258

 我が荊の墓標となれ――。

 ◆◆◆◆◆

 さぁ、最後の戦いを始めよう。
「来たよ」
 ハデスの一声に広間中の全員が注目した。軽く仰のいて天井の向こうの空を見上げる彼の仕草を真似るようにその視線を追う。
 時刻は昼日中。ヴァンピルたちにとっては眠りの時間であり、その陽光は身を焼く。眩しいほどに城の外の光は白く、広間の窓からも豪奢なステンドグラスを透かして虹色の紋様が落ちた。けれど、高い天井の辺りはまだ影が落ちている。薄暗さと薄明るさの入り混じる灰色の城、狭間の地にて、因縁ある者たちは集う。
 床に淡い緑の魔法陣が敷かれ、そこを中心として突風が巻き起こった。空間を裂くようにその中から四つの人影が現れる。
「ドラクル!」
 ロゼウスの叫びに反応し、集団の中央に立っていた青年が顔を上げる。彼の両側を固めていたルースとアウグストも振り返る。アウグストは明らかに敵意を込めた眼差しで、ルースはいつもの得体の知れない微笑を浮かべて。
 一人魔法陣のある足下に屈んでいたプロセルピナは立ち上がると、彼らとはまた別の方向を見つめた。漆黒のドレスの裾がふわりと揺れ、自らと同じように漆黒を身に纏う者の方を向く。
「ハデス」
「姉さん」
 どちらの陣営もお互い見慣れた顔だ。今更自己紹介をする必要もない。挨拶も必要ない。
 ただ淡々と、目的だけを告げる。ドラクルの唇が動いた。
「決着をつけようか、ロゼウス。大人しく私のものになるか? それとも――」
「戦う」
 ドラクルとよく似た顔立ちを苦しげに歪め、しかしはっきりとロゼウスもそれに答えた。
 今の彼は、ローゼンティアでドラクルに虐待を受けてただ泣いているしかできなかった子どもではない。エヴェルシードでシェリダンの玩具として身を捧げていただけの者でもない。
 カッチリとした男装に身を包んだロゼウスはあまやかな面立ちを持ちながら、存外に凛々しい。
「ドラクル=ローゼンティア。俺は、あなたと戦う」
「……上等だ」
 その言葉を合図として、彼らは各々の得物に手をかけると広間の四方に散開した――。


259

 ロゼウスの目の前には当然の如くドラクルがいる。
「……兄様」
 決戦を覚悟しながらもやはり顔からは苦渋を消せず、ロゼウスは眉根を寄せたまま兄と、否、十七年間兄だと思っていた男と対峙する。
 心の中では今も、彼のことを自分の兄だと思っている。
 目の前にいる男は、記憶の中の兄より多少やつれたようだ。いや、ついこの前、ローゼンティアにいた時からそうだったのだろう。あの時はロゼウスも自分のことで精一杯でドラクルの様子を窺うゆとりなどなかったが、そういえば顎のラインが多少鋭くなった気がする。
 見事な白銀の髪もだいぶ艶をなくし、気だるげに頬を縁取っている。目元に隈まで見えるのは気のせいだろうか。顔色が悪く見えるのは、ヴァンピルの特徴の一つだ。
 それでも彼の顔立ち自体は、常と変わらず美しい。
 あまりにもロゼウスに、ローゼンティア先王ブラムスに、その弟ヴラディスラフ大公フリップに似すぎているその顔。例え世界一の醜男であろうと、その顔さえなければ彼の道はこんなにも歪むことはなかっただろうに。
「ロゼウス。お前はやはり私の言う事に従わないのか」
 体格に見合った大振りの剣を抜き放ち、ドラクルはその切っ先をロゼウスへと向ける。しかし問答無用で斬りかかってくる気はないらしく、敵意を向けながらも薄い笑みを浮かべて、ロゼウスを詰る。
 弟として教育するように命じられたロゼウスを言葉で責め苛むのは、これまでの彼の常套手段だった。
「お前が私の道を塞がなければ、私を破滅へと追いやらねば、こんな戦いはせずにすんだのにな。なぁ、『私の』可愛いロゼウス。今からでも遅くはない。投降しないか?」
 緩く微笑む目元にはゆらりと狂気の陽炎が覗いている。そんな兄の姿を真正面から眺めて、ロゼウスは首を横に振った。
 拒否の仕草にも関わらず、ドラクルはなおもロゼウスを懐柔しようと言葉を重ねる。
「お前は私のものだ。ずっとそうなるように育ててきた。私の言う事を何でも良く聞く可愛い『弟』。お前だって私のためならばなんでもできると言っていただろう」
「……うん」
 ロゼウスもその質問には頷かざるを得ない。
「うん、言ったよ、兄様。俺は兄様のためならなんでもするって」
 ロゼウスはいまだ剣に手をかけてはいない。素手のままドラクルと対峙している。彼の方も剣だけは構えたものの、まだ動く様子はない。
 自分よりも背の高い『兄』を自然体で見上げるロゼウスの顔つきは悲しげだ。
「俺はあなたの弟でありたかった。あなたに愛されたかった。どんなにあなたに酷いことをされても、あなたを嫌えなかった」
 ドラクルがロゼウスに対して振るったのはただ単純な暴力だけではない。心を矜持を粉々に砕くような屈辱的なことも、本人にしか痛みとわからないようなこともされた。
 ドラクル自身が養父ブラムス王から散々痛めつけられたとはいえ、それを何も知らないロゼウスにぶつけるのはお門違いだ。しかし彼はブラムスに受けた分だけの屈辱を、それ以上の苦しみをロゼウスに与えた。
 飴と鞭を使い分け、散々打ちつけて泣かせた末に殊更優しい言葉を囁いてロゼウスの心を揺らした。ぐらぐらと揺れるその隙間に自分への依存を育てさせ、ロゼウスがいいように自分の駒として生きるよう調教していた。
 ロゼウスはドラクルの目論見通り、彼がいなければ生きていけない精神的に脆弱な少年に育った。何かあればすぐにドラクルに助けを求める。助けてくれないとわかっている兄に、必死で手を伸ばして、救われずに打ちのめされてはまた縋るのを繰り返した。
 これまでは。
「あなたを愛してい《た》」
 ロゼウスの唇から零れた過去形にドラクルはぴくりと眉を歪める。
「兄様、あなたを愛していた。愛していたから、あなたに傷つけられても我慢できた。愛していたから、あなたに愛されたくてなんでもした」
 無茶な要求に身も心も切り刻まれて、それでも構わなかった。血を流す自分の心に蓋をして、涙の湖に溺れそうになっても気がつかずにいた。
 愛している。そんな言葉で誤魔化した。自分を。
 そしてドラクルを。
「ドラクル……俺はあなたを愛していたよ。愛していたと、そう思っていた。でも」
 今となってはもうわからない。
 シェリダンと出会ってしまった今では。
「ねぇ、兄様。一番はじまりのことを思い出したよ。俺がこれはできない、嫌だと言うたびにあなたは俺を殴った」
 愛している、愛している、愛している。
 実の兄へ向けるには禁じられた想いを、呪文のようにそれでも繰り返したのには理由があった。
「俺とあなたの関係の一番のはじまりは、俺はあなたにもうこれ以上殴られたくなくて、それであなたの言う事を聞いていたんだ。怖かったんだ、兄様のこと」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 腕力では到底敵わない一回り年上の兄に、暗い部屋に引きずり込まれ、服を剥かれて裸の身体に他の者に気づかれないよう乱暴されるのは酷く怖かった。
「あなたに殴られるのが怖くて、それで言う事を聞いたんだよ。動物が鞭打たれるのを嫌って人間の言う事を聞くようになるように。でも、それだけじゃ自分の心がもたないってわかっていたから、だからあなたへの服従心に愛情と言う名前をつけて誤魔化した」
 兄は自分を愛しているからこんなことをするのだ。そう思わなければ、脆い自分の心を守れなかった。何の理由もなく暴力を振るわれ、心と身体を引き裂かれることに精神が耐えられなかったのだ。
 そして、ドラクルから自分の望んだ形でその苦痛の対価が支払われることを望んだ。
 彼の、「兄」から当然「弟」に向ける愛情が欲しかった。
「あの時、ローゼンティアがエヴェルシードに侵略される前、あなたを殺して自分も死のうとしたのは、見返りが欲しかったから」
自らが払った分だけの感情に見返りを求めることを、真の愛と呼べるだろうか。
 ロゼウスの主観では、ドラクルを愛していた。今も、昔のように激しく歪んだ想いではないけれど……愛している。
 だがそれはただの偽りで、まやかしだ。
「ごめんなさい。好きだよ、ドラクル。でも俺は、本当の《本当》にはあなたを愛してはいなかった」
 相手に見返りを求める愛情なんて、本当の愛じゃない。そういう形の愛情の交感もあるところにはあるのだろうが、だがロゼウスとドラクルに関しては違うのだ。
「好きだよ、兄さん……好きだった」
本当の意味では愛してはいない。
「――だから?」
 ロゼウスの言葉を一言一言聞くたびに捩れていったドラクルの唇が言葉を紡ぐ。
「だから何だと言う。お前が私を愛しているかいないかなど、今更関係ない」
「兄様……」
「見返り? は! そんなもの、私だって最初から求めてやいやしない。私にとっては、お前はただ私に従順な人形でさえあればいいのだ!」
 言い様、ドラクルは剣を勢いよく振り下ろす。ロゼウスも彼の身の丈には似合わないなかなか頑丈な剣を握ってはいるのだが、ドラクルの大剣ほどではない。刃を抜いても受けとめきれないだろうと瞬時に判断して後方に引いた。
「笑わせるな、ロゼウス。私はお前を愛したことなどない」
「ドラクル」
「私にとって、お前はただただ目障りなだけだった。その目障りなお前を逆に効率よく使うために、手なずけようとしただけのこと、お前に言った言葉の全ては、本心などではない。お前の愛情など、私はいらない!」
 語調の激しさとは打って変わって、ドラクルの浮かべる表情は歪み、崩れている。
「私はそんなものなくても生きていける! お前さえここで死ねば!」
 いらないと叫んだ声が、まるで正反対の意味にロゼウスには聞こえた。
 ロゼウスがドラクルを「愛している」として自分を誤魔化し続けてきたように、ひょっとしてこの兄も自分の本心を否定の言葉で隠し続けてきたのではないか?
 いらない、いらないと血を吐くように強く叫びながら、それでもドラクルは、ブラムスからの父としての愛情、クローディアからの母としての愛情、そしてロゼウスからは、本当の弟として自然な愛情を欲していたのではないか?
 だがそのどれも、ドラクルの手には入らなかった。それもロゼウス以外に関しては、彼自身の責任ではないところで。
 望んでも永遠に手に入らないのであれば、壊してしまえばいいのだ。そんなものいらない。自分の世界には必要ないと叫んで。
 叫ぶ声で慟哭しそうな喉が引き攣れる前に、泣き言を握りつぶしていた。
「戯言は終わりだ、ロゼウス」
 ドラクルが再び剣を構えなおす。その大剣に関しては、ロゼウスは彼の部屋でも兵士の訓練場でも武器庫でもなく別の場所で見たことがある。ヴァンピル専用の処刑部屋。アンリを殺した武器と同じように、ドラクルが今持つそれは不死身の魔族の命をも破壊できるものだった。
 本当にこれが最後の戦いなのだ。どちらかが死ねば終わる。どちらかが死なねば、終わらない。
「大人しく私のものになる気がないのであれば、お前だってもういらない。だが、私以外の者に渡すのも癪だ」
 身勝手な台詞を冷めた瞳で吐いて、ドラクルは地を蹴る。
「お前は、お前だけは誰の手にも渡さない! ここで死ぬがいい! ロゼウス=ローゼンティア!!」

