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「ええ!? アンリたちがこの城に来ているじゃと!」
「しかも、牢獄に放り込んだなんて……」
 アンとヘンリーの二人は、その話をルースから聞かされた。代わりにルースの方は、シェリダンたちを城に連れて来た後どこかに姿を消して雲隠れしているプロセルピナの居場所を尋ねる。
 プロセルピナの居場所は二人も知らずルースにとっての収穫はないが、アンとヘンリーにとってこの話は大きい。
「ヘンリー、すぐにあやつらに会いに行くぞ」
「ええ」
 ルースと別れ、アンとヘンリーは王城の牢獄へと向かう。
 エヴェルシードと違い、ローゼンティアにはさほど牢獄は多くはない。大陸中で畏怖されている魔族という存在であるため、ヴァンピル内の結束は強くそもそもさほど犯罪の起きない国家なのだ。軍事国家であるエヴェルシードは犯罪も懲罰も処刑も日常茶飯事だが、ローゼンティアではそうではない。王に牙を向いて玉座を狙った者などそれこそ故ヴラディスラフ大公フィリップが初めてで、実際に父王を殺し簒奪に至ったのは建国千五百年でドラクルが初めてだ。
 その、世界有数の治安の良い国であるローゼンティアのほとんど使われたことのない牢獄へとアンたちは急ぐ。
「そこな者たち、退け! わらわはブラムス王が第一王女、アン=ローゼンティアであるぞ!」
 ドラクルの命により牢獄の前に立っていた見張りをここぞとばかりに威圧して遠ざけ、二人はアンリたち兄妹に会うために獄の前に立つ。
「アン! ヘンリー!」
「お姉様、お兄様!」
「アン姉様、ヘンリー兄様!」
 薄暗い部屋の中、鉄格子越しに再会したヴァンピルの兄妹たち。
「お、お姉様〜〜」
「これこれ、落ち着け、メアリー……そもそも、何故そなたがここで牢に入っておるのじゃ?」
 もともとメアリーはアンたちと同じく王城に居たのだが、ルースの策略によって連れ出された。アンもメアリーがいないことぐらいは気づいていたのだが、ここでシェリダンたちと共に牢に入っている理由まではわからない。
「……あなたもここにいるのですか、シェリダン王」
 兄妹との再会をまず喜ぶアンとは違い、ヘンリーは一行の中で一際人目を引くエヴェルシード人の少年に目を留める。
「ああ。第三王子。もっとも、本当は王子ではなかったのだったか」
「ええ。そして今では、意味もないことです。現在のこの国の王はドラクルですから」
 静かに睨み合うシェリダンとヘンリーのやりとりに、横からアンリが割って入る。アンはロザリーと共に牢獄の中と外でメアリーを宥め、ジャスパーはシェリダンたちの話に耳だけを傾けていた。
 口火を切ったのはシェリダンだ。
「率直に聞く。ロゼウスはどこだ? まずはあれを返してもらおう」
「……ドラクルの臣下である私が、素直に答えると思いますか」
 ヘンリーは敵であるシェリダンに対し警戒を怠らない口ぶりで答えたが、その口勢は鈍く、躊躇うような、迷うような気配がある。
「ヘンリー、じゃが、ドラクルのロゼウスに対するあの扱いは」
「アン!」
 メアリーを宥め終えて話に耳を傾けていたアンが思わず口を挟むのに対し、ヘンリーが一喝する。その様子にローゼンティア内部の不穏な気配を感じ取り、シェリダンとアンリは眉を潜めた。
「何かあったのか?」
「どういうことだ。ドラクルがロゼウスに何をしていると?」
 アンリが不安げな顔つきになるのに対し、シェリダンはドラクルに対する敵意と殺意を隠しもしない。
「それは……」
「あなた方には、関係のないことです」
「ヘンリー!」
「黙っていてください、姉上。アンリたちだけならばともかく、ここにはシェリダン王たちもいるのです」
 アンは兄妹であるアンリたちがいることもあってか気安い様子だが、ヘンリーはそうではない。兄妹との再会よりもまず宿敵への警戒を優先したヘンリーは、シェリダンへと宣戦する。
「そこにいるアンリたちではあるまいし、私たちまでも懐柔できるとは考えないことだな、シェリダン王。ロゼウスのことはともかく、あなたは我らローゼンティアの敵だ。あなたにわざわざこの国の機密を話してやる必要などない」
 さりげなくアンリたちが馬鹿にされているような気がするが、それに対しての返礼は当人たちからではなく、一行の中で最も冷静かつ喧嘩っ早いシェリダンからもたらされた。
「そうだな。ここにいる連中じゃあるまいし、実の兄が自国の侵略に対して一枚噛んでいたと知りながらまだドラクルを信用している単細胞の意見などあてにもならないな。貴様では話にならん。何も言う気がないならここにいるだけ時間の無駄で、存在の無駄だ。とっととそこを退け」
「なっ! き、貴様という男は……!」
 シェリダンの挑発に、ヘンリーは顔を引きつらせる。ドラクル、アンリに次いで頭が良いとされ、その分奇人としても名高いヘンリーだが、実際はその立場の複雑さから変人を装っているだけでまともな常識感の持ち主である。今は変人ぶる余裕もないので、素の顔が表に出やすい。
 そしてヘンリーは、もともとすぐ下の弟王子であるロゼウスと仲が悪かった。特に何をするというわけでもないロゼウスと仲が悪かったのは、尊敬する兄ドラクルがいつもロゼウスにかかりきりだったと言う事のほかに、表に出されないロゼウスの人格的なものを嫌っていたのかもしれない。
 そしてそんなロゼウスが好きで好きで仕方がないというシェリダンとは、言わずもがな性格が合うはずもない。
 そしてここは年齢差以上に一時でも王を務めた者とそうでない者の度量の差というか、単にもともとの性格の差というのか、口の悪さと威圧感でシェリダンに勝てることはない。そして牢獄の中にいるシェリダンには殴りかかろうにも拳が届かない。もっともシェリダンの場合、相手が自分よりどれほど強かろうが、この鉄格子がなかろうが堂々と嫌味を言うのではあるが。
「おい、第一王女。先程何か言いかけたな、ロゼウスに何があった」
 アンはしばらく恥辱に震えているヘンリーを見つめていたが、やがて表情を引き締めるとゆっくりと視線をシェリダンに向けた。
「……プロセルピナ卿がロゼウスを王城まで連れて来た。その時のロゼウスは意識がないようじゃったが、目覚めたところでドラクルが自室に連れて行った。それから先は……わらわは数日前にロゼウスに会わせてもらえるようドラクルのところに行こうとしたのじゃが、その前にこのヘンリーが要件を通しに行ってくれた。じゃが、ドラクルはロゼウスを……・」
 躊躇う素振りでアンが口ごもる。シェリダンはこれまでの経験から、彼女が続けがたいと思ったその先に予測がついた。
 ドラクルはロゼウスが幼い頃から性的虐待をしていた。その証拠にアンの話を黙って聞いていたヘンリーの顔色が先程とは別の意味で悪い。青褪めている。
「わかった。それで今、ロゼウスはどこにいる?」
「いったん医務室に連れて行ったが、今ではまたドラクルの部屋に戻っておる。……のう、シェリダン王、取引がある。この牢から出す代わりに、ロゼウスを連れて、ここにいるアンリやロザリー、メアリーとジャスパーたちも連れて、逃げてはくれぬか?」
「姉上、何を!」
 突然のアンの言葉にシェリダンは片眉をあげ、ヘンリーは叱咤の声を飛ばす。アンリもロザリーも驚いたような表情をし、メアリーは何が起こっているのかよくわからないような顔だ。
「それが一番良い方法じゃろう? 誰がなんと言おうと、ドラクルはすでにこの国の王。そこにロゼウスを連れて来てはまた問題が起こるだけじゃ。それにそなたたちの様子じゃと、ローゼンティアに用があるというよりもただロゼウスを取り戻しに来ただけなのじゃろう? もうこのままローゼンティアに手を出さずにいてくれればわらわたちとしては問題ない。ロゼウスを連れて、どこか遠い国へでも逃げてくれ」
「……」
「アン……」
 彼女の訴えを聞きながら、シェリダンはしばし目を閉じて思案する。アンリたちは呆然としている。
 少ししてシェリダンは目を開けて、ぽつりと零した。
「やれやれ、そこの王子よりは貴女の方が気骨があるようだな」
 ヘンリーに一言の嫌味を加えてそう口にしたシェリダンは、しかし、と続ける。
「その話は一件妙案に聞こえるが、貴女は少し思い違いをしている」
「思い違い?」
 怪訝な顔をするアンにシェリダンは意味深に問いかけた。
「城下に出て、民の様子を見たことはおありか? アン王女」
「……ない。それと今回のことが、何か関係があるのかえ?」
「ドラクルがこの国にとって良い国主だと、貴女は本当に思っているのか?」
 問いかけるシェリダンの朱金の瞳は鋭い。まがりなりにも国王であったことのある人物としては、国の為政者への基準に一切の妥協も許しはしない。
「それに、逃げろとはいうがドラクルが追いかけてこないという保証はどこにある? 今回だって私たちがここに来るよりも早く、あの男自身がロゼウスを求めてルースを遣わせた。いくら私たちが遠くへ、この世界の果てまで逃げたとしてもあの男はロゼウスを諦めないだろう。違うか?」
「……違わぬ」
 今度の言葉はわかりやすく、アンは悄然としてシェリダンの指摘に頷いた。そう、問題はロゼウスではなく、ドラクルの方なのだ。ロゼウス自身は全ての問題の渦中にいるが自分から争いを引き起こそうとしたことはなく、他者が彼を望む故に彼の周囲で争いが巻き起こされる。
 それこそがロゼウスの最も罪深いところなのかもしれないが。
「アン姉様」
 アンとシェリダンの間での取引は失敗に終わり、この事態の打開策が見つからない。沈黙してしまった部屋の中、高く澄んだ少年の声が響く。
「なんじゃ? ジャスパー」
 これまで黙ってやりとりを聞いていたジャスパーが鉄格子まで近寄り、アンのすぐ側へやってきた。手を伸ばし、細い隙間からアンの掌へ何かを落とす。
「これは?」
 それはジャスパーが普段から身につけている髪留めの宝石の一部だが、何のためにアンに渡したのかわからない。ぽかんとしている彼女の髪へと手を伸ばし、ジャスパーはその髪から細いピンを引き抜く。
「交換してください。賄賂は駄目でも、取引ならば許されるでしょう。だけどあなた方は、ここから僕らを出すことは許されない」
 宝石と引き換えにピンを手に入れたジャスパーは、アンとヘンリー二人へと笑みを向ける。
 ドラクルにロゼウスを諦めさせない限り、この問題の片をつけるのは不可能に近い。そしてドラクルはロゼウスを絶対にロゼウスを諦めないだろう。ならば、ここで鉄格子越しに額をつき合わせて話し合ったところで得るものは何もない。
 ならば行動あるのみよ、と可愛い顔をして過激な思考の持ち主であるジャスパーは遠回しに、帰れ、と兄姉に告げた。
「さぁ、ドラクル兄様やルース姉様が来ては大変です。あとは僕たちが自力で何とかしますから」

