264

 ――お前は、俺たちみたいになるなよ。

 優しく、そしてどこか悲しくて寂しそうな声での忠告。ああ、これは誰の言葉だっけ?
 身体が酷く重く、動けない。腹部に何か異物が埋まっている。折れた骨は肺に刺さっているようだ。全身打撲だらけで、腕の感覚もない。足も潰れているだろう。
 意識は朦朧としていて、うまく目を覚ますことができない。誰か俺を起こしてよ。ここは暗くて冷たく、寒い。氷の檻に入れられているみたいに、触れた部分から凍り付いていく。
 誰か助けて。
 この闇から救い出して。
 伸ばした手が目の前のものをすり抜ける感覚ばかりを何度も心の内で繰り返す。何故だろう、どうしても触れられないものがある。
 孤独に飽きて、少し前のことを回想する。こうして冷たい暗い檻で蹲る前、伸ばした手は、確かに彼に触れたはずだ。
 七階の広間の足下の床を、ドラクルが魔力を込めた攻撃によって割る。破壊の爪痕はそこだけに留まらず、広間のあるこの棟を縦断した。床が天井が砕け、瓦礫となって崩落する。
 ロゼウスとシェリダンは、その崩落にものの見事に巻き込まれた。足下が割れ、立っていられなくなる。奈落の底に落ちるように足場が消え、身体は宙へと投げ出された。
 足下に残った一欠けらの瓦礫を蹴り、ロゼウスは無我夢中でシェリダンへと手を伸ばした。彼を抱きかかえるようにして、共に地獄へと堕ちていった。
 正確には、この皇帝の居城の一棟の七階から一階まで。最後の最後に無事な場所を見つけ、そこにシェリダンを放り出した後は覚えていない。頭上から降って来る瓦礫に押しつぶされた気がする。
 あんなに大量の瓦礫を浴びて、普通生きていられるわけがない。きっと自分は死んだのだ。それ自体には何の感慨もなくロゼウスはそう思った。
 ロゼウスは自分自身が再生力の強いヴァンピルだということもあり、自らの生死に関しては執着が希薄だった。死んでもまた生き返ればいいのだ。
 だがその半面、自分たちヴァンピルと違って脆い肉体と一つの命しか持たない人間という存在が時として酷く怖い。彼らは一度死んだら生き返らないのだ。
 一つしか命を持っていないくせに、何故あんなにも強くあれるのか。痛みや喪失や再生を、何度も繰り返していけるのか。
 人間とは不思議だ。彼らと同じような姿をしているのに、決してその実体をロゼウスはつかめない。種族が違ってもドラクルとシェリダンには似たようなものを感じるが、その二人だとて決して同じものではないのだ。
 カミラもローラもエチエンヌも、リチャードやクルスやジュダ、エルジェーベトも。ロゼウスがこれまで出会ってきた人間たちはみな強かった。下手に頑丈な魔族であるためにいざと言うとき、その喪失に耐えられず容易く精神の均衡を崩してしまうローゼンティアのヴァンピルやセルヴォルファスのワーウルフなどよりずっと、彼らは強かった。
 その強さが羨ましく、そして切ない。
 そんなに強くなくてもいいのに。そんなに頑張らずとも、泣いて縋って頼って手をとってくれればいいのに。
 死人返りの術を拒んだシェリダンを見ながら、ロゼウスはまだそう思っていた。先程のやりとりでドラクルはただ生きているだけでは意味がないと言ったけれど、やはり命があるということは重要だ。死んでしまえばそれこそ何も築き上げることはできない。
 それでも結局ロゼウスは、シェリダンに吸血鬼化の魔術を施せなかった。
 いくら剣の腕に優れていても、根本的に非力で脆弱な人間。こちらが少し力を込めれば簡単に死んでしまう存在だと言うのに彼は、その魔術を拒んだ。化物になるくらいならば死ぬとまで言い切った。
 どうしてそんなに強くあろうとするのだろう。
 どうしてそんなに自分を責め続けるのだろう。
 シェリダンは己の生を呪われたものだという。父が母を強姦した。その果てに生まれた子どもはやはり母殺しの呪われた存在だと。
 だがそんなもの、シェリダンの責任ではない。ひとは皆、生まれてくる場所も時代も性別も才能も両親も選ぶ事はできないのだ。シェリダンだって選べるのであれば、王などでなくていいからもっと普通の、ただ暖かな愛情の交換を期待できる一般的な家庭に生まれたかっただろう。
 ひとは誰も、生まれてくる場所を選べないのだ。
 シェリダンが人間に、ロゼウスがヴァンピルとして生まれてきたことを選べないように。
 同じ種族として生まれてくれば、まだもう少し彼の内面を深く理解することがロゼウスにも叶っただろうか。
 最後の最後に拒絶された、それが悲しい。一緒にいたい、ただそれだけなのに。
 例えどんな人生であっても、生きていなければ意味がない。
 だから、崩落に巻き込まれながら落下する彼を必死で庇った。生きていてほしいから。生きていてくれればただそれだけでいいから。
 自分が死ぬのは構わない。けれど彼には死んでほしくない、守りたい。
 その一心で手を伸ばした。他のことは考える余裕はなかった。
 あの瞬間に、ロゼウスはその他全ての大切なものを捨てたのだ。世界よりも家族よりも、シェリダンを選んだ瞬間だった。
 彼以外何も要らない、自分自身の命でさえ必要ない、と。
 愛している。誰よりも、自分よりも。
 その言葉が嘘であれば、ロゼウスはシェリダンを見捨てて自分だけ逃れることができたに違いない。けれどそうはしなかったのだ。
 ――それが悲劇を招くとも知らずに。

 ◆◆◆◆◆

 ガツガツと何かを喰らっている。ぴしゃ、と温かいものが跳ねて頬に飛び散る。
 これまで冷たかった体が、いつの間にか温まっている。酷く凍えていた指先も、もう氷ではない。
 全身に力が行き渡る。生気が漲る。
 しばらくぼんやりと、回らない頭に活力が渡るのを待った。まだ視界にはぼんやりと霞がかかっているようで、次第に正気を取り戻していくに連れて目の前の光景があらわになっていく。白い紗幕を閃かせ取り外したように、視界が鮮明になる。
 ぽた、と何かが垂れた。
 慣れないような、でも馴染み深いような感触にロゼウスはきょとんとする。ようやく理性が戻ってきて、自らの現状に違和感があることに気づき出した。虚ろだった深紅の瞳に正気の光が宿る。
 何か液体のようなものが、自分の顎を伝っている。焦点の合わなかった視線を動かして、この状況を把握しようとする。
 その途中で、それに気づいた。
「――血?」
 もはや鼻が麻痺しているのか今まで意識していなかったが、辺り一帯に血の匂いが充満している。そうと意識したその途端に、口の中にも鉄錆のような血の味が広がった。
 一瞬思考が真っ白になる。再び呆然とする。
 何があった?
 少し離れた場所を眺めていた視線を近くへと持ってくる。
 目に入ったのは紅、紅、紅。大きすぎる血だまりにぎょっとする。心臓が大きく跳ねた。
 そして、自らが覆いかぶさった血だまりの中には『何か』がある。
 この眼で見るのも恐ろしい、何か。
 鮮血の水溜りの中には、手首のない斬りおとされた指だけが浮んでいる。
 その切り口はぎざぎざと歪で、斬ったというよりも獣に噛み千切られたようだ。血の味のする口周りが生暖かい風に乾かされて奇妙に張り付いていく。
「あ……」
 見たくない。知りたくない。
 これは俺がやった? 嘘……。
 胃の中が急に酷く重くなる。全てを吐き出してしまいたくなる。
 がたがたと身体が震えだし、反射的に目を閉じそうになる。
 けれど、現実から逃げるわけにはいかない。
 遥か彼方、七階の天窓のまだ残っている部分から差し込む透明な光が、惨劇の舞台上でスポットライトのように血だまりを照らしている。
 無惨に演出され明らかになるその現場。
 灰色の床を汚す血だまり、その中にまだ残っている、「もの」。
 藍色の髪は一部残っているが、頭蓋は欠けて、その中身まで半分ほど食いちぎられているのが見える。喉首は肩から食われ、頭と胴は離れていた。鎖骨が皮膚を破って突き出している。腕や足はそれぞれ妙な方向を向いていて、途中の肉がない。
 邪魔だと言わんばかりに中心の辺りから両側に剥がされよけられた肋骨。皮だけを残して、血の詰まった臓器だけを漁ったように開かれた胸の奥は空洞だった。
 残った潰れた臓器からとろとろと、もう流出する勢いもなくなった血が惰性のように流れている。
 衣服も原形は残らない。だが残った部分から、それが酷く見慣れた衣装であることはわかる。
 食いちぎられた指の先に、特徴的な朱金を宿した眼球が一つだけ、転がり――。
「あ……」
 涙がロゼウスの瞳に盛り上がり、限界を超えたところで張力を失って頬へと流れていく。粘性の血液を飲んだせいで潤されることはなく逆にからからに渇いた喉が、引き攣れた声をあげる。
「あ、あ……」
 視界に入るものの意味を、そして自らの血まみれた全身と口元の意味を理解した瞬間、取り戻したはずの理性の針がふりきれる。

「あ、あ、ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!!」

 ◆◆◆◆◆

 この世界で、ただ生きることほど。
 残酷なことが、あるだろうか……?

「ロゼウス! シェリダン! ……ロゼウス!」
「シェリダン様!」
 この場所も安全とは到底言えない。しかし一命は取り留めた形の彼らは、必死で底の見えない奈落を覗き込んで叫び続けていた。
「ロゼウス!」
「兄様!」
「シェリダン様! 返事してください!」
「陛下!」
 幾つもの口から、たった二つの名前。声が嗄れるまで繰り返し繰り返し、叫んだ。
「シェリダン様!」
「ロゼウス!」
 ロザリーやローラたちが叫ぶ上階では、ドラクルたち三人が何をするでもなく身体を休めながら、階下の様子を窺っている。
「ロゼウス王子たちは、死んだのでしょうか……」
 先程自分も一度死んだばかりのアウグストが、誰にともなく尋ねた。答えてくれるような相手と言ってもここにはこの三人しかいない。ドラクル、ルース、そしてアウグスト自身。
「さぁな。この高さから瓦礫と共に落ちて、生きているとも思えないが……ロゼウスだからな」
 ドラクルは髪をかきあげながら、そう口にする。三人とも煤まみれの埃まみれだが、何とか今は生きている。全身くたびれていて、立ち上がる気力もろくにない。ドラクルの剣だけは一応手元にあって、いつでも振るうことのできる状態にしてあるがそれだけだ。
 下の方に殺し損ねたローラやエチエンヌ、リチャードにロザリー、ジャスパーの姿が見えるのだが、ここから降りようとすればそのためにまた第二の崩落が起きて危険ではないかとの危惧があり下手なことはできない。何せロザリーたちも実力者だ。不安定な足場ではあるが、それを考慮して手を抜いて戦えるような生半可な相手ではないのである。
「下に何か見えるか? ルース」
「いいえ、何も。もしかしたらロゼウスたちがいるのかもしれないけれど、瓦礫が邪魔をして見えないわ」
「プロセルピナ姫はどうしたのでしょうね」
「あれは可愛い弟を抱えて雲隠れだろう。もう戻って来ないのではないか?」
 一つの建物を、この棟だけとはいえ破壊する程の力を放ったドラクルはかなり消耗している。今ここでロゼウスが現れて攻撃を仕掛けられたら困るのではあるが、それでも彼はどこか、弟が生きていたら、という考えを捨てきれないようだ。
「ロゼウスが死んでいてほしい? それとも生きていてほしい? ドラクル」
「……何故そんなことを聞く、ルース」
「聞きたいからよ」
 瓦礫に阻まれて見えない最下層の光景を見るように、ルースは奈落を覗き込んでいる。彼らが今いる六階は直接砕かれた階のすぐ下のフロアだけあって、無事な床の面積が少ない。身を乗り出せば今にも落ちてしまいそうだ。
「気をつけろ、落ちるぞ」
「もうすでに一階分落ちたわ」
「そういうことではない」
 ルースにはそう言いながら、ドラクル自身も階下の状況を気にしているのだから似たようなものだ。
 五階のローラ、エチエンヌ、リチャードたちはドラクルたち三人と違って必死だった。
「シェリダン様!」
「シェリダン様、シェリダン様ぁ!!」
 双子は半泣きの状態で、親を求める雛鳥のようにシェリダンの名を呼び続ける。それも無理はなく、彼らの主君はただの人間だ。普通の人間は七階から瓦礫と共に落下して生きていたりしない。
 微かな希望は、ロゼウスが一緒に落ちたということだけだった。彼が一緒であれば、その身でできる限りシェリダンのことを守るだろう。そういう確信はある。
 シェスラートに乗っ取られていた時でも、実の弟であるウィルは殺せてもシェリダンを殺すことはできなかったロゼウスだ。まさかここまで来てシェリダンを救えないなんて、そんなことはないはず。
 彼らはそう信じていた。だってロゼウスは皇帝なのだ。皇帝は全知全能の存在なのだ。そんな存在が、人一人救えないはずはないだろうと。
 信じていた。ただ、ひたすら、祈るように信じていた。主君であるシェリダンの考えが神に縋ることはなくても、彼らは彼のために全身全霊で祈り、縋った。
 どうか、どうか――。
 彼らの下の階層では、また別に祈る者がいる。
「ロゼウス、どうか無事でいて……!」
 何度呼びかけても返事のない状況に、一刻ごとに焦りが募っていく。両手の指を組み合わせたロザリー自身の大怪我は、すでにほとんど回復しているというのに。
 四階までの距離があるとはいえ、ロゼウスもロザリーもヴァンピルである。シェリダンだけならともかく、この吹き抜けとなった建物の中でロゼウスの耳に呼びかける声が届かないはずはないのに、何の返事も聞こえない。
 先程、最下層と思われる遥か下の方で少しだけ何かの……瓦礫の崩れるような音がしたが、それだけだった。
 後は何も、何も聞こえないし、誰かが姿を現す様子もない。
「ロゼウス……シェリダン……」
 ロザリーが震える横では、ジャスパーも厳しい顔つきで階下の暗黒を睨んでいた。
 ロゼウスが皇帝になるという未来がある以上、彼がここで死ぬなど絶対にありえない。だが、この状況で、死を免れない人物も一人だけいる。
「死んで……しまったのですか……?」
 ジャスパーが思わず口にした言葉にロザリーが埃にまみれた華奢な肩をびくりと震わせ、弟をキッと睨みつける。
「縁起でもないこと言わないで! ロゼウスは死なないわよ!」
「そうですね。兄様はこんなところでは死にませんよ」
 ロザリーの言葉に、ジャスパーは淡々と返す。口調は落ち着いているのだが、しかしその表情にこそ不安を煽られるものがあって、ロザリーはジャスパーの表情を窺う。
「ジャスパー……?」
「兄様は死にません、皇帝ですから。だけど、シェリダン王は人間です」
「!」
 努めて考えないようにしていたことを指摘され、ロザリーの顔色がみるみる悪くなる。せっかく回復した体調も、この一言で悪化する勢いだ。
「それって……」
「言葉どおりの意味です」
 駄目かも、しれない。
 瓦礫の向こうを透かし見るようにしながら、ジャスパーはますます厳しい顔つきとなって思う。
 一方、心のどこかではそんな自分を不思議に感じていた。
 ジャスパーにとってシェリダンは、ロゼウスを自分から奪う忌々しい恋敵だ。いなくなってくれた方が間違いなく好都合であり、例え彼が死んだ所で心を痛める必要性などまったくない。
 なのに何故今、こんな風に現実を受け入れがたいような、そんな気分になるのだろう。
二人のヴァンピルが必死で耳を澄まし階下の様子を探っている中、その声は響いた。
「っ、ロゼウス!?」
「兄様?」
 叫び声だった。魂を引き裂かれるような、心の底からの絶叫だ。
 何があったのかとロザリーは目を見開き、見えない最下層に向けて必死で叫ぶ。その声を聞き取って、上の階からはローラやエチエンヌたちも尋ねかけてくる。
「ロザリー!」
「何かあったのですか!?」
「今、ロゼウスの声がしたような――、ッ!?」
 ロザリーが話し終わる前に、階下から建物自体を再び揺らすような轟音が響き渡った。


