8.破滅への託宣

 運命の巫女サライを味方に引き入れたことによって、戦況は大きく変わった。
「ロゼッテ様、カルマイン軍から使者が」
「頭領、ルミエスタに駐屯する第一軍隊がゼルアータに叛旗を翻したと」
「巫女を奪還した功績により、セルヴォルファス族も我等に協力を申し出ました」
 残る相手は、ゼルアータ最強と呼ばれた将軍がただ一人、すでに亡きヴァルター王に今もまだ固い忠誠を誓う彼を倒せば、世界は解放軍の手に戻る。つまり、解放軍に参加したそれぞれの一族の者たちは、もう誰に脅かされることもなく自国で暮らすことができるようになるのだ。
 その前段階でサライをゼルアータの手から救出し、彼女から信頼を寄せられた意味は大きかった。国は違えど、神は同じ。世界で唯一の神から託宣を承る巫女が解放軍に味方するということは、神々の加護は大国ゼルアータにではなく、この解放軍にこそ注がれていると言う事。
 大天幕を一つ会議室として設置して、その中に幹部連中とシェスラート、ソード、それにサライを招き、ロゼッテは今後のことについて改めて方針を纏めることにした。
 今のままゼルアータ最後の勢力と衝突しても、その先の展望が解放軍にはない。暴虐の国を打ち倒して勝利に浮かれたままその後の対策を練らずに無秩序な平穏を貪れば、人はまた同じ過ちを繰り返すだろう。
 まだ解放軍がゼルアータ残党軍に勝てると決まったわけでもないが、先のことを考えるのはそういう意味で必要だった。もちろん負けた後のことも常に考えて逃亡と体勢立て直しの予定は立てられているが、今問題となっているのは、この後の戦いでゼルアータに勝った場合だ。
「そもそも何故俺たちがゼルアータに反逆したのかというと、かの国の支配体制に不満があったからだ」
 頭領として代表者として、座の中央に胡坐をかいたロゼッテは真っ先に口を開く。それを補うように、ソードが言葉を足していく。
「ゼルアータは武力で他国を侵略し卑怯な手で属国を脅迫し、支配下に置いた周辺の国々から搾取を繰り返す腐りかけの国でした。私たち解放軍の目的は、かの国を打倒し、そしてこのようなことが、二度と起こらないようにこの大陸に新たな秩序をもたらすこと」
 これまでのシュトゥルム大陸の国々は、各国それぞれの自治があった。黒の大国ゼルアータ、その国に滅ぼされたザリュークを始めとするまた幾つかの国々、今もまだ交戦状態のゼルアータ派の国々、解放軍に協力してくれる部族、吸血鬼一族を始めとする幾つかの魔族。
 天幕の中で円を描くようにして座り、顔を合わせた幹部たち。それぞれ自分たちの部族を率いる長だったり、もとはロゼッテのようにザリュークやその他の国の支配階級の人間だったり、それとは真逆に他国の奴隷から剣一本で成り上がった実力者だったりする。元はザリューク人の多かった解放軍も、今では様々な国の人間が所属するようになった。
 彼らが考え込み時には囁き交わす声を聞きながら、ロゼッテは凛と声を張り上げる。
「一つ、考えがある」
「エヴェルシード殿」
 大きく息を吸い、ロゼッテはその提案を口にした。
「この世界を、《帝国》にしようと思う」
 彼の言葉に天幕内が一気にざわめいた。《帝国》という言葉の意味を思い浮かべて、大多数の者が困惑の声をあげる。
「つまり、世界を一つの国にしちまおうってこと?」
 いち早くロゼッテの意図を察し、それ故か驚いたように尋ねたのはシェスラートだった。彼の隣、敷物の上に上品に座るサライは、平然として成り行きを見守っている。
「ああ、そうだ」
「神去暦(かむさりれき)千二百年の大陸統一論だろ? なんで今更、そんな考えに……」
 今から三百年ほど前、とある国が提唱した意見が、シュルト大陸の全土統一を図ることだった。無数の小国に分かれて争いあっていた頃で、どこか一つの強大な国がそれを治めれば争いは無くなるはずという考えがその理論の基礎となっている。
 結局その考えは実現する前に、もう一つの大陸の国々に提唱国が攻め入られて露と消えてしまったのだが。
「三百年前のアナンシスの統一論は結局実現しなかったがな、理論だけなら素晴らしいだろう?」
「全ての権力を皇帝に預け、皇帝は大陸の審判者を司る、って? 夢物語だ。そんなのできるはずがない」
「だいたい、大陸統一論の穴はチェスアトールに攻め込まれたアナンシスがすでに証明してるじゃないか。人が住んでいるのはシュルト大陸だけじゃないぞ。バロック大陸のヤツラに三百年前みたいに仕掛けて来られたら」
 ロゼッテの提案の大掛かりなことに、天幕中から疑問や異論反論が上がる。
 何事も維持することより作り上げることの方が難しく、全ての事象に置いて壊すことの方が簡単だ。だから、解放軍を一から作り上げるロゼッテたちの方が大国としてその体制を維持するゼルアータより難しかったし、それをやり遂げたからこそロゼッテには信頼が集まる。けれど解放軍の名の下にゼルアータを打倒したとして、その次に新体制を作るとなるとまた別だ。元がそれぞれの個性の強い他民族の集合体だけに、文化も習慣も倫理も全てが違う国の者同士で別なのだ。全ての人々に共通するのは、それこそ神のお告げだけ。
 けれど、ロゼッテは自らの構想を翻すことはなかった。
「ああ、だから、今度は大陸だけじゃなく、世界そのものを《帝国》としてしまおうと考えているんだ」
「世界そのものを?」
「シュルト大陸とバロック大陸、それにバロック大陸の西にある薔薇大陸。その全ての国々を纏め上げ、支配する帝政を打ち立てたい」
 ロゼッテは力強く言い切る。
「頭領、そんなことできるのか?」
 無謀な計画ではないか、とそこかしこから意見が上がる。確かに、ロゼッテも難しいことを言っているという自覚はある。
「できるかどうかはまだわからない。だけれど、俺はやらなきゃいけないと思う。ゼルアータが暴走を始めたのは、この大陸にあの国より強い国がなく、ゼルアータを止めるべき隣国セラ=ジーネとシルヴァーニがその行為をあっさり黙認したからだ。監視者がいなければ秩序は保たれない。そして、ゼルアータのような国々がこれからも生まれ続けるのならば、生半可な秩序では駄目だ」
 今現在のシュトゥルム大陸には、小国、小部族が多い。それぞれが勝手に利権を求めて暴走するため紛争が絶えず、弱い国から次々に他国に吸収されて国家間の勢力図を容易く書き換える。
「頭を押さえつける人間は必要だろう、それが、《皇帝》」
「《皇帝》という名の神か」
 ある部族の長が、鼻で笑った。ソードが眦を険しくするより早く、鈴を転がすような声音が響く。
「ええ」
「サライ?」
 それまで一言も口を挟まず沈黙を守っていた巫女姫のいつもと様子が違うことに気づいて、シェスラートは思わず彼女の名を呼んだ。けれどサライは彼を見ず、主役の席に座るロゼッテを力強い眼差しで見据えると、声量はさほどでもないのによく響く声で言った。
「神が無造作に民族を鏤めた世界はかの者の手によって整えられ、やがて世界は一つの破片を成すだろう……」
「巫女姫、それは予言か?」
「ええ、そうですわ」
 サライは真っ直ぐに手を上げ、天幕の天井へと向ける。
「先程のは神の御言葉です。神聖なる存在は、誰かがこの世界を統一し、神託によって治められることを望んでいます」
 一瞬、場がざわめいた。誰だって地上の人間たちが好き勝手に騒ぐよりも、神のお告げに従う方が体面的にも心情的にも良い。略奪と復讐よりも、神の名に乗っ取った正義の方が聞こえが良い。我らは選ばれし民だと。
「どうやってそれを証明できる?」
 その盛り上がりに水を差すように、一人の老人が年若いサライに問いかけた。
「証明はできません。私を信じるも信じないも、それはあなた方の自由です」
 サライにしか聞こえない神の託宣を、他の者には確かめる術もない。だからこそ彼女は逡巡すらせずにそう言い切った。ロゼッテと親しいシェスラートに救われた彼女の言葉は、託宣ではなく彼らの意志が介入した誘導なのではないかという無言の疑惑と批難も、一手に引き受ける。
「――巫女姫」
「なんです、ロゼッテ=エヴェルシード殿」
「その予言は、本当なんだな?」
「ええ。あなたの掲げる《世界帝国》はいずれ必ず現実となりましょう。ただし、今の私にわかるのはそこまでです……誰がそれをなすのかまでは、今この場でお教えすることはできません」
「十分だ。俺たち解放軍がゼルアータを倒したら、誰かがこの計画通り《帝国》を打ち立てて世界の秩序を守ってくれるんだろう?」
「ええ。その“誰か”が誰であるのかについては、まだわかりません」
「普通なら、ここは解放軍の首領であり、革命の指導者であるロゼッテ様が初代皇帝の座へ着くところだと思いますが」
 ソードの指摘に、ロゼッテは本気で驚いて橙色の瞳を見開いた。
「俺が? まさか。向いてないよ。それよりも、だったらこれで話は決まったな」
 証拠を示せないとはいえ、巫女姫の言葉が神の託宣であることはこの世界の誰もが知っている。ゼルアータのヴァルター王でさえサライに虚偽の託宣を発表させる事ができず、ただ彼女を塔に幽閉するに留まったのだ。気は強いがその口からは私利私欲に走った発言を零す事はない。サライの言葉は、鶴の一声だった。
方針は確定したので、細かい箇所を詰めるのは当初の目論見どおり完全にゼルアータを打倒し、その一派と解放軍勢力の中で優秀な人材や功績ある者を見出してから決めることだ、とロゼッテが纏めに入る。
 その姿を、サライは意味ありげに見つめていた。

 ◆◆◆◆◆

「巫女姫」
 ロゼッテは粗末な祭壇の前に立つサライの後姿に声をかけた。陣の中に無理矢理組み立てた簡易式の祈祷所である。銀髪の少女はくるりと振り返って、彼女よりかなり背の高い解放軍首領を見上げた。
「あら、エヴェルシード殿」
「本日はお疲れ様です。……先程のお言葉は、本当のことですか?」
 その言葉をどう受け取ったものか、サライはロゼッテを憎憎しげに睨み付ける。
「あたしが嘘を言うとでも?」
「あなたは我らに味方してくださるようですし」
「だからって、あたしは神託の内容については、嘘を言う事はありません。嘘を言ったところで未来が変わるわけでもありませんし」
「そうですか。では、帝国建国はやはり達成されると」
「ええ。細かい日付や状況まではわかりませんが。あたしに授けられるのは、断片的な情報だけですので」
 頷くと、サライはまた祭壇に戻った。予言の巫女は、毎日少しでも神に祈ることを欠かさず、そのたびに天の声を聴くのだと。
「この世界のもともとの成り立ちは、神によって幾つもの民族と国があらゆる土地に鏤められたことでした。創世記は、神聖なる喜劇(ディヴァーナ・コメディア)と呼ばれています」
 祭壇の上に載せられた分厚い経典の表紙を撫でながら、サライはそんな風に言った。
「では、今あなたが、この解放軍がやろうとしていることは」
「姫?」
「世界中にそれぞれの国を作った神の行いと、逆ですね。ディヴァーナ・コメディアとは逆の、世界統一計画。その国の名は《アケロンテ》、アケロンティス帝国となりましょう」
「アケロンテ?」
 どこかで聞いたような言葉に、ロゼッテは首を傾げた。喉元まで答えが出かかっているのだが思い出せない。
「ラクリシオン教の経典、どこまで真面目に読んだことありますか?」
 サライは微笑んで経典をロゼッテに突き出した。差し出す、ではなく突き出すところが、見た目はか弱そうな美少女でありながら、サライがサライたる由縁でもある。
 何事か告げようと顔を上げかけて、サライは唐突に口を閉ざした。紫の暁色の瞳がロゼッテを見上げると、そこに何とも形容しがたい色を載せる。どこか酷く哀しそうな。
「巫女姫?」
 ロゼッテを通しながら彼ではないどこか別の場所を見つめるかのようなサライの様子に、ロゼッテは対応に困った。昔から温厚で大人びた性格だったフィリシアならともかく、外見と肩書きに反して気が強いサライの相手は、本音を言ってしまえば苦手だった。彼女と気が合うのは、むしろシェスラートの方だ。
「……いいえ。なんでも、ありません」
 結局サライは珊瑚の唇をきゅっと引き結ぶと、途切れた言葉の続きをロゼッテに与えないままに会話を終了させた。思いつめたような表情で俯き経典を抱く彼女にそれ以上つめ寄るわけにも行かず、ロゼッテは祈祷所を後にする。
 一度だけ振り返って見たサライの表情は、春の雨を氷に変えるような冷たさを含んでいた。