 ◆◆◆◆◆

 折られた腕が鈍い痛みを訴え続けている。脳天を焼ききるような激痛は去ったが、癒されない傷は疼き、身体に伝わる振動一つ一つに神経を焼ききるような痛みで応える。
 ロゼウスの腕を折ったドラクルは酷薄な表情で、組み敷いた彼を見下ろした。ロゼウスが動けないのをいいことに、その身体を弄ぶ。
「は……、はぁ……」
 胸の突起を弄り回されても、今はまだ腕の痛みが勝るようでロゼウスの顔に快楽の色はない。こめかみに脂汗をかいて、涙を流している。
「あ……ぅ、く……」
 身体を動かせば、その振動が折れた骨に響く。ロゼウスは動けない。しかしヴァンピルの驚異的な回復力をもってすれば、もう少しで腕の骨も綺麗にくっつくだろう。
 その間もドラクルの手は休まらない。
「ぎっ!」
 必死に刺激を堪えるロゼウスを試すかのように、胸に、鎖骨に、首筋に、脇腹に、内股に、指で唇で触れては快楽を与えていこうとする。鎖骨の辺りを痕が残るほどにきつく噛むと、ロゼウスの唇から苦鳴が零れた。
「はぁ……」
 ようやく骨が繋がり、痛みが落ち着く頃にはロゼウスはすっかり体力を消耗していた。もともと銀の枷で繋がれていた身体に残っていた力を、今の怪我とその回復、回復する間に受けた拷問のような刺激の数々に耐えることで根こそぎ持っていかれてしまった。
 手足に力が入らず、肌に薄っすらと汗をかいてぐったりと寝台に横たわるロゼウスの姿に、ドラクルは満足そうに目を細めた。
「ん……ふぅ……」
 降りてきた唇と滑り込んだ舌を、抗う気力もなく受け入れる。疲弊のあまり従順に口づけを受けるロゼウスの様子に、ドラクルは少しだけ気分を良くした。
 それも長くは続かず、彼はロゼウスから返される反応に満足しては、ふと我に帰るように暗い光を瞳に宿す。
 結局何をしても、それは一時の気休めにしか過ぎない。もはや事態は抜き差しならないところまで来てしまっていることを、忘れては思い返すのだ。忘れたくては快楽に興じ、それに呑まれたくなくて思い出すのだ。滑稽にも。
 過ぎた愛は憎悪になるというように、過ぎた憎悪は愛に代わるのだろうか。
 死にかけの虫のように力なく横たわるロゼウスを見ていると、今ここでなら彼を殺せる気がする。細い首、先程も容易く折ることのできた骨、華奢な身体に刃を埋めれば、簡単に急所に辿り着くに違いない。流れ出す血は紅く、きっとこの世のものとも思えぬほどに美しいのだろう。
 なのに、どうしても殺せなかった。
「お前など……お前さえ、消してしまえれば……」
 眉間に微かに寄せた皺の辺りに憂いとそこはかとない色香を漂わせながら黙って呼吸を荒げているロゼウスを見下ろして、ドラクルはぎりりと唇を噛み締める。絹の敷布に爪を立てて、何かを堪えた。
 これまでのドラクルにとって、ロゼウスは弟であると同時に憎い敵だった。何も知らぬ風情で人々の心を魅了し、無意識の内に期待を抱かせる。ロザリーやミカエラを筆頭とする年下の弟妹たちがいい例だろう。特に何をするでもないロゼウスに惹かれていた。
 そしてそれは弟妹だけでなく、城の臣下や、国王ブラムスにとってもそうだったのだ。
 自らの実の息子であるロゼウスを、ブラムス王は当然ながら溺愛していた。表向きの第一王子であるドラクルに対しては公的な場でこそ理想的な父王として振舞ってみたが、実際には自らを裏切った妻と弟への憎しみをドラクルにぶつけるような男だったのだ、あの父王は。
 ブラムス王がその憎悪を真に向ける相手は、自分を裏切り王妃である妻たちと姦通した実弟フィリップ、その弟への復讐だと、彼はドラクルから王位継承権を剥奪する計画を立てていた。
 ローゼンティアでは十八歳が成人だ。その頃になればヴァンピルも身体的な成長が緩やかになり、大人として成熟していく。だからこそブラムス王は、ロゼウスが十八になる年に王位を彼に譲る計画を立てていた。
 そんな風にドラクルからこれまで与えてきた全てのものを奪う計画を立てた男に対する復讐は、彼自身の復讐を奪いとることだろう。ドラクルは考えた。
 ブラムス王がドラクルから王位継承権を奪うように、ドラクルは正統な王子であるロゼウスからその玉座を奪う。それが一番の復讐だと。
 そう、ドラクルにとってロゼウスの存在は、もともとブラムスに対する復讐の足がかりだったのだ。彼を踏みつけることがブラムスに彼自身の放った矢を報いることであるのならば、いくら踏みつけても足りない存在だ。
 そう……もともとドラクルにとって、ロゼウスを手中に収めることは、ブラムス王に対する復讐の「手段」だった。そのためにロゼウスを手に入れようと。騙しに騙して自分への愛情を刷り込んだロゼウスを踏みつけることこそが、ブラムス王への最大の復讐だと。
 だが彼の中で、ロゼウスを手に入れること、それがいつの間にか「手段」ではなく「目的」そのものになってしまっていた。ロゼウスを手に入れて復讐をするのではなく、ロゼウスを手に入れたかった。だいたい、ブラムス王はとうに殺してもうこの世にはいない。
 今になって思っていたよりも虚ろな自分に気づき彼は愕然とする。
「兄様……」
 弱弱しい声が真下から呼んだ。いつの間にかロゼウスは呼吸を整え終わり、じっとドラクルを見つめている。白い敷布に散る白い髪、それが彩る白い肌。狂気のような白の中で、ただ一色紅い瞳がじっと。
 その視線に射られて、ドラクルの背筋にぞくりと何かが走る。それは強いて言葉に表すのであれば、「恐れ」と称されるような。
 そしてそんな感情をロゼウス相手に覚えた自分自身に腹を立て、ドラクルは衝動のままに腕を伸ばしロゼウスの顔をはたいた。
「!」
 白い肌にさっと朱が走る。閉じた瞼に瞳は隠され、あの深紅は見えない。それをいいことに、ドラクルはますますもって強硬な行動に出る。
「あ!」
 いつの間にか尻の下に潜り込んだ指に、ロゼウスが焦ったような声をあげる。無理矢理その場所をこじ開けられ、いつもとはまた質の違うドラクルの乱暴さに、言葉にならない悲鳴をあげる。
「――ッ」
 ぐちゅ、ぐちゅ、と音を立てて解きほぐされていく蕾。だが、得られるのは快感ではなくて恐れ。ロゼウスは知らず息を詰めてしまう。その途端に奥をかきまわす指の感触をはっきりと感じて呻く。
「ああ……っ」
長い指が数本、その場所を出入りしてはかき回していく。ある一点を突かれると、自分でも制御できない快楽に切ない喘ぎが漏れた。
「は……ふぁ……っ」
「……そろそろいいようだな」
 少しずつ体力が回復してきたせいで逆に感じ取れるようになってしまった快楽にロゼウスが翻弄されようとする頃、ドラクルの静かな狂気を秘めた声が響く。
「――え?」
 実際には半分だけ音となり、残りは消えた疑問の声。腰を抱えられてずぶずぶとそれが押し入る感覚と共に、首を絞められた。ロゼウスはその感覚と現実を一瞬酷く遠いもののように感じた。
「ぐ!」
 緩く首を掴んだ手に、ドラクルがゆっくりと力を込める。もう片手はロゼウスの腰を支えたままだ。そして彼のものはやはりロゼウスの中に入っている。ロゼウスはドラクルのものを受け入れた状態で首を絞められている。
「ぁ……ぁあああ、あ!」
 声にならない声が絞り出され、ぎりぎりと首が絞められていく。それと同時にドラクルは腰を動かし、ロゼウスの中を抉る。
「知っているか? 知識としては教えたことがあったかな? こうすると締まりがよくなるんだって……」
 熱で潤んだ目元に頽廃を漂わせ、ドラクルは身勝手な快楽を追う。
 ロゼウスの視界には黒い影がかかり、今にも意識が飛びそうになる。だが素直に失神することはできずに、窒息の苦しみを生々しく味わいながら、ただドラクルに快楽を提供するだけの肉人形となる。
 体内にどろりと熱い液体が吐き出されたところで、ようやく首から手が離された。
 解放された後の孔から白濁の液をとろとろと垂れ流しながら、激しく咳き込む。そんなロゼウスを、ドラクルはやはり冷たい眼で見つめている。
 ロゼウスの呼吸が整う前に、ドラクルは寝台の脇に置かれたチェストの引き出しから一つの箱を取り出した。精緻な細工のされた小箱から取り出したものに火をつけると、ロゼウスの口に押し込む。
 呼吸は整ってきても喉は痛み、体力を使い果たしてろくな抵抗ができない。眩暈のする暗い視界で現状を理解もできない。けほけほと咳き込むロゼウスに、無理矢理何度もその煙を吸わせる。形状だけ見れば煙草のようなそれだが、薄い紙で巻かれた極上のそれは煙草ではない。
 高純度の麻薬の一種だった。


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 意識を失ったロゼウスが寝台で眠っている。枷は外しておいた。あれだけ痛めつけ、極めつけに麻薬を吸わせたのだ。しばらくは目を覚まさないだろう。
 横たわる少年のその白い髪を撫でながら、ドラクルはもの思いにふける。新しい清潔なものに取り替えた敷布が素肌に触れるのが心地よい。
 思い出していたのは、十年前の嵐の日だった。空を切り裂くかのような閃光と雷鳴に、昼間でも夜のように暗かった。そうであれば、夜の深さはなおさらだ。
 ドラクルはその日、自らの出生について聞かされた事実を確かめに、ヴラディスラフ大公フィリップのもとを訪れた。自分の実の父親だと聞かされた彼のもとを。
 ――大公閣下、聞きたい事がある。
 ――なんです? 殿下。
 ――あなたが、私の本当の父親なのか?
 ローゼンティアは薔薇の国と呼ばれる。その名の通り国中の垣根には薔薇が餓えられている。叔父である大公の館まで駆けつける途中の道、鮮やかな紅い花を、激しい雨が散らしていた。赤い闇が広がるように、地面が花びらで赤く染まっている。
 雨が世界を打つ激しき静寂の中で、暖炉に火のくべられた室内は一種の異界のようだった。
 幻となった過去の声が蘇る。今はもう幻でありながら、それでもドラクルを苛む。
 ――ああ。ようやく気づいてくれたのか。我が息子よ。
 ――どうし……て。
 ――復讐だよ。私の。いや、私とクローディアの。私たちから、兄上ブラムスへの。
 ――復讐……?
 ――ああ。そうだよ。本当はあの玉座は、私のものになるはずだったのだから。私の方が兄より王に相応しいんだ。なのに、ほんの数分生まれるのが早かったというだけで、あの男が全てを持っていった。
 身体を支えきれず、膝から力が抜ける。うっそりと深まる大公フィリップの病んだ笑み。恍惚として語られるのは、途方もない大罪だ。
フィリップは王になりたかったのだと言う。
 ――噂だけなら聞いたことがあるだろう。十八年前、つまり君が生まれる直前、ブラムスの三人の妃たちは争っていた。もっとも、第三王妃がその頃に身篭ったのはただの偶然で、真に争っていたのは第一王妃クローディアと第二王妃マチルダだけだけどね。彼女たちは王の寵愛を得ようと必死だった。子どもが生まれるのと生まれないのとではその後の立場が全く違う。そして、その子が男であるならばなおさらだ。普通なら正妃であるクローディアの方が立場が上だけれど、それでも彼女に全く子どもができず、第二王妃と第三王妃にしか子どもが出来なかった場合、正妃の立場に意味がなくなってしまうからね。だから彼女たちは焦っていたんだよ。何でもいいから王の子を孕みたくて仕方なかった。
 ――何でも、いい?
 ――ああ。そうだ。例えばそれが、王の目を誤魔化せるならば、王と同じ顔をした王弟の子でもね。……クローディアは子どもを欲しがっていた。何としてでも、第二王妃よりも先に。第二王妃の方も同じだ。兄上とは相性が悪いのか、二人ともなかなか子ができない。だから、私に取引を持ちかけてきた。
 実父だと名乗る、これまで叔父だと思ってきた男の口から語られる真実。それは例えるもののないほどに醜悪で、若かったドラクルの心を打ち砕くには十分だった。
 ――私もそれに応じた。最も、取引をしたのはクローディアだけではないが……。兄上は贅沢だね、二人とも家柄は文句無く高貴で美しい女性だというのに、一体何がご不満だと言うのか。全てを持っているくせに、まだ選り好みをしようというなんてね。
 複雑だったブラムス王と三人の妃との関係。政略結婚などどこの国でも珍しい話ではないが権力に結びついた憎愛はろくなものではない。
 ――だからね、これは復讐なんだよ、ドラクル。全てを奪ったあの男への。
何かにとり憑かれたようにフィリップが言う。確かに彼はとり憑かれていたのだろう。
 ――どうして……なんで、私、が……。
 ――どうして? イヤだな。ローゼンティアきっての聡明な君ならばわかるはずだろう。ねぇ、第一王子、世継ぎの王子、ドラクル殿下。あの男の子どもではなく、私の息子が次の王になる。これ以上の復讐が、あると思うのかい? この血統を重視するローゼンティアにおいて
 ――そのために、私は生まれたのか。そんなことの、ために。
 ――ああ。
 父であると知った男の手を振り払い、ドラクルは再び王城へと駆け戻った。嵐に濡れて汚れた服を着替えもせずに、今度はブラムス王の居場所へと向かう。
 ――お前はいずれ廃嫡だよ。ドラクル。
 ――当然のことだろう。お前は私の息子ではないのだから。
 そして、捨てられた。
 真実を知ることがいつでも幸せだとは限らないのだと、いやと言うほどに思い知った。
 ――クローディアは忌々しいが、ノスフェルの血はローゼンティアでも特別だ。その血を引くロゼウスならば、教育次第で、いずれはお前を凌ぐ王子となるだろう。
 ――……ロゼウスを教育するのは、お前の役目だ、ドラクル。
 ――あの子をお前に代わる完璧な、最高の王にしろ。お前の全てを、あの子に。それが私からの、私から全てを奪おうとしたフィリップとクローディアへの復讐だ。
 ――復讐……。

