252

 城中で働く人々を追い出したせいで、廊下は暗い。燭台に火をつけるのも忘れて、彼はただ歩く。
 白亜の石の宮殿は、生まれてこの方慣れ親しんだ場所だ。視界が利かずとも特に苦労もなくハデスは歩いて、その部屋に辿りついた。
「……ただいま」
 ポツリと無機質な言葉を落としたその場所は彼自身の部屋だった。本来誰かに向けるはずの言葉は帰らない主を待ち続けていた空虚の部屋に虚しい独り言として響いた。
 気にせずハデスは後手で扉を閉めると、まっすぐに寝台へと向かった。彼がいない間も使用人たちが掃除を欠かさなかったらしく、部屋には埃の一つも積もっていない。寝台はきっちりと敷布が整えられていて、チェストや応接用のテーブルまで磨き抜かれている。
 冷えた寝台に転がりその柔らかな感触を堪能すると、ようやく身体から力が抜けた。
「はぁ……」
 今日でこの部屋ともおさらば。そう思えば、複雑な感慨が胸の内に押し寄せる。
 ハデスは天井を見上げた。皇帝の居城の作りに手抜かりなどない。高貴な身分の者の私室の天井には美しい絵が描かれている。
 昔々の神話になぞらえて、白い羽の生えた人間と黒い羽の生えた人間。視線を身体の脇に向ければ、壁際にも絵画が飾っている。用途不明の壷などが無造作に壁際の棚に飾られていたりして、我が部屋ながらなかなかに胡散臭い。
 この部屋で眠った事は、そう多くはない。ハデスはその立場から皇帝領に戻ってくれば必ず姉であり皇帝であるデメテルと顔を合わせなければならない。それが嫌で、帝国宰相という役職を頂いてからも、この城に、この部屋にほとんど帰ることはなかった。
 そんな場所なのに、いざ捨てるとなれば惜しいのかと。
自分も大概愚かだと、嘲笑う。
 本当ならば様々な言い訳を各方面に対してしなければならない立場にあるのだが、そんな工作はまったくしていない。先程ジャスパーが少し突っかかってきた以外は、皆ハデスに対して無関心なものだ。これは彼らが彼に寝首をかかれることなどないと安心しているのか? それとも馬鹿にしているのか? どちらとも知れない。どちらでも構わない……。
 一番話をしなければならない、話をしたい相手は一番話をしたくない相手と共にいる。
 だから、ハデスはこの場で寝台に無造作に手足を投げ出したまま動かない。
 どうせ部屋を出たところでシェリダンと話をできるわけでもないし、動かないでいい。
 疲れすぎてちりちりと焼け付くように熱いまぶたを手で押さえながら、彼は深い溜め息をつく。
 明日の今はこうして息をすることもないのだろうかと思いながら。
 様々な感情が胸の内に湧き上がっては消えていく。否、消えていくのならば別に良い。消えていかないから今少しだけ困っている。数々の思いが心の底から湧き上がり、また沈み、その攪拌を繰り返す。記憶と記録と思いは交じり合い、自分でも自分がわからなくなってくる。
 瞼を閉じたその裏に、嘘のように鮮やかな景色、けれど自分がその時何を考えていたのかを覚えていない。
 人の記憶など脆いものだ。あの時何を自分は思っていたのか? そんな簡単事すら忘れてしまう。
 だからこれでいいのかも知れない。
 ひらひらと風に舞う頼りない木の葉のように自分が何度もその立場を変えてきた自覚はある。口では他者を責めながら、そんな自分をも心の内では馬鹿にしながら生きてきた。確実なものなどこの世に何一つないのだと、未来は見えていても案外わからないものだな、なんて。
 そう、預言者が未来を見ても、その結末が本当に予言をなぞるとは限らない。
「だからこそ」
 いつの間にか手に力が入っていた。知らず握った拳に骨が白く浮かび上がっている。
「未来を変えたい」
 思いは虚しく唇を上滑り、希望した端から絶望が胸を覆う。ハデスは自分の予言の精度が異様に高いことを知っている。予言と言っても未来の全ての出来事を見渡せるわけではなく、得られるのは常に断片的な情報だ。なのに、その断片的な情報はいつも物事が終わった最後にからくりを知って繋ぎ合わせると見事な一枚絵のように完成する。
 力を出し惜しみはしない。見える未来を片っ端から見て、己の能力を制御する。まだ完璧とは言いがたいが、それでも自分の得た情報を状況と繋ぎ合わせ推測し、未来に起こる出来事を当てる勘は発達したものだ。
 あるいは予言の中には、どう見ても間違いようのない残酷な場面を無理矢理ハデスに知らせてくるものもある。
 明日行われる戦いについても後者だった。一片の希望も打ち砕くように無慈悲なまでに鮮やかに、その光景がハデスの目の前に広がる。初めて見たときはさして気にもとめなかったその映像。だが今は自らの能力が優れているという事実を、これほど恨むこともない。
 ゆらりとハデスは身を起こし、誰に話しかけるのか虚空に目を向ける。それは異教の神に祈る者のように懸命で切なる眼差し。
「まだ、未来は始まっていない」
 可能性は残されている。あの残酷な場面からでも、大逆転できる可能性が。
「だって今は……生きているんだから」
 明日の戦いについて、文字通りの最終決戦についてはハデスもあまりに断片的で繋ぎ合わせても要領を得ないような情報しか見ることができなかった。わかったのは二つだけ。
「ロゼウスはシェリダンを殺す。そして皇帝になる」
 それだけが、これまでハデスの見ていた全てだった。確信をもって言えるのはこれだけ。後は何が何だかわからない。どうしてそうなるのか見当もつかない。
意識を集中して瞼を閉じると、闇に映像が浮ぶ。
 紅だ。
 一面の深紅。一人の人間の身体から流れ出したとは到底思えないほどの量だ。灰色の床を占める赤、赤、赤。
 その深紅の中心で、誰かが泣いている。全身は彼もまた紅に染まっている。自らが殺した人の血を服に吸って真っ赤になりながら、こんなはずじゃないと泣き叫ぶ。
 そして彼は狂う。
 彼を狂気に陥れるためだけに、その紅はある。その血だまりはある。
 ハデスにはよくわからない。ロゼウスがシェリダンを殺してようやく本当の皇帝になるという理屈が。
 世界最強の力を持っているというのであればさっさと皇帝になればいいのに、何故そんな条件じみたことが今更必要なのだろう。
 ハデスにはわからない。ロゼウス自身にも多分わかっていない。
「……姉さん」
 ぽつりと、こらえに堪えていた名前を思わず呟いた。それは常に彼を導いてきた名だった。良くも悪くも。
 自分の無力さを噛み締める。皇帝を殺す?
次の皇帝も殺す? そして自分が皇帝になる? 大それた野望を一途に抱いてきた己の愚かさをこそ今憐れむ。馬鹿な自分。本当に。
 皇帝を殺すなんて、ほとんど不可能だ。唯一皇帝を殺せる可能性があるとしたら、それは皇帝になる可能性を持っているのと同義だ。
 ハデスにはその器がなかった。
 本当はずっと前からわかっていた。それでも知らない振りをしていた。
 自分ならできると、やって見せると勢いこんで目的のためなら誰彼構わず捨て駒の犠牲にして血の道を歩いてきた。その辿り着く先がかつて夢見たあの凄惨な血だまりなのだとわかっていても、それでも歩き続けた。
 目標を、目的を失ってしまえばそれこそ自分が惨めだから。選定者は皇帝のために生まれてくる。ハデスはデメテルのために生まれた。けれど彼はジャスパーがロゼウスに心酔するようには、姉に傾倒できなかった。偽りの絆で結ばれた主従は、世の中に新たな偽りを生み出し続ける。
 皇帝の慰み者になるためだけに生まれてきた自分。たまらなく惨めだった。だから逆転してやろうと思った。皇帝の玩具ではなく、《皇帝》へと。
 それがどういう事態を引き起こすことになるのか、考えもせず。
 そう、自分は。
「……後悔してるんだ」
 今、この上なく後悔している。
 胸の奥がぎゅっと締め付けられたように痛む。この感情の名を後悔という。これまでは自分にこんな宿命を与えたデメテルが悪いのだと責任転嫁することによって自らを保っていた。けれど今、何よりも後悔している。そして明日、本当の意味で後悔しないために彼はこの城へと戻って来たのだ。これが理由。
「死なせない」
 脳裏を蒼い髪が過ぎる。朱金の瞳が穏やかに細められて自分を見る。その笑顔が失われるように差し向けたのは、紛れもなく自分だ。
 それを今、例えようなく後悔している。
「だから、死なせない。シェリダンが死ななければロゼウスだって皇帝として目覚めない。姉さんへの復讐は果たした。後は、明日の結末を変えることだけ」
 これまでの人生、一体何のために生きてきたと思っているのだ。シェリダンが死んだらロゼウスが皇帝になるというのであれば逆を言えば彼さえ死ななければロゼウスが皇帝になることもない。ならば、シェリダンの死さえ回避できれば世界は自分の思い通りだと。
 大切なものを失う耐え難い不安と恐怖に苛まれながら無理矢理損得勘定の算盤を弾いて、自分を奮い立たせる。
 後悔している。今までしてきたことを。
 だから。
「もう、これからはしたくない」
 それが叶わない願いだと知っていても、彼を死なせないために彼はこの城に戻って来たのだ。