265

 ただでさえ崩壊しかけの建物を、一際大きな衝撃が襲った。
「うわぁ!?」
「きゃあ!」
 彼らは口々に悲鳴をあげ、手近なものに縋りつく。床の端、すでに罅の入っていた箇所がぼろりと崩れ落ちていくのを見て、壁に張り付きながら幾人かはこれまでその場所で階下を覗き込んでいたことを思い青褪めた。
 瓦礫がまた、がら、と崩れ落ちていく。細かい砂粒もぱらぱらと零れるようにして虚空に吸い込まれていった。
「な、何があったの……?」
 不安な顔で自分にしがみつく双子を、リチャードが庇う。ドラクルたちも残り少ない足場にしがみつき、ロザリーとジャスパーもお互いを庇いあうようにして壁に張り付いた。
 結構な衝撃だと感じたのだが、四方の壁が残っているためか、建物は倒壊にまで至らなかった。
 だが実際問題、いつまでもこの場所にいるのは危険だ。移動する手段もないから誰も口に出さないが、皆がそれを知っている。
「一体どうし――」
 言いながら、揺れが収まってきたのを感じたロザリーはほうほうの体で再び床の端、簡単には崩れそうにない場所へと這っていった。下を覗き込むと、灰色の瓦礫の山の上に人影が見える。
 服の色が紅い。だから一瞬、見間違えそうになった。けれどここからでも光を弾く白銀の髪を見て、すぐにそれがもう一人の方だと気づく。
 彼女は兄の名を叫んだ。
「ロゼウス!」
 その声に反応し、階上と階下、両方で反応があった。
「ロゼウス!?」
「お一人だけ? シェリダン様は!?」
「やはり生きていたのか……」
 ローラたちは姿の見えないシェリダンを案じ、ドラクルは姿を見せたロゼウスに対し、忌々しげな舌打ちをする。
「兄様……」
 死んでないとはっきり言い切ったにも関わらずロザリーの傍らにいたジャスパーは無事なロゼウスの姿にやはり安堵したようで、ロザリーもひとまずロゼウスが無事であることに微笑を見せた。
 けれど何か様子がおかしい。
 名を呼ばれたロゼウスは、三階あたりの瓦礫の山の途中に足をかけながらじっと上を見上げている。
 ロザリーの声に反応して顔を上げたものの、言葉を返すでもなく佇んでいる。恐ろしいほどの無表情で、紅い瞳には一見何の感情も浮かんでいないように見える。しかし彼の一番近しい妹であるロザリーは、それが嵐の前触れだということも知っている。ロゼウスがこんな風に黙り込んでいるときは、次にその怒りを爆発させる機会を待っているため。彼の胸のうちには多分、何か良くない感情が燻っているのだ。
 その側に、藍色の髪のもう一人の少年の姿はない。後から瓦礫を這い上がってくる様子もない。
 ロゼウス一人。
 胸騒ぎがした。
「ロゼウス……」
 止まることのない嫌な予感を胸に抱えながら、ロザリーは姿の見えないその少年のことについて兄に尋ねた。
 黒と白だったはずのロゼウスの衣装が真っ赤に染まっている。けれどそれを身に纏う彼自身はしっかりとした足取りでたいした怪我もない様子だ。一度は安堵したはずのその様子に、今度は何故か言葉では言い表せないような不吉な予感を覚えた。
 ロゼウスが負傷している様子がないのであれば、ではその血は誰のものだ?
「シェリダンは……どうしたの?」
 彼女を見上げていた顔を一度伏せ、ロゼウスはそれほど大きくもない声で、しかし彼の登場に一切全ての注意を払っている彼らに聞こえるように言った。

「死んだ」

 世界から音が消えた。
 そんなように彼らは感じた。
 告げるロゼウスの声に、口調に、態度に。
 それが真実だと感じ取る。
「え……」
 ロザリーは我知らず己の声が震えているのに、間抜けな様を晒してからようやく気づいた。
「嘘……」
 彼がここで嘘をつく理由もないと知りながら、何よりロゼウスの様子にそれが真実だと知りながら、ロザリーは尋ね返していた。
「嘘でしょう?」
「……本当だ」
 身体から力が抜ける。足が崩れて立っていられなくなる。
「そんな……」
 そんなのって。
「いやぁああああああああ!!」
 階上でも悲鳴があがった。ロザリーたちより一階上にいるローラの声だ。
「シェリダン様が死んだ? そんな、そんなはずない!」
 否定してどうなるわけでもないというのに、エチエンヌも取り乱してそう叫ぶ。リチャードは呆然と目を瞠り、飛びついてきたローラを抱きしめている。抱きしめる彼の腕は震えている。
「シェリダン様……」
 彼ら三人はもう戦えないだろう、誰が見てもわかった。
「嘘よ! 嘘よそんなの! どうしてそんなこと言うの! あの方が死んだなんて、この目で見なければ私は信じない!」
 しがみついていたリチャードの胸から顔を離し、ローラがあらん限りに叫ぶ。言葉に力があるのであればその力で彼が生き返れといわんばかりに、ロゼウスを嘘つきだと糾弾する。
「死んだと言うのなら証拠を見せて! そうじゃなきゃ信じないから!」
 ローラの威勢の良さとは裏腹に、彼女と同じ顔で対照的な反応を見せたのはエチエンヌだ。がっくりと膝から力が抜け落ちた様子で崩折れている。
「そんな……シェリダン様……」
 放心状態のその白い頬を透明な涙が伝う。ローラのように否定しきることもできず、あまりにも強い衝撃のためにただ涙だけが流れた様子だ。先程からずっと、こんな高さから落ちて普通の人間が生きているはずはないと思っていた彼の不安が現実となってその胸を埋め尽くしてしまった。
「なんであなただけそこにいるの!? どうしてシェリダン様を助けてくれないの!?」
 一方ローラはまだリチャードにその身を抱きしめられたまま、一人その姿を現したロゼウスを責める。
「助けられるはずでしょう! あなたなら!」
 ロゼウスの顔が、ローラの一言一言に歪むのをロザリーは感じた。姿を現した時にも思ったが、やはり今のロゼウスは様子がおかしい。シェリダンを亡くしたのであれば当然だが、それだけではないような気がする。
 一番苦しいはずのロゼウスがローラに責められて、悲しむでもなく更に苦しげにしている。
「ロゼウス、でもとにかく上にあがって――」
「ロザリー」
 果たして何度目か、彼女の言葉はまた遮られた。今度は他の誰でもないロゼウス本人に。
 ロザリー自身もかなりの衝撃でまだ頭が混乱している最中、とにかくこの場をなんとかしなければと意を決して声をかけたのだがロゼウスはそれを気にもとめない。
 以前の彼とはどこか根本的に違うような気がする。
 ロゼウスという存在から何かが欠けてしまった。ロザリーはそう感じた。
「今のうちに避難してくれる?」
 あまりにも穏やかな様子で言われたその言葉に、その違和感の原因を知る。
 こんな状態だと言うのに、ロゼウスは涙を浮かべていなかった。全身を、誰かの――おそらくシェリダンの血で染めた彼は不自然なほど優しく妹に向けて微笑んで、そして彼女たちをやわらかく拒絶する。
「ここは危ないから」
「……ロゼウスは?」
「俺も後で行くよ。――そこにいるドラクルたちを殺したら」
 優しい表情から一転し、ぞっとするほど冷たい表情を浮かべたロゼウスの視線は四階のロザリーを素通りして、六階部分から一部始終を見下ろしていたドラクルへと向けられている。
「ふぅん」
 腕組みをしながら弟の姿を見下ろしたドラクルの瞳にはロゼウスに負けず劣らず冷たい光が宿っている。
「愛しい相手が死んで、ようやく甘い戯言など捨てて私を殺す気になったのか」
「うん」
 挑発じみたドラクルの言葉にあっさりと頷いて、ロゼウスは微笑みさえ浮かべながらその台詞を言い放った。 
「うん、兄様。俺はあんた《も》殺すよ」
 ドラクル、《も》?
 その言い回しに周囲は微かな違和感を覚える。それはとても不吉な予感だ。
「ロゼウス……?」
 美しい微笑なのに、この上もなく不安定に見えるその脆い表情にロザリーは不安を隠せない。
 目の前にいるのは確かにロゼウスなのに、まるで彼ではないような気がする。ロザリーの知っている薔薇の王子ロゼウスでは。
 ドラクルの傍らで、彼にも誰にも聞こえないようにルースだけが静かに呟いた。
 薔薇の皇帝、と。

 ◆◆◆◆◆

「ちょっと、今どうなってるの!?」
 静かに緊迫した空気の中、空間を裂くようにして一つの影が飛び込んできた。
 澄んだ高い声音は少女のものだ。黒髪の巻き毛をなびかせ、先程まで弟を抱いていたためにだろう、服についてしまった血を気にすることもなく飛び込んできたのはプロセルピナだった。
 彼女はロザリーたちのいる四階の足場へと降り立つと、すぐ下にいたロゼウスの姿に気づいてぎょっとした。
彼の格好を一目見ただけで、彼女は自分がいない間に全てが終わってしまったことを理解した。
「薔薇皇帝……!」
 白い髪も白い頬も血に濡れ、表情は凍りついている。全身真っ赤な血に濡れて、その中で瞳だけが爛々と虚ろに輝いている。
 それはもう今までの彼ではなく、皇帝という別の生き物。
 ただ、そこにいるだけでいい。そんな存在でいられた時期はもう終わってしまった。
 これからの彼は、世界に必要とされる薔薇の皇帝。
 世界のために、全てを失う。その代わりに、それが世界にとって必要であると思えばいくらでも踏みにじることができる。
 永遠に満たされない絶対の支配者。
「遅かったな、大地皇帝」
 苦々しいその表情を見ながら、プロセルピナは彼だけに聞こえるように囁いた。
「……殺してしまったのね」
「……」
 答えずにロゼウスは彼女を見上げる。
「そう、ついに……」
 プロセルピナが憐れむように瞳を伏せる。
「プロセルピナ卿」
 以前のロゼウスとは明らかに違うどこか捨て鉢に居丈高な態度で、彼は自分の先任者に命じた。
「ローラたち五人を、この外へ連れて行け」
 避難させろと命じた人数の中に、彼の愛しい者は入っていない。
 救えなかった。
「ロゼウス!?」
 避難しろとは先程確かに言われたが、それが急にわかりやすい形で示されたことにロザリーがまた少し動揺した。今にも崩れそうなこの建物は危険だという冷静な判断と共に、ロゼウスの傍らに立って結末を見届けたいという思いもある。
「どうした? ロザリー、それが一番確実な方法だろう。プロセルピナと一緒に、この城の外に出ていて」
「でも」
「いいから」
 強く言い放ったロゼウスは、威圧的と言うわけでもないのに何故か有無を言わせない。その雰囲気に呑まれて、ロザリーは二の句が告げなくなる。
「私からもお願いします。プロセルピナ姫」
「ルース?」
 ロゼウスの頼みごとに、ドラクルの傍らから身を乗り出したルースが言葉を足した。
「私たちとしても、余計な相手と戦うのは避けたいもの。そうでしょう?」
 両側のドラクルとアウグストに確認をとるように小首を傾げて、ルースはプロセルピナを見つめる。
 その顔はやはりいつものように穏やかで、しかしその穏やかさにこそロザリーは何か不吉なものを感じる。
 こんな時にまでルースは全く動揺していない。まるで全てがわかっていたように。
 最初から、ただこの日のためだけに生きていたように。
「さようなら。ロザリー。ジャスパー」
「ルース?」
「姉様」
 これが今生の別れになるのだと、二人にもわかった。これまでずっと、姉であった人の思惑も。
「いいでしょう、プロセルピナ姫」
 ルースは日常の延長のように穏やかなその態度のまま、彼らを助けようとしている。
「……ええ。どうせ頼まれているのは同じ事だし」
 プロセルピナが納得して引き受けたところで、彼女たちの話は終わった。
 後はロゼウスがロザリーたちを説得するだけだ。もっとも説得と言ってもシェリダンの死の報に戦意を喪失して崩れ落ちてしまったローラとエチエンヌ、リチャードに関しては問題ない。彼らはこれ以上戦えない。そしてジャスパーは兄である皇帝ロゼウスの意志に逆らわない存在だとすれば、異を唱えそうなのはロザリーだけだ。
「ロザリー」
 最後の優しさを、煮え滾る憤怒がすぐにも胸を焼き尽くしそうな今はこの会話にだけ集めて、ロゼウスは口を開く。
「逃げるんだ」
「ロゼウス」
「ここにいたら、お前たちは死ぬ。お前も、ローラやエチエンヌやリチャードやジャスパーも……」
「だからって」
「その女はお前たちのことは殺さないよ。殺すつもりなら、とっくにやっている」
 ロザリーが不審を感じているのはこれまで敵方としてドラクルについていたプロセルピナの態度だと思ったのか、ロゼウスはそう付け加えた。視線を向けられたプロセルピナ本人は、軽く肩を竦めることで答える。
「でもシェリダンの身体は!」
 次のロザリーの言葉に、ロゼウスが一瞬動きを止める。
「もう、もう遅いけど、私たちだけじゃ無理だけど、でも、でも一緒に……!」
 胸の内に込み上げる想いが強すぎて、ロザリーの言葉は途切れ途切れの胡乱なものとなる。それでもロゼウスは正確に意味を読み取って、歯を食いしばりながらも答えようとした。
「それは――」
「あとで私が行くわ」
 ロゼウスの言葉を思わぬ人物が遮った。
「大地皇帝」
「あとで私が行くわ。ちゃんと迎えにいってあげるから」
 崩れかけた最下層の建物。瓦礫の山に埋もれて、ただ一人彼は眠っている。
 その身体の半分以上をロゼウスに喰われて。
 回収しなければならない身体ももうほとんどない。
 それでも。
「これを取引としましょう、新皇帝」
「……何?」
「私とハデスを見逃して。それなら彼をちゃんと連れて来てあげる」
 思いがけない取引の申し出に、ロゼウスは一瞬固まった。しかし逡巡していたのは本当に一瞬で、結論はすぐに出た。
「……いいだろう」
 置いてきたのはただの死体、わかっていても。
 愚かだといわれようとも。
「必ず叶えろ」
「わかったわ」
 プロセルピナは頷いて、同じ階にいるロザリーとジャスパー、そして上の階にいるローラ、エチエンヌ、リチャードに声をかける。
「さぁ、行くわよ、あなたたち」
 まずはロザリーとジャスパーを抱えて五階へと上がったプロセルピナは、そこで異空間の道を開く。空間移動で、恐らく先にハデスが避難しているだろう場所へと移動するのだろう。
「ロゼウス!」
 最後に振り返ったロザリーが一言だけ添えた。
「必ず帰って来てね!」
「……うん」
 彼らの後姿を飲み込んで、道はしっかりと閉ざされた。