 復讐、復讐、復讐。
 ああ、またそれか。
 あなた方はそんなものに囚われてばっかりだ。
 そして私も今は……それに囚われている。

 ――だからお前も協力しろ。私が憎いのはあの二人。私を裏切ったのはあの二人だけなのだから。ああ、そうだ。お前に罪がないことなどわかっている。王子ではなくなっても、お前の事は決して悪いようにはしないと、約束するから……。
 王位継承権を奪い不名誉な事実の暴露と共に王城から追いやるのは酷いことではないと言うのだろうか。これまで実の親子と思っていたものを、他人だと知れた途端に虐待するのは酷いことではないと?
 だからドラクルはブラムス王を殺した。ヴラディスラフ大公フィリップを殺した。第一王妃クローディアも第二王妃マチルダも第三王妃アグネスも殺した。皆殺して、薔薇の下の闇に埋めた。己の出生の秘密ごと。
 あとはロゼウスを手元に置いて彼自身の復讐を果たせば完璧……であるはずだった。
 ――兄様。
 いつの間にか復讐の手段としてのロゼウスではなく、彼自身を求めるようになっていた。
「どうして……」
 こうも上手くいかないものなのか。自分の心なのに。
「だから言ったでしょう。それだけでは不足だと」
 口には出さぬ内省の闇が聞こえたように、いつの間に入り込んだのやら扉の脇に立ったルースが声をかけてきた。
 魔術師でもないのに神出鬼没なこの妹の気配に慣れているドラクルは、特段驚くでもなく彼女の方へ顔だけを向ける。
「ルース」
「ご機嫌はいかがですか? 陛下」
「最悪だ……」
「まぁ、それは大変」
 ちっとも大変だと思っていない口調でルースが言う。いつも通り小さな笑みを湛えたその口元に、ドラクルは酷く気だるげに問いかける。
「ルース……何の用だ」
「酷いお言葉。用がなければ来てはいけませんか? ……まぁ、今は言葉遊びをする気分でもなさそうなので、要件だけ」
 足音を立てずに寝台に近づいてきたルースは、ドラクルの側に半身を捩じるようにして座る。
「シェリダン王たちは牢に入れました。アンリ、ロザリー、メアリー、ジャスパーも一緒です」
「ああ」
「拘束する際にジャスパーの選定紋章印を確認しました。あれは確かに次代皇帝の証です。そしてプロセルピナ卿は見つかりませんでした。城内から気配が消えているので、逃げたようですね」
「そうか」
 気のない様子で短い相槌を打つドラクルの方へ、ルースは身を乗り出す。
「お兄様」
「……」
「私が前に言ったこと、覚えていらっしゃいますか?」
「何のことだ?」
「ロゼウスのことです。この子を傷つけるのであれば、シェリダン王を狙うのが一番だと」
 ロゼウスの名を聞いて、ぴくりとドラクルの肩が震える。毛布がずり落ちて、裸の上半身が露になる。
「……ルース?」
「ちょうど良いではありませんか? 今なら役者は全て揃っています。シェリダン王を殺してしまいましょう」
 ルースはあくまでもにこやかに続ける。話の内容が内容だけに、その笑顔との落差が恐ろしい。
「お前……」
「せっかく連れて来たけれども、ロゼウスはあなたに従わなかったのでしょう。でしたらもう、口で言ってこの子を繋ぎとめるなんて不可能ですわ。鎖よりももっと強力な呪縛をロゼウスにかけましょう」
 寝台脇に置かれた銀の枷と鎖をちらりと一瞥し、ルースは囁く。
 白い肌に白い髪の美しい天使のような美女は悪魔のように囁く。
「シェリダン王を殺してしまいましょう? 彼を殺せば、もうロゼウスの心を縛る者はいない」
 その声は甘く、人が超えてはならぬ闇へと簡単に誘う。
「私は……」
「欲しいのでしょう? ロゼウスが」
追い討ちをかけるようににっこりと微笑み、ルースはドラクルを誘導する。
「殺しましょう、シェリダン王を。殺してしまいましょう、ロゼウスの心を奪う者を」
 歌うように繰り返される言葉を聞いているうちに、釣り込まれるようにドラクルは頷いている。
「……そうだな」
 あんな男、殺してしまえばいい。
 唆されたその言葉をドラクルが彼自身のものとして受け入れる。ルースはこれまでとは違う笑みをその唇に乗せて、彼の部屋を出て行く。
 きっと次に会うときには、ドラクルの中でその考えはまるで最初から自分の中にあったもののように馴染んでいるに違いない。

 ◆◆◆◆◆

「役者は揃ったわね」
 魔力によってシェリダンたち一行が牢獄にぶち込まれ、怒り心頭のドラクルがロゼウスを監禁している自室に向かったのを知って、プロセルピナは王城に存在する隠し部屋の中で一人微笑んだ。
 どこの城にも、隠し部屋や秘密の避難経路というものは付き物だ。ローゼンティア王城内のそれは代々の王族が趣味で作らせた部分もあるらしく、構造は入り組んでいて数が多い。隠れるのには最適であり、多少の誇りっぽさを除けば居心地も隠し部屋とは思えないほど快適だ。
 彼女はそれらを上手く使い、シェリダン等をドラクルの前へ引き出して謁見の間から退散して以来城中を逃げ回っている。ルースがドラクルの命を遂行するために自分を探し回っているのは知っているが、出て行くつもりはない。もちろんルースがプロセルピナを探し回っているというのも表面上のことだ。何しろドラクルがプロセルピナを探させているのはロゼウスが皇帝であるという事実を確認するためだが、そんなものはわざわざプロセルピナを探さずとも、巫女であるルース本人がさっさとドラクルに告げれば良いのだから。
 ルースがドラクルにそのことを隠しているのを、プロセルピナは黙っている。
そしてその代わりのように、プロセルピナの思惑もルースは恐らく黙っているだろう。二 人は未来を見る者特有の考えで、この事態を自分の都合の良いように動かしている。
「彼女は彼女に都合の良いように、私は私に都合の良いように」
 行き着く先は同じだが、細部の調整は自分でやらなければならない。そう、例えばプロセルピナは当初こそロゼウスたちを手助けしたが今回ドラクル方についたことで敵に回ったと見なされている。今はまだ警戒されている程度だが、事態が進んで正式にロゼウスが皇帝となった暁には彼に敵視されるのはまずいだろう。シナリオの上で必要だったとはいえ、こうしてドラクル方に協力したことで下げた評価を今度は上げねばならあい。その方法も、すでに考えている。
 だが、それはまだ先の話だ。とにかくはこのローゼンティアでの案件が終わり、舞台を移してからの。
 そのためにプロセルピナはまた暗躍する。
「……ねぇ、ちょっといいかしら」
 隠し部屋から出て、城内を歩きまわる。王城には現在国主となったドラクルに会うため、日夜ひっきりなしの貴族たちが訪問する。これが平和な頃であれば城下の平民なども訪れるが、今は先の戦争とその後おエヴェルシードの支配などにより疲弊した民は城に通うような余裕はない。
 自然と城を訪れるのは貴族たちが主となる。しかし王にどうやって取り入るかという思考の有無を除けば、貴族も平民も不安がっていることは一緒だ。つまりこの国はこれからどうなってしまうのか。
 そして更に一部の貴族や民の中には、新王の体制に不満を持つ者も多くいることをプロセルピナは知っている。
 彼女はそんな、現王権に不満を持つ貴族の二人組に声をかけた。
「貴方たちを見こんで、お話したいことがあるのだけれど……」
 その二人組はドラクルの体制にはっきりとした不満を持つ一派だということを加えても特に変哲のない貴族で、顔立ちから皇帝デメテルの血縁とすぐに知れるようなプロセルピナが彼らを見込む理由もなければそんな機会もありはしない。しかし貴族と言うだけで無駄に自尊心の高い彼らはそんなプロセルピナの言う事を疑いもせず、彼女の話に聞き入る。
 ローゼンティアを案じる風を装って、最近のドラクルの暴走振りをいかにも気遣わしげに口にした彼女の言葉を。
「やはり、このままあの方を王として仰いでいては……」
「ああ、カルデール公やカラーシュ伯など、あの方の即位を支えた一部の者たちは心酔しているが、今のあの方の有り様は……到底、一国の主に相応しいとは思えないからな……」
 言葉巧みに貴族たちにドラクルへの不信感を植え付けながら、プロセルピナは一人ほくそ笑む。


242

「なあ、最近のこの国はどうなってしまったんだ?」
 薔薇の生垣に水を遣りながら、男は隣家の主人に尋ねる。そこは城下町で、男の家のすぐ隣は商店だった。
 店の支度を始めながら、隣家の主人は言う。
「さぁな。エヴェルシードの奴らが引き上げてからこっち、何の音沙汰もねぇからな」
「音沙汰がない……?」
 夕暮れである。人間とは昼夜逆転の生活を送る夜行性のヴァンピルたちは、この時間が「早朝」だ。一日の始まりから不穏な気配を感じ取り、男たちは店の仕度や垣根の手入れをする振りをしながら話し合う。
「何だ? お前さんは何か情報でも握ってるっていうのかい?」
「そういうわけじゃないが……」
 生垣の手入れをしながら、男は隣家の主人に語る。
「どうも、王城の辺りが変らしい」
「……王城? 国王陛下か?」
「ああ」
 男たちが話している内容は大っぴらにできるものではないものの、民衆の間でも口から口へと伝わって今ではほとんどの者が知るところだ。
「ドラクル王が何かやらかしてしまった、らしいぞ?」
 城下に流れるこの不穏な空気。もとはと言えばその不信感は王城から始まった。どこにでも口の軽い者はいるだろうし、そうでなくとも国の機密なんて大層なことを考えずに、自分が王城で見聞きしたことを家族にだけはと思って話してしまう勤め人はいる。流れてきた噂のせいで、ローゼンティアは現在不穏な気配に包まれていた。
「一部の組織が『また』クーデターを起こすっていう噂もある」
「本当か!?」
「ああ。それに、陛下だけじゃない他の王族方が帰ってきたとか来ないとかで、そこから新王を選ぶって噂もある」
「だが、王城にはまだヘンリー王子がいるだろう?」
「ドラクル王に与したから処刑、じゃないか?」
「そうかぁ……」
 実際のところ、ローゼンティアの民衆はまだ王であるドラクルに対して信用もしていないが、不審を抱くほどではなかったが、だがここに一石が投じられる。
「おい! 聞いたか!」
「ん?」
「何だ?」
 店の開店準備を始める店主と薔薇の垣根の手入れをする男のところへ、もう一人の男が駆け込んでくる。それもまた同じ町の顔見知りの一人だった。
「大変だ、大変だ、王が――」

 ◆◆◆◆◆

「なんじゃと! 城下で暴動とな!?」
 家臣からその報告をもたらされ、アンは大きく目を瞠った。
「へ、ヘンリー」
「……規模はどれくらいなのだ?」
 動揺するアンの傍らで、ヘンリーは細かいことを情報を持ってきた兵に聞く。政治に疎いアンにはそれが大変なことだとしかわからないが、ヘンリーはもっと多くのことを考えているらしい。
「原因は――え? 何?」
 兵の報告が進む途中で、ヘンリーが怪訝そうに顔色を変えた。その理由はアンにもわかった。報告をもってきた兵の話に寄れば、民衆たちは下級貴族に先導されて、口々に王の悪口を言いながら王城に向かってきている……そんな内容だった。
「どういうことだ? なんでそんないきなり」
 確かにここのところドラクルは民衆に対して飴を与えていない。だがしかし、要求を理由もなく無碍に退けるということもしていないはずだ。暴動とはそれらの平和的対話を繰りかえしてそれが首尾悪しく終わった場合、もうこれしかないとして暴力を使うものだ。それが、ドラクルが彼等を積極的に虐げる姿勢を見せたわけでもない、その言葉を無視したわけでもないこの時期にいきなり?
 ヘンリーは兵の話に不審を感じて、更に二、三聞き返しながら細かく事情を聞いた。別にその兵が嘘をついていたり嘘の報告をするよう誰かに頼まれたというわけでもない。むしろそんな企みをするならば今国の全権を握るドラクル相手に行うはずである。ただただ困惑した様子のその兵を用事が終わり解放すると、ヘンリーは険しい形相で腕を組んだ。
「ヘンリー」
 そろそろ良いかと、アンが話しかける。
「なぁ、どういうことじゃ? 暴動などと……」
 昨今のローゼンティアは荒れている。確かにドラクルは前ほど真面目に執務をしなくなった。しかしそれは内情を知るヘンリーから言わせてもらえば以前はエヴェルシードに侵略された国の建て直しをする段階で忙しすぎ、いくら国王と言えどもずっとあの状態で仕事をし続ければ潰れてしまう。今は少し休みすぎかもしれないが、これから順を追って調子を取り戻すなら許容範囲だ、と思う。
 だがその一方で、こうも囁く声がするのだ。本当にそうか? ドラクルにとって今は休息をとるための期間のようなもので、また以前のように文句のつけどころのない立派な王として執務を行うという保証がどこにある? と。
 いまだ民衆を揺り動かすほどドラクルが国政を放棄しているわけではないとはいえ、王城内で見る分には不安になる者もいるだろう。彼は最近部屋に閉じこもり、臣下に姿を見せないどころか、いつも不機嫌そうに廊下を歩く姿しか見かけられない。
 そう、ロゼウスがこの城に連れて来られたときから。
 このままでは国は傾いていくのかもしれない。だが、それが民衆レベルの暴動を起こすほど進んでいるかと思えば、そう考える事はまた難しい。
 これは自らの眼で確かめるしかないのか。
ドラクル自身が動かないと言うのであれば、自分が……。
「姉上」
「何じゃ?」
「私はこれから城下へ参ります。少しの間、城のことをお願いいたします」
 ヘンリーはアンにそう告げるが、姉は応じない。
「待て!」
「姉上、確かめねばならないのです。王城の中からだけではなく、実際にこの国が今どんな岐路にあるのかということを。止めないでください」
「そうではない! ヘンリー、わらわも一緒に行く、と言っておるのじゃ!」
「……は?」
 アンの言葉に、ヘンリーは呆けたように一言発すると沈黙する。
「……危険なのですよ? 暴動が発生していて」
 暴動と言うからには城下では民衆が荒れ狂っているのだろう。下級貴族の先導による組織的な動きがどのようなものかは見てみないとわからないが、安全ということはあるまい。
 姉の身を案じていったヘンリーに、しかしアンはだからこそだと強く返した。
「そんな時だからこそ、わらわも行かねばならないのじゃ。国がこんな大変な時に、わらわ一人だけのんびりとしておるわけにも行かぬじゃろう」
それに、とアンは続ける。
「わらわが城にいたところで、ロゼウスを助けることもできなければ、アンリたちすら牢から出すことも叶わぬ」
 口惜しそうに彼女はそう言って身体の横で拳を握り締める。平穏な時には感じない劣等感が今はその身に一杯だ。
 政治的な能力など、十三人兄妹で王子が七人もいるローゼンティアの王女には必要ないと思っていた。だが今現在、揺らぐ国の中で何一つできないことがアンには悔しい。
「状況を見るだけであればわらわでもできるであろう? もしも困った状況になって誰かがその場に残り、誰かがドラクルに報告に行かねばならぬ段になったとしても二人いたほうが好都合じゃ。ヘンリー、おぬしのことじゃから部下は連れて行かず一人で城下を見に行くつもりじゃったろう? わらわも連れて行け」
 ――城下に出て、民の様子を見たことはおありか? アン王女。
 ――ドラクルがこの国にとって良い国主だと、貴女は本当に思っているのか?
 彼女よりもずっと若いはずのあのエヴェルシードの王は言ったのだ。自分のその目で民の様子を確かめろ、と。
 ずっとこの国が平和であれば、アンがこうして動く必要はなかっただろう。ずっと平和で、この国には何の憂いもないのであれば。だがそんなことはなかったのだ。
 綻びはとうに始まっていたのだ。彼女たちが気づかなかっただけで。もとはと言えば、その綻びがドラクルを追い詰めた。
 もっと早くに気づいていれば何とかなったかもしれない事態を、ここまで悪化させたのはその無関心と油断だった。
「……わかりましたよ、姉上」
 二人は城を出て、城下町へと向かった。

