218

 これが最後と決めた書類の一枚にサインをし、デメテルは席を立った。
「来たのね、ハデス」
 帰ったのね、ではなく、来たのね、と。結局最後まで自分は彼の帰る場所にはなれなかった。
 ハデスは預言者だが、彼一人が世界で唯一の預言者だというわけではない。歴史上の預言者は巫女と呼ばれたサライ姫が有名だが、彼女以外にもいつの時代にも何人もの巫女がいた。
 デメテルにも多少の未来を見る力はある。皇帝の能力と照らし合わせればもっと有用性は広がる。
 しかし、未来が見えることと未来を変えられることは違うのだ。不可避の事態をなんとか避けたくて運命を曲げたくて、それでも駄目なことばかりだった。
 そして今の彼女は、もうほとんどそれを諦めている。
 皇帝領、居城の一室である執務室。最後の仕事を終えて、彼女は室内に足を踏み入れた弟を迎える。椅子から立ち上がりふり返ると、殊更優雅に微笑んで見せた。彼にこうして笑いかけるのも、デメテルとしては最後だろうから。
 ハデスは嫌そうに顔をしかめる。どうやら相当嫌われているようだ。
 彼の方から話題を切り出した。こんな真夜中に、姉である皇帝の執務室を訪れたわけを。
 だがきっと彼は、同じようにこんな真夜中にデメテルがまだ執務をこなしていた訳を聞きはしないだろう。
 向こう三か月分の仕事は終えた。次の皇帝が正式に玉座に座るまではまだ長いようだからこんなもの焼け石に水にしかならないだろうが、非常時の執務形態についても多少は触れてある。後はこれまで帝国を支えた有能な家臣たちに任せよう。もっとも、彼らがすんなりと次の皇帝を認めるかはわからないが。
 己の死期を悟った皇帝は、それを与える者と対峙する。
 生まれたその時に腕の皮を剥いで父のそれを移植した、偽りの選定者である弟。彼女が守り育ててきた彼は、今はデメテルを憎んでいる。
「あなたの時代もこれで終わりだ、姉さん」
「そのようね」
 デメテルの視線は、間近に対峙したハデスの右手に向けられている。彼の右手から、何か異様な禍々しい気配を感じる。皇帝である彼女にもはっきりと分析できないということは、それは彼女とは別の領域にその力を持つものだ。つまりは魔族かそれぞれの宗教関係だが、ハデスが持っている力とすればおそらく冥府の何かだろう。
 刃のように鋭い銀色の爪。
「姉さん」
 嵐の前の静けさ、最後に激昂する前の、不自然に凪いだ水面のような静かさで弟が彼女を見つめる。
 デメテルは十八歳で皇帝となったためにその外見は十八で固定されている。それ以上齢を重ねることも、若返ることも基本的にはない。魔術で己の望むように容姿を変える事はできるが、基本的には生まれ持った姿のままで過ごしている。
 ハデスの方は違う。彼は皇族ではあるが皇帝ではない。己の肉体年齢をある程度調整して止めることができる。歴代の皇族は皇帝に頼んで自らの好きな、大概はもっとも己の能力が発揮される年齢で肉体の時間を止めるものだ。しかしハデスは違う。
 彼は意識的にも無意識にも、デメテルに合わせて肉体年齢を保っている。彼が普段の姿として選んでいる十六歳の少年姿は、彼が初めて姉と男女の関係を持ったその年齢。そして必要に応じて青年にも老人にもなれる彼は、しかし姉皇帝の前に出るときは必ずこの少年姿をとる。
 あくまでもデメテルの弟であるハデスは、姉の前で姉よりも年上の姿をとれないのだ。
 そんな風にお互いを意識しながらも、二人が擦れ違う。百年近い時をかけて、それでもわかりあう事はできなかった。
 その結果がこれだ。
「姉さん」
「なぁに、ハデス」 
 二度目に呼ばれて返事をし、デメテルは弟の顔を見る。自分と同じ黒髪に黒い瞳を持つ、最愛の弟。家族を自ら殺した彼女にとって、彼の存在だけがこの世の唯一の救い。
 私は狂っている。デメテルは思う。美しい彼女、それも皇帝となれば黒の末裔でも求婚者は後を絶たなかったが、彼女は実の弟以外の誰にも興味を示さなかった。
 己と同じ血を引く存在しか愛せない。それは……。
「自己愛だ」
 断罪の時は今。
「姉さん、あなたのこれまでの僕への行動は、全てあなたの自己愛だった」
 誰よりも手塩にかけて育て、愛した弟からその愛を断罪される。
「私はあなたを愛しているわ」
「違う。あなたのそれは、愛情なんかじゃない。あなたが可愛かったのは僕じゃない。自分自身だ。けれどそれを誇ることも忌むこともできず、手早く代用品として求めたのが僕だったんだ」
 目の前に立つハデスが苦しげに表情を歪ませる。
「僕もずっと、あなたが好きだった。あの夜までは。あの日までは確かに、優しい姉さんだとあなたを信じていた」
「今はもう信じてくれていないの?」
「僕の行動から見てわからない」
「そう。それがあなたの答なのね……」
 デメテルは静かに目を伏せた。黒い睫毛が目元に影を落とす。黄色い肌と言っても体毛が濃いために意識しなければそう肌の色が濃いなどと思われない。白い瞼だった。
 ハデスの眼から見てもデメテルは美しい。外見は美女と言うに差し支えないものだ。だがその中身は爛熟して地に落ちた果実のように、腐臭を撒き散らし辺りのものまで腐らせるだけ。その中身は見た目ほど美しくない。
 どんなに上辺を飾っても、外観を取り繕っても。
 それでも人間その中身までは変えられないということか。
 デメテルは皇帝であり、有能な人間だ。それは認めよう。
 だが彼女は決して素晴らしい人物などではなかったのだ。
 だからここで、今になって、弟に殺されようとしている。
 デメテルが自分で未来を見たのと同じように、ハデスもそれを見たのだろう。デメテルの皇帝としての力は、今この瞬間が最後だと。
 彼女の次の皇帝であるロゼウスはすでに生まれ、育っている。皇帝としての終着地点にはまだ至らないが、下地はこれで揃った。次の玉座に座る資格は十分にある。
 そう、神は今この瞬間、デメテルの力よりロゼウスのそれが上回ったことを示した。
 デメテルの力は今が最低値であり、ここから上がることはない。だがロゼウスはこれからも皇帝として成長を続けることになるのだろう。
 つまりは今が、ハデスにとって全てを成し遂げる最後の機会だった。
「ハデス」
 姉は弟の名を呼んだ。
「私を殺すの?」
 静かな問に、同じように静かにハデスが答える。
「ええ」
 室内にはいつの間にか結界が張られている。ハデスが張ったものだ。これはこの部屋と外界を断ち切る意味合いの他に、この空間を冥府と繋げる役割をも果すものだ。ハデスの足下に薄蒼い光の紋様が描かれる。
 ハデス自身はデメテルの言葉よりも世間の中傷を信じて絶望しているようだが、実際の彼の力は贔屓目なく公平に判断して素晴らしいものだった。比較対象が皇帝であるデメテルであるためにまったく優秀に見えないかもしれないが、そもそも黒の末裔だとて誰も彼もがそんな強力な魔力と魔術の才を持って生まれてくるわけではない。ハデスは一族の中でも間違いなく優秀な魔術師で、黒の末裔の中で優秀だということはこの世界の一般的な人間には彼に敵う者などいないということだった。
 そう、冥府の術に関しては、彼は姉であるデメテルさえも上回るくらいだ。
 蒼い魔法陣から伸びてきた魔界の蔦が、突如としてデメテルに襲い掛かった。

