005

 大きな獲物に罠を仕掛けるには、役に立つ手駒が必要だ。
「このたびは我らがローゼンティアにご足労頂き……」
「能書きは結構。さっさと本題に入ろうではありませんか」
 特にどこかの国と問題を起こすということもないが、魔族と人間と言う種族の性質の違いから消極的な鎖国政策をとっているとも見えるローゼンティアに、同じ魔族ではなく人間たちの国で一つだけ交流を続けている国がある。隣国エヴェルシード王国、炎と言われる気性を示すその国は、世界に名だたる軍事国家だった。ローゼンティアとほぼ唯一交流のある人間の国と言う事で、自然と吸血鬼王国と外界の国々とを繋ぐ橋渡しのようなこともしている。
 もっとも、かの国が好意によってその橋を渡しているのかは定かではないが。
 ローゼンティア側にとって見れば、自分たち魔族に対して物怖じしない度量のあるエヴェルシードは、貴重な取引相手だった。かの国を通して世界と繋がっていると言える部分も確かにある。また、エヴェルシードも他国とは滅多に国交を結ばないローゼンティアと結びつくことで、利益を受けている面がある。そのためローゼンティアとエヴェルシードは常に代々の王が行き来して、水面下で緻密な駆け引きを交わしながら表面上は波風立たぬ外交を続けていた。
 毎年恒例となっている友好使節の訪問。これは年度によってどちらの国の代表が相手国を訪れるのかが変わるが、今年はエヴェルシードの代表者がローゼンティアを訪れる番だった。先年はローゼンティアの代表としてドラクルがエヴェルシード国王へと目通りを願い、今年はローゼンティア国王ブラムスの機嫌伺いに、エヴェルシードの第一王子が訪れる。
 大きな獲物に罠を仕掛けるには、役に立つ手駒が必要だ。
「エヴェルシードを利用させてもらおうと思う」
「エヴェルシード、ですか? あなたと何度か面識のあるあの国王に、簒奪の協力を要請するのですか?」
 使節の訪れる前に、ドラクルはアウグストと打ち合わせをしていた。ローゼンティア王国王位簒奪の打ち合わせを。すでにドラクルの実力は国中に知れ渡っているし、中には事情を知らされ、ブラムス王を廃してもドラクルを玉座につけるべきだと陰で主張する一派もいる。もちろん、全ては表沙汰にはならない。
 どこの国にも物事の表には決して出てこない後ろ暗い組織は存在するものだ。それまで品行方正な王太子であったドラクルは、十年前に自らの出生の真実を知ったことをきっかけに、彼らの仲間入りをした。
 もともと家庭環境が複雑なアウグストは十歳当時でそれらの組織に片足を踏み込んでいたのだが、事態を受けてドラクルにもそれら地下組織の住人たちを紹介した。ドラクルにとっては初めて見る世界だった。合法非合法入り混じる享楽と駆け引きに興じる貴族たち。第一王子として国政の上で何度も直接顔を合わせたことのある者もその場にはいた。
 堕ちて初めて知ることもある。これまで良い噂しか聞いたことのない上流貴族の子女が違法な集まりに参加していることを知って、自分がこれまで把握していたこの国の事情など表面的な部分だけでしかなかったのかとドラクルは軽い衝撃を受けていた。あくまでも軽く、だ。彼にとって、自らの出生と廃嫡の未来以上に衝撃的なことはない。
 そして、カルデール公爵子息に連れられて現れた彼の主君、ドラクル王子を裏社会で見かけた者たちも残らず仰天していた。才色兼備にして清廉潔白な第一王子は彼らを摘発することはあっても、決して内部の仲介を通してその乱れた集まりに参加する人物だとは思われていなかったので。当然不審を煽るその事態に関しては厳密に相手を選んでだがこうなった理由を説明しないわけにもいかず、だからこれまで王と王弟と王妃によって針の穴も漏らさぬように秘匿されていたこの国の真実は一定の世界ではすでに広範囲に知れ渡っている。
 十七歳までは清く正しい道を歩いていた王子の輝かしき未来は、暗黒に染め上げられた。
 確かに自ら裏社会、地下組織の夜会に参加するようになったのはドラクルの意志だが、それを彼に選ばせたものは……。
 真実を知る者にとってはいまや見る影もないドラクルの放埓ぶりだが、それでも表の仮面は剥がれない。今でもドラクルを品行方正で過ちの一つも犯したことがないような世継ぎの王子だと信じる者たちは多数いる。
 だがその一方で、確かにドラクルの忌まわしき出生と、彼が父王に受ける処遇についてを知り、その反抗のために立てられた反逆計画に加担する者も大勢いる。
 決して表には出ないところで、ローゼンティアは現在二分されていた。中立派も中にはいるが、元々ローゼンティアという国は絶対王制を国民の意識に強く植えつける国家だけに、普通に生活していれば国に対する不満の意志は弱い。
 そんな中で現在の王政に逆らって裏社会に足を運ぶような者たちの意志が一つ切っ掛けを得れば強固なものとなるのも当然のことであり、一度真実を知らされれば彼らの決意は固かった。
 ドラクルの出生に関する事は、一度表に出れば最後、引き返せない道となる。それがもたらすものは、国内のあらゆる階層、あらゆる人々に多大なる影響を与える。ドラクル王子と言う存在を支持する者もブラムス王を支持する者も、その事実には必ず揺るがされる。
 機を窺うのは慎重に慎重を期さねばならなかった。一つ判断を間違えれば、どちらの陣営が敗北するかわからない。
 そもそもドラクルをいずれ廃嫡にするというブラムス王の発言からして奇異なものではあった。すでに世継ぎの王子として発表されている偽の第一王子が邪魔であるならば、誰にも真実を知らさぬまま暗殺してしまえばいいだけだ。第二王子であるアンリも、ヘンリーも、ブラムス王の血を引かぬ王族の全てを事故にでも見せかけて殺してしまえばいい。そうして水面下で全て真実を闇に葬り自らは何食わぬ顔で王位交替の日まで玉座に座り続ければいいだけであるのに、ブラムス王はそうはしない。
 自分を裏切った大公フィリップと王妃クローディアに屈辱を味合わせたいためだけにドラクルをいずれ廃嫡してロゼウスを王太子にするというブラムス王の考えは、愚劣で私情に走りすぎているがためにドラクルたち反国王派にとっては付け入る隙となる。が、同時にその発表をされてしまえば終わりだと言う意識もドラクルたちにはあった。廃嫡の発表は自らの弱味を晒すブラムス王にとっても自爆行為であるが、当然その被害をもっとも受けるのは廃嫡になるドラクル本人だ。
 ドラクルにとっては、あれ以来人生の一瞬一瞬が戦いと絶望の連続。ブラムス王の気違いじみた考えが読めないだけに、いつ自らがその座を追われ国内で誰よりも惨めな立場となるのかわからないという緊張感に常に苛まれている。
 だから国を、王を、これまで父と慕った人を裏切ることに抵抗はなかった。実の父であるヴラディスラフ大公ともあれ以来公式の場以外では顔を合わせていない。
 もう、道はないのだ。
 全てを踏みつけて進むしか、彼の生きる道は。
 カルデール公爵子息であるアウグストはそんなドラクルにとって、裏社会との繋ぎを作り一定規模の集団をドラクルの代理として取りまとめ、陰の打ち合わせによって表向きの国内情勢もブラムス王の信望者たちに悟られずに操作するという、ドラクルにとっては代わりのきかない腹心の部下となった。
 アウグストはそれこそドラクルが真実を知ってすぐに、彼の出生の秘密を知った。その後、父王がたびたびドラクルを寝室に呼びつけてはどのように扱っているかも知っている。
 ローゼンティアを混乱に陥れ少なからぬ犠牲を出そうともドラクルの玉座簒奪のために協力することに否やを唱える意志はアウグストにはない。彼はドラクルの忠実な部下だ。
 今は公爵位をついでカルデール公爵家当主となったアウグストは、そうして彼にもっとも近しい位置で、その計画を聞く。
「エヴェルシードを利用させてもらおうと思う」
 カルデール公爵館の一室で、長椅子に腰掛けたドラクルは長い足を組みながらそう言った。
 王城では下手な相手に話を聞かれるとまずい。アウグストがカルデール公爵となってからは、ドラクルはちょくちょくその屋敷に足を運ぶようになった。カルデール領は都合の良いことに王都周辺の日帰りできる距離にあり、またアウグストが王城でドラクルの小姓を務めていたころから、家族同然の扱いを受けていた事は彼らの周囲の者たちは誰もが知っている。だから、ドラクルが頻繁に彼のもとを訪れても怪しまれる事は少ない。
 紅茶のカップを傾けながら、いつものように相談役となるアウグストは赤い目を瞬かせた。
「エヴェルシード、ですか? あなたと何度か面識のあるあの国王に、簒奪の協力を要請するのですか?」
 ローゼンティアには軍隊がない。これはローゼンティアの吸血鬼たちの性質と、国の規模に関係する。小国であるから軍隊などに人員を割く余力がないという理由は当然あるが、もっと重要な事実に、吸血鬼族は魔族と呼ばれるだけあって繊細な外見に反し超人的な身体能力、強力(ごうりき)を発揮する一族ではあるが、基本的には争いは好まないというものがある。
 先祖が地上で人間に交じり暮らす際に無差別な吸血を行わないよう本能に鍵をかけていたためとも伝えられるが、とにかく人間の血が主食の一族と言う割には、吸血鬼たちの性格は穏やかだ。そのため、余程の非常事態でもない限り彼らには好んで武力を持つという概念がない。
 更に消極的な鎖国状態が長年維持されているために、他国に対する感心が少なく、戦争に対する危機感と言うものも全くない。おまけに吸血鬼の基本的な身体能力は吸血鬼族であれば幼女でも人間のむくつけき大男を見事に伸してしまえるため、人間の国が攻めてきたところで、さほど大騒ぎする事態にはならないだろうという楽観もある。そして楽観視の最後の根拠こそが、世界最強の軍事国家エヴェルシードが、ローゼンティアと国交を結ぶ隣国であると言う点だ。
 いずれ廃嫡だとはっきりと宣言されながらも二十六になる今年までも当然のように国政に携わるよう命じられているドラクルは、外交官というその役職上、隣国の性質がそんな簡単なものではないことを見抜いていた。否、隣国に限らず、人間と言う生き物の性質は皆難しいのであろう。吸血鬼がそうであるように。
「いいや、働きかけるのは王ではなく王子の方だ」