 ◆◆◆◆◆

 あるいは同じようにして隣国である炎の国を通り抜けてきた者たちならば気づいたのであろう。それは仕組まれた滅びだと。
 しかし彼らは気づかない。
 そしてかの国とは違い、この国に彼の後を継ぐ者は、いない。

「王は狂人だ!」
「あの男は狂っている!」
「即位を認めるべきじゃなかったんだ!」

 民衆たちが手に手に武器を持ち、口々に叫ぶ。街のあちこちから火の手が上がっていた。

「王を殺せ!」

 泣き濡れた薔薇の国は、堕ちる。

 ◆◆◆◆◆

「あっちだ、あっちに反乱軍が!」
「くそ! どこのお貴族様だよ!」
「大変だ、金物屋の三男坊が若い連中率いてクーデターに便乗したって!」
「うちの小麦を勝手に持っていかないで!」
「どけ! 水が足りないんだ!」
「あなた、どこへ行ったの!? あなたーっ!!」
「これもそれも全部ドラクル王のせいだ!」
 城下町は混乱の最中だった。アンとヘンリーは地味な衣装に着替えて街へと降りてきたものの、この様子ではろくに情報を聞くこともできない。
 そして通りを忙しく駆けるひとびとに乱暴に突き飛ばされながら、聞きたくもない罵声ばかりは耳に入ってくる。
「……大丈夫ですか、アン」
「大丈夫じゃ、ヘンリー。それより……」
 ヘンリーは姉を庇うようにし、アンは弟にしがみつく。二人は寄り添いあって、フードで目深に顔を隠しながら路地裏を行く。今大通りを歩けば慣れてない二人はすぐに民衆に押しつぶされるだろう。
 吸血鬼の活動時間帯は夜が主だ。街を燃やす炎が、暗い夜空に映えている。
「ど、どうするのじゃ、ヘンリー」
 アンは不安を堪えて声を絞り出すものの、震えるその腕はヘンリーの服をしっかりと掴んでいる。
 初めて降りてみた城下ではしかし、彼女たち王族を排除する運動に賛成を表明するものと、その暴力に晒されて泣き叫ぶ者たちに分かれている。
「王を殺せ!」
「そうだ、殺せ!」
「ドラクル王を殺せ、あいつが全部悪いんだ!」
 誰かに操られた末の暴発とはいえ、燻っていた火種はもとから彼ら民の中にあった。王制をとる国家では、治世に関する不安は全て国王へと向かう。民衆は自分の生活が大事で国のことなど普段は二の次だが、有事になると途端にこぞって王に国を守れと声高に叫ぶ。 それができなかったブラムス王や、ブラムス王が期待をかけていたドラクル王、エヴェルシード侵略後のローゼンティアを上手く治められなかったかの王などもう必要はないと。
「王の首を刎ねろ!」
 街に住む者たちの敵意は王城へと向かう。此度の騒ぎは王に不満を持つ一部貴族が先導して城下町の民衆を巻き込んだものだ。王に敵意を向ける者と、彼らの暴動に巻き込まれて被害を受けた者たちの憎悪と恨みが一身に国王ドラクルへと向かう。
 アンとヘンリーは逃げ惑うひとびとに紛れて、被害の様子を見る。死傷者が出るほどの火事があちこちで起こっているようだ。吸血鬼はただでさえ火に弱いというのに。
「こんな酷いことになっているだなんて……」
ヘンリーが顔を曇らせながら言った。彼もここまで被害が大きいとは予想していなかったらしい。
 そして街の被害と同時に王城へ向けて行進する反乱軍の装備をも見て来た二人は、それが今すぐに王城に扉を開かせるようなものではないが、いつかは正門の守りを突破するだろうとも見てとった。
「アン、少しいいですか? あの丘へ昇ってみましょう。あそこからなら街全体を一望できる」
「ああ」
 ヘンリーの提案で、二人は街の裏路地を抜けて高台へと上った。街外れの丘は、よく王城の裏手から遠乗りのコースとして使うことが多い。人間であれば半日以上もかかる結構な距離だが、ヴァンピルの身体能力をもってすれば瞬く間に到達する。
 こんな時期に遠乗りを楽しむ輩もいないだろうとのことで、二人は誰もいない丘へと辿り着き街の風景を眼下に見下ろした。
「ああ……」
 城下を見下ろしてアンは溜め息をついた。王城の窓からではいくら街に近くとも、その分見えなかったものが、今この目にはっきりと映っている。
「北地区が……」
 夜空を焦がす大火、城の側の家々や商店が赤い炎に包まれている。焦げた匂いがここまで届いてきた。紅い家々を燃やす紅い炎。
「でも、あれでは王城には届かない」
 街の被害と黒い王城との距離を目で測り、ヘンリーが言う。そう、暴動は彼らが当初予測していたものより凄まじかったとはいえ、一朝一夕で城の警備を破れるようなものでもない。
 むしろこれでは、街の被害を広げるだけだ――。
 王のやることにけちをつけてまで一体何を考えているのかと、ヘンリーは歯噛みする。しかしその横で、アンは地面にへたりこみ絶望的な呻きを漏らした。
「ああ……ローゼンティアが滅びる」
「え?」
 彼女の言葉に、ヘンリーが大きく目を瞠って反論した。屈みこんでアンと視線を合わせる。
「姉上、冷静になってください。何を馬鹿なことを、あれではドラクルに傷一つつけることはできないでしょう。彼はまだ無事です。この反乱もすぐに鎮圧できるでしょう」
 ヘンリーの計算では、このぐらいの暴動でドラクルは揺らがない。反乱の首謀者さえ掴めばすぐに鎮圧できるだろうと踏んだ。暴動に参加した民衆が王城の正門を破るよりも、ドラクルが彼らを抑える方が早いだろうと。
 しかし、そんな彼の考えはアンの力ない首振りによってあっさりと否定される。
「ヘンリー……もう、無理じゃ」
「何故」
「先ほどの声を聞いたじゃろう。ひとびとが口々に『ドラクル王を殺せ』と叫んでおった。それが、このような被害をもたらしたのじゃ」
「そんなこと、街ならばまた再建できます! 我々の寿命は長いんだ。いくらだって――」
「そうではない」
 ぴしゃりと弟の言葉を封じて、アンは街を焦がす炎と同じ色の瞳から涙を溢れさせながら告げる。
「民の信頼なき王など、王ではない――。いくらドラクルが優秀であろうと、今度のことで家を家族を失った者たちはもはやドラクルを許しはしないじゃろう。もともとその暴動だとて、ドラクルへの不満を訴えたものじゃった。それを、力で押さえつけては永遠に民の不満は消せない」
 暴力には暴力で。その構図自体は単純だが、現実では暴力を持ち出してしまった後の方が対応に困ることがある。
 薔薇の国が燃えている。家々の垣根に植えられていた薔薇の甘い匂いが、焦げたにおいに取って代わられる。
 二人の眼下で、ローゼンティアが燃えている。燃えて崩れ落ちていく。
「わらわたちは、もう戻れぬところまで来てしまったのじゃな……」
 はらはらとアンが涙を零すが、強くなる一方の火が丘の麓まで迫っていた。熱気が頬を乾かして、濡れた痕も残さない。
「……姉様」
 気遣わしげなヘンリー自身の声も酷く弱弱しい。彼等の眼下で燃える国。あちらこちらから火の手が上がり、民衆が逃げ惑う。あるいは武器を片手に王城へと行進する。
 この国は滅びるのだ。
 今になってわかった。ようやく知った時には遅すぎた。
「……姉上、私はドラクル兄上は、立派な王になるものだと思っていました」
「わらわもじゃ。ロゼウスよりもドラクルが相応しいと。ドラクルならば、きっとローゼンティアを導いてくれるのじゃと」
 だが結果としてこの国は燃え堕ちてしまった。
「……私たちは間違えてしまったのでしょうか」
「わからぬ」
 わからない、ドラクルでなくても、ロゼウスが王になったとしてもこの結果は変わらなかったのかもしれない。
 でも、それでも……願ってはいけないだろうか。
「王を殺せ!」
「俺たちの暮らし向きがエヴェルシードに侵略されて以来悪いのは、全部ドラクル王のせいだ!」
 風に乗って流れてくる怒声の嵐。半ば自ら仕込んだこととはいえ、ドラクルがエヴェルシードのカミラ女王と取引してローゼンティアを取り戻した時にはさすがドラクル王だと褒め称えた者たちが今は憎悪をむき出しにして。
 自分たちは、なんて勝手な生き物なのだと。自分を立派だと思ったこともないが、他人も所詮そんなものだと今更思い知る。
「王を殺せ!」
 自分たちはドラクルを信じ、愛していた。彼の治める国が見たかった。そこはきっと楽園のように立派で平和で、居心地が良いのだろうと。
 だけどその夢が裏切られた今でも、彼を責める気は起きない。期待をかけたのはこちらの勝手だ、そして自分たちはドラクル側の存在だ。彼を支えてやらなければならなかったのに。
「……一度だけ、一度だけ言わせてください。アン」
「何じゃ、ヘンリー」
 これが最後だと、意を決して顔をあげたヘンリーがアンの目を捉え真剣に告げる。
「私はあなたが好きでした。……いいえ、今でも……愛しています」
 思いがけない告白にアンがぱちぱちと瞬く。普段は険しく見えると評判の目つきがそうすると和らいで幼い印象を与える。
 ヘンリーは続けた。
「一緒に逃げませんか? ……私と一緒に」
 数日前は王城の牢獄でシェリダンたちに向けた言葉を今ここで彼女に告げる。
「ドラクルの治世がもう駄目で、国が終わるのならば私たち王族の存在する意味はない。いいえ、一度でもドラクル方に与した私たちは暴動を起こした民衆に捕まれば八つ裂きでしょう。そのぐらいなら……逃げませんか?」
 何とか城の裏手から王城に戻ってこの事態を伝えても、きっとドラクルは今までと態度を変えはしないだろう。そういうひとだとわかっているし、それでいいと思って今までついてきた。
 けれど、ヘンリーは死にたくない。そして、アンを殺したくない。だからこそ言う。
「逃げませんか? 私と一緒に、逃げてくれませんか?」
 何もかも捨てて。この絆以外は何も持たずに。炎に焦げた薔薇のにおいを運んでくる風の導くままにどこか遠くへ。王族の責務も他の兄妹たちもドラクルもこの国も何もかも忘れて、捨てて。
 多分答は、あの時以上にわかっていた。
「……それはできぬ」
 あまりにも綺麗に笑いながら、アンが首を横に振る。
「わらわたちは王族じゃ。それは変わらぬ。何があっても変えてはならぬ。ドラクルじゃとて、やり方は多少間違えたが、それでも自らの宿命と戦ったのじゃ。わらわたちだけ逃げてどうする」
 あるいはひとはこの選択を愚かだと罵るのだろう。
 逃げればよかったのに、と呆れるかもしれない。
 だけど彼女たちにとっては、それができなかった。しなかった。
 自らが望んだわけではない。だけれど、この世に王族として生まれたのだ。父親がブラムス王とフィリップ卿のどちらであろうと祖父王の血を引くことには変わりない。だから最期まで、王族として死んでいく。
「偽り続ける方が容易くて、逃げれば平穏な未来が開けるかもしれぬ。じゃが」
「……そうですね」
 二人はここまでドラクルを信じてきたのだ。彼を信じた自分を間違ったとも思っていない。ただ、少しだけやり方を間違えただけで。
「もっと早くに、ドラクルの孤独に気づいてやるべきじゃったのだろう。だが、もう言っても詮無いこと。あとはロゼウスに任せるしかあるまい」
 あんなにも強くロゼウスを求める姿を見てようやくわかったのだ。ドラクルが本当に欲しかったのは何であるのか。
 誰もが少しずつ間違えて、そうして歴史の道筋を狂わせていく。
「わらわはドラクルの妹として二十六年間生きたこと、後悔しておらぬ。今もしておらぬ。だから、王族である自分を捨てる気はない。……ヘンリー、おぬしは?」
 いつの間にかヘンリーの頬にも涙が伝っている。すぐに乾かされるがその分後から後から零れていくそれを袖で拭いつつ、ヘンリーも頷く。
「そうですね。私も、ドラクル兄上の弟として生まれたことを誇りに思っています、今でも。だから最後までそうとして死んでいきます」
「まぁ、痛いのやら苦しいのやらはわらわももう御免じゃ。やるべきことをやったら、適当に逃げようぞ。なぁ」
 その逃げるという言葉は先程のヘンリーが持ちかけた逃亡とは違い、確実に破滅へと繋がっている。
 全てが終わったら、きっと二人は死ぬだろう。筆頭はドラクルとはいえ、その一派として深く罪を重ねすぎたから。民衆に正体がバレたらきっと槍を持って追い立てられる。それでもこれから街へと下りて、王族としてできる限りのことはするのだ。
 わざと重苦しくならないようアンが冗談めかして笑うのに、ヘンリーも頷いて返す。ふと気づいて、アンを促した。
「姉上……その、先程の、答は」
 最期だからと遂に明かしてしまった恋心の行末は、とヘンリーはついつい問いかけてしまう。アンは一瞬きょとんとして、ついでやわらかに微笑んだ。
「わらわも、お前を愛しておるぞ、ヘンリー。……弟としてでも、よければな」
 ヘンリーは苦笑して、それで十分ですと答えた。もとより彼女のドラクルへの恋心を二十年も見つめ続けてきたのだ。彼に向けるのと同じだけのものを返されるとは思っていない。ただ、その二十年の長さだけ姉だと思っていたはずの相手に邪な恋をしてしまったことを許してくれるならばそれだけで十分だと。
「……行きましょうか」
「ああ」
 二人は、死出の道連れに手を繋ぎ、眼下の街の混乱を治めるべく丘を下りていった。