9.不穏の萌芽

「お前たちもいつか同じ道を辿る」
「……なんだと」
「我々がそれを証明する。我々も始まりはお前たちと同じだった。ヴァルター陛下も」
 後手に縛られて、ロゼッテの前に跪かされた老人が語る。その身は全身傷だらけであったが、黒い目の光は、見る者がハッと驚く程に強い。
 解放軍はまた一つ、旧ゼルアータ勢力の砦の一つを落とした。その場所に詰めていたのはゼルアータの最盛期に王国の貴族としてそして武人として活躍した勇将の一人だった。今は年老いて肉体は衰え、皺の刻まれた顔には深い懊悩とそれに反する晴れ晴れとした安らかさが漂う。
 灰色の石が敷き詰められた砦の中は、戦闘によって流された血で無惨に赤く染め上げられていた。
 ゼルアータにこれまで味方していた者は、例外なく全てが敵。炊事担当の女たちも兵士と彼女たちの子どもらも、解放軍に歯向かう者は皆、殺していった。どんなに幼い子どもでも、生きて復讐に走られては面倒だからだ。ただのゼルアータ国民ならばまだしも、こうして砦に務めて戦いに参加した人々に温情など与えるほど彼らも温くはない。
 道を歩く何でもない人々からの略奪や追いはぎは禁じても、こうした軍事的拠点での勝利の暁に金目の物を奪うのは収入のない解放軍にとっては当然の褒章だった。
 生き残った、さしたる抵抗もしなかったという理由で生かされたゼルアータと同盟国の人々は、その光景を見開き慄く瞳に涙と共に映している。これまで属国の民を奴隷扱いにして生きてきたゼルアータの民たち。それに何の疑いも持たず生きてきた彼らが、今度は解放軍に与した人種や国々の奴隷となる番だった。
 戦闘に参加しない無抵抗の民はそれでいいとしても、解放軍相手に度重なる戦を繰り広げた将軍がそうは行かない。
 砦の主だった役職についていた者は皆、ここで捕虜とされている。武器を取り上げられて縄につき、首領ロゼッテの一言でその命が終わる瞬間を忌々しげに待っている。
「反乱軍よ。お前らに、未来などない。自分たちの行動の全てが正しいなどと勘違いに酔って、破滅の道行きを辿るがいい!」
「なんだと!」
 老将に殴りかかろうとした若い男の一人を、ソードが止める。ロゼッテも彼の視界から老将を隠すようにして、その行動を制した。
「将軍、我らは自分たちの行動全てを正しいなどと思ってはいない。我々はただ、幸せな世界が欲しいだけだ」
「では幸せな世界とは何だ? お前たちが優遇される世界か? ワシが死に、ヴァルター陛下も死んだ世界のことだろう? 我等のやり方と、どこが違う!」
「……あなたとは、どうやらこれ以上話しても無駄なようだ」
「そのようだな。さぁ、早く殺すがいい! どうせお前らも、後からこちらに来る羽目になるのだからな! 我等の落ちるのと同じ、地獄に!」
 老将軍は、高らかな笑い声をあげる。その笑声が響く内に、ロゼッテはそっと、脇に仕える従者の名を呼んだ。
「……ソード」
「はい、ロゼッテ様」
 介錯を、と血糊のついていない新しい剣をソードは彼の主であるロゼッテに差し出す。自身は別の男の背後に回り、首元に剣を突きつけた。
「ハハハハハハハ! 覚えておけよ、若僧ども! 貴様らがどうあがいたところで、この世界が変わりはせぬ! 滅ぼすだけならできるだろうがな! そしてお前らも、自らで自らを滅ぼすがいい!」
 老将の言葉が終わらぬうちに、ロゼッテはその首に刃を押し当てていた。力を込めた両腕が肉と骨の断たれる感触を伝え、斬りおとされた首が宙を舞って石の床に重たく落ちる。一拍遅れて頭を失った首から噴出した鮮血に、殺された将軍の隣に座っていた男がヒッと低く呻く。
 いくら次は己の番だと覚悟を決めようとも、その身体に着込んだ鎧の継ぎ目から入り込む返り血の生温かい感触に、男の矜持はあっさりと折れた。身を投げ出して解放軍に縋り、命乞いをする。
「い、いやだぁああああ! 死にたくない! 死にたくない! 助けてくれよ! 俺たちゼルアータの民は国王陛下に言われてあんたらザリューク人を奴隷にしていただけなんだ! あの人さえ何もしなければあんたたちと戦ったりしなかった!」
「今更何の言い逃れだ! そんな言葉で、貴様等が虐げてきた人々の恨みが晴らせると思うのか!?」
「頼む! 殺さないでくれ――――ッ!!」
 絶叫が耳障りな断末魔へと変わり、隣に倒れこんだ胴体だけの骸と同じようにその男も生を終える。その隣の男も、その隣の男も、その隣の男も、ソードが逆側から斬り殺していった者たちも、皆ロゼッテたちの手にかかり死んでいった。命乞いをする者、最期だからと遺族への遺言を頼もうとする者、解放軍への恨みつらみを叫んで殺された者、殺される瞬間にゼルアータとヴァルター王の栄光を讃えた者。様々な人間がいた。
「……他に、ここで殺しておかねばならぬような人物はいるか?」
「いいえ。この砦を預かっていた責任者たちは、これで全てのようです」
 辺りは静まり返り、生臭い血液の匂いが立ち込める。戦っている最中はなりふり構わず目にも入っていなかった死体の数々が、今更視界を埋め尽くす。戦闘の興奮を砦責任者たちの処刑という儀式で冷ますと、後に残されたのはただの殺戮現場だった。
 血と臓物の匂いで部屋は溢れかえっている。灰色だった石の壁は真っ赤で、見る影もない。
 首を斬りおとして砦の重要な役職についていた責任者たちを殺したロゼッテとソードの格好も酷い。二人とも酷く返り血に濡れて真っ赤だ。ロゼッテの蒼い髪はどす黒く染まり、頬にも紅い花が咲いている。ソードは目に入ってしまった血を、手の甲で拭っていた。
「……シェスラートたちのところへ戻ろうか」
「はい」
 ロゼッテは解放軍の首魁として勿論先陣切って飛び出す役目があるが、シェスラートも今では充分立派な戦力として数えられている。むしろ立派過ぎて、一つの部隊を任されれば一つの砦を落せると言われるぐらいだ。戦闘力はもちろん、軍才にも彼は優れているらしい。
「あっちは今どうなったところだろうな」
 解放軍の規模はゼルアータ王城に攻め込み国王を討伐した後にもまだまだ規模を増し、それだけで国の一つや二つ建国できそうな人数となっている。今では将同士で連絡を取り合い、二手に分かれて目標を攻め込むなどの作戦も容易い。
 血塗れた廊下を歩きながら、ロゼッテとソードは言葉を交わす。鉛のように重い身体を引きずりながら、それでもシェスラートの実力を知っている彼らに不安などなかった。せいぜいそろそろ戦いも終わっただろうな、と検討をつけているくらいで。
 その期待は、全く予想外の方向に裏切られた。
「和睦!? ゼルアータの将軍とか!?」
 戻って来たシェスラートの部下と仲間の報告に、ロゼッテは自らの天幕内で驚きの声をあげた。これまでの解放軍の戦いの中で、相手と和睦を試みた人間はいないし、応じた人間もいない。何しろ相手はゼルアータだ。ザリュークを始めとする数々の国を侵略し踏み荒らし、その民を奴隷として搾取してきた暴虐の大国だ。そんな相手と和睦など、できるできない、やるやらないの前に考えもしなかった。
「そうです。和睦です。停戦です。何か、相手の将軍、やけにお綺麗な顔立ちの若い男だったんすけどシェスラート隊長の知り合いだったみたいで、言葉を交わしているうちに俺たちにも何がなんだかわからない内に和解っていう流れになって……」
 報告役の若い兵士を下がらせ、もっと詳しい話を、解放軍として蜂起した頃からの古株の仲間に聞く。彼はシェスラートと一緒にサライを救出する作戦にも赴いていた、シェスラートの仲間だ。
「なぁ、ロゼッテ。あいつ……シェスラートって本当に何者だ?」
「何者とは?」
「なんか俺たちは見てても良くわからなかったけど、相手の男が出てきたとき、すごく貴族っぽい挨拶っていうか、お行儀っていうのか、そういうのしてたぜ。それでいきなり相手の将軍、これ、聞いたかもしれないが若くてまた顔の綺麗なお兄ちゃんでさ、シェスラートもそうだけどよ。その男と何か小難しいやりとりをした後、最終的に和睦とかいう流れになったみたいだぜ」
「貴族みたいって……」
「相手もそれっぽい男だったからな。俺たちみてぇな下町で泥水啜って生きてきた人間にそんな高尚なやりとりなんざわかるわけねぇだろ? まあ、シェスラート自身も充分貴族っぽしなぁ」
「シェスラートが、相手を説得したのか?」
「そうそう。要はそういうことだろ」
「そう、か……」
 ロゼッテは彼に対してそんな指示を出していない。それはシェスラートがその場で彼自身で判断したこと。つまり悪く言えば、独断ということになる。もっと詳しい話を聞こうと口を開きかけたロゼッテだが、それは天幕の入り口の布が引き上げられたことによって阻まれた。しかし顔を出したのは白い頭で、ロゼッテ自身としては図らずも求めていた結果そのものが飛び込んできたことになる。
 戦いに出る前と、当然であるが服が変わっていた。説得したとはいえ、無血開城というわけにはいかなかったという。全滅するか降伏して一部の人間だけでも残すのか、そう言った上での和睦だったらしい。返り血で汚れた服をロゼッテが着替えたように、シェスラートも身を清めてきたようだ。
白い髪は血を吸うと濁った汚い色になる。それを感じさせないようにしっかりと洗われてきた白銀は濡れて、ぺたりと一部が彼の肩や頬に張り付いていた。
この報告の前にはロゼッテやソードも水を浴びて返り血を落としている。今回の戦いは頭から血を被り、いつになく派手だった。双方とも。
「シェスラート」
「ロゼ、今日のことは……」
「ああ。今軽く話を聞いたところだ」
 促してシェスラートを天幕の内側に入れ、代わりに先程まで報告に来ていた幹部の男はシェスラートに軽く手をあげて挨拶しながら出て行く。天幕の中には、解放軍の党首ロゼッテと将軍の一人であるシェスラートが残された。
「……まず、説明をしてもらおうか? 大体のことはダーフィックから聞いたが、お前の口から直接聞きたい」
「ああ」
 シェスラートは、ロゼッテと真っ直ぐ視線を向き合わせるように敷物の上に胡坐をかいて座り込む。少女然とした見かけの割に、態度はとても男らしい。けれど、すぐにその視線は足元の方へと逃げて、俯きがちに彼は説明を始めた。
「……今回のことは、俺の勝手な判断だ」
「そうだな、俺はお前に、相手と和睦しろとは命じていない」
「……駄目だったか?」
「さぁな。それは、お前の理由次第だ」
 ロゼッテの言葉に、シェスラートは端正な面差しを微かに歪めた。
「……なぁ、ロゼ」
「なんだ」
「お前は、本当に今のまま、この解放軍の状況がいいものだと思っているのか?」
「何?」
 彼ら自身が築き上げてきた成果を疑うような言葉に、ロゼッテは思わず眼差しを険しくした。一方シェスラートはロゼッテとはどこか違う方向に視線を逸らし、床の一点を見つめながらここに来るまでに考えてきたらしい言葉を述べる。
「俺は、今のこの解放軍のやり方では未来はないと思う」
「シェスラート、何を言うんだ?」
 ぎくりと、ロゼッテはその言葉に固まった。咄嗟に上ずった声があがる。
――反乱軍よ。お前らに、未来などない。自分たちの行動の全てが正しいなどと勘違いに酔って、破滅の道行きを辿るがいい!
 斬首の刃を待ちながら、その瞳に憎悪を宿して彼らに最期まで歯向かったゼルアータの将軍の言葉が脳裏に思い浮かぶ。彼の台詞は棘のように、ロゼッテの心に突き刺さっていた。
 ――お前たちもいつか同じ道を辿る。
 そんなことにはならないと、打ち消したはずの言葉が今、こうも鮮明に蘇る。それがシェスラートの口から発せられると言う事が、尚更ロゼッテにはもどかしかった。
「あんたたち、砦や要塞を落として倒した敵は全て殺しているだろう。今までは完璧にゼルアータに与した相手ばかりだったから、それでもよかったかもしれない。けれどもう……駄目なんだ、それじゃあ。無理矢理戦に動員された同盟国の中には、ゼルアータの支配から逃れたがっている者も大勢いる。あんたたちが思っているよりずっと多く。そういう人たちを解放していかなきゃ、世界を変えるために、世界の支持なんて得られない」
 シェスラートは意を決したように、その目をあげてロゼッテを見つめる。
「自分たちに従わない相手に対して、説得もせずにただ滅ぼすんじゃ、ゼルアータのやり方と同じだ」
「……黙れッ!!」
 反射的なものだった。頭で考えての行動ではなかった。
 ロゼッテはシェスラートの肩を掴むと、無理矢理その身を床に押し付けていた。シェスラートの身体は華奢だ。屈強な体つきのロゼッテに、それを組み伏せる事は容易かった。
「お前などに何がわかる!」
 吸血鬼である、お前などに!
 床に血の染みが広がった。シェスラートは肩を怪我していた。生暖かい感触と苦痛に小さく呻いた声に、ロゼッテはようやく我に帰る。
「す……すまん! シェスラート、本当に……」
 ロゼッテが手を離すと、シェスラートは傷ついたほうの肩を手で押さえながらゆっくりと身を起こした。呆然とした表情のまま、紅い唇から言葉が零れる。
「それが、本音なのか。ロゼッテ、お前の……」
 掠れた声で、喘ぐように呟く。
「シェスラート、俺は……その、俺は」
 先程の態度はまずかったのだと、ロゼッテも自分でわかっている。けれど上手い弁明も謝罪も思いつかない。意味のない単語の羅列ばかりが漏れる。
 そして飾った言い訳をロゼッテが口にできるまで、シェスラートは待ってはくれなかった。
「俺の話……一方的に聞けとは、言わない。でも少しでもあんたがそれについて、良くも悪くも何か思ったなら、考えてみてくれないか……? 相手が俺だから気に入らないっていうなら、ソードなりフィリシアなり他の幹部たちなりに相談してくれて、構わないから……」
「待ってくれシェスラート! 違う! 俺はお前が、気に入らないとか、そういうんじゃなくて!」
「……ごめん。傷口、開いちまった。一応治療したいから、また、後で」
 流血している肩を押さえたまま、シェスラートは立ち上がった。
「……ごめん、ロゼッテ」
 謝るべきはこちらの方なのに、何故か最後にそう口にしてシェスラートは天幕を後にした。
「シェスラート……」
 細いその身を追いかけることも出来ず、ロゼッテはただ自分の天幕で蹲っていた。網膜には先程の哀しげな表情のシェスラートが焼きつき、鼓膜には昼間殺した男の言葉が何度でも繰り返されて彼を責める。
 ――さぁ、早く殺すがいい! どうせお前らも、後からこちらに来る羽目になるのだからな! 我等の落ちるのと同じ、地獄に!
 いつか必ず同じ道を辿るのだと。その言葉は不吉な予言じみている。巫女姫サライでもないただの男の言葉なのに、何故こんなにも人の胸を惑わせるのか。
 そしてまた、別の誰かが頭の中で囁いた。
 ――さぁ、一緒に、地獄へと堕ちよう……。