「ああ。なんかあの、いろいろと曰くつきの王子のほうですか」
「そう。刺激してやる要素は多い方がいい。取引の基本は、こちらの第一の目的のために相手の望む物を目の前にちらつかせてやることだ。そのためには現状に特に不満のない国王ではなく、その父王を殺してでも早く玉座につきたい王子の方がいろいろと都合がいいだろう? あの王子は、今の王よりも有能そうだ」
「簒奪の際に国王派の抵抗を封じる策として、ローゼンティア内で戦力を募っては怪しまれる。けれど、向こうの国でも簒奪にこちらの手を貸してやる代わりに、ドラクル様に協力させれば……」
「そういうことだ」
 ローゼンティアの問題は、そのあまりにも閉鎖的な国の在り方にあった。国内で起こる出来事はそれが大規模になればなるほど、王の耳に入りやすい。裏社会のお遊び程度の悪事や貴族間の小さな揉め事は隠しとおせるかもしれないが、少量とはいえ武力を募るとなれば何事かと騒がれるだろう。それを回避し秘密裏に事を進めるために、外部の戦力を利用する。そお外部からの戦力となりうるのが、隣国にして世界最強の軍事国家、エヴェルシード。
 そして都合の良いことに、現在のエヴェルシードはドラクルの目論見に最も適する状態であったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「それで、折り入って話したいこととは? ああ、その前に名乗ってもらえるだろうか。私は父の名代としてこの国に足を運ぶのは初めてで、失礼だが貴公の名も知らぬ」
 アウグストの館を利用し、ドラクルはエヴェルシードからの使節であるかの国の王子と向かい合った。部屋の中は豪奢だが、ローゼンティアでの一般的な活動時間帯は夜。無数の蝋燭を灯した部屋の中で向かいあうのは、自然と怪しげな密談の様相となる。
 エヴェルシードからの友好使節が訪れた際、ドラクルはその相手に呼ばれなかった。それまでエヴェルシードの国王と外交を結ぶ担当をしていたのだが、その辺りには例の廃嫡問題と絡んでローゼンティア側も密かに対応に苦心している。国王に会わせて後継者に会わせないのは、そろそろドラクルを廃嫡してロゼウスに後を引き継がせるというブラムス王の考えなのだろう。むしろその焦りこそが、今回のこの会談をドラクルに決意させる引き金となったのかもしれない。
 エヴェルシード側にも現在争いの火種を孕む要素が十分にあるため、向こうの王子は王子でそれまでにかの国に足を運んだことがあるドラクルとこれまで顔を合わせたことはない。
 両国はそれぞれ外患もないのに内憂だらけ。そして内憂こそが外患を呼び込む。この事態はドラクルにとっては好都合だった。
「失礼をいたしました。わたくしの名は……ローゼンティア貴族、ヴラディスラフ大公フィリップと申します」
 ここで本名を名乗るのは得策ではない。ドラクルはエヴェルシードを利用したいが、かの国の下位に立つ気はないのだ。そのため、当然のように偽名を名乗った。
 自分をこの世に送り出した実父の名を。どうせこのままいけばドラクルは廃嫡されヴラディスラフ大公爵を継がされる。
 また、吸血鬼の実年齢は人間には見分けにくく、加えてドラクルは国王であるブラムス王にそっくりであると共に、その双子の弟である大公にもそっくりだ。ドラクルの顔も大公の顔も知らないエヴェルシードの王子は、それで納得したようだった。
「そうか。こちらは名乗る必要はないだろうが……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードだ」
 エヴェルシード王国の第一王子は名をシェリダンと言う。第一も何も、かの国に王子は彼一人しかいない。
 エヴェルシード人の特徴は蒼い髪に橙色の瞳、肌は白いがあくまでも健康的な人間の範囲である白で、ローゼンティアの吸血鬼のように紙のような白というわけではない。シェリダン王子の容姿はここから大きく逸脱するわけではないが、エヴェルシード人の中では特徴のある方だった。髪は深い夜空を切り取ったような藍色で、瞳は琥珀の中で炎が燃えているように印象的な朱金だ。その年齢の少年たちの中では、群を抜いて気迫がある方だろう。彼はロゼウスと同じく、もうすぐ十七歳だ。そして絶世の美貌と呼んで差し支えのない顔立ちをしている。
 しかしシェリダンの立場は、王太子と呼ばれるにしてはいささか複雑……そう、ドラクルほどではないとはいえ、複雑なものだった。
「では、そちらの望みは、この国を滅ぼして欲しいということか」
「ええ」
 不遇の王子はドラクルの話に、面白がるように耳を傾ける。
「何を企んでいるのやら。貴公は大公なのだろう。国を滅ぼして何の意味がある」
「恨んでいるからです、この国を。この国の王と王族を」
 その言葉は、前もって用意したわけでもないのにするりとドラクルの口から零れ出た。だからこそ本心であることを読み取ったのだろう。シェリダンの朱金の瞳が興味深そうに瞬く。
「恨み?」
「ええ」
 一音一音に本気の憎しみをこめて、ドラクルは頷いた。
「こんな国など……滅んでしまえばいいのです」
 こんな国など、王制を絶対とするのにそれに付け入られて王妃の不倫を許す国など、そのために十七年国に尽くしてきた自分を簡単に切り捨てる国など。
 滅んでしまえばいい。
 その言葉の真剣な響きにシェリダンは薄っすらと笑みを浮かべる。
「だから、我々エヴェルシードに要請するわけか。私のエヴェルシード王への即位を見返りに」
「はい。我々ローゼンティアの方では、殿下にエヴェルシード王に無事即位していただく用意ができるでしょう。その代わりに、貴殿には私たちの願いを叶えていただきたい。この国を滅ぼすと言う、願いを」
 信憑性を高めるために、ドラクルはその王子の耳元に彼の即位を助ける方法を囁いた。偽の王太子とはいえ伊達に二十年以上、ローゼンティアきっての天才と呼ばれてはいない。そのぐらいすぐに考え付く。こちらにとっても彼の父が玉座に座っているより、シェリダン自身が王位についている方が都合が良い。
「……約束できるのだろうな」
「はい、殿下。必ずや」
 エヴェルシード王子シェリダン。彼の顔立ちはまさに絶世の美貌だが、彼がその美貌を持って生まれたことには、はっきりとした理由がある。
 彼の母親はエヴェルシード国内で、誰よりも美しかった。シェリダンの容姿はその母に生き写しだ。しかし、その母はもともと、庶民の出である。
 いまだ男尊女卑思想の根強い軍事国家エヴェルシードの王位継承に関して第一の決まりごとは、男児の継承権が優先されるということである。これは、王族の血統を何よりも重要視し、妃の実家の家柄は良ければ良いほどいいというローゼンティアでは考えられない決まりだ。何しろエヴェルシードの徹底した男児優遇の規則によれば、それが王の愛人の娼婦の子だろうがどんな名家の正妃の生んだ女児より男児は継承権が上位となるのだから。
 今現在のエヴェルシードは、まさにそのような状態にある。第一王子シェリダンの母親は庶民出で、しかも国王が無理矢理見初めて親元から攫ってきた女性。シェリダンは男子であるが母方の家柄に関しては話にならない。
 そしてエヴェルシードには王子は彼一人だが、王女がいる。シェリダンのすぐ下の異母妹はちゃんとした貴族の母を持つ姫君で、彼女が王位を継げない理由はシェリダンが男だったから、ただそれだけだ。
 何より強さを重視する軍事国家で男子継承が当然のエヴェルシードだが、流石に現在はその二人の間で揺れている。平民であるシェリダンの母親の身分は低すぎるが、彼は男、一方どんなに家柄が良くても正妃の子は女。さすがに庶出の女の子どもを次代の王にするのはどうだろうか、という議論が絶えずなされていて、エヴェルシードの正当な規則に則って定められたにも関わらず、王太子シェリダンの立場は危うい。彼の妹は彼を暗殺してでも王位を狙っているのだと言う。
 何とか自身の立場を確立したいシェリダンにとって、ドラクルの囁きは魅力的だった。それに、上手くすればローゼンティアを滅ぼしてその利益も一手に握ることができる。いくら長きに渡る友好関係を築いているとはいえ、エヴェルシードは軍事国家。戦争をして相手国から略奪を行う魅力には抗えない。
 ドラクルはその弱味につけこむ。これまで国のために尽くしてきた彼には考えられないことだが、もはやドラクルにとってローゼンティアの全てがどうでもよかった。こんな国。
 滅んでしまえばいい、と。
 悪魔は常に耳元で囁いている。
 滅ぼしてしまえばいい。
「この国に、どうか滅びを」
 ダメ押しのように囁いたドラクルを、隣国の王子はひたと見据えた。これまでの話とは、一見関係ないことを口にする。
「……あなたはどうやら、自分のことがお好きではないようだ」
「何故そう思うのです?」
「目を見ればわかる」
 ドラクルより十も年下の少年は、何かを悟ったように断言する。
「自己嫌悪の極まった者のとる道は二つ。己を破壊するか、己をそんな風にした世界を破壊するか。あなたはどちらなのだろうな」
 朱金の瞳が興味深そうに瞬いてドラクルを見つめる。その視線に、ドラクルは同族の匂いを嗅ぎ取った。
「それはご自身の経験からですかな? シェリダン王子」
 シェリダンの母親は、美貌を見初められて無理矢理攫われてきた庶民の娘。彼女が次代の王位継承者であるシェリダンを生んだことは、彼女にとって幸福なことではなかった。シェリダンに関する曰くの一つがそれだ。生まれてくることで母親を不幸にした、母親の愛情を知らない王子。彼は自分自身を愛せるのだろうか。
 ドラクルの揺さぶりにも、シェリダンは動揺しない。ただ、薄っすらと酷薄な笑みを浮かべている。
「これは例えばの話なのですが、例えばあなたが自らを嫌う者だったとして、では先程のどちらの道を選びますか?」
 ドラクルの問に、彼はますますその笑みを深くした。
「後者に決まっている。世界で私だけが不幸だなんて我慢できない。私を不幸にする世界なんて、滅ぼしてしまえばいい」
 そして世界中全ての者が、自分と同じ絶望を味わえばいい。それが彼の本心であるかはともかく、シェリダンの答は酷く正直だった。
「ええ、そうですね」
 ドラクルは目を閉じる。
「私も、そう思いますよ」