243

「殺しましょう、シェリダン王を。殺してしまいましょう、ロゼウスの心を奪う者を」
「……そうだな」
 あんな男、殺してしまえばいい。

 カツカツと長靴が石を叩く音がする。その足音と感じる気配とに彼らは牢獄の中で顔を上げた。狭い室内にさっと緊張が走る。
「ドラクル王……!」
「ドラクル!」
 珍しいことに、国王であるドラクルが直々に牢獄へとやってきた。背後にはルースとアウグストがいつものように影の如く付き従っている。
「アウグスト」
「は」
 ドラクルの声に、アウグストは短く頷くと懐から牢の鍵束らしきものを取り出した。幾つもある鍵のうち一つを選んでシェリダンたちの閉じ込められた牢獄の扉に指しこんで、牢を開く。
「何のつもりだ?」
 シェリダンが眼差しをきつくしてドラクルを睨む。距離的には牢の入り口にいるアウグストの方が近いのだが、視線は真正面のドラクルから外さない。
 今日のドラクルは、ローゼンティア国王の正装である白い衣装を着ていた。ヴァンピルの白銀の髪と紅い瞳に似合う、白地に銀色の刺繍と紅い線と薔薇の紋章が入った裾の長いコートだ。中には黒いシャツを着ているらしく、襟元は紅いスカーフに飾られている。長身で華やかな容姿の彼にその衣装は似合いすぎるほどに似合っている。黴臭い牢獄には似合わないが。
 そして、堂々とした国王の衣装と態度に比べて、その顔色は悪い。目の下に隈があるなどというわけではないが、ゆっくり休んでいると言った様子ではない。
「ここから出てください」
 扉の傍らでアウグストが促す。
「いきなりぶち込んで、今度は出ろ? どういうつもりだ? ロゼウスを返す気にでもなったか?」
 ようやくのことで彼に視線を向けて、シェリダンはせせら笑った。ここではいそうですかと素直に頷くわけがない。特に、このシェリダンは。
 ドラクルはまだ、何をしに来たのかというシェリダンの質問に答えてはいない。そして、近くにロゼウスの姿もないようだ。相手の出方が読み取れなくて、シェリダンも減らず口を叩きながら警戒はしているのだ。
 もしもドラクルが自分たちに、特に自分に危害を加えるつもりならばそれはきっとロゼウスの目の前でやるだろう――ドラクルと性格がよく似ているらしいシェリダンは、正確にそれを読み取っていた。確かにドラクルも通常の状態であればそうしただろう。シェリダンにわからなかったのは、今の彼の追い詰められ具合だ。
「……いいから、来てもらおうか」
 牢の外から腕を突きいれ、ドラクルは強引にシェリダンの腕を引いた。――否、強引などというものではない。
「……――ッ!!」
 ドラクルに腕を掴まれたシェリダンが必死の思いで声を殺した。限界まで瞳を見開いて苦痛を堪える。こめかみを脂汗が伝う。ローラたちはその様子から事態を察するしかなかったが、アンリやロザリーたちヴァンピルは彼の腕の骨がドラクルの腕力で折られたのを聞いた。
「くっ……・!」
 その腕を治療することもなく、ルースがシェリダンの手首に手錠をかける。一応傷に直接は避けているが、何の慰めにもならない。
「ドラクル、なんで!」
「お兄様!」
 他の者たちも次々と牢から出されるが、その手には銀の枷。歩くために邪魔な足枷はつけられなかったが、一列に並ばされて前方をルース、後方をアウグストに見張られているのでは同じだ。
 城の中を少しだけ歩かされて、牢獄から草離れていない場所へと通された。中に足を踏み入れて、ひっ、とメアリーが悲鳴を押し殺す。
 シェリダンたちにはわからなかったが、そこはローゼンティアの処刑場だった。軍事国家であるエヴェルシードでは処刑は規律を引き締めるための見せしめとして民衆の目に触れる場所で行うが、ローゼンティアは違う。あくまでも王城の奥深くでひっそりと行われる。部屋の広さはたいしたものだが、ここには相当の貴族、王族しか立ち入らない。
 そしてアンリやメアリーたちもこの部屋には入ったことがなかった。ローゼンティアでは処刑など早々行われない。
 その処刑部屋に、今ドラクルが彼らを連れて来た。アンリたちの緊張は理由はわからずとも一緒にいるシェリダンたちにも伝わる。
 床は流れた血を洗い流すたびに神経質に磨かれるためか、まるで鏡のよう。正面の壁には国旗が掲げられているだけだが、両隣の壁際にはずらりと処刑、拷問道具が飾られているのも立ち入る者の恐怖を煽る様子だ。
 しかもその中の一つ、壁に備え付けられていた大剣をドラクルが手に取った。
「……まぁ、落ち着いてください。アンリ殿下方、あなた方だけはこれが終わったら一応監視つきで解放される予定ですから」
 堅くなるアンリやメアリーに対し、慰めるようにアウグストが一行の背後から言った。室内に入ってからは縦一列ではないが、やはり逃亡を見張るようにアウグストだけは部屋の後方、扉を塞いで立っている。
「あなた方『だけ』、は?」
 アウグストの言い方に不穏なものを覚え、アンリが尋ねるがそれは無視された。一行は正面のドラクルに視線を戻す。掲げられた国旗を背にし、凶悪な作りの剣を手にしたドラクルの姿はそれだけで威容を放つ。重そうな剣を軽々と振るい、彼はその切っ先を一人に向けた。
「シェリダン様……!」
 いまだ折られた腕の痛みを脂汗を流しながら堪えるシェリダンへと。こめかみから流れる汗とは裏腹にシェリダンは痛いという顔もせず、ただきつくドラクルを睨んでいる。
「シェリダン王、あなたには死んでもらう」
 淡々と、まるで用意された台詞を読み上げているかのようにドラクルは宣言した。
「……そうだ、もっと早くにこうすれば良かったのだ。そうすれば……」
 うわ言のように虚ろなそれに対し、手枷で自由に動けず、腕の痛みでじわじわと体力を削られていくシェリダンはそれでも堂々と尋ねる。
「ロゼウスはどうした。貴様が、あれに見せることもせずにただ私だけを殺そうとするとは思えないが」
 その言葉に、ドラクルは端麗な顔立ちを陰鬱に歪め笑った。
「あの子なら、今頃は楽しい夢でも見ているのではないか? クスリの影響でね」
「!」
 言外に麻薬漬けにしたのだという言葉に、シェリダンが自分のことも忘れて目を剥く。
「貴様……!」
 向けられる怒りを心地良さそうに受け止めて、ドラクルが剣を振るう。腕を慣らすように軽く振り回した後、長く大振りなその得物の切っ先をぴたりと、恐ろしいほど正確にシェリダンの首の横に突きつけた。喋るために喉を震わせれば刃が首に食い込むだろう位置。
「最期の機会をあげようか? シェリダン王」
 弱者を甚振る強者の余裕で、この段になってようやくドラクルは滑らかに言葉を紡ぐ。
「私に跪いて無様に命乞いをすればいい。そしてその姿をロゼウスに見せろ。この国から尻尾を巻いて出て行くというのであれば、見逃してやってもいいが」
 ドラクルの言葉に、室内の者たちはそれぞれの反応を示す。
 アンリは緊張し、ロザリーは最警戒対象としてルースに押さえ込まれながら怒りに震えている。メアリーは恐怖でへたり込み、リチャードやローラたちエヴェルシードの一行は主君の危機に動こうにも手が出せない。彼らが動くよりドラクルがシェリダンの首を落とす方が早そうだ。
 ジャスパーは一人だけ、この事態に何も感じていないかのように平然としているように見える。だが、顔色こそ冷静で他の者より落ち着いている彼の背にも、僅かに緊張の汗が流れている。
 そして当のシェリダンはと言うと。
「断る」
特に力むわけでもなく、あっさりとそう答えた。ぴくりとドラクルの眉が歪む。
 対照的にロザリーの動きを封じていたルースは全てを予想していたような穏やかな笑みを浮かべるのだが、誰もそちらには注目していない。ただ、ドラクルとシェリダンのやりとりを食い入るように見つめている。
 室内の注目を一身に浴びるシェリダンは、力を入れてもう一度はっきりと先程の返答を繰り返した。
「断る。私は貴様に命乞いをするなどまっぴらだ」
 繰り返すが、今のシェリダンの状態は酷い。両手首は前に回されて銀の枷で繋がれている。ヴァンピルではないのでその銀に毒されるということはないが、普通の人間の腕力で金属の枷が外せるわけがないのは当然だ。
 片腕は先程ドラクルに牢から出される際に掴まれたせいで折られている。治療もされずそのまま枷に繋がれた腕は、頻りに痛みを訴えて一瞬ごとにシェリダンの体力を奪っていく。脂汗がこめかみから噴出し頬を伝い、滴り落ちるほど。
 傍から見た様子では、対峙するドラクルとシェリダンはあまりにも対照的だ。かたや国王の華やかな衣装を纏い武器を構えた青年と。
 かたや、旅人のくたびれた装束を纏い、手を枷に繋がれ負傷した少年と。
 だがシェリダンはそんなこといっこうに気にしないと言うように堂々と立つ。一歩も臆さず、何にも屈することがない態度で対峙する。
 それは、自分が死なないと信じている様子ではなかった。ハデスやプロセルピナの予言によればロゼウスに殺されるまでは死なないのであるが、それでも眼前に刃を突き付けられて、普通ここまで堂々としていられる人間はいない。
 そう、彼は弱い人間だ。先程だとてドラクルが少し力を込めただけで腕の骨を簡単に折られた。ここにいるドラクルとアウグストとルースが本気になってかかったら彼ら一行はひとたまりもない。怪我をして枷に繋がれた状態のシェリダンなど格好の餌食だ。ドラクルにとっては一ひねりだろう。
 そんな弱い人間のくせに。それとも、弱い人間であるからこそ?
 彼は真っ直ぐに立ち、一歩も退かない。跪いて許しを乞い、命乞いすることなどありえない。……死んでも。
 文字通り命懸けの不屈の精神を示して、圧倒的窮地に陥った彼はむしろ勝者のように高らかに哄笑をあげる。
「ははははは! 突然来て何を言い出すかと思えば、貴様は本当に愚かだな! ドラクル=ローゼンティア!」
 腕の怪我に響くだろう大笑を堪えもせず、シェリダンは声を張り上げる。僅かに動いた拍子に首の横に突きつけられていた刃で皮膚を切り、一筋の血が流れ出す。しかし気にも留めず。
「所詮お前はその程度だということだ! この場面で私に命乞いをしろだと? お前は所詮、自分が人の上に立ちたいだけなんだろう!」
 ドラクルがシェリダンを追い詰めるのは、彼の無様な面を引き出したいため、そうして、こんな男はロゼウスが愛する価値もなければ、殺す価値もないと知らしめたいため。
 シェリダンがドラクルよりも「下」でいてくれなければ困るのだ、彼は。ドラクルがシェリダンに感じたのはジャスパーがシェリダンに感じているのと同じもの。
 か弱い人間である以上殺す事は容易いはずなのに、何故か「勝てる気がしない」。
 命を握られた状態で余裕の表情を消しもせず、シェリダンは続ける。
「貴様に王の器などない! この敗残者が!」
「貴様……!」
 ぎりぎりとドラクルは唇を噛み締める。シェリダンの弾劾は止まらず、見守る周囲も動けない。
「ロゼウスが憎い? 自分をそんな風にした世界が悪い? 笑わせるな! お前はただ単に、自分を認められたいという虚栄心が満たされなかったことを嘆いているだけだ! それも、最大限の努力をして自らを取巻く環境に立ち向かったわけでもなく、ただ流れやすい方向に流されただけで!」
