229

 見た目はたおやかでもその腕はさすがにヴァンピルだ。ルースの腕はシェリダンが全力を込めてもなかなか外せそうにない。首を絞められてはいるが、両手は自由に動かせるこの状態でこれなのだ。何か方法はないか。
 苦痛に自然と細めてしまう瞳に部屋の中を移し、シェリダンは足掻く。
 まだだ、まだ死なない。自分はまだ死なないはず。
 この身を滅ぼすのはロゼウスなのだから。
「……くッ!」
 先ほどまで身を預けていた黒檀の椅子とテーブルとが目に入る。
 その距離は遠くない。シェリダンは自由になる足に全身の力を込め、ルースの身体を避けるようにして思い切りテーブルを蹴飛ばした。
「どこを狙っているの? そんなもの私には」
 ルースの言葉が終わらぬうちに、テーブルはその向こうの椅子を巻き込んで盛大に倒れる。分厚い絨毯を敷かれた室内にテーブルが倒れるだけならばそれほど派手な音は立たない。だが椅子は窓際の家具をも巻き込み、硝子を叩き割った。
「ッ!」
 この屋敷にいるのは耳のいいヴァンピルたちばかりだ。尋常でない破壊音を聞きつけて、すぐに廊下から足音が迫る。
「シェリダン!」
「どうしたの――……ッ!?」
 真っ先に室内に飛び込んできたのは、同じ顔の兄と妹だった。ロゼウスとロザリーが、それぞれ真剣な表情で部屋の入り口で固まる。
 けれど次の瞬間には、それぞれ行動を起こしていた。
「ルース!?」
 姉の暴挙にロザリーが悲鳴をあげる間に、ロゼウスは走り出してルースに一打を与えようと腕を振り上げている。かわすためにルースがシェリダンの首を両手から離し、軽々とロゼウスの爪を避けた。
「あら酷いわ。ロゼウス。理由も聞かずにこの姉に斬りかかるなんて。私の方が襲われて反撃したとか普通考えない?」
 この期に及んでも本気とも冗談ともとりにくい顔立ちで軽口を叩きながら、ルースがさらりと乱れた裾を直す。
「生憎だけど姉様、この甲斐性なしは男にしか興味がないんだ。二十代の美女は好みの範疇外だと思うから、姉様の色香なんてあるかもわからないものはあてにしない方がいいよ」
 混乱しているのか冷静なのか、こちらも感情を見せにくい顔立ちでロゼウスが毒を返す。
 口にした言葉こそ軽いが、その瞳は険しい。
 油断をせずにちらりと背後に視線をやり、シェリダンの無事を確認する。新鮮な空気を求めて咳き込む他は、シェリダンに怪我はないようだ。
 これで心置きなく戦えるというものだ。姉を睨む瞳は、更に険しくなる。
「……どういうつもり? 姉様、なんでシェリダンを」
 弟に睨まれてもルースは動じず、たった今シェリダンの首を絞めていたとは思えない穏やかな表情でルースは告げる。
「そちらこそ忘れたのかしら。ロゼウス、私はずっとね、ドラクルのものなの」
 そこには束縛や隷属の翳りなどなく、ただただ、一途な思いだけがある。しかしその一途さは病と同じ意味を持ち、永遠に救われない様相をも呈す。
「そしてロゼウス、あなたもドラクルのものなのよ――知っているでしょう」
 幼子に言い聞かせるような口調に、一瞬ロゼウスがたじろぐ。
 偽りの愛で自らを絡め取っていたドラクルの存在はいまだにロゼウスの中で重い位置を占める――けれど。
「それと……シェリダンに危害を加えることがどう繋がるの?」
 ルースが表情から笑みを消した。
「ねぇ、ルース姉様。姉様は一度も俺に、本当のことを話してくれなかった。いつもいつも、哀しそうな目で俺を見るばかりで」
 それが墓標を眺める者の眼だと知ったのはいつだろう。
 彼女はいつから、ロゼウスが荊の墓標たることを知っていたのだろうか。
「今も、あなたが何を考えているかはわからない。でも俺も、自分のことについてならもうわかってる――シェリダンは殺させない」
 他の何に代えてもそれだけは譲れないのだと、ロゼウスは姉姫に向けてはっきりと告げる。
 ルースの唇から冷たい嘲笑が零れた。
「そうして、他の誰にも殺させずにあなたがその人を殺すのね」
 ドラクルのようにシェリダンを憎んでいるような他の誰でもなく、ロゼウスこそがシェリダンを殺すのだと。
「――俺はそんなことはしない!」
「どんなに努力しても流されるから、人はそれを運命と呼ぶのよ」
 ロゼウスの決意を冷めた眼差しで見下ろし、ルースは彼女らしからぬ早口で告げた。
「どんなに望んでも、どんなに願っても手に入らないものはあるでしょう。私はこれでも、一番穏便な方法を取っているのよ。ねぇ、ロゼウス。あなたは間違いなく皇帝になる存在よ。私はそれを止めない。あなたを間違いなく皇帝にしてあげる。でも、だからこそ、世界中の名も知らぬ幾千万人幾億人を救っても今、あなたの側にいる人々は救ってあげない」
 謎めいたルースの言葉に、ロゼウスは眉をあげる。彼女は予言の能力によって人より多くのことを知っているようだが、簡単にはそれを表に出さない。
「ハデス卿に伝えてあげるといいわ。彼がどんなに努力しても運命を変えられなかったのは、あの人のせいではないもの。ハデス卿が未来を捻じ曲げようと努力する裏から、私がその軌道を修正していたから」
 誰にも、それこそドラクルにも知られぬ影でルースは動き続けていたという。
「姉様! 何でそんなことを!」
 ロゼウスがどうしても受けとめられない、自身がシェリダンを殺すという予言。ルースはその運命をむしろ積極的に引き寄せているのだという。
 しかしルースは答えず、ただロゼウスを見つめるばかり。
 そしてぽつりと一言、ロゼウスが初めて聞く彼女の本音を零した。
「私はあなたが羨ましいわ」
 焦がれても焦がれても手の届かない眩しいものを見つめるかのような瞳で見据えられて、ロゼウスは束の間逡巡する。それが彼の隙となった。
「うあっ!」
「ロゼウス!?」
 ルースが懐から小さな布包みを取り出すとそれを床に叩きつけるようにして投げた。勢いよく破裂した包みから銀色の粉が飛び出す。
「これは、銀廃粉!」
 騒ぎを聞き付けたらしくようやく駆けつけてきたアンリたちが、室内の惨状を見て驚く。部屋一面が銀色の粉に包まれている。
 煙幕を張ったルース自身は自らがその煙を吸わないよう注意を払いながら、窓から逃げた。
「メアリー! ジャスパー! お前たちはさがれ!」
 自らも口元を覆いながら、まだ部屋の中に足を踏み入れていない妹弟にアンリが忠告を飛ばす。その彼の横からリチャードが彼を廊下に押しやるようにして進み出た。
「アンリ殿下、あなたも。ロザリー姫たちは我々が」
「すまない……頼む」
 銀廃粉と呼ばれる特殊な煙幕は、人間には無害であっても吸血鬼にとっては必殺の毒だ。濃度によって効き目は調節できるが、大概はヴァンピルの動きを止めるという用法で用いる。
それを浴びて室内で動けなくなったロゼウスとロザリーを救うべく、リチャードとエチエンヌが足を進める。
「ロゼウス! おい、無事か!」
 煙幕の張られた瞬間悲鳴をあげて突っ伏してしまったロザリーを全身で庇いながら、シェリダンはロゼウスの安否をも確かめる。初めに首を絞められた彼を介抱していたのがロザリーなので彼女の方が距離が近かったのだ。だが真正面からどの毒粉を喰らったのはロゼウスの方だ。
 王城にイスカリオット軍が攻めてきた時もそうだったのだが、ロゼウスは普通のヴァンピルよりの身体的に強靭だ。銀廃粉による影響も他の兄妹たちほどには受けない。はずだった。
 ぐらり、とその身体が傾ぐ。
「ロゼウス様!?」
 ルースが逃げた窓が開け放たれて換気はすでに始まっているとはいえ、視界を覆いつくす一面の銀はあの時王城で見たよりも数段濃い。
「ロゼウス!」
 意識を失って倒れこもうとしたロゼウスの身体を、間一髪駆けつけたリチャードが支える。

