234

 そして薔薇は、この手に堕ちた。

「ただいま戻りましたわ。ドラクル陛下」
 常と変わらぬ穏やかな声と口調。プロセルピナの魔術によって王城へと帰ったルースの様子は、ただ一つのことを除けば常と全く変わらない。
 彼女たちが帰還地点として選んだのは、王城の謁見の間だった。選ぶも何も、プロセルピナの言い分としてはそこが一番都合が良いということである。
 ドラクルは腹心のアウグストと、妹のアン、弟のヘンリーと共にルースの帰りを待ち続けていた。
 彼らにとっての行動時間である夜がそろそろ終わり、東の空は白もうとしている。人々は目覚めるがヴァンピルたちとしてはそろそろ眠りにつこうかという頃だ。
 朝の清らかな光は、魔族である彼らには眩しすぎる。悪夢しか見ない白い夜明けの頃合に、しかしルースとプロセルピナ、二人の女性は王城へと戻って来た。
 謁見の間中央に薄緑の光の円が湧き上がり、その中には複雑な図形と緩やかな線で書かれた文字が埋め込まれる。魔法陣の中から引き上げられるようにゆっくりと、その姿が現れる。
「お帰り、ルース」
 陛下、と公的な呼び方で話しかけた妹に、ドラクルは普通に名を呼んで返す。場所こそ王国の権力の中枢であるが今この状況でかしこまるほど、馬鹿馬鹿しいものもない。
 その理由は、戻って来たルースの腕の中にある。ぐったりとして動かない、くたびれた旅装束の華奢な人影。
「ようやく、あなたの弟が戻りました」
 銀廃粉の毒によっていまだ目覚めないロゼウスを抱え、ルースがその白い面にうっそりとした笑みを浮かべる。激しい戦闘の後にも関わらず傷ひとつない手を伸ばし、彼女は弟の頬にかかる髪をそっと払ってやった。
「ロゼウス!」
 彼の姿に反応したのはドラクルだけではない。長く国を空けていた第四王子の登場に、顔色を変えて駆け寄ってきたのは第一王女であるアンだ。
 しかし彼女が弟に対して伸ばそうとした腕は、ロゼウスに触れる寸前でやんわりと止められる。
「何故止めるのじゃ、ルース。ロゼウスは怪我でもしておるようじゃ。はよう手当てせねば」
「怪我ではありませんわ、アン。この子は銀廃粉を吸って少し眠っているよ」
 ルースに身を預けるまま意識のない様子であるロゼウスを気遣ったアンの言葉に、ルースはいつもと同じ微笑を浮かべて彼女を退けた。
「今のこの国の主はドラクルでしょう? まずは彼に引き渡さなければ。ねぇ」
「……その通りですね、姉様、お下がりください。ドラクル兄上に任せましょう」
「じゃが……」
 まだ複雑そうな顔をしているアンを、背後から追いついてきたヘンリーがその肩を押さえるようにして引きとめた。
 アンはドラクルがロゼウスを敵視する理由、ヴラディスラフ大公の息子であるドラクルではなくロゼウスこそが本当のローゼンティア第一王子だということはわかっているが、それ以上のことには思い至らない。しかし持ちうる情報量こそ姉とさして変わらないヘンリーは、その理由があればこそ、ドラクルがこれまでロゼウスを手に入れることに対して躍起になっていたということがわかっている。
 たぶん己と言う人間はアンよりも醜く、自己利益に執着して欲深い思考なのだろう。そう考えるヘンリーだが、しかしそれ自体を悪いとは思わない。自らの利益にこだわることなど、ひととして当然だ。そしてそう思うからこそ、ドラクルがこれからロゼウスに何をするのかの予想も、ある程度はついている。
 二人は、これまでドラクルがロゼウスに対してどんな態度をとってきたのかをはっきりと知っているわけではない。
「ロゼウス」
 玉座から降り立ち、赤い絨毯の敷かれた謁見の間中央を歩きドラクルは魔法陣からルースたちが現れた地点にまで寄る。
 服の裾が床に着くことも構わずにルースの傍らに屈みこんで、彼女の腕に抱かれたロゼウスの顔を覗き込んだ。
「よくやった、ルース」
「勿体なきお言葉……」
 ロゼウスの頬に手を伸ばして触れながら、ドラクルはまずは妹を労った。
「あなたにも手間をかけさせた。プロセルピナ卿」
「いいえ。これから私も手を貸してもらうんだもの。お互い様だわ」
 ルースの背後に腕を組んで立つプロセルピナにも言葉をかけ、そうして改めてまたロゼウスへと視線を戻す。
 ルースの見積もった計算に寄れば、銀廃粉の影響はそろそろ抜ける頃だろう。ほとんど回復してきているロゼウスも、そろそろ目を覚ます。
「ロゼウス」
 ルースの腕に抱かれたままの「弟」に対し、もう一度呼びかける。これまではどんなに呼びかけても肌に触れても反応のなかったロゼウスが、ここに来て初めて眉根を寄せた。
「ぅ……」
 小さく呻き、瞼を震わせる。
「プロセルピナ卿、今から魔術の準備をできるか?」
「何を? ……ああ、ロゼウス王子が動かないように?」
「そう。縛り上げてくれてかまわない」
「それでもいいけれど。あなたたちにとってはこれの方が馴染み深いでしょう。魔術の檻はいつ緩んだかが目に見えないけれど、これならばその辺もわかりやすいわ」
 ロゼウスが完全に目覚めきる前からその抵抗を予測して、ドラクルとプロセルピナはそんな会話を交わす。プロセルピナがいつの間にか掌に取り出したものは、じゃら、と不吉な音を立てる銀の鎖だった。
 吸血鬼は銀に弱い。銀で作られた拘束具は、ヴァンピルの抵抗を封じる。プロセルピナが指を一振りすると、その拘束具が音も無くロゼウスの手足にはまった。
「これでどう?」
「ああ。すまない」
 話し声が刺激となったのか、ロゼウスが小さく身じろぎする。
「ロゼウス」
 まだ完全に覚醒しきらず、猫の子のようにむずがる様子のかつての弟の頬に手をあて、ドラクルは再び名を呼んだ。
 ふるふると瞼を震わせて、ロゼウスが深紅の瞳を覗かせる。半分とろんとしたその瞳はものをしっかりと見つめている様子ではなく、いまだどこか夢の中にいるようだ。ゆっくりと瞬きを繰り返して、ルースの膝の上で自分の居場所を確認するように視線を彷徨わせた。
「どこ……なんで、俺……」
 寝起きの舌足らずな口調で、混乱した頭が意味のない言葉を零す。
その様子にふっと一瞬和やかな笑みを口元に浮かべたドラクルの表情が、しかし次の瞬間恐ろしく凍りついた。
「シェリダン……」
「!」
 この状況をまだ十二分に理解していないとわかりながら、いや、だからこそロゼウスの口から自然と零れ出たその名にドラクルの胸は波立つ。
「ド、ドラクル?」
 彼の様子の変化にただならぬものを感じて、アンが気遣わしげに声をかけてきた。しかしドラクルは彼女を振り返ることすらせず、再びロゼウスの名を呼んだ。
「ロゼウス」
 静かだが叩きつけるようなその響に、ロゼウスの脳が一気に覚醒する。半分伏せていた瞼をしっかりと開くと、上体を起こし、深紅の瞳で辺りを見回した。
「な、ここは――」
「そう。お前の生家、ローゼンティア王城だ」
 あえて正面の彼から視線を逸らそうとしたのか、首を捩じり天井へと視線を向けていたロゼウスに淡々とドラクルは告げる。
「ドラクル、兄様……」
 恐る恐る視線を彼へと向けたロゼウスは、その瞬間凍てついたドラクルの眼差しと出会う。張り詰めたようなドラクルの無表情は、しかしすぐに意地悪げな笑みへと変わった。
「ああっ!」
「ドラクル、何をっ」
 突然前髪を乱暴に掴まれて顔を上げさせられ、ロゼウスは苦痛の声をあげた。アンが口元を手で押さえ、さすがのヘンリーもこの暴挙には驚いたか、ドラクルを止めようとする。
 ロゼウスの手元でじゃらりと鎖の冷たい音がした。その時になって彼は自らが拘束されていることに気づく。
「目覚めの気分はどうだ、ロゼウス」
「な、ドラ、クル……なんで、シェリダンは……?」
 自らのこの状況よりも、姿の見えない相手のことを気にしたその台詞に、ますますドラクルの神経はささくれ立つ。
「他人のことなど気にしている場合か? ロゼウス」
 ますます強く髪を引っ張り、その勢いでロゼウスを立たせながら、ドラクルは恍惚と残酷の宿る表情で告げた。
「お前はついに、我が手に堕ちたというのに」

 ロゼウスは、ドラクルに囚われの身となる。


235

 それぞれの傷痕はさして深くないが、被害は大きい。
「くそっ!」
 舌打ちと共にテーブルの上を叩きつけ、シェリダンは毒づく。その反応に項垂れて謝罪を述べるのはリチャードだ。
「申し訳ございません」
 寝室で銀廃粉の影響のために眠り続けていたロゼウスの警護をその時していたのはリチャードだった。彼は襲撃をかけてきたルースにあっさりと昏倒させられ、ロゼウスを奪われてしまったという。
 ルースが手加減したのかあるいはこれも何かの思惑なのかわからないが、リチャードはさほど大きな怪我を負ってはいない。しかしまったく足止めの役目を果せなかったのだから、本人としては不幸中の幸いとも思えない様子である。
「それを言うならば、わたくしですわ……」
 そしてもう一人、この場で盛大に落ち込んでいる人物がいる。
「わたくしが、人を呼びに行けなかったから……」
 リチャードに言われて救援を呼びに行ったはずのメアリーだが、それは叶わなかった。彼女は彼女で屋敷の中庭で戦っていたシェリダンたちのもとへ向かう前に、ハデスの魔術によって眠らされてしまうのだ。
「別に、お前たちのせいではない。私の見通しが甘かっただけだ」
 実際、誰の責任でもない。ルースとプロセルピナという世界最強の女性二人組の襲撃に渡り合える人物などそうそういるはずもない。
 強いて痛手をあげるとすれば、ハデスのまたもの裏切りか。メアリーを眠らせ、ロゼウスが連れて行かれるのを阻止しようとしたシェリダンの動きを更に邪魔した。今は縄で縛り上げて一室に監禁しているが、相手が魔術師である以上無意味とも思える。
 プロセルピナにぼろぼろにされたジャスパーはヴァンピルの高い再生能力を持ってしてもいまだ完全回復にはいたらず、アンリに付添われて休んでいる。ロザリーとエチエンヌがハデスの見張りをし、ローラが給仕に回っていた。
こんな時に食事もないだろうが、食べなければ身体が持たない。
 一行はこれから、ロゼウス奪還のためにローゼンティア王都に建つ王城へと向かわねばならないのだ。ローゼンティア人にとってシェリダンやリチャードのようなエヴェルシード人は見ただけで憎悪の的だ。ロザリーやメアリーはともかく、第二王子であるアンリは市井の人々に顔も知られている。
 組んだ腕に顎を乗せ、シェリダンはその道行きの困難さと共に、その果てに待っている相手のことを思う。
「ロゼウス……」
 警戒はしていたつもりだったのに、まんまとルースに掻っ攫われてしまった。眠り続けていたロゼウス自身はこの状況を何一つ知らないだろうに。
 ドラクルの下に連れ去られて、どんな目に遭わされているか……。
 ぎり、と唇を噛み締めてシェリダンはいっそう深く項垂れる。
「シェリダン様……ハデス卿はどうなさるのです?」
 そこに、遠慮がちなリチャードの言葉がかけられた。
「ああ……それも考えねばな」
 ハデスのことは、縛り上げて部屋に放り込んだままだ。ロゼウスを助けに王城に向かうのであれば、彼の問題も先延ばしにしている場合ではない。
「あの……わたくし、お料理を手伝ってきます」
 二人の男の話の思い雰囲気を察して、メアリーはそう申し出た。控えめに一礼すると、部屋を出てローラが食事の支度をしている調理場へと向かう。
 彼女の気配が完全に消えた所で、リチャードが再び口を開いた。
「我々は二手に分かれた方が良いのでしょうか。ロゼウス様の奪還を行う者たちと、残ってハデス卿を見張る者と。ジャスパー王子もあの通り重傷ですし」
「やめておけ。それでは先程と同じだ。ただでさえ私たちの戦力は偏っている。これ以上戦える者を減らして行動するのは得策ではない。それに恐らく、ジャスパーもあの調子では明日までに回復するだろう」
「本当ですか?」
「ああ。私がロゼウスを見ていた限りの経験ではな。アンリ王子もそう保証した。それよりお前の方は大丈夫か? リチャード」
「私はかすり傷だけですので、お気遣いなさらず。陛下こそ……」
「私に怪我はない」
「そうですか」
 それだけやりとりすると、また話題が途切れてしまった。
 ジャスパーの怪我が治るまでに丸一日、それだけ待ってくれとアンリは告げた。行動を起こすのは真昼が良いだろうとも。ヴァンピルにとって本来は夜こそが活動時間帯で、昼は眠りの時間だ。これまではシェリダンたち人間の常識に合わせて昼日中に行動していたが、ローゼンティアでは夜に動くのは目立つ。
 闇討ちならぬ光討ちだ、と。ヴァンピルにとっての眠り際を狙って行動した方がいいという。怪我をした者も無傷の者も、昨夜の戦闘で疲れきった体を癒す必要がある。
だが苛立ちは、焦燥は、消えない。
 ロゼウスが攫われたことだけではない、リチャードが指摘したハデスのことも引っかかってはいる。
 プロセルピナによって落とされた崖下で、彼を背負いながら道を歩いた。少しはわかりあえたと思ったのだが、それもまたまやかしか、それとも自分の勝手な思い込みだったのだろうか。
 解決しなければならない問題は山積みだ。シェリダンには焦りだけが募る。
 自分がいつ死ぬか、いつ死ぬかと考えながら過ごす日々は嫌なものだな、と。
 だが未来が見えているからこそ、哀しくも前向きに考えられる物事もある。神に祈りはしない。だが今だけは運命とやらに期待している。
 シェリダン=エヴェルシードを殺すのはロゼウス=ローゼンティア。それだけは変わりないのであれば、ロゼウスがいない今この場でシェリダンが命を落とすはずがない。
 真っ暗な未来から手探りで自分に有利な条件を拾い上げ、シェリダンは行動を起こす。
「よし」
「シェリダン様」
 ふいに椅子から立ち上がった主君の姿に、リチャードが顔を上げた。
「ハデスのところに行ってくる。一度彼とも話し合わねばならないからな」
 リチャードは先程までの自らの言葉がシェリダンにそれを促すようなものとは思っていなかったようで、ちょっと意外そうに目を瞠った。彼としては、ただハデスに対する処分をどうすべきかを問うたつもりだったのだ。
「私が同行いたしましょうか? シェリダン様、もしもまたハデス卿が裏切ったら」
「必要ない」
 怒りや苛立ちではなく、苦笑気味に告げられたその言葉に、リチャードは胸中では躊躇っている風情を見せながらも存外あっさりと引いた。
「……わかりました。お気をつけて。この言葉も、不要なものとなりますように」
 シェリダンが幼い頃から侍従をしているリチャードは、彼の交友関係を良く知っている。皇帝陛下の弟という大層な立場にありながら姉の愛人であると噂されるハデスと、母のことで王家に引け目があったシェリダンはそのためか、それともそれはそれで別だったのか、確かにかつては友人だったはずなのだ。
 もはやカミラのものとなったエヴェルシード王としてでもなければ、この一行のリーダーとしてでもなく、ただのシェリダンとして友人であるハデスとの話し合いに赴こうとする彼に護衛など申し出るのは野暮だ、と。リチャードは己を戒めて主君を送り出す。
「ありがとう。……たぶんハデスとは、ここでの話が最後になるだろうからな」
「長い人生です。ハデス卿の寿命については、デメテル帝が画策したおかげで延びたのでしょう。一度は疎遠になったとしても、お互い生きていればまた必ず会えますよ」
 リチャードは死んでしまってもう帰らない己の家族のことを思い返して言ったのだったが、その言葉はまたしてもシェリダンにそれとは違う意味で意識をさせた。
「……ああ、そうだな」
 しんみりと頷く主君を優しい眼差しで見つめるリチャードは知らない。自分より十も若い主君の寿命が、自分とは比べ物にならないほど短いことを。
「行ってくる」
 シェリダンは静かに微笑むと、彼を監禁した場所へと向かうために部屋の扉に手をかけた。