10.告白

 薄色の花の花弁が蝶のように舞っている。
「戦乱のこの時代に、こんな場所があるなんて……」
 フィリシアが感動したように呟いた。解放軍の一時の休息のために立ち寄ったその場所は、夢のような景色を広げていた。
 一面の花畑。その花は乾いた砂漠でもしぶとく根を張って繁殖する生命力の強い種だと知ってはいたが、それでも人々が美しいと思う気持ちに変わりはなかった。
「この辺りはゼルアータが周辺国に攻め入る進路でもありませんし、我々も今まで通ったことはありませんでしたからね。誰にも踏み荒らされていないのでしょう」
「それも、今日までだけどな」
 ソードの言葉に、意外と冷たく返したのはシェスラートだ。
「シェスラート?」
「ちょっと、歩いて来る」
 ロゼッテの腕をかわし、シェスラートは与えられた休憩時間の間、一人で丘の上の花畑を歩き回った。
 いつしかその背後に小柄な一つの影が付きまとうようになる。
「何の用?」
「まだ、個人的にはお礼を言っていなかったと思って」
 振り返ったシェスラートに軽くねめつけられたサライは、にっこりと笑顔で返した。銀髪に薄紫の瞳が儚げなウィスタリア人の十五、六歳の少女。しかしその性格はか弱げな外見の印象を裏切るほどに強かだ。
「助けてくれてありがと。感謝するわ」
「あんたは死にたかったんじゃないのか?」
 サライの言葉に、ふと記憶を触発されてシェスラートは言った。あの時、サライは屋上から飛び降りようとしていたのではなかったか。もしも彼女が死を望んでいたのだとすれば、自分がしたことは余計なお世話というやつではなかっただろうか。……先日のロゼッテとのやりとりのように。しかし。
「死のうとはしたけど、死ぬ必要がないんだったらその方がいいに決まってるじゃない」
 にやりと、不敵な笑みを浮かべて神聖な巫女姫は告げた。シェスラートは苦笑する。
「だって、私はあなたみたいな吸血鬼と違って脆弱なただの人間。死んだら二度と生き返らないもの……そう、今あなたが心配している、この足元の花のように」
 サライは相変わらず、恐ろしいほどに勘がいい。それが彼女自身の能力なのか、神託の影響なのかシェスラートにはよくわからない。予言を司る巫女姫という神秘的な存在でありながら、時々男より男前なこの姫君は誰よりも人間らしい。
 シェスラートは小さく溜め息をついて、足元へと目を向けた。
 儚げな薄紫の花。茎は短く葉は陽光を浴びるために大きく広げ、肝心の花は絹のように柔らかくて薄い。その花弁が幾枚も重なり合って、とても綺麗な花だった。そしてその外見とは裏腹に、土中には長い根を蔓延らせ養分を吸い上げる、丈夫でしぶとい花でもある。けれど解放軍が休憩地にした以上、この花畑がこれまでどおり美しい様で残るとは考えられない。脳裏を掠めるほんの少しの憂いごとを言い当てられて、内心では酷く驚いていた。
「サライ姫」
「サライでいいわ」
 銀髪の乙女は、親しげな笑顔を浮かべた。壁を作らないその表情に触発されて、気づけばシェスラートは胸に押し込めたはずの思いを吐露していた。
「ここを使わないで、って言えばよかったのかな」
「ロゼッテ=エヴェルシードに?」
「うん。でも、やっぱり無理だよな」
 花は涼しげに揺れていた。しかし白に極近い紫の花、サライの瞳のような色をした花たちは、解放軍の面々の無骨な長靴に柔らかな花弁と茎葉を踏みにじられて萎れていく。茎の大きさの割には大輪の花をつけるたくましいその命が、あっさりと痛めつけられ引きちぎられる。今も、この足の下でさえ。
「また咲くわよ。強い花だもの。荒れた大地に神が手を触れて生み出した花よ。幾度踏みにじられても焼き払われても、何度でも繰り返し咲く」
「けれどその咲いた花は、今のこの花と違うだろう?」
シェスラートは屈みこみ、その儚い花弁に手を触れる。
「種はまた新しく咲くけれど、その花も、どんなに姿が同じでももう前の花ではないだろう? 踏みにじられたものが、そのまま息を吹き返すわけではないだろう」
「そう――それは、人がただそう思いたいだけの欺瞞」
 花は何度でも咲き、丘の上の花畑は甦ろうとも。
 そこに咲く花は焼き払われたものと同一ではない。同じ種類、同じ色、同じ花弁、それでも、そのたった一輪の花の命は二度と戻っては来ない。人間だってどんな生き物だって同じだろう。子どもがどんなに健やかに成長したところで、それは親とは別人だ。
 亡くした者は二度と戻ってはこない。それを、痛いほどに知っている。誰かを救えば誰かを殺した罪がなくなるというものではない。どんなに似ていてもまったく同じものなどこの世に一つもない。
 花は繰り返し咲くけれど、それは前の花と決して同じではない。一度踏みにじられた花の命は戻ってこない。それを、毎年同じ場所にある去年とは全く違うはずの良く似た花畑を目にすることで、人はその尊さを忘れていく。
「この花たちに意思があれば、俺たちを恨むのかな?」
 寂しく問いかけたシェスラートに、真摯な声音でもってサライが返した。
「同じ花は咲かなくとも、花が咲く事は無意味ではないわ」
 その命を次代に繋げるために、花はこんなにも美しく咲き誇る。ならば。
「シェスラート=ローゼンティア」
「ん?」
「私に、あなたの花をちょうだい。明日にまた咲く、今日とは違う花の命」
「それって……」
「そうよ」
 すでに見慣れた聖典を読み上げるような確かさで、彼女はそれをシェスラートに告げた。
「私はあなたが好き」
 ザッと風が吹いた。辺りの花の花弁が撒き散らされる。その風にサライの銀の髪も散る。けれど眼差しは一切揺らがない。
「あなたと共に生き、あなたの命に、未来をあげたい」
 足元の花が風に吹かれて揺れる。何度でも踏みにじられ、何度でも新しく咲きながら、だからこそ人は、それが前と違う花であることに気づかない。忘れ去られた痛みの下で、破滅と再生を繰り返す命があることを。
 もしかしたらそれこそが、何よりも残酷なことなのかもしれない。
「返事は今度でいいわ。だってあなたはまだ自分の気持ちに決着つけてないでしょ? そんな時に言われてもどうしようもないって、あたし、知っててあなたに言ったの」
「……サライ」
「ねぇ、だから忘れないでね。あたしはあなたが大好きよ」
 たとえあなたにとって、それが何の意味も持たなくても。
 花のように美しき巫女は、ただそう言って微笑んだ。

 ◆◆◆◆◆

 花は何度でも繰り返し咲くけれど、前と同じ花などない。それはあまりにも明らかな事実だけれど、人は言われなければそれを重要視しない。
 足元の花などどんなに美しくても、所詮はそれだけの存在。
 人の世の思惑など知りもせず、我関せずと花は美しくそこに咲く。
 それこそがこの世で、もっとも残酷な世界の理であるのかもしれない。