 ◆◆◆◆◆

 漆黒の居城に堂々と舞い戻る。
 彼女が裏切り者だと言う連絡は行われていないのか、門衛はあっさりとルースを中へと入れた。
 緋の絨毯が敷かれた長い廊下、手摺りのついた長い階段を昇り、王の私室へと向かう。このぐらいの時間ならば、ドラクルはいつもの執務室でも謁見の間でもなくそちらだろう。カルデール公爵アウグスト辺りが一緒にいるかもしれないが、彼ならば別に構わない。
 辿り着いた扉をいつもと同じようにノックすると、内側から入室を許可された。
「おかえり、ルース。我が最愛の妹よ」
 悪戯っぽいようなその声は、彼女が彼のもとを一度離れてロゼウスのもとを訪れたことを気づいている。その上で、事態を面白がっているようだ。
 ドラクルはルースを信用している。それは彼女が信頼に足る人物だからということではなく、共に自国を滅ぼした共犯者だからと言う意味でだ。ドラクルに真実を教えて国を滅ぼす要因になってしまった彼女がドラクルを咎められるはずはないと。
 部屋の中には予想通り、腹心の一人アウグストがいた。ドラクルにとっては珍しいことに閨の相手をさせることのない正規の部下として扱われているアウグストは、手に何かの報告書を持っている。
「……ルース殿下。遅かったですね。これからあなたの裏切りについて、ドラクル様に報告書を提出するところだったのですが」
 彼の仕事を邪魔し、ロゼウスの手を取って消えたルースをアウグストは恨んでいるようだ。嫉妬と憎悪、嫌悪がむき出しの顔で彼女をねめつける。
 アウグストはロゼウスが嫌いなのだそうだ。理由は彼が人形のように美しく感情を滅多に面に出さないから。
 否、ちがう。ロゼウスは「感情」は外に出している。笑うべき場面で笑い、沈むべき場面で綺麗な泣き顔を作りと状況によって使い分ける。ドラクルの指示で長く売春まがいのことをさせられていた彼は、男を銜え込んで喘ぐのも得意だ。ただ、「自分の」感情を面に出さないだけ。
 そしてアウグストはそのロゼウスにそっくりな姉であるルースのことも嫌いなようだ。
「裏切りだなんて。よく言うではないの、敵をだますにはまず味方から、と」
 あくまでもロゼウスを惑わすための行動だったとルースはいい、しかしアウグストはそれを信用しない。
「どうでしょう。あなたにとって、味方とは誰のことですか? 敵とは?」
 なかなかいい質問だ。答えずにルースは胸の内で暗く笑う。
 私の味方は誰もいない。そして敵はこの世界の全てだ。
 そうとは言わずに彼女はまた仮面で笑い、アウグストをさらりとかわす。
「私が、ドラクル以外の王に仕えると思う?」
「……」
 その問にはアウグストも黙らざるを得ない。不思議な話だが彼もルースが裏切っているとは疑えても、彼がドラクル以外を愛するとは思えないようだ。
「それでは、何をしに行っていた? ルース。私がアウグストに与えた命の遂行を妨害した理由を述べてみろ」
 ドラクルが手を差し伸べる。優雅にドレスの裾をさばいたルースがその手を取り口づけ、足下に跪く。
「あなたの最愛の弟を揺さぶりに」
「ほう」
 ルースの言葉に、思ったとおりドラクルは表情を変えた。
「虚言と真実とで彼らを惑わしに行きました。今頃は私の言葉を見極めかね、地団駄を踏みながら考えこんでいる頃でしょう」
「地団駄?」
「ええ。ロゼウスにこれをぶつけてきました。しばらくは動けないはずです」
 ルースは胸元に手を差し入れ、銀廃粉の紙包みを取り出した。超高濃度のそれはもともと、彼女がドラクルの協力を得て調合したものだ。
 《死人返り》の一族と呼ばれるノスフェル家の人間は他の吸血鬼のもつ弱点に耐性がある。陽光や銀、聖水などにどれだけのダメージを受けるかは個人差があるが、ノスフェル家の人間にはほとんど効かないことは実証されている。
 ドラクルはクローディアの息子ではなかったが、ルースは彼女の子だ。そしてロゼウスはノスフェル家のクローディア妃とブラムス王の間に生まれた正当な王子。その身体能力はロザリーとは違った意味で他の追随を許さない。
 しかし、それも人よりは、というだけの話。
 同じ王族、同じノスフェル家の母を持つルースは兄妹の中で最もロゼウスと体質が近い。その彼女が自ら作り上げた銀廃粉の粉は、ロゼウスにも十分に負荷を与えられるものとなっている。
「お前のその反則的な代物か。効果の程は」
「撤退時の煙幕代わりに利用したので結果までは目にしていませんが、至近距離でこれを吸い込んではまず無事ではないでしょう」
「そうか。ではどうする?」
 勝手な行動をした妹姫を特に咎めるでもなく、ドラクルは先を促す。
「アウグストの行動を邪魔したからには、代替案があるのだろう、ルース。そうでなければ、私の命だと知っていてそれに背くはずがない」
 椅子に座ったドラクルが長い指を伸ばし、ルースの顎を掬い取る。
「他に何をしてきた?」
「メアリーを持ち出しました」
「あの子を?」
「ええ。ドラクルはあの子をこちらの陣営に引き込みたいのでしょうけれど、それは無駄でしょう。メアリーは争いごとには向かない性格です。ブラムス王を殺して玉座に着いたあなたには、決して従わない」
「……」
 これまで時間のある限り説得し続けた幼い妹姫への態度に対しあっさりとそう言われて、さすがにドラクルも顔を歪めざるを得ない。
「それで、ロゼウスのもとへ置いてきたと?」
「ええ。こちらで持て余し我等の知らぬ間に手引きされるぐらいなら、向こうで足手まといになってもらう方が策としては上々」
「……そうか」
「アンリとロザリーのことも、このまま見捨てるのでしょう?」
 すぐ下の弟と、自分には懐かない妹の名にこれもドラクルは顔をしかめる。しかし次には、不思議そうに尋ねた。
「ルース、ジャスパーはどうした? あの子もロゼウスと共にあちらへといるはずだろう?」
「ええ。そうでした。ジャスパーもですね」
 ルースの中では選定者であるジャスパーが薔薇皇帝ロゼウスを裏切ることなどありえないのだが、ドラクルはそれを知らない。失態に気づき、ぼろを出すまいと努める彼女の不自然さは追及せずに、ドラクルは言葉を紡ぐ。
「そうだな。ミカエラもウィルも、ミザリーも死んだ。エリサは行方不明か。今更何を言っても仕方があるまい」
 アンリとロザリーは彼らの性格上、ロゼウスを見捨ててドラクル寝返ることはないだろう。僅かに胸に走る痛みを握りつぶしてルースに皿に問いかける。
「それで、お前はこれからどうする? 何をしたい?」
「それは、ドラクルが何をしたいかによりますわ」
 魔女のように薄く怪しく微笑んでルースは言う。
「まだあなたの政権が安定しきらない以上、兵を動かすのは最小に抑えた方が良いでしょう。アンリもロザリーもロゼウスも兵には顔を知られた王族。王家の争いを民に見せるのは得策ではありません」
「我がカルデール領の兵ならば心配はありません」
 アウグストが口を挟んだ。だがドラクルは彼を制し、妹の言葉に耳を傾ける。
「それで?」
「こちらで動けるのも少人数。向こうもたいした集団ではないとすれば、やりようはいくらでもあるでしょう。ドラクル、あなたが用があるのはどちらですか?」
 愛しくて憎い、それ故に手の内に納めねば気の済まない弟王子か。
 こちらの思惑通りに動かなかったばかりか予想外の事態を持ち込んでくれた憎き隣国の元国王か。
 ふっ、とドラクルが口元を綻ばせる。
「そういうことか」
「ええ。今ならば攫えます。あなたの同盟者の力をお貸しください。彼女と手を組んで、迎えに行ってまいります」
 ルースは戦術的なものを考える頭もあれば、予言で未来を知ることもできる。彼らの行動などお見通しだ。
ロゼウスにぶつけた銀廃粉の威力も強絶大だ。しばらくあの場所から動けないとなればやりようはいくらでもある。
「――行け、ルース」
「はい」
 敵か味方か、裏切りか忠誠か、ルースの上に今度は正式な命令が下される。


230

 ドラクルの私室を出たルースを迎えたのは、黒髪の少女だった。その身に宿す魔力によって、どうせ盗み聞きをしていたのだろう。
「プロセルピナ姫」
 先の皇帝であった少女に対し、ルースは気安く呼びかける。皇帝であった時には人目を気にしなければならなかったが、今ではそういった柵もない。もっとも、周囲の思惑がどうであろうがデメテル自身はもとからそういったものを気にするような性格ではなかったが。
「次の動きが決まったわ。私と一緒に国境の森へと向かってほしいの」
 ルースが仕掛けた罠、銀廃粉の威力によってロゼウスはしばらくあの屋敷を動けないだろう。そこを強襲するのには、ルース一人ではなくこの万能の力を持つ元皇帝の魔術師が共にいた方が都合がいい。
 にこやかに話しかけたルースに対し、プロセルピナは現われた時と変わらない表情で不思議そうに尋ねる。
「何を考えているの? あなた」
 瞳と同じ漆黒の柳眉がゆっくりと潜められていく。
「彼らを裏切ったり助けたり、協力をしたり罠にかけたり」
 さすがのプロセルピナにもルースの心情は見えにくいのか、その顔には矜持の高い知識人が自らに知らない事柄があるのが許せないと言ったような感情が書いてある。
「あら、ですけれどあなたも似たようなものではなくて?」
 ルースはルースで、己の本来の身体を捨ててまで未来を変えようとする彼女にそう問いかける。
「私は確かにドラクルの側にいながら、ドラクルを裏切るようなことをするわ。でもそれは、あなただってそうでしょう? プロセルピナ姫。いいえ、デメテル陛下。あなただって初めはロゼウスたちに力を貸しておきながら、今はそうして裏切っている」
「私にとっては、それが必要なことだからよ。薔薇皇帝に借りを作っておくのが。それが、あの未来の歯止めになる……」
 プロセルピナはルースに答えながらも何事か自分の中で考えているようで、その語尾は尻すぼみに消えていく。やがて顔を上げた彼女は、先程と同じような表情で佇むルースに再び声をかけた。
「あなたはどうなの? ふらふらと自らの立場を定めない。カルデール公爵が言っていたのももっともだわ。あなたにとって、誰が敵で誰が味方なの?」
「そんなことを聞かなくとも、あなた様なら、私の答がわかっているのではないの? 予言の力を持つ皇帝よ」
 プロセルピナの問にルースは答えず、質問に質問で返す。答を返したくない相手が使う常套手段であり、それがわかっているプロセルピナは眉を潜める。
 そしてもっと眉を潜めざるを得ないことには、確かにプロセルピナはルースの真の望みを知っている。
 だが、だからこそ、今のようにはぐらかされても誤魔化されても諦めきれず、その答を聞きたいと思ってしまうのだ。
廊下の壁に腕を組んでもたれかかりながらプロセルピナは問う。彼女の身体のすぐ脇に、ドラクルの私室に繋がる扉がある。
 ヴァンピルの聴覚は人間とは異なって鋭い。それを知っている二人はほとんど囁くような声で言葉をかわす。
 この場所を移動すればいいようなものだが、多分この機会を逃せば同じようなやりとりを行う機会が二度とないだろうとわかっていた。
 ルースの行動は引き金となり、舞台を最終幕へと導くだろう。その主役の一方はロゼウスでありもう一方は彼女たちの王であるドラクルだが、ルースは舞台を整える係りだ。
 この戦いが始まれば、もう引き返すことはできない。逆に言えば今ならドラクルを止めることもできる。彼を説得して良き王となるべく導けばローゼンティアは平和を得ることをできるだろう。
 ロゼウスたちにとってもここは最後の契機だが、それはドラクルたちにとっても同じだった。今からならやり直せる。それぞれが欲しいものを一つずつ諦めれば国は治まり、安息を得る事ができるだろう。
 だがルースは諦めない。この道は破滅に繋がるとわかっていて、なおその背を押す。 
 欲しいものを得る事が破滅にしか繋がらないと言うのであれば、彼女はそれでもそれが欲しい。破滅こそ彼女の望むもの。
「……どうしてそんなにドラクル王を殺したいの? あなたは彼を愛しているのに」
 ドラクルはけしてルースを振り返らない。彼はルースが裏切らないことを彼女自身の弱さだと捕らえているが、本当は違う。彼女は己の罪に怯えるためにドラクルを裏切らないのではなく、彼女の確たる目的があって彼に与しているのだ。
 いっそ彼の考えている通り、ルースが自己の責任の重さに向き合う事ができないほど弱く、自分のことだけを愛していれば幸せだったろう。
 己のことだけが好きで、大事で。だから己の心を守るために何人をも殺せる。そのぐらい愚かであればもっと早くに自滅していた。その方が世のためにも彼女自身のためにも平和だったろう。
 しかし世界はそう上手くはいかないものだ。歯車はずれ、狂っていく。
 ドラクルはルースを愛していない。そして妹の自分に対する愛情にも気づいていない。
 それは当然だった。何故ならルースは、彼女の気持ちを彼に伝えてはいない。
 ロゼウスがドラクルに虐待されながら、それでも俺は兄様が好きだよ、と呟いた。その程度ですらルースは伝えてはいない。だからドラクルが気づかなくてもそれは仕方がない。
 プロセルピナが理解できないのはそこだ。何故ルースは自分の気持ちを兄に伝えることをしないのだろうか。
「……あなたにはきっとわからないわ」
 真っ直ぐに見つめてくるプロセルピナを見返し、ルースはこれまでとは違う種類の笑みを浮かべた。作り笑顔が癖のようになってしまっている彼女の、しかしそれは滅多に見せない表情だ。
 今にも泣き出しそうな、行き場を失くした迷子の表情。
「あなたはもう一線を越えてしまった。私が躊躇い、踏み出せないその道をすでに踏み、通り過ぎてしまった。だからわからないのよ」
「ルース姫?」
 そう言われても、プロセルピナにはすぐに思い当たるような心当たりはない。簡単に考えれば肉体関係のことを指しているようにも聞こえるが、血族と肉体関係があるのはルースも同じだ。プロセルピナがハデスと肌を合わせるように、ルースもドラクルと寝ていたはずだ。
 今更何を言うのだろう。
「線なんて、あってないようなものでしょう。この世に罪なんてありふれていて、改まって気にするようなことなどないわ」
 プロセルピナは願う。愛する者の未来を。自分は弟であるハデスに嫌われてもいい。それでも彼の生を願う。どんなことをしてでも、どんな形でもいいから生きていて欲しいと願ってしまう。
 ルースは望む。愛する者の破滅を。兄であるドラクルの気持ちなど関係ない。ひたすらに彼の死を望む。彼に与える未来などこの世界に用意しない。どんなことをしてでも必ず殺す。死んでもらう。
 同じように血縁を愛し、近親愛の醜さに溺れて道を間違えながら二人の女は全く正反対の望みを抱く。どんなことをしてでもハデスを生かそうとするプロセルピナ、どんなことをしてでもドラクルを殺そうとするルース。
「私はハデスには生きていて欲しいわ」
 ポツリと呟いたプロセルピナの言葉は、真摯な祈りに満ちていた。それは彼女の本心からの願いだ。ルースは首を横に振る。
「私はそうは思わない」
 プロセルピナとルースにある決定的な違い。ルースはそれに気づいている。プロセルピナは気づいていない。
「……とにかく、力を貸してはくれるわね」
 この話は切り上げようと、最後はうやむやになったやりとりを強引に切ってルースは確認の言葉をかけた。
「ええ。それがあなたの、そしてドラクル王の望みなら。私もできれば、ロゼウス王子には死んでもらいたいからね」
「あの子の生きる未来を知りながら、それでもそう言うの?」
「人はそう簡単に諦められない生き物なのよ」
「……そうね」
 その通りだわ、と。プロセルピナの言葉に何を重ねたのか、ルースは小さく頷いた。
「協力してね。プロセルピナ姫。あの人の望む未来のために。そしてあの人の破滅のために」

