1.惨禍の王

 薔薇の花が燃えている。庭園は炎に包まれている。一つの大陸を制覇した国が終わりを告げようとするその瞬間に、極上の紅が滑り込む。
 それは夢のような光景だった。
「なん……だ?」
 彼がその部屋に足を踏み入れた時、すでに全ては終わっていた。王城の一室、玉座のある謁見の間は深紅に染められ、この国の王は華奢な腕に抱かれながら息絶えていた。
「誰? ……ああ、解放軍の人間か」
 王を抱えていた少女が、のろのろと顔を上げて彼を見つめ返すとそう呟いた。ゼルアータへの反乱は、かの国に滅ぼされたザリューク王国の民により主導された。彼の蒼い髪と橙色の瞳はザリューク人の特徴だ。その容姿から彼が解放軍の一人だと判断したのだろう。その少女自身は、白銀の髪に深紅の瞳という珍しい色彩を持っていた。
「そういう、お前は誰なんだ? ゼルアータ王は」
「殺した」
 淡々と、感情のないような声で少女は言った。けれど本当に心がないのではなく、どんな想いも今の彼女から抜け落ちてしまっているのだと言う事は、涙に濡れた頬を見ればわかった。
「ヴァルター王は俺が殺した。解放軍が攻め入ってきて、ヴァルターは城の使用人たちを次々に殺していった。俺も、殺されそうになった。だから」
 『俺』と言った少女の様子に違和感を覚えてよく見れば、彼はそれまで目の前の相手の性別を間違えていたことに気づく。女物の衣装を纏っていても、彼は男だ。
「ヴァルターは死んだぞ。俺が殺した。そしてどうする? 俺も殺すのか?」
 疲れたような泣き笑いの顔で、少年は笑う。
「俺たちは……ゼルアータを滅ぼしに来たんだ」
 この大国は全てを奪った。武力によって周辺諸国を征服して奴隷扱いに貶め搾取し続けてきた暴虐の王国ゼルアータ。そして彼は、虐げられた民たちを率いてゼルアータに叛旗を翻した解放軍の長だった。ゼルアータ国王であるヴァルターを殺すために、ここまで来た。
 だがすでに玉座には血が流れ、黒髪黒瞳のゼルアータ人とは似ても似つかない容姿の少年がかの王の亡骸を抱いている。予想外の事態に動揺するが、その視界に、人間よりも少し黒ずんだ血の流れが入る。それは王の亡骸を抱く少年の体から流れているようだった。
「君も、怪我をしているのか?」
 突然の問いかけに、少年が軽く目を瞠った。けれどすぐに微笑を浮かべて、どうでもいいことのように続ける。
「都合が良いだろう。今の俺ならきっと容易く殺せるぞ。俺だってここにいるからには、これまでゼルアータに与していたということには変わらない。さぁ、虐げられしザリュークの民よ、王のものである俺を殺して復讐を果たせ」
 少年の言葉に、彼は顔をしかめた。
「生憎だが、手負いの子どもを甚振る趣味はない」
 怪訝な表情をした少年へと歩み寄る。屍を抱いた彼へ近づくとその腕の中から、ゼルアータ国王を引き剥がした。
「何するんだ!」
 悲鳴のような声で少年が叫ぶ。王の亡骸と引き離される一瞬、彼の顔が泣きそうに歪んだのを彼は見た。けれど、状況は切羽詰っている。
「この城には火をかけている。このままでは、君も死ぬぞ!」
 彼は強い声音で少年を律し、悔しそうな、悲しそうな光が深紅の瞳に浮かぶのを見守った。少年の素性はまだわからない。しかし何故か、彼の事はここで殺してはいけないような気がした。
 細い体を抱き上げる。口調から窺える気の強さで抵抗されると覚悟したのだが、呆気ないほど大人しく少年は彼の腕に収まった。
「とにかく、一度城の外に出るぞ、君についてどうするかは、それから決めるから――おい、おい、どうした?」
反応がないことを訝り腕に抱きこんだその姿をよく見てみれば、少年の傷はよくこれで生きていられるものだと感心するほど深かった。どろり、と少年を抱えあげる彼の身体にもその血が流れてきた。震える白い瞼が閉じられる。
「おい、しっかりしろ! 死ぬな!」
 彼は少年を抱き抱え、燃え落ちる城から脱出するために廊下を駆け出した。

 ◆◆◆◆◆

「また厄介なものを連れてきましたね」
 従者の青年は呆れたようにそう言った。彼の視線は天幕の奥に設えさせた簡易な寝台の上の麗人を見て、次に主君である男に移る。
「いや、まあ……俺が悪かったよ、ソード」
「そうですね。反省してください、ロゼッテ様」
 彼らは解放軍の人間だった。ザリューク人のロゼッテと、その従者であるルミエスタ人とのハーフのソード。年齢は共に二十代の半ばと言ったところで、知り合ったのはロゼッテが解放軍を形成する前だ。
 そして主従は首を伸ばして、寝台の上の眠り姫の様子を見遣る。ロゼッテがゼルアータ王城から連れ出してきた少年は、あれ以来半日も目覚めない。
 ソードが少年の傷を手当し、体を清めた。ロゼッテはまだ解放軍の面々を指揮しなければならないというので、それらの一切を彼に任せてようやく戻って来たところだった。少年の様子はどうだ、とロゼッテが尋ねたところで、帰ってきた従者の台詞が冒頭のものだったのだ。
「本当に、厄介なものを拾ってきてしまったものですね」
「ソード?」
 繰り返すソードの言葉にはどこか含みがある。彼に世話を任せきりにしたことを怒っているのかとロゼッテはまず思ったのだが、ソードはそういう性格でもない。この態度を見ているとどうやらそれだけではないらしい。何事にもよく気の着く優秀な従者は、眠り続ける少年の白銀の髪を指でそっとはらった。ちょうど髪に隠れていた耳が露になる。
「尖った、耳?」
「彼は人間ではありません。その上」
ソードはロゼッテの手をとり、少年の胸の上に置かせた。普通なら心臓の鼓動が聞こえてくるそこに感じる振動はやけに弱く、おまけに人間とは思えないほど体温が低い。
「魔族……吸血鬼なんです。それに、彼の傷は人間なら致命傷に達していました」
「何っ? それじゃあ」
「ですが、この少年は生きています。生きてはいますが、ずっと目覚めません。起こす方法もわかりません。傷は常人よりも遥かに早く回復し、もう跡形もありません……ロゼッテ様、どういたしますか?」
「どういたしますか? って……」
 淡々としたソードの報告に、ロゼッテの方が困った。どうしよう。成り行きで助けた人間がまさか魔族、それも吸血鬼だったなんて予想外だ。そもそも、何故吸血鬼の少年がゼルアータ城でヴァルター王と一緒にいたのだか。
 何故、彼はかの王を殺したのか。
「……とりあえず、話を聞きたいんだ。彼は、ゼルアータ王と何かあったらしい。王を殺したと言っていた」
「っ!」
 ソードが茶色の瞳を見開く。当然だろう、ロゼッテだって実際にあの現場を見ていなければ、到底信じられはしなかった。
「……そういえば、吸血鬼の一族も十年ほど前に、ゼルアータに侵略されていたのでしたね」
 思い出したのはそれだけで、他に情報もない。とにかくひたすら、少年が目覚めるのを待つしかない。
「とりあえず休むか。ソード、ご苦労だったな」
「いいえ。では私はお茶でももらってきましょう」
 戦いは終わり、解放軍の面々はそれぞれの天幕に戻って寛いでいる。首領であるロゼッテの采配で先程まで追われていた事後処理もようやく終わり、次の戦いに備えて体を休めることになった。前線で敵と戦い城に攻め入った戦士たちが戻ると、今度はその他の雑務を担当する人々の番で、食事と戦勝の宴の準備がされていた。そこでソードは炊き出し班にお茶を受け取りに行ったのだ。
外ではそこまでしているのに、ロゼッテはまだ、ゼルアータ王が死んだ時の様子を詳しくは伝えていない。不審な顔をする幹部にこの事態をどう説明したものか。だがしかし実行者はその任を仲間から託された解放軍の首領たる自分自身ではなく、ここで眠り続ける少年なのだから説明などしようがない。むしろこちらが教えてほしいくらいだと思いながら、ここ半日は何とか誤魔化した。さてこれからどうするべきか。
悩みながら、ふと窓を閉めようとして手元が狂った。自覚はなかったが、彼も相当疲れているのだ。何せ一国を滅ぼす程にまで成長した反抗組織の首領なのだから。
 破れた布地を応急処置的に止めていた針に、指先が触れた。天幕の窓は少年を寝かせた寝台の奥にあったので、彼を跨ぐようにして体を伸ばしていたロゼッテの傷口から垂れた血が稚い表情で眠っている少年の真上へと落ちた。ちょうどそこは唇で、紅を刷くように一滴が染み渡る。これでは迂闊に拭ってやることもできない。
「あ、まずい」
 一体自分は何をやっているのかと、とりあえず傷口を押さえたロゼッテは舌打ちする。その彼の視界に、何か動くものが映った。――動くもの? だって、ここには自分と昏々と眠り続ける少年しか。
 白銀の髪が揺れて、白い瞼が開き深紅の瞳が現れる。ハッと息を飲むほど鮮やかな色彩のその瞳が、ロゼッテを射抜いた。
 少年が目を覚ましたのだ。咄嗟に言葉の出ないロゼッテに、上半身を起こした彼はぼんやりとした表情のまま言った。
「……ごちそうさま」
 待て。その挨拶は、おかしくないか?

 ◆◆◆◆◆

 世界の二つの大陸のうち、北にあるシュルト大陸はここ数十年、一つの大国が他を支配する状況であった。
 大陸のほぼ中央部に位置するゼルアータ王国は、軍事に優れた国だ。強気な外交、相手の弱味を握る術、倫理も法も無視する傲慢、暴虐の大国はいつしか、他の国が容易く手を出せないほど強大になっていた。周辺諸国や友好国であった国々は属国と化し、そうでない国は侵略されて滅ぼされる。国が消えても人は残り、そうして残された人々はことごとくゼルアータの被支配階層へと落とされた。つまりは、奴隷。
 虐げられた民たちの怨嗟の声が、ここにきてようやく噴出する。暴虐の性質へと変化し始めたゼルアータの最初の標的として自国を奪われ、何十年も忍従を強いられたザリューク人から、反乱軍が蜂起したのだ。ここまでならこれまでにも何度だってあったことではあるが、今度のそれはゼルアータの手にも負えない勢力となった。
 彼らは無為に反抗を繰り返すのではなく、周到にゼルアータ王国を足元から崩していった。弱肉強食で差別意識が強く、支配国の民を人間とも思わないゼルアータのやり方に不満を持つ人間は大勢いる。自国を取り戻すよりゼルアータへの復讐を掲げたザリューク人たちの反乱は、項垂れて支配と搾取に耐えるだけだった別の地域の虐げられし民たちの憎悪をも煽った。還る場所を持たない人々の戦いは、常に背水の陣であるからか、持てる以上の力を発揮した。
 いつしか反乱軍は、解放軍と名を変えてゼルアータと対等に渡り合うほど強大な勢力となった。
 そうしてついに、ゼルアータの王城を、王を、陥落するまでになった。
 ここまで解放軍を率いてきたロゼッテは、心の半分で息をつき、もう半分で気を引き締める。疲れた、と体が叫び、まだだ、まだ終わらないと理性が繰り返している。
 天幕の中、ちょうど三杯のお茶を粗末な盆に乗せて戻って来たソードを交え、目覚めた吸血鬼の少年を問い詰める。
「俺はロゼッテ=エヴェルシード。君は一体何者だ?」
 まずは礼儀としてこちらから名乗る。血まみれの女装束から着替えた少年は、それでもやはり整った顔立ちをしていた。そして炎に包まれた城から助け出された今、どうなるかと一瞬身構えたロゼッテたちに対し、向けられる敵意のようなものもない。ゼルアータ陣営の人間ならば解放軍であるロゼッテたちに敵意を持つのは当然のことであるが、彼は違うのだろうか。それを知るためにも、少年と真っ向から話す必要があった。
「シェスラート=ローゼンティア」
 素直に名乗られたその名に覚えはなかった。ロゼッテは吸血鬼族の特徴について思い出そうとしたが、なかなか情報が出てこない。主の様子を見かねたソードが助け舟を出す。
「私たちは君が何故ヴァルター王と共にいたのか全く分からない上に、君が吸血鬼族であるということ以上の情報を持っていない。よければ、君があの場所にいたわけと、吸血鬼族に何があったか教えてくれないか?」
 一度瞳を揺らした少年――シェスラートはその言葉に、ぽつぽつとこれまでのことを語り始めた。曰く、吸血鬼族はやはりゼルアータの支配下に組み込まれていたらしい。
「魔族なのにか?」
「……弱味を握られたんだよ。ゼルアータは、大人が出かけている隙に村の、まだ弱い子どもたちを人質にとった」
この大陸には魔族も人間も両方が住んでいる。魔族とは、人外の力を持ちながらも極めて人間に近い姿をし、人間と意思疎通の可能な種族を指す。こうしてシェスラートを見ていても、尖った耳以外に魔族だとわかるような特徴があるわけでもない。
 それでも魔族は魔族だった。致命傷を負っても死なず、その怪我がたった半日で癒えるなど人間にはありえない。
 そして死から甦ることも。
 身体能力も人間とは段違いの強靭さを誇るはずだった。性格はどちらかと言えば温厚なほうだが、戦闘能力は人間とは比べものにならないと聞く。それなのに人間の国であるゼルアータに負けたのだろうか。もちろん、ゼルアータの大軍と数が少ない吸血鬼族を同じように考えてはいけないというのもわかるのだが。
「吸血鬼は生命力の基となる血を他の生き物から奪って生きる魔族だ。だから、他の種族より再生力が強い……だけど、完全に何しても死なないわけじゃないからな」
 語るシェスラートの瞳には、指摘することを躊躇われるような悲痛な翳りが落ちている。
「そうか。それで」
「人質として、俺はヴァルター王に差し出された。俺の家であるローゼンティアは族長の家系だけど、時期族長である兄を渡すわけにもいかなかったからな。それにヴァルター王から直々にお前がいいと指名された」
 一応寝台から降り、渡された飲み物に口をつけながらシェスラートはそう言った。ロゼッテは首を傾げるが、ソードは簡単にその意味を汲み取った。
「たしかゼルアータ王ヴァルターには、歓迎できない趣味がありましたね」
「……」
「ああ。その通り。俺は、王の玩具だ」
「玩具?」
 とは、どういう意味なのか? 出会った時、女物の衣装を身に纏っていた人形のようなシェスラートを思い出す。シェスラート自身は皮肉っぽく笑んで平然と告げたが、それを思えばきっと良いことではないはずだ。
「そんな嫌な顔するなよ。傷つくぞ、俺」
「え?」
 唇を尖らせて拗ねたようにシェスラートはロゼッテを見る。彼はロゼッテの表情の意味を、王の稚児扱いとなっていたシェスラートへの嫌悪ととったのか。
「ああ、いや、違うんだ。そうじゃなくて。ヴァルター王についてちょっと」
「……まあ、いいけど。それより、俺はこれからどうすればいい?」
 あまり話題にしたくないのだろう話をあっさりと流して、シェスラートは現実的な問題へと移った。
「待ってください。ロゼッテ様、外の連中から情報を聞いてきます」
「ああ、頼んだぞ」
 これまでもゼルアータの属国と化した国々の人間と衝突した事のある解放軍だが、今回はそれよりもさらに事情が複雑だった。
「シェスラート……君は、どうして王を殺したんだ?」
「……向こうが俺を殺そうとしたからだ」
「では、何故王を殺した後、自らも死ぬ気でいた?」
 炎に包まれた王城で、しかし彼は動こうとはしていなかった。あの傷では逃げられなかっただろう可能性もあるが、それにしては綺麗な諦めで王の身体を抱きしめていた彼には、未来への渇望が見られなかった。
 部屋に足を踏み入れた時の、あの光景はまるで絵画のようにロゼッテの脳裏にやきついている。
 肌も髪も白いのに、その瞳だけが深紅の強い印象を与えるシェスラート。人形のように美しい少女姿の少年が、同じく整った顔立ちの、もはや動かない男を抱きかかえている。鮮やかなまでの紅は花のように二人の身と周囲の床を染めて。……シェスラートの腕に抱かれたヴァルター王の亡骸は、不思議と穏やかな表情をしていた。
 シェスラートが押し黙る。深紅の瞳は、ロゼッテを睨み付けるでもなくただ射抜いた。
「……あんたには、関係ない」
 突き放すような言葉に、ロゼッテは何故か胸に痛みを覚える。自分は確かにこの少年の命を救ったはずなのに、それに対して感謝されている様子が見受けられないことが原因だと考えた。シェスラートが何を考えているのかわからない。そんな当たり前のことが、酷く堪える自分にこそ驚いた。
 会話もないまま座り込んでいると、すぐにソードが戻って来た。
「早かったな」
「レシスにちょうどよく会えまして。吸血鬼族に関する情報を聞いてきました。大陸東部、コキュトス地区に住んでいるのでしょう。あの辺りは今ならゼルアータ派民族も少ないし、その隣のヴィナンシアを我々は目指しますから、ついでに寄ることができそうです」
「じゃあ」
 吸血鬼の一族は数が少ない魔族であるだけに、その対応は慎重であることを求められる。シェスラートの外見はどう見ても子どもであり、しかも族長の息子だという。さすがにそんな彼を、命は助けてやったのだからいいだろうとここで放り出すわけにもいかない。実際は革命以外のことに割く時間など欠片もないほど忙しいロゼッテたちだったが、これは必要なことだと判断された。
「ああ、村に帰れるぞ、シェスラート」
 その言葉を聞いて、ようやくシェスラートが明るい表情を浮かべた。


