246

 お前がそれを望むなら与えよう。久遠を。
 この世の永遠を。

 ◆◆◆◆◆

 独特の一瞬の浮遊感の直後、身体が地上へと投げ出される。
「ここは……」
「皇帝領だ」
 その言葉に、一行は目の前に佇む城を眺めた。それは以前と変わらぬ皇帝領の景色――のはずだった。
「違う」
 誰かが呟いた。そしてその言葉に皆が同意する。薔薇大陸皇帝領は、以前彼らがこの場所を訪れた時とはその姿を変えていた。
 以前は虹色の花畑に包まれた白亜の建物であったはずの宮城が、今は灰色の石の城と化してしまっている。そして花畑は枯れたわけではないが、そこはまるで白黒の世界、灰色の影のような草花が咲いている。生きている彼等の身に纏う色彩だけが鮮やかで僅かに混乱する。
「な……何ここ!?」
 いち早く我に帰ってそう叫んだのはロザリーだった。その言葉に、淡々と疲れたように返すのは一行をこの場に運んできた功労者であるハデスだ。
「だから、皇帝領だって――仕方ないだろう、今はまだ、正式に次代皇帝が即位したわけじゃないんだから」
 皇帝領の景色は、その土地を治める皇帝の性質によって姿を変えるのだという。デメテルの治世では白亜の優美な宮殿に虹色の花畑であり、誰にも文句を言わせない威容を放つ様子であった。しかし今、この大陸の全てが抜け落ちたように色彩を失っている。
「ロゼウスが皇帝になったら、自然とまた変わるさ。どう変わるのかは、知らないけれど」
 その言葉に、はっとして一同がロゼウスの方を見る。その中でも一際強い視線を彼に送る者がいる。
「ロゼウス――」
「シェリダン」
 薄物を一枚巻きつけただけというあられもない格好でハデスに連れられローゼンティアから飛び出してきたロゼウスと、手枷からは解放されたものの腕を骨折したままのシェリダンだ。
「あいたかっ――」
 た、と続くはずの言葉は、別の人物に遮られて続かない。
「あああもう! また怪我してるし!」
 ロゼウスがシェリダンに飛びつくより早く、彼の負傷の様子を見咎めて手をかけたのはハデスだ。
 肩透かしを食らった格好になるロゼウスがあれ? と瞬いている間に、ハデスはさっさとシェリダンの腕を取り、ドラクルの腕力によって折られた腕を治療する。
「――ったく、本当にバカなんだからさ」
 治療が終わるとそのままハデスはシェリダンの腕に縋りつき、顔を伏せてしまう。
「……すまない。だが、ハデス、お前」
 着地と同時にしゃがんだまま、立ち上がりもせずそうして顔を伏せて蹲る様子はまるで迷子の子どものように頼りなげで、シェリダンも思わず強い言葉はかけづらい。だが聞きたいこともある。
「お前が……どうしてここに」
 顔を上げないままにハデスが小さく首を横に振る。
 彼の中で何かが変わったのだということがシェリダンにもわかった。それは昨日や今日に一朝一夕で芽生えたものではなく、もとから彼の胸に種まかれていたものがようやく今芽吹いたところだろうということも。
 ハデスは答えず、軽く顔を拭う仕草だけをすると涙を見せずに立ち上がる。
 今度は視線をシェリダンだけではなく、ロゼウスたち全員に向けた。
「決戦の場所はあそこだ。《中立の城》、皇帝の宮殿のもう一つの姿」
 先を越されて中途半端な姿勢で固まっていたロゼウスも、ハデスのその言葉に居住まいを正した。彼らは少しだけ、色の抜け落ちた灰色の世界に何もかも忘れて立ち尽くす。
「あの場所で、次代皇帝が誕生する」
 それはもはや彼らだけの問題ではなく、世界にとって全ての始まりであり、終わりでもある戦いだ。


247

「皇帝陛下、いや、あえて言おう、上皇は崩御なされた」
「崩御!? 何故ですか宰相閣下! デメテル陛下の御様子に普段と変わったところなどなかったはず! 大体あなたの方がたびたび城を空けていたのに、今頃になって! 崩御と言うのであればご遺体はどこに……!?」
「そうです! 詳しい事情をご説明ください!」
「それとももしや今度のこと、あなたの差し金では……」
 皇帝の宮殿の入り口にて、ハデスは重臣たちと口論に突入している。次代皇帝の即位が正式に行われる前の皇帝の城には、その勢力図とも言える「気」が乱れているために普段と勝手が違い、直接城の中へ転移することはハデスにもできなかったのだ。
 そのため正門から入ろうとしたのだが、そこではこれまで三十二代皇帝デメテルに仕え働いていた家臣たちに邪魔をされた。彼等に対し、デメテルもハデスも今度のことは何一つ説明してはいない。そしてハデスが姉である皇帝を嫌っていたことはよく知られているために、家臣たちに信用がなかった。
「どういうことですか!? 詳しくお聞かせ願いたい!」
詰め寄る彼らに、ハデスは選定紋章印が刻まれていたはずの自らの腕と傍らに引き寄せたジャスパーを示しながら言った。
「お前たちの求める答はこれだ」
 しっかりと掲げられたのは、ハデスの白い腕。個人差はあるが、魔術師に健康的という言葉が似合う者は少ない。命のどこかを削って使われるというその能力のために、黒の末裔の魔術師は皆どこか不健康な白い肌と細い身体をしている。
 ハデスの見てくれも華奢だ。男らしさや力強さとは無縁の、しかし美しいその腕を彼は堂々と掲げる。
 そこにあるはずの選定紋章印がない。逆の腕と間違えたなどというお遊びではなく、あるはずのものが消えているというその事実。選定者は皇帝と一蓮托生であり、彼ら彼女らは通常皇帝の死に殉じてその生涯を終える。
 そしてハデスの目に促されて、ジャスパーは己の服の腰を捲り上げる。そこにはデメテルの紋章とはまた違った意匠の、しかし確かに選定紋章印としか呼ぶしかないものが存在していた。
「そ、それは!」
「そう、次代皇帝の紋章だ」
 ロゼウスが進み出る。一目でジャスパーの血縁と知れるその顔に、皇帝の家臣たちは納得の意を示す。選定者は血縁から生まれ出ることが多い。
「理由など必要ないだろう。証拠はすでにここにある。姉さん……先代皇帝陛下の考えなど、僕が知るものか。それよりも、ここを数日貸してもらおうか」
「何故」
「いいから、出てけって言ってるんだよ!」
 突然彼らの住居でもある城を追い出されることとなった家臣たちとの口論にまたしばし時間をとられるが、その場もなんとかハデスによって治められた。全ての事情を説明する事はできなくとも、肝心な内容だけは伝えておかねばならない。皇帝領。この場所はもうすぐ、ロゼウスとドラクル、そしてデメテルことプロセルピナとハデスの最終決戦の場となるのだから。ロゼウスとデメテル、皇帝同士の行末を占うに相応しい戦いの場と言えば聞こえはいいが、要は他の国の領土と違い、自由に喧嘩しても誰に咎められることもないのがこの場所というだけだ。
「わかったら、即座に荷物を纏めてこの城を出て行け」
 姿形はまだ少年だが、ハデスはこう見えても九十年程帝国宰相として働いてきた実績がある。その迫力は確かなものだ。
 彼の言葉に最終的に頷いた家臣たちを追い払い、ハデスは一行を城の中へと案内する。とにかく決戦の前に身体を休ませ、気持ちの整理をつけねばならない。
 特に今は幾つもの問題、不安、そして絶望と後悔を抱えている。
ロゼウスは服を与えられ、他の者たちにもお茶が振舞われるなどして休息の用意が整う。使用人たちも高官たちと同じように追い出してしまったが、ある程度の雑事はハデスの魔術で賄えるということだった。城内から段々と人の気配が消えてゆく。
「そうか……アンリ兄様が」
 一室に落ち着いた途端、これまで他の者の手に支えられ人形の大人しく連れられていたメアリーが泣き出した。嗚咽交じりの声で切れ切れに、アンリの死をロゼウスに訴える。シェリダンを庇ってというところでは、さすがにロゼウスも動揺をあらわにした。
「兄様が、シェリダンを?」
 確かにアンリは誰かを守るために身を挺しそうな性格ではある。だがその彼でも、シェリダンを庇うとは……。
「見た目にはシェリダン様を庇われたアンリ殿下でしたが、真実あの方が救いたかったのはシェリダン様ではなく、ドラクル王の方なのでしょう。私の眼にはそのように見えました」
 リチャードが補足する。
「そっか……」
 教えられて、それならば、とやっと彼らも納得する。
「アンリ……」
 誰よりも優しく、兄妹の中で一番面倒見の良かった第二王子アンリ。弟妹の世話を笑顔で引き受けていた彼が、しかし真に尊敬していたのは他でもない、彼にとってはただ一人の兄、ドラクル。
 ロゼウスへの虐待のことがあり、いつしかその感情は複雑な翳りを帯びたものにはなったけれど、兄弟間の愛情が全く失われてしまったわけではない。むしろ心が離れていけばいくほどに、アンリは内心でドラクルを気遣っていたに違いない。
「お兄様は、でも、でも……」
 ロゼウスに縋りつくメアリーの涙は止まらない。ロザリーやジャスパー、そしてロゼウス自身もこれまでに兄妹の死を経験している。ミカエラの処刑――実際に殺したのはハデスだが――をその目にし、ロゼウスの意志ではないとはいえウィルをその手にかけ、ミザリーが自ら進んで冥府の生贄になった場面も見ている。
 だが、メアリーにとってはこれが初めて間近で経験した兄妹の死だった。父王と王妃たちの死は直接目にしたわけではないし、エヴェルシードの侵略によって命を奪われた一度目は蘇る希望があることもわかっていた。だけれど今、灰に変わってしまったアンリが二度と蘇ることがないことは確かだ。
 兄妹で争うことだけでも辛いのに、兄の死を目の前で見てしまった気の弱い彼女の精神状態は混乱の極みにあった。その場にいる身内で最も年長であるロゼウスに縋りついて泣き喚く。
「メアリー、もう泣かないで」
 緩やかな三つ編みに結わいたメアリーの髪を優しく撫でながら、ロゼウスは彼女を慰めようとする。けれどうまくいかない。いくはずもない。
 そこに追い討ちをかけるようにハデスが告げた。
「大事な大事なお兄様の死を悼んでいるところ悪いけどね、死んだのは彼だけではないよ」
「え?」
 ハデスの意味深な言葉に、部屋中の注目が彼に集まる。
「ローゼンティア王族はもうお前ら四人と、ドラクルとルースの二人だけ……ああ、先に逃がしたエリサ姫は生きているけれど」
「俺たちとエリサと、あの二人だけ?」
 その言葉に誰よりも早く反応したのはメアリーだ。蒼白だった顔色を更に青くして、彼女は残り二人の名を叫ぶ。
「アン姉様とヘンリー兄様は!?」
 真っ先にこれまで王城で一緒にした姉と兄のことを尋ねるが、ハデスの表情は変わらない。冷たいような冷静すぎる無表情はとても不吉な予感を見ている者に与える。
「第一王女アン、第三王子ヘンリーは死んだ」
「……ッ!!」
「ローゼンティア王国内で内乱、民衆と彼らを扇動した下級貴族たちのよる反乱が起きたんだ。それを止めようとしたけれど抑えきれず」
「まさか殺害されたの!?」 
 悲鳴のようなロザリーの問いかけ。
「……いいや、自分たちで反乱が鎮静しきれないと知ると、二人逃げ落ちて自害……心中を選んだ。もうドラクルにつくこともできないけれど、彼を裏切ることもできないから、と」
 予言の能力を持つ彼の状況説明は見て来たかのように的確で、メアリーはまた涙を新たにする。ハデスのことだから、魔術で実際に見ていたのかもしれないが。
残ったのは六人だけ、もう半数になってしまったという言葉にロザリーさえも愕然とし、ジャスパーも心なしか沈痛の表情を浮かべている。
「兄様、姉様……みんな……」
 みんな、みんな死んでしまった。アンもヘンリーもアンリも、ミザリーもミカエラもウィルも。すでに兄妹の半分が亡くなり、残った半分同士で殺し合いをするのだ。
「ねぇ、ハデス……」
「何、ロゼウス?」
 ロゼウスは発作的にハデスにそれを問いかけかけた。だが、腕の中で新たな報せにまた激しく泣き出したメアリーの存在を思い、それをとりやめる。
「ううん、なんでもない」
「そう」
 ねぇ、この戦いが終わる頃には、何人が残るの?
 それはとても残酷な問いかけだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――ロゼウス、何か困ったことがあったらすぐ俺に言えよ。ちゃんと助けてやるから。
 メアリーを腕に抱いたまま、ロゼウスはアンリについて回想する。
 優しい兄だった。いざ思い出そうとすると、他の言葉が上手く思い浮かばない。優しい兄だった。何よりもそれ。
 第二王子であり、兄であるドラクルと同い年のアン以外は兄妹皆弟であり妹だと、年下の兄妹をとても可愛がってくれた。他の兄妹は相手によって仲が良い悪いなどの相性があったが、アンリに関してはそれがなかった。彼が話しかけ辛い相手はおらず、彼に話し掛け辛い者もいなかったはずだ。王子にしては気さくで人当たりが良く、身内だけではなく臣下にも民にも、顔を知る者皆に好かれていた兄。
 その彼が死んだ。シェリダンを庇い、ドラクルの剣に貫かれたのだという。処刑部屋にある刃物は吸血鬼の命を完全に絶つための道具。誰にも助けられはしなかったと。
 ロゼウスに対してももちろん優しかったとはいえ、アンリは誰よりも長くドラクルと過ごした弟だ。兄であるドラクルを誰よりも心配していたに違いない。リチャードから本当はドラクルを救いたかったのではないかと聞かされて少し納得した。
 彼のやり方は間違っている、ローゼンティアの者としては歓迎できないとその行動を諫めながら、それでもアンリはドラクル自身を酷く心配していた。ドラクルが間違った道に進んでしまったというのであれば、そのドラクルに一番近かったはずの自分が何故彼を止められなかったのだと自らを責め続ける。
 アンリはドラクルを殺したくはなかっただろう。だから、その前に死ぬことを選んだのではないか? なんとなくロゼウスはそう思う。
 優しい優しい、兄様。
 思い出してロゼウスは頬に一筋涙を零す。これまでのミカエラやウィル、ミザリーと違い、唯一ロゼウスがその目にすることのなかった死だ。だが彼が最後にどんな表情で逝ったのかはわかる気がする。
 自らの復讐のために無関係な無辜の民まで巻き添えに自国を滅ぼすというドラクルのその行動。それを間違っていると言うのは簡単だ。実際にそう思っているからアンリはロゼウスたちと行動を共にしていたのだろうし、表立って彼を庇うことはなかったのだろう。だが間違っているからと言って、ドラクルが苦しんでいた時に何一つ彼を助けることをしなかった彼が何を言ったところで無駄なのだ。その苦しみと悲しみを本当い理解するためには、アンリ自身も同じだけの覚悟がなければいけない。
 アンリにとってそれは、明らかに衝動的にシェリダンに対して剣を振り上げようとしたドラクルを命を賭けて止めることだった。
 自分の気に食わない者たちを刺して、ずっとそうして生きていけるわけなどないのだ。シェリダンを殺す事は、ドラクルにとっては卑怯な「逃げ」。それをさせないためにアンリは死んだのだろう。
 きっと彼は、事切れるその瞬間、満足そうな顔をしていたに違いない。そう予測がつくからなおロゼウスは胸が痛い。アンリは自分が誰かを庇った時に、その人物の身代わりに傷つくことを恨みに思うような者ではない。
 アンリだけではない、ハデスの言葉によれば、アンもヘンリーも死んだのだという。こちらはアンリの死の報に比べて、まだ実感が湧かない。
 アンとヘンリーの二人は、無理矢理連れて行かれたメアリーと違い自分からドラクルに与することを決めた者たちだ。アンリと同じように、むしろ彼以上にわかりやすくドラクルを愛していたのはこの二人だ。
 ドラクルに与した。ロゼウスにとってはその一事だけで敵対者と呼んでも構わないのかもしれないが、それでも兄妹だった。彼らには彼らの理由があって、ドラクルよりロゼウスを選んだのだ。最後にもう一度だけ話をしてみたかったのにも、もうそれもできない。
 次々と家族が、兄妹が減ってゆく。知り合いも、敵も味方も、これまで関わった人々が次々と死んでゆく。自分の手で殺した者もいる。あらゆる人々を踏みつけて、血の道の上にこの生を築いた。
 生きるこということはなんて残酷なのだろう。
 だが諦められない。自らの生を、そして愛しい者の生を諦められない。
 この悲しみは、いつになったら終わるのだろうか。
 抱きしめた妹の肩口に顔を埋めて目元が濡れるのを堪えていたロゼウスの耳元に、不意に何かが倒れるような音が届く。
 ――ガタ。
「シェリダン様!?」
「陛下!」
 ローラたちの焦った声とともに、テーブルの上で何かがぶつかる音がした。ゆっくりとメアリーの身体を離しジャスパーの方へと預けると、テーブルの上に蒼い髪が突っ伏しているのが見える。
 もう一人のエヴェルシード人であるリチャードに肩を揺すられているとなればその姿は残る一人でしかない。
「シェリダン!」
 周りの様子を見るに突然卓に突っ伏すようにして倒れたのだろうシェリダンの容態を見ると、紅く染まった顔が目に入る。薄っすらと汗を浮かべた額に手を当てると熱がある。
「何で? こんないきなり……」
「これは……」
 人間とは違った再生能力を持つため普通の怪我や病とは無縁な吸血鬼であるロゼウスは思いがけない事態に動転しかけるが、すぐさま隣から解説が加えられた。
「骨折したからだな。でもこれは僕の魔術じゃ治せないよ」
 ハデスが原因を指摘して渋面を作る。魔術は怪我の治療や特殊な病に対しては手順を踏めば治療できるが、通常の身体的な反応である熱などはどうしようもないらしい。それでも骨折後すぐに、身体が骨を折られたと認識する間もなく治療してしまえば熱を出すこともなかったのだろうが、彼とロゼウスが助けに入ったのはシェリダンが牢から出される際に腕を折られ、処刑部屋でドラクルと話をしていた相当後の話だ。
 そうでなくともこれまでの強行軍と幾たびもの戦闘、崖から落ちるわ、襲撃には遭うわ、監禁拘束されるわで気の休まる暇がなかった。今も気の休める時間とは言えないが、これまで立場上一行の纏め役のような位置にいて問題の矢面に立ち続けたシェリダンに負担が溜まるのは無理もない。
「今夜はよく休ませることだ……次の戦いは近いんだから」
 最終決戦の前に体調を万全に整えておく必要がある。
「色々用意してくるから、隣の部屋にでも寝かせといて」
 使用人を全員追い出してしまったので、ここには雑事をこなせるような者はそう多くない。シェリダンを運ぶ役目はリチャードが引き受けたが、物の在り処を多少なりとも知っているのはハデスくらいだ。
 氷枕を作ってくるのは彼に任せ、ロゼウスは隣部屋の寝台を簡単に整える。そこにリチャードがシェリダンを横たえて掛け布を引き上げた。
「俺が看てるから、リチャードはローラたちと一緒にいて」
 心配する気持ちを押し殺し、リチャードは気を利かせて部屋を出て行った。後から細々とした物を準備してきたハデスが部屋に入ってくる。
 丁寧な手付きでそれらを整えていくハデスに、ロゼウスはそっと尋ねる。
「ハデス」
「何?」

