクルは真っ直ぐに片腕を伸ばした。
「がはっ!」
 鈍く呻く音ともに、伸ばした腕がブラムスの喉をつく。形勢逆転して今度はドラクルがブラムスの喉を締め上げると、一気にその命を奪わん、とばかりに両腕の力をこめた。
 容赦のないその力に、ブラムスの首が奇妙な音を立てる。自らの手の中で彼の首の骨が折れてゆくのをドラクルは感じた。口の端から血が零れていく。
「私だって――」
 バキ、グシャ、と凄まじい音を立てて。「私だって、できればあなたの本当の息子に生まれたかった――」
 ブラムスの首の骨が折れ、彼は絶命した。
「……父上……」
 これまで父と呼んだ男の死体から手を離し、それが床に崩れると同時にドラクル自身も放心状態でその場に座り込んだ。
 呆然としたその頬を、涙が伝っている。首筋に残る紅い痕が痛々しい。腕はブラムスの首を折った際に僅かに血で濡れている。折れた骨が皮膚を突き破って、そこから流れ出た分だ。
 空ろな目をして座り込みながらも、頭のどこかでドラクルは冷静に考えていた。吸血鬼は甦りの可能な一族。それもまがりなりにも一国の王であるブラムスならば、それなりの力を持つ者が行えば蘇生は可能だろう。完全にトドメを刺して二度と復活できないようにしたいのならば、扼殺などでなく、出血に弱い吸血鬼の弱点を突いて、刺殺にでもすればよかったのだ。そんなことも考え付かないほど気が動転していた。
 父の死体の横に座り込んで、ドラクルはひたすら考える。
 もはやいっそ、思考することを放棄してしまえば楽だろうとわかっていながら止める事ができなかった。その頬を伝う透明な涙も。
 何故だろう。一体どうしてこんなことになったのだろう。
「私は、ただ」
 濡れた声音がぽつりと雨のように落ちる。
「ただ、あなたの息子として、あなたに愛されたかった……」
 それだけが望みだった。それだけを望んでいた。でも、叶わない。
 こちらを甘やかすような言葉の奥に透けて見えた、ブラムスの真実。ドラクルを愛する振りをしながら、結局彼も自分の見たいものを見ていただけだった。
 ふらりとその場に立ち上がると、突如としてドラクルは笑い出した。
「くくくくく……ははは、あーっはははははは!!」
 その哄笑は、高らかに侮蔑的であるのにどこか悲しげな響で持って、部屋の中に満ちる。
 外から複数の存在が駆けてくる気配がした。
「ドラクル様! 今の音は、――――ッ!?」
 扉を乱暴に開け放ち、入ってきたのはアウグストとルースの二人だった。二人とも室内の惨状を一目見るなり絶句し、対応の早いルースが慌てて扉を閉めた。
 吸血鬼は耳が良い。たまたま近くにいたのか、争いの気配を察して彼らはやって来たのだろう。
 だが、駆けつけた彼らが見たのは、かつての主君でも兄王子でもない者の姿だった。
「……殿下?」
「……ドラクル?」
 確かめるようなアウグストとルースの言葉に、ドラクルは妖美を湛えて嫣然と微笑んでみせる。そこにいたのはもはや不遇の偽りの王子ではなく、ただ行う前から虚しいとわかっている復讐の狂気にとり憑かれた一人の男。
 ドラクルが口を開いた。
「アウグスト、ルース」
「は、はい!」
「アウグスト、エヴェルシードに連絡をとれ。ルースは国内の地下組織に。可能な限り早く作戦を開始せよ、できるなら今晩中にでも」
「ドラクル様?」
「反逆を開始する」
「!」
 急なドラクルの言葉に、アウグストもルースも目を白黒させた。けれど常に笑みを湛えたドラクルの表情は、真剣そのものだった。
 その笑みの奥深く潜む、言葉にならない悲哀が気づいたアウグストたちの口を噤ませる。
「早くしないとこのことを他の家臣が嗅ぎ付けて大騒ぎになるよ。でも、大丈夫。どんなにそれが早くたって、エヴェルシードに伝書鳩を飛ばし、国内の協力者に使い魔蝙蝠を送る時間くらいあるだろう?」
「え、ええ」
 アウグストたちは一応頷いた様子を見せる。
しかし優秀な部下の順調な経過報告を受けるドラクルの瞳は、もう何も映してはいないようだった。


012

「連絡がついたか」
 双眼鏡を目から外して、シェリダンはそう傍らの家臣に確認する。従順な部下は優雅に跪くと、事の次第を報告し始めた。