2.喪われた居場所

 シェスラート自身も、村に戻るのは酷く久しぶりなのだという。一人で帰れるという彼に、ロゼッテはソードと共に半ば無理矢理ついていった。他意があるわけでなく、ただ自分たちが助けた形になる少年が、今ここで手を離したことが原因で何か寝覚めの悪い結果になるのが嫌なだけだった。
 解放軍たちの移動の間、馬に乗ったまま列を離れて、森の方へと向かう。それは東の辺境、田舎という言葉すら使われない山奥に向かう地域であり、人間は滅多に足を踏み入れない土地だ。その奥まった場所に、吸血鬼の集落はあるのだという。馬で行けるところまでは、と緑の木立が並ぶ道を進む。
 どうせ帰りは二人だけになるのだからと、もともと馬は二頭しか連れてこなかった。ソードの馬の鞍に荷物を結びつけ、ロゼッテの後にシェスラートは納まっている。
 吸血鬼の一族は、大陸の北東地域の一つに集落を作り細々と暮らしていた。ゼルアータの支配下にはあったが、他の国々のように解放軍との戦争には滅多に駆り出されてはいない。何故だとロゼッテたちが尋ねれば、こともなげにシェスラートは答えた。
「そのために俺が人質をやってたんだろ?」
「そうなのか? というか、そのため、というのが良くわからないんだが」
 シェスラートの言葉の意味を掴み損ねて首を傾げるロゼッテに、彼はその顔立ちに似合わぬ大人びた笑みを浮かべた。かなりの年齢差があろうという少年相手にまるで子どもを見るような眼差しを投げられて、ロゼッテは思わず立ち止まってしまった。
「な、なんだ?」
「いや、別に……ロゼ、あんた、純粋培養なんだな、と思って」
「いや、だから何が……」
「知らなくていいのですよ。ロゼッテ様。シェスラート、お前も」
「わかってるよ。ぼかす。ぼかすから。…ええと、まあ、なんだ。だから、俺とヴァルター王の取引としてだな、俺がヴァルター王の元に人質として留まる代わりに、吸血鬼の一族を戦いに参加させるな、という契約をしたんだ」
「何故だ? 普通なら、お前という人質をとって、『人質を殺されたくなければゼルアータのために戦え』と吸血鬼に強要するのが普通じゃないか」
「それは、ヴァルター王にとって、吸血鬼の戦力が目当てである場合だろう。彼の狙いはそうじゃない。用事は俺の方にある」
「シェスラート自身に価値があるということか」
「……そういうこと」
一言紡ぐたびに、シェスラートの顔が暗くなる。
「シェスラート」
「なんでもない。それより、他に何か聞きたい事は? 一応助けてもらったわけだし、金なんか持ってないけど、俺ができることならするよ?」
「いや、別にそれはいいんだ。ただ少し話を聞かせてもらえないか? 吸血鬼について」
「……いいけど、何を?」
「なんでもいいんだ。外見とか文化とか生活習慣とか特徴とか。何しろ俺たちは、魔族についてよく知らないから」
「……そうだな」
 前に乗ったロゼッテの背中にしがみつきながら、シェスラートが口を開く。
 解放軍の移動は、ゼルアータの象徴たる王城を落としたことで士気が上がり今のところ何の問題もない。ロゼッテが戻らずとも他の幹部連中が上手くやるから、と彼らは追い出されてきた。焦って戻る必要もないということで、ロゼッテは比較的ゆっくりと馬を走らせていた。シェスラートがつい先日まで重傷を負っていたということもある。
 けれど、ゼルアータ城に居た際に何事かあって負ったらしき彼の怪我は、すでに跡形もなく癒えている。吸血鬼の超再生力だ、と彼は説明した。
「吸血鬼は……お前たちも知っている通り、この大陸には二種族しかいない、魔族のうちの一種族だ。魔族とは人間に近い姿をしていて、でも人間じゃない一族と言うか……魔力があるというか」
「魔力?」
「ああ。俺たち吸血鬼の場合は、この再生力がそれだ。人狼の一族は、獣と人間の姿を行き来できるんだったかな。それで……他にも人間とは違う特徴がある」
「例えばどんな?」
「まず吸血鬼族の外見は白い髪と赤い瞳に、尖った耳だ。身体能力も人間のそれより優れ、幼い子どもでもかよわい女性でも人間の大の大人をぶっ倒すことぐらい簡単だ。怪我はすぐに癒える。そして何より、死んでも生き返る」
「し……死んでも生き返る?」
「ああ。それでもそんなほいほい死んだり生き返ったりできるわけじゃなくて、ある程度の条件は必要なんだけれど。仮死状態、ていうのかな。それを自由に操れる感じ。一度身体の機能を限界まで止めて、力が戻ってきたら起きる」
「冬眠する爬虫類のようなものか?」
 馬を並べて首だけをロゼッテの背後のシェスラートへ向けたソードのその言葉に、シェスラートは一瞬微妙な表情をした。心外だ、とでも言いたげなその顔に、ソードは言いなおす。
「わかった。では冬眠する熊のようなもの」
「……もういいよ。それで」
 生憎シェスラートの前に座っているロゼッテからその顔は見えないが、シェスラートが憮然とした面持ちでいる気配が背中越しに伝わってくる。
「……なぁ、シェスラート」
「何?」
「ここまで来ておいてなんなんだが」
 そこまで前置きした上で、ロゼッテは一度馬を止め、彼の方を振り返って言った。森の道は狭いがゆっくりとした走りだったために、いきなり止まることになっても馬も慌てずに歩みを緩やかにした。
「お前、解放軍に入らないか? 俺たちの仲間として。歓迎するぞ?」
「ロゼッテ様!?」
 ソードが驚愕と制止を織り交ぜたような声でロゼッテの名を呼び咎めるが、大陸を牛耳る大国を打倒する解放軍の長たる男は、その橙色の瞳を真っ直ぐに吸血鬼の少年へと向けた。
「残念だけど」
 しばらく真摯な眼差しでロゼッテと睨み合っていたシェスラートは、断りを口にする。
「俺は、吸血鬼一族の長の家系だ。これまで村を空けた分、できれば皆と一緒にいたい。俺は兄貴みたいに村を支えるとかできないけど、こんなのでも護衛役としていないよりはマシだから」
「シェスラート」
「ありがとう、ロゼッテ。でも、いいんだよ。無理しなくて。吸血鬼を仲間になんかしたら、きっとあんたの方が苦労するぞ。だって俺たちは――――人間じゃないから」
 その言葉に、ロゼッテは顔をしかめた。
「何を言っているんだ。シェスラート。確かに俺たちは人間でお前は魔族かもしれないが、そんなこと関係ないだろう?」
「……あんたはまだ知らないんだよ。俺たちとあんたたちは違う。その本当の意味を」
「だから」
「ロゼッテ様」
 卑屈ともとれる言葉を吐いて、頑なになるシェスラートの様子に苦い思いを感じて言葉を重ねようとするロゼッテをソードが制した。
「もうすぐ、吸血鬼の集落が見えるはずです。そうだろう、シェスラート」
「ああ」
 それきりこの話題は終わりとばかりに、馬の足を進めさせる。木立が終わり、隠れ里を作るにはちょうどいいくらいに開けた場所、緩やかな緑の丘が目の前に広がった。
 その先は低い崖になっていて、無理に馬を駆け降りさせれば戻るのが余計困難になってしまう。一行は馬を最後の木の幹に繋いで、徒歩で森の奥の集落へと向かった。
 翡翠の樹海の奥深くに、木と石で作られた家に住む、白い髪の人々の姿が見えた。懐かしい村人の姿を目にしてシェスラートは一瞬喜びの表情を浮かべかけ、しかしすぐにその柳眉を曇らせる。
「様子がおかしい」
「え?」
「どうしてこんなに静かなんだ? 確かに吸血鬼は昼間より夜の方が元気だけど、いくらなんでも見張りの男たちの姿が見えないなんておかしい。それに、人の気配が少ない。一体何が……」
 しばらくぶりに戻った故郷の不審な様子に不安げに瞳を揺らすシェスラートに、村の領域を示してその土地を囲む低い柵の向こうから一人の子どもが気づいて名を呼んだ。
「あ! シェスラート!」
「え!? シェスラートが戻って来たの!?」
「嘘! ちょっと待ってよ! 本当にシェスラート?」
 一人がこちらに気づけば側にいた子どもたちも次々に連鎖するようにシェスラートの顔を認めて声をあげる。けれど彼らの顔に浮かぶ表情は久しく会っていない仲間を迎えるというには悲痛で、得体の知れない不安がシェスラートにも、彼をここまで送って来たロゼッテとソードにも押し寄せる。
「一体何があった?」
 ただいまも言わず、ただならぬ雰囲気を察した第一声としてシェスラートがその場で一番年長の子どもにそう尋ねると、彼らは一斉に涙を浮かべてシェスラートに抱きついて、縋り付いてきた。
「シェスラート、村が――――」