 ◆◆◆◆◆

 星のない夜空を仰ぎ、空と同じ黒い瞳を伏せる。白い瞼を彩る睫毛も黒で、全身漆黒の衣装に身を包んだ彼女の白い面だけが、静かに闇に浮かび上がる。
 近くから遠くから聞こえてくるのは薔薇の花の香り。ここは薔薇の国。薔薇の死神の眠る国。
 もう少しして、準備が整ったら早々にこの地を離れることになる。訪れるのは彼女が長年親しんだ、家とも言うべき場所。世界の果てにある薔薇大陸皇帝領。そこが最終決戦の場となる。
 同行者たちを待ちながら、ローゼンティア王城の外で一人プロセルピナは夜空を見上げる。
 その漆黒の闇の果てに、何があるのだろうか。
「……馬鹿ね。何もないに決まっているのに」
 あると言えばあるのだろう。帝国に住む普通の人間は知らないが、空の果てには宇宙という暗黒の空間がある。それはこの世界で皇帝だけが知っていること。
 そのことを知るのに、どれだけの対価を自分は払って来たのだろうと考える。
 皇帝という存在になるために、どれだけの……。
「自分で望んだわけでも、ないのにね」
 独り言は止まらない。彼女にとっても、これはある意味で最後の夜だ。この戦いが終わってしまえば、もはや自由などない。どんなに未来を見る予言能力を駆使しても、この先のことは彼女には朧のように霞がかってしか見えない。
 ロゼウスの力は、皇帝としても強すぎる。彼が正式にその座に着けば、もはや誰も敵いはしないだろう。プロセルピナが未来を見ることができないのは、その未来におけるロゼウスの存在感が強すぎるためだ。
 燃え盛る地獄の業火のような強い、魂の輝き――。
 さすがに始皇帝となるべきだった男、シェスラート=ローゼンティアの魂を継ぐ者は違うということか。
「ローゼンティア王家も、厄介な化物を生み出してくれたものだわ……」
 呪われた薔薇の国の王家。今となってドラクルが祖国への反逆を起こし玉座の簒奪など考えたが、それもあるいは当然の成り行きだったのかもしれない。この呪われた国においては。
 そもそもローゼンティアの初代王ロザリア=ローゼンティアが愛したのは彼女自身の兄。魔族は通常自らの種族としか結婚しないという近親婚の風習。連綿と続く血の流れはいつの時代も澱み、腐りかけていた。根元から腐った果実が今になって、その樹から落ちただけ。
 しかしそれに伴う犠牲は甚大だ。
「運命とは残酷なものね……シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたがエヴェルシードの王でなければ……いいえ、あなたが生まれて来なければ、こんなことにはならなかったのに」
 人は自らがどんな場所に、どのように生まれてくるのかなど選べない。エヴェルシード王国の王子として、王になるべき人物として生まれてきたこと、それはシェリダンのせいではないが、そのために《世界》の歯車が噛みあってしまった。
 狂ったのではなく、噛みあったのだ。
「あなたたちが出会わなければ……」
 出会わなければ。
 ロゼウスとシェリダンが出会わなければ、今のこのような事態にはきっとならなかったに違いない。
「しかしそのおかげで、世界は歴代最高の真なる《皇帝》を得ようとしている」
 世界に住まうあらゆるものたちの生活は、命は皇帝によって左右される。どんな王国でもそれは同じだ。名君を得れば安寧と幸福を、暗君を得れば破滅と苦渋を。
 皇帝とはしかし世界のその全てを揺らす存在。どんな名君の治める王国に生まれても、皇帝の性質によっては幸せに生きること叶わない。
 皇帝、それは世界を統べる者。
 だが名君であることがその帝本人にとって幸せであるとは限らないのだ。
 才能や技術や意志があれば必ずしも名君になれるとは限らない。偉大なる支配者になるために努力をすればそうなるとも限らない。
 皇帝になるための条件、それは――。
「……残酷ね」
 プロセルピナは繰り返す。
神に選ばれ世界を支配せしめる皇帝となるために、彼女自身も辿った道がある。それは獲得ではなく、限りない喪失への道だった。
 けれどプロセルピナの場合はまだマシだ。彼女はそれを失う代わりに、弟であるハデスを得た。彼女にとって唯一無二であり最愛の弟。例え彼が自分を愛することが、永遠になくとも。
 だから彼女はこれでいい。自らが望んだわけでなくとも、皇帝になったことを永遠に嘆き続けることなどない。むしろこの至尊の座を得たことを最大限に利用して、彼女はやりたいようにやってきた。
「でも、ロゼウス=ローゼンティアは違う。彼は……」
 ロゼウスは喪失を代償として手に入れた結果に満足することは、決してないだろう。 
 赦せない罪が確かにこの世にはある。その罪を一生背負っていくことになる彼は己を赦さない。一生己を赦せない。己だけでなく、その道を作った全ての者を赦さないだろう。
 だが、シェリダンの「死」なくしてロゼウスが皇帝になることはありえない。
たった一人の人間の死が世界に何を及ぼすのか。一見何の意味もないように思えるだろう。けれどそこには、シェリダン=エヴェルシードの死はロゼウス=ローゼンティアにとって何よりもの意味がある。
 この上もなく、残酷な意味が。
「シェリダン=エヴェルシードを殺せばロゼウス王子は、もはや狂うしかない」
 狂うしかない。
 狂うために彼を殺す。
 狂わせるために、彼は死ぬ。
 神よ、人はいつか必ず死ぬのに何故生まれてくる? いつか必ず終わる人生であるならば、何のために、そんな運命を彼らに与えた……
「可哀想な子たち」
 可哀想、と憐れみを呟く彼女の瞳は翳りを帯びている。可哀想、と彼らを憐れみながら、しかし彼女自身も彼らをその運命へと駆り立てた者の一人だ。
 ハデスが歪めようとした運命を、プロセルピナことデメテルと巫女ルースの二人がかりで軌道修正した。皇帝を得るべき世界のためなどという大義名分を掲げて、しかし本当はもっと些細にして身勝手な私利私欲のために。
 残酷な運命。
 残酷な自分。
 自分がその役割を負いたくないばかりに、ただ、愛する者の生を願うだけの少年の幸福を全て奪うのだ。
 しかも自分の逃げ道だけはちゃっかりと用意している。それが何よりも酷い。
 プロセルピナもわかっている。己の残酷さは。
 けれどそれを捨てることができない。そのためにシェリダンが死に、ロゼウスが苦しみ、またその決して癒やしを得ることのない苦しみを慰めるためにロゼウスが何人もの鮮血で世界を染め上げるとわかっていながら。
「プロセルピナ姫」
 ふと名を呼ばれて物思いから冷めた。
「あら、ドラクル王」
「もう王ではない」
「そう。それで、準備はできた?」
 こちらにゆっくりと歩み寄りながら小さく頷く青年の顔色は悪い、もともと吸血鬼は蒼白な顔色をした種族だがそれを差し引いても。
 彼の人生を歪め、残酷な運命へと導いたのもまた彼女自身だ。
 ロゼウスの皇帝への即位のためにシェリダンの死が必要とされる。そして、このドラクルの狂気と破滅もそのために必要とされた。シェリダンが光ならばドラクルはその影として存在している。誰が気にせずとも、彼もまた死ぬ。
 わかっていて彼女は彼をその墓場へと送り届けるのだ。
 世界は《誰か》の望んだ破滅へと向かっていくのか――。
「さぁ、行きましょう」
「ああ」
 最後の言葉を交わし、異空間への道を開きつなげる。


253

「いやだ……」
 寝台の上、敷布が乱れている。色の白い肌には淫らな紅い花が幾つも散り、華奢な肢体を扇情的に染め上げる。
 内股を白濁の液体が伝う自分自身の無惨な姿から目を背けるように彼は己の腕を交差させて己の目元を隠す。
 しかし、本当に目隠しして耳を塞いで逃げ出したい現実はそれではない。
「あんたを殺すなんて嫌だ……」
 掠れた喉でロゼウスは力なく呟いた。腕の隙間から涙が頬を零れているのが見える。
「ロゼウス……」
 先程手荒に組み敷いた相手が、いまだその前のことを口にするのにシェリダンが苦い顔をする。手ひどく扱ったことに対し恨み言の一つや二つ叫んで自分を糾弾してくれればまだ良いものの、ロゼウスにそんな様子はない。彼がただ一つこだわっているのはこれからのこと、彼が自分を殺すという未来の予言。
「嫌だよ……よりによって俺が、この手であんたを殺すなんて考えられない。そんな未来ならいらない」
 顔を覆うその手をシェリダンは無理矢理外させ、片手を自らの唇で柔らかくなぞりながら尋ねた。
「他の者ならばいいのか? お前ではない者が私を殺すのであれば――」
 シェリダンが問いかけるのを皆まで聞かず、ロゼウスは繋いだ手を頼りに身を跳ね起こしでシェリダンを睨みつける。
「そんなわけないだろ!」
 目元の縁まで赤く染めた深紅の瞳にまた涙が浮ぶ。
「誰であっても、お前を殺すなんて許せない!」
「……ロゼウス」
 激しい答にシェリダンが何とも言えず苦味走った笑みを返す。
 その胸にロゼウスは縋り付いた。
「死なないで」
 素肌と素肌が触れる。力を込めすぎれば相手の皮膚の方が切れるだろう。震える掌を滑らかな胸にかけて、肩口に顔を押し付ける。
「お願いだから、死なないで」
「そんなに気にするな」
「気にするに決まってる! だいたい、あんたは」
「そうじゃない。そうじゃなくて、だ」
 もはや何を言っても泣きながら返しそうなロゼウスを一度落ち着けるために押し留め、シェリダンはロゼウスの両頬を優しく手で包む。
「そうじゃなくて……ロゼウス、私は他の誰でもなく、お前の手にかかるのであれば本望だ」
「な、にを」
 シェリダンの真摯な瞳とその答に、ロゼウスはもとより大きな瞳を更にまん丸く見開いて目の前の相手を凝視する。
「どういう意味……」
わなわなと震えるその唇にシェリダンは口付ける。ロゼウスがまた先程のように余計なことをしないように、掠めるだけの口づけだ。今はそれしか触れられないというもどかしいその痛み。
正面からその顔を見ることができなくて、シェリダンはロゼウスをきつく抱きしめた。
「他の誰かに殺されたのであれば恨んでも恨みきれない。だがそれがお前ならば……私は……」
 ロゼウスを抱きしめたまま、シェリダンは瞳を閉じた。同じ部屋にいるロゼウスが他でもない彼自身に拘束されていて覗けない以上誰も見ることができなかったその表情は、まるで祈るようだ。
 ここにいない神に祈る。
 信じたこともない神に。
 自分という人間の存在が神に祝福されるはずはないと知りながら。
「……なぁ、ロゼウス」
「な、に?」
「初めて逢った頃のこと……いや、そうじゃないな。お前がエヴェルシードに来て、初めて私が私の本心を吐露した頃のこと……覚えているか?」
 シェリダンの言葉にロゼウスは記憶を手繰り寄せる。どんな記憶だとて忘れたことなど一つもないが、相手が言っているのがそのどれに該当するのかを当てるのはいつも難しい。
「カミラの、葬式のこと?」
「そうだ」
 ロゼウスの背中でシェリダンが微かに笑った気配が伝わってくる。
「私が私の望む未来をお前に語った時。だが、本音を言えばあれ以来、私の未来は見えなくなった気がした」
「……」
「死ぬために生きていた私の心を、お前が捕らえたその日から……」
 カミラが自殺したと伝えられ、真実は姿を晦ました彼女の死体のない葬式を終えたその日。エヴェルシード王家の墓地《焔の最果て》にて、二人きりで言葉を交わした。
 望んだのは破滅、そう告げたその日以来、しかしシェリダンは自らがこれまで望んでいた未来を思い描くことができなくなった。
 自分と共に堕ちてくれると言ったロゼウスを手に入れたいと真剣に願ってしまったその時から、破滅の未来は必要なくなった。
 代わりに望んだのは、ロゼウスと共に在ること。
「じゃあ、尚更不死の術をかければ……」
「そうじゃない。共に在るということは、ただ生きていればそれでいいというわけではないんだ」
「……わがまま」
 小さなロゼウスの呟きにシェリダンは苦笑する。
「そうかもな」
 あっさりと頷くくせにその決断は絶対に変えない。そんなところが卑怯だとロゼウスは思った。
 シェリダンの言葉は続く。
 それは死刑宣告を前にした咎人の告解だ。
 だが「安らかに行け」と告げてくれる司祭はどこにもいない。ロゼウスは司祭にはならない。
「私はもともと罪人だ。この世に生れ落ちたその瞬間から。そして自らの飢えを満たすために何人も殺してきた。お前の国だって侵略した」
「でも、それは兄様が!」
「ドラクルがどうであろうと、最終的にその企みに乗ると決めたのは私自身だ。私が私の意志でそれを決めた。その責任は私にある。あの男のせいだけではない」
 自分が隣国を侵略したのはその国の王子に唆されたから。そんな言い訳、実際に両国の戦いで死んだ人間相手に言えるわけもない。
 自らの行動の結果、その責任は、自らで負わなければならないのだ。
 シェリダンも、ドラクルも、そしてロゼウスも。
 それが望んで引き起こした結果ではなくとも、世界は繋がっているのだから。
今この一瞬の選択が己の未来を作り上げる。
「ロゼウス」
 シェリダンはきつくその背を抱きしめる。彼の腕力ではどうやってもロゼウスを絞め殺すことなどできないのに、何故か息が止まりそうだ。
 一緒に生きることが永久にできないというのであれば、このままここで二人で果ててしまえばあるいは幸せなのではないか?
 しかしその選択は当のシェリダンが与えてくれそうにない。
「愛している、ロゼウス」
「俺だって、あんたが好きだよ」
「私は……愛している……誰よりも、自分自身よりも」
 でも、だからこそ、譲れないものがあるのだ。本当に、本気で好きだからこそそれだけは譲れない一線がある。
「できればお前が皇帝になって、世界を治めるところを見てみたい。私がお前に与えられたものを、世界にも与えるところ」
 シェリダンのその夢は永遠に叶わない。
 どうしてだろう? 他のことならなんでもできる皇帝は、何故「愛する者だけは蘇らせることはできない」なんて。
「死なないでよ……殺したくない……お願いだから、それだけはやめてくれ」
 ロゼウスはロゼウスでシェリダンの背にきつく爪を立ててその身体を抱き返す。その柔らかな白い髪に顔を埋めながら、シェリダンは言う。
「お前に裁かれるのであれば、怖くない」
 その声音が耳に届いた瞬間、ロゼウスはそれまで喉元にこみあげていた全ての言葉を失う。
 悟ったのだ。これ以上何を言ってもシェリダンには届かないと。
 愛しているのに、愛しているから、だから、願いは叶わない。
 どちらかの想いが嘘であればことはもっと素早く穏便に収まっただろう。どちらかが折れて譲ることができるほどの願いなら、神に願うまでもなく呆気なく叶っただろう。
 願えば願うほどに遠ざかる楽園の果て。そのほんの片隅にただ置いてほしいという願いさえ叶わない。
「――ッ!」
 失った言葉の代わりに、それでもロゼウスは伝えたかった。
 愛していた。愛している。今も。
 これからも。
「シェリダン、俺……」