「違う!」
「いいや、違わない!」
 流された、と言う言葉にドラクルがはっきりと怒りを露にする。しかしシェリダンは言葉を止めない。 
 ロゼウスたちの話を聞きながら、シェリダンは以前から気になっていたことがあったのだ。恐らくドラクル自身はそれを自覚しておらず、周囲もそれを指摘しない。だが、シェリダンにはそれがはっきりと見えていた。
 ドラクルとシェリダンが似ている理由。それは、境遇が似たようなものだからだ。複雑な出生に加えて、父親から虐待を受けていたという。
 それでも両者には決定的な違いが存在する。それは――
「違うと言うのだったら何故、お前は国を簒奪するのに十年も要した! お前が出生の事実を知ったのは今の私と同じ齢だろう!」
 それは、年齢。
「!」
 父が母を強姦して生まれた子ども、後に母親がその存在を拒否して、正妃からの嫌がらせにも耐えかねて自殺したという事情を持つシェリダンが父親に虐待を受け始めたのは七歳の頃。彼にとってはどうしようもなく、抵抗もできない。
 だがドラクルが真実を知ったのは十七歳。今のロゼウスとも、シェリダンとも同じ年齢だ。
 文武両道で歴代最高の王になるだろうと言われたその頃のドラクルは、本当にブラムス王に抵抗できなかったのか? 十七歳ともなればもののわからぬ子どもではない。成人まで一年をきった彼であれば、力で父親を退けることも、事実を隠蔽するために画策することも本当はできたのではないか。
 シェリダンは十七歳で父親を殺した。
 同じ事が同じ年齢だったドラクルにできぬはずはない。それがわかっているからこそ、シェリダンはドラクルを弾劾する。他の誰でもなく、同じような経歴を持ち、同じような罪を持つシェリダンだからこそ、それができる。
「愚かな男だ。お前は父親を愛していたのだろう。その父親が自分の人生に有害だと気づいているならば排除することもできたはずなのにそれをしなかったのは、お前が父親を愛していたからだ。その愛する父親をすぐに殺せない程度の殺意だったくせに、何が復讐だ」
 蔑み、嘲笑う。
それだけ喋るのは、短い時間。しかし、相手の矜持を砕くにも十分な時間だ。
「ドラクル=ローゼンティア。お前に王の器など、最初からなかったのだ。例え王の血を引こうとも引かずとも、お前は所詮それだけの存在でしかなかったのだから!」
 不正を知っても、愛していた父王を殺すことはできなかった。叔父の企みを知っても、自分の地位を奪われ周囲から掌を返されるのが怖くて彼を告発できなかった。そのくせ事態を納得も出来ずロゼウスにあたり、遂には己の積年の恨みを晴らすのだと何の関係もない無辜の民まで巻き込んで国に反乱を起こした。死傷者が幾人も出て、財や家も奪われた。
 結局いつも、ドラクルが守っていたのは自分だけ。
 それでは、エヴェルシードを内乱の危機から救うためにあえて民衆から石を投げられる立場になったシェリダンに敵うはずがない。
 自分しか愛していない人間が、国を守る王になどなれるわけがない。
 だがドラクルも黙ってはいなかった。
「ならば、貴様はどうなのだ!」
 好んで戦争を巻き起こしたエヴェルシードの王がそれを言うのかと。所詮脛に傷を持つ身が他者を裁く資格などあるのかとドラクルは逆に問い返す。
 彼も知っている。自分たちは似ている。そして決定的に違うのだと。だからこそ憎しみが倍増する。
「貴様が私の取引に乗ってローゼンティアを侵略したのも事実。私を声高に非難した所で、貴様だとて自らの欲のために他者を踏みつける私利私欲の輩、そんな者が聖人君子ぶって他人を批難できるというのか!?」
 ドラクルを責める資格があるのは、彼に巻き込まれただけの罪のない民だけだ。関係がないからこそ彼を傷つけることにも救うことにもならなかった。アンリたちでは駄目だ。彼らは兄妹でありながらドラクルを救うことができなかったのだから、彼らがドラクルを責めるならば自分自身をも責めねばならない。家族だからこそ。
 しかしシェリダンは違う。
「もちろん、私も私の罪を持っている。決して許されざる罪を」
 望まぬ子として生まれてきたばかりに、母を自殺に追い込んだ。そこから始まる全ての罪が。
「だが私が罪人だからと言って、貴様を糾弾する資格の有無など論じたところで無意味でしかあるまい。所詮人は他者を裁く権利など持たず、この世に世界共通永遠普遍の法などない」
 シェリダンはドラクルを「裁く」わけではない。
「勘違いをするな、ドラクル=ローゼンティア、私はお前を裁かない。お前を裁き、罪を換算して償いの量を示し、それだけ行えば許されるなどと告げてやる気は毛頭ない。私はただ、自分の行動の意味も結果も自分で自覚できない愚か者のために、それをわかりやすく示してやっただけだ」
 どんなに高尚な理由をつけ世界に責任を転嫁したところで、お前は薄汚い殺戮者なのだと。
 裁くことになど意味はないのだ。自らの罪を自覚しない者に刑罰だけをいくら与えたところで意味はない。罪人自身が己が罪のもたらすものを知らねば、過ちは繰り返されるばかりだ。
 ドラクルの簒奪と彼を取り囲む環境が無関係だとは言わない。ブラムス王を筆頭に、彼をそのように育てた者たちにも罪はある。だが結局どちらにしろ、この道はドラクル自身が選んだのだ。それをなかったことにはできない。
 できたはずの努力を、僅かに何かを斬り捨てることで得られたはずの最上の結果を無視してドラクルが選び取ったのがこの道なのだから。
 その責任を負うのは自分なのだ。
 他人が都合よく自分を不幸にしてくれたと、その不幸を盾に無関係な者たちを傷つけることなど許されてはならない。
 世界は複雑に繋がりあっている。何かが何かと繋がり絡み交じり合い今のこの均衡を作り出している。その全てが間違っているわけではないが、全てが正しいわけでもない。
 だからこそ尚更、自らを知らねばならなかったのだ。
 シェリダンの罪とドラクルの罪は無関係だ。一応の関わりはあるが、どちらかが罪を負えば片方のそれが消えるわけでもない。
 ドラクルは罪人であり、シェリダンも罪人である。どちらも裁かれるべき者である。それが変わるわけではない。
「貴様こそ、私の罪を挙げ連ねれば自分の罪が消えてなくなるような言い方は止すんだな。そうだ、私は罪人だ。忌むべき者だ。愚かで卑怯で醜く無様だ。そして」
 僅かに憐れむような調子でシェリダンは言った。
「お前も罪人だ。王などではない。王になどなれない」
 愚かで卑怯で醜く無様で忌まわしい。
 ただの罪人だ。
 それはロゼウスが皇帝の才能を持たずとも、ブラムス王やフリィップ大公があの通りではなくとも変わらない。
「貴様……ッ!」
 負傷しているシェリダンが余裕の態度を崩さないのに比べ、優勢だったドラクルの方が今は顔色を変えている。深紅の瞳に怒りが滾り、シェリダンを睨み据えた。
 ああ、そうだ間違いを認めよう。目の前の少年の鮮やかな笑みを凝視しながらドラクルは思う。
 処刑用の大刀を握った腕に力を込める。シェリダンの首元に突きつけていた刃を戻したのは処刑を諦めるためではなく、大振りの得物を勢いに任せて振り上げたためだ。
「やはりお前は、殺しておくべきだった!」
 ロゼウスを奪われる前に、ローゼンティアにとってのあらゆる利権を奪われる前に、ここでこんな言葉を聞く前に。自分でも何故それをこれまで躊躇っていたのか今となっては不思議なほど、――憎い。
 ロゼウスのことを差し引いても、この男はその存在自体が憎い。
「シェリダン!」
「シェリダン様!」
 ロザリーやローラの悲鳴が上がる。丸腰に手枷のせいで攻撃を防ぐこともできなければ、怪我のために機敏な動きで避けることも叶わないシェリダンは向かって来る刃をただ見つめる。
 次の瞬間、処刑広間に鮮やかな朱が散った。


244

 寒い。のに熱い。暑いというよりも熱い。身体が熱を持っている。
 朦朧として夢現を行き来する意識の中で、ロゼウスは様々なものを感じていた。快感と怖気、寒さと熱さ、心地良さと気持ち悪さ、恍惚と絶望、陽気と陰気。
 昇りつめては堕ちていく感覚、麻薬を嗅がされたせいで、意識が浮上して来ない。ふわふわと眠りと覚醒の狭間を意識する。
 身体がぴくりとも動かず、ただ横たわり眠るに任せる。正確には寝ているわけではない、瞑った瞼の下白い視界でぼんやりとするだけ。
 ふわふわ、ふわふわと。
 穏やかで、けれど何かが物足りない。
 足りないと思うのは、横にいる人の体温か。先程までここにいたのはドラクルだ。腕を折られたあの日以来、昼夜問わずに彼に何度も抱かれ続けた。麻薬で麻痺した頭で快楽だけを追いながら、ヴァンピルの底なしの体力が尽きるまで何度も、何度も。
 何故彼がこの部屋から出て行ったのか、ロゼウスは知らない。執務の時間なのかもしれないし、単に自分の身体に飽きたのかもしれない。まったく別の事情かもしれない。
 足りないと思うのは彼の体温?
 ちがう。
 無意識のうちに否定する。目を開けようとして、とろりと零れた瞼が視界を塞いで鬱陶しい。
「……ウス」
 ちがう。
 自分が待っているのは、彼ではない。
「ロゼウス」
 生まれてからずっと一緒に王城で暮らし、自分の生活の面倒の全てを見てくれた兄、ドラクルではない。そうではなく――
「おい! ロゼウス! 起きろよ!」
 誰かが呼んでいる。
 聞き覚えのある声だ。澄んで透明で、自分や「彼」よりも少し幼さを残す少年の声。顔立ちもわかっている。覚えているその顔も聞こえる声も物凄い美形とかそういうわけではないが、整って美しいことはわかる。そんな人物の。
「ちっ。ドラクルめ、また面倒なことを……。中和の術でなんとかできるか? まったく、ここの魔族どもはろくなものを作らないな……」
 声の主は何事かぶつぶつと呟いて、ロゼウスの顔の前に何か翳す気配がする。続いて玲瓏な声で呪文が紡がれるのが聞こえた。
「古より咲き続けるとこしえの銀の毒薔薇よ、その雫は水に落ちれば毒を成し、地に落ちれば炎を成すものよ、今一たびの安寧をその棘に抱く大気に恵みたまえ、死神の遺産よ、我が声に従え!」
 注がれる呪文が目覚まし代わりとなり、薬の影響が抜けてふと軽くなった身体をロゼウスは起こす。
 そして目の前の人物を見た。
 彼もまた、自分が足りないと感じた「彼」ではない。
 だがその顔は確かに見知ったもの、声には聞き覚えがあるはずだ。何故ここにいるのかはわからないが。
「ハデス……」
 何と言って言いかわからずにただ名前を呼ぶと、相手は不機嫌に唇を尖らせた。向こうも何と言っていいのかわからないのだろう。
「お前……どうしてここに?」
 ロゼウスは尋ねるが、返ってきた答は望む者ではないどころか、状況の説明すらしてくれない全く不親切なものだ。
「いいから、行くぞ」
 伸ばされた手は乱暴にロゼウスの腕を掴む。
 そこに行けば。
「シェリダンは?」
 ハデスがはっとしたように振り返った。一度唇を噛み締めて目線を床へと落とすが、意を決したように顔を上げると告げる。
「行けばわかる。さぁ、行くぞ!」
 寝台から剥ぎ取った敷布で裸のロゼウスの身体を簡単に包むと、彼を抱えながら転移の魔術でその部屋から飛び立った。