 ◆◆◆◆◆

 女性相手に二人がかりは卑怯、などと言っている場合でもない。
「くっ!」
「ちっ!」
 ハデスとシェリダンは同時に攻撃をかわされてそれぞれ舌打ちする。プロセルピナは一瞬間に反撃に転じ、自分たちの攻撃失敗を嘆く間もなくそれを防ぐので精一杯だ。
「ロゼウス王子のほうに行ってあげなくていいの? シェリダン王」
「生憎、奴に関しては私は心配していない。ロゼウスが負けるわけないからな」
「あらあら。じゃあハデスは信用ないということかしら」
「余計なお世話だよ! 姉さん!」
 プロセルピナのからかいに答える形で、ハデスは魔術の刃を放った。光の塊が鋭利な刃物となって宙を駆ける。もちろんプロセルピナにかわされてもその向こうに別の人間がいないのは計算済みだ。
 一つの広間、同じ空間を意識上で四つに区切り戦うのはそう得策でもない。こんな時にはとても不便だ。もっともハデスとプロセルピナが本気で魔術合戦をやりあう気であれば、二人だけ外に移動するなどの方法はあるのだろうが。
 シェリダンと組んでいるハデスの方はともかくとして、プロセルピナにも移動する気はないようだ。
「やはりあなたは私の前に立ちふさがるのね、ハデス」
 背に流れた黒髪を鬱陶しそうに片手で振り払い、プロセルピナが弟に視線を向ける。ハデスとシェリダンの二人を相手にしているとは感じさせない、見るからに余裕の仕草だ。
「何故今頃になって邪魔をするの、姉さん」
 対するハデスは、プロセルピナの一挙手一投足を見逃さぬように真剣な眼差しで彼女を睨んでいる。
「邪魔などしていないわ。私は最初から私の思惑のために動いているもの。何度も裏切り寝返りを繰り返して、自分の立ち位置をはっきりしないのはあなたも同じでしょう」
「姉さんこそ、ロゼウスに味方したりドラクルについたり大層忙しそうじゃないか」
 姉弟は皮肉の言い合いを続ける。今更になって素直な言葉を口にできるほど、もともと可愛げのある性格でもない。
「ハデス。悪い事は言わないわ。あなたはこの戦いから手を引きなさい」
「嫌だね!」
 ハデスが手を振り払うと同時に、光の鞭がその掌から飛び出すようにしてしなり、プロセルピナを狙う。身軽に後方にとびのいた彼女のそれまで立っていた大理石の床が砕かれた。見た目は鞭のようでも、魔力で作り出されたそれの威力は地上に存在する物質での攻撃とは比べ物にならない。
 空振りに終わった弟の攻撃の痕を見下ろし、プロセルピナは冷ややかに尋ねる。
「――勝てると思うの? この私に」
「そんなもの、やってみなければわからない」
 しかし答えたのはハデスではなく、いつの間にかプロセルピナの背後に迫っていたシェリダンだ。
「っ!」
 伊達に長い付き合いではなく、ハデスとシェリダンは魔術と剣と言う手段の違いにも関わらず攻撃の連携がとれている。ハデスの魔術を囮に接近したシェリダンが、プロセルピナの背中を狙う。
 卑怯などとは言っていられない。
「それでも、か……!」
 背後からの一撃に機敏に反応して逃げたプロセルピナの髪の一房が宙に舞う。だがそれだけだった。傷一筋もつけることなく避けられて、シェリダンはもう一度舌打ちする。
「やるわね。エヴェルシード王。この私に気配を悟らせないなんて」
「そちらこそ、私の攻撃を避けるなんてな。さすが元皇帝と言ったところか」
 強がりを言ってはいるが、実際彼らの分は悪い。ハデスの魔術もシェリダンの剣術も人並以上だが、それでもプロセルピナ一人に翻弄されている。
 かつて皇帝として地上に君臨したというのは、それだけの力があるということだ。むしろプロセルピナの今の身体は本来の彼女自身の力に加え、ハデスの魔力をも組み合わせて作られた人形だ。一瞬の油断が命取りとなり、いつ足下をすくわれるかわからない。
「そう、そんなに死期を早めたいの? 二人とも」
「その挑発は無駄だよ、姉さん」
「私の死期など、あなた自身が予言したものだろう。それにあなたは、私を殺す事はできても、ハデスのことは殺せないだろう」
 ちらりと傍らの友人を一瞥してのシェリダンの言葉に、プロセルピナがすっと瞳を細める。
「随分と生意気ね」
「生憎、持って生まれた性分なので。変えることはできないな!」
 軽口を叩く間にも剣の柄を握りなおし、シェリダンは再びプロセルピナに斬りかかる。魔術での攻撃は至近距離であっては効果をなさない。威力が大きければ大きいほど、術を放った本人にもその影響が返ってくるからだ。
 そしてシェリダンの連撃はプロセルピナにその隙間を縫って新たな術を紡ぎ出す時間を与えないものだった。常人は目で追うのも辛いほどに次々と繰り出される切っ先。
 忌々しげな顔でプロセルピナはシェリダンの剣先を避ける。一度かわしたと思えば次はその遠心力を利用して別の角度から攻撃が来る。身の軽さもシェリダンは自信がある。プロセルピナはそれを避けるので精一杯だ。
「シェリダン!」
 適度なところで機を狙ってハデスが魔術での攻撃を放つ。合図に従って後方に飛びのいたシェリダンが巻き添えを食わないような位置で。
 放たれた爆発物の役目を持つ光球、プロセルピナはそれを魔術で作った盾によって受けとめる。
「……今のはちょっと自信あったんだけどな」
 閃光と煙は晴れていく。弱気な顔こそしないものの、ハデスが引きつり笑いを浮かべながら、魔力で全ての爆発を防御して全くの無傷であるプロセルピナを眺めた。二人がかりでもっていまだに彼女に与えられた傷は、シェリダンが斬りおとした黒髪の一房だけだ。
「甘いのよ、二人とも」
 すでに十二分に力を出し切っている二人に対し、プロセルピナは容赦なくそれ以上の力で反撃を加える。
「ぐっ!」
「うわぁあ!」
 広間の逆方向まで蹴り飛ばされ、シェリダンは壁に激突した。ハデスにはその身に絡むような炎の蛇が放たれた。水の防御壁を用意するまでに皮膚のそこかしこが火傷を負う。
「私に勝ちたいのなら、殺す気で来なさい。遠慮しなくていいわよ――私もしないから」
 すでにやっている、と言いたいところだが、プロセルピナには彼らの戦い方などお粗末な、はかない抵抗としかとられないのだろう。あっさりと二人を振り払うと、ヒールの音を床に響かせながら歩き出す。
 目指す先にいるのはシェリダンだ。壁に激突した彼はよろよろとその身を起こす。剣を杖代わりに立ち、痛む身体に鞭打ってもう一度立ち上がった。一度立ち上がればもうそこで先程までの負傷の様子など欠片も見せない。
 どんなに力でねじ伏せても、その瞳はきっと力を失わないのだろう。
「気に入らないわね」
 足を止めたプロセルピナの手に、黒い闇を凝らせたような剣が出現する。
「あなたはどうして怯えないの? もうすぐ死ぬというのに」
 剣士であるシェリダンに対して、プロセルピナもまた剣によって相手をしようというのか。構えを直しながら、シェリダンは彼女を睨みつける。
「死ぬよりも、もっと怖いことがあるからな。私は臆病だから、それが何よりも怖いから……そのくらいなら、ここであなたと戦って朽ち果てる方がマシだ!」
 気合一閃、シェリダンは駆け出し剣を振るう。正統な剣技――と見せかけて、彼は反則技に出た。鋭利な切っ先ではなく伸びてきた生身の腕にプロセルピナは一瞬反応が遅れて、長い髪を掴まれる、無理矢理地面に叩きつけられようとするところで、自らの闇色の剣を振るってシェリダンを引き離した。
「女の命になんてことをしてくれるのよ」
「戦場では男も女もない。そんな鬱陶しい髪型をしている方が悪い」
「言ってくれるわね」
 戦いや決闘というよりは喧嘩の調子、なりふり構わずにシェリダンはプロセルピナに向かっていく。彼女は皇帝ではあったが、その身体は普通の人間と同じ。ロゼウスやドラクルのように不死身で頑強なヴァンピルの肉体ではないのだ。そこに付け入る隙があるはず。
「はあああああ!」
 力で当たれば押し負けることはない。ぎりぎりと刀身を削る鍔迫り合いの末、プロセルピナの手から得物を弾き飛ばす。
「っ!」
「いまだハデス!」
 シェリダンが時間を稼いでいる間に、ハデスはその両手にとっておきの術を練り上げていた。その攻撃範囲から飛びのきながら、シェリダンが叫ぶ。
「あなたはここで果てろ!」
 同時にハデスの手から最大の攻撃呪文が放たれた。直撃した魔力が、プロセルピナもろともその背後の壁を吹き飛ばす――。