266

『必ず帰って来てね!』
 うん、ロザリー。わかっているよ。
 どうせ俺は、死ねはしない。

 プロセルピナに連れられてロザリーたちの姿が消えたところで、ロゼウスは視線を階上へと戻した。
「用意は整ったか? ロゼウス」
 嫣然と微笑んでドラクルは「弟」を見下ろす。
「うん」
 小さく頷いたロゼウスは、一飛びにドラクルたちのいる六階まで上がってきた。とん、と身も軽く地面を叩く。床がこれ以上崩れる様子はない。
「そっちこそ、死ぬ準備はいい? ドラクル」
 恐ろしいことを口にするロゼウスの様子は不思議に落ち着いている。否、これは――
「懺悔の時間の始まりか?」
「いや、もう終わる」
 冷静そうに見えて、実際のロゼウスの中には熱いマグマのような感情が燃えている。大気に触れて冷え固まった表面の奥に、燃え滾るものがある。
「もう、何もかもが手遅れなんだ、ドラクル」
 他者が思っているほどには、本来ロゼウスは自分の感情を表に出さない者だ。それが証拠に、彼がドラクルに十年に渡って虐待されていたことを知る者は少ない。
 いつも自分の内にその痛みも苛立ちも閉じ込めてしまっているロゼウスが、今はこれまでとは違った様子で感情をあらわにしている。作り笑いが消えた奥に、憎悪の炎が滾る。
 その炎の揺らぎは、誰かに似ているとドラクルは思った。そして気づく。ああ、これは私だ。
 終わることなき憎悪の連鎖。癒えない傷から流れ続ける血。
 これはドラクルと、そしてあのシェリダン=エヴェルシードと同じもの。
 ロゼウスの中から何かが欠けて、代わりに何かがその欠けた部分に埋め込まれた。目の前にいる白銀の髪と深紅の瞳の弟の姿の中に、どこかあの藍色の髪に朱金の瞳を持つ少年を感じる。
 瓦礫の山の下で何があったのだろう。ひとは愛しい者を失うと、これほどまでに代わるものなのか……。
 だが、そんなものドラクルにはどうでもいい。
 要はこれから戦って、勝てばいいだけだ。シェリダンが生きていようといまいと、目の前にいる相手がロゼウスであることに変わりはない。
 その時になっても、ドラクルはまだそう考えていた。
「ロゼウス王子! お覚悟を!」
 ロゼウスがゆっくりと足を進める。途中、狭い足場の脇にアウグストの姿があった。武器を手にした彼は、あまりにも堂々とドラクルに近づく素手のロゼウスに斬りかかろうとして。
「――え?」
 何が起こったかわからないというような、不思議そうなアウグストの声。凛々しい青年の顔つきが、一瞬呆けたように緩み、幼さを見せる。
 振り上げた剣を振り下ろす前に、その胸からは血に濡れた手が生えている。
 左胸、心臓の位置を狙い違わずロゼウスは貫いていた。
「カルデール公爵!」
 悲鳴じみたルースの声に、ようやくアウグストとドラクルが反応する。
 しかしすでに遅く、無表情でアウグストの胸を貫いたロゼウスはそのまま手に力を込めた。腕が抜かれていないために、胸を刺されても出血はまだたいしたことない。だがロゼウスはその胸の奥を。
「……ッ!」
 心臓を握りつぶした。人体の中でも最も重要な臓器。これを潰されてはいくらヴァンピルが頑強だと言ってもたまらない。
 そして、先程一度死んで生き返ったばかりの彼に二度目を与えるつもりはロゼウスにはなかった。心臓を握りつぶしたあと、胸を貫いた手から魔術の炎を生み出し、残った身体を焼き尽くす。
 そうすれば蘇生も何もない。
「アウグスト!」
 ドラクルが呼びかけるも、あっさりと殺されたアウグストは主君に何か呼びかける間もなく灰となっていく。
「ロゼウス、貴様!」
 つかみかかろうとしたドラクルの腕を押さえ、逆にロゼウスは彼を階下へと叩き落とす。
「ドラクル!」
 ルースが叫んだ。ドラクルは六階の狭い床から、まだ残っている面積の広い四階まで落とされていた。これ以上の衝撃を建物に与えるのは悪いというのに、ロゼウスは微塵の躊躇もなく、ドラクルを乱暴に階下へと落としたのだ。
 自らも飛び降りる。四階の床の上に立ち、起き上がろうとするドラクルを見つめる。
 虫を見るような目、そうドラクルは思った。違う。確かにこれは今までのロゼウスではない。
 すっとロゼウスが手を伸ばす、身構えたドラクルに、階上からルースの声がかけられた。
「ドラクル! 後ろ!」
 正面に集中していたドラクルの隙をどうやってついたのか、気づけばロゼウスは彼の背後に回っていた。首筋を狙った一撃を避ける。
「ロゼウス!」
 ルースが自らへと注意を向けさせるように、ロゼウスの名を呼びながら飛び降りてきた。その両手の間に魔力をこめて攻撃を試みるものの、ロゼウスはあっさりとそれをかわす。
「邪魔だ、ルース姉様」
 一瞬だけ小さな苛立ちを眉間に寄せると、彼は何の感慨もない様子であっさりとルースの胴へ蹴りを入れ、瓦礫の山へと叩き落した。自分はルースを足蹴にしたその反動で四階に戻る。
「きゃあ!」
 破壊音が響き、瓦礫の山が崩れる。ルースの姿は短い悲鳴を最後にその中に埋もれた。僅かに覗いた白い手が血に染まる。
「ルース!」
 痛む身体を起こしたドラクルがその様子を窺おうと首を伸ばすも、妹の身を案じるその行動はロゼウスに止められた。服の襟を強くつかまれて動けない。
 自分が負傷しているからだけではなく、ドラクルは己の力ではロゼウスを振りほどけないことを知った。今の、銀の枷も何も身につけていない本気のロゼウスの力にはドラクルなど到底敵わない。
「くそっ!」
 ロゼウスに攻撃を仕掛けるというよりも隠し持っていた短刀でつかまれた自らの服を切るということをして、ようやくドラクルはその体勢から抜ける。
 距離をとって背後を振り返れば、拘束を外されたにも関わらずロゼウスはやはりひんやりとした表情を浮かべたままドラクルを見つめている。
 その様は兄弟だけあって、弟のジャスパーに似ていた。いつも穏やかな表情を浮かべていることの多いロゼウスが冷たい目をすると、ジャスパーにそっくりとなる。
「どうした? トドメは刺さないのか?」
 憎悪を感じるのに、攻撃が恐ろしいほど冷静で正確、動きには荒さの欠片も感じない。無機物を相手にしているかのような感覚に背中にじっとりとイヤな汗をかきながら、それでもドラクルは最後の意地で挑発を欠かさない。
「トドメはまだ」
 子どものように拙い言葉遣いで、ロゼウスはやはり淡々と狂気を口にする。
「あなたを嬲り殺すまでは」

 ◆◆◆◆◆

 へし折られた鼻から鼻血が止まらない。
「ぐっ、がはっ!」
 今しがた折られた肋骨が肺に突き刺さる。
 喉を滑り落ちる血と、肺の方から込み上げてくる血。噎せる余裕すらなく、己の血臭で窒息しそうになる。
 地獄の責め苦はまだ終わらない。
「はぐ、ぅ、あああ!」
 関節を外され、だらりと垂れていた手。その掌に、ロゼウスが長靴に包まれた足を乗せる。さほど体重のないロゼウスだとはいえ、間違って踏むのと最初からそのつもりで踏みつけるのであれば大違いだ。じわじわと体重を込める。
 ばきばきと音を立てて、ドラクルの掌が折れていく。指も甲の部分も骨という骨は砕け、皮膚を破って血が流れた。
「あ、あああ、ああ!」
 痛みに喘ぎ仰け反った顔を、前髪を引っ張るようにして掴まれる。
 泥だらけの床に這い蹲った、無様なその姿勢。顔と床がやたらと近い。
 その近いが、少しだけ距離のあった床へとロゼウスはドラクルの頭を掴み叩きつけた。額が割れ、血を流す。頭蓋が揺れ、反射的な嘔吐感と共に口の中から吐き出されたのは、しかしこれまでに灰と胃の中に溜まっていた血だけだった。
 自らの吐いた血の海で溺れそうになる前に、ロゼウスの手がまたも無理矢理ドラクルの顔を引き上げた。そしてまたも叩きつける。また引き上げる。叩きつける。気に入らない玩具を床に叩きつけて壊してしまおうとする子どものように、何度も繰り返す。顔面は血で真っ赤だ。
 額が割れるだけでなく、そのうち頭蓋に罅が入った。
 脳にもダメージが行くはずだが、頑強なヴァンピルの身体であることが仇となる。永遠のように続く責め苦。ロゼウスはどこで拷問の加減を覚えたのか、決して死なず気を失わず、吸血衝動によって凶暴化することもないよう調整をしながらドラクルを甚振っている。
 猫が鼠を死ぬまで遊び甚振ればこんな風になるのか。それとも、昆虫を捕まえて足を一本一本毟る人間の子どもの方が残酷だろうか。
 死なず生かさずドラクルを嬲る間もロゼウスは無表情だった。感情がない機械であるかのように、淡々と暴虐を繰り返す。
 する、と優しく撫でるように腰から太腿に触れた。そう思った次の瞬間にはその部分の骨を折られている。
 先程ドラクルが使った短刀、あれはあっさりと奪われて、今はドラクル自身の足を床に縫いとめる鋲となっている。
 向かっていったはいいものの、ドラクルとロゼウスの戦いはものの数分も持たなかった。ロゼウスはあっさりとドラクルを下すと、そのまま当然のように拷問を始めた。
 ここには慈悲深いギロチンも悲しみの聖母もない。これだけの責め苦が続くのであればいっそ一瞬で首を斬りおとされる死刑囚の方が幸せだろうというほど、過酷な暴力をドラクルは振るわれている。
「う、ぐ……」
 溢れた血が喉を塞ぎ、込み上げてはぼたぼたと唇から垂れていく。
 ぜいぜいと荒く息をするのさえ辛い。
 抱きしめるように跪いてドラクルの背中に手を回したロゼウス。その手が肩甲骨を探り、躊躇いなく折る。
 全身をまさぐって折れていない骨を探しては折る。それでも死なせない。適度に回復させたらまた痛めつける。
 傷のない肌を、鋭く尖らせた爪でぐりぐりと抉る。
「うわぁああああ!!」
 口中の血を吐き出しながら絶叫するも、ロゼウスに容赦や躊躇は見られない。それが義務ででもあるかのように、ロゼウスはドラクルを痛めつけていく。
「あ、あ……」
 ずぷ、と音を立てて鋭い爪の生えた手がドラクルの身体の中に沈む。柔らかい腹の奥の臓器を握りつぶす。
 また新たな血が中から痛みと共に込み上げて、ドラクルは鉄錆の香りのするそれを吐き出す。
 吐いても吐いても次々にその赤い液体は込み上げてきて、いっこうに楽にならない。生きながらに窒息する。
「あ……」
「……そろそろ死ぬ?」
 ぼろぼろになった兄の姿に溜飲を下げたのか、そうではないのか。ドラクルにはそれも判断がつかない。まだかろうじて残っている視力を頼りにロゼウスを見つめる。
 無表情だったロゼウスがドラクルの両頬を包むように手を伸ばし、ゆっくりとその唇に微笑を形づくっていく。
口づけでもするような距離から、吐息を吹きかけるように囁いた。
「ねぇ、ドラクル……」
 彼はもう彼を「兄」とは呼ばない。
「俺ね、怒ってるんだ」
 虫の息のドラクルは返事もできない状態で、ただされるがままに頬を包まれながら、黙ってロゼウスの話に耳を傾ける。潰れた鼻。先端だけ切り取られた舌。もちろん窒息しないような処置はされている。
 耳たぶは千切れていても、鼓膜は無事。話を聞くだけはできる。それを聞くための意識の方が半分朦朧として危ないけれど。
「怒っているんだ」
 ロゼウスは先程と同じ言葉を繰り返し、それと同時にドラクルの頬に爪を立てた。皮膚が破れて新たな血が滲むが、先程顔面をひたすら床に叩きつけられたせいですでにその顔は真っ赤で、新たに流れた血は目立たない。
「俺自身を、そして世界を」
 頬骨も折れた。
「ねぇ、どうしよう。もう俺は俺を許せないんだ。どうやっても、何があっても。こんなことのために生まれてきたんじゃない。何度過去に戻ってやり直したくても、戻れないんだ。でも前向きになんかなれないよ。なれるはずがない。だって、彼がいないのに」
 いない。
 もう、どこにも。
 いない。
 誰のことを言っているのかはドラクルにも検討がついた。いない、と言った瞬間またロゼウスの手に力がこもった。折られた頬骨が更に痛む。
 顔を固定されていて、俯いてだらりと血を吐き出すということができなくなった。肺から込み上げてくる血は口中に溢れると、とめどなく口の端から零れていく。
 目の前にロゼウスの深紅の瞳。
 病んでいる。
 澱んでいる。
 その奥に、ぱっくりと開かれた傷がある。
 癒えないその場所から血が流れ続けている。
「死んでね、ドラクル」
 美しい笑み。
 正気を手放して、心を何処かに遊ばせてしまった笑み。
「俺はあんた《も》殺すよ」
 ドラクル、も。
 先程違和感を覚えたその言葉の意味をロゼウスは明らかにする。
「あなたが憎い。兄様。あなたが余計な手出しをしなければ、俺は彼を――」
 爪で皮膚を破いた頬をするりとその手は滑り落ち、ロゼウスはドラクルの首に手をかける。
「シェリダンを殺す事はなかったのに!」
 微笑を浮かべていた顔が一瞬にして歪む。叫びと同時に、ドラクルの首を絞める手に力がこもった。 
「――ッ!!」
 バキボキと首の皮膚の下で骨が砕けていく。手を離したロゼウスは、そのままドラクルの即頭部を強烈に殴りつける。
 力を入れることの叶わない彼の体は無様に跳ねた。液体にまみれた柔物と大理石のぶつかる、べちゃっという音が響く。
「ああ、わかっている。一番悪いのは俺だ。どんなに口では愛していると言ったって、肝心な時にあっさりと暴走したもう一つの自我に乗っ取られた! 正気を手放して血を求めるあまりに浅ましく彼の血を啜った! 俺が、俺のこの手が彼を殺したんだ!」
 血を吐くような叫び。けれどドラクルにはもうほとんど聞こえない。打ち付けられた頭がガンガンと痛む。甲高いロゼウスの声が痛烈に響く。
 横になった身体はまた血を吐き出す。
「――憎いよ。何もかもが。こんな思い、永遠に知りたくなんてなかったのに。こんな思いをするくらいなら、死んでしまった方がマシだったのに」
 ロゼウスの直接の敵となったドラクル。
 選定者としての事実を長い事伏せ、事態を攪乱したジャスパー。
 預言者として運命をかき回したハデス。 
 未来を知りながらその通りに駒を進めようとしたプロセルピナ。
 もう 何もかもが憎い。何を恨んでも足りない。満たされない。救われない。
 だってシェリダンは還って来ないのだから! 
生きていなければ意味がない。口ではそう言っても、死者は還らないというその意味をこんなにまで深く実感として覚えたのは初めてだ。
 一生知りたくなんてなかったのに。忌々しい吸血鬼の力、この力を使ってシェリダンを生き返らせることができたならどれだけ良かったか。
 あるいはただ単に普通の人間として生まれ、シェリダンと全く関わらずにそのまま生きて行けば良かったのか。出会ってしまったこの運命の通りに、彼を殺すことになるくらいならば。
 ああ、どうして。
「どうして俺が皇帝なんだよ!!」
 皇帝は愛する者《だけ》は生き返らせることができない。
 ロゼウスに限ったことではない。大地皇帝デメテル、今のプロセルピナも同じだ。だからこそ彼女はあんなにもハデスを死なせないように気を配り続けた。
「どうして、どうして、どうして!?」
 ドラクルから離した血まみれの腕で、ロゼウスは己の身体を抱きしめる。冷たい化物のこの腕。シェリダンの腕とは違って、まったく安心感を与えてくれはしない。
 ドラクルはロゼウスに全てを奪われたと、彼を恨んだ。本当は弟ではなかった彼を。
 ローゼンティアの正統なる第一王子である彼はドラクルが与えられていたものをいずれ全て奪っていく存在だった。両親の愛情も王子としての名誉も自分以上の文武の才能も名君と誉めそやされ国民に慕われる未来も、何もかも全て。
 その上、皇帝になるという栄誉まで。
 ドラクルから見たロゼウスは、全てに満たされているような存在であった。欲しいと思って手に入らないものは何一つない。
 でもそれは本当にロゼウスが望んだものであったのか?
 彼は何度も伝えていたではないか。王位などいらない。ローゼンティアはドラクルが継げばいい。自分はシェリダンといればそれだけでいいから。
 それだけで良かったのに。
「皇帝になんかなりたくなかった!!」
 生まれてくる場所を選べない。
 生まれてくる時代を選べない。
 自分の運命を選べない。
 他者から見て何不自由ない人生。けれどそれは本当の幸福か?
 自分は不幸だ。だから復讐してもいい? 幸せになるためなら誰を不幸にしてもかまわないと?
 そう考える者は同じ理屈で復讐されても仕方ないだろう。
「だからドラクル、あなたは不幸になって。俺はあなたが憎い。憎くて憎くて仕方がない。愛しているからその裏返しで憎いんじゃない。もうそんな大層な感情はあなたには持てなくなってしまった。ただ鬱陶しくて仕方がないんだよ。ここで永遠の絶望を与えたら、その後はもう思い出しもしない。そういう憎しみだ」
 段々と表面で固まった部分を割ってどろどろとした熱いマグマが噴き出てくる。
「だから死んで」
 それは決して冷えることなく、熱く、触れる者全てを溶かす。
 肉も骨もどろどろに溶かし込んで消してしまう。
「あなたは苦しんで苦しんで、絶望して死んで。俺がこれからシェリダンがいないのに生きなければならない時間の分だけ苦しんで。そんなものいちいち確認するのも面倒だから、ここで後腐れなくさっさと死んで」
「ロ、……ウ……」
「いらない。俺はあなたなんかいらない」
 欲しかったのはただ一人。
 ロゼウスが腕を振り上げる。そこにいつの間にか短刀が握られている。
 腕を振り上げた一瞬、ロゼウスの瞳が今までとは違った狂気に染められ、濁る。
「あんただって本当は、俺のことなんかいらなかったくせに!」
 それは一体どういう意味なのか。
 トドメを刺そうとするその動きに、ドラクルはようやくこの責め苦から逃れられるとも、これで終わりなのかとも考えた。
 最初からずっと思い通りにならなかった人生だった。最期の一瞬までも思い通りにならない。
 でもそれは、誰でも同じ。
 今、自分を殺そうとしているロゼウスでさえ。
 だから――。
「待ちなさい」
 やんわりとした女の声が、ロゼウスを引きとめた。


