224

 深い樹海に抱かれた魔族の国、ローゼンティア。
 街の景色は、華やかとは言えないがとにかく派手だ。街の家々は赤煉瓦を積み上げているために、どこもかしこも赤い。だいたいどこの家でも薔薇を育てている。
 その紅い街並みにあって一際人目を引くものは、これもまた目に鮮やか過ぎるほどに鮮やかな漆黒の王城だった。
 ローゼンティア城。国王の絶対王政による伝統的な支配体制が確立しているローゼンティアでは、貴族は城を持つ事は許されない。ローゼンティア国内に存在する城は王城ただ一つである。
 王城には王が住んでいる。
 ローゼンティア国王。建国者ロザリア=ローゼンティアの血を重んじて代々正統なる血を引く王子王女しか王位を継がなかったその歴史と伝統。
 しかし今、その伝統は破られようとしている。
 ローゼンティア五代目国王、ドラクル=ヴラディスラフによって。
 薔薇の国は簒奪者の手に落ちた。争いの中で埋もれていく真実も。
 果たしてこの国のいかほどの人が、自らの王国の真実を知るのであろうか……。

 ◆◆◆◆◆

「連絡はちゃんと行ったようね。ドラクル王」
 アウグストが兵士を引き連れてやってきたときからそれはわかっていたのだが、プロセルピナ――デメテルはあえて国王の前でそう言った。
「ああ。そうだ。使い魔をお返ししよう。デメテル陛下」
「今はプロセルピナと呼んでちょうだい」
「これは失礼した」
 ハデスによって作られた偽りにして仮初めにしてこの後彼女が死するその時までの器となる宿体の胸に手をあて、プロセルピナはそう言った。
 今の彼女はあくまでもプロセルピナであってデメテルではない。普通の人間はそう容易く自らの存在を示す「名前」を変える事は好まないが、デメテルは違った。
 大地皇帝として、そして嫌いだったとはいえ彼女の両親の娘として、ハデスの姉として生きてきた人生の全てを捨てる。その覚悟でもって彼女はあえてデメテルではなく、プロセルピナと名乗る。
 自らの身勝手で本来であれば崩御のその時まで捨てること叶わない「皇帝デメテル」の存在を捨てたのだ。民衆から為政者を奪っておいて、自分の人生は自分のものだなどと叫ぶつもりはない。
 デメテルは歴代の皇帝の中では間違いなく優秀な部類に入る。その彼女が崩御した意味は大きい。
 殺害の実行犯はハデスとはいえ思惑から言って自ら皇帝の座を捨てたデメテルは本来廃帝と呼ばれるはずだが、そのような話はまだ帝国には流布していない。
「我が望みに協力していただけるのはありがたいが、そちらはよろしいのですか? 皇帝陛下。次の皇帝が決まらねば、世界は混乱に陥る」
 今現在ロゼウスを巡る問題に関わる者たちの中で、他の者が知っていてドラクルの一派が知らない事実が一つだけある。
「ええ。大丈夫よ。それに関しては問題ないわ」
 それは彼が望む弟ロゼウスが、次代皇帝であること。
 真実をいまだ知らぬままに、ドラクルはあらゆる手を使い、計画を進める。ロゼウスを手に入れるために。
「ドラクル王? 王の座に着いたとはいえ、あなたにはあなたの望みがあるでしょう。そしてそれはまだ叶っていない。そして私にも私の望みがあるわ。それを叶えるために、私はあなたを利用するわ。だから、あなたもあなたのできる範囲で私を利用しなさい。ローゼンティア王」
「協力してくださるのではないのですか? 私のささやかながらの助力も必要ないと?」
「人が本当に自分ひとりで成せることなどたかが知れているわ。だからと言って、疑うことを知らずにただ人の言う事を鵜呑みにして生きるのもまた愚か。私は私自身が愚かにならないためにこの世界の全てのものを疑って生きるし、自分以外誰も信用しない。ましてや私の家族でも友人でもなくただ目的のために手を組んだ共犯者でしかない貴方相手なら尚更のことよ、ドラクル王」
「それはごもっとも」
 プロセルピナの言葉に、ドラクルは肩を竦める。やりづらい相手だ、と彼は思った。
 帝国宰相ハデスやセルヴォルファス王ヴィルヘルム、エヴェルシード王妹カミラやイスカリット伯爵ジュダなどと違って、彼はプロセルピナとなる前のデメテルとはほとんど顔を合わせたことはなかった。常に書簡のやりとりに任せ、どうしてもの時だけ顔を合わせて連絡をとる。そのためドラクルも、彼女については深いことを知らない。
 いけない遊びに耽る悪い仲間の一人であったハデス、弱味につけこんで甘い顔を見せれば扱いやすかったカミラやヴィルヘルムと違い、プロセルピナは一見穏やかなようでいて隙がない。イスカリオット伯爵ジュダも飄々とした雰囲気の人物だったが、彼は根が真面目で元は誠実な人間だったために挫折も早かった。その根底はドラクルに通じるところもあったので、彼の歪みはドラクルとしては理解しやすかったのだが。
 目の前の女――否、今は少女としか呼べないような姿になった元皇帝はとてもわかりにくい。
「何はともあれ、これで私も自由にこちらで動けるようになったわけだし、そろそろ本格的に動き出しましょうか」
「動くも何も、イスカリット伯が抜け、ヴィルが死に、カミラ女王が即位し、計画としては大詰めなわけですがね」
 デメテルは当初、皇位簒奪を狙うハデスの姉として問題の渦中にいながらその姿をはっきりとは見せない影の人物であった。彼女がその存在を主張し始めたのはエヴェルシードを訪れてからであり、初めは彼女が何を考えているのか、誰も掴むことができなかった。つまり、帝国最強の力を有するはずの皇帝はどの陣営につくのかが。
 ドラクルたちに対してもロゼウスとシェリダンに対しても敵とも味方ともつかぬ態度を取り続けた皇帝は、しかし事態が進むに連れてようやく自らの姿勢を見せ始めた。それは、ロゼウスの中に眠る始皇帝候補だった男、シェスラートの存在に関わること。
 かといって彼女の目的がそれだけか? と言われればここでまたしても否やを唱えねばならない。現にドラクルは、シェスラートやロゼッテに関わることは知らない。彼がロゼウスの中で蘇りかけたなどと。
 そしてプロセルピナも、今となってはそれを知らせない。「皇帝」にまつわることは確かに世界を治めていた彼女の管轄だが、プロセルピナ自身が今になっても動く理由はそれだけではない。
「そうね。事態は終わりに近づいているわ。皇暦三〇〇三年、この一年は激動の時代よ。それも後の世には、恐らく決して残らないでしょう波乱の裏歴史」
 プロセルピナが歌うように呟く。彼女も弟であるハデスと同じく、多少は予言の力を持っている。
 その能力で見る未来、それは決して幸せなものばかりではない。中途半端に真実を知り、結末を知らずにいる問題もある。
 未来を見る事ができるというのは、幸せなことだろうか。
 ある者は言う。幸せだと未来がわかるからこそ防ぎようがある不幸もあるのだと。だが、それがわかっていても絶対に防ぐことのできない災いがこの世にあったらどうするのだろう。
 未来を見ることによって、人は限界を知ってしまう。知る事が幸福に繋がるとは限らない。知らない方が想像に余地が生まれ、希望に可能性を生む。
 例えばプロセルピナは、目の前の青年王の最期も予言の力によって知っている。
 だが、それを本人であるドラクル自身に言うことはない。知らせてしまえば、それがドラクルの生存可能性と本当に粉微塵に砕くのだ。
 足掻くために生きているのか、生きているから足掻くのか。
「イスカリオット伯はシェリダン王を諦め、ヴィルヘルム王はロゼウス王子を手に入れようとして殺された。カミラ姫は女王となり、そしてハデスは《私》を殺害した」
 ローゼンティアとエヴェルシード、そして皇帝。その問題に関わる彼らは本来自分が手に入れたいものを手に入れるために一時的に手を組んだに過ぎない。笑顔の裏にもあらわなその心の傷口を集いの旗印として。
 だが、その大半はすでに抜けた。望みが叶った者もいれば、叶わなかった者もいる。未来はやはり人の思うようにはいかないものなのだ。
「私はまだ動くわよ。本当に欲しいものはまだ手に入っていないからね。ドラクル王、あなたもそうでしょう」
「ええ。私はロゼウスをこの手に入れない限り復讐が完成されない」
 中でも諦め悪く活動し続ける簒奪の王と元皇帝は視線を交わす。セルヴォルファスの滅亡にエヴェルシードの安定、デメテルの崩御。刻一刻と変わる世界の中で自らの願いに最短の道を模索し続ける。
「ところで――」
 客分であるプロセルピナの手前戻って来た者たちにいの一番に聞く事はできなかったことを、ドラクルはここでようやく口にした。
「ルースはどうした? カルデール公爵」
「それが……」
 部屋の隅に控えていたアウグストが語り始めた。