260

 破壊音が響いた。
「まぁ、大変ね」
 おっとりと、あらゆる意味で場の剣呑さにそぐわない口調でルースが言った。
 広間の壁の一部を爆破したのは、どうやらハデスの魔術のようだ。あそこは確かシェリダンとハデスとでプロセルピナ相手に共闘していたはず――。ちらりと脳裏を不安が掠めるが、ロザリーはロザリーで目の前の自分の敵に集中する。
 敵であるルース、自らの姉は相変わらず底の知れない笑みを浮かべている。
「気にすることないわよ、ロザリー。死んではいないわ。……三人とも」
 ロザリーでも冷やりとするような、あれだけの攻撃を受けてプロセルピナはまだ立っている。ハデスとシェリダンの二人は大分焦っている様子だ。
「私たちは私たちの方で始めましょうか」
 ロザリー自身は、実を言うとしばらくそこでルースと睨み合ったまま動けていなかった。戦う前から誰がどの相手を担当するかはある程度決まっていたものの、実際こうして相対してみると、ルースからは常に得体の知れない空気が漂っていて手を出しにくい。
 ここがステンドグラスから色鮮やかな光の差し込む広間であることを考えれば、その穏やかな聖女のような微笑は正しい。しかし血で血を洗う戦場と考えれば、どう考えてもその笑顔は不釣合いだ。
 ルース=ノスフェル=ローゼンティア。第二王女である彼女と第四王女であるロザリーとの付き合いはそれほど深くはない。ロゼウスの同母の姉、と言う理由で何かにつけ姿を見る機会が多かったくらいだ。そしてルースはいつもこんな風に貼りついたような微笑を浮かべているばかりだった。繊細と呼ばれるくせに妙なところ大胆で、気弱なメアリーなどと違って決して物怖じしない王女。彼女が何かに怯える様など、少なくともロザリーは見た事がない。
 彼女は常に、兄ドラクルの側に控えていた。影のように彼の傍らに佇み、妹ではなく小間使いのような甲斐甲斐しさで兄の世話を焼いていた。ロゼウスとはそれほど似ていないが、クローディア妃の美貌を受け継いで可憐な面差しに大輪の白い花のような微笑を浮かべて佇む王女。その器量にも関わらず、婚約者などは一人もいなかった。
 ロザリーにとっては……いや、他の兄妹の目から見ても彼女が常に何を考えて生きているのかは読めないだろう。似たような空気はジャスパーにもあるが、自覚せず己の特質に振り回されている弟王子に比べて、ルースは己の感情を全て制御している。
 彼女が何を考えているのかわかるのは、彼女自身だけだ。常に側にいるドラクルでさえもきっと妹姫の本当の思惑を理解してはいないのだろう。ロザリーにはそんな気がしてならない。
「何を考えているのよ、ルース!」
 地を蹴りロザリーは駆け出した。彼女の得手は素手、武器など必要としない。
「お姉様を呼び捨てとはいただけないわ、ロザリー」
そして軽々と彼女の光景を受けとめるルースもまた、武器など何一つ持っていない。見た目は美しい細腕の女同士の戦い、しかしその実、二人のやりとりは歴戦の武闘家でも息を呑むほどに高度な戦いだった。
「あんたって昔から、何を考えているのかわからないのよ!」
「まぁ、それは誤解だわ、ロザリー」
 回し蹴りを簡単にかわしながら、ルースはドレスの裾を鮮やかに翻して体勢を整える。そう、ロザリーは動きやすい男装に身を包んでいるが、ルースの方はこの場でもドレス姿だった。さすがにこれまで王城で過ごしていたようなひらひらとした布の多いタイプではないが、これもまた戦場には不似合いにかわりない。
 もっとも、エヴェルシードのエルジェーベト=バートリ公爵のようにドレス姿でも人並以上に鮮やかに戦う人間はいるので、油断はならない。
 波打つ裾を揺らして、天窓の白い光とステンドグラスの七色の光が両方降り注ぐ場所へと降り立つ。戦いの場で彼女一人が、ステップを踏んで優雅に踊ってでもいるようだ。
「何を考えているのかわからないのは、私だけではなくてよ。ひとは皆、自分以外の者の考えていることなどわからないものよ」
「でも、わかりあうために努力することはできるわ! 相手の気持ちがわからなければ、面と向かって聞くこともできる! 誰かに自分の気持ちを知ってほしければ、言葉で伝えることだってできるわ! なのにあんたの口からは一度もそれを聞いたことがない!」
 だからロザリーにはルースが一体今まで何を考えて生きていたのか、さっぱりわからない。
 例えばルースは今この瞬間だとて、ドラクルの味方として戦うことを選んでいる。けれど、これまでの言動を見る限りアウグストのように完全にドラクルの味方、彼の配下として働いているようには見えないのだ。彼女には彼女の思惑がある。常にそう感じさせる女、ルースはそういう女だ。
「それもまた思い込みだわ、ロザリー」
 妹の言葉に姉は律儀に答え、言葉を続ける。
「人には言葉にできない想いなどいくらでもあるものよ。どんなに自分の中で確かであっても、決して表に出すことの許されない心が……あなただってそうでしょう」
 言って、ルースはちらりと視線を戦場の逆端に向ける。そこではハデスとシェリダンがプロセルピナ相手に共闘している。藍色の髪の少年の背をその視線は追っていた。
 ロザリーが瞬間的にカッと頬を染める。ルースは彼女の気持ちに気づいているのだ。ろくに側にいたこともないくせに、どうして。
「私、そういうことには鋭い方なの」
「あのねぇ!」
 戦いの緊張感を削ぐようなほんのりとしたルースの笑みにロザリーは激昂しかけた。今一瞬だけはこれが最後の戦いだということも忘れてルースに掴みかかりたい衝動に駆られる。
 けれど次に彼女の唇から出てきた台詞に、ロザリーは一瞬言葉を失った。
「こんな風に鋭いから、私は見なくてもいいものも沢山見る羽目になったわ」
「え?」
「母親の不実も、他のお妃のそれも、望んで見ようと思ったわけではないわ」
 静かに目を伏せるルースの瞳に、痛ましいような色が走る。それが彼女自身に向けられた自己憐憫ではなく、他の誰かを憐れんでいるものだとロザリーは気づいた。
「まさか……」
 ドラクルが真実を知ったのは、元はと言えばルースの言葉が発端だった。
彼が、彼女が何も知らなければ、今こんな事態にはなっていなかったのだろうか。
 ルースの眼は、先祖返りの巫女の眼。予言の巫女と呼ばれたサライ=ローゼンティアの能力を受け継いだ。始皇帝シェスラート=エヴェルシードを補佐した預言者として名高いサライは見たくない未来が見えることに苦しんでいたという。
「でも! だからってこの状況から責任逃れすることはできないわよ!」
 ルースは確かに、運命をこの状況へと押し進めた世界の歯車の一つなのだ。
「ええ。もちろん。責任逃れも何も、私は自分の行動を反省する気ないもの」
「ちょっと!」
「だって私には、欲しいものがあるのよ、ロザリー。私はあなたと違って、一番欲しいものを諦められるほどお行儀よくなんてないの。欲しいものを手に入れるためには手段を選びはしないわ。その過程で誰を傷つけ悲しませてもかまわない」
「そのせいで、アンリやミカエラたちが死んでも!?」
「ええ」
 はっきりと言い切ったルースの声音は、その暖かな微笑とは裏腹に酷く冷えている。
「かまわないわ」
「あんた……!」
 ぎり、とロザリーは唇を噛み締める。炎のような憎悪の視線を姉に向けて、新しく構えなおす。
「もう許さない。ルース=ローゼンティア、あんたにはここで死んでもらうわ!」
 ルースは微笑む。
「そんな風に顔を歪めるのは良くないわ。ロザリー。女はいつでも美しくあるべきよ。それが好きな殿方の前でなら、尚更ね」
「黙りなさい!」
 挑発に乗るような形で、しかし頭の中は冷静にロザリーはルースへの攻撃を仕掛ける。一気に詰めた距離、急所を狙った打撃、しかしみすみすもらうほどルースも甘くはない。
「ここからが本番と言うわけね」
 これまでロザリーの攻撃をかわし続けたルースは、さらりと言ってのける。息切れ一つ彼女はしていない。
 パワー型のロザリーとスピード型のルース。戦いの相性は、どちらに良いとも言えないものだ。しかしとりあえず、ロザリーの攻撃は当たらなければ意味がない。
 上品さなどかなぐり捨てて、ロザリーは盛大に舌打ちする。
「何を考えているのか知らないけど、あんたの思い通りになんかさせないから!」
 威勢よく吐いたロザリーの言葉を、柳のように受け流してルースは笑う。
「それは無理よ、ロザリー。運命は結局、私の願いどおりに進むのだから」

 ◆◆◆◆◆

 長さの際限を感じさせないワイヤーが二方向から同時に飛んでくる。
 それを避けて飛び退さった先、細剣が急所を狙って素早く突き出される。かわせば今度はナイフが四本。得物の違いによる縦横無尽の攻撃をアウグストは全て紙一重でかわしていく。
「ちっ!」
「僕らがここまでやっても倒れないなんて」
「二人とも、気を抜くな!」
 ナイフとワイヤーを次々とかわされて苦々しい表情をする双子に、リチャードが叱咤の声を飛ばす。相手は三人がかりでも隙をつけないほどの腕前だ。エヴェルシードがローゼンティアを侵略した際は、どこにこんな人材を隠していたのかと勘ぐってしまうほど。
「雑魚が三人と思っていたが……」
一方アウグストはアウグストで焦燥を感じていた。
彼の役目は、主君であるドラクルの目的を妨げるものを排除すること。ルースも同じだ。そして彼女はローゼンティアでも抜群の身体能力を持つと有名なロザリー相手に奮戦している。ドラクルはもちろんロゼウスと一対一で対峙し、プロセルピナは弟であるハデスと、シェリダン王の二人を相手にしている。なれば残りの敵は全て自分の分担、それでもロゼウスやロザリー、ハデスと言った実力者を相手にするわけではないのだから楽な仕事だと思っていたのだが……
「お命頂戴いたします!」
「誰が!」
 シルヴァーニの双子は同じ顔で同じ服装、同じ得物を繰り出すことによってこちらの視覚を惑わす。そこに絶妙のタイミングでエヴェルシード人の青年が斬りかかって来るのだ。この青年の腕もなかなかのもので、決して片手間で通じるような相手ではない。
 さっさとこちらを片付けてドラクルの加勢をするという目論見も水泡に帰す。アウグストはたかが普通の人間三人相手に苦戦する自分に愕然とする。
 リチャードの剣は斬るより刺すのに適したレイピア。その得物の選択も、身体能力で勝るヴァンピル相手には賢い戦法と言えた。攻撃力が比べ物にならない以上、下手な鎧で身を覆い、動きの早さ正確さを失うのは得策ではない。それよりは相手の攻撃を食らわずに、地道にダメージを与えていくしかないという考えだ。普通の剣で一撃も当てられないよりは、レイピアで急所を狙う。
 しかし途中までは功を奏していた戦法も、中盤に来て三人の攻撃の連携のリズムを読み取ったアウグストの前に破れる。
「そのような浅はかな目論見が、私に通用するか!」
「ぐぁ!」
 ローラのナイフとエチエンヌのワイヤーをそれぞれ弾き飛ばし、返す威力で体勢を変えたアウグストは間近に迫っていたリチャードを逆に剣で叩き飛ばした。
「リチャード!」
「リチャードさん!」
 僅かに音の違う二つの声が重なり、吹き飛ばされたリチャードを視線で追う。間一髪レイピアを盾にして斬撃の直撃を免れたリチャードは、しかし背後の壁に罅が入るほど強く全身を叩きつけられて、動けない。
「さぁ、これで一人減った。あとは貴様ら二人だけ」
 アウグストがにやりと口の端を吊り上げて笑う。それは自らの勝利を確信し、敗者を甚振る権利を得た者の残酷なる笑みだ。
「くっ!」
 リチャードを失い、ローラとエチエンヌの表情には焦りが浮ぶ。こめかみに汗が伝い、口元をこれまで以上に厳しく引き結ぶ。
 形勢は逆転した。
 かに見えた。

「――待っていました。あなたが油断するこの時を。アウグスト=カルデール卿……」

 アウグストは自らの心臓に灼熱を感じる。痛みは後からやってきた。
「な……に……」
 アウグストの左胸からリチャードのものとは違うレイピアがその切っ先を生やしている。
 リチャードが倒され、アウグストがこれまで三方向に絶えず配っていた気が勝利の確信によってそらされるこの一瞬、それを狙って、これまで死角に身を潜めていたジャスパーが攻撃を仕掛けたのだ。
「ジャスパー王子!」
 ローラとエチエンヌが驚きの声をあげる。
ジャスパーがゆっくりと剣を引き抜くと同時に、胸から大量の血を流したアウグストは崩れ落ちる。
「わ……我が君……!」
 まだ灰にはならない。だが、確実に心臓を貫かれて生命活動は一度停止する。返り血を浴びたジャスパーは、恐ろしいほどに無表情だ。
「アウグスト!」
「カルデール公爵……!」
 ドラクルとルースが叫んだ。