 ◆◆◆◆◆

 漆黒の王城。こう言うととても物苦しく陰気なようだが、実際生まれ育ち慣れ親しんだ者にはそうでもない。
 部屋の壁は暗くても、空気というのか、そう言ったものが明るかった。
 遊戯盤をテーブルの上に置き、向かい合うようにして座る。色の違う駒を持ち交互にそれを進めて勝ち負けを競う遊びを二人が行い、余った者たちは対局者の椅子の背から身を乗り出して盤上を覗き込んだ。どちらが勝つかなんて賭け事の真似事をして。
 いつも彼に勝てなかった。なのに悔しさよりも、いつも誇らしいような気持ちが勝った。やっぱりあんたは凄いな、と繰り返して、そんなことはないよ、お前だって強いよと繰り返され。
 あの平和な頃に、戻りたかったね。

 処刑広間に朱が散る。
 
「な……に……」
 処刑部屋に朱が散る。赤でもなく紅でも緋でもなく朱だ。それが鮮やかに黒い床の上の白い絨毯を汚した。血の色が映えるように、この部屋だけ絨毯が白なのだ。
 呆然とその光景を見つつ、シェリダンはヴァンピルの瞳の色とは正しくその身体に流れる血の色を透かしているのだと知った。きっとロゼウスやドラクルのような深紅の瞳を持つ者が血を流せばそれは何よりも濃い紅をしているのだろう。だが今この部屋に散った血の色は、朱色だった。
「アンリ……」
 シェリダンよりももっと呆然と放心したような表情で弟の名を呼んだのは、剣を振るった当人であるドラクルだった。勢い良く振り下ろしたその刃は咄嗟にシェリダンとの間に割り込んだアンリの身体を、剣を持つ本人にも止めることができず容赦なく切り裂いた。
 べしゃ、と柔物が硬い床にぶつかる音。そしてごぼり、と何か液体が溢れる音がする。
 それがアンリの身体が床に倒れこみ多量の血を吐いた音なのだと気がついた瞬間、痛いほどの沈黙は悲鳴によって破られた。
「アンリ!」
「アンリ王子!」
「いやぁあああ! お兄様ぁああ!」
 ロザリーが名を呼び、メアリーが半狂乱に陥る。シェリダンは腕の痛みを堪えて、床に投げ出されたアンリの身体のすぐ側へと膝を着いた。傷の容態を一目見て、顔をしかめる。
「これは、まさか……」
 助かりようがないと一目でわかるその傷口。傷が大きいとか深いとか、そういうことではないのだ。傷口の組織がどろりと溶けたように崩れていき、決して塞がらないようになっている。
 扉を瞠っていたアウグストも思わぬ事態に蒼白な顔になって駆けつけてきた。シェリダンを拘束するのも忘れて反対側からアンリの顔を覗き込む。
「《ロドの処刑刀》で斬った者は……ドラクル様、誰か魔術師を!」
 医師では治すことのできぬ傷だと判断して彼はドラクルにそう求める。魔術師との言葉にシェリダンは咄嗟にハデスを思い浮かべたが彼がこんな場所にいるはずもない。プロセルピナはどこに行ったのだろう。
「無理だ」
 アウグストの呼びかけに、しかしドラクルは衝撃のあまり凍りついた声で答えた。
 彼の持つ剣からは今も鮮やかな色をした血が滴っている。それは固まることもなければ粘性を持つこともなく滴り続ける。刃自体に何か細工があり、それがアンリの傷口を塞ぐことのできない要因になっているのだろう。
 ロザリーやメアリー、ジャスパーが喚く。ローラやリチャードがそれでも懸命な止血を試みるが、服の裾を切って作った即席の包帯さえアンリの血に触れた途端ぼろぼろに溶けていってしまう。ドラクルの持つ剣によって斬られた場所の組織が塞がらないことと、それは関係しているようだ。
 唐突にシェリダンは気づく。
 ここは処刑部屋だ。しかも、ローゼンティアの。
 吸血鬼である彼らは一度殺しても蘇ることが不可能ではないという。そんな国の王侯貴族の処刑場ならば、二度と復活しないよう阻止するための処刑具も揃っているのではないか。
 先程アウグストが《ロドの処刑刀》と呼んだ剣は、ドラクルがこの部屋の壁から外したものだ。
 ヴァンピルによって作られた、ヴァンピルを処刑するための部屋とその武器。
「無理だ」
ドラクルが二度繰り返す。
「この剣で斬った者は、どんな魔術を持ってしても助ける事はできない。例え、皇帝でも……」
 あれは、死神の鎌だったのだ。しかしそれが手にかけたのはシェリダンではなく、ドラクルにとって弟であったはずのアンリ。
「う……」
 苦しげに呻き、塞がらない傷口からぼたぼたと血を流しながら、アンリが上体を起こした。
「お兄様!」
「殿下!」
 ロザリーの声とアウグストの呼びかけが重なる。ロザリーやメアリーはともかく、敵であるはずのアウグストまでがこれほどにもアンリを心配しているのは、不思議なような気がしたが。
 その疑問は次の瞬間吹き飛んだ。
 傷は相当痛み辛いだろうに、それでもアンリは起き上がる。立ち上がった彼は、他の誰を振り返るでもなく、棒立ちになったドラクルの方へと真っ直ぐに歩き出したのだ。
「アンリ……」
 名を呼ぶドラクルの声が掠れる。
 ふらつくアンリの足元はおぼつかず、幾度も転びかけている。一歩進むごとに絨毯を小さくはない血溜まりが染めていく。赤い道筋ができた。
傷口が痛むのか、アンリは腹の中心辺りを手で押さえていた。あるいは内臓が零れないようにするためかもしれない。ならば動かなければいいのに。しかし誰もそんなこと言えなかった。
「ドラクル……」
 自分を斬った相手の名を呼ぶ。ここで殺すつもりはなかっただろうが、結局は自分を殺すことになる男の名を。
「ごめんな」
 大量に血を吐きこぼした彼の唇から思ったよりも明瞭な言葉が零れる。その言葉が部屋にいる者たちの思考を奪う。
 アンリが顔をあげる。自分を決して助からない武器で斬った相手を目の前にして。
 彼が終焉に選んだのは、それでも笑うことだった。
「シェリダン王はああ言ったけれど……俺はやっぱりあんたの怒りは正当なものだと思う。だけど……だから……ごめんな」
 これ以上はないというほどに哀しい笑顔だ。ドラクルが凍りつく。縫いとめられたようにその場から動けず、血まみれで微笑むアンリを凝視している。
 そんなことにも構わずに、アンリは続ける。目前に迫った彼の血まみれの手が、ドラクルの頬に伸びた。シェリダンと同じように枷に繋がれていたはずのその手も、剣で一緒に斬られて自由になっていたのだ。
「ごめんなさい、兄さん。わかって、あげられなかった」
 彼は、アンリはシェリダンを庇ったのではない。
 ドラクルにシェリダンを斬らせたくなかったのだ。それがどういう意味を持つのかはよくわからないけれど。何となくそれでは今よりももっとドラクルが駄目になってしまうような気がして。
 だから自分で、刃を受けた。
「ごめんな」
 三度目のその言葉が、彼の最期となった。ドラクルに縋り付いて泣くように微笑んだ彼の体が血に倒れると、その端から灰へと変わっていく。
「いや……いやぁああああああ!!」
甲高い悲鳴をメアリーがあげる。
「……兄様!」
 さすがのジャスパーも声をあげた。ロザリーは震えて後退り、その肩をエチエンヌが支えた。
「殿下……」
 ドラクル側であるはずのアウグストも呆然としている。何よりドラクルが。

 遊戯盤をテーブルの上に置き、向かい合うようにして座る。色の違う駒を持ち交互にそれを進めて勝ち負けを競う遊びを二人が行い、余った者たち……ヘンリーとアウグストは対局者であるドラクルとアンリの椅子の背から身を乗り出して盤上を覗き込んだ。どちらが勝つかなんて賭け事の真似事をして。
 いつもドラクルが勝った。アンリは筋は悪くないのに、最後の最後で詰めが甘い。逆転されて王の駒を持っていかれて、なのに悔しそうな素振りも見せず、我が事のように誇らしげに言うのだ。やっぱりあんたは凄いな、と繰り返して。
 そんなことはないよ、お前だって強いよと繰り返す自分がいた。
 できるならあの平和な頃に還りたい。還りたかった。

 だが、もう二度と取り戻せない。

 ◆◆◆◆◆

「シェリダン!」
 凍りついた場を切り裂いたのは一つの名を呼ぶ声だった。
「ハデス!?」
 意外なそれに仰天し、シェリダンは状況も忘れて声のした方を振り仰ぐ。腕の痛みを忘れて無茶をした所、走った激痛に思わず歯を食いしばった。
「ハデ、ス……ロゼウス!?」
 そしてもう一度視線を部屋の中空に向けると、そこには魔術師の少年ともう一人、求め続けた姿があった。
「シェリダン!」
 離れていたのはたった数日のはずなのに、なんて懐かしい。
「早く!」
 この声に呼ばれるために、ずっと彼を捜してきた。王城にまで乗り込んだ。
「ここから逃げるよ!」
 ハデスが叫ぶ。彼に荷物のように抱えられた格好のロゼウスが手を伸ばした。移動用の異空間の中では、重さは関係ないらしい。
 咄嗟の判断、むしろ無我夢中でシェリダンは駆け出すとそれを掴む。しっかりと、もう離さないというようにロゼウスの手をきつく握り締める。
「走れ!」
 そして号令した。アンリの死にまだ衝撃を受けている王家の兄妹たちを、ローラやエチエンヌ、リチャードなどエヴェルシードの面々が引っ張ってくる。泣き叫ぶメアリーをリチャードが肩に抱え上げ、ロザリーの肩をエチエンヌが支え、ジャスパーの手をローラが引くようにして皆ハデスの用意した異空間へと飛び込んできた。手枷は彼らが最初に現れた瞬間に、一人でに壊れた。
「ま、待て!」
 逃げられることに気づいたアウグストが我に帰り呼び止めるが、そんな言葉に頷くわけがない。ルースはルースで、さすがに笑顔とは行かないが無表情に彼らを見送る様子だ。
 ハデスが空間を開いたのは処刑広間の正面壁の奥だ。部屋の中央に立ち尽くしたドラクルは、そこに辿り着くまでに彼らが駆けて行くのにも興味を示さず、佇んでいた。
「ドラクル――……」
 ロゼウスが何事か言いかける。クスリ漬けにされたなどと聞いていたが、意識はしっかりとしているようだった。その彼がドラクルの名を呼ぶが、彼は振り返らなかった。
 追って来る暇を与えず、ハデスが空間を閉じる。
「皇帝領へ!」
 そして一行は、遥かなる大地へとその身を運ばれた。

 ◆◆◆◆◆

「ドラクル」
 もう呼ぶ事はないだろうその名。人生の最期に口にする名が恋人とか好きな人ではなく兄の名前だなんて男としては不本意というか……でもそれでも結構幸せなのかもしれない。
「ごめんな」
あの時、ドラクルがシェリダンを殺そうとして飛び出したその時、アンリはシェリダンを庇おうとしたのではなかった。
 何故かアンリは彼を殺してはいけない気がした。シェリダンはここでこんな風に死んでいい存在ではないと。それはロゼウスの大事な人だからというよりも、ただ直感として身体が動いたに過ぎない。ドラクルに、シェリダンを殺させてはならないと。
 理由はすぐには思い浮かばずとも、死の淵に滑り落ちながらじわじわと染み入ってきた。ああ、そうだ。アンリが真に庇いたかったのは、シェリダンではない。
 彼の言うことは真実で、痛いくらいに的を射ている。自分の心が抉られても構わないという彼は、だからこそ残酷に相手の傷をも抉る。その胸に見える紅い傷痕を引き裂いて相手の心臓を遠慮会釈なく引きずり出す。自らの傷口からだって、血を流し続けているくせに。
「シェリダン王はああ言ったけれど……俺はやっぱりあんたの怒りは正当なものだと思う。だけど……だから……ごめんな」
 彼の生き方は真っ直ぐで高潔で屈折していて卑怯で大胆で物悲しい。そんな風に生きてみたいと思ったこともなかったがが、多分世の中のほとんどの人は彼のようにはなれないだろうことはわかった。
 そう、それはドラクルも同じ。シェリダンのようには生きられない。自らの罪を否定するでも、その罪悪感のために卑屈になりすぎるのでもなくただ受け入れ、欲望や心の弱さを誰の責任にも転嫁せず、かといって欲を押さえつけて上辺で聖人面をして空虚な絵空事の理想を語るでもなく己の身勝手な願いは願いとして理解し抱きながら敢然とその場に立つなど。
 ああ、ようやくわかったよ。ドラクル、あなたは俺の理想の王などではなかった。そんな存在にはなれない。俺は俺で、自分の理想の人物像を、あんたにずっと押し付けていただけだったんだね。
「ごめんなさい、兄さん。わかって、あげられなかった」
 一人きりで強く立てない自分は、だからドラクルの怒りを聞いても正当だと思った。彼が国を滅ぼし、父王たちを殺したかった気持ちももっともだ。けれど、事態はそれだけではない。
 こんなにもあんたは醜く愚かで傲慢で惨めだったというのに、気づいてあげられなかった。その古拙の笑みの下に深々と口をあけた傷口に。
 ドラクルはやり過ぎたのだ。自らの痛みを訴えるには、無関係な他者の血を流しすぎた。加害者に変わった被害者の言い分を、誰が聞いてくれるのだろう。――俺以外には。
 誰よりも側にいたのに。
 俺こそがそれに気づかなければならなかったのに。
「ごめんな」
 もっと早くに気づいていれば、こんな最悪な事態は回避できたはずなのに。ごめんな、いつも助けてやれなくて。