225

「あっちよ」
 分かれ道に来るたびにそう告げられる声に従い、国境の森を走り続けた。
 自分の手を引いている白い手をロゼウスは声もなく見つめる。自分とそう身長の変わらない姉は、振り返らずに一行をただ先へ先へと案内した。
 緑が濃すぎて黒に近く見える木々の間を抜け、足下に這うが彼らが通る際には勝手に蠢いて道を開ける荊の森を過ぎる。この荊はローゼンティアのヴァンピルだけを無傷で通すから、一行はルース、ロゼウス、ジャスパー次に他国人であるリチャード、ローラ、エチエンヌ、最後尾にロザリーとアンリの二人という順番で通り抜けた。
 森の中に隠れ家的な小さな屋敷が見えてきた。小さくとも屋敷と言うのだから粗末な小屋ではない。ロゼウスにとっては知らない場所だ。
 だが他の面々にとっては違ったらしい。
「あれは……」
「どうかした?」
「あの屋敷、日和見の屋敷に似ているわ」
 ロザリーが声をあげた。アンリも不思議そうな顔をしている。
その疑問に答えたのは、一行の先頭を走っているルースだ。
「ええ。そうよ。あれは彼の持ち物の一つだから。私も彼とは異母兄弟の一人。生前に貸してもらったのよ」
「生前?」
 ロゼウスは怪訝な声をあげるが、ルースは答えない。
 日和見。そう名乗る愉快だが不審な貴族に、ロゼウスはドラクルを介して何度か会った事がある。
「あの人は、死んだのか?」
「ええ」
「……」
 ロゼウスの言葉にルースは頷いた。最後尾のロザリーとアンリは、何故か沈痛な表情で押し黙る。
「着いたわよ」
 喋っている間も足は止めない。視界に入ってきた屋敷の門前に到着したのはそれからすぐのことだった。
「ここ一月ほど手入れはされていないから。少し埃っぽいかもしれないけれど」
 そう言って屋敷の中へと案内するルースについて、一行は応接間へと案内された。
 セルヴォルファスにいたロゼウスやジャスパー、その頃は皇帝領を目指していたリチャードたちと違い、ロザリーとアンリはこの屋敷の元の持ち主である日和見と名乗る風変わりな男に助けられたことがある。複雑な思いでかつて見た館とよく似た屋敷の中を歩いた。
 侍女などは置いていないらしく、応接間に呼び入れた彼らに対し、ルースは手ずからお茶を淹れて振舞う。手伝うでもなくしばらくじっとその姿を眺めていたロゼウスに、姉姫はそっと笑みを含んだ声で言う。
「どうぞ。毒なんて入れてないわよ」
 その言葉に、ロゼウスと同じように彼女を警戒の眼差しで見ていたリチャードやローラがぴくりと肩を揺らす。ロザリーやアンリはそこまでルースを疑ってはいなかったようで、ぎょっと目を見開いていた。
「うん、知ってる。何もおかしなことはしてないのは、見てたから。ルース姉様、でも」
 底知れない笑みを浮かべる姉を、これまでずっと姉だと信じていた女性を前にしてロゼウスは言葉こそ惑いながら、躊躇うことなく口を開く。
「あなたは何を考えているんですか? どうして俺たちを助けたんだ?」
 ルース=ノスフェル=ローゼンティア。ローゼンティア王国第二王女。
 しかしそれは過去にそう思われていた際の称号であって、真実は違った。彼女は兄ドラクルと同じくブラムス王の弟ヴラディスラフ大公の娘であり、そしてロゼウスの母親たるノスフェル家の正妃クローディアの娘でもある。
 ドラクルを異母兄に、ロゼウスを異父弟に持つ。ルースはあらゆる兄弟姉妹の中で、実は最も何を考えているのか掴みがたく、警戒に値する人物かもしれない。ロゼウスには半分だけ繋がった血のせいでますますそう感じられる。自分の異父姉であるこの姉は侮れない。
「何を、と言われても、そんなことを聞かれて話す私だと思って?」
「話してくださらなければ、俺たちはここであなたを倒してでもすぐに出立しなければならない」
「ロゼウス!?」
 過激な発言に驚いたのはアンリとロザリーだ。しかしローラやエチエンヌたちは納得している。このルース姫はドラクル王の腹心なのだ。一度助けられた程度で簡単に信用する事はできない。
「酷いわね。カルデール公爵の部隊から助けてあげたのに」
「兄様……ドラクル王の側近であるあなたなら、命令が出されたその現場にもいたでしょうに、それを取り消す事はしてくださらないのですね」
「それはそうよ。私だって、表立ってドラクルに逆らうわけにはいかない。慎重に物事を進めねば」
「その物事とは、どんな事なのですか?」
 敵意を込めた眼差しで、リチャードが彼女を睨みつける。
「確かヴァートレイト城でのことは、もともとあなたがかの城へと向かうように仕向けたのでは? そしてロゼウス様はドラクル王子に会った」
 リチャードが持ち出したのは、エヴェルシード勢の彼らとルースの初めての出会いだ。王城シアンスレイトに突如としてやってきたルースは、エルジェーベトが治めるバートリ地方の城にロゼウスの姉であるミザリーと弟であるミカエラが囚われていることを告げに来た。
 ロゼウスは唇を噛み締める。ミザリーもミカエラも、もうこの世にいない。
 あの時、ルースの言葉に従って出向いたその城には、確かにミザリーとミカエラがいた。しかしその城でまた、ロゼウスはドラクルと再会したのだ。これが偶然であるはずがない。
「あ……」
 アンリは怪訝な顔をしているが、リチャードと同じくあの時のルースの訪問を覚えているロザリーはハッとする。確かに、あの時のヴァートレイト城でのドラクルとの出来事からロゼウスとシェリダンの迷走が始まったのだ。直接現場にいたわけではないが、話には聞いて知っている。何より、ヴァートレイト城から戻ってきてからのシェリダンは酷い荒れようだった。
「あなたは一体何を企んでいるのですか?」
 崖下に落ちた主であるシェリダンの安否を気にしているためか、リチャードの瞳は鋭く、全身には殺気を漲らせている。ルースがここで下手な返答をしようものならば、すぐにでも襲いかかりそうだ。
 そしてそれはローラとエチエンヌも同じ事である。双子は自らの懐から、その特殊な得物を取り出す。
 ロゼウスはそれを見ながらも微動だにしない。止める気配はない。
 ジャスパーも同じように動揺からは遠く、ロザリーとアンリだけがおろおろとしている。
「――そこまで疑われてしまっては仕方がないわね」
 ルースが観念したかのように、ふうと溜め息をつく。リチャードたちは本性を表わすのではないか? と身構えたが、ルースにはこちらを攻撃する気配はなかった。
「確かに私は、様々なことを企んでいるわ。あなたたちに対しても、ドラクルに対しても」
「ドラクルに対しても……」
 それがこの現状だと言う事か。一見ドラクルの言う事に何一つ逆らうことのない腹心に見えるルースだが、彼の命令でロゼウスを捕らえに来たアウグストを振り切っている。
「私には欲しいものがある。それを得るためには、いろいろと工作をしなければならないの」
「ルース姉様、あなたは一人で動いているのですか? 他の者たちは大体が手を組み配下を持って動いているというのに」
「ええ。だって、私の行動理由は私にしかわからないものだもの。説得できない部下を何人持っても意味はないわ」
「あなたは一体……」
「ねぇ、ロゼウス、デメテル陛下がああなった以上、あなたが次の皇帝になるのでしょう?」
「!」
 突然の話題の転換に、ロゼウスも今度は身構えた。
「何故それを。ルース姉様、まさかあなたが本当に手を組んでいる相手はハデス?」
「違うわ」
「ならばどうして! この世界で国と国を争う出来事に一人で首を突っ込むなど正気の沙汰じゃない! ある程度の道標がなければ、そんなのは無謀で無意味だ」
ドラクルには彼自身が独自に作り上げた権力とアウグストなどの配下と言った力がある。カミラもそうだ。彼女の基盤がエヴェルシードにあった。イスカリオット伯爵であるジュダも。プロセルピナの目的はまだわからないがデメテルには皇帝としての権力があったし、ハデスには予言があった。
 だが、ルースには何もない。しかし何の力もない自分をそのまま争いの渦に投じるほど彼女が無謀でないこともロゼウスは知っている。
「あなたの切り札は、何?」
 ふふふ、と彼女は笑う。
「ハデス卿と同じもの」
「え?」
 何故いきなりここでよりにもよって、本来ならローゼンティアともエヴェルシードとも関係のない彼の名前が出るのか。この場で出てくるのには相応しくない名に思えた。いや、だが彼女がハデスと手を組んでいるのだとすれば……
「先に言っておくけれど、私はハデス卿とは無関係よ。帝国宰相閣下とは何の関係もない。私は自分の力で未来を見るの」
「それはどういう……」
「まだわからない?」
 ルースは小さく小首を傾げて、全員の顔を見回した。
「巫女なのよ、私は」
「え?」