006

 エヴェルシードとの話し合いは終了した。密約を交わして、後は人目に触れないルートで書のやりとりを約束する。
「お見事な手腕でした。殿下」
「そうかい? そうでもないだろ。あの王子、やはり複雑な立場にいるだけあって曲者だったな」
 アウグストを連れ、ドラクルは王城へと戻って来た。後はエヴェルシードの使節が滞在する間、彼らと顔を合わせなければいいだけだ。そしてそれは容易いだろう。来年十七歳になるロゼウスをそろそろ玉座につけることをブラムス王は考えているだろうから、もうドラクルを表立った行事に参加させる事はないに違いない。あらかじめ予測していたにもかかわらず、いざこの事態と向き合ってそう思うと言葉にしがたい、何とも言いがたい苦い気持ちが沸き起こる。
 ……無駄な感傷だ。自らでこの国を傷つけても玉座をこの手で奪うと決めたくせに。ドラクルはそう思い直した。
 どうせどんな道を選んだところで、満足などもう得られるはずはない。心のどこかは必ず埋まらず、空ろな孔を広げている。願うことなど止めてしまえと、己で己に言い聞かせる。
「あ、ドラクル! カルデール公爵も、どうじゃ、一緒に休んでいかぬか?」
 気分転換にと中庭へ向かうと、特徴のある口調に呼び止められた。声ではなく、特徴的なのはその口調である。第一王女のアンが、庭の四阿で手を振っているのが見える。
「兄上」
 アンだけではなく、そこには第二王子のアンリと第三王子のヘンリーもいた。三人して四阿で休息中なのか、テーブルの上には色とりどりの見事な菓子が並べられている。きっと、アンの手作りなのだろう。
 中庭に設置された四阿は、大理石でできている。淡い桜色をした大理石の柱と屋根、そして椅子とテーブル。薔薇の国と呼ばれるローゼンティアの王城の中庭は薔薇園とほぼ同義語で、一年中枯れることのない薔薇の甘い香りが漂ってくる。
「兄上もアウグストも、一体どこに行っていたんですか? 部屋を訪ねても姿が見えないものですから、てっきり仕事中かと」
「ああ、今日はちょっとね……それよりこれ、もらっていいかい?」
「好きなだけ食すがよいよい。まだたくさんあるぞ」
「……何故だい? またミザリーとロザリーが失敗でもしたの?」
「それはまた懐かしい話を……そうではない。今日は作ったのはわらわ一人だけじゃ。その……最近、時間が余ってな」
「要約すると、最近ドラクルが構ってくれなくて寂しいからついつい菓子作りに逃避しちゃったんだってさ」
「アンリ!」
「ついでに、だから構ってください、だって」
「ヘンリー! おぬしらなぁあああ」
「まあまあ」
「これおいしいですよ、姉上」
「もう知らん! 好きにせい!」
 ドラクルを見るなり頬を染めたアンの様子を、そんな彼女の態度には慣れている二人の王子がさらりとからかった。兄王子に仄かな憧れを抱くアンは頬を膨らませると、王女とも思えぬ乱暴な仕草で席に着きなおす。アンリとヘンリーの二人は気にする様子もなく焼き菓子を口に運んでいた。
「座ろうか、アウグスト」
「それでは失礼いたします」
「そんな堅苦しくなくていいよ、カルデール公爵」
「ですがアンリ王子殿下、私は」
「もう身内みたいなもんじゃん? ここにはちょうど、見咎めるひともいないし」
 ドラクルのすぐ下の弟でアウグストより六つ年上、今年二十五歳にもなる王子は、まるでいたずらっ子のように茶目っ気たっぷりに片目を瞑ってみせる。
「では、お言葉に甘えまして」
「だからそのようないちいちの断りが堅苦しいというに」
 なんやかやと言われながらも、二人は四阿の席についた。甘い香りの焼き菓子を目の前に、第一王女が手ずから淹れた紅茶を口に運ぶ。
 ローゼンティアの夜は穏やかだ。暗い空の下、夜陰に薔薇の香る中庭でお茶会を。世界はもしかしたら今この瞬間にも悲劇に包まれているのかもしれないが、少なくともこの国の中、この城の中、この四阿は幸福に包まれている。それが果たして良いことなのかどうか、ドラクルたちにはわからないけれど。
「そういえばドラクル兄上、先日の法律案のことなのですが」
「ああ、あれ?」
「はい。あの正当防衛の項です。あれは人情としては理解されても、実際に国の法に持ちこむとなると新しい概念ですよね」
 ローゼンティア王国において、ドラクルの仕事は多岐にわたる。本来なら宰相の名を頂戴してもかまわないくらいの貢献ぶりだが、実際のドラクルの役職はそれよりも下だ。
 無能な王であれば摂政を置いて政治を任せるところ、ブラムス王はそれほど愚王でもない。だからこそ国政は自らの手で動かし、周囲に置く者はそれを補佐する立場であることが多いのだが、その筆頭は息子であるとされるドラクルだ。
 ドラクルとブラムス王の関係は複雑だ。だが、それを知っているのは一握りの者だけである。父王には恨みを持つドラクルだが、自らの仕事に関しては誠実であろうと心がけている。
「正当防衛。情状酌量。えーと、あとなんだったっけ? 要するに、罪を犯した相手をただ断罪するのではなく、相手の言い分もちゃんと聞け、っていうことだろ。まあ、確かにそうだよな。いくら人殺しや悲惨な犯罪の現場を生み出した者でも、それにはそれなりの理由がある」
 アンリが先だってのドラクルが提出した法律案の内容について、身も蓋もないほどわかりやすく噛み砕く。
「実際、例えば貧困から盗みに走る者がいたのならば、あるいは私たち王族が民の暮らしを守れていないということにもなりますからね」
「ま、遊びに使い果たして借金で首が回らなくなって手っ取り早く犯罪を犯す奴もいるから一概にそうだとは言えないけどな」
「だからこそ、理由が大切なのだろう、アンリ」
「そうだよな。自分が殺されそうになった時に、相手を殺さないように気をつけて自分が殺されちゃったら仕方ない。自分を守るためには、罪を犯してもしかたない、と言わざるを得ないってわけかな……」
 アンリが神妙な顔で頷くのを聞いて、ドラクルの口から言葉が零れた。
「――ひとに殺されるような者は、殺されるだけのことをした者だよ」
「ドラクル?」
「兄上」
「なん……珍しいこともあるものじゃ。ドラクルがそんな風に言うなど」
 常の彼らしくない様子に、アンリ、ヘンリー、アンがそれぞれに驚く。
「……あの法律、そういう意味だったんですか? 兄上のことだから、内情を一切考慮しないで結果だけを突きつけられ不当に投獄される人々を救済するためのものだと思っていました」
「勿論それが嘘だとは言っていない」
 だけれど。
「……憎しみや恨みは、認めてやるべきものなのではないかな。酷いことをされて、それに怒るな、と言う方が無理だろう。そして人は理由も何もなく罪を犯したりはしない。言い訳は見苦しいというけれど、では言い訳をしないでも当然のように生きられるくらい、ひとはひとのことを自分から考えている生き物かな?」
「ドラクル」
「他者に殺される者は、殺されるだけのことをした者だ」
 ドラクルの言葉に、一瞬場が重くなる。
「あ、の……なぁ、ところで、この前のミザリーの婚約話のことなんじゃが!」
「あ、ああ! そうそうあれな! 確か男の方が求婚の言葉を全て言い終わる前にミザリーが相手を殴り飛ばして問題になって――」
 アンとアンリの二人は、そのまま話題を変えることを選んだ。もともと法の話は自分から口に出した話題でもない、とドラクルも特に食い下がりはせず、優雅な仕草でこれまで忘れ去られていたティーカップを口に運ぶ。
 風が強く吹いた。四阿を取り囲む薔薇の香りがふわりと沸き立つ。
「兄上」
 アンリたちほどはっきりと先ほどの話から離れられないのか、ヘンリーが眉を下げて、ドラクルを見た。
「……何か、お辛いことでもあるのですか? もしもそうなら、私たちだって力に」
「違うよ、ヘンリー。なんでもないよ。さっきのはいろいろな事例を見ながら考えたことであって、私自身がどうというわけではないよ。当たり前だろう? 私は王族であって、それを基準に国民の暮らしを考えるなんてしない」
 私は幸せだよ、ドラクルはそう嘯いた。おどけた様子に、ヘンリーが眉をしかめる。
「ヘンリー。ドラクル様のことなら、私ができる限りお助けするから」
「でも、アウグスト」
「君は君の仕事をしなよ」
 同席はしながらも高貴な王族たちの会話にこれまで口を挟むのを差し控えていたアウグストが、同い年の友人であるヘンリーに対してだけは気安く話しかける。
「なぁ、ドラクル、そなたはこれに関してどう思う? どちらが正しいと思う?」
「え? なんだい? アン」
「もう、聞いておらんだな。じゃから……」
 薔薇の香りに包まれた茶会は、もうしばしの間続く。