 だから――叶わない。

 ◆◆◆◆◆

 口で伝わらないならば身体で。
 言葉だけ耳で聞けばなんて陳腐なのだろうと笑うその台詞。だけど今はまさにそんな気持ちだった。
「ん……」
 深く深く唇を重ね合わせる。できるものならば、このまま呼吸を奪ってしまいたい。舌を絡め、歯列をなぞる。薄く開いた唇から零れる銀糸。どちらのものとも判別つかぬ混ざり合った唾液をお互い飲み込む。
「ふぁ……シェリダン……」
一度顔を離して呼吸を整える。酸欠で頭がくらくらとする中、ロゼウスは自分と同じような表情をしているシェリダンの肩に手を伸ばしながら請うた。
「目、開けて」
 口づけの際には瞳を閉じるのが普通だが。
「あんたの眼が見たい」
 ロゼウスはそう願った。シェリダンの瞳は綺麗だ。琥珀の中で火が揺れているような朱金。この世で最も、美しい炎。
 これが最後と知るからこそ、その色を見つめていたい。その美しさを瞳に焼きつけていたい。
「……わかった」
 頷いたシェリダンがロゼウスの顎に指をかける。そして僅かに躊躇うように一度視線を落とした後、ひたむきな眼差しをあげて言った。
「私も、お前の眼は好きだ」
 至近距離で間近に見詰め合う。反射的に閉じそうになる瞼を開いて、近すぎてぼやける相手の顔を観察する。
 いつの間にか、開いたままのロゼウスの瞳から涙が零れている。
 その深紅の瞳を映して紅い色に染まらないのが不思議なほどに、透明な涙。濃い色の瞳から溢れ出ている。
「泣くな」
「だって……」
「泣くな」
 目元に唇をつけてロゼウスの涙を啜り、シェリダンはそう繰り返す。意識をそらすため、手をロゼウスの下肢へと伸ばした。
 それでもロゼウスは、まだ不安げにシェリダンを見つめている。
「あ……」
「今だけは、全部忘れていろ」
「忘れられない」
「なら、私を覚えていろ」
 その言葉にロゼウスがハッとした。
「『私を忘れてくれ』なんて、そんなことは言わないぞ。いい人になんて、私はならない。お前は私を覚えていろ」
 シェリダンは暖かなのに凄絶な、不思議な笑みを浮かべる。
「せいぜい私を恨めばいいんだ」
 決して忘れられないほどに、私を恨んでくれ。
「……うん」
 自らの手の甲で残った涙を乱暴に拭いながら、ロゼウスは頷いた。
「恨むよ、シェリダン。俺を置いていくことを。一生、ずっと、恨んでやる」
 恨んでやる。
 俺に自分を殺させるあんたを恨んでやる。
「……ああ」
 そうしてくれ、と一言言ってシェリダンは口づけを再開した。
「ん……ふ……ぁ」
 内股を撫で、下肢を緩々と弄びながら口づけも続ける。角度を変えてお互いの口腔を貪りつくして、絡み合った舌はようやく離れた。
 シェリダンは自らの唇を舐めてその味を確かめる。慣れた唾液の味だけが舌に残り、血の味はしない。ロゼウスにもはやシェリダンの生を勝手にどうこうしようという気はないようだ。
 それでいい。
「ぁん……」
 白い胸元の赤い飾りに指を伸ばす。多少乱暴に捏ねくり回せば、痛みと同時に感じる小さな快楽にロゼウスがやけに可愛らしく顔を歪める。
「んっ……」
 尖った耳をぺろりと舐めると、細い肩が震えた。
「シェ、シェリダン……俺ばっかりってのは……」
「ん? なんだ?」
 頬を紅く染めながらやんわりと胸を押して身体を離したロゼウスに、シェリダンが怪訝な顔をする。
 そのシェリダンの懐に顔を寄せて、ロゼウスが奉仕の体勢に入る。
「おま……」
「このぐらい、やってやるよ……」
 言って、ロゼウスは口を開く。それを咥えて、舌を懸命に動かし始めた。
「……っ」
 シェリダンが思わずのように声を堪える。ロゼウスはヴァンピルの常であって体温が低く、しかし口内は温かい。その落差にぞくりとする。
「はぁ……ん……は……」
 可憐な唇が舌を伸ばし、熱を持って硬くなり始めたものを這う。その卑猥な光景に、シェリダンの中で邪な熱が疼く。
「ロゼウス……!」
 咎めるような声を思わずあげるが、本当に嫌がっているわけではない。寄せられたシェリダン眉間の辺りには、艶っぽい色がある。ロゼウスは口淫に耽りながら、上目遣いでそれを確認する。その視線が更にシェリダンを追い詰める。
「ぁあ……っ」
 どくん、と心臓が跳ねるような感覚と共に醜い欲望が吐き出される。白濁を律儀に飲み込もうとしたロゼウスの顎をその液体が伝った。
 赤い舌が口元のそれをぺろりと舐めあげる扇情的な様子を、乱れた息を整えながらシェリダンは見ていた。
 伸ばした指先はロゼウスの頬に触れる。
「お返しに私もやってやろうか?」
 親切心から言ってやったというのに、ロゼウスはあっさりと首を横に振った。
「ううん」
「おい」
「それよりも……」
 白い頬を火が出ているのかと思うほど紅くしたロゼウスの視線は下を……シェリダンのそれを見ている。
 躊躇いを振りほどいて、自分の頬に伸ばされたシェリダンの手に自らの手を重ねる。蚊の鳴くような声で告げた。
「……あんたが欲しい」
 シェリダンが目を丸くした。
「お前、私相手にそんなこと言ったの初めてじゃないか?」
「ううううるさい! 聞くな!」
 半泣き状態で瞳に涙を浮かべ頬を紅くしながら睨みつけられたところでシェリダンとしては怖くもなんともない。むしろ、そんな顔をしてまで自分を求めてきたロゼウスの様子に、一度精を吐き出したばかりのものが再び熱を持つのを感じる。
「ん!」
 先程も使ったばかりのロゼウスの後ろに前触れなしに指を突っ込んだ。再生の早いヴァンピルはこういう時に仇となる。
「もう一度解さないとな……」
「もう、待てな……」
「我慢しろ」
 力の入らない身体を寝台に押し倒されて先程よりますます不安な顔をするロゼウスを見つめ、シェリダンはきりりと胸が締め付けられる感覚を味わう。
「先程とは違って積極的じゃないか」
 指はロゼウスの中に埋め込んだまま、鎖骨の辺りを吸いながら言えばロゼウスが息も絶え絶えに答える。
「あんたこそ……あんな顔するから……」
「あんな顔?」
「ひぁ!」
 二本目の指を滑り込ませ、くいと中で曲げるようにしてかき混ぜる。内壁を抉りながら奥を突いて、感じる場所を探り当てる。
「ちょ……、ひ、やぁ……ああ!」
「ここか?」
「うう、や、ぁあ!」
 陸にあげられた魚のように、ロゼウスが言葉もないままぱくぱくと口を開く。その唇は先程までシェリダンのものを咥えていたもので、今は唾液で淫靡に濡れている。
 洗い立ての水が滴る果実のような唇に、シェリダンはむしゃぶりついた。
「ん……」
 休まない手に中をかき混ぜられて、口づけに答えながらロゼウスは荒く息をつく。
「シェ、シェリダン……お願い……あんたの……」
 深紅の瞳は情欲に濡れ、伸ばした手は冷たかったはずなのに今は熱を持っている。それが、覆いかぶさるシェリダンの肩に回される。
「あんたが……欲しい……」
 眉間に皺を寄せたシェリダンのこめかみからぽつりと汗が滴った。
「……わかった。やるよ」
 もう一度甘く口づけてから、シェリダンは体勢を変えた。ロゼウスの足を大きく開かせると、ほぐれた後の蕾に自らのものを押し当てる。
「ぁあ……ッ!」
 じゅぷ、と卑猥な水音を立てて押し入ってくるものに、ロゼウスが歓喜の声をあげる。仰け反った肌、白い胸にはいくつも紅い花が散っていた。
「は……」
 ぽたぽたとシェリダンの肌からは汗が垂れる。
 伏せられた顔。
「シェリダン……」
 降って来るのは本当に汗だけなのか? ロゼウスの頬にも、生理的ともそれ以外の理由ともつかない涙が伝う。
 やはり、もっともっと、この涙もただ痛みのせいだと言えるほど乱暴にしてもらった方が良かったのかもしれない。
「動くぞ」
「ん……」
 ただ無我夢中で身体を重ねながら思う。
「好き……」
「ああ」
「大好き、だ」
「……ああ」
 快楽に酔いながら、それでも手放せないたった一つの意識がうわ言のように拙い言葉を繰り返す。
「好きだよ……」
「私もだ」

 最後の夜は幕を閉じる。


254

 君が久遠を望むなら。
 それを叶える力はここにある。
 だが望まない。
 あなたは決して――望まない。

 ◆◆◆◆◆

 意識を失ったロゼウスの身体を横たえながら、シェリダンはその寝顔を見下ろしていた。
 頬は薄っすらと涙で濡れている。これはたぶん無理をさせすぎたとか、そういうものではない。
 何故なら今この瞬間、自分の頬も同じように透明な雫で濡れている。手で拭うと生温い感触が残った。
 止めようとしても止められないものはこの世界にやはりあるのだと。自分で自分が鬱陶しいほどにそれは溢れ出して止まらない。意識のあるロゼウスを前にしている間はそれでもなんとか誤魔化すこともできたのだが限界だ。
「……っ」
 歯を食いしばって嗚咽を堪える。
 ロゼウスを起こすわけにはいかない。聞かれるわけにもいかない。
 覚悟ならつけたはずだろう、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード! 自分で自分を叱咤する。何度も何度も裸の腕で目元を擦った。見た目に反して肌は強い方だから明日かぶれたり腫れたりするということはないだろう。
 敷布を握る手に力がこもる。生身の手ならすでに傷がついているだろう。白い布一枚が頼りの、力を入れすぎて骨の浮いた握りこぶし。
 寝台に寄った皺の先を視線で追うと、ロゼウスの寝顔にぶつかる。
 そこで、急に力が抜けた。
「……ロゼウス」
 吐息のささやかさで名を呼ぶが、夢の中にいる相手は目覚めない。吸血鬼は聴覚が優れているはずだが、先程のやりとりのせいで彼も疲れているのだろうか。
 一秒でも長く見つめていたい気持ちと、明日の戦いに向けて眠らなければならないという思いが交錯する。
 そっと、敷布に投げ出されたその片手に自らの手を重ねた。
 できればこの手を離さずに、いつまでもまどろんでいたい。
 だが願いは、叶わないものだと。
 止まらない涙を零しながら笑顔を浮かべ、祈るようにその手を握る。
「……愛している」
 震える声が落とした。その言葉だけが今の自分を支えている。
 ロゼウスが言うように、死人返りの術をかけられて人の生の理を外れ生きのびるという提案が魅力的でないと言えば嘘になる。
 だが、シェリダンにはそれに頷くわけにはいかない理由がある。
 人であること。人間であること。
 この、シェリダン=エヴェルシードであること。
 それらは彼にとって自分の全てだった。何一つ欠けても、それはロゼウスの愛した「シェリダン」にはならない。
 だからこそ、自分は自分が人間であることを捨てられない。
「……今更捨てていいわけがない」