 ◆◆◆◆◆

 この場所を動くに動けなくなった。
「ロゼが目を覚ますまで、とにかくみんなで気を張っているしかないわね」
「そうだな。人数は結構いるし」
 ルースの襲撃はいったん引いた。しかし、彼女に銀廃粉の攻撃を受けたロゼウスは毒に当てられてそのまま昏倒してしまった。同じ部屋にいたロザリーの方はシェリダンが身を盾にして庇ったが、ロゼウスは正面から吸血鬼にとっての毒である銀廃粉を受けたのだ。意識を失い、運び込んだ寝台で昏々と眠り続けている。
 ルースに首を絞められたシェリダンの傷の方は駆けつけたハデスが魔術で癒したが、ロゼウスの銀廃粉の方はどうともしようがないという。できたとしてもロゼウス相手では治療を申し出るなどしないだろうハデスだが、この件に関してはシェリダンの求めに応じて詳細な説明をくれた。いわく、人間とヴァンピルでは身体のつくりが違うために、時々こうして人間には無害だがヴァンピルには効果覿面の毒のようなものがあるのだと。人間の魔術師にそれを治す事は不可能なのだと。
 そもそも毒、毒と繰り返すが銀廃粉という物質自体は別に毒でも何でもない。ただの銀と数種の植物を混ぜた粉だ。
しかし人間にとっては全く無害なその粉が、ヴァンピルにとっては毒になるのだ。
 ロゼウスはノスフェル家という特殊な血統の生まれであるため通常のヴァンピルよりはどんな薬物にも耐性があるのだが、それでも今回喰らった量は相当なものであるらしい。
 アンリたち同じ吸血鬼にもどうにもならない問題だと聞いて、シェリダンは唇を噛む。救いは、毒のようで毒ではないこの物質は後遺症なども残さず、一定期間経てば身体の中で分解され自然に元に戻るということだった。しかしそれまでは長い休息を必要としなければならない。
 ロゼウスは目前で銀廃粉の包みをぶちまけられたために多量の粉を吸い込み、それを体内で分解するために今眠り続けているらしい。
 事態の責任は自分にある。寝台の上のロゼウスの白い寝顔を見つめながらシェリダンは瞼を伏せる。
 あとの者たちは自分たちの見張りの時間になるまで各々身体を休めるために出て行った。シェリダンは一番にロゼウスの枕元での看病を買って出た。
 とは言っても銀廃粉の中毒に関する治療法はないのだから看病もするほどのことはない。熱が出るわけでもなければ、食事や細かいことの補佐が必要になるわけでもない。
 ただ眠り続けているロゼウスの、その顔を眺める。その肌の白さは元からだというのに、こんなときだから一層病弱に見えて不安な気持ちになる。実際にはロゼウスは、シェリダンなど比較にもならないぐらい頑丈なのであるが。
 普段、こんな風に寝台に一人横たわって眠るロゼウスを見ることがないからだろうか。シェリダンはふと思い返す。
 今は野宿で雑魚寝が基本だが、エヴェルシード王城でまだシェリダンが王として暮らしていた頃は、一つの寝台に二人で寝ていた。目を覚ますと相手の健やかな寝顔があって、あるいは彼の方が先に起きていて、そんな風に隣にあることが当然として過ごしていたからか、こんな風に一人眠るロゼウスを眺めることなどほとんどない。
 今と同じように、死んだように眠り続けるロゼウスを見つめていたのはたった一度だけだ。
 死んだロゼウスを見つめ続けて目覚めを待った、あの時だけだ。
 シェリダンは思い返す。ロゼウスと出会った頃を。あの頃はこんな関係に、こんな運命に巻き込まれることなど思ってもいなかった。
では様々な難題や柵に巻き込まれた今は不幸で昔は幸せだったのかと問えば、そんなことはないとシェリダンは言い返す。ロゼウスがどう思うかはまた別だが。
 初めて出会ったとき、シェリダンの眼を惹き付けたのはロゼウスの瞳だった。紅い紅い極上の柘榴石のような瞳。その中には虚ろな祈りが虚しく詰まっている。
 祖国を守るために懸命に戦いながらも、どこか彼は冷めていた。確かに命の危機に瀕してもヴァンピルの本性はそう簡単に現われるものではないというが、それにしてもロゼウスは冷めていた。そのことに気づいたのは、もっと後。
 まず造作の美しさに惹きつけられ、そして深紅の魂に見せられた。ものは試しとシェリダンがローゼンティアの民の命と引き換えにその身を差し出せと要求したところ、いともあっさりとロゼウスはその要求を呑んだ。
 民のために簡単に我が身を犠牲にする精神。それはまさしく王族の鑑。
 だがシェリダンは知っている。ロゼウスという存在がそれほど高潔なわけでもないことを。民のために侵略者の親玉であるシェリダンに身を捧げたのは事実だが、それは彼にとって何にも耐え難い恥辱を伴う、という程のことでもなかったのだ。兄に虐待され続けた身体は男を受け入れるのに慣れていたし、男であるという矜持に凝り固まらない分女装にも順応するのが早かった。
 彼には自分というものがなかった。他人のどんな心でも受け入れる? 当然だ。主張すべき自分がなければ他人を受け入れることなど簡単だ。
 何かを積極的に行うわけではない。ゼロから物事を作り上げるほどの気概はない。例えばローゼンティアの国民を真にエヴェルシードの不当な搾取から救うためにシェリダンを殺してエヴェルシードを滅ぼし返し、祖国を取り戻そうなどとは考えない。
 ロゼウスはその場その場で、自分に無理なくできる範囲のことしかしない。それもやはり命を懸けて貫きたいほどの「己」がないからだろう。持っている能力は優れていても、性格的に王には向かない人物だ。彼がローゼンティアを統治すれば標準以上の王にはなれるだろう。だがしかし、良き王とはならない。そのくらい傍目で見ているシェリダンですらわかっている。
 それでも、だからこそ、そんなロゼウスだからこそシェリダンは惹かれたのだ。彼はシェリダンを拒絶する事はあっても相反しない。
 あまりにも透明だった。それは儚く、危うく、異常なほどに。誰かのためにお前の右腕が必要なのだと言われたら、ロゼウスは躊躇いもなく自分の腕を斬りおとすだろう。そういう人間だ。それは出生の事情から憎しみと孤独と、罪悪感に裏返す自らを正当化したい思いとに苛まれるシェリダンにとっては、何よりも得がたいものに思えた。純粋と言うには浅はかで、優しいというには私欲に走りすぎている、けれどその愚かささえも、貫き通せば一つの真実になるのだ。
 ロゼウスはドラクルに虐待されていた。その事実を認めたくなくて、彼に愛されていると思い込むことで自らの心を守ろうとしていた。愚かとしか言いようのない行為だが、それを選んだところにロゼウスの真実はある。肉親の情に縁のないシェリダンと違って、ロゼウスにはドラクルでなくとも彼を愛してくれる人物は他にいくらでもいたのに、彼はドラクルを選んでいた。
 シェリダンが父王を恨んだように、ドラクルを恨み、憎んでしまえば事は簡単なのだろう。自分は悪くない。悪いのは相手だ。それは確かに真実だが、残酷にもまた、一つの真実を見逃している意見だ。ロゼウスがドラクルを見放せないのは、彼の心の傷に気づいていたからだろう。
 ドラクルは愚かで残酷な簒奪者だ。だが両親たちの手により彼らの都合の良いように踊らされ上辺の権威に翻弄され続けた彼の心にも傷はある。ロゼウスが自らを救うことよりも選んだのは、ドラクルのその傷を包みこむことだった。彼には癒せはしないそれを、自らの身体を盾にすることで雨風から守っていた。
 ロゼウスの選択もまた愚かだ。自らの痛みを他者にぶつけるような人間の浅ましさを指摘せず放置したことが、今回のローゼンティアとエヴェルシード、二国間の争いの火種を生み出したとも言える。
 だが、それでも、弱い人間の弱さを無様だと切り捨てずにいてくれる、ロゼウスのそんなところにシェリダンは惹かれたのだ。
 初めはただ、欲しかった。子どもが玩具を欲しがるように彼を望んだ。
 けれど段々と彼の様々な面を知っていくにしたがって、憧憬や支配欲のようなものは薄れ代わりにどうしようもない愛しさが溢れていった。彼もシェリダンとはまた違った意味で不完全な存在だ。それがどうしようもなく愛おしい。
 真に彼への気持ちをシェリダンが自覚した、ロゼウスが美しいだけの人形ではないのだと思い知ったのは彼に裏切られた時。ローゼンティア王族が蘇ることをシェリダンに告げずに、驚愕するその反応を嘲ってさえ見せた。
 醜い、だからこそ美しい。相反し隣接し内包し混在する二つの感情とその真実。焦がれる気持ちがあったから憎しみは更にかきたてられ、シェリダンはロゼウスを「殺した」。ヴァンピルは一度死んでも蘇る事ができるが、そうでなかったらあの場で全てが終わっていたに違いない。
 そしてロゼウスを一度刺したシェリダン自身は、一つしか命を持たないただの人間であるのだ。
 この関係はシェリダンがロゼウスを殺したことから始まり、ロゼウスがシェリダンを殺すことによって終わる。
 ハデスはそう予言した。どんな形かはわからずとも、近い未来必ず訪れる終焉。
 今はそれが少し怖くて、苦しい。
 ロゼウスに出会った初めの頃だったらきっと、こんな風に思う事はなかっただろう。あの時のシェリダンはとにかく破滅を望んでいた。ロゼウスはその道連れ。破滅を望むシェリダンと、彼は共に逝ってくれると言った。
 けれど今ではお互いに、お互いの生を望んでいる。
 皮肉なことに死にたいと思っていたときにはそれは訪れず、生きたいと願うようになって初めて知った。
本当にお互いのことが好きで仕方がないのならあるいは心中と言うのも一つの手だろう。はじめに望んでいたのはそれだった。共に死んでくれるならそれだけでよかった。 
世界は個人の望むように動かせるものではないし、世の中には変えられないものの方が多い。過去に手を加えることなどできないし、生きているということは喜びにも勝る労苦がある。
 死はいつだって救いだ。もちろん恐ろしさもあるが、それでも死によって救われるという言葉を否定はしない。離れ離れになるのがいやならば一緒に死んでしまえばいいのだ。わかっている。死は救いなのだと。だけれど、だけど、それでも。
 それでも生きていてほしいのだと。
「……早く目覚めろ、ロゼウス」
 大丈夫だとわかっているのに不安になるのは、この状況に慣れていないからだ。
「早く……」
 どうか目を覚まして、いつものようにこの自分の愚かさも孤独も全てを包み込むように微笑んでほしい。