007

「……言わないのですか? アンリ殿下たちに」
 ドラクルが自室に戻ると、真っ先にアウグストが口を開いた。侍女を呼ばない代わりに、彼は小姓のように甲斐甲斐しくドラクルの世話をする。実際アウグストは今でこそ正式なカルデール公爵となったが、昔は彼の家の事情もあって王宮にドラクルの小姓として仕えていた。
 もうすぐで夜明けを迎える。吸血鬼族にとっては、朝は眠りの時間だ。上着を預かり、人間たちの言うところの夜着を、実際に着用するのは朝だが身につける。主人であるドラクルの着替えを手伝いながら、そうしてアウグストは尋ねた。
「あの方々にお伝えすれば、あるいは……」
 上着を羽織るだけ羽織って後、椅子に腰掛けたまま自らでは動く気のないドラクルの正面に跪き、その胸元のリボンを綺麗に結びながら、アウグストは控えめに声をかける。
「無理だよ」
 だがドラクルは一蹴した。
「アンリに、アンに、ヘンリーに言えと? この九年間……もうすぐで十年にもなる、その間私が父上にされてきたことを」
「ドラクル様」
 夜着を着せ掛けた際にアウグストは主人の背中を見た。染み一つない滑らかな白い肌。吸血鬼の成長は成長期の半ばを過ぎると途端に緩やかになるから、二十代である彼らも外見上はまだ十代の少年にすら見える。荒れなどあるはずもないその肌に、今は見えない無数の傷痕があった。
 吸血鬼はこの地上の生物の中で、もっとも再生能力の強い種族だ。同じ魔族であるセルヴォルファスの民でさえそれだけはローゼンティアの吸血鬼に敵わない。
 甦りの力を持ち、死と生の狭間に生きる吸血鬼たちはそれ故に、人の苦悩から遠く、人には理解しえない痛みを持つ。
 ドラクルがブラムス王に虐待を受けていることを誰かに知らせるのは難しい。それをするならば、最も確実なのは現場に踏み込むことだ。だが生半な介入では、この国の最高権力者である王にすぐさま握りつぶされてしまう。けれど、この傷一つない背を誰かに見せたところで、表面上は息子とされているドラクルを誰よりも信頼し取り立てているように見えるブラムス王がその背を鞭打つなどとは信じてもらえないだろう。
 アウグストがそれを知っているのは、それだけ彼がドラクルの側近くに仕えていたからだ。そして彼の忠誠は、ブラムス王よりもむしろドラクルに対して勝っている。
「殿下……ですがあなたは、王の慰み者などで一生を終えるべき存在ではありません」
「アウグスト」
 リボンを結ぶ手の止まった彼の頭を、ドラクルがそっと撫でる。七つ年下のアウグストは、ドラクルにとって優秀な部下であり、また、親しい弟のような存在だ。
「お前がそんな顔をするものではない」
「ですが」
「お前はよくやってくれているよ」
 自分を慕う若き公爵の、形にならない苦悩を宥めるようにドラクルは微笑みかける。髪に触れた手の心地よさに、アウグストはそっと瞳を閉じた。
 ああ、あなたは今でもこんなに綺麗に笑うのに。
 しかし瞼裏に焼きついた優しい幻影を、他でもないドラクル自身の酷薄な声音が引き裂いた。
「それに、私が父上にされたことをアンリたちに告げると言うのはね、同時に私がロゼウスにしたことも彼らに教えると言う事なんだよ?」
 白銀の髪を撫でていた手が頬へと滑った。ハッと目を見開いたアウグストと視線を合わせ、ドラクルは口元を歪める。
「この年月、私は一体どれだけのことをあの子にしたのだっけ? 玩具の人形の首を引きちぎるより、なお酷いことを。背中を血まみれになるまで鞭打ち、骨が折れるまで殴るのは当たり前。少しでも気に入った相手がいるようなら引き離したし、逆にあの子を不快にさせる相手への奉仕を命じた。夜毎呼び出してその身体を痛めつけ、引き裂いた。冬の雪の最中、裏庭の木に犬のように繋いで何時間も放置したこともあったのだっけ。あとは……ああ、いろいろありすぎて、もう思い出せないな」
 今日も、もう少し経てばドラクルの命じた通りにロゼウスはやってくるだろう、この部屋に。来ればどんな目に遇わされるか十二分に知りながら、それでも彼は来るのだろう。
「ロゼウスに手をかけたあの日から、私は被害者面をする権利などなくした」
「ドラクル様、でもそれは」
「いいんだ」
 先ほどまでとは質の違う、九年前にはアウグストが見たことのなかったような笑みで、ドラクルは言った。
「私は私に与えられたこの現実を……父上のことも、大公と母上のことも……絶対に赦しはしない。だから赦される必要もない」
 赦さないのだから赦される必要もない。自分に認めた権利を相手から奪うのは不公平だろう? けれど決して、自らが与えられた運命を当然だと諾して受けとめて泣き寝入りなどしない。そのぐらいならば。
「私は私の憎しみでエヴェルシードを利用し、ローゼンティアを滅ぼすんだ。父上には私に殺されるだけの理由があるけれど、選ぶのは私だ。それを当然のことだとは言わない。そこまで自分を甘やかしはしない。けれど、その代わりに私は憎む。憎み続ける」
「殿下」
 壮絶な決意を、アウグストは聞く。主君の紅い瞳の奥に、大きく口をあけた傷を見る。
 エヴェルシードの民の瞳は炎のような橙色で、あのシェリダン王はまさしく炎のような朱金の瞳をしていた。けれど彼らと似たように紅い瞳をしているローゼンティアのそれは、血のようだと言われる。今にも傷口から溢れて零れてきそうな、生々しい血の色だと。
「さっきまでのやりとり……お前は滑稽に感じなかったかい? エヴェルシードと通じて自国を滅ぼそうという大逆人が、どの面さげてこの国のための法など……最低の裏切り者のくせに、まるで本当に国を案じているような振りをして」
 このひとはその心の内側に深い傷を持っているからこそ、こんなにも血のように深い色の瞳をしているのだろうか。
「嘘なんだよ、アウグスト。私の素性の何もかも。王子なんて、第一王位継承者なんて、次代の国王なんて、父上の……息子なんて」
 何もかもが嘘偽りで作られているのだと。これまで称賛され愛されるべきだった王子など、本当はどこにもいなかった。アンたちの穏やかなお茶会も、内情を知る者からしてみればひたすら滑稽なものでしかない。
 ドラクルは、そう自嘲する。
「仮に全てを明るみに出したとしよう。だがしかし、そうしたところでどうなると思う? この血統重視のローゼンティアで、たかだか大公の子である私と、国王である父上。王に他に子がいないのであればまだしも、正当な後継者はすでにいる……ロゼウスがな。知られれば存在を闇に葬られるのは私の方だ。知られてはならない。私より父上を選ぶという者たちには、決して知られてはならないんだ。そうでなければ私は殺されるよ。私だけではない。下手をすれば、アンリも、ヘンリーも。アンのように確実に王の子であるならともかく、父上の子どもではない王子王女たちはみんな、私と同じ運命を辿る」
 声は悲壮を超えて、いっそ淡々としていた。しかしそれは彼の感情が落ち着いているためではない。赤い炎より、青い炎の方が熱いという、それと似ている。
 一度力の抜けた指先に、アウグストは少しだけ気を入れてリボンを結んだ。そうしてしゃがみこみ、ドラクルから僅かに距離をとる。
 ローゼンティア王城は黒い。壁は黒曜石のように光沢を持つ黒い石でできていて、その床は冬場は酷く冷え込む。寒さを防ぐために敷かれた毛足の長い紅い絨毯の上に、アウグストは跪いた。
寝台脇の椅子に腰掛け、何も履いていないドラクルの足をそっと、神聖なものでも取り扱うかのように両手で捧げもつ。甲のあたりにそっと唇を落とした。
 ローゼンティアでは靴を履いた足に口づけるのは服従、素足に口づけるのは信頼と恭順を示す。真の忠誠は、服従などよりよほど過激だ。
「アウグスト……?」
「私がいます。私は、あなたの部下です。私の命は、あなたに捧げています。ドラクル様。あなたが例え何者であっても、私のあなたへの忠誠は変わりません。どうぞ、このアウグスト=カルデールをお使いください。捨て駒で構わない。それであなたのお心が晴れるのであれば」
「お前」
「私の主は、あなただけです。ブラムス王でも、ロゼウス王子でもない。あなたが真の王子でなくとも構いません。ドラクルという一人の存在に私は仕えるのです」
 真摯な声音がドラクルの耳朶を打つ。それはあの日の雷雨とは全く違う、春の雨音のような優しさを含んでいる。
 けれどそこに示されたのは、救済の光ではなかった。アウグストがドラクルに示したのは、どこまでも共に堕ちていくという誓い。
「……私、は、悪魔だ」
 ドラクルと言う名前は、果たして誰がつけたのだろう? 
 当時は何も知らなかったブラムス王か。それとも全てを企んでいた王妃かヴラディスラフ大公が送るという形をとったのか。「ドラクル」という名前は「竜」を示す。それと同時に、「悪魔」を示す名でもあった。強さと神秘性を兼ね備え、しかし裏を返せばべったりと闇が張り付いている。アンリとヘンリーが本をただせば同じ名前であるようにいささか適当な感のあるローゼンティア王族の名づけ方だが、それでもドラクルの名には他の兄弟姉妹よりもずっと、後ろ暗い意味が込められていた。
 犀はすでに振られた。運命など彼の生まれたその瞬間から始まり、歯車はあの雷雨の夜に動き出している。
 戻れない、もう、絶対に。
「……エヴェルシードとの同盟は組まれたんだ、アウグスト」
「はい」
「私を支持してくれる地下組織の連中に指示を。これから少しずつ、この国を覆す準備を始めよう」
「はい」
「私は必ず、この国を手に入れる」
「はい」
 跪いた姿勢のまま、胸に手を当てたアウグストは絶対の恭順をその身で示す。
「お心のままに」
 戻れない、そして。