 ――認められるわけがないだろう、この自分も。この国も。私は私を成した父を認めてはいないのだから。蝮のように母の腹を食い破る代わりに心を食い破って生まれてきた私が、どうして明日を望める? 私は……。
 ――生まれてきてはいけなかったのに。
 ――私が欲したのは、子を成し、日々を紡ぎ、未来を望むための妻ではない。孤独に慣れ憎悪に親しみ、絶望を孕んで破滅を望む――だから、お前がいい。

 父であるエヴェルシード王ジョナスが母親ヴァージニアを強姦した。そうして生まれてきたのがこの自分、シェリダン=エヴェルシード。
 どんな生まれであっても命が生まれてくることに罪はないと言うけれど、シェリダンはそれは違うと考える。何故なら自分は、母を殺した。
 ヴァージニアは世継ぎの王子であるシェリダンを産んだことによって正妃ミナハークに目をつけられ、自殺にまで追い込まれた。強姦の末に産みたくもない子を産んだ彼女にとって、シェリダンの命もまた彼女を追い詰めるものでしかなかった。
 存在自体が罪。そういう存在はあるのだと。
 それが自分だ。
 シェリダンが自分の存在を肯定すれば、ヴァージニアの悲しみを否定することになる。だから、できない。強姦によって生まれた子を慈しめなどと母親に言うのは間違っている。だから、シェリダンは己で己の存在を肯定できない。していいはずがない。
 この顔は嫌いではない。性格も、能力も、王という身分も集う部下たちも嫌いではなかった。だがシェリダンは、自分自身の「存在」を認められない。かといってそれを部下に対して漏らすわけにもいかない。王とは迷ってはならぬものだ。それが他者に目的のためならば迷わずその命を捨てろと命じる軍事国家の王であるならば尚更だ。
 ロゼウスはそんな中で、シェリダンにとって唯一自分の存在の全てを許容してくれた相手だった。
 一目見た瞬間に知った。彼のその瞳は、自分と同じ虚ろな夢を知るものだと。血の色の瞳の中に沈む悲しみは確かにシェリダンと同質のものだった。

 ――あんたたち人間の方が、俺たちヴァンピルよりよっぽど吸血鬼みたいだ。

 人は人を、貶め、傷つけ、苛んで喰らい合う。血を啜り肉を剥いで臓物を食みながら歓喜に歪むその表情はまるで魔物。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 そんな風に言っていたくせに、今は……。
 シェリダンの生まれを聞いて、大抵の者は返しに困る。国王が権力によって無理強いした末に生まれた命。それも、母親は彼を嫌って死んだ。
 の前にいる人間の存在を面と向かって否定できる人間は少ないだろう。かといってこの生まれを聞いて、肯定できるという者も少ない。それは、してはならないことだから。
 ――堕ちていこう、一緒に。
《焔の最果て》でこの話を聞いた時、ロゼウスは泣いていた。シェリダンの悲しみに深く共感しながら、肯定でもなく否定でもなくただ一緒に堕ちるという道を選んでくれた。
 それこそが何よりの救いだった。
 
 この道はただ、いばらの這う、墓標へと繋がって。

 いつか破滅へと繋がる道だと知りながら、愛した。自分と一緒に殺すために攫ってきたのに、相手が自分を選んでくれたその瞬間、世界が開けた。
 シェリダンは本来、ロゼウスにとって憎むべき相手だ。ローゼンティアの王子としては自国を滅ぼした国の王を赦してはいけないだろう。
 そんな間柄で、それでも掛け値なしの本気として出た言葉だからこそシェリダンはロゼウスを信じられる。どんな罵詈雑言を投げるのも自由だったはずのあの二人きりの場面で、ロゼウスはそれを選んだ。
 ――堕ちていこう。
 ――一緒に。
 一緒に。共に。
 拒絶を前提に惹かれ、奪った相手。本音を吐露したのは別にロゼウスに自分を哀れんでほしいからではなかった。シェリダンは政治的な駆け引きの場以外では、本当に思ったことしか口にしない。
 自らが傷ついたことは、他者を傷つける免罪符にはならない。復讐を合法化してくれる国もどこにもありそうはない。理由とは参考にするためだけにあり、それで罪を減じることはあったとしても、免じられるわけではないのだ。シェリダンが母親殺しであることも変わらない。
 それでも彼はその気になれば、全ての責任から逃れることはできたのだろう。
 人はどんな場所に、どのように生まれてくるか選べない。シェリダンが好きでエヴェルシード王夫妻の子として生まれたことも。
 だから自分の存在は罪ではなくて、父親を殺したことは虐待された復讐なのだから当然で、ローゼンティアを侵略したのはドラクルのせいだ。
 そう言おうと思えば言えるのだろう。そして全ての責任から逃れてただ一人被害者面をしても誰も責めないだろう。少なくとも彼の味方である者たちは。
だが、シェリダンはその道は選ばない。
 この命は、この存在は罪でかまわない。彼がそれを否定したのであれば、望まぬ子を産んだ母の悲しみは何処へ行く?
 別に綺麗事を通すことに拘るわけでも、自虐的な考えに耽る趣味があるわけでもない。
 シェリダンが追い求めているのはただの事実、ただの真実だ。
 母親に生き写しの息子として父親に組み敷かれたあの日、シェリダンは確かに、父を憎んだ。傷つけられた者が他者を傷つけ返すことに対して、確かに免罪符は存在しない。だが、その悲しみ、苦しみを否定することも間違いだろう。それをシェリダンは身を持って知っているだけだ。
 自分は絶対に、赦さない。
 だから、赦されなくてかまわない。
 全ての罪を負って生きて行く。母親殺しの醜い「人間」として、それでも生きて行く。
 柵から解放されれば楽だろう。自らを人界に縛り付けるものは、決して幸せなものばかりではない。
 けれど、それでも捨てられないのだ。
「……すまない、ロゼウス」
 シェリダンがシェリダンでなければ、人間であることなどとっくに捨てることができただろう。
 だが、彼が彼である限り自らが人間であることを止める気はない。母親の命を奪って、人間として生まれたのだ。それを誰かの勝手で奪われるわけにはいかない。
 くだらない意地だと言われればそれまでだ。
 だが、その愚かさこそがシェリダン=ヴラド=エヴェルシードの価値だ。
 それを捨てればシェリダンはシェリダンではなくなってしまう。
 だからこそ……捨てられない。

 君は久遠を望むのか。
 それを叶える力もその手にある。
 だが望まない。
 私は決して――望まない。

 ロゼウスがどれだけ真剣に自分の生を願っているかはわかっている。
 事情を知ればローラもエチエンヌもリチャードも、もしかしたらロザリーあたりもそれを求めてくれるだろう。
 だが、望めない。望まない。白い寝顔を見つめながら呟く。
「この一瞬が私の《永遠》だ」

 愛している。私の――……

 ◆◆◆◆◆

 こぽこぽと水の音がする。
水の中に沈み込むような感覚。
 瞳を開けば一面青の世界。湖の底を歩いている。なのに息が苦しくない。手足に水が絡んで重たくなる様子もなく、空気の中を歩いているのと同じように足を前へ踏み出すことができる。
「よぉ」
 首を左右へめぐらせて蒼い果てなき世界の様相を確かめていたロゼウスの耳に、ふいに声がかけられた。背後を振り返るとそこには馴染み深い姿が存在している。
「また顔を合わせることになるとは、な」
 そう言って軽く首を傾げる少年の顔立ちはロゼウス自身と同じものだ。しかし髪の長さ一本一本まで同じというわけではなく、ロゼウスに良く似たその少年はしかしロゼウスよりも若干男らしい。軽く筋肉のついた体に古めかしい皮鎧を着ていて、髪が短い。
「シェスラート……?」
「そうだよ、ロゼウス。お前はどうしてまたこんなところに来た?」
 ロゼウスの前世である男、シェスラート=ローゼンティア。後に始皇帝ロゼッテ=エヴェルシードとその名を交換し、彼に呪いをかけて死んだ男。
「ここは、夢の中?」
「ああ」
 以前のローゼンティア廃教会での戦いで消え去ったかに見えたシェスラートだが、しかしまたこうして夢の中でロゼウスと顔を合わせることになるとは。
 こぽこぽ、こぽり。
 水の中に見えるのは、ロゼウスの深層意識だ。かつてこの、涙の湖で溺れてしまいそうになった。
「俺はお前の前世、お前は俺の生まれ変わりだよ、ロゼウス=ローゼンティア」
 ロゼウスの心の中にある疑問に答えるように、シェスラートは薄く微笑んで口を開く。
「俺とお前は、同じ魂を共有するんだ。俺の意識は常にお前の魂の中にある。消えるわけないだろう?」
「これまでは、眠っていたのか……?」
「そう、お前の中で」
 ロゼウスはそっと自らの胸に手をあてる。手をあてるといってもこれも所詮夢の中なのだが、こうして相対するとまるで相手が実際に自分の目の前にいるようで不思議だ。
 顔を上げると、目の前のシェスラートはどこか意地悪げに笑っている。
「おや、それは心外だな」
「!?」
 ロゼウスがまだ口に出す前からその心の中を読んで、シェスラートが答えた。繰り返すが実際には魂を共有して夢の中で双方の意志を、その姿を反映して具現させているだけなのだから、自らが思ったことがすぐに相手に伝わってしまうのは当然だ。
 ロゼウスも理屈ではそうわかるのだが、頭で理解できるのと実践では違う。この感覚はいっこうに慣れない。
「まぁ、お前は自分自身の命と肉体があるんだからそうだろうさ」
 シェスラートばかりがロゼウスの心を読んで、ロゼウスは口を開く間もなく話が進んでいく。何故か同じ魂の持ち主と言えど、ロゼウスにはシェスラートの心が読めない。流されるばかりでいるわけにもいかないと、制止をあげる。
「待った、シェスラート」
「なんだよ」
 口の端を吊り上げる彼はやはり意地悪げだ。
「だからそれは心外だって」
「俺はまだ何も言ってない」
「でも思っただろう? 俺の方が自分より性格が悪そうだって」
「……」
「ほらな。酷いぞ。俺とお前は同じ存在なのに」
 鮮やかな笑顔を浮かべながら、シェスラートが飄々と告げる。
「俺は、そんなの知らない」
「前世の実感なんてない? まぁ、そうだろうな。でも言っていることはわかるだろう。お前と俺は同じ存在だ。お前が性格が悪そうだと思っているこの俺は、お前自身でもあるんだよ」
 ロゼウスが先程したようにシェスラートは鎧の胸に手をあて、また口の端を吊り上げて邪悪な笑みを作ってみせる。
「俺は……」
「認めろよ、ロゼウス。お前の中には悪魔がいる」
「あく、ま?」
「そう、悪魔だ。……目的のためならどこまでも残酷になれる悪魔」
 微笑むシェスラートの顔は美しいのにどこか空虚で、瞳には底の知れない光がある。
「もっとも、俺たちだけじゃないけどな。俺だってお前だって、他のヤツラだって、ただ普通に生きている普通の人間の中にだって、悪魔は住んでいる」
 シェスラートの言葉は意味深な謎かけめいていて、ロゼウスにはその意味がよくわからない。
「わからないんじゃないよ。お前はわかろうとしないだけだよ」
 またしても心を読んだシェスラートの言葉にロゼウスはむっと眉をしかめる。
「なんでそんなこと言える」
「だって俺はお前の中にいる。俺はお前だ。お前の中で目覚めている。そして今、俺はお前に伝えているだろう。本当はわかっている、と。行こうと思えばすぐに辿り着ける道の先に、お前の答はあるんだよ」
 瞳の光とは裏腹に彼の言葉は淀みなく綴られて止まらない。
「わからないのではない。お前は、わかろうとしないだけだ――逃げているんだよ」
「違う!」
「違わない」
 そしてまた彼は酷薄に口元を歪める。
「ねぇ、覚えてる? ロゼウス。俺がお前の中で蘇った時のこと」
 シェスラートはある時点から生まれ変わりであるロゼウスの精神を侵し、その肉体を乗っ取りだした。その時のことだろう。
「覚えている……薄っすらとだけど。シェリダンに会うまでは、夢を見ているような感覚だったけれど」
 彼の言葉の意図がつかめないままに、ロゼウスは記憶を手繰る。
「可哀想な狼を、一匹殺しただろう?」
「あ……」
シェスラートの言葉に触発されて、ロゼウスの脳裏をどこか寂しそうな雰囲気を漂わせた幼い少年の横顔がよぎる。
「ヴィルヘルム……」
「そう。あの可哀想な子」
「可哀想可哀想って、あいつはあんたが殺し……」
 言いかけてそれに気づきはたとロゼウスは立ち尽くす。
 口元を片手でゆっくりと覆う。夢の中だというのに顔色が蒼白になる。
 ヴィルヘルムのことも、ウィルのことも殺したのはシェスラートだ。しかし彼が操っていた器は確かにロゼウスのものだった。ロゼウスはシェスラートとして彼らに手をかけたのだ。
「そうだよ。お前はシェリダン=エヴェルシードにだけは手をかけなかったけれど、それ以外の相手はあの可哀想な少年も、実の弟も簡単に殺すことができる」
 だから、悪魔だと。
「お前は自覚するべきだ。自らの残酷さを。お前には自分自身よりも大事なものがない。だから、自分に都合の悪い相手を簡単に殺すことができる」
「そんなこと」
「エヴェルシードでシェリダンは、自らの名誉を犠牲にし、民衆に石を投げられても民を救おうとしたね。お前にそれと同じことができるか?」
 シェスラートの言葉にロゼウスは口を噤む。まだ記憶に新しいその出来事は、シェリダン=エヴェルシードという人間の本質を知る場面でもあった。
 傍からそれを見て、ロゼウスはただ、馬鹿だな、と。シェリダンのやっていることは誰かを救うのかもしれないが、少なくとも自分の眼から見ては、愚かだな、と。
 あんなにも自らを犠牲にしてすり減らして生きることはロゼウスにはできない。
 そしてこんな自分は、シェリダンがそういう人物だから誰よりも好ましく思う。
「言ってあげようか? ロゼウス=ローゼンティア。お前の真実を。お前は自分よりも大切なものがない。それが、お前の宿命、お前の未来、お前の選択」
 自分よりも大切なものがない。
 だから自分以外は誰でも殺せる。
「明日の結末、教えてあげようか?」
「あんたに何がわかる!」
「わかるさ」
 彼は憐れむような笑顔を浮かべた。生まれ変わり未来の己であるはずの姿を見つめながら、シェスラートはそれを嘲笑い、憐れむ。
「簡単なことだよ、ロゼウス=ローゼンティア。猫は鼠を捕まえて殺すだろう」
「え?」
 予想を外した返答に、ロゼウスはきょとんと表情を崩した。猫と鼠? いきなり何を言い出すんだ、この男は。
「それをよく覚えておくがいい。いや、覚えているだけ無駄なのかもしれないけれど」
 シェスラートが小さく首を振る。
「お前にとって……俺にとって、この存在にとってシェリダン=エヴェルシードは確かに大切な相手だろう。けれど、でも……だからこそ……」
 ロゼウスにとって、シェリダンはかけがえのない相手だ。シェスラートもそれはわかっている。ヴィルヘルムもウィルも殺したロゼウスはしかし、シェリダンだけは殺したくないとシェスラートの支配を跳ね除けたのだ。
 引き換えるもののないほどにかけがえのない相手と引き換えられるものは何だ?
 ロゼウスは呆然と目を見開いて、シェスラートの方を見つめている。