「次の戦いが終わったら、俺たちローゼンティアの兄妹は何人残る?」

 メアリーやロザリーなどの耳のないところで、先程は口に出せなかったことを聞いた。
「……王族として残るのは三人、皇帝であるお前と選定者ジャスパー。そして新ローゼンティア王」
「新ローゼンティア王……」
 それは誰だ、と問う間もなくハデスは続ける。
「それにお前が前に逃がした末姫は生き残る。もう一人の妹も、お前は逃がすだろう」
「そうだな。そうしようとは思っていた」
 メアリーは戦えない。アンリの死を見て、アンとヘンリーの死を告げられて、その上ドラクルとルースを殺すために戦いあうなどできない。
 彼女の事は、できれば今夜中にでもこの場から引き離した方がいいのだろう。
 戦いの末、残るのはロゼウス、ジャスパー、そしてあと一人。ドラクルを殺せば、恐らくルースは彼の後を追うだろう。だから最後の一人は……。
「覚悟を決めておけよ、ロゼウス」
 部屋から出る前に、ハデスが振り返り一言告げた。
「今日が、最後だから」
 ロゼウスは手を伸ばし、掛け布からはみ出したシェリダンの手を握る。そこに確かに宿る温もり。
 失いたくない。失えない。
 彼らの最後の長い一夜が、ゆっくりと過ぎていく。