 戻るつもりなどない。


008

 だがひとはその時になって初めて、いかに自分が自惚れていたのかに気づく。
「ドラクル様!」
 アウグストの悲鳴のような声が自分を呼ぶのを、ドラクルはどこか遠い場所で聞いていた。全ての感覚が遠ざかり、闇に沈み、いずれ何も見えなく聞こえなくなる。痛みは熱さと同じで、火傷が酷すぎると痛みを感じなくなるものだというのと同じように、あまりにも酷い怪我は痛みを感じなくなるのだと知る。
 ああ、これが死か。やけに冷静な頭でドラクルは思った。
 冷静になれるのは、吸血鬼が一度や二度くらいならば、死んでも生き返ることができる生物だからだ。薔薇に囲まれて眠る死体が甦った魔族だと伝えられる吸血鬼の特質は、その再生能力。その能力は死さえも超える。
 けれど、問題が全くないわけではなかった。吸血鬼の再生能力はその本人の持つ魔力の強さと、死に至った時の肉体の破損率が影響する。吸血鬼と言うだけあって出血にも弱く、また病死は蘇生可能範囲外だ。
 そして、蘇りには自分自身の力だけを必要とするのではなく、外部からの助けが必要だ。他者に目覚めを促されて、初めて生き返ることができる。そして甦らせる側も死者に自らの力を分け与えるのだから、少なくはない犠牲を払うこととなる。
 だからドラクルは思った。
 私が一度死んだら、もう目覚める事はないかもな。本当の意味で私を必要とする存在など、この世には、いない。