 ◆◆◆◆◆

「巫女……」
 ルースの言葉を、ロゼウスは小さく反芻する。
 巫女と言えば、思い当たる名が一つだけあった。その人物が生きた時代は、かの始皇帝シェスラート=エヴェルシードの時代と重なる。
 始皇帝、シェスラート=エヴェルシードは人間の身でありながら三百年以上生きたという伝説の人物だ。
 御伽噺に近いような帝国建国神話だが、それは事実として考えられている。そして一部の者たちは、それが「事実」だと知っている。
 だが補足するのであれば、現在シェスラート=エヴェルシードと呼ばれる男はもともとその名前ではなかった。始皇帝、元の名を、ロゼッテ=エヴェルシードという。
 彼の即位を助けた人物として、側近のソード=リヒベルクやその妻フィリシア程にも知られていない、一つの名が帝国史の片隅に残っている。
 ロゼッテ=ローゼンティア。元の名をシェスラート=ローゼンティア。名を見てわかるとおり、始皇帝のシェスラート=エヴェルシードの名は彼と交換したものだ。
 そのローゼンティアの妻は、夫よりもはっきりと帝国史に刻まれている。彼女は始皇帝を好いてはいなかったが、始皇帝の治世のものとで彼女に与えられた役目は十分果した。
 サライ=ローゼンティアはロゼッテ=ローゼンティア、もとのシェスラート=ローゼンティアの妻であり、始皇帝に仕えた「予言の巫女姫」である。
「巫女ってまさか、サライ=ローゼンティアの――」
「ええ。そうよ。私は遠い遠いご先祖様であるサライ姫の能力である、《予言》の力を持っているわ」
 呆然とするロゼウスに、ルースはこともなげに答えた。アンリが必死に頭を捻り、ロザリーも口元に手を当てて考え込んでいる。
「サライ? サライってあの……」
 ロゼウス自身は当人でありながら蚊帳の外状態であったあのシェスラート復活の際、ロザリーやアンリはシェリダンたちと共にサライの幽霊に直接会っている。夫であったシェスラート=ローゼンティアの魂の孤独を慰めるためだけに現世に残っていた彼女は、美しいウィスタリア人の少女姿だった。
 魔術は今でこそ黒の末裔の専売特許のように言われているが、実際はそんなことはない。才能と言うものはそれが発揮されやすい家系や環境というものもあろうが、同じ人間にできて別の一族にまるっきり扱えない能力というのも珍しい。
 サライはウィスタリア人でありながら、《予言》の能力を持って生まれた姫だ。そして彼女は同時に、ローゼンティアの建国者の祖であるロザリア=ローゼンティアの祖先、シェスラート=ローゼンティアの妻でもある。それは言うまでもなく、ロゼウスたち現在のローゼンティア王家の祖先でもあるということだ。
「三千年も前の、ローゼンティアができるまで千五百年も前の人の能力が今更現われることなんてあるの? しかもルースは、お父様の子ではないのでしょ?」
「いや、逆に、今だからこその先祖返りなのかもしれないぞ。王家の血だって、ここまで薄くなってしまえばローゼンティアの血を引いているというだけですでに条件は同じ、しかもブラムス王陛下とフィリップ大公閣下は双子の兄弟。それにロゼウスの強さだって、ロゼッテ=ローゼンティアの先祖返りだと言われれば……」
 アンリの言うとおり、いくらロゼウスがシェスラートの生まれ変わりだからと言って、通常前世の能力が転生後の身体能力にまで影響することはない。生まれ変わりの人物は魂こそ同じものかもしれないが、その肉体はまったくの別物だ。
 しかし、ロゼウスとシェスラートの「強さ」が全くの無関係かと言われれば、そうとも言い切れない面がある。ローゼンティアの血を引くロゼウスは、シェスラートの子孫だ。それが、祖先の血を三千年後の今になって強く継承したということであれば……
 ルースの巫女の能力も、サライ=ローゼンティアからの遺伝であるのか。
「信じる、信じないはあなたたちの勝手よ。私はあなたたちに信じてもらわなくても構わないわ」
「姉様」
 ルースは得体の知れない笑みを浮かべたまま、逃げる素振りも見せない。この底知れない雰囲気、どこかで感じたことがあると思ったら、ロゼウスはデメテルを思い出した。正確には現在はプロセルピナだが、その彼女もこの姉に通じる雰囲気を持っていた。
「……あなたに巫女の能力が備わっていることは、わかった」
 とまれかくまれそれを認めぬことには話が先に進まぬだろうと、ロゼウスはひとまずそう口にする。
「だけど、それとこの行動がどう関係する?俺たちをドラクルから逃がしたら、あなたには不利益なだけだろう。何故、助けたんだ?」
 あるいはカルデール公爵アウグストの手から助けたと見せかけて、その実彼女一人の手柄に見せかけてドラクルに自分たちを差し出す気かと、ロゼウスは姉を警戒する。
 ルースはにっこりと笑って答えた。
「ここにあなたたちを呼んだのは、頼みごとをするためよ」
「頼みごと?」
「ええ。申し訳ないけれど、私の力ではあなたたちを永遠に匿い続けることなどできないわ。でも、一瞬だけドラクルの目を盗むことはできる。その一瞬を使って、あなたにお願いをしたかった」
 ここにいてもどうせすぐに見つかるのか。ロゼウスはルースの言葉を聞きながらも考えをめぐらす。公爵の手先に見つかる前に上手くシェリダンと合流できればいいのだが。しかし次のルースの言葉は、ロゼウスのそんな思考を中断させざるを得ないものだった。
「お願いよ、ロゼウス。ドラクルを殺して」
「――え?」
「ドラクルを殺して」
 同じ言葉を淡々と繰り返すルースの顔を、ロゼウスはまじまじと凝視する。いつの間にか常に湛えている笑みを消した姉の表情は真剣そのもので、そこに冗談や嘘を交える気配もない。
 ルースは真剣に、ドラクルの死を願っている。
「な、んで……いつも、兄様の側にいた、姉様がそんなこと……」
 さしものロゼウスも驚き、大きな瞳をさらに零れそうなほど瞠った。ルースはまた微笑を浮かべ。
「あなたにはきっと、この気持ちはわからないわ。でも覚えておいて。私の願いはただそれだけ」
「兄様の、命」
「そうよ」
 言葉が出ないロゼウスを押しのけて、すぐ下の妹の前で口を開いたのはアンリだ。
「ちょっと待て、ルース、この際お前の願い云々は置いておくとして、お前が本当の巫女なら、ドラクルが将来何によって死ぬのか、お前は知っているんじゃないか?」
「ええ。知っているわ」
「だったら、何故そんなことをロゼウスに頼む。運命が決まっているなら」
「この予言の力を持つ者以外は勘違いをしているようだけれど、そういうことではないわ、アンリ。予言は夢に見るだけで現実になるとは限らない。望む未来を得るなら、預言者も自らその運命に関わらねばならないのよ。未来を招くにも、未来を変えるにも」
 彼らはハデスのことを思い出した。彼もまた、ルースと同じ《預言者》だ。彼は予言される未来に納得できず、宿命を変えるために自らその渦中へと飛びこんだ。
 ルースはどうなのだろう? 彼女は未来を変えたいのか、それとも。
「私は、私が目にした運命を現に招きよせたい」
 ハデスは運命を変えるために動き続けた。ルースは、運命をそのままに手繰り寄せようとその邪魔をし続けた。
 彼ら預言者の目にだけ映る宿命の未来年譜。今はそのどこら辺に当たるのだろう。
「ドラクルを殺すのは、あなたなのよ。ロゼウス」
 だから、ちゃんとあの人を殺してね、と。
 虚無の笑みを湛えて彼女は笑った。


226

 ローゼンティア王城では、ドラクルがアウグストから事の次第を聞かされている。
「実は、我々がロゼウス王子方を確保しようとした際に、ルース姫の邪魔が」
「何?」
 アウグストの言葉に、さしものドラクルも不審な顔だ。
「ルースが、か……あいつはまた、何を考えているのやら……」
 ドラクルの部下は多い。こうして玉座を簒奪する前からも、人の目を惹きつけることに関してはドラクルの右に出るものはいない。一度彼の魅力にとり憑かれた者は、あとはよく言うことを聞くドラクルの手足となるばかりだ。
 そんなドラクルの側近は、二人いる。一人はここにいるカルデール公爵アウグスト、ドラクルがまだ若い少年の頃からの部下で、奔走して彼に地下組織との縁故を持たせたのも彼だ。
 そしてもう一人は、ドラクルの異母妹ルース。かつては第二王女と呼ばれていた女性。物静かで儚げな雰囲気の容姿から繊細王女などと呼ばれる彼女だが、実のところは繊細でも何でもない。
 ドラクルの側近として長く王家も他の兄妹たちをも欺いてきた彼女の腕は確かだ。表に出ようとしないから目立たないだけで、戦闘能力も兄妹の中では上位に食い込む実力の持ち主。思慮深く出しゃばらず、言われたことは汚れ役でもなんでもやるドラクルの腹心。アウグストが表の側近ならば彼女は影の側近だ。
 そのルースが、アウグストの邪魔をした。
 常にドラクルの命に忠実な彼女が一体今何を考えているのか。それがわかる者は少ない。
「いかがいたします? ルース姫の処分は。私が再び行って、彼女共々ロゼウス王子を捕まえてきましょうか?」
「ふむ……」
 口元に指をあて、ドラクルはしばし考え込む。
「いや……あのルースのことだ。あれが短慮で我等に不利益な事態を引きおこすとは思えない。何か策があるのだろう。それを遂げる自信も」
 ドラクルはルースに絶大な信頼を置いていることが、この言葉からも窺える。
「よい。今は、ルースからの報告を待て。あれが何かするのであれば、事後とはいえ私に報告は欠かさないはず。王城の守りはフォレットたちが固めているのだろう。寝返ったとしてもここまでは踏み込めないはずだ」
「……御意」
 ドラクルの大様な言葉にルースへの信頼感を見ながら、アウグストは複雑な気持ちで頭を下げる。
 主従二人だけならばここで終わっただろう会話だが、そうはならなかった。
「ちょっといい? ドラクル王」
 二人のやりとりを窺っていたプロセルピナが口を開く。
「ルース姫への処遇について、そんなに寛容でいいの? あの姫は、あなたを裏切るような行動をとったのよ? それも、そこの公爵の命令をわざわざ邪魔するという形で。普通なら厳罰、それも極刑が相応しいと思うのだけれど」
 今の姿に似合わぬ腕を組んだ格好で壁に寄りかかりながら、プロセルピナはそうドラクルに告げる。
「処刑? あれをか?」
「それ以外に誰がいると言うの?」
 僅かに呆れたような口調で、プロセルピナが言葉を重ねる。ドラクルを第一に考えるアウグストが主君への無礼なその態度に相手が元皇帝と言う事も関わらず詰め寄ろうとしたが、それもドラクルの手振りによって制される。
「続けてくれ、プロセルピナ卿」
「あの妹姫は、あなたを裏切ったのではないかしら? ドラクル王」
 裏切り、と。はっきりとプロセルピナは言った。
しかし次の瞬間、部屋の中に笑い声が弾ける。
「ははははは! これはおかしなことを言う!」
 深刻な忠告を受けたにも関わらず大笑で返したドラクルに、彼女は怪訝な目を向ける。
「あなたはあれをわかっていない。ルースがこの私を裏切るはずがない」
 やけにはっきりと、それこそプロセルピナの言葉をすべて打ち消す勢いで微塵の躊躇いもなく告げられた言葉に、プロセルピナは整った眉を潜める。
「何故そう言えるの?」
「事実だからな。あれが私を裏切るはずはない。そんなことはありえない」
「この世に絶対なんてものはないのよ。ドラクル王」
「ああ。そうだな。だからこそ、だ。この世に絶対がありえないからこそ、あれは私を裏切れない。そこまで思い切れるような性格ではないよ」
 そして彼はその自信の在り処を口にする。
「そもそも私に、自分がブラムス王と王妃クローディアの子どもではないと気づかせたのはあのルースだ」
「え?」
 思いがけないドラクルの告白に、プロセルピナだけでなくアウグストまで顔をあげる。
「確かに、そんな話を聞いたことはありましたが……」
「本当だよ。ルースがたまたま父上、ヴラディスラフ大公とクローディア王妃が話しているところを聞いた。それを私に伝えた」
 十年前のことをドラクルは思い出す。
 叩きつけるような風雨。昼間でも暗いその日は嵐だった。
 横殴りの雨風にも怯むことなくドラクルは馬を駆り、叔父大公、その頃はそうだと思っていた実父ヴラディスラフ大公フィリップのもとへと出かけていった。そこで全てを知る。
 物語の引き金を引いたのはルース。
「多分私があの日、大公のもとを訪れなければ、真相が明かされるのはもっと遅かったに違いない。私はあのまま王太子の地位にあり、父王は変わらず父王としてあり続け、全てがいつか明るみに出たとしても、また父上がそれを口にしたとしても、それはこういった形でなく、真剣な話し合いが開かれ処理されたに違いない」
 全ての問題は、ドラクルがそれを途中で知ってしまったことにある。
 いくらブラムス王でも、何の前置きもなく王太子であるドラクルを退けてロゼウスを王位につかせれば国は荒れるだろう。ドラクルが国王となるに相応しいと言われて育ったのであるから尚更だ。
 そこで出生のことが明かされたとしても、それで醜聞を被るのはブラムス王とヴラディスラフ大公、大公と通じた第一王妃、第二王妃でありドラクルではない。
 だが、ドラクルが叔父を問い詰め、父王に真実を望んだあの嵐の夜から何かが狂っていった。
 親子ではないとわかった瞬間から、ブラムス王はドラクルを息子扱いしなくなった。表面上は良き王であり良き父であるそのままだったが、その裏では表向きの息子であるドラクルを虐待するようになった。
 鞭の傷痕の痛みに耐えながら、実子の真の王太子であるロゼウスを裏表なく溺愛する王を見ながら過ごす毎日。それが、ドラクルを引き返せないところまで歪ませていった。
 隣国エヴェルシードを利用し、何万人もの民を阿鼻叫喚に陥れながら玉座を簒奪する方向へ。もしもブラムス王との関係があそこまでこじれていなければ、ドラクルはそこまで行動を起こさなかっただろう。全ての真実を知ることによって、幸せになれるとは限らない。
 そういう意味では、ドラクルを歪ませたのはルースだ。ルースが全ての崩れる綻びの糸をドラクルに教えた。実際にそれを引いたのがドラクルだとしても。
 壊れていく王国と殺されていった父王たちを思うほどに、ルースはドラクルを裏切れなくなる。他の誰にあっても彼女にだけは、ドラクルを裏切る資格はないのだと。
 それが欺瞞だと知っていても、ドラクルはそれを突きつける。そういった形でしか、もう誰も繋ぎとめることができない。
お前が口にした不用意な一言で私は人生を狂わされた。そう言ってルースに従うよう強要する。
 そしてルースも従うだろう。
「ルース姫にとっては、あなたを断罪する事は、自身を断罪することにも繋がる」
「ええ、そうです」
 彼女とて、自分の罪に向き合えるほど強くはない。
「だからあなたを裏切らないと?」
「裏切るように見えますか? ここまで聞いて。あれがそんなに倫理道徳に厳しく人民のために私を討てるような性格だと?」
「……いいえ。そうは思えないわね。それよりも――」
 プロセルピナは何事か言いかけたが、結局はそれを自らのうちに治める。一瞬怪訝な顔をしたドラクルも、深くは追求しなかった。
(それよりも彼女は、そんなこと、世界の物事の一切を気にしない性格に見えるんだけどね)
 飲み込んだ言葉の影でデメテルは思う。
「ねぇ、ドラクル王。ではいつかルース姫の代わりにあなたを裁く人がいたとしたら、それは誰になるのかしら?」
 彼は曖昧に微笑んでいた。