 ――たとえあなたが死んだところで、私がともに死ぬわけではない。

 あなたがいなくなったとしても、この大地にまた繰り返し、別の花々が咲き誇るように。

 ◆◆◆◆◆

 明日は戦闘になるというのに、酒を注ぐ手が止まらない。
「皆さん、ほどほどにしてくださいよ」
 呆れたと大きく顔に書いて嗜めるソードにもめげず、解放軍の面々は小さな宴の真っ最中だった。慎ましやかなつまみと一緒に、安酒を煽りでたらめな歌を歌う。
 明日はいよいよ、ゼルアータ最後の残党軍との戦闘だ。向こうにはまだいくらか高名な歴戦の将が残っていて、いくら解放軍が力を増したとはいえ、勝てるかどうかわからない。
 勝てたとしても、その勝利者の中に果たして自分の姿があるかどうかわからないのが戦争と言うものだ。だから打倒ゼルアータという、帝国成立というまだ不確定な今後の展望を抜かせば事実上の最終決戦を控えて、兵士たちは一段と陽気だった。恐れを振り払うように。
 宴の中にはシェスラートと、彼の隣に寄り添うように予言の巫女姫サライ、そしてシェスラートと向かい合うようにしてロゼッテが座り、その斜め後に行儀よくソードが控えている。ソードの隣ではフィリシアが微笑んでいて、いつもの見慣れた光景だ。
「それにしても、ようやくここまで来たっていう感じだよなぁ」
「ああ、元はロゼッテが率いる小さな反抗組織でさ」
 一人が口に出せば、芋づる式にズルズルと昔の思い出話に花が咲いていく。
「俺たちがゼルアータを滅ぼすなんて、絶対無理だと思ってたのにな」
「今じゃ後一歩のとこだろ? ここまで俺たちを引っ張ってきたのはロゼッテだけどさ、やっぱりシェスラートの力が大きいよなぁ」
「俺?」
 いきなり名を呼ばれて、シェスラートが紅い瞳をぱちくりとさせながら男たちの方を向いた。解放軍の中にはまだガナンのように吸血鬼に偏見を持っている人々もいるが、目の前の彼らは概ねシェスラートに対して好意的な人々ばかりだ。
「そうだよ。お前がもう一騎当千の言葉どおりばっさばっさと敵を薙ぎ倒していくからさ。今じゃ首領のロゼッテと張る勢いで有名だ。ロゼッテとシェスラート、解放軍の躍進は、お前ら二人のおかげだって」
「っていうか、下っ端連中の話聞いてるとさ、時々お前ら二人名前混ざってるぜ?」
「へ?」
 ロゼッテはシェスラートと顔を見合わせた。
「シェスラートのことロゼッテって言ってたり、ロゼッテがシェスラートになってたり」
「ああ、それはまあ要するに、『ロゼッテ』の名前が男にしては可愛すぎるのがいけないんじゃないか?」
「おいおぃ」
 ロゼッテは苦笑するが、シェスラートは何事か合点がいったように手を打ち合わせた。
「あー、それ、言っても良かったんだ」
「お前もそう思ってたのか?」
「頭領、名前可愛いよ。女の子みたいだよ」
「エヴェルシード本人を知ってから『ロゼッテ』って聞くと違和感あるよな」
「……」
 人より立派な体格を持つロゼッテは、次々にかけられた言葉に沈黙する。ザリューク人らしい蒼い髪は短く、橙色の瞳は鋭い。精悍な顔立ちと屈強な顔つきの彼が、しかし名前だけは女性らしいと笑われる。ある意味慣れたことといえばそうなのだが、見た目が女性的なシェスラートにまで同意されては口ごもるしかなかった。さらに話題は、ロゼッテだけでなくシェスラートの方にまで及ぶ。
「それに比べて、『シェスラート』は何だかお綺麗な名前じゃないか」
「顔は女の子みたいなのにな」
「べー、だ。男は顔じゃないもん」
 ねー、とサライに向かって微笑むシェスラートを見て、ロゼッテは人知れず複雑な気持ちに陥った。それにも構わず、宴の席での話は続く。
「いっそお前ら、名前交換しちゃったらどうだ?」
「ってなると、どうなるんだ? シェスラート=エヴェルシードと」
「ロゼッテ=ローゼンティア」
「そっちの方がシェスラート=ローゼンティアとロゼッテ=エヴェルシードよりしっくりくる気がしないか?」
「だからって、名前なんてそんなその時の気分で交換できるわけないだろ」
 たわいない話に笑い、呆れ、決戦前夜が更けていく。
「おいおいシェスラート、寝るならちゃんと天幕に戻れ」
 宴もお開きになり、各自の寝所へと男たちが戻る。すでに夢と現を行き来するシェスラートを、ロゼッテは揺り起こした。大事な戦いの前に風邪など引かれては困る。彼は――シェスラートはゼルアータ最強の将軍と戦う予定なのだから。
 人外の力を持つシェスラートの実力を期待しての任命なのだが、どうにもロゼッテには納得がいかなかった。作戦上最も危険な役目を、彼に押し付ける。シェスラートのことだから、きっと生きて帰れないなんてことにはならないと思うのだが。
 だいたい、吸血鬼は人間ほど脆くない。死んでも傷の程度によっては、蘇りが可能だという、つくづく強靭な種族。
 それでも吸血鬼の一族はゼルアータに蹂躙された。
 最高の力を持つ魔族なのに、何故彼らはただの人間であるゼルアータ人に勝てなかったのだろうか……
 つらつらと埒もないことを考えていると、いつの間にか深紅の瞳が自分を見つめていることに気づいた。
「なっ、シェ、シェスラートっ?」
 起きていたなら早く言ってくれ、と彼に上着をかけようとした中途半端な姿勢で固まっていたロゼッテは思わずそう言葉をぶつける。しかしまだ夢現なのは酒精の影響か、シェスラートの眼差しはとろんとしたままぼんやりとロゼッテを見つめていた。
「ロゼッテ」
 酔って寝ぼけているにしては意外なほどはっきりした口調でシェスラートは彼を呼んだ。
「俺、お前が……」
「シェスラート?」
「お前が好きだ」
「――――」
 その瞬間、時が止まったような気がした。
「な……にを言ってるんだよ、シェスラート。冗談」
「冗談なんかじゃない」
 だって俺たちは男同士だろう。そんなそもそもの大前提さえ無視して、いきなり何を言い出すのか。ロゼッテの困惑など知らず、シェスラートはゆっくりと卓に突っ伏していた身体を起こし、彼を睨みつける。
「俺は、お前が好きなんだ」
「ッ……!!」
 有無を言わさぬ口調で、シェスラートはそう宣言した。
 凍りついたように動けないロゼッテの目の前まで来ると、白い手でその頬を包む。至近距離で見つめあい、鼓動さえも触れた肌から伝わってしまいそうだった。睦言の最中のように、掠れた声で甘く囁く。
「好きなんだよ、ロゼッテ」
 それが例え、未来なき禁じられた想いであっても。
「お前のために、解放軍に入った。お前のために、ゼルアータを滅ぼす協力をした。全部全部、お前のためだ……」
 本当はもう、一族などどうでもよい。ヴァルター王が死んだあの日に未来を失くしたシェスラートに、再び道を与えたのは彼だった。
「それを受け入れろとか、見返りを要求するわけじゃない、でも、知って欲しかった」
 血のような深紅の瞳が、一途な光を湛えてロゼッテを見つめる。
「俺の全ては、あんたのためだ。この数年は、全部あんたのためにあった」
「な、んで……」
「わからない。命を助けられたからか。あんたがどうしようもなくってほっとけないからか。でも、確かに好きなんだ。あんたの力になりたいと思う……俺は、シェスラートはロゼッテのものだよ」
 あなたのもの。その言葉は、強くロゼッテの心を打ち震わせた。魂の奥底から痺れる。
 しかしそれと同時に、心の澱んだ奥底から湧き上がる想いがある。
「シェスラート、俺は……俺は、お前に答えられない」
 その答を返した瞬間、本当に、ほんのかすかな一瞬だけシェスラートは悲壮に目を瞠った。けれどすぐに諦めたように相好を崩し、慈悲深い天人のように微笑む。
「……そっか」
「シェスラート」
「ううん。いいんだ。ロゼッテ。無理は言わない。俺はお前を俺の意見や気持ちに従わせたいわけじゃない。ただ知って欲しかっただけ。俺の気持ちを」
 そう言って、シェスラートはロゼッテに口づけた。けれど性的なものを感じさせる唇への接吻ではない。親が子どもに、兄姉が弟妹に、友人が友人にするように額に柔らかく熱を送る。
「お前がどんな言葉を返したところで、俺の気持ちは変わらない。解放軍も辞めない。大丈夫、これまでどおりにちゃんとやるから。……忘れていいよ。俺の言ったこと」
「シェスラート……」
 シェスラートはロゼッテの頬からそっと手を離し、酒精の欠片も感じさせない、しっかりとした足取りで立ち上がった。
 闇夜に浮ぶ、その姿があまりにも美しいので。
「お休み。ロゼッテ」
 これは夢ではないのかと、ロゼッテはただ、そう思った。


11.始まりの皇帝

「別れましょう」
 切り出そうとした台詞を先取りされて、彼は一瞬言葉に詰まる。
「……いいのか?」
「ええ」
 フィリシアは穏やかな表情で頷いた。
「ロゼッテ様の方から、そう言い出すつもりだったのでしょう。お生憎様ですね。悔しいので、わたくしから先に言わせていただきました」
 二人きりの天幕、彼女の荷物はすでに整頓されていた。明日になれば、もう共にここで過ごすこともない。解放軍を抜けるわけではないけれど、もはやロゼッテの恋人であり婚約者だというくくりは無意味なものとなった。そうなったところで追い払われないだけの信頼と実力をフィリシアは持っているので心配はないが。
「……フィリシア、君は」
「わかっていたのです。あなたがわたくしを、愛してはくださらなかったことくらい。あなたはいつも、わたくしを通して、ただまほろばの女性を見ていましたね」
「……俺は母が嫌いだった。だから、彼女と正反対の君が好きだった。いや……好きなんだと思っていた」
「ここにきて、ようやく勘違いに気づいたわけですね」
「すまない」
 フィリシアは緩く首を振る。まるでこうなることが、最初からわかっていたというように。
「シェスラート様は、素敵な方ですよ」
 ロゼッテは瞠目した。彼女の口から遠回しに伝えられた自らの気持ちに、咄嗟に何も言えなくなるくらいには、動揺する。
「フィリシア……どうか許してくれ」
 懇願の言葉が出た。みっともなく崩れた表情でかつての婚約者に許しを請う。ここまできて君を捨てる俺を、どうか許してくれ。
「許しませんわ」
 凛とした声音が断罪する。
「許しませんわ。恨みますわ。ロゼッテ様。そしてそれを、いつかあっさりと忘れます。わたくしは幸せになりますので、どうぞあなたもお元気で」

 ◆◆◆◆◆

 天幕を後にしたフィリシアを迎えたのは、一つの影だった。
「ソード」
「……フィリシア様」
 彼はどこか居心地悪そうな顔で、フィリシアを見るともなしに見ながらその場に立っている。ああ、そういえば自分は何の気負いもなしに勿論予備情報や下準備のような段階もなしにロゼッテの天幕に行き、そこで勢いのままに別れ話を切り出されたのだったとフィリシアは現状を思い返す。
 あれがロゼッテの側も完全に勢いからの行動であるのならば、たぶんソードはそれについて、何も知らされていなかったのだろう。そして従者として常日頃からロゼッテの側に侍る彼の帰る場所はこの天幕だ。うっかり戻って来たところで、ロゼッテとフィリシアの話を立ち聞きしてしまったようだ。
「ごめんなさいね。居心地の悪い思いをさせて。先程の話、聞こえてしまったのね。そんなに大きな声で話していたつもりはないけれど。じゃあ他の人たちにも聞こえてしまったかしら?」
「いえ……その、私は特に耳がいいと、常日頃から言われているものですから」
 気詰まりなあまりに、なんだかどうでもいいような話をするソードに、フィリシアは苦笑する。
「本当、ごめんなさい。でも気にしなくていいのよ。わたくしとロゼッテ様の間では、きちんと決着がついているわ。このことで後々までもめたりしないから、どうか安心して」
 ソードはロゼッテの従者として、巷でよくある痴情のもつれから起こる問題に主が巻き込まれないかと危惧しているのだろう。そう考えたフィリシアは、彼を安心させるようにやわらかく微笑んだ。ソードがカッと顔を朱に染める。
「それじゃあ――」
「お待ちください! フィリシア様!」
 去っていこうとしたフィリシアを、咄嗟にその細腕を掴むことでソードは引き止めた。思いがけない彼の行動に、フィリシアは驚きのあまり目をまん丸にして彼を見ている。
「あ……も、申し訳ありません!」
 普段は冷静沈着で知られた従者が、今はらしくもなく狼狽しきりの様子で彼女に頭を下げる。一体どうしたのかと思わず掴まれた腕を胸元に引き寄せながら、彼女はソードをまじまじと見つめた。
 もとはザリューク貴族の令嬢であるフィリシアは、ロゼッテとは幼馴染だ。当然ソードより彼との付き合いは古く、そしてロゼッテがソードと過ごした時間の同じだけをまた、彼女もソードと過ごしている。十代半ばでロゼッテが拾ったソードと知り合い、それから十年ほどの付き合いをロゼッテを間に挟みながら続けてきた。
「どうしたの?」
 彼女の中では、ソードという人物は落ち着いた青年と出会った頃の警戒心が強くまだまだ未熟な少年が混在している。だからこそ、普通の人々のようにソードはただ冷静で酷薄なだけの人物とも思わない。
「フィ……フィリシア様、その」
 意を決したように赤く染まった顔を上げ、ソードは自らの想いをつげた。
「私では、駄目でしょうか!?」
「……え?」
 フィリシアはその夕焼け色の瞳で瞬いた。彼女にとってば予想外の事態に、まずは呆気に取られたような衝撃が地味に走る。
「わ、私はもちろんロゼッテ様のように高貴な御身分でも、解放軍を従えるだけの実力があるわけでもありません。けれど……不敬とは思いながら、ずっとあなた様をお慕いしておりました!」
「ソード……」
「フィリシア様をご不快な気分にさせるつもりはありません。ただ、お側にいることをお許しください。あなたが私をなんとも思っていなくともかまわない。ただ、私があなたを愛することを、どうか――――」
 自分より少しだけ年下のそんなソードの言葉に、フィリシアは覚えず微笑んでいた。
「ありがとう、ソード。……わたくしも、あなたという人を、とても好ましい存在だと思っているわよ?」
「え……そ、それでは」
 まだ動揺の抜けきらない青年に、フィリシアはにっこりと笑顔を向ける。
 そして心の中で、先程別れたばかりの、けれど心はとうに離れていることを知っていた元婚約者に告げる。
 ごめんなさいね。ロゼッテ様。ずっとあなたのお心が別の方に向いているのを知りながら、あなたを解放して差し上げなくて。
 それでも、わたくしはこうして幸せになります。
 だからあなたも、どうかお幸せに。
 願うのは、ただそれだけだった。

