001

 皇暦三〇〇二年。
「ところで、アウグスト=カルデール公爵。 もしお前に、愛して愛してとっても愛してやまないのに、決して自分とは添い遂げない相手がいたとしたらどうする?」
「は? いきなり何の話です、ドラクル様」
「ただの世間話だよ。もっとも、狭すぎる世間かも知れないけどね。それで、どうするんだい?」
「そうですね。……添い遂げない理由にも寄りますが、自分を嫌って逃げようとする相手なら、手足斬りおとして鎖に繋いで未来永劫監禁、というところではないですか?」
「人間ならそれでもいいかもしれないが、普通手足斬りおとしたら相手が死ぬだろう。私たち吸血鬼は、出血に特に弱い種族だ」
「そうなんですよねぇ。そこが問題で。なら薬漬けにして精神破壊。いっそ、相手が二度と自分以外の者を見る事がないように殺すとか」
「なるほど。お前は、自分の欲しい相手に対し遠慮と言うものをまったくしないタイプなんだな。相手の幸せを考えて身を引く、や醜聞を立てられるのが怖くて想いを断ち切る、などという選択肢はないんだ?」
「ああ……そういう考えもありましたか。そんなことを言ったって、無理ですよ殿下。この私が本気で、一人の女性をそうして思いつめるほどに、愛したことがあるように見えます?」
「さっぱり」
「でしょう」
「なら、お前は一体誰が好きなんだ? 女好きのカルデール公爵。お前ほどの家柄と容姿、実力を備えているならこの国の誰とだって婚姻を結べるし、もし相手方に断られたとしても王家の力で後押ししてやるが? 可愛い部下よ」
「あなたとヘンリー」
「そうか。私が好きなのか。ふむ、金貨五枚で抱いてやるし、倍額出すなら抱かせてもやるが?」
「そういう意味じゃありません……っていうか殿下、金貨十枚なんですか? 王国の第一王子が、金貨十枚。せいぜい色街の高級娼婦の値段程度って……そんなお安くていいんですか? そりゃあ、最近の第一王子ドラクル殿下の淫蕩ぶりは有名ですが」
「有名とは言っても、お前が出入りするような世界での有名だろう? ならば問題ない。それに、得だと思わないか? アウグスト。例えば金貨十枚で、寝所を共にした政敵の一人を確実に葬れるのならばさ」
「そういう意味の値段ですかい」
「ああ。それに、そうでなくてもどうせ私の値段などそんなものだ」
「……殿下」
「なぁ、アウグスト。お前は先程私に言ったな。好きな相手が自らの手に入らないのならば、拉致監禁し脅迫し、手足を斬りおとして鎖に繋いででも自らの下に留め置くのだと。貞操帯も麻薬も生温い。欲しいもののためには何だってしてみせる、どんな悪でも行ってみせ、そのために相手が疵物(きずもの)となっても構わないのだとお前は言った」
「……ええ。言いました」
「例えばその相手というのが、自分と相手の親の意志によって結婚を決められ、婚約したはいいが引き離された元婚約者だったとしても」
「前提条件は、その政略結婚の相手を自分が愛した、ということですか。そうですね。ならばなおさら死に物狂いで取り戻しますかね。だって一度は私のものになった相手を、他人の勝手な都合で取り上げられるなんて許せない」
「ああ。そうだ。私も許せない」
「殿下?」
「だから取り戻そうと思うんだ――一度は私に与えられたのに、その後、勝手な都合であっさりと取り上げられた権利を」
「ドラクル様」
「私から取り上げられた最高の伴侶。このローゼンティア王国そのものを」

 ◆◆◆◆◆

 皇暦二九九三年。
 その国は南北二つの大陸のうち北の方の大陸にあり、しかも東端に位置する。深い森林に囲まれていて空はいつも薄暗く、気温は肌寒い。
 特に四季のある国ではないが、時期によって多少の気温の変化はある。周辺諸国が秋という季節を暦の上で確認する頃には、暖炉に火をつけることが必要だ。
 ローゼンティアの中央部に位置し、王族の居住はもちろん政務が行われる場でもある王城の一角に、その部屋はあった。磨きぬかれた黒曜石のような光沢を放つ石で作られたローゼンティア城はこれから冬にかけて、酷く冷え込む。特に石造りの建物は冷気を逃がさず刺すような寒さが足元に溜まるようなので、厚い敷物は欠かせない。廊下にも赤い絨毯が敷かれ、無数に並ぶ部屋の中には直に床に座ることもできるようにと、毛足の長い絨毯が敷かれているのが通常である。その部屋も勿論例外ではなく、むしろ暖炉はそろそろ火を入れられるように召し使いたちが手入れをし、寝台には柔らかな羽毛布団と毛布。壁を飾る絵画をはじめ、並べられた調度はどれも一級品だ。
 まず壁からして漆黒というその部屋は赤い煉瓦の暖炉を備え、通常ならば剥製の一つでも壁にかけられていそうな雰囲気のある部屋だがそんなことはない。その代わりに溢れているのはところどころに薔薇のレリーフを施した調度品の数々で、薔薇の王国と呼ばれるローゼンティアにおいては、全てを薔薇で飾るのが基本だった。
 黒い壁に赤い煉瓦の暖炉、ただでさえ仄暗い部屋に灯す燭台は人間の手の形をしている。《栄光の手》と呼ばれる形のそれは、本来なら人間たちが行う黒魔術に使われる呪具を模している。黒檀で造られた重厚なテーブルの上にはやはり真紅の薔薇が陶器の花瓶に飾られ、艶やかにその存在を主張していた。
 窓の外は、月も見えぬ暗い夜。吸血鬼族は夜行性だ。
 人間たちは眠りへと落ちている真夜中こそが、ローゼンティアの民にとっては真昼の活動時間帯と同じだった。この国の民は皆吸血鬼で、例外はない。旅人が訪れる事はあっても、この国に永住する人間はいない。魔族はできるならば同種族で婚姻を結び、人と血を混ぜてはいけないという伝統がある。
 そんな真夜中、吸血鬼たちにとっては一日の内で最も心地よい時間帯、四人の少年がその部屋に集まっていた。
「さて、そちらの王をもらおうか」
 薔薇の花が活けられたテーブルの上では盤上の遊戯が繰り広げられていた。少年のうちの一人が穏やかに言い放つと、対面に座った相手は貴族めいた装いの上品さに反し、げっと顔を歪ませる。
「ちょっと待ってくれ、ドラクル。あんた強すぎるんだよ。もう少し待ってぇ〜」
「別にいいけどね、アンリ。こうして待ったところで、この局面の形勢が変わるとは思えないんだけど?」
「酷いな。俺だって頑張れば一度くらいは勝てるかもしれないじゃないか。兄さん」
 ドラクルと呼ばれた少年は、それを聞いてにっこりと、しかし不敵に微笑んだ。穏やかな表情ながら、できるものならやってみろと言わんばかりの余裕綽々なその顔に、アンリが頬を引きつらせる。
 彼らの背後にそれぞれついたまた別の少年たちが、椅子の背もたれに肘を置くようにして盤上の局面を覗き込みながら、口々好き勝手に言い合った。
「では、私はこのままドラクル殿下が勝つ方に……そうだな、ヘンリー、前に君が欲しがってた本の写しを三十頁ほど」
「本当か? 嘘はなしだぞ、アウグスト」
「誰が嘘など言うもんか。で、君は何を賭けるんだ? ヘンリー」
「じゃあ僕は……って、ちょっと待てよ! なぁ、この局面でお前がドラクル兄上に賭けるってそれズルくないか!? 僕もそっちがいいって!」
「なぁ、弟よ、俺に愛は……?」
 この場にいる四人は、皆良家の子息だ。否、良家などという言葉を使うには些か語弊がある。四人の少年のうち、三人は王族なのだから。ただの良家などこの国の王族を前にしては何の意味もない。
 ドラクルと呼ばれた少年は、四人のうちで最も年長であった。その見た目から測るに、年齢は十六、七。吸血鬼族ローゼンティアの民が持つ特徴を外れない白い肌、白銀の髪、そして血のように紅い瞳。けれど造作は人並み外れて整っていて、動作の全てに嫌味でない気品がある。
 独特の艶を持つ白銀の髪は肩に先が触れるほどの長さで、柔らかに頬を縁取っている。長い睫毛は髪に比べたら銀が強いために、その瞳に淡い影を落としていた。通った鼻梁、緩やかな笑みを刻む優美な口元。何より極上の鳩の血色(ピジョン・ブラッド)の瞳の印象が鮮やかで、この美貌を見て見惚れぬ者はいないと言われるほどだ。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
ローゼンティアと国の名を冠するとおり、彼はこの国の王子である。正妃の息子であり第一王子であり第一王位継承者。つまりは王太子であり、王族の血統が重視されるローゼンティアにおいてはその身分の高さにおいて敵う者は国王しかいない。
「はい、アンリの番だよ」
 おまけにドラクルは国を継ぐ者としての能力にも申し分なく、彼に何らかの形で勝負を挑もうと、生半の相手など敵にならない。
「えー。本当に容赦ないな。兄上は。可愛い弟に花を持たしてやろうとかないのか?」
「手加減はいらないって、強がったのはどっちかな?」
 アンリ、とドラクルが呼ぶ相手は彼の弟である。第二王子アンリ=ライマ=ローゼンティアはドラクルより一つ年下で、第二王妃の息子だ。そのため兄弟でありながらどちらかと言えば友人という感覚が強く、母親違いの兄弟ではあるが、それにしては仲が良い。
 兄であるドラクルが優しげでぱっと見にはおっとりとした印象を与える美貌なのに比べて、弟のアンリは快活な印象が強い。特段美形と言うわけではないが、はっきりとした目鼻立ちと、はきはきと物を言うところが魅力的だ。髪は短めで、瞳の色は吸血鬼族にしては珍しく、赤と言うより朱色がかっている。
「頑張ってくださいよ、アンリ兄上。でないと僕がアウグストに気に入りの小刀、あげることになるんですから」
 アンリの椅子の背後に、彼の頭の上からテーブルの上の遊戯の様子を覗き込むようにして立っている少年は前の二人に比べると少し幼い。十を少し越えた程度の年頃である彼の名はヘンリー=ライマ=ローゼンティア。ドラクルとアンリの弟であり第三王子。彼もアンリと同じく第二王妃の子どもである。しかし、母親違いのドラクルはもとより、二親同じ兄弟であるアンリともさほど似ていない。
ヘンリーは少し歳の離れた兄たちに比べてまだ子どもと言った印象が強く、これから意志の強い男に育っていくのだろう、利発そうな面差しをしている。
「期待していますからね。ドラクル殿下」
 最後の一人は彼もまたヘンリーと同じ年頃の、まだ子どもらしさの残る少年だった。彼はこの場では唯一王族ではなく、従ってドラクル、アンリ、ヘンリーの、王家の兄弟とは血が繋がっていない。しかし王子が三人も集うこの場に極普通に居合わせている彼のフルネームはアウグスト=ミスティス=カルデールと言い、カルデール公爵家と言えばローゼンティアでも国王にすら影響力があるという名門貴族だ。その、次男ではあるが跡取り息子のアウグストは、歳が近いこともあって第三王子ヘンリーの友人である。王子でこそないが、その年齢にしては貴族らしい上品さを備えた顔立ちをしていた。
 アウグストはヘンリーの友人であると同時に、彼の兄であるドラクルの部下としても重用されている。もう数年も経てば実家のカルデール公爵位を継ぐだろうアウグストは、王国において国王に次ぐ地位にあるドラクル王子の腹心の部下だ。ヘンリー自身も異母とはいえ長兄であるドラクルを尊敬していて、このような顔ぶれで集まる事は少なくない。
「さて、アンリ。他に手があるかな?」
 盤上の遊戯は佳境を迎えていた。とは言ってもそれはすでに予想されていたことで、今になって形勢逆転のドラマが起きたわけではない。順調に、淡々と、阻むものもなくドラクルは駒を進め、弟の陣営を追い詰めていく。
色分けされ升目の描かれた盤の上に駒を置き、交互に自軍の王や騎士や他の駒を動かし相手の王を追い詰める。そのゲームは帝国では主に貴族階級に人気のもので、それはこの吸血鬼の王国においても例外ではない。昔、人間たちの文化から持ち込まれたその遊戯は、小さな盤上で擬似的に戦略を考えるのに適しているとして、特に支配階級でもてはやされているのだ。国や領地を治める立場にいる男性が好むが、女性でもこういったゲームに強い者は大勢いる。
「うわっ、タンマ! ちょっと待って!」
「タンマなし。喜べ、アウグスト。ヘンリーの飾り刀は君のものだ」
「ありがとうございます。殿下」
「ちょっ、頑張ってくださいよ! アンリ兄上!」
「だから――――」
 四人の盛り上がりに水を差すように、その時、部屋の扉を上品だが有無を言わせない規則正しさで叩く音がした。ドラクルの部屋に、そんな風に強気なノックをするものは珍しい。
「ドラクル殿下」
 部屋の主であるドラクルが入室を許可すると、姿を見せたのは彼ではなく、父につく世話役の筆頭侍従だった。第一王子である彼の父とはもちろん、このローゼンティア王国の国王、ブラムス=ローゼンティアのことである。王国で父に次いで身分の高いドラクルに対し、遠慮なく声をかけられる者など彼の上に立つ父の周辺でそれを指示された者ぐらいだろう。ローゼンティアは王家の血統を崇拝する習慣だ。
「何だ?」
「国王陛下がお呼びです」
 決着のつきかけている遊戯は、一時中断とされた。