「お前は、俺たちみたいになるなよ」

 彼は悲しげに寂しげにそして少しだけ優しく笑った。
 その白い輪郭がぼやけていく。夢の終わりが訪れようとしている。
「シェスラート……ッ!」
 ロゼウスは夢中で手を伸ばし、自分とよく似た前世の男の姿を掴もうとした。
 指先が湖底の幻影をすり抜ける。
「――ッ!」
 目覚めた意識の中で、何かが胸の奥を引っかいた。


255

 瞼が温かい。熱い。
 白い日差しが降り注ぎ、穏やかな眠りを焼いていく。余りにも短い睡眠だった。けれど、忘れられない夢を見た。
 ――お前の中には悪魔がいる。
 ハッとして身じろぎした瞬間、柔らかな掛け布が身体に纏わりつく感触がした。裸の身体にそれだけをまとって横たわっていた。
「シェリダン……」
 思わず名を呟くと、返事は隣からの短い呻き声。
「んー……」
 蒼い眉を一瞬寄せたシェリダンが、覚醒前のとろりとした瞳を開いた。
「なん……、っ!?」
 次の瞬間にはしっかりと目を覚ました彼が身体を起こす頃には、ロゼウスも夢の残滓を振り捨てて冷静になったところだった。
「あ……ごめん……」
 起き抜けに謝罪から始められてぱちぱちと目を瞬かせたシェリダンだったが、困った顔のロゼウスを見てふっと口もとを緩める。
「おはよう、ロゼウス」
「うん。おはよ、シェリダン」
 お互い裸で、身体には昨夜の名残もまだ残っているというのにこんなにも極自然と会話ができるのはこの朝の白い光のせいなのか。
 もっとも吸血鬼であるロゼウスにとって直射日光は毒だ。寝台脇の窓にはきちんと日除け布が下ろされている。その紗幕越しの弱められた光が、目に酷く心地よい。
 朝とはこんなにも明るいものだったろうか。
 と、そこまで考えてふと二人は気づいた。
「……なぁ、シェリダン、俺たち」
「……もしかして寝過ごしたか?」
二人とも王族であるだけあって通常朝は早い。朝議というものは大抵夜明け前から始まる。そのため日が高く昇った頃に目覚めるなんてこと普段はしなかったのだが、窓の外から差し込む白い光はどう考えても夜明けの紫の空が落とすものではない。
「えーと、でも、何かあったら誰かが呼びに来るよな」
「そうだな」
 もっとも寝過ごしたかどうかなど杞憂で、何しろ今は通常という言葉の枠内にはどう考えてもないだろう生活をしている。ロゼウスの言うとおり、何事かあれば誰かが呼びにくるだろう。
 その何事か、の内容は一つしかないのだが。
「……シェリダン」
 一度は寝台に身を起こしたはずのロゼウスがそっと指をシェリダンの方へと伸ばし、その手に絡めた。
「ん? 何だ?」
 昨夜が遅かったことに加え、それ以前に怪我をして熱まで出したこともあってかまだ眠い様子でふわ、と小さく欠伸したシェリダンの様子にロゼウスはふと表情を緩める。
「もう少しだけ寝る?」
「私はそれでもいいが……お前は? 今日は……」
 言うのはなんとはなしに憚られる言葉を口にしかねて曖昧に濁すシェリダンの眼差しに、ロゼウスはやはり微笑で返す。
「シェリダンがしたいようにしていいよ、俺は」
 指を絡めたままロゼウスはそれだけを告げる。
「俺は……大丈夫、だから」
 言葉の途中で表情が乱れ、くしゃりと歪む。
「……ロゼウス」
 眠気を振り払って苦い顔をしたシェリダンがその頬を挟みこんで顔を覗き込む頃には、ロゼウスの頬には涙が浮いている。
「ごめ、そんなつもりじゃ……!」
「別に私は気にしない。気にしているのはお前だ……気にしなくていいのに」
「だって……!」
 先のことを考えると不安のあまり涙が出てきて止まらなくなる。小さな子どもでも神経繊細な貴婦人でもないというのに、止まらない、涙が。
 ロゼウスは身体を震わせたまま、シェリダンの胸に縋り付いた。
「ロゼウス」
 凛と染み入るような声音で名を呼ばれても、今日ばかりは嬉しさよりも切なさが募る。
「どうして、どうしてあんたじゃなきゃいけないんだよ!」
 他の誰を殺せと言われてもこれほど動揺しないだろうロゼウスはシェリダンの膝の方にまで突っ伏して泣きじゃくる。朝から頬や目元を腫らすことになるだろう彼を馬鹿だなとも言わずにシェリダンはその髪に手を伸ばして撫で、慰める。
「言っただろう……私はお前に裁かれるのであれば怖くはない」
 お前が私を裁いてくれ。
「いやだ、そんなの……」
 シェリダンの膝に縋り、震えながら泣いていたロゼウスが目元を拭って顔をあげる。
 その表情には鉄よりも固い決意が潜んでいた。
「ハデスの予言の通りになんてさせない。運命なんて変えてみせる」
「そうだな。できたらいいな」
「シェリダン!」
 意気込むロゼウスとは裏腹にシェリダンは飄々としたものだ。本日死ぬのは自分だと言われていると言うのに、まるで平然とした顔をしている。
「勘違いするなロゼウス、前にも言ったが、私だって別に積極的に死にたいと思っているわけではないぞ」
「俺が意味わからなかった、あれ」
 エヴェルシードでの時のことだ。シェスラートが夢でも言っていた。シェリダンが国をカミラのもとでまとめあげさせるために一芝居打ったあの時のこと。
「そうだ。……今でも、お前にはわからないか?」
 死ぬのは「嫌」だ。だが「死にたくない」のではなく、「生きていたい」。
 シェリダンはそう言った。死にたいわけではないが、死にたくないのではないと。生きていたいのだと。
 生きていたい。
 けれど彼は今日、この場所で死ぬ。
「あんたはいつも、俺には何がどう違うのかわからないような難しい言い回しばかり使う」
「別に難しいことなんて私は何一つ言っているつもりはないが。基本的に私よりお前の方が優秀なのだからな。鍵さえ知っていればお前が私の言葉を解せぬはずはない」
 シェリダンの言葉にロゼウスは唇を尖らせた。恨めしげな眼差しでシェリダンを見つめる。
「でも、わかんない」
「……お前は、私が知っていることを一つだけ、知らないからな」
 悟りを得た聖人のような表情で、シェリダンは瞳を閉じる。ロゼウスとはまだ手を繋いでいる。細い指先を絡めて伝わってくる体温。それが熱くとも低くとも、構わない。
 ロゼウスは絡めた指を振り払うこともできず、けれど先程のように縋りつくこともできず、ただその静かな横顔を眺めていた。日除け布越しに差し込んだ日差しを反射して藍色の髪に光が降るようだ。
 これこそ、まさに夢のように美しい光景。
「……どうした? ロゼウス」
 ふとシェリダンがこちらに気づき顔を向けてくる頃には、知らずロゼウスの頬を涙が伝っている。先程も派手に泣き喚いたせいでもはや自分の頬が濡れていてもロゼウスは何も感じない。
「私なら、大丈夫だぞ」
 困ったような顔で笑うシェリダン。この笑顔も、繋いだ手の温もりもこのままでは失われてしまう。
 けれど昨夜散々抵抗されあれだけ拒絶されたロゼウスはもう、彼を無理矢理不老不死の《死人返り》にすることもできない。愛しているから死なせたくないのに、愛しているからその意志を無視してまで術をかけられない。
 目の前の人の姿は、何故こんなにも美しいのだろう。
 いつかこの手をすり抜けて、必ず失うとわかっているからこそ尊いのか。
 ロゼウスはまたしても乱暴に頬をこすって濡れた場所を乾かす。白い肌は一瞬痣がついてすぐに消えていく。疎ましいくらいに頑丈な自分。脆弱な人間とは比べものにならない。
 儚いものを好めば好むほど失われる瞬間が痛いと知っているのに、それでも焦がれてしまった。
「さて、そろそろ着替えて朝食にでも行くか。この時間だとローラたちが何か用意してそうだしな。なぁ、ロゼウス」
「……うん」
 絡めた指を名残惜しげに離し、二人はそれぞれ自分の着替えを手に取る。さっさと身支度をすませば、まるでいつもの朝と同じように動き出す気力が湧いてくる。今日この後に起こる出来事など、嘘ではないかと思うくらい。
 けれど確かに今日、この日が決戦。
 この世界に決して明けぬ夜はなく、漆黒の空は必ず朝に包まれるのだということ。それが何よりも残酷だとロゼウスは知った。