231

 交替の時間がやってきた。リチャードと入れ替わりに、シェリダンはロゼウスの寝ている部屋を出る。
「それではシェリダン様、ゆっくりとお休みくださいませ」
「ああ。リチャード、頼んだぞ」
 後ろ髪を引かれる思いで自室に向かうために廊下を歩き始める。自分のために毒を得たロゼウスのそばにできるならもっといてやりたかったが、シェリダンは普通の人間だ。ただでさえ朝からハデスとの戦闘、崖下への落下、この屋敷までハデスを抱えての移動と疲れきっている。ここで身体を休めねば明日、動けない。そもそもこれは看病と襲撃者を警戒しての見張りなのだから途中で眠りに落ちそうな状態であの部屋に居続けるわけにはいかない。
 廊下を歩くシェリダンを、待ち構えている者がいた。
「シェリダン王」
 彼の部屋の前で待っていたのは、ジャスパーだった。紅い瞳に険を滲ませている。
「お話があります」
「……ああ」
 門の外ではなく、屋敷の吹き抜けの回廊から中庭へと出る。夜の庭は藍色に染まり、月光が雲間から微かに落ちている。
「それで、話とは?」
 先に立って歩いてきたシェリダンは、振り返らぬままにジャスパーに話しかける。その背後に、小さな風が巻き起こった。
「くっ……うわぁ!」
 拳に体重を乗せて殴りかかってきたジャスパーを軽くかわし、シェリダンは逆に伸ばされた少年の腕を捕らえて投げ飛ばす。背中から硬い地面に叩きつけられたジャスパーが小さく呻く。
「うう……」
「いい度胸だな。この私を背後から襲うなど」
 吸血鬼の基本的身体能力は人間より上とはいえ、シェリダンも武の国と呼ばれるエヴェルシードの王の座にあった人物だ。よほどのことがなければ子ども相手に負けはしない。
 ルースには首を絞められたしロザリーには殺されかけたことがある。万全の状態のロゼウスと真剣勝負をしたら負けるかもしれないが、今の頭に血が上っているジャスパーのような相手には楽勝だった。
「それで? 今度は何だ。お前はまた私欲のためにお前の兄をも裏切るのか?」
 冥府の一件をシェリダンは忘れてはいない。ハデスに唆されたジャスパーは一度、その最愛の兄たるロゼウスをも裏切っている。それ以前から他のヴァンピルたちと違って、シェリダンたちとはっきり妥協しあって手を組む様子の見えなかったジャスパーだ。
 そして彼が特に敵視するのは、今この場で相対するシェリダンその人である。
「私を憎むのは構わないが、そのために人の行動を邪魔するのはやめろ。私とロゼウスが完全に敵対していてロゼウスのために敵を排したいというのならわかるが、お前のやっていることはそのロゼウスさえも傷つけることだぞ」
 冥府でのハデスとの攻防の際、閉じられた次元の扉を開く生贄となって彼らの姉であるミザリーは亡くなった。ハデスの目的が自分の殺害であり、そのためにミザリーを攫ったと知っているロゼウスがどれほど傷ついているかは知れない。
 笑顔も作るし泣き顔も見せるが、ロゼウスは自分のありのままの感情を素直に出す事が苦手だ。表情は作れても感情がそれに追いつかない。もしくは荒れ狂う感情があってもそれをはっきりとは表に出せない。誰にも知らせずに自分を責める性質だから誰も気づかないだけであって、人の知らないところで彼は酷く落ち込んでいる。
 そのロゼウスを、またもやジャスパーは裏切るのか?
 しかしシェリダンの言葉に彼が返してきたのは。
「うるさい! 今回のはお前が悪いんじゃないか!」
「……」
 シェリダンは顔を歪める。
「お前がルース姉様に隙を見せたせいで、兄様があんな目に遭ったんだ!」
 それは確かに真実ではある。油断をしていたわけではないが、シェリダンはルースに勝てず、救援を呼ぶことになった。
 だがそれをジャスパーにこうして責められる謂れはない。
「黙れ。そのことで私が文句を言われるとするならばその相手はロゼウスだ。お前ではない」
 シェリダンはジャスパーを相手にしない。ロゼウスの心を手に入れる前であれば彼に好意を抱いているジャスパーの存在は目障り以外の何者でもなかったが、ロゼウスがこの弟に欠片も疚しい思いを抱いていないのを知った今では三歳も年下の子どもに対し真面目に張り合う気はない。
 そしてロゼウスも、ジャスパーを相手にしない。
 ジャスパーにして見ればシェリダンに子ども扱いされることよりもむしろそちらの方が哀しいのだろう。同性であり兄弟であるという事実を越えて家族愛以上の好意をロゼウスに向ける彼は、しかしきっぱりとその想いを拒絶されていた。
「……っ!」
 案の定シェリダンの返しにジャスパーが端正な面差しを歪める。
 シェリダンは彼がどんな理由あって兄であるロゼウスにここまで深い想いを抱いているのか知らない。それを知ったところで、彼にロゼウスを譲り渡す気も毛頭ない。
「……咎めならロゼウス自身から受ける。とにかく、お前はもうおかしな真似をするなよ」
「……・言われなくても、おかしな真似なんてしません」
「どの口でそれを言うのだか」
 心底呆れたという口ぶりのシェリダンに反発心を起こしたのか、ジャスパーは再び声を荒げた。
「僕だって、あなたにだけは言われたくない! もともとあなたこそ、兄様を奴隷のように散々弄んだじゃないか!」
 ジャスパーはシアンスレイト城に囚われた際、シェリダンが無理矢理ロゼウスを犯す姿を見ている。そうでなくとも、この少年王はローゼンティアの民の命と引き換えにロゼウスを攫い、女物の衣装を着せて花嫁などと呼ばせていたのだ。そんな扱いをされてロゼウスが身体的にも精神的にも苦痛を味合わされていないと言える者はいないだろう。
 シェリダンがぴくりと眉をあげる。
「……ああ、そうだな」
ジャスパーに言われるまでもなく、過去のそうした関係と事実はシェリダンの心に残っている。ロゼウスが自分を愛してくれればこれまで彼にしたことが帳消しになるなどと、そんなお気楽な神経をシェリダンはしていない。
 それもわかっている。自分はいずれロゼウス自身に裁かれる、と。
「お前さえ……お前さえいなければ、ロゼウス兄様はずっと、ローゼンティアの王子として僕と一緒にいたのに、それなのに……」
 最後は弱弱しい泣き声となって、ジャスパーの言葉がぽたぽたと乾いた地面に落ちていく。
「だが、お前がそうやってロゼウスが皇帝となる事実を隠そうとしたために、この事態を招いたのも事実だ」
 今度はシェリダンがジャスパーの罪を指摘した。兄を愛するあまりに手放したくなくて、選定紋章印の示す運命を誰にも話さなかったジャスパー。彼がそれをもっと早い段階で口にしていれば、さすがにドラクルもこんな無謀な簒奪は犯さなかっただろうし、そうすればエヴェルシードがローゼンティアに攻め込むこともなかった。
 今という時間は幾つもの人々の運命の歯車が重なった結果だが、その大元にジャスパーがいる。彼だけでなくもちろんシェリダンにも、ドラクルにも、そしてロゼウス自身にも罪はあるのだろうけれど、今更そんな過去を引っかいたところで何の慰めにもならない。
「……いい加減に私を責めたり、ロゼウスに縋ることで誤魔化すのではなく、己自身の心と向きあえ」
 未来の答は予言と言う形ですでに出ている。もちろんそれを無抵抗に受け入れるわけではないが、だからと言って自分自身の選択と行動の結果から逃げていてはそれこそ何も始まらない。
「僕は……」
 俯いたジャスパーは、ぎゅっと拳を握り締めた。