 ◆◆◆◆◆

 前髪を乱暴に掴まれたまま、ロゼウスは王の寝室へと引きずり込まれた。
「うぁっ!」
 プロセルピナの用意した純銀の拘束具によって力の出せないロゼウスは、ドラクルに突き飛ばされて寝台に倒れこむ。苦しい身を捩り、兄を振り返った。
「ドラクル……」
「王をつけてもらおうか? 今の私は、ローゼンティア国王なんだよ、ロゼウス」
 ぎし、と寝台を軋ませて、ドラクルは倒れこんだロゼウスの上に覆いかぶさってくる。ロゼウスの両腕を拘束する腕輪は腕の間を鎖で繋いでいるが、その長さには十分な余裕があった。ドラクルはロゼウスの両手首を掴んで顔の横で押さえつける。冷たい鎖が胸の上に落ちた。
「ああ、本当に久しぶりだね。私のロゼウス」
 真上から覗き込まれ、所有格で呼ばれる。彼の手によって鎖で縛られるのも、暴力を振るわれるのも慣れている、当然のやりとりのはずだった。――シェリダンに出会うまでは。
 今ではもう、ロゼウスはドラクルのこの言葉を信用しない。彼が欲しいのは、ロゼウス自身ではないのだから。
「は……離して、兄様……」
 とは言っても十年もの歳月、身体と心に刻み付けられた恐怖は簡単に消えるものではなく、ロゼウスは声を震わせながらそう哀願した。
「駄目だよ。離したらまたすぐ、お前は逃げてしまうだろう?」
 声だけは薄気味悪いほどに優しげに、ドラクルは弟にそう言い聞かせる。だが穏やかなのは声ばかりで、それ以外の態度はとても兄が弟にするものとは思えない。
 それも今では当たり前なのだと、ロゼウスにももうわかっている。十七年も経ってようやく知った真実、自分たちは兄弟などではなかった。
 その出生が、ドラクルの中に狂気を育んだ。当然報われてしかるべき努力を踏みにじられた彼が、怒りを露にすることはわかる。でも、だけれども。
「離して、兄様……もう、俺を自由にして」
 彼の悲しみの元凶はヴラディスラフ大公フィリップとローゼンティア王ブラムスであって、他の多くのローゼンティアの者たちは関係がない。ただ王に従い慎ましやかに大陸の辺境で暮らしていただけの民を、ドラクルは自らの復讐のためといってこれまで多く手にかけすぎた。
 ローゼンティアにとっては侵略者であるエヴェルシードだって、ドラクルがシェリダンを手引きしなければあそこまで過激な行動には移らなかっただろう。戦争のために死んだ者はエヴェルシードにだっているのだ。その意味では彼らも被害者である。
 そして今度の事態を引き起こしたのはドラクルだ。加害者となった以上被害者でも、今では嘆くだけなど許されはしない。
「兄様……もう、やめて」
「やめる? 何を?」
「全部……ローゼンティアを無理に支配するのも、エヴェルシードに手を出すのも、全部、やめて。俺を恨むのは構わないけれど、アンリ兄様やロザリーにまで、刺客を差し向けるのはやめて」
「アンリたちに刺客なんて差し向けた覚えはないよ、私は。彼は私の大事な弟だ。ロザリーも、もう妹ではないけれど、大事な家族だからね」
「でも、でもプロセルピナ卿が」
 従わないなら殺しても構わないと。
「そうだよ。いくら私が彼らを愛していても、向こうの方で私の言う事を聞かないなら仕方がないじゃないか。
「兄様!」
 咎めるような声をあげたロゼウスに、ふと冷ややかなドラクルの眼差しが降りる。
「でももう、お前がいるならば関係ないかもね」
 そう言って彼は歪に笑うと、動けないロゼウスの唇を奪った。
「ん……ぅう!」
 滑り込んでくる舌の感触に、ロゼウスは初めて嫌悪感を覚える。嫌だ、触られたくない。
 彼以外のひとに。
「やめて! 兄様、嫌だ!」
 やっと唇が解放されると、そのまま鎖骨に降りたドラクルの舌先に叫ぶ。身を捩り抵抗を表わそうとするが、銀の拘束具のせいでそれもかなわない。
しかし微かとはいえ抵抗されることが気に食わなかったのか、ドラクルはゆっくりと顔をあげた。
「どうした? ロゼウス。お前はこの部屋に来るまでにも四度ほど抜け出そうと抵抗していたね、その身体では何もできないことがわかっているだろうに。それに今も、何故私を拒む?」
 全く素直にならないロゼウスの態度に、ドラクルも少し苛立ってきたようだ。初めこそ小動物が怯えるようなその姿を見て嗜虐心を満足させていたが、そればかり続いても興が冷める。
「兄様、俺は……」
「そうだね、お前はいつも私に怯えていたね。新しい玩具を手に入れたから試そうとすれば震え、他の奴らを交えて楽しむとすれば青褪め、強烈な薬を飲ませようとすれば涙を流す。でもいったんそこを通り過ぎてしまえば、後は従順な、私の人形だった」
 そうだろう? 耳元で囁く。
 私の可愛いロゼウス。囁かれた、聞きなれた言葉に、ロゼウスの身体がびくりと大きく震える。日毎の寝台で繰り返された言葉は呪いのようだった。
「いや……いやだ!」
 叫んで、せめてもの抵抗をと腕に力を込め、ドラクルの胸を押し返そうとする。その姿を見下ろして、ドラクルが瞳を細めた。
「……そうしていると、まるであの頃に戻ったようだね」
 十年前、男同士ではもちろん、男女のことすら何も知らなかった七歳のロゼウスをドラクルが無理矢理犯した初めの頃と。
「私がお前に触れるたびに、お前は怯えて泣き叫んだ。いつも聞きわけがなくて、それで」
 ドラクル自身もあの頃は若かった。泣き叫ぶ弟に苛立ち、しまいには手をあげるようになった。
 バシ、と乾いた音が室内に響く。ロゼウスが大きく目を見開き、喉が引き攣れたように声を失う。じわじわと叩かれた頬に痛みが滲んできた。
「お前がいつまで経っても強情だから、私だって乱暴しなければならなくなるんだよ、ロゼウス」 
 十年前と同じ言葉で、幼子を宥めるようにドラクルが言う。
「そうしたらお前はまた火がついたように泣き出して、ますます手に負えなくなった」
 今のロゼウスはそこまで激しく泣き喚くことなどしない。だが、刻み込まれた恐怖がまざまざと蘇り、動けなくなってしまう。
「仕方がないから私はお前が落ち着くのを少し待って、泣き止み始めたお前に言った」
「あ……あ……」
「『お前が聞きわけのない悪い子だから、私はお前を打たなければならないんだよ、ロゼウス。殴られたくなかったら、いい子にして、言うことを聞きなさい』」
 当時のロゼウスは毎日のように繰り返し殴られ、それを聞いて。
「やめて……兄様、やめて……」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて! なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ちゃんと言う事を聞くから、殴らないでくれ、と。
 他の兄妹の前で見せるのとは打って変わって冷酷な表情をした兄に、涙ながらに懇願した。
 エヴェルシードのヴァートレイト城でどこからか現れたドラクルに犯された後、恐慌状態に陥ったロゼウスはシェリダンの前でもそう口走った。ドラクルによる行為の強制は、初めは単純な暴力を伴うものだったのだ。
 思い出したロゼウスの瞳から涙が溢れ出し頬を伝う。ヴァートレイト城の時の事は、まだあの場に突然ドラクルが現れたのが信じられなくて夢のようだと思っていた。だけれどあれは確かに現実で、そして今のこの状況も現実以外のなにものでもない。
「お前が最初から私に逆らわず、いい子にしていれば殴る必要なんかないんだよ」
 あの頃のように楽しげに冷酷に笑ったドラクルがそう宣告する。叩かれ、あの頃の恐怖を思い出してしまった衝撃でもはや鎖がなくても動けないロゼウスは、何も考えることができなくなる。
「十年間もかけて、お前はだんだんと私を愛するようになった」
 放心状態のロゼウスの顎を捕らえてもう一度口づけ、ドラクルは言う。
「戦争前に別れる最後の方ではお前は自ら私に抱いてと迫り、腰を振るようにまでなったのに、最後は私を殺して自分も死ぬとまで言ったのに、どうして今またもとに戻ってしまったんだい?」
 十年もかけて調教した弟がまともな理性を取り戻したのを見て、その理由を認めたくはないが勘付いているドラクルは不快げに目を眇める。
 ロゼウスにかけられた、呪いとも言うべき思い込みを解き放ったのはシェリダン。ドラクルはそれが気に入らない。
「言っただろう、ロゼウス」
 毒々しく赤い唇が、泣き顔の弟を見つめながら歪む。
「悪い子には、お仕置きだ」