 ◆◆◆◆◆

 冥府の植物の襲撃を受けながら、しかしデメテルとてこのままやられてしまうわけにはいかない。皇帝ともあろうものが、こんな簡単に殺されては名が廃るというものだ。
 それに、彼女があっさりと自らの命を差し出したところでハデスの気は治まらないだろう。
 魔力で作り出した剣を一振り、デメテルは自らに向かって伸びてくる蔦を両断した。蒼い魔法陣からこの世に生み出されてくるのはその蔦だけではない、異形の生き物たちが次々に這い出してくる。
 そして数々の魔物たちを眼晦ましに、ハデスが動くのも忘れてはいけなかった。
 振り上げられた銀色の爪を、デメテルは先ほど蔦を両断したのとは別の、今度はもとより懐に忍ばせているナイフで受けとめる。
「さすがは皇帝」
「褒めてもらって光栄だわ」
 ハデスとデメテルがこうして戦うのは初めてではない。ハデスはこれまでにもデメテルに戦いを仕掛けている。そのどれにも大敗し、結局はデメテルがハデスを許すということもあってこれまでは事なきを得ていたのだが、今はそうもいかない。
「その爪、何か特別な力を持っているものね」
 ハデスがそんなものをつけているのは珍しい。もう彼にとっても後がないということか。
 ロゼウスが皇帝になりデメテルが死ねば、その選定者であるハデスも死ぬかもしれない。彼は正式な選定者でないため通常の形式がどこまで当てはまるかはわからないが、少なくとも死の可能性はある。
 しかし、彼自身がここでデメテルを殺し、ロゼウスをも殺すことができれば話は別だ。殺したデメテルの力をある方法により取り出してロゼウスにぶつければ勝機も見えてくる。
 だからやはりデメテルには死んでもらわなければならない。
「くっ」
 足下を捕らえようとする蔦をかわす。これらは切っても切っても際限なく魔法陣から伸びてくる。
 魔法陣の方を消してしまえばこれ以上冥府から魔物を召喚する事はできないのだが、それが専門であるハデスと違ってデメテルが冥府の魔法陣に手を出すのは一仕事だ。消すのに手間取っているうちにすでに現れている魔物から攻撃されたのでは意味がない。
 ハデスの結界のため、室内の景色は様変わりしている。いや、そこはもはや室内などとは呼べない空間だ。明らかにもとの部屋よりも広く、そしてどこにも繋がっていない。
 巨大な百足型の魔物に頭上から襲い掛かられて、デメテルはそれを真横に跳んで避ける。地面にどう、と倒れ付した百足の無防備な脇腹に剣を刺して蒼い血を噴かせ、次に襲い掛かってきた魔物に向かう。
 すばしこい狼、凶暴な竜、絶えず足下を狙う油断できない蔦に、頭上から襲い掛かってくる者たち。ハデスは魔物たちの後方に隠れて更に何かの術を行っている。
 蒼い魔法陣からひっきりなしに魔物が溢れ、空間を埋め尽くしていく。
 冥府の魔物は人間よりも、動植物に近い姿をしているものがほとんどだ。剣を持った兵士というわけではないのだが、これがなかなか厄介である。
 当然の話だが森や野の獣たちはそれぞれ特性が違う。しかも冥府の魔物ともなればもともとの生物の能力に加えて先ほどの大百足のように通常では考えられないような姿と力を併せ持つものも多い。それらの弱点を見極めていちいち対処するのは剣を持った何十人の兵士を相手にするよりも骨が折れるのだ。
 視界が悪くなってきた。初めは先ほど倒した百足の蒼い血のせいかと思ったが違う。
「これは、鱗粉……」
 辺りを待っていたのは蒼い血飛沫ではなく、蒼い粉だった。はっと頭上を振り仰げば薄紫の巨大な蝶が数匹ひらひらと飛んでいる。視界が曇れば敵の動きが見えず、危険が大きくなる。まずはこっちをなんとかするべきだ、ととりあえず今見える範囲にいる全ての蝶にデメテルは小ぶりのナイフを投げた。
 狙い違わずナイフは命中し、不気味な冥府の蝶たちは地面に落ちていく。ぴくぴくと痙攣する体は青黒く半透明な蔦に飲み込まれた。冥府の魔物たちは彼ら同士でも平然と殺し合いをする。
 そうして蝶を倒したにも関わらず、一度空間内に撒かれた鱗粉はなくならなかった。もうすっかりと充満してしまったらしい。視界を塞いでいる分は、しばらくすれば地面に降り積もると思われるが――。
 その時だった。
「!?」
 ガクン、とデメテルの身体から力が抜ける。膝が崩れて、地についた。
「冥府の蝶の鱗粉は特別性だ。それには獲物の動きを奪う毒が含まれている」
 どこからか、ハデスの声が響いてくる。
これまでの呼吸で、デメテルは少なからず鱗粉を吸ってしまっていた。それが体中に行き渡り今になって効果を発揮してきたようで、まったく動けないとは言わないが戦えるだけの力が身体に入らない。ただの無力な少女のように、逃げ回るだけの力しか残っていない。ナイフの残りももうない。
「無駄だよ、姉さん。やっぱり最盛期ほどの力は今は使えないみたいだね」
姿を現したハデスは平然としていた。同じ空間にいるのに、ハデスはなんともないのだろうか。
「僕は冥府で修行を積んだ身。このぐらいの毒性はなんでもない。それよりも、決着をつけよう」
 こんな簡単な方法でよかったなら、もっと早くに行動を起こせば良かった。ハデスが一人ごちながら、あの魔力の込められた爪を伸ばしてくる。銀色の刃のようなそれは危険だと本能的に察知したデメテルは避けようとするが、その足首が急にぎゅっと締め付けられる。
「しまった――」
 先程切り払った蔦が復活して、彼女の足下を捕らえていた。簡単に切り払えないように、極力広範囲に寄ってからぎゅっと一気に締め付ける。
 足首から太腿までを、蒼い蔦がからめとり締め付ける。足下を崩されて、あえなく彼女はその場に引きずり倒される。その体に更に蔦が絡みつき拘束する。一度捕らえた獲物を逃がすほど彼らも甘くはない。
 これまでより先端の鋭い蔦が伸びたかと思うと、ぶすりとデメテルの肩口に突き刺さった。
「ああ!」
 苦痛の声をあげるデメテルのもとに、ハデスがゆっくりと歩み寄ってくる。彼女の体はもはや完全に蔦に拘束されて動けない。中途半端な体勢で苦しがる彼女から血を吸った吸血植物が、その肩口から毒々しい紅い花を咲かせた。
 ハデスはその蔦だけを残しておけば十分と考えたらしく、これまで空間を飛びまわっていた魔物たちを魔法陣から冥府へと返す。後には身動きならないデメテルと、彼女を拘束する蔦と、そしてハデスが残された。
 細身の黒衣を身につけたハデスは、デメテルへと辿りつく。姉を傷つけその肩から血を流させながら捕らえた彼は、しかしこの光景には不釣合いな、酷く安堵したような表情で微笑んだ。
「やっと捕まえた。姉さん」