 ◆◆◆◆◆

 いつの間にか用意されていた新しい服はハデスあたりが気を利かせたのだろうか。
 自らがエヴェルシード国内にいた時分着用していた国王の正装にシェリダンが声を失っている。
「エヴェルシードの軍人王の死に装束には、これが一番相応しいというわけだな」
 深紅に金の縁取りのある派手な軍服だ。長靴は黒に、しっかりと固定するためのベルトがついている。腰にも剣を佩くためのベルトがあり、胸元にはスカーフ。全体的に厚い生地で出来ているため、優雅でありながら防御力は高い。この奥に鉄板を仕込んで更に頑丈にすることもできるがそこまではしていなかった。動きやすさを考えてマントは外している。
 確かにシェリダン自身もこの格好が一番しっくり来るのではあるが、できすぎだとも思っている。
「シェリダン……」
 死に装束云々という言葉に反応してか、ロゼウスが端正な眉をまた歪めている。そういう彼自身も新しい服装に着替えていた。深紅を基調としたシェリダンの衣装とは違い、ロゼウスのそれは黒と白だ。上着の裾が燕尾服のように独特の形をしている。シェリダンが正装ということはロゼウスの方もローゼンティアの正装なのだろうか。しかしそれにしてはズボンの長さが中途半端ではある。
「俺がローゼンティアにいた頃に着ていた服なんて、いつの間に……」
 ロゼウス自身も少々驚いたような顔で自分の格好を見下ろしている。ということは、あれは単なる普段着か? この辺りで、用意したのは十中八九ハデスだろうと納得する。
 これまで何度もこちらを寝返り裏切ってくれた友人はしかし今現在、ほとんどシェリダンの前に顔を出さない。ロゼウスや他の者たちの言葉では気にかけてはいるということなのだが。
「ま、考えても仕方ないか」
 刻一刻と時は磨り減り、宿命の約束の刻限に迫り来る。シェリダンもロゼウスも準備は万端だ。後の者たちも仕度をすでに終えている。
 先程顔を合わせた際に、ロゼウスの妹姫の一人であるメアリーの姿が見当たらなかった。ロザリーが考えて、決戦になる前に逃がしたのだという。シェリダンもロゼウスもその言葉に頷いた。ここから先は、覚悟のないままでは足を踏み入れることの許されない世界だ。あの気弱で優しい性格の王女にそんな度胸があるはずもない。
「待たせたな」
 二人が着替えを終えて部屋から出て行くと、後の者たちはすでに仕度を整えて二人を待っていた。
「こっちだよ」
 ハデスの案内で、戦いやすいという場所へ移動する。予言で未来を見ることのできるハデス自身は最悪の未来に辿り着く場所を恐れているのだが、他の者にはそう言ったところで伝わらないことだ。
「……いいのか? ハデス。姉君と敵対してしまって」
 シェリダンはハデスを見る。ハデスも視線を返す。
「……うん、今更だから。それに、いつかはこうなることもわかっていたし」
「こうなること?」
「そう、姉さんと敵対すること」
 シェリダンは度重なるハデスの裏切りには触れず、ただ戻って来た彼の考えを僅かなりとも、自分が理解できる範囲でいいから理解しようと問いかける。
「僕は、姉さんから両親を奪った」
 ぽつりと言ったハデスの言葉に、シェリダンは一瞬自分の境遇を重ねた。母を殺し、父も殺した。シェリダンとしてはそれで正しい。だがハデスの方は。
「……逆だろう。デメテル帝が父親母親を殺したのは、お前を得ても得なくてもかわらない」
「たぶんね。だけど姉さんとしては、両親を失ってその代わりに僕を手に入れたんだよ。弟を作ってくれれば皇族に加えるなんて嘘をついて、手に入れた結果がこれってわけだ。僕は持ち主の意見を聞かない不出来な人形」
「自分で自分を不出来と言うことはないだろう」
「本当のことだ」
 ハデスは胸に手を当てる。昨日もどこかで見たような仕草だと思ったら、シェリダンはそれがロゼウスのものだと気づいた。
 胸、その中にある心臓に手を当てているのだ。心はそこにある。
 人は旨の前で両手を組み合わせて祈る。それと同じ事だ。心から、心からそう思うのだと告げる。
「人は何かを失う代わりに何かを得る。だが、そこで一度手放してしまったものは本当に新たに得たものと釣り合うほどの価値があるのか?」
 もともと広間には静寂が満ちていて、あとの者たちは黙り込んで喋らない。ハデスの言葉を、向かい合ったシェリダンだけでなく彼らも聞いている。ロゼウスも。
「姉さんは両親を殺して僕を得た。けれどそれは、本当に『良い事』なのか?」
 手に入れたものと失ったもの。
 だが、本当に新たに手に入れたものは前に失ったものよりも価値があるのか。失ったものの方が大きすぎて、自分は損をしていやしないだろうか。
「これから手に入れるものが前に失ったものほど素晴らしいとは限らない。でもそう考えるのは辛いから、人は自分が支払った代償よりも多くの価値を得たものに望むんだよ」
 聞きながらシェリダンは彼の言葉の真意に思い当たる。
 ああ、そうか、彼は……
「姉さんが、両親を殺したことを後悔したくないために僕を愛するようにね」
「ハデス」
 彼は姉であったデメテルの愛情をそういうものだと考えていた。だからこそ、どんなに彼女からあなたは私の可愛い弟だと言われても姉を信じきることができなかった。その心の孤独を垣間見ると同時に、最後に付け加えられた言葉に一同はもともとなかった言葉を更に失う。ここで今、ようやくハデスという人間の本質を見るような気がする。
「だから?」
 しん、と降り積もり底の方で張り詰めた空気。それをもう一度持ち上げ引き裂くようにしてロゼウスが問いかけの言葉を放った。紅い視線は真っ直ぐにハデスの方を見つめている。睨みつけている。
「だから、お前は何? それを知って、これからどうしようと言うんだ?」
 自らもロゼウスの方へと向き直ったハデスが表情を険しくし、はっきりとした口調で言い切った。
「だから、僕はもう失いたくないんだよ」
 一度失ったものはもう二度と手に入らない。後からどんなに代わりを求めても、それはかけがえのないたった一つのものにはならない。
失ってしまえば、もうそれっきりだ。後悔しても戻らない。
だから、失えない。
「そうか」
 ハデスの返答を聞いて、厳しい表情をしていたロゼウスが少しだけ目元口元を緩める。対照的にこちらは常に冷静とも冷徹ともつかない無表情をしていたジャスパーがぽつりと零す。
「愛の告白ですね」
「は?」
「はいぃ?」
 合いの手はロザリーとエチエンヌの頓狂な声で、張り詰めていた空気は跡形もなく崩れるようだった。ローラとリチャードは頭を痛めたように額に手をやっている。
 さすがにそこまで言われるとシェリダン自身もなんとなく恥ずかしいのだが。
 ローラとリチャードもそれほど深い事情は知らないとはいえハデスの遠回しな語りの意味には気づいていたということだろう。鈍いロザリーとエチエンヌに呆れている。
 広間の中を移動してシェリダンの側へすいとやって来たハデスが彼にだけ聞こえるようにそっと呟く。
「お前を殺させやしないよ」
 足こそ動かさないものの、先程の場所から首だけをめぐらしてハデスの動向を追ったロゼウスが不愉快だという表情をする。
「そこまで心配しなくとも」
「無茶を言うな。僕にあんな未来を見せておいて」
「お前は自分の能力に自信があるんだな、ハデス」
「当たり前だ。僕が何年生きていると思ってんのさ」
「あの予言を回避したら、明日からは預言者は廃業だぞ」
 茶化すような口調でシェリダンは言うが、ハデスの方は存外真剣な様子だった。
「かまわない」
「……ありがとう、ハデス」
 砂時計の砂が滑り落ちていく。