 ◆◆◆◆◆

 朽ちた墓標が彼を迎えた。
「族長が……奥方様が、人間の兵士に……」
 森の奥にシェスラートたちを案内してきた子どもがしゃくりあげながらそう告げる。途切れ途切れの言葉でも、目の前の墓と、人為的に荒らされた集落の様子と、魂が抜けた虚ろな目をした吸血鬼たちの様子を見ればわかった。
「父さん……母さん……嘘だ……」
 生き残った村の者の話を聞けば、やってきたのはゼルアータ兵ではないとのことだった。けれどそれが、何の慰めになろう。
 地に膝をつき、シェスラートは呆然と項垂れる。
 致し方なかったこととはいえ、吸血鬼の一族がゼルアータに与したことは間違いない。属国や奴隷とされた民族はこのたびの解放軍の進軍の歯止めとして捨て駒として戦いに駆り出されたから、多分にそのせいもあるのだろう。吸血鬼の一族は積極的にそういった戦闘に参加したわけではなかったが、ゼルアータに味方した国々はどこも、その事情も考慮されずにこれまでゼルアータの横暴に服従していた奴隷たちの怒りを買った。どんな理由があるにせよ、お前たちがあの国に味方したのは事実だろう、ロゼッテたちは実際にそう言ってゼルアータの同盟国や属国を幾つも滅ぼしてきた。吸血鬼の一族も、だから。
 そうしなければ、こちらが危なかったのだ。解放軍は最初から大勢力ではなかった。もちろん早い段階から彼らに味方した国の民は受け入れたが、中には最後まで解放軍に抵抗してゼルアータに服従し続けてきた国もある。彼らにどんな事情があったのか、滅ぼした側のロゼッテは、知らない。
 けれどそんな事情を思えば、ロゼッテが指示を出したわけではないとはいえ、これもまた彼ら解放軍が放棄した故の影響かもしれないという考えが彼の心を重くさせる。
「どうして……俺たちはただ、平穏に暮らしたかっただけだ。みんなで笑っていられる場所が欲しかった、ただそれだけ」
暴虐に膝を屈して隷従に甘んじるのではなく。自由に、幸福に。救ってくれなくてもただ放っておいてくれればそれだけでよかったのだ。ただ、それだけだったのに。
「ヴァルター……俺は、何のために」
両親と兄の墓標の前で、シェスラートが力なく地面に膝を着く。人質として王に捧げられたシェスラートはどんな冷遇にも耐えて村を守ってきたが、それも結局は無駄だった。
 人質と言う名目でゼルアータ城内に留められたシェスラートに、人権などというものはない。もともと人間ではない異種族だ。そんなもの必要ないだろうと慰み者にされ、あらゆる責め苦を耐え忍んできたのは全て全てこのためだったのに、待っていて欲しかった大切な人々はもうこの場にはいない。
 墓標に蔓薔薇が絡みつき、何も知らぬげな顔をしてひっそりと揺れている。
「父上、母上……兄さん」
 茫然自失した体のシェスラートに、すぐ側のロゼッテやソードからも距離のある背後から鋭い声が投げかけられたのはその時だ。
「人殺し!」
「フィルス?」
 村に残された子どもたちの一人だった。十歳前後の少年少女ばかりしかいなかった吸血鬼の集落で、十二歳程度の外見をした彼は年長の部類に入る。少年は項垂れるシェスラートを、鋭い瞳でもって睨んでいた。
「お前がゼルアータと手を結んだりするから、こんな事態になったんだ! どうしてあんな外道の国に協力して大人たちが殺されなくちゃならない!? お前がこの事態を招いたんだよ! シェスラート=ローゼンティア!」
 違う、と怒鳴りたいのにシェスラートの声は絞り出される前に喉の中で死んでいく。糾弾を発する少年の瞳にも、涙が浮かんでいた。
「ゼルアータ王なんて、信用しちゃいけなかったんだ! 人間たちの戦いなんて、僕たちには関係ない! 最初から、そう言っていれば……」
「フィルス、俺は」
「聞きたくない! お前の話なんか、もう何も……」
 フィルス少年が崩れ落ちると、その身体を支えるように寄り添った少女が代わりにシェスラートを見つめた。こちらも泣きそうな顔で、シェスラートと、その背後のロゼッテたちを見つめている。けれどその瞳には恨みや怒りよりも、癒えることのない悲しみが勝っているようだった。疲れた声音が告げる。
「……フィルスの言った事は、本当のことよ。シェス兄さん」
「ラーニャ」
「だって、ここに襲撃を仕掛けてきた兵士たちがそう言ってたの。その二人みたいな、蒼い髪の人が多かったわ。ザリューク人ね。お前ら吸血鬼はゼルアータに肩入れなんかしやがって、て怒ってた」
 シェスラートが紅い瞳を見開き、ロゼッテとソードは居心地の悪い思いを必死で殺す。ここで彼らが怒りや嫌悪をあらわにすれば、ますます吸血鬼族の信用を失い、シェスラートの立場も悪くなるだろう。
「ねぇ。シェスラート兄さん、もうどこにも行かないでね。王が死んだんだから、村に戻ってきてくれるわよね」
「何言ってる! ラーニャ!」
「フィルスは少し黙ってて! それがいいの。シェスラートがいれば、もう人間たちに襲われる心配はないでしょ? それに、大人たちが皆殺されてしまって大変なの。私たちを助けて。みんな死んでしまったから、今はシェスラートが一族の長なのよ」
「そんなこと関係ない! 出て行けよシェスラート! この疫病神!」
「黙りなさい、フィルス!」
「ラーニャ、でも、だって……ッ! だって、こいつのせいで……!」
 シェスラートに殴りかかろうとするフィスルを押さえ、ラーニャがシェスラートに哀しそうな眼差しを送る。けれど、シェスラートはその視線に答えることができなかった。フィルスの悲鳴のような罵り声が胸に痛い。
 ゼルアータ王ヴァルターとの取引。その重さを知っているのは、誰よりもシェスラート自身だった。村人も知らない契約により、シェスラートは彼の元に身を置いていたのだ。
フィルスの怒りは尤もだ。だけど。
「シェスラート」
 かける言葉をなくしていたロゼッテは、少年の華奢な肩に手をおく。びくりと震えたシェスラートが、青褪めた顔で振り返った。
「お前は――」
「ロゼッテ=エヴェルシード。頼みがある」
 言いかけたロゼッテの言葉を遮り、シェスラートは強い口調で切り出した。眼差しは揺れることなく、蒼白な顔に決意を漲らせてその言葉を口にする。
「俺を……お前たち解放軍の仲間に入れてくれ」


3.異端の少年

 吸血鬼族がゼルアータに与したことを疑われるのならば、自分自身の手でゼルアータを倒して潔白を証明するしかない。それがシェスラート=ローゼンティアの出した結論だった。
 村の実権はラーニャとフィルスに任せる。人間たちの脅威を感じたらどこへなりと逃げるのも自由だ。そう告げ、集落から出たことのないほとんどが世間知らずな吸血鬼の子どもたちのために多少の知識を与え、そうしてシェスラートはもと来たとおりロゼッテとソードと共に解放軍へと合流した。多くの子どもたちがそれでも見送る中、最後までフィルスはシェスラートを許す様子を見せなかった。
「ごめんな、みんな……」
 いつか帰るとは、シェスラートは約束しなかった。
「いいのか? だってお前は、ゼルアータ国王と、何か因縁があったんじゃないのか?」
「……いいんだ。俺が因縁を抱いていたのはヴァルター王だけで、ゼルアータ国自体に何かあるわけじゃない」
 来た時よりは早足で馬を働かせ、解放軍の後方部隊に合流するべく駆ける。その合い間に、舌を噛まないよう気を遣いながらもロゼッテはシェスラートに尋ねた。彼は答えた。ソードは二人のやりとりをただ聞いていた。そうして俯いただけでは説明できない翳りをその笑みに乗せたまま、シェスラートは正式に解放軍の仲間になった。
「お初にお目にかかります」
 ただ解放軍に入るとは言っても、集団である以上そこには必ず柵(しがらみ)がつきまとう。吸血鬼というあまりにも特殊な一族の彼を他の新参者のように人間の部隊に一緒くたに入れるわけにもいかなかったらしく、ロゼッテは苦肉の策を取った。シェスラートがまず引き合わされたのは、解放軍の幹部でもなく、かといって兵士の一人というわけでもなく、どことなく高貴な雰囲気を漂わせる一人の女性だった。
「わたくしの名はフィリシア。ロゼッテ様の婚約者です」
「婚約者?」
 解放軍の党首用の天幕の中、いかにも優雅な貴婦人と言った様子のフィリシアと相対し、シェスラートは頓狂な声をあげた。
「あんた、婚約者なんていたのか?」
「いちゃいけないのか? 彼女は幼馴染だ」
「というか婚約者って、一部の特権階級の習慣だろう。ロゼ、あんた、何者?」
 聞いたはいいが、さして答に興味がある風でもなく、シェスラートはフィリシアへと向き直る。ロゼッテと同じザリューク人の彼女は蒼い髪に橙色の瞳。髪の色が濃いので、白い肌が際立って美しい。
「俺はシェスラート。よろしく、フィリシア嬢」
「あら? 男の子……ですか?」
 外見は十代半ばの少女にも見えるシェスラートの声を聞いて、フィリシアはどんぐり眼をぱちぱちとさせた。
「まぁ。ロゼッテ様から力仕事はやめてやってくれと頼まれたからてっきり女の子だと思っていました」
「なんだって?」
 フィリシアから視線を外し、シェスラートはその隣に立つロゼッテを睨む。
「ロゼ、俺を戦場に出してくれ。俺もあんたたちと同じだ。ちゃんと戦える!」
 シェスラートがロゼッテに頼んだのは、兵士としてゼルアータと戦うための場を与えてくれと言うことだった。剣を持ち人を殺し返り血に染まる修羅の道だ。女性や子どもや老人のように、か弱い人間でもできる仕事をするためではない。
「何を言ってるんだ。お前はまだ子どもだろう?」
「だからって、俺は吸血鬼だ! 話を聞いてなかったのか? 吸血鬼族である俺の身体能力はあんたたち人間よりよっぽど優れているんだぞ!」
「いや、だからって……」
 シェスラートをフィリシアにつけたのは、ロゼッテの判断だった。見た感じ力仕事など全く出来そうにもない華奢な少年に、前線で戦うなど無理だ。初対面の女装の印象やその後助け出した時に昏々と眠り続けていた印象も強く、シェスラートには儚げな影ばかりが付きまとう。
 幸いにも解放軍には戦場に立つだけではなく、戦士たちの食事や洗濯などの雑務をする仕事がある。ロゼッテはその中でも自分の信頼できる相手――解放軍党首ロゼッテ=エヴェルシードの婚約者として立派に振舞うフィリシアへと、シェスラートを預けることにした。彼女ならば彼への対応も問題ないだろうし、ロゼッテ自身もたびたび会いに行くのに苦労はない。
 ロゼッテは何となく、この少年から目を離してはいけない気がしていた。
「あのな、ロゼ、吸血鬼を甘く見るなよ? 本当に。俺が本気を出せば、あんただって一ひねりなんだからな!」
「って言っても、お前、ただの人間であるヴァルター王に殺されかかってなかったか?」
 ロゼッテが初めて彼を見たとき、シェスラートは致命傷を負って床に崩れていた。その話を持ち出すと、シェスラートが顔色を変える。しかしそれは憤怒や羞恥というよりも、もっと複雑な感情で。
 けれどそれ以上をロゼッテが続ける前に、彼の頬は高らかに鳴った。乾いた響が場の空気を振るわせる。
「っ! ロゼ! ……フィリシアさん?」
 叩かれたロゼッテ本人よりも、むしろそのやりとりを眼前で目撃してしまったシェスラートの方が驚いている。そして彼の頬をはたいたフィリシアはというと。
「ロゼッテ様。無神経です」
 実に爽やかな笑顔だった。ただしお約束のように目は笑っていない。
「この方が大変な状況にいたことを知りながら、あえてそれを口に出されるなんて。……わかりました。シェスラート様はわたくしがお引き受けします。あなた様は少し、ご自分の行動を反省なさってください」
「フィリシア……」
 彼女程度の力で平手打ちされても、なまじ体格の良いロゼッテにはさほど痛みはないのだが、かけられた声音の凍てついた響には呆然とする。彼女はロゼッテのそんな様子に、にっこりと笑顔を向けると、そのままシェスラートの腕を引いて自分の天幕へと戻ろうとした。
 女性に無茶はできないらしく、フィリシアの腕を振り払えないままシェスラートが叫ぶ。
「ちょっと待て! 話は終わってない! ロゼ、俺は絶対に戦わせてもらうからな! じゃなきゃ何のための解放軍志願だよ!」
 喚く声がやがて遠ざかる。
「なあ本当に頼むって! 絶対問題なんて起こさないから!」