 ローゼンティアとエヴェルシードの国境に存在する森の中だ。年明け早々実父を幽閉して無理矢理にその王位を奪い取った若き国王シェリダン=エヴェルシードは、国境に待機させるには多すぎるほどの兵士をすでに配置していた。
 ここまで大人数を友好国の国境に配備するなど普通は考えられないものだが、薔薇の国と呼ばれ、荊の這う大森林に国を囲まれて他国の動向にそれほど強い感心を持たないローゼンティアからは、何も言われることがなかった。地形か、吸血鬼の習慣か、それとも先日ヴラディスラフ大公と名乗った取引相手が手を回した結果か、詳しいことはわからないが、とにかくこの国境に軍隊を配置することについて、ローゼンティア側からの咎めはない。
 すでに先日、吸血鬼の生態と能力を攻め込む前によく知ろうと、盗賊としてこの国に潜り込んだシェリダン自らの案内で彼らはこの地にやってきた。合図があれば、すぐにでも攻め込めるようになっている。
「それで、本物か」
「はい。先日と同じ筆跡、同じ紙に形式、間違いないものだと思われます。可能な限り早く、ローゼンティアに襲撃をかけてほしい、とあります。……いかがいたしましょう?」
「早く、か」
 渡された手紙、伝書鳩の足に結び付けられていたそれに目を通しながら、シェリダンが複雑な顔をする。
「あの男……確かに先日の戦いで、死んだと思ったのにな。別人だったのか? いや……吸血鬼など、よくわからんな」
 苛烈な気性を備えたエヴェルシードの少年王は、口元に指を当ててそう思考を零す。確かにあの時、部下の剣にかかって死んだ相手は先日の取引相手に見えた。だが人間と交わらず国内でだけ婚姻を結ぶローゼンティアの性質上貴族間で似た顔などよくあるという。はっきりとした事は言えない。
「まぁ、どちらにしろ、この国を侵略するという目的は変わらないが……もらうぞ、ローゼンティア王国」
 薔薇に閉ざされた国とはいえ、使い道などいくらでもある。これまでは友好関係を保っていたが、シェリダンの父王はすでに玉座から引き摺り下ろされた。
 そもそもシェリダンに言わせれば、このローゼンティアとわざわざ友好関係を維持して何があるというのだ。手を結ぶことに特に旨味のある国ではないし、いくらヴァンピルの身体能力が戦闘向きで高いとは言っても、数ならば比較にもならない。さっさと侵略してしまえばいいものを。
 欲しいものは力尽くで奪え。それがエヴェルシードの原則だ。
「あの憎しみに歪んだ目をした男は、多少私と同類の匂いがしたがな」
 本当は取引など端(はな)からする気はない。隙を見せる相手の方が悪いのだ、とエヴェルシードは今にもその領土を侵そうと、ローゼンティアを包む大森林に足をかける。双眼鏡で見ても遠目に争いが起こっている様子もなく、先日ヴラディスラフ大公と名乗った男が国内でどのような役割を果しているのかは謎だが、街並みに警戒されている様子もないのだ。攻め入るのに不都合はないだろう。
シェリダンは兵士たちに指示を出した。

 ◆◆◆◆◆

 身体が重い。傷が癒えきらない。このまま何事もないように振る舞い動き続ければ、遠からず自分は死ぬだろうという確信が彼にはあった。いや、「死ぬ」という表現は正しくない。死んでも生き返る吸血鬼にとってそれがさほどの重みを持たないと思われるのならば、こう言うべきであろうか。「消滅」と。
 次に人間的な致死量のダメージを食らったならば、それが恐らく最後だろう。
 彼にはわかっていた。それでいて、甦ってもまだ残る首の傷を治す気はなかった。そのせいでいつも息苦しいような、痛いような違和感に悩まされるが、吸血鬼の甦りは万能ではないのだ。一度死の淵に落ち込むような傷を受けて即座に全ての負傷をなかったことにできるような、そんな強力な能力者は通常いない。
 だからドラクルの怪我を一瞬で治療して見せたロゼウスの能力は特別なのだが、彼はそのことを知らない。
「ロゼウス」
 目当ての者の前に立ち、彼は口を開いた。
「父上」
 見上げてきたロゼウスが驚いたように目を瞠る。
「父上、どこかお怪我を?」
「いや。大したことではない。それより……エヴェルシードが攻めてきた。お前も知っているな」