 ◆◆◆◆◆

「いつか破滅するぞ」
 遺言を聞いてやろうと言えば、それは予想通りこちらへの恨み言だった。
 ゼルアータ南方将軍撃破。ロゼッテのもとに、シェスラートの勝利の知らせがもたらされる。後は目の前、武器を奪われ解放軍の兵士によって地に伏せさせられたゼルアータ最後の大臣を殺せば、戦いは終わる。踏み荒らされた宮殿の一室に、狂ったような静寂が満ちては罵声に破られる。
 シェスラートには軍事の最高司令官を、ロゼッテは解放軍の頭領としてゼルアータ政府の最高責任者を討つために。二人は別れて行動し、そのどちらもが今ようやく終わろうとしていた。このロゼッテの一振りによって。
 逃げ道はなく、殺されるのを待つばかりとなったゼルアータの大臣は忌々しげにロゼッテを睨みながら、それでもどこか強さを失わない歪な光をその瞳に湛えていた。
「破滅をするぞ。解放軍。お前たちの幼稚な理想に明日はない」
 まただ。またここでも明日が……未来がないと言われる。
「何故そんなことが言える」
「お前らにはわからんのだ。ヴァルター陛下の偉大さが」
 すでに亡き、ゼルアータ国王ヴァルター。彼は自国の民以外を差別迫害し、属国の者を奴隷とし、あらゆる方法で搾取を続けた。それに激した解放軍の面々が、復讐を果たさんと武器を手に取り、暴虐の大国へ叛旗を翻した。その強大な武力と差別意識故に誰もが改革など成せないと諦めていたその国を、ロゼッテは今、打ち破る。
「ゼルアータのやり方は間違っている。遅かれ早かれ、破綻していたはずだ。その結果がこれだろう」
「そうかな? 世界はお前が思っているより矮小で卑屈だぞ、ロゼッテ=エヴェルシード。高潔な理想など具現することはない。ヴァルター王は名君だったのだ。ゼルアータの民にとって」
「そして他の国にとっては暴君だった」
「そうだ。だがそれでいい。全ての人間が救われることなどありはしない。――ヴァルター陛下! 私はどこまでも、あなたについていきますぞ!」
 虚空に向かい歓喜の声をあげた男の首をロゼッテは一刀の元に斬り伏せる。すでに理性はなく、男は狂っていた。
 ゼルアータ政府の要職についていた男の結末は哀れなものだったのかもしれない。だがロゼッテはこうも思う。人は己の見たいものだけを見る。
 ヴァルター王を名君と讃えながら死んでいったあの男は、そのヴァルターがすでに解放軍に敗れたことを忘れている。どれほどの武力で威圧しても、民の反発を煽りいつかは破滅していただろう。ゼルアータはそういう国だった。ヴァルター王の栄華は、そういうものだった。
「終わりましたね」
 亡骸を前に立ち尽くすロゼッテに、背後で控えていたソードが声をかけてくる。解放軍の他の面々も、肩の荷を下ろしたごとく晴れやかな顔をしている。
「ゼルアータが滅びた! これでやっと、俺たちは幸せになれる!」
 幸せ?
 何故だろうか、ロゼッテの心は晴れない。自らが殺した男の言葉が、憎いほど鮮やかに耳に焼き付いている。
全ての人間が救われることなどありはしない。
 宮殿の外では、凱歌が唄われ始めた。

 ◆◆◆◆◆

「ゼルアータ打倒は果した。これより、《帝国》成立のための戦いに入る」
 ゼルアータ最後の勢力を撃破した解放軍は、かの国の城砦の一つを乗っ取った。これまでと同じように、もしかしたらそれ以上に困難な道のりを行くためにはいつまでも移動式天幕ではなく、れっきとした拠点が必要だった。
 しかし、一つの国を滅ぼした、それもあの暴虐の大国ゼルアータ。世界史上例を見ない大きな戦いの勝利に浮かれ、解放軍はすぐには行動を起こさなかった。もともと、ゼルアータさえ討ち取ってしまえば同じ大陸内にすぐにも脅威になるような国はないのだ。ロゼッテの《世界帝国》思想を実現させるためには今回の戦いと関わりのないバロック大陸の国々がどう動くかわからないが、何しろ別大陸のことだからこそすぐに戦いに突入することもないだろう、と。
 それよりも自分たちが休息をとる間に、これまで親ゼルアータ派だった国々には、解放軍勢力に迎合する覚悟を決めさせようと、ロゼッテたちは殊更派手に戦勝の宴を行った。
 そして同時に、《帝国》設立のための宣言を。
 もちろん反発は大きかった。ゼルアータに与していた勢力はもちろん、ロゼッテたちザリューク人や下層の虐げられ続けてきた民でもって構成される解放軍が世界を牛耳るという大言壮語に、各国の貴族階層の人々は失笑を隠そうともしなかった。それよりも賢く、解放軍の実力を知りすぎている者たちは純粋に慄いた。
 けれど、シュトゥルム大陸のほぼ全土がこれまでゼルアータに支配されていたのだ。ゼルアータの奴隷国家だった弱き国々の民たちは、解放軍の宣言に沸き立った。
 一つの国の滅亡が一つの破滅を招き、それが世界を変えようとしていた。

 ◆◆◆◆◆

「ねぇ、サライ。これ……何かな?」
 とりあえずわからないことはサライ=ウィスタリア姫に聞け。解放軍ではそれが一種の掟のようになっている。どうしようもなくくだらなく意味がないことには冷淡だが、本当に困ったことならばサライは力を貸してくれる。魔法のように人々の質問に答える様は、まさに巫女と呼ぶにふさわしい。
 だからそれに気づいたシェスラートも、まずは、とサライに相談した。幸い彼はサライと親しい。もっと言ってしまうならば、恋人同士だ。
 先日の花畑の中での告白に、ついにシェスラートは答を返した。サライの気持ちに報い、彼女を愛することを誓う。もともと、快活にして実は思慮深い彼女の人格をシェスラートは気に入っていた。好意を向けられて迷惑がることなどあるわけがない。サライはどうしてこんなに、とシェスラート自身で思うほどに、彼を愛してくれる。それをただ享受できる日々は、戦乱の中でも確かに幸せだ。自分が彼女にそれほどのものを返せているのかは自信がないが、見た目は儚げで心のうちも気丈に振舞いながら本当は繊細な彼女に、できれば幸せになってもらいたいという気持ちは真実だ。恋情かと言われれば首を傾げてしまう気はするが、確かに愛情というものはあった。
ロゼッテを想い続けることに意味はない。彼への想いを失ったわけではないが、厳重に封をして身の内へ閉じ込めて、シェスラートはサライと生きて行くことを選ぶ。――きっとその方が、みんな幸せだ。
 さてそんなわけで今日も彼女の天幕に立ち寄ったシェスラートは、自らの服の袖をまくり、左腕をサライへと見せた。どれどれと覗き込んだサライが、その瞬間さっと顔色を変えた。
「これは……」
「え? 何? 何かヤバい病気か何か?」
「違うわ。これは……」
 サライはシェスラートを無理矢理引きずり、ロゼッテたち解放軍幹部のもとへと連れて行く。そこで、彼女は驚くべき宣言をなした。
「初代皇帝となるべきは《シェスラート》」
 巫女姫サライの予言により、解放軍の中には波紋が広がった。ここまできてすぐさま行動を起こせなかったのには、そう言った背景もある。
 彼らが求める《帝国》思想。けれどそこで一つ根本的な問題になるのは、誰がその支配者になるかということだった。ゼルアータがそうであったように、一つの国が大陸を支配するのは危険極まりない行動だ。それが例え全ての国々を統一併合した帝国という呼び名の世界を作ることであったとしても、上に立つ者が一部族を優遇し他の部族を差別迫害する可能性がないわけでもない。世界を公正に治める支配者を上に立てるのは急務。だが。
「私は、てっきりロゼッテ様が王になるものだと……」
 皇帝と言う新しい呼称がまだ口に馴染まないのかそう言ったソードと、同じ顔を解放軍幹部の半分がする。そしてもう半分は、戦場での奮迅ぶりを発揮したシェスラートへと傾倒する一派だった。
「何言ってんだよ。巫女姫様がそう言ってるんだぜ? それに、シェスラートは充分戦いに貢献しただろう? ゼルアータの打倒なんて、シェスラートの活躍がなけりゃ絶対無理だった」
 これまで解放軍を纏めてきたのはロゼッテ。けれどこの度のゼルアータ打倒は、吸血鬼シェスラートの超人的な力がなければ成し得なかっただろう。どちらを支配者にするかで幹部内の意見が分かれた。シェスラートを皇帝に立てて、ロゼッテを補佐につければいいのでは? という考えもあがる。シェスラートとサライの仲を知る者は、彼女が自らの夫を皇帝にしたいがために虚言を言っているのではないかと勘繰る者も勿論いた。
 けれど、サライは決して予言を覆さない。
「シェスラート……あなた自身はこれでいいのですか? これまで戦うばかりで政治的なやりとりに関わってこなかったあなたが、いきなり皇帝など、やれるのですか……?」
「俺は……」
 指名をされたシェスラート自身も、勿論おおいに戸惑っていた。けれどサライはそれに関しては何も言わず、始皇帝シェスラートの神託を宣言した後は、沈黙を守り続けている。
 そして、ロゼッテは。


12.赦されざる者

「なぁ、シェスラート。……サライと結婚するんだってな」
 ある日ロゼッテは解放軍根拠地近くの廃教会で、シェスラートと久々に二人きりの時間を持っていた。
「ああ。うん。まだ聞いてなかったのか?」
 最近の解放軍内部は、上層部のみとはいえ静かに荒れている。話題は決まって同じ事だ。シェスラートとロゼッテ、そのどちらを今後の自分たちの主君、つまりは《世界皇帝》として仰ぐか。
 予言の巫女姫たるサライの神託は絶対だ。けれど、人々の感情が追いついてはいかない。もともと解放軍はロゼッテが作り上げた組織で、幹部は最近になってその地位を授けられた者もいるが、大多数は結成時からのロゼッテの仲間や部下だった者たちだ。巫女がシェスラートこそ皇帝になるべき人物だと言ったところで、そう簡単に割り切れるものではなかった。
「子どもができたんだってさ。本当は吸血鬼って魔族だから多種族と交わらない方がいいんだけど、ゼルアータに殺されて人数が減っちゃったから、今回は例外かな」
 最近のその話題の二人、しかも立場的に争う者同士と言う複雑な関係のせいで、ここしばらくロゼッテとシェスラートが二人きりで同じ空間にいるということがなかった。他愛のない話すらできずに、こんな、解放軍の本拠地とした砦から少し離れた場所でもなければ二人きりになれない。珍しくソードすら連れずにここまでやってきたロゼッテは、ゆっくりとシェスラートの方へ視線を向けた。彼はロゼッテを見てはいなかった。
 戦乱の最中に打ち捨てられたのだろう、ラクリシオン教の廃教会は、ろくに座れるような足場がなかった。瓦礫や割れた硝子片を踏まないように、二人は思い思いの場所にそれぞれ腰掛ける。てんで別の方向を向いた座席を見つけて、だから、視線は意識しなければ合わせることもない。
「……そうか」
「ロゼはフィリシアと別れたんだって?」
「ああ」
「どうして? あんなに仲良かったじゃないか」
 シェスラートの当然と言えば当然な言葉に、ロゼッテは口元に静かな笑みをはいて答えた。
「……お前には関係ないよ、シェスラート」
「そう……」
 そんな風に言われてしまえば、シェスラートは黙るしかない。何となく間を持たせたくて、再び別の話題を出した。
「なぁ、ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク」
「なんだ?」
「ザリュークを再建する気はないのか? 今ならできるぞ? 世界をゼルアータの支配から救った解放軍の頭領が王になるなら、反対は少ない」
「俺はザリュークが好きじゃないんだ。女王だった母親が苦手だったもので」
「じゃあ、エヴェルシード王国でいいじゃないか」
「お前こそ、国でも作らないのか? ローゼンティア王国。バイゼルハムス将軍を討ち取った戦神シェスラート=ローゼンティアなら、今なら吸血鬼の一族を一つの国家にできるんじゃないか?」
「それは無理だよ。わかってるだろ? だって、俺は……」
「《皇帝》になるからか?」
「というより――――」
 ロゼッテは立ち上がる。忍ばせる気もなかった足音をシェスラートは気にせず、尖った耳はかすかに金属の擦れる音を聞く。何事か言いかけた唇に鮮血の紅が伝った。
「ロゼ……」
 その脇腹を、ロゼッテの剣が貫いていた。