267

「……何故止める。情けを」
「かけるつもりはないわ。今更。でもね皇帝陛下、気づいてる? この城は今にも、倒れ崩れ落ちてしまいそうなのよ」
 ドラクルにトドメを刺そうとしたロゼウスを引き止めたのは、いつの間にか戻って来たプロセルピナだった。
 彼女の指摘どおり、気づけば建物に細かい振動が走っているような。
 ぱらぱらと天井から小さな欠片が降ってきた。プロセルピナの言葉はドラクルを助け出すための嘘などではなく、どうやら真実であるらしい。
「頼まれちゃったの。あなたの妹君と弟君に、兄様を助けてって。新しい皇帝をこんなところで失うわけにはいかないわ」
「俺は死なない」
「でしょうね。でも一棟全て七階分の瓦礫の山に埋もれたらさすがのあなたでも自力脱出は不可能でしょう? その中からあなたを引きずり出さなきゃいけないこっちの身にもなってほしいわ」
「……」
 ロゼウスはちらりと、瀕死のドラクルに目を向ける。これ以上なく汚らわしいものを見つめるようなその視線の先を追って、一瞬だけ痛ましい表情を浮かべたプロセルピナはしかしそれを声音には出さずに更にロゼウスに呼びかける。
「どうせこのひとは、放っておけばこのまま死ぬでしょう。皇帝にたてついた愚か者として、このまま古き城の残骸と共に埋めてしまいなさい。このひとと心中してあげる気があなたにあるなら別だけど」
「……そうだな。それは嫌だな」
 ロゼウスはゆっくりと立ち上がった。
「あと僅かな時間、瓦礫に埋もれて死ぬ苦しみを存分に味わえばいい。俺は死すらあなたには与えない」
 プロセルピナがロゼウスの手をとり、魔術で開いた空間の裂け目へと導く。
 移動前の一瞬、彼女の身体から淡い緑の光が迸った。ドラクルの身体を包みこむ。
 彼女が最期に彼に向けたものは、紛れもない憐れみ。そんな視線を向けられる自分にドラクルは憤ればいいのか、それとも完全に自分を裏切り見放したはずの彼女が少しでも情けをかけてくれたことを喜べばいいのか。
 ロゼウスとプロセルピナの姿が完全に消えたのを見計らって、もう一人人影が現れた。
「ド、ドラクル……」
 瓦礫の山の中を、いたるところから流血した身体で這い上がってきたルースだ。
「ルース……」
 プロセルピナの最後の魔術により、ドラクルも会話ができるほどまでは回復している。麻酔をかけられたように痛みも感じない。
 けれど、怪我を全て治されたわけではなかった。いまだ流血は続いている。破壊された関節、砕かれた骨、潰された臓器。正気を失って凶暴化したとしても、暴れることすらできないだろう。
 このまま死に逝くという未来に変わりはない。
 一瞬ごとに、流れる紅い血に乗せて命が流れ出していく。
「ドラクル……」
 ルースは痛む身体を引きずり、兄のもとへといざりよる。膝から崩れるように跪いて、ドラクルのすぐ側へと。
「ごめんなさいね……遅く、なってしまったわ……」
 瓦礫を無理矢理どけてあがってきた彼女の身体は傷だらけだった。
 どうして。
「なんでドレス姿なんだ……?」
 露出した肩から流れる紅い血。突然の問にルースは驚くこともなく、ふわりと微笑んで言った。
「大事な人の前では、いつも綺麗でいたいから」
 今ここには二人しかいない。ルースの前にはドラクルしか。
 何故こんなぼろぼろの姿になってまで、彼女は彼の側にいるのだろうか。ドラクルが求め続けたロゼウスだとて、最後には彼を拒絶したのに。
 何故。
「お前……」
 ルースは微笑んでドラクルの手をとる。
「やっと願いが叶ったわ」
 彼女はいつも、彼の側にいた。影のように寄り添い、空気のようになくてはならない存在として、側にいた。
 妹だから。腹違いとはいえ、全ての事情を知る実の妹だから。
 それだけの理由で?
「まさかお前は、私を……」
 ドラクルの唇がそれを紡ぐ前に、彼女は自らの唇で封じた。
「言わないで。聞きたくない」
「だが」
「聞かないで。言いたくない」
 握った手の甲にぽたぽたと温かい雫が降って来る。
「やっと私の願いが叶うのだわ、ドラクル。私はずっと、あなたが欲しかった。あなたに死んで欲しかった」
「死……」
「そうでなければ、あなたは私のものにはなってくれないもの。呪われた子。知っているでしょう」 
 幾多の異性と関係を持っても、決して避妊は欠かさなかったドラクル。浮いた噂に反して、隠し子がいるという話もない。
 ルースとの関係は近親相姦。それだけでも大ごとだが、更に問題なのは二人の間に子どもができてしまった場合だった。
「あなたを私のものにするのは、最初からこれしかなかったの」
 何度も何度も未来を望んだ。
 彼女の心は兄への愛を胸の内で叫んでいた。
 同じように近親相姦の関係でも、ルースとドラクルはハデスとデメテルのような関係とは違う。彼女たちは彼らのようには禁じられた絆を貫けない。
ルースは知っているからだ。生まれてきてはいけなかった子どもの絶望を。ドラクル自身の絶望を。
 だからドラクルと想いを遂げても、決して幸せにはなれない。
 必ず不幸になるとわかっている未来を、どうして望むのか。
 だから死ななければならなかった。
「大好きよ、お兄様。だから、一緒に逝きましょう」
 ぽたぽたと温かい雫が、とめどなく降る。ルースの涙が繋いだ手を濡らす。
最初から報われない恋だった。叶ってはいけない夢だった。
 呪われたこの命。
 何のために生まれてきたのだろうか。
 しかし次のルースの言葉を聞いた瞬間にハッとする。
「あなたを独りにはさせないわ」
 独り、だったのだろうか自分は。
 脳裏に先程のロゼウスとのやりとりが蘇る。
 ――あんただって本当は、俺のことなんかいらなかったくせに!
 その前に幾つも幾つも毒を吐いていた可憐な唇。けれどロゼウスの本当の本心は、きっとこの言葉に集約されていたに違いない。
 自分を不幸だと思っていた。どんなに努力しても救われない底なし沼の奈落に生まれた時から浸っているのだと。
 けれど、本当の意味で独りになったことは、ドラクルはなかった。いつもすぐ側にルースがいた。腹心のアウグストがいた。
 常に空気のように側にいてくれた彼らの存在を今更になってとても重く感じる。
 父に愛されない事は悲しかったけれど、寂しくはなかった。いつもルースがいたから。
 それに他の兄妹たちも、偽りの兄の仮面を被っていたドラクルを慕ってくれた。
 最後までドラクルを案じて死んでいったアンリ。ロゼウスこそ正統な王太子だと告げても、ドラクルに味方してくれたアンやヘンリー。
 今、この手を握っていてくれるルースを初めとして、様々な人物がドラクルが王子ではないと知っても味方してくれていた。
 復讐などに拘らなければ、本当はロゼウスを追いかける必要もなかった。せっかくローゼンティアの王位をくれるというのだからその言葉に甘えて、素知らぬ顔で玉座に着いていても、誰も責めない程度にはドラクルは信用されていた。
 その信用を、信頼を崩したのはドラクル自身だ。
 傷つけられたからには同じ痛みを与えて傷つけ返さねば納得いかないと、復讐に固執して大事なものを見失っていた。あのプロセルピナでさえ最後には憐れみをかけてくれたというのに。 
 ――あんただって本当は、俺のことなんかいらなかったくせに!
 そうだな、ロゼウス。
 私とお前は違う。
 ロゼウスはシェリダンを失っては生きてはいけないという。だがドラクルはその気になりさえすれば、ロゼウスがいなくても生きていけたに違いない。だがその思惑を煽ったのは――。
「ごめんなさいね。あなたを生かしてあげられなくて」
 透明な涙を瞳から溢れさせながらルースが言う。
「ごめんなさいね、あなたと一緒に生きてあげられなくて」
 この妹の泣き顔を初めて見たような気がする。
 こんなに側にいたのに。
「薔薇皇帝の誕生に必要だなどと言い訳をして、私はあなたを殺そうとしたの。ロゼウスを皇帝にするためにではなく、あなたを殺すためだけに生きていた。あなたがロゼウスを愛していて、彼との未来を望んでいると知りながら」
 崩れかけた建物に大きな振動がやってきた。そろそろこの城は崩壊する。
「ロゼウスがいなくて寂しい? ドラクル」
 全ては我欲のための行動だと最後に自ら告白した妹の問に、ドラクルは静かに否定を返す。
「お前がいればいい、ルース」
 ルースが大きく瞳を見開いた。笑顔のまま泣き崩れる。
 何のために生まれてきたのかはわからない。
 それでも意味などない人生に、これだけの充足感を得ることができたのだ。
 ロゼウスなど手に入れようとしなくても、もうとっくに幸せだったのに。
 ずしん、と音がして一際大きな瓦礫が降って来た。もうこの城ももたないだろう。
 そして視界が濁り始めたドラクル自身の命もあと僅かだ。見ればルースの身体も、決して浅くはない傷で覆われていて彼女は少し苦しげにしている。
「ルース……」
「何?」
「アウグストも、一緒に……」
 真っ先にロゼウスに殺された大切な部下の名を言えば、ルースはにっこりと笑んで頷いた。そのドレスの懐から一掴みの灰を取り出す。あの状態でそれをかき集めていたのか。
 死ねば灰となり骨も残らぬヴァンピル。
 だが、魂は、確かにここにある。
「一緒に逝こう……」
 ドラクルとルースは手を繋いだまま、ゆっくりと瞼を閉じる。血だまりの中の彼らを覆い尽くすように瓦礫の雨が降って来る。
 真実を知らされたあの嵐の夜の雨と違って、瓦礫の雨は無慈悲だが冷たくはない。
 もう、地獄でも寂しい思いをしなくていい。