 ◆◆◆◆◆

 酷く安心した子どもの笑み。
 理性を手放し、正気を失った狂人の翳り。
 相反するものを内包した表情のハデスは、魔の蔦に拘束させたデメテルの身体に手をかける。
 彼女の体はいまだ囚われ、肩には突き刺さった枝から紅い花が咲かせている。傷口からはとろりと血が流れ、白い肌を濡らしていた。
 ハデスも黒い衣装をよく来ているが、それはデメテルも同じだった。彼ら黒の末裔は、その名にも冠する黒と言う色を好む。そう呼ばれたから黒を好むのか、黒を好むからそう呼ばれ始めたのか。黒の末裔。
 正式名称は暗黒の末裔という。
 ハデスはデメテルの肩に手をおき、顔を近づけて唇を合わせた。魔の蔦に肩を傷つけられているデメテルは、しかし掴まれたその部分にも不思議と痛みは感じなかった。
 啄ばむような口づけを、ハデスはデメテルの唇に交わす。ぺろぺろと子猫が水を飲むように、舌を伸ばして姉の唇を舐めるような口づけをした。段々とそれは深くなり、呼吸を奪うほどに長いものとなる。
「ふ……ん、うぅ……・」
 僅かな隙間から吐息が零れ、逃げていく。上気した頬はお互い赤く染まり、身体から力が抜ける。
 ちら、とキスの合い間にデメテルが覗いたハデスの瞳には情欲の暗い影が落ちている。この状況で? と考え、次にああそうか、と納得した。
 だから、こうなのか。
 ハデスが今から行おうとしているのは禁断中の禁断。かつてそれを行っていたがために黒の末裔は忌まわしい一族として迫害されていたのだ。何も魔力が強いというそれだけで彼らは差別されていたわけでもない。
 その術を使うことは、人としての禁忌。だが代わりにかけがえのないものを得られる。
ハデスが手に入れようとしているのはそれだ。
「ん……姉さん」
 こんな時にしか姉に甘えない弟は蕩けた声をあげる。デメテルが何を考えているのか、企んでいるのかわからないと声を張り上げて癇癪を起こすハデスは、彼自身だとてそう素直に自分の思っていることを教えてくれることはない。
 だから、なのか。
 擦れ違ってもがいて、理解できずに遠回りをして、何度も間違えて。
 辿り着くのはその場所なのか。
「ハデス……」
 全ての思考を、デメテルは脳裏に追いやった。例えどんな理由であっても、今、ハデスがデメテルを求めている。もうそれだけでいいのだと、彼女は考えることを止めた。
 ――どうせこの後のことはわかっている。
 これまでに見た未来の断片、ハデスのやろうとしていること、繋ぎ合わせれば彼女の望むものが得られるだろう。
「うぁ!」
 体中に撒きついた蔦が、突如力を込める。これまで中途半端な体勢だったデメテルの体を広げさせるようにして伸び、締め上げる。
「ああっ……」
 苦しさに喘ぐデメテルの肌に、するりとハデスの手が伸びる。隙間から入り込んだ蔦と共に、服を破く。
 豊満な胸があらわになり、肌を露出させたその肢体はしどけない。下半身も最後の下着一枚を剥ぎ取られ、秘められた場所を暴かれる。
 ちゅ、と音を立てるようにしてハデスがデメテルの胸元に吸い付いてきた。白い肌に無惨な痕を残すように噛み付く。くっきりと歯型が残るほどに噛まれて、デメテルが苦痛に顔を歪めた。
「痛い? まぁ、今更でしょ」
 薄く笑ったハデスは、唇を離すと今度は乱暴に彼女の両胸を掴んで揉みしだきはじめた。少年の両手に余るたっぷりとした乳房を、形を変えるほど強く鷲掴む。爪をめり込ませる勢いのそれは愛撫と呼べるようなものではなく、デメテルはただただ痛みを堪える。
「あっ、ああ……、くぅ」
 乳首を抓み、押しつぶすように指の腹でしごく。段々と反応してきて硬くなったそれを口に含み、歯で柔らかく挟む。敏感な箇所はそれだけで刺激を感じ、女の身体がぞくりと震える。
 ハデスの指が下へと伸びた。
 ぐちゅ、と濡れたその場所に無造作に突っ込んでかき回し、くすりと嘲るように笑う。
 命の瀬戸際だというのに、強姦紛いの行為でこんなに濡らして。
 耳元に唇を寄せて、耳朶を軽く食みながら囁く。
「じゃあ、もういいよね」
 別にデメテルの許可を求めているわけではない、独り言。ハデスは自らの着衣を寛げると、そこからすでに勃ちあがっているものを取り出した。
 ずぷ、と生々しい音を立てて、挿入する。
「はぁ……!」
「くっ……」
 熱く濡れた内壁が締め付ける。ハデスは不自然に恍惚とした笑みを浮かべると、腰を動かし始めた。
 デメテルが蔦に拘束されているため、極めて不自然な体勢だが一度行為に入ってしまえばもうそんなことは気にならない。ただ生物の本能のままに女の内壁をすりあげ、快楽を拾い集める。
「あ、あ、ああ……っ」
 じゅぷじゅぷと出し入れのために響く粘性を持った水音が羞恥と興奮を煽る。
 快楽を追うのは生物としての本能。だが姉と弟で交わる、この行為は禁忌。
 気持ちいい。
 気持ち悪い。
 相反する二つの感情が身体のうちに湧き上がり、更に胸を焦がしていく。例えどんな言葉を使ったところで、もう止められはしない。
 ぽろり、とハデスのその瞳から零れて肌に落ちた雫に、デメテルは顔を上げた。
 その涙の理由を問う暇もなく、限界に達したものが彼女の中で弾ける。
「ああっ……!」
 ハデスは間違いなくデメテルの中で放ち、二人はその場で停止したまま荒く呼吸を繰り返した。
 まだ身体を繋げたまま、しかし心は誰よりも遠い。
 姉の肩を掴んでいた手を外し、ハデスはそれを更にその先へと伸ばす。
 デメテルの、その女性らしい細い首へと。
「ハデス……」
 事後の掠れた声で、デメテルが弟の名を呼ぶ。
 ハデスの耳はその声を聞いている。しかしその声に行動を改める様子はない。
 指先が首に伸び、柔らかな肌を捕らえた。皮膚に爪が食い込む。ぎり、と鈍く締め上げる。明らかに呼吸を阻害しようとする動き。だがこの程度でこの姉を殺せないことなど誰よりもハデスがよく知っている。
「かはっ、けほっ、」
 ハデスが腕を離した途端に、気道を解放されたデメテルが激しく咳き込む。しかしいまだ中途半端な姿勢のままなのでいくら咳をしてもどこか苦しそうだ。それを無表情に眺める。
 ハデスのその頬には、先程流した涙の痕が残っている。
 戦いと情事に体力を使い果たしたデメテル。彼女の中にはまだハデス自身が埋め込まれたままだ。そういえば行為の途中で女が失神すると締め付けが良くなるのだったか。そんなことをふと今思い出した。
 もちろんこれまではデメテルに対してそんなことをした覚えはない。彼女はあくまでも皇帝であり、例え気安く肌を合わせる間柄であったとしてもそんな無礼は許されない。
 でも、もう、そんなことも関係ない。
「姉さん……」
 ぽつりと落とした声音に、デメテルが反応する。
「ハデス……私を殺すのね」
「ええ」
 首を絞めたくらいでは死なない頑強な皇帝の身体も、今のハデスの「爪」で切り裂くのであれば別だ。冥府の魔物との特殊な契約によって手に入れた力。その力が今の弱ったデメテルをようやく上回る。魔力の爪ならば彼女を殺せる。
 これはそのために手に入れたものだ。
「ずっとこの日をお待ちしておりました。皇帝陛下。あなたを殺せるこの日を。何度も夢に見ました。夢を見ました」
 そのために何人も陥れ、運命を狂わせてきた。
 もう後戻りはできない。
「……さようなら、姉さん」
 そして。

「……ッ!!」

 第三十二代世界皇帝、デメテル=レーテ=アケロンティス、崩御。


219

 その感覚は突如としてやってきた。
「!」
「兄様!」
 時刻は明け方、一行は早くも目を覚まし、野営の後片付けをしているところだった。森の朝は早い。何しろ陽光を遮るものがないのだから、昇ってきた太陽が一番に見える。
 遅くに寝床に戻って来たシェリダンとロゼウスは他の者たちより多少寝不足だったが、そんなもの今に始まったことではない。数度の欠伸で朝の気配に馴染んだ体をせっせと動かし、毛布を畳んでいた手をロゼウスは止める。
 立ち上がった彼の膝から、畳みかけの毛布が落ちた。
 同じように起き上がって食器の後片付けをしていたジャスパーが、それを取りこぼす。携帯用の割れない皿とはいえ、こちらは毛布に比べて多少派手な音が響いた。
「ロゼウス?」
「ジャスパー?」
 シェリダンがロゼウスのもとに駆け寄り、アンリはジャスパーの様子を見る。二人とも硬直してしまっていて、何かを応える気配はない。
「どうした!? ロゼウス!」
「ロゼ!」
 それでもシェリダンが必死にその肩を掴んで揺さぶり、ロザリーも駆け寄って腕を引いたところで、ようやく彼は我に帰ったように焦点を周囲の人々に合わせた。
「あ……シェリダン……」
 深紅の瞳とかち合って、朱金が安堵の色を湛える。しゃがみこんだ彼らの背後からひょいと状況を覗き込んで、ローラが尋ねた。
「いきなりどうしたんですか?」
「それは……」
 ロゼウスの視線は、アンリやリチャードによって心配されているジャスパーへと移る。
 ロゼウスはそれなりに復活したのだが、ジャスパーの方は細い腕で自分の体を抱きしめたまま、いまだ震えているのだ。
「なぁ、ジャスパー、一体どうしたっていうんだ? 何かあるなら言ってくれ」
「ロゼウス様、そちらの具合は……」
 アンリが懸命に弟に話しかけ、同じタイミングで様子が変わったにも関わらずこちらは素早く元に戻ったロゼウスを目に留めてリチャードが声をかけてきた。その彼の言葉を遮るように、ジャスパーが立ち上がる。
 ロゼウスと同じ紅い眼差しは、ひたりと兄である彼に据えられている。ジャスパーの瞳は、どこか憂いの色を帯びていた。
「ロゼウス兄様……いいえ、ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティア」
「!」
 ジャスパーの口から飛び出た言葉、耳馴染んでいるはずのロゼウスの名に一つの言葉をつけ足したそれに、周囲の彼らはざわめいた。
「アケロンティス……!」
「って、まさか!」
 それは帝国皇帝の血脈を意味する言葉だ。皇族。もしくは皇帝本人か。
 ロゼウスは大地皇帝デメテルの身内の「皇族」ではない。なる予定もない。
 だからこの場でアケロンティスと言った場合、その意味は一つしかない。
 立ち尽くすロゼウスに向けて、ジャスパーは腕を上げてまっすぐに彼を示した。