 ◆◆◆◆◆

 もう警戒心も何もないシェリダンがさっさと踵を返して屋敷の中に戻っても、ジャスパーはまだ中庭に残っていた。
 震える拳を身体の横で握り締めている。力を込めすぎて白く筋が浮き上がった。
「……っ!」
 声もなく呻き、ギリ、と唇を噛み締めた際に鉄錆の味が舌の上に広がる。唇を噛み切ってしまったようだ。
 憎い。
 シェリダン王が憎い。
 ジャスパーの心の中を占めるのはただその思いだけだ。シェリダンが憎い。ロゼウスの心を奪った彼が。
 ローゼンティアの王城でまだ何事もなく平和に暮らしていた頃、ロゼウスがドラクルに虐待されながらも彼を愛していると言っていたことは知っている。だがあの頃は、まだ良かった。ロゼウスがドラクルに向ける愛情は本当の愛ではないことが、ジャスパーの眼にもわかっていたから。
 あれならば取り入ることができる。
 薔薇園で表向きは仲睦まじくやりとりする二人を見ながら、ロザリーやミカエラ、ウィルやメアリーやエリサといった兄妹を可愛がるロゼウスを見ながら、ジャスパーは気づいていた。
 ロゼウス兄様は寂しい心の持ち主だ。だから僕が……僕が側に……。
 表面上は優しい微笑を浮かべながら本当は誰も愛していないようなロゼウス。だが、だからこそ想いを向ければ応えてくれるだろうとも思っていた。寂しい人だから、愛に飢えた人だから。
 ジャスパー=ライマ=ローゼンティアは十四歳の第六王子。下から二番目の王子は王位の継承という問題からは程遠く、その気になれば妻を迎えずともいられるだろうどうでもいいような存在。
 長兄のドラクルは優秀で、彼に継ぐ王位継承権を持つアンリも彼ほどではないにせよ優れた能力の持ち主だ。次の王位継承者はロゼウスだが、彼は兄弟間の争いを嫌って第三王子のヘンリーにそれを譲渡している。
 だから、あのまま王国が平和に続けば、ジャスパーはロゼウスとずっと一緒にいられたはずなのだ。
 ロゼウスが皇帝となったら、どうなるかわからない。ただでさえ弟に嫉妬を隠せないドラクルがどう出るのか。それにジャスパーはロゼウスの選定者だが、いざ彼が皇帝となった途端引き離される可能性もある。また例え側にいられたとしても、ローゼンティアの中でこそ王子という立場で好き勝手ができたものを、皇帝と選定者ともなれば周囲の眼を気にして自由に行動する事が……ロゼウスの愛を、得る事ができなくなるかも知れない。
 あと一年だけ待って欲しかった。
 一年経てば、ジャスパーは十五歳、ローゼンティアの成人は十八歳だが、その前に一人前として扱われ兵士になるなど国の仕事に就ける年齢は十五歳だ。
 そうしたら、一人前になったら先のことを考えるから。
 そうして眼前の問題を先送りにした結果がこれだ。ローゼンティアは一度滅び、後にドラクルに簒奪され、ロゼウスはエヴェルシードの王に奪われた。皇帝となるべき運命も明かされて、世界の移ろいは止めようもない。
 少し突けば爆発するような不穏を内に孕みながらも、あの日々は優しかった。花曇の庭で家族兄妹揃って、薔薇の花を眺めていた。
 もう二度と取り戻せはしない。
「兄様、僕は……」
 まだ足は動かないながらも、ジャスパーは視線だけを屋敷へと向ける。ロゼウスがいまだ昏々と眠る一室の方向へと。
 この騒動の大元にジャスパーがいる。それが、ロゼウスをも傷つける。
 シェリダンの言葉は正しい、正しいからこそジャスパーは苛立つ。
 どうしてよりによってあんな男をロゼウスは選んだのだろう。ロゼウスやドラクルのように誰の眼にも遜色のない能力を持っているわけではない。けれど何故か、勝てる気がしない。
 たとえばヴァンピルとして理性を全て取り払い、ジャスパーが本気でかかれば彼を殺すことはできるだろう。しょせんは人と吸血鬼、いざと言うときの実力は比べ物にならない。
 だが、それでも、ジャスパーにはシェリダンを殺しても彼に勝てる気がしない。
 彼はそんな次元とは違う、もっと別のところで何かと戦っているような気がする。それが腹立たしい。
「イラついてるわね、ジャスパー」
 背中から声をかけられて、ハッとジャスパーは振り返った。
 聞き覚えのある女の声。しかしロザリーでもメアリーでもローラのものでもない。
「ルース、姉様……!」
「ええ」
 やはり仕掛けてきた。だが更に目を見張ることには、彼女は一人ではなくその背後にも人がいる。
「デメテル帝」
「プロセルピナよ」
 ルースとプロセルピナ。この世で最も恐ろしい女性二人が、ジャスパーの前に佇んでいた。

 ◆◆◆◆◆

「では私は向こうに」
 ルースが細い首を動かし、視線を屋敷の方へと向ける。はっとしたジャスパーが止める暇もなく、彼女は屋敷へと歩き出していった。悔しいほどにゆっくりとした歩調で。
 ジャスパーは動けなかった。目の前にはプロセルピナがいて、彼の一挙手一動を見張っている。睨みつけるというほどの強さはないが、さすがにその眼差しに彼の無謀な行動を許すほどの甘さもない。
「悪いけれどあなたをここから動かすわけにはいかないの」
 プロセルピナ。黒の末裔の血を引く大地皇帝デメテルが、その宿命を捻じ曲げるために自らの肉体を捨てて不死の肉人形に己の魂を移した存在。
 ハデスとデメテル、それぞれの力を受け継いだ器であるプロセルピナは、能力的にはもしかしたらデメテル以上かもしれない。ジャスパーはローゼンティアの王族としては優秀な方だが、それでも皇帝と渡り合えるほどではない。勝てるはずがない。
 冷静に計算する頭とは裏腹に、彼の手は自らの腰に伸びていた。護身用、それ以上の目的で使う必要はないと言いつけられて与えられた剣を抜く。大人しい外見から誤解されがちだが、ジャスパーは運動や武術が苦手ではない。剣豪としては物足りなくとも、常人以上の剣の腕はある。
 目の前の女性には勝てずとも。
「あら。抵抗するの? 大人しくしていれば、怪我はさせずに済むのに」
 プロセルピナも意外そうに軽く瞬くと、幼子を諫めるようにジャスパーを説得にかかった。
「悪い事は言わないわ。剣を引いて、ね」
見た目には彼と変わらぬ年頃、しかしその中身はすでに百年以上の治世を敷いた皇帝である女性が言う。
「もともとあなたは何度もハデスの言葉に従い、ロゼウス王子たちを裏切ってきた」
「……」
「ドラクルを刺したこともあるのですって?でもあの人は、あなたがここで彼の目的に協力するよう寝返るならそれは問わないと言っていたわよ。ジャスパー王子。あなたもドラクル王のもとは弟だったのでしょう? 彼の下に戻る気はない?」
 ジャスパーは答えない。剣を両手で握り構えたまま、動かない。一歩も引かない。
「……私と戦えば無傷で済むわけはないの、わかっているわよね?」
「……わかっています」
「ドラクル王はあなたたち弟妹に関しては、ロゼウス王子を裏切りドラクル王への忠誠を誓うのであれば許すと言っているわ。でも、逆らうのなら容赦する必要もないと言っている」
「どうせルース姉様の入れ知恵でしょう」
 吐き捨てたジャスパーの言葉に、プロセルピナがぴくりと眉を動かした。どうやら図星のようだ。
「鋭いわね」
「どうせあの人たちの考えることですから」
 あの人たち。ドラクルとルース。
 ジャスパー一人でプロセルピナに勝てるわけはない。せめて何とか、時間を稼ぐだけでもできないかと彼は口を開く。
 プロセルピナは言葉で威嚇するものの、その場から動く様子は今のところ見せていない。
 できるだけ長く、彼女をこの場に縫いとどめておかなければ。できれば屋敷の方にルースが向かったことも誰かに伝えたいが孤軍奮闘のこの状態では無理だ。かといって彼が今ここで救援を呼べば、屋敷の人手が手薄になる。それも困る。ルースもまた、人々の予測を裏切るほどに強い。
 問題はどちらだ。彼女たちのこの場での目的は。
「あなたたちが攫おうとしているのは、ロゼウス兄様ですか?」
 真正面から尋ねたジャスパーにはもちろんプロセルピナは答えない。もっとも、こう考えるのは別に彼でなくとも普通だろう。ロゼウスは今、銀廃粉の影響で動けない。
だが次の言葉には、興味を引くものがあったようだ。
「それとも、シェリダン王の方ですか?」
「あら? どうしてそうだと思うの? ドラクルの目的はロゼウス王子よ」
 プロセルピナの食いつきを確認して、ジャスパーはその話題を続けた。どうせ勝てない相手なら、彼女とこうして無駄な話をしている時間が一分一秒でも長くなるように苦心する。その間に誰かが異変に気づいてくれればそれでいい。
「だからこそです。ドラクル兄上は、ロゼウス兄様に執着している。兄様を自分に屈服させるためなら、兄様の一番大事な相手であるシェリダン王を狙うこともあるでしょう」
「彼の心がよくわかるわね」
 感心したようにプロセルピナはジャスパーを見つめて吐息するが、ジャスパーにとってはこんなもの当たり前だ。
 ドラクルの思考は、ジャスパー自身のそれと近い。どうしても、どうしてもロゼウスが欲しいというその想い。
 そして兄妹の中では謎のひととされるルースのことも、似たような性格のジャスパーにはわかっている。
「駄目です」
「?」
「……渡しません、ロゼウス兄様は」
「堂々巡りね。あなたにとっても悪い話ではないのだと思うけれど。だってドラクル王がロゼウス王子を手に入れれば彼をずっとこの国に引き留めておけるわ。あなた個人の力ではロゼウス王子を捕まえておくことができなくても、ドラクル王と二人ならできるかも。そうすればロゼウス王子は皇帝になれないし、彼の即位をできれば阻止したい私やハデスにとっても幸せ。ほら? 良い事尽くめじゃない?」
 肝心の話題の中心であるロゼウスの幸福は一切無視した形でプロセルピナが持ち出してきた提案に、しかしジャスパーは首を横に振る。
「いやです」
「まぁ。強情ね」
「だってそれでは、ロゼウス兄様はドラクル兄上のものにはなっても、僕のものにはならない」
 僕だけのものには。
 ジャスパーの大胆な言葉にまたしてもプロセルピナは目を丸くし、ついで弾けたように笑い出す。屋敷の方ではまだ異変が起きた様子はなく、ルースがこのまま上手くロゼウスを攫ってしまうのではないかと、ジャスパーの胸には焦りが生まれる。
 こめかみに緊張の汗を浮かべるジャスパーをふっとプロセルピナは力を緩めた微笑で眺めて、思いがけないことを言った。
「あなたは可哀想ね。ジャスパー王子」
「え……」
 聞き捨てならない一言に、剣を構えたジャスパーの注意力がプロセルピナの方へと再び向く。
 しかし別にその隙を彼女は狙うでもなく、先ほどの言葉の続きを口にした。
「どうしてそんなにロゼウス王子が好きなの? 諦めてしまえばいいのに。だってそうでしょう? シェリダン王がハデスからこのままロゼウス王子と共にいれば彼に殺されるとの予言を受けてもロゼウス王子から離れずにいるのは、彼がロゼウス王子からの愛情という見返りを受けているため。けれど、あなたは?」
「僕……」
「あなたはどうなの? ジャスパー王子。ロゼウス王子はあなたに何かしてくれた? 何もしてくれないでしょう」
 ロゼウスは一度はっきりとジャスパーを拒絶した。今も行動こそ共にしているが、様々なことの積み重ねがあってジャスパーには気を許す素振りも見せない。本当にただ側にいるだけだ。
「ねぇ、考えなおさない? このまま彼のもとにいてもあなたはロゼウス王子を手に入れることはできないわ。そのくらいならドラクル王のもとにいけば」
「そのお話は、お断りいたします!」
 強い口調で拒絶したジャスパーの態度に一瞬鼻白み、プロセルピナはこれまでとは違う種類の笑みを浮かべる。
「どうしてもこちらに与する気はないと言うのね?」
「ええ」
「物好きな子。何の見返りも手に入らないのに」
 プロセルピナが長い髪を鬱陶しがるように、首を振って肩を竦めた。処置なしと見たジャスパーの処遇をついに決心したようだ。もともと彼女にとってジャスパーなど何の価値もない。ドラクルへの義理立てがあって説得は試みたものの、それが成功しようと失敗しようとたいした問題ではないのだ。
 それでも彼女の眼から見た彼の生き方に某かの思いはあるようで、憐れむような口調で放たれた言葉に、ジャスパーは強く思いの丈を返していた。
「僕が、僕が好きだから!」
 しん、と静まり返った夜の庭園にその叫びが響く。
 プロセルピナが真剣な表情になる。
「僕が兄様を好きだから! 嫌われても、拒まれても、報われなくても!」
 そんなものは関係ないのだと。
 好きだから。誰が何と言っても、自分が相手を好きだから。
 だから、相手が自分を嫌いだと拒絶しても関係ない。押し付けるように強引で相手の反応を気にしないその思いは時にただの厄介となりうるほどに激しく、強い。
 報われないから、見返りをもらえないから、と捨てられる程度の想いならここまで胸を痛めることなどない。
 今この瞬間とてこんなにも苦しいのは、それが自分ではどうにもできない問題だからだ。
「《ジャスパー》が、《ロゼウス》を好きなんだ。兄様が僕を嫌いでも、いらないと言っても」
 彼が選ぶたった一人の存在が自分ではなくとも。
「それでも僕は、兄様が好きだから」
 ロゼウスに従うのも裏切るのも、するとしたら自分の利害ではなく感情で。ロゼウスを好きだというその気持ちだけでジャスパーは動いている。こっちの方が得だよ、と誰かに手を引かれる問題ではない。
 理屈ではない、もはやただの意地と呼べるかもしれない。
「ドラクル兄様に言えばいい。あなただって知っているはずだ、と」
 この世には、損得勘定で動かせないものがあることを。それがあるからこそドラクルも今こうして足掻いているのだろうから。
 そしてそれは目の前の女性も同じ。
「大地皇帝! あなただって、そうでしょう!」
 デメテルがハデスを愛する事は、利害の上から言えば不利益以外の何者でもない。それでも彼女は愛したのだ。世界中から罵られてでも、弟であるハデスを。
 人とはなんと愚かしいのだろう。だがその愚かしさこそが、自分たちの全てでもある。
「……そうね」
 プロセルピナは静かに頷いた。
「では、あなたを説得することも、やはり叶わないようね」
 先程までとはまた違った意味でプロセルピナはそう実感し、今度こそ邪魔者であるジャスパーを仕留めるべく交戦の姿勢に入る。
「――手加減はしないわよ」
 両者は、同時に夜の庭園の土を蹴った。