248

 自分の手が普通の人間からすれば死体の冷たさだと気づいたのは、彼の手の温度を知ってからだった。
 寝台に横たわるシェリダンの手を握る。ロゼウスたちヴァンピルのように蝋人形を見ているように不自然な白さではないとはいえ本来白くてきめ細かい肌をしているシェリダンの手。薄っすらと汗をかいているその手を握り、紅く染まった顔を見る。熱を持つ彼の体は熱い。炎のように。
「シェリダン……」
 ほとんど疲労が原因と言っていいような熱で寝込むシェリダンの傍ら、看病と言うほどすることがあるわけでもないが、ロゼウスはそこにいた。何をするでもなく、シェリダンの寝顔を眺めている。飽きることなどなく、穴が開きそうなほどに熱心に見つめ続ける。
 最後の夜だとハデスに言われた。
 どういう意味だと問い返すまでもない。今日が、最後の夜。このシェリダンと過ごす。意味深なその言い方にロゼウスは明日、自分がこの手でシェリダンを殺すのだということを知る。
 それなのに彼は熱を出して寝込んでしまっている。夜が明け、目が覚めて体調が回復していたら彼はそのまま戦いに出るのだろうか。回復しておらず、倒れそうなままだったらどうするのだろう? いや、たとえシェリダンがどんな状態であったとしても、ドラクルの方で引く気がなければ結末は同じだろう。
 プロセルピナはハデスほど優れた移動能力を持つのではないそうだ。皇帝であった頃のデメテルならば出来たかもしれないが、今のプロセルピナにはできない。彼女はデメテルを母体とし、ハデスの力まで受け継いだ人形の身体に魂を移したためにこれまで以上に強大な力を得ることができたが、逆にできなくなったことも多いとのことだった。
 それでも、プロセルピナが苦手だという空間移動を用いてドラクルたちがローゼンティアから世界の反対側である皇帝領にまで訪れるのは、一日もかからないという。戦いは明日だとハデスは言う。それが最終決戦で、だから今日は最後の夜なのだ。
 最終決戦。最後の戦い。
 それに打ち勝てば、ロゼウスは皇帝になるのだという。
 だが彼が真実皇帝になるためには、もう一つ必要なものがあると、預言者たちは口を揃えて言った。
 それはシェリダンの死。エヴェルシード王である彼ではなく、ただのシェリダン=エヴェルシードの死だと。
 ロゼウスがシェリダンを殺したその時、真実『薔薇の皇帝』は誕生する。
 今になってもロゼウスにはその意味がわからない。自分がシェリダンを殺す場面というのも思いつかなければ、彼を殺せば皇帝としての正式な資格を得るという予言にいたっては全く持って意味不明だ。一国の王を殺して世界情勢が移り変わるとか、そういうことでもないのだと。他の誰かにとって意味があるものでもない。ただ、ロゼウスにとってはシェリダンの死が必要だと。――何故それが皇帝の資格に結びつくというのか?
 世界は皇帝を得るためにシェリダンの死を必要とするのかも知れないが、ロゼウスは皇帝になりたいなどと思ったことはない。
 帝国はシェリダン=エヴェルシードの死を望んでも、ロゼウス=ローゼンティアはシェリダンの死を望んだりしないのだ。
 だいたい、まず自分がシェリダンを殺す心境というものが思い浮かばない。
ロゼウスにとって、シェリダンは何よりも、誰よりもかけがえのない者だ。何と引き換えにすれば彼を殺せるのだろう。自分にとって、引き換えられるもののないほど大切な彼を。
 寝台からはみ出た彼の片手を自らの両手で包み込み、ロゼウスはそっとその手に口付ける。
 熱を持って熱いその場所から、唇が焼け爛れていきそう。そのまま氷のように今自分が溶けて消えてしまえば、シェリダンを殺すこともないのに。
 殺したくない。
 殺したくない。
 殺すはずがない。殺す理由もない。
 だって、失えないのだ。
 どんな理由があっても、たとえ世界と天秤にかけても失えないのだ。たとえばこれまで王の責務とはいえ何人も殺し、必要ともなれば強姦や拷問も厭わなかったシェリダンと、生まれたばかりで罪のない赤子を並べられてどちらか殺したいほうを殺せと言われれば、ロゼウスは迷うことなく赤子を殺す。無辜の民、麗しい乙女も清廉な老人も我が子を抱く優しい母も家族を愛する父も正義を掲げる青年もどんな者でも、シェリダンと比べたら、ロゼウスは間違いなく彼をとる。罪人であっても自分にとって愛しい彼を守るために、罪のない人々をも、殺せる。その時になれば躊躇うことなく手にかける。
 世界と彼を天秤に乗せて、彼に傾けるために世界中全ての人間を殺せと言われても、そうする。彼を助けてくれるというのであればどんな犠牲を払わせる悪魔とでも契約する。
 それは、今自分の側にいる者に対してであっても同じだ。
 ロゼウスは自らの前世だというシェスラートに意識を乗っ取られている間に、ウィルを殺した。自分にとってずっと弟であったはずの彼を、殺した。
 だけどシェリダンを殺す事はできなかったのだ。ウィルは殺せたのに、シェリダンは殺せなかった。
 彼のことだけではない。ミカエラの死を肌に感じた時も、ミザリーを引き止められずに見送ったときも、ロゼウスはそれによって悲しんでも、自分を失うようなことはなかった。
 冷たいようで、でも考えてみれば当然で、そしてそれこそ残酷なことではあるが、ロゼウスは彼らが死んでも生きていけるのだ。
 世界中多くの人々は、本当はそんなものだろう。愛しい恋人や家族が死んだからといって、後を追う者はいないわけではないが稀だ。人は大切な誰かを失っても、その人を想いながらでも生きていける。
 悲しくて辛くてその死を悼むために涙を流すけど、だけど、それでも生きていける。
 ロゼウスにとっても、彼以外の者はそうだった。ミカエラやミザリーが亡くなっても生きていける。
 ウィルを殺し、そしてこれからドラクルを殺したとしても生きて行ける。
 残酷だが、それがロゼウスの真実だ。
 だがシェリダンを失ったら生きていけない。
 生きて、ただ生きていてくれるだけでいいのだ。自分を死ぬほど嫌って憎んで恨むようなことになっても、生きていてさえくれればいい。
 愛してしまったから……好きになってしまったから、ロゼウスにとって、愛とはそういうものだった。かつてドラクルに虐待されても、本当は彼が自分を憎んでいると知ってもロゼウスからはドラクルのことが憎めないように、大事なのは自分が相手を想っていることだった。

 嫌われても憎まれてもいい。だって自分は相手を愛しているのだから!

 もしも今この手を離し、命を終えるまで二度と逢わないで過ごせば彼が助かるというのであれば、ロゼウスは悲しくてもそうするだろう。寂しくて仕方がなくなっても我慢できる。その方法でシェリダンが助かるというのであれば。だがそれを尋ねた時、ハデスは悲しそうな顔で首を横に振った。それは意味がない、と。
 予言とは必ず成就するものだ。そうでなければ意味がない。運命を変えることはできない。曖昧な言葉で誤魔化すのではなく、あらかじめその対象に全てを教えて回避、対策行動がとれるように指示したとしても、それでも成就されてしまうのが予言である。ある人がその日外出先で事故に会うと予言されたとして、その人が家の柱に縛りついてでも外に出ないよう努めたとしても結局は何らかの要因があって出かけることとなり予言通りの運命を辿る。それが《予言》だと。
 シェリダンが死ぬ運命を、誰も曲げることができない。
 そしてロゼウスは、皇帝になってしまえば彼を生き返らせることができない。
 カミラに対してそうしたように、ヴァンピルには人間の死人を生き返らせるなど容易いことだ。だからローゼンティア王子、ローゼンティアの吸血鬼であるロゼウスであればそれは可能なのに、皇帝になった途端本来生まれ持っていたはずのその力を失うのだ。
 皇帝は万能だ。だから死者を蘇らせる力をも持つ。それだけ大変な能力であれば濫用する皇帝が現れてもいいようだが、過去にそうした皇帝はいなかったという。
 そして皇帝は、世界中他の誰を蘇らせることもできるのに、《自らの愛する者》だけは生き返らせることはできないのだ。
 できるのであれば、まず初代皇帝が使っていただろう。シェスラート=エヴェルシード……本名ロゼッテ=エヴェルシードが。だが彼は自分の愛していた真の皇帝になるべきだった男、シェスラートを蘇らせることはできなかった。皇帝は何故か自らの愛する者にだけは蘇りの法を使えない。それは、何のために……?
「好き、なのに……好きだから、だから、俺にはお前を生き返らせることができなくなる」
 シェリダンの手をきつく握り締めて、ロゼウスはその手を今度は額に押し当てる。
 愛しているのに、愛しているから蘇らせることができないというこの不可思議な現実。皇帝は万能と言われているのに、何故できないことがあるのか。
 今だったら、今であればたとえシェリダンが死んでも生き返らせることができるのに。だがシェリダンが死ぬのはロゼウスが殺した時で、彼を殺した瞬間ロゼウスは皇帝になるという。一番肝心な時に一番必要な力が使えない。どうして――。
「……そうだ」
 そこでハッとロゼウスは気づいた。
「《今》、やればいいじゃないか」
 皇帝はこの世界でたった一人、愛する者だけは蘇らせることができない。
 シェリダンを殺した瞬間にロゼウスが真の皇帝となるのであれば、ロゼウスは死んだシェリダンを蘇らせることはできない。
 緊張のあまり思わず体重をかけてしまった椅子がぎしりと軋む。ロゼウスは僅かに震える。
 皇帝になってしまえばロゼウスはシェリダンの生命に手を出すことができない。
 だが、今は?
 次代皇帝と神に烙印されていても、まだ薔薇の皇帝ではなくただの薔薇の王子であるロゼウス=ローゼンティア。吸血鬼王国の王子であるロゼウスは、

 他者に自らの血を飲ませることによって、自らの配下として不老不死にすることができる。

 それはもちろん術者が死ぬまでという制限付きの能力だが、構わないだろう。ロゼウスはシェリダンと共にあることが望みなのだから、不老不死を真剣に望んでいるのではなく、ただ明日にも死んでしまう、殺してしまうのが嫌なだけだ。
 《今》ならば薔薇の王子であるロゼウスの力で、シェリダンに紛い物ではあるが、《永遠の命》を与えることができる。
「そうだ……そうだよ!」
 どうしてこんな簡単なことに今まで気がつかなかったのか。そうすればシェリダンが死ぬ心配などしなくて済む。一度死んだ者は二度と死にはしないのだから。
 だったら――。
 ロゼウスはゆっくりと、熱を持つシェリダンの手から自らの手を引き離す。
 緊張のあまりに体中が震えている。それは歓喜と――それだけでなく、何故か不安を交えていた。
 
 君が久遠を望むなら。
 それを与える力が、自分にはある。

「シェリダン――」
 声にならない声が紡ぐ《愛している》。
 言葉の代わりに唇を強く噛み締める。そのせいで唇が切れて血を流す。その血こそロゼウスが望むものであった。
 己が血に魔力を込めて相手に飲ませれば、ヴァンピルはその相手を不老不死にできる。
 だから。
 ロゼウスは僅かに寝台を軋ませてシェリダンの顔の横に手をつき、そして――。

 ◆◆◆◆◆

「はぁあ〜〜」
 この緊張下にはとても似つかわしくないと思われるなんとも気の抜ける声を、誰かがあげた。誰か、とは言ってもこの部屋には三人しかしない。そしてその三人のうち誰があげてもおかしくないようなそれは溜め息であり、もしかしたら自分が口にしていたのかもしれない。
「何だか、とうとうここまで来ちゃったのかぁ……そんな感じがするわ」
 どこか疲れた様子を漂わせながらローラが言った。疲れているのは彼女だけでなく今現在この城にいる全員であり、彼らの主君であるシェリダンなどは、極度の疲労と外傷の影響により今は熱を出して寝込んでいる。
「そうだよね……何か落ち着かないな……あのさ、シェリダン様のお部屋に行っちゃ駄目かな。いらないかもしれないけど、お世話させてもらえれば」
 することがなければただその寝顔を眺めているだけでもいいから、と、そうエチエンヌが言い出したのだが、残り二人からは一斉に却下された。
「駄目よ」
「駄目だ」
 双子の姉であるローラはともかく、リチャードまでもがすげなくエチエンヌの提案とも頼みともつかないその言葉を一蹴する。
「なんでだよ!」
「なんで、も何もないでしょ、エチエンヌ。今あのお部屋には誰がいらっしゃると思ってるの?」
「ロゼウス……」
 ローラの言葉にエチエンヌが力なく答えると、リチャードが微苦笑を浮かべてエチエンヌを見遣った。
「シェリダン様はずっとロゼウス様の心配をしておられたのはお前も知っているだろう? そしてロゼウス様もシェリダン様のことを。だから」
「僕はお邪魔虫ってわけね」
 何だか癪に障るものもあるが、一応の事情は納得できた。ロゼウスがシェリダンに引っ付いていること自体はエチエンヌの気に入らないが、それを誰よりもシェリダンが望んでいれば彼らには反対できない。
 彼ら二人の仲が険悪だった頃はそのぴりぴりした空気にこちらまでどこか哀しいような緊張を強いられたものだが、二人の仲が良いとなるとそれはそれで気に入らない。
 ローラにもエチエンヌにもリチャードにもわかっている。シェリダンが彼ら臣下に向ける思いと、ロゼウスに向ける《想い》は異なっていると。それでも気になるものは気になるのだ。
 広い部屋の中、広い卓を狭く囲み、冷めたお茶を誰一人淹れなおすような気を利かせない、そしてそんな気の利かせ方を今はしたところで何の意味もないままで時はじれったいほどにゆっくりと過ぎていく。
「これからどうなるのかしらね、シェリダン様たち」
 あえて「私たち」とは言わずローラがそう口にした。彼らの行動はいつだってシェリダンに従うことだと決まっている。だから自分たちがこれからどうなるかというのは、三人にとってはさしたる重要な問題ではないのだ。重要な三人の大切な主君であるシェリダンに関することだ。
「ロゼウスとドラクル王が戦って……でもさ、全てが無事に片付いたとしても、ロゼウスって皇帝になるんでしょ? じゃあシェリダン様はどうするのかな?」
「ここで愛人やるのかしら……」
 微妙な表情をしながら主君であるシェリダンの今後を案じる二人に対し、リチャードは一人別に考える。
 彼が気になるのは、生前のアンリとシェリダンが会話していた姿だ。アンリは酷く思いつめたような様子であり、重い秘密を抱えてしまったような顔をしていた。ただ、アンリの場合秘密を持っていることはすぐに知れても、その秘密を簡単には明かしてくれない。彼は結局何を言う事もなく死んでしまったが、今思うと、それが変に気になる。
 もっとも、二人はお互いよりももちろんロゼウスを介しての繋がりの方が深いのだから、シェリダンとは全然関係なくただロゼウスについて話していたのかもしれないが。
 だがやはり、リチャードには何かが引っかかる。
「卿は……」
「リチャード?」
「リチャードさん?
 その引っかかった事柄を、リチャードは口にした。
「ハデス卿は何故、今頃になって私たちの味方についたのでしょう?」
 今までは一見己の欲望に忠実なようでいて、その動きが胡乱だったハデスだ。今でも我欲には忠実なのだろうが、その質が違う気がする。そもそも彼の憎しみの的である皇帝であるロゼウスがいるというのに、何故彼はこちら側に手を貸したのか。
 ハデス=レーテ=アケロンティスはシェリダンの友人だ。だが、それこそがリチャードが最も引っかかるところであった。ハデスがシェリダンに手を貸したいと願うようになったのであっても、それならば別に何もしないだけでいいのではないか? ロゼウスが皇帝であることを認めて、彼を狙わなくなればそれだけでシェリダンの身は安泰のはずだ。
 それなのにまだ彼が手を貸してくれたというのは、もしかしたら、「そうではない」ということのため? 
 彼がこの面々のうち心配するような相手はシェリダンのみ。不吉な予感がリチャードの胸を重くする。
 ローラとエチエンヌも意味深なリチャードの言葉にまだ遠い異変の足音がひたひたと近づいてくるのを感じ取り、微かに身体を震わせる。
「シェリダン様……」
 彼らはまだ、この先に起こることを知らない。