 *

 薔薇の王国、ローゼンティア王国第一王子、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティアはその名と全ての民の期待に違わぬ名君となることがすでに信じられている。
 一つの《帝国》として成立する世界共通の暦である皇暦二九九三年現在で十七歳。すらりと伸びた背に、細身の体。しかしもともと筋肉のつきにくい体質である吸血鬼族にしては日々の弛まぬ鍛錬によって筋肉をつけ、端麗な容姿からは想像もしがたい実力を誇る。剣の扱いにかけては間違いなく王国一であり、その腕前は軍事国家である隣国の人間たちからしても目を瞠るものだという。他国と国交を開くことの少ないローゼンティアだがそれは意図的に鎖国しているわけではなく、魔族である彼らの習慣に隣接する人間たちの国家がとっつきにくさを感じているだけだ。この国にもっとも近い、国境を接する隣国エヴェルシードだけはそういうわけにも行かず、両国の間には適度の交流がある。エヴェルシード自体いまだ強烈な男尊女卑思考を持つ軍事国家であり、帝国成立の起源にも関わる国として他の国々から敬遠されているのも理由の一つにはあるのだろう。
 それはともかくとして、ローゼンティア王子ドラクルの手腕に関しては、人も魔族も関係なく、誰が見てもその才覚を認めるものであった。
 ローゼンティアの吸血鬼は、紙のように白い肌と白銀の髪、それに紅い瞳を持つ。耳の先が少し尖った形をしていて、人間に限りなく近い姿形をしながらその暮らしは人間とは大きく異なる。地上で暮らしながら昼夜逆転の生活を送る魔族たる彼らは総じて美しい容姿をしているが、その美しさは一歩間違えば人間の恐怖を煽るものにもなりうる。
 ドラクルの美しさも、そんな魔的な魅力を兼ね備えたものであった。元々は人を魅了する魔族としての特性を持つ吸血鬼の容姿には、彼らが望まずとも危うい魅力がある。意図的でないとはいえ放っておけば簡単に半鎖国状態になりがちなローゼンティアにおいて、彼は若くして政務をこなし、また外交の名手でもあった。常に堂々と背筋を伸ばして歩く聡明な若き王子の姿に、誰もがその目を奪われずにはおれない。
 そしてドラクルは何も容貌の美麗さと口先だけで国の第一線に立っているわけではなく、その執務能力の全てに関して、肩を並べる者がいないほど有能と言われていた。
 彼の父であるブラムス王も悪い君主ではなく、歴代の王の中では優秀な部類に入る。しかしそれでもドラクルの手腕が秀でている事は周知の事実であり、彼が父王の後を継いで即位すれば、ローゼンティア建国以来の賢王が誕生するだろうと噂されていた。もっとも、建国以来とは言っても寿命が五百年弱もある吸血鬼の国では、千数百年前に建国されたこの国の王はまだブラムス王で三代目なのだが。
 そんな、国の期待を一身に背負って立つドラクルにとっては、最近どうしても気にかかることがあった。
「国王陛下。……ドラクルです。私をお呼びと伺いましたが」
「入れ」
 男兄弟たちと部下と少年らしくゲームに興じていたところを父王に呼び出されたドラクルは、真っ直ぐに国王ブラムスの私室へと向かった。国王の命令に逆らうことなど、この王族の血統が絶対的に重視されるローゼンティアで許されることではない。しかし、漆黒の床に敷かれた赤い絨毯を踏む足が重い。繊細な彫刻を施された重厚な樫の扉の前に立った時、つい、逃出したいような衝動に駆られる。胃の腑に冷たいものを落とすその衝動をなんとか堪えると、彼は意を決して父王の寝室の扉を叩いた。
「おいで。ドラクル」
「……」
 肌の上を蛇が這うように、奇妙に優しい声が部屋の中へと足を踏み入れたドラクルを己の側へと招きよせる。息子であるドラクルの私室とは比べ物にならない広い部屋。そこに飾られた調度は、どれも高価だが幾つかはどこか華美で品に欠ける物も含まれている。
ブラムス王は長椅子ではなく、寝台へと腰掛けていた。命令に従ってその側近くへと歩み寄ったドラクルは、ふいに腕を掴まれて父王の胸の中へと倒れこんだ。
「申し訳ありま――」
「よい。そのままで聞け」
 慌てて身を起こそうとした息子の体を手荒に抱きしめると、王は口元を笑みの形に歪めながら、少年の耳元で囁いた。
「先日のマクダレード侯爵の件、上手く処理をしたようだな」
「……ええ。あの程度ならば、国王陛下のお手を煩わせることもあるまいと、こちらで判断いたしました」
 吸血鬼の体温は基本的に低い。けれど触れられた部分からはじっとりとした嫌な熱が伝わってきて、ドラクルは我知らず身体を震わせる。父王の腕の力は、無礼にならぬようさりげなくの言葉内で外すには静かに強すぎた。
 抱きかかえられた部分以外は、寝台にのりあげて絹の敷布の柔らかさを感じている。それが、たまらなく嫌だった。
「そうか。お前の執政能力には、正直国王である私でさえも頭が下がる」
「そんなことは――」
 ドラクルには気にかかっていることがある。先日から、どうも父王の様子がおかしい。
 ブラムス王はローゼンティアの玉座についてもう三百年ほどにもなる。他国と国交はさほどないがそれは戦争や情勢の不安もないということで、国内では建国以来の絶対王政が浸透し内乱の危険などないために一人の王の治世が長いこの国において、数百年を治めてから妻を娶り子を持つことなど当たり前だ。
三百歳を越したとはいえ、長命な種族である吸血鬼はもともと外見と実年齢が一致しないことが普通であるため、ブラムス王の容貌はまだ人間でいうところの三十過ぎほどである。顔立ちはローゼンティア王族の特徴として、美形揃いの吸血鬼の中でも最上級に属する。立ち姿は威風堂々とし、政務もそつなくこなす。彼の妻となることを望まない女性などこの国にはいないとさえかつては謳われた。
 ブラムス王には三人の妃がいる。一人目は正妃であり、ドラクルの母であるノスフェル家のクローディア。二人目はアンリやヘンリーの母、ライマ家のマチルダ。この二人は上級貴族の令嬢であるが、あからさまな政略結婚であるためにブラムス王との夫婦仲は芳しいものではない。むしろ王が真に愛しているのは、下級貴族からぎりぎり結婚を許される立場として最後に迎えた第三王妃、テトリア家のアグネスである。
 国王の血統が重視されるローゼンティアにおいては、正妃となり、その子が第一王位継承者となることは貴族の女の最重要課題であった。そのため、子どもたち同士の仲はともかく、王妃同士の仲は一口では言い表しがたい程に悪い。特に正妃たる条件としてほとんど差異のない貴族出の第一王妃クローディアと第二王妃マチルダの争いは凄まじいものがある。正妃と第二王妃の待遇は目に見えて違うことがその原因だ。
 そんな王妃たちの犬猿の仲はともかくとして、王国の兄弟姉妹たちは揃って仲が良く、また父王であるブラムスも、妻のことはともかく、彼女たちの産んだ息子と娘にあたる王子王女を父親として溺愛していた。
 先日まで、ドラクルもそう思っていた。父親がその子どもに与えるだろう当然の愛情を、信じていた。
「そこでドラクル、お前に一つ任せたい仕事がある」
「え?」
 ドラクルを抱きしめたまま、ブラムス王はそう言った。低い声には、薄暗い、何か黒い感情が含まれている。あの時と同じだ。先日、吸血鬼にとっては眠りに落ちる時間帯にあたる明け方に寝室に呼び出されたあの時と。窓の外が地獄のように明るかった。今はちゃんと、差し込む光は漆黒の夜のもの。ドラクルの身体が自然と強張り、それに気づいているだろうに知らぬげな微笑を浮かべたブラムス王は続けた。
「ああ。ドラクル王子。お前に、ロゼウスの教育を任せる」
「ロゼウス……ですか? 第四王子の。それはまた、どうして」
「どうしてでもいい。お前に命じる。あの子を為政者として一人前になるまでお前が育てるのだ。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。武芸も政務も外交も、できる限りをお前の手で仕込め。あの子がどこに出しても恥ずかしくない王子になるようにな」
「は……御意」
 ロゼウスの教育。思いもかけない言葉を聞いて、ドラクルは目を瞬かせた。そのままの顔で多少まだぼんやりとしながらも、頷く。
 ロゼウスとは、第四王子のロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。姓の共通性からも分かるとおり、彼はドラクルと同じく、正妃クローディアの息子、つまりはドラクルと二親血の繋がった実の弟である。年齢差は十歳で、向こうは今年七歳だ。
 その弟であるロゼウスの教育を、自分が? 教師役を行う存在として自分の能力が足りないとはドラクルも思わない。けれど、王子の教育は普通、特に優秀な人材として選ばれた教師が行うものだ。それをわざわざ第一王子である自分に命ずる王の意図が掴めずに、ドラクルは胸中で首を傾げる。実際にはその身を抱きしめる王の手が普段は髪に隠されているうなじにそっと触れているために、首が動かせないのだが。
「わかったな。ドラクル。お前はロゼウスを教育しろ。あの子を、最高の王に育てるつもりで」
「……わかりました」
 ブラムス王の言葉に不穏なものは感じるものの、ドラクルは頷くしかできなかった。
 最高の王。ロゼウスをそうしろ、と。けれど次の国王になる者としては彼の上に、第一王子であるドラクル自身と、第二王子であるアンリがいる。ローゼンティアの王位継承問題のややこしいところとしてこの順番の次に第三王子ヘンリーを抜かしてロゼウスが来るのだが、ドラクルもアンリも王子としての才覚はそれぞれ質こそ違えど充分で、明日の命が知れぬほど病弱だという事情を抱えているわけでもない。むしろそれはまた別の兄弟の方で、第一王子であるドラクル自身は勿論、弟のアンリも理由もなく玉座を諦める理由はない。
 これが、ドラクルとアンリの関係がブラムス王と言語を絶する仲で、ブラムス王がどうしても上の王子二人に玉座を継がせる気がせず、二人を暗殺して第三王位継承者ロゼウスを次代国王にしたいと言うのなら話は別だ。
 だがしかし、それならばわざわざドラクルにロゼウスの教育を任せる理由がない。むしろ、これから王位継承権を剥奪する相手に次代国王の教育を任せるなど矛盾と滑稽もいいところだ。一体ブラムス王は何が目的なのか。
 残念ながらドラクルの手持ちのカードからでは、その目的を今の時点で推測することはできない。王の奇行と呼んでも構わないその命令に、異を唱えることもないが疑問は抱く。一体どうして。
 黙りこみ思考していた時間はほんの数秒のことだった。けれどその瞬きのような間に、ブラムス王は息子を抱きしめる腕に力をこめる。
「陛下」
 王の腰掛けた寝台の軋む音がする。優しげな面差しのわりに力強い父親の腕に抱きしめられる多少の息苦しさと、この後どういった事態になるかという不安を感じて思わずそう呼びかけたドラクルの耳元に、再び低く、熱の込められた囁きが落とされた。
「頼むぞ、ドラクル」
 広い部屋にその声は、見えない壁に反響しているかのように深く聞こえた。
後はもう何も言えず、向こうから何か言われることもなく、危惧に反して何も起こらずにドラクルは王の御前から解放された。
 
 *

 部屋に戻ると、アンリがテーブルの上に撃沈していた。
「お帰りなさい、お兄様」
 可憐な声がドラクルを迎えた。先程まで男しかいなかった空間にそんな可憐な声の持ち主はいない。彼らの中の誰かがそんな声を出していたとしたら気持ち悪いことこの上ないが、そんな間違った意味で楽しい事態が繰り広げられていたわけではなく。
「ルース……それに、ロゼウス」
 ドラクルが国王の呼び出しを受けていた間に、彼の部屋にまた二人ほど客人が増えていた。客と言ってもその相手は妹と弟だ。第二王女ルース=ノスフェル=ローゼンティア。第四王子ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。どちらもドラクルと同じくノスフェル家のクローディア王妃を母とする妹と弟だった。
 そしてこの弟ロゼウスこそが、つい先程父王の命によってドラクルに教育を任された相手でもある。
「兄様!」
 ドラクルが戻って来たのを知ると、二親血の繋がった実弟はぱっと顔を明るくして駆け寄ってきた。今年七歳の弟ロゼウスは、長兄ドラクルにとても懐いている。
「ロゼウス。どうしたんだ?」
「ルース姉様が兄様にお話があるっていうから、一緒に来たんだ」
 足元に飛びついてきた弟を抱き上げて、ドラクルは仄かに笑顔を浮かべた。彼に抱えあげられたロゼウスも、ドラクルの幼い頃に瓜二つの容貌を花のように綻ばせる。
「いきなりおしかけてごめんなさい。ドラクル。ちょっと相談があったのだけれど」
 黒檀のテーブルを囲む人数は増えていた。もとより椅子は、部屋の雰囲気を壊さない程度に溢れている。薔薇のレリーフを施されたそれの一つに腰掛けた細い背中が振り返った。
「ルース、その話とは?」
 第二王女であるルースは、ドラクルより二つ年下、第二王子のアンリより一つ年下でヘンリーより五つ年上……つまり、今年で十五歳だ。ロゼウスに次ぐ王継承権第四位の彼女は、六人いる王女の中でも珍しく積極的に政務に参加している人物だった。
 とは言っても実際のところ、ルースという姫君の容姿は積極的、行動的、力強さという言葉からはかけ離れている。繊細王女と綽名(あだな)される彼女の印象は一言で言ってしまえば「儚げ」。強風が吹いたら飛んでいってしまうのではないかというほど可憐な姫君として有名だ。背の中ほどまで伸ばされた真っ直ぐな髪は見事な艶を持ち、瞳は常に憂いを帯びているよう。
いかにも深窓の姫君然とした容貌で、姉妹の中で最も大人しげな顔立ちをしている。が、実際の彼女がどんなものかと言えば、間違ってもそんなことはない。だいたい、ドラクルの妹でノスフェル家というローゼンティアにおいては一種独特の地位を占める家の出である母を持つ彼女が他の王子王女に比べて弱弱しいなど、そんなことあるはずがないのだ。確かに彼女の態度は気の強さを連想させるものではなく、口調も態度も落ち着いている。しかし強風が吹いたらむしろ飛ばされていく大男の腕を捕まえて支え、「大丈夫?」といつもの憂い顔で平然として微笑みかけそうなほど儚さとは程遠い女性。それが第二王女ルース。
「さっき、アンリの方に許可を貰ったからそれで済んだわ。私の今日の仕事はそれで終わりなの。そのままあなたが帰って来るまでと思ってここで遊んでいたのだけれど」
「勝敗は?」
 ロゼウスを降ろして椅子に腰掛けさせながら、ドラクルは尋ねた。
「三十戦二十八勝二引き分け」
「立派な戦績だ。そう落ち込むんじゃないよ、アンリ」
 アンリは決してルースに比べてこの遊戯における思考力や戦術を考える力が劣っているわけではない。むしろ天才で知られたドラクルと張り合えるアンリは、彼自身もドラクルがいなければ問題なく王位につくことを歓迎される優秀さである。
 そのアンリを、さして長い時間王の部屋に留め置かれたわけではないドラクルが帰るまでに三十戦もして大敗させたルース。彼女の戦績は確かに立派だが、盤に遺された駒の様子を見ると、どうやら相当にえげつない手を使っていることも垣間見えてしまう。
「だって、ドラクル、ルースがぁああ」
「おかげでドラクル殿下がいなくても私は儲けさせていただきました」
「アウグスト酷い! 一度くらい賭ける対象換えさせてくれたって!」
「だからその発言は、むしろ俺が傷つくから、ヘンリー!」
 賭ける相手を場を外したドラクルから中途参入のルースに変えたらしいアウグストはほくほくとした笑顔で、アンリに賭けていたヘンリーは悔しげに唇を噛んでいる。そして異母兄をこてんぱんにした妹姫は面差しだけは儚げに遠慮がちに微笑んでいて、負かされたアンリはテーブルに突っ伏して撃沈していた。
「こりゃあ酷いね。いや、逆に見事と言うべきか? ルース、今度から警備隊の戦術指南役でもやる? 父上に頼むかい?」
「まぁ。いいのですか? ドラクル」
「ちょっと待ったそれ俺の今の役職!」
 ドラクルが席を外していた間、弟妹と部下たちは楽しくやっていたようだ。先程の、自分の父親に私室で個人的に命令を下されただけなのにどんな公式の祭典や儀礼より緊張する謁見を終えたドラクルは、室内のそんな空気に知らず肩の力を抜く。燭台に灯る炎の色が暖かい。
「あ。そうそう。ドラクルお兄様、先程のあなたとアンリの試合だけれど、まだ途中でしたよね。盤はあのままで残しておいてありますから、続きをどうぞ」
 言葉と共にルースが席を立った。アンリの正面に当たるそこは、先程まで確かにドラクルが座っていた場所だ。言われてよくよく見れば、確かにゲームの駒やその盤はドラクルのものではない。ルースの移動に合わせてアウグストが二つ折りの盤を畳み駒を小さな箱に仕舞い始めたところを見ると、彼の私物らしい。
「ありがとう、ルース。それで、さっきの盤は?」
「これです。兄上」
「ありがとう、ヘンリー。待たせてすまなかったね。アンリ。では続きを――――え?」
 勧められて席に着き、元通りアンリとの勝負の続きを始めようとしたドラクルは、けれどヘンリーの差し出した盤を見て凍りついた。
「これ……すでに決着がついているのではありませんか?」
 何も知らないルースが極冷静にそう判断した。そう、途中だった勝負の決着がすでについている。駒の位置が変わっている。動かされたのは一つだけだった。けれど、その一つが問題だ。
「嘘だろ? だってさっきまでドラクルがどう見ても有利だったのに」
 黒と見紛う暗緑色の駒と、真紅の駒。盤面には薄く薔薇の絵が装飾として施されているその遊戯盤。緑を持っていたのはドラクル、紅がアンリ。確かに席を外すまではドラクルの緑がもう一歩で勝利というほどの優勢で、決着はすでについたようなものだった。けれど今、たった一つの駒の移動で形成が逆転し緑の王が紅の兵に討ち取られている。
「そういえば……先程ロゼウス殿下がそちらで何かしていたようですけれど」
 眉根を寄せたアウグストの言葉に、彼らは一斉にこの場で最年少の王子の顔を見た。七歳の少年は突然の注目を浴びて、きょとんとしている。
「ロゼウス、お前がこれをやったのか?」
 アンリが恐る恐ると言った体(てい)で尋ねると、ロゼウスは事もなげに頷いた。
「うん。それでいいと思ったんだけど、俺、間違ってた?」
 そもそもドラクルとアンリの試合を保存していたのだから駒を動かしてはいけないと注意するべきだったのだろうが、あまりにも無邪気に首を傾げられてしまっては、年端も行かない弟を誰も叱れない。
 むしろ一同は、そのロゼウスが打った一手の見事さに感服していた。
「凄いじゃないか! ロゼウス!」
「?」
 アンリが感激しきりの様子で、幼い異母弟を抱きしめる。いきなりの兄のその行動に、ロゼウスは大きな瞳をぱちぱちと瞬かせていた。ヘンリーが褒めるようにその頭を撫で、ルースは盤の局面からゲームの流れを読み解きながら難しい顔をしている。アウグストはそんな彼らの様子を一歩離れたところから見つめ、そしてドラクルは。
(凄い? そんなものではない)
 ロゼウスの選んだ手は、戦局の全てを覆す至上の一手だった。先程までこのゲームを支配していたドラクル自身だからこそわかる。ドラクルとアンリの勝負は誰がどう見てもドラクルが優勢で、アンリが勝てる道などどこにもないように思えていた。けれどドラクルが見落としていたその一手を、まだ七歳のロゼウスは見つけ出してきた。兵や騎士と名づけられた駒で王を討ち取る、勝率は実際の軍事にも通じると言われる、この遊戯(ゲーム)で。
 背筋に冷たいものが走る。
 ――ロゼウスを教育しろ。あの子を、最高の王に……
 父王の声が蘇り、暖かな部屋の中、ドラクルはいつまでも寒気を消すことができなかった。