 ◆◆◆◆◆

 三対一に見せかけて、実は四対一の戦いだったわけだ。アウグストに対してはローラ、エチエンヌ、リチャードだけでなく、影で戦況を見ていたジャスパーが含まれていた。
 気づかなかったのはアウグストの落ち度ではなく、ジャスパーは魔力によって己自身の存在感を隠す術をかけていたのだ。もともと率先して皆を率いて戦いに出る人物ではないジャスパーの、戦場における存在感は薄い。ロゼウスたちでさえそうなのだから他の者たちはよほど意識しなければ本気で雲隠れしたジャスパーを見つけることは叶わない。
 そして普通であれば味方が一人しっかりと倒されてから出てくるなどという行動はとらない。リチャードを叩きのめしたアウグストが油断するのも当然だ。
 しかしその、多少ならず冷徹なジャスパーの戦法によって一時的に場がロゼウスたちに有利になったのも事実だ。
 リチャードが倒され、アウグストが勝利を確信した瞬間の隙をジャスパーはついた。躊躇いなく心臓を貫いた刃により、アウグストは絶命した。カラン、とその手からは鉄の剣が滑り落ち、白い大理石の床をじわじわと赤黒い血だまりが汚していく。
 だが、その身体はまだ灰になってはいない。
 ヴァンピルの死に様は普通の人間とは違う。魔力で作られたその身は死ねば灰となり、跡形もなく消えてなくなる。
「アウグスト!」
 ロゼウスと戦っていたドラクルが彼の気配の消失に気づき、振り返る。そこでロゼウスがドラクルの隙をつければまた別なのだが、ロゼウスもまた呆気なくけりのついた第一の勝負に驚いて動きを止めてしまっている。
「カルデール公爵……!」
 ロザリーを相手にしていたルースも、そちらへと意識を集中した。卑怯と言う言葉の思いつかないロザリーもロゼウス同様に動きを止めてしまっているので、二つの戦闘が止まる。戦い続けているのはプロセルピナとハデス、シェリダンの組だけだ。
 倒れ付したアウグストの傍らに、返り血で白い頬を染めたジャスパーが立つ。レイピアの切っ先を床に向け、いつでもトドメをさせる様子だ。
 眼差しに激しい敵意と力が篭もり、レイピアを構えなおす。
「やめろ!」
 その刃が青年の脳天を貫く前に、ドラクルが口を挟んだ。
「……やめたら、手を引きますか?」
 同じ兄でもロゼウスに向けるのとは全く違う冷たい眼でもって、ジャスパーはドラクルを睨む。その様は十四歳の少年らしくはなく、ただただ底冷えするような戦略家の恐ろしさがあるだけだ。
「カルデール公爵を助けたくば、この戦いから手を引いてください、ドラクル兄上」
 ここで決まれば、この戦いは呆気なく決着がつく。ドラクルたちを引かせて、ロゼウスたちは何事もなかったように日常へ帰ることができるのだ。忌まわしい予言の成就する前に。
 プロセルピナたちはまだ戦っている。元皇帝である彼女を相手にするハデスとシェリダンは怪我こそ負っていないものの、敵であるプロセルピナが強すぎる。一瞬たりとて気は抜けない。
 それでも、彼らが彼女との戦いを続けている以上、まだここで予言が成就することはなさそうだ。
「どうするんですか? 兄上」
 光を跳ね返す白刃を殊更強調し、ジャスパーはドラクルに向けて再び尋ねた。ここで決まれば、彼らの前途にもはや何の憂いもない。ドラクルたちに悪いようにする気もさしてない。ロゼウスたちは降りかかってきた火の粉を払っているだけで、もともとドラクルたちをどうこうしようという気はないのだから。
 アウグストはドラクルの部下であり、血縁ではない。だが腹心の部下として長年彼に仕え続けてきたアウグストは間違いなくドラクルとしては身内に括れる存在であり、普通ならば一笑にふされる取引も勝算はあるとジャスパーは考える。
 アウグストはドラクルの全ての目的を知り、彼が本当の王子ではないと知ってでも彼についてくるほどの部下だ。そんな相手がドラクルにとって大切でないわけはない。冷静にそう計算した。
「悪くない取引でしょう、このまま――」
「後ろです! ジャスパー王子!」
 ジャスパーが向かい合っていたのはドラクル。しかしそこに、ルースから短刀の援護が入った。背後から迫る刃をジャスパーはレイピアで叩き落すが、幾つかは流しきれず手の甲の肉を削いでいく。
ジャスパーが痛みに顔をしかめるその一瞬の隙があれば十分だった。弾き飛ばされた部屋の反対側から一連の光景を見ていたリチャードも、ジャスパーにそう助言するので精一杯だ。
「カルデール公爵!」
 ナイフを投げたと同時にルースが走っている。
「待ちなさい!」
止めようとしたロザリーには、プロセルピナの足止めの魔術が放たれた。
「邪魔はさせないわ!」
「きゃあ!」
 ルースへの援護に気を回した分できたプロセルピナの隙をシェリダンとハデスは狙うが、やはりプロセルピナにはこんなものでは通じない。隙を狙ったつもりが焦るあまりに未熟な一撃を跳ね返され、シェリダンとハデスが吹き飛ぶ。
「がっ!」
「うっ!」
 強かに床に叩きつけられた二人は暫く動けない。腕力や身体能力はあるが魔術の扱いに長けているわけではないロザリーも、元皇帝の放った術相手に苦戦している。
 一部始終を眺めていたロゼウスもロザリーやシェリダンの危機に思わず飛び出そうとするが、それはドラクルの一撃によって阻まれた。みすみす攻撃を食らうような真似はしないが、他の者たちのもとへ駆けつけるほどの余力はない。
「お前の相手は、私だ」
「ドラクル……」
 ぎりぎりと刀身を削る鍔迫り合いにて、そう宣言される。大振りの得物で神速の剣技に、ロゼウスは手を抜くわけにはいかなくなる。
 ローラとエチエンヌへもプロセルピナの手は回っていた。捕縛の魔術を何とかかいくぐったものの、その頃には駆けつけたルースが目的を終えてしまっている。見た目には恋しい男の死体に口づけているようにしか見えない光景。しかしそれはヴァンピルたちにとっては己の魔力を生命力を失った相手に注ぎ込むという復活の儀式なのだ。
 短刀の掠った手の甲から血を流すジャスパーを睨み、血だまりに横たわっていたはずのその人影は立ち上がる。
「……私はあなたを過小評価していたようだ……ジャスパー王子」
ルースによって蘇生の術を施されたアウグストが復活する。傷は塞がり、服の胸の辺りが裂けて中の生地を覗かせている以外、先程までと何も変わったところはない。
「よくもやってくれましたね」
 舌打ちしそうな顔つきで、ジャスパーも彼を睨み返す。傷ついた手の甲をスカーフで簡単に縛ると、レイピアを握りなおす。
「カルデール公爵、これからは私と」
「ええ。ルース殿下」
 アウグストとルースはお互い一人きりでは不利だと判断し、手を組むようになる。
「ロザリー!」
「わかったわよ!」
 ルースの相手をしていたロザリーもプロセルピナの魔術攻撃をようやくかわし、エチエンヌたちに合流する。復活したシェリダンとハデスがプロセルピナからロザリーへのそれ以上の攻撃を防いでいた。猛攻を仕掛ければ体力の消耗は早いが、プロセルピナの意識を彼らに集中させておける。
 彼らの方には距離的にリチャードが近い。傷を自ら応急処置した彼はシェリダンたちの陣営に合流する。
 戦いの局面は激しくなるばかりだ。
「第二回戦といきましょうか」
 蘇生の術はヴァンピルにとっても大事なのだが、ただ一つそれを苦に思わない家系がある。それがロゼウスとルースの実母クローディアの生家、ノスフェル家。
 ひと一人生き返らせたとは思えぬ涼しげな顔で、ルースは淡々とそう告げた。


261

「もうやめようよ! 兄様!」
 先程は戦うと告げたが、今またやはり、迷いがロゼウスの胸の内に渦巻いている。
「今更くだらん戯言を言うな!」
 ドラクルはロゼウスの言う事にまったく聞き耳もたない。一度はアウグストの負傷により失いかけた冷静さを取り戻しているが、それもまた戦いの興奮という形でやがては飲み込まれていく。
 形勢は入れ替わり続け、今ではもうどちらが有利であるのかもわからない。戦っている相手にも、場所にもよる。ロゼウスとドラクルはお互い全力を出し切り、その一撃一撃の応酬こそ目まぐるしく目にも留まらぬ速さだが、実力自体は拮抗していてどちらが抜きん出ているということもない。二人とも誰よりも激しく動き回りながら、息一つ切らしていないのだ。
 ドラクルが大剣を振りかぶれば、ロゼウスがそれを受ける。刀身の削りあいになるかと思った瞬間ロゼウスはそれを外して一転、攻勢に出る。脇腹を狙った一撃をドラクルは剣を盾にして防ぎ、そこでまた僅かに空いた場所をロゼウスが今度は突くようにして狙う。ドラクルはかわす。
「どうした! ロゼウス、お前は皇帝になるのだろう!? まさか世界を支配せしめる皇帝の力量が、この程度だとは言わぬだろうな!」
「……っ!」
 ドラクルの連撃によって一度弾き飛ばされたロゼウスは、床に焦げ目が着きそうなほど音を立てて滑りながら着地する。無様に壁際まで薙ぎ払われ激突することこそなかったが、一度相手のいいように距離を取らされたという事実が痛い。
「本気を出せ!」
 半ば自棄のような真剣さで、ドラクルは弟相手に叫ぶ。これまでも国で兄弟「ごっこ」を続けていた間は何度も手合わせしてきたが、果たして自分たちの間に、どれほど真剣な戦いがあったというのだろうか。
 本気で、殺す気でやればいいのだ。
 愛しさも憎しみも全て全て込めて、もうどちらかがどちらかを追いかけ続けるこの道を塞いでしまえばいい。昔はロゼウスがドラクルを、今はドラクルがロゼウスを、追い続けるのにも追われるのにも、疲れたのだ。
「……ドラクル!」
 人間の目からして見れば両者とも超高度な剣技を持っているのだが、それでもヴァンピルの戦いに詳しい者が見れば違いは一目瞭然かもしれない。
 はじめは互角に見えていたドラクルとロゼウスだが、時が経つにつれてその差が明らかになってくる。
「このっ!」
 ドラクルが仕掛けた攻撃を、ロゼウスは剣で受け止める。ロゼウスが仕掛けた攻撃も同じようにドラクルは受け止めるのだが、この「同じように」というところが問題であった。
 ドラクルとロゼウスであれば、ドラクルの方が体格がいい。それに伴って、本来であればドラクルの方が腕力が上であらねばならない。
 だがロゼウスはドラクルの攻撃を、ドラクルが彼の攻撃を受け止めるのと同じように受けとめることができるのだ。それはつまりドラクルの攻撃がさほどしかロゼウスに効いていないということ。ドラクルがロゼウスに勝るはずの僅かな強みが薄れていく。
 鍔迫り合いの末に拮抗していた力を、ついにロゼウスが跳ね返した。
 得物を弾き飛ばされることこそなかったがドラクルは後退を余儀なくされ、体勢が崩れる前に自ら背後へと飛び退く。剣を構えなおしたロゼウスが叫んだ。
「もう諦めろ! ドラクル=ローゼンティア!」
 段々と荒くなってきた呼吸を整えつつ、ドラクルがぎり、と唇を噛み締める。苛立ちは薄い皮膚を食い破り、紅い血がつうと伝った。
 その鉄錆を舐め、己の気持ちを何とか落ちつけようとする。血は狂気、血は麻薬。だが自分の血では狂えない。
 ヴァンピルが狂うのは、他者の甘い血を口にした時だけ――。
 まだ呼吸を乱すことのないロゼウスに、劣勢が目に見える形で明らかになりつつある戦況を見て取ってドラクルはますます瞳に剣呑な光を宿す。そんな彼の様子を知ってか知らずかロゼウスはひたむきな眼差しでかつての「兄」へと呼びかけた。
「もうやめようよ! 兄様!」
 叫ぶ方も叫ばれた方も悲痛な顔をしている。何故、こんな戦いを続けなければならないのか。
「あなただってさっき見たはずだ。この戦いでも、ひとは死ぬ! 大事な部下を殺してまで、あなたは何を得る気だ!」
 生きていなければ意味がない。生きていなければ。
 ロゼウスの心にあるのはいつもそれだけだ。できれば側に、一生ずっと一緒にいたい相手でも、それが叶わないのならばただ生きていてくれるだけでいい。そう考えているから、あの時だって国で生き残った民を救うために簡単にシェリダンに身を差し出すことができた。
 優しかった乳母も年上の婚約者もアンリもミザリーもミカエラもウィルもみんなみんな死んでしまった。死んでしまった者は、還っては来ないのだ。
 失って失って失って、代わりに何を得るというのだろう。
「俺はもう誰かを失うのは沢山だ! あなただってそうだろう! 本当は殺したくなんてないはずだ!」
 ロゼウスは知っている。
 ドラクルはすぐ下の弟であるアンリを愛していた。彼を手にかけた時はきっと、とても平静ではいられなかったはずだ。
 アンリだけではない、死んだと聞かされたアンのこともヘンリーのことも、本当は養父であるブラムス王のことだって愛していたのだ。けれどもう彼らを冥府から取り戻すことはできない。
 ドラクルだとてきっと、これ以上親しい相手を失うことを好まないはず。
 ならば、何故こんな風に今も戦わなければならないのか。
「どんな望みがあったって、生きていなければ意味がない!」 
 言葉を口にしたその瞬間、ロゼウスはずっと、その台詞の意味は絶対なのだと信じていた。それ以上の真実はないのだと。
 だが、ドラクルはそんなロゼウスを、蔑む価値もないと嘲り嗤う。
「馬鹿者が」
 荒げた呼吸、頬には一筋の傷ができ、服の裾も破れている。これまでの戦いの間にできた傷で惨めな姿となりながらも、ロゼウスを嘲笑うドラクルの暗い確信に満ちた表情は昔と変わらない。
「だから私はお前が嫌いなんだよ、ロゼウス。お前が憎い」
「兄様……」
「ふざけるな。失う、だと? それはお前が、最初から持てる者だからだ。何かを持っているからそれを失うのを怖がっているだけだ。ローゼンティア王家の血も、名誉も、両親の愛情まで、お前は全てを持っていた! その上、次代皇帝となるべき才能まで!」
 燃えるような憎悪を瞳に滾らせ、ドラクルはかつての「弟」を睨み据える。
「私は何一つ持っていない! 生まれたとき、この命以外は何も持っていなかった!」
 これまでロゼウスに、幾度となく暴力の形で与えてきた激しい苛立ち。それに名をつけるとすれば、あるいは「嫉妬」なのかもしれない。妬み、嫉み。
 誰よりもお前を羨んでいた。
「お前は与える側だ。いつもいつも、私に身を《差し出して》いただろう。奪われたのでも貰ったのでもなく、お前は私にすら施しを与えていたんだよ、《王子様》!」
 生きているだけでいいのだとロゼウスは言う、ドラクルにはそれが、何よりも傲慢な考えに思える。生きているだけでいい? ロゼウスがそう言えるのは、自分自身のことも生きているだけであれば、それでいい存在だと思っているからだ。確かに彼はそうかもしれない。
 だが、ドラクルは違うのだ。
「生きていなければ意味がないだと? 馬鹿な、ただ生きているだけの命に、何の意味があるという! 誰に祝福されて生まれてきたわけでもないこの呪われた生命は、自分で何のために生きるのかを規定しなければ意味がない!」
 ――お前は大切なことがわかっていない……
 脳裏に不意に蘇る、寂しそうに、諭すように告げたシェリダンの声が目の前のドラクルの歪んだ表情と重なった。
 憎悪を瞳に滾らせながら、しかし彼の表情を占めているのは決して怒りと憎しみだけではない。
 まるで今にも泣きそうで。
「にい、さま……」
 ロゼウスは己の残酷さをようやく思い知る。