249

「一体何を考えているのですか? あなたは」
 そこにあるのは侮蔑と嫌悪、胸に沸く疑問よりも後もう少し嫌悪の方が強ければこうして話し掛けたりはしなかっただろうというのがまるわかりの、不機嫌もあらわなその声音。
「随分な態度だね、選定者ジャスパー。僕はわざわざ、お前の兄を助け出してやったというのに」
 実年齢は自分より遥かに年下、しかし見た目には大差ないその少年を見下ろすようにして、ハデスは廊下の壁に背をもたせかける。
 シェリダンが倒れて以来、ロゼウスは彼の看病に付添ったままだ。リチャードたちエヴェルシードの面々はいつも集まって即座にシェリダンの意に叶うことができるよう待機しているし、ロザリーは泣きじゃくるメアリーと何か話をしているらしい。必然的に残る二人は二人で話すか、またはそれぞれ休むかの二択になる。
 そして、この残された二人であるところのジャスパーとハデスの仲は決してよくはない。先代選定者と次代選定者。何よりジャスパーはこれまで幾度もハデスの甘言に乗って踊らされてきた。それはジャスパー自身の心が引き起こしたものでもあるのだが、やはり自分の思惑を知った上でいいように操ってくれた相手と話をするのが楽しいとは思えない。
 それでもジャスパーがこうしてまたハデスに話しかけたのは、彼の行動があまりにも不可解であったためだ。他の者たちはシェリダンのことやアンリたちのことに気をとられてさして不思議がっていないようだが、ジャスパーの目から見ればこの土壇場でハデスがまたこちら側に手を貸すのは余りにも不自然だった。
「もう一度だけ聞きます。何を考えているんですか?」
 再び問いかけながら、ジャスパーは己の指先に魔力を走らせ、薄い爪を金属の刃のように硬く長く伸ばす。
 それをナイフ代わりに壁際に押さえつけたハデスの首元に突きつけながら重ねて問いかける。
「あなたは一体、何が欲しいんです? 今更兄様たちに協力して何の利益が得られると?」
 口調こそ丁寧だが、その瞳に宿る光は鋭い。これまでハデスにいいように操られ続けてきただけに、ジャスパーは慎重だ。迂闊な答を口にすればすぐにでもハデスを切り刻むだろうというほどに。
 その気迫に押されたというより半ば呆れたように、ハデスは両手を顔の横に挙げて降参のポーズをとりながらあっさりと言った。
「別に。姉さんに欺かれていたと知った以上、もう僕がドラクルにつく理由もないからね。そしてローゼンティアで失敗した以上、もう僕にはどうやってロゼウスを殺せるかわからなくなった。そのぐらいなら最後くらい、シェリダンに協力した方がマシだ」
「最後くらい?」
 その言葉に一瞬怪訝そうに眉をあげたジャスパーは、しかし次の瞬間には自分で答を導き出していた。ロゼウスにしきりに執着している彼は、彼らの会話も聞いてロゼウスがシェリダンを殺すという予言も知っている。
「まさか、明日の決戦で兄様がシェリダン王を?」
「他にどこに機会があるって言うんだい? ロゼウスは皇帝になるために、シェリダンを殺すんだよ」
「あなたもプロセルピナも、預言者がこぞってそう言うのならそれは真実なんでしょうね。どんな理由があってのことかは僕にはわかりませんが。だがだからと言って、この程度で僕が納得するとお思いですか? ハデス卿」
 もはや帝国宰相とは呼べなくなった男に対し律儀に卿をつけて読んで、しかしやはり口調とは裏腹にジャスパーは先よりも更に眼差しを鋭くする。
 長く伸ばした爪の方ではなく、その視線の方が刃のようだ。
「あなたにとって、シェリダン王は何なんですか?」
 最後くらいシェリダンに協力した方がマシ。ハデスのその言葉を捉え、彼はそう尋ねてきた。
 何――何なのだろう、自分と彼は。
 ハデスはそれこそ今更になって考える。自らの肉体まで捨てたデメテルの奇策によりもうロゼウスを殺して玉座を奪うことなど夢物語となったハデスは、しかし戦いの場にわざわざ自分から首を突っ込みに戻って来た。今ならばローゼンティアのドラクル側もロゼウスたちも皆混乱していて彼を追う者などいない、それこそ彼の能力を持ってすれば世界中どこにでも潜伏していられる。勝手にしていられるのに、わざわざ戻って来たのだ。
「僕は……」
 腕から選定紋章印が消えた今、ハデスの寿命は残り少ない。デメテルはプロセルピナとして娘の身体に乗り移って永らえたが、ハデスの場合はどうなるのだろう。それでも恐らくそう遠くはないだろう死の足音を聞きながら、けれど余生を穏やかに過ごすためにどこか遠く誰も知らない場所で人生をやり直そう、そうは思えなかった。
「僕にとって……」
 一度姿を晦ました際には、実はそんな風に生きるのもいいかと思っていた。もう事態は自分が手を出せる範疇を超えて進んでしまっている。足掻いても変わらない世界を見つめるくらいであれば、現実から逃げてもいいのではないかと。
 けれど、何かがハデスの背を引きとめたのだ。
「僕にとってのシェリダンは……」
 ローゼンティアでプロセルピナの攻撃により崖下に落とされた際、助けてと頼んだわけでもないのにわざわざ飛び込んできた馬鹿がいた。そんなことできるわけがないのに、ただ落ちるだけなのに。わかっているのに自分の方も、伸ばされた彼の手をとろうとしてしまった。意味がないのに、そんなことで助かりはしない状況だったのに。
 何をやっているんだ自分は、と思いつつ。そんな風にさせる相手がいるからこそここに戻って来ようと思ったのだとももう……わかってしまった。
 彼を失いたくない。
 僕にとってのシェリダンは。
「友達だ」
 だから戻ってきてしまったのだ。これから死ぬとわかっている人だけれども、どうしても死なせたくなくて。何とか、今でも何とかならないものかと足掻き続けている。
「……友達?」
 その返答は予想外だったらしく、ジャスパーが胡乱な目つきでハデスを胡散臭そうに見つめている。友達だとか恋人だとか仲間だとか、裏切りを重ね続けたハデスにこれほど似合わない言葉もない。それでも。
「……友達だよ」
 ハデスにとって、シェリダンはやはり初めての、本当の友達と言えるような相手だった。皇帝領では姉の七光りの上に贔屓だと嘲られ、見知らぬ相手からは帝国宰相の名で崇められるハデスにはもちろん、友人など一人もいない。
 姉であったデメテルの愛もどこか歪んでいて、自然な愛情というものをこれまで受け取った覚えがなかった。恐ろしく捻くれた人間として育った彼が九十年目にして、ようやく友人と得る。それは、もとからの彼の意図とは反していた。
 ハデスがもともとシェリダンに近づいたのは、予言によって彼が後の皇帝となるロゼウスにとても近い運命を持つ者だったからだ。シェリダン自身に興味があったのではなく、ロゼウスのせいだ。だがいつの間にかハデスにとってシェリダンはロゼウスを殺すための道具や弱点として使用する対象ではなく、彼自身こそがハデスにとってかけがえのない者になってしまった。
 殺すために友人になって、友人になってしまったから、殺せなくなった。何て愚かなのだろう。
 最初から持っていないものは奪われても怖くはないが、もとから手にしていたものを奪われるのは辛い。
 だからハデスはこれまで、自分の気持ちに蓋をして現実を見ないようにしていた。姉を殺しロゼウスから皇帝の座を奪うためだけに近づいた存在、ただそれだけのはずだったのに、シェリダン自身に惹かれてしまった。それをハデスは自分で認めたくなかったのだ。
 一度咲いた花は美しくとも、満開まで咲き誇ってしまえば後は枯れるだけ。それは、やはり悲しいでしょう。その花が美しいものであればあるだけ、枯れるのがかなしい。
 だから最初から目を出さぬように、蓋をしていた。
 それが今になって、認める気持ちになれたのは。
「最後くらい、あいつのために何かしてやりたいから」
 自分はもうすぐ死ぬのだろう。
 わかっている。とっくの昔からわかっていた。
 しかし腹が据わったのはようやく今になってだ。
 なんてことだ。これでは心弱いなどと他者を笑えない。
 一番の臆病者は自分だった。
 それを、ようやく認められた。皇帝の弟、その立場はハデスにとっても重荷だったのだ。だけどその立場を背負う以上幼子のように頼りない様などとうてい見せられないから強がって強がって強がって……最後には、折れてしまった。
 死にたくないから皇帝を目指して、自分が死ぬとわかってようやくそんなものどうでもよくなった。今と昔、どちらの方が幸せだったなんて誰にも、自分自身にすらわからないことだが。
「だから……」
 ジャスパーはそれ以上、ハデスから何かを聞きだす事はできなかった。