 ◆◆◆◆◆

 じゃらり、と耳障りな鎖の音が響いている。寝台の足に固定されたそれがロゼウスの体の動きを厳重すぎるほどに封印する。吸血鬼としての能力を封じられて今の彼はか弱い人間の少女程度の抵抗しかできない。
 そしてドラクルはその程度の抵抗が通じる相手ではない。公正な条件で一対一で真剣に戦ったとしても彼に敵う者などそうはいないのだ。いかなロゼウスと言えども、そう簡単に振り払える相手ではなかった。
 何より、過去にその身体と心に刻み付けられた恐怖が彼の動きを縛る。
 剣だこのある大きなたくましい手、だが醜さとは無縁の整ったその手が、優しく頬を撫でてくる。そのことすら恐ろしい。ドラクルが優しくするのはいつも、ロゼウスに酷いことをする前後だった。今も彼は、先程自分がはたいたばかりで赤くなったロゼウスの頬を撫でている。
 寝台に仰向けに両腕を固定されて転がされているロゼウスの上に、ドラクルがのしかかる。その手がロゼウスの胸元に伸び、口元には笑みをはいたその表情のまま、暴漢のようにロゼウスの服を引き裂いた。
「あ……」
「どうした? 生娘じゃあるまいし、今更裸を見られたくらいで動揺する間柄でもない」
 ロゼウスが着ているのは貴婦人のドレスのように絹でできているような繊細な服ではなく、旅用の男物の頑丈な衣服だ。それを紙のように容易く引き裂いて、露になった白い肌を見下ろしドラクルは笑う。
 舐めるようなその視線に、ロゼウスの身体が震える。すっかり彼に怯えたその様子に、ドラクルが笑みを消し、傷一つない鎖骨に触れながら言った。
「本当に、すっかり元に戻ってしまったようだな……これがシェリダン王の力か?」
 出された名に、思ったとおりにロゼウスは反応を見せる。正直なその様子に内心のつまらない思いを隠し、ただロゼウスを嬲りその絶望を深くするためだけにドラクルは続ける。
「やれやれ。シェリダン王には困った者だ。私が彼にヴラディスラフ大公を名乗り頼んだのはローゼンティアに侵略して、国王とその妃たちを殺すこと。お前を彼にあげるなどと、一言も言った覚えはないと言うのに」
 ヴァンピルは一度生命活動を停止した程度で真実の死には至らない。ましてやノスフェル家の出であり、これほど強い力を持つロゼウスがその程度で死ぬはずがない。
 適当なところで国王夫妻たちを除いた兄弟姉妹を蘇らせてエヴェルシードの軍勢を引かせ、ローゼンティアのぎ玉座を我が物として奪うはずだったドラクルの目論見はシェリダンの予想外の行動によって崩された。彼はドラクルが復讐の証に手中にすることを望んでいたロゼウスを見初め、エヴェルシードに連れ帰ってしまったのだ。
「可愛いロゼウス。お前がいなければ、私の目的は達成されない。ローゼンティアから王の血脈を、この私の手によって奪う。お前はシェリダン王ではなく、この私の花嫁となるべきだったのに」
 あまりにも利己的で独りよがりな恐ろしい企みを、ドラクルは今となっては当然のようにロゼウスに話して聞かせる。聞くロゼウスの顔色が、一言ごとに悪くなるのもお構いなしだ。
「王となったならばお前を鎖に繋いで閉じこめて置こうか、それともハデス卿にでも頼んで、手足を斬りおとして生きたまま飾っておこうかと考えていたのに、シェリダン王がお前を攫って行ってしまった」
 狂的に歪む口元が、ロゼウスの怯える表情を楽しんでいる。
「だがお前はようやく戻って来た。王となった私のもとに」
 そう言うと、ドラクルはロゼウスの唇に己のそれを重ねた。するりと滑り込んだ舌が、口腔を貪っていく。
 幾度目かの深い口づけに呼吸を奪われながらも、ロゼウスはできるかぎりの抵抗をする。それはもはや抵抗の形を成さぬほどに非力なものであったが、拒絶の意志だけはドラクルにも伝わっている。
 銀の糸を引くようにして唇を離したドラクルを見上げ、ロゼウスは呼吸困難のために赤く上気した顔で尋ねた。
「兄様は、俺がいらないんじゃなかったの……?」
 その目元は、今しがたの長い口づけのためか潤んでいる。
「あの時、ローゼンティアがエヴェルシードに攻め込まれる前、最後だと思って縋った俺をあなたは突き放した」
 一緒に死んで。これほど熱烈な求愛もそうはあるまい。だがドラクルはロゼウスのその言葉を哄笑で返すと、逆にロゼウスが逃げ出したくなるほど乱暴に彼を抱いた。
 それで彼が壊れてしまっても構わないというように。
「ああ、そうだな」
 自分で言ったことを忘れたわけではなかったのか、ドラクルはロゼウスの言葉に頷いた。
「あれも確かに私の本心だ。お前が憎いよ、ロゼウス」
 対象へと憎悪を告げながら、ドラクルは平然と微笑んでいる。その神経がロゼウスにはわからない。何故、
「憎いなら殺せばいいじゃないか……どうして……」
 何故、自分を殺しはしないのかと。
「わからないのか? お前には。そうだな、わからないのかも知れないな」
 口づけが降りてくる。
 けれど今度は唇にではない。額に。優しく、それこそ兄が歳の離れた弟に親愛の情から行うのに相応しい優しい口づけ。
「こんなにも私から憎まれているくせに、お前は本当には誰のことも憎んだことがないのだから」
 ロゼウスは感情の薄い人間と言うわけではない。喜びもすれば怒りもするし、家族に対する親愛の情もあれば罪なき者を殺せば罪悪感が芽生える。決して他人の情に疎い性質ではないのだが、ドラクルは彼が憎しみを知らないと言った。
「そんなこと……」
 そんなことない、と告げようとしたロゼウスの言葉が途切れる。そんなことない? ないと思っていた、自分では。そんなに綺麗な感情の持ち主ではない自分は、敵対する者を簡単に憎める。自分をセルヴォルファスへと連れ去ったヴィルヘルムのことはシェスラートに肉体を乗っ取られていたとはいえ殺害したことを後悔したことなどないし、ミカエラを殺したハデスのことも憎んでいる。エヴェルシードに攫われてきた当初はシェリダンもエチエンヌやリチャードたちも、誰もが憎しみの対象だった。
「お前が思っている憎しみなど、憎しみのうちにも入らないよ」
 さらりとロゼウスの疑問を流して、ドラクルは続ける。
「殺す方が簡単だ。ただ目障りなだけならば、殺せばいい。だけど憎しみとは、そんなものではないんだよ」
 嘲るようにも、諭すようにもとれる不思議な声と表情でドラクルはそう言った。ロゼウスにはそれが理解できなかった。
 殺す方が簡単だ。だから殺さない。
「私はお前を永遠に憎み続ける」
 だから私の側にいろ。
「そしてお前も私を憎めばいい。憎んで憎んで、そうしていつか私を……」
 今度はドラクルの言葉が途切れる番だった。続きがやけに気になって、ロゼウスは思わず尋ねた。
「私を……何?」
 しかしドラクルは答えずに、ロゼウスの両手首を握る腕にふいに力を込めた。
「痛っ!」
 小さく声をあげるロゼウスを無視して、体重をかける。
「そういうことだ。ロゼウス、私はもう、お前を手放してやる気などない」
「俺は、ここには留まらない!」
 ローゼンティアに、という意味ではない。実質的にこの国に留まる事は不可能だろうが、ロゼウスが言いたいのはそうではなく、ドラクルのもとには留まらないということ。
 だって自分はシェリダンを選んだのだ。たとえ彼がいつか自分に殺される運命を持とうとも。
 だから、ドラクルを選ぶことなどない。 
 それでも、ドラクルはロゼウスの反応など意に介さず一方的に宣告する。
「お前の気持ちも都合も関係ない。そんなもの私の知ったことではない。お前はもう私のものだ」
 ドラクルが片手をロゼウスの手の上から退け、代わりに自らの衣服の襟元へと伸ばす。釦を外し始めたその行動に、ロゼウスは今度こそぎくりと硬直する。
「離れたいなどと言っても、離れられなくしてやる」
 壮絶な笑みが、ドラクルの口元に浮んだ。


236

 どうしても逃げられない。
 やはり幾つになっても、彼のことが怖い。
「や……やだ!」
 口では拒絶を訴えながらも、ロゼウスの抵抗は儚いものでしかなかった。純銀の枷に捕らえられていること以上にドラクルに対する恐怖で動けない。
 その大きな手が、自分の肌をいやらしく撫でまわす段階になっても。
「う……くっ……」
 内に秘められたとてつもない力とは裏腹に、普通の少年よりも華奢なロゼウスの身体。もとは淫魔の一種族でもあったという吸血鬼の体つきは、相手を魅せるためにある。
 その中でも際立った容姿を持つロゼウス。従兄弟だけあってドラクルとも顔立ちは似ているのだが、ロゼウスの方が年齢差を差し引いても若干甘い顔立ちをしている。肩につくほどまでに伸ばした髪も、その繊細さを煽っている。
「ひっ……」
「強情だな、昔は行為に入るまではいくら泣き喚いても、私に触れられた途端現金に喘いでいたものが」
 ドラクルの下はもちろん、シェリダンやヴィルヘルムに捕らえられていた間も禁欲的とは程遠い生活をしていたロゼウスだ。快楽に弱い身体をしている彼だが、しかし今はドラクルに腰のあたりを撫で回されても、少女めいた面差しをしかめるばかりだった。
「は、なしてください、兄様。俺はもう、あなたとこんなことをする気はない……」
「お前になくとも、私にあるんだよ。私に従え。どうしてもその気になれないというのなら」
 これまで腰や脇腹を撫でていたドラクルの手がすっと胸の上に滑り、赤い突起をきゅっと抓む。
「ああっ!」
「さすがにここを他人に触られるのは感じるだろう? お前がその気になれないというのなら、私がその気にさせてやろう」
 怖気を堪えるような先程とは明らかに違い、高く裏返った声を耳にしてドラクルは口元をゆっくりと吊り上げる。両の乳首を抓んで玩具のように弄りながら、顔だけをロゼウスの耳元に近づけて蟲惑的に囁く。
「楽しみにしていろ、ロゼウス。今日ばかりはお前に快感を与えてやる」
「い、いや……ちが、そんなのいらな――」
「そう遠慮するな」
「ひあっ!」
 弄られ続けてぷっくりとたって来たそれを、ドラクルは多少乱暴に指の腹で押しつぶす。もとは薄紅がかっていたそれが、今は充血して赤い。
「ほら、こんなに硬くなってきた。お前は痛くされるのが好きだったな。望みどおりにしてやろう」
「違う、そんなの好きじゃ……うぁ!」
 口を開こうとするたびにドラクルの手つきが乱暴になり、その度にロゼウスは言葉を遮られ悲鳴に変えてしまう。ひりひりとした火傷のような痛みの中に、確かに悦楽の色が混ざり始めた。
 ロゼウスの相手をしたほとんどの者たちは乱暴だった。そのため痛みを快楽に変えるようにすでに身体に染みこまされている。
 その乱暴な男の筆頭は今彼を弄んでいるドラクル自身であって、前置きのない暴力に慣らされた身体が、痛みまでも快楽として拾い上げようとしている。
 ドラクルがロゼウスの胸から手を離すと、これでようやく終わりかとロゼウスは一つ安堵の息をつこうとした。しかし彼のやることが、こんなところで終わるわけはないのだ。ちゅ、と濡れた音が響く。
「ひゃ……!」
 これまで散々弄られて硬くなっていたそれを口に含まれて、ロゼウスはまたしても悲鳴をあげた。しかしそれは最初の頃のものとは違い。滲む快楽を隠せなくなってきている。
「ん……ふ、うぁ」
 腫れ出してきて痛む場所に軽く歯を立てられるたびに、背筋に何とも言えない感覚が走る。生暖かい口内の感触も、舌の動きも、何かもが官能を煽る。
 ぺろりと最後に舌で舐めあげて胸から唇を離したドラクルが、その視線をロゼウスの腹の下に移す。
「まだ胸を弄っただけなのに、もうこんなにして」
「あ……っ!」
 その言葉に下腹部に集中した熱を意識して、ロゼウスの顔がすぐさま赤く染まる。
「触れて欲しいか? ロゼウス。私にここを弄って、しごいて、抜いて欲しいだろう?」
 銀で拘束されたロゼウスの手首を見遣り、ドラクルは思わせぶりな指先をロゼウスのそれに触れさせる。
「んん!」
 先端に置かれただけの指先に、勃ちあがりかけたものが反応する。
「は……」
「息が荒いぞ。苦しいのだろう、ほら」
「ひあっ!」
 必死で己の欲望を鎮めようとするロゼウスの努力を嘲笑うように、ドラクルはそれに手を出す。
「ん……んん、ん……っ!」
 完璧な形に整えられた爪と、指先の僅かな感触。それが、勃ちあがったものの裏を辿るように撫ぜていく。
「はぁ、あ……」
 迂闊に息を継げば快楽に飲まれて身も世もなくドラクルを求めてしまいそうなぎりぎりの感覚の中、それでもロゼウスは堪える。
「あっ!」
 なかなか落ちる様子のないロゼウスに痺れを切らしたのはドラクルの方だった。これまで繊細な手つきで刺激を欲しがるものを撫でていた手で、ぎゅっと乱暴にロゼウスのそれを握りこむ。
「い、痛……」
「お前が素直になるなら、ちゃんと気持ちよくさせてあげるよ」
「い、いや……」
 快楽と痛み、熱が身体の一点に集中していて苦しい状態で、それでもロゼウスは拒絶を示して首を振る。
「絶対に、やだ」
「――そうか」
 これまで行動はともかく声だけは穏やかな様子を一定で保っていたドラクルの口調が、氷点下に達する。
 思わずギクリとして見上げたロゼウスの視線の先で、ドラクルは酷く冷めた目をしている。横たわるロゼウスを眺めているのではなく、それは無機質な物を眺めているように感情の凍りついた目だった。
「ならば、もういい。言ったはずだ。お前の意志など関係ないと」
 ロゼウスのものを掴んでいた腕に一層力を込める。悲鳴をあげる様子に構わず、ドラクルは痛めつけるだけ痛めつけておいてそれから手を離す。
 そして片手でロゼウスの足首を掴んで股を開かせ身体を固定すると、慣らしもせずにいきなり後ろへと自らのものを突っ込んだ。
「――ッ!!」
 内臓に杭を差し込まれるかのような痛みに、ロゼウスは言葉にならない悲鳴をあげる。無理矢理の挿入はドラクル自身もきついはずなのだが、彼は少し目元を歪めただけで構わずにゆっくりと腰を動かした。
「ぁああ、あああああああ!!」
 中が裂け、血が流れる。しばらくすると染みこんだそれが潤滑油となって、ようやく滑りやすくなる。しかしそれによって快楽を得やすくなったのはドラクルだけで、傷ついた内部を男のもので貫かれ擦られるロゼウスの唇からは絶叫が迸る。
「きついな……」
 宣言通りロゼウスの苦痛など意に介さず、ドラクルはもがき苦しむロゼウスを見下ろしたまま本格的に腰を使い始めた。肉のぶつかる音は、ロゼウスの掠れた悲鳴にかき消される。
「い、あ、ああああああ!!」
 美しい少年が全裸であられもない姿勢をとらされ、犯されている。涙が零れてぐしゃぐしゃになったその顔を見て、ドラクルは嗜虐の笑みを浮かべる。
 ぐちゅ、ぬちゅ、といやらしい音が結合部から聞こえている。流れ出た血で、その部分は赤く染まった。
 最奥まで突くが、この無理矢理の行為では快楽よりも苦痛がはるかに勝っているらしく、ロゼウスはまったく善がる様子を見せない。
 最後にドラクルが中に精を放つと、改めて傷に沁みたのかびくりと身体を震わせて以来、動こうともしない。
「あ、あ、ああ……」
 放心状態のロゼウスの唇に自らのそれを重ね合わせ、ドラクルは告げる。
「言ったはずだ、ロゼウス」
 これではまるであの時のようだ。ローゼンティアがエヴェルシードに攻め込まれる前、二人の最後の時と同じ。
「お前が憎い、と」