 ◆◆◆◆◆

 事の始まりは、ブラムス王からの命令にある。その内容は、国の西側の大森林を見回ってほしいという依頼だった。
「西、ですか?」
「ああ。そうだ。エヴェルシードやカルマインと国境を接する辺りなのだが、最近そこに盗賊が出るようになったという話だ」
「盗賊……?」
 謁見の間に呼び出されて、ドラクルは膝を着きながらブラムス王より命令の詳細を聞いていた。漆黒の壁に緋色の絨毯が敷かれた部屋の奥、黄金に薔薇の透かし彫りの装飾が施されている玉座に坐した王は、忌々しげな顔をしながら説明する。それを聞くと、どうやら彼の苛立ちというのはドラクルにではなく、その話題に出てきた盗賊の方へと向けられているらしい。
「ああ。そうだ。規模は大体二十人程度らしいが、とにかく強いらしい」
「人種は?」
「ヤツラの髪の色は蒼に赤に橙、それから緑も一人いたとか」
「エヴェルシードにカルマインにルミエスタ、セラ=ジーネですね。他に様子は」
 エヴェルシード、と聞いてドラクルの胸には引っかかるものがあったが、それを表に出すわけにもいかない。何食わぬ顔で会話を続けようとしたが、玉座に座る王は軽く手を振って合図をした。近く寄れ。
 ドラクルはつい一瞬顔をしかめてしまったが、それでも断りを入れて立ち上がると、父王の傍らにまで歩み寄った。
「蒼の人数が半数を占める。ルミエスタやセラの人間はほんの一握りだ」
「……この国に一番近いのはエヴェルシードですから当然とも言えるでしょうが、ごろつきの集まりにしても随分人種に偏りがありますね」
「ああ。それにな、遭遇した者の話では、ヤツラ、エヴェルシードでなくともどこか共通して、訓練された人間の匂いがしたらしい」
「訓練……軍人ということですか」
 ドラクルは顔をしかめた。
「エヴェルシードは多分そうだろうな。そして残りの者たちが傭兵崩れといったところか。あのエヴェルシードの兵では、個々の能力値は高くても基本的に戦いを知らぬ我国の者では勝てぬ。そこでドラクル、国一番の剣の使い手と名高いお前に命じる」
 ブラムス王は側近く侍ったドラクルの顎に手を伸ばすと、その顔を自らの方へ仰のけさせながら言った。
「西の森の盗賊を退治て来い。王宮警護の兵をそれように編制して討伐隊を組む。彼らを率いるのは、お前だ、ドラクル王子」
 ローゼンティアには軍というものが存在しない。そのため、こんな時は差し向ける人手に困る。王宮の警備兵をそのために特別手当を出して一時的な討伐軍として組むのだが、その指揮官を誰にするかが問題だ。
 ドラクルは主に宰相のような立場で国政に関わることが多いが、剣の腕も人並み以上に立つ。第一王子という立場は、多くの者の上に立つのにも打ってつけだ。だからこそ、ブラムス王から直々に命じられた。
「はい。ローゼンティアの臣として、必ずや王命に応えましょう」
「頼んだぞ。我が息子よ」
 白々しい挨拶で締めくくり、謁見の間を後にしたその足で討伐軍に任命された者たちのもとへと向かった。
 国の西側は他の場所と同じように、大森林に閉ざされている。鬱蒼とした森林の背の高い木々の足元には荊がひとの背の高さほどにまで伸びて檻のように道を塞いでいて、とうてい只人が入ってこられるような場所ではない。
 やるべきことを終わらせるのは、早い方がいい。そう思ってドラクルは、的確すぎるほど的確に指示を出し、命令を受けたその日には討伐隊の面々を率いて、王城から幾つものを街を越えた西の森にいた。……もしかしたらそれは、命令を遂行するために早く現地へと赴いたというより、少しでも公然とブラムス王と顔を合わせなくてもいい時間が欲しくて、それでさっさと城を出てきたのかもしれないけれど。
 それでも仕事は仕事だと、ドラクルは湿ってやわらかくぬかるみかけた土の上を、馬をゆっくりと歩かせる。
 大森林の木々は背が高く、その枝に葉を鬱蒼と茂らせる。ひとの眼に黒と見紛うほどに濃くその緑が映るほど重なる葉陰のせいで、この森は年中薄暗く、陽光が届かない。そのためいつも土が湿っていて木々の幹にはどれも黴が生えている。苔むしたその巨大な森の中を、薔薇の甘い香りが常に満たしているのだからなおたまらない。
 国外からの侵入者を阻む荊も、ローゼンティアの住民であるドラクルたち吸血鬼に対しては別だった。彼らが進もうとすると、荊の方で勝手に蠢き道をあける。
 ここは魔族の住まう国。
 ドラクルたちには何でもないことだが、たまに人間の旅人がこの国を訪れるたびにそんな光景を見ては驚く。吸血鬼と人間の間には隔たりがある。普段は意識しないそれを、そんな風に時折つきつけられるのだ。
 所詮ひとはひとの鏡である。ドラクルたちは吸血鬼だが、意志を持ちその疎通が可能な生命体であるならば条件は人間と変わらない。その最低限の要素だけを胸に持って世界を見つめると、光の反射によってものが見えるという仕組みのように、ひとは自分をその相対するひとからの反射を通して知るのだと気づく。
 生活習慣も文化も身体能力値も思想も何もかもが違う。相手を自分と同じだと考えるのは浅はかだ。自分以外の存在はどこまでいっても他者であり、それに理解を求めるなど実に愚かなこと。
 それを、ドラクルは九年前に知った。ヴラディスラフ大公フィリップと王妃クローディア。二人はブラムス王に恨みを持ち、その復讐のために正統な後継者ではないドラクルに王位を継がせたかったのだ。だがドラクル自身は……
 そんな形で復讐を望んだのは、両親であってドラクルではない。彼の望みではない。それでも今ドラクルが他国の力を利用してまでローゼンティアを簒奪しようとするのは、両親のこととは関係ない、ただドラクル自身の恨みのためだ。
 本当の意味で、他者を意のままに動かすことなどできようはずがない。相手は自分とは違う瞳で世界を見ている。
「殿下、こちらに不審な痕が」
「どこだ?」
 討伐隊に選ばれた兵士たちは、常にはないこの事態の解決役に抜擢されるだけあって皆真面目で優秀だった。いくら向こうは二十人がかりとはいえ吸血鬼族が退けられないほどの腕前を持つ盗賊を退治しなければならないのだから、その責任は重大だ。
 一行の中には、ドラクルの部下であるアウグストも混じっていた。本来カルデール公爵である彼は自分の領地でもないこの場所で起きた事件など管轄外なのだが、ドラクルの秘書官として自ら志願してこの場に赴いている。それだけでドラクルの負担は、大分軽くなる。
「やはり、誰か人間が足を踏み入れたようですね」
 討伐隊の人数は二十人。吸血鬼の身体能力は人間とは違うので、本当はもっと減らしても良かったのではないかと言われたが、それでも一度勝てなかったという前例がある。それに相手が最強の軍事国家であるエヴェルシードの軍人が多いというのならば、一応の警戒も必要だろうとこの人数を揃えてきた。
 薔薇の茂みの陰に残る落し物。地面から盛り上がった、苔むした木の太い根を踏んだ泥の痕、焚き火をして消した後の、綺麗にならされた地面。森の様子からは、確かにこの場所に誰かが侵入した形跡が見て取れた。
「どうやら相手が近いようですよ」
 そんな話をしていると、唐突にその時はやってきた。人の気配を探して歩き回った森の中で、ドラクルたちは見事に盗賊たちを見つけ出し鉢合わせてしまったのだ。
 はじめこそ驚いた反応を向こうもしたものの、すぐに我に帰り戦闘体勢に入ったのはさすがと言うべきか。
 彼らの動きは、一部その辺りのごろつきと変わらない者が交じるものの、報告どおり大体が訓練を受けた軍人のものだった。
「奴らを捕らえろ!」
 そして号令をかけたドラクルの声に、中の一人が微かに反応を見せる。
 そういうことか、ドラクルは納得する。もともと、この話を聞いた当初からどこかで考えていたことだった。
 盗賊たちを取りまとめる首領らしい一人は、ローブのフードを目深に被っている。その体格はむくつけき大男やら不健康に痩せ細った人相の悪い男たちが集まる一行の中ではすらりと細身の小柄とさえ言えるようで、しかも彼が顔をあげた一瞬に見えた髪は藍色で、瞳の色は朱金だった。蒼い髪に橙色の瞳を持つエヴェルシードの民でも、その色は珍しいのだと言う。
 まさか、国唯一の王子様が自らお出ましになられるとは。皮肉に、ドラクルは奇妙に口元が歪むのを感じる。正統な第一王位継承者のロゼウスをおかいこにしてくるみこんでこういった戦線をドラクルに任せるローゼンティアとは、なんという違いだろう。勿論守られるべき王子の立場や性格にも違いはあるのだろうが。
 盗賊を率いていた男は、先日顔を合わせたばかりの少年、エヴェルシード王子のシェリダンだった。向こうもドラクルの姿には気づいたようだが、確信までには至ってないらしい。先日の対面と今回の討伐遠征とでは、ドラクルは少し髪型を弄っている。
 それにローゼンティアには、この顔は多いのだ。全く同じとは言わないがドラクルはブラムス王に似ていて、その理由はブラムス王とドラクルの実父ヴラディスラフ大公フィリップが双子の兄弟だからだ。その父親たちを持つ従兄弟同士の関係であるドラクルとロゼウスも、兄弟と言って疑われたこともない。シェリダン王子はドラクルとブラムス王の両方に会ったことがあり、ヴラディスラフ大公が王弟だとも知っているだろう。
 そして事態をややこしくすることには、吸血鬼の長命による特質がある。成長期の終わりごろから身体の老化が緩やかになる吸血鬼は、実年齢と外見が釣り合わない。ブラムス王は人間で言う三十代にも見えないし、ドラクルだって二十歳前で充分に通じてしまう。
 それでも全員ドラクルの部下ならばまだしも、王宮警備の兵で構成されたこの討伐軍の前でシェリダンに正体を明かすわけにもいかない。むしろ、それでなくともドラクルはエヴェルシードの王子であるシェリダンに、馬鹿正直に正体を明かす気などないのだ。
「やってしまえ!」
 向こうも覚悟を決めたようだった。シェリダンが恐らく正規の彼の部下だろう、盗賊の振りをする兵士たちに指示を出す。もともとローゼンティアへの攻撃はドラクルがシェリダンに持ちかけたことであり、それが失敗してもエヴェルシード側にはこれといった不利益はないのだし、ここでドラクルごと殺しても問題はないと考えたのだろう。
 恐らくドラクルとの取引どおりローゼンティアへ攻め込むならどうするのが一番いいか、盗賊を装った軽い襲撃で魔族と呼ばれる特殊な生き物である吸血鬼の様子を探りに来たのだろうが、それを無にする決断が一瞬でできるところがこの王子の優れたところなのだろう。あの同盟に関しては、もしもドラクルが取引相手ではなくまったく関係のない相手だとしたら、万が一にでも露見すれば両国の存在を危うくする事実だ。それこそ理由のない喧嘩を売ってきたとして、二国は泥沼で益のない争いに突入する。そうならないためには、この場で決着はつけておかねばならない。
 ドラクルの指示で討伐隊は馬に乗ったまま剣を抜いて動き出し、盗賊たちもこちらに向かってきた。
 突然の争いによって森の中は戦場に変わる。馬の蹄に引きちぎられた草の青臭い匂い。うっかりと荊の茂みに触れたマヌケなごろつきあがりの悲鳴も聞こえる。
 難なく二人を倒したドラクルの目の前に、フードを被った細身の影が立ちふさがった。たびたびフードの下から覗くのは、炎そのものの朱金の瞳だ。
 すでに幾人かの敵も味方も馬を失っている。ドラクルとシェリダンも例外ではなく、剣を合わせるうちに両者とも馬を失った。ドラクルの場合は馬を斬られ、そこから飛び降りる際に仕掛けた攻撃を避けるために、シェリダンは自ら地面に降りた。そのまま息継ぐ暇もなく仕掛けてくるシェリダンの攻撃をいなしながら、ドラクルはこの事態をどうやって切り抜けるか考える。
 その時だった。
「殿下!」
 シェリダンは美貌で知られた彼の母譲りの容姿の割に、人間にしては腕が立つ。その相手で手一杯だったドラクルに、背後から別の兵が迫った。――――避けきれない!
「がはっ……!!」
「ドラクル様!」
 無防備だった背中から一突きされて、正面にいたシェリダンの頬にも降りかかるほど盛大に血を吐いた。
 アウグストの悲鳴のような声が自分を呼ぶのを、ドラクルはどこか遠い場所で聞いていた。全ての感覚が遠ざかり、闇に沈み、いずれ何も見えなく聞こえなくなる。痛みは熱さと同じで、火傷が酷すぎると痛みを感じなくなるものだというのと同じように、あまりにも酷い怪我は痛みを感じなくなるのだと知る。
 ああ、これが死か。やけに冷静な頭でドラクルは思った。
 驚いたのは、彼と剣を合わせていたシェリダンも同じようだった。まだドラクルが自分の先日の取引相手本人か確信がなかったためだろう。ドラクルが刺された瞬間、同じように目前でぎょっとした彼は、その口で退却命令を叫ぶ。
「撤退だ!」
「ですが!」
「いいから、とにかく退け!」
 このまま戦っても意味はない。どころか、ドラクルは重傷だ。敵の指揮官は倒されたと叫ぶ彼の声に応じて、盗賊たちは撤退していく。討伐隊に関しては、事情を知るアウグストが迂闊に盗賊を追わぬよう指示を出した。
 そして、自分こそ怪我でも負ったかのように蒼白な顔をして、地に伏したドラクルの元へと駆けつける。
「ドラクル様!」
 吸血鬼にいくら甦りの力があるとは言え、万能ではない。死から甦る者自身の魔力や、甦らせる者の魔力、肉体の破損率。諸々の条件が重なってようやくそれはなる。だから、思う。
 私が死んでも、私の死を嘆く者も、私を甦らせる者もいないかも知れない……。ドラクルは自らを刺し貫いた一撃が、体内の重要な臓器のことごとくを傷つけていったのをわかっていた。傷の状態が酷い。痛みすらもう感じない。
 どんなに足掻いたところで、死とはこんなにも簡単に訪れるものなのか。
「ドラクル様、しっかりしてください! ドラクル様……!」
 叫ぶアウグストの声を聞きながら、ドラクルの意識は死と言う名の闇に堕ちた。