 ◆◆◆◆◆

 広い室内で長椅子に寄り添って座る姉妹。広い室内に泣き声は響く。
「う……ひっく……ひっく……」
妹のメアリーの泣きじゃくる声がようやく啜り泣きという頃になって、ロザリーはこれまで無言で宥めるように慰めるように彼女の背中を撫でてやっていた手を止めた。
「ごめんなさい、ロザリー姉様……」
 自分の目元を服の袖でごしごしと擦りながらメアリーが言った。泣き腫らしたせいと今擦ったせいもあって白い肌が紅く染まっている。
「わたくしももう十五歳なのに、みっともなく泣き喚いて……」
「家族が亡くなって悲しいと思う心に年齢なんて関係ないわよ」
 アンリとアンとヘンリー、優しかった兄姉たちが亡くなったことに泣き喚いていたメアリーの様子もようやく落ち着いてきた。状況が状況であるため、素直に悲しんでばかりもいられない。
 メアリーは同じ室内に残ったロザリーにぎゅっと縋りつく。
「お姉様、わたくしたちは、これからどうしたら――」
 メアリーにとってロザリーは一つしか年齢の違わない姉だが、二人の間はもっと齢の離れた姉妹のように大きかった。身体能力では兄妹の中でも群を抜いて優れていたロザリーは王位継承権こそ下から二番目と低いものの、周囲からは多大な期待をかけられていた王女であった。
 対して、メアリーは取り柄がないわけではないが、その能力は政治や軍略など王族として役立つものではなく、料理や洋裁など家庭的なものだった。庶民派王女として親しまれてはいたが、今この場でできることは何もない。
 そんな妹姫が落ち着いた頃合を見計らって姉であるロザリーは口を開いた。
「……メアリー」
「はい」
「あなたは、今のうちにこの城から、この皇帝領から逃げなさい」
「え……」
 真剣な顔で告げたロザリーの様子に、メアリーはぽかんとした表情になる。
「な、何を言ってらっしゃいますの? お姉様」
「この城にはこれから、明日になればドラクルたちが今度こそロゼウスを殺そうとやってくるわ。そして私たちは、それを迎え撃たなきゃならないの」
「な、だって、でも――えぇ?」
 ロザリーの言葉の半分も上手く受け止められず、メアリーはまたおろおろと目の縁に涙を浮かべてしまう。
「聞いて、メアリー。ドラクルはもう駄目よ。あの人は、以前はどんなに優れていても、もう、ローゼンティアの王である自分を自ら捨ててしまった。そしてロゼウスを殺そうとしている。私は心情的にロゼウスの味方だし、そして明日も実際にそうであろうと思っている。戦うわ、ドラクルと」
 戦う、と。
 彼女は兄であったはずの男と戦うと言い切った。
 姉の言葉にメアリーは零れそうなほど大きく瞳を瞠る。
「そんな……」
 兄妹で殺しあうのかと尋ねかけ、寸でのところで思い留まる。兄弟同士。すでにメアリーも見たのだ。ドラクルがアンリを斬り殺すところを。あれは確かにアンリを狙ったものではなかったが、殺してしまったのは事実。
 ぽろ、と大粒の涙がまた瞳から零れる。
「もう後戻りは、できないのですね――?」
 妹の言葉に、ロザリーは優しく、そして強く微笑んで頷いた。彼女はすでに覚悟を決めている。最初からロゼウスの味方をするのは決まっていた。
「私はドラクルともルースとも戦えるわ。でもね、メアリー。あんたは違う。戦えないでしょう? 殺せないでしょう、ドラクルとルースを。あんたにとっては兄妹の中であんまり親しい相手でもなかった二人かもしれないけど、でも殺せないでしょう? だから」
 先程と同じ言葉を繰り返す。
「逃げなさい。この城から、この大陸から」
 明日は戦場になるこの場所から。
「お姉様、お姉様、わたくしも……」
「無理は言っちゃ駄目よ」
「でも!」
 食い下がるメアリーを、なおもロザリーは説得する。
「明日の戦い、あなたの手に追える相手などいないわ。考えてもみなさい。いくらヴァンピルと言ったって、シェリダンやエチエンヌたちエヴェルシードの連中にもあんたは勝てないでしょう。そんな弱い子が混ざっていたら、足手まといなのよ。それよりもあなたには頼みたいことがあるわ」
 足手まといと言われメアリーは少し傷ついたが、それはただの事実だ。彼女は確かに、ロゼウスやロザリーのように戦えるわけではない。弟のジャスパーよりも、戦闘能力という点にかけては劣っている。
「頼みたいこと?」
「エリサのことよ」
「エリサの?」
 そんなメアリーに、ロザリーは以前別れた末の妹のことを託した。
「そうよ、今はどこにいるのか、私にもよくわからないわ。ハデス卿辺りに聞けば知っているかもしれないけれど。あの子もあなたと同じで、戦いには参加しないで去っていったの。できるならば、そのエリサと合流して、二人で生きて。年端もいかない女の子一人より、姉妹でいたほうがまだ安心でしょう」
 世の中は広く、危険でいっぱいだ。しかしそんな簡単なことも、メアリーもエリサも知らない。ある程度の知識はあるが、本当に市井で一般人と同じように暮らしていけるかどうかはわからない。あの末姫は今どうしているのだろう……?
 そして、それでも、明日の戦いに巻き込まれるよりはマシだろうとロザリーは判断した。
 ロザリーは兄妹たちの中でも、誰よりもロゼウスを信じ愛しているから彼を裏切らない。彼のために兄姉とも敵対するのだと、自らの強き意志で決めた。だが、メアリーは違う。そしてエリサもそうだった。
 逃げることができるのであれば、逃げればいいのだ。好き好んで血の繋がった肉親同士で殺し合う必要もないのだから。
「ロザリー姉様は、どうして逃げないのですか?」
「ロゼウスのためだもの」
「それだけですか?」
 メアリーの言葉に、ロザリーは内心でぎくりとしたのかもしれない。妹の無垢なつぶらな瞳は、今の彼女には少し眩しすぎた。
 確かにロザリーはその胸の内に、純粋とは言いがたい想いをも抱えている。
「……そうよ。他にどんな理由があるというの?」
 口ではそう返事をしながら、ロザリーの脳裏に浮かぶのは朱金の瞳。藍色の髪。
 ――……いっそ彼ではなく、お前の方を愛せたら楽だったのに。
 あの日聞いた、彼の頼りない言葉。
 あの時自分は、大好きな兄と同じ顔であることを、人生で初めて、悲しく思った。
 同じ顔であっても、結局シェリダンはどこまで行ってもロゼウスだけが好きなのだ。
 永遠に彼女には振り向かない。
 だから側にいたいのだ。今だけは。
「私はロゼウスのために戦うわ」
 ロゼウスとシェリダンのために。
 ロゼウスとシェリダン、どちらかを嫌いであれば良かったのに。でもロザリーは、兄としてのロゼウスも男としてのシェリダンも、どちらも比べられないくらい好きなのだ。家族として無条件にロゼウスの肩を持つが、顔を合わせれば口喧嘩ばかりだが、それでもシェリダンのことを――。
 ロザリーはロゼウスからシェリダンを奪う事は出来ない。この戦いが終わればロゼウスは皇帝になり、そしてロザリーは、ローゼンティアへと帰る。
 ロゼウスのもとに留まるだろうシェリダンとは、もう頻繁に顔を会わせることもないだろう。
 最後まで側にいたい。
 ロゼウスのために戦うと言うのは嘘ではない。しかしそれでも、本当はただ、それだけだった。


250

「さようなら、お姉様」
「ええ。さようなら、メアリー」
 持つほどの荷物はなかった。身に纏う衣装だけ、金になるようなものもほとんどない。これがか弱い人間の身であれば絶望的だろうという格好で、メアリーは皇帝領を出て行く。兄妹たちに簡単に別れだけを告げて。
 ロザリーだけが、最後に見送りのため城の外まで出てきた。白黒の影のような世界で、彼女たちの持つ色彩も頼りない。白い肌に白い髪のヴァンピル。
「お姉様、わたくし、きっとエリサに逢います。あの子に逢って、お姉様たちと一緒にローゼンティアに戻れるように……」
「そうね。そうできたら、一番良いわね」
 薔薇の国は彼女たちの故郷だ。たとえ両親が兄に殺され、その兄も兄が殺し、兄妹の半分以上が死んでしまったとしても。兄妹だと思った、家族だと思っていた人々が本当はそうではなかったとしても。それでも記憶や思いは消えるものではないから、と。
「あの……ロザリー姉様……」
「どうしたの? 何か気になること?」
 メアリーにはロゼウスが皇帝になることなど、彼女たちがこれまで知りえてきた情報の全てを伝えている。言い忘れや聞き忘れたことがまだあったのかと不思議そうにしたロザリーに対し、メアリーは恐る恐るのように尋ねる。
「明日、ロゼウスお兄様は本当にドラクルお兄様を殺すのですか?」
「ええ」
「それ、やめることはできないのですか……?」
「メアリー」
「だって!」
 最後の最後になって、妹姫はまだ躊躇っていた。
「だって! お兄様なんですよ! ドラクルお兄様は、わたくしたちの!」
「そうよ。ロゼウスも。ドラクルに殺されたアンリだって、ローゼンティアのために死んだヘンリーだって兄上だったわ」
「お姉様……」
「もう行きなさい。メアリー」
 渋る妹に対し、首を横に振って促すようにしてロザリーは送り出した。
 遠ざかる少女の頼りない小さな背中、揺れる長い三つ編み。もう見る事はないのだと思えば、エリサの時とも同じように、喪失感がロザリーの胸を襲う。
 だが、それはどんなに大きくとも、死のそれとは比べものにはならない。
 だから耐える。耐えることができる。生きていてさえくれれば、未来はある。
「行っちゃったね……」
ふと背後からかけられた声に、らしくもなく感傷に浸っていて気づくのが遅れたロザリーは多少驚いたように振り返る。
「どうしたの? どうせ気づいてたんだろ?」
 エチエンヌがその仕草に不思議そうにちょっとだけ目を開くと、そのままつかつかとロザリーの立つ白黒の花畑まで歩み寄ってきた。
「エチエンヌ、あんたこそどうしたのよ? シェリダンの看病とかいいの?」
「君の兄貴がずっとついてるから入れないんじゃん」
 肩を竦めて答えられ、ロザリーは目をぱちぱちと瞬かせた。エチエンヌはなんともいえないような顔をしている。
「……本当にどうしたの?」
「え?」
「何か今日様子おかしいわよ」
 ロザリーが感じたエチエンヌへの違和感。それは言葉にはできない。
「そうかな……そうかなぁ?」
 エチエンヌ自身も自分の様子が常と違うことを薄々感づいていたのか、歯切れ悪い答だ。
「なんかさ、本当に明日で終わりなんだなって思って」
 思って……今この瞬間にも胸の中にもやもやと、何かを思って。
「明日で終わりなんだね」
「ロゼウスは負けないわよ。絶対にドラクルに勝つわ」
 夜の風が吹いて、皇帝領の花畑をざわりと揺らした。薄闇に浮かび上がる白い花が明かりのように二人の姿を照らす。
「わかってるよ。あいつは皇帝なんだろ? それも、魔族の皇帝。三十二代続いた皇帝の中でも、特に魔族の皇帝の時は戦闘能力が計り知れないって言われてるもんね。ま、皇帝が必ず身体が頑丈で拳の強い人間じゃなければいけないっていう理由がわからないから、魔族でも弱い皇帝が誕生してもいいのかもしれないけど」
 皇帝とは神の力を持ちて世界を支配せしめる存在だ。その存在が、肉体的に虚弱だということは通常考えにくい。皇帝と呼ばれている存在がただの人間ならばそれも良いだろう。だがこの帝国における支配者は、神と同義。とは言ってもラクリシオン教やシレーナ教は皇帝とはまた別に神の存在を考えているのだから結局その《神》の概念も疑わしいものだが。
 しかし皇帝と言う存在が神に匹敵する力を持っているというのは確かだ。だから皇帝は神とは呼ばれず、地上での神の代行者と呼ばれることが多い。吟遊詩人の歌う歌にもそう言われている。
 神の代行者。
 神の力を持ち、しかし神にはなれない。
「勝てる。それはわかってる。でも殺すの?ドラクル王を」
 彼は彼の兄。
 そしてロザリーの兄。メアリーにとっても。
「さっきメアリーにも同じ事を聞かれたわ」
「うん。だから聞いたの。ロザリー、いいの?」
 この白黒の景色の中で場違いなほどに明るい金髪が彼女を振り向く。
「ロゼウスはあいつと戦う気でいる。あいつは強いからきっと勝つだろう。そしてドラクル王に色々された恨みがあるだろうから、ロゼウスがドラクルを殺すこと自体は僕はどうでもいいんだ。でも、君は?」 
 ロザリーは昔からドラクルがさほど好きではなかった。自分と遊んでいたロゼウスをいつもどこかに連れていってしまうドラクルが気に食わなかった。
 でもそれだけ。
 ドラクルは確かにハデスやデメテルに唆され、シェリダンを唆し、彼女たちの父であるローゼンティア王ブラムスを殺してローゼンティアを滅ぼした。エヴェルシードと手を組んで自国を一度貶め、その後、簒奪と対外的には気づかれないような方法で自国の玉座を乗っ取った。その際の戦闘で、一体どれほど多くの人々の血が流されたのか。シェリダンもエヴェルシード王、侵略者として彼女たちローゼンティア人の敵ではあったが、しかしそれ以上に薔薇の国の民が真に憎むべき敵は自国の第一王子であったはずのドラクルだ。私欲のために多くの人々の命が奪われると承知の上で戦争を引き起こした罪は免れるものではない。
 しかし、それとロザリー自身がドラクルを憎むかはまた別の問題だ。
「確かに私は、ドラクルを《嫌い》だけれど、《憎い》とは思っていないわ」
 ロザリーは、どうしても最後まで好きになれなかったあの兄を決して嫌ってはいない。
 ドラクルは裁かれるべき者である。それは確かだ。彼を今裁ける立場に一番近いのは自分たちだ。それもわかっている。
 そして、その罪に目隠しして彼を救うことができるのも、自分たち――正確にはロゼウスだ。
 生かそうと思えば、兄であった彼を生かすことができるのだ。メアリーが言いたかったのはそれであり、エチエンヌが言っているのもそれだ。
 だけど。
「でも、ドラクルは、死ぬためにここにやってくるのよ」
 ロゼウスの力ならドラクルを殺せるだろう。そして同時に、それができるのだから生かして捕らえることもできるはずだ。皇帝の権力を得た彼であれば、ドラクルに何らかの罰を与え、生きたまま罪を贖わせることもできるはずである。
「プロセルピナ卿が側にいるのだから、ドラクルの方だってこのまま、逃げようと思えば逃げられるはずでしょう? ロゼウスを諦めて、恨みをより保身を取って、憎しみを忘れて生きればいいじゃない」
 だけど、ドラクルは間違いなくロゼウスを追って来る。戦いになる。すでにロゼウスが次代皇帝だと知っているにも関わらず。
 ロゼウスは強いから、皇帝だから、戦ってもドラクルに万一の勝ち目もない。それでも彼は追って来るのだ。
 死ぬとわかっていてそれでも、追いかけずにはいられないものがある。
「死にたいと言っている人を……死のうとしている人を止めることなんてできないわ」
 聖人君子になど間違ってもなれない自分たちは、その気になればいくらでもドラクルの罪状など誤魔化しもみ消して彼に平穏な人生を与えることができる。彼のせいで死んだ人々の嘆きも何もかも無視して、事実を捻じ曲げて世界を都合の良い方向に進めることができるだろう。
 生かそうと思えば、生かすことができる。
 だけど、ドラクル自身がそれを望まないのだ。罪を償いたいなどと殊勝なことは考えないだろうが、敵に媚び諂いお情けで生かしてもらうくらいなら、罪を背負って死ぬだろう。
 生かそうと思えば生かすことができる。
 だけど、殺すのだ。
「ねぇ、エチエンヌ……」
 どうして人は生きるの?
 世界はこんなに残酷なのに。
 言葉は声にならず、彼女の喉奥で凍りつく。
 エチエンヌはそんな彼女に手を伸ばし、そっと手を繋いだ。
「明日で僕たちもお別れだね」
「そうね」
 シェリダンが勝手に決めた、途轍もなく適当な政略結婚、もともと奴隷出の小姓であり何の位もないエチエンヌとロザリーを、エヴェルシード内、いや王城内だけでしか通じないほど適当に結婚させた。そこにはほとんど意味はない。当人たち以外にとっては。
 ロゼウスが勝ち、皇帝になればシェリダンと共にこの大陸に留まるエチエンヌと、ローゼンティアに帰って王族としての勤めを果さなければならないロザリーもお別れだ。
「……今までありがとう」