 ◆◆◆◆◆

 漆黒の威容が眼前に佇む。
「あれがローゼンティア王城です」
「ああ」
 眼前とは言っても、その距離はまだ相当なものだ。国境から国土を取り囲み街の形を決めるように広がる黒き緑の森の出口、崖となったその上に立ち、遠目に王城を眺める。
 国内に城が一つしかなく、全ての王族がそこに住まうというローゼンティア城は大きい。王城の規模と言う意味ではエヴェルシードのシアンスレイト城は比較にもならない。ただ、エヴェルシードは王城の他にも数十人の貴族がそれぞれ領地に一つ以上の城を所有することから国力という話でならば別だ。
 以前海路からローゼンティアに入りこんだ時は国の辺境に建つ日和見の屋敷に訪れただけでエヴェルシードにとんぼ返りした。そのため遠くから微かに眺めるだけだった王城の全容を見るのはこれが初めてだ。
 もっともそれもローラとエチエンヌだけで、シェリダンやリチャードはローゼンティアに攻め込んだ時にもちろんこの城の姿を見ている。灰色の空と国を取り囲む深い森、赤い街並みに漆黒の城、そして国中に香る薔薇。美的な物に関心の深い吸血鬼たちが造る建築物や工芸品は美しいが、それと同時に陰気な国だと言う印象が漂うのもそのせいだ。
「あれだけの大きさを持つ城ですから、城内に入るための入り口も複数あります。正門は避けるとして、東西南北の四つの入り口も避けた方が無難でしょう」
 この争いが起きるまでは自らも住んでいた城を指差して、メアリーが告げる。
 ルースに騙されて人手として借り出され、そのルースに置き去りにされてしまったメアリーはシェリダンたちに協力することにした。もともと争いを好まない彼女は心情的にはアンリやロザリーの側なのだが、ドラクルに捕まって仕方なく彼らの側にいたに過ぎない。
 彼女の案内により、シェリダン、アンリ、ロザリー、ジャスパー、ローラ、エチエンヌ、リチャードの一行はローゼンティア王城へロゼウスを奪還しに乗り込むことにした。
 ハデスはここにはいない。彼に関しては、シェリダンが簡単に話をつけている。最後まで本心を見せてくれない彼ではあったが、とりあえずこの問題からは手を引いてくれるようだ。
 ジャスパーの傷もほぼ全快し、ロゼウスの位置も相手がドラクルであれば王城に捕らえられているとわかっている。彼らは、行動に移した。
「思ったよりも時間がかかりましたが、とにかくここまでは来れました。後は、王城にどうやって入るかです」
「悪かったな、足手まといで」
 思ったより、という部分で、シェリダンがぶすっとしながら呟いた。国境から王城まで一日もあれば辿り着くと言うからどうやって移動するのかと思えば、メアリーもアンリたちも普通に歩くのだと言った。ヴァンピルの非常識な身体能力にシェリダンたち普通の人間がついていけるわけなく、結果彼ら人間の方にアンリたちが合わせてくれたのだ。
 捕らえられてから数日、ロゼウスが今どんな目に遭っているかわからない。
 焦る気持ちはシェリダンもアンリやメアリーたちも同じなのだが、だからといってどうにもならないこともある。
「五つの門が使えないのに、他に入る道なんてあるのか? メアリー」
 作戦会議がてら座り込み休息しているシェリダンたちの傍ら、アンリが妹に尋ねた。二十年以上あの城で過ごした彼の知識の上では、正門と東西南北の四つの門以外に王城への出入口はなかったはずなのだが……
「あ、はい。わたくしがルースお姉様から連れ出された際に、地下の隠し通路から外へと出ました。王都の端から王城にまで続いている道です。それを使えば正式な出入口である地上の門を使わずに城へと入ることもできます」
 ん? とメアリーの言葉を聞きながら、シェリダンはその策の欠陥に気づく。
 アンリやローラ、リチャードも気づいたようだ。変な顔をしている。
 選定者の宿命に振り回され最近何かと強気で好戦的だというジャスパーも、この敵意や悪意と無縁の第五王女には強く出づらいのか、遠慮がちな口調で言葉を挟んだ。
「あの……メアリー姉様……」
「はい? ジャスパー、どうしたのですか?」
「あの、それだと……」
「ルースに教えられた道ということは、向こうも予測して私たちが来るのを待ち構えていることにならないか?」
 ジャスパーが言い辛そうに語尾を濁したので、シェリダンが後を引き継いだ。
「あ」
 一瞬、沈黙が落ちる。
「ああ、そうね」
「そういえば」
 メアリーがぽかんと口を丸くし、さして気にしていなかったロザリーやエチエンヌは今気づいたというように頷いた。
 ローラが頭を抱え、リチャードが苦笑する。
 策謀とは無縁のメアリーの「わたくしが王城までご案内します」と言う言葉を信じてしまったのがそもそもの間違いだったのだ。彼女一人でドラクルやルースを出し抜けるはずがない。
「えーと、まぁ、なんだ。何か方法はあるだろ」
「そうだな。ここで固まっていても仕方ない。王城は目前だ。何か策を考えねばな」
 妹をフォローするため話題を先へと進めようとするアンリの言葉にシェリダンも言い添えた。実際ここまで来てしまったし、目的が変わることないならば躊躇うだけでは何にもならない。
「念のために聞くが、隠し通路とは一つだけだったのか?」
「は、はい。わたくしがルース姉様に教えられたのは一つだけです」
「途中でどこか別の道に繋がっていたとか、分岐点とかは」
 シェリダンに重ねて問われ、メアリーは己の記憶を探るように口元に指を当てる。
「そういえば……隠し通路の入り口は王城の地下だったのですが、道の途中でまた別の横穴に繋がる道があったような……」
「蟻の巣のような?」
「そこまでは多くなかったと思うのですけど、どこかに繋がっていたのかもしれません。でも、風の流れなどは感じませんでしたし、ただの倉庫だったのかも」
 王城の隠し通路は避難通路にもなるが、そのまま防空壕にもなる。ただ、風の流れを感じないのはその通路の先の出口が閉じられていた可能性もあり、メアリーが見たのがどちらなのかここからでは判断できない」
「いっそ囮を使うか? シェリダン王、あんたと何人かで王城に潜り、俺や他のヤツラは正門ででも派手に騒いで連中の目をひきつけておく」
 隠し通路に早々に見込みはないと判断したアンリが、別の潜入案を持ちかける。しかし、シェリダンは首を横に振った。
「いや、エヴェルシード人二人にシルヴァーニ人が二人もいるこんな集団だ、人数が足りなければすぐに陽動はバレるだろう」
「変装しようにも道具はないし、この厳戒態勢の中じゃ例え商人なんかに変装しても検問を通れるわけがない。国内のどれだけの勢力がドラクルに与したかわからないこの状態では助けを求めるべき相手もわからない、か」
 八方塞りとなり、主な作戦係りであるシェリダンとアンリは唸ってしまう。何か、他に方法はないだろうか。メアリーの言う隠し通路でルースとプロセルピナと戦うという選択肢はどう考えても現実的ではない。
 そんな中、声をあげたのはジャスパーだった。
「メアリー姉様、ちょっといいですか?」
「何ですか?」
「この地図なんですけど……」
 先程の隠し通路の正確な位置を、ジャスパーは姉に尋ねた。
「そう、ここがこうなって……どうしたの?」
 メアリーは白い指先を躊躇うことなく土につけ、地面に図を描き出す。その周辺にジャスパーはジャスパーで王城近くにあるものの位置を描き込んでいる。
「やっぱり……」
「そろそろいいか? 意見が纏まったのなら聞かせてもらおう」
 シェリダンに対しては一度挑戦するかのようにきつく睨みつけて、ジャスパーは口を開いた。
「ここから、王城の中に入る道があります」
 彼が地面に描いた図の中で指差したのは、これまで一度も話題にのぼっていない場所だった。
「《風の故郷》?」
その場所を通称で呼んだのがロザリーとアンリで、シェリダンは国外の者にもわかる言葉で言い直す。
「つまり、ローゼンティア王族の墓地、か」
 各王国にはそれぞれの王族専用墓地というものがある。エヴェルシードでは《焔の最果て》と呼ばれるが、ローゼンティアではそこを《風の故郷》と呼ぶ。
「ここから王城の中に入れる隠し通路があるはずです。もともとは王族が落城の際に逃げ延びるための避難路です。父上は使いませんでしたが」
「何故お前がそんなものを知っている」
「たまたま散歩の際に知りました」
「たまたま墓地を散歩するのか、お前は」
 シェリダンが胡乱な眼差しを投げるが、ジャスパーは気にしない。アンリとロザリー、メアリーも、これまで大人しいだけと思われていた弟の意外な行動に目を丸くしている。
「……まあ、いい。お前が怪しいのは今に始まったことではないしな」
 数々の疑問を喉の奥に飲み込み、シェリダンは先を促す。ジャスパーが再び口を開いた。
「この中の一つ、永久聖女とされる建国王ロザリアの墓から王城へと入れます。メアリー姉様の知る通路とはどうやら繋がっていないらしく、ここからなら誰にも知られずに王城に入れる可能性があります。ただ、古い道ですし、僕も以前道の途中までしか行ったことがないので、本当に辿り着けるかどうかはわかりません」
ジャスパーの言葉は、作戦の完全性を証明するものではなかった。だがこの場合、何をやっても対決しなければいけない敵の強大さを考えてしまうと、他の策をとることもできない。ルース一人ならばまだしも、協力者のプロセルピナに出てこられては勝ち目がない。
「さて、どうしますか?」