 ◆◆◆◆◆

 しかしさっそく問題は起きた。
「ど……どうしたんだ? この状況は」
 夜半、天幕の外、呻きつつ地面に転がる男たちを見て、ロゼッテは思わず一歩引いた。
 男たちの前には、仁王立ちしたシェスラートがいて、ロゼッテはそもそも彼の身に非常事態が起きたと呼び出されたのだ。……おかしいな。この状況は何だ。彼に何か大変なことがあったように考えたが、むしろ彼が大変なことを仕出かしたように見える。
 先程伝えられた台詞をもう一度思い出そうと頭を捻るロゼッテに、横からソードが溜め息とともに説明した。
「夜這いだそうです」
「は?」
「ですから、この者たちがシェスラートに夜這いをかけたんだそうです」
「……シェスラートは男だぞ? 確かに女の子みたいな顔はしているが」
「存じています。私も、そこの馬鹿どもも。我々も元は小規模な反抗組織だったとはいえ、今は解放軍という立派な組織。……男所帯では、このような事態は日常茶飯事ですから」
 つまり、夜這いと言えばまだ柔らかい言い方で、男たちがやろうとしたのはシェスラートへの強姦未遂だ。
「こいつら全員を、シェスラートが一人で伸したのか?」
 半眼で男たちを睨みつけていたシェスラートが、ようやくロゼッテを振り返った。
「ああ、俺は吸血鬼だから」
 少女のように華奢な少年はこともなげに告げた。平然とした様子の彼と、転がる男たちの惨状がどうにもロゼッテの中では結びつかない。
「……聞くのもなんなんだが、無事、なんだよな?」
「ああ。っていうかロゼ、俺よりお前の方がよっぽど顔色悪いけど?」
「……問題ない。ちょっと、眩暈がしただけだ」
 ロゼッテの耳にそれらの報告が入ってきた事はないが、これまでにもこのような事態はあったのだろうか。先程のソードの慣れたような言葉が気にかかる。
「ロゼッテ様。どうしますか?」
「あー、どうすればいいと思う?」
「とにかくこの出来事の首謀者に動機と過去の罪歴を聞きだし、相応の処罰をいたすのが適切かと」
「ええと、では」
 首謀者は? とロゼッテは問いかけるがここで素直に答えるような輩はもともとこんな行動を起こしはしない。顔を顰めたシェスラートの視線が後手に縛られながらもようやく胡坐をかくことを許された五人の間を行き来し、一人の上で止まった。
「ガナン」
 目つきが鋭く、削げたような頬をした男は解放軍の中でも次期幹部と期待される程の実力を持つ人物だ。貧しい農家の出で苦労して育ち、その恨みを彼らを搾取したゼルアータにぶつけるべく奮戦している、ロゼッテよりも幾つか年上の男だ。
「お前か? こんな事態を引き起こしたのは? 一体どうして?」
「はっ! どうして、だと?」
 ガナンは彼の癖である皮肉げな笑みを浮かべると、年下の上司であり解放軍を束ねる首領であるロゼッテを嘲弄するように言い放った。主を愚弄する気配に、ソードが眼差しを険しくする。チャキ、と腰に佩いた剣を鞘から軽く浮かせた。
「単なる欲求不満。手近でヤれれば誰でも良かったんだ。そっちのガキは綺麗なツラしてるしな」
 好色と返り討ちにされた憎悪の交じるぎらついた目で見つめられて、シェスラートは動じることこそないもののますます不愉快そうに眉を顰めた。眦が吊りあがる。
「強姦は犯罪だぞ、ガナン。立派な人権侵害だ」
「はぁ? 人権? 何言ってやがる、相手は化物じゃないか」
「ガナン!」
 ロゼッテではなく、横にいたソードから叱責の声が飛んだ。滅多に感情を荒げることのない、冷静沈着な青年がその茶色の瞳をきつくしてガナンを睨む。
「なんだよ。文句でもあんのか従者様。相手は人間じゃねぇ、ただの化物だ。何をやったところで、文句を言われる筋合いはねぇ」
 ロゼッテの脳に、ようやくガナンの台詞が染みこんでくる。
「……シェスラートは吸血鬼一族の者だが、俺たちの仲間だろう」
「仲間なんかじゃねぇよ、化物は化物だ。あんたたちは皿の上の鶏に同情するのかい? 偽善だな。しょせん人間は人間が大事なんだよ。犬猫を可愛がるその口で別の動物を殺して食べる。吸血鬼だってそれと同じだ。こいつらは人間じゃねぇんだから」
 だから何をしてもいいのだと。別の種族だから、自分の一族ではないから。食事のために鳥を絞めるように、好き勝手に弄んで傷つけても構わないのだと。
 ロゼッテは言葉が出てこない。代わりのようにソードが眼差しを険しくした。
「ガナン、今すぐ黙らないとその首を……」
「刎ねるってか? 自分の気に入らなけりゃ殺す。それじゃゼルアータの王様と何もかも同じだな!」
「貴様っ!」
「やめろ、ソード」
 ガナンを黙らせようと剣を振り下ろしかけたソードをロゼッテが止める。切迫した状況にも関わらずガナンは澱んだ光を湛えて、滔滔と喋り続ける。
「俺のいた村では、飢饉になったらそこいら歩いてた犬でも殺して喰った。ちょっと金持ちだった家がそれまで可愛がってたお犬様を殺して喰ったってのはかなり滑稽だったぜ」
「何が言いたい」
「人間が生きるためには、それ以外の種族なんて全部喰いもんにするしかねぇんだよ。いくら外見が人間に似てるからって、吸血鬼なんて単なる化物だ。だから殺そうが犯そうが、たいして騒ぐことでもねぇだろう」
 いくら溜まってたからってまさかフィリシア様にお相手願うわけにもいかねぇしな。暴言。こんな顔だけ綺麗な化け物は、それぐらいにしか役立たないだろう、と。下卑た笑い。
「お前っ」
 あまりの言いようだとソードに引き続きロゼッテさえも剣を抜こうかと思ったところで、静かな声が闇のしじまを揺らした。
「ああ、お前の言うとおりだよ」
「シェスラート」
 当事者でありことの被害者であるシェスラートは、怖いぐらいの無表情で縛られたガナンを見下ろした。両手で彼の頬を包み込み、能面のようだった白い面に凄絶な笑みを乗せる。紅い瞳には、人間とは思えない酷薄な光が浮かんでいた。吸血鬼の瞳だった。
「お前の言っていることは正しいよ。吸血鬼は人間とは違う。どんなに姿が似ていても俺たちは異種族だ。お前たちとは別の生き物だ。だから」
 ぞくりと、その場の全員の背筋を冷たいものが伝う。
「だから殺されるだけの餌として、お前が俺に喰われても文句はないよな?」
 所詮この世は弱肉強食。ただそれだけが秩序だと言うのなら、勝った者強い者が何をしてもいいのだろうと。笑むシェスラートの口の端から、象牙のように白く鋭い牙が覗いた。
「や、やめろ! シェスラート!」
 ロゼッテは慌てて自分より一回りも二回りも華奢な少年の体を抱きすくめて止めた。仰ぐようにして彼を振り返ったシェスラートの瞳には先程の酷薄な光はない。
「こんな奴喰ったって絶対美味くないぞ!」
 他に言う事はなかったのか咄嗟に口を紡いだ言葉をロゼッテは早速後悔するが、シェスラートはぱちぱちと瞳を瞬かせるとふいに破願した。
「冗談だ。ちょっとからかっただけだよ」
 その様子はいつもの通りのシェスラートで、得体の知れない影を背負うものではなかった。
これを機にソードが見張りの男たちを呼んで、事態を収拾する。ガナンたちには厳重注意と軽い罰則が課された。
 しかし、ロゼッテに関しては事態はこれだけで終わらなかった。
「まあ! それでシェスラート様をそのままにしてきたのですか!?」
「いや、そのままって……フィリシア?」
 婚約者と一緒の天幕に戻り、夜中に呼び出された出来事の顛末を説明したところでまたしてもフィリシアに叱責された。
「だから、あなたは気遣いが足りないのだというのです!」
 そう言って、フィリシアは足音高く天幕を出てシェスラートの元へと向かう。ロゼッテは慌てて後を追った。
「フィリシアさん? ロゼ?」
 一時的に彼につくよう指示されたソードと共に、シェスラートはつぶらな瞳をさらに円くしながら二人を迎えた。顔を見た途端、フィリシアは思い切り彼を抱きしめた。
「フィリシアさん?」
「お可哀想に」
 心からの同情が篭もった言葉に、少年はぴたりと動きを止める。
「怖くて、嫌な思いをしたでしょう。もう心配しなくていいのよ」
 シェスラートは二人が入ってきた入り口の方を向いていて、フィリシアは直進して彼に抱きついたためにロゼッテからは彼女の背中しか見えない。そして、彼女にしがみつかれたシェスラートの表情がよく見えた。慰められた彼の表情は一瞬瞠目して強張り、ついで緩やかに解けていくのがよくわかった。
「うん……ありがとう、フィリシア」
 行き場のなかったシェスラートの手がフィリシアの背に回される。子どもが母親にするように、安心したように縋りつく。
 穏やかなやりとりのはずなのに、ロゼッテはその様子に何か、もどかしい思いを覚えた。


4.人を喰らうもの

 砂塵の中に鮮血の花弁が散る。
 漆黒や褐色や煤けた灰色、土色の黄土色、それに多くはザリューク人の蒼い髪だけがある戦場で、その少年の白銀の髪も白い肌もよく目立った。彼は驚くほど軽装で、鎧の一つも纏っていない。
 シェスラートは顔色も変えず、辺りの敵を薙ぎ払っていく。ゼルアータ人と、ゼルアータに与した国家の連合軍は、次々と彼の前に成す術もなく倒れていった。積み重なる屍は、苦悶の表情を浮かべる暇すら与えてはもらえなかった。
 しかもシェスラートは、剣をほとんど使っていない。ほとんど手で人の四肢を首を引きちぎっている。人間よりも遥かに強靭な身体能力を誇る吸血鬼の一族にとって、脆弱な人間の体を打ち砕くことなど容易い。
 だが、人間の能力を大きく超えたその姿に人々が覚えるものは畏怖ですらない、純然たる恐怖と、嫌悪。
「化物だ」
「魔物だ」
 歓声は、感嘆は、やがては恐れの交じる蔑みの声音に変わっていった。
 それでもシェスラートが眼前の敵を縊る手を緩めることはない。その様は戦っているのではなく、ただ相手を屠っているのだというように、紙切れのような屍が刻一刻と増えていく。戦場の一角だけが屠殺場と化し、敵方も華奢でか弱げに見えながら血塗れのシェスラートを恐れて近づいて来なくなる。
 白い肌も白銀の髪も、その瞳と同じ深紅にまみれている。全身から血を肉片を浴びて、それでもなお凛々しく立った。
 たった一日でシェスラートのことは戦場中に広まった。
「けっ! あんなの、どうせ俺たちとは別の世界の生き物なんだから当然だろ?」
「お、おい、ガナン」
 中には、その戦功を素直に認められないものもいる。
「やめておけよ、陰口なんて。聞かれたら何されるかわかんないぜ?」
「そうそう。あんなやり方しておいて、顔だけは女みたいで。どうせ、党首のロゼッテをたぶらかして解放軍に入ったんだろ」
「お前もやめておけよ。殺されるぞ」
 中には、吸血鬼という種族をただ恐れる者もいる。戦力としては歓迎するが、自らは関わりあいになりたくないと。
「皆! 今日もよくやってくれた!」
 砦を一つ落として、解放軍とゼルアータ軍残党との戦いは終わった。とは言ってもそれはこの地域だけのことで、ゼルアータに与する勢力、とくに最大の軍と呼ばれる派閥がまだ残っている。
 それでも勝ちは勝ちだと、解放軍の男たちは早速戦勝の宴を開いていた。野原に黄土色の天幕を張り野営を行う傍らで、街から仕入れた食料と酒を持ちこんだ。
こういった戦いに身を置く者たちには普通以上に戦いの興奮状態を昇華させ、士気を盛り上げてやる場所が必要だろうとロゼッテもそれを許していた。
 彼自身は酒を好まないが、皆が楽しそうにしている空気は好きだった。こうして解放軍の行動が誰を恐れるほどもないくらい大きくなり、勝ち戦の後どこかの国に滞在している時は、色町に遊びに行く連中もいる。
ロゼッテが見回りのために天幕の間を歩いていると、見慣れた人影が走ってくるのが目に入った。
「シェスラート」
「ロゼ」
 今日の戦闘の立役者とも言うべき人物が宴にも交じらずこんなところで何をしているのかと、ロゼッテは訝る。時刻は宵闇の帳が降りたばかりで、空の半分に少し足りないくらいがまだ茜色をしていた。血のように滴る夕陽の残影を追う薄闇の帳の下で、シェスラートの白い肌と髪がよく目立つ。
 そして瞳は夕焼けに染まり、いつもよりさらに燃えるような深紅に輝いていた。
 彼の様子がどこかいつもと違うような気がして、ロゼッテは首を傾げた。勝ち星を挙げたばかりだというのに沈んだ顔をして、シェスラートは首元を抑えている。
「どこか怪我でもしたのか?」
「いや、ううん。そういうんじゃなくて、ちょっと……」
 妙に歯切れ悪く、シェスラートはロゼッテから目を逸らしながら答える。
「ロゼ、どこか行くのか?」
「いや、この辺りをふらふらしてただけだ。シェスラートこそ、どこかへ行くようでもあるのか?」
 尋ねると、ぎくりとわかりやすいほど大きくシェスラートの肩が震えた。
「……ちょっと、用事が」
「そうか? じゃあ俺もついていってやろうか?」
「な、なんで? 別にいいよ!」
 まだ日が暮れたばかりとはいえ、先日のようなことがあっては困ると同行を申し出たロゼッテにシェスラートは酷く慌てた様子で返す。全力で拒否するその態度に不審なものを感じ、ロゼッテは眉を顰めた。
「シェスラート? どうしたんだ?」
「なんでも、ない……お前には関係ない」
「関係なくなんかないだろ? 仲間なんだから」
「ロゼ。でも俺は」
 言いかけた言葉を喉の奥に封じ、シェスラートは諦めたように背の高いロゼッテを見上げた。
「ロゼ、頼むから」
 頼むからやめてくれ、そう続くのだと思っていた言葉に意外な返答を得た。
「頼むから、嫌いにならないでくれ」
 縋るような口調でそれだけを告げて身を翻したシェスラートの背中を追い、ロゼッテは歩き出した。そしてこの吸血鬼の少年がどこへ向かい、何をする気だったのかを知った。
 知らなければ良かったのだということを、知った。