「生きているだけならば、意味はない」

 何もせず、何も感じずにただ生きているだけの人生ならば、意味はない。
 はっきりと言い切ったドラクルの口元が、またすぐに歪む。
「何かを成さねば、何かを手に入れなければ、そうでなければこの人生に意味はない」
 穏やかな愛情に包まれて、緩やかに生きていけるのならばそれに越したことはないだろう。
 ただそこにいるだけでいい。
 そう、誰かに言ってもらえるのであれば。自分をこの世に生みだしたひとがそう思ってくれるのであれば。
 その命、その存在こそ光だと。
 だけど――。
「私は生まれた時から何も持っていない。持っていると思ったそれは全て幻だった」
 両親の本当の子ではなかった。
 父だと思っていたひとは自分を虐待した。
 自分の存在を作り出すのに一役買った偽りの母は、本当は自分を憎んでいた。クローディア妃は表向き息子の立場にありながらも自分ではない下賎の女が王弟との間に作った子が、王の寵愛を受けるのが憎らしかった。
 誰もがドラクルの存在をただ自分のために利用しようとして、作り出した。
 生きているだけでいい。そういわれるほどのものをドラクルは持っていない。
 何かを成さねば誰も彼を愛してくれはしないのだ。ただそこにいるだけでは、駄目なのだ。
 だから努力して努力して、努力して。
 それでも結局は手に入らない。
 そう、確かに生きていなければ意味がない。
 だが、ただ生きているだけでも駄目なのだ。
「私はどうすればいいと言うのだ。これ以外何か道はあったのか?」
 誰に問いかければいいのかも、もはやドラクルにはわからない。
 だから、自分で決める。
「ロゼウス」
 名を呼ぶとこれまで硬直し呆然としてドラクルの話を聞いていたロゼウスがびくりと身を震わせた。
「私の悲願の成就のため、お前はここで死ね!」

 ◆◆◆◆◆

 まともにやりあっても勝てない事はすでにわかった。
 ではどうすればいいのか。
 もはやなりふり構っている段階でもない。
 最初から死ぬとわかっていてここへ来た。
 皇帝の力は強大だ。こちらには元大地皇帝プロセルピナがいるが、ロゼウスの力は本来彼女を遥かに上回るものだという。まだ覚醒しきっていない状態でこのていたらくなのだから、正攻法で戦っては一生勝てないに違いない。
 ドラクルはそう計算する。同じ室内にはルース、アウグスト、プロセルピナもいる。
 広間の中は、すでにあちこちが壊れている状態だ。虹色の光を床に落としていたステンドグラスも無惨な有様になっている。プロセルピナやハデスのような魔術師、それにローゼンティアの中でも破壊魔呼ばわりされていたロザリーなどもいるのだから、この惨状もある意味当然だ。
 砕け散った壁、欠けた大理石の床を見ながら、ふとドラクルは考える。
 白い光が天窓から明るく差し込んでいる。
 唇は臣下と妹の名前を呼んでいた。
「アウグスト、ルース」
「ドラクル?」
 ロザリー、ジャスパー、ローラ、エチエンヌたちと戦っていた二者が攻撃の隙間を縫って意識をこちらに向ける。
「私と一緒に心中してくれる覚悟はあるか?」
突然のドラクルの問に、アウグストが一瞬驚愕の表情を浮かべる。しかしその顔も次に向けられたローラたちの攻撃を防ぐためにまた厳しいものとなる。
「それはどういうことかしら? ドラクル」
 ロザリーの相手をしながら、ルースは器用にドラクルに尋ねる。力任せの戦い方をする妹をひらりとかわすと、一度ロザリーから距離をとった。
「ここで負けるくらいならば、私は相打ちを選ぶ」
「ドラクル」
 私の思い通りにならないのであれば――。
「皆、死んでしまえばいい」
 広間を睨み据える紅い瞳にはもはや紛れもない狂気が浮かんでいる。
「兄様!?」
 ドラクルの相手をしていたロゼウスはまだ彼の意図がつかみきれないものの、いやな予感を覚えてその行動を止めようと駆け寄る。
「ルース!」
「アウグスト、しばらくそちらをお願い!」
 しかし四人の相手をアウグスト一人に一時的に任せ、飛び出したルースがロゼウスの前に立ちはだかる。彼とドラクルの間の戦場に立ち、ロゼウスを足止めする。
「退いて! 姉様!」
「いやよ、ロゼウス」
 ロゼウスが剣を振りかざすや否や、ルースはこれまで空だった手の中に魔力の剣を作り上げた。それでロゼウスの攻撃を受け止める。
「くそ!」
 ルースの攻撃はさすがに力こそドラクルほどないが、まったく抜け出す隙を与えてくれないものだった。底知れない彼女の性格の通りに、こちらのもっとも嫌なタイミングで仕掛けてきて、いつの間にかそのペースに翻弄されている。
「ロゼウス、私は最後までドラクルの味方なの。この世界と彼を選べと言われても、ドラクルを選ぶわ」
 的確でありながら華麗な剣さばきでロゼウスの攻撃を防ぎながら、ルースが言う。
 ガキン、と嫌な音がして一度二人は得物同士を離し、お互いに距離をとる。
 ドラクルとロゼウスは本来従兄弟、しかしルースはクローディア=ノスフェルを母に持つ、片親とはいえ血の繋がった姉だ。それでも彼女は、ドラクルを選ぶという。同じ片親同じ兄妹ならばロゼウスではなくドラクルを、と。
 彼女にそんな選択をさせるものが何なのか、ロゼウスはその答をすでに知っている。あの時聞いてしまった。
「意味はわかるわね。だから、私が退かないのもわかるでしょう」
 そっと微笑を口元に刻みながら、しかしルースに隙はない。再び打ちかかってくる彼女の前では、どんな説得も無意味。
「だったら、俺もあなたを殺す! 俺だって、死なせたくない人がいるから!」
 一瞬、ほんの一瞬だけルースが憐れむような光をその瞳に浮かべた。
 それは夜空を指してお月さまが欲しいと駄々をこねる子どもに向けるように、呆れたように面白がるように、憐れむ光。
 その光に何かの予兆を感じてロゼウスは一瞬ハッとした。しかし次に聞こえたドラクルの言葉に、それどころではなくなる。
「さすがに建物自体が潰れてしまえば、誰も生き残れはしまい」
「なっ――」
 過激な発言は思いがけず広間中の者たちの耳を打ち、全員が彼の方を振り返る。
「さぁ、共に地獄に堕ちようではないか」