 そして、さよなら。

 ◆◆◆◆◆

 こんな。
 こんな簡単なことだったなんて。
「……っ」
 寝台に手をつき、自分の身体を支える。
 その下には、愛しい人の身体がある。熱を出して眠っている。力ない身体。薄く呼吸のために開いている唇。
 自分の唇は噛み切ったせいで血の味がする。
 今は滲む程度のその痛みが、もっと大きくなればいい。どくどくと滝のように流れる血を、彼に。
 そうすればもう何も心配する事はない。
 そうすればもう、こうした悩みや痛みからは解放される。
 寂しくても生きていける。
 愛されなくても生きていける。
 全てを知った後に彼が自分を拒絶し憎むことになったとしても、遠く離れて二度と逢わなかったとしても、それでも生きていける。
 生きていてさえくれれば、生きていける。
 だからこれが、一番良い方法なんだ。
 ロゼウス、はそう考える。そうとしか考えられない。
 シェリダンに死んでほしくない。だったら、死なないようにしてしまえばいいのだ。
 吸血鬼の作る吸血鬼。その名はノスフェラトゥ。死人還りの死人人形。
 そもそも「ローゼンティア《の》吸血鬼」とはそういう意味だ。ローゼンティアのヴァンピルという種族に関しては「吸血鬼」と言うのは通称であり、正式名称ではない。冥府魔界の正式名称などどうでもいいが、とにかく、吸血鬼ではなく、吸血習慣のあるこの一族は、死を操ることができる。
 もちろん永久に死なない不老不死など御伽噺の世界だが、見た目だけそう見せることなら可能だ。
 魔力持つ薔薇の花に囲まれた死体が蘇ったという伝説から成る一族は、他者の身体を魔力で改造することができる。もともと彼ら自身半分魔力でできているような存在なのだ。《黒の末裔》と呼ばれる種族が魔術をほぼ自由に使えるのに比べて、ローゼンティアの吸血鬼たちが妙に魔力の制御が苦手なのはこのためもある。吸血の渇望に駆られて狂気に陥ったり、持っている魔力に対して簡単な治療魔術も上手くできない者が多かったりと。
 人間の中には《魔力》を「持つ」者がいる。だがローゼンティアの吸血鬼は違う。
 ローゼンティアの吸血鬼は《魔力》によって身体を作られている。
 人間の姿というのは、実体としてはとても安定しているものだ。人間に限らず、この世界に実体を持って生きる生き物は全てがそうである。しかし、ローゼンティアの吸血鬼は違う。彼らの存在は本来非常に不安定なものだった。
 例えばロゼウスやロザリーは外見が華奢であるのに対してその腕力や運動能力は人間の比ではない。それも彼らの存在方法と関わってくる。ローゼンティアのヴァンピルは肉体の構造が人間とは違いすぎる。
 ある運動を行う時、人間はそれに使用する力、筋力をもちろん筋肉から生み出している。
 しかし、ローゼンティアの吸血鬼たちにとってこの筋肉に当たる部分が魔力のようなものである。ロゼウスなどは外見を見ても特に筋肉があるようには見えない。実際、その少女のように柔らかな体つきには筋肉の欠片も外側から見て取ることができない。これは同い年である軍人王シェリダンと比較して見れば一目瞭然だ。シェリダンの体はしっかりと筋肉がついていてそこから相応の力を発揮するが、ロゼウスはその身体のどこから出しているのかわからないような力を使う。
 その力の出所が、魔力。魔力を使うのではなく、魔力から力を使うのだ。それがローゼンティアの吸血鬼が吸血鬼たる由縁。
 死体と薔薇の魔力と人間の血液。血液には魔力が――生命が宿ると伝えられている。ローゼンティアの吸血鬼はそれから作られる。だから筋肉などなくても怪力を発揮できる。
 そして彼らを構成するものがそれだというのが、ローゼンティアの吸血鬼が本来吸血鬼ではなく、グールと呼ばれるものに近いことを示す。
 蘇った死体、だからこそ、蘇る死体を作るのは得意だ。
 不老不死の聖者は作れないが、歩く死体を作るのは得意――。
 死体と魔力から作られて永き時を美しく若い姿のままで生きている魔族、それを「ローゼンティアの吸血鬼」と呼ぶ。
 ロゼウスはシェリダンもそうしようとしている。永遠に生かすことはできないが、死なないようにできるというのはこういうことだ。死体は死にはしないのだから。
 だが、それは本当に最上の策なのか?
 蘇った死体、でもそれは所詮死体でしかない。命を持っているように生前と何ら変わらない生活ができるとはいえ、それは本当に蘇ったと言えるのか?
 エヴェルシードでカミラを生き返らせた時とはまた違うのだ。あの時のカミラは生命活動を停止して間もない身体だった。瀕死と死の狭間にあった身体に力を与え、途切れそうな生命を活性化させただけだ。あの時は生き返らせたと言っても大したことはしていない。
 だが今回は違う。ロゼウス自身の血によってシェリダンの身体に魔力を通すと言うことは、彼を全く別の生き物に作り変えてしまうということだ。
 そしてそれ以上に怖いのは。
「これが……まさか俺がシェリダンを《殺した》ことになるとか言わないよな……」
 吸血鬼にするこの方法自体がシェリダン殺害に繋がるのではないかとロゼウスは危惧する。ノスフェラトゥに作り変えることによって、死んでしまうのではないか? そしてその後はもう本当に、生き返らせることができないのではないか? それが怖い。
 それとは逆に、もしかしたら、という期待もある。
 もしも人間としての生命を奪い死人返りとすることが彼を殺したことになるのであれば、これでその予言は叶えられないかと。死人返りとなったとしても、人間としては死んだこととなっても、シェリダンが生前と変わらぬ姿で側にいてくれるのではないか……?
 これは賭けだ。
「生きて」
 死んでしまっては何にもならない。
「お前に、生きてほしいから」

 別に構わないじゃないか。人間として死ぬくらい。

 今とそう変わるわけでもない。死人返りは失敗するととんでもなくおぞましい歩く死体人形、腐敗した肉を引きずりながら他の生き物に襲い掛かるゾンビなどになるが、ロゼウスはノスフェル家、その名の通り死人返りを作ることに長けた一族だけあって、この力には自信がある。
 シェリダンを失うなど考えられない。ましてや自分の手で彼を殺すなど考えられない。
 だから、死ねなくしてしまえばいい。
 簡単なことだ。死んでほしくないから、生きていてほしいから。
 ロゼウスは寝台についた手に力をいれ、自分の身体をしっかりと支える。
 そしてゆっくりと顔をシェリダンに近づける。熱い吐息が触れる唇に自らの唇を重ねる。
身体は汗をかいているのに、ここはさらりと乾いている柔らかな感触、燃えるように熱い体温も、人形にしてしまえば失われてしまう。
 でも、いい。
 人形であっても、側にいてくれれば。体の性能が多少違うといっても、今から行う方法では人格には影響を及ぼさない。ローゼンティア国内での内乱などになれば人格にすら影響を及ぼして自らに従順な人形を作ることもできるが、今はそれはしない。ロゼウスが欲しいのは美しい人形ではなくて、そのままのシェリダンなのだから。 
 眠ったままのシェリダンを起こさずに、ロゼウスは自らの血の滲んだ唇をそっと口づけた。じんわりと染み込んでいく血。
 自らの力が伝わる。ああ、でもこんなものでは足りない。もっと多くの血を、彼に。その身体を縛り上げる紅い枷のように、体中を巡るように血を飲ませなければ。
 唇を重ね合わせているというのに一方的な陶酔と恍惚。
 身勝手な選択の結果は身を持って知る。
 次の瞬間、ロゼウスは胸の辺りから勢いよく伸びた腕に突き飛ばされた。

 ◆◆◆◆◆

 唇から何かが注ぎこまれる。
 乾き罅割れたその場所を潤す水。
 しかしその味は苦く、氷のように冷たい。
 剣の刃を舐めたらきっと同じ味がするだろう鉄の味。

 これは罪の味だ。

 力が染み渡っていく。
 次の瞬間、シェリダンは全力で自分の身体の上の相手を突き飛ばした。
「……シェリダン……」
 寝台の上で体勢を崩したロゼウスが呆然と目を瞠っている。