「はい」
 ローゼンティア城内は朝から騒がしい。国境付近の領地を治める貴族から、これまで友好関係を保ってきた隣国がローゼンティアに向けて軍隊を差し向けているという報告を受けたのだ。
 人間の世界を騒がせる侵略という言葉を普段意識することもないローゼンティアの民はすっかり浮き足立ってしまった。この国唯一の城、王城はこの国の要だ。王族たちは一階の広間や各階の重要施設に詰めて敵の襲撃に備えている。
 ここ、黒い床に紅い絨毯を敷き、白い薔薇を飾られた謁見の間でもそれは同じだった。城内を捜し歩いて、ようやくのことで第四王子を見つけたブラムスは、細い姿を見つめながら息を吐く。
「ロゼウス。ドラクルは?」
 その言葉に、ロゼウスは眉を曇らせた。城内の混乱が大きい理由に、現在第一王子が行方不明という事実がある。
 王太子のドラクルは、その有能さでこの国を支えていた。国王がおらずともドラクルさえいればその事態に適切な処置をすることができると信じられていたはずの王子が、今は雲隠れしてしまっている。ますます不安になる民や他の王子王女たちを宥めて対応したのはロゼウスであり、彼は国の最後の砦であるこの謁見の間にて敵を迎え撃つと決めている。
「兄さ……ドラクル兄上は現在……」
「いないのか。わかったよ」
 困った顔のロゼウスの報告を軽くいなして、ブラムスは話の先を変える。
「父様?」
 ロゼウスの頭に手をおき、そっと撫でた。そして耳元で言い聞かせる。
「ロゼウス、ドラクルのこと好きかい?」
 問いかけながら、ブラムス王は自らの胸の内を探っていた。私はどうだった? あの子が好きだったか? ……ああ、大切だったよ。あの子にならこの国を任せても心配ないと、ずっと信じていたのに。
 確かめるまでも無くわかっていたことではあるが、こんな事態になってもなお、ブラムスの中にドラクルを憎む気持ちは見当たらない。
 自らが傷ついたことを理由に他者を傷つけて良いわけではないが、裏切られたのは確かに彼も同じだったのだ。いろいろと複雑な感情を抱え込まされもしたが、それでも。
「……はい」
 何の屈託もてらいもなく、とはさすがにいかない。僅かに陰の差した表情で、しかしはっきりとロゼウスは頷いた。
「そうか。ならば支えてやってくれ。助けてやってくれ。あの子を」
 その声には、限りない愛情と、祈るような響があった。実の息子であるロゼウスさえ、ブラムスからそんな声を聞かされたことはない。
「……父上?」
 頼む、と今にも消えそうなほど弱弱しい囁きで懇願する父の様子に、ロゼウスは不審を覚えた。けれどそれを言葉にする暇もなく、ブラムスは彼から身体を離す。
「来るぞ、戦乱の国、エヴェルシードが」
 扉の向こうから響く大勢の足音に意識を集中して、鋭い視線を向けた。

 ◆◆◆◆◆

 大勢の人間の気配が王城へと接近する。ローゼンティアには存在しない軍隊。エヴェルシードが自国を蹂躙しようとするのを、ドラクルは離れた場所から見ていた。
 地下組織に手を回させて確保した隠れ家の一つである。ここならばエヴェルシードにも見つからない。小高い丘の上にあり木々に埋もれた見つかりにくい小屋。その表に立ち、ドラクルはアウグストとルースと共に、自らが呼び寄せたエヴェルシードの軍隊がローゼンティアに侵入するのを見下ろしていた。
「いいのですか?」
「最終確認か? アウグスト。それも、何に対しての?」
 くす、とドラクルは笑う。かろやかなその様子に不自然な箇所は無く、紅い瞳に陰湿な影はもはやない。
 けれど、闇の中で生きる吸血鬼たるアウグストでも知っている。
 影とは、光があるからこそできるものなのだ。今のドラクルにはそれまでどれほど打ちのめされようとも微かに保たれていた光がない。その姿全体が、影そのものになってしまっている。影が影を背負おうともそこにはただ闇が広がるばかりだろう。
 そしてローゼンティアは滅びる。