237

 部屋の時計にちらちらと何度も視線を送り、前に見たときとほとんど針の位置が変わっていないのを確かめては嘆息して視線を戻す。しかし単調なそれも何十回どころか何百回となく繰り返した今は、大分時間が過ぎているはずだ。
「……のぅ、ヘンリー」
 時計を眺めていても変わらないこの状況に痺れを切らし、アンが口を開く。
 同じ部屋の中、アンよりは落ち着いた様子で待機していた弟王子に話しかける。待機していたとは言っても、本当にすることのなかったアンとは違い、ヘンリーは彼がドラクルから割り当てられた分の仕事をこなしていた。
 アンの溜め息とヘンリーの書類をまくる音だけが響いていた室内。しかし今アンが口を開いたことによって変わる。ヘンリーは仕事の手を止め、姉の方へと顔を向けた。
「いかがいたしました? 姉上」
「別にどうもしておらぬ。しておらぬからこそ、気になるのじゃ。ドラクルがロゼウスを連れて行ってから、もうどれくらい経つか……」
 ルースとプロセルピナの手によって王城に連れて来られたロゼウス。彼女たちにとっても弟である彼のことについてだが、アンたちはドラクルがロゼウスをどのように扱っているのか知らない。久方ぶりに再会した彼と言葉を交わす間もなく、ドラクルがロゼウスを連れていってしまったのだ。
 ドラクルの部屋には現在、誰も入るなと命じられているらしい。アンはロゼウスのことはもちろん、彼と共にいたはずのアンリやロザリーについても事情を知りたがっているのだが、ドラクルが彼女たちのもとに説明に来てくれる気配もない。自然と気になって、彼女は自室に戻ることも躊躇われている。
 ヘンリーはアンのようにロゼウスを心配するわけではないが、彼女が部屋に戻る様子がないのでつきあってこの部屋にいるのだ。もともとヘンリーとロゼウスはそれほど仲が良いわけではない。長兄にして王子として申し分のない能力を有していたドラクルに憧れていたヘンリーは、幼い頃はドラクルにべったりだったロゼウスのことが気に入らなかったのだ。
 大人になった今ではそれほどロゼウスに嫉妬することもないが、他の兄弟が年齢の近い者同士で纏まることが多いのに比べれば第三王子である彼と第四王子であるロゼウスの付き合いは薄い。誰に対しても面倒見の良いアンリが仲介に入って兄弟姉妹の間を取りまとめていたが、その彼も今この城にはいない。
「のぅ、ヘンリー」
「何ですか?」
 再びアンが話しかけてくる。
「ドラクルに取り次いではもらえないじゃろうか」
「……私が? ですか?」
 愛する姉からの思いがけない頼み、ヘンリーは軽く目を瞠る。しかしアンの様子は真剣だ。
「ああ。いくらなんでもドラクルのあの、ロゼウスに対する態度は変じゃった。とにかく一度集まって話し合いたいと思うのじゃが……ドラクルは、わらわの話は聞いてはくれない」
 悔しそうに唇を噛んでアンが言う。
「姉上、兄上には深いお考えがあるのですよ、きっと」
 ドラクルは才能のある者を好む。そのため取り柄は美貌だけで無能と有名だったミザリーには目もくれなかった。アンはミザリーと違って芸術面や他の分野ではその才能を発揮するが、政治的なことには通じていない。そのためドラクルはアンを蔑むでもないが、しかし重要な話を彼女にしようとはしないのだ。ヘンリーはそれを知っているので取り成すように言った。
 しかし今日のアンは引かない。
「ああ。じゃが、それでもやはり気になるのじゃ。ドラクルの先程の乱暴な振る舞い。確かにドラクルの立場からすればロゼウスを疎ましく思ったとしても仕方がないが、しかしこれまでは十分兄弟として仲良くやって来たのじゃろう。あんなことをせずとも良いではないか」
 思い出すのは先程意識を取り戻したロゼウスの髪を乱暴に引っ張り、彼を引きずっていったドラクルの姿だ。確かにドラクルは以前からロゼウスを手に入れるとは言っていたが、あれはやりすぎだとヘンリーも思う。
 それでもまだこの時までは、ヘンリーはドラクルが「多少の」意地悪をロゼウスにするくらいは当然の報復だと思っていた。いきなり自分が父の子ではなく叔父の子だと言われ弟だと思っていた相手に玉座を奪われようとした怒りは並みのものではないだろう、多少の八つ当たりは当然だと。
 しかし彼は、敬愛する兄上の行動を尊重したいのは山々だが、それよりも愛する姉上の懇願が気になった。
「のう、ヘンリー」
 正面の席から、自分の座る長椅子のすぐ隣に移動してきたアンがヘンリーの服の裾を引っ張る。
「なんとかならぬか? ドラクルに、わらわたちともロゼウスを会わせてくれるよう言ってほしい」
 先程ドラクルがロゼウスを連れて行って今どうなっているのかわからないが、一通り話が終わったら自分たちとも会わせてほしい、とアンは言う。
「姉上……」
「ドラクルに信用されておるそなたの言う事なら、ドラクルも聞いてくれるじゃろう? ヘンリー、行っておくれでないか?」
「まぁ……少し様子を見て、声をかけるだけなら」
 この姉に弱いヘンリーは、どうせたいしたことはないのだろうと頷いた。ドラクルの部屋に篭もったまま、出てこない二人。一体何を話しているのやら。
 安心していたのだ。例えドラクルがロゼウスを憎んでいても、地下牢に入れるようなことはない。それならば良かったのだ、と。
 だが王の豪奢な寝室は優雅な牢獄に過ぎなかった。
「兄上」
「……ヘンリーか」
 王である兄の寝室の扉を叩く、途中で従僕に聞いたとおり、彼はそこにいるようだった。ロゼウスの行方も同じ部屋の中だと聞いた。
「お願いしたいことがあって参りました、ここを開けて――え?」
 妙に掠れた、疲れたような声で返事をしたドラクルに向けて、ヘンリーは堅い木の扉の向こうから話かけていた。許可をもらえればすぐに開くつもりでノブに手をかけていたのだが、部屋の前に見張りもいないのに鍵をかけていなかったのか、寝室の扉は台詞の途中で簡単に開いてしまった。
 思わず足を踏み入れてしまった先で、ヘンリーは思いがけないものを見る。
「え……」
 窓の閉じられた換気していない部屋、鼻に届くのは甘ったるい薬と、痺れるような香、血の匂いと、生臭い精液の――
「な、何を!」
 ドラクルは寝台の端に腰掛けていた。それだけならばまだいい。寝台の中央に人影があり、その人物は身動き一つしない。
寝台に血が零れている。横たわるロゼウスの内股がその赤に濡れている。
何より二人とも、ドラクルに関しては簡単な上着こそ羽織っているが裸だ。
「な……な……」
 ドラクルがロゼウスを寝室に引きずり込み出てこない、そうは聞いていた。だが、こんなことは予想していなかった。あまりの事態に動揺しきり、ヘンリーは言葉が出ない。
 しかしはっと気がついて、寝台に駆け寄る。気だるげに腰掛けたドラクルは別段それを止めず、ヘンリーが寄ってくるに任せた。
「ロ……ロゼウス! おい、ロゼウス! 大丈夫か!?」
 近くで改めて見た弟の身体は、そこかしこに痣があり血がつき傷だらけだった。おまけに両腕がプロセルピナの用意した枷で戒められたままだ。顔は涙でぐしゃぐしゃに汚れ、白い肌と髪の上でわかりにくいが、白濁した液が汚している。
 肩を揺さぶっても、ロゼウスは目を覚まさない。呻こうとした喉の奥の声は嗄れているようで、引きつっていた。
「やれやれ。許可もまだ出していないのに入って来るとは、少し礼儀知らずじゃないのかい? ヘンリー」
 髪をかきあげながら、ドラクルが平然とそう口にする。
「ドラクル兄上……」
 目の前の事態が信じられず、ヘンリーは呆然とドラクルを見つめた。

 ◆◆◆◆◆

 もとより肌の色が白すぎるヴァンピルという種族、その色からさらに血の気を引かせた死人の如き顔色でロゼウスが寝台に横たわっている。
「ぅ……あ、姉、様……?」
 泥のように身体は疲れきっていたが、それでも周囲の人の気配や抱き上げられて別の寝台に運び込まれれば嫌でも目は覚める。ロゼウスが夢うつつに瞳を開くと、姉の心配そうな表情が飛び込んできた。
「ロゼウス……良かった。ぴくりとも動かぬから、心配したぞ……もう少し休んでおれ」
 長姉であるアンは貴婦人と称するに相応しい白い手を伸ばして、弟の髪を撫でた。彼女から視線を外して天井を眺めれば、血と薬と香と精液の匂いで溢れかえっていたドラクルの部屋ではなく、違う場所へと移動させられている。どろどろだったはずの身体も誰がやってくれたのか知らないが綺麗に洗われているようで、敷布の感触が心地良い。
 アンの優しい眼差しを見ていると、まるで昔に還ったようだ。小さな子どものように、病みつかれた身体を看病されている。実際は常にドラクルの監視下にあったロゼウスは彼以外の者の看病など受けたことがないし、本当は今は、そんな場合ではないとわかっているけれど。
「もう少しだけここにおる。お前が眠りにつくまでは。今は何も考えずに休んでおれ」
 言い聞かせる声に素直に従い、瞳を閉じた。


 ロゼウスの身体を運び、洗い清めたのはヘンリーだ。
「兄上、これはどういうことですか?」
 その場で問いただそうにも、ドラクルは薄暗い笑みを浮かべるばかりで答えようとしない。だが状況的に彼が弟であるロゼウスをよりにもよって陵辱したことは火を見るより明らかで、ヘンリーはまずはロゼウスの保護を優先した。
 銀の枷をなんとか外し、カーテンを引き裂いてロゼウスの身体を包み抱き上げる。先にアンに簡単に事情を話して部屋の準備を整えてもらい、自身は召し使いの手を借りず自分でロゼウスを浴場まで運んだ。
 汚れた身体を洗い清め、念のために医師を呼んで治療をしてもらう。ヴァンピルは魔族である程度までは魔術を使えるが、再生能力が強いだけに治癒魔術に関しては下手な者も多かった。兄弟姉妹の中でも使える者は限られているが、ヘンリーは特に治癒の術が苦手だったためにやむを得ずそうした。
「ロゼウス様が……」
 医務室に連れて行き、ロゼウスを医師に見せると、相手は当然のように顔を曇らせる。
「この頃はこのようなこともなかったのですが、しかし……」
 続けられた言葉は、ヘンリーの予想とは違った。医師はまるで、こんなことが前にもあったような口ぶりだ。
「どういうことだ? お前はこのことを知っていたのか?」
 問いただすと多少渋りながらも、この状況ではもう隠す意味もないだろう、と最終的に医師は重い口を開いた。
「昔からですよ。ドラクル殿下がロゼウス殿下にきつく当たりすぎて怪我を負わせるなんて」
「私は聞いたことがない」
「そうでしょう。ただの怪我であるならば報告もされますが、このような状態では。それに我々ヴァンピルは放っておけば一日で怪我が治る種族ですから、よほどのことがない限り我々医師は必要とはされません」
 目を伏せて、丁寧にロゼウスの怪我を治療しながらローゼンティアに数少ない医師は言った。
「国がこんな状態であるのにこう言うのも不謹慎でしょうが、私は安心しておりました。ドラクル殿下が御自身も辛いような表情でロゼウス殿下をこちらに運ぶようなことがなくなって。加減が出来ないのだと、仰っていました……」
 ドラクルの行動は昔から? 聞き出せるだけのことをヘンリーは医師から聞きだした。ドラクルとロゼウスのこと、そしてドラクルのこれまでの行状については、ある範囲では国が堕ちる前から周知の事実であったらしい。知らなかったのはむしろ二人の兄妹である自分たちの方で。
 ドラクルの腹心であるアウグストを捕まえても、恐らく余計なことだと聞かせてくれまい。
 壮年の医師が最後に言った。
「あの方が生まれたこの時から、この国は滅びに向かうことが定められていたのでしょう。王族であるヘンリー殿下にこのような話をするのは不適切でしょうが。私は、それでもいいのだと思っていました。今も思っています」
 ローゼンティアが滅びる? この男は何を言っているのだろう? ヘンリーは不思議に思った。多少乱暴な手段を使ったとはいえ、今のこの国の王はドラクルなのだ。ローゼンティアが滅びるはずなどない。
 しかしヘンリーのその自信も、治療の終わったロゼウスをアンのもとに届ける段階になると多少薄らいでくる。弟の寝顔を見つめながら、
「変わったな、ロゼウス……」
「そうかえ? 見かけに変化などないようじゃが」
 ヘンリーが呟くと、アンが不思議そうに言った。けれどヘンリーには、今眼前で眠る少年とかつての天真爛漫だが我侭なお子様であった弟の姿が重ならない。
「アン」
「どうした。ヘンリー」
「ドラクルに直接話を聞きます。向こうも大分落ち着いたでしょう。ロゼウス相手にこのようなことをしたわけを、聞いて参ります」
「わらわも行く」
「アン姉様」
「わらわもドラクルの妹であり、ロゼウスの姉じゃ。真実がどうであろうと、ずっとそう思って生きてきた。兄妹のことに口を出して何が悪い」
 強い瞳で彼女はヘンリーを見返し、ロゼウスがしっかり眠ったことを確認すると連れ立って部屋を出た。アンはいつもはきつめの顔立ちに比べて温厚な性格をしているが、いざという時には王族らしい強さを発揮する。
 それもそのはずで、彼女はブラムス王の血を引く正式な王族だ。兄妹の反芻は王ではなく王弟フィリップの子だと知れた現在だが、アンに関してはブラムスの子ということで間違いなさそうだ。
 そんな彼女が簒奪者であるドラクルに従っているのは、国のためと言うよりもまず、彼女自身がドラクルを愛しているからであった。
「ドラクル、聞きたいことがある」
「なんだい、アン」
 ヘンリーが手配した使用人の手によって綺麗に掃除しつくされた部屋には先程の爛れた情交の痕はどこにもない。
 だがドラクルの目元には、明らかに疲弊の色濃い翳りがある。
 その翳りの中に、ふとヘンリーは自分と同じものを見た。それはどれだけ望んでも手に入らない者を望んでしまった悲しみ。決して、叶わない恋をした。
 アンが愛したのは、公式には兄とされていた第一王子ドラクル、ヘンリーが愛したのは、公式には姉とされていたアン。だが真実は王弟の子であるドラクル、ヘンリーと王の子であるアンの関係は従兄妹同士であって、結婚にも支障がない。
 それでも、手に入らないのだ。こればかりはどうにもならない。
 そして彼らには、単なる恋敵以上の関係がある。
「ドラクル、今後ロゼウスに対してあのようなことは止めるのじゃ」
「あのような? 君が何を知っているというんだい、アン」
「ヘンリーから聞いた。ロゼウスに……その、無理矢理、行為を求めたと……。何故じゃ、ドラクル、そなたならいくらでも相手はいるじゃろう。なのに何故、弟であるロゼウスに……」
「あの子は私の弟などではない」
「だがそう思っていた時もあったはずじゃ。何故、そのようなことをする。第一男同士じゃろう?」
 軽蔑するでもない代わりに心底理解もできないようで、アンはドラクルを問い詰める。
 彼女は彼女で、ドラクルを前にして強気ながらも戸惑っていた。理路整然などという言葉は今この瞬間は存在せず、ただ心の赴くままにしゃべる。
アンはもっと、自分は怒るのだろうと思っていた。これまでずっと愛してきた相手が見るのは自分以外の人物。それも自分にも相手にとっても弟である人物。ドラクルを愛する彼女からしてみればロゼウスは恋敵にあるのだが、嫉妬のような感情は一切彼女の胸には沸き起こらない。
 ドラクルがロゼウスを陵辱した。ヘンリーの口からそれを聞いた時も到底信じられず、怒るよりもまず先に呆れ、そして思ったよりも酷かったロゼウスの状態を見て、怒りが湧いたのは彼をそんな目に遭わせたドラクルに対してだった。
 だがそれ以上に、今目の前でドラクルの様子を眺めて感じるのは悲しみのような感情だ。名前のつかないその感情が、彼女にドラクルのもとに縋ることを躊躇わせる。
 ここで「抱いてほしい」と一言言えば、終わった問題があるのかも知れないが……
「わらわはそなたがロゼウスを手に入れると言った時、てっきりロゼウスを生涯幽閉でもするのかと思っていた」
 ドラクルが望むのはブラムス王への復讐。本人を殺してもなお晴れない恨みを晴らすために、ロゼウスを求めた。
「王国を手に入れて、これ以上にあの子に何を望む? ドラクル、ロゼウスは男だ。そなたの子を生み妃になることはありえぬ。あの子から奪い取れるものは、もうすでに奪いきったはずであろう」
 もういいではないか、とアンは思っていた。ドラクルの立場ではロゼウスを憎んでも仕方がないが、だからといって陵辱という方向に走る必要はない。
 彼が玉座に着いている以上、ロゼウスが王になることはない。求めるものをドラクルは手にしたはずなのに、何故ドラクルはまだ満たされないのか。これ以上ロゼウスから奪えるものなどないのに。
「違うよ、アン」
 彼女の疑問に、彼にしては殊更優しく、そして残酷に言い聞かせた。
「私はロゼウスからローゼンティアを奪いたかったのではない。あの子自身が欲しいのだよ」
 確かに何度もドラクルは繰り返してきた。ロゼウスを手に入れる、と。
 アンの瞳が見開かれる。その次の瞬間には歪み細められる。
「ドラクル、そなたは……」
 彼女は彼を憎むべきなのかもしれないが、何故かできなかった。だがロゼウスのことも憎めない。ただ痛みだけがここにある。
「姉様……」
 ヘンリーの気遣わしげな声が室内に落ちる。
「そなたが本当に欲しかったのは、ローゼンティアではなく、ロゼウスであったのじゃな」
 アンの静かな声が広がった。