 反射的に拒絶したものの、もちろんこれまで熱を出して伏せっていたシェリダンにそれが何なのかわかるはずがない。
 しかし、ロゼウスを引き起こすために身体を動かそうとして、彼は自分の身に起きた異変に気づいた。
「熱が……」
 先程まで重い疲労と共にこの身を苛んでいた熱がすっかりと引いている。体の調子は良く、倦怠感も眩暈もない。完全回復したようだ。
 しかしシェリダン自身の間隔としては、変だという印象が残った。夜明けまでぐっすりと一晩眠れたならばともかく、こんな中途半端な時間に起こされてあの疲労が抜けるはずはない。こんなに回復するはずはない。
 唇には柔らかな感触が残っている。
 目の前にはどう見ても先程自分に突き飛ばされた様子のロゼウス。
 何があった? 何をされていた?
 理由も知らないのに、何か不吉な感覚がして不安になる。
「シェリダン」
 身を起こし姿勢を正したロゼウスがもう一度名前を呼んでくる。
「ロゼウス」
すっかり良くなったシェリダンの顔色を見て、しかしロゼウスは何故か暗い顔をした。瞳にどこか、寂しそうな光が宿っている。
「……失敗したな。やっぱり血の量が少なかったか。目的を果たしていないで、でも体調だけは良くなったみたいだね」
 言われてようやくシェリダンは下の先に僅かに残る苦い味に気づいた。否、実際にそれを苦い味と評していいのかわからない。ただ、そんな印象だというのだ。同じものをロゼウスがシェリダンから受け取って舐める分には、彼はいつも甘い甘いと言っているもの。
 血――。
「な……に……」
頭が上手く働かない。現状が理解できない。
シェリダンはわけもなく震えながら、低い声でロゼウスに問いただす。
「今……何があった?」
 嫌な予感。
 とてつもなく、嫌な感覚。
「私に、何をしようとした!?」
 目の前にいるはずのロゼウスが何故か遠く感じる。何故か視線をそらされる。
 彼は何をしようとした? この身体の感覚は何だ?
「答えろ! ロゼウス!」
 大声を出すと、ロゼウスの身体がびくりと一瞬震えた。叱られるのを恐れる子どものように頼りなく、細い肩が揺れる。
 けれど彼はそれ以上シェリダンの詰問から逃げながった。顔を向けなおし、しっかりとシェリダンを見据えると口を開く。
「俺の血を――吸血鬼の血をお前に与えた」
 その言葉の意味するところをシェリダンは知らないはずなのに、本能が強い拒絶を訴えていたとも言うべきか、身体が緊張に強張る。
「どういう意味だ……お前は私に何をしようとした。もっとはっきり、私にもわかるように言え」
 上半身を起こして、寝台にぺたりと座りこんだロゼウスを見つめる。身長がさして変わらない二人は、こんな時俯きでもしない限り目線の高さにもほとんど違いがない。
「吸血鬼の血の力によって、お前を吸血鬼の眷属――死人返りと呼ばれる者にしようとした」
 ロゼウスの言葉に、シェリダンは朱金の瞳を無言のまま限界まで見開く。
「なん……だと?」
 吸血鬼の力。吸血鬼の眷属。
 死人返り。
 聞きなれない言葉ばかりだが、雰囲気で意味はわかった。
 これまでの強気な表情から一転して、ロゼウスの顔が不安に染まる。
「死人返り、それになればお前はもう簡単には死ななくなる。術をかけた当人である俺の命令以外では死なない肉体を持つことになる。もちろん人格や能力なんか、今のままで――」
「そんなことは聞いていない!」
 補足するロゼウスの言葉を聞くうちに、じわじわとシェリダンの中で理解が高まっていく。理解が高まるにつれて、自分の中でその感情が大きくなっていくのもわかる。
 これは怒りだ。
「何のためにそんなことをした! お前は私を――私を吸血鬼にするつもりだったのか!?」
 死人返りというのは、つまりそういうことだろう。吸血鬼の眷属となるということをロゼウスがどういうつもりで言っているのかはシェリダンには十分には理解できないが、彼が何をしようとしていたのかはわかる。
 ロゼウスはシェリダンを、人でない生き物に変えようとしていたのだ。
「お前は私を人間ではなくすつもりだったのか! それも、私自身の許可も取らず!」
 眠るシェリダンに口づけて血を注ぎ込んだ。それが何よりの証拠だろう。
「お前は……それがどういうことだかわかっているのか!?」
 人間でなくなるということ。
 それが、人間にとってどういう意味を持つか。
 それが、シェリダン=エヴェルシードという人間にとってどういう意味を持つのかを。
「ふざけるな!!」
 せっかく治ったというのにまた倒れそうなほどに強い勢いで、シェリダンはロゼウスを怒鳴りつけた。怒鳴られたロゼウスの、可憐な顔つきがくしゃりと歪む。
「ふざけてなんかいない! 俺は本気だ!」
「だからどうした!? お前がどんな思いであろうと、お前の行為がふざけたものであることにかわりはない!」
「不安だったんだよ! お前が死ぬのが!」
 悲鳴のような音量で、声音で、ロゼウスが叫んだ。
 室内に一瞬間、雷が落ちた後のような空白が生まれる。
「不安だったんだよ……あんたをこの手で、殺したくなんかない。だけどハデスやデメテル帝の予言では、俺がお前を殺すんだろう! そんなの嫌だ!」
 シェリダンには噴飯物の話でも、ロゼウスにはロゼウスなりの真剣な理由がある。だがその真剣さもシェリダンには受け止められない。当然だ。ロゼウス自身がシェリダンの意見も意志も聞かずに勝手に進めようとした物事に対して、何故シェリダンがロゼウスを慮れるというのか。
「嫌だ……絶対に、絶対にお前を死なせたくなんかない! 殺したくない!」
 それは確かに魂の悲鳴だった。心を切り裂かれて溢れた血が自分を埋め尽くして溺れ死んでしまいそうな、悲鳴。
「だから、だったらお前もヴァンピルになればいいんだよ!」
 傷ついたような表情をしていたロゼウスの瞳に、ふいに光が宿る。白い手が伸び、今度は先程とは逆にロゼウスがシェリダンを再び、寝台に縫いとめるようにして押し倒した。
 自分に覆いかぶさるロゼウス。いつもとはほぼ逆の体勢で、シェリダンはその表情を見る。
 今にも泣き出しそうだった顔の中、瞳の中に強い狂気がある。人によってはこれを狂気とは呼ばないかもしれない。それを狂気と呼ぶことこそ狂的だと罵られるのかもしれない。だがシェリダンにとってそれは、紛れもなく狂気と呼んでしかるべきものがそこにある。その狂気が口元に昇り、整った顔立ちに歪な笑みをはかせている。
「あんたを死なせて、永遠に逢えなくなるくらいなら――」
 そのぐらいならば、手遅れになる前にシェリダン自身の存在を作り変えてしまった方がいい。
 肩を押さえ込むロゼウスの手。少し伸びた爪が痛いほどに食い込んでくる。
「お願い、お願いだからじっとしてて。すぐに済むよ。すぐに終わるから。ただ、この口づけを受けてくれればそれでいいから。苦しいこともない。痛いこともない。能力や人格に変化があるわけじゃない。寿命だってお前の言うとおりにするから、それさえ叶うなら何だって、後はお前の望みどおりにするから、だから、ちょっとだけ、この瞬間だけ大人しくしてて」
 たったそれだけでシェリダンは人間から、魔物になるのだという。見た目も性格も変わらない、だが確実に人間ではなくなるのだと。
 ――そんなこと認められるものか。
「断る!」
 強く叫んだシェリダンは咄嗟に膝を跳ね上げてその身を蹴りつけ、今度こそ強烈にロゼウスを弾き飛ばした。


251

 お前がそれを望むなら与えよう。久遠を。
 この世の永遠を。
 望むならば――。

 ◆◆◆◆◆

 拒絶された。シェリダンに。
「なんで……」
 腹部を強かに蹴られ寝台から転がり落ちたロゼウスは、身を起こすことも忘れて呆然とシェリダンを見上げる。その自失した様子は先程の比ではない。
「どうして……」
 震え蒼白になる彼の様子をシェリダンはどこか痛ましげな様子で見下ろす。手を伸ばしてその身体を引き上げようとしたが、ロゼウスは手を取らない。伸ばした自分の手も引っ込めて、シェリダンは顔を伏せる。
「どうして、シェリダン、お前」
「私は人間だ」
 その声は冷静で、欠片も荒げる様子などない。
「人間だ。そして、これからも人間であり続ける」
「だから、それなら――」
「たとえ明日死ぬこととなっても、人間でいたい」
 伏せていた顔をあげて、朱金の瞳を燃える炎のように輝かせて彼は言い切った。
「私は、人として生き、人として死ぬ」