 遊戯盤のチェック模様。王や兵を操り相手の陣地を奪い合う遊戯。小さなヘンリーやアウグストが纏わりついて盤上を覗き込んでいる。また自分を負かしたドラクル相手に、立派な王になれるね、と。
 大好きな兄さん。
 本当に、あなたに王になってほしかった。
 理性に従って動いた形の上ではロゼウスに協力していたその時でも、本当はあなた以外の王の姿など思い描くことができなかった。
 だから、これでいいんだ。

「ごめんな……」
 ああ、そういえばシェリダン王の死期は近い、と以前聞いたことをアンリは思い出した。たぶんこれも全ては時間稼ぎにしか過ぎないのだろう。
 何となく、ロゼウスが正式に皇帝になったらドラクルはもはやこの世にはいないのではないかとアンリは思う。あのドラクルが自分の憎い弟が皇帝になった世界で息をしていることを許せるとは思えない。
 そしてシェリダンも死んでしまうのだと。だったら、ここで自分一人死んだところで何も変わらないような気がするが、だがアンリはそれでよかった。
 シェリダンがドラクルの弱さについて、真実を指摘した。見当違いの発言ならともかく、彼の言葉は残酷なくらいに正確にドラクルを見抜いている。己を言い当てられてドラクルは激昂し、剣を振り上げた。
 そのままシェリダンを殺せば確かにこれ以上ドラクルはシェリダンと向き合わずに済むだろう。
 だがそれは、本当の意味での解決にはならない。むしろ、そうしてしまった方が後々ドラクルの惨めさが増すだけだ。
 自分に都合の悪い相手だから斬った。気に入らない玩具を壊して駄々をこねる子どもと同じ行動だ。耳に痛い意見だからと耳を塞いで無視をするのか、己の弱さといつまでも向き合わずに。そうやっていつまでも、自分に都合の悪い相手を刺し続けて生きていくのか?
 それでは、彼はいつになっても本当の安息を得られない。
 だからここでシェリダンを殺してしまわなくて良かったのだ。
 胸から脇腹にかけての激痛。血が足りなくなって霞む視界に、血を吐いた口内に満ちた錆の味。
 それでも一歩一歩地を踏みしめてドラクルのもとへと。
 父や母は彼を愛してくれなかったのかも知れない。世界や宿命が彼を裏切ったのかも知れない。
 だけど、自分はドラクルを尊敬していたし、兄としての彼を愛してもいた。王になってほしかった、本当に。その治世を、自分が隣で支えたかった。
 もう戻れはしない上に、結局ここで助けたシェリダンも、ドラクルもいずれは死んでしまうのだろうが……
 時間は多ければ多いほど良いだろう。アンリはもう十分、人生を楽しんだ。一時でも幸せな家族の、幸せな王国の夢を見ることができた。
 だからせめて彼らにも満足な結末を得るぐらいの時間は持ってほしい。幸せに生きてとは言えないけれど、責めて死ぬ瞬間に幸せだったと思えるような人生を。
 アンリはそれを手に入れた。もう、ずっと前から持っていた。

 じゃあね、先に逝ってるよ。

 できるなら可能な限りゆっくりと来て欲しい。処刑用の刃で斬り裂かれた傷口が塞がらず、血と共に命が滑り落ちていく。
 もう瞼が開いていても何も見えない。光も闇もわからない夢幻の空間の中、唇が張り付いて動かなくなり、身体が傾ぐのがわかった。その最期の瞬間まで祈る。どうか、どうか、と。そして世界が暗転し、呆然とした表情のドラクルが遠ざかっていった。自分はそれを微笑んで見送ることができただろうか。いや、見送られたのは自分の方か。

 さぁ、そろそろミザリーやミカエラ、ウィルや父上たちに会いに行こう。


245

 王城の外では、煽られたとも知らず怒り狂う民衆が鬨の声をあげている。王を殺せ、その首を刎ねろと叫び続ける。
 謁見の間は静まり返っていた。それは遺体のない通夜だった。王自ら処刑した裏切り者の弟の。
 処刑広間に散った朱。
 裏切り者?
 裁かれたのは、果たしてどちらだったのだろう……?
 宝石と金で飾り立てられた美しいハリボテのような玉座に座り、ドラクルは一言も発しない。居心地の悪い沈黙の静寂の中にルースとアウグストは同席を強いられる。強いているのはドラクルではない、彼ら自身の愛情だ。
 ルースは表情を変えないが、アンリのことはアウグストにとってはかなりの衝撃だった。震える全身に動揺が広がり、逃げるロゼウスたちを追えもしなかったほどの。
 ローゼンティア王家の兄妹は大体年齢が上の方の集団と、年下の集団で別れていた。
 ドラクルとアンリは母親違いの年子の兄弟で、母妃たちの思惑のせいで競わせられてはいたが、それでも基本的に仲が良かった。立場からいけば王位をも狙える第二王子であったアンリはドラクルに一片の叛意を持つこともなく、王になったドラクルを支えることを目標に精進していた。
 ドラクルとアンリ、そして第三王子のヘンリーとその友人アウグストで、いつも盤上遊戯を楽しんでいた。勉学の間の休みに、四人は示し合わせたように集まり、時には顔を出したルースが混ざり、ケーキを焼いただのとアンが差し入れを持ってきて。
 身分違いにも関わらず親しく接してくれたアンリはアウグストにとっても兄のような存在だった。敵対した時にいつかこのような瞬間が来るとは覚悟していたはずだった。なのに……。
「お葬式の準備完了、と言ったところね」
 突然、空中から声がかけられた。
「プロセルピナ姫」
 前触れもなく魔術でその場に現れたプロセルピナが、室内の状況を見回して一言。
「外では国民たちが王を殺せと喚きちらしているのだけれど、放っといていいの? ドラクル王」
「……ああ」
 本来なら兵士を率いて鎮圧に赴かなければならないのであろうが、今のドラクルにその気力はなかった。
 最近特に民衆に対して弾圧を加えたわけでも粛清をかけたわけでもなければ、ここまで恨まれるわけも実のところよくわかっていないというのが現状だ。簒奪の真実も一般の国民は知らず、ドラクルたちの陣営が流した情報どおりにブラムス王を討ったエヴェルシードを退けて国を取り戻したと受け止められているはずなのに何故。
 実際はプロセルピナが元から反抗心を持つ貴族を炊きつけその貴族たちが民衆を誘導した結果なのだが、ここにいる中ではルース以外はそのことを知らない。
 だが、敵意はこれ以上ないほど突き刺さる。この国の民に王として歓迎されていないという。それと先程のシェリダンの言葉「貴様は王の器ではない」という指摘が突き刺さる。
 そんな中、またしてもプロセルピナが凶報を、そして訃報を告げた。
「アン王女とヘンリー王子は死んだわ」
「!」
 アウグストが顔色を変える。ドラクルもゆっくりと顔を上げた。彼らの様子には一切構わず、プロセルピナは淡々と続ける。
「城下で暴動の第一弾が起こった際にそれを鎮圧に出たそうよ。だけど民にとっては二人も恨みの的とされて、追われる羽目に。混乱状態を落ち着けたはいいものの、それを終えた後は自分たちが追われる羽目になって、最期は森の中で二人命を絶ったそうよ」
 できる限りのことをして、最期は心中したということだ。
 アウグストが床に崩れ落ちる。一番の親友の死に、爪が食い込むほど額に手を当てた。
「ヘンリー……」
 アンリは死んだ。ヘンリーも。
 アンもミカエラもミザリーもウィルももういない。


 白い手が自らの駒を動かし、相手軍の王をとる。
 ――やっぱりあんたは凄いな、ドラクル。敵わないよ。
 ――そんなことはないよ、お前だって強いよ。私だってすぐに追い抜かれてしまいそうだ。もっとも、そうならないように努力はするけどね。
 ――今だって俺より強いあんたにこれ以上努力なんてされたら、俺いつまでだって勝てないじゃないか。
 できるならあの平和な頃に還りたい。何も知らなかったあの頃に還りたかった。
 だが、もう二度と取り戻せない。取り戻せるはずもない。
 奪ったのは他の誰でもない、自分だ。責めるべきは自分だ。


「ドラクル王」
 プロセルピナが問いかける。
「この先どうするの?」
 答えずにドラクルは全く別の質問を彼女に返す。
「プロセルピナ、何故あなたは私にロゼウスが次代皇帝であることを黙っていた?」
 預言者として知られるのは彼女の弟であるハデス、しかし皇帝は万能だ。予言の力を持っていることもあるかもしれない。そしてシェリダンの口ぶりでは、プロセルピナもそのことを知っているようであった。
「今言うつもりだったのよ。ロゼウス王子たちは皇帝領に向かったわ」
「行き先がわかるのか」
「ええ。移動を担当したのはハデスだもの。あの子のことならね」
「……」
 プロセルピナがロゼウスが皇帝であるという事実を黙っていたこと、元はと言えばそれが今回のできごとの引き金だ。しかしそれがなかったとしても、どうせドラクルはロゼウスを欲していた。彼を奪いシェリダンを殺そうとするだろう。それなら、結局最期は変わらないのかも知れない。
 もう、今ではプロセルピナを責める気も起きない。責めてどうなる相手でもないということもある。ドラクルが殺そうとして殺せる程度の相手ではないのだ。この元皇帝は。
 王城の正門は暴徒たちが詰め掛けて今にも決壊しそうだという。城内に残っている兵やそれ以外の部下たちが怯えていた。
 この国にドラクルを支持する民はいない。支持する王族であったアンとヘンリーも、もう……
 全ては滅びに、終わりに向かうばかりだ。
「さぁ、どうするの? ドラクル」
 先程のプロセルピナと同じように、ルースも問う。何も言わずとも、彼女はドラクルについてくるのだろう。
 ドラクルの行き先はどこにもない。ローゼンティア。この国だけが彼の欲しいものだった。そうだと思っていた。今までは。
 今は?
「今でも、まだロゼウス王子を追うの?」
 ローゼンティアが滅び、滅びなくともドラクルを排斥しようとする今、彼の欲しいものはロゼウスだけだ。
「ああ」
「陛下!」
「アウグスト、お前は、ここに残ってもいいぞ?」
 最後まで自分についてきてくれた部下に、ドラクルは声をかける。彼だけではなくカラーシュ伯爵フォレットや、女公爵クレイヴァ、ラナ子爵ダリアなどもいるが国の四方を治める彼らも自領地の混乱を鎮めていて連絡がとれない。
 これが最後の決戦だとわかっていた。ドラクルはそこで己の運命を占う。ロゼウスを手にいれられるか、いれられないか。それによって彼の命運は決まる。
「……私は最期まで、あなたと共に。ドラクル陛下……」
 アウグストが跪き頭をたれる。
 ドラクルは微笑んで頷き、プロセルピナを振り返る。
「ロゼウスを追う」
「いいの? それで」
「ああ。移動を頼めるか? できれば、もう裏切らないでくれると嬉しいが」
「そうね。ここまで来たらもうね。あなたの力を出し切りなさい」
 結末はわかっていながら、それでも進む。プロセルピナの口調も滅びを予感させながら、だからといってドラクルを止めるようなことはしない。
「私の空間移動はハデスほど高等ではないから移動には丸一日かかるわよ? 皇帝の力を失って座標計算もできなくなったし、それでもいい?」
「なんでもいい。かまわない」
 そして彼らは最後の戦いへと赴く。
 負ける気はない。勝ちたいとは思う。だが負けるのだろうとわかっているその戦いへと。
 わかりきった結末でも、それでも抗うのだ。

「……人間とは、本当に愚かなものよね」

 開かれた異空間が、彼らの姿を終わりへと運ぶために飲み込んだ。


 《続く》