 ◆◆◆◆◆

 一人の男が、その一室にやって来た。
「……告解をしたいんです。巫女姫様」
「どうぞ」
 簡易な祭壇を設えた一室は、解放軍の根拠地とされた砦の中にあって礼拝堂とされた。砦の近くに打ち捨てられた廃教会があることにはあるが、あまりにも状態が酷くて使えそうもない。なので、サライは砦の一室をもらい、そこをラクリシオン教の信者のための儀式と告解のための部屋とした。
 彼女の言葉に促され、ガナンは部屋の中に進む。赤い絨毯を敷かれた道の途中で膝を着き、みっともなく跪いた。
「懺悔を……させてください、巫女様」
 部屋の設えた祭壇の前にいたサライは、その様子に驚きつつも何も言わず、ただ穏やかに男の言葉の先を促す。
「どうかされたのですか?」
「吸血鬼の一族を襲った連中を率いたのは俺です」
 ガナンは告白する。
「あれは、俺たちとは違う生き物なんです。だから、殺してもいいと思っていた。あんな化け物生かしておいたってなんになる、て。どうせいつか俺たちを殺そうとするんだろう、て」
「……」
「生きるためには自分が生きるためにはなんだって犠牲にしてきたそれが当然だと思ってました。どんなお綺麗なことを言おうと、結局世界は変りやしねぇだから俺は解放軍の後について、戦乱に負けたヤツラから略奪してその金で食いつなげりゃ、それで後はどうでもよかったんです罪人なんです」
「……悔いているのですか? 自らの行為を」
「……」
 ガナンは答えず彼女の足元にひれ伏したままだ。しばしの沈黙の末、サライは答えた。
「……ラクリシオン教にしろ、シレーナ教にしろ、神のお言葉は、究極的には、一つです」
「それは……」
「《私は、赦す》」
「!」
「あなたの行いが良いことだとも、当然だとも私は思いません。神もそうは思われないでしょう。けれど全能の存在は、それでもあなたの存在自体を赦すのです。あなたの罪を罰し、責め、それでもあなたの生を否定することはないでしょう」
 そして彼女は礼拝堂の入り口、そして出口でもある場所を指差した。
「神はあなたに選択の権利を常に与えています。善をとることも悪をとることも。生を望むことも……死を選ぶことも」
 ガナンはのろのろと顔を上げる。そこにいたのは、一人の人生における敗者だった。罪を経て人は狂うのか。狂うから罪を犯すのか。それはわからない。
 けれど罪を犯さず生きようとして、それが不可能だと知った時に、人の絶望は始まる。
「あなたは自由であることを赦されています。神の言葉が聞こえないと言うのならば、私が代わりに言葉にしましょう。『行きなさい』。あなたは最初から、自由だったのです。そして自由なまま終わるのです。全ての選択は、あなたと共に」
 ガナンはのろのろと顔を上げた。夢遊病患者のように覚束ない足取りで立ち上がり、礼拝室を後にする。
 彼も哀れな人間だ。世界はどんなに望んだところで、けっして人の思い通りにはならない。生きるためには、残酷になることも必要だ。
 選択できる未来は無数にある。罪を犯さず身奇麗なままに死ぬことも、他者から奪いとってでも醜く浅ましく生きることもできる。そこにはどんな理由があろうと免罪符になどなりはしない。人は最初から自由なのだから。殺す権利などなくとも死ぬ権利はある。だけど……だから。
 人の命など、所詮は全てが身勝手なものだ。だから懸命に生きる花を、平気で踏みにじることができる。
 逆に言えば、それができない人間は生きてはいけない。
 人は狂わねば生きていけない。
「……シェスラート」
 残酷でない世界などない。

 ◆◆◆◆◆

 打ち捨てられたラクリシオン教会。色硝子を透かして、七色の光が差し込む。シェスラートの白銀の髪が虹色に染まったが、朱に染められた体は禍々しいような色を変えることはなかった。深紅という色彩はとかく強い。
 必ず朝が来ると知っているのに、黄昏は幾度となく人々の胸を貫くように。人は死を知って生を知る。終わりがあるから始まりはある。
 だから狂気の黄昏に太陽は堕ちて、これは絶望の始まりだ。
「俺の母は、とにかく気の強い女性だった」
 血塗れの手、血濡れの剣、血塗れの床に半身を横たえるシェスラートの胸をロゼッテは抱きかかえる。
「ザリューク女王は無法者だった。だからあの国が真っ先にゼルアータに滅ぼされたのも当然なんだ。俺たちは同じ過ちを繰り返す」
 廃教会で行われるのは血塗れの告白。
「父はそれでも母を愛していた。普段は気が弱くて母の言いなりで、母の身勝手を止められず、なのに、それでも母を……妻を愛していた。だから……父は母を殺したんだ」
 殺してしまえば、もう誰にも奪われる事はない。高慢な妻が他の男を誘い笑うところなど、もう彼は見なくてすむ。ロゼッテの眼には、今もその強烈な光景が焼きついている。
 ――さぁ、一緒に地獄に堕ちよう……。

 永遠に愛している。

「……だから?」
 切れ切れの息で、シェスラートが尋ねた。
「だって、お前、は……俺のことなんて」
「好きなんだ……」
「拒絶したくせに……」
「でも好きなんだ。シェスラート。でもお前が、俺以外の人間に笑いかけるところなんて見たくない」
「俺は、あんたのものだって、言った……のに……」
 シェスラートはロゼッテのもの。あの宴の後、シェスラートからの告白の際に、彼はそう言った。
 ロゼッテは首を横に振る。
「信じられない」
 シェスラートが愕然と深紅の瞳を開いた。翳りの出来始めた目元に、絶望的な彩りが添えられる。
 紅い瞳から涙が滑り落ちた。
「あんたも、ヴァルターと……同じだ。俺は…ずっと、側に……いるのに……」
 裏切られた者の切ない表情で、シェスラートは苦しみながらそう言葉を絞り出した。
 しかしロゼッテはこれしかやり方を知らないのだ。どんなに穏やかな人格を装ったところで、彼が知る愛を繋ぎとめる唯一の方法は相手を殺して自分のものにしてしまうこと。父が母に対してそうしたように。あれほど、普段は気の弱かった父が。
 かつてソードが言っていた。ロゼッテは父親に似たのだろうと。ああ、確かにそうだ。だって彼もこんな方法でしか、欲しい相手を手に入れられない。
「お前が皇帝になんかなったら、俺は永遠にお前を手に入れられない。サライにも誰にも渡したくない。シェスラート……ッ!」
 だからもう、こうするしかないのだと。
 いつからこうだったのか知らない。本当は一目見たその瞬間から、彼の事が好きだったのかもしれない。けれどそんな想いを口にすることはできるはずもなかった。言えば自分は必ず父親と同じ道を辿るだろう。
 だが結局は、同じ事。
「……さ、…い」
「シェスラート」
「赦さない」
シェスラートは元から白い肌に更に血の気を失って蒼白になりながら、残る力でロゼッテの胸に手を当てて縋り、顔を近づけた。
「ロゼ……お前は最後まで酷い男だったよ」
 冷たい唇でそっと口づける。最初で最後の接吻は彼の血の味がしたと、ロゼッテは思った。
「愛してい〈た〉よ。今は憎むべきお前。全く、なんてことしてくれるんだ? これじゃあ、もう皇帝にはなれないよなぁ」
 サライのことも守れない。村に残してきた一族の者たちに便宜を図ることもできない。一番の願いではなくても背負っていた義務や使命感から叶えたい望みはいくらでもあったのに、その全てがこの瞬間にシェスラートの手のひらから、命と共に滑り落ちていく。
 だから。
「お前が、この世界を導け――シェスラート=エヴェルシード。そしてロゼッテ=ローゼンティアはここで逝く」
 ロゼッテは目を見開いた。唐突にいつかの宴の記憶が蘇る。あまりにも可憐過ぎる自分の名前。似合わないから、姓はそのまま二人で名前を交換したらどうかと。解放軍の中でも幹部を除けば、今では文武それぞれの代表者であるロゼッテとシェスラートのどちらがどちらであるのか、彼らの容姿の影響も相まって、区別がついていない者も多い。だが。
「何で、何でそんなことを言うんだ、シェスラート! 吸血鬼は一度死んだくらいじゃ死なないんだろう!?」
 混乱のあまりおかしな台詞を口にして、ロゼッテは予想外の流れに棹をさそうとする。シェスラートを殺したかったのは確かだ。彼を独占したかったという黒い欲望は確かにあったけれど、不可能だということもわかっていた。だからせめて。
「お前が俺を嫌いになって、俺を憎んでくれればそれでよかった」
 それを聞いてシェスラートが儚げに微笑んだ。ロゼッテの唇にはまだ彼の血の味が残っている。
「吸血鬼は確かに人間より頑丈だ。だけれど、心のある生き物だから、死のうと思ったときに死ねるんだよ」
 人間でさえ、誰だって自殺はできる。
 それが今だというのか。
「何故……っ! お前が生き返って俺を殺せば、それですむ話だろう!」
 そこで生き人の血を飲まず、人に血を飲ませた吸血鬼が酷薄な光をその深紅の瞳に浮かべる。
「憎んでいるよ、シェスラート=エヴェルシード」
「シェスラ――」
「俺はお前を憎むよ、だから俺の血を飲ませた。不死なる力を持つ、吸血鬼の血を」
 凄絶な笑み。
「お前は人でありながら人ではなくなった。吸血鬼の寿命を知ってる? 通常なら五百年。そしてお前は俺の血を飲んだことで、眷属と化した。本物の吸血鬼でないからそれよりも寿命は短いだろうけど、少なく見積もってもまあ、三百年程度は生きるだろうな……」
「三百年っ!?」
 与えられた数字の大きさにロゼッテは瞠目する。彼の動揺が深くなるたび嬉しそうにシェスラートが血の気のない頬へ笑みを刻んだ。
「そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のためにその命を捧げろ。俺を憎みながら」
 それがシェスラートから、結果的に命と皇位を奪うことになったロゼッテへの復讐だと。
「何故だ……シェスラート」
「……から」
 赦せないのは、殺そうとした行為そのものではない。それが示す、裏切りと言う名の意味だ。
「だって、俺はお前を……」
 大量の血を必要とする吸血鬼の体から、その命の源が失われていく。力の滑り落ちた腕が床に零れ、瓦礫にあたって小さな音を立てた。か細い息が終わる瞬間を、確かにロゼッテはその腕の中で感じた。
 しばし呆然としていると、教会の扉が開かれた。外は精力的に生い茂った下草が足音を吸う。常人であるならば教会に入ってからでなければ新たな人の登場に気づきがたい。「満足ですか?」
 シェスラートの妻であり、彼の子を身篭るサライだった。
「ねぇ、シェスラートを殺して、彼から未来を奪って満足なの?」
「サライ」
 シェスラートを抱いたままロゼッテは彼女を振り返る。美しい夜明けの紫の瞳が、今は憎悪に濡れている。
「私、あなたみたいな人大嫌い!」
 唐突に、彼女は叫んだ。他のどんな罵声でもなく、ただ嫌いだと。
「自分の弱さも罪も自覚していたヴァルター王とは比べものにもならない! あなたはただの臆病者の偽善者よ!」
 だからシェスラートの気持ちを受け入れることも、彼を解放することもできなかった。その上で、シェスラートに自分の理想を押し付けた。
 人は己の見たいものを見る。
 けれど、シェスラートだってロゼッテに自分の見たいものを押し付けていたことは否めない。彼がロゼッテを求めたのは、ロゼッテがヴァルター王にどこか似ていたからなのだろう。両親の愛に恵まれず、不遇から世界の暴虐による支配を思い立ったと言われる王と。
 サライは震える細い肩を意志の力で封じ込め、すっと息を吸って整えた。切ない眼差しを、シェスラートの亡骸の左腕に向けた。そこには彼女自身が神の意志を示すものだと皆に教えた図形があった。
 廃教会の破れた色硝子の虹色の光と血の匂いの中で、神を打ち捨てた者への選定を下す。
「シェスラート=エヴェルシード。あなたは《選定者》ロゼッテ=ローゼンティアの託宣により、初代《皇帝》としてこの世界《アケロンティス帝国》を治める者、支配者となれ」
 それは未来の予言だった。拒絶することの許されない神の託宣。もとより違えることなど許されないそれを違える道は、もはやロゼッテには残されていなかった。
「かつて神が世界を作り出したことを、人は神聖なる喜劇(ディヴァーナ・コメディア)と呼んだ。では人が神の作りたもうた世界を否定して新たな時代を始めることを、神聖なる悲劇(ディヴァーナ・トラジェディア)とでも呼ぶのでしょうか」
 この滑稽な悲喜劇を。
 アケロンテは地獄を流れる幽囚の河の名だという。人の手で創られるものに、正解などありはしない。まして天国を求めて道を間違えた場合には。
 それでもロゼッテは進まねばならないのだ。
「《選定者》とは」
「《皇帝》を選び出し、任命する人。その証が、体に浮き出たこの紋様。……本来は皇帝その人を意味するはずのそれを、シェスラートは自らの意志で、神に逆らって塗り替えた……」
 それがただ一つの復讐だと。
 嗚咽を漏らすこともなくただ涙を流し続ける運命の巫女は、この結末を最初から知っていたのだろうか。だからあんな風ロゼッテを敵視して、シェスラートとロゼッテを見るたびに悲しそうな顔をしていたのか。
 物言わぬ亡骸を抱いて、眩しいほどに晴れた空の下へと出ようとする。教会の入り口で、まだ中に残っていたサライから問いかけられた。外に出ようとするロゼッテの足は止まった。
「ねぇ。それで、この人はあなたのものになった?」
 殺してしまえばもう誰にも奪われないと。
なんて幼稚な考えなのだろうか。愛される自信がないことは謙虚と言えるのかもしれないが、愛されなくても相手を手に入れたいと思った時点でそれはただの傲慢なのだ。サライはロゼッテを見抜いていた。
 朽ちた教会と青空の境、自分は影の中に立ち腕に抱いたシェスラートは光を浴びている。その笑顔を見ることができなくしたのは、紛れもないこの自分なのだ。
 ロゼッテは静に首を横に振った。