002


 それは、突然に訪れた。
 ――お呼びでしょうか? 国王陛下。
 その日、父王の命により、ドラクルはその寝室に呼び出された。夜明けが近いというその時間帯は、夜に活動し昼に眠る吸血鬼にとっては、就寝間際にあたる。
 ――……父上? 
 その日、ブラムス王はいつもと様子が違った。
 広い室内の窓は開け放たれ、寒気が入り込んでいる。暦の上ではまだ秋の終わりであるために本格的な寒さに凍えかけたわけではないが、その外気の冷たさと白み始めた空の眩しさに、部屋に足を踏み入れたドラクルは自然と目を細めた。吸血鬼は光に弱い。
 白い髪と赤い瞳を持つ彼らは、どうやらもともと陽光に耐性のある色素を持つことが少ないらしい。それでも人間で言う白子(しらこ)とは違って、白の強いその色こそが色素の働いた結果だという。
 色素が薄いので陽光に弱い。朝陽を浴びた途端消えるなどということはないが、直射日光を浴びれば確実に弱る。
 もっとも、ローゼンティアという大陸端の大森林に囲まれた国はほぼ毎日天候が悪く、昼間でも薄曇で晴れていることなど滅多にない。
 通常は気にせず真夜中に活動し必要があれば真昼に行動することもあるのだが、ローゼンティアの一日のうちで少しだけ天候が回復するのがこの朝方という時間帯であった。紫の空が美しく見えるのが、ドラクルの目には眩しすぎる。
 そんな風に不用意に窓もカーテンも開け放している父の部屋の様子を見て、ドラクルは訝りに眉を潜めた。父王の様子は明らかにいつもと違う。開け放された窓もそうだが、おかしいのはテーブルの上。
 酒瓶が幾つも転がっている。庶民の好む安酒から国外から輸入した年代物の名品まで、ありとあらゆる銘柄が無造作に床に投げられていた。テーブルの上で一つのグラスは倒れ、罅(ひび)が入っている。もう一つは割れている。杯こそ二つ用意されていたが誰かと飲んでいたという様子もなく、これは明らかに自棄酒(やけざけ)の後だ。テーブルの上に零れた紫の液体。
 そして、罅の入った方のグラスの中を覗き込んでドラクルはますます眉を潜めた。中に入っていたのは、酒ではない。赤く濁り、粘性のある液体。それは血だった。
 吸血鬼の食事は人間の血液。しかし魔族よりも人間の数が多い世界でそんな無体を働くわけにもいかず、大抵は牛や羊の血などで吸血衝動を抑える。あるいは、魔力を封じる薔薇の花びらを砂糖漬けにしたようなものを齧り、空腹を宥める。
 吸血鬼にとって、人間の血は文字通り極上の美酒。酒などよりも遥かに、魅惑の深紅は彼らの脳髄をとろけさせ、酔わす。
 だからこそ彼らは、血を飲まない。特に人間の血を飲めば、思い出してしまうからだ。自らが圧倒的な力によって他の生き物を引き裂き喰らう魔族であるのだということを。
 それでもブラムス王が血を飲んだというのであれば、それは彼にとって余程の事があった時だろう。貴族どころか生まれながらの王族である彼が、酩酊して醜態を晒すチンピラのようになっても構わないと思うほどに酔いたかったのだと。
 ――国王陛下、一体何があったのですか?
 最近は国内外で情勢も落ち着いているし天候の崩れによる土砂崩れや洪水のような自然災害もない。王都をはじめとする治安はどこも良く、貴族間の諍いなども表面上は落ち着いている。何も心配するようなことはなかったはずだ。
 では何故父親がこれほどまでに荒れているのか。彼に何があったのか。その身を案じて天蓋付の寝台にだらしなく腰掛けていた父親のもとに駆けつけたドラクルの腕を、ブラムス王は強く引いた。思いがけない父親の行動に、体勢を崩してドラクルはその腕の中に倒れこむ。
 ――っ、申し訳ありませ……
 非礼を詫び起き上がりかけたドラクルの身体を、父親の力強い腕が引きとめる。振りほどけない。酔っているせいか体温が熱でも帯びたように高い。得体の知れない不安に、背筋にぞくりと寒気が走った。
 ――……父上、一体どうし――
 問いかけようとした唇は相手のそれに塞がれた。触れる、生温い熱。酒と血の香り。眩暈のするような。
 目を瞠(みは)り思わずそれがこの国の最高権力者であることも忘れ、男の胸を突き飛ばして身体を離そうとする。しかし、叶わなかった。そのまま乱暴に寝台へと突き飛ばされる。三百年を生きた吸血鬼の男に抵抗するには、まだ十七歳の少年など赤子も同然で。
 ――おやめください! 父上……ッ!
 開け放された窓の向こうは紫の夜明けで、差し込む朝陽は地獄の業火のように美しかった。

「――――――ッ!」
 ドラクルは飛び起きた。急に動いたために、次の瞬間、眩暈が襲ってくる。崩れかけた体を、寝台に手をついて支えた。
「な…で……、この前の……」
 ああ、あれは夢だったのか。一拍してようやくドラクルはそれを認識した。寝台の上に半身を起こしたこちらが現実。カーテン越しに窓から差し込む真昼の陽光で確認しても、目覚めまではまだ随分時間がある。吸血鬼の目覚めは本来夕刻で、眠りにつくのが明け方だ。
叫んだ自分の声さえも鮮やかな、あれは夢の中の出来事だ。けれど自らの妄想が作り出したまったくの虚実というわけでもない。あれは夢の中に見た、確かにあった過去の話だ。
 あの日の事は、一夜……時間帯としては昼だが……の悪夢としてドラクルの脳裏に刻まれている。思い出すのもおぞましく、何も考えられなくなる。現実があまりにも現実感を伴わず、ただ胸の痛みだけがあって、できれば思い出したくもない。
 あれ以来、ブラムス王の側に近づくのが怖い。国内で与えられている役職が役職だけに執務中は彼の側近くに侍(はべ)らないわけにもいかないのだが、できれば顔を合わせたくないのが本音だ。
 彼は何故あんなことをしたのだろう。
 自分は彼の息子だ。そう、息子なのだ。王子である。男である。そして自分たちの関係は親子だ。なのにどうして。
「ん……?」
 放っておけば考えたくもない、しかも現時点では答も出ないようなことまでまたぐるぐると考え出してしまいそうなドラクルの思考を引きとめたのは、手に触れた柔らかな肌だった。
「……何故ロゼウスがここにいるんだい?」
 うっかり手で踏みかけてしまった弟は、すやすやとドラクルの隣で寝息を立てている。普段の行動を見ていれば決して警戒心が乏しいわけではないのだろうが、ドラクルが飛び起きてもこちらは眠りから覚める様子はない。いくら第一王子であるドラクルの私室の寝台が四人、五人は楽に横になれる広さがあるからと言って、何故彼が。
 そこまで考えて、ああ、そういえば昨日は一つ、ロゼウスがなかなか解けない課題の面倒を見ていて、部屋に戻るのがいやだと駄々をこねる彼をそのまま泊めたのだったとドラクルは思い出す。
 わがままばかりで面倒をかけてくれる弟だが、こんな時は側に、気負わなくていい人の温もりがあることに安堵する。大事な、可愛い、弟。父と母、両方の血の繋がった、実の。
「……おやすみ、ロゼウス」
 無邪気に眠るロゼウスの、さらさらとした白銀の髪を優しく梳いて、ドラクルは再び眠りに落ちた。

 ◆◆◆◆◆

 皇歴二九九三年。
 時刻は人間たちならば眠りにつく真夜中、しかし吸血鬼にとってはこれからが活動の本番である時間帯だ。薄曇の空に白い月が明るく、城の外壁を伝う銀の荊がその光を受けて輝く。少し風の強いこの日は、国中に咲いた薔薇の香りが流れてくる。窓を開けていいですか、とヘンリーが言った。彼はドラクルの部屋に、自ら勉強道具を借りに来ていた。
「今日は、叔父上が来ていらっしゃるんですってね」
 ブラムス国王とフィリップ=ヴラディスラフ大公の不仲は有名だが、もちろん不仲だからと言って顔を合わせないわけにもいかない。政務の上で相談事がある時は、必ず大公は国王のもとへ赴く。
「あんまり城内をうろつきたくないや。あの二人の喧嘩に巻き込まれて面倒事になるのは御免です」
「ふふ。そうだね」
 十歳のヘンリーは王子としての才能は突出してどうということはないが、とにかく態度が落ち着いていて、この歳にしてすでに王子たるに相応しい人格だとして知られている。
 しかしドラクルとアンリのゲームの際に見せたような友とじゃれあう無邪気さも持ち合わせており、王子でさえなければ少しだけ賢い普通の少年と言えた。
 その彼は、父のもとへ叔父が訪れている事が不満らしく、唇を尖らせた。
 ヴラディスラフ大公フィリップ卿。今でこそ大公爵の地位を得ている彼は、ドラクルやヘンリーたちにとっては叔父にあたる、つまり、ブラムス王の弟だ。王弟フィリップは、兄の即位を国内でも快く思っていない存在であり、何かにつけてはブラムスの行うことに文句をつけるのが趣味のような人物だった。
「ヴラディスラフ大公閣下は、父上と南の領地のことで少し話があるらしいよ。私は挨拶に行くけれど」
「僕は遠慮させてもらってもいいですか?」
「かまわないよ。私だけで充分だろう。公式の行事でもあるまいし、兄弟全員で押しかけてもね」
 ドラクルの部屋で少し話をした後、二人はそれぞれ自らの役目に戻ることにした。そろそろ年若の王子たちは勉強の時間が迫っているので、ヘンリーが今日から一段高等になるという授業のためにドラクルが昔使っていた書き込みありの教科書を借りに来たのもそのためだ。一方ドラクルやアンリは執務で、その前に叔父に挨拶に行こうとするドラクルだったのだが。
「ん? ロゼウス?」
「兄様」
 専任の教師と違って執務の片手間にロゼウスの教育を命じられたドラクルは、いちいち教材をロゼウスの学習部屋に自室から運んでいくのはめんど……非効率だと考えた。
 そのため時間なら有り余っているまだ年少の王子を自室に呼びつけて勉学の面倒を見ていたのだが、今日は連絡が上手く伝わっていなかったのか、昨日と同じ時間にロゼウスが部屋へと来てしまった。
「ロゼウス。今日はドラクル兄上は忙しいんだよ」
 ヘンリーが弟の頭を撫でながら告げる。
「え、でも……俺」
「だったら、ロゼウスも叔父上に会いに行くかい?」
「兄上?」
「兄様」
 ドラクルはロゼウスを抱き上げる。十歳のヘンリーはもうしっかりとした少年らしい様子だが、七歳のロゼウスは幼年と少年の境だ。ドラクルはすらりと背が高く、ヘンリーならまだしも、ロゼウスと並んで歩くにはコンパスが違いすぎる。
「うん。行く! 兄様と一緒に」
 頷き、きゅっと細い腕を兄の身体に絡めてしがみついてきたロゼウスをそのまま抱いて、ドラクルはヘンリーと別れて国王と大公が顔を合わせている部屋へと足を運んだ。
「……だから……ディアのことに関しては……」
「……いう問題では……れにもともと……」
「それを言うならば――――」
 吸血鬼は聴覚もいい。ドラクルももちろんその辺りのことには優れている。分厚い扉が行く手を阻む部屋の向こうから微かに聞こえる話し声に、間違いなくそこに父と叔父がいることを確認して扉をノックした。
 薔薇の浮き彫りの施された重い扉も吸血鬼の腕力には問題なく、ロゼウスを抱えたまま片手で開けると室内から驚いたような視線が返ってくる。
「父上。叔父上、ご挨拶に……どうかしたのですか?」
 二人が終始仕事の話をしに来たのならばドラクルも相手を国王と大公だと意識し、かしこまった態度で接するのだが、今回ブラムス王が弟大公を招いたのは客室でも謁見室でもなく彼の私室。
 南の領地のことを建前に兄と弟として話をしている間だろうから、と大貴族を相手にするには少し砕けた態度で挨拶に赴いた彼を、室内の二人は驚いたように見つめていた。ノックをして向こうもそれを許可してからの入室なのだから、どこにも驚く理由などないはずなのだが。
「あ。ああ。よく来てくれた、ドラクル」
「?」
 先に我に帰ったのは、二人の兄弟の父親であるブラムスの方だった。二人の表情がそれぞれ崩れると双方の違いが表れてきて、ドラクルは少し安心した。
 先程部屋に足を踏み入れた時、こちらを振り向いたブラムスとフィリップはまるで鏡写しのように見えた。もともと漆黒と深紅で構成されたローゼンティア王城の一室は、視覚を惑わせるような内装だ。一枚の騙し絵のようなその光景に、時折眩暈がしそうになる。
 ローゼンティア国王ブラムスとヴラディスラフ大公フィリップの二人は実の兄弟で、それも双子だった。もともと顔立ちは瓜二つで、髪型を意図的に変えて他者に区別させている。しかしふとしたときの表情が、わかっていても間違えるほどにそっくりだった。
 そしてそれこそが、余計この二人の関係を複雑なものにさせる要因でもある。生まれた時間も顔も同じなのに、何故兄が王位について弟はいけないのか、とフィリップにはそれが不満らしい。
「ロゼウスも連れて来たのだな」
「ええ。叔父上に挨拶を、と思いまして……ほら、ロゼウス」
 ドラクルが床へと降ろすと、ロゼウスは素直に叔父であるフィリップの側へと歩み寄っていった。教えたとおりに礼をとる弟を横目に、ドラクルは父へと話しかける。ここにはロゼウスもフィリップもいるとは知っていながら、適度に距離を保ったままで。
「ハノーヴの堤防の件を片付けました。最新技術で強度を上げた、新たな包みを築かせるということで」
「そうか、よくやったドラクル。あそこの川の氾濫は、何度対処しても同じだったからな。また十年位したら同じ問題が起こると思うが。……ではお前もフィリップに」
「はい」
 ロゼウスと入れ替わるようにして、今度はドラクルが叔父の前に立つ。
 しかし。
「ああ。久しぶりだな、ドラクル」
 叔父の眼に、ドラクルは違和感を覚えた。先程ロゼウスに対しては通常通りか、微妙にいつもより冷たい眼差しをしていたような彼の眼が、自分を見た途端に和んだような気がするのは気のせいだろうか。
 ロゼウスがいくら愛らしげな少年だとは言っても国王になり損ねた彼から見れば王位継承争いの敵。それもいたし方ないこととして形式上穏やかな親戚同士のやりとりをする彼の眼が自らにも冷たくむけられると思っていたドラクルは、その些細だが重要な変化に戸惑う。
「あ……ええ。ご無沙汰しています。大公閣下」
「そう硬い顔をしなくても大丈夫だよ」
 ドラクルとフィリップが会話している横では、ブラムスが自らの子であるロゼウスを膝の上へと抱き上げていた。父と子と言えど、国王と王子であるからにはそんな風に接してもらえるのはロゼウスくらいの年齢までだ。
 もっとも、最近のドラクルは親子として自然な触れ合いとはまったく別の意味で父王に触れられてはいるのだが。
「なぁ、ドラクル。お前も話に混ざらないか。南の所領と、後はエヴェルシードとの外交のことについてだ。得意分野だろう?」
「ですが、私などがお二人の話に口を挟むなんてよろしいのでしょうか?」
「いいから。お前も力を貸しなさい」
 ドラクルが一瞬覚えた違和感に関しては、彼らは全く触れない。それまで続けていた話もあっただろうに、二人が来た途端に話題をすぐさま切り替えた。どうやら二人が話していた事は、ドラクルとロゼウスには聞かれたくないらしい。だからこそのわざとらしい話題変更だ。
 それを追求させることもなく、話は兄と弟の話から、第一王子を交えた政治的な話題に移っていった。