 ◆◆◆◆◆

「噂になっていますよ」
 計画では明日、ゼルアータ軍残党の一部が詰める砦に攻め込むことになっている。同じ天幕の中で武器の手入れをしながら、ソードが報告する。
「シェスラートは化物だと。彼は人間を喰うのだと」
 油を含ませた布で刃を拭っていた手を止めて、ロゼッテは答えた。
「ああ」
 白い顎から滴る血。死肉を咀嚼する鈍い音。
「ロゼッテ様」
「本当のことだ」
 あの日、勝ち戦の後の宴を抜け出してどこかへ行こうとしていたシェスラートについて彼の行動を見たロゼッテは、しばらく沈み込んでいた。
「吸血鬼とは、人の血肉を喰らって生きる種族だ」
 わかっていたのだ、初めから。魔族は、人でないからこその魔族だと。人間と似た姿で人間と同程度の思考能力を持ち、人間と同じように心を通わせられる。そう、思っていた。
 けれど彼らは決定的に、人間とは違うのだ。
「シェスラートはどうしている?」
「二つ隣の天幕でフィリシア様とお話しております。お二人は仲が良いので」
「そうか」
 手入れし終わった剣を鞘に収め、次の剣を手に取る。
「……俺は、彼が戦場で死体を食い漁っているのを見た」
 ソードは礼儀正しく僅かに眉を歪めたのみで、自身も使い古した甲冑の手入れをしている。油と鉄、それに紛れて古い血の匂いが天幕に篭もっている。
「……考えてみれば当たり前のことです。彼は≪吸血鬼≫なのですから」
「ソード、お前は驚かないのか?」
「十分に驚いていますよ。けれど、彼の行動と態度に感心してもいるのです。本来なら新鮮な生き血を飲みたい……そこまで言わなくても死んで何時間も経った死体の血など、間違っても飲みたくはないでしょう。それを、わざわざ解放軍の人間に手をつけないで戦場まで血肉を得に行っているのです。彼の力を持ってすれば、腕ずくで脅して血を奪うことなど容易いでしょうに」
 そう、屈強な男がか弱い淑女を脅迫するより、それは容易い。わかっていたのだ。シェスラートは人間ではないのだから。
「だが……」
「私はそれを話伝えに聞いただけなので、直接現場を見てしまったロゼッテ様のお気持ちは残念ながらお察しできかねます。言葉に出す分には生々しさを忘れがちなそれがどれほど背徳的な光景かということも。ですが」
 吸血鬼一族の姿はほとんど人間と変わらない。だからこそ罪深い。白銀の髪、白い肌、それこそ血のような色の瞳に背徳の香りを漂わせてその光景はまるで人が人を喰らうよう。
「彼らは、神が我々人間の原罪を示すために生み出した存在なのかもしれません」
「ソード?」
「ラクリシオン教に傾倒するわけではありませんが、もしも神がまず人を作り、そして人以外の生き物を作ったと言うのならば」
「何が言いたい」
「人は誰しも、他者を踏み台にして生きている。屠りし者たちの、屠られし者たちの血を飲み屍を喰らい、そうして」
「ソード!」
 物騒なことを言い出す彼の言を押しとどめようと、ロゼッテは声を荒げた。
「ロゼッテ様。私はあなたに感謝しています。あの時、あなたが救ってくださらねば私は惨めにルミエスタの裏路地の片隅で死んでいたことでしょう」
 ソードはシュトゥルム大陸西部の一国、橙の国と呼ばれるルミエスタ国の人間とザリューク人とのハーフだ。それは彼の榛の瞳が示している。ロゼッテを始めとする解放軍の人間は蒼い髪に橙色の瞳のザリューク人が多いので、シェスラートとは別の意味で彼もまた目立っていた。
「ルミエスタの貴族の庶子であった私は、正妻に疎まれて殺されるところでした。ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク様。あの日、あなたに出会わなければ」
 十年も前に滅びた、ザリューク国最後の王族ロゼッテ。
 解放軍を率いて、祖国を滅ぼした大国ゼルアータを打倒する。その目的のために諸国を巡って反乱勢力を集めていた。ゼルアータに最初に侵略された国だけに、ザリュークの恨みは根深い。その途中の旅で訪れたルミエスタにて、ソードと出会った。
 今でこそ理知的な眼差しの青年へと成長したソードは、初めて出会ったお互い十代の頃はこの世の何をも信じられないような顔をしていた。周りの人間は全て敵で、目を合わせた瞬間殺されるとでも言うように。
「亡国ザリュークの衰退ほどではないにしろ、かつて美の国と謳われたシルヴァーニも貧困と飢餓に苦しんでいます。バロック大陸の方では、サジタリエンとラウザンシスカが紛争を続けています」
 世界はいっこうに平和になる気配もない。豊かな暮らしが向こうから歩いて来るわけではないとわかっていても、今まさに困窮している人々にとって、襲い来る運命はあまりにも過酷で無慈悲だ。
「人は、人を喰らうのです」
「だが」
「先日のガナンの発言も、……仕方がないと言えば、仕方がない」
「仕方がないだと! シェスラートは俺たちと同じだ! あんな風に迫害される謂れはない!」
「けれど、怖いのでしょう?」
 まるで憐れむような眼差しで、ソードはロゼッテを見つめた。
「弔いもされず放置された屍の折り重なる戦場で、冷え切って腐りかけた死人の肉を喰らうシェスラートがおぞましいのでしょう?」
 見惚れるほどに綺麗な、貴族の淑女のような指先が泥土まみれの死体をひっくり返し喉首に喰らいつく。冷えた血を啜り、鋭い牙で無理矢理肉を引き裂いて喰らう。艶やかな唇から零れた血が白い顎を伝って滴り、その胸元を染めていく。
 ああ、おぞましかった。気持ち悪かった。怖かった。なまじシェスラートは外見が人間に近いだけに、人が人を喰らう光景を見ているようで、なおさら胸が悪くなった。
「しかし何も、残酷なのは吸血鬼が人を喰らうのに限ったことではないのです……」
 鎧の手入れをする手を止めて、伏し目がちにソードは言った。
「我々だって、彼らと同じですよ。自分が生きるために他の生物を犠牲にできる。食すということに限らなければ、それは同じ人間でさえも」
 その言葉に、ロゼッテは先日のガナンの台詞を思い出した。
『俺のいた村では、飢饉になったらそこいら歩いてた犬でも殺して喰った。ちょっと金持ちだった家がそれまで可愛がってたお犬様を殺して喰ったってのはかなり滑稽だったぜ』
平生いくら取り繕おうとも、人間の化けの皮など一度苦境に陥れば我が身可愛さに容易く剥がれ落ちる。
「私にはガナンの言ったことも、シェスラートの気持ちも、上辺だけと言われる程度でよいのなら……わかる気がするのです。私もあなたに救われるまで、世界は全て敵で、自らが生き残るためなら誰だって害することができると思っていたのですから」
 ソードはそんな自らの有り様を悔やんでいるようだった。仕方ない、という言葉で収めるには、あまりにもこの世の闇も彼の絶望と自嘲も深すぎた。
「ロゼッテ様。ザリュークは既に滅びたとはいえ、あなたは王族。良い意味でも悪い意味でも育ちが良い。それを忘れてはなりません。貧しい者の言葉を無様だと唾棄するのではなく、自らの受け入れられないものを嫌悪して切り捨てるのではなく」
 ロゼッテは剣を拭い終わり、無言で鞘に収めた。度重なる戦いの果てにどこもかしこもくすんでくたびれて見えるが、そこに刻まれた紋章は確かにザリューク王家の物だ。
「俺は、ザリュークが好きじゃなかった」
 紋章を眺めながら、ロゼッテは口を開いた。
「エヴェルシード家の父上は好きだったが、ザリューク女王であった母上はな。どうにも気が強すぎて、何もかもが自分の思い通りにならないと気が済まない人だった。父上はそれに随分振り回されていたよ。温厚で、穏やかな性格の人だった」
「ではロゼッテ様は、お父上に似られたのですね」
 それには答えず苦笑を返す。
「……フィリシアを婚約者に選んだのも、彼女が俺の母とは似ても似つかぬ優しい性格をしていたからだ」
 ガナンの起こした事件以来、解放軍内で孤立しがちなシェスラートを気遣う心優しい婚約者の名を出して微笑む。今も彼女はシェスラートと共にいるはずだ。戦場で戦えば無敵のシェスラートはけれど細々としたことも得意で、フィリシアとは気が合うようだった。
「なぁ、ソード。教えてくれ。どうすればシェスラートを解放軍の中で、確固たる立場につけることができる?」
「ロゼッテ様」
 賢い従者に意見を仰ぐ。死肉を喰らう少年の姿は恐ろしくおぞましくけれど哀しくて儚かった。
 ――頼むから、嫌いにならないでくれ。
 嫌わないで、嫌わないで、と彼だけでなく誰もが叫ぶ。こんな世界で思い通りに行かないことばかり、理想どおりに生きられない自分の醜さを時には皮肉で押し隠し、時には面と向き合い、時にはそれに涙しながら、人は過ちを繰り返す。そうでなければ幸せになれないのだと。自分を誤魔化しでもしない限り。
 言われるまでもなく、ロゼッテにシェスラートを嫌うことなどできない。だから。
「悪い噂など払拭するほどの功績を彼に……ロゼッテ様、明日の予定では、シェスラートは確か我々と共に最上階の牢獄まで向かうのでしたね?」
 解放軍の次の進軍地は、ゼルアータ軍の残党が立てこもっている砦だった。その場所にゼルアータ兵はただ留まっているのではなく、本来大陸中央部の神殿に務めているはずの巫女たる少女を幽閉しているのだという。ロゼッテたち解放軍の目的はその巫女姫の奪還だ。
 シュルト大陸の広範囲に普及しているラクリシオン教の巫女を救えば、いまだ解放軍に対して冷ややかな態度の各国も抱き込むことができる。ゼルアータの眼が怖くて離反できなかった属国にとっても神の名の下という免罪符があれば行動を起こしやすいだろう。
建前は神を蔑ろにするゼルアータへの反抗という形であっても、本音は別にあるということだ。それを、ロゼッテもソードも悪いとも思っていなかった。神は人を救わない。
「巫女姫救出の役目、いっそシェスラートに任せてはどうでしょう? シェスラートの力を信じるならば、一石二鳥の策です」