「……尋ねたいことは山ほどあります。ブラムス王に止めをささないまま来てしまったけれどよろしいのでしょうか。今から滅びるこの国はあなたの祖国ですが本当に滅ぼしてよろしいのでしょうか。あなたと同じくヴラディスラフ大公と王妃たちの間に生まれた王子王女、つまりあなたの御兄弟の皆さんがまだ王城に残っていますけどよろしいのでしょうか。エヴェルシード軍にはとにかくローゼンティアを侵略しろと伝えているだけで、王城を陥落するまでに通った街々で彼らが無辜の民にどんな非道をするかも予測できないのですがよろしいのでしょうか。……だけど今のあなたには、もう何を言っても無駄なのでしょうね。ドラクル様」
 静かな声でアウグストはそう締めくくる。
 彼は何があってもドラクルについていくと決めたのだ。そこに正義も善悪も関係ない。ただ昔受けた恩を返したいという思いがあるのみ。だから、ドラクルがやっていることが何であるかなど、アウグストには関係ない。
 けれど閉じた瞼の裏に、白銀の髪を靡かせ、紅い瞳に穏やかな光を湛えてこちらを見つめてくる青年の姿が映る。大事な友人にさえ何も話さず、アウグストはここまでドラクルについてきた。そしてこれからもドラクルを見捨てる事はないだろう。
「そう心配しなくても、ヘンリーなら大丈夫だろうさ。アウグスト」
「え?」
「あそこには……ローゼンティアにはまだロゼウスがいる。あの子がいる限り、エヴェルシードに攻め込まれてもそう悲惨な状態にはなるまい。一時的には追い詰められたとしても、ロゼウスは必ず形勢逆転してみせるよ。それだけの力はある子だから」
「……ドラクル様の弟君ですものね」
「いや、違うよ」
「え?」
「おや、これは言ってなかったかい? ……私の母は、ヴラディスラフ大公がたまたま手をつけた侍女の一人。私が王妃クローディアの子とされたのは、ちょうど同じ頃に彼女が王の子を流産したからだよ。……だから余計に、王家も王も、王子であるロゼウスも疎ましかった」
 初めて聞く話に、さすがのアウグストも顎を外しそうになっている。
 長年、実はまったく血の繋がらない間柄でありながらそれでも弟なのだと信じてきた相手のことを語るドラクルの瞳は不思議と穏やかだった。アウグストには、何よりもそれが恐ろしい。
 ロゼウスの力を一番知っているのは、彼に自らの持てる全てを教え込んだドラクル自身だ。だからこそ、彼を憎まないドラクルがアウグストにはわからない。恨み嫉妬した様子はあっても、彼にロゼウスを憎む気持ちはないように見えたからだ。
 その疑問に対する答を、ドラクルとは結局二親同じではなく、大公を父とする異母兄妹のルースはすでに得ているようだった。
「ひとってね、救われたい相手からの救いでなければね、救われないの……だからね、」
 寂しげにそう囁きながら、ルースは兄の背中に視線を移した。丘の崖際に立ちドラクルは眼下の凄惨な光景を眺めている。予定通りエヴェルシード軍は進軍を開始して街々は襲撃を受けて荒れ始めた。あちこちで火の手があがるのは、薔薇の国と呼ばれるローゼンティアはその名の通りそこかしこに薔薇が植えられているため、燃やすものに事欠かないからだ。そして吸血鬼は炎に弱く、わかりやすい地獄絵図が彼らの足元で展開されている。
 そのどんな光景を見つめても、今のドラクルは無反応だった。
「救われたい相手に救われなければ意味がないのと同じように、憎みたい相手だけを憎みたい理由があるの……ドラクルが憎むのはひたすら、父上であるように」
 ドラクルにとっての父は実父であるヴラディスラフ大公フィリップではない。そんな、エヴェルシードとの取引に偽名として使った程度の男の事など、彼は歯牙にもかけない。ドラクルがこの世で唯一父親と思える相手は、ローゼンティア国王ブラムスだけ。
 これまで散々ドラクルを弄んでおきながら、最後の最後で、彼のことすら必要ではないと思い知らせたあの父。彼だけがドラクルの父親だ。そう思うからこそ、なお傷が深くなる。
 結局誰もが見たいものを見ただけだった。それを、嫌というほど思い知る。
ドラクル自身も、ブラムスはもっと国王然とした立派な存在なのだと思っていたかった。少なくともロゼウスの実力がドラクルに勝ることを知らず、ただ血筋のみを重視して王位につけ、暗愚の王の害を民に押し付けても構わないと考えるような人物なのだとは、思いたくはなかった。