「あなたが今から、この世界の皇帝です」

 全てを手に入れ、そして失う旅が始まる。 

 ◆◆◆◆◆

「ずっとこの日をお待ちしておりました。皇帝陛下。あなたを殺せるこの日を。何度も夢に見ました。夢を見ました」
 その言葉に嘘はない。嘘はない。
 姉の心臓を貫いた右手を、ハデスはようやくその体から引き抜く。普段から魔術を用いて肉体を酷使する活動とは無縁の身体は、生々しく伝わってくる血と臓物の感触に眩暈を覚えている。
 一息ごとにじわりじわりと大きくなっていく血だまりに、デメテルの長い髪が蜘蛛の巣のように広がる。 
 その白い死に顔は、弟に心臓を貫かれ殺されたにも関わらず不思議と安らかだ。
「は、はは」
 いまだ彼女の上に乗ったまま、彼女と身体を繋げたままのハデスは唇から小さく笑いを零す。
「ははははは、あははははは!!」
 笑い声は段々と大きくなり、そのたびに闇の空間に空ろな響を起こす。ハデスは指を一振りすると、最後まで残しておいた魔の蔦も冥府へと返した。
 部屋の景色が暗黒の空間から、もとの宮殿の執務室に戻る。ちょうど部屋の中央で、彼は血まみれの姉の上に半裸の状態で乗ったまま、のろのろと顔を上げる。
 腕を確認すると、そこには何もなかった。
「選定紋章印が……」
 皇帝の選定者である証、選定紋章印が彼の腕から消えていた。毒々しい紅い紋章は生まれ、父の皮膚を移植されてからずっと烙印のようにハデスの腕に貼りついていたものだ。それがさっぱりと跡形もなく、まるで初めからそこに存在していなかったかのように消えてしまっている。
「そうか……」
 ずっとその瞬間を待ち望んでいたのに、今はそれが口惜しい。ようやく望みを遂げたのに、願いの全ては叶わない。
 ハデスの腕に移植された選定紋章印が意味をなさぬ、ただの刺青であれば今となって消えることはなかっただろう。大地皇帝デメテルの死に殉じてその姿を消したあの烙印は、偽りの選定者と呼ばれようとも確かにハデスが選定者である証だったのだ。
 皇帝の死によって選定紋章印が消えるのは、皇帝の死に選定者という存在が殉じるためだ。選定者は皇帝より先に死ぬ事はあっても、後になることは通常ない。その例から言えば、ハデスの残り時間も少ないだろう。どうやら皇帝が死んだ途端にぱったりとはいかないようだが、それだけに何時何の運命で死を迎えるのかも予測できない。
 そして、それすらも予測である。あるいは選定紋章印が移植された部分のもとの皮膚だけが選定者であるという資格を持ち、ハデスはそのおまけなのかもしれないのだ。選定紋章印が消えてもハデスが生きているのは、彼がやはり偽りの選定者だからかもしれない。
 全ては憶測だ。歴代の皇帝たちは何故かその代替わりや選定者などの核心について、誰も明確な記述を残さなかった。三十二代もそれが続くとなると、彼らは意図的にそれを隠しているとしか思えない。
 ハデスに何も言うことはなかったデメテルも。
「……姉さん」
 ハデスは視線を腕から自らの下にある人に移し、動かない体に消え入りそうな声で話しかけた。
 彼が触れた部分はどこもかしこもデメテルの血を移して真っ赤だ。しかしハデスはそんなことも気にしない。
 どうせ作業は、まだ後一つ残っている。これで終わりではない。
「姉さん」
 軽く腰を浮かせると、結合部で粘性の水音がした。それにも構わず、ハデスは心持ち身を乗り出す。デメテルの顔の真正面から覗き込み、そっと囁いた。
「……ずっと、あなたが好きでした」
 それは全てが終わってしまった後の、冷め切った歪な酷薄だ。
 真摯に熱く、氷のようで、そして歪んでいる。
「あなたが好き、だった。でも、あなたは僕を見てくれない。弟としてさえ……!」
 皇帝デメテル陛下が欲しかったのは、ただの玩具だろう? それがたまたま血の繋がった弟だったってだけさ。良いお方じゃないか。傲慢な王が美女を無理矢理攫ってきて侍らせるようなこともなく、被害者は身内一人に留まってるんだから。
 廊下を歩くハデスの耳にわざわざ届くように話される陰口に、ハデスは常に同感だった。デメテルはいつも優しかったがそれだけだ。彼女の愛もまた歪んでいた。 
 どんなに優しい言葉をかけられても、決してそれが真実ではない。
「あなたに弟として愛されたかった。ただ、弟でいさせてくれれば、それだけで良かったのに……!」
 ずぷり、と感情を入れた際にまた腰が浮き上がる。弟でいたかったと口にする少年は下半身で姉と繋がり、そこにあるのはただの愚かな女ともっと愚かな男の姿だ。だが先にその境界を破ったのはデメテルの方だと、そうハデスは責める。
 デメテルは何をハデスに求めていたのだろう。血の繋がった弟? 偽りの選定者? ただの性奴隷が欲しいだけなら、ずっと鎖に繋いで閉じ込めてくれれば良かったのに。そうすれば妙な夢を見ずにすんだはずだ。最初からそのための存在として扱われていたのなら。
 だが、それすらもしない彼女はハデスに何を求め、何を与えたかったのか。ハデス自身は彼女から何を受け取ったのだろう。でもこれだけはわかっている。
 本当に欲しいものは手に入らなかった。だからハデスは行動を起こした。
「僕は……」
 ぽろぽろと透明な雫を頬に滑らせ、ハデスは目を閉じる。
 そしてもう一度だけ、横たわる姉の唇に口づけた。
 愛されたかった。愛してほしかった。ただ、弟として。
 皇帝の愛人なんて、大層な称号はいらない。別に選定者である必要もない。皇族として不老不死を与えられる必要もなかった。ただ、普通に、生まれてから死ぬまで弟として扱ってくれれば。
 それさえ手に入れば、本当は何もいらなかった。
 それが手に入らなかったから――殺した。
 偽りの選定者であるハデスには今この瞬間でさえ、自分がデメテルとどこまで運命が連動しているのかわからない。彼女を殺す事は常に自分自身を殺すことだという危機感を覚えながら、それでも行動を止められなかった。
 だってもうそれしか手にいれられないのだ。
 そうでもしなければ、手に入らないのだ。
 ――教えてくれ。どうすれば、ロゼウスは私のものになる……?
 あの時、エヴェルシードで御前試合が開かれる前、ロゼウスとシェリダンの関係が最も不安定だった頃のシェリダンの言葉を思い返す。それに自分がなんと答えたのかも。
 ――そんなの、簡単じゃないか。
 ――殺してしまえばいい。
 今の自分はきっとあの時縋りついてきた彼と似たような顔をしているはず。シェリダンに言ったあれは本心だ。どうしても手に入らないのであれば、殺してしまえばいい。
 ――殺してしまえばいいんだよ。……本当に欲しいものはね。そうすればもう他の誰も彼に触れる事はできない。
 あれはシェリダンにロゼウスを殺させようと言う目論見もあったが、言葉自体は本当に自分がそう思っている内容だった。
 そこまでお膳立てしてやって、それでもロゼウスを殺せないシェリダンを、ハデスはずっと馬鹿だな、と思っていた。
 だけど、本当に馬鹿なのは自分。
 シェリダンはロゼウスの愛を手に入れ、彼を殺さずに彼に殺される運命を受け入れた。だけれど、自分は……。
 血だまりに横たわる亡骸に口づけた唇が、今もこんなにも温かい。