238

 ローゼンティア王都へと潜入。
 ただし、ここからでは全く現在位置がわからない。
「……まさか僕も、ここまで広い隠し道だとは思っていませんでした」
薄暗い地下通路でランタンを片手に、ジャスパーがそう呟いた。この道を通ろうと言ったのは彼であり、その意見は結局採用された。
ロゼウスを取り戻すため、シェリダンたち一行は王城近くの森の中にある王家の墓地、《風の故郷》の墓の一つを暴き、地下から王城に向かうことにした。
ジャスパーの報告どおり、墓地の墓の一つから地下通路がどうやら王城に繋がっているらしい。しかし予想を超えることには、王都の地下は通路などという可愛いものではなく、一つの村をそのまま取り込んだかのような広さを持つ迷路となっていたのだ。
「ちょっとやめてよー、私はエヴェルシードのあの迷路庭園でさえ迷うのよ!」
 道が迷路になっていると聞いて、ロザリーが早々に弱音を吐く。
「それはさすがに迷いすぎだろう……」
 彼女が迷ったという迷路庭園の元の持ち主であるシェリダンが呆れて言う。
「ロザリーお姉様のことはともかく、でも本当に大変ですわよ、この通路は」
「ああ。これだけの広さを持ち、入り口はもう塞いでしまった。ここで迷ったら俺たちのとる道は餓死しかないなーというくらい」
 メアリーとアンリのヴァンピル二人も、この隠し通路ならぬ隠し迷路の規模には不安を感じていた。
「餓死と言ってもお前たちヴァンピルはそう簡単に死ぬこともないのだろう。そうなったら、期待しているぞ」
 シェリダンはそう軽く言い放ち、目線を前に据える。
「今はロゼウスを取り戻すことが先決だ」
 一行の中で最も迷いがないのはシェリダンだ。今はドラクルに対する敵意とも相まって、まさしく向かうところ敵なしの気迫である。
 その姿を見ながら、アンリは様々な意味で苦笑を禁じえない。本当に彼はロゼウスが好きなのだな、とかこれは迷っている場合ではなさそうだな、とか。
 あれは言わない方がいいな、とか。
 シェリダンは常人より度胸がある。ありすぎる代わりに、時折彼のすぐそばにある危険を見逃すことともなる。
 ここで迷い飢えることとなったら、アンリたちに彼らまで助けている余裕はない。何せ彼らはヴァンピル――人間の血肉を喰らう、忌まわしき吸血鬼なのだから。
 もしもそうなった場合、助けるどころかシェリダンやローラたち人間にとって危険なのは自分たちヴァンピルの方だ。
 だからそうならないためにも、必ず出口に辿り着かねばならない。
「ええと、でも確か、迷路の完全な攻略法ってあるのよね」
 ふと思い出したようにロザリーが言った。
「ロゼウスが前に言ってたわ。でも私はどんな方法だったか忘れちゃったの」
「ああ。普通の迷路だったら片方の壁に手をつけてそれをずっと辿ればいつかは必ず出られる」
 ロザリーの問にはアンリが答えた。
「俺とヘンリーが本で読んで、それでロゼウスに教えたんだよ」
 懐かしそうに細めた瞳に、柔らかな色合いが宿る。もともとアンリはローゼンティア人らしくない朱色の暖かな色合いの瞳をしているのだが、それが更に柔らかくなった。
「あんな日々は、もう戻らないんだろうな……」
 ぽつりと零された彼の言葉を、全員が聞く。そして何も言葉をかけることができない。 気遣いではなく、気遣うこともできない現実の前でただ、足を進めるだけ。
「ま、この場合はただ迷路から出ることより、正しい道に進むことが大切だからさ。どこでもいいから出られればいい迷路の抜け方最終手段は役に立たないよ」
「そうね……」
 薄暗いを通り越して真っ暗な地下、石でできた通路も暗い。手に触れる壁の感触はごつごつとしていて、足元にも丁寧に石が敷かれている。だが誰が何のためにこの国の王都の地下にこんなものを作ったのかはわからない。
「きっと、元々の用途は落城の際に王族が逃げる道だったと思うのですが……」
「確かに普通地下に道を作るならそういう理由でしょうけど、でもこの迷路は大掛かりすぎませんか? 逃げてきた王族も迷うでしょう、これでは」
 ローラの言葉ももっともだった。
「……ま、何にしろ、間違いなく王城に辿り着けるなら問題はない。見た所防音もしっかりしているようだしな。この道を使って、敵の懐に入り込めればそれでいい」
 もともと知りえないことをいくら話しても真実など知れるはずがない。今は悩むよりも先に進もうと、シェリダンが促す。
 だがそこに、思いがけず声が響いた。
「この迷路を作ったのは初代国王ロザリアよ」
 今しがた通ってきたはずの背後から突如として響いた女の声。聞き覚えのあるそれに思わず舌打ちを漏らしつつ、彼らは振り返る。
「あなたたちも開けたのでしょう、ロザリア=ローゼンティアの墓を」
 闇の中に埋もれぬ緑がかった黒髪を優雅に靡かせて、そこに登場したのはプロセルピナだった。
「ここは死神の眠る国だもの」
「……あなたか。ここを知っていたのか?」
「いいえ。でもあなたの魂の気配は覚えているわ。私はそれを追ってきただけ」
 シェリダンが舌打ちする。本当に、この《皇帝》という存在にはなんでもありなのか、彼らが見つからずに進もうとしていたのも無駄だったようで、プロセルピナはあっさりと一行に追いついた。いや、最初から王城にこの見知った気配が現れたら捕らえられるよう、網を張っていたに違いない。
 今更剣を抜いたところで無駄だろうか。
「ロザリアの隠し墓地があることは知っていたけれど、まさかこんな風になっていたとはね」
 迷路の天井を興味深そうに見上げ、プロセルピナは微笑を浮かべて視線をシェリダンたちに戻す。
「ようこそ、お客人たち。ローゼンティア王城へ。と、言ってもそこの四人はもともとローゼンティア王族だし、私もこの国からして見れば客の一人だけれど」
 一行の中にハデスはいない。それをプロセルピナはどう思ったのだろうか。ランタンの明かりに眩しそうに目を細めて告げる。
「ドラクルがあなたに会いたがっているわよ、シェリダン王」
 地下の隠し迷路、こんな場所で恐ろしい力を持つプロセルピナに抵抗する術もなく、彼らはあっさりと捕まってしまった。

 ◆◆◆◆◆

 ざわざわと周囲の注目がこちらに向かっているのを感じる。
「くそ……銀の枷か!」
 悪態をつくのは、珍しくアンリの仕事だった。プロセルピナにより捕らえられた彼らは、その場で枷を嵌められた。一行の半分が吸血鬼なので、もちろん魔力を封じる純銀の拘束具だ。
 そのままプロセルピナに先導されて、ローゼンティア王城の廊下を歩いている。城自体が漆黒の石でできている居城、どこもかしこもが光沢のある黒い床に天井で、その漆黒の床の上には緋色の絨毯が敷かれている。周囲の柱や壁に施された彫刻は優雅で豪奢。いかにも王城といった典雅な雰囲気を長年保っているのは、芸術に優れたローゼンティアならではのものだろう。
 シェリダン、ローラ、エチエンヌ、リチャードに関しては捕虜となっても弱気を見せることはなく、その手に枷が嵌められていなければ正式に招待された客が歩くように堂々としている。
 肩身が狭いのはむしろアンリ、ロザリー、ジャスパー、メアリーの方だった。彼らはもともとこの王城に王族として住んでいた。それが今では、罪人のように銀の鎖で繋がれて歩かされている。廊下を歩いていた使用人たちから向けられる視線が痛くて仕方がない。
「動揺するな。堂々と歩け。お前たちは王族だろう」
 項垂れて近くを歩くロザリーに、シェリダンが囁く。
「シェリダン……でも」
「お前がお前の意志で成したことは、誰かに見られて恥ずかしいと思うようなことなのか。そうでないのなら、毅然と顔をあげていろ。自分が間違っていないと思うなら、あるいは間違った行動でも、自分がその意見を翻すつもりがないのなら」
 一度やったことには、出してしまった結果には常に責任が伴うのだ。良いことでも、悪いことでも。その是非を問い処断を下すのは自分ではなく世界であり人であり神であり理である。結果に対して責任を果す気があるのなら、悪いと思っても中途で意見を翻さず断頭台に昇る最後の日まで胸を張って生きることだ。
 もっとも、シェリダンたちはここで首を刎ねられてしまう気はないが。
「シェリダン様、この道順は確か」
「ああ。謁見の間へと向かっているな」
 リチャードの囁きに頷き返して、シェリダンは周りの廊下の様子を見遣る。一度しか訪れたことのない建物だが、その特性や一度通った道は忘れない。王族としてシェリダンは人の顔と名前、そして建物の構造を把握する能力には優れている。
 アンリたちは肩身が狭いようだが、実はシェリダンたちも大変にここでは心苦しい立場にあるのだ。何せローゼンティア侵略を指揮した当時のエヴェルシード国王本人である。ローゼンティア人にとっては恨みの的だ。
 実際廊下の両端に立ち並ぶ使用人たちの半数は王族でありながら連行されているアンリやロザリーに訝りと不審の眼差しを注いでいるが、もう半数はシェリダンとエヴェルシード人であるリチャードに敵意と殺意を向けている。
 そんなことも気にせずに、シェリダンはリチャードと話を続ける。実際こんなにヴァンピルの多い場所では小声での会話など筒抜けなのだが、そうであっても声を潜めたくなるのが人情だ。口を出るのは、当たり障りのない言葉ばかりだが。
「謁見の間ということは、ドラクル王本人と……」
「引き合わされるだろうな。そこにロゼウスもいればいいのだが」
 継承問題に絡むローゼンティアの暗部などはともかく、自分たちがロゼウス奪還のためにこちらを訪れたことはすでに知られているだろう。特に問題ないと見てその言葉を口にしたシェリダンだったが、その台詞を聞いた周囲の様子が変わった。
「……?」
 あからさまに騒ぎ立てる者や怒りを露にする者などはいない。そして、ロゼウスがここにいること事態は誰もが知っているようだ。だが、彼らの態度の中には困惑と焦燥が現れているようだ。
 注意深く周囲の様子を窺ってそれを感じ取ったシェリダンのこめかみに汗が伝う。なんだ、この反応は。ロゼウスに何かあったのか?
 ロゼウスが何かやらかした、という雰囲気ではない。むしろその逆だ。ロゼウスに関してというよりもロゼウスに対しての「何か」に彼らは眉を潜めているような様子がある。この城で今ロゼウスに手を出せる者と言ったら、ドラクルしかいない。そう考えればこの困惑も納得がいく。……ロゼウスは無事なのか?
 残念ながら歩いている最中にその答は得られず、シェリダンたちは謁見の間へと通された。
 アンリたちは王族として慣れ親しんだ場所へ、このような形で来ることになったのを悲しんでいるが、そうも言っていられない。
 予想通りそこにはドラクルがいた。傍らにルースとカルデール公爵アウグストを伴って。逆に言えば、彼ら三人しかこの室内にはいない。一行を連れて来たプロセルピナはさっさと退出する。
 アンとヘンリーはどうしたのだろう? アンリはふと疑問に思った。自分たちと敵対し、ドラクルのもとについた二人、この場での対面ならば、向こうも全員揃い、準備万端でこちらを迎えると思っていたのだが。
一方シェリダンの関心はひたすらロゼウスにあった。ドラクルの側に彼がいない、この場には連れて来られていないのだということを確認し、舌打ちする。もっとも、この場で枷に繋がれたこの状態ですぐに助け出せる可能性は少ないのだが。
「……これはこれは、シェリダン王」
 ドラクルが口を開く。
「我が城へようこそ。もっとも、貴公に入城を許した覚えはないのだがね、エヴェルシード国王陛下」
すでに王ではないのだが、ドラクルはわざとらしくまずはシェリダンにそう告げる。たまたま先頭に立っていたということもあろうが、彼は共にいる自分の弟妹よりもこの隣国の元国王を最初に睨みつけた。
「それは失礼した、ヴラディスラフ大公ドラクル卿、だが、この城の真の主は貴様ではないだろう。許可をあなたに得る必要など、私にはさっぱり思いつかなかったな!」
 シェリダンはシェリダンで、負けじと嫌味で返す。ドラクルもそうかもしれないが、彼の特技も言葉責めだ。
「さっさとそこから退いたらどうだ? 貴様に玉座など似合わんぞ。一回りも年下の弟に嫉妬したくせに正面から喧嘩を売ることも出来ず周囲に甚大な被害を与えて国を乗っ取った偽りの王よ。冠を被った道化とは、これほど滑稽なものもない!」
 とは言ったものの、まともに対面したのは数回しかないとはいえ、シェリダンから見ても玉座に座るドラクルは風格がある。肩口にさらりとかかる白銀の髪に、深い紅の瞳、漆黒に宝石を飾った豪奢な国王の衣装。瞳に影を落とす長い睫毛は良く似た顔立ちのロゼウスだったら憂いを帯びたような印象を与えるのに、ドラクルに関してはその影までもが冷ややかな彩りを酷薄な表情に添えている。唇の色も薄く、笑みをはくその口元は不敵な印象を与える。
「貴様……」
 だがシェリダンの言葉により、その余裕もいつまでも保つものではないと知れた。端正な顔立ちを歪めて、ドラクルはシェリダンを睨む。他の者たちなど目にもくれない。
 華やかで立派な、姿だけみれば正しく民の理想の期待の国王。
 だがその中身はあまりにも人間らしすぎる、傲慢で利己的で残酷。だからこそシェリダンはそれを指して、姿形は派手で滑稽な仕草にて人を沸かせる道化だとせせら笑う。
 しかしドラクルがこれで負けるはずもなく、次の瞬間には一転して余裕の態度を取り戻した。彼らが枷に繋がれているためか、優位を見せ付けるように玉座に深く腰を下ろし、肘置きを使って頬杖をつく。この姿勢では素早く立ち上がれることはない。そんな必要もないと思っているのだ。
「ふん、まあいい。あなたの目的はロゼウスだろう。あの子を取り返しにわざわざこんなところまで来るとは、ご苦労なことだ」
 ロゼウスの名前が出て、急激にシェリダンの周りの温度が冷たくなる。険しい眼差しで彼はドラクルを睨み返す。ここにはロゼウスはいないが、この言い方は間違いなくドラクルが彼の身柄を拘束している。ルースやプロセルピナが攫ったまま隠しているわけではないらしい。すでにドラクルに引き渡された後、どこかに捕らえられているようだ。
「ロゼウスを返してもらおうか」
「断る。あれは私のものだ」
 他の者たちの存在など全く意にも介さず、二人の男は睨み合う。
「ドラクル!」
 そこに、別の男の声がとんだ。