 ◆◆◆◆◆

「駄目だドラクル!」
 ドラクルの言葉に、真っ先に反応したのはハデスだった。
彼は何かに気づいたように、必死の形相で今は敵対している男相手に呼びかける。
黒髪を振り乱し、手にしていた魔力で作った武器まで取り落とす始末だ。しかし彼と同じく呆然としてから何かに納得したような表情を浮かべたプロセルピナは、その絶好の好機にも関わらず攻撃をしかけない。
「それは駄目だ、それは――!」
 今はドラクルの発言に驚いた全員が動きを止めているため、ハデスのその声はよく響いた。しかし耳に届いたところで、胸に響かない言葉には意味がない。
「ありがとう、ハデス卿。あなた方のおかげだよ。皇帝の居城とはいえ、この建物の強度は一般的な建築物と何ら変わらない。つまり」
 制止の声も虚しく、ドラクルはハデスの方に顔を向けると、この緊迫した場面にはそぐわない艶やかな笑みを浮かべる。疲れやつれた顔に灯る、爛々とした生気。
 病んでいる。
「私でも壊せるということだろう」
ドラクルがその右腕に魔力を集中しはじめた。
 確かに魔術を駆使して戦っていたハデスやプロセルピナの足下には壁や床の一部が壊れ崩れた瓦礫の破片が転がっている。しかし、いくら強靭なヴァンピルと言えど、これだけの規模の建物を一人で破壊できると言うのか?
 この広間は宮殿の最上階にある。一たび床を破壊されてしまえば、ゆうに七階分は落ちる計算になる。
 ロゼウスたちヴァンピルはその身体能力のために、五、六階建ての建物から落ちたくらいでは死なない。だが建物自体を破壊した瓦礫の降る崩落に巻き込まれてそれでも無事かどうかはわからない。
 そしてヴァンピルでさえそうなのだから、この場にいる普通の人間たちは――。
「全員逃げろ!」
 いち早く危険性を察してシェリダンが叫んだ。
 こうなればもはや敵も味方もない。ルースとアウグストに向けて心中する覚悟はあるかと問いかけたドラクルの目的には策略も計画性も何もなく、ただこの建物ごと全てを破壊してしまおうという意図が明らかだ。
 ローラやエチエンヌが蒼白な顔をしている。リチャードも苦渋の表情を浮かべ、ロザリーは固まってしまっている。あの冷静な鉄面皮であるジャスパーでさえ動揺しているのだ。
 ドラクルが行動を止める様子はない。彼は本気でロゼウスたちを道連れにするために、自分の妹や部下ごと、むしろ己の命ごと皆を殺そうとしている。
 ハデスが全員を逃がそうと空間移動の術を用意し始める。けれど完成しようとしたそれを、誰かが阻んだ。
「くっ! ……う、ル、ルース姫!?」
 投げられた短刀に集中を崩し、脇腹から出血しながらもハデスは己の行動を妨害した相手を見つめる。短刀を投げたのはルースだ。
「どうし……」
「ドラクルの邪魔はさせないわ」
 行動を止めるだけにしては、投げられた刃は深くハデスの脇腹を抉った。激痛より先に失血のショックが来たらしく、ハデスが意識を失ってその場に倒れる。
「ハデス!」
 プロセルピナが弟の名を呼んで駆けつけた。ハデスの身体は出血が酷く、今すぐにでも治療しないと危険な状態だ。
 魔術師ではあるが、彼女には皇帝であったときに使った移動手段である座標転移が、皇帝でなくなった今では使えない。空間に避け目を作りそこを通るという方法は彼女の能力に合わぬため時間がかかり、ハデスの怪我を癒して彼にその方法をとってもらった方が早い。
 そして絶望的なことには、彼女たちがそう行動を起こすよりも更に、ドラクルが宮殿を破壊するための力を注ぎ込む方が早いということだ。
「アウグスト!」
 脱出を目論むロゼウスたちとは裏腹に、ルースと彼女に呼びかけられたアウグストの中にドラクルの決定に逆らうという選択肢はないようだ。ロザリーたちが動揺している隙を狙って、攻撃を仕掛けてくる。
「こんなことしてる場合じゃないでしょ! 早く逃げなきゃ! いえ、それよりもドラクルを止めてよ!」
 ロザリーの言葉もルースやアウグストは聞かない。動揺から一転して緊迫した状況に陥り、事態は混乱を極める。
「逃げなさいよ!」
「逃がさない!」
 誰もが本気である言葉はそれ故にかみ合わない。ロザリーたちはルースやアウグストたちも助けたいのだが、彼らにその気はなく、ただドラクルの決定に従うという忠義のために死のうとしている。
「シェリダン!」
 ルースやアウグストの必死な攻撃に阻まれて、もはやドラクルを止める事は叶わないとロゼウスは見て取った。
「ロゼウス!」
 ロゼウスはシェリダンに、シェリダンはロゼウスに向けてお互い駆け出す。彼らがそれまでいた場所は広間の対極で、伸ばした指が届くのには遠い。
 ドラクルが魔力を込めた剣を振り上げて突き立てる。
 次の瞬間、彼らの足下で広間の床が地割れのように割れ砕けた。


262

 夢を見た。
 夢で見た。
 忌々しいこの悪夢。夢は望まずとも彼に未来を告げてくる。見たくもない未来を閉じたままの瞼の奥に焼き付ける。逃げようとしても、決して逃れることのできない運命。
「だ、め……」
 脇腹から酷く出血して、身体がサァーッと冷たくなる。朦朧とした意識は必死に呼びかける姉の声で一時浮上したが、まだ現状はよくわかっていない。
 これは夢か、現か。
 今となってはどちらでも同じだった。予言の予知夢で見た恐ろしい未来が現実になる。
「駄目、だ……ドラクル……」
 魔力と怪力によって建物の一部を破壊した青年の名を呼ぶ。動かない指先、身体から抜けていく力、それでも滑り落ちる命を繋ぎとめているのは、自分を抱きしめる暖かな温もり。
 その温もりではなく、すでに自らの側にはない消え逝こうとしている命に呼びかけるように、ハデスは言葉を紡いだ。
「シェリダン……」
 彼が夢の中でずっと見続けていたのは、瓦礫の山に埋もれたその姿。それは今まさにこの状況と一致する。予言が成就してしまう。
 割れた床が彼らをも階下の瓦礫の山へと飲み込んだ。

 ◆◆◆◆◆

 建物が崩れていく。
 世界で一番優美な建築物、皇帝の居城。
 もちろんその全てが灰燼に帰したわけではない。崩れたのは城の全体からすればほんの一画だ。天窓から光の差し込む広間のある一角が、その棟の中央部をぶち抜く形で崩れたのだ。
 ドラクルが破壊の力を込めたのは、床の中央よりの一部。いくらヴァンピルである彼の力が強くとも、一人でこの建物を倒壊させるだけの力はない。しかし床を伝わった衝撃は階下へも響き、七階からその下もその下も、最下層まで天井と床が抜ける。
「きゃぁああああ!!」
「うわぁあああああ!!」
 悲鳴が響く。この事態を予期していた者もできずに混乱していた者も、落下の浮遊感に本能的な恐れを感じ悲鳴をあげてしまう。
 ドラクルがぶち抜いたのは床と天井。衝撃を加えたのも床であり、壁全体ではない。だから建物自体が倒れるというよりもどこまでも床が抜ける形で城は崩落したのだ。
 この際、重要なのは各々の立ち位置だった。
広間のあった階の床はほとんど全て抜けてしまっているが、その下の階は遠くになるにつれて、床として残る面積が広くなっている。
 床が砕けて宙に投げ出されても、たまたま壁際にいてすぐ下の階に落ちたのであれば瓦礫に打たれる危険も落下の衝撃も少なく、多少の怪我は負っても命は助かる。
事実、ローラ、エチエンヌ、リチャードの三人はそれをすぐに見て取ったロザリーによって五階の残った床へと投げ飛ばされた。きちんと受身をとり、天井が上手い具合に残っている場所で、降って来る瓦礫をやり過ごす。
「痛っ!」
「ね、姉様……」
 当のロザリーと、ジャスパーは四階の隅の床に何とか捕まって難を逃れた。大分瓦礫で身体を打ったが、それほど危険な状態ではない。しかし二人とも身体の何箇所かは骨折している。
「ロザリー! ジャスパー王子!」
 五階からエチエンヌたちが呼んでくる。
「私たちは大丈夫よ! あんたたちは?」
「僕らも君が庇ってくれたから……でも」
 ロザリーが四階から返事を返す。上を見上げて位置を確認すれば、どうもドラクル、ルース、アウグストは六階らしい。心中だのなんだのあれだけ盛大な啖呵を切ったわりには、ちゃっかり一階分落ちたところで留まっている。
 ハデスとプロセルピナの姿は見えない。ぎりぎりのところで二人だけ転移したのだろうか。ハデスのあの容態は危険だったので、それも仕方ないかとロザリーは思う。もっともハデスとプロセルピナはその直前まで戦っていた敵同士なのだが。
「ロ、ロザリー」
 五階の端からエチエンヌが顔を出す。
「危ないわよ、エチエンヌ。もっと端に寄った方がいいわ。いつそこも崩れるかわかんないんだから」
 忠告に従っていったんは顔を引っ込めたエチエンヌだが、その代わりに張り上げた声が降って来る。
 この建物は市井の人々の一般的な住居などではなく、皇帝の居城だ。四階と五階、と一口に言うがその距離はかなりある。城の内部と言うのは大概無駄に天井の高いものだ。それが広間のある棟ともなれば尚更だ。
 その距離を苦にしない様子で、エチエンヌが再びロザリーに尋ねてくる。
「シェリダン様は! シェリダン様とロゼウスは!?」
 床の中央部が砕け崩落した建物の中、問題は各々の立ち位置。
 あの二人は、広間のほとんど中央部にいた。
 もともとロゼウスは破壊者であるドラクルのすぐ側で戦っていたのだから巻き込まれるのはある意味仕方なかったのだが、シェリダンまでもが駆け出したのはまずかった。
 もっともシェリダンがいたのもプロセルピナとハデスの魔術によって床や壁が脆くなっていた一角なので、そこに留まっていたところで命の保証があったかどうかはわからない。現に同じ場所にいたプロセルピナはハデスを抱えて城外へ転移した。
 だが、だけど、と胸の奥から警鐘が鳴り響く。 
 建物のこの崩れ具合、この一階分の高さ。ロザリーたちがいる四階より上に二人がいる様子もなければ、彼女が崩落部分の端ぎりぎりに立って下を除いても、ヴァンピルの視力をもってしても二人の姿が見えない。三階から下はほとんど瓦礫が積まれた山となっていて、暗がりがそこかしこにできている。
 ロゼウスとシェリダンの姿は見つからない。
 この瓦礫の山……そんな中にいて、命があるものか……。
何とか下に降りられないかと試そうとするロザリーを、背後から別の手が引き止めた。
「待った姉様」
「ジャスパー! 止めないでよ!」
 叫んだ瞬間にくらりと来た。ロザリーは誰に何をされたわけでもないのにその場に膝が崩れる。
「あ……え……」
 床は中央から崩れているのだ。崩落した箇所ぎりぎりの縁に立っていては危険だと判断したジャスパーが彼女をフロアの端まで引きずっていく。
 その引き方に乱暴だと文句をつけたいとロザリーが思った所で、顔をあげた彼女は弟のそれに気づいた。ジャスパーは胸の辺りを押さえている。白いシャツは真っ赤に染まっていた。
「自分の身体見下ろしてみなよ、姉様。そんな怪我で動いたらさすがに僕らでも死ぬよ。ただでさえあなたは落ちる時にあの三人を瓦礫から庇ったでしょう」
 言われて見てみれば、ジャスパーだけでなく、ロザリーも全身真っ赤だった。ヴァンピルとして許容量を超えるほどではないが、人間だったらすでに死んでいる。今のロザリーは血が足りなくて貧血状態に陥っているのだ。
「あなたが死んだら、誰がローゼンティア王になるの?」
 酷薄な表情をしたジャスパーはロザリーを避難させ、しかし彼自身も諦めきれない様子で階下の瓦礫の山を覗いた。
「兄様……」
 ロゼウスが上がって来る様子は、未だない。