 ◆◆◆◆◆

 一通りの行為を終え、デメテルの亡骸からハデスは身を起こした。自らは衣装を身につけなおし、いつもの魔術師の服装に戻る。
 一方デメテルの亡骸の方は、破れた着衣が纏わりつく無惨な状態のままだった。交じり合った体液でべとべとに汚れた下肢もそのままだ。
 指を伸ばし、先程自らが精を放った場所を確認する。どろりと流れてきた白濁に、口元に笑みを浮かべる。
 横たわる姉の身体の耳元で、聞こえていないと知りつつ囁くその闇色の瞳は病んでいた。
「あなたの全てを、僕のものに」
 ようやく念願を遂げる喜びに恍惚とした表情を浮かべ、ハデスはその術を開始した。
 貫いた心臓から流れ出す血液がその体を覆うように広がった頃、それは紅い魔法陣を描く。
 捧ぐ供物はデメテルの存在そのものだ。
 黒い髪に黒い瞳、その一族は黒の末裔と呼ばれる。魔力持つ者が多く生まれるその一族は、長い間忌まわしき種族として迫害されてきた。
 彼らは何故そんなにも、人々から追われたのだろうか。
 ただ魔力が強く魔術に優れるだけならばそこまで忌み嫌われることもないだろう。強い力を持つ者は異端として排除されることもあれば、聖者として崇められることもあるのだから。
 歴史的に見れば、確かにシュルト大陸に限定して言えば黒の末裔は多くの人々に恨まれる対象だろう。黒の末裔、その旧名はゼルアータ人。皇歴以前、かつてシュルト大陸全土を支配した暴虐の大国ゼルアータの末裔である彼らは他の民族から恨みをかっていてもおかしくはない。
 しかしそもそも、ゼルアータがその魔力を用いて大陸支配に乗り出した理由が、彼ら黒の末裔を他民族が差別するからというものだった。他の民族による黒の末裔差別は、その時に始まったことではないのだ。もっと昔、それこそ古くから黒の末裔は忌まわしき存在として迫害されてきた。
 始皇帝シェスラート=エヴェルシードによって討伐されたゼルアータ王ヴァルター、彼は黒の末裔だった。知略に長けたと伝えられるかの王を血の乱行へと駆り立てたものとは一体なんだったのか。
 人々は何故黒の末裔を忌み嫌うのか。
 彼ら黒の末裔が忌まわしき存在として長い歴史の中で迫害され続けたのには、ただ魔力が強かったからではない。それ以外にも訳がある。
 黒い髪と黒い瞳は他の民族にはない特徴ではあるが、そう言った容姿が全てを決めるわけでもない。だいたい単なる容姿や魔術という能力だけで差別されるわけはないのだ。
 彼らが人々から追われるもっと根源的な理由に迫ろう。そもそも黒の末裔は、何故魔術に優れているのか?
 魔術と一口に言っても、その特徴は様々だ。皇帝が振るう全能の力を魔術と呼ぶこともできれば、吸血鬼や人狼族の持つ人外の力を魔術と呼ぶこともある。そして民間レベルで魔術と言えば、薬草や毒草を用いて病気を治したり、惚れ薬を作ったり、人に催眠をかけたりするものも広義の魔術と呼ぶ。
 黒の末裔は魔力の強い者が生まれる一族であると同時に、もう一つ特徴を持っていた。それは他の人種に比べて、圧倒的に身体が弱いということである。
 大きすぎる魔力を持つ者を生み出す故のそれは制約なのか、黒の末裔の者たちは身体的に脆弱だ。そのため、病気や怪我を治すために古来より薬草を扱う術に優れていた。
 つまり、古代は薬草を扱うこの技術を差してゼルアータ人の魔術と呼んでいたのだ。もちろん精霊や魔物との契約により超常現象を引き起こすものも魔術ではあるが、それ以上に一般人にも扱いやすい「魔術」として薬草学を治めていた。
 薬草を扱う術は、毒薬の管理にも通じる。そもそも毒と薬は紙一重だ。同じ植物が量や加工次第によって毒にもなれば薬にもなることがある。
 媚薬の類は昔、少量の毒を含んでできていた。そのため量を間違えれば廃人になったり、死に至ることもあった。病を癒すための普通の薬から毒薬、麻薬まで、薬の扱いは慣れない一般人には簡単にできるものではない。その技術を、身体的に弱いその一族は必要に迫られて習得したのだ。
 自然とゼルアータ人は毒を扱う能力にも優れ、世界屈指の毒薬使いの民族となった。裏の仕事には欠かせない存在である彼らが、影で《暗黒の末裔》と呼ばれ始めたのもそれが理由だ。暗黒の末裔では長く差別的な意図も明らかなので、後には黒の末裔と呼ばれるようになるが、その言葉自体がもはや蔑称として定着してしまった今では気にしても詮無いことかもしれない。
そしてもう一つ、黒の末裔が恐れられ蔑まれてきた儀式がある。
「……その血に育まれし新たなる生命よ、気高き魂の誕生よ、神の御技をこの哀れなる一族に分け与えたまえ……」
 両手で特別な印を結び、ハデスは呪文を唱える。常に彼が使うような簡単な魔術ではなく、今回行うこの儀式には細心の注意を払わねばならない。
 ハデスの言葉の一つ一つが魔力を帯びて力を持つと同時に、動かないデメテルの身体に変化が訪れ始める。
 平らだった腹部が、次第に膨らんでいく。死後の体積の膨張のように身体全体が膨らんでいくのではない。芸術的な身体の線を保っていたデメテルの身体のちょうど中央、腹だけが丸く膨らんでいくのだ。
 まるでその場所に何かがあり、中で育っていくように。
 平らだった腹が徐々に膨らんでいくその様子は見るものにどことなくおぞましい印象を与えるだろう。それは本来十月十日かけて行われるべき変化であるだけに。
 屍の妊婦の胎が風船のように一瞬で膨らんでいく。
 幻惑の胎児が死者の中で育っていく。
 その胎に、ハデスは手を伸ばした。
「出でませ、奇跡の子よ」
 冥府の魔物と取引して手に入れた魔力の宿った爪を刃のように振りかざし、ハデスはデメテルの膨らんだ胎にそれをつき立てた。
 皮膚が切り裂かれ、新たな血が零れる。赤黒い血の中で、微かに何かが蠢いた。中から零れるのは到底自然のものとは思えない銀色の光で、水のように零れる。それは魔術の羊水だ。
 先程の情交によって交わった男と女の一部から、胎児が作られる。ハデスはデメテルを刺し殺した魔力の爪で彼女の死体の胎を切り裂いて、その胎児を取り出した。
 黒の末裔は身体的に脆弱な民族だ。そのため、多くの女性が妊娠の際に命を落とす。
 出産まで漕ぎつければまだいいほうで、中には身篭ったまま、妊娠時の体調変化に負けて亡くなる者も大勢いた。そうなると困るのは中の子どもである。産褥で母体が亡くなる場合は赤子の方は無事生きのびることができるが、生まれる前に母親が死んでしまった胎児はどうにもならない。
 そんなことが続けば、黒の末裔はすぐに滅んでしまう。そこで彼らは考えたのだ。出産前に亡くなる妊婦の子を何とか生きのびさせる方法を。彼らが選んだのは、亡くなった母親の胎から退治を取り出して早産の子として育てるというものだった。
 しかしこの方法は、他の民族からは酷く忌み嫌われた。死体から生まれた赤子と言うものに抵抗があるのか、生まれる前に亡くなった母親の胎を切り開いて赤子を取り出す行為そのものを野蛮だと言うのか、他民族は黒の末裔のやることを決して認めようとはしない。
 そして彼らは迫害されていった。
「……おやすみ、姉さん」
 ハデスが今行ったのは、黒の末裔のその術を基にした魔術の一つである。こちらは薬草学ではなく、超常現象を引き起こす本当の魔術だ。
 死体の胎の中にいる受精卵の成長を促進させ、あるところで母体から取り出す。生まれた赤子は。
「そしておはよう……愛しい我が子よ」
 ハデスが自身の精子とデメテルの卵子から作り上げた、遺伝上の二人の子どもは一呼吸ごとに成長していった。ハデスに手を取られて立ち上がる頃には、もはや十を越す姿となっている。
 魔術で作り上げた胎児は、当然本物の人間とは呼べない。それでも姿形の上では、人間以外の何者でもない。
 黒い髪に黒い瞳、ハデスとデメテルの子どもは女の子だった。白い肌はまろやかな線を描き軽い凹凸がある。
 生まれたばかりの少女は眠たげに瞼を持ち上げると、感情のないような無機質な瞳で室内を見回した。
 その視線が、ふいに正面に立っていたハデスとかち合う。
「……!」
 ハデスはたまらず少女を抱きしめた。突然見知らぬ男から抱きしめられた裸の少女はしかし顔色一つ変えない。
 彼女の様子にも関わらず、ハデスはその耳元でそっと囁いた。
「やっと手に入れた。姉さん」
 デメテルの魔力で作られた少女は、彼女に瓜二つである。