 ◆◆◆◆◆

「もう、いいだろう! もうやめてくれ!」
 ドラクルとシェリダンの睨み合いに割りこんだのはアンリだった。彼はいつの間にかシェリダンのすぐ近くにまで歩み寄ると、シェリダンを押しのけるようにして兄と向かい合う。
「アンリ」
 ずっと同じ室内にいたというのに、やっとその存在に気づいたかのようにドラクルは弟王子の名を呼ぶ。
 アンリ=ライマ=ローゼンティア。
 それがアンリの名。しかし本当はアンリ=ライマ=ヴラディスラフだ。彼もドラクルと同じく、ヴラディスラフ大公フィリップの息子であって王子ではない。それでありながら自分と同じ立場にあるドラクルではなく、真の第一王子ロゼウスと共に行動していた。
「もう、やめてくれ……兄上」
 広々とした謁見の間にポツリと落とされた声は、酷く弱弱しい。一歳しか年齢の違わない異母兄弟であったアンリにとって、ドラクルは兄でありながら兄ではなかった。むしろ友人のような感覚ですぐ側にいて、自分はこの人を支えるのだとずっと信じていた。
 その相手を、アンリは今、「兄」と呼ぶ。
 同じようにヴラディスラフ大公の息子と言う事実を頼るのではなく、王族の兄弟として育てられた二十年以上の月日を信じて。
「何をやめろと? アンリ」
 先程シェリダンに対していたのと比べれば随分優しい声音で、ドラクルは弟に問いかけた。ドラクルにとってもアンリは弟というよりは友人感覚の相手だったが……だが、それでも、弟だ。
「全部、だ。ロゼウスを弄ぶのも、シェリダン王と敵対するのも、この国の民を使って、戦争を起こそうとするのも、全部」
 アンリの言葉に、ドラクルは眉根を寄せて不機嫌な顔つきになる。指先が不機嫌に椅子の肘置きを叩いた。
「そういうことか。優等生のアンリ。お前はきっと、そう言うだろうと思ったよ」
「ドラクル……?」
「悪いけれど、それはできないね。特に、最初のことに関しては」
「ッ!? どうして!? もういいじゃないか! あんたはこうして国を滅ぼし、父上たちを殺し、ロゼウスからだってその立場を奪っただろう! もう十分じゃないか! この上あの子から何を奪いたいんだよ!」
 アンリの声が謁見の間の壁という壁に反響する。その必死な口調は咎めというよりも、甚だ疑問と焦りの様相を呈している。
「ドラクル、もうやめてくれ! これ以上無駄な血を流す戦いを、俺たちは引き起こすべきじゃないんだ!」
 彼らにとってドラクルはできれば正面衝突を避けたかった相手なのだが、今はそうも言っていられない。こうして顔を合わせてしまったからには、言いたいことを言い切るしかない。
「ドラクル!」
 だが、それに対するドラクルの返答は、苛立ちを帯びた低い声だった。
「相変わらず……『良い子』の答だね、アンリ」
 白銀の髪をわずらわしげに掻き揚げ、ドラクルが深紅の眼差しで弟を睨む。
「答は『否』だ。何度も言わせないでくれ。私は私の選択を変える気はない」
「そんな! ロゼウスはあんたから玉座を奪う気なんて最初からなかったんだ。こう言ってはなんだけど、もう国王であった父上たちもいないんだ、だから……ッ」
「それが良い子の回答だというんだよ、アンリ」
「良い子ってなんだよ、俺はただ、一番効率のいい方法を」
「ちがう」
 段上から冷ややかにアンリを見下ろし、ドラクルは続ける。
「お前の言いたいことはわかるよ。そうだね、ここで過去の面倒事を掘り返しても厄介だから父王や王妃たちの殺害と言う私の罪を流してしまおうというのは、いかにも王族らしい功利的で、小ずるい素晴らしい判断だ。そうすれば私の罪はなかったことになる上に、私はこの玉座に座り続けることが許されて、国を正しく統治すれば争いも起きず、ロゼウスを解放してシェリダン王と共に逃がして今生きている者たち全てが納得する道をとれると言うのだろう? そうだな。それは一番いい方法だね、アンリ」
 別にアンリも聖人君子ではないのだ。ドラクルが王として確かに玉座に着くのが最善であると思えば、父であったブラムス王を彼が殺害したことすら水に流そうとする。冷たいようでも、今生きている人間が一番大事だ。だからそれが一番いい方法だと、アンリは思っている。あとはドラクルがロゼウスを解放してくれれば全ては丸く収まる。しかし。
 弟の言葉を軽く認めながら、しかしドラクルの口調はそこに宿る黒い影とは裏腹に淀みなく、止まらない。
「それが、お前の『良い子』の考えだと言うんだよ。お前はみんなを幸せにしたい、そうだろう?」
「あ、ああ」
 ドラクルの言葉を聞きながら、半分釣り込まれるようにアンリは頷く。
 ドラクルは緩やかに病んだ笑みをその顔に浮かべる。ロゼウスとも、その父ブラムス王とも、実父ヴラディスラフ大公ともよく似ているその面差し。もとはと言えばそれが全ての発端だった。
 彼の両脇には忠実な二人の臣下が佇んでいる。二人の表情は対照的だ。ルースは平然と、アウグストはどこか苦しげにしている。
 そしてドラクルは吐き出した。
「私はね、誰も幸せになんかしたくないんだよ」
 アンリが目を見開く。
「な、何を……」
「言葉の通りだよ。私は全てを呪っている。父上も、大公閣下も、ロゼウスも、お前たちも」
 そして自分自身をも。
「みんなみんな不幸になればいい。もはや私の心は他者の苦痛でしか癒されない。……当たり前だろう。これまで王族だから、王子だからと他者のために尽くすように育てられてきた。人の幸せが私のそれとなるように」
 だがその自分は、いらないものだった。
 ならば私がこれまでに払った努力はどこに行く。
「王子である必要がなくなったなら、最初から王子でなかったのなら、あんな風に頑張り続ける必要なんてなかった。……だから、私のこれまでの前払いの努力をそろそろ返してくれたっていいじゃないか」
 人のために、国のために、皆の幸せのために削り切り取られてきた自分。その欠片は一体どこに行ってしまったのだろう。
 頼むから返してくれ――私自身を。
 他者のために尽くすことを幸せとしてきた自分、けれど突如落とされた逆転の世界の中では、人の不幸をこそ望む。
 この力の全てでもって、あらゆる者たちを不幸にする。それこそが今の自分の存在意義。
 国を簒奪したのは、ただ欲しかったから。民が暮らしやすいようにこの国を治めるためじゃない。
「父王も大公もすでに亡い。しかしロゼウスはまだ生きている。……アンリ、お前も知っているだろう。ロゼウスがまだ小さい頃、私はちゃんとあの子に優しくしてやっただろう?」
「そ、れは……」
「だからこそ今、余計に憎いんだよ。優しくした分だけ憎いんだよ。だから甚振るんだ。私はあの子の苦痛が欲しい。ロゼウスがその苦痛に負け、私に屈服し隷従するまで、私は――」
「愚かもいいところだな、偽王よ」
 アンリに向けて話していたドラクルの口上を遮り、シェリダンが再び口を開いた。彼はアンリの肩に手をかけて押しやり、再びドラクルの正面に立つ。
「忘れるな。この国を滅ぼしたのは我が国エヴェルシードだが、それを手引きしたのは貴様だ。その復讐心は貴様が自分で望んだものであり、誰のせいでもない。貴様はロゼウスに玉座を預けて身を引くこともできたのに、それをしなかった。これは紛れもなく貴様自身の欲望が生んだ結果だ。その貴様に、ロゼウスのことを責める権利などない!」
 そしてシェリダンは笑う。
「所詮貴様はその程度の男だということだ」
「お前……ッ!」
「もうやめろ! ドラクル! シェリダン王も!」
 衝動のままに玉座から立ち上がったドラクルを見て、アンリは血相を変える。引く様子を見せないシェリダンを押しのけるように庇うと、ドラクルに向かって叫んだ。
「ドラクル、あんたの言い分はもっともだと、俺も思う! シェリダン王がどう言ったとしても、ローゼンティアは、二十七年間王太子として育てられてきたあんたが、この国を治めるべきなんだ! 俺もそれに反論はない!」
 ことの是非はともかく、すでに簒奪も国王殺害も行われてしまった。時の針をまき戻すことができないのであれば、前に進むしかないだろう。責任の所在は重要だが、裁けばそれでいいという問題でもない。
 そして行動を起こすのはドラクルだけではないのだ。
「だってロゼウスは、絶対にこの国を継ぐことはないのだから――」