13.罪の帝国

「ロゼッテ様、シェスラートは……」
 血まみれの少年を抱いて戻ったロゼッテの姿にソードが絶句した。部屋の奥にいた幹部たちも、何事かと駆け寄ってくる。その彼らにロゼッテは言った。
「シュルト大陸のゼルアータ派勢力はもう完璧に制圧済みだな」
「あ……はっ、はい!」
「ではバロック大陸へと向かう。《帝国》成立に邪魔な国、まずはこちらと徹底抗戦の構えを見せているサジタリエンを撃破するぞ」
「頭領!」
「エヴェルシード!」
 ロゼッテ様、とは何故か、誰も、ソードですら呼べなかった。
「我が名はシェスラート=エヴェルシード」
 宣言に誰もが息を飲む。
 ロゼッテの奥から姿を現したサライが無言で頷く。唐突に彼らは気づいた。彼女は《シェスラートこそ始皇帝》とは言ったものの、それが紅い瞳の吸血鬼の少年のことだとは一言も言っていない。
「この帝国世界の、初代皇帝となる者なり」
 ロゼッテ。否、シェスラート=エヴェルシードは高らかに宣言した。これより彼は、その言葉通りアケロンティス帝国を建国し、治めていくこととなる。
 その永遠とも思える命を懸けて。
 彼を愛し、彼を憎みながら。

 ――シェスラートはロゼッテのものだ。

 ◆◆◆◆◆

『吸血鬼の血を飲んだことにより、ロゼッテの……否、シェスラート=エヴェルシードの寿命も肉体も変質した。頑強な吸血鬼の力を手に入れた彼の手によって、二つの大陸は次々に攻略されていく。そして数十年後には、かつての解放軍の望みどおり、世界《帝国》が建国された。
 その時でさえ、シェスラート=エヴェルシードの外見はまったく変わらず年老いてはいなかった。周囲は畏怖の眼差しを彼に向けたが、彼は自らの命の切れる瞬間まで、よく帝国を治めた。
 長すぎる命を彼に与えた者は、知っていたのだろうか。大陸を、ましてや世界を統一して平穏な世界を作り出すには、一人の人間の寿命などではとても足りないことを。半分は魔物であり、そして神のようでもあった三百年の時を過ごした初代皇帝の功績により、世界《帝国》にはやがて平穏が訪れた。
 帝国とは言うものの、一人の人間の血筋に拘ればいつか暗帝が立ち、世界を乱すかもしれない。その問題は、初代皇帝につき従った巫女が解決した。彼女は神の意志をその唇に乗せた。
 世界の覇者は、天が選ぶ。《選定者》の紋章をその身に示す者が《皇帝》を導くであろう。皇位は世襲制ではなく、神の力によって選ばれた人間が務めるものとなった。
 人の手で作り出されたように見える世界は、それでも神の手によって支えられている。だからこそ、世界と運命に翻弄された最初の二人、この帝国を作る礎となった二人の存在もただ神の手のひらの上で踊らされていただけに過ぎないのかもしれない。我々人間は、それだけ小さな存在なのだ』
 帝国成立について記された本は、そのように結ばれていた。著者名はソード=リヒベルク、フィリシア=リヒベルクとされている。この本を書いた者は、初代皇帝シェスラート=エヴェルシードにつき従った従者の一人らしい。
「おい、ロゼウス!」
「ん? ……あ、シェリダンだ」
 昇り階段の上から呼ばれ、書庫の床に座りこんでページを繰っていた本を今読み終わったロゼウス少年はその人の名を呼び返す。蒼い髪の少年が、不機嫌そうに眉根を寄せた。橙色の瞳が剣呑に細められる。
「あ、シェリダンだ。じゃない、この馬鹿者。今が何時だと思っているんだ? 夕刻の鐘などとっくに鳴り終わったぞ」
「え、嘘!」
「嘘をついてどうする。いくらお前が暗い場所でも目の利く吸血鬼族だからといって、そんな暗い場所で本など読むな。全く、いつまで経っても帰って来ないと思えば……」
 ロゼウス、と呼ばれた少年は白銀の頭をかいた。瞳は血のように鮮やかな紅い色をしていて、それは吸血鬼族の特徴だ。
「だいたい、お前なら今更帝国成立の起源など読まずとも知っているだろうが。ロゼウス=ローゼンティア王子」
「そんなこと言うなって。シェリダン=エヴェルシード王。ここの本、うちの国にあったのとちょっと中身が違うからつい気になったんだよ」
「何?」
 シェリダンはロゼウスの手元から問題の本を奪い去り、さらに近くからもう一冊を抜き出した。
「お前が言っているのはこれだろう、ロゼウス」
「あ。うちの国にもあったやつだ。ねぇ、じゃあ、これは何?」
 今はシェリダンの手の中にある、先ほどまで自分が読んでいた一冊を視線で示したままロゼウスが尋ねる。
「始皇帝の従者の手記。始皇帝シェスラート=エヴェルシードがこの国の出身と言うか建国者だから残されたものだろうな。しかし、今更こんなものを読んでどうする」
「どうするって……」
「三千年も前の人間が、何を考えて国造りをしたのかその真意など知ったところで仕方がないだろう。確かにエヴェルシードの建国の王がローゼンティア王家の先祖から力を借りたというくだりは興味深いと言えるが、実際にそれを知ったところで、どうにもなるまい。所詮は私たちとは別の人間だ」
 焼き尽くされて荒れ野となった花畑にまた花が咲いてもそれは踏みにじられたかつての花ではないように。
「それはそうだけど。確かにいくら先祖同士に因縁だか義理だかがあったとしても、今のエヴェルシード王国とローゼンティア王国に何かがあるとは思わないけど、でもちょっと、面白いとは思うじゃないか」
「そうか?」
 シェリダンは鼻で笑う。
「所詮神だの英雄だのと祀られようと、相手は私たちと同じく一人の人間だ。ああ……お前は吸血鬼だが。それでも持てる感情に大きな違いがあろうはずもない」
 そして彼はパタンと本を閉じると、ロゼウスの持っている分も奪い取って纏めて書庫に収める。そうしてようやく空いた手でロゼウスの手を取ると、書庫を後にしようと歩き出す。
 ロゼウスは大人しくついてくる。実際の気性はともかく、彼は外見だけで判断するならば酷く華奢で少女のような面差しをしていた。その面立ちを目にするたびに、シェリダンの胸の奥底には、複雑な感情が揺らめく。
 憧憬とも苛立ちともつかぬこの困惑めいた感情はなんだろう。相手の瞳が自分以外のものを映す事が、酷く気に入らないというこの勝手さは。
「何千年経ったところで、結局人間の生き方など変わらない。いつだって必死で、懸命で、愚かで、きっと滑稽な喜劇のような悲劇にしかならないのだろう」
 繋がれた手に焼け付くような熱さを覚えながら、彼はゆっくりとそう締めくくった。


 了.


外伝 天使の頭蓋骨を抱いて

 眼下に燃え広がるは炎。焼かれているのは、つい先ほどまで青空の下で平穏な暮らしを営んでいた村だった。今では赤き炎の照り返しに黒い灰が舞う地獄と化している。
 丘の上に立って馬上からその光景を眺めているのは、一人の若い男だった。珍しい黒髪に黒い瞳。その一族は〈黒の末裔〉と呼ばれている。
「ヴァルター様、ご命令どおり、村の反抗分子どもはすべて『焼却処分』いたしました。残った女子どもはどういたしますか?」
「そうだな。では私が行くとしようか」
 ヴァルターと呼ばれた男は身分のある者らしく、部下である男の言葉にゆっくりと馬首を巡らせた。最後に一瞥した炎の中で、燃え尽きた家屋ががらと音を立てて崩れていった。

 ◆◆◆◆◆

 神去暦一五〇〇年、世界は一つの国の行動によってその張り詰めた均衡を破られた。
 行動を起こしたのは、黒の国と呼ばれるゼルアータ王国。もとは一民族の暮らす小国であったゼルアータは、これまで他国民からの差別にあえいでいた。
 黒髪に黒い瞳を持つ魔術師の一族はこれまで嘲り蔑まれ暮らしていたが、ついにその積年の恨みを晴らす時が来たと言わんばかりに現国王ヴァルターの下、驚異的な早さで国力を増し、他国の軍勢を打ち破りその力を吸収していった。
 今ではゼルアータはかつての大国ザリュークを打ち破り、世界に二つある大陸のうちの一つ、シュルト大陸全土を支配する黒の大国とまで呼ばれるようになった。永きに渡り一方的な迫害を受け虐げられてきた民族の底力は凄まじく、諸国列強が次々に侵略され征服されていく。
 それを成した若き国王ヴァルターこそ、黒の末裔の中でも最も忌まわしい生まれとされていた。