256

 昨日の敵は今日の友というが、彼らは昨日も敵であり友人だった。では今日は一体何だろう。そんな気持ちで、ロザリーは間近で話すシェリダンとハデスの二人を見ていた。
 帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティスとは彼女にとってただの記号程度の意味しかない。帝国宰相とハデスという人物は常に同意味だと感じていたので、帝国宰相という役割を持ちながら皇帝である姉を裏切り自分たちと敵対し、かつ今ではシェリダンと親しげに話すハデスの姿がなんだか不思議なもののように見える。
「ロザリー」
「ロゼウス」
 先程までそのハデスと言葉を交わしていたはずの兄はもうすでに彼らに興味はなくしたのか、彼女へと声をかけてきた。否、興味をなくしたのはハデスにであって、「彼ら」とくくるのは間違っているかもしれない。ロゼウスはロザリーの方に一度顔を向けたものの、まだちらちらと彼と話し続けるシェリダンの方を伺っている。
「帝国宰相って、シェリダンと仲いいのね」
 先程まで疑問に思っていたことをロザリーが口にすると、事も無げにロゼウスは答えた。
「うん、あの二人は友達らしいから」
「そうなの?」
「うん」
 一年前、エヴェルシードに侵略された際に一度死んだロザリーは蘇ってすぐにロゼウスを追ってすぐにローゼンティアを出た。彼と離れていた期間はそう長くはなく、従ってシェリダンと共に過ごした時間も同じくらいのはずなのだが、どうにも彼女にはロゼウスがそう簡単に頷けるほどハデスとシェリダンの友情というものがわからない。
 これはやはりロゼウスが、どれだけシェリダンと一緒にいたかということが関係あるのだろうか。彼らを見てはいても積極的に自分から混じろうとしないロゼウスの様子からすれば、それが男の友情などという意味不明なものでないことだけは何となくわかる。それでもロザリーは何度も敵対したはずのハデスと平然と喋れるシェリダンの神経がわからない。
「別に気にしなくてもいいんだよ、ロザリー。俺たちの場合は、あいつとはまた事情が違うんだから」
「ええ」
 ハデスはミカエラを殺し、ミザリーの死の原因も作っている。そんな彼をロザリーは許すことはできない。それでも行きがかり上協力してもらった場面というのも少なくはなく、結局のところ同じ空間にいても極力言葉を交わさずにやり過ごすということになる。
「それでいいんだよ」
 難しく眉を潜めた彼女に対し、ロゼウスが優しく告げる。彼自身内面では複雑なものがあるのか、シェリダンの様子は伺うのにハデスの方はあんまり見ようとはしない。
「ロゼウスはいいの? あの人がここにいて」
 ここは最終決戦の場だ。皆、戦いやすい服装に着替えて襲撃に備えている。年頃より豊満な体つきを男装に包んだロザリーも例外ではない。
「うん、あれでも役に立つかもしれないし。シェリダンがそうしろって言うし。今は使えるものは何でも使いたいからね」
「そうね」
 シェリダンの意見も聞き入れるようでいて実はさりげなく酷いことを言っている兄に普通に同調し、ロザリーはその顔を横目で窺う。片親は違うというのに双子のように自分と瓜二つであるロゼウスの顔立ち。
「どうかした?」
 気づいたロゼウスが尋ねてくるのに、ロザリーは緩く首を振ってなんでもないと返した。
「ロゼ、本当に皇帝になるの?」
「らしいけど、どうなんだろうね」
 同じ国で同じ父を持つ兄妹として生まれ育ったにも関わらず突然世界を背負って立つ人物だと知ることになったロゼウスの姿に、ロザリーは違和感と寂しさを隠せない。
 対するロゼウスは彼女の心情も知らず、平然としている……いや。
「……ロゼこそ、どうかしたの?」
 その気になれば内心とは全く正反対の表情を浮かべることもできる兄のポーカーフェイスを見破って、ロザリーは今のロゼウスの状態を言い当てる。態度こそいつも通りに見えるロゼウスだが、実は落ち着きなく辺りに目を配るようにしているし、時折ふと切なげな表情を浮かべることがある。
「なんでもないよ」
「うそ」
「……ロザリーにはやっぱり敵わないな」
「あたりまえよ」
 一度は誤魔化そうとしたロゼウスも彼女の真剣な瞳に気づいたのか、苦笑して言葉を変えた。ロゼウスの様子が昨日からどこかおかしいのは、彼女の気のせいではなかったようだ。
 昔はあれほどまでに近かった兄との心が今は遠いことを、ロザリーはちゃんと自覚している。これまではロゼウスにとってのドラクルという存在を除けば、ロゼウスの一番近くにいる存在は自分だった。けれど今は違う。
 彼を想って死んだミカエラやウィル、ミザリー。尊敬していたドラクルを裏切ってまで味方についてくれたアンリ。選定者としてこれからも共にあるのだろうジャスパー。ロゼウスはもう一人ではなく、ロザリーだけのものでもない。彼女がこの兄との間に親密に感じていた距離に、他の者たちが入ってきたことによって彼女はそれが自分の思い込みであることに気づいた。それは針の一本も通らない細い隙間ではなく、ある種当然の距離だったのだ。その気になれば誰だっていくらだって詰められる距離。
 確かにロザリーにとってロゼウスは大切な兄であるし、ロゼウスから見たロザリーも大切な妹であろうが、それは彼女だけの話ではない。そしてロゼウスの「一番」はもう彼女でもなければ、ドラクルでもない。
ロゼウスの視線がちらちらと行く先を見てロザリーは一瞬目を伏せる。
 藍色の髪に朱金の瞳を持つ少年はハデスと何事か交わし終えた後、何故かジャスパーと話しだしている。
 その姿を目にするとやはり、一瞬胸が痛くなる。報われない鼓動がとくんと打ち、岩にぶつかる波のように砕けていく。
 彼がロゼウスの一番の位置を持って行ってしまった。そして彼の一番はロゼウスだ。ロザリーはどちらにとっても二番手以下にしかなれない。そして現実は二番手にすらなっていない。
 ただ見つめているだけ。今は違うが、普段から二人が仲睦まじくしている光景は微笑みと共に切なさを誘い、何事かもめている様子だと喜ぶことも怒ることもできずにただはらはらとしている。
 幸せになってほしいと思った相手の幸せを見るのがこんなにも辛いとは思わなかった。
 ロゼウス、確かにあなたに幸せになってほしいと思っていたのに。
「ねぇ、ロザリー」
「ん? 何」
 ふとした物思いに沈んでいたところを急に呼びかけられてロザリーは慌てて顔をあげた。
 短気な彼女がそそっかしいのはいつものことであり、ロゼウスはその仕草を気にもとめなかった。その代わり真剣な表情で、ロザリーに思いがけないことを尋ねてくる。
「王になる気はないか?」
「え……」
 一瞬何を言われたのかわからなかった。
「ローゼンティア王に、なる気はないか?」
 ローゼンティア、の王。自国の王。
 ロザリーは継承権自体は決して高位ではない王族だ。他の正妃に比べ身分の低い母から生まれた、しかも女児である彼女の王位継承権は十三人兄妹のうち十二位。末姫のエリサの次に低いのである。もしもドラクルによって王妃たちの不義が暴かれ兄妹の半分は父王の子ではないのだと知らされずとも、普通に考えて彼女に玉座に着く資格が回ってくるとは誰も思わない。
 しかし、その少ない可能性が今確かに起こってしまった。誰も文句のつけようのない王になるだろうと言われていたドラクルも、彼に次ぐ実力を持つアンリもブラムス王の実子ではないと知れ、本来正統なる第一王子と呼ばれるはずだったロゼウスは皇帝候補。始皇帝シェスラート=エヴェルシード、本名ロゼッテと言う名の彼以外の歴代の皇帝は国王と皇帝を兼任しないのが慣わしであるから、ロゼウスがローゼンティアの玉座を継ぐ事はない。 
 それに何よりもまず生き残っている王族の数が少ない。ロゼウスと彼の選定者であるジャスパーを外せば、ドラクル、ルース、ロザリー、メアリー、エリサだけ。そしてメアリーとエリサは争いを避けるためにどこか平和な場所へと姿を消した。
「ロゼウス……」
「今日の戦いで、俺は兄様を……ドラクルを殺す」
 もっとも栄光に近い痛みの沼。それが王位継承問題。それをあえて出してきたロゼウスの真意はその言葉で知れた。
「ドラクルを殺したら、多分ルースも死ぬだろう。残る王族は俺たちだけだよ、ロザリー……だから」
 お前が国を継がなかったら、誰があの国を継ぐ?
 突然のことにロザリーが反論する暇もなく、ロゼウスはそれを告げる。
「わ、私は……」
 ローゼンティア王の道。
 一国の支配者。思っても見なかった責任。
 わかっているはずの、でもわかりたくはない未来。
「ロゼは、ドラクルを生かす気はないのね?」
「……うん」
 もう戻れないのなら前に進むしかない。
「……いいわ、私がなるわよ。なってやるわよ。ローゼンティア王に」
 瞼を閉じれば今も鮮やかに蘇りそうな幸せだった時期。だけどもう、振り返ることはできない。
「ロゼウス、私はあなたの妹。そしてローゼンティア王は皇帝の部下。……例え立場がどうなろうと、私があんたを支えるのに変わりはないわ」
「ありがとう……ロザリー」

 そう、たとえどんな結末になったって、けっして私はロゼウスを見捨てはしないから。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンがハデスと話している間に、ロゼウスはロザリーと会話を始めていた。一方シェリダンの方へは、何故かジャスパーが近寄ってくる。
「何用だ? 私は貴様と話す気分ではないが」
「そうでしょうね。残り少ない己の時間を、兄様ではなく僕相手になど使いたくはないでしょうね」
 口では理解を示しながら、しかし年下の少年は皮肉げに距離を詰める。
 ロゼウスがシェリダンを殺すという予言の内容を正確に知り尽くしている人物は少ない。そしてジャスパーは正確に知っている方の人間だ。
 何度も己の立ち位置を変えて事態をかき回したハデスとはまた違った意味でジャスパーの内面は読みにくい。何しろ十四年間一緒に育ったローゼンティアの面々がわからないというのだから数ヶ月程度の付き合いしかないシェリダンにわかるはずもない。
 それにジャスパーは、弟としてではなく、男として兄であるロゼウスを愛してしまっている者だ。その彼からして見れば、シェリダンは目の上のたんこぶだ。憎いなどというものではない。この場で誰よりもシェリダンの死を願っているのは、間違いなく彼だろうと思われる。
 だからその少年の次の言葉に対するシェリダンの反応が若干遅くても不思議はなかった。
「――本当にいいんですか? これで」
「……は?」
 尋ねてくるジャスパーの言葉に真意を掴み損ねてシェリダンは間の抜けた返答を口にする。いや、ただ単にそれは吐息が疑問を添えて出ただけで答になってはいない。
「このままいけば、あなたは死にます。それでもいいんですか? 死ぬのが嫌なら今すぐそこの元帝国宰相にでも、皇帝領の外へ送り届けてもらえばいいんじゃないですか?」
 ロゼウスの前ではしおらしく憂いを浮かべた表情でいるジャスパーは、しかしシェリダンの前では更に彼の内面を読み取りにくくさせる無表情だ。その無表情で淡々と言われた言葉にシェリダンは目を丸くする。
 彼自身の戦闘準備は万全だった。ロゼウスと似たような形の、色違いの服を着たジャスパーは腰に剣を佩いている。その眼差しは決戦前の緊張か、きりりと厳しい。
「それはもしかして、私に逃げろと言っているのか?」
「もしかしなくてもそうです。むしろ、そんな前置きをつけられるほど迂遠な言い方をした覚えはありません。あなた実は頭悪いんですか?」
「失礼なガキめ……そうではない。お前がそんなことを言ったのが意外というだけだ」
 シェリダンは素直に驚いていた。まさかこのジャスパーが恋敵である自分を案じるような態度をとるなどと。
「僕が心配しているのは、あなたではなく兄様です。むしろあなたに関しては死ねばいいとはっきり思っています」
「おい」
「だけど、そんなことしたら、兄様は絶対に悲しむ。だから……」
 ジャスパーは可憐な唇を噛んで視線を俯かせる。
「逃げるならば、逃げてもいいですよ」
 消え入りそうな声には苦悩が満ちている。混沌としたそれに、しかし一筋の救いのような光が差しているのもシェリダンにはわかった。
「兄様が好きだから、僕にとってあなたは邪魔です」
 目の前の相手にしか聞こえない、同じ室内にいるロゼウスにすら聞こえないように気を遣って、シェリダンだけに聞こえるよう本当にほんの小さな声でジャスパーはそう言った。
「でも、その兄様が悲しむからあなたを死なせるわけにはいきません」
「私の死は決定事項ではなかったのか? ロゼウスを皇帝にするための。恐らくそれは私の死が何らかの影響をロゼウスに及ぼし、それが皇帝としての成長に必要だということだろう?」
 内心でシェリダンがずっと思っていたことを問いかけると、一瞬ジャスパーが変な顔をした。よく意味が飲み込めなかったようだ。
「どういう意味ですか?」
「どういうって……」
「あなたを殺すことが何故ロゼウス兄様の即位の道になるのか、僕にはわかりません。ハデス卿もたぶん。でも、あなたはご自分でそれをわかっていると?」
「それは……私は……」
 愛する者だけは生き返らせることのできない皇帝という存在。
 その皇帝のために、何故愛する者の死が必要なのか?
 幸せならそれでいいではないかと人は言う。救えるだけのものを救える力があれば。
 ――本当に?
「私は、私の存在はたぶん――」
 シェリダンには考えていることがある。彼であるからこそそうだと考えている世界の真実。いや、むしろそれ自体がシェリダンを形づくっていると考えても過言ではない。それはヴァンピルの眷属になれというロゼウスの誘いも頑なに拒否させるもの。
 そしてそれは、教えられて理解できるようなものではない。
 言葉では伝えられないそれを伝えるために、ロゼウスにとって自分の死が必要なのだろうとシェリダンは考えていた。昨夜のやりとりがあれば尚更だ。
「シェリダン王?」
「……全てわかるだろう。私が死んだら」
 言外にここで教えるつもりはないと匂わせる発言に、ジャスパーが不快げに眉を潜めた。
 しかしそれ以上の追求はせず、仕方なしと言った体で話題を変えた。
「では、死に行く人に対してせめてもの救いとして――噛んでさしあげましょうか?」
「……お前もロゼウスと同じことを言うのか? 私にヴァンピルになれと?」
「すでに兄様ご本人が打診済みでしたか」
「ああ」
「そしてあなたは、それを断った」
「……ああ」
 ジャスパーが馬鹿にするような目つきでシェリダンを見る。大きな瞳をすっと細めるが、しかし何をからかうでもなく平然とまた同じ言葉を続けた。
「では、せめて《噛んで》あげましょうか」
「おい、だから私は」
 繰り返すことそれ自体でからかっているのかと眉根を寄せたシェリダンに対し、ジャスパーは案外に真面目な表情で説明を付け加えた。
「そっちではありません。吸血鬼化の方ではなくて」
「では何だ?」
「吸血鬼の牙で噛んであげましょうか? 僕たちヴァンピルの牙には毒が入っていてそれが麻酔や媚薬の効果も果たしますから。ただちょっと加減を間違えるとそのまま死」
「よし結構だありがとう気持ちだけ受け取っておく」
 いらん、と一言言えば済むものをさらりと笑顔で受け流したシェリダンにジャスパーが冷めた目を向ける。
「ま……その毒で麻酔をかけてしまうと剣を振るう動きのほうも鈍くなるので不都合と言えば不都合ですが」
「だったら最初から言うな」
 ジャスパーは彼なりにシェリダンを気遣っているのかもしれないが、どうもその気の遣いかたがずれているような気がする。
「……痛いのは、嫌でしょう?」
 しかし直後にぽつりと呟かれた言葉は、これまでの不敵な態度とはまた違った意味でシェリダンの胸を衝いた。
「苦しいのはお嫌でしょう?」
「お前は私がどうやって死ぬのかまで知っているのか?」
「知りません。でも、即死できるという可能性があるかどうかもわかりませんから」
「……ロゼウスは私を殺したくないと言って泣いた。何故あれが私を殺すことになるんだ?」
 シェリダンに死んでほしくないと、死人返りの術まで用いて運命を曲げようとしたロゼウス。あの様子が嘘だとは全く思えないのに、確かにロゼウスはシェリダンを「殺す」のだという。ただシェリダンが死ぬというのではなく。
あと数時間で、一体何が起こるとその予言が成就するのだろう。
「人生なんて一寸先は闇。それこそ何があるかわからないものですよ」
「お前は本当に私より年下なのか? その台詞」
 ハデスの予言は肝心なところを教えてはくれなかった。故意に伏せているのではなく預言者である彼本人にもわからないのだという。
 その言葉だけが、覚悟を決めた心に一点の染みのような不安を広げていく。