 ◆◆◆◆◆

 白い髪が幽鬼のように揺れる後姿を追い、シェリダンはハデスを背負ったまま森の道を歩く。
 頑丈な旅用の衣服もかなり裾が擦り切れている。長靴にまた一つ疵がつく。横合いの茂みから伸びた細い枝に頬を引っかかれて血が滲んだ。
「おい、どこまで行く」
「もう少しです。お姉様がお兄様たちをご案内すると言っていたお屋敷は、この向こうです」
 これまでに何度か繰り返したやり取りをもう一度繰り返す。メアリーの先程と同じ言葉を聞いて、シェリダンは低く呻いた。
「……ヴァンピルの言う『少し』など、私は金輪際信用せん」
 今更語るまでもないことだが、吸血鬼は人間より身体能力が優れている。ロゼウスやロザリーを見て知っていたつもりだったが現在、いかにも気が弱そうなか弱そうな少女であるメアリーまでが人外の体力を発揮するのを見て、シェリダンは外見で人を判断するのはやめようと心に誓った。何しろ吸血鬼である彼らの中では、一時間も三時間も同じ「少し」であるらしい。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。……休憩してもいいか?」
 気力より先に体力が限界に来て、シェリダンは恥を忍びメアリーにそう声をかけた。前を行く彼女がひょいひょいと森の中の険しい道を進んでいくのでこちらが軟弱に思えてしまうが、シェリダンはランタン一つ手に持っただけのメアリーと違ってハデスを背負っている。いくら彼に体力があるとはいえ、同年代の少年一人背負った状態で険しい道を長く行くのは難しい。
「あら。失礼しましたわ。ではここで少し休みましょう」
 今更それに気づいたように、背後の彼らを振り返ったメアリーはおっとりとそう言った。
シェリダンは適当な場所でハデスを降ろすと、自身も足を投げ出して座り込んだ。近寄ってきたメアリーが、何か要りますか? と尋ねる。
「別にいい。何か、と言ってもあなたも何も持っていないだろうが」
「ええ。ですが、採って来ることは可能ですので」
 採って来るとは、この森からか? 木々の枝葉は鬱蒼と茂り、地面にはろくに光も差さない。わずかな木漏れ日に浮かび上がる、地面に飛び出した太い樹の根には苔が生えていた。生き物の気配は感じるが姿はろくに見かけず、目に映るのは虫ばかり。全体的に暗い威容を放つ森の中で採れる物とは――。
「いい。遠慮する」
「けれど」
「くどい。私は同じ事は二度言わないぞ」
「……はい」
 そもそも、自分より幼い少女に召し使いのようにこの不気味な森を食物を求めて彷徨わせる気はない。彼女がヴァンピルであるとか、この森は彼女の国内で庭のようなものであるとかを抜きにしても。
 それでも先程の言い様では言葉が足りないかと気づいて、シェリダンは萎縮するメアリーに補足の台詞をかけた。
「あー……あなたも疲れているだろう。少し安め。我々はここでこうしているだけで十分だ」
 扱いにくい、と思いつつシェリダンはメアリーとの会話を終えてようやく気を抜いて体を休め始めた。
 このやりとりだけで、すでに精神的な何かを消耗しているような気分だ。もともと厳しい性格のシェリダンは、少し言っただけですぐに泣くような気の弱い女性が苦手だ。ロザリーやカミラのように一つ言うと百倍にして返してくるような相手の方が気が楽だった。
 とは言っても、現在はこの森の中、シェリダンとハデスとメアリーの三人きり。とても不自然な三人組は、足音を休めて休息するとなると途端に静寂が辺りを包む。つまり、会話がない。
 もともとはハデスによる襲撃が事の発端だった。ドラクルの王としての暴走をとめるためにローゼンティア王城へと向かうロゼウスたち一行の下に、彼がプロセルピナと呼ぶ少女を伴って襲撃を仕掛けてきたのだ。
 ハデスは次代皇帝であるロゼウスの命を狙っている。しかし、プロセルピナの裏切りにより彼は対戦相手であったシェリダンともども崖下に落ち、上に戻る方法もわからずにいたところをメアリーに発見されて今に至っている。
 メアリーは、彼ら二人をロゼウスたちに引き合わせるため案内をしてくれるのだという。ロゼウスたちのもとへは、彼女の姉であるルースがすでに向かったと。
 ルースの名にシェリダンは多少眉をしかめたが、彼女の言葉についていかざるを得なかった。どの道あてずっぽうにはぐれた仲間と合流する手立てを考えるよりは、罠だとしてもお互いを引き合わせる役には立つ。これが罠だとしたらそれはその時に考えればいい。
 そしてメアリーについてきて、しばらくが経った。彼女の主観では「もう少し」も、シェリダンたちにとっては「もうかなり」だ。彼に背負われているだけであったハデスもそう思うくらいだからローゼンティア人の感覚はあてにならない。
「ハデス?」
 そのハデスは、シェリダンの背から下ろされると立ち上がってその辺りを少し歩いてみたりしていた。崖下に落ちたときに挫いた足の具合を確かめているようだ。
「うん。もう、大丈夫みたいだ」
 すぐに治療魔術を使ったが、魔術による治癒は怪我や傷口こそすぐに癒えて塞がっても一度痛みを覚えた感覚はすぐにはなじまない。歩けないハデスを背負ってここまでシェリダンはやってきたが、どうやらこの先はその必要はないようだ。
「そうか。それは良かったな」
「……うん」
 これまで自分を背負ってきたシェリダンに対し何か言いたげにハデスはちらりと彼を見たが、結局はその頷き一言だけを返すに留めた。先程まで殺しあっていた相手に恩を受けて飄々としていられるほど、彼の神経は太くないらしい。
 シェリダンも自らの伸ばした足へと手をあて、軽く筋肉を解し始める。休むと言ってもただだらだらと身体を怠けさせることを休息とは呼ばない。今のうちに呼吸を整え、疲れて凝り固まった足や腕の筋肉を解し、そうしてまた歩き出すのに不自由ない体にしておく。疲れがとれるほどの休息など所詮この状況では不可能であるのだし、そこまで長時間休憩してはこれ以上動きたくなくなってしまうからだ。その辺りの体力と気力の配分は軍事国家の元国王は抜かりない。
「……そろそろ出発しても良いが」
「そうですか? では行きましょう」
 シェリダンの方の準備が終わると、メアリーはさっさと立ち上がった。先程と同じように手にランタンを持ち、彼らを先導して歩いていく。
 身体は疲労しているが、シェリダンはハデスを降ろしたのでその分楽になった。一方自分の足で歩くことになったハデスは、ゆっくりと足の感覚を確かめるように歩いている。
 時折こちらを振り返りながら歩くメアリーも、ハデスの歩みの速度に合わせるようだ。本来ならば彼女がこの場で一番小柄な上に女性であるので歩幅は短いのだが、そこはヴァンピルの体力でもってメアリーはさっさか進んでいく。シェリダンのようにがっちりと足を固定する長靴を履いているのではなく可憐な女物の靴なのだが、それで上品かつ確実に歩を進める様はいっそ見事だ。
「これはルースの計画だと言ったな。彼女の目的はなんだ?」
「さぁ? わたくしにはお姉様の考えていることはわかりかねます……」
 気の弱そうなメアリー姫は、シェリダンの詮索をかわすというよりは本当にわからないと言った様子で困ったような顔をしていた。どうやら彼女から搾り取れる情報はなさそうだ、とシェリダンは歩く方に専念する。
 森の地面が段々と滑らかになり、まだ少し地面に盛り上がるような木の根もあるが段差は随分少なくなっている。木々の幹も大の大人が数人がかりで手を繋がなければ計れないようなものから、一般的な林に生えている太さへと変化してきていた。
「そろそろ屋敷が近づいてきました。この位置からならば、見えるでしょう」
 メアリーが指差す方向に、確かに木々に埋もれるようにして赤い屋根が見えた。