 ◆◆◆◆◆

 灰と白、黒と金、赤。
 一番多いのは灰色。崩れた石壁、床の内部は全て灰色だ。その中に大理石の白と黒や、部屋の装飾に使われていた金が混じる。
 瓦礫、瓦礫、瓦礫の山。
 七階から崩れ落ちた床と天井の瓦礫が建物の最下層、底の方へと溜まっている。一階部分はもうほとんど瓦礫に埋もれてしまっていて、歩ける場所がない。
 三階と二階の床も崩れてはいるが、ドラクルの放った破壊の力は下の方に行けば行くほど弱くなっていた。従って、三階、二階あたりは砕けずに残った床の面積も相当広く、一部分の瓦礫はそこで食い止められている。しかしやはり一階の天井まで破壊した衝撃だ。建物の最下層まで瓦礫は到達している。
 そこに押し流されて落ちて来た者たちも。
「う……」
 小さく呻いて、シェリダンは目を開いた。起きようとして身体を動かそうとした瞬間、足に激痛が走る。
「痛ッ!」
 呻いて、何とかゆっくりと上半身だけでも起こした彼の身体からぱらぱらと細かな砂粒が振るい落とされる。頭がぐらぐらとして、このまま倒れてしまいそうな自分を鼓舞して、なんとか全身の様子を確認する。
視界が上手く利かないような気がした。こめかみから一筋血が流れているが、こちらはたいしたことはない。問題は別にある。
「足が……」
 他の場所は大丈夫だが、右足をやられていた。立てないほどではないが、歩くのは辛いだろう。他には大きな怪我はない。細かな擦り傷と切り傷だけだ。
 ――何故こんなに軽傷なんだ?
 少なくとも七階の高さから落ちて来たにしては、足の傷だけというのは軽すぎる。この高さを落下しただけで死んでもおかしくないのに。
 胸のうちに、暗く嫌な予感が沸き起こる。
 もっとよく状況を確かめなければ。シェリダンは視線を周囲へと巡らせる。崩れ去り瓦礫の山が天井を突き抜けて――実際には二階の天井が崩れたから瓦礫が積みあがっているのだが――積み重なっている部屋の内装は、確か彼らがいた広間のある棟の一番下、一階のはずだ。出口となる場所は瓦礫に塞がれているが、ここまで来ると破壊の余波も少なく、瓦礫の積みあがり方によって一部床に隙間が出来ている。
 白い光が天井から差し込んでいた。
 それでも大分崩れたのだろう七階の天窓。そこから光が入り込んでいるのだ。ほとんどが瓦礫に塞がれてしまって見えない空を見上げ、シェリダンは自らのいる場所に微かな光があたっているのを感じる。
 こんな絶望的な状況でもその光は全てを慰撫し憎悪の炎を冷ます水のように優しい。光は白い。その白い光に照らし出されて、段々とはっきりしてきた視界が克明に自分が今置かれている状況の明暗を映し出す。
 ふと、足下の血だまりに目が行く。血の痕。
 自分はそんなに深手を負っていない。
 七階から落ちたのに? ただの人間である自分がこんな軽傷ですんだのは何故。
 誰のおかげだ?
 あの時、駆け出して夢中で手を伸ばした。これからの自分たちを襲う衝撃の予測を上手く立てられなくて、とにかく側にいようと。
 足元の大理石の床は、ドラクルの攻撃で簡単に砕けた。体勢を整える暇も、衝撃に備える暇もなくただ濁流に流される木の葉のような無力さで崩落に呑まれた。
 飲まれる瞬間、限界まで伸ばしていた、その手は――。
 すれちがいそうだった手を、柔らかな手に強く掴まれた。届かないと思っていた距離は、相手の自分の身を投げ出すような努力によって埋められた。
 そこから先を覚えていない。
 閉じてしまった瞼の奥で薄っすらと感じられた曖昧な記憶。
思い切り抱きしめられて軽減された衝撃、思い切り叩きつけられる前に力の方向を変えるようにして投げ出された。
 それをやったのは誰?
 自分のものではない血だまりの先。瓦礫に埋もれる細い身体。一目でもう息をしていないのがわかる。
「嘘、だ」
 だって死ぬのは、自分のはずだ。
 彼こそが、自分を殺すのに。
「どうして……」
 何故こんなことになっているのか。血だまりの中で倒れ付すのは、本来自分のはずだったのだ。
 シェリダンは呆然として声も出ない。立ち上がりかけた膝がもともとの足の痛みもあって砕ける。ずきずきとした鈍い痛みを足から感じながら、しかし頭の中ではこれは夢ではないのかと思った。
 だって、そうでなければ目の前の光景が信じられるはずがない。
 白い光があまりにも清らかに照らすその光景は、地獄よりもなお暗い。
「ロゼウス……?」
 白い体は瓦礫に挟まれ、横たわっている。全身どこも血に濡れていない場所はない。黒い、血の色が本来目立たないはずのその衣装までもが血に濡れているとわかる。泥で汚れた頬。乱れた髪。
 投げ出された白い指先は、ぴくりとも動かない。
「ロゼウス!」
 痛む足を引きずって、シェリダンは彼のもとへと歩み寄った。
「ロゼウス! おい、ロゼウス! しっかりしろ!」
 聞こえていないのを、聞こえないのを承知で必死で呼びかける。
「目を覚ませ! 死ぬな!」
 瓦礫が塵となって埃っぽいこの空気を吸うのは喉に悪い。叫ぶごとに咳き込みそうになるが、シェリダンは自らの喉の痛みなど無視して、必死に倒れ付して動かないロゼウスに対して呼びかける。
 身体の上の瓦礫を退かしてやりたいが、シェリダンの力では無理だ。足を負傷している、していないに関わらず、非力な人間程度の生き物が素手でどかすには無理だとわかるほどしっかりとその身体は瓦礫にうずもれてしまっている。
「ロゼウス!」
 嘘だ、嘘だ、嘘だ。
 こんなの嘘だ!
 ハデスの、プロセルピナの、サライの予言では、シェリダンをロゼウスが殺すのだと言っていた。こんなところで、シェリダンを庇ってロゼウスが死んでいいはずがない。そんなの絶対に認められない。
 七階から落下してシェリダンがこの程度の負傷ですんだのは、ロゼウスによって庇われたからだ。その証として、細い身体には幾つも不自然な傷がついている。
 ヴァンピルは一度生命活動を停止しても、蘇生の術を他者にかけてもらえれば生き返ることができるのだという。ロゼウスはまだ灰になってはいない。落ち着け、とシェリダンは自分に言い聞かせる。一度死んだはずのアウグストと呼ばれていたあの男がルースの手によってすぐに生き返るのを、自分はこの眼で見たはずではないか。
「誰か! ロザリー! ジャスパー!」
 誰でもいい。彼を救ってくれ。ヴァンピルの力があれば救えるのだろう!
 周囲に姿の見えない仲間に向かって、シェリダンは声を限りに叫ぶ。しかしその声は、いくら天井を破壊され吹き抜けのようになった建物とはいえ、四階にいるロザリーたちには届かない。
「誰か……」 
「う……」
 その時、息絶えたかに見えたロゼウスの身体がわずかに身じろぎした。
「ロゼウス!」
 ハッとしてシェリダンはロゼウスの方へと視線を戻す。これまで微動だにせず、てっきり死んでいるものだと思われたロゼウスが白い瞼を震わせている。ぱらぱらと砂粒がその頬から落ちる。
 シェリダンは慌ててロゼウスの、投げ出された細い手を握った。血が流れすぎて冷たい、手。だが生きている。
 ――生きている?
 ふと違和感を覚え、シェリダンは自分がつかんでいたロゼウスの手を握りなおす。違和感とは脈拍だった。焦りのあまり少々きついぐらいに手首を握ってしまったのに、脈拍がまったく感じられない。脈が弱く回数が少なくなっているから気づかないのかとも思ったが、違う。これは……。
「脈がない?」
 吸血鬼は死ぬ。死んで蘇る。その姿はもともと、薔薇の魔力にて蘇った、動く死体。
 訝りに眉を潜めていたシェリダンの注意は脈のない手首に向いていた。視線は先程瞼を震わせていたロゼウスの顔からそれていた。その一瞬の隙に、それは起こった。
「え……」
 警戒も何もない、無防備な胸部を斜めに切り裂かれてシェリダンは事態を理解せぬまま、瓦礫の埋もれていない開けた空間の中央あたりに弾き飛ばされた。
 何が起こったのかわからない。困惑の一瞬の後に、焼け付くような痛みが襲ってきた。
「な、何故……」
 身体の上に被さっている、人間の男なら大人四人がかりでも持ち運べないような瓦礫を軽々と持ち上げて退かし、ロゼウスが立ち上がった。
 シェリダンの胸を切り裂いた手の爪から血を滴らせながら。
「ロゼウス……?」
 血に濡れた爪をぺろりと舌で舐める。その姿は、ロゼウスではなかった。


263

「ロゼウス! どうした!? 私だ!」
 シェリダンの必死の呼びかけも虚しく、ロゼウスはまたもや腕を伸ばし彼に掴みかかってきた。その身体のどこにそんな力があるのかと思う腕力で、シェリダンの身体を地面に押し付ける。
 足を痛めているシェリダンは逃げられない。もともとこの場所といい本来の体力の違いといい、逃げられるものでもない。
 しかし、それはロゼウスにとっても同じではないだろうか。むしろ足だけ重傷のシェリダンよりも、全身を瓦礫に強かに打たれ、少年一人の体内から流れ出したものとは到底信じられない量の血を流したロゼウスの方がよほど重傷のはずだ。
 先程まではロゼウスは動けなかったはずだ。死んでいるのだとシェリダンは思った。なのに今は、化物並みの力を発揮している。
「くっ!」
 つかみかかってくる細い手を何とか引き剥がそうと試み、シェリダンは失敗する。今のロゼウスは強すぎる。ヴァンピルという一族は普段どれだけその力を人間世界での生活用に合わせて押さえ込んでいるのか、拷問用の万力もかくやという怪力だ。
「あああ、あ!」
 ロゼウスの手につかまれた右腕が砕ける。折れるのではなく砕かれる激痛に、目の前が真っ赤に染まる。
 ロゼウスにはシェリダンの言葉もその悲鳴も、何もかもが届いていない。見つめたその視線は無機物を見るかのように冷たく、虚ろだ。
 痛みを堪えながらその様子を盗み見て、ふとシェリダンはそれに近いものを思い出す。あの時とはまた状況が違うが、これは――。
 ヴァンピルの失血症状。普通の生き物より多量の血を必要とするヴァンピルは、一定量の血を失うと飢餓状態に陥り自我が薄れて身体能力の制御を失い、吸血鬼本来の破壊と殺戮衝動に身を任せるようになる。
 ローゼンティアの吸血鬼は魔族。
 人の生き血を啜り、肉を食らう忌まわしき化物。
 まだ出会って間もなかった頃、そう、あれは確かエヴェルシードの下町の酒場、シェリダンの叔父であるフリッツの経営する『炎の鳥と紅い花亭』での出来事だ。自らに血を飲むことを禁じることを課し、エヴェルシードに潜入したロザリー。彼女が極度の飢餓状態に陥り、暴走してあたり構わず破壊した。
 吸血鬼はその名の通り、血によって生きている。身体の中を流れる血が足りなくなると彼らの中で、魔物としての生存本能が目覚めるのだ。本来その身体に秘められた強大な力とは正反対に平穏を好むはずのヴァンピルたちが、目にする生き物全てに襲い掛かり、その肉体を千路に引き裂いて溢れた血を啜るようになる――。
 血を失うと、吸血鬼は狂う。
 わかっていた、これまで何度も言葉では聞いたはずの事柄を、シェリダンは真には理解していなかった。
 なまじロゼウスは力のある吸血鬼であって、己の理性を簡単には失わないよう普段なら加減ができる。他の吸血鬼たちのようにそう簡単に狂う事はない。普通なら。
 それが仇となった。
「ロ、ゼウス……」
 右腕の激痛もまだ治まらないままのシェリダンに、ロゼウスはふいと身を寄せる。上着を無理矢理引っ張るようにして左の首筋をあらわにさせると、口づけでもするように唇をあてた。
「あ……」
 いつもは隠している吸血鬼の牙が、シェリダンの首筋に埋まる。
 その瞬間、シェリダンはがくりと己の身体から力が抜けていくのを感じた。
 反射的に思い出されたのは、決戦前のジャスパーとの会話だ。
 ――吸血鬼の牙で噛んであげましょうか? 僕たちヴァンピルの牙には毒が入っていてそれが麻酔や媚薬の効果も果たしますから。
 あの時は特に気にも留めず流してしまったのだが、よくよく考えてみればそれは恐ろしいことだ。
 一般的に毒を持つ虫というのは、その毒によって獲物や外敵の動きを止めるのが目的だ。そして動けなくなった獲物をゆっくりと喰らい尽くす。蝙蝠など血を吸う生き物は相手が暴れて動かれると面倒であるから、痛みを感じないように麻酔を流し込むのではなかったか。
 シェリダンの身体からも、今は力が抜けていく。力が抜けるというよりもこれは麻酔のせいで動けなくなっているのだろう。
 この後ゆっくりと、この身を喰らうために。
「ロゼウス……」
 首筋からロゼウスが血を吸う。これまで首筋に牙を立てて彼がシェリダンの血を吸ったことはない。
 それは獲物を喰らうための本気の吸血行為、相手を殺すためにしか使わない方法だと。
 吸血鬼と人間はどんなに似たような姿形をしていても、所詮は捕食―被食関係なのだ。食うものと食われるもの。
 猫と鼠のように。
 窮鼠猫を噛むと言う言葉もあるが今の鼠にはそんな力はなかった。ゆっくりと体内に注ぎ込まれた毒によって動けなくなり、喰らわれるだけ。
「ロ、ロゼウス……」
 シェリダンはもうほとんど痛みを感じない。身体は動かず、ロゼウスの胸に預けるような形となる。それが少しだけ癪で、最後の意地で動かした腕を彼の背に回して抱きしめた。
「愛している、ロゼウス」
 骨を砕かれた右腕の激痛も、痛めた足も、もう何も感じない。
「愛している」
 ただ、自らの身体から血が失われていくのがわかる。
 流石に体中の血を吸われてからからのミイラになるのは嫌だな、と思い始めたところだった。口を大きく開けたロゼウスが、新たに首筋に牙を立てる。そのまま血を吸うのではなく、肩までの肉ごと噛み千切った。
「……ッ!」
 痛みはないが、そのおぞましい感覚だけは伝わってきてシェリダンは思わず息を呑む。
 ああ、そうだった。ローゼンティアの吸血鬼とは本来、血を吸うだけではなく屍食鬼と呼ばれる化物に近い。
 血を吸うだけではなく、死体までも喰らうのだ。
 死体だけでなく、生きた人間まで食うことができるという証明はこの通りだ。
 肉を食いちぎり、骨を齧りとり響く、咀嚼の音。真っ赤になった口が動き、上下する白い喉首に自らの身体の一部が今まさに飲み込まれていくのがわかる。
ロゼウス本人の意識はまだ戻らず、吸血鬼の本能だけで彼はただ動いているのだろう。まだ脈は戻っていないようだ。
 これまで全く、そこに至るまでの経緯がつかめなかったハデスの予言。
 命懸けでシェリダンを庇うロゼウスが、自らの手でシェリダンを殺すなどとは当人たちも信じられなかった。
 だが確かにロゼウスはシェリダンを殺す。
 このまま、自らの糧として食い殺す。
 抗う術はシェリダンにはない。
 ロゼウスの一口ごとに、ごっそりと欠けていく自らの身体。生きながらにして愛する者に食い殺される。
 しかし最後までそのままであるはずがない。身体を全て食われるのと、ロゼウスが正気を取り戻すのと、シェリダンが死ぬのとどれが早いのだろう。
 シェリダンは身体を支えていられなくなり、いまだ虚ろな瞳をしたままのロゼウスも彼を抱きしめた形は面倒だと、その身体を床に引きずり倒す。
 浅ましい獣そのままに、ロゼウスはシェリダンの身体に馬乗りになる。にいと笑った口元が舌なめずりする。本人の意志ではないとはいえ、あまりにも残酷なその笑顔。
 その顔をかつての彼の微笑みに重ねながら、シェリダンの視界が黒く濁っていく。限界が近い。
 最期に唇が動いて、何事か小さく囁いた。
 ガツガツと響く咀嚼の音を聞きながら、自らのその身を喰われながら、シェリダンはゆっくりと目を閉じる――。