257

「シェリダン」
 ロザリーとの会話を終えたらしいロゼウスがシェリダンの方へと戻って来た。
 兄の気配を察したジャスパーは心得た様子でそっと二人の側を離れる。
「ロゼウス。ロザリーとの話はもういいのか?」
「うん。大切なお願いはもう終わったよ。もう……準備は、万端だから」
 そう言いながらもロゼウスの顔は晴れない。むしろ台詞の後半になるにつれて、明らかにその表情が沈んでいく。
 準備は万端。ドラクルたちを迎え撃つという意味においてそれは正しい。
 しかし、その戦いの中でシェリダンを失う覚悟がついたかと言えば、それは永遠にない。心の準備は万端ではない。
「泣いても笑ってもこれが最後だぞ」
「泣きたくなんか、ないよ」
「ロゼウス」
 シェリダンが手を伸ばした。ロゼウスは自らの頬に伸ばされたその手を取り、そっと自らの手を重ね合わせる。
 今しも零れ落ちそうな涙を堪えて瞳を閉じる。寄せる眉根、伏せられた睫毛、白い面に憂いの表情。
 自らの手を取り沈黙するロゼウスの様子に、真正面からそれを見つめながらシェリダンは胸の奥を疼かせる。
 このまま別れたくなどない。何に代えても一緒にいたいという想いは炎のように熱く、胸の内で燻っている。
 それを彼が口に出しても、一度決めたことを曲げるのは無責任だと言う者はいないだろう。ロゼウスもジャスパーもハデスも。事情を聞けばロザリーもローラもエチエンヌもリチャードもたぶん、シェリダンを責める事はないはずだ。
 恐ろしい運命を変える事は難しい。だが、恐ろしさに負けて逃げることは簡単だ。逃げるならばそれでもいいと、彼らは言う。
「……ロゼウス」
「シェリダン」
 逃げたいなら、逃げるならばそれでもいいと彼らは言う、それでも。
 シェリダンは微笑んだ。
「これだけは言っておく。私はお前に会えてよかった。お前に対しては優しくした覚えなどほとんどない。初対面から酷いことをしてばかり……勝手だと罵られても仕方がない。それでも私はお前に会えてよかった」
 「私は」を強調し、シェリダンは更に言葉を続ける。満面の笑みは次第に苦味走る。
「この先どんなことがあっても、私がお前を恨むことはない」
「シェリダン!」
 ロゼウスの叫びが広間中に響いた。二人に気を遣って少し離れていた場所で話していたロザリーやローラたちも思わず彼らを振り返る。
「だから、そんな顔をするな」
「でも、でも俺は……」
「私は後悔しない。後悔をしないように今まで生きてきた。もしもそれで胸が痛むなら、その痛みは私が当然受け入れるべきものだということ」
 傷ついても、傷つけても、幾度転んでもその時その一瞬の最上の道を。
 これまでも自らの意志で戦い続ける道を選び取ってきたのだ。ぬるま湯の安寧に浸ろうと思えば浸れたはずの立場にありながら。
「私はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。それ以上でも以下でもない。それにどんな意味がなくとも、私は私として《今》、ここにある」
 逃げようと思えば逃げられたはずだ。
 エヴェルシード。その名の持つ重み、シェリダン=エヴェルシードという名の重みから。
 だけど逃げない。
「私はお前を愛したこと、後悔することはない」
 私が選んだ大地は《ここ》にある。

「この命がお前の礎として朽ち果てるのであれば、後悔しない」

「幾つも重ね続けた罪をお前に裁かれるのであれば、怖くはない」

「本来恨むべき出生もこの宿命も、意味を与えてくれたのはお前だ。お前に出会うためにここにこうして生まれてきたのであれば、そのために定められた死に向かうことなど怖くはない」

「ありがとう、ロゼウス。私に命を、生きる意味を、生まれてきた意味を与えてくれて」

 お前に出会うために生まれてきた。
 例えそれが《神》などという存在の思惑の上、誰かに踊らされる駒としての役割であったとしても。
 母親殺しのこの命が、生まれてきただけで罪となったこの存在が、お前の糧となるのであれば満足だ。
「シェリダン……」
 頬に触れていた手をシェリダンがそっとどける。やんわりと手を払われたロゼウスが所在投げに宙に浮かせていたのをもう一度取り、今度は両手を繋ぐ。
 朱金と深紅、二つの視線が一瞬だけ強く絡み合い、離れるのではなく瞼を閉じる。

「お前を、お前だけを永遠に愛している」

 そして僅かに俯いて、僅かに仰のいたロゼウスに口づけた。

 この接吻は別れの証。同じ室内にいる者たちが軒並みぎょっとしているのがわかる。
 だが、ここでしておかなければもう、この後の自分たちに共に過ごす未来はない。
 どんなに覚悟を決めたと口では言いながらも、それを思うたびに胸を疼かせる痛みを無理矢理喉の奥で飲み干した。

「……そろそろ来るよ」
 ハデスの言葉にハッとして彼らは部屋の中央を振り返った。表情を引き締めて、各々自分の得物に手をかけて来る敵を待ち受ける。
「……始まるんだ」
 彼らの「物語」の終わりが。

 ◆◆◆◆◆

 豪奢な黒と紅と金の宮殿で、蝋燭の炎が最後の輝きを放つ。飾りたてられた謁見の間では、六人の人物が顔を合わせていた。
「ジェイド=クレイヴァ、フォレット=カラーシュ、ダリア=ラナ」
「は」
 玉座に座っていたドラクルは同じ室内に並んだ顔ぶれを見回す。
 今日で最後となるこの玉座に座り、謁見の間では国王ドラクル=ローゼンティアの名において青年が命じる。
「お前たちはこの国に残り、ローゼンティアを守れ」
「陛下!」
「この機に他国に侵略されぬとも限らぬし、何よりまず民衆の暴動を鎮静化するのが先決だ。それらの一切を、お前たちに任せる」
「待ってくださいドラクル様! わたくしたちは!」
「ロゼウス王子との決戦に私たちは連れて行ってはくださらないのですか!?」
 ドラクルから直々に国に残るよう命じられた三人の貴族はこぞって口を開く。ドラクルの忠臣である彼らはローゼンティアを愛しているが、それ以上に主君であるドラクルを敬愛している。
 それはこの一年ロゼウスとの対峙のたびにドラクルが神経をすり減らし、病んでいった今でも変わらない。
 先日の騒ぎでは国の四方を守護している間にロゼウスを奪われ、アンとヘンリーが暴動の鎮静化のために命を落としたと知った時も彼らは悲痛な表情を見せた。彼らはドラクルの忠臣でありながら、最後の戦いには連れて行ってはもらえない。
「アウグスト」
「はい」
「お前は来るか?」
「ええ。私の命は、陛下、あなたに救われたその瞬間からあなたのものです。あなたのために生き、あなたのために死にます」
 部下たちの中ではただ一人同行を許されたカルデール公爵アウグストが三人の貴族の前に進み出る。
「カルデール……!」
「お三方、国を頼みます。あなた方がいればこそ、こちらも安心して国を空けられるというものですよ」
「だがお前は」
「どうせここに残っても、私にはもう守るべきものなどない」
 かつての親友であったヘンリーは死んだ。
「私に残されたのはドラクル陛下だけだ」
 だから最後まで共に。無言の言葉を確かに聞き取り室内には沈黙が訪れる。
「……ルース」
「はい、兄上」
「ロゼウスたちは確かに皇帝領にいるのだな」
「ええ。今頃は準備万端用意を整えて、私たちが向かうのを待ち構えているでしょう」
「そうか……では」
 決着をつけに行こう。
「国を頼んだぞ、ジェイド、フォレット、ダリア」
「ドラクル様」
「私以外の者がここに戻って来ても、お前たちはその者によく仕えよ。ローゼンティアを頼む」
「陛下!」
 未練の一つもその所作に感じさせず玉座から立ち上がり謁見の間を後にするドラクルの後姿に向けて、ジェイドたちは声を限りに叫ぶ。
「わたくしたちの主はあなただけです!」
「必ずお戻りくださいませ!」
 必死に呼びかける声に、振り向かないままドラクルは口元だけで微笑んだ。彼らはきっと、あのままドラクルが父王に反逆せず廃嫡の憂き目にあいヴラディスラフ大公爵として貶められたとしても、それでもついてきてくれたのだろう。そんなことを一瞬だけ夢想する。
 でもすぐに想像を振り払った。ひとは過去には戻れない。
 己の選択と行動を起こした結果を受け入れて責任はとらねばならない。
 誰かを破滅させるために動いた者は、やはりまた誰かの手によって破滅させられるものだ。
 そしてそれこそが、ドラクル=ローゼンティアの選んだ道。
 相手は皇帝。勝てないとわかっていても戦うのだ。死ぬとわかっていても、その道を進むのだ。
 自らの出生すら偽りで、全てが嘘にまみれて生きた人生だった。ロゼウスとの兄弟ごっこも滑稽で、だけど彼を欲しいと思う気持ちだけが本当だった。
 全てが偽りである中から生まれた、この手で生み出した唯一の物。それが悲劇であっても、ドラクルはそれを抱いて生きて行くのだ。
 城の外ではプロセルピナが待っている。白い肌を漆黒の衣装に包んだ黒髪に黒い瞳の彼女は暗い夜に埋もれそうに佇んでいる。
「プロセルピナ姫」
 名を呼ぶと白い横顔がゆっくりとこちらを向いた。
「あら、ドラクル王」
「もう王ではない」
「そう。それで、準備はできた?」
 ドラクルは頷く。彼の背後には影のようにつき従うルースとアウグストがいる。
それ以外は、全て国に置いてきた。
手に入らないのであればどんなに傷つけても構わないとばかりに一度は滅ぼした国。でも、愛していた。祖国を。
自分を本当の意味では愛してくれなかった国王――偽りの父親も。
 今となっては詮無い話だ。
「さぁ、行きましょう」
「ああ」
 この舞台の幕を引くのは、自分だ。

 ◆◆◆◆◆

 あの頃は信じていた。
 それでも、それでも世界はそんなに残酷なものではないのだと。
 いつも穏やかで幸せで、そんな人生を送るのは無理かもしれない。それでも努力した者はそれだけ報われ、優しい想いは必ず相手に伝わるものだと。
 どんなに無慈悲な悲劇の中にも、必ず救いは見いだせるはず。たった一つの希望の光があれば、人は生きていける。

 生とはこの世の喜びである、と。

 信じていた。
 愚かにも、信じていた。


 《続く》