 君が永遠を望むなら。
 それを叶える力はここにある。
 だが望まない。
 あなたは決して――望まない。

「そんな……」
 ロゼウスはまったく納得しかねる様子だった。
「だって、ヴァンピルになれば、もう死ぬことなんかないのに。ただそれだけで、全然他は今とかわりないのに……」
 くしゃりと顔を歪め、泣き出す前触れの表情になったロゼウスに対し、シェリダンは落ち着いた様子で言う。
「お前は、肝心なことがわかってない」
 ロゼウスももともと大人しい性格というわけではない。そこまで言われて黙っていられるわけもなく、彼は涙の浮いた瞳でキッとシェリダンを睨む。
「肝心なことって何?! この世に生きること以上に大切なことなんてあるのか!?」
 ロゼウスの主張はとにかくそれだ。死なせたくないから、死なないようにする。そうすれば生きていられるから。だがシェリダンにはまたシェリダンとしての考えがある。
「ああ、そうだな。生きること以上に大切な問題なんてない。だからこそ、死の在り方は重要になってくるんだ」
「何それ」
「人間は死ぬから、生が尊い」
「そんなのわかんないよ!」
 シェリダンの言葉を、ロゼウスは次々に否定する。藍色の眉が不機嫌そうに寄った。
「ロゼウス」
「わかんないよ! お前が何言ってるのか、俺には全然! どうしてだよ! 俺がお前をヴァンピルにしたところで、お前に不利益なんてないだろう!?」
 肩ほどまでの白い髪を振り乱し、ロゼウスが立ち上がる。それを眼にした次の瞬間、シェリダンの視界がぐるりと捩じれた。
「!」
 ロゼウスでもその向こうの壁でもなく天井が目に映る。その手前に、ロゼウスの歪んだ表情がある。肩を寝台に押さえつけられているのだと気づいた。身動きしようとした途端、身体は動かないというのに寝台だけが耳障りに軋む。
 シェリダンの腹の上にロゼウスが馬乗りになる。白い髪は何かの飾りのようにロゼウスの頬を縁取る。その泣きそうな表情が近づいてくると、垂れた髪がカーテンのようにシェリダンの顔周りも覆った。
「ゆるさない。俺を置いて逝くなんて――」
 強く、そしてどこか虚ろなロゼウスの声とともに再度の接吻が試みられる。ロゼウスはシェリダンの言い分を聞くことなく、何が何でも彼をヴァンピルにするつもりらしい。
 だから。
「ッ!?」
 唇が触れた途端、ロゼウスが弾かれたように上体を離した。驚愕し目を瞠ったその顔、唇から流れる一筋の紅い血。
 彼の唇を噛み千切った際に含んだ血や薄皮を、シェリダンは行儀悪く部屋の床に吐き出す。
「な、んで……」
 わなわなとロゼウスの身体が震えだす。
 反射的に動こうとした手を、シェリダンは咄嗟に片手で押さえ込む。ロゼウスの力で手加減なしに殴られたらさすがに洒落にならない。それこそ死んでしまう。今のはそういう手の動きだった。ロゼウスくらいの実力者であれば、殴る前に我に帰って手を止めることもできたのかもしれないが。
「そうまでして、俺を拒絶するのか? 俺に不老不死を与えられるのは嫌だって?」
 これまで体調が悪かったのはシェリダンの方だったはずなのに、ロゼウスの顔色も今はすこぶる悪い。表情も歪みっぱなしだ。
 対して、一度は激怒したはずのシェリダンは今は冷静になっている。
 聞き入れられなかった言葉を、今度は大声で繰り返す。同時に腕を前に出し、ロゼウスの身体を遠ざけようとした。こんな体勢でヴァンピル相手に、力比べで勝てるはずもないと知りながら。
「私は人として生き、人として死ぬ! けっしてお前らみたいな化物にはならない!」
「――ッ!!」
 ロゼウスの表情が、驚愕や悲しみから怒りへと歪む。
「お前なんか、ひ弱な人間のくせに!」
「ひ弱で結構だ!」
 人間と吸血鬼。わかっていたはずのこと。今更話題に昇るようなものでもない事柄を低レベルに罵りあいながら、しかし二人の表情だけが複雑に変化する。
 ロゼウスは怒りに顔を紅くしながらも瞳に涙を浮かべているし、シェリダンも怒鳴り疲れた喉で苦しい息を吐きながら、どこかが痛いような顔をする。
 そしてシェリダンの唇から、搾り出すような声が漏れた。
「私は人間だ……!」
 その言葉にどれだけの思いが込められているのか。
 ロゼウスにはわからない。わかりたくない。
 ずっと一緒にいられるはずの方法をやっと思いついたのに、どうして拒絶するのか。
「私は人間がいいんだ。人間として生まれた、そうでしかあれなかったのが私だ。今更他の何かに変わる気はない。今更……ッ!」
 シェリダンの顔も苦しげだ。いまだロゼウスに拘束された状態ながら、眼光だけは衰えずきつくロゼウスを睨む。
「離せ」
「いや」
「離せ」
 舌打ちしたシェリダンは、これまでロゼウスを遠ざけようとしていた腕の力を急に抜いた。
「うわっ!」
 力の均衡が突如として崩れ、ロゼウスは自分の押していた方向、シェリダンの胸元へと上体倒れこむ。軽い音を立てて胸に飛び込んできた彼をシェリダンは一瞬押さえ込むと、くるりと自分と相手の体勢を入れ替えた。
「!?」
 馬乗りになっていた先程とは逆に、これではシェリダンの方が有利となる。シェリダンはロゼウスと違って抜かりなく、足の方までしっかりとロゼウスの身体を押さえ込んでしまった。ロゼウスが本気でシェリダンを殺すつもりで力を入れればこんな拘束を振り払えただろうが、彼にそれはできない。ロゼウスの目的はあくまでもシェリダンを殺すことではなく、ヴァンピルの半永久的な命を与えることなのだから。
 手荒な真似はできないという心理を逆手にとり、しかもロゼウスは手加減しているというのにシェリダンの方は遠慮なく全力でロゼウスを押さえ込む。
 そして自分の下となったロゼウスを見下ろすと、にやりと不敵に笑った。
「お前はいつも力に頼りすぎるからこうした悪知恵に弱いんだ」
「ずるい!」
「ずるくて結構だ。私は弱いからな」
 シェリダンはまた表情を変える。眉が下がり、何故か寂しげに微笑んだ。
「そうだ。私は弱い。だからこそ――」
 弱いならヴァンピルになればいい、とロゼウスは言う。
だがシェリダンにとっては、弱いからこそ、人間でいたいのだ。
「わかんないよ、そんなの」
 見開き続けていたロゼウスの瞳からぽろ、と零れるように涙の雫が流れた。
「どうして――」
「……だから、言っただろう。お前は肝心なことがわかっていないと。もっとも、そんなもの、わからないと臆面もなく言える方が幸せなのかもしれないがな――」
 シェリダン自身、自分が多少普通と違うということは自覚している。別に特に優れた能力を持つわけでも、その逆でもない。王族という立場は自分で選んで生まれてきたわけではないのだからそれも彼の功績とはなりえない。
 だが、何かが違うのだ。それは知っている。
 それが自分とロゼウスを永遠に隔てていることも。
 わかっている。でもどうしようもできない。
「馬鹿」
 押さえ込んだ先でロゼウスが小さく呟く。
「あんたは……馬鹿だ……」
「ああ、そうだな」
 私は愚かでいい。

 ◆◆◆◆◆

 手首を掴む腕に力を込める。
「あ……」 
 ぎり、と軋んだ己の手首にロゼウスが小さく呻く。真上から見下ろしてくるシェリダンの表情に、複雑な光がある。
 ふわりと降りてきた唇に唇を塞がれる。
「ん……ふぅ……!」
 いつもは甘美な陶酔をもたらすはずの行為も、今は酷く寒々しい。自分で動くのが億劫で、でもこのままなし崩しに持ち込まれたくはない。
 大事な話が終わっていない。
「やだ……やめろ、シェリダン!」
 唇が離れた隙に叫ぶが、彼は聞き入れようとはしなかった。先程のロゼウスの提案を無視したように、ロゼウスの抗議の声も無視して、勝手にことを進めようとする。
 ロゼウスの服に手をかけ、無理矢理剥ぐ。弾け飛んだ釦が床に落ち、白い胸板が露になる。そこにシェリダンが唇を落とすと、今度こそロゼウスが悲鳴をあげた。
「いやだ!」
 思い切り力を込めて、寝台に押し付けられた不利な体勢からシェリダンを振りほどく。一度は引いたシェリダンだが、顔色は変わらない。
「どうして、こんなこと……」
 自由になった身で起き上がり、ロゼウスは項垂れて小さく呟く。その顎についと手を伸ばし、シェリダンはまた噛み付くような口づけをする。
「んん……!」
 二度目の強引なそれに呼吸を奪われ、ロゼウスの息が上がる。火照った頬が色香を帯び、繰り返された口づけによって体中の熱が高まる。
「あ!」
 それを狙ったように、またシェリダンの手によって寝台に押し倒された。
「何……?」
 この場面で陳腐と言えば陳腐な問いかけに、シェリダンは口では答えずに行動で示す。
「ふぁ!」
 下半身をまさぐった手に、ロゼウスがびくりと跳ねる。
「や、やめろ」
「それこそ嫌だ」
 ズボンにかかった手が性急に動き、それを取り出して乱暴に扱き始める。
「は……! や、やめ、こんなことしてる、場合じゃないだろ!」
「お前にとってはそうでも、私にとっては――」
 言いかけて中途半端なところで言葉を止め、シェリダンは続きを喉の奥に封じた。そして言葉を紡ぐ代わりに、唇をロゼウスの腰へと落とす。
「ん……ん!」
 腰から下をなぞるように移動した唇がそれを捕らえ、ロゼウスの口から出る悲鳴も、言葉にならない。
「んや……やぁ……」
 快楽に流されやすい身体は呆気なく陥落し、口淫に耽るシェリダンを止めることができない。
 意志ではそれを拒絶していても、肉体が快楽悦楽に流されてしまう。
「ちがう……こんな……そうじゃなくて……」
 もっともっと、話し合わなければならないことはいくらでもあるはずなのに。伝わらない理解できない手の届かない、もどかしい擦れ違いに瞳は涙を零す。
「は……」
 だがその零れた涙も今は白皙の肌を彩る飾りにしかならない。淫靡な濡れた音が響く。
「ひっ……!」
追い詰められる者特有の所作でロゼウスが達した後、シェリダンは中途半端にその身体に纏わりついていた残りの衣服を剥ぎ取った。と同時に自らの服の前をも寛げる。
「うぁ……! や、めて……やだ……」
 唾液やら先程の先走りの液やらで濡れた指先をシェリダンは躊躇いもなく、ロゼウスの後の蕾に捻じ込む。行為に慣れた身体はそれを受け入れるが、ロゼウス自身の唇からはいまだ拒絶の言葉が漏れる。
「やぁ!」
 それは快楽を感じていないというわけではなく、けれど快感を与えられることを拒む言葉。
「ちがう……だめ……こんなことしてないで、そうじゃなくて……!」
 快感と圧迫感と、押しつぶされそうな息苦しさの中、必死でロゼウスが紡ごうとする言葉をシェリダンは強いて無視をする。
 これは強姦。
 たとえ恋人同士であろうが夫婦であろうが、一方が望まない行為を強いるのは強姦だ。
 わかっている。だからやった。
「ひあ!」
 一点を突いた途端に声色が変わる。より深い快感、快楽へと。
 転がり落ちていく。けれど頬にはぽろぽろと、生理的とは違う涙が伝うばかりだ。
 一方的な行為を無理強いするならそれは恋人同士であっても夫婦であっても強姦と言える。
だが、見知らぬ相手に無理矢理犯されるのとは違って、今自分を蹂躙している相手は本来自分が誰よりも愛している相手だからこそ、その気持ちは複雑なものになる。
「やめて……やめて!」
 ぐい、とまた体勢を変えられる。それに気づいてロゼウスがはっと顔色を変えた。
 制止の言葉など、もうこの状態でシェリダンが聞くはずもない。圧し掛かり猛ったものを、指にかき回されて開いた花のようなそこに押し付ける。
「ああああああ!」
 ずぷ、と生々しい音を立てて、紅く腫れた場所がそれを受け入れる。
 無造作に散らされていく花。
「う……う……」
「手を貸せ。そんな体勢では」
 無感情に命じる声。もっとも声がそうであるからと言って、内心まで本当にそうであるかなど所詮他者にわかりはしない。シェリダンはそう言うとロゼウスの手を、自分の肩にかけさせた。身体が密着してより繋がりが深くなる。瀕死の魚のようにぱくぱくとロゼウスが声なく喘ぐ。
 上気した頬、その頬を伝う涙、寄せられた眉間、――泣かせるのはなれていたはずなのに。
 ずきん、と一瞬胸に感じた痛みもシェリダンは行為中の興奮高まり動悸のせいだと努めて無視し、遠慮のない動きで動き出す。
「ぁあああ! ふあああ!」
 内壁を抉られて悲鳴をあげ続けるロゼウスの声音にも、ここまでくれば拒絶の意志よりも艶っぽい色が強く出始めた。悲痛な嬌声を耳でとらえるたびに、痛む胸と相反してぞくりとした快感が走る。
 愛しているのに傷つけたい、それは一見矛盾した想い。その相手と両想いであればなおさらだ。
 それでもやはり人間であれば、どうしても擦れ違ってしまうことはあるのだと。何をも生み出さない歪な交わりの合い間に思う。
 ロゼウスをシェリダンが抱くのは今日が最後だろうか。……最後だろう。
 その最後も、こんな形で終わる?
 胸の内に湧いては自身に問いかける言葉をねじ伏せる。もう止められない。自分の方からは。
 どんなに似た者同士でも、別の人間は所詮別の人間でしかないのだ。まったく同じ事を考えるなんてことはない。それが似た者でもなんでもない、むしろ正反対の思考を持つ相手なら更にそうだ。
 でも願ってしまう。わかってほしいと。
 
「なんで……こんなことするんだよ!」

 お前は、肝心なことがわかっていない。
「さぁ……な……」
 苦しいのは単に絶頂が近いからだ。そう思う。そう思いたい。
「……っ!」
 先に達したロゼウスの、声なき喘ぎに欲をそそられる。締め付ける場所の心地よさ。罪深い欲を中に吐き出しても、無意味にそこに留まり続ける。
「や……抜いて……」
 弱弱しい囁き声での懇願にようやく身体を離すと、白い蜜がとろりと零れた。自らの欲望の名残を見て、シェリダンは虚しい気分になる。
「……愛している」
 目を伏せて告げたこの言葉も今はたぶん虚しい。
《愛している》、その言葉がこんなにも憎く薄暗く寒々として救い難いとは知らなかった。
「……ウソツキ」
 責める声が胸に刺さった。