 ◆◆◆◆◆

「この悪魔! お前など人間じゃないわ!」
 女の甲高い悲鳴が響き渡る。周囲にいた兵士たちは耳障りだというように鼓膜を押さえて顔をしかめた。
 ヴァルター王は次々と諸国の村を町を侵略していく。その手段はひたすらに暴力の一言につき、平和的に降伏を勧告することなどありえない。とにかく攻め入って主要戦力を殺して戦意を叩き潰し、生き残ったか弱い者たちに隷従を迫るその様はまるで悪鬼のようだと敵対国の人々は噂しあった。
「うちの人を返してよ! この人殺し!」
 亭主を奪われた女性たちが、つい数刻前までは平和であったはずの今は戦場と化した村で金切り声をあげる。しかしその罵詈雑言を向けられた張本人であるヴァルター自身は村の中枢で部下たちに指示を出しながら、大虐殺を実行したとは思えない涼しげな顔をしている。
ある一人の女が叫んだ声が、ヴァルターの耳に入るまでは。
「さすがは賤しい黒の末裔ね! 生き汚さに関しては母親を殺して生まれてきただけあるわ!」
 賤しいという言葉に反応しかけた黒の末裔の男たちが、女を黙らせようと振り上げた手を中途で止めて凍りつく。それまで涼しげな様子だったヴァルターが、ゆっくりと指揮官ようの椅子から立ち上がり人質として他の村人と共に縛られている女のもとへと歩み寄ってきた。
「何よ! 反論があるの!? 事実でしょう! この母親殺しの、最低の一族が!」
「貴様!」
 女の暴言にヴァルターの側近がいきり立ち腰から剣を抜こうとするが、その行動を軽く制してヴァルターはその女の前に立った。
「女よ、この私の生まれを、醜いと嘲るか」
「ええ、そうよ!」
 自らの腹部を庇いながら、女は強気にそう言った。彼女の腹はまろやかに膨らんでいてで、もうすぐに生まれる命がそこに宿っていることがわかる。
 魔力を持つ黒の末裔はもともと他の民族に忌み嫌われる異端者であったが、それだけではない。他の国の者たちが彼らを迫害する理由の一つに、今しがた女の叫んだような「母親殺し」の風習はあった。
 もっとも、黒の末裔は別に好き好んで母親を殺しているわけではない。それは彼らからして見れば、医療行為の一貫であった。
 魔力と言う本来人にはなき強大な力を操る事ができる代償か、黒の末裔は他の民族に比べ極端に体の弱い者が多かった。そのために、出産において母体ごと死亡する死産が後を絶たない。
 このままでは黒の末裔は滅亡してしまう。そこで彼らが考えたのが、死んだ母親の胎を切り裂いて、まだ生きている胎児を取り出し育てることだった。これによって母体が死んでも胎児の生き残る確率はあがったが、黒の末裔という民族は「母親殺し」と蔑まれこれまで以上に他民族から迫害されるようになる。
 黒の大国ゼルアータの現国王であるヴァルターも、そのようにして生まれた一人であった。彼自身は健康だが、母は身体が弱かった。産褥で死んだ母の胎を切り裂いて取り上げられたのがヴァルターである。
 だがそれは彼が望んだことではない。
「ひっ!」
 ヴァルターは腰に佩いた剣を引き抜く。鋭い切っ先を女のまろやかな腹部に向けると、端正な面差しを歪めてみせる、暗く澱んだ笑みを浮かべながら言った。
「私の生まれが賤しいと罵るか。だがしかし、今ここで貴様の胎を裂いて赤子を取り出せばその子どもは私と同じ立場になるな」
 その言葉に女は勿論、その周囲の捕虜たちもヴァルター自身の部下も動揺し目を瞠った。
「へ、陛下」
 主君の行動を止めようと幾人かが走るが、剣先を女に向けたまま微動だにしないヴァルターの気迫に飲まれてしまい、後一歩のところで踏み込めずたたらを踏む。
 煤に頬を汚した捕虜の女は自らの胎を強く抱きしめながら、憎悪のたけをこめて叫んだ。
「呪われるがいい! 魔の王よ!」
 地獄への道行きを辿るがいい――――
 ザン、と血の飛沫が立った。音もなく抜刀したヴァルターの剣は女の身体を一刀のもとに斬り捨てる。
 赤子を宿した胎ではなく、その背中を。
「陛下……」
 キン、と金属のぶつかりあう、場違いに澄んだ音を立ててヴァルターは剣を鞘に収める。ヴァルターは女の死体を一瞥すると、狂乱に陥る他の捕虜たちの様子も青褪めている部下たちの姿も目に入らないかのように、たった一言呟いた。
「お前などに言われずとも、私はすでに呪われている」
 この世界に生まれ出でたその時から。
「目障りだ。こんな醜いモノ、片付けておけ」
「はっ!」
 ヴァルターの言葉に周囲の男たちが動き、女の死体を回収していく。捕虜たちは目の前起こった殺人に狂ったように泣き叫んでいる。その彼らを怒鳴り、殴りつけて黙らせようとする部下の行動をヴァルターは止めなかった。
 魔力を持って生まれることも先天的に病弱であることも彼ら自身にはどうしようもないのに、それを忌まわしいと、蔑まれ虐げられてきた黒の末裔たち。命を救うための行為も、死んだ母体の胎を裂いて赤子を取り出すというその見た目の残酷さに他民族は忌避の態度を隠さない。
 ヴァルターが斬り殺した女の胎の中で、取り上げられることのない胎児は産声をあげることもなければ、悪魔と蔑まれることもなくただ死んでいく。
 人は彼を残酷だと罵るだろう。残酷だとしか言わないだろう。
「陛下、これからどのようになさいますか?」
 部下の一人が手に地図を持ち、これからの方針を尋ねた。ヴァルターはちらりと紙面に目を移し、無造作にここから一番近い村を次の侵略地として示す。
そこは吸血鬼族の住む小さな村だった。

 ◆◆◆◆◆

「俺はあんたに従う。だからもう、こんなことはやめてくれ」
 最近苛立つことの続く遠征途中、ヴァルターは訪れたその村で面白いものを見つけた。
 容姿だけを見るならば儚げな風情を漂わせるほどに美しい、吸血鬼族の少年。しかしその芯は強そうだ。苛烈な瞳がその大人しくはない性情を物語っている。
 すでに大半の国々を侵略して、これ以上全てを滅ぼす重要性は薄い。気まぐれの心が起きて彼はその少年に取引を持ちかけた。
「お前が私のものになるなら、この村を皆殺しにするのは見逃してやる」
 少年はその言葉に頷き、己がヴァルターのもとでどのような扱いを受けるか覚悟のもとで彼についてきた。残虐王ヴァルター=ゼルアータの噂は大陸中に届いている。とんだサディストであるヴァルターは、気に入った人間を嬲り殺すので有名だ。
 溜まった鬱憤の捌け口として求めた少年は吸血鬼の一族。魔族は人間と違って身体能力に優れ、何より頑丈だ。これまでの脆い人間のように、簡単には壊れないだろう。
「お前、名は?」
 気まぐれに奴隷とした少年にヴァルターは尋ねた。これから仕える王に向かって、しかしその暴虐に対する反抗の心を隠さない少年は答えた。
「シェスラート。シェスラート=ローゼンティア」

 ◆◆◆◆◆

「お前も私たち《黒の末裔》を、忌まわしいと思うか?」
 侵略戦争を終えてシェスラートを王城に連れ帰り日々を過ごしてはや数ヶ月。ヴァルターはほんの気まぐれから尋ねてみた。
 遠乗りの最中のことで、周囲には他の部下はいない。シェスラートただ一人だけを連れている。だが返答如何によってはまたそのか細い喉から血を吐くような悲鳴が迸るほどに痛めつけてやろう。薄暗い物思いに笑みをくゆらせながら、彼はさして真剣でもなくそれを聞いた。
 シェスラートは少し困ったように首を傾げて口を開く。
「いや……別に。俺たちを力で支配しているのは、憎いと思うけれど」
 嘘偽りも媚びの腐臭も感じられないその言葉が予想外だったあまり、ヴァルターは思わずいつもの作ったような嘲笑ではなく無防備な素の顔を晒し、シェスラートを見つめる。それを見て少年は感慨も無く、ただそう思ったままのように告げた。
「あんたも、そんな顔するんだな」
 自分はいつも、どのような顔をしていたのだろう。
 そしてこう言われた、この時は。
「……私は、世間に言われているように母親の胎を切り裂いて生まれた」
 それまで誰にも言わずに秘めてきた思いを語ってしまったのは、その日の風か、空か、一体何の力だったのか。
 吹き抜ける風に短い白銀髪をなびかせながら、シェスラートは静かにそれを聞いていた。
「母の遺言だったらしい。どうしても子どもを生かして欲しいと。別に黒の末裔は生きている女の胎を切り裂いて赤子を取り出すわけではない。死んだ女の胎からまだ生きている赤子を生かすためにとりあげる」
 そうしなければ、死んだ母親の胎の中で胎児も死んでいくばかり。
「……馬鹿な、愚かな考えだ」
 だが、そうやって生まれたからこそ、彼らは他民族から「母親の胎を裂いて子どもを取り出す悪魔のような一族だ」と蔑まれ虐げられることになるのだ。
 生まれたその瞬間から呪われている。母親殺しなどと言われて育った子どもが、まともな人間になどなるはずないのに。
 悪魔を生むために、何故彼女たちは命を捧げるのか。自分の胎に宿るものは全て天使だとでも? だとしたら、大した傲慢だ。
 幾度も己の考えを支配した暗いそれをシェスラートの清らかな声が打ち払う。
「生きていてほしいから」
 思わず振り返ったヴァルターの瞳に映るシェスラートの姿は酷く鮮やかで力強い。こんなにか弱げな少年なのに、その全身から生きる力が溢れてくるかのようだ。
「生きて、ほしかったから。それが己を殺すものでもかまわない。天使でも悪魔でも関係ない。ただ生きていてほしかったから、そう、望んだから」
 凍り付いて動けないヴァルターに、その氷を溶かすような春の陽だまりの笑顔を浮かべてシェスラートは告げる。
「だから、あんたは生かされたんだ」
ざわりと風が吹き、草原の草の海を渡る。馬はのんびりと餌を食み、その会話を聞くものは彼らだけだ。
「……お前も馬鹿だ」
 ヴァルターの言葉にも、シェスラートはただ笑うばかりだった。これまでにもさんざん酷い目に遭わされてきたはずの彼は、しかし決して光を失うことはなかった。彼の姿は、ヴァルターには眩しすぎた。
 ゼルアータの国王として、数々の国を滅ぼし大国の覇権を握り、全てを手に入れてきたはずの青年は初めて自分が何を欲しがっていたのかを知る。
 だが、全ては遅すぎたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 いつか見たような地獄の業火が、今は彼の城を包んでいる。
 ゼルアータの暴虐による支配に対する不満は征服された国々の最下層の民たちを中心として炎のように燃え広がっていった。解放軍と名乗りを挙げる一団はゼルアータに不満を持つ人々を国の別なく集め、手を組み、徐々にその規模を増してついには暴虐の大国と張り合うまでになった。
 そして今は最後の均衡も崩れ去り、ゼルアータは滅びようとしている。
 ゼルアータの王として、他国に対する反乱を企てた時からヴァルターはわかっていた。これが失敗すれば、〈黒の末裔〉はこれまでよりも更に過酷な迫害の道を辿ることになるだろう。
 だが、それでも足掻かずにはおれなかった。呪われた生まれの呪われた人生をせめて彩るには自らの力で権利を勝ち取るしかない。つまりはこんな忌まわしい存在でも、自分を信じたいなどと考えていたのか。かつての自分の浅はかなその一途さに笑う。
 すでに解放軍はこの城に火をかけた。このままでは焼け死ぬが、外に逃げれば解放軍の人間に嬲り殺される。わかっていて出て行くほど間抜けではない。焼け死ぬことを選ぶ程度の間抜けではあるが。
 もはや彼の生きる道は断たれた。
「陛下、早くお逃げください! 何を……ッ!?」
「きゃぁあああああ!!」
 不思議そうに目を丸くしたまま、家臣の身体が斬り捨てられて傾ぐ。どうと音を立てて倒れたそれに周りにいた者たちが悲鳴をあげて逃げ惑った。
 広がるは炎、外には反乱軍、そして堂々と城の中を歩くのは乱心したと指差されながら血まみれの剣を引っさげた王。
 もとはと言えばヴァルターが作り上げたこの栄華。だから誰にも奪わせはしない。滅ぼすのはどうせなら自分の手で。願う未来など、何もないのだから。
「ヴァルター王!」
 ああ、一つだけあったか。
「一体何をし……なっ!?」
 血まみれの彼の姿に驚いたのか、扉を開け放ち現れたシェスラートが絶句する。駆け寄ってきた彼にもヴァルターはこれまでの部下たちと同じように刃を向ける。
 悪魔でもいいから生み落とそうなどとは、自分は思わない。そのくらいならば、天使の頭蓋骨を抱いたまま微笑んで息絶えよう。
 だが現実のヴァルターの眼は剣を振り下ろす前にしっかりとシェスラートのその腰に剣が佩いてあることを確認していた。武術の心得がある少年は城の異変に矢も盾もたまらず武器を持って駆け出してきたに違いない。
 目にも留まらぬ早さでシェスラートの手が剣に伸び、そして――。自らに致命傷を与える刃の軌跡を眺めながら、吸血鬼とは可哀想な一族だと思った。身体能力の高すぎる彼らが本気を出せば全ての動作は一瞬で、止めようと思って止まるものでもない。そうする時にはすでに行動は成された後だ。
「――――ッ!!」
 この数年でいくらかはわかりあえたらしい少年の、悲痛とすら言える声なき悲鳴を聞きながらこれで良いのだとヴァルターは微笑む。
 シェスラートには生きていてほしかった。彼が己を殺すものであっても構わない。天使でも悪魔でも関係ない。ただ、生きていてほしいのだと。
 残酷でない世界などない。だがその中でも、ただ強く生きていってくれるのであれば。
 それが何よりの祝福だ。

「ヴァルター!」

 そして天使の声を聞きながら、今、天に還る。


 了.