232

「ジャスパー王子と何かあったんですか?」
 屋敷の中にシェリダンが戻るなり、そう率直に尋ねて来たのはエチエンヌだ。彼の隣には、双子の姉であるローラもいる。
「……まだ休んでいなかったのか? エチエンヌ、ローラ」
「ちょうど起きたんですよ。そろそろリチャードさんと交替しようと思って」
 エチエンヌはそう言うが、彼の目元には燭台一つを灯しただけの夜の暗がりにもわかるほどはっきりと隈があり、ローラの肌艶も心なしか悪い。
「……ほう、二人でか」
 あえてそのことには触れず、シェリダンはとりあえず見て明らかにおかしいとわかる点を突っ込んでみた。見張りは通常一人でするところを、ローラとエチエンヌは二人一緒にいる。
「ええ。何せ私とエチエンヌは双子人形。一心同体なのですもの」
 ローラはころころと笑って見せるが、それでシェリダンが誤魔化されるはずもない。自分のことが心配で起きていたらしい双子の金色の頭に手を乗せると、二人一緒に柔らかに撫でた。
「私はお前たちには随分心配をかけているな」
「シェリダン様!」
「いえ! そんなこと……」
 俄かに慌て出す双子の言葉をあえて無視して、シェリダンは続ける。
「だが、それでもこれだけは譲れない。ロゼウスのことだけは」
「……」
 二人は押し黙り、廊下に一瞬だけ沈黙が訪れる。シェリダンは二人の背を押して、中庭の景色が見える涼しいそこから、暖かい部屋の中へと戻した。
「お前たちに帰る場所がないのをいいことに、私はお前たちとリチャードには自分の我侭のせいで苦労をかけているな」
「そんなことありません! シェリダン様、あなたが昔僕たちを助けてくれた恩に比べれば」
「そうですよ。このぐらい当然です」
 自らの身勝手さを詫びるシェリダンの言葉をエチエンヌが強く否定する。
「それにロゼウス様のことだって、シェリダン様のことには代えられずとも、私たちだって気にしているんです」
 弟の言葉尻に乗って主君へと口を開いたローラが零したのは、彼だけではなくロゼウスのことも案じる台詞だった。
「ありがとう、ローラ、エチエンヌ」
 二人の言葉を聞きながら、シェリダンは思う。確かにエチエンヌやローラ、それに実家が取り潰しになったリチャードも、シェリダンが死ねば帰る場所がない。けれどこれだけロゼウスと近しい間柄となった彼らのことであれば、ロゼウスもきっと皇帝としての寿命が続く限りは面倒を見てくれるだろう。
 心配すべきことはいくらでもある。だが本当の意味で案じなければいけないことは、ほとんどない。
「……果報者だな、私は」
「え?」
 ささやくようにひとりごちたシェリダンの言葉に、エチエンヌが不思議そうな声を上げ、ローラは小首を傾げた。自分など大した人間ではないと知りながら、それでもついて来てくれる彼らの心が嬉しい。
 わかっている。かつては王の名こそ冠していたものの、本来シェリダンというこの一人の少年にできることなどたかが知れている。
 世界は自分一人死んだところで何も変わらない。自分という一人の人間の存在は所詮そんなものだ。
 心残りはいつだって他者利益より自分の感情の問題で、シェリダンは自分が生きる死ぬに伴って派生する問題よりも何よりも、ロゼウスとまだ一緒にいたいというこの想いをついつい優先する。
 何が正しいか間違っているかよりも、いつも己の一番の気持ちを重視して他のものを切り捨てる。それが更に未来を歪めていくとわかっていても。
 ローラやエチエンヌ、リチャードのこと。
 エヴェルシードに侵略され、玉座をドラクルに簒奪されたローゼンティア。カミラの手に委ねたエヴェルシード。
 魂だけプロセルピナという少女に移して蘇ったデメテル帝と、彼女の弟でありながら彼女を殺したハデス。
 クルスやジュダ、エルジェーベトにバイロン、残してきた様々な知り合いたち。遺していく人たち。
 そして、自分を殺すと予言されているロゼウスのこと。
 これまでの人生で出会い、培い、触れ合ってきた数々の愛しい者たち。心残りはいくらでもあるが、全てを片付ける時間がないのが悔しい。
 失うとわかっていて見るからこそ、世界はあまりにも美しい。いつか自分の手の中から滑り落ちていくと分かっているものに、まだこんなにも心を残している。
 消さなければいけないのに、こんな執着は。
「ローラ、エチエンヌ」
 胸中での短い逡巡の後、これまでとは口調を改めてシェリダンは双子の名前を呼んだ。
表情がわかりやすくきつくなったわけではないが、五年来の付き合いである二人にはシェリダンのどんな些細な変化も見逃せない。彼の様子が常と違い、それが何か良くないことの前触れであるように感じたローラとエチエンヌの方でも気を引き締めて、シェリダンの言葉に耳を傾けようとする。
 しかし彼が口を開く前に、先ほどシェリダンが後にしてきた中庭の方から轟音があがった。
「なっ!」
「襲撃ですか!?」
「……ジャスパー王子ッ!」
 中庭にはジャスパーがまだ残っていたはずだ。彼が屋敷に戻って来た気配もなければ、襲撃者とのこちらの陣営が出会わなければこんな破壊音が生じる理由もない。
「行くぞ!」
 自らの腰に佩いた剣の柄に手をかけ、シェリダンは再び夜の中庭へ向けて駆け出した。