 ◆◆◆◆◆

 まだ距離は遠い。だが聞こえた微かな足音に、ロゼウスははっと顔をあげた。
「!」
「ロゼ!?」
 背後からロザリーの驚いたような声が追いかけてくる。
「あ! もしかして……」
アンリの言葉がすぐに遠ざかり、廊下を駆けた足は屋敷の玄関へと飛び出す。黒檀の両開きの扉を乱暴に押し開けると、鋼の門の向こうに緑の森、正面の道を歩く人影が目に入った。
「シェリダン!」
 人の耳にはまだ声が届かないだろう距離、先に気づいたのは彼の隣を歩いていた少女だった。白銀の髪に紅い瞳のヴァンピルの少女は、妹のメアリーだ。何故彼女がここにいるのかを考えるより早く、足を運んでいた。
「ロゼウス!」
「お兄様……」
 やってきたのは三人だった。一人はシェリダン、一人はルース、そして最後の一人はハデスだ。
 三人の目前まで来て、シェリダンの姿を認めた途端、ロゼウスは人目も憚らずにその胸にすがりつき肩口に顔を埋めた。シェリダンの腕がしっかりとその身体を受けとめる。部屋の中にいたためか、ロゼウスは薄着だ。そのせいで余計に華奢に見える。
 ハデスはいつものことだと表情を変えないが、メアリーは目を白黒させている。
「良かった。デメテル帝は殺してはいないって言っていたけど、でも確証がなかったから……」
 あの場面でそんな嘘をつく理由もないだろうとあの言葉を一応信じてはいたが、それでも不安だった。あちらこちらから宣告される死の予言に、心は必要以上に不安に漣立っている。
「デメテル帝だと……」
「……」
 ロゼウスが安堵して思わず口走った言葉に、シェリダンとハデスが反応する。事情がよくわかっていないのか、メアリーだけは不思議顔だ。
「あの、お兄様」
「ああ、メアリー、久しぶり」
 傍から見れば挨拶をしている場合ではない上にロゼウスのシェリダンに密着した体勢はその言葉を妹に向けて発するには甚だ不自然なのだが、とりあえずロゼウスは挨拶した。
メアリーは兄のマイペース差に無意味におろおろとしながら、どう口を開くかを迷いながらも言葉を探す。それを見てロゼウスはようやくシェリダンから身体を離した。
「あ、あの、……お久しぶりです。わたくし、ルースお姉様に言われて、それで」
「うん。ルース姉様も向こうにいるよ。とりあえず三人とも、屋敷の中へ入って」
 妹のメアリーを安心させるように手を引いて、ロゼウスは自らが飛び出してきた屋敷の方を指差した。飛び出して行ったロゼウスを追って出迎えに来ていたロザリーとエチエンヌと共に応接間へと向かう。
「シェリダン様!」
 ローラが彼の姿を見た途端、先程のロゼウスのように駆けだして来る。出だしで出遅れた彼女は、あまり大勢で向かってもと、リチャードに引き止められていたのだ。
「ご無事で何よりです」
「ああ。心配をかけた」
 一方、短いが絶望的な別れからの再会を喜ぶエヴェルシード勢の隣では、ローゼンティア王族が妹に声をかけている。
「メアリー! お前無事だったのか!」
「今までどうしてたの?」
「お兄様、お姉様方こそ、こんなにおやつれになって……」
 国を脱出しようとした初めの時点ではぐれたせいか、これまでどの陣営に属した様子もなく消息不明となっていた第五王女の登場にアンリとロザリーは喜びを隠さない。メアリーの方も、兄妹の中でも特に気さくな兄姉と再会してようやく落ち着けるようだった。
「お、お兄様〜」
「メアリー?」
 アンリの胸元に縋り付いて、堰を切ったように泣き出してしまう。
「アンリお兄様、ドラクルお兄様が、アンお姉様たちも、み、みんな変で……! お城にいても皆ぴりぴりしているし、今日は誰を殺すだの、明日は誰を拷問だの、怖い話ばっかりで、わたくし……ッ」
 その言葉でアンリたちはメアリーがこれまで、王となったドラクルのもとにずっといたことを知った。彼女はルースのようにはっきりとドラクルを出し抜く気持ちがあってここへ来たのではなく、どうやらルースに上手く使われたようだということも。
「メアリー。ごめん。これまでいろいろ、怖い思いをさせたな。大事な時に側にいてやれなくて、悪かった」
「いいえ、いいえ。お兄様たちこそ、大変な目に遭われたのでしょう。わたくしは……」
 そこでメアリーは意識を切り替えたのか、視線を部屋の中に移して、アンリに尋ねる。
「ねぇ、お兄様、ミザリー姉様やウィルやエリサは?」
その言葉に、アンリは凍りついた。
「メアリー、落ち着いて聞いてくれ……エリサは生きてるよ。これ以上危険な目に遭わせたくないと思って、彼女には別行動をしてもらったんだ。ローゼンティアともエヴェルシードとも離れて、王族でもない一人の人間として生きていくようにと」
「え……え……」
「それと、ミザリーと、ウィルは……」
 アンリが静かに首を左右に振り、ロザリーが視線を落とす。
「そんな……」
 ミカエラの処刑に関してはローゼンティアとエヴェルシード、両国の間で大々的に行われていたため、王城に閉じこもっていたメアリーの耳にも入ってきていた。しかし、姉である第三王女のミザリーや、末の弟のウィルまでそんなことになっていたとは。
 しかしこの場では落ちこんでいる場合ではないと思いなおし、彼女は気丈に涙を堪える。その様子にアンリたちはほっとした。
 ミザリーは半ば自殺のように冥府の生贄となり、ウィルのことはロゼウスが殺した。そんなことを、詳しくこの妹に聞かせたくはなかった。そして、シェスラートに意識を乗っ取られてウィルを殺めてしまったロゼウスのことも今更傷つける気はなかった。
「と、とにかく!」
 これ以上この話を続けたくはないし実際問題これからのことも差し迫って考えねばならない問題だし、と場を仕切ろうとアンリが声をあげたその時。
「何故その人がここにいるんですか?」
冷ややかな声がそれを遮った。その声の持ち主はジャスパーだ。
 彼は視線を黒衣の少年に固定し、もともとは涼やかな顔つきを歪めて睨んでいる。
「その人は、この状況のそもそもの元凶のはずです。何故あなたがここにいるんですか! ハデス卿!」
 ハデスはジャスパーに睨まれても平然として、同じように険のある視線を返す。
「知らないね。そこの第五王女が僕まで巻き込んでここに連れて来たんだ。文句ならそっちに言ってくれ」
「メアリー姉上」
「え、え? ジャ、ジャスパー? わ、わたくしはルースお姉様の指示に従っただけで……」
 突然話を振られて、メアリーが飛びあがりそうなほどに驚きを表わす。ロゼウス側で戦いの表に出たことのない彼女には、帝国宰相とジャスパーがどのような関係なのかもわからず、ひたすら怯えたようにすぐ下の弟の顔色を窺っている。
「やめろ、ジャスパー」
「ロゼウス兄様」
「ハデスを中まで招いたのは俺だよ」
「そしてそれは、私がこれに手を貸していたからか」
「シェリダン王!」
 ロゼウスに対しては遠慮がちな困惑の視線を投げるに留めたジャスパーだが、シェリダンに対しては容赦なく牙を向いてくる。
「私は私の判断や行動をお前にどうこう言われる筋合いはない。それに」
 シェリダンはちらりとハデスの様子を窺った。
 崖下に落ちた時のあの態度、彼の中ではもう、ここでロゼウスやシェリダンと争おうとするほどの気力などないのでは?
 ロゼウスがシェリダンを殺す、その予言は当事者二人も疲弊させているが、それを予言したハデスもまた、変えられぬ運命の予言に疲れ果てているように見えた。ハデスは……
「別にいいのではない? その方がここにいても」
「ルース姉様」
 場を治めるようにそう発したのは、これまで屋敷の主でありながら事態を傍観していたルースだ。
「私はあの崖下に落ちてくる人を連れて来てとしかメアリーに頼んでいないわ。ねぇ、メアリー。よくやってくれたわ」
「お姉様」
「ここでハデス卿と争うにしても、デメテル帝のことがまだ残っている状態では先行きが不安になるだけではなくて? 今日は一時休戦としましょう」
 そして彼女は席を立つと、さっさと廊下に立って皆を案内する。
「どうぞ、お部屋の方へ」
 彼女の思考だけは、誰も読み取れない。