220

 漆黒の瞳と長い髪、きめ細かい肌は白く、整った顔立ち。
 年の頃は十四、五歳ほどの少女。今の自分よりも僅かに幼く見える外見に嬉しいような、哀しいような複雑な思いを感じ、ハデスはほろ苦い笑みを浮かべた。
「姉さん……」
 自分の精子と姉の卵子を使って作られた遺伝上は自らの娘であり姪である少女を、ハデスは腕の中に閉じ込める。
彼女の顔立ちはデメテルにそっくりだ。
 異空間と化していた執務室は、すでに元の状態に戻っている。今誰かが入って来たら、ハデスは皇帝殺害犯として言い逃れできない状況だ。早くここを出て行かなければ。
 執務室の隅にかけられていた衣装を手に取り、ハデスはそれを俯いたまま動かない少女に着せようとした。
 声をかけようとして、なんと呼んでいいかわからないことに気づく。この存在を作り上げること自体に夢中になって、名前が必要なことなど頭の中から抜け落ちていた。
「そういえば」
 ハデスの声には反応し、少女は小さく彼を振り仰ぐ。
「君の名前を考えなきゃね」
 さらりとした黒髪の巻き毛が落ちる頬を優しく包んで、ハデスはしばらく思考する。考えたけれど、結局これしか思い浮かばなかった。
「ペルセポネ」
 だが、これではあまりにも直球過ぎる。
 デメテルの娘を意味するペルセポネ。けれどその響に胸が疼いて、同じ女神の別名に変えた。
「いや……じゃあ、プロセルピナだ。君の名前はプロセルピナ」
「プロセルピナ?」
 少女が初めて声をあげた。今己に与えられた名を鸚鵡返しに呟く。その声は鈴を転がすように美しい。いつか見た硝子の鈴をハデスは連想した。
「そうだよ、プロセルピナ。……お前は、僕のものだ」
 ゆっくりと顔を近づけて、ハデスは少女に口づけする。デメテルと同じ顔をした少女。弟であるハデスはもちろん彼が生まれる以前のデメテルの姿など知らないが、実際に彼女は昔この顔だったのかも知れないと思わせる。  
 前置きもない口づけ。プロセルピナは、抵抗もなくそれを受け入れる。
 先程からずっとそうだが、プロセルピナには感情らしきものがない。肉体は完成されているのに、どうにも精神らしきものが未熟だ。生まれたばかりの赤子だからと言えばまだ聞こえはいいが、要するに彼女は人間ではないのだ。
 暗黒の末裔の行為になぞらえて生み出されたこの術は、本当の子どもを作り出すわけではない。精子と卵子、そして母体となる死体を用いて、肉の器を持つ人形を作り出す術だ。
 作られた人形には魂がない。滅びれば炭になるだけのその身体はやわらかく体温を持つが、心や精神というものが存在しない。脳はあり、情報を処理するがそれだけ。命令と言う形で操るための操作をすれば動く人形そのものなのだ。
 人形の性能は、両親の能力による。両親、つまり精子と卵子の提供者だ。この場合はハデスが父親であり、デメテルが母親である。皇帝にまで登りつめたデメテルの血を引くと言えるプロセルピナは、最高峰の能力を持つだろう。
 ハデスはそれに期待をかけた。デメテルを殺し、その能力を完全に移した人形を作り出すこと。普通の遺伝と違って暗黒の末裔の術によって作り出された肉人形は、父親と母親、両方の能力を受け継ぐ。普通にハデスがデメテルに子どもを生ませてもどちらに似るかはわからず、下手をしたらハデスよりも能力的に劣った子どもが生まれてくるかもしれないが、この方法ならば失敗はない。
 プロセルピナはデメテルの力も、ハデスの力も両方を受け継いでいる。彼女は完璧だ。
「……お前の力なら、きっとロゼウスにも勝てるよ」
 この娘の力があれば、薔薇皇帝を殺せる。そうすればもう怖いものなど何もない。
「だから僕の側にいて……今度こそ、僕だけのものに」
 そして何より、プロセルピナはデメテルに似ていた。
 その身体はただの肉の塊。反射として受け入れるだけで、何の感情も持ち合わせない。わかっていてハデスは再び彼女に口づけた。
 プロセルピナは目をしっかりと見開いたまま、それを甘受している。
 そこには今のところ、何の心の動きも見当たらない。周囲の景色を見る目もハデスを見る目も同じだ。
 口づけを止めた後、ハデスはそのプロセルピナの視線が部屋の一点に固定されているのを見た。
 その先を追って振り返り、苦い顔をする、心臓を貫いて殺し、胎を切り裂いてプロセルピナの身体を取り出したために無惨な有様となったデメテルの身体が横たわっている。
「……あれは、君のお母さん」
「おかあさん?」
「そうだよ。僕の姉さん」
「ねえさん?」
 無邪気な子どもさながらに、プロセルピナが首をかしげる。その手に先程持ってきた衣装を押し付けて、裸の彼女に着るように命じた。
 ハデスはプロセルピナが着替えている間にデメテルの屍のもとへと歩み寄り、その顔を上から覗き込んだ。胴体はぼろぼろの肉の塊として切り裂かれ赤黒い臓物を晒しているが、顔の部分は綺麗だ。まぶたや頬に飛び跳ねた血を拭おうとして、それがもう乾いてしまっていることをハデスは知る。
「姉さん……」
 最後に、本当にこれが最後だと決めて口づけた。花のようにやわらかい唇に自らのそれを重ねる。
 今迄だって何度もこうして唇を重ねてきた。愛人扱いのハデスは何度だって彼女と肌を合わせた。だがこれからは。
「やっとあなたから解放される」
 つぅ、と透明な涙がハデスの頬を伝う。泣きながらも彼は歪に微笑んだ。
「今度は、あなたが僕のものになる番だ」
言って、彼は魔術を一つ放った。室内だと言うのに、炎が燃える。冥府の蒼い炎がデメテルの身体を包み込んだ。
 人界の法則に従わず、冥府の炎は中のものを溶かすように燃えていく。デメテルの死体が端から溶けるように消えていく。
 思わず炎の中に突っ込みそうになった手をハデスはもう片手で抑えた。ぎりぎりと爪を皮膚に食い込ませながら、その痛みで冷静さを保つ。
「終わりだ」
 呪うような呟き。
「もう、これで終わりにするんだ」
 彼の傍らには死んだ女と瓜二つの少女がいる。涙を流した頬は炎の熱で炙られ乾いていく。
 解放なんて誰もされていない。
「もうこれで終わりにするんだ」
 悲鳴にも似た最後の言葉に被せるように、炎の最後の揺らめきが消えた。後には執務室の静けさが残るばかりで、先程デメテルが流した血も零れた精液も飛び散った肉片も何もそこには残らなかった。
 ようやく終わったのだとハデスは思った。振り返って彼は視線を服に着替えていたはずのプロセルピナに向ける。
 そして小さな違和感を覚えた。プロセルピナのその格好。
「……それ」
「?」
 ハデスは眉を潜めた。別にプロセルピナにその服が似合わないというわけではない。
 むしろ意味としては逆だった。似合いすぎているのだ。黒いドレスはデメテルが好んで着ていたもので、彼女の執務室にそれがあること自体はおかしくない。だが、今プロセルピナが着ているものは本来の持ち主であるデメテルが常に身に纏っていたようなデザインとはかけ離れ、誂えたようにプロセルピナにぴったりだ。長いスカートのロングドレスを好んだデメテルの体型ではなく、プロセルピナが着て丁度良く短い、動きやすそうなスカート。何故そんな風に都合の良いものがこの部屋にあったのだろう……。
じわりと胸の内に沸いた違和感を、ハデスは強いて握りつぶす。
 今更だ。今更何を気にしている。デメテルは死んだ。もう何を気にしたところでどうにもならない。
 気合を新たにし、ハデスは黙ったまま立ち尽くす人形の少女へと手を差し出した。
「行くよ。プロセルピナ」
 生まれてから最初に見たハデスを主と定めたのか、プロセルピナは自分からはほとんど口を開かないながらもハデスの命令には従う。
 ブーツを履いた足を動かして、窓際に移動したハデスの方へと歩み寄った。魔術師の長いローブを身に纏うハデスの腕の中に抱き込まれて、窓から逃亡を図る。
 その彼女が、執務室を離れる一瞬、部屋の中を振り返った。
 先程までデメテルの死体が横たわっていた一角は、ハデスの魔術によってもはや跡形もないほどに片付けられている。後には閑散とした執務室が残るのみで、デメテルが最後まで判を押して片付けていた書類が虚しく積まれていた。
 それを見て、彼女はにっこりと人間らしい笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