 ◆◆◆◆◆

 ローゼンティアは薔薇の国と呼ばれるだけあって、薔薇の花は一年中枯れない。季節を過ぎても盛りを衰えることのない花々が国中でその馥郁(ふくいく)たる芳香を放つ。
 ローゼンティアの国は薔薇に包まれている。王城も、街も、国を囲む大森林も、どこもかしこも。
 王城を囲む鉄柵にはこの国にしか咲かない銀の蔓を持つ荊が絡みつき、街中には他国でも一般的な普通の緑色の茎葉を持ち赤や白の花をつける薔薇が蔓延って赤煉瓦の外壁を飾っている。春であっても、冬であってもその花は枯れない。
 国土を包む大森林は黒に近いような暗緑色の葉をつける背の高い木々が並ぶが、その森林も木々の足元を見ればやはり荊が訪れる者を拒むように道を閉ざしている。魔力を持つ花に抱かれた、魔物の国。
 その中で暮らす吸血鬼たちは、けれど魔物という言葉ほどには恐ろしくもなく、凶暴でもなかった。
「ドラクル、アンリ」
 その日は、第一王女のアンがドラクルのもとを訪ねてきた。彼のもと、とは言うものの忙しいドラクルは私室を空けていることが多い。刻々と移り変わる情勢に気を配って不規則な時間に仕事を行うドラクルを、明らかに仕事中だろうと思われる時間に探すのはなかなか難しい。現に、ようやく彼の姿を見つけ出したらしい第一王女は、軽く息を切らしていた。
 ドラクルは執務室の一つで、弟王子のアンリと共に国の治安の問題について話しあっているところだった。勢いよく扉を開け放って登場したすぐ下の妹姫の姿に、羽根ペンを持ったまま穏やかに書類から顔をあげる。
「アン。どうしたんだい? 急に」
 第一王女のアンは、第二王子アンリとは同い年。そして母親は、王の寵愛深いと言われている第三王妃だった。
 とは言うものの正妃たる第一王妃の血統優先と女児より男児の継承権が高いローゼンティアでは第一子のアンが女性だった時点ですでに第三王妃が子ども同士の継承権争いに実子を参加させる事はほぼ不可能となり、そのために彼女は第一王子と第二王子と同時期に産まれながらも、そう言った骨肉の争いとはまったくの無縁に過ごしている。
「ちょっと時間ができたから菓子を焼いてみた。そなたたちも食べに来ぬか?」
 第一王女でありながら継承権十位の王女は気を張らなくていい立場のためか、ドラクルやアンリからすれば信じられないほど奔放に生きていた。奔放と言っても何か悪さをするわけでもなく、ただ時折妙なところに行ってしまうというだけだ。この喋り方もその一つで、兄弟姉妹のうちで何故か彼女だけがこのような喋り方をする。
 波打つ長い髪は頭の高い位置で一つにまとめられているが、もともとの髪質のためにそれでも華やかな印象を与える。年齢の割には豊満な肉体をしていて、堂々と胸を張るのでついつい男ならば振り返って見てしまうような美人だ。
 しかし目元がどうもきつそうに見えるために、彼女と近づきになりたい貴族の青年たちも、簡単には声をかけられないらしい。
「どうする? アンリ」
「ああ。これだけ終わったらすぐ行く。アン、他の奴らも呼んで待っててくれ」
「承知した……と言いたいところじゃが、そなたたち以外はすでに皆集まっておるぞ。ミカエラだけは今気分が優れないから後にすると言っておったが、他の者たちはもうみんなお茶の時間にしている。仕事仕事もいいが、二人もそろそろ休憩せぬか?」
「……わかったよ。アンリ、これの続きは後でいいかい? じゃ、行こうか。アン。場所は?」
「東の食堂。作りすぎてしまったからな。使用人たちにも配っておる」
 見た目は高慢な美女に見えると評判の第一王女は、その外見に反して気さくな性格だ。芯が強く凛々しいが、政治的な才能はほとんどない。
 けれど彼女をよく知る者は、その性格を慕って彼女についてくる者が多い。いい例が第三王子ヘンリーで、他の人間の前では賢しげな発言をするヘンリーもアンの前では顔を赤らめて年相応の少年の顔へと戻る。
「食堂一帯使って使用人たちにも配る量って……アン、お前どれだけ作ったんだよ……」
「わらわ一人ではない。ミザリーとロザリーとメアリーと、みんなでやったのじゃ」
「そんなに暇だったのか?」
「失礼な。わらわたちは元々予定していた行事の一つが潰れて時間ができてしまったのじゃ。アンリこそ、失敗をやらかしてなんぞドラクルに迷惑でもかけておらぬか?」
「あはは。大丈夫だよ。アン。それより、みんな、の中に赤ん坊のエリサはまだしもルースが入っていないことが気になるな。それに、君とメアリーはともかく、ミザリーとロザリーの二人って、料理できたっけ?」
 アンの後に続く形で、王子二人は使用人用の食堂に向けて廊下を歩く。王族や来賓が食事をとる場所は晩餐室と呼ばれるから、単に食堂と言う場合は使用人たちが食事する場所のことを指す。使用人の食事にしろ王族の食事にしろ作る厨房は同じなので、アンたちもそこを借りて菓子を作ったのだろう。
 吸血鬼国家に限らず、普通貴族の令嬢や王女など、高貴な身分にある者は料理などしない。それらは全て使用人のするべきことである。と、考えるのが一般的なのだが、現在この国の王女たちは揃いも揃ってそういった形式に拘らない規格外の人物ばかりである。
 そしてそれ自体は王族だからと偉ぶっておらずいいことなのかもしれないが、問題は一部の者の行動力と実力が激しく釣り合っていないことだった。
「うむ。まずは最初の質問に答えよう。ルースのことはな、探したのに見つからなかったのじゃ。あの娘はドラクル以上に雲隠れが得意じゃからなぁ。ミザリーとロザリーに関してはな、それは素晴らしかったぞ」
「え? あいつらとうとう成功したのか!?」
「いや、いつも通り失敗じゃ」
 不器用で有名な王女二人に対する「素晴らしい」という評価を聞いて一瞬喜びの表情を浮かべようとしたアンリを、アンが蝿を払うように奈落へと叩き落す。自覚はなしに。
「それはそれは凄かったぞ。西の食堂は白い災害に襲われて全滅じゃ。あの二人が何をどうするとそうなるのかぜひ理論立てて説明してほしいようなことを仕出かして、世界を地獄に染めておったものじゃ」
「……」
「……」
「気づいたら大量の、それこそ王族だけの分なら何か月分の食事になるのだろうという量の小麦粉を持ち出してな。わらわとメアリーで必死にそれをかき集め、作っては焼き、作っては焼きしたのじゃ。おかげで今東の食堂はヒトデ型クッキーの山じゃ」
「だから使用人たちの分もかい。それにしても……なんでヒトデ?」
「材料を食せるものにできるだろう見込みがなかったので、せめてもと形成を任せたらそうなった。二人の感性はよくわからんな」
「いや、それって多分星型を作ろうとして失敗したんだと思うよ……?」 
 アンの言葉から察するに、どうやら本日の菓子作りの結果は凄いことになっているらしい。それの後処理を誰がやるのだろうと考えて、ドラクルは思わず頭を抱えたくなった。
 そんなことを話しているうちに、一階の食堂に辿り着く。アンの言葉に偽りはなく、そこには正しくヒトデ型のクッキーが並んでいた。普通なら不格好な星と評してやるべき形が、どう見てもヒトデにしか見えない。これも一つの才能なんじゃないかと自分を誤魔化しつつ、ドラクルたちは一画に集まった兄弟たちのもとへと向かった。
「あ。姉様おかえりなさい。兄様たちも、おはようございます」
「おはようございます。おにいさま」
「おはよう。ヘンリー、ジャスパー、メアリー」
「なんだか凄いことになってるみたいだな」
 文字通り山盛りのクッキーを横目で見ながら、ドラクルたちはそう言った。使用人たちにも配っているという言葉は伊達ではなく、向こうのほうではこの事態の元凶となったロザリーとミザリーがひたすら小袋にできあがったクッキーを詰めている。その更に向こうでは、今年二歳のウィル王子に慎重に細かく砕いたクッキーを食べさせる第三王妃の姿などもあった。
「さて。ドラクルたちも遠慮せず食べていけ。今、茶を用意する」
「ありがとう、アン」
 ドラクルたちが席についた頃、ちょうど食堂の扉のほうから、また誰かが入ってきた。
「あ、ドラクル兄様とアンリ兄様がいる」
「ロゼウス。お前はどこ行ってたんだ?」
「西の食堂の片付け、指示出してって、アン姉様が」
「本当にやってきてくれたのか? 冗談じゃったのに。偉いぞロゼウス」
 髪やら頬やらを粉だらけにしたロゼウスが入ってきた。どうやらアンと何かやりとりをしていたようで、先程ドラクルがちらりと気にした西食堂の後片付けの話をしている。そこで使用人たちに幾つか指示を出して戻ってきたようだが、その粉だらけの姿では間違っても椅子に座れない。
「どうしよう」
「うわー、すげぇ粉だらけ。これ、落ちるのか? っていうかミザとロザの二人、一体何を作ったんだ? 髪がべたべただ……」
 ロゼウスの白銀の髪が、黄色がかった粉で汚れている。粉だけならまだしも、何か接着剤のようにねばついてしまってとれない。
「これはもう、髪を切るしかないね」
「えー!」
「まぁ、ちょうど伸びてたし、いい頃合だったんじゃないかな」
 唇を尖らせるロゼウスを宥めると、ふいに表情を明るくしたその弟は言った。
「だったら俺、ドラクル兄様みたいな髪がいい!」
「え?」
「って、兄様の髪型と同じのにしたいってこと? ロゼウス、何言ってるのさ!」
 粉だらけの顔と髪で笑うロゼウスを、ヘンリーが嗜める。
「駄目なの? なんで?」
「だって同じ顔の人間が同じ髪型してたらややこしいだろ!」
「ヘンリー……そういう問題なのか?」
 ヘンリーは何故か、すぐ下の弟に厳しい。アンリがそれにツッコミつつ、ドラクルに困った顔を向けた。
 ドラクルの髪型は、頬の両横に長めの鬢を垂らし、他の場所は肩につかない程度の長さに切り揃えている。優しげな顔立ちではっきりとした短髪は似合わない、という話だがアウグストやヘンリーのように長髪にして結ぶのも面倒だということで、そうなっている。ならば生き写しのロゼウスにも勿論似合うだろうが。
「ドラクルの髪型と同じに、というのはちょっと、どうかと思うぞ? 特徴があるから、二人いると何か違和感が……な?」
「そうですよ! だからロゼウスは駄目だ。いつも通りに切ってもらえばいいじゃないか。たかが髪のことぐらい」
 ある意味話の元凶となったアンが頬をかき、ヘンリーが強く反対する。その剣幕に、ロゼウスが瞳を潤ませ始めた。
「だって……だって俺……」
「ま、まあまあ二人とも。私が髪型変えるから」
「「ドラクル!!」」
「もともと私とロゼウスの髪の話だろう。二人がそんなにムキにならなくても」
 妹弟をまとめて宥めるドラクルの横では、アンリとメアリーがひそひそと声を交わしていた。
「自覚なしかよドラクル……」
「アンおねえさまもヘンリーおにいさまもドラクルおにいさまがお好きですものね……」
 ちなみにアンリは十六歳だが、下から四番目の子どもであるメアリーはまだ五歳。五歳児にまでいろいろと見抜かれているアンとヘンリー。
 そんなやりとりには気づく様子もなく、ドラクルは泣く一歩手前のロゼウスを慰めた。
「ほら。ロゼウス。切ってあげるから、こっちにおいで。誰か、湯で絞った布を部屋に運んでおいてくれないか?」
「兄様!」
「ヘンリー。そんなに怒るものではないよ」
「だって、こいつ子どもだからってわがままを!」
「確かにお前は年齢の割には大人びているよ。でも同じ事をロゼウスに要求しても無理だろう」
「でも!」
「ほら、ヘンリー『だかが髪のことくらい』だろ?」
「っ!」
「ほら、わかったね。ロゼウス、行くよ」
「うん」
 二人が食堂を出て行った後、ヘンリーが唇を尖らせ、憎憎しげに呟く。
「ロゼウスのヤツ……」