239

 断言したアンリの言葉に、玉座から立ち上がったドラクルが僅かに眉を潜める。
「絶対に?」
 シェリダンを睨んでいた視線が弟の方へと向かう。目つきは険しいが、シェリダンに向けていた時のように敵意ばかりではない。
 その代わりドラクルの目には、憐れむような嘲りの光が宿っている。アンリの愚直なまでの正義感を、彼は憐れむ。
 だがアンリは退かなかった。
「そうだ。ロゼウスは絶対にローゼンティアを継ぐ事はない。他の兄弟で争うのは無駄だ。この玉座に相応しいのは、あんたしかいないんだから」
 ロゼウスは世界皇帝だ。すでにデメテルが退位した形になる以上、彼の即位は確実だ。そうでなくても、世界皇帝に認定された者は即位を拒む権利はない。
 皇帝に与えられるあらゆる能力と権利の中で、唯一皇帝の手に入らないもの。それが、帝国玉座を辞退する権利。
 ロゼウスはローゼンティア王にはならない。
 彼は皇帝だから。
 皇帝は国王を兼任することはない。
 歴史上にたった一人だけ、皇帝と国王を兼任した皇帝がいる。始皇帝シェスラート=エヴェルシード。しかしそれは彼が帝国の基礎を作り上げた始皇帝ある故のもので、皇帝が国王を兼任する事は現在では好まれない。
 だからロゼウスは、絶対にローゼンティア王にはならない。
 アンリはそういう意味で口に出したつもりだったのだが、ドラクルの返答は予想と違ったものだった。
「何故そんなことが言い切れる。ロゼウスがいくら口で継承権を辞退するなどと言ったところで、私が信用できると思うか? あれを私の手元以外においておけば、誰がロゼウスを擁立しようとするかわかったものではない」
「え……」
 ドラクルの言葉は、ロゼウスが皇帝であることをかすめもしない。
 まさか、彼は……
「ドラクル」
 シェリダンが口を開く。
「貴様まさか、知らないのか?」
 呆けたように彼らがドラクルを見上げる中、見つめられた当人は怪訝な顔をした。彼らが何故そんな反応をするのかわからないと言った顔つきだ。
「知らない? 私が、何を?」
 ドラクルは不機嫌な顔つきになる。もともと上機嫌だったというわけでもないが、磨き上げた頭脳と卓越した思考力を持つ彼にとっては、無知を宣告されるのは何より腹立たしいことだろう。
 嘘だろう? まさか、この期に及んでそんなことを知らなかった? ハデスもルースも、今はプロセルピナまで側にいるというのに?
 そしてシェリダンたちは、ドラクルの傍らに立つルースが微笑んでいることに気づいた。
 彼女が笑みを浮かべていること自体は普通だ。いつも微笑んでいるルース。けれど、今の笑みが意味するのは違う。
 彼女はロゼウスが皇帝になることを知っていて、ドラクルに隠していたのだ。
何のためにかはわからない。そしてここで今、彼らが明かすのを阻む様子もないのだが。
「ド、ドラクル!」
 驚きすぎて焦りすぎて、アンリが多少どもりながらも口にする。
「ロゼウスは皇帝なんだ!」
「……は?」
 今度はドラクルが呆けたような顔になった。元が整っているだけに大袈裟に崩れたりはしないが、玲瓏な目元が多少歪んでいる。
「戯言を……」
「嘘ではない」
 シェリダンはジャスパーを手で招いた。証を見せろという合図に、ジャスパーは服の腰をまくり、その紅い紋章印を見せる。
「ロゼウスは次の皇帝だ。大地皇帝デメテルの跡を継ぐ者」
 ほとんどはハデスの腕にあったものと同じ、しかし細部は異なっている。薔薇を中心に置いたようなその紋章を目にして、ドラクルが瞳を見開く。
「ジャスパー、お前……!」
「ドラクル兄上、僕が次の皇帝の選定者です」
 瞳を伏せて、どことなく苦しげにジャスパーは告げる。その後をシェリダンが引き取って、堂々と声を張り上げた。
「第三十三代皇帝、ロゼウス=ローゼンティア! だからこそ、彼は王にはならない!」
「な……」
 玉座を背に、ドラクルは絶句する。中途半端に一音を発したまま、言葉が出てこない。
 これまで考えもしなかったことだ。自分が憎みに憎みぬいた弟が、よりにもよって《世界皇帝》だなどと。どう考えればそんな結論に至ると言うのだろう。
 確かにロゼウスはその頭脳も身体能力も完璧だ。それはドラクルも敵わないと思ったほどに。だが、王に相応しいのと皇帝に相応しいのでは訳が違う。
 問題が大きすぎて、とてもではないがここで信じられるようなことではない。
「まやかしだ! そんなもの!」
「嘘じゃないんだ、ドラクル!」
「ふざけたことを言うな! あれが皇帝だなどと、そんな戯言で私を惑わそうとはいい度胸だな!」
「違う、俺たちは……!」
 アンリが説得しようと試みるも、彼の言葉ではドラクルは動かせない。必死なその様子とは打って変わって冷淡すぎるほどに冷淡なシェリダンの言葉の方が、まだドラクルに突き刺さる。
「言わなかったのか、誰も。未来を予言するハデスも、前皇帝であるプロセルピナも、みんなお前の近くにいたというのに」
「――ッ!!」
 今度憐れむような眼差しを向けられるのは、ドラクルの番だった。シェリダンの態度に、白い頬にカッと朱が上る。
「ロゼウス王子が皇帝……」
 ふと、張り詰めた場の空気に震える声が割り込んだ。
「嘘だ、そんなの」
 誰に聞かせるというよりは、自分に言い聞かせたいのだろう声。
「カルデール公爵」
 憤激するドラクルとは対照的に、彼の腹心であるアウグストは青褪めている。
「ルース!」
 ドラクルは彼ではなく、いまも平然とした様子でいる妹姫の方に声をかけた。
「プロセルピナ卿に真偽を問いただせ! そしてできるならば、ハデスを見つけだし連れて来い!」
「かしこまりました、陛下」
 ルースが頭を下げると共に、ドラクルの声は青褪めていたアウグストを呼んだ。苛立ちをぶつけるように、乱暴な口調で命じる。
「カルデール! この者たちを牢にぶち込んでおけ!」
 シェリダンたちは、まとめてローゼンティア王城の地下牢へ囚われることとなった。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝――それは世界を統べる者。
 それはこの帝国の支配者。
 皇帝。
 それは王などよりももっと、もっと優れた者――。

「ふざけるな」
 カツカツと足音も高くドラクルは廊下を歩く。大股で行き過ぎる彼の険しい形相にたまたまそこを通りがかった使用人たちは怯えて頭を下げる。
身の内にじわじわと湧き上がってくる怒りは発散されずに苛立ちとなり、喉まで込みあがりまた胃の腑に落ちる。そのため、幻惑の不快な感触が耐えない。
「……ふざけるなよ」
 誰に向けての言葉なのか、自分の存在を運命と言う言葉で弄ぶ全てのものに対しての言葉か、ドラクルの唇からは低い呟きがこぼれ出す。噛み締めた唇に血が滲んで、ジワリと溶けていく。
 ロゼウスが皇帝? 世界を統べる、帝国の支配者?
 ありえない。そんなこと知らない。今まで聞いたこともなかった。
だが。
 ――言わなかったのか、誰も。未来を予言するハデスも、前皇帝であるプロセルピナも、みんなお前の近くにいたというのに。
 シェリダンの声と共に、憐れむような炎色の眼差しが蘇ってくる。ふざけるな。憐れむだと、この私を。
 ロゼウスの心を奪ったというその存在自体が不愉快なシェリダンと、彼に賛同しついてきた一行、自分の弟妹であるアンリたちも含めて、全てが不快な一行を牢獄にぶち込み、ドラクル自身はひたすら足を動かして自室へと向かう。
 王城内の豪奢な意匠も柔らかな絨毯も何もかも意識の端にすら昇らない。ただ胸にあるのは、出口のない苛立ち。抱え込んでいては気が狂いそうなそれをせめて吐き出すためにと、彼は足を急がせる。
 細緻なレリーフの施された扉。かつての国王の寝室は今はドラクルの部屋だ。彼こそがローゼンティア国王となったのだから。けれどそれすらもどうでもいいことのように価値を奪う一つのことについて確かめるべく、彼はその扉を開け放つ。
「ロゼウス!」
「っ!」
 中には、一人の少年がいた。言うまでもなくロゼウスだ。ヘンリーたちの計らいにより一通りの治療が施された後も解放はされず、こうしてドラクルのもとに囚われている。
 服を着ることも許されず、その首には太い首輪が嵌められ、鎖が伸びて寝台に繋がっている。逃げ出すこともできないよう銀の枷で部屋の中に拘束されていたロゼウスは、吸血鬼にとっては活発に行動する時間帯である夜半に仕事もせず不機嫌極まる表情で戻って来たドラクルの様子に目を丸くする。後手に扉を閉める兄を、怯えた表情で見つめた。
「ド……ドラクル? 何……」
 ロゼウスが最後まで問いかける前に、つかつかと寝台まで歩み寄ってきたドラクルはその腕を押さえ込む。
「正直に答えろ」
 最初にここに連れて来て暴行した日のように、荒んだ表情でドラクルはロゼウスを問い詰める。ぎりぎりと腕に食い込む爪の痛みにロゼウスが顔を引きつらせるのを、意にも介さない。
「ロゼウス――お前が皇帝なのか」
「え――」
「答えろ」
 ますます酷くなる腕の痛みに、ロゼウスは上手な嘘をつく余裕もなく真実を口にした。
「……そうだよ! ハデスが言うには、俺がデメテル陛下の次の皇帝だって……!」
 そしてロゼウスは皇帝になるためにシェリダンを殺す運命にあるのだと。
 しかしそこまでは言う必要はなかったらしく、ハデスからと告げたところでドラクルは腕を放した。その代わり寝台に手をついて横たわるロゼウスの身体を押さえ込むように覆いかぶさる。
「まさか、本当に……?」
 ロゼウスは仰向けに押さえ込まれながら、自らの正面にあるドラクルの顔を見た。青褪めて唇を震わせているその顔には、真に動揺が走っている。この頃になってようやくロゼウスにもドラクルの様子のおかしさがわかった。
 ロゼウスが皇帝である。それはハデスはもちろん、プロセルピナもルースもすでに知っていたことだ。なのに何故、その彼らに囲まれ問題の渦中にいたドラクルがそれをこんな時に改めて自分に聞くのか。
 まさか、ドラクルだけは、知らされていなかったのか?
 ロゼウスが胸の内でその答にたどり着いた時、身体を起こしたドラクルが突然笑い出した。
「ははははははは!」
 狂気じみたその行動に、ロゼウスは思わずびくりと震える。
「そうか! そういうことか! あのガキめ、だから私に近づいて来たのだな……! 道理で選定者ともあろうものが、やけに気前よく力を貸してくれたものだ、全てはこのためだったのだな!」
 ドラクルが言っているのは、ここにいないハデスのことのようだ。ロゼウスたちからして見れば彼は彼で自分の目的のために動いていたのだが、ドラクルにとってはハデスは大した理由もないのに自分に協力してくれていた相手ということになる。
 大地皇帝とその選定者の性質は気まぐれ。この百年間で世界にはそう知れ渡っていた。だから一つ二つの国の存亡に関わる問題にも気軽に手を出しても不思議ではない。そう思ったからこそドラクルはこれまでハデスたちの介入に深い意味を考えなかったのだが、それに次の皇帝の存在が関わっていたとなれば別だ。
「上手く利用されたのは、彼等ではなく私と言うわけか……!!」
 怒気の篭もった表情で、ドラクルは一人ごちる。浮かべた笑みは自分を嘲笑うように、病んでいる。
「くくくくく。はははははは!」
 ロゼウスはそんなドラクルを、彼の身体の下で震えながら見つめるしかできない。
 しかしふと疑問が沸いた。これまでそのことを知らなかったというのであれば、彼は今になって、一体どうしてロゼウスが皇帝であるという事実を知ったのだろう。脈絡もなくハデスがやってきてバラしていったとは考えにくい。では別の誰か。しかし先日会ったルースの様子では違うだろう。プロセルピナも今になってわざわざ告げる理由があるとは思いにくい。それ以外の誰か……まさか。
「兄様……あの……」
 ロゼウスが皇帝であるという運命を知っているのはほんの一握りの人間だ。そしてドラクル側にある者たちが伝えたとは考えられないとなれば、その相手は限られてくる。
 まさかシェリダンたちがドラクルに会った――? 
 ならばそれはどんな状況か、自分と同じように捕らえられてしまったのかそれとも一瞬の邂逅であり逃げ出せたのか、それだけはせめて知りたいと思いロゼウスは口を開こうとしたのだが。
 ぎり、と再び強く手首を捕まれる。
「痛ッ!」
 悲鳴をあげるロゼウスの様子になど構わず、これまで室内に虚しく響くだけだった哄笑をぴたりと止めて、ドラクルが本格的にロゼウスの身体を押さえ込んできた。
「ふざけるなよ」
 低く呟く。
「ドラクル、兄様……」
「お前が、ロゼウス、お前がこの世界の皇帝だと言うのか。帝国の支配者だと? お前が?」
 どろりと闇を含み濁ったその声に、ロゼウスがひくりと喉を震わせる。歪んだ笑みをはいたドラクルの眼差しが恐ろしい。血のような深紅の瞳が、底の知れない病んだ光を宿している。
「あ……あ……」
 視線に縛り付けられてロゼウスは動けない。ドラクルの手が腕から離れたことにも気づかなければ、再び伸ばされたそれが自分の首を捕らえようとするのにも気づけない。
「お前という者は本当に、どれだけ私を馬鹿にすれば気が済む――!!」
 ドラクルの腕に力が込められ、ロゼウスの首を締め上げる。骨ごと砕き潰しそうなその力に痛みを覚えると共に、気道を締め上げられて息ができない。
 声も出せなければ、ドラクルの腕を引き剥がそうとする力も微かだ。涙と共に開きっぱなしの唇からは唾液が零れて顎を伝う。目の前が霞む。
 ドラクルの怒りを伝わる腕の力から感じ、死を予感した。このまま首を締め上げられ続ければ間違いなく死ぬだろう。また生き返りはしそうだが。
 でも、ここで死んでおけば自分がシェリダンを殺す、その予言は成就しなくなるかもしれない。意識を失う直前のロゼウスがそんな考えにまで至った時。
 突如としてドラクルが腕の力を抜いた。解放されたロゼウスは空気を求めて咳き込み喘ぐ。
 死ななかったのが嬉しいような、心のどこかで悲しいような……けれどそんな思いに浸る暇も与えられず、まだ苦しい息が整わない中、ドラクルの腕によって無理矢理再び寝台に縫い付けられる。今度は首を絞められることはなかったが。
「運命とは変えられるものなのか?」
ドラクルが口にしたのは、今のロゼウスが切実に願っていること、そして世界中の多くの者たちが願っていることだ。
「お前が皇帝だと? 私がやっとローゼンティアの玉座に着いたと思ったら今度は皇帝か。何の努力もしたことがないくせに、どれだけのものを手に入れれば気が済むんだ、お前は」
 ちがう。本当の王太子の立場も皇帝の玉座も、俺が望んだわけじゃない。
 言いたくともまだ痛い喉からは言葉にならなかった。
「皇帝を殺す、有史以来誰も実現したことがない事だ。その皇帝の次の皇帝の資格を持つ者でもない限り」
 ようやく整ってきた息の下から見上げたドラクルの表情は、かつてのハデスによく似ていた。ロゼウスを殺して皇帝になると叫んだ彼と。
「では逆に言えばお前を殺せれば、今度は私が皇帝か? なぁ、ロゼウス」
 くす、と小さく笑むドラクルの表情は、残忍な色を宿している。ふいに掴んでいたロゼウスの腕を強く引いて伸ばすと、その上から力を込めた。
 まずい、と感じる間もなく腕の骨を折られる。乾いた音を皮膚の内側で聞いた。
「あ……あああああああああッ!」
 弱った身体に堪える予期せぬ激痛にロゼウスは叫び悶えるが、ドラクルはもう片方の腕を掴んで解放する様子を見せない。銀の枷で通常の人間程度しか力を発揮できないロゼウスが苦しむ様を、冷酷な眼差しで見下ろしている。
「……お前には、なんとしてでも地獄を見てもらわないと。だってお前はいずれ、この世界の全てを奪っていくのだから――」
 そして私は、何にもなれないのだから。