227

「兄様、俺はもう休むね。だから」
「え? ……ああ、うん。わかった。おやすみ、ロゼ」
 アンリは弟の肩に軽く手を置いて、その額に軽く口付ける。ロゼウスは兄の頬に軽くお返しをすると、去り際にメアリーの頭を優しく撫でてから部屋を出て行った。
「ロゼウスお兄様、どうしたのでしょう? みんないるのに」
「ロゼウスは……いろいろあって疲れてるから、休ませてやろう」
 ウィルを殺し、ミザリーを救えなかったロゼウス。自らが何かを誰かに仕掛けたわけではないが、望まずともこの問題の渦中にいる彼。ずっと共にいたアンリたちはともかく、メアリーと顔を合わせるのは多少気まずいのだろう。
 広い屋敷では一人一室を割り当てられたが、この状況下で一人ゆっくりと休養をとる者も少ない。それぞれのどこかに集まって、今後の話し合いをしている。
 アンリの部屋には、ロゼウスとジャスパーを除くローゼンティアの兄妹が集まっていた。つまりはアンリ、ロザリー、メアリーの三人だけなのだが、ずっと消息不明だった妹、メアリーがここにいることは今までとの大きな違いである。
 ロゼウスは先程出て行き、ジャスパーは声をかけても動かなかった。エヴェルシードの面々は彼らで集まっている。ルースは夕食の片付けものをしているらしい。召し使いを一人も雇っていないので、誰かがせねばならないことだ。
 ロゼウスたちをここに導き、メアリーを動かしてシェリダンたちを連れて来たルースの真意はまだ闇の中だ。彼女の口から出た「ドラクルを殺して」という言葉の意味もまだわからない。何故、ルースが兄であるドラクルの死を願うのか。
「メアリー、お前はこれから一体どうするんだ?」
「わたくし、ですか?」
 応接用のテーブルを三人で囲み、まずは情報収集と意見交換と行く。
「そうだ。できれば、王城の中の話も聞かせて欲しい。あそこには今、誰がいて、何をどうしてる?」
「ええと……」
 これまではずっとドラクルたちの支配下にあるローゼンティア王城にいたという妹に、詳細を尋ねてみる。しかし。
「ごめんなさい。わたくしはずっと、城の中でも限られた場所にしか行けないよう監視されていて、今回もルースお姉様に言われてようやく出てくることができたんです」
 積極的にドラクル側につくでもないメアリーはやはり城内部にしてもさほどの情報を得られる立場ではなかったようだ。それに、今回の彼女の行動はルースの思惑に上手く乗せられている感もある。
「……そのルースの目的は、聞かされてたか?」
「ロゼウスお兄様の助けになること、だとは聞いていました。それがドラクルお兄様に逆らうことだとは、自然と察せられましたし……でも、わたくしは今までのように、みんなで過ごせるようになりたくて……」
 ルースに手引きされたとはいえ、今度の行動はメアリー自身の意志であるらしい。気弱な妹は、王城内部のことをアンリの問に従って、次々に述べていく。
「城の中には、主に誰がいる? ドラクル、あと他の兄妹たちは? それから、貴族や大臣たちはどうしてる?」
「ドラクルお兄様と、カルデール公爵がいつも何かお話をされているのは知っています。それから、アンお姉様、ヘンリーお兄様がおります。お二人もわたくしと同じようにほとんど監視下で、自由な行動はとれないようです」
「……あの二人は、ルースほどには信用されてないってことか」
 アンリたちからすればアンやヘンリーがドラクルを裏切るとも思えないのだが、本人はそうは思っていないらしい。第一王女アンと第三王子ヘンリーはドラクル側に与したものの、自由を与えられず監視の中にいるという。
「城の中の人間は、ほとんど入れ替えられています。皆、ドラクルお兄様に忠誠を誓う人間のようです。ドラクルお兄様の主だった部下は、先に述べたカルデール公爵を含めて四人。フォレット・カラーシュ伯爵、ダリア・ラナ子爵、ジェイド・クレイヴァ女公爵とカルデール公爵の四人が、お兄様の腹心で国の四方の守りを固めていますわ」
「大公は?」
「え?」
「ヴラディスラフ大公ゆかりの人間はいないか?」
「いいえ。見かけておりません。もしかしたらわたくしの知らないところで連絡をとりあっているのかもしれませんが……アンリお兄様は、ドラクルお兄様が叔父様たちと手を組んで革命を起こしたと思っているのですか」
「ああ。でなければ、こんなにも大掛かりな反乱だ。犠牲が大きすぎる」
 ドラクルの行動について、アンリはこれまでも様々な理由を考えていた。アンリの中で、ドラクルのこれまでの印象とこの反乱が合わないからだ。アンリにとってドラクルは尊敬すべき兄で、こんなことをする人物には思えなかった。ロゼウスに対しては時折人が違ったような態度を見せることもあるが、彼はいつだって王太子に相応しい人物だったのだ。
 そのドラクルが、こんな自国も隣国も巻き込んだ反乱を起こすだろうか。それも、自らを王族から排斥しようとした父王への復讐などという理由で。
「でも、城の中にはお父様の時代と違って、若い人ばかりがいます」
「本当か? メアリー」
「はい……アンリお兄様が何をお考えかわたくしにはわかりませんが、確かに城の中には若い人ばかりです。今度の革命は、ドラクルお兄様が以前から繋がりを持っていた地下組織の勢力が起こしたそうです」
「そんなことまで、どこで聞いたの? メアリー」
 難しい話はお手上げだと、それまで大人しく口を噤んでいたロザリーが一つ違いの妹に尋ねた。メアリーもロザリーと同じく、政治には疎いはずだ。こんな情報、彼女が自力で手に入れたとは思えない。
「え? あ、はい、これはドラクルお兄様から直接」
「直接?」
 どういうことだ、とアンリとロザリーは妹の方へ身を乗り出す。
「あ、あの……わたくしを自分の勢力に引き込むための説得だと言って、ドラクルお兄様はよくわたくしのところまで会いに来てくださったんです」
「あのドラクルがぁ?」
皆まで聞かずにロザリーは嫌そうな表情だ。兄妹で一番の身体能力と腕力を誇る第四王女は、ドラクルとそりが合わない。
「……ドラクルお兄様は、わたくしには優しいですよ?」
 控えめにメアリーが言うが、ロザリーはますますふてくされたような顔をする。
「それは――」
自分より弱い者にだけ優しいだけでしょ? 言いかけて止める。それではメアリーが無力だと言っているようなものだ。
だがロザリーからしてみれば、それが真実だと思う。彼女は彼女で、ロゼウスやアンリ、このメアリーとは別の面からドラクルを見ている。
ドラクルは確かに優しいのだろう。兄妹の中の誰も彼に敵わなかった頃は、彼はそれなりに優しかった。部下や民にも人気の高い王太子。だがあの兄はロゼウスがその才能の片鱗を見せる頃には、徐々に態度を変えていった。
 自分より弱い者にしか優しくできない優しさなど、本当の優しさではない。弱い者より強い者が苦しまないなどと、誰も言えないのだから。
 それにドラクルは、弱くても今は亡きミザリーのような者には冷たかった。あの姉は政治や武芸の才能には恵まれずとも、ここぞというところで芯の強い性格をしていたから、そんな部分がドラクルの気にいらなかったのだろう。
 つまり彼は、弱く、自分に縋り、隷属する輩が好きなだけなのだ。崇める者がいなければ立てないハリボテの王様なのだ。
 ロザリーが兄である彼をそんな風に思うようになったのは、シェリダンと出会ってからだった。これまでなんとなく感じてはいても形にならなかったドラクルへの思いを形にしたのは、シェリダンの生き様を見て。
 自ら汚名を着て民衆の投げる石の雨に打たれても堂々と地に立つ彼は、誰一人崇める者がいなくてもそこに在る王だった。
「……ドラクルを、止めないと」
「ロザリー」
「あの人は、王様には向かないわ」
 姉のアンのように詩の才能も持ち合わせないロザリーは、自分の思うことを上手く言葉にできない。だが心の奥底から実感としてそう思うのだ。ドラクルに玉座を与えてはならない。
「ロゼウスが王になれるわけではないけれど、だけど、ドラクルは……」
ロザリーは考え込む様子で俯き、アンリは瞳を閉じて物思いに耽る。メアリーは姉と兄の様子におろおろと二人の顔色を窺う。
「革命の王か……」
 袂を分かったかつての兄を思い、室内にはしばし沈黙が降りる。

 ◆◆◆◆◆

 ローゼンティアの一行がアンリの部屋で話し合っている頃、シェリダン、リチャード、ローラ、エチエンヌのエヴェルシード勢もこれからの行動について話し合っていた。
 場所はリチャードの部屋だ。
「さて、どうしましょうかね」
「ルース姫の胡散臭さは疑いようがないし、あのメアリー姫はそれほど頼りになるお人だとも思えませんし」
 ローラとエチエンヌは難しい顔をしている。これまでは主であるシェリダンの意志に従い、彼がエヴェルシードの玉座を再びその手に得るものと信じてその行動を助けてきたが、今のシェリダンはもはや国を追われた身で帰る場所はない。
権力から遠ざかり、一角の財産も失った。その程度で双子とリチャードがシェリダンを見放すわけではないが、行動の果てに得る物がないこの状態で彼に危険なことをさせるのは本意ではない。
 いくらシェリダンの実力を信じているとはいえ、危険は彼らの予測を遥かに凌駕してやってくる。つい先程まで、プロセルピナの術によって崖下に落とされて安否不明となっていたシェリダンだ。
 それに、アンリたちローゼンティア勢とは違ってエヴェルシードの彼らはこうも思うのだ。
 シェリダンはロゼウスにさえ関わらなければ、こんな目に遭う事はないのでは。好き好んで危険な目や辛い目に遭う必要などない。
 カミラによって玉座を奪われたことは仕方がないかも知れないが、このままロゼウスと共にいて命まで失う必要などない。
 ロゼウスのことがそこまで憎いわけではない。だが、シェリダンとは比べられない。三人に共通する思いはそれだった。
「シェリダン様」
 ローラが意を決して声をあげる。
「何だ? ローラ」
「もう止めませんか?」
「何?」
「そろそろ潮時でしょう。もう止めませんか? あの方に関わるのは」
 真摯な緑の瞳に見つめられて、シェリダンの炎色の瞳が不思議そうに瞬いた。
「……お前たちは、もうロゼウスと共に行くのは嫌か?」
 ローラがあえて伏せたその名を、シェリダンはあえて持ち出した。問題なのはアンリではない、ロザリーではない、一人だけならばジャスパーも無害だ。
 気をつけるべきはロゼウス。彼自身が何も望まずとも、その存在が嵐を招く。
ロゼウスさえいなければ、これ以上傷つくこともない――。
だけれど。
「お前たちがもしも私と共に行く事はできないと言うのなら、そう言ってくれて構わないのだぞ?」
「シェリダン様……っ!」
 そうではないのだと声をあげようとしたローラの唇を指先で軽く封じ、シェリダンはわかっていると言う風に首を左右に振る。
「お前たちが何を考えてそう言ってくれるのかはわかる。だがもう、私にはロゼウスと離れて生きるという選択肢はない」
 それが必ず死につながる道だとしても。語る彼は穏やかに微笑んだ。その瞳の中に三人は覚悟と言うにはあまりにも透明な想いを見る。
「そんなに、あの人が好きなんですか?」
「ローラ」
 テーブルに身を乗り出した姉を諫めるようにエチエンヌが彼女の手首を掴んで声をかけるが、ローラは言葉を止めない。
「そんなに、ロゼウス様がお好きですか! ご自分の命より!」
「そうだ」
 一瞬の躊躇いもなくシェリダンは頷いた。
「私はあれを愛している。誰よりも、自分自身よりも」
 シェリダンはローラが自分を想っていることを知っている。それでいてはっきりとそう告げた。
 ローラが傷ついたようにつぶらな緑の瞳を揺らす。けれど良くできた侍女は泣いて駆け出すでもなく、すとんと元通りに椅子に腰を下ろす。
「それがシェリダン様のご意志ならば、私は従います。ローラはあなたの部下です。あなたのためにお使いください」
「エチエンヌもです」
「リチャードも同じです」
 シェリダンがロゼウスを求めるのは、どこに利益が発生するでもない極めて個人的なこと。それでも彼ら三人はついていくという。国を追われてこの旅に出てからシェリダンは彼らに給料も払ってはいない。それこそこの旅で彼らが得るものなど何もない。
 それでも。
「……ありがとう、お前たち。そしてすまない」
 自分が諦めれば問題は早いのだとシェリダンは知っている。
 ドラクルの目的はロゼウスでありローゼンティア。カミラが完全に即位した今では、一度利用した隣国であるエヴェルシードに何の興味もないだろう。だがドラクルがロゼウスに敵うわけはない。彼は次代の皇帝なのだから。
 全てから手を引き、ロゼウスが皇帝になろうともドラクルが滅びようともハデスやデメテルが死のうともまったく関係ないと生きて行けば事は単純だ。ロゼウスたちヴァンピルは呆れるほどのお人好しだ。シェリダンたちエヴェルシードに一度はローゼンティアを侵略されたにも関わらずそれを盾にシェリダンたちに協力を迫るようなことはなかった。
 たぶん、彼らがこの問題から手を引くといえば、ロゼウスたちは受け入れるだろう。
 好き好んで他者を巻き込む趣味はないと、優しいのにどこか世界を閉ざし世界から隔絶されている彼らはこの手を離すだろう。
 だからこそシェリダンの方が、握ったこの手を離せない。ロゼウスのこともハデスのことも見捨てて見殺しにすれば問題は容易いのに、そうできない。
 厄介なのは人の心。十二分にわかっていたはずのそれを今また思い知る。父王を幽閉して即位した時の願望とはまた違うが、今シェリダンが進む道も先は破滅に繋がるばかりだ。
 それでもその道を歩く。
「お前たちにもう一度聞こう。抜けるならその機会はこれが最後だぞ。ここからローゼンティア王城へと向かえば、もう生半可なことでは抜け出せない」
 これまでにも何人もの死を見送った。ミカエラ、ウィル、ミザリー。エヴェルシードから来た彼らはまだ皆無事だが、これから先、いつ何時何があるかわからない。
「私はお前たちに対して支払えるようなものを何も持っていない。そんな私にお前たちは命を賭けられるというのか?」
 得るものはただ想い一つ。形あるものは何一つ手に入らない。だがそれでもいいのかと。
「言ったでしょう、シェリダン様。ローラはあなたにこの命を救われた瞬間から、あなたのモノです。この命をどうお使いになるも、あなたの自由」
 例え今この瞬間死を命じられるのであってもついていく。そんな思いでこれまでやって来たのだと。
「私もです、シェリダン様」
 リチャードが言葉少なに、だがしっかりと妻の言葉に頷く。
「そうですよ。それにシェリダン様、それ、ちょっと聞くのが遅くないですか? ここまで来ておいて今更あなたを置いて自分たちは手を引くなんて、僕らがそんなことするわけないじゃないですか」
 エチエンヌが、双子の姉とはまた違った微笑で笑う。
「ああ。そうだな」
 シェリダンもつられたように、くすっと小さく笑みを零した。
 今更あんなことを聞くのがふざけているような、それこそここまで何の益もないのにシェリダンについてきてくれた三人。決して明るくはない過去を抱え、それでも懸命に生きている。
 ふと、シェリダンは今未来を知りたいような気になった。自分はロゼウスに殺されると随分前から予言されているが、その詳細は誰もわからないと言う。それがどのような状況でもたらされる死かわからない。事故か、それとも何かの理由あってロゼウスが自分を裏切るのか。
 もしもそれが事故でなく、何かの理由があってシェリダンだけを狙うものならばそのままこの三人は見逃してもらえないか。そう願う。未来を見ることのできるハデスにでも聞いて、今度そのこともロゼウスに相談してみるべきだろうか。
 死にたくない。死なせたくない。殺したくない。
 人が生きるのに高尚な理由などないし、人生に敗者も勝者もない。生き物が生まれる意味などどこにもないし、存在価値など誰が証明できるものでもないけれど。
「シェリダン様、私たちはどこまでも、あなたについていきます」
 それでも生きたいのだと、生かしたいのだと願ってしまう。
 もしかしたら、それがこの世で一番罪深い祈りなのかもしれない。そんな風に思いながらシェリダンは瞳を閉じた。