 ◆◆◆◆◆

 ドラクルは召し使いに命じて、ロゼウスと共にいったん自室へと戻った。全身の粉を落とさせてから、侍女が用意した熱い湯で絞った布を用いて丁寧にロゼウスの髪を拭いた。できるかぎりの汚れを拭き取っていく。
 それでもやはり、べとついた粉の塊が幾つか残ってしまっている。
「……じっとしているんだよ。ロゼウス」
 チェストの引き出しからナイフを取り出す。まずは汚れを周辺の髪ごと切り取って、そこに合わせて髪を切りそろえる。不揃いになってしまった髪を誤魔化すように、綺麗に切りそろえる。本来ならこれも専門家の仕事だが、この場ではドラクルが手ずからロゼウスの髪を切る。ザリ、と音を立てて、白銀の髪が床に広げた布の上に落ちた。
「できたよ」
「ありがとう、兄様!」
 ナイフをテーブルの上に置いて声をかけると、ロゼウスが感触を確かめるように、こわごわと己の髪に触れる。
 ひととおり触れて納得したのか、先程まで泣きそうだった顔にパッと明るい笑顔を浮かべてロゼウスはドラクルに飛びついてきた。
「ありがとう! ドラクル兄様、大好き!!」
「どういたしまして。もう行っていいよ。みんなに見てもらって、できあがりを確認してもらっておいで」
「うん!」
 言うと、ロゼウスは素直に駆け出していった。
 弟が何を思ってあんなふうに私の真似をしたがるのかは知らないが、喜んだのならそれでいい。この部屋には鏡がない。というか、この国に鏡なるものは一つもない。
 己の姿を確認する手段は池や湖に映る自分の姿を見るか姿絵を画家に描いてもらうよう依頼するか……もしくは人に見てもらうかだった。さきほどドラクルが一通り確認したとはいえ、見落としがあるかもしれないから他の者にも見てもらった方が確実だろう。
 ヘンリーはああ言っていたが、兄が弟に譲歩してやるのは、当たり前のことだ。すぐに自分の真似をしたがり、先程も飛びあがって喜んでいたロゼウスの様子を思い出して、ドラクルは苦笑する。
 けれど、切り落とした髪、小麦粉の汚れ、着替えた服、汚れ物である濡れた布。それらをいったん片付け、また床に新たな布を広げて、その段階になるとさすがに溜め息も出てしまう。
 ドラクルはもう一度ナイフを取り上げて、今度は己の髪にそれを押し当てた。