5.神託の巫女姫

 頼む、とロゼッテに言われた。いってらっしゃい、とフィリシアに送り出された。
 シェスラートはゼルアータの軍事的拠点の一つである砦の塔の上、最上階を目指す。そこに今回救出を依頼された巫女姫が幽閉されているのだという。
 しかしこの塔、要塞だけあって構造が複雑すぎる。事前に手に入れた地図の間違いに惑わされ、巫女姫が囚われているという塔への入り口へと辿り着けない。何の変哲もない灰色の石壁が無機質にそこにあるだけの様子に、その内だんだんと苛立ちが募る。
「シェスラート!」
「何!? 見つけたのか!?」
 とにかく上階に通じる道はないかと走り回って探していたシェスラートに、解放軍の同士の一人が声をかけた。だが、その響には切羽詰ったものが滲んでいる。
「入り口はこっちだ! だが大変だ! ゼルアータの兵士が俺たちに奪われる前に巫女姫を殺そうと上がっていったらしい!」
「何!」
 焦燥をそのままに叫び返し、シェスラートは端正な面差しを歪めて舌打ちする。
「どうする!? ここからじゃ間に合わないだろう、これだけの高さ」
「いい、俺が行く」
 幽閉と言えば塔なのか、巫女姫が監禁されている場所はよりにもよって砦の塔の最上階だ。入り口を探すのにも走り回って、この場所から先が見えないこれほどの長さの螺旋階段を昇りきる体力は一般の兵士にはない。
 だがシェスラートは特別だった。身軽に三段飛ばしで、羽はないけれど飛ぶように駆け上がっていく。
「あいつ……本当人間じゃねぇなぁ」
 それを見送った解放軍の男たちは、感心したように声をあげた。実際どれほど陰口を叩いたところで、この体力の違いに敵うはずはない。
「というか、躊躇いないな、シェスラート。ロゼッテに同じ隊に入れろって言われたときは、あんな顔も体つきも女の子みたいなのが役に立つかって思ったのにな」
「ああ。すげぇな。シェスラートは」
 解放軍の中でも、シェスラートを認めない者とその能力に感嘆する者、二つの派に分かれているのだ。純粋に戦場での戦い、作戦遂行への行動力と度胸。認めるべき要素はいくらでもあり、それが吸血鬼という種族への畏怖を取り払うこともある。
 しかし自分がそんな風に他者からの評価を受けているとは露ほども思っていないシェスラートは、ただひたすらに最上階を目指していた。階段の途中で住居らしき小部屋を幾つか見かけたが、どこももぬけの殻。やはり巫女姫は屋上に連れ出されているらしい。ならばこのまま突っ走るしかないと、シェスラートは単純にそれだけを頭に刻んで行動する。
 そしてここにもう一人、突っ走る人物がいた。
「さぁ、姫君」
 石造りの塔の屋上、眩しいほどに晴れ渡った空の下、ゼルアータでは何か重要な役職にいたらしい男が、落ち窪んだ目をして、首元に剣を突きつけて脅した少女に声をかける。
 きらきらと陽光を受けて輝く銀髪に上品な薄紫色の瞳の少女は、気だるげな動作で彼を振り返った。その身に纏う衣装は薄紅に薄紫の薄い絹を重ねたもので、髪と同じようにきらきらと輝いている。その容姿は、まるで女神の降臨したようなものだと言われている。
「あなたには、役目があります」
「わたくしに?」
「ええ。そうです。あなたはこの世界の中心。神の託宣を唯一その身で聞く事ができる存在。そんなあなたを、解放軍などに奪われては困るのです」
 重役だけではなく、兵士が数人この屋上にいる。巫女姫――サライを拘束する男は、部下の兵士たちに指示した。
「その階段で敵を待ち構えろ。いくら解放軍などと、卑しい奴隷どもが徒党を組もうとも一対一でゼルアータの兵に敵うわけがない」
「……っ」
 兵士たちは言われたとおり、彼らも使ってきた塔の屋上へと続く階段の頂上で待ち構えた。これでは解放軍がいくら兵力を投入しようとも、一人しか戦えない。
「さぁ、サライ様」
「……なんです?」
「ここに、署名を」
 男はサライに一枚の紙を差し出した。その内容に目を走らせ、サライは一瞬目を瞠る。ついで、半眼になった。
「わたくしに、ヴァルター王の行為が正当な神の託宣による行いだと認めろと?」
「そうです。巫女姫。あなたが神の代理人たるその名においてヴァルター陛下の意志を認めてくだされば、ゼルアータに歯向かう者もこれ以上現れますまい」
「ゼルアータ国王ヴァルター陛下は身罷られたとお聞きしましたが? お子様もないままで、あの国を継ぐ方はいらっしゃらないと」
「……どこで、そんな話を?」
「どこも何も、わたくしはこの六年間、この塔から外へ出たことはありません。知っているはずでしょう?」
 思いがけず強気なサライの口調に、男は一瞬怯んだ。自分の半分も生きていないような少女の眼光が、そうとは思えぬほどに鋭い。
 けれどそれは何かの間違い、小娘が強がっているだけだろうと、すぐに男は咳払い一つして初めの余裕を取り戻した。睨むサライの眼前にその紙を押し付ける。羊皮紙ではなく、植物から作られた本物の紙。それに目を留めて、サライはその紙を受け取った。
「さぁ、巫女姫。署名を。ヴァルター王こそ、この大陸の支配者であり、反乱軍は神に仇なす無法者である、と……その若く美しい命を、こんな場所で長きに渡る幽閉生活の末に終わらせたくはないでしょう? あなたが我等に協力してくれるというのなら、ここから出して差し上げてもよい。もちろん、我らに力を授けてくださった巫女姫へのお礼も充分いたしましょう」
 白魚の指先が、渡されたその紙を両手で持つ。懇願ではなく脅迫の言葉を吐いて、男は威圧的にサライに託宣を保証する書類を書かせようとした。
「そう……ですね。わたくし、まだ十六歳ですもの。死にたくなんてありませんわ」
 サライの言葉に、男はこれまでも浮かべていた歪んだ笑みを深める。神託を聞く巫女と言えど、所詮はただの幼い娘、脅して傀儡にすることなど容易い。さぁ、署名を――
「えい♪」
 目の前で、現在この世にただ一枚きりの紙が真っ二つに引き裂かれる。
「――――は?」
 呆然とそれを見送った男は、更に書類がサライの手によって細かく細かく引き裂かれこれ以上ないというところまで破片にされるまでに意識が帰ってくる事ができなかった。お誂えにもここは高い高い塔の屋上。不敵な笑みを浮かべたサライの手から、もはや何の意味もないただの破片となった書類が白い花吹雪のように飛んでいく。
「な……な……」
 男はあまりのことにこめかみをひきつらせ、血管を浮かび上がらせている。これまで被っていたか弱い少女の猫を盛大に捨てて、サライは儚げな容貌を裏切る高笑いを浮かべた。
「アーッハハハハハ!! どうよ! これで今ここにもうこの書類を書く手段はなくなったわね! まさかこの非常時に『一枚破れたからじゃあこれ予備で★』なんてこと、ないでしょうね! 巫女の託宣保証書は神殿の最重要品だもの!」
 サライが指摘したとおり、先ほど引き裂かれて空の果てまで飛んでいった紙は、そう簡単に手に入るものではない。あまりの事態に、男は頂点に達した怒りを静めることもできない。
「な……なんてことをしてくれるんだ!!」
 男の罵詈などそよ風のように受け流し、サライは嫣然と微笑んだ。紅を塗っているわけでもないのに、紅い唇が毒々しい。
「やっぱり二枚目は出てこないみたいね。じゃあ、もしもここであたしが死ねば、あんたたちは巫女の託宣も聞かずに巫女を殺して世界を支配しようとしたただの暴徒よね。ま、もともと甘い取引持ちかけて、託宣書だけ書かせたら解放軍のせいにでもして、さっさと殺すつもりだったんでしょうけど」
 サライは戦慄くばかりでその場から動くこともできない男に背を向け、彼から距離をとるかのように歩き出す。入り口であり唯一の出口を固めている兵士たちもこの成り行きにあんぐりと口を開けるばかりで、誰一人動けない。
 ここは狭い塔の上の、屋上。最上階だ。
 逃げる場所などなく、けれど躊躇いのない足取りはすぐに塔の縁へと辿り着く。あまりにもあっさりと、彼女は転落防止のその枠へと足を乗せた。薄い衣装がひらりと舞って、白い足首やふくらはぎが露になる。
 後一歩踏み出せば空というその場所に、恐れ気もなく立った。上空は強い風が吹いていてサライの見事な銀髪を靡かせる。今にも落ちそうだ。なのに、彼らゼルアータの男と兵士を睥睨しつつ微笑んでいる。美しく薄ら寒いその笑顔。
「み、巫女姫! 何を!?」
「言ったでしょ? あたしが死ねば、あんたたちゼルアータは巫女の託宣を聞かずに巫女を殺して権力を得ようとした単なる賊よね、って。何もない人が見たら、ここであたしが死んだら明らかにゼルアータの仕業だもの」
 時流は解放軍に味方している。暴虐の大国ゼルアータは、自らが生み出した罪によって滅びようとしている。彼女はただ、目の前にあるその背を押すだけ。
 こともなげにそう言って、サライは今度は心からの笑顔を浮かべた。
「巫女は神からの託宣を曲げて伝えてはいけないのよ。従いたくない証明書をああやって破棄できるように、女の細腕でも引き裂けるように紙製なの。――命があるなら覚えていなさい。例え巫女を殺しても、神託が覆ることはない」
 紫の瞳が男たちを射抜く。
「ゼルアータは、必ず滅びる」
「誰か巫女を止めろォ!!」
 サライの足が地を蹴った。塔の屋上から、自らの意志でもって飛び降りる。
「ちょっと待った――――ッ!!」
 彼らが聞いたこともない声がその場に響いたのは、まさにその瞬間だった。
「ええっ!? よりにもよって飛び降り!?」
 高くて綺麗な少年の声が素っ頓狂に叫び、次の瞬間には入り口を固めていた兵士を残らず薙ぎ倒していた。人間業を超越した速さで駆け、迷うことなく宙へと身を踊らせたサライの姿を追う。
 ガクン、と落下が止まり、抱きしめられた腰を中心にサライの身体に衝撃が走る。
「どうして人間って奴は、一度死んだら生き返らないくせにこんなにも簡単に命を投げ出せるんだ?」
 塔の頂上から飛び降りかけたサライの体を支えながら、シェスラートは呟いた。自らの身体は壁面に完全にめり込んだ左手に支えられていて、足場のない空中にその身を留めている。この救出劇は彼でなければ到底できない芸当だ。
 吸血鬼は致命傷を負っても、条件次第で生き返ることができる。心底不思議そうな様子で自分を見る少年に、後から駆けつけたザリューク人の男たちに二人まとめて引き上げられる途中、彼女は呆然としながらも答えた。
「一度死んだら生き返らないから、命の使いどころを間違えないんじゃない?」
 それが、未来を予言する巫女姫サライと、吸血鬼族シェスラートの出会いだった。


6.結末はいまだ遠く

 この世界には神がいる。
 否、正確には、いるのかどうかはわからない。しかし、「いる」とされているのである。全能の神、創世にして創生の神が。そしてその神を崇める宗教は大雑把に分けて世界に二つ存在する。ラクリシオン教とシレーナ教だ。
 ラクリシオン教は主にゼルアータが支配しザリュークがその体制を打破して革命を起こそうとしたシュルト大陸に布教している宗教である。一方のシレーナ教は、もう一つのバロック大陸で信仰されている。とは言っても両宗教の名はその創始者がラクリシオンという男性であるかシレーナという女性であるかの違いと、その教義の細かい違いにおいて区別されているだけであって、本質的には同じ唯一の《神》を信じるということに代わりはない。
 そして、シュルト大陸におけるラクリシオン教には最大の特徴がある。それは神の《託宣》を聞く事ができるという《巫女姫》の存在だ。
 これはバロック大陸のシレーナ教にはない存在と役職で、ラクリシオン教の創始者であるラクリシオンが神の声を民に伝える神官としての性質を備えた一国の王であったことに由来する。どのような理由でそのような存在が生まれるのかは解明されていないが、代々の巫女たちは神の声を受け取ることができ、その存在は一つの時代に一人きりである。一度に二人の巫女が生まれる事はなく、先代の巫女が亡くなると、どこかで次の巫女が誕生するという。
 真実彼女、あるいは男性の場合である《神子》が、神の声を聞くものであるのかどうかなど人々は知らない。そんなことは、実際に神と交信できるという巫女たち本人にしかわからないのだろう。
 しかし真実はどうであれ、唯一神がことあるごとに人々の救いの手を差し伸べてその未来を導くというこの世界で、それを聞くことのできる巫女の権力とは、計り知れないものであるのだ。

 ◆◆◆◆◆

 腰まで届く長い髪は美しい銀髪で、大きな瞳は宝石のように輝く紫。口は桃色に色づいてやわらかそうで、幽閉生活が長かったため日の光を浴びる機会の滅多になかった肌は白い。
 ウィスタリア人の巫女姫、サライは文句のつけどころのない美少女だった。儚げでか弱げで、男だったら誰もが守ってやりたくなるような容貌をしている。守ってやりたくなるような……
「まあ、助けてもらったことは感謝するけど、あんたたちもそれだけであたしが簡単に手を貸すとは思わないでしょうね。神に仕える巫女に恩を売っていいようにしようだなんて、その思考がセコイのよ」
 彼女は外見から受ける印象を裏切り、とても逞しかった。逞しすぎた。ヴァルター王の命によって十歳から十六歳まで六年間あの砦の塔に幽閉されていたはずなのだが、そうとも思えないほどに元気だ。
「ああ! 外に出たのってひさしぶり〜♪ この日のために、身体が鈍らないように毎日腕立て腹筋背筋に励んだ甲斐があったわ〜〜♪」
 鍛えていたのか。そうなのかこの姫。その場にいた人々は沈黙した。思わず視線は彼女の二の腕やひっそりと覗くふくらはぎに行ってしまう。た、逞しい。彼らは一様に思った。筋肉ムキムキとまではいかないが、それは確かに健康的な手足だった。ほっそりと華奢で白いのに、贅肉など欠片もなく引き締められている。ああ……。
 サライが喜んでいるのはわかるのだが、風貌と性格のギャップに頭がついていかない。
「いや、あのー、巫女姫……それは、俺たちには間違っても協力する気はないと?」
 それはともかく、とロゼッテが話を先の方の台詞から戻した。後者の発言については多少聞こえなかったような気にしていないような振りだけでも繕わなければ、話が進まない。
 とりあえず彼女と解放軍の党首であるロゼッテとが顔を合わせねば始まらないだろうと、シェスラートは助け出した彼女をまずロゼッテの元にと連れて行った。別にそうでなくともロゼッテが解放軍の首領なのだから引き合わされるのは当然のはずなのだが、何しろサライは説得の一つもしなければ従ってくれなさそうな女性だったもので。
 そういう事情を踏まえて、今、ロゼッテとサライは顔を合わせた。サライがもともと務めていた神殿はいまだゼルアータ勢力の一つに占拠されているし、行くところもないという彼女は解放軍に招かれたのだ。彼女を助け出した直接の功労者であるシェスラートを仲立ちとして、向かい合う。
 シュルト大陸において最も布教しているラクリシオン教の巫女姫サライは、この大陸では絶大な力を持つ。権力や財力とは無縁だが、それは人の信仰と言う名の力だという。
 一方ロゼッテ=エヴェルシードはザリューク人を母体とした解放軍の頭領として、ゼルアータの暴虐に抵抗する勢力の支持を集めている。
 だというのに、ロゼッテは明らかにサライに押されていた。ちなみにロゼッテは二十六歳の屈強な青年で、サライは十六歳の華奢な少女だ。
「巫女姫、俺たち解放軍は、この大陸をゼルアータの横暴な支配から解放するために戦っている……」
「知っているわ」
 生活の保証や奴隷と言う身分からの解放、ゼルアータに虐げられた者たちは、多くのささやかな望みを抱いている。政治上の駆け引きは勿論、宗教的なものを持ち出して人々の信仰心に訴えるなら、神の言葉を託宣として受け取ることができる世界で唯一の巫女、サライの存在は大きい。彼女が解放軍に与した、その事実だけで、大陸中の人々が、天が暴虐のゼルアータから解放軍へと祝福の光を投げかけるのだと信じる証明になるだろう。
 サライはただそこに存在するだけで、人心を左右する存在なのだ。だからこそゼルアータ側も、サライを塔へと幽閉していた。ある意味では、彼女を手に入れる事が世界を手に入れることに繋がるとも言われている。
「勝手なこととは思うが、どうか力を貸して欲しい。俺たちがあなたを助けたとか、そう言う事は抜きにしても俺たちにはあなたの力が必要なんだ」
 ロゼッテたち解放軍の目的も、サライの存在によって大陸中に自分たちの行動の方が正しいのだと呼びかけるためのものだった。シェスラートが助け出したサライに、ロゼッテが交渉する。
「その割にはしっかりとあんたたちの仲間にあたしが助けてもらったことを持ち出してきたわね。好青年風の見かけして、解放軍の党首として意外と強かよねぇ。ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク王子」
 ぴく、とロゼッテと、その場に同席しているソードとフィリシアの眉が上がった。サライは穏やかだが底の知れない笑みを浮かべ、行儀良く坐している。その笑顔が曲者であり、一筋縄ではいかない。
 ロゼッテの素性について、誰もこの少女に話してはいない。そもそもザリューク王国がゼルアータの手によって滅ぼされたのは二十年前のことであり、当時六歳だった王子の行方など、知る者はなかった。その後二十年は当然ゼルアータの支配下にあったのだから王族は用なしとなり追放され、命からがら逃げ延びたロゼッテのことなど、もはや国民の誰も覚えてはいないしロゼッテ自身も名乗り出たことはない。普段の彼がロゼッテ=ザリュークではなく、ロゼッテ=エヴェルシードと父方の姓を名乗るのもそのためだ。
 今解放軍に所属している貴族の中にも、ロゼッテがザリューク王族だと知る人物は少ない。
「ザリューク……? ザリューク王国の、王家の人間……?」
 この場では一人だけその事実を知らなかったシェスラートが、きょとんとした顔をしている。彼はただでさえ森の奥に隠れ住み世情に疎い吸血鬼の一族であり、ヴァルター王に囚われていた時期も余計な外界の情報など与えられていなかったのだから知らなくても何もおかしいことはない。むしろ、知らない方が普通だ。
「シ、シェスラート、これは」
「ふぅん。そっかぁ。王子だったんだ。ロゼ。そういえばどことなくお上品だもんだ」
 あっさりと納得された。
「シ、シェスラート……なんで黙っていたんだ、とか、怒らないのか?」
「怒る? どうして? 別にいいじゃないか。あ、でもそうしたら今度からロゼッテ王子とか様とか呼ばなけりゃならないのか? あれ? でも王子って……どうしてそれなら、他国まで巻き込んだ大掛かりな反乱を起こして、ザリュークを建て直す方を選ばなかったんだ?」
 シェスラートの言葉に、ロゼッテは固まった。
「シェスラート」
「ん? ソード」
「それについては、また今度きちんと話す。とりあえず今は、黙っていてくれ」
「……わかった」
 ソードの有無を言わさぬ口調に、シェスラートは言われたとおりに大人しくする。フィリシアがどこかほっとしたように吐息し、はぁ、とこれみよがしな溜め息をついたのはサライだ。
「巫女姫」
「ま、人生いろいろあるもんよね」
 何故かこの中で一番歳若い彼女が達観した表情で言った。
「ま、いいわ。――ロゼッテ=エヴェルシード=ザリューク」
「……はい」
「あたしは一応あんたたちの方にお世話になろうとは思ってるんだけど」
「それは、構いませんが」
「ええ。だって」
 ロゼッテと正面から向き合い、サライはにっこりと笑顔を向けた。
「例えあそこであなたたちに助けられなかったとしても、わざわざ危ない橋なんて渡りたくないもの」
「っ! それでは」
「ええ」
 一秒でその言葉を理解したロゼッテは、これまで微妙な緊張状態にあった顔を輝かせた。
 神の託宣、それは予言とも受け取れる。こうするべきだと人間に告げるその声を聞く事ができるサライの口から、ロゼッテたち解放軍に救われたという事実がなかったとしてもゼルアータ側に立つのが危険で、解放軍につくのが安全だという発言がされたということは。
 解放軍が優勢でゼルアータが陥落寸前だということ。
「この戦は、我ら解放軍へと神の祝福がもたらされるのですね」
 巫女の託宣、予言は絶対だ。
 神が世界を支配せしめるということを信じはせずとも、神の存在自体は普段から宗教心の薄いロゼッテも信じている。
 そして自分にとって良い言葉を聞かされるのは誰だとて嬉しい。あからさま苦境であれば逆にこれが自分を油断させる罠ではないのかと疑心暗鬼になることもあろうが、今の状態でそんなことをする意味はない。確かに解放軍の勝利は見えている。それが、予言の巫女姫サライの言葉で確実になった。
 世界の祝福は自分たちのもとにある。
「それは――」
 しかしその言葉に反論するように何事かを言いかけ、サライは途中で口を噤んだ。
「……どうしたんだ?」
 大人しくしていろとの禁を破って、表情を変えたサライに対しシェスラートが声をかける。ハッと目を見開いて彼の方を向いたサライが、唇を震わせた。けれどやはり、音は零れずに桃色が引き結ばれた。
「巫女姫?」
 ロゼッテやフィリシアたちも、サライの様子の変化に不審なものを感じて眉根を寄せた。
「どこか具合でも?」 
 たおやかな手を伸ばして気遣うフィリシアの言葉にかぶりを振って、サライは元通り顔をあげる。
「……いいえ。なんでもないわ。これは、今はまだ関係ないこと。それより」
 ロゼッテはそんなサライを見つめた。サライの外見は麗しい。性格も外見の印象を裏切るとはいえ、快活で物怖じせず、いかにも貴婦人然としたフィリシアとは違った意味で魅力のある女性だ。しかしロゼッテからは、サライはどこか付き合いにくい相手に思えた。
 同じことを相手も考えたのか、まさに絶妙なタイミングで、サライがロゼッテに向けて口を開く。
「……あたし、あなたみたいな人嫌い」
「え?」
「へ?」
「巫女姫」
「サライ様」
 自らの発言で場をかき回しておきながら、それでもサライ自身はトドメのように笑顔で宣告した。
「でもここに、解放軍にはいてあげる。お世話になるつもりだから、よろしくね」
 明らかに力技で無理矢理、これまでの話もその話も終わらせる。一方的に嫌悪感をあらわにするのを通り越して宣告までされてしまったロゼッテは、頷くしかない。
「は、はぁ……」
 シュルト大陸解放軍首領ロゼッテは、完全にこの少女に押されていた。