228

 挫いた足の痛みは馴染んだ魔術によってすでに消えている。だがその部分が、今も妙に疼く気がするのは何故だろう。
 ルースによって強引に割り当てられた部屋の一室に、最重要警戒人物としてハデスは押し込められていた。部屋の広さはそこそこで調度類も揃っていて何不自由ないが、閉じ込められているという閉塞感はそれだけで快適とは言いがたい。
 だが今のハデスには、それすらもどうでも良かった。寝台の上に腰掛け、行儀悪く片足だけ寝台の縁に立ててそれを抱えるように座り込む。眠るように目を閉じている。白い瞼に影が落ちる。
 床に伸ばしたもう片方の足は何ともない。でも抱え込んだ方の、崖から落ちて一度挫いた足がどうにも疼く。
 このままこの部屋に幻の痛みを発する無傷の足を抱えて緩く閉じ込められていれば、もう何も行動しなくてすむ。
 予言で見た未来を招くことも、それに逆らうことも。
 もともと、デメテルの一存によって作成されたハデスと言う人間の存在は姉である彼女を失えばこの世界のどこにも帰属しない。このまま柵のないまま、命の終わりまでまどろんでいることだって可能だ。目を閉じて耳を塞ぎ、何も気にせず何も考えず眠りたい。
 その眠りの外で、誰が死んでも構わないというのであれば……。
「!」
 ふいに、瞼裏を一つの面影がよぎり、ハデスは瞳を開いた。
 崖下で締め殺そうとしたのに、できなかった。彼の死に無関心でいる自信はどうしてもない。
 そのすぐ前まで殺し合っていた相手に向かってあっさりと休戦を持ちかけられるその神経。図太いと言えばいいのか、寛容とでも言うのか、それともただの愚かさか。恐らく彼の行動はその全てを内包し、そしてそのどれでもないのだろう。
 魔術で癒した傷もすぐには痛みが消えない。病を癒してもその場で病人が全快にはならず、疲労は蓄積されているのだから当たり前だ。身体が痛みを忘れるまでは堪えねばならないそれを、彼はあっさりとハデスから奪いとる。
 背負われたその身体に感じた暖かな温もり。自分よりはたくましい武人であるとはいえ、少年らしい薄い背中から感じた心臓の鼓動。
 この熱を、この心臓を止めてしまおうとしていたはずなのに、それが与える安らぎに誰よりも縋っていたのも自分だった。
「……殺したくない」
 あの時、唇から零れた本音。
「死なせたくない」
 死なないで、と縋り付いた。
 ――ハデス、私は……。
 やはり、馬鹿だと思った。あんな男のどこがいいのかと。
 シェリダンはハデスから見ても、同性から見ても魅力的な人物だ。別に性的な意味合いを含むわけではなく、人間的に好ましい。
 だがハデスには、ロゼウスの魅力とやらはわからない。あんな、大きな物事に流されるだけで自分から一切行動することのない軟弱者のどこにシェリダンは惹かれると言うのか。
 彼のために命まで賭けて。
 ロゼウスと共に居ることで、シェリダンが得られるものなど何もない。むしろ王の座を失い、王の名を失い、全てを失っていくばかりだ。ロゼウスにさえ執着しなければ巻き込まれることのなかった災難を、彼は好んで引き受けているように見える。
 馬鹿だな、と繰り返す。
 だが憎めない。嫌えない。平然と己を矢の雨に晒すことができる。その愚かさが何よりも得がたいものに思える。
 愚かだと繰り返しながら、その実は彼の一途な愚かさに憧れていた。自分はあんな風に常に堂々としていられない。闇で生きるしかできない立場ではあるが、闇で動くのは人目を気にしなくていいからだ。好んで暗がりを歩いていたのは自分。
 憧憬と嫉妬、羨望と不安、そして確かな友愛と。
 感じていたのは本当。失いたくない。その存在を。
 けれどやはり彼は望んで死地へと訪れるのだろう。その愚かさ故に。
「……僕が言ったって、聞きやしないくせに。本当の我侭は、誰なんだよ」
 恨めしげに呟いて再び顔を伏せてしまう。影のかかる視界に二人の人物が繰り返し訪れては去る。
 ハデスたちを崖下へ落としたプロセルピナ。その直前に見た表情はまるで彼女のものではなく、姉であるデメテルそのものだった。そのこともできれば確かめたい。
 シェリダンと共にメアリーに案内されてこの屋敷に辿り着いたとき、ロゼウスははっきりと「デメテル帝」と口にしていた。いくら顔が似ているとはいえ、ロゼウスが別人を混同するようなややこしい表現を使うことはないだろう。では彼は本当に死んだはずのデメテルのことを口にしたのだ。ハデスが殺したはずのデメテル。
 彼女が生きているということ、そしてプロセルピナのあの表情を重ねればわかる。
 ハデスがデメテルを殺したと思ったあの瞬間、あの禁術。デメテルはそれを逆手にとって、自らの娘であり姪にあたるプロセルピナの身体を乗っ取ったのだ。彼女ほどの魔術師ならば、そんなことができてもおかしくはない。
 なりふり構わないのは、彼女も同じだったということか。皇帝でありハデスの主君でもあるデメテルは次代皇帝であるロゼウスが即位する前に死ぬ運命にある。彼女は彼女で、あの冷静な表情の裏で焦っていたと言うのだろうか。
「姉さん……」
 プロセルピナを乗っ取るという形であっても、デメテルが生きていたことについてハデスは何ともいえない感情を覚える。憎悪? 殺意? 脱力感? 悔しさ? だが一番強いのは……安堵なのかもしれない。
これも滑稽としか言いようのない話だが、彼女が死んでいなくて良かったと。
「……馬鹿だ。僕は……僕が一番の馬鹿だ」
 目元が熱くなるのを感じ、ハデスは透明な雫が零れる前に手で顔を覆った。渾身の目論見が失敗し、全てが終わったのに何故か哀しいだけではない。それがいっそう惨めだ。
 死んでしまえと叫んだその唇で死なないでと囁き、殺したいと願った相手が生きていてこんなにも安堵する。
「僕は一体、どうすれば……」
 プロセルピナとデメテルが連動しているのであれば、皇帝と選定者の寿命の呪いはどうなったのか。予言で見た未来の通りならこれから先最後の、最終幕と呼ばれる大決戦があるはずだが、それはどうなるのか。
 何より、例えその時が来たとしても、もう自分が一番に望んでいることが何なのかわからない。
 わからない自分を、ようやくハデスは認める。