003


 激しい雨の中を一頭の馬がひた駆ける。その背にまたがる者は雨除けの外套を被っていて、顔が見えない。フードの端から覗く白い髪が乱れ、頬に張り付いている。
 雷鳴が轟いた。天候はすこぶる悪い。
 時刻は勿論真夜中だ。吸血鬼たちの活動時間帯は夜だから、この時間に外出する者がいること事態は珍しくない。ただ、こんな土砂降りの中を、馬を走らせ強行軍で出歩く者がいるのは珍しい。せめて馬車を使えばまだ濡れずに済むだろうものを、彼は鞍もつけぬ馬にそのまま跨り、ひた駆けている。よほど急ぎ、焦っているようだ。
 空は強すぎる雨を降らせる雲のせいで、夜中だと言うのに逆に灰色に明るいくらいだった。時折轟音を立てて落ちてくる雷も遠く、けれどその響はこの上なく不吉なものを胸にもたらす。
 それでも冷たい雨に濡れること以上の理由で青褪めて、ドラクルは馬を走らせた。ぬかるむ地面を踏んで頬にまで泥が跳ねる。もともと体温の低い身体は蝋を塗って防水を施したにも関わらずずぶ濡れになった外套越しにも染みこむ雨のせいで凍えている。手綱を握る手は氷のようで、噛み締めた唇には血が滲んでいた。吸血鬼の凍えた血が。
 目指す先は、ローゼンティア王城からは少し離れた離宮の一つだった。街中を突っ切るのではなく、一度市街地を出てしまえば後はひたすら森の中を行くので限界まで馬をとばしても誰かを撥ねる心配がないのだけが救いだった。
 雨の道は暗く、夜の空は暗く、誰もいない道は暗く。
 けれどそれ以上に、凍えて真っ暗なのは胸のうちだった。
強すぎる雨が血を叩く音以外全てを世界からかき消し、まるで自分は世界に一人取り残された者のようだった。神の救いもここには届かず、ローゼンティアの魔を封じるはずの薔薇の香りも、この雨に洗い流されてしまっている。
きっと明日の朝は酷いことになっているだろう。国中に咲いている薔薇がこの雨に散らされて、道には赤い残骸が散り敷くのだ。深紅の血のような薔薇色が闇色の土に降り注いで、ぬかるむ大地は底なしの沼のようなのだろう。深く深く、一度沈んだら決してあがっては来られない、そんな泥沼の闇。
 離宮が見えて、ドラクルは一度手綱を引き絞った。門は堅く閉じられていて、強行突破はできない。何よりまず無礼だ。速度を落として守衛室に歩み寄り顔を出して名を告げると、国中知らぬ者のいないその顔を見て、初老の男は仰天した。他の平民ならばこんな激しい雨の中護衛も連れずに一人訪れた世継ぎの王子の姿に半信半疑だったろうが、ここは何しろかのフィリップ=ヴラディスラフ大公の住まう離宮。国王にそっくりな主君にそっくりな第一王子の顔を見間違うわけはない。
 そう、国王ブラムスと、彼の双子の弟であるフィリップ=ヴラディスラフ大公はそっくりだった。同じ血を分け合い、同じときに生まれた兄弟だ。だからこそ、ブラムス王に生き写しだと言われるドラクルもかの大公の若かりし頃に、よく似ていた。
 すぐに屋敷に通されて、飛び出てきた執事がうろたえながらも主君のもとへと案内する。漆黒の壁に赤い絨毯を敷かれた廊下を早足に歩きながら、ドラクルは正面を睨み続けていた。いつも穏やかな彼の様子しか知らない使用人たちは、何事があったのかと擦れ違うたびに驚いた顔をしてとりあえず礼をとる。普段はいちいち笑顔を絶やさないドラクルも、今日ばかりはそれに目もくれない。
「こ、こちらです王子殿下」
「ありがとう」
「あの、本当に湯の支度はせずとも大丈夫なのでしょうか」
「いい。いらない。大公閣下に話があるだけだ。それもすぐに出て行くから、構わずともよい」
「そ、そうは言われましても」
「命令だ。私が大公閣下と話をしている間、誰もその部屋に近づくな。近づくことは許さない。この禁を犯したものは」
 一瞬立ち止まったドラクルの深紅の瞳が、主人もとへ案内する召し使いを睨んで鈍く光る。
「殺す――――」
「ヒッ!」
 十七歳の少年のその眼光がどれほどの迫力だったというのだろうか、執事は恐ろしいものを見たというように、がたがたと震えだす。
 それには構わずに、ドラクルはヴラディスラフ大公フィリップのいる部屋を教えられると、ノックもなしに乱暴にその扉を開け放った。
「おや、ドラクル殿下」
 バンッ、と重厚な樫の扉が軋むほどの勢いで開けて部屋に踏み込んだにも関わらず、中にいたヴラディスラフ大公は涼しい顔をしていた。長靴の音はよく響く。潜めもしない足音から誰かがこの部屋に向かっている事はすでにわかっていたのだろう。そして涼しい顔など、王族のお家芸だ。支配者という存在は、大抵のことでは驚いた顔などしてはいけない。
 けれど今のドラクルの状況は、とうていそんなことを言っていられるものではなかった。
「大公閣下、聞きたい事がある」
「なんです? 殿下」
 執事が青い顔でこの部屋の周囲から逃げたのを確認してから、単刀直入にドラクルはそう切り出した。
「あなたが、私の本当の父親なのか?」
「――――ッ!」
 ヴラディスラフ大公フィリップは一瞬、その瞳を大きく瞠った。
 それは本当に一瞬だけ。静まり返った室内に、ドラクルの外套からぽたぽたと滴る雫が絨毯に染みこむ音さえ聞こえそうなほどの静寂。
 パチ、と暖炉の中で橙色に爆ぜた薪がその静寂を破った。
「ああ……」
 酷く感慨深そうに、フィリップという叔父は呟く。
 叔父だと思っていた、父親は呟く。
「とうとう、お気づきになられたのですね」
「……ッ!」
 遠回しな肯定の言葉に、半ば覚悟していたことのはずなのにドラクルはやはり衝撃を受けた。濡れた髪を振り払うように二、三度ゆっくりと頭を振り、覚束ない様子で後ずさる。
 その事を知ったのは、つい先程だった。伝えてきたのは、妹の第二王女ルース。ドラクルと同じく正妃クローディアから生まれた、同母妹。のはずだった彼女。
 ――あなたに、言わなきゃいけないことがあるの。
 普段から繊細王女などと呼ばれる外見に反して芯の強い妹が、躊躇いながら口を開いた。
 ――あのね、私この前、聞いてしまったの……叔父様と、お父様の話。それに、お母様が―― 
 やめてくれ、と。
 悪夢だ。寝言だ。そんなことは全く根拠のない出まかせだと。
 だけど一刀両断に切り捨てるには、ルースの言葉には真実味がありすぎた。惑うような彼女の瞳に、けれどドラクルを騙そうとするような気配は微塵もない。
 ――ドラクル、あなたは、いえ、あなたも含めて私たちは……私たちきょうだいの半分近くは、お父様の子どもではないのですって。
 こんな雨の中危険だと、ルースの必死の制止の声も聞かずにドラクルは城を飛び出してきた。厩舎に赴くと、驚いている馬番のことも気にもせず、鞍もつけない馬にそのまま飛び乗って雨の中を走らせた。
 空が一度白く輝き、次いで雷鳴が轟いた。窓硝子の向こう、雷が落ちる。窓を背に立つフィリップの表情はその影になって、見えない。この時間だというのに、部屋の中は薄暗く、燭台に一つ火が灯るだけだった。
 フィリップは立ち上がり、腕を広げる。
 ゆっくりとこちらへ歩み寄る。
 また、窓の外が光った。先程の場所から少しだけ移動した男の口元が今度は見えた。彼は笑っていた。
 冬の雨の中外套一枚で駆けてきたためにずぶ濡れであることも構わず、フィリップはドラクルを強く抱きしめる。
 その腕の強さは、まるでこれまでずっと離れ離れになっていて、やっと出会えた運命の相手を抱くように、強い。
 振りほどけない。
 あの日の父……ブラムスの腕のように。
「ああ。ようやく気づいてくれたのか。我が息子よ」
 その言葉に、ドラクルの膝から力が抜けて崩れ落ちた。
「どうし……て」
「復讐だよ。私の。いや、私とクローディアの。私たちから、兄上ブラムスへの」
 兄王への復讐だ、とうっそりとした笑みを湛(たた)えながら彼は言う。
「復讐……?」
「ああ。そうだよ。本当はあの玉座は、私のものになるはずだったのだから。私の方が兄より王に相応しいんだ。なのに、ほんの数分生まれるのが早かったというだけで、あの男が全てを持っていった」
 フィリップは王になりたかったのだと言う。だが、それで何故母の名が出てくるのだろうか。ドラクルにはわからない。
 ドラクルがローゼンティア国王ブラムスの息子ではなく、ヴラディスラフ大公フィリップの息子である。それと、彼の復讐と、何が。
「噂だけなら聞いたことがあるだろう。十八年前、つまり君が生まれる直前、ブラムスの三人の妃たちは争っていた。もっとも、第三王妃がその頃に身篭ったのはただの偶然で、真に争っていたのは第一王妃クローディアと第二王妃マチルダだけだけどね。彼女たちは王の寵愛を得ようと必死だった。子どもが生まれるのと生まれないのとではその後の立場が全く違う。そして、その子が男であるならばなおさらだ。普通なら正妃であるクローディアの方が立場が上だけれど、それでも彼女に全く子どもができず、第二王妃と第三王妃にしか子どもが出来なかった場合、正妃の立場に意味がなくなってしまうからね。だから彼女たちは焦っていたんだよ。何でもいいから王の子を孕みたくて仕方なかった」
「何でも、いい?」
「ああ。そうだ。例えばそれが、王の目を誤魔化せるならば、王と同じ顔をした王弟の子でもね」
 フィリップはその端正な面差しに、部屋の薄暗さのせいだけではない、陰鬱な影を浮かべて続ける。
「クローディアは子どもを欲しがっていた。何としてでも、第二王妃よりも先に。第二王妃の方も同じだ。兄上とは相性が悪いのか、二人ともなかなか子ができない。だから、私に取引を持ちかけてきた」
「母上、が?」
「ああ。そして私もそれに応じた。最も、取引をしたのはクローディアだけではないが……。兄上は贅沢だね、二人とも家柄は文句無く高貴で美しい女性だというのに、一体何がご不満だと言うのか。全てを持っているくせに、まだ選り好みをしようというなんてね」
 その赤い瞳には、淀んだ光が浮かんでいる。
「だからね、これは復讐なんだよ、ドラクル。全てを奪ったあの男への」
 ブラムス王の弟である大公フィリップは、彼の双子の弟だ。だから顔立ちは瓜二つで、細かな癖や仕草や好みも同じ。
 だからこそ、その子どもとブラムス王の子どもとの区別などつかない。社交界では数々の浮名を流しながらも、大公フィリップにはまだ子どもがいないと公式には言われているが、それがまさか。
「どうして……なんで、私、が……」
「どうして? イヤだな。ローゼンティアきっての聡明な君ならばわかるはずだろう。ねぇ、第一王子、世継ぎの王子、ドラクル殿下。あの男の子どもではなく、私の息子が次の王になる。これ以上の復讐が、あると思うのかい? この血統を重視するローゼンティアにおいて」
 そのために。
「そのために、私は生まれたのか。そんなことの、ために」
「ああ」
 濡れたままのドラクルの身体を、なお強くフィリップは抱きしめる。その強さはフィリップの持つ感慨の強さを表わしていたが、相手を思いやるでもなくただきつく、意志を持たぬ物でも抱きしめるようなその手にドラクルは自分が彼の道具でしかなかったことを悟った。
「愛しているよ。私の息子。私の切り札。さぁ、この父に、我が復讐が成り立つところを見せておくれ。私の息子であるお前が次代の玉座に座るところを。ブラムス王の子ではなく、このフィリップの息子こそが、この国史上最高の王となるところを」
 お前は本当によくできた王子だよ、そう耳元で囁く声に、吐き気がする。男の言葉は歪んだ熱を帯びている。この男の目には、空ろな憎しみしか映っていない。
 そしてまた二言三言、何事かをドラクルに囁く。
「……嘘だ」
「本当だよ。ドラクル、だから」
「そんなこと嘘だ!」
 思い切り叫び、ドラクルはフィリップの腕を振り払った。本気で突き飛ばした男の身体が吹っ飛び、部屋の奥のテーブルに激突する。
「あなたは馬鹿だ! 最低の大馬鹿者だ! なにが復讐だ! 私が陛下の本当の子より優れていて次の王になれればあなたの復讐が成り立つ? 愚かしい。そんなもの、例え正統な子ではなくとも努力で玉座を勝ち取れることを証明するだけじゃないか! つまりフィリップ=ヴラディスラフ、あなたはブラムス王に玉座を奪われたのではなく、あなたがブラムス王に劣っているから玉座を手にできなかったのだろう!!」
「なっ……!」
フィリップが絶句する。凍りつく彼の様子に見向きもせず、ドラクルは踵を返した。
「待ちなさい! ドラクル!」
 待つわけがなかった。
 驚く使用人たちの目も気にせず、ドラクルは走り出す。どこかで誰かにぶつかってもかまいはしない。もう、何があったって。
 生憎と誰と激突することも咎められることもなく、ドラクルは大公の離宮を出る事ができた。厩舎に繋がれ馬番の手から餌を貰っていた馬の手綱を半ば無理矢理奪い返す。常にない彼の乱暴な所作に怒るよりもまず先にぎょっと目を剥いた馬番の様子に構わず、今度は王城へと戻るために馬を駆けさせた。
(父上)
 胸の中にあるのは、ただひたすらに、これまで父親だと思っていた人のことだ。
(父上、父上、父上!)
 ブラムス王は、特段優れていてこの世に代わりのいない名君……というわけではない。
 だけどドラクルは尊敬していた。常に穏やかで、民にも部下にも子どもたちにも優しかった父。確かに第一王妃と第二王妃との仲は芳しくはなかったかもしれない。だけれど、子どもたちには……自分には優しかった。
 こんなこと、何かの間違いだ。 
 あんなのは、フィリップが勝手に言っているだけの虚言だ。母は浮気などしないし、王は間違いなく自分の父だ。
 けれど、また別の声がどこからか聞こえてくる。
 本当にそうか? 彼の胸に影を落とす一つの出来事がある。先日、自分はあの人に何をされた? 夜明けの光差し込む、薄暗い部屋。
 それでも一筋の、髪の毛一本ほどにもすぎないたった一つの希望に縋りたくてドラクルは馬を走らせる。雷の音も土砂降りの雨も気にならない。薔薇の香りは聞こえない。
 王城に戻ってくると、出てくるときと顔ぶれの代わっていない馬番の男たちに無理矢理手綱を押し付け、ずぶ濡れの衣装を着替えもせずに、真っ直ぐに父王の執務室へと向かった。この時間帯は間違いなくそこにいると、彼の仕事を普段から手伝っているドラクルだからこそわかっている。
濡れ鼠で廊下を走る第一王子の姿に臣下たちは仰天しつつ何も言えず、戸惑いながらその背を見送った。普段温厚なドラクルが、怒りと不安を織り交ぜたような顔を人前ですることなど滅多にない。
「ドラクル――」
途中、そもそもこの事態の発端となる情報をもたらしたルースと擦れ違ったが、彼女のことさえ今のドラクルは無視した。
「父上!」
 悲鳴のような声で叫びながら、執務室の扉を挨拶もなしに開ける。中にはブラムス王ともう二人、執務を手伝う大臣たちがいた。これまで廊下で会った使用人たちと同じようにぎょっとする彼らには構わず、ブラムス王は顔を上げて自らの息子とされている少年の様子を見る。その顔は、普段と変わらない。
「どうした? ドラクル。執務中は親子であっても王と臣下だ。気安く呼んではならぬ、と言ってあるはずだ。……お前、ずぶ濡れじゃないか? どうしたんだ?」
 外套も髪も何もかも濡らして全身から水を滴らせ、青褪めた様子のドラクルにブラムスはいたって普通に声をかける。先日とは打って変わって、これまでどおり、十七年間ドラクルが父親として尊敬していた頃のブラムス王の態度だ。変わらないその様子に、思わず涙が溢れそうになる。
「ち……いえ、国王陛下。失礼、いたします。ですが……内密に、お話したいことが、ございまして……」
 切れ切れになんとかそれだけ言うと、ブラムス王は二つ三つ部下に指示を出して席から立ち上がった。
「わかった。話を聞こう。ただしその前に、その格好を何とかしろ。身体を壊してしまうぞ?」
「は……い。ですが、早急に、確認したいことが……」
「わかった。話なら聞く。だがその濡れ鼠のままでは話にならん。ひとまず私の部屋に一緒に来い。そこで着替えながら話せ」
「はい……」
 ドラクルの腕を掴み、ブラムス王は僅かに早足になりながら自室へと向かった。途中行き会った侍女にドラクルの分の着替えを用意するよう告げる。部屋へ戻るとすぐに、ドラクルの外套を脱がせる。分厚い外套を脱ぎ捨て、同じようにずぶ濡れの長靴もこの際だからと脱いでしまったところで、先程の侍女が着替えを置きに来た。
「下まで見事に水浸しじゃないか。一体何をしたらこうなるんだ?」
 シャツもズボンも、もちろん大きな声では言わないがその下の下穿きまで。あれだけの土砂降りの中を外套一枚で遠乗りしたのだ。雨の勢いはいまだ止まず、雷はごろごろと鳴っている。獰猛な獣のように灰色の夜空が唸り、時折神の火のように光る。
 やれやれと言った表情で侍女にまずは外套を運ぶように指示してから、ブラムスはからかうように聞いた。男物の外套、しかも濡れたものは華奢な女性の手にはあまる。他に人手がないためか、外套と長靴だけをまずは洗濯室へ置きに行こうとする侍女の足音が遠ざかる。
「……レンフィールドの離宮で、叔父上と話をしに馬を駆けたらこうなりました」
 せっかく持ってきてもらった着替えの服にも手をつけないままに、ドラクルは言った。
「レンフィールド……? フィリップのところか? 何をしに、行ったと?」
 その名を出した瞬間、スッとブラムスの眼差しが険しくなる。
「私、の」
 詰まる喉を懸命に宥め、ドラクルは口を開いた。
「私の、父親は――」
 けれど最後まで言わせてはもらえなかった。
「聞いたのか」
 ダンッと音を立てて体が扉脇の壁にぶつかる。いや、ぶつけられる。骨を折りそうな勢いで、ブラムスはドラクルの肩を掴んでいた。
「誰に聞いた。フィリップか。それともクローディアか」
苦痛に、ドラクルは秀麗な面差しを歪める。
「父上、知って……」
「ああ。そうだ。もっとも、気づいたのはつい最近のことだがな。あの二人の企み、弟と妻の私への裏切りに気づいたのは」
 ブラムスの顔が一瞬にして歪む。その歪み方は苦痛に眉根を寄せるドラクルとは違い、どこか触れない場所に患部があって、いつまでもその痛みを抱えている者の歪み方だった。
柔和で温厚と言われる常の様子とは一変して、彼はこれまで息子と信じてきた甥の肩を掴む。ぎりぎりと肉に指が埋まり、ドラクルはますます眉根を寄せた。
「ふざけた真似をしてくれたものだ、あの二人。復讐だと? そんなことのために、私に実の子でもないお前を育てさせ、王位継承権まで与えさせたというのか」
 ブラムス王のもう一方の手も、ドラクルの肩にかかる。しかしその手は肉に食い込み骨を軋ませるものではない。濡れた服の上から、温い熱を伝えてくる。また、いつかのようにぞくりと、背筋に得たいの知れない悪寒が走った。気分が悪い。
 できるなら今すぐこの場から逃出したかった。だが、肩をつかむブラムスの両手がドラクルを離してはくれない。
「愚かしい。フィリップが王位につけないのは、あいつの才能のせいだ。正々堂々と私から玉座を奪う器量もないのなら黙っておればいいものを。双子だと言うのを利用するというのなら、さっさと私を殺して身代わりにでもなんでも玉座を奪えばよかったのだ。それができないのは、あいつの実力不足だ。それを私のせいだなどと、逆恨みもいいところだな」
 それは、ドラクルもそう思う。やはり十七年間この人の息子として育てられたのは伊達ではない。だが。
「だからなのですか? だから、私を……」
「ああ。そうだ」
 紫の夜明けが眩しかった。終わった後は、ただひたすらに身体が痛かった。無理矢理寝台に引きずり込まれ、言葉にならない恨みと憎しみをぶつけられたあの日。
 あれは、まさかブラムスがドラクルのことを、実の息子ではないのだと知ったからだったのか。
 男は酷薄に笑う。
 父と信じていた男は、酷薄に笑う。
「お前はいずれ廃嫡だよ。ドラクル」
 残酷に、はっきりと、あっさりとそう告げる。
「え……」
「当然のことだろう。お前は私の息子ではないのだから」
 極々当たり前のこと。そう言われれば、そうなのかもしれない。けれど、ドラクルの頭は混乱する。告げられた言葉を俄かには受け入れがたく、目を見開いて父だと信じてきた男の冷徹な表情を眺める。
「私は……十七年間、あなたを父親だと思ってきました……」
「ああ、私も、お前を息子だと信じてきたよ。ある日偶然、弟と妻の話を聞いてしまうまではね」
「今でも、あなたを父親だと思っています……」
「私は、もうそんな風には思えない。お前は……お前は私とクローディアの子では、なかったのだから!」
 やっと肩に食い込む指が離れたと思ったら、その腕はドラクルの顔のすぐ横の壁を、穴が開きそうな程強く叩いた。その行動に、様子に、ブラムスの全身から滲む憤りと悲哀が伝わってくる。その悲哀がドラクルの口を塞いだ。
 いくら顔が似ていようと、それでも駄目なものは駄目なのだと。
 間違ったことは正さなければ。間違ったものは、正しい場所に戻さなければ。
 だから本当の息子ではないドラクルは、廃嫡される。
「では……このローゼンティアの、次の王は……誰になるのですか? アンリ?」
 掠れた声で尋ねたドラクルに、ふっと顔を上げたブラムス王は疲れた顔で告げる。
「なんだ……そこまで聞いたわけではないのか……? ロゼウスだよ」
「え……?」
「フィリップと通じて私を裏切った恥知らずはお前の母クローディアだけではない。第二王妃も奴の誘いにのった尻軽だ。アンリも、ヘンリーも私の子ではない」
「な……」
「第一王女のアンは私の子だが、テトリアなど歯牙にもかからぬ小貴族。それに女だ。私を裏切ったとはいえ、クローディアのノスフェル家の血は惜しい。私の血を引く者で一番玉座に相応しいのはロゼウスだ。ミカエラは病弱だからな」
 第一王妃の息子第四王子ロゼウス、そして第三王妃の息子第五王子ミカエラ。まさか、七人も王子がいてこの二人しか本当にブラムス王の血を引く者はいないというのか? ドラクルは愕然とした。
「クローディアは忌々しいが、ノスフェルの血はローゼンティアでも特別だ。その血を引くロゼウスならば、教育次第で、いずれはお前を凌ぐ王子となるだろう」
「……あなたは、ノスフェル家の血統欲しさに母上と結婚したのですか?」
「それがどうした。政略結婚など、王族にとっては珍しくもなんともない。向こうもそれはわかっていたはずだ。何か悪いとでも言う気か?」
「……いいえ」
 言えない。何も。ブラムス王の言葉がいくら打算と欲に溢れていようと、それは母の方でも同じ。
 権力欲と虚栄心が強いという母の性格はドラクル自身が一番よく知っている。彼女が王の寵愛を得られないことに焦り、大公と通じたという話も、だから本当なのだろう。
 ただドラクルは知らなかったし、知りたくもなかったのだ。これまで頭では理解していた事実とはいえ、自分たちの両親の溝が、ここまで深いものだなどと。
 日々外交官と並び世界の中でどれほど困窮した国々の様子を見ようとも、家族不仲な者たちを見ようとも、自分の周囲だけはそんなことはないのだと信じていた。
 ぱたぱたと廊下をやってくる軽い足音が聞こえる。壁に頭をつけられているものだから、より一層はっきりとしている。先程の侍女が汚れ物を取りに戻って来たのだろう。これを機に抜け出そうにも、顔の横に置かれたブラムスの手が阻む。その片方がふいに素早く動いて、ドラクルの口をきつく塞いだ。
「陛下、王子殿下のお召し物を預かりに参りました。……陛下?」
「いらないよ。今は、大切な話をしているんだ。後でまた呼ぶから、今は休んでいてくれないか?」
「は……本当によろしいのでしょうか?」
「ああ。後で」
「それでは失礼いたします」
 ノックの後聞こえてきた侍女の声には優しく答えながら、ブラムスの手はドラクルの口を覆ったまま離さない。彼が口を出せないままに、王は侍女を追い返してしまう。
 そして彼女の気配が立ち去ると、口元を離れた手に安堵する間もなく、ドラクルは背中から床へと叩きつけられた。
「うあっ!」
 厚い絨毯が敷かれてはいるものの、その下は黒曜石に似た輝きを放つ石の床だ。痛くないはずがない。けれどブラムス王はこれまで息子だと信じていた者への乱暴にも頓着せず、その身体にのしかかり、身動きできないよう仰向けに床に縫いとめた。
「な、何を……」
 濡れた服の上から、冷たい肌の温もりが伝わる。気味が悪いほどに優しく、彼はドラクルの頬を撫でた。
「何を? この体勢で、そんなこともわからないか? ……この前のあのことを覚えているかい? それと、同じ事を」
 紫の夜明け。開け放された窓から差し込む、地獄のように眩しい光。テーブルの上に転がる酒瓶と割れたグラス。天蓋付の寝台の敷布は乱れ、薄暗かった。
 身体を引き裂くあの痛み。
「――……イヤだ!!」
 叫んで突き飛ばそうとしたのに、完全に馬乗りになられたこの体勢のせいかもともとの腕力差か、びくともしない。逆に抵抗を封じるためか、頬を強くはられた。吸血鬼の回復能力も人間と違って尋常ではない速さとはいえ、怪我をしないわけでも、痛みを感じないわけでもない。これまでずっと優等生で通してきたドラクルは、こんな場面で思いもかけず殴られたことに動揺する。
「な……で……」
「……もう、お前は私の息子などでは、ないのだから……」
 これまで父と信じていた人の、その呟きの意味もわからない。言葉が全て、頭の中を通り過ぎていくようだ。
倒れ付したドラクルの白銀の髪が、赤い絨毯に乱れ散る。濡れた服は肌に張り付いて、乱れた襟元から覗く首筋が艶かしい。
 布を引き裂く音がして、着ている衣装を無理矢理剥ぎ取られた。ずぶ濡れになって冷え切った肌に、男の手が触れる。
 雷がまた遠くで光り、唸りをあげた。一瞬の強い白光の中見た男の顔は、酷く苦しげで悲しげだった。
 ……どうして。
 何故、あなたがそんな顔をする。そんな、今にも泣きそうな顔を。辛いのは私の方だろう。いきなり自らの存在価値を否定され、全てを奪われたのは。
 耳元で低く囁かれる。
「……ロゼウスを教育するのは、お前の役目だ、ドラクル」
 びくりと、身体が強く震えた。
「あの子をお前に代わる完璧な、最高の王にしろ。お前の全てを、あの子に。それが私からの、私から全てを奪おうとしたフィリップとクローディアへの復讐だ」
「復讐……」
 力なく鸚鵡(おうむ)返しに呟くドラクルの耳元で、ブラムス王はさらに熱をこめて語った。
「そうだ。例え一度は偽りの世継ぎの王子を立てたとしても、それに匹敵するほど、いや、それ以上に優れた王が跡を継ぐのならばそんな失態はなかったことになる。……ドラクル、お前にはヴラディスラフ大公として、今はフィリップの奴が持っている莫大な権利をやるから」
 フィリップたちは、自分たちの密通が私に知れても、お前のことまではまだ明るみに出ていないと考えている。あの二人の屈辱に歪んだ顔が見たいんだ。自分たちの子どもが玉座に着くと悦に浸っているあの二人の、一転して地獄に落ちたような表情が見たい。
そう、熱病に浮かされた男は狂気の言葉を滔滔と口走る。
「だからお前も協力しろ。私が憎いのはあの二人。私を裏切ったのはあの二人だけなのだから。ああ、そうだ。お前に罪がないことなどわかっている。王子ではなくなっても、お前の事は決して悪いようにはしないと、約束するから……」
 また雷が光った。その光の中、自らを組み敷く男の頬に、ドラクルは一筋、光る跡を見た。
 そして世界が暗転する。