 ◆◆◆◆◆

「……大丈夫ですか? ロゼッテ様」
 二人きりとなった天幕で、フィリシアはその白い手をロゼッテの頬に当てる。彼女の体温に知らず緊張して強張っていたのを溶かされて、ロゼッテは緩やかな笑みを浮かべた。
「……ありがとう、フィリシア」
 だが、大丈夫だと告げれば、彼女はその秀麗な面差しを曇らせてしまう。
 対面と形ばかりとは言え交渉を終え、今はシェスラートがサライを案内している。シェスラートとは別の場所で自らの任務もこなし、サライとの対面で気力も削られてしまったロゼッテとは対照的にまだ体力が有り余っているという、休まなくても平気だと笑っていた彼に、巫女姫を丁重にお迎えする役目を与えた。
 従者であるソードは休息をとるロゼッテの代わりに様々な雑務を行いに出かけた。本当に今は二人きりで、天幕の外には人の気配もしない。
「フィリシア」
「……あの方にこんなことを言うのは、失礼だとは思うのですが」
 前置きした上で、フィリシアが難しい表情で言葉を続ける。その言い方に、サライのことを話すつもりだとわかった。解放軍の首領と巫女姫、共に現在の世界で重要な役割を持つ人間とは言え、死ねば別の人間がまた起つだけの解放軍の長と違い、神の託宣を聞くことのできる巫女は世界に一人だ。その重要度は比べ物にはならない。対等の振りをしていても、サライはロゼッテよりも実質的に立場が上だった。
「……魅力的なお嬢さんでしたね。若くて美しくて、力に溢れていて。敢然としていて」
「フィリシア」
「でも……あんな風に真正面きって嫌いと言われれば、誰だって傷つきますわ。ですから、そんなに落ち込まないでください」
「……落ち込んでなどいないよ」
 気遣われているのだと気づいて、ロゼッテは彼女に苦笑を向ける。さすがに先ほどの「あなた嫌い」発言には驚かされたが、十も年下の少女に嫌われて本気で傷つくほど繊細ではない。そんな人間が反乱を主導し革命を起こすことなどできるはずがない。
「わかりませんわ。ロゼッテ様。あなたは妙なところが繊細で、妙なところが大らかですもの」
「なんだ。酷いなフィリシア」
「ふふ。あなたのことをよくわかっているだけですよ。これでも婚約者ですから」
「……そうだな。フィリシアは、俺の大切な婚約者だ」
 思わぬ発言、意表をつく性格と自分より上の立場の人物との対面に疲れささくれ立った心を、フィリシアが穏やかに慰撫してくれる。
「シェスラートに知られてしまいましたね。あなたが、王族であること」
「……ああ」
「どう、なさるおつもりですか?」
「どうもこうも……今までどおりに接してもらいたいんだが……シェスラートの気構え次第だろうな」
 天幕の中、膝をフィリシアに借りて毛足の長い敷物の上に横たわってロゼッテは目を閉じる。瞼の上を、フィリシアの手がそっと撫でた。
 ザリューク人らしい蒼い髪を結い上げて貴婦人然とした彼女はロゼッテより一歳年上だ。優しい夕焼けのような橙色の瞳を細めて、自らの膝で甘えるロゼッテにフィリシアは微笑む。いつも、恋人と言うよりは母親のような暖かさで、彼女はロゼッテを包み込むのだ。
「王族であると知ることで、シェスラートがあなたから離れていくかもしれないと?」
「ああ。……いい例がソードだ。初めて会った時は向こうも生意気言ってくれたのに、今ではすっかり俺の従者扱いで、俺の出自を知る者がさらにそういう役目を彼にさせるものだから、今ではソード自身がすっかりそんな気分でいる」
「彼とお友達になりたかったのですか?」
「……そうだな」
「ソードは、例えどんな形であっても、あなたから離れていきませんよ。あなたの側にいること、そのために彼はもっとも自然な形を選んだだけです」
「でも俺は寂しいんだよ。フィリシア」
 困った人、とフィリシアは笑う。
「寂しいだなんて、まあ、ロゼッテ様。そんなことを仰らないで。私はいつでも、あなたのお側におります。あなたが私を望んでくださるかぎり、いつだって側にいますから。ソードだってそうですよ。シェスラートだって、きっと」
「……そうかな」
「そうですわ」
 フィリシアの膝は心地よく、ロゼッテは彼女の甘い香りに包まれて疲れた身体に緩やかな睡魔を感じた。魔と言うにはあまりに甘美なそれに、ついうとうとと身を任せようとする。そこまで思ったときに、ふと違和感を覚えた。何かが心の底から浮かび上がってくる。
「眠ってもいいですよ」
 けれどフィリシアの穏やかな声は、それを促して許すものだから。
 頷こうとする意志はあっさりと眠りに負けて、反応を返せないまま夢の中に落ちる。その一瞬にロゼッテは何かを思った。
 自分は何か、大切なことを忘れてはいないか。先ほど一瞬だけ、それを、思い出せそうだったのに。