 ◆◆◆◆◆

 灰色の宮殿が灰燼に帰していく。
「城が……」
 プロセルピナの手によって一足先に城の外へと連れ出されていた者たちは、モノクロの花畑の中からその光景を見つめていた。
 外壁が崩れるより先に、内部の崩落が始まっているらしい。がらがらと何かの壊れる物凄い音が聞こえているが、様子は窺えない。
 それが続くうちに外壁にもついに亀裂が走り、一棟が崩れ始めた。どんな連鎖反応なのか、戦いには関係なかった場所までその崩落に引きずられるように崩れていく。離れの方もだ。
「消えてしまう……全てが……」
 プロセルピナに傷を治療され、早々にここに置いて行かれたハデスは複雑な心持ちで崩壊の景色を眺めていた。自分が生まれ育った場所が砂と塵だけになる光景は、嬉しいものではない。某か感慨と言うような感情はあるのだが、上手く言葉にできない。
「次の皇帝の時代には、一から作り直すことになるわね」
 突然背後から聞こえた声に、彼らはハッとして振り返った。戻って来たプロセルピナと共に、見慣れた少年がいる。
 瓦礫の山の上に姿を現した時よりもなお酷い血まみれのその姿に、彼らは息を飲む。
「ロゼウス!」
 彼に対して何も含む所のないロザリーだけが唯一、兄に駆け寄ってきて抱きついた。
「良かった……無事で……」
 自分の生還に対する心からの喜びの涙を前に、ロゼウスは居た堪れない気持ちになる。無事で良かったと言ってもらえるほどの価値は、今の自分にはない。
「ロゼウス、様」
 それでも少々ぎこちない仕草だが、リチャードが立ち上がってロゼウスの方を見つめた。
「……おかえりなさい」
「おかえり」
「おかえりなさい」
 彼につられたように、エチエンヌとローラも口を開く。躊躇った分だけ出遅れたジャスパーは、小さな声で呟くように告げた。
「……おかえりなさい、兄さん」

 この罪を背負い、私はどこに還るのだろう?

「……ああ」
 ただいまとは言わず、頷くだけに留めてロゼウスは崩れいく城を見た。広間のあった棟の上階部分はすでに崩壊していて、もはやドラクルもルースも生きてはいまい。
「シェリダンが……」
 ロゼウスには反応を示さず、ひたすら城の崩壊を眺めていたハデスがぽつりと呟いた。
 今となっては禁忌とも神聖ともつかぬその名に一同がこぞって反応し、モノクロームの花びらが舞う空の下に一種異様な雰囲気は張り詰めた。
 瓦礫と砂と埃の積もるあの中の最下層に、彼はいまだ眠っている。
「……プロセルピナ」
 ロゼウスはその名を呼んだ。
「はい、皇帝陛下」
 つい先日までこの世界の最高支配者であった女性は、今では自分の五分の一も生きていない少年の前で膝を折る。その姿に屈辱を感じている気配もなければ、大袈裟に謙る様子もない。
 あるがままに、まさにそのように。
「約束を」
「御意」
 頷いたプロセルピナの姿がその場から消える。
「約束?」
「うん、約束」
 ロザリーが尋ねてくるのに対し、ロゼウスは短くそうだとだけ返す。
 彼をあの中で、一人眠らせはしない。ドラクルやルースとは違うのだ、シェリダンは。
 思い返して、ロゼウスの背筋がぞくりとする。あの惨状、この手が引き裂いた……
「……っ!」
 自らの身体を両腕で抱きしめるようにして、その場に跪く。
「ロゼウス!?」
 ロザリーが案じて声をかけてくるが、ロゼウスは答えられない。ただ首を何度も横に振るうちに、涙が零れてきた。
 戦いは終わり、全てが終わる。これが始まりだなんて思わない。皇帝としての未来なんて、自分はいらない。
 この気持ちは誰にわかってもらえるものでなければ、この罪は誰かとわかちあうものでもない。口を開かないロゼウスに対し各人が不安を抱いて見つめている最中、それはやってきた。
「これだけよ」
 崩壊したはずの城から、ゆっくりと人影が歩いて来る。見慣れた黒髪は先程使いにだした人物しかありえないのに、その姿はどこか虞を感じさせた。
 腕の隙間から、まだ乾ききらない血が滴っている。
 プロセルピナの細い腕でかき集められるだけの量の肉片。
抱いている頭蓋骨も原形を留めていない。なのに、血に濡れていない部分の藍色の髪は酷く特徴的で。
「いや……」
 ローラが棒立ちになったまま震えだす。ロザリーが、リチャードが、エチエンヌが、ジャスパーが、ハデスが目を瞠った。
 ロゼウスは唇を震わせる。
「――――ッ!!」
 声なき絶叫が、響いた。


268

 皇歴三〇〇四年。 

 バルコニーから笑顔で民衆に手を振り、彼女はゆっくりと部屋の中に戻る。人目が無くなったところで、ようやく重たい冠とマントを脱いだ。
「ふぅ……」
「ご立派でしたよ、カミラ女王陛下」
 扉を自ら開いて謁見の間へとやってきたバイロンが、開口一番にまずそう言って彼女を褒める。父親ほどの年齢である宰相からそう言われ、彼女は頬を照れのために紅く染めた。
「そんなことないわ。私なんて、まだまだよ」
 新年を迎え、エヴェルシードは新たな第一歩を踏み出した。十七歳となった少女は、これで即位から半年以上が経った計算になる。それでも最初の半年は諸事情あって国を纏めることができなかったカミラだが、ここ数ヶ月でエヴェルシードも随分まともになった。
 軍事国家としては当然かもしれないが、これまでのエヴェルシードは好戦的過ぎた。先々代王ジョナスの時代には国内の反乱に対し片端から粛清をかけ、先代王の時代には隣国を侵略した。
 カミラが即位してからも、大陸の北に位置する魔族の王国セルヴォルファスと戦争を行った。いずれも短期決着した戦いだったとはいえ、その爪痕は大きい。
 かつてのやり方を反省して、カミラは現在、近隣諸国との和睦への方向に努めている。エヴェルシードの軍事力は何も他国を侵略するためだけにあるのではない。必要であれば災害対策用に訓練された兵士や、非常時に対応できる優れた傭兵を育てて他国に貸し出すこともできる。好んで戦火を広げていく理由もないのだ。カミラはエヴェルシードでは珍しく、しかも忌避され侮られる女王として、それでも己のやり方を貫くために日々精進しているところだった。
 もっとも、目に見えないものと戦っているのは彼女だけの話ではない。宰相であるバイロンは政治的なことに不慣れなカミラのために出しゃばらず隠れず、的確な対応をしてくれる。国内随一の力ある貴族である女公爵エルジェーベト=バートリもカミラの味方だ。
 そして近隣諸国との和睦という面においては、隣国ローゼンティアの王が替わったのも大きい。エヴェルシードも先代国王から今のカミラ女王への譲位が急なものであったが、向こうの事情もなかなかだ。
 ローゼンティアの現国王は先代ドラクル王とまったく違い、エヴェルシードのカミラに協力する体制を見せている。それはかつてのエヴェルシードの侵略を無条件に許すのではなく、これまで魔族の国としてある程度の自由を謳歌していたローゼンティアという国を、それでも世界の中の一国家として自覚するための動きの一つである。政治的な話は単純な好き嫌いでは終わらない。エヴェルシードがいくら世界一の軍事強国であろうと、ローゼンティア側に攻め込まれる隙がなければ、あの侵略はなかったはずなのだから。
 そうした周囲との連携を慮りながら、カミラは新年になって新たな国の体制作りを議会と相談して整えた。戦争に拘らず侵略に頼らず生きていくというのはエヴェルシードという国の歴史を見れば難しいかも知れないが、カミラは自分の代でそれを成し遂げる……とまではいかないものの、少しでもその道への足場固めをできるように努力するつもりだ。
 とは言うものの、カミラが新しく打ち立てた案は、考え方としては彼女が初めてというわけではない。それ自体はもともと存在していたものを、彼女は引っ張り出して拝借しただけだ。本来なら当人がやるべきことかもしれない。だが、その当人がこの国にいないのであれば――。
 自分がやらなければ誰がやる! そう言った心境でカミラは覚悟を決めた。後戻りなどできるはずもない。自分はカミラ=ウェスト=エヴェルシード。このエヴェルシード王国の女王なのだから。
 彼女が死んだら彼女の後を即座に継ぐことのできる存在はいない。代わりのいない女王なのだから、心して務めないと。
 王としての責務を思うたび、肩にのしかかるマントの重さに息苦しくなる。実際はそれを身につけるのは公式の場だけという国王の執務服は固く、重く、動きにくい。こんな重さを自分は常に国王として背負えるのかと思うほどに。
 それでも、できないかもしれなくてもやるしかないのだ。自分には確実にできないとわかっていることであれば、誰かできる人材を探し、その相手に頼み込んででもやるしかない。
 新年を迎えてもまだ十七歳の少女。その彼女の肩に、一国の民全ての命がかかっている。
 昨年、王として即位し始めた頃のカミラは、その重さに気づいていなかった。ただ国王とは国の絶対的な権力者として好き勝手するもの、そうとしか考えていなかったのだ。
 けれど、今は違う。
 違うのだと、大切なことを教えられた。だから。
「カミラ女王陛下」
「何?」
 部屋の外から侍従によって声がかけられた。そろそろ時間だと思っていたから、カミラは特に驚かない。
「アールフレート様が……」
「今行くわ」
 現在、父も兄も亡くした彼女にとってはたった一人、唯一の家族の名を侍従は口に出した。要請に応え、すぐに彼女はその場へと向かう。
「待たせたわね」
「女王陛下! い、いいえ」
 案内されたのは、執務関係の部屋が並ぶ王城の中央部ではなく、王族の住居がある別棟の方だった。国王としてのカミラの私室の一つで、侍女が一人おろおろとしている。他の者は出払っているようで、自分一人に任されたその役目に上手く対処できず困っているのだろう。
「貸して」
「は、はい!」
 カミラと同じくらいの年齢である彼女は、女王の言葉に対し一も二もなく頷いた。貸して、と言われたとおり、腕の中のものをカミラへとそっと手渡す。
 おくるみに包まれた、生まれたばかりの赤ん坊。この世に生を受けて数ヶ月しか経っていないその子が母を求めて泣き続けるので、侍女はほとほと困り果てていたのだ。
「よしよし、どうしたの?」
 やわらかな声で我が子に語りかけながら、その身体を軽くゆすってやってカミラは赤ん坊をあやす。正真正銘彼女の子どもだが、その存在は王城内部以外では秘匿されている子どもでもある。
 何故ならエヴェルシード女王カミラは書類上ではまだ誰とも結婚していないのだ。早熟な王族にとって十代で非公式の子どもをこさえることは珍しいことでもないが、これが男ならまだしもまだ十七歳の女王だと考えればこの男尊女卑の風潮が強く残る国ではなんとなく体裁が悪い。
 おかげでカミラは早々に結婚相手を見つけてさっさと結婚してしまわなければならないのだが、それはそれで難しい問題だった。何より問題なのは、彼女がその子以外を次の王にする気がないということなのかもしれない。
 カミラの生んだ子、生まれた子どもは男の子だった。世間的に認められてはいないが、彼が現在のこの国の王太子の立場にある。
 生まれた子どもの顔立ちは、まだ赤子ながら母親であるカミラによく似ていると言われている。これならば父親が誰であろうと、同国人であるエヴェルシード人と結婚さえすれば誤魔化すことも可能であるというほどに。
 だけれど、とカミラは一瞬手を止め、心地よい揺れがなくなって物足りない様子でぱちりと目を開いた赤子の顔を覗き込んだ。
 エヴェルシード人の瞳は基本的に橙色。しかし、腕の中に抱いた子のその瞳の色は。
「シェリダン……」
 亡き人に良く似た、その、朱金。

 ◆◆◆◆◆

 ローゼンティアには五代目の国王が即位した。
「女王陛下。こちらの案件に目を通していただきたいのですが」
「いいわよ。いつまで?」
「明日の昼には係の者が取りに参ります」
「じゃあ今日の夕方にはやっておくわ。そっちは?」
「は。陛下、こちらの書類にサインを」
「これでいい?」
「ありがとうございます」
 執務室へ次々に持ちこまれる仕事に一区切りをつけ、椅子から立ち上がった新女王はうんと伸びをした。一日中書類仕事で、どうも背中が凝っている。
「国王って大変よねー」
「それは、一国の君主ですから……ロザリー陛下、お茶はいかがですか?」
「いただくわ」
 国王の責務についてまだ不慣れなことの多いロザリーのために、補佐役としてつけられた女公爵ジェイド=クレイヴァがお茶を淹れようと立ち上がる。先程まではラナ子爵ダリア、カラーシュ伯爵フォレットもいたのだが今はちょうど出払っている。
「ローゼンティアも、ようやく落ち着いてまいりましたね」
「ええ。昨年末に起きた民衆の暴動を鎮め、侵略と争いの一年間に疲弊した土地には見舞金を出し、王族の系図を整理して……大変だったわね」
「それでも、昨年の激動を考えれば今こうしていられるのは陛下の手腕のおかげですわ」
「そんなことないわよ」
 開け放たれた窓の外は暗い。ヴァンピルの王国において、昼は夜。夜は昼。闇の中にぼうと浮かぶ銀色の薔薇の香りを聞きながら、ロザリーはジェイドが淹れた熱い紅茶に口をつける。
 喉を潤して、改めて先程のジェイドの言葉に答えた。
「私が今こうしてなんとか女王としてやっていられるのは、そのもともとの下地をロゼウスとドラクルが作っていてくれたため」
 自分よりも高い王位継承権を持ち、更に自分よりも格段に国王としての才能を持っていた二人の兄の名をロザリーは挙げる。
 その内の一人、出された名前にジェイドが静かに瞳を伏せた。
 ドラクルはジェイドの主君だった。もともと彼女はドラクルに仕える側近の一人だったのだが、最後の戦いの時、ついて行くことを許されずにローゼンティアに残されたために、今もこうして生きている。ドラクル亡き後もローゼンティアという国を守るために新女王ロザリーに仕えているが、本来ならば誰よりも近くでドラクルが王として玉座に座り、磐石にして華やかな治世を敷くところを見ていたかったに違いない。
「あの方は……立派なお方でした」
 今現在の国王の前で彼女と反目しあった兄を褒め称える。第三者が聞けば非常識で無礼だと眉を潜める行為かもしれないが、ロザリーは許可をとらせるまでもなく、その寂しそうな微笑を許した。
 彼女自身も、紅茶のカップを下ろした唇に小さな苦笑を浮かべている。
「……そうね」
 もしも彼があんな生まれではなく、本当の第一王子だったならばこの国は安泰だったのだろう。ひとは己が生まれてくる場所を選べない。それにしても、才能も人徳もあった彼に課せられた運命は、あまりにも。
「好きだったの? ドラクルのこと」
 会話の途中で、何気なく尋ねられた言葉にジェイドは驚いて目を丸くする。次第にゆるゆると首を振ると、誰も知らないことを語り出した。
「あの方を愛していたのは、私ではなく姉のガーネットです」
「それって、ロゼウスの元婚約者の……」
「ええ。姉は第四王子殿下の婚約者として選ばれていましたが、結局は戦死いたしました。その戦争に赴くよう進言されたのはドラクル様」
「……」
「それでも、私は信じていたのです。あの方を」
「そうね。私も信じていたわ。弱くてずるくて酷いひとかも知れないし、私はあの兄にそんなによくしてもらったこともないけれど、でもあのひとが良い王になることだけは、信じて疑った事はなかったわ」
 ブラムス王の第四王女、ロザリー=ローゼンティアは王位継承権第十二位を持っていた。
 十三人も兄妹がいたのに、結局今この時に王となれる立場にあるのはロザリーだけだ。
 みんなみんな失ってしまった。たくさんの愛しさと、あらゆる憎しみと、そして一抹の寂しさを彼女に残して、時の彼方に死者は消えていく。そして生きているものはこれからも歩まねばならない。新年は始まった。
 そして新時代が始まる。
「薔薇の皇帝」
 ローゼンティアは薔薇の王国と呼ばれる。その中でも特に薔薇の名を冠された王子がいた。
「ロゼウスはこの国という狭い檻の中ではなく、世界に咲き誇るわ」
 彼と対を成す薔薇の王女は薔薇の国の女王となった。しかし薔薇の王子は薔薇の皇帝となり、どこまでも鮮やかに咲き誇る。
 兄殺し弟殺し、そして愛する者殺しの罪まで、傷つきながら背負っていく。
 それはたぶん、最後まで彼を欲していた兄にはできないことで……。
「私も頑張らなきゃ。ロゼウスにも、ドラクルにも負けていられないもの」
「ロザリー姫」
「女王陛下でしょ」
「ロザリー女王陛下」
「きっとこの国を、良い国にしましょう。今まで流された血も、彼らがかけていた想いも何一つ無駄にしないように」
 皇帝となった兄に本気で張り合うでも、彼と敵対した今は亡き長兄を蔑むのでもない。
 ただ、悲しみも苦しみも、それを経てなおも失われないこの世界で生きて行くこと、他者を生かすことの喜びを胸に抱きしめて生きていく。
 それこそが、運命に嘆いた者たちへの一番の弔いだと。
 ひとは自らが救われるために弔い、自らを救うことによって他者を救うのだ。
 ジェイドは静かに跪き、この国を新たに導く若き女王の前に頭を垂れた。