 ◆◆◆◆◆

 父王の私室を辞した後、ドラクルはふらつく身体を壁に手をついて支えながら何とか自室へと戻った。
 すれ違う者にそれこそ片端から顔色の悪さを心配されたが、それに答える気力もない。こんな時は、普段の自分の人望の厚さを呪う。いっそ誰にも顧みられないような最低最悪の不良王子だったならば、このような事態になっても、ここまで傷つくこともなかったのに。
 誰にぶつければいいのかもわからない恨みを抱いて自室の扉を開くと、客がいた。
「あ、兄様!」
 人の事情を知らず、邪気のない顔で駆け寄ってきたのはロゼウスだった。そうだ。今日もあの時、ルースにあのことについて言われるまでは何一つ変わりない一日を過ごすつもりで、だからロゼウスもいつも通りこの部屋までやってきたのか。ドラクルは一応は納得したものの、それでも今この弟の顔を見ると酷く気が滅入った。
「兄様、どうしたの? ……血の匂いがする。どこか怪我を――」
「触るな!」
 自分に触れようとしたロゼウスの手を、ドラクルは思わず思い切り強く振り払ってしまった。突然のことに吃驚(びっくり)として、ロゼウスがぽかんと口をあける。
「あ……ご、ごめ……ロゼウス、ごめん……本当に……」
 謝ったものの、痛かったのか驚きのあまりか、ロゼウスの瞳はすでに潤みかけている。ドラクルは頭を抱えたくなった。今ここで泣かれたりしたら、どうしていいかわからない。
 しかしロゼウスは泣かなかった。
「う……ううん。ごめんなさい。急に触ろうとしたりして」
 しおらしく謝る彼の姿に、ドラクルは全身の強張りが解け、一気に力が抜けた。思わず、その場にへたり込む。
 毛足の長い柔らかな絨毯に腰を落ち着けても、まだ全身の痛みがとれない。鞭打たれた背は、燃えるように熱い。
 けれど吸血鬼の怪我はだいたい数時間から数日で跡形もなく治ってしまうから、これもきっと誰にも知られずに消えていくのだろう。
 出生のことは、ブラムス王だけでなくドラクル自身にとっても不利なことだ。誰かに言ったその瞬間に、彼はこの王城から、王家から放り出される。よほど上手くやらねば、四方八方から批難を受けて野晒しだ。
「兄様?」
「ああ……ううん。なんでもない」
 言えるわけがない。
 もしもこのままの生活を維持したいと願うなら、誰にも言えるわけがない。
 それでもいつか終わりは来るのだ。ブラムスはいずれはドラクルを廃嫡にすると言っていた。ドラクルが動かなくても、彼が動くならば世界は変わる。いずれ必ず、終わりは来る。
 どうしようもない。
「兄様」
 ロゼウスが一度躊躇う素振りを見せてから、それでもおずおずと両手でそっと、ドラクルの腕に触れてきた。
「ここにいるからね」
「……ロゼウス」
「俺はずっと、兄様の味方だよ」
 にっこりとロゼウスは笑う。無垢な、邪気のない笑顔。心からの誠実さ。何の打算もない言葉。真っ白な、可愛らしいロゼウス。
 けれどこの、これまで弟だと思っていた生き物が、いずれは自分から全てを奪っていく。
しかも父だと思っていた人は、そのためにドラクルにロゼウスを教育しろなどという。ふざけた話だ。それが復讐だなどと。
 ……復讐。
 その時、悪魔が囁いた。
魔族と呼ばれる吸血鬼の彼らであるが、魔力を持つという魔族と、人をたぶらかす存在である悪魔とは、根本的に違う。けれどこの時確かに、悪魔がドラクルの耳元で囁いたのだ。
喉が酷く渇く。
できるなら血が吸いたい。そうして殺戮の衝動に狂ってしまいたい。けれどそれはできない。だから。
「ねぇ、ロゼウス」
 先程自分がブラムス王にされたように、ドラクルはその身体を引き寄せ弟の頬をそっと手で包むと、優しく撫で上げる。
 違うのは先程の自分と違って、弟は素直にそれを受け入れ、気持ち良さそうにドラクルに身体を預けているということ。
「私のこと、好きかい?」
「うん、大好き」
 ロゼウスは何の含みもなく頷く。
「そう……だったらね……」
 フィリップは言った。これは復讐なのだと。ブラムスは言った。これは復讐なのだと。
 彼らはドラクルを王太子の地位につけることによって復讐と為し、またそれを奪うことによって復讐と為している。
 ならばこれもまた復讐だろう。
 ブラムス王が自らの真の後継者として溺愛しているロゼウス。この王子を……
「兄様?」
 唐突に自らの唇に押し当てられた唇の感触に、ロゼウスが不思議そうに小首を傾げる。その身体を、ドラクルは優しく抱き上げた。寝台の方へ運ぶ。
「いい? ロゼウス。大人しくしているんだよ?」
「兄様? お勉強は?」
「今は、こっちの方が大事なんだよ」
 白い薔薇も赤い水を吸わせれば赤くなる。
もとがどんなに清廉(せいれん)で無垢であっても、だからこそ汚すことは容易い。そして幼い弟の心を捕らえて操るなど、それまで策謀の世界で渡り合ってきたドラクルには、本来造作もないこと。
だから。
「ねぇ、ロゼウス。これは私とお前だけの秘密だよ」
「? うん」
 きょとんとしているロゼウスの額に口づける。あいた手は、幼い王子の服の襟元に。
 黙っていれば、いつかこのロゼウスに全てを奪われる。だけれど、そうならないようこちらから反撃にでるのならば。
「約束だよ? ロゼウス。これからすることはね、誰にも言ってはいけないんだよ?」
「誰にも?」
「うん」
「……ロザリーにも?」
 一番仲の良い妹の名前を出したロゼウスに、ドラクルは言い聞かせるように微笑みかける。
 ブラムス王はわかっていないのだ。
 人の心を掴むならば、例えその行為の最後がどこに行き着こうとも、最初に与えるのは鞭ではなく甘い甘い飴でなくてはならない。
 そう、神経を麻痺させ、脳髄をとろかせ、冷静な思考力も判断力も逆らう気力さえ湧き起こさせないような、甘い飴を。
「ああ。ロザリーにも、ルースにも、お父様にも、召し使いにも、誰にも言っては駄目だよ。これは、私たち二人の秘密だ」
「ひみつ……」
「そう、だから、内緒だよ……可愛いロゼウス、お前は私のものなんだ。私がおまえのものであるように」
「兄様が俺のもの?」
「そう。そしてお前も、私のもの」
 秘密、そしてお前の物だという言葉。「特別」という言葉にはいつの時代であっても誰であっても弱い。特に子どもは、そう言ったことに敏感だ。長年長男として弟妹の面倒を見たドラクルだからこそわかる。思い通りに誘導されるロゼウスの様子に、内心で愉悦に暗く嗤う。
 お前は地獄へと落ちる道連れだ。
「うん、約束する」
 綺麗な翅を持つ獲物は、あっさりと蜘蛛の巣に引っかかった。
「誰にも言わない。みんなにも、ロザリーにもひみつ。ずっとずっと」
「そう」
 復讐が静かに幕を開ける。


004

 皇暦三〇〇二年。
「ところで、アウグスト=カルデール公爵。 もしお前に、愛して愛してとっても愛してやまないのに、決して自分とは添い遂げない相手がいたとしたらどうする?」
「は? いきなり何の話です、ドラクル様」
 白い毛皮を敷いた豪奢な椅子に腰掛け、ドラクルは第一の部下に尋ねた。二十六年間変わらない彼の私室に、今は公爵となったアウグストが訪れている。
 季節はあの頃と同じ、冬の最中だった。窓の外灰色の夜空にしんしんと雪が降り、あと二月もすれば新年を迎える。そうすればまた彼らは一つ歳をとる。帝国の民である世界中の人間や魔族は、生まれた季節や日付に関わらず新年を迎えると一つ歳をとるのだ。
 来年になれば、ドラクルは二十七歳になる。そして、「弟」のロゼウスは十七歳だ。
「ただの世間話だよ。もっとも、狭すぎる世間かも知れないけどね。それで、どうするんだい?」
 暖炉には煌々と火が燃えていた。時折薪が
爆ぜ、パチパチと音を立てる。暖炉の炎が明るくて燭台に灯す火を少なくした室内、二人の間に手慰みに広げた遊戯盤の上で、滑らかな石でできた駒が虚しく立ち尽くす。これを広げることも随分少なくなった。いまだドラクルが教育を任されているロゼウスと打つことはあるけれど、もうアンリやヘンリーとはこんな遊びに興じることも滅多にない。
 今でもこうしてドラクルに呼ばれればそれがどんな状況でも馳せ参じ、彼の小さなわがままから大掛かりな仕事までこなすのは部下であるアウグストくらいのものだ。現在二十歳である彼は、十四歳で正式なカルデール公爵位を継いだ。寿命五百年の吸血鬼族の中では若すぎる公爵の誕生に、王族からの後見としてドラクルが尽力したのは言うまでもない。
 だからこそ、アウグストは今でもドラクルに頭が上がらない。もともと王族と臣下なのだから上げてはいけないのだが、それを置いても彼のドラクルに対する忠誠は有名だ。カルデール公爵アウグスト卿はドラクル王子の懐刀であり、ヘンリー王子の友人でもある、と国の者には認識されている。
 そんなドラクルの第一の部下アウグストは、半ば放り出されたゲームの盤面を見つめながら、しばし考える様子を見せてから言った。
「そうですね。……添い遂げない理由にも寄りますが、自分を嫌って逃げようとする相手なら、手足斬りおとして鎖に繋いで未来永劫監禁、というところではないですか?」
 十年前の、理知的だが大人しげな少年だった彼の様子からは想像もできない言葉をアウグストは吐く。そしてドラクルも、笑みながら品行方正とはかけ離れたそれを聞いている。
「人間ならそれでもいいかもしれないが、普通手足斬りおとしたら相手が死ぬだろう。私たち吸血鬼は、出血に特に弱い種族だ」
「そうなんですよねぇ。そこが問題で。なら薬漬けにして精神破壊。いっそ、相手が二度と自分以外の者を見る事がないように殺すとか」
 末期の吐息も、青褪める頬も、温もりを失う身体も、憎悪に染まる瞳も、せめてその全てを自分のものに、と。
 手に入らないのならば殺してしまった方がいい。その方がいっそ楽で確実、他の誰かに奪われると心配する必要もない、などとアウグストは笑う。
「なるほど。お前は、自分の欲しい相手に対し遠慮と言うものをまったくしないタイプなんだな。相手の幸せを考えて身を引く、や醜聞を立てられるのが怖くて想いを断ち切る、などという選択肢はないんだ?」
「ああ……そういう考えもありましたか。そんなことを言ったって、無理ですよ殿下。この私が本気で、一人の女性をそうして思いつめるほどに、愛したことがあるように見えます?」
「さっぱり」
「でしょう」
「なら、お前は一体誰が好きなんだ? 女好きのカルデール公爵。お前ほどの家柄と容姿、実力を備えているならこの国の誰とだって婚姻を結べるし、もし相手方に断られたとしても王家の力で後押ししてやるが? 可愛い部下よ」
 今年で二十歳の青年公爵は、顔も家柄も才能も文句なしの人物として貴婦人の話題を攫っておきながら、いまだに決まった相手を持たないことで知られている。誠実などという言葉とは程遠くどちらかと言えば浮いた噂を立てまくりだが、それでも相手を一人には絞らない。だから傍から見ている者には、アウグストが一体誰を想っているのかさっぱりわからないのだ。
「あなたとヘンリー」
 話の流れでドラクルが尋ねると、いたって真面目な様子でアウグストはそう返してきた。
「そうか。私が好きなのか。ふむ、金貨五枚で抱いてやるし、倍額出すなら抱かせてもやるが?」
 なので、ドラクルはドラクルでいたって真面目な様子でそう答えてみた。男同士だの主君と臣下だの悪い冗談だの、今更そんな答、面白くもなんともない。
 自分から話を妙な方向に逸らしたくせに、アウグストは呆れたような声を上げる。
「そういう意味じゃありません……っていうか殿下、金貨十枚なんですか? 王国の第一王子が、金貨十枚。せいぜい色街の高級娼婦の値段程度って……そんなお安くていいんですか? そりゃあ、最近の第一王子ドラクル殿下の淫蕩ぶりは有名ですが」
 暖炉の中の薪は殆どがもう炭となっていて、火の勢いが弱まり始めた。公爵であるアウグストは、手ずから薪を足しにいく。ここにいるもう一人は第一王子殿下で、まさか彼にそんな使用人の役目をさせるわけにはいかない。そして話している内容が内容だけに、誰か世話役の侍女を呼ぶのも憚られる。
 世界はいつの間にか閉じていた。身の回りの世話ですら、誰かにさせるのも厭わしいほどに。アウグストはそんなこともないが、ドラクルはこの十年近く、ほとんど他人に自らの肌を触らせたことはない。表向きには。
 一方で彼はローゼンティアの中でも腹に一物抱えた連中が集う世界に出入りして、とても王子が行うとは思えない背徳を繰り返していることもアウグストは知っている。
 そして彼がもう十年近い前のあの日から、そんなことを仕出かすようになった訳(わけ)さえも。
「有名とは言っても、お前が出入りするような世界での有名だろう? ならば問題ない。それに、得だと思わないか? アウグスト。例えば金貨十枚で、寝所を共にした政敵の一人を確実に葬れるのならばさ」
「そういう意味の値段ですかい」
「ああ。それに、そうでなくてもどうせ私の値段などそんなものだ」
 あの日から、真実はドラクルを苛んでいる。
いくら表の努力を人に称えられても癒えることはない。いくら評判の美女と閨を共にしても温まることはない。いくら事業に成功し富を築いても満たされることはない。いくら気心知れたアウグストや妹のルースが慰めても救われることはない。
 むしろ、そんなことを重ねるたびに、ドラクルの中では果てることのない渇きが増すばかりだ。何をやっても、それがどんなに成功しても本当に彼の手に入るものなど何もないのだと。
「……殿下」
「なぁ、アウグスト。お前は先程私に言ったな。好きな相手が自らの手に入らないのならば、拉致監禁し脅迫し、手足を斬りおとして鎖に繋いででも自らの下に留め置くのだと。貞操帯も麻薬も生温い。欲しいもののためには何だってしてみせる、どんな悪でも行ってみせ、そのために相手が疵物(きずもの)となっても構わないのだとお前は言った」
 だからこそ、彼は渇きを癒すために求め続ける。
 魔を封じる薔薇の味のまやかしではなく、とろけるように甘い血を。吸血鬼の喉を満たすのは薔薇の封印ではなく。流される赤い血。
「……ええ。言いました」
「例えばその相手というのが、自分と相手の親の意志によって結婚を決められ、婚約したはいいが引き離された元婚約者だったとしても」
「前提条件は、その政略結婚の相手を自分が愛した、ということですか。そうですね。ならばなおさら死に物狂いで取り戻しますかね。だって一度は私のものになった相手を、他人の勝手な都合で取り上げられるなんて許せない」
「ああ。そうだ。私も許せない」
「殿下?」
 アウグストの言葉に、ドラクルは翳りを帯びた笑みを浮かべた。長い睫毛を伏せた端麗(たんれい)な容貌が毒々しいほどに赤い唇の端(は)を吊り上げる。
「だから取り戻そうと思うんだ――一度は私に与えられたのに、その後、勝手な都合であっさりと取り上げられた権利を」
 窓の外にはいまだ白い雪が降り続く。土砂降りの雨よりも、あるいはその静寂は五月蝿い。静か過ぎるあまりに世界を閉ざす。
「ドラクル様」
「私から取り上げられた最高の伴侶。このローゼンティア王国そのものを」