 ◆◆◆◆◆

 轟音の発生源は中庭だ。その破壊音に気づいて、次々と部屋の扉が開き、人影が飛び出してくる。
「ちょっと、何があったのよ!」
「ロザリー! お前じゃないんだな!」
 ローゼンティアの兄妹も、そんな風に声を掛け合いながらやってきた。ヴァンピルである彼らが音を聞いてから駆け出すまでは早く、まるで飛んできたように即座に、初めから庭側の回廊にいたシェリダン、ローラ、エチエンヌと合流した。
 さっと集まってくれたのはいいのだが、途中に大声でなされた会話が気になる。木々を薙ぎ倒したくらいでは発生しない轟音を聞いてアンリが思わずロザリーに尋ねた言葉だ。 ローゼンティア一の怪力王女は普段から一体何をやっていたのだろう……。
 まさかこんな時に確かめる暇もないので、シェリダンたちはそれについては深く考えないことにして中庭へと一直線に駆けた。
 手に手に己の得物を引っさげて彼らが駆けつけた庭園は、先ほどシェリダンがジャスパーと話していた状態とは全く様変わりしてしまっている。
 雷でも落ちたかのような轟音の痕、木々は倒れ、下生えは焼け焦げ、花は灰となっている。
 黒い人影が、破壊の爪跡の中心地にただ一人佇む。
 そしてその灼熱に焼かれた地面に、無造作に一人の少年が投げ出された。
「ジャスパー!」
「ジャスパー王子!」
 少年の華奢な身体が地面を引っかいて立ち上がろうとし、あえなくその場に崩れ落ちる。立ち上がる力も残っていないジャスパーの全身は煤にまみれ、衣服には血が滲んでいる。
「う……」
 呻く彼はまだ灰にはなっていない。息もちゃんとあるようだ。
 だが早急に治療を施さねばまずい状態には変わりない。
「ちぃ!」
 気に食わない相手とはいえジャスパーはロゼウスの弟だ。見捨てておくわけにもいかず、シェリダンは剣をしっかりと握り走り出していた。
 中空から闇色の剣を取り出し、プロセルピナが応戦する。表情一つ変えずにジャスパーをボロ雑巾のようにした彼女は、向かってきたシェリダンに対しても余裕の態度を崩さない。
 けれど、今のシェリダンの役目としてはそれだけで十分だった。続いて走り出したロザリーとエチエンヌが、さっさとジャスパーを回収する。
「ジャスパー! ジャスパー! しっかりして!」
 弟の名を呼びながらロザリーが動くのを見て、シェリダンは攻勢から一転して後ろにさがった。プロセルピナはシェリダンに積極的に仕掛ける様子は見せなかったが、調子に乗って彼女との戦いに深入りすると後が怖い。
 特に相手の思惑がわからないこんな場合には。
「デメテル陛下!」
「プロセルピナよ、シェリダン王。デメテルはもう死んだの。もうどこにもいない。今の皇帝陛下はあなたの大事な大事な、薔薇の王子様だわ」
 ハデスに人形のように連れられてきた当初とは比べ物にならない嫣然とした表情で、プロセルピナは笑う。その顔がデメテルでなくて誰だろうと彼らは思う。
「お前たちの目的は何だ! やはりロゼウスか!?」
 しっかりと剣を構えなおし、シェリダンはプロセルピナにそう問いかけた。ここにいるのは彼女を除けばシェリダン、ローラ、エチエンヌ、ジャスパー、アンリ、ロザリー。ロゼウスの警護にはリチャードが残っているはずだ。メアリーとハデスも、まだ屋敷の中にいるはず。
 プロセルピナがハデスと結託している様子はない。初めはハデスにとって都合のよい生き人形として作られたはずの彼女の肉体はもう、デメテルのものとなってしまっている。二人が結託している様子がないということは、ハデスのことは今は気にしなくていいだろう。リチャードの腕はシェリダンも信用している。
 危ういのはこちらか、とシェリダンはなおも目の前の少女に意識を集中した。
 プロセルピナは余裕のありあまる表情でシェリダンたちを見ている。
「ロゼウス王子が目的? ええ、そうね。そう考えるのが普通よね……」
 どこか面白がるような響で持って、プロセルピナはシェリダンの問いかけに対しそう口を開いた。
「でも気づいてる? シェリダン王。ロゼウス王子はもちろんドラクル王に執着されているけれど、あなたも大概あの人に狙われているのよ」
「何?」
 思いがけない言葉を耳にし、シェリダンの表情に一瞬動揺が生まれる。
 すかさずプロセルピナが魔力の塊を放つが、シェリダンは咄嗟の判断でそれを避けた。もともとプロセルピナが相手だ。こちらの問いかけに対して何を言ってもおかしくないという、妙な気構えがあったのだがこの場合はそれが功を奏したというべきか。
「どういう意味だ?」
「少し考えてみればわかるのではない? あなただってロゼウス王子と出会った最初の頃は、彼の心を占めるドラクル王が憎かったのではない? 今はそれと逆のことが起こっているのよ。完璧にしつけたはずのロゼウス王子から心を奪っていったあなたのことを、ドラクル王は気にしている」
 ちろりと赤い舌で唇を舐めると、プロセルピナは剣を握ったままのシェリダンに宣告した。
「私はドラクル王からあなたを連れて来いと言われているわ」
 シェリダンはこの頃良く、ロゼウスと出会った頃のことを思い返す。出会いは主にロゼウスにとって最悪のものだったはず。自分は彼に人質をとって無理強いした。心も身体も抉るように傷つけ弄んで、そのくせ自分を見ない彼に苛立った。
 どう聞いても洗脳であり虐待としか思えない行為をドラクルに強いられていたロゼウスが、その兄の名を呼ぶたびに目の前が嫉妬で赤く染まった。
 勝手な話だが、ロゼウスがドラクルを憎めない分、自分がドラクルを切り刻みたいと思うほどに。
 だがシェリダンは冷静に返す。
「――嘘だな」
プロセルピナが睫毛をぱちぱちと瞬かせ、今度は少し、本当に驚いたような顔をする。
「……どうしてわかったの?」
「あなたの目的が私なら、ジャスパーがあそこまで身体を張るはずがない。むしろ率先して私を引き渡すだろうな」
にやりと不敵な微笑を口元に刻み、シェリダンは皮肉げに吐き捨てた。
「なるほど」
 納得したようにプロセルピナが頷く。彼女に言い返したその裏で、しかしシェリダンは焦りを感じていた。
 自分で言ったことだが、その論に寄れば彼女たちの目的はロゼウス。つまりここにいるプロセルピナは彼らの目を集めるための陽動であり、別働隊がいるのだろう。アウグストの時の様に人数を集めた軍隊が潜んでいる様子はないので、恐らくルースが。
 今更見破ったところで、まんまと策にはまってしまってからでは遅すぎる。屋敷へと足止めする役割であるはずの彼らが、今はプロセルピナによって足止めされている。
「どちらにしろ、同じ事よ。ロゼウス王子が奪われればあなたたちはどうせ取り返しに来るのでしょう。そしてあなたを捕らえても、ロゼウス王子はあなたを取り戻しに来る。どちらにしろ同じ事」
「――そうはさせるか!」
 人は幾つものことを同時にはできない。とりあえず今は目の前にいるこの少女を倒すことだ。
 シェリダンは剣を振りかぶった。

 ◆◆◆◆◆

 轟音はその部屋にも届いた。
「な、何ですの!?」
「メアリー姫、できればテーブルか何かの下へ」
 ロゼウスの部屋には警護を任されたリチャードの他に、久々に再会したロゼウスの妹姫メアリーもいた。二人して昏々と眠り続けるロゼウスの目覚めを待っていたのだが、突如として屋敷の一角から凄まじい音が聞こえてきたのだ。
「あの方向には」
「確か中庭があったはずですわ」
 咄嗟に剣を抜いてロゼウスの眠る寝台を守る体勢に入るリチャードと、恐る恐る部屋の扉を開き、廊下へと顔を出すリチャード。
 しかし驚異は廊下からではなく、窓からやってきたのだ。――寝台のすぐ側にある窓から。
 ロゼウスの白い寝顔に灰色の影が落ちる。気配に気づいた二人がはっと振り返ったところに、静かにその影は口を開いた。
「迎えに来たわ、ロゼウスを」
「ルース姫……」
「お姉様……」
 リチャードが緊張にこめかみへ汗を浮ばせて剣を構えた。メアリーが胸の前に手を組み、不安そうに窓枠に立つ姉を見上げる。
「悪い事は言わないわ。二人とも、ロゼウスを渡してくださらない?」
「お断りいたします」
 リチャードははっきりと拒絶の意を口にした。
「この方は、私の大切な主が大切にしている方です。お渡しするわけにはいきません」
「私の弟よ?」
「こちらにはロゼウス様の兄君であるアンリ王子も、ロザリー姫もいらっしゃいます。それに何よりロゼウス様御自身が望まないでしょう。シェリダン様のお側を離れることを」
 リチャードの淡々としているが意志の強さを感じられる口調に触発されたか、ルースが二、三度ぱちぱちと瞬く。
「ではロゼウス自身が望んだらどうするの? ドラクルへと渡してくれるの?」
「あなた方が自分たちの行動をどう捉えているかはわかりませんが、一言だけ言っておきましょう。よくもそんな厚顔なことが言えたものだと。ドラクル王子がロゼウス様にしたことを考えれば、この方が彼の下にお戻りになるはずがありません」
 リチャードの言い分に、窓枠から部屋の中へと降り立ちながらルースがおかしそうに笑う。
「そうかしら? ドラクルがしたことも、シェリダン王がこの子にしたことに比べたら大差はないと思うのだけれど。ではドラクルとシェリダン王とは、何が違うのかしら……?」
 おっとりと小首を傾げるルースの表情には人を警戒させるようなものは何らない。しかしリチャードはそれがまやかしであることを知っている。
「さぁ、何故でしょうね」
 ドラクルとシェリダンの違い、それはリチャードも考えていたことだった。ロゼウス相手に酷いことをしたというのであれば、それはシェリダンも同じだ。ドラクルやハデスに唆されてローゼンティアに攻め込んだことも、だからと言って見逃せることではない。
 ではあの二人は、一体どこが違うのだろう。何となくはわかるそれを、リチャードは上手く形にできない。
 戦いの邪魔になるだろう思考を止め、リチャードはこれが最後の無駄口と唇を動かした。
「けれど、どちらであったとしても関係がないのです」
「?」
「ロゼウス様が望もうと望まぬと、私が従うのはただ、シェリダン様のご命令のみ。ですからあなたは、この場から排除させていただきます。ルース姫」
「ええ。そうね。そうこなくては」
ルースが静かに微笑んで、その底知れない眼差しをリチャードに注いだ。彼の背後で、白い人影が動く。
 ――メアリー姫、武術の心得はありますか?
 ――いいえ。けれどわたくしも吸血鬼。その気になれば、人並には戦えるはずです……
 ――では兄君や姉君と戦う御覚悟はありますか? 
 ――そ、それは……
 ――それならばあなたの役目は、敵襲を受けた時にすぐ、他の人の助けを呼ぶことです。
 あらかじめ打ち合わせていた通りに、メアリーが部屋の外へと出て、走り出す。
「無駄よ、そんなことは」
しかし彼女の頼みの綱である他の者たちも今はプロセルピナと交戦中だ。ルースはメアリーの逃走を歯牙にもかけず、リチャードへと向き直る。
「……どうせまともにやりあったのなら、あなたたち人間が私たちヴァンピルに敵うわけなどないのにね」
 彼女はどこか憐れむような光を瞳に湛えた。
 次の瞬間、常に冷静を崩さない二人が表情を変えると同時に剣戟の音が室内にこだましていた。


233

 早く、早く助けを求めないと! あの人がルースお姉様に殺されてしまう前に!
 かねての打ち合わせによりリチャードから指示されていたメアリーは救援を求めるべく屋敷の中を走った。
 皆どこにいるのだろう? 先ほど大きな音がした中庭が怪しいだろうか。
 ルースにしろプロセルピナにしろドラクルにしろその部下であるアウグストにしろ一筋縄ではいかない相手ばかりだ。一人では勝てないことがわかっているため、一人の時に攻め込まれた場合は何よりも真っ先に助けを呼ぶ事が最善だと彼らは打ち合わせていた。
「わたくしに……もっと力があれば……!」
 ロゼウスを助けられない。ミザリーもミカエラもウィルも、最期を看取ることさえできなかった。メアリーは今でも兄妹同士で戦いたくなどない。しかしただ仲良くしましょうといわれて、そう簡単には友好的になれないのが世の常だ。
 それでもあっさりとは引き下がりたくないからこそ、彼女は廊下をひた走る。さすがの身体能力で広い屋敷をすぐに駆け抜けると、中庭に幾つかの人影が見えた。白髪の頭は彼女の兄妹たちがそこにいることも示す。
 けれど。
「みんな……きゃッ!?」
 彼女が声をあげようとしたその時、背後から黒い袖に包まれた手が伸びた――。