 ◆◆◆◆◆

 灰色の空の下、穏やかな風が吹いている。僅かに明るく、けれど光の射さない花曇の季節だけは、吸血鬼でも昼間でも外に出る事ができた。
 昼と夜では、見るものの様子が何もかも違う。表と城の内側でも違うけれど、深夜の庭園と真昼の庭園は、それを初めて知る者には信じられないほどの差があった。
 ――お前はいずれ、この国を継ぐことになるのだから。
 薔薇の色が違った。乾いた風に香るその甘い匂いが違った。夜のように周囲の闇と同化しない灰色の昼の空は、思ったよりもずっと高い位置にあった。世界は自分がこれまで思っていたよりも広かった。
 ドラクルの肩に手を置いて、父王は言った。
 ――いろいろなものを見て、いろいろなことを知らなければいけないよ。
 少し離れた場所で、アンリがまだ小さい弟のヘンリーの面倒を見ている。ドラクルの妹のルースは何が楽しいのか茂みの側で一人遊びに耽り、アンとミザリーは手を繋いで庭園のあちこちを見て回っていた。
 まだロゼウスが生まれる前であり、王もドラクルも、誰もが何も知らない頃。
 ――ドラクル、お前が私の息子である事は、私の誇りだ。
 ――はい、父上。ご期待に添えられるよう、頑張ります。
 あの頃、父は優しかった。笑顔を返されて、ドラクルはますます喜びに頬を紅潮させた。
 幸せだった。確かに、幸せだった。