 そしてブラムスもドラクルに対して、都合の良い思いを押し付けただけだった。弟大公と自分を裏切った王妃に対しての復讐とするべくドラクルを手元に置き、それでいてロゼウスの教育を任せた彼にとって、ドラクルはきっと意志ある一個の存在ではなかったのだ。いつか自分を廃嫡へと追い込む弟王子を育てるドラクルがどんな気持ちだったのかなど、ブラムスは考えていなかったのだから。
 今になって事態を冷静になって見つめなおすたびに、ドラクルは込み上げる嘲笑を抑えきれない。なんて滑稽な茶番だったのだろう。この十年は。私がこれまで見てきたものは。私のこれまでの人生は。
 狂気の笑いを零す彼を、アウグストとルースの二人は、複雑としか言いようのない表情で見つめる。
 彼が本当に哀れな狂人なら、いっそ簡単に憐れむことができたのだ。しかしそうではない。断じてそうではない。ドラクルは全てわかってやっている。全てをわかっていて……それでも止められないのだ、この憎しみが。
 眼下の地獄を見つめながら、ドラクルはやけに淡々とした声で言った。
「ロゼウスはさぞや私を憎むだろうな」
 先だってまで固執していたのは父王で、今その唇にのぼる名前は弟王子のもの。感情を読み取らせない声音の、しかし言葉選びが何よりも雄弁にその思いを語る。
「追ってくればいいさ。ロゼウス。他の誰でもない。お前が私を殺しに来い」
 熱を帯び、恋人に睦言を囁くような甘さでそう言い切ったドラクルの表情には奇妙な恍惚がある。
 彼は狂気を抱いてはいるが、狂人と化しているわけではない。
「ドラクル様……」
 ドラクルがロゼウスにしたことは、ドラクル自身がブラムスにされたことでもある。繰り返し虐待を加え、泣かせては宥め、持ち上げては突き落とし、その存在価値までも否定し。
 だからこそ、この復讐劇を完成させるのは彼でなくてはならないとドラクルは言うのだ。
 ロゼウスがドラクルを恨み、憎み、憤怒のと嫌悪の限りを持ってドラクルを殺しに来るというのならば、その時こそドラクルがブラムス王に抱いた憎しみの正しさが証明される。それはやはり裏返してみれば、どこまでも父親に拘ったドラクルの想いの表れ。
 狂気と理性の狭間に落ち込み、深い闇の中で手の届かない場所にある光を見つめながら、ドラクルはロゼウスを待つ。そして彼に殺された時こそ、ドラクルのブラムスに対する復讐は完成する。なんて歪で滑稽な、これは喜劇なのだろう。
 ここにある闇は、深い。
「エヴェルシード軍が王城へと侵入し始めたわ」
 ルースの声が淡々と戦況を告げた。薔薇の国が炎に包まれていく。
 燃えていく街並みの中、灰になる花を見つめながら彼女は思った。
 吸血鬼はもともと魔族、人間ではない。その残酷な本性を抑えるのが、この馨しき薔薇の香り。魔力を持つと言われる薔薇は、吸血鬼の狂気を抑える力もある。
 けれど果たしてそれは、本当に良いことなのだろうか。
 吸血鬼としての本性を薔薇の魔力によって押さえ込み、地上で生活する者たちが辿ったのは結局こういった道。血筋に拘り、王制という政治の仕組みに拘り、人間に似せようとした暮らしの結果、そんな無理が生まれた。こんな性質は本来、吸血鬼が持ちえるものではなかったはずなのに。
 正統な血筋だとか、後継者だとか、玉座だとかそんなことは関係なしに、もっと素直にひとを憎むことができていたのならば、事はここまで複雑で大きくはならなかったはずだ。
 実の親子だとか兄弟だとか、そんなことは関係なしに、もっと素直に愛することができていたのならば。
 今更こんなことを言っても詮無い事だとわかっている。それでも思わずにはいられない。
 眼下では薔薇の街が燃え続ける。王城に隣国の兵士たちが雪崩れ込む。
 炎は赤色。ローゼンティアに咲く薔薇の殆ども赤。赤は吸血鬼の瞳と同じように血の色だけれど、同時に命の色でもあった。
 だからこそ、薔薇の闇は深く。
「もうすぐ、夜が明けるね」
 滅びを眼下に、絶望を胸に、その両手は父王の首を絞めた際についた赤い血に染まったまま、ドラクルがぽつりと呟いた。
 吸血鬼の眼を焼く朝の光が、世界に等しく降り注ごうとしている。


 了.