 ◆◆◆◆◆

「ロザリー女王陛下、来てくれたの?」
「ええ。カミラ女王陛下」
 ローゼンティアはエヴェルシードと国交を回復した。怒涛の一年を過ぎ、目まぐるしい代替わりを終えて新たに国の代表者として腰を据えた彼女たちはお互いに仲が良い。
 それは同じ年頃の少女だから無条件に友情を築けたというわけではなく、外交を有利に運ぶために上っ面だけの笑みを浮かべているわけでもなく、ただあの一年を敵味方として全力で対峙し、その行末を見届けたという共通の認識が二人を結びつけるのだ。
 最後のあの時、ロザリーは皇帝となった兄の味方として当事者である彼らのすぐ側で、カミラは先代国王である兄から託された国を守って。
 それぞれ役割も選んだ道もあの時は違ったが、それでも彼女たちは彼らの妹なのだ。
 用事があってエヴェルシードを訪れたロザリーは、さっそくエヴェルシード女王カミラの部屋へと向かった。難しい話の前に一息入れるつもりだったのだが、中を見て気が変わった。
 カミラがローゼンティアに向かうのではなくロザリーがエヴェルシードを訪れたのには理由がある。身内の者しか知らないこととはいえ、カミラは近頃出産したばかりで、ようやくまともに公務が行えるまで体調が戻ったところなのだ。無理をさせてはいけないという気遣いをカミラの方でも受け取ったらしく、かつて争いあった隣国の女王であるロザリーは、これ以上ないと言うほど歓待された。
 部屋の中に揺り籠。すやすやと、母親に良く似た面差しの赤ん坊が眠っている。
「エチエンヌとは別れてしまったのね」
 眠る可憐な赤子を覗き込んでいたロザリーの背に、テーブルについていたカミラが声をかける。突然の言葉に、ロザリーは僅かに心を揺らしながらも答えた。
「ええ。私はローゼンティアの女王にならなければいけなかったから」
 末の二人の妹姫は、戦いとも政略とも関係のない場所へと逃がした。残った兄と弟にはそれぞれ他の役割がある。ローゼンティア王になれるような人物はもはやロザリーしか残っていなかった。
 そしてエチエンヌは、皇帝について皇帝領に残った。
 もしかしたらもう二度と、逢うこともないのかも知れない。夫だという感覚こそなかったが、決して嫌いではなかったあの少年。
 彼の幸せを願う気持ちはあるが……恐らく、それは無駄なことなのだろう。
 ロザリーはわかっていた。だからこそ、エチエンヌとは一緒にいられなかったのだ。彼女は幸せになりたいし、国民を幸せにする義務がある。
 けれどたとえ彼女と共にいたところで、きっとエチエンヌは幸せになろうとはしないから。
「あのね……カミラ」
 ロザリーはもしもこの瞬間、世界に一人きりだったら一生胸に秘めておこうと思ったはずの言葉を気づけば口にしていた。最期まであの人に言う事ができなかった。存在しなかった告白を。
「私、あなたのお兄さんが好きだったわ」
「私もよ。憎んでいたけれど……でも、その分愛してもいたわ」
 カミラは笑いもせずに頷く。そして彼女もまた告白する。
 こちらはロザリーとは違って相手に伝えたことこそあるが、それも決して叶いはしない恋だとわかっていた。
「私もあなたのお兄様が好きだったわ。愛していた……」
 だけど彼は振り向かない。もう、永遠に彼女たちを振り返ることはない。
「酷いひとたちよね」
くす、と小さく笑いながらロザリーが言う。笑っているのに、その紅い瞳は潤んでいる。透明な雫が目の縁に盛り上がり、流れていく。
「ええ、本当に」
 目元を手で覆いながら、カミラもまったくだと同意した。

 ◆◆◆◆◆

 皇歴三〇〇三年。 

「生き返らせてよ! 生き返らせてよあの人を! どうしてできないのよ! あなたは皇帝なんでしょう!」
 モノクロームの花畑で金の髪の少女が彼に食ってかかる。本来は美しいその顔も泣きすぎて腫れかぶれぼろぼろだ。戦いに服装はくたびれ、肌はくすんでいる。手は擦り切れ、爪は真っ黒だった。そんな形振りなどかまっていられないという様子で、彼女はただただ白銀の髪の少年を責め立てる。
「どうして! どうしてシェリダン様が死ななければいけないの!? 返してよ! あの方を返してよ!」
 誰に頼んでも、それこそ神にでも頼まなければ不可能な芸当。それが可能な人物は世界に一人だけ。皇帝だけ。
 皇帝は普通なら、死者を蘇らせることができる。どんな惨い死に様を与えられた者にだとて復活の機会を与えることができる。
 彼は皇帝だった。
 だが、少女の願いだけは叶えることができなかった。
 少女の願いは彼の願いでもあった。
 彼は彼の願いを叶えたかった。少女のためではなく彼自身のために叶えたかった。だけど、叶えることができない。
 皇帝は己のもっとも愛した者だけは、生き返らせることができない。
 全知全能の力を持つ神の代行者、そう歌われる存在が、唯一不可能であるのがそれだった。
 少女はあの人を愛している。
 彼もあの人を愛している。
 願いは一緒だ。だが、叶わない。
 だから少女は彼を責め立てる。
「なんでよ! なんであの人を殺したの!?」
 甲高いその声は悲鳴のようだ。絹を裂くような悲鳴というのがあるが、まさにそれにぴったりだった。少女は柔らかな絹を引き裂くように、己の心を引き裂きさきながらその声を発している。
 殺したとは言うが、彼女は真実を知らない。彼女は彼があの人を見殺しにしたと思っている。だが真実はそうではない。
「あなたが死ねば良かったのよ!」
「ローラ!」
 さすがにそれは言いすぎだと、彼女の周りにいた人々が止める。少女と彼の願いは一緒だった。だから少女が傷ついた事柄には、彼も同様に傷ついている。
 否。
 少女は真相を知らない。彼女の愛した主君を殺したのが、彼であることを知らない。
 だからこそ尚更、彼は胸が痛む。他の誰が愛する者を殺してもこんなには傷つかなかっただろう。この手で自ら愛する者を屠った。だからこそ、堪えようもなく胸が痛い。
 少女の訴えはもっともだった。彼女の言うとおり、正しく彼はあの人を殺したのだから。
「あんたなんか死ねばいいのに! 死んでしまえばいいのよ! シェリダン様がいないんだから!」
 その人は少女の人生の全てであった。
 その人は彼の人生の全てであった。
「そうできたら、いいのに」
 彼の声は乾いていて、温度も何も感じられない。心から、心からそう思うのにそれを表に出せない。
 感情はすでに凍りついてしまった。
 生きていても意味がない、まったくその通り。
 だけど皇帝はそう簡単には死ねないのだ。少なくともこの世界に彼と同等かそれ以上に優れた能力を持つ人間が生まれない限り、その志尊の座が他者に譲られることはない。
 彼は生きて行かねばならない。皇帝として。
 あの人を殺したのに、あの人がいないのに生きていかなければならない。
 それこそが彼に与えられた最も重い罰。この世界で最高の罪、それが最高の罰となる。
 生きていくということは、それこそが最高の罪となる。
 他者を屠り喰らう浅ましい生の形。彼の罪はそれを突き詰めただけ。それこそがこの世で最も醜く重い罪なのだと。
 お願いだから誰か俺を殺して。
 もう生きているのは辛いんだ。
 あの人を殺したくせに、自分はのうのうと生きている。そんなことは辛すぎる。
「死になさいよ!」
 少女がナイフを突き出した。隠し持っていたその一本。深々と彼の腹に埋まる。
「!」
「ローラ、何をッ!?」
「ロゼウス!」
 けれど彼は死なない。
 死なずに生きていかねばならない。
 ナイフを自分で引き抜くとどくどくと血が溢れた。だが彼はぴんぴんしていた。
「シェリダン様……ッ!」
 彼を刺した後、少女はその場に崩れ落ちる。耐え切れなくなったその細い身体は震え、しゃくあげながら涙を零す。
 彼女は彼と同じ悲しみを抱えていた。
 彼女には帰る場所もない。
 そして彼女の望みは、彼と同じだ。
「ローラ」
 え? と不思議そうに彼女が尋ねる間もなく、彼は素早くその唇に口づけていた。
「ロゼウス!? 何を!」
 それはただの口づけではない。己の血を口移しでその体内に流し込む。彼と同じ種族である妹がそれに気づいて詰問と制止の意味を込めた声を投げるが、彼はそれを止めなかった。
「……イヤッ!」
 反射的な嫌悪感に少女が彼を突き飛ばすようにして身を離した時にはもう遅い。
「何……」
「これでお前も俺と同じ者になった。未来永劫不老不死のヴァンピル。簡単には死ねないぞ」
「――ッ!」
 少女の緑の眼が驚愕に見開かれる。そこに浮ぶのは恐怖か? 嫌悪か? 憎しみか?
 だがどんな感情であっても、生きているということには変わりない。……あの人にも本当は、もっと早く、失う前にこうするべきだった。
 もう何かを失うのは嫌だ。
 耐えられない。
 一人でこの罪を抱えていけるほど彼は強くはなかった。だから、共犯者を。
「アハハハハ。アーハハハハハハハハッ!!」
 狂気の高笑いが、灰色の薔薇大陸に響きこだまする。