 黒に近い緑を抱く森の奥深く、赤い街並みに囲まれてその漆黒の居城はある。
「ドラクル」
 王の名を気安く呼んで、彼女は黒檀の扉を開け国王の執務室に入ってきた。手には幾つかの道具と書類を抱えている。
 先王の第二王女として名を知られるルース=ローゼンティア。しかしその実体は先王ブラムスの弟ヴラディスラフ大公爵フィリップの娘だ。そのことは公には国内に知られていないながらも、現在この国の実権を握る上層部は知っている。
 何しろ今現在ローゼンティアを治めるのは、彼女の兄であり父を同じくするドラクル王だ。
「ようやく戻ったか。ルース」
「ええ。報告が遅れてごめんなさい」
 国王の執務室には、主であるドラクル自身と彼の一の臣下であるカルデール公爵アウグストがいた。二人は地図を広げて何か話し込んでいる。最近エヴェルシードが落ち着きだしたためにまた悪化するだろう国内情勢について、各地の有力者の繋がりを確認しながら対策を練っていたところだろう。
「お帰りなさいませ、ルース殿下」
「ただいま。アウグスト卿」
 ドラクルの妹であるルースに対し、形だけとはいえ跪いてアウグストは丁寧な礼をとる。彼はドラクルに命を賭けて忠誠を誓っているため、その妹であるルースに対しても礼儀正しい。
 もっとも、ここまで簒奪の片棒を担いで誰よりも忠実な部下として彼らについてきたアウグストのことを、ドラクルとルース自身は家族のように思っているのだが。
「何か問題があった?」
「いつも通りだよ。ちょっとした小競り合いだ。どうもこの頃国中が落ち着かなくていけないな」
「エヴェルシードの情勢が新王カミラ陛下のもとでようやく纏まってきたために、いつ攻め込まれるのかと皆、気が気ではないのですよ」
「ごめんなさい。私のせいね。カミラ姫の信頼を勝ち得ることができなかったわ」
「いいや、ルース、お前のせいではないよ」
 先日、ルースはエヴェルシードを追い出されてローゼンティアへと戻って来た。表向きはローゼンティアから派遣された相談役という形でエヴェルシードに入り込んでいた彼女を、女王カミラがもう協力はいらないとその手を跳ね除けたのだ。
 その数日前に、エヴェルシード城下では一つの騒ぎが起こっていた。城下と言ってもほとんど王城内部だがそこから広まった噂として、王城にシェリダン王が現われたというのだ。
 カミラの異母兄であり先代国王であるシェリダン=エヴェルシード。彼は他でもないカミラの手によって自らが座っていたエヴェルシードの玉座を追われた。
 突然現われたという彼が某かの入れ知恵をカミラにして、彼女は国をドラクルたちローゼンティアの手を借りずエヴェルシードの信頼できる部下で纏め上げていくことを選んだらしい。シェリダンにとってカミラは自分から権力と財産と名誉の全てを奪った人間だ。どころか、それまでにも一度ならず彼を殺そうとまでした人物だ。その彼女にシェリダンがどういった対応をすればそう言った結論になるのか、ドラクルたちにとってはわからない。
「シェリダン王、やはり侮れないな」
 カミラに取り入り内側からエヴェルシードをローゼンティアの傀儡にするという計画を失敗したというルースに、ドラクルは表面上はまるで気にしていないような態度をとり、寛大な処置を下した。彼女はローゼンティアに戻り今度はその優れた能力を活かして各地の情報収集を命じられたのである。エヴェルシードからはもう手を引くというドラクルの決断だった。
 ルースに対してはそうして大らかな態度を見せたドラクルだが、その内面は複雑だ。
 もともとエヴェルシードはシェリダン王自身がドラクルに半ば唆されて父親を殺し、玉座に座ったような国である。その後、情報を横流しローゼンティアにわざとかの国を攻め入らせるのは、ドラクルの計画の内だった。正式な王の子ではないドラクルがローゼンティアの玉座に着くためには、事情を知る者たちを殺害し一度国を非常事態に陥れる必要があったのだ。
 そう、シェリダン王がローゼンティアに攻め入ったことは、あくまでもドラクルの計画の内。だがそこから、確かに何かが狂いだしていったのだ。
 ドラクルが掌の上で操れる若輩と見くびったシェリダン王は、それ以上のものを実は隠し持っていた。ただローゼンティアを混乱に陥れてくれさえすればよかったかの王は、ドラクルが簡単には奪い返すことができないくらい徹底的にローゼンティアを叩いた。王侯貴族は殺され、司令塔を失って混乱する民を奴隷として監視下に置く手腕はドラクルの予想以上のものだった。
 そして彼は何よりも、かの薔薇を一輪手折っていった。
 長い間ドラクルの弟とされていた、実は従兄弟関係にある少年ロゼウス。シェリダンは彼をエヴェルシードへと連れ帰ってしまったのだ。
 兄と言う立場を利用して、ドラクルは真の第一王子であるロゼウスをこれまでずっと支配してきた。ドラクルにとっては養父であるロゼウスの父親、ブラムス王がドラクルに対してするように、ドラクルは幼い頃からロゼウスを虐待してきた。
 周囲からは実の兄弟と見られ、その内実は玉座を奪う者と奪われる者の関係にある二人。ドラクルはいずれロゼウスが自分から全てを奪うことになると知ったその日から、ロゼウスを自らの奴隷にするべく支配してきた。
 ドラクルにとって、ロゼウスは彼が本来得るはずだった薔薇王国の栄光の全てを握っている存在だ。いくらこうして玉座に座り国の実権を手にしていても、あの「弟」が野放しになっている限り安心はできない。
 ドラクルの権威は、ロゼウスをその手中にして初めて完成するものだ。だが、そのロゼウスは彼の手元にいない。
 ロゼウスはシェリダン王のもとにいる。
 今回エヴェルシードが内乱の憂き目を見ることを避けさせ、カミラ女王のもとで新政権を確立させた影の功労者もシェリダン王。ロゼウスを手にしている彼は、ドラクルにとっては憎んでも憎み足りない存在だ。彼さえさっさと殺しておけばとうにあの弟はドラクルのものになっていたのに。
 ブラムス王を殺し、ローゼンティアを手に入れた今、ドラクルの執着は一心にロゼウスに向かっている。彼を手に入れない限りドラクルの反乱は完結しない。それをいつも邪魔するのはシェリダン王。
 ただでさえ国内が落ち着かずに気苦労が絶えないところへこの報せだ。ルースとアウグストは顔には出さずしかし苛立ちを身の内に溜めているはずのドラクルを気遣う。
「ドラクル陛下。ルース殿下も戻って来られたことですし、少し休憩にしませんか? 私がお茶を淹れてきます」
「ああ、ありがとうアウグスト。では、少し甘えさせてもらおうかな」
 柔らかく微笑んで、ドラクルは書斎の机に広げた地図を畳んだ。ルースがアウグストを手伝って二人部屋を出て行く。
 執務机の前に一人取り残されて、ドラクルは軽く一息ついた。
 国王という仕事は、わかってはいたが重責だ。王権派の抵抗が思ったよりも強いこともあり、ドラクルの治世は思うように安定しない。そこへ更に、エヴェルシード女王カミラの離反や、帝国宰相ハデスの消息が不明になったことなどが重なる。
 何より、ドラクルはまだ望みの全てを達していない。簒奪による偽りの継承とはいえローゼンティア王国そのものは手に入れた。だが彼にとってこの薔薇の国を象徴する存在そのものだった弟が……ロゼウスがまだ手に入らない。
 そのことはドラクルにとって最も心に気にかかる出来事だった。初めこそドラクルの手元を離れては生きられないだろうと考えた弟は、しかし彼以外の男のもとで、平然と生きている。それが酷く苛立つ。
 ドラクルにとってローゼンティアを手に入れることも大切だが、ロゼウスを手に入れることも重要だった。どちらか一方だけでも駄目なのだ。ローゼンティアという国と、ブラムス王の血を引くロゼウスを手元に置いて初めて彼は全てを手に入れたことになる。そうでなければいけないのだ。そうでなければ……。
「ロゼウス、私はお前を――」
 知らず、考えを口に出していた。それを遮るように、窓硝子がカツカツと小さく鳴る。
「これは――」
 外を確かめ、これまである場所に預けていた使い魔が戻って来たのを知ってドラクルは目を瞠った。蝙蝠の足にくくりつけられた手紙を解いて、素早く目を通す。
「ドラクル様?」
 アウグストとルースが戻って来たときに見たものは、窓枠に向いて立っているドラクルの背中だった。小さな蝙蝠がその脇を飛んでいる。
「陛下?」
「残念だがルース、アウグスト。お茶の時間はまたにしてもらおう」
 ドラクルは届いた手紙を二人へと見せた。
「あの方は我らに味方してくれるそうだ。それでは我らは、愛しい薔薇の王子を迎えに行こう」
「御意」
 アウグストがかしこまって頷く。
 口元に笑みをはくドラクルを、ルースは静かに見つめていた。