 だから、これは夢なのだ。

 ◆◆◆◆◆

「兄様……」
 涙声に名を呼ばれてドラクルは目を覚ました。
 身体が動かない。徐々に甦ってくる感覚が、自分は今やわらかい羽をたっぷりと詰め込んだ枕と布団に埋もれるようにして寝台に横たわっていることに気づかせる。鉛のように重い瞼を無理矢理持ち上げると、そこにはロゼウスの泣き顔があった。
 部屋の扉を開ける気配がして、仕事を終えたらしき侍女が出て行く。よくよく見ればロゼウスの背後の天蓋は自室の寝台のもの。いつも通りの自分の部屋だった。なのに、そこに漂う空気は違う。ロゼウスが紅玉の瞳に涙を溜め込んでいる。
「ロ…ゼウ、ス」
「……良かった。もうこのまま、ずっと目覚めないのかと」
 不安な泣き顔から、ゆっくりと微笑へと変わるその表情を眺めながら、ドラクルはぼんやりと何があったのか思い出そうと試みた。まだ頭の芯がはっきりせず、自分がどうしてこのような状況にあるのか理解できていない。しかし。
「父上も今まで、ずっとここにいたんだ」
 ロゼウスの言葉に一気に頭が冷え、全ての記憶が蘇ってきた。
「私は……ッ、くぅ……!」
 飛び起きようとすると、胸部を中心に激痛が走った。目の前が黒と赤に眩む。
「動かないで。傷が深いんだ。ようやく意識が戻ったばかりなんだから、大人しく……」
 身を起こそうとするドラクルの上体を押さえ込み、ロゼウスはゆっくりとその身を再び寝台に横たえようとする。腕を伸ばしてそれを制し、なんとか上半身だけは起こした状態で、ドラクルは状況説明を唯一この場にいる弟に求めた。
「兄様は、森に出たっていう盗賊を討伐しに行って、刺された。それで……一度死んだんだよ。その後はカルデール公爵の指示で討伐隊は動いて、盗賊に関しては取り逃がしたんだけれど、隊の者たちは全員無事に城へ戻って来た。それで、兄様の蘇生をした」
 吸血鬼は人間とは違う。尖った耳や老化の遅い外見上のこともそうだが、何より特徴的なのは死んでも甦ることができる、という魔族の中にしても稀有なその性質だった。もちろん死者がなんでもかんでも生き返るわけではないが、条件さえ揃えば、一度生命活動を停止した肉体の蘇生は可能だ。若者や身体の頑丈な者ならなお回復しやすい。
「……隊の者たちは無事、か。馬は数頭失っただろうが」
「うん」
「アウグスト……カルデール公爵はどうしている?」
「公爵は昨日までは城に留まって後始末をしていたんだけど、今日は流石に領地の方へ戻ってる。兄様の目が覚めたから、さっき使いをやったよ。後で来ると思うけど。兄様がいない間の仕事はルース姉様とヘンリー兄上が肩代わりしてたよ。討伐隊の兵たちは、兄様の戦いぶりはとても見事だったって。それから――」
「ロゼウス」
 平静に見えて軽い興奮状態にあるのか、泣き笑いの表情のままつらつらとしゃべり続けるロゼウスの言葉を遮って、ドラクルはそれを尋ねた。
「私を甦らせたのは誰だ?」
 吸血鬼は人間とは違う。死んでも甦ることはできる。だがそれは、どんな状況下でも蘇生可能というような、都合の良いものではない。
 死者の蘇生に関する重大な要件の一つに、蘇生させる側の存在が必要となる。必ず吸血鬼でなくとも構わないが、死者に自らの命を分け与え、その覚醒を促す導き手だ。
 この能力は誰もが持ちながら、誰にでも使いこなせるものではない。そしてロゼウスの母クローディアの生家であるノスフェル家の地位がローゼンティア国内において高いのは、それが関係していた。ノスフェル家は死者蘇生の術に長けた一族なのだ。
 だから。
「俺です。ドラクル兄様」
 寝台脇に椅子をおいて座っていたロゼウスが、ドラクルの膝に身を伏せる。
「良かった……生き返ってくれて」
 それを聞いて、ドラクルの胸に湧き上がるのはまず喜びより憎しみよりも、もっと複雑な感情だった。
「お前、が」
 ノスフェル家の王子、ロゼウス。世間には知られていないが、ブラムス王の、正統なる後継者。真の第一王子。
 そのロゼウスが自らを甦らせたことに対し、ドラクルは。
「くっ……くくく、ははははは」
「……兄様?」
 なんという皮肉。
 笑いが止まらない。身を震わせるたびに治りきらない胸の傷に痛みが走るのに、それでも喉から、自然と嘲笑が込み上げる。
「馬鹿だ、ロゼウス。お前、なんで……」
 止まらない笑いとは対照的に、言葉は続かずに途切れる。ああ、なんて愚劣、なんて滑稽、なんて皮肉。馬鹿だ、馬鹿だよ、お前も。
 私も。
「何をやっているんだ? お前は。放っておけば良かったろう。私など。私が死ねば、もう何の問題もなくこの国はお前のものになる……」
「ドラクル? 何を?」
 彼の言葉の意味がわからないのだろう、ロゼウスは訝りに眉根を寄せている。ローゼンティアの王位継承権は表向き第一位がドラクル、二位は第二王子のアンリが持っている。その次がロゼウスであるのに、ドラクルが死ねば全てロゼウスのものになるなどと。
 何も知らないロゼウスの言葉は、もはやドラクルの胸に燻る火に、ゆっくりと油を注ぐだけにしかならない。じわじわと勢いを増して消えないその日が、国一つを包むほどの業火になって全てを飲み込むのは、決して遠い日のことではない。
 けれど争いの火種が巻かれるのも、ドラクルが生きていればこそ、だ。
「一体何故、お前は、私を――……ッ!」
 歪な笑いが続くはずだったドラクルの言葉が再び途切れる。しかし今度はただ途切れるのではなく、慌てて喉と口元を押さえた彼の口からは、目覚めた途端のこの行動で開いた傷口から込み上げた血が零れていた。その色は、ぞっとするほどに黒いものと、鮮やかな朱色が交じっている。
「っ、もう喋るなドラクル。肺や内臓が幾つも傷ついているんだ、安静にしていないと」
「うるさい! 離せ!」
 悲鳴を上げる身体の痛みを無視して叫び、ドラクルは無理矢理ロゼウスの腕を振り払う。
「他の誰の手を借りても、お前の助けなど必要ない!!」
 もうたくさんだった。
 もう、こんな惨めな思いは。
 けれどそれを完全に振り切ることを、ロゼウスの方が許さない。
「ごめん」
 普段から裏表のあるような顔を見せないロゼウスだが、それは形だけの謝罪だとドラクルにもわかった。しかし彼がその意味を考えるよりも、ロゼウスが行動に移る方が早い。
「ん……っ!」
 眠り姫の目を覚ますのは王子様の口づけと相場が決まっている。だからというわけでもないだろうが、吸血鬼の口づけには魔力が宿っている。
 ロゼウスは自らの唇を、ドラクルの血に濡れた唇に押し当てた。手首を掴んで動きを封じる力が有無を言わせず、柔らかなそれが触れた瞬間に、自らの中に力が流れ込んでくるのがわかった。
 だからこそ、渾身の力をこめてドラクルはロゼウスを突き飛ばす。けれどその頃にはもう遅く、ロゼウスの魔力によって、ドラクルの負った傷はその殆どが跡形もなく消えていた。内側の痛みも残らない。
 理解したその瞬間、ドラクルは行動に出ていた。カッと頭に血が上るのと同時に、ロゼウスを殴り飛ばす。
 ドラクルだとて一般の兵士以上に鍛えている。決してひ弱ではない。さすがに体格の違う相手に思い切り殴り飛ばされたロゼウスは、樫で作られた重たい椅子ごと床へと吹っ飛ぶ。先程のドラクルの吐血とは違い、口の中が切れたためだろう、血が口の端を伝っている。出血に弱い一族だと言うのにこんなことで流血して、一体何をやっているというのか。
 無様だった。たまらなく惨めだった。
「やめろ……」
 命じるドラクルの声も、身体も震えている。ロゼウスのおかげで傷は綺麗に消え去っているが、それでもまだ、胸の奥のどこかがいたい。それでも? いや、むしろそれだからこそと言っていいだろう。
 あのまま、死んでいくのを放っておいてくれれば良かったのだ。
「やめろ。私に触れるな。関わるな。目の前から消えろ」
「兄様……」
「お前など顔も見たくない。死んでしまえ、いや、生まれてこなければ良かったんだ!」
 それだけは言ってはならない言葉が口をついて出る。だが、ドラクルは自分を止められなかった。
 顔をあげたロゼウスは、ただただ呆然としている。傷ついた素振りも見せないのは、事態をよく飲み込めていないからのようだ。
 この十年、ずっと耐えてきた。それまで十七年間父だと信じていた王からの虐待にも。そして何も知らない周囲の眼差しの純粋さにも。追い詰められた弱い心がこの弟に同じ虐待を繰り返すその虚しさにも。
 まだ耐えろというのか。
 そして生きてこの目で見ろというのか。自らが廃嫡とされ、それまで持っていた全てのものがロゼウスの手に渡る瞬間を。 
「私は、お前が嫌いだ」
「兄様……」
「お前がいるから。だから、私の存在価値が奪われる。お前が生まれてきたから私は要らなくなった。……お前さえ、いなければ良かったのに」
 ロゼウスの存在は、ドラクルにとって墓標を眺めているようなものだった。その十字架の足元、墓碑には自らの名前が刻まれている。
 正統なる血を引く男児であるロゼウスが生まれた時から、王子としてのドラクルの存在価値は全くなくなってしまった。この世に、存在する意味がなくなってしまった。ロゼウスがいれば、ドラクルはいらない。
 これが、ロゼウスが生まれなければ事情はまだ違っただろう。ドラクルには王になりうるだけの能力がある。エヴェルシードほど厳格な男女差はないが、正統な実子でも王女であるアンと比べてしまったら、王弟の子息である男子のドラクルの方が能力的にも上であり、王となれる可能性は皆無ではなかった。
 けれどロゼウスと比べてしまったら、ドラクルに勝ち目はない。正統な血をひく男子で、その潜在能力はドラクル以上。どんな理由があったら、この「弟」を追い落として自分が王位につけるというのだ。
「お前なんか嫌いだ」
 表面を取り繕うのは得意なはずだった。腹芸の一つもできねば政治の世界になど入り込めない。
 なのに、これまでどんな相手にも冷徹で鋭い皮肉を冷静に返して来れたはずのこの唇が、今紡ぐのは子どものように稚拙な、感情を示すだけの言葉ばかりだ。
 片膝を立てて身を乗り出したままの寝台がぎしりと軋む。音のない部屋にそれは思いがけず大きく響き、合図のように、ロゼウスはゆっくりと立ち上がる。殴り飛ばされて腫れてきた頬に軽く触れる。再生能力の強い吸血鬼ならもう数分でそれも消えてしまうだろう。
 だが、ドラクルが彼を殴り飛ばした事実は消えない。
 消えないのに。
「俺は兄様が好きだよ。兄様が……ドラクルが好きだよ。誰よりも」
 ロゼウスは寝台の端へと寄ってきて、ドラクルへと手を伸ばす。怯えたように震えた指先がそれでも触れる。
 ドラクルの濡れた頬に。
「ドラクルが好きだよ」
 それはどういう意味での好きなのか。家族として、王族として、男として、兄として。
 それとも、ドラクルという存在として?
「馬鹿だお前は」
 馬鹿だ、馬鹿だ。それ以外に思いつく言葉がなく、ドラクルはただ繰り返す。ロゼウスは馬鹿だ。自分を虐待していた兄に、かける言葉が違うだろう。
 先ほどのあの腕力、いくらこちらが重症患者とはいえ、大の男を軽々と押さえ込む力があるならばどうしていつも抵抗しなかった。本当はできたのだろう? お前の力なら。
 ――ねぇ……ロゼウス。
 ――何?
 ――私のこと、好きかい?
 ――……うん。俺は、兄様が大好きだよ。
 何故頷くんだ。いちいち、それこそ馬鹿の一つ覚えのように。憎めばいいだろう。初めの一度こそ騙し討ちで頷くように誘導しても、二度目からはその言葉の先に何があるかわかっていたはずだ。嫌だ、と、お前なんか嫌いだと叫んで逃げれば、そして内密に父王にそれを報告すれば避けることができたはずのこの手に、どうしていつも応えた。
 と、そこまで考えてドラクルは、それがまるまる自分にも当てはまることに気づいた。夜毎繰り返されるは忌まわしき行為。父王の寝室に招かれるたびに触れてくる手を、自分は本当は拒否できたのではないか? 
 できるはずのそれができないのは、どうして。
「……愛しています、兄様」
 ロゼウスは触れたドラクルの手を閉じ込めて、祈りのように指を組む。二人は顔立ちだけでなく、白い指の形も良く似ている。折りたたまれたその指は、果たしてどちらのものなのか。
 ロゼウスはドラクルにとって、美しく残酷な荊の墓標。
 どちらかが生きれば、どちらかの存在は不要となる。決して同じ場所に存在することなどないのに。
「ずっと一緒にいてください……兄様」
 懇願する声の切なる響きが、ドラクルの胸をあまやかに裂いた。