 ◆◆◆◆◆

 剣を持つ腕が痺れ、がくりと地面に膝をついた。刃の切っ先が泥に埋まり、それでかろうじて崩れ落ちそうな身体を支える。
「こんなものなの?」
 可憐な声と共に黒い長靴の足がシェリダンの目の前の地面を踏む。 
「シェリダン王、あなたの実力は」 
 プロセルピナ。大地の女神の娘の名を持ち、何よりも彼女自身がかつてはその大地神の名を持つ者であった。しかし己の命をかけて運命を捻じ曲げようとした、女神の名を持つ人間はその名を裏切って大地を破壊する。
 美しい薔薇の庭園は雷光と炎に焼けつくされ緑の跡もない。
 大地皇帝の名を捨てた偽りの女神は世界に牙を向く。
「もう少しできるかと思ったのだけれど……」
「あなたに、勝てるくらいなら、私はとっくに、自分が皇帝になっている!」
 シェリダンは威勢だけは失わずに反論しながらも、その内容はすでにプロセルピナへの負けを認めてしまっている。
 皇帝の座についていた彼女に、ただの人間である自分が勝てるはずはない。それを痛感した。
「そんなことじゃロゼウス王子を助けに行けないわよ?」
「わかっている!」
 剣を横へ薙ぎ払い、目の前にあったプロセルピナの足を斬りおとすことを目論んだ。しかし浅はかな目論見はやはり失敗し、長靴に包まれた足はさっと避けて視界から消えてしまう。
 慌てて顔をあげると、剣の届かない範囲にまで離れたプロセルピナが冷めた顔つきでシェリダンを見下ろしている。
 何か言いたげなその唇が開き、瞳を眇めながら彼女は言った。
「わからないわね。何故あなたたちが彼に拘るか」
「何?」
 今更のようにそう言ったプロセルピナに、シェリダンの方が意表を衝かれた。
「だってそうでしょう? 彼はあなたにとって疫病神だわ」
 プロセルピナの言葉どおり、確かにシェリダンにとってのロゼウスは本来忌まわしい存在なのかもしれない。彼の存在がなければドラクルが道を踏み外し、エヴェルシードを利用してローゼンティアに攻め込ませることはなかったはずだ。
 国を追われたのも、全てを失ったのも、もとはと言えばすべてロゼウスのせいだと言える。極め付けはシェリダンを殺すのがロゼウスであるという予言だ。
「関わらなければ、近づかなければこの世の人間が持てる全てを手に入れられるほどの才覚があるというのに、何故あなたはそれを手放すの?」
 たぶんおそらくシェリダンは、ロゼウスがいなければエヴェルシードでそれなり以上の生活ができたはずだった。王としてそれなりに文武に優れ、庶出の母を持ちながらも兵士たちの信頼を勝ち取り、異母妹をも改心させた。
 それはシェリダンが元から持っている力だ。ロゼウスは関係ない。むしろロゼウスと出会ってからは、シェリダンは以前にも増して災難続きだ。
 それをプロセルピナは指摘する。
「彼が有能であることと、あなたに利益をもたらすことは決して等しくはないはずでしょ?」
 ロゼウスは皇帝として世界に必要な存在ではあるが、シェリダンが個人的に彼から得たものなど何もない。それどころか、彼の問題に巻き込まれるほどに一つずつ失ってきた。
「あなたは――」
 言いかけた彼女の言葉がそこでふと不自然に途切れた。
「……終わったのね」
「ええ」
 その視線の方向を追い、シェリダンはもう一人の女の姿を見る。白銀の髪をなびかせて夜空を背景に立つのはルース。
 その腕には一人の少年を抱えている。
「ロゼウス!」
 煤を吸い込み、血を吐きそうに痛んだ喉を酷使してシェリダンは叫んだ。
「ロゼ!」
「ルース、お前……!」
 ジャスパーの容態を見ていたアンリと、彼に弟を任せてこちらへ走り寄ろうとしていたロザリーが声をあげた。
 その悲鳴に紛らせるようにして闇の隙間を縫い銀色の光がルース目掛けて飛んだ。その正体にシェリダンが気付いたときにはすでにルースは自らに向かってきたナイフと、ロゼウスを絡めとろうとしたワイヤーを片方の手で叩き落している。
「なっ!」
「さすがは化け物と言うところですね!」
 エチエンヌが仰天している間にも、ナイフだけを投げたローラはワイヤーの追撃を放つ。今度はロゼウス回収目的ではなく純粋にルースを倒すために飛んだそれもまた彼女はあっさりとかわした。
「危ないわ。ロゼウスに当たってもいいの?」
「あなた方に連れて行かれるくらいなら、ロゼウスさまだって多少怪我してもこちらへ残った方がマシなはずです」
 まだ意識を取り戻さないロゼウスの心中を勝手に代弁し、ローラが険のある眼差しでルースを睨む。
「ロゼウス様を返してください」
「……本当にそれでいいの?」
「……何?」
「あなたのそれは本心? ねぇ、本当はこの子が、もうあなたたちのもとに帰らない方がいいのだと望んでいない?」
 胸中を見透かされたローラは、ルースに驚愕と怒気の織り交ざった視線を向ける。その手は眼にも止まらぬ早さで動き、まだ持っていた隠しナイフを複数投げた。
 両手でロゼウスを抱いたルースをプロセルピナが援護し、ナイフを空中で打ち落とす。他人の手を借りておいて、ルースは嫣然と微笑んでいた。その顔はロゼウスとよく似ている。
「ねぇ、ロゼウスが帰らない方がいいんでしょう? シェリダン王の大事な腹心のローラ=スピエルドルフさん?」
「……うるさいわねッ!」
 接近戦では勝てないだろうと己の体力腕力を自覚しているローラはひたすらナイフとワイヤーの遠距離攻撃に集中する。その軌道を読みきれず、残りの者も迂闊に手出しできない。
 正確無比な狙いでもって刃はただルースだけを狙っていた。その腕に抱かれたロゼウスには当てない。当てるつもりはない。
 だが、ルースの言った事は一面ではローラの心を言い当てていた。ロゼウスが戻ってこないことを願った? そうだ。当たり前ではないか。彼と一緒にいたらシェリダンが死んでしまう。だけれど。
「だけど! それでも! 私はその方を渡すわけにはいかないのよ!」
 シェリダンの中で、自分がロゼウスに勝てないことなどローラはとうに知っている。
 けれどそれでも、彼女の望みはシェリダンの望みを叶えることだ。
だから。
「要するにあなたたちが全員死んで、これ以上シェリダンさまたちの邪魔をしなければそんなことはどうでもいいのよ!」
 敵が襲ってくるから何かを切り捨てなければいけないのだと恐れることになるのだ。だがロゼウスを奪おうとするルースたちがいなくなれば、これまでと同じ日々に戻るだけだ。
「そう。同じように敗者の王を望む身でもあなたはその道を選ぶのね」
 ルースが何故か哀しそうな、残念そうな口調になる。しかしロゼウスをしっかりと抱いたその腕は彼を離す気はなさそうだ。
「ロゼウス!」
 ローラの攻撃によりできた隙を狙って、シェリダンは駆け出そうとした。プロセルピナの方にもこれまで様子見をしていたエチエンヌのワイヤーが伸び、彼女の腕を絡め取って一瞬だけ行動を妨げる。
 今この一瞬を逃せば、もう彼女たちをここで止められる術はない。
 だけれど、走り出したはずの足がガクンと止まる。腰に抱きついた重さに動きを封じられた。
「駄目だ……ッ!」
「ハデス―――?」
 いつの間に屋敷から中庭に出て来ていたのか、背後からシェリダンの腰にしがみつく形でハデスが彼の行動を邪魔した。
 駆け出す勢いを封じられたシェリダンはハデスと二人してその場の地面に倒れこむ。そう体格の変わらない少年が全力でしがみついているのを、いくらシェリダンでも簡単に振りほどくことはできない。
「ハデス! 離せ! ロゼウスが!」
「……いやだ!」
 ハデスはハデスで、全力でシェリダンの足止めをしていた。
「……絶対に離さない……!」
 その瞳に薄っすらと涙が浮んでいる。
「離さない。ここで離したらシェリダンはロゼウスのもとへと行くんだろう。あいつに関わると、死ぬのに」
「え?」
 近くにいたエチエンヌが怪訝そうに声をあげた。後方では新たな悲鳴があがっている。
「メアリー!」
 異常に気づいたローラは必死で元皇帝とヴァンピルの王女を足止めしようとするが、ただでさえ厄介な二人相手にそう長くはもたない。反撃を食らって、逆に華奢なその身体が庭園を転がる。
「ローラ!」
 エチエンヌの悲鳴。
 腰にしがみついたままのハデス。
 アンリやロザリーが慌てているのは、ハデスに引きずられてきたメアリーが重傷だからか。
 ルースの腕に抱かれたロゼウスはまだ目覚めない。
 彼の警護をしていたリチャードは、どうなった……?
 様々な考えが一度に頭を過ぎるが、そのどれもを確かめる術がシェリダンにはない。ハデスに動きを封じられたままの彼に、目的を果たして撤退の姿勢に入ったプロセルピナが問いかける。
「あなたの人生を擲つほどの価値が、本当に彼にあるのかしら?」
「ある!」
 プロセルピナの問いかけに、ハデスに羽交い絞めにされたままのシェリダンは即答した。
「あなたにわからなくても、私にはそれがある。だから――」
 プロセルピナより一足先に駆け出していったルースの姿はもう見えない。ロゼウスは彼女に連れて行かれてしまった。
 シェリダンを足止めするハデスを見下ろしながら、プロセルピナが何とも言えない表情で再び口を開く。
「では――追ってきなさい。あなたの全てをかけて。私たちのように、ロゼウス王子自体には何の執着もない人間といくら話したって無駄なのよ。ドラクル王との決着は、あなたたち自身がつけなければ――」
 発された言葉はシェリダンへ。それだけを告げるとプロセルピナも彼らに背を向ける。彼女の足下に一瞬で移動用の魔法陣が敷かれた。
「追ってきなさい、シェリダン王」
 彼を、ロゼウスを。
 失いたくないのであれば。
「くっ……!」
 プロセルピナの姿が魔法陣から発された光の中に消える。
 後にはただ、荒れた庭園と歯噛みする人々だけが残された。


 《続く》