269

「シェリダン様が、死んだ?」
 その日、エヴェルシードにもたらされた報告は予想もしていないことだった。
「はい」
 暗い顔でそれを告げるのは彼らに馴染みのある、しかし見た事もない姿の少年だった。
 幼い頃の薬物乱用の影響で十五歳にも関わらず十二歳前後の子どもの姿をしていたエチエンヌは、今は年相応の外見をしている。貴人の身の回りの世話をする小姓としては最高級の服を身に纏い、人形のように淡々と言った。身なりの良さとその表情の落差が、見る者にすべからく不吉な印象を与える。
「死んだって……どうして……」
 クルス=ユージーン、ジュダ=イスカリオット、エルジェーベト=バートリ、ルイ=バートリ、バイロン=ワラキアス、そしてカミラ=エヴェルシード。エヴェルシード王国の主要な顔ぶれがその部屋に揃っている。
 カミラが蒼白な顔をしてそれを尋ねた。死んだ? 数ヶ月前にはエヴェルシードの未来をカミラに預け、内乱の危機に陥った国を救うために一人悪役となってエヴェルシードを出て行った兄が。
 シェリダンは十七歳だった。もちろん、病気や老衰などで自然と死ぬ歳でもない。
 ではどんな事故? それとも――。
 はっきり言って、シェリダン=エヴェルシードの敵は少なくない。尊敬も恨みも一身に集める、それが国王という存在なのだから。
 だから暗殺などされることも珍しくはないのだが、だが、それでも彼がやすやすと殺されるなど考えられない。
 何か不慮の事故があったのか、それともはっきりとわかるように殺害されたのか。それはこれまで敵対していたドラクルとの戦いの中でか。
 心の準備をしようと身構えた彼らの耳に届けられたエチエンヌの言葉は、しかし予想外のものだった。
「え?」
「今、なんて……」
 不穏な発言に一同は問い返す。
「シェリダン様は……その死はこの時世に、この時代に、薔薇の皇帝という存在を生み出すために必要だったのだと……そう、運命づけられていたのだと、聞きました……」
 エチエンヌも全てを知っているわけではない。ただ彼がプロセルピナやハデスと言った事情に詳しい者たちから聞いたのがその言葉だったのだ。
 運命。
 彼は彼のために死ぬために生まれてきた。
 そんな馬鹿なことがあってたまるものか。
「ふざけるな!」
 エチエンヌ自身の内心の燻りを代弁するかのように、室内に大声が響きわたった。
「ユージーン候……」
「クルス」
 叫んだのはこの場では幼い部類に入る貴族、クルス=ユージーン侯爵だった。幼いとは言っても、シェリダンよりは二つ年上だ。童顔の可愛らしげな面持ちを耐えがたい精神の苦痛と怒りに歪めている。
「運命? 皇帝のための死? そんなもののために、あの方を失ったのか!?」
 クルスにとってシェリダンは主君であると同時に、半分友人のような感覚でもあったという。主君として何事も立て、尊敬していたのはもちろんだが、それでも年齢の近い彼に対し、ハデスのような悪友とまではいかずとも同じ年頃の少年としての親近感はいつもあった。
 何事かあればすぐに呼ばれ、重要な仕事も任された。お忍びで街に降りるときも頼りにされた。
 なのにこんな、何でこんな最後の一番重要な場面で力になれなかったなんて。
「ふざけるな」
 自分への無力感は同時に、世界の全てへの敵意に変わる。この世界の誰も彼を守れなかった。それが酷く憎い。そして何よりも、彼を滅ぼすための運命を持った者が次のこの世界の担い手としてのうのうと生きて行くというのが。
「薔薇皇帝の治世なんて、僕は知らない」
「ユージーン侯爵!」
 皇帝への不敬はそれだけで死罪にあたる。もっとも不敬罪の適応は皇帝によってかなりの差がある基準でもあり、今の皇帝がロゼウスである限り、彼らに対してはどう出るのかもよくわからない。
 それでも、世間一般的に皇帝とはよほどの暴君でない限り誰しもが敬うものだ。
 この帝国で生きていて、皇帝の支配を、加護を知らない、いらないなどと言い切る者なんて――。
 だがクルスは言い切った。
「あんな皇帝、僕はいらない!」
「クルス君?」
「ユージーン侯……」
 彼が彼を失わせたのであれば、クルスはその治世下では生きられない。
 そんな世界で息をすることも、この心臓を動かすことすら苦痛だ。
 いらない。そんな世界ならいらない!
 シェリダン=エヴェルシードのいない世界など!
「ロゼウス=ローゼンティアに伝えろ! あなたの首は僕が取りに行くと!」
「クルス!?」
「一体何を!」
 周りの人々が一様に驚いた顔をする。シェリダンの妹のカミラでさえそれは例外ではない。
 どうして。あなた方だって知っていただろう。本当は彼がどんな人なのか。たかだか皇帝をこの世に生み出すためなんかで、死んでいい人じゃなかったのに!
 クルスの胸の内に渦巻く激情を、その中ではただ一人絶望の報をもたらしたエチエンヌだけが平然と聞いていた。
 彼も気持ちは同じだ。だが彼はクルスとは別の道を選んだのだ。
 だからクルスとは敵対する。
「わかりました。伝えておきます」
「エチエンヌ! あなたも何を……!」
「ロゼウスはあなたの責めを聞くでしょう。だけど、そのぐらいで皇帝は皇帝である己を消すことはできない。だからあなたが皇帝領に攻め入るのであれば、彼は間違いなくあなたと戦います。それでも」
「ああ。望むところだ」
「わかりました」
 狂っていく。これまできちんと噛みあっていた歯車はたった一つが抜けてしまっただけで世界全体が壊れてしまった。
 破壊の後に再生があるという。全てを失うことでやり直せるのだと。だがそれは本当なのだろうか。
 それがどうであろうとも、クルスはみすみすシェリダンを死なせたロゼウスを許さない。
 だからそんな皇帝は認めないと、命をとりに行くという。
 ロゼウスは待ちうけ、彼をも殺すだろう。
 殺して、殺して、誰も彼も殺して世界に一体誰が残るのか。
 わからない、それでも。

「第三十三代皇帝ロゼウス! 僕はお前を認めない!」

 この後三年にも及ぶ、薔薇皇帝の即位をかけた反逆戦争が始まる。

 ◆◆◆◆◆

 新しい皇帝は、デメテル陛下とは違う。
 その話はすぐに皇帝の居城全体へと広まった。もう数ヶ月もすれば、恐らく世界中がそれを知るだろう。薔薇の皇帝ロゼウスの名を。
 臣下たちの虞と不安とそして僅かな期待の視線を知りながら、しかしロゼウスは一切それに応える気はなく日々を過ごしている。
 否、日々を過ごすといえば語弊がある。望んで過ごすのではなく、過ごさざるを得ないのだ。
 死にたくとも死ねない身体。皇帝は己の死すらままならない。全知全能の力を手に入れて、何一つ叶えることができない。それが皇帝。
 そして特に薔薇皇帝は病んでいる。
 それを知っているローラ、エチエンヌ、リチャードなどはある程度受け流す術を知っているが、彼についてよくは知らない皇帝領の臣下たちは、主が何事かやらかすたびに蒼白になり胃を痛めている。
 特に彼らの寿命を削るのは皇帝の自殺癖だ。
 自殺に癖とはおかしいだろう。自殺未遂癖ならばまだわかる。だが彼の場合はまぎれもなく自殺だった。
 どんなにやっても死ねないというだけで。
 衝動的に、それがまるで日課でもあるかのように皇帝は自殺を繰り返す。決して死ねはしないのに、塞がった傷口をまた抉るようにして行う。
「違う! こんな結末が欲しかったわけじゃない! こんな未来が欲しかったわけじゃない! 違う!! こんなことをするために、生まれてきたわけじゃない!!」
 その錯乱ぶりは凄まじく、押さえつけようにも誰の手にも負えない。彼は皇帝だ。この世に彼以上の力を持つ者など存在しない。
 頂点の孤独を永遠に味わい続けながら、死を望みながら、それでも生きる。生かされてしまう。
「お願い、誰か殺して! 俺を殺して! お願いだから死なせて!」
手首を切った。骨が見えるほど。血は流れた。海のように。でも死ねなかった。ずきずきと傷口が痛み、血は無理矢理乾く。べったりと血で濡れた部屋の光景は凄絶だった。
 首を吊った。使ったのは丈夫な太い縄。解ける事はなく確かに彼は首を吊ることが出来た。ぼきぼきと首の骨は折れ、皮膚が伸びる。ある程度の高さがある場所から勢いをつけて飛び降りると即死になるという。だが彼は死ななかった。首の骨がおれてぐるりと顔が垂れ下がってもそれだけだった。
 腹を切った。己の身体に剣をつきたて、真一文字に引き裂く。柔らかな皮膚は抵抗もなく斬れ、内臓が傷口から零れてぼたりと床に落ちる。雪崩をうって腹から零れた内臓はそれでもどくどくと動いていた。やはり彼は死ななかった。
 胸の皮膚を引き裂いて、爪で心臓を抉った。どくどくと動く温かい心臓を己の手で握りつぶす。幻のような痛みを胸の内に感じた。胸の中には新しい心臓が再生し始めた。
 ギロチンを試した。ものの見事に首は落ちた。落ちたその先でやけに鮮明な視界は頭を失った自分の胴体を眺めていた。
 壁に砕けるほど頭を打ち付けた。頭蓋が壊れ、物事を考えることができなくなった脳が潰れる。ずるりと床に崩れ落ち、それでも少しすれば全て治った。
 炎の中に飛び込んでみた。皮膚が焼け溶け、どろどろになる。気が狂いそうな熱さの中、全身が爛れ落ちるまで待った。酷い箇所は焦げた骨まで覗いている。美しかった顔も全て焼けてしまって見る影もなく無残。第一発見者の侍女はそれを見て発狂した。だが翌日には彼の体は元通り美しい姿に戻っていた。
 臣下たちは床に額を擦り付けて懇願する。もうこんなことはやめてくださいと。
 皇帝は返す。だったら俺を殺せと。ちゃんと完璧に殺してくれたらもうこれ以上死ななくてすむ。頚動脈から噴水のように血を吹き出させながら、玉座を血で染め上げながら無力な己を呪い、この世界を呪う。
「殺してよ! 殺してよ俺を! さぁ、早く! もうこの一瞬だって生きていたくない!」
 こんな結末を望んだわけではない。
 こんな結果が欲しかったわけじゃない。
 こんなことになるくらいなら、自分など最初から。
「生まれてきたくなんてなかった!」
 ロゼウスにとって、シェリダンは何よりも、誰よりもかけがえのない者だ。何と引き換えにすれば彼を殺せるのだろう。自分にとって、引き換えられるもののないほど大切な彼を。
 意識を失い本能だけで動いていたあの瞬間、無意識でも自分は己の命と彼の命を天秤に掛けたのだ。
 引き換えられるもののないほど大切だと思っていた相手を、自分の命と比べて自分をとった。それが何よりも呪わしい。自分で自分を赦せない。
 存在自体が罪、シェリダンが口にしていたその言葉の意味を、彼を殺したことでようやく理解できるようになった。そのために必要だったというのか。この残酷な通過儀礼。
 愛している、シェリダン。
 誰よりも、自分自身よりも。
 本当に、本当に愛していた。この言葉が嘘なら今頃ロゼウスはこんなに苦しんではいない。シェリダンを殺した自分を自分のために正当化できたはずだ。あれは仕方がなかったのだと。
 だが、真実ロゼウスはシェリダンを愛していた。自分自身よりも。
 彼よりも自分の方が大事であればそもそもあの時崩れる瓦礫から彼を庇ったりしなかった。愛しているからこそ、この結果になった。
 だからこそ、苦しい。
 だからこそ、自分は永遠に自分を赦さない。
 生きたいと願う生き物の本能によって彼を殺した。人間が獣の肉や魚や植物を喰らうのと同じ残酷さで彼を屠った。
 当然のような「生きる」ということ。その罪深さを誰よりも思う。ただ生きているというそれよりも深い罪などこの世にはない。
 最高の罪がそのまま最高の罰となる。
 それは生きるということ。
「……お願いだから、殺して」
 人は死ねば二度と生き返らない。その重さを知るために、愛する者を殺す運命が待ち受けていた。それは彼をこの世界の皇帝にするため。
 ロゼウスはもともとヴァンピル。吸血鬼は他者を不老不死の魔物に変える力を持っている。
 皇帝は己の愛する者だけは蘇らせることができない。
 シェリダンを殺さなければ皇帝となれないロゼウスは、彼を殺したその瞬間に彼を生き返らせることができなくなったのだ。何と言う皮肉だろう。シェリダンを本当に愛していなければ、生き返らせることはできたはずなのに。
「どうして……」
 こんな結末を迎えるくらいなら、彼の意見など聞かずに、無理矢理にでもその身を死人返りに変えてしまえばよかったのだ。そう考えても今ではもう、全てが遅すぎる。

「誰か俺を殺して! お願いだから死なせて!」
 
 全ての英知と全能の力を得て、誰よりも世界の真実に近い狂気の皇帝は、今日も己の心臓を抉る。

 ◆◆◆◆◆

「父を殺したの」
 ロゼウスが皇帝になって、城は瞬く間に再建された。古の魔力が働いているこの大陸、皇帝領はそれ自体が不思議な力を持っており、主である皇帝が代替わりを迎えるごとに、その景色を変えていくのだという。
 今はまだロゼウスの城は何もない灰色の風景だが、これからゆっくりと彼の色に染まっていくのだろう。きちんと動き生きているように見えても心の中はずっと放心状態と言えるようなロゼウスが、これからどうやって生きて行くべきか確立することができたなら。
 だが、シェリダンを失った――殺してしまった悲しみを受けいれるまでにはもうしばしの時間が必要だ。
 そしていくら現実を受け入れそれに嘆き悲しもうと、彼は自分自身を絶対に赦さないだろう。
 それこそが皇帝として必要な条件だった。
「父を殺したの」
「……それが」
 前置きもなく突然吐き出されたプロセルピナの言葉にロゼウスは特に関心もない。話があると呼び出されて来たはいいものの、今の彼はもはやこの世の何においても興味ないのだ。
 味のしない食事を無理矢理口に運ばれながら、皇帝であるあなたに仕えますという輩にも無関心な目をくれながら。
 ただ、心臓が動いていることだけを生きているといっているような日々。そこにこのプロセルピナからの呼びかけだった。
「そんなこと、誰もが知っている。大地皇帝。あなたが本来の選定者である父親を殺し、弟にその腕の選定紋章印を移植して無理矢理その座に据えた事は」
 有名な話だった。今更本人の口から聞くこともロゼウスにとっては何の感慨も無い。
 だが、プロセルピナには意味があるようだった。促されてもいない先を勝手に続ける。
「今だからこそ言えることだけれど」
 ロゼウスではなく、その向こうの窓に映る外の景色を見つめるような形でプロセルピナは言った。
「私は後悔しているのよ、父を殺したこと」
 ぴくり、とロゼウスの身体が揺れる。
「父はもともと私を虐待していた。私は父を恨んでいた。でも殺してから気づいたの。私はそれでも、父を愛していたのだって」
 殺したいほどに憎んでいた。けれどその中に、一筋の愛情があったのも確かで。
「後悔したわ」
 生まれてからそれまで生きてきて、最大の後悔を。
「皇帝は愛している者だけは生き返らせることができない。それはこのためにあるの。人は、人が生き返らないことを知って命の重さを知るの。二度と取り戻せないから、だから尊いのだと」
「そんなこと……!」
「現にシェリダン王が死んで、あなたは変わったでしょう。ロゼウス=ローゼンティア」
 ロゼウスは燃えるように激しい目でプロセルピナを睨む。彼が睨んだ程度で彼女は動じない。何にもならないと知っているけれど。
「そんなことを知るのが皇帝の責務だというのならば、そのためにシェリダンを殺さなければならなかったというのなら、俺は皇帝になんかなりたくなかった!」
 人の命の重さを本当の意味で知る事はとても尊いのだろう。吸血鬼であるロゼウスはただでさえ人間と価値観が違う。それがために決戦前夜のあの時、シェリダンと言い争いにもなった。
 だが、世の中には知らなくても生きていけることというものがあるだろう。
 皇帝になどならなければ、永遠にそれを知らなくてもすんだのに。知りたくなかったのに、こんな痛みを。
「それでも、あなたは世界に望まれている」
 人一人殺させてでも彼が皇帝になることを世界が、運命が、神が望んでいる。
「薔薇皇帝よ、その御世に栄光あれ」
 プロセルピナの言葉が空しく響いた。