 *

 風が少し強いから、弦は思い切り引き絞らねばならない。雪明りが予想以上に明るいことだけが救いだったが、それでもしんしんと降る白い冬の精霊たちは、彼が的を狙って意識を集中するのを邪魔する。
 繊細な感覚を必要とする弓の訓練では、厚手の手袋などつけられない。剣にしろ槍にしろ武芸に関しては全般的にそうだろうが、それでも弓は特別だ。何しろ一射放ったらもう修正がきかず、鏃(やじり)の尖端は小さいだけに的を射る正確さが要求される。
 新しい矢をつがえ、ロゼウスは精神を集中した。一度白い瞼を下ろし、その印象的な深紅の瞳を閉じる。
 雪に溶け込みそうな白銀の髪が微かな風に靡いている。外套の裾もはためいて、雪は横から来て頬を叩く。けれどロゼウスは気を抜くことなくゆっくりと慎重に弦を引き絞り、カッと目を見開くと鋭い視線で的を射抜きつがえた矢を放った。
 白い羽を持つ矢は、狙い違わず遠く離れた的の中央に当たる。
「やった……ッ!」
 真っ直ぐに的の中心を射抜いた自らの矢の軌跡を目の当たりにして、ロゼウスは小さく歓声をあげた。しかしそれを聞く者も、この光景を見てその腕を褒め称える者も生憎とこの場にはいない。
 当然だった。いくらいつでも武器を使える腕が必要だとはいえ、こんな天候の中で弓の稽古をする物好きなどいない。そこまで過酷な訓練を兵士たちにさせる教官もいないとくれば、こんな雪の中でよりにもよって弓の稽古をしているロゼウスの方が異常なのだ。
 彼だって本当はこんな寒さと雪の中、見守る者も肩を並べる相手もいないのに黙々とただ一人弓を射続けるのは辛い。けれどそれでもこれは、兄に言いつけられたことなのだ。
今日は弓の稽古をしていろ。その通りに夕方からこの真夜中まで、食事もとらずにひたすら遠く離れた的を相手にしている。兄様の言う事なんだから、間違いのはずはない。これは必要なことなんだ。ロゼウスは自分に言い聞かせる。かじかんだ白い指先はすでに擦り切れて血が滲んでいた。
 あまりの寒さに、射る人間の方だけでなく、弓の方も限界だ。張り詰めた弦は定期的に休ませて解すかどうにかしないと、凍り付いて切れてしまう。あと一射でこの時間の目標を達成するロゼウスは、最後の一矢と思って弦を引いた。
 そこへ、弦から指を離し安堵する直前の絶妙のタイミングで声がかけられた。
「ロゼウス!」
「わぁッ!?」
 突然かけられた強めの声に、驚いたロゼウスは集中を失う。下手な離し方をしたせいで、弓が暴れて弦がぶつりと音を立てて切れた。その拍子に、ロゼウス自身も指先を引っ掛けて傷を作る。
「いっ……」
「おやおや」
 鮮血が零れて、白い雪の上に落ちた。ぽたぽたと垂れたそれは白い画布のような雪に、赤い花を描く。すぐに水気に溶かされて、赤は薄紅色となった。ロゼウスはのろのろとそこから視線をあげ、負傷した手をもう一方の手で押さえながら先程声をかけてきた相手の方へ目を移す。
「ドラクル兄様」
「やぁ、ロゼウス。稽古ははかどっているかい?」
 わざと気配を消して一部始終を見ていたくせに、ドラクルはそう言った。雪景色に紛れる白い外套姿で歩いてきたドラクルは、ロゼウスの怪我をした右手をとる。白い肌を伝う赤い血に唇を寄せると、熱い舌で舐め上げた。
「兄様……」
 ロゼウスは一瞬驚いたように目を瞠ったが、すぐに大人しくそれを受け入れた。寒さで青褪めていた頬に、薄っすらと朱が差す。
 ロゼウスはドラクルに逆らえない。表向きの立場もそうだが、何よりも気持ちの上で。この九年間、もうすぐで十年にもなるこの時間、ドラクルはずっとロゼウスの面倒を見るという名目で彼の生活に干渉し続けた。今ではもう、ロゼウスはこの国の他の誰よりもドラクルの虜となっていて、逆らう気など起きるはずもない。
 吸血鬼の再生能力は人間の比ではない。先程の傷口も、ドラクルが垂れたその血を舐めつくす頃にはほとんど塞がった。
「ちゃんと練習していたようだね」
「はい」
 これまで部屋でぬくぬくとしていた手で、氷のように冷え切ったロゼウスの頬へとドラクルは触れる。吐く息も白い寒空の下、サボることもなくひたすら稽古に励んでいたロゼウスを一通り褒めると、離れた壁際にかけられた的の方を見た。
 幾つかの的は、その中央部を矢で射抜かれている。もちろんこんな天気の中、この訓練場で弓の稽古をしていたのはロゼウスしかいない。
「へぇ。結構な命中率じゃないか」
「俺なんて。ドラクルに比べたらまだまだ」
 褒められてロゼウスが表情を綻ばせる。紫色になりかけた唇が、それでも謙遜でない言葉でそう言った。
ドラクルは凍え切った弟の身体に、自らの持ってきた外套を着せかけた。そして驚くロゼウスの手から弓をとりあげると、切れた弦を張りなおす。ロゼウスの矢筒から矢を一本抜き出すと、流れるような動作で構えた。そして特に前置きもせず、射る。
 トン、と小気味良い音を立てて、ドラクルの放った矢は見事に的の中央部を射抜いた。続けて新しい矢をつがえると、特に気負いもなくまた射る。今度は隣の的。その次はその隣の的。その次はその隣の隣の的。やがては訓練場にかけられた、中心が空いている的の中央部全てを埋めてしまう。
 ロゼウスはぽかんとした顔で、その様子を見守っていた。一矢射るのに精神を集中するのが必要だったロゼウスに対し、ドラクルは気を抜けばそれが弓を引いているのだということを忘れそうなほど自然な動作で矢を射た。トン、トン、トン、と一定のリズムさえ作って、全てが例外なく的の中央を射抜いている。
「兄様、すごい!」
「私はまだ手が温かいから、お前よりコントロールが利くだけだよ。弓は速さと正確さが命だからね。剣なら多少からぶっても胴を狙えば大抵どこかに当たる。けれど弓は、的を外したらそれまでだからね。急所を射抜かなければたいしたダメージにもなりはしない」
「はい! 俺もドラクルみたいにできるようになるまで頑張る!」
 この九年間、ドラクルはずっとロゼウスの教育係だった。勉強も政治も武芸も戦術も、ロゼウスはその全てをドラクルから教わってきた。さすがに芸術方面には疎いが、そちらはまた別の兄弟姉妹の方が詳しい。ただ国の運営のことに関しては、ロゼウスは今この国でも、滅多に敵う者のいない程の知識を有している。
 何しろ彼の教師は、即位すればローゼンティアきっての名君となるだろうと言われるこの兄、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティアなのだから。どんなことがあっても、ロゼウスにとってドラクルは大好きな自慢の兄で、ローゼンティアと王家の誇りで、誰よりも大切な存在だった。
「うん。そうしよう。でもロゼウス、今日はもう終わっていいよ。一応の目標は達成したんだろう?」
「はい」
「じゃあ、部屋に戻ろうか。いい加減寒いだろう?」
 優しい言葉をかけられて、ロゼウスが口元を緩める。遠い昔にわがままを言って昔の兄の髪型を真似て以来ずっとそういう姿のロゼウスは、感覚までも麻痺してきてたださらさらと頬に擦れるのを感じるだけの髪を揺らし、頷いた。
「う……うん」
「ほら、行くよ」
 ロゼウスも現在十六歳、後二ヶ月すれば訪れる新年を迎えれば、十七歳になる。けれどドラクルは彼が子どもの頃にしたようにその手を引くと、自らの温かい手でロゼウスの凍える手を掴んだ。兄の手に引かれ、ロゼウスが嬉しそうに顔を綻ばせる。
 しんしんと降る雪の中、積もり続けて足跡を消すその白い氷の花びらの中を、二人の兄弟は歩く。風に外套の裾がはためき、髪が嬲られた。頬が切りつけられるように痛い。
「部屋に戻ったら、さっきアンがメアリーと一緒に焼いたという焼き菓子でも食べて身体を温めなさい」
「はい。あの、ドラクル……でも俺……」
「いいから。お前は只、私の言うとおりにしていればいいんだよ」
「……はい、お兄様」
 優しいのにどこか有無を言わせない口調で、ドラクルはロゼウスの言葉の続きを封じる。そうなってしまえば、ロゼウスにはもう、口答えをする事は出来ない。少し離れた訓練場から、王城の自分たちが住む区画までの道のりを見つめ続ける。
 それから王城のドラクルの自室に帰りつくまで、二人の間はドラクルが喋らないためにただひたすら無言だった。

 *

 すぐに戻ってくるということで、ドラクルは暖炉の火を絶やさないように使用人たちに命じていた。部屋の中は程よく温められて、使い減っていた薪の量も足されている。この季節に温かくやわらかい素材で作られた室内着が用意され、ロゼウスがまずそれに着替えた。凍りつきそうだった身体を暖炉の炎に当たることによって温めている。
「兄様」
 しばらくして、ロゼウスは慎重にドラクルの様子を窺った。この九年間で、ロゼウスにはいつもドラクルの顔色を窺う習慣ができた。機嫌が悪いときのドラクルは、何をするかわかったものではないから。
 苛立ちを押さえ込めればそれが一番いいのだろう。しかしドラクルも、それがわかっていて叶えられないことを、誰よりもよく知っている。
「もう、戻れない。私は……」
 あの日に知った真実は、自らの胸一つに抑えきれる範囲を超えていた。だから真実を確かめ、父に詰め寄り、そして……
 自らがこんなに癇癪持ちで自制心のないヒステリックな性格だとは知らなかった。ドラクルは自嘲する。
「ドラクル?」
 顔を覗き込んでくるロゼウスに、額に当てた手をゆっくりと離してドラクルは尋ねる。
「ねぇ……ロゼウス」
「何?」
「私のこと、好きかい?」
 この九年間、幾度となく繰り返してきた問だった。
「……うん」
 小さな声で、けれどはっきりとロゼウスは頷く。
「俺は、兄様が大好きだよ」
 その顔を見て、ドラクルは薄く笑みを浮かべる。先程の自嘲に負けず劣らず、皮肉な嗤い。また、闇の奥底のように暗い思いは蛇のように鎌首をもたげてくる。
「そうか……じゃあ」
 稽古着から薄手の夜着に着替えたロゼウスの身体を引き寄せる。柔らかな髪を梳いて、首筋に唇を当てた。
 ロゼウスは抵抗しない。ドラクルの指先が触れるのを、頬を染めながら受け入れている。
 その従順な様子に、ちくりと胸に走る痛みをドラクルは努めて無視した。
 
 狂った朝を繰り返す。
 全てを知ったあの嵐の日から、ドラクルの中で全ての物事の意味が反転した。美しいものは醜く、醜いものは美しく。
 苦労知らずの貴婦人の滑らかな白魚の指先が美しいと思えなくなったその日から、ドラクルは頽廃(たいはい)を求めるようになった。昇りつめるのはあんなにも難しかったのに、堕ちていくのは呼吸をするように簡単だ。もともと複雑な立場から地下組織などに繋がりを持って綱渡りのように生きてきた部下、アウグストの協力もある。
 表向きには優秀で品行方正。しかしその一方で、淫蕩で残虐で冷徹だという評価も今のドラクルには下される。そう言われるようなことを平然とやってきたのは、ドラクル自身の意志だ。潔癖だったはずの王子は、今では名前を知らない相手でさえ、女も男もなく寝台に引き込むと有名だ。
 そしてこの堕落と背徳の最たるものが、公式には弟とされる、実は従兄弟王子との関係だろう。
 行為が終わり、白い背中を見せて隣で眠るロゼウスの髪を撫でながらドラクルはそっと目を伏せた。
 禁忌などこの世にはありはしない。
 夫に愛してもらえないからその弟と。そして生まれた子どもをのうのうと王位継承者の位置につける。そんなことがまかり通るならば、世界には結局規律など存在しないのだろう。表面さえ取り繕えれば、何をしたって構わないのだ。だからドラクルもロゼウスが自分に反感を持たないようじわじわと言葉で追い詰め洗脳し、奴隷のように彼を作り上げただけ。
 第一王子ドラクルという存在自体が大公フシリップと第一王妃クローディアが国王ブラムスに復讐するための道具であり、そのドラクルを廃嫡にすることがまたブラムス王からフィリップとクローディアに対する復讐だというのなら、ドラクルがブラムスへの復讐に彼の実子であるロゼウスを陵辱して何が悪いと言うのだろう。
 もともと、自らが廃嫡された後に王位を継ぐはずの弟王子の教育などをドラクルに任せたのはブラムス自身だ。全ての真実とこれまで父だと信じていたひとの思惑を知ったその時、ドラクルがどんな気持ちだったかも知らないで。
 だから、ドラクルもロゼウスを使う。いずれこの「弟」がローゼンティアを継ぐと言うのなら、ロゼウスを手に入れる事はローゼンティア王国を手に入れることも同じだろう。
 うつ伏せになって眠るロゼウスの、今は傷一つない背中にドラクルはそっと口づける。
 先程までは、鞭とナイフで切り刻まれて酷い有様だったこの背中。吸血鬼は回復力が強い。数時間から数日もあれば軽い負傷程度はすぐに治るが、それにしてもロゼウスは再生能力が強い部類だった。
 もちろん一口に回復力が強いと言っても利点と不利点は両方存在し、すぐに怪我が治る代わりに、彼がこの部屋でどんな扱いをドラクルから受けているか、知る者は極々限られているわけだが。
 そしてそれは、ドラクル自身も同じ事。ドラクル自身も時折ブラムス王の寝室に内密に呼び出されることがある。あの十年前の黎明の日から、悪夢はずっと続いている。
 その悪夢に、打ち勝ちたい。いつまでも押さえつけられて抵抗もできない子どもでいるなどまっぴらだ。今度はこちらが相手の心臓を抉る番だ。だからドラクルは周到に準備をし、機を見計らい、王に復讐する好機を待っている。
 ロゼウスを使って。
「……お前は私の、大事な大事な切り札だ」
 全てを覆し、あの男に屈辱を与えるための。
 窓硝子の向こう、冷たい雪はまだ降り続いている。あの日の空は、身も凍るような雨だった。
自らがどれだけドラクルに恨まれているかも、それでいて彼がロゼウスに拘り続けるのは何故なのかも、いずれ自身にどんな未来が訪れるのかも。何も知らず眠るロゼウスの髪を撫でて、ドラクルはひっそりと陰鬱に呟いた。