 ◆◆◆◆◆

「大地皇帝デメテルは死んだ。だから今この瞬間から、あなたが皇帝だ。薔薇の皇帝よ」

 夜明けの森が暗い威容を誇っている。エヴェルシードとローゼンティアの国境の森の中、野営を終えて後はもう出発するばかりとなっていたところ。
 ロゼウスたちは少しでもローゼンティアに近づくために昼夜強行軍で移動をしていた。エヴェルシードの王都を出発してから何度目かの夜明けだ。
何かの前触れを掴んだのか、ロゼウス、ロザリー、アンリ、ジャスパーの四人が一斉に空中を見上げた。
「どうした?」
「来る」
 ヴァンピルは人間よりも身体能力が優れている。視覚、聴覚など五感はそれこそ動物並だ。
 その様子に警戒を強めながら、訝しげに声をかけたシェリダンに短く一言答え、ロゼウスはまた空を睨む。丸腰の彼はともかく、シェリダンはそれを見て腰の剣に手をかけた。
 果たして彼の言うとおり、それからすぐに空間に亀裂が入った。その光景はロゼウスたちよりも、むしろシェリダンたちエヴェルシードの一行に見慣れたものであっただろう。何もない空間が二つに切り裂かれ、黒と濃い紫が入り混じったような暗黒を覗かせている。神出鬼没の魔術師帝国宰相が、好んで使っていた移動法だ。
「ハデス!」
 空間転移の術を使い、黒衣を翻して現われた少年の姿にシェリダンは声をあげた。しかしロゼウスは、ハデスよりも彼の背後が気になったようだ。
「その人は……」
 ハデスの後ろに控えている、十四、五歳ほどの少女。だが、その顔立ちは。
「デメテル陛下?」
「違うし、もう姉さんは皇帝でもない」
 冷たく凍りきった眼差しでハデスはロゼウスを睥睨し、自らの傍らに少女を引き寄せて告げる。
「この子はプロセルピナ。僕の娘だよ」
「娘!?」
 またしてもぎょっとしたのはロゼウスよりもシェリダンの方だ。ハデスに娘? 聞いた事がないぞ!
 シェリダンの最初の呼びかけには応えず、ハデスはただ一人ロゼウスだけを睨んでいた。その視線をすいと動かし、今度はジャスパーを見る。
「選定紋章印」
 ぴく、とジャスパーが身動きし、反射的に紋章印の刻まれた腰へと手を伸ばす。
「色が濃くなっているだろう。紅く、禍々しい刻印。正しき選定者の刻印はそうなる。僕はもう選定者じゃないから……」
 ジャスパーを見ていたハデスが、周りの者たちへもぐるりと視線を一周させる。そうしながら自らの服の袖をまくりあげ、腕を見せた。
「それは!」
「そう」
 ハデスの腕は、ロゼウスもシェリダンも見た事がある。ロゼウスの記憶に深いのは、ヴァートレイト城の湯殿でのできごとだ。
 裸の身体、その腕の一部に、紅い紋章印。
 薄い肌の色に鮮やかだったそれが、今のハデスの腕からは消えている。
「そう、僕は選定者の役目を終えた」
「何故?」
 ロゼウスは問いかける。皇帝と選定者の代替わりは、基本的に前の皇帝が死ななければ行われない。
 ハデスは黒髪のかかる目元にそれだけではない影を乗せて、暗く微笑んだ。
「デメテルは死んだから」
「死んだ……? 皇帝陛下が……?」
 それまで黙って事態を見守っていたアンリやリチャードも、その言葉には黙っていられない。
「本当に?」
「本当だ。だって」
 ハデスは告げた。
「僕が殺したのだから」
「――ッ!」
「ハデスっ!?」
 シェリダンが悲鳴のような声で名前を呼び、他の者たちは声もあげられなかった。
 本来皇帝は自らの選定者に殺されることなどありえない。選定者自身が皇帝の忠臣であることと、その実力差もあって。
 なのに、デメテルはハデスに殺された?  
 彼女が弟に殺されるほどの実力しかなかったということもだが、まずハデスが姉を殺したということに衝撃を禁じえない。
 一同が驚愕している中、一人冷静な者もいた。ロゼウスはちらりと、ハデスの背後の少女に視線を走らせる。彼女は目の前で行われているやりとりにも、何の反応も示さない。まだ。
 黒髪黒瞳、デメテルにそっくりな少女。ハデスの娘だと言っていた。……母親は誰だ。
 カラクリを読む前にハデスの声があがる。道化じみた芝居の仕草で告げた。
「大地皇帝デメテルは死んだ。だから今この瞬間から、あなたが皇帝だ。薔薇の皇帝よ」
「……ハデス」
 うっそりと笑う彼の姿には、これまでとは違う翳りがある。
 口ではどれほど忌まわしいように罵ろうとも、彼は心の底では姉を愛していたはずだ。それがどんな種類の愛情かはともかく。
 そのデメテルを殺して、彼は今どんな気持ちなのだろう。
「ロゼウス、お前を殺せば、この世界から皇帝と言う存在は消える」
「消してどうする? お前が皇帝になるとでも戯言を言う気か?」
 戯言、の一言にハデスがぴくりと眉をあげる。
「デメテル帝を殺したら、お前も近いうちに死ぬ。わかっていたはずだ」
 静かなロゼウスの言葉に、一同は静寂に飲まれる。
「ハデス、お前が本当に欲しかったのは――」
「うるさいよ」
 有無を言わさずハデスはロゼウスへと攻撃を仕掛けた。
「くっ」
「ロゼ!」
 魔術での一撃を、ロゼウスは素早くかわす。シェリダンやロザリー、ジャスパーも臨戦態勢に入る。
「どうだっていいんだよ、そんなことは」
 自分が今、相手を殺そうという威力の攻撃を放ったことなどてんで頓着せずに、ハデスは口を開く。その唇から零れる言葉の一つ一つがすでに虚ろに病んでいる。
「もう、何もかも、どうだっていいんだよ」
 デメテルを殺し、皇帝の座を得る事はハデスの悲願だった。
 姉を殺して復讐となし、その後は皇帝の座を得て優雅に、自分を嘲笑った世界を支配し蔑んで生きるのだと。
 だが実際にデメテルを手にかけて復讐を果たした今では違う。これまで画策を重ねたような熱意がない。今になってわかる。皇帝の座など、デメテルを殺すことに比べれば、ハデスにとってはどうでもよかったのだ。
 いつもいつも魂の大部分を占めるのは姉のことで、それ以外はどうでもよかったのだ。
 だから復讐が果たされた今では、世界の全てが虚ろに遠い。
 後は破滅するだけだ。当然のように待っているそれにも何の感慨も覚えない。
「後はお前さえ殺せれば、僕はもうどうでもいい」
 病んでいるだけに純粋な、彼の根源的な願いを理不尽にロゼウスへと叩きつける。
 お前さえ、お前さえ生まれて来なければ、こんな現実は必要なかったのに!
「忌々しい薔薇狂帝め!」
 叫ぶと同時に、彼は二撃目の光球をその掌に生み出していた。


221

「プロセルピナ! やれ! あれはお前の敵だ!」
 それまでまったく動かず、表情を変えることもなく大人しく佇んでいた黒髪の少女にハデスが命じた。
 その内容はどう聞いても父親が娘に下すようなものではない。そもそも、彼らの関係についてもハデスの「娘」という言葉を聞いただけで結局精確なところはわかっていない。
 だがそんなこと、些細な問題だ。実際にハデスの短い叫びに従ってプロセルピナと呼ばれた少女がロゼウスに飛びかかってきたことを考えれば。
「くっ」
「ロゼウス!?」
 まっすぐにロゼウスに向かってきた少女の手には、いつ何処から出したものか、闇色の剣が握られている。その攻撃を避けながら見ていると、彼女は何の前置きもなく何もない空間からありとあらゆる物を取り出している。彼女が何者であるかはともかく、ハデスやデメテルと同じ第一級の魔術師だということは確からしい。
「余所見をしている場合じゃないよ! シェリダン!」
 そう言って、ハデスはロゼウスの下に駆けつけようとしたシェリダンの足止めをする。ハデスは見た目こそ若いが百年近く帝国宰相として生きている。当然、剣の修行も年数だけですでに人並ではない。シェリダンやリチャードのように才能に恵まれているわけではないが、年月に裏打ちされた彼の実力は決して弱くはない。
 ハデスはシェリダンと戦いながら、更に幾つか呪文を唱える。
「我に従う冥府の魔物よ、今この瞬間においてその命以って盟約を果せ! 出でよ!」
 素早く唱えられた魔物たちの名前の通りに、続々と冥府の魔物がこの場に溢れかえる。
「シェリダン様!」
「ロゼウス!」
 リチャードやローラ、ロザリーたちはそれぞれ森に溢れた魔物たちに分断されて、ロゼウスたちとの合流が難しくなっていた。特にシェリダンは魔物たちをその場に生み出したハデスと剣を合わせていたせいで、一行からかなり離れた位置に道を分断されることとなった。
「ローラ! エチエンヌ!」
 双子人形とリチャード、ジャスパーは魔物たちの掃討で手一杯だ。アンリとロザリーは位置の近いロゼウスのもとへ駆けつけようとしたが、そちらはそちらでプロセルピナの魔術に阻まれる。
「うわっ!」
「きゃっ!」
 プロセルピナが掌から放った光が地面にあたると、そこから人の背よりも高い草花が生えた。一瞬にして魔の庭と化した地面で、その花たちが襲い掛かってくる。
「このっ!」
 アンリが剣で、ロザリーが素手で魔の植物たちを引きちぎるが、ロゼウスの下へは行けそうにない。魔の植物は一度倒してもまた後から後から生えて来るのだ。
「倒しても倒してもッ」
「きりがない!」
 一方ハデスが魔術によって呼び出した魔物たちも、一体どこからどこから沸いてくるのか倒してもすぐ次が現われるのだった。エチエンヌたちはそちらの相手に手を焼く。
「アンリ王子! ロザリー姫!」
 魔術的なものの判断は無理だと潔く早々に諦めて、リチャードが離れた場所で魔の植物を相手にしているローゼンティア王族二人へと助言を請う。
「魔術に詳しくない私たちではこの魔物の相手ができません! 何か対処法はご存知ないですか!?」
「いくら魔力を持ってるったって、俺たちは黒の末裔の魔術は専門外だ!」
 返って来たのはアンリからの頼りない答だった。舌打ちしたリチャードは、打開策を見つけられないまま、目の前の敵を斬り付ける。
「罠にかけて、一気にワイヤーで締め上げるってのは!?」
「その間に次の一団が一瞬で現われたら終わりよ!」
 ローラとエチエンヌも己の特殊な武器を駆使して効果的な策を考えるが、画期的な案は浮ばない。
 そんな中、場を切り裂くように澄んだ一声が迸った。
「全員伏せて!」
 リチャードたちにしろアンリとロザリーにしろ、この場にいるのはいずれ劣らぬ戦闘