270

「……良かったじゃないか」
 酷く悲しげな表情で、表情にそぐわない祝辞を彼は述べた。
「おめでとう。ずっと、年相応の身体を欲しがっていたのだろう」
 そう言ってリチャードは、目の前にいる少年の金色の頭を撫でる。彼が見慣れた子どもの姿より頭一つ分背の高くなった少年だ。
「エチエンヌ」
 十五歳である彼は、しかしこれまで幼い頃に濫用された薬物の影響もあって十二歳前後にしか見えなかった。それを、ロゼウスの力によって修正されたのだ。本来正しく成長すればこうなるはずだったろうという、中身と同じ十五歳の少年の姿に。
 だが、彼がその外見と中身の年齢を吊り合わせることができるのはそう長い時間ではない。せっかく手に入れたきちんとした少年の身体。けれどこれからは、これまでとはまた違った意味でエチエンヌは年相応にはなれない。
 ロゼウスに与えられたその体は、いわば交換条件の品だった。その身体で、エチエンヌは彼と共に長い長い時間を生きる。終わりの見えない永い時間を。
 永遠の少年の姿で、中身だけは年をとっていくのだ。もっとも、そう思う彼自身もそう変わりはないが。
「リチャードさんは……」
「私はこのままでいい。ローラは」
「僕と同じ。十五歳の女の子の身体になったよ。もう僕と間違えられたり入れ替わったり、そういうことは無理だと思う」
 十二歳前後に見える子どもの姿であるとき、ローラとエチエンヌは双子人形の名の通り、それぞれ見分けがつかないほどにそっくりな容姿をしていた。しかしいざ十五歳の身体を手に入れてみると、そこには一つの成長期を終えて、男女の差異がはっきりした少年少女の姿があった。
 エチエンヌは同じ身長であった姉の背を追い越し、肩幅や胸板も彼女にくらべて逞しくなった。それでも元々の顔立ちが繊細なこともあり、髪を短く切った今では、美の国シルヴァーニの謳い文句を体現するような見事な美少年だ。
 一方ローラの方は、彼女もまた、好みの問題はあれども誰もが文句をつけることのできない紛うことなき美少女へと成長していた。美しい少女という意味ではエヴェルシード女王カミラ、ローゼンティア女王ロザリーなど多数見て来た彼らだったが、十五歳の少女の姿となったローラは彼女たちに引けをとらない美貌だった。
 ただし、その心はすでに病んでしまっている。
 吸血鬼皇帝であるロゼウスに残された力。彼は己の血を分け与えることによって相手を不老不死の魔物にできる。その被害を真っ先に受けて無理矢理不老不死とされたローラの精神はすでに半分彼方へと旅立っていってしまっている。
 彼女がもはやどんなに手を伸ばしても届かない主君のいる場所へと。
ロゼウスの皇帝としての命により、着飾らされ侍女たちに身の回りの世話を焼かれこれ以上ないほど甲斐甲斐しく扱われているローラだが、その表情に本当の意味で幸せな笑みが戻ることはない。
 彼女は主君であるシェリダンを、主として、自らを救ってくれた恩人としてだけではなく、男としても深く愛してしまっていた。女を抱かない彼を。
 それに彼にはロゼウスがいる。出会った早さでいけばローラの方が先と言えば先だが、それでも決して報われない恋だとわかっていたのに落ちてしまった。
 彼女は狂気の皇帝の隣、同じように狂気を抱えて寄り添いながら「待つ」のだという。
 ――ねぇ、ローラどういうこと? 何を言っているの? 待つって誰を。
 ――もちろんシェリダン様をよ。
 ――ローラ?
「ねぇ、リチャードさん」
 エチエンヌが呼びかけてくる。
「あなたはこれで良かったの?」
 憐れむようなその光に、リチャードは一瞬苛立ちを覚える。よりにもよって彼に憐れまれるようになるとは、自分はなんて惨めになったものだ。
 ――だって、見たでしょ。あんたも知っているでしょう。始皇帝はシェリダン様に生まれ変わったのですって。彼の愛した選定者もロゼウスに。だから、だから……。
 狂気に心を侵されながら、それでもローラは最後の一線だけは保っていた。
 いや、もしかしたらそれこそが狂気の証なのかもしれない。
 シェスラート=ローゼンティアがロゼウスに、ロゼッテ=エヴェルシードがシェリダンに生まれ変わり、また巡りあったのはただの偶然だ。それも。三千年もかかっている。生まれ変わりを待つだなんて馬鹿げている。ただの夢物語だ。
 だいたい、これまで歴代の皇帝は平均すると一人百年前後で任期を終えている。任期と言うのは便宜上の言い方で正確にはそのぐらい経つと次の後継者である皇帝が現れるという意味だが。それが簒奪という不穏な形になるか継承と言う穏便な形になるかはその時の皇帝次第だが、普通に考えて三千年も一人の人間が生まれ変わるのを待つなんてありえない。
 いくらローラがシェリダンを愛しているとは言っても、そんなの尋常ではない。彼女の夫は本来であればこのリチャードだ。他でもないシェリダンが決めた……。
 だが彼女は彼を選ばなかった。目の前にいる名目上の夫よりも、死んだ初恋の男の生まれ変わるのを何千年でも待つという。
 ロゼウスと一緒に。
 皇帝も待っているのだ。無限の地獄の中、夢幻の責め苦の中で、愛しい魂にもう一度相見えるのを。
 どんなに生まれ変わってもそれは決してシェリダン=エヴェルシードではないのに。
 そしてリチャードはローラに捨てられたのだ。
 なのに彼女を責める気が起きない。それは。
「何故泣く? エチエンヌ」
「だって、悲しくて……なんだかよくわからないけど、もう何もかもが悲しくて」
 リチャードの目の前では、かつての妻とよく似た少年がぽろぽろと無垢な涙を零している。
「……お前こそいいのか? ロザリー姫と別れてしまったんだろう」
「うん。僕たちは完全に政略結婚、しかも書類すらない状態だから。でもあなたは」
 リチャードはローラを愛している。
「そうだな、私は彼女を愛していたよ」
 だけど。
「そしてシェリダン様のことも好きだった。私を救ってくれた、かけがえのない大切な主だから」
 逢いたいのだ。
 彼ももう一度、彼に逢いたいのだ。ローラの気持ちはわかる。だから彼女を責められない。リチャードはシェリダンより十も年上だ。まっとうに生きていれば自分よりも大分年若い彼の方が先に逝くなどと考えもしなかった。
「もう一度陛下に、我が魂の主にお会いする。そのためなら薔薇皇帝の傀儡となり手足となり、魔物として永の煉獄を彷徨ってもかまわない」
 エチエンヌが目元の涙を乱暴に拭い去り頷く。
「うん……うん、そうだね」
 逢いたいのだ。
 生まれ変わったその魂は別人だとわかっていても、それでもまた彼に逢いたいのだ。
 夢物語だと知っていても、それでもなお夢を見るのだ。
 途方もなく愚かな夢を……
 そのために薔薇の皇帝から永遠を分けてもらった。
 それがまったく幸福と結びつかず、ただ痛みを積み重ねて雲の向こうに昇ろうとするようなものだとしてもかまわない。
「シェリダン様……」
 どうしてももう一度、あなたに逢いたい。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝の城の地下室には、黒髪の少年が囚われている。
「また来たんだね。仕事は?」
「今日の分はもう終わった」
「それは優秀なことで」
 求めに応じ、ハデスは扉を開く。彼に与えられた役目はただ一つ、ここでこの扉を、その中にあるものを守り続けること。
 魔術で鍵をかけていた扉を開き、やってきた相手を中に通す。ロゼウスは礼を言うでもなく、当然のように部屋の中へと入った。
 ハデスは外へと残される。
 彼の足には鎖が絡まっている。
 逃げる事は叶わない。ロゼウスの趣味が反映されたそれは酷く難解な魔術で組まれていて、しかも彼以外には外せないときている。ハデスはここで永遠に鎖に繋がれたまま、扉の内側にあるものを守り続けるしかないのだと。
 彼は世界をこの道へと導いた一つの歯車だった。ロゼウスがシェリダンを殺す予言を知りながら、そうなるように、自分に都合よく世界が進むように裏で手を回した。
 そのハデスを、ロゼウスは赦さない。彼の憎しみは己自身を超えて、この運命に関わった全ての者たちを憎んでいる。
 ハデスはそっと、自らの頬を撫でた。
 端正な顔立ちに目立つ青痣。ロゼウスに暴力を振るわれた痕だ。顔だけでなく、服で隠れた身体中に、見えない場所に幾つも残されている。痣だけではなく、切り傷も火傷の痕も。
彼を助けるために取引したプロセルピナのおかげで命だけは奪われなかったが、それ以外でハデスがロゼウスに逆らうことはできない。
 プロセルピナの行方は杳として知れない。まさか殺されたわけではないだろうが、暫く会う事はないだろう。
 この運命に関わった時点で先は決まっていたのだ。もはや世界に、ロゼウスに逆らえる者などいない。ハデスもローラたちと同じく死人返りの身とされて、もともと生きのびるために行動していたとはいえ、もはや死にたくても死ねない身体へとされている。
 それでもハデスは、己の処遇が他に比べればまだマシだということを知っていた。
 最後の最後でシェリダンを救おうとしたハデスとは違い、最初から最後までシェリダンと敵対していたもう一人の予言を知る選定者ジャスパーは、手足を斬りおとされ四角い箱の中だという。もちろん彼も皇族として不老不死を賜った身であり、そのぐらいでは死なない。出血に弱いというヴァンピルの特性すら皇族としての生の前には無意味だ。四肢切断と窒息の苦しみを味わいながら、愛しい兄の側にいることも叶わず狭い箱の中に閉じ込められている。
 わざわざロゼウスがそう教えた。そして彼の性格を考えれば、それは恐らく真実なのだろう。ロゼウスはハデス以上に、己の実の弟を赦さないでいる。ジャスパーに関してはもうしばらくはそのままだろう。
 ハデスへの処遇がジャスパーよりも甘いのは、彼がロゼウスの望みに一役買ったからだ。プロセルピナと協力してそれを成したために、毎日拷問されるほどの目には遭っていない。
 それでも。
「苦しいよ……」
 足下に絡まる鎖。逃げられない。
 この城だとかロゼウスの側からだとか、そういう意味ではない。この鎖は彼の罪の運命だ。シェリダンを殺したという。
 直接的に手を下したのはロゼウス。だが、その未来を知りながら曲げることをしなかったハデスもまた同罪だ。
 その罪をロゼウスに、こういった形で贖わされているだけ。
「逢いたいよ……」
 姉と関係を持つたびに痛みにも似た感情に振り回された夜を思い出す。ここ数年はそれでもハデスの精神は安定していた。嫌なことがあると出かけていった先のエヴェルシードで、彼が何を言う前からシェリダンがハデスの様子に気づいて嫌味ではなく気を遣ってくれるのだ。そんな安寧に浸っていた。
 けれど彼はもういない。
「シェリダン……」
 もういないのだ。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝の城の地下室には、皇帝の宝物がある。
 殺風景な薄暗い、薄明るい部屋の中央に、透明な硝子の柩がある。その中に、一人の少年が眠るように横たわっていた。
「シェリダン」
 部屋の中に一人足を踏み入れ、ロゼウスはその中を覗き込む。繊細な硝子細工の柩の中、敷き詰められた白い薔薇の中に眠る人がいる。
 横たわっているのは藍色の髪の少年。瞳は白い瞼の奥に隠されて見えない。
 それは確かにシェリダン=エヴェルシードだった。彼の魂の抜け殻――遺体だった。
 あの日、ドラクルとの決戦の際に崩壊した城の中からプロセルピナが、残ったシェリダンの身体のパーツをかき集め、持ってきた。ロゼウスが半分以上食い荒らし、もはやパーツだけとなってしまったその身体。プロセルピナの白い腕を汚す血がぼたぼたと、抱えた肉片から垂れていた。
 ローラたちを半狂乱に陥れたその無惨な人体の欠片たちを、繋ぎ合わせて復元したのがハデスの魔術だ。時間と空間に作用する魔術を使うハデスは、破損したシェリダンの身体を元通りに復元して見せた。ロゼウスが喰った部分も塞ぎ治して見せた。
 魂の戻ることのないそれは、しかし完全な姿を取り戻してからは穏やかに眠っているだけにも見えた。よくできた人形のように美しく、今にも目覚めるのではないかと思えた。
 そんなことはありえないのだけれど。
 土に還し墓を立てることはどうしてもできず、ロゼウスはその遺体を硝子の柩に納めさせた。まるで御伽噺のようだ。もっとも、眠るのはお姫様ではないけれど。
「シェリダン……」
 この結末は誰が望んだものなのだろう。まるでちぐはぐな御伽噺のようだ。硝子の柩に眠る美しい少年。けれど毒林檎を食べたのは彼ではなく、自分の方だとロゼウスは思う。
 知恵の木の実は林檎に似ているのだという。
 英知を手に入れて、他の全てを失った。
「ねぇ、起きてよ」
 硝子の柩に取り縋り、硝子越しにロゼウスはシェリダンに呼びかける。
 眠っているのではない。死んでいるのだ。呼びかけても応えるはずはない。わかっている。それでも、それでも。
「俺を一人にしないで……」
 人生とはなんて滑稽な物語なのだろう。
 自らが殺した相手に起きてと言えるとはとんだ面の皮の厚さだ。それでも祈った。
 こんな結末は望んではいない。
 そのためなら、生まれて来ない方が良かった。自らの知る喜びの全てを捨ててでも、彼に生きていてほしかった。
 今はもう変えられない過去となってしまったその瞬間。今ここに自分が生きているという事実こそが彼の死の証。
 だからその身体に墓はいらない。
 呪われたこの身が墓標となる。
 
 眠り姫は荊に囲まれて百年の眠りの末、王子によってその眠りから醒まされたという。だけど、その百年の間には何人もの旅人が荊の城を訪れてそのために果てた。ただそこに生まれただけ、何もしていないのに予言の中心に巻き込まれ、しかし自身は何も知らず何も努力せずあとは救われるだけ。
 罪深いのは誰だろう。

 硝子の柩に眠る少年は永遠の眠りの中で永遠の夢を見る。
 残された少年の耳に、今も呪いのように絡みついて鮮やかに蘇るたった一つの言葉を残しながら。
 ――愛している。
 硝子の柩に縋る少年の瞳、そのたびに涙を溢れさせながら。
「愛しているよ……誰よりも、永遠に」
 相手を殺しても自分のものにはならない。だが愛している者に殺されれば、相手は未来永劫自分を忘れられない。
 それは一つの永遠だ。
 愛している者に殺されることで、相手を手に入れるという。それは荊のように相手に絡みつく、呪われた永遠。
 そしてロゼウスはシェリダンに囚われる。

 ――これは貴方が見た夢。

 ◆◆◆◆◆

 腕が折れていても肩が砕けていなければ十分。意地でその手を動かすと、その華奢な身体を抱きしめるようにその背に回した。

「愛している、ロゼウス」

 ガツガツと組織を咀嚼する音が響く。流れる血と共に意識は失われてゆく。
 彼の一口ごとに、ごっそりと欠けていく自らの身体。生きながらにして愛する者に食い殺される。
 しかし最後までそのままであるはずがない。身体を全て食われるのと、彼が正気を取り戻すのと、自分が死ぬのとどれが早いのだろう。
 身体を支えていられなくなり、いまだ虚ろな瞳をしたままの彼も彼を抱きしめた形は面倒だと、その身体を床に引きずり倒す。
 にいと笑った彼の口元が舌なめずりする。本人の意志ではないとはいえ、あまりにも残酷なその笑顔。
 その顔をかつての彼の微笑みに重ねながら、視界が黒く濁っていく。限界が近い。

 最期に唇が動いて、何事か小さく囁いた。

「愛している」
 その命、その存在こそ我が光。

 だからこそ、この命を喰らい、鮮やかに咲き誇れば良い。その名に冠する薔薇の名の通り、棘を持ちてなお人を魅了して離さないように。

 私はお前の糧となる。
 だからお前は。

「我が荊の墓標となれ――」



 「荊の墓標」《完》