 ◆◆◆◆◆

 夜も更けた。
 各々自室で自らの意志を確認していた者、仲間の部屋に集まってお互いの胸の内を確かめていた者たちも、そろそろ寝に入ろうかと言う頃だ。
リチャードの部屋を出て、シェリダンは自室へと戻ろうとする。その廊下に、白くぼんやりと浮き上がる人影を見る。
一瞬ロゼウスかと思った。すぐに違うと気づく。髪が長い。
 同じ顔であるロザリーに関してはそんな間違いもないことを考えると、やはり彼らは似ていると言う事だろう。ロゼウスとロザリーの外見の相似以上に、ロゼウスとルースは何かが似ているのだ。
 その白皙の面相に浮ぶ、どこか壊れそうに儚い表情が。
「……私に何の用だ」
 シェリダンが声をかけると、穏やかな微笑を浮かべて佇んでいたルースが顔を上げた。常に俯きがちな彼女の頬を見事な白銀の髪がさらりと撫で、輝きを散らしていく。
 普通の男ならばそれは冬の風に凍える花を掌で覆い隠して守るように何に代えても守らなければと思わせる風情なのだろうが、生憎とシェリダンはその手の常識とは縁がない。彼がルースから感じるのはその外見の美しさをもってしても隠しきれない胡散臭さだ。
 単独で彼女と関わるのは、きっと面倒なことになるだろう。メアリーにルースの指示だと説明され、ここまで来る道中もずっと考えていた。ヴァートレイト城へ向かうことになったあの一件からずっとそう思っていたのだが、この場を逃れやすい理由もない。敵前逃亡は性に合わない。
「少し、お話を。ほら、私はあなたには本当の目的を話しているでしょう?」
 そもそもの発端となった例の話を蒸し返されて、シェリダンが不機嫌に眉をしかめる。手近な客室の扉を開けて、中へと彼女を招き入り込んだ。屋敷は広く、一行に一室ずつあてがってもまだ空き部屋が半分以上残っている。
 もっとも、その分だけ見つかりやすいだろう。こんなところに留まれるのはもって一晩が限度だ。わかっているからこそ今日ぐらいは野宿ではなくまともな寝台で休みたいものだが、この女に捕まってしまってはそうもいかないようだ。
「……お前の本当の目的とは何だ」
「あらいやだ。シェリダン王ともあろうものが、忘れてしまったの?」
 応接テーブルの椅子の一つにどっかりと腰を降ろして尋ねたシェリダンに対し、部屋の入り口で扉を塞ぐように立ったルースがまたしても微笑む。
 シェリダンに女性に椅子を勧めるような神経がないことは今更だとしても、ルースはルースで気分を害した様子もなく立ったまま話を続ける。
「あなたにだけは本当のところを伝えましたのに」
「本当の目的、な。お前はあの時、自分の狙いはドラクルを退け自分がローゼンティアの王位に着くことだと言っていた。だが先ほどロゼウスたちには、『ドラクルを殺せ』と言ったのだろう」
「ええ。それがどうしたの? 別におかしいことではないでしょう? 私が玉座に着くためには、ドラクルが死んでくれないと」
「嘘だな」
 淀みなく紡がれたルースの言葉を、シェリダンははっきりとした口調で否定する。
「お前は確かにその雰囲気と情報量からうまく立ち回っているつもりだろうが、ボロが出始めているぞ。お前の本当の目的は『王位を継ぐこと』だと? そしてそれを私にだけ伝えたと。そこからまず矛盾しているだろうが。ロゼウスたちにもドラクルを殺せと告げておいて私にだけ本当の目的を話した? それならロゼウスたちに話した『ドラクルを殺せ』がまったくの嘘だと言う事になるだろう。だがお前は矛盾しないと言った。それもまた本当であると。では私にだけ真の目的を告げたことにはならないな」
 口元に微笑を浮かべたままのルースを睨み上げ、シェリダンは目つきを険しくして問いかける。
「それでは聞かせてもらおうか。今度こそ、お前の本当の目的とやらを」
 ルースは動き出した。部屋の入り口から歩き出し、応接テーブルのシェリダンのもとへと向かう。
 席には着かず、傍らから顔を覗き込むように接近した。一見して男を誘うような艶かしい仕草で、顔を近づけてくる。襟元を肌蹴るように彼の喉首に絡む白い指。
 この距離なら囁き声でも聞こえる。
「嘘をつくコツは、大部分の嘘の中に一握りの真実を盛り込むことだと言うが、お前は配分をしくじったな。本来明かしてはいけないところまで明かしてしまった。これならば、嘘と真実に境があるようでないハデスの方がまだ上だ」
「ええ。そうでしょうね。だってハデス卿は、自らが周囲を騙すためについたはずの嘘をいつの間にか真実にしてしまった方だもの。――愚かなことよ」
 これが本当の顔ということか、たかだか一王国の王女、それも薔薇王家の闇が明かされた今では王女ですらないと明らかになったはずのルースは、帝国宰相たるハデスへの侮蔑を隠そうともしない。
 吐息が触れるほどに近づき、これまでとは違う種類の毒々しい笑みをはいた紅い唇を目にし、シェリダンは眉をしかめる。
 常に浮かべているような透明な感情の読めない微笑ではなく、毒々しい笑みを唇に浮かべ、目元からが優しげな翳りを取り除いたルースのその顔は驚くほどにロゼウスに似ている。
 二人は異父姉弟だ。ルースの父はヴラディスラフ大公フィリップ。ロゼウスの父はローゼンティア国王ブラムス。二人の母はクローディア=ノスフェル。
 ロゼウスからは、自分は父親似だと聞かされるシェリダンだが、疑問があった。確かにロゼウスとドラクルは似ているが、ブラムス王とはそれほどまで似ているだろうかと。王家は濃い血統を保つローゼンティアであれば王族の血縁は皆それぞれ誰かしらの面影があるものだ。ブラムスとフィリップに関しては一卵性双生児であるというから二人のとこから生まれた子どもたちがどちらの子どもであるのか見分けがつかなくともしょうがない。
 周囲からそう言われ続けて思い込みとなっているだけで、本当はロゼウスは父親であるブラムス王ではなく、母であるクローディア妃に似ているのではないか? そんな風に考える。吸血鬼にしては異常に出血や負傷に強いロゼウスのその体質は王家のものというよりも、母方の生家、ノスフェル家の特色が強い。
 人は己が見たいものを見るのだ。
 ロゼウスとドラクル、二人が瓜二つだと言うそれが誰かの望みに歪められた真実ならばまた、シェリダンもその歪んだ鏡の世界にいるに違いない。
 だが彼はそれを己で自覚しているからこそ、鏡像のまやかしに騙されたくはない。
 真実はどこだ。
「ルース=ノスフェル=ヴラディスラフ。お前の本当の目的は、ローゼンティアの王位などではないだろう?」
 ぴくり、とルースが髪と同じ白銀の眉を動かす。
「どうしてそう思うの? それでは私の目的はドラクルを殺す方だと考えている?」
「ああ。他にも何か隠し事はしているかもしれないが、お前の目的と言う意味ではそれが最も近いのだろう。……ローゼンティアの玉座が欲しいからドラクルを殺すのではない。逆だ。お前はドラクルを確実に殺したいからローゼンティアを滅ぼしたのだろう」
 ルースはドラクルの腹心ではあるが、アウグストと違って表立ってドラクルの行動の補佐をするのではない。彼女が言いつけられる仕事はいつもあくまでも直接的な事態の進行には関係がないような小事ばかりだ。
 それでも彼女はドラクルのやることをこれまで見逃すことによって、消極的にローゼンティアの滅びとエヴェルシードの侵略に加担してきた。それは他ならぬ彼女自身の意志である。
 他の者がどう評価を下すのかは知らないが、少なくともシェリダンの眼にはルースが兄であるドラクルの顔色を伺い、ご機嫌伺いをしなければ生きて来られないような女には見えない。彼女には彼女の目的があって行動しているのであって、何かの罪の意識や崇高な使命などに囚われるようなことがないように思える。
 ルースが動く時、それはあくまでも、その行動が彼女の欲望に沿う時。
 シェリダンの眼にはそのように映っている。だが真実はどうだろうか。
 毒々しい、熟して腐る前の果実の色をした唇が甘い芳香を漂わせながら開く。
「正解よ。シェリダン王、あなたは本当に鋭いのね」
 悪戯の見つかった子どものように、ルースが無邪気に笑う。その笑みはもはや狂気を通り越して虚無に近い。彼女はどこを見ているのだろう。
「さすが、始皇帝がその魂をもってしても器を奪うことのできなかった人格だわ」
「お前……」
 シェスラートの一件の様子も詳細に知っているらしい態度を見せるルースに、再びシェリダンの警戒心が強まる。
 そんなことを露とも気にしない様子で、ルースは彼の額に己のそれを軽く触れ合わせるようにして、更に近い距離でついに本心を明かした。
「そうよ。私の本当の本当の、本当の願いは、ドラクルを殺すこと」
 正義など知らぬ、道徳など知らぬ、仁義など知らぬ。この世のあらゆる観念に縛られることのない虚無を統べる者が唯一、執着するその願い。
 ドラクルを殺すこと。そのためなら自国を滅ぼすことも、他国を巻き込むことも、実の両親も養父も殺害することを厭わないという精神。
 それはともすれば憎しみとまちがえそうなほどに強い、
「お前は、ドラクルを愛しているのか……?」
 何も生まず、何にも繋がらない虚無の愛。
「そうよ。私は片親とはいえ血のつながった実の兄にしか恋情を抱けない罪の女」
 兄妹である、その、誰よりも近くて遠い絆。血の繋がった家族だからこそ永遠であるのに、だからこそ永遠に結ばれないという絆。
 シェリダンの脳裏に、ふっとエヴェルシードで別れてきた妹のことが過ぎる。彼も愛していた、実の妹であるカミラを。だからルースの言葉を世迷言だとは一刀両断に否定できない。
「私はあの人を愛しているの。でも彼は永遠に私のものにはなってくれないの。だから――」
 その動揺が、警戒し張り詰めさせていた心の一瞬の隙になった。
「ぐっ!」
 喉に這わされていた指が、シェリダンの首をぎりぎりと締め上げる。吸血鬼の握力は桁違いだ。ルースはその細腕とも思えぬ力で、シェリダンの喉首を締め上げる。
「ドラクルが心に呪いをかけられているのはブラムス王。でも彼が愛しているのは、そんなドラクルの理不尽な要求を受け入れて飲み込んだ優しいロゼウス。私を永遠に見てくれないあの人はロゼウスが好きなの。でもロゼウスが愛しているのはあなた。だから」
 だから、とまたしてもその言葉で区切られた言葉の続きを、シェリダンは薄れいく意識の中で聞く。
「ロゼウスの愛するあなたを引き裂いてドラクルに献上したら、あの人はどんな顔をしてくれるのかしら?」
 好きな人の反応なら私はなんでも見たいのよ、と。
 ルースが、その狂気をあらわにした。