7.二人だけの秘密

 シェスラートはサライと共に歩いていた。何をするでもなく、てくてくと。
「ええと、案内すると言っても、どこに案内すれば……どこに何があって、誰が炊事の担当者とか、この人に言えばこれをやってくれるとかそういう一通りの説明は聞いたよな? たぶん巫女姫なら誰に何を言ったって優先して誰も彼もがやってくれるだろうから心配いらないと思うけど、一応まだ聞きたいこととか、さっきの説明で覚え切れなかったからまた聞きなおしたいところかあったら、教えるよ? 俺も一度じゃとても覚えられなかったし。俺たちの方は目立つ見た目してるから相手はすぐにわかるっていうのに、不公平だよな?」
 解放軍はそれなりに他国の民を吸収して大きくなったとはいえ、やはり母体であるザリューク人の姿が多い。蒼い髪に橙色の瞳の彼らに比べて、吸血鬼族で白銀の髪に紅い瞳のシェスラートや、ウィスタリア人の銀髪に薄紫の瞳というサライは目立つのだ。そんなシェスラートの言葉に、サライが笑った。
「お気遣いありがとう。どうか、サライと呼んでください。吸血鬼さん」
「じゃあ、俺はシェスラート。ええと、こういう場合、巫女姫に対しても敬語とか使わなきゃ駄目? ロゼに関しても今まで王族だとかそういうの知らなくて、普通に接してきちゃったんだけど。でもあっちは別にいいかなぁ」
 首を傾げるシェスラートの言葉に、サライは白い指を口元に当てて、ますます嬉しそうにした。兵士たちの集う天幕と天幕の間を歩きながら、軽やかな笑い声が振り撒かれる。
「あ、巫女姫さまだー!」
「巫女さまだぞ! オイ、見ろよ! すっげー美人!」
「巫女様―! 俺たちにどうか、神のご加護をっ!」
 戦闘に直接参加する兵士たちはもちろん、炊き出し班に所属する女子どもたちからもサライは人気が高い。巫女とはこれほどまでに人心を集め左右するものなのかと知って、シェスラートは感心する。一通り集まってきた人々に手を振り、自らの仕事に戻る彼らから離れて人の少ない場所、荷物置き場と化している大天幕の一つの裏手に来たサライは話の続きを笑顔で切り出す。
「あたしに対しては、敬語なんかいらないわよ」
「そう言ってもらえると助かる。どうもあれはむず痒い」
「嘘おっしゃい。本当は慣れているくせに」
 何故慣れているのかを言わないままに、サライが続けた。
「いつまで自分を隠し続けるの? そんなことで人生本当に楽しい?」
「きっついこと言うなぁ……」
 相手に有無を言わせない笑顔を浮かべるのがサライならば、シェスラートは相手に感情を読み取らせない微苦笑を浮かべるばかりだ。今現在の時点でそれに誤魔化されているのは主にロゼッテで、サライには最初から全て見抜かれていることもわかっていた。
「一つだけ忠告しておこうと思って。その巫女の証である衣装、脱がない方がいいよ」
「洗濯もさせてくれないわけ? 着替えの一枚くらい頂戴よ」
「そうじゃなくて。……ここって解放軍だ奴隷救済だのなんだかんだ言いながら、結局は男所帯だからさ。妙な気起こす奴がいるとも限らないし、その《権威》の象徴である衣は、少しでも抑止力になるだろ? あんたが二目と見られない顔なら、こんな忠告も必要なかっただろうけど」
 解放軍入りして初日に数人がかりで無体な目に遭わされそうになった経験者は語る。シェスラートの言葉に、サライがふとその笑顔を剥がして答えた。
「大丈夫でしょ。だってそのために、あなたはこんなところにいるんでしょう? あたしが死んだら、あなたたち解放軍はとても困るのだから。あの人を不利にさせたくないために、あなたはあたしを守るのでしょう? あくまでも何でもないような振りしてこっそりと」
「……なんだ、全部バレてたのか」
「純真な少年の演技なんて今更したところで無駄だと思うわよ? ローゼンティア王」
「王?」
「一種族の長ならその称号は王で良いでしょう。吸血鬼の一族はゼルアータを憎むならず者に脅かされて、もうほとんど残っていないと聞くし」
 先程までの、一見すれば人の良い笑顔とは違い、今度はあからさまに仄暗い陰影を刻んだ笑顔をサライは作る。天幕の壁に寄りかかり、腕を組んで正面に立つシェスラートを見つめる姿は少女と言うより「女」を感じさせるものだ。彼女は確かに神秘的で高潔なのに、どこかで酷く強かで傲慢だ。
 それは確かに彼女の魅力であるのだろうけれど。
「私の身を咄嗟に心配するくらいここの現状が見えているあなたが、どうしてあんな人を庇うの? やめておきなさいよ。あんな男、あなたが命を懸けて助けてあげる価値もない。巫女であるあたしが断言するわ」
「断言しちゃうのか。実際になったことがないからなんとも言えないけど、巫女ってのは凄いらしいな。でも同じくらい大変な役目でもあるって聞いた。なんでも見えてわかって、でも運命は変えられないんだって? それとも変えないだけなのか?」
「さぁ。それはご想像にお任せするわ。それより……」
 サライは薄紫の瞳を獲物を狙う猫のように細める。シェスラートは常と変わらない飄々とした態度でそれを受けとめる。攻防は静かに始まった。
「あなたにあたしのことを教えたのは、ヴァルター王? ねぇ、王の愛人様」
 侮辱ともとれる……否、侮辱にしかとれない発言を、シェスラートは平然と受け取り頷いた。
「うん、その通り。ロゼに対してもそうだったみたいだけど、やっぱりなんでもわかるのか?」
「この世の全て、とはさすがにいかないわ。でもあなたもさっきの人たちも、この世界のこれからの未来に深く関わるんだもの。見えちゃうのは仕方がないじゃない。……ヴァルター王も」
 そこでサライは、故人を懐かしむ表情を浮かべた。暴虐の大国ゼルアータ国王ヴァルター、他の人間は決して彼のことについて、こんな態度で言葉を紡ごうとはしない。ゼルアータ国王ヴァルター、彼は世界において、今もかの国に追従する幾つかの国々を除けば間違いなく罪人であった。
 しかしサライはそうは思っていない口調で、続けた。
「ヴァルター王も世界に関わり続けて影響を与えて、そうして死んでいった人の一人だったわ」
 サライの言葉を聞く傍ら、シェスラートは周囲の気配に気を配り視線を油断なく滑らせた。人の来ない場所を選んだだけあって誰かが聞き耳を立てている様子はないが、それでもこの会話は余人に聞かれると困るものだろう。
 空に黄昏が満ち始める、一日の終わりが始まる。流れた血は血に染みこむだけで空へ還ることなどないのに、どうしてあんなにも紅いのだろう。まるでザリューク人たちの瞳のように。鮮やかな茜色。あるいは吸血鬼の瞳のように真っ赤な時もある。
 解放軍の人々はそろそろ夕食をとって、早めに寝に入る。基本的に貧しい民で構成されている面々は、油を浪費するような事態は歓迎しない。宮廷貴族のように夜通し火を灯して騒ぐなんてことはないのだ。戦に勝った暁には戦闘員を労ってこれからの士気を高めるため勝利の宴を開くこともあるが、今回はせっかくこうして巫女姫サライを迎えるのにいきなり酔った男どもの醜態を見せ付けるのもなんだろうと、ロゼッテが取りやめにしたのだ。おかげで兵士の一部からは落胆の声も聞こえるが、疲れきった身体を休めるために早く夕食を取って寝床に入ることを望んでいる者が多いのも事実で。その夕食が始まると大鍋が大活躍する炊き出し現場に人が集まるからこの辺り一帯から人が消えるのも事実で。
 紅い血を流し込んだようなこの空の下、天幕の作る影の中、この話は誰に聞かれる心配もない。
「ヴァルター王は残酷だったけれど、一方でとても公平だったわ」
「そうだね」
「彼を殺したとき、辛かった? 王の愛人さん」
「……もう、わからない。あの時はとにかく必死で……何も考えられなくて」
 だけど、動く気がしなかった。
 暴虐の大国の主君たる、暴虐の王ヴァルター。どうしようもなく残酷な人間だったと知っている彼の亡骸を、それでもそのまま抱いて自分からは離れる気がしなかった。
「あの人を愛していた?」
 サライの率直な言葉に、シェスラートは首を緩やかに横に振る。否定の仕草。けれど回答はどちらでもない。
「わからないんだ。もう、何もかも。あの日の炎に飲まれてしまって。自分の心の一部も確かに彼の元に置いてきた。今ここにいる自分が地に足がついていないような心地がすると言えばそうだし、せっかくだから全て忘れた振りをして隠し通して新しい人生を始めてしまおうかと思う自分がいるのも確かで」
「いっそヴァルター王が最悪の愚か者だったら良かったのにね。そうではなかった。ただ残酷なだけの人ではなかった。だからあなたは辛いのでしょう?」
 ロゼッテたち解放軍は、まだ知らないことがある。
「あの人は……ある意味では、可哀想な人だったんだよ」
 シェスラートはそれを知っていた。サライもそれを知っている。哀しげなのにどこか晴れ晴れとした、雨上がりの空のような表情で、サライが「彼」を語り出す。
「六年前、あたしはあの人の手によってあの塔に幽閉された。その前に、少しだけ話をしたの」
「なんて?」
 サライはそっと目を伏せる。光を弾く銀の睫毛がそっと降りてその目元に影を作った。
「生きたいか、死にたいか。お前に選ばせてやる、と」
「……それで、どうしたんだ」
「あたしはそれに答えなかった。『あなたは他の人と違うのね』そう言って笑って見せた。作り笑顔はもう癖なの。神殿にはお貴族様たちがよく訪れるからね。あたしのご機嫌取りをしたところで予言が覆るわけでもないのにまあ暇なこと。あそこに入れられて真っ先に覚えこまされたのはまず行儀作法だったわ。神の声を聞くのに技能は要らない。資格も何なのかわからない。でも答えられるのがあたししかいないからね」
「……巫女の神託はそこに偽造や捏造、改竄が入らないように、巫女自身しか知るものはいない。問われたことに、巫女は直接答える。だから人前に出る事が多くなるってわけか」
「そういうこと。だからいつの間にか、こんな風になっちゃった」
 そう言って苦笑するサライだが、その笑顔に暗い影はない。ただ、疲れたような諦めが根底に坐するのだろうことだけがシェスラートにも見えた。
「とは言っても、いつも依頼者の運命が見えるわけではないわ。神が伝えて来られるのは、本当に世界を左右する、大きな国の支配者とか、今回なら革命に関わっているあんたたちとか、そういう人の命運だけ。あたしにはその頃、世界を牛耳るゼルアータ王国のヴァルター王の運命が見えていた」
「それって……」
「ええ。いずれ彼は自らの乱行の報いを受ける、虐げられた無辜の民たちの怨嗟の声に飲み込まれ朽ちるでしょう。……解放軍が決起し、ゼルアータ打倒を目指す切っ掛けともなった、あたしの六年前の予言ね。あの頃はゼルアータから何人もの大臣やら軍事参謀やらが訪れて五月蝿かったわよ? 皆してあたしの予言を何とか変えさせようと必死だったわ。それをしなかったのは、予言で命運を告げられた当の本人、ヴァルター王だけ」
「……ねぇ、あの塔に君が閉じ込められていたわけって」
 まさかそれは予言の内容を受けたゼルアータの重鎮たちに、そのことでサライがこれ以上害されないようにとの配慮だったのか? シェスラートの心にそんな疑問が浮かんだ。どちらだろう。気紛れか確信か心配りか愉快犯か。どれだろう。わからない。思えばそれを掴ませないのが、ゼルアータ王ヴァルターという男であった。
「……あたしには、ゼルアータが破滅するのと同時に、ヴァルター王の最期も神託で知る事ができたわ」
 シェスラートの推測の答は与えずに、サライは言葉を切り、ただ微笑みを浮かべてこちらを見ている。その可憐な唇から語るに相応しくない凄惨な内容を、驚くほど凪いだ表情で告げる。
「彼の隣にあなたが見えていたわ……血まみれのあの人を抱きしめる、血まみれのあなたの姿が。燃える炎に包まれた城だった。そう遠くない未来、いつかそれが現実になることをあたしはその時初めて実感した」
 それは恐らく、シェスラートがヴァルター王に与えた、彼の最期。
 一つの世界が崩壊する瞬間だった。
 サライはほっそりとした、美しい指先をシェスラートの方へと伸ばした。中身はどうであれ外見は華奢で儚げな容貌の美少女だ。容姿だけで判断するならばシェスラートの方も十代半ばの華奢な少女じみた容貌をしているが、その手は剣を握ることに慣れた、彼女よりも一回り大きな男の手だった。それを、サライは愛おしそうに握りしめる。
「ずっと会いたかったのよ。シェスラート=ローゼンティア」
「六年前なら、俺はもうヴァルター王と会っていたな。もしかして、何か聞いたのか?」
「ええ。経緯はとりあえずおいておいてあたしを塔に閉じ込めることになった時、あの人に聞かれたの。『これからお前の世界となるこの場所に、何か持っていきたいものはあるか? なんでも与えてやるぞ』ってね」
「……なんて答えたんだ?」
「じゃあ身体が鈍らないように身体鍛える道具一式! ついでに最低限の衣食住は保証してよね。おかずは一日一品でいいから! って言ってみたら大爆笑されたわ」
「そ、それは……」
「お前は、どこかの誰かと同じことを言うんだな、と言われたわ。それって、あなたでしょ?」
「いや、俺は一応吸血鬼族の中では戦士にあたるから身体が衰えないようにするのは最低条件だったからなんだけど……」
 懐かしい。十年も前の話を今、こんな場所でこんなにも鮮やかに持ちだせる日が来るなどシェスラートは思ってもいなかった。
「もう一度だけ聞くわ。シェスラート。……あの人を、愛していた?」
 再びの問に、シェスラートは小さく首肯して見せた。紅い瞳にじんわりと、透明な滴が盛り上がってくる。
「好き、だったよ……好きだった」
「……ねぇ、聞かせて。あなたたちは、どんな風に出会ったの?」
「……見られてしまったんだ。俺が吸血鬼として人間を殺して血を飲むところを」
 満月が眩しかった。だから、漆黒の惨状が人の眼にもよく見えたことだろう。
 吸血鬼族は人間や他の生き物の血を飲んで生きる魔族だが、普段はその本性を極力隠している。当然だろう。自らを捕食する生物相手に悠長に接することができる者はいない。剣を握った殺人鬼の眼前で無防備に寝顔を見せる人間はいない。普段は吸血鬼たちが様々な方法で必死に押し隠しているその場面を、見られたらもう人間と魔族は共存などできない。どちらかが滅びねば終わらない。食われるものと食うものが友好関係を結ぶなどありえない。
 禁じられた行為に走った己の姿を見られて慄くシェスラートの怯えになどいっこうに構わず、彼は――ヴァルターは近づいてきた。大国の王のくせに護衛も付けずに一人で、すでに他国を侵略して属国と化し支配し、横暴な要求を突きつけては民を疲弊させる暴虐の王と呼ばれた男は言った。
――何があった?
 事態を面白がる笑みを浮かべて、藍色の夜空に月を背負って立つその姿は自分よりも余程魔物めいていた。
「事情を話したら、正当防衛だな、って笑ってた。でもこの光景を見たらどうせお前の方が悪者にされるんだろうな、って余計楽しそうな顔してた。何を考えているのか全然わからなくて、そのまま連れて行かれて無理矢理着飾らされて遊ばれて。ようやく終わった頃にはもう夜が明けてた。帰ろうとしたら、日光の中を歩くなんてよっぽど丈夫なんだなって、笑ってた。吸血鬼のことそんなに多く知っているわけでもなかったくせに、それなのに人間を殺した俺に怯えなかった」
 吸血鬼族は、魔族である。人間に近い姿形と、人間とは違う身体能力や生活習慣を持つ。けれど中には誤解も多くあり、吸血鬼族が日光の中を全く歩けないと言うのは誤解だ。確かに白い肌と白い髪に紅い瞳と、色素の薄い吸血鬼族は強い陽光を浴び続けることができないが。
「……魔族に対する迫害の歴史は、長いわ」
「ああ。だからこそ、俺を恐れるでもないヴァルター王の態度が不思議だったよ」
「……ねぇ、あなた、歳幾つ?」
「俺? 俺は今年で二十八歳」
「……ヴァルター王と同い年、あの解放軍首領より年上なのね」
「……秘密だぞ」
「言わないわよ。あなたが言わない限り」
 唇に指を当てて見据えるシェスラートに、サライは軽く肩を竦めることで返した。
 吸血鬼族の寿命は長い。シェスラートの外見はサライと同じような年頃、つまりは十代半ばの少年に見えるというのに、実際はロゼッテやソードたちよりも年上だった。そして後十年ほどはこのままの姿で変わらないだろう。
 そんな事情や体質的なものもあって、吸血鬼や人狼族といった魔族は、表面上はこの世界この大陸を人間たちと共存しながら、深い確執がいつの時代にもあった。
「……ヴァルター王は、やっていることは確かに酷かったけれど、でも俺みたいな吸血鬼を偏見の目で見なかった」
 誰にその行状を評価させても酷い男だとしか返ってこないその青年は、けれど妙なところでシェスラートにとって眩しく見えた。
「……俺には、吸血鬼や人狼みたいな魔族よりもよっぽど、人間の方が化物に見える時があるよ」
 山賊に襲われていたから助けに入ったというのに、シェスラートが吸血鬼であると知れた瞬間襲い掛かってきた、あの時殺した旅の親子のように。
「俺にとっては、ヴァルター王だけが唯一人間だった」
「だからゼルアータに与したの?」
「……ゼルアータなんか知らない。俺が用があったのはヴァルターだけ」
「同じことなのよ、その二つは」
「……」
「ああ、だから……その時のツケを、今のあなたは必死になって支払っているのね」
 困った子どもを見るような目で、サライが作り笑いではない笑顔を浮かべる、けれどそれは華やかなものではなくて、苦笑という言葉がぴったりくるような表情ではあったが。
 夕暮れの風が天幕の間、その隙間に立つ二人の間をも吹き抜けていった。サライはその腰まである銀髪を、フィリシアのように結うでもなく垂らしていて、だから風にその髪を遊ばせる様子がとても綺麗だとシェスラートは思った。
 ああ、彼女も人間だ。
「ゼルアータはこの革命……解放軍との戦いに敗北して世界から葬られるわ。そして、あたらしい時代を解放軍は切り開く」
「それは神の託宣?」
「ええ。そうよ。でも、これ以上は……まだ、言えない」
 真っ直ぐにシェスラートを見据え、サライは珊瑚の唇を引き結んだ。儚げな容姿は、けれど彼女と言う人格を得て、大輪の花のように鮮やかに華やかに咲き綻ぶ。
「その言えないっていうのは、知らないから言えないのか? それとも、全てを知っているから言えないのか? 予言の巫女姫、神託を司る者、サライ」
 夕食の時間の終わりを告げる声がそこかしこで聞こえてきて、そろそろ人が戻り始めた天幕のざわめきが伝わってくる。
「なあ……聞かせてくれ。人より見えすぎる人間というのは……人より、不幸なものなのか?」
 そして全てから目を逸らし続けることの方が、人は幸せなのだろうか。
 答えずにサライは微笑んだ。
 その微笑みは、亡き人に似ていると、シェスラートは自らも白銀の髪を風に流しながら感じた。