 ◆◆◆◆◆

 初めて彼を見て、一番に惹かれたのはあの瞳だった。
 極上のピジョン・ブラッドの宝玉のような、深紅。深い深い血の色は、いつも懐かしさと同時に厭わしさを植えつける。
 あまりにも激しく暗い、その瞳に惹かれた。これまで見た事もない美しい少年からは、自分と同じものを感じた。
 紡ぐ未来を持たない、虚ろな夢。
 硝子球の双眸の先にそれがあった。だから、道連れにちょうど良いと感じた。あれだけ美しければ、自分の隣に並べておくのに誰もが納得する。
 私の破滅への道標。
 シェリダンにとって、ロゼウスはそういう存在だ。そういう存在であっ「た」。
 しかし心などいらない人形だと思って連れ帰ったのは、いまだ未熟な魂を抱えて傷つくだけ傷ついた少年だった。自分も傷だらけの心から血を流しながら、シェリダンに言葉をかけた。
 ―― 一緒に堕ちてやる。
 破滅の道を進む彼を引き止めるのではなく、ただ共に在る、と。
 傷を癒す事はできない。そんなことはもとよりしない。ただ痛い場所に手を当てて、血が流れぬようずっと押さえている。あれだけの才能を持ちながら決定的に不器用なロゼウスが選んだのは、いつもそういう道だった。
 馬鹿だな、と思った。
 ずるい、と思った。
 ひとの持つ醜さ、薄暗い慾望を何一つ持たず、手慰みに甚振られるのを待つ愛玩人形。けれど彼はいつだって綺麗なままだ。人を殺しても、それは降りかかる火の粉を払っただけ。彼自身が己の恨み憎しみに囚われて力を振るうのを見た事がない。
 それは一つのあまりにも完璧な造型。
 愛しく、だけど疎ましかった。その美しさが。
 伸ばす前に差し出す両手を斬りおとされた形の彼は、自分から欲しいものを求めるということを知らなかった。ドラクルに対する愛情だって、一つの取引の形に過ぎない。ロゼウスをいつも与える側の者だと評した、ドラクルの言葉は正しい。
 ひとの醜い欲望から解き放たれて、ただ清廉とそこにある。どんなに醜い欲で陵辱しても、決して汚れはしない。
 生まれながらに、「存在する」と言う名の罪を背負ったシェリダンとは大違いだ。
 シェリダンがロゼウスを求めるようには、彼はシェリダンを求めない。それが、たまらなく悔しかった。一度は諦めようかと思ったこともある。
 所詮最初から自分が彼を求めたのは、破滅への道連れ、ただの人形とするため。人形に心などいらない。心など必要ないと、自分に言い聞かせた。
 だがロゼウスはそのままでシェリダンを放ってはおかなかった。御前試合のあの時、アンリたちの手引きにより、逃げようと思えば逃げられたはずなのに戻って来た。
 どうして。
 何故そこまでしてくれるのか。
 シェリダンはロゼウスに対し、何の救いも与えていない。主君と部下という関係にあるクルスやジュダ、エルジェーベトとも、シェリダンの方に貸しがあるローラたちとも彼は違う。
 無償の愛など、シェリダン=エヴェルシードは信じない。そんなものは存在しない。
 神に縋らない。
 信じないとか、否定するとかそういうものではないのだ。神が存在するかどうかなど、シェリダンにとってはどうでもいい。ただ、全知全能のその存在が目の前に現れたその瞬間であっても、シェリダンは縋らない。
 自分を救うのは自分だけだ。自分が信じるのは自分だけだ。
 その分、責任も負っていく。この一瞬間呼吸するだけで増えていく罪を背負い、それでも真っ直ぐに自らの足で大地に立つ。
 それでいい、それだけだと思っていた。
 なのに、堕ちてこいとロゼウスに願ったことに対し、実際に欲深くなったのは彼よりも自分の方だ。
 本来敵であるはずのロゼウスに、赦されはしないが包み込まれて、もっと彼からのものが欲しくなった。彼が欲しくなった。
 罪を背負って生まれ、罪を生んで消えていくはずだった自分の人生に彼が彩りを与えた。
 一緒にいたかった。
 一緒に生きていたかった。
 切ない泣き顔を浮かべてロゼウスが訴えた言葉の意味も、シェリダンにはよくわかっている。……痛いほどに。
 想いは同じだった。一緒にいたい。
 だが、シェリダンは永遠を信じない。
 神も未来も恒久平和も何もかも彼は信じない。自分のこの目で見て体験したことが全てだ。
 呪われたこの人生、今が一番満たされている。幸福の頂点、ここで命を終えてしまいたいという欲もあった。
 もともといつかは全てを滅ぼすつもりで国王となった。罪のある者もない者も道連れに何もかも壊そうとした。なんてはた迷惑な自殺願望。死への欲求は心のどこかで常に眠っていた。
 自分の死、それがロゼウスの手で、他でもない彼の手で与えられるのであればそれ以上に幸福なことはない。
 お前に裁かれるのであれば怖くはない? 
 嘘だ。本当は裁かれることをこそ、望んでいる。
 ――ハデス、私は……・・。
 ローゼンティアの崖下にハデスともども落ちた時、彼にだけは伝えた言葉がある。やはり馬鹿だ間抜けだ勝手だと罵られた。打算的に近づいてきたはずの彼から今更になってそんな風に言ってもらえる幸福を感じながら、思いを吐露する。
 どうしてもロゼウスの心が手に入らなかったころ、ハデスに尋ねた。どうしても振り向かない相手の心を手に入れるにはどうすればいいのかと。
 殺せばいい。そう、ハデスは言った。殺して自分のものにしてしまえばいい、と。
 そうすれば誰も手に入れられない。自分も触れられないが、他の者だとて相手に触れることはない。誰かに彼を盗られる心配をしなくていい。あの時ドラクルやジャスパーに感じていたような嫉妬をもう覚えずにすむ。
 けれどその認識は、また後に覆される。
 ロゼウスの前世であるシェスラート=ローゼンティア、シェリダンの前世は始皇帝ロゼッテ=エヴェルシード。彼らもまた不思議な因縁の果てに巡り合い、お互い惹かれあったのだという。
 そして最後まで心すれちがった果てに、ロゼッテがシェスラートを殺した。
 シェリダンは普通の人間だ。ロゼウスと違ってそうはっきり、前世の人格に乗っ取られていた時のことを覚えてはいない。
 だが一つだけ、心に刻まれるようにして残っている言葉がある。

 永遠を手に入れたのはお前の方だ。

 愛する者を殺した男は、しかし罪を犯してからその間違いに気づいた。殺せば相手が手に入る? 否、そうではない。殺した方が相手に未来永劫囚われることとなるのだ、と。
 相手を殺しても、相手は自分のものにはならない。
 だが相手に殺されれば、彼は自分のものになるだろうか。
 そうであればいい。
 ロゼウスが私を殺して、このまま永遠に私に束縛されていればいいのに。
 これはつまらない願望だ。妻や夫を何度も取り替える相手だっているのに。
 だからこそ今はこの命をかけて、この幸福の絶頂で全てを終わらせてしまいたいのだ。
 予言された未来は、誰の見た夢だったのだろうか。
 望んだのはこの自分。

 全てを知れば、お前は私を恨むのだろうな……。

 だが実質この状態では自分に他の道は選べないし、またそれが残されていても、シェリダンには己が何度でもこの選択をするという確信がある。
 だから、仕方なかったのだ。そうして彼は愛しい者の背にゆっくりと腕を伸ばして抱きしめ、うっそりと病んだように微笑んだ。
 仕方なかったのだ。頭の中で囁く声がする。
 聖人君子ではない自分は、このことによって彼が傷つき、嘆き、全てに絶望して世界を憎悪したとしてもその心を自分に繋ぎとめる道を選ぶ。
 こうして、卑怯にも永遠を手に入れる。
「愛している、ロゼウス」
 その魂に荊のように絡み付いて離さない。
私を思い出すたびに、お前はその棘に血を流せばいい。流した血の分だけ私を思えばいい。
 決して癒えない傷を抱えながら――。
「愛している」
 だから私を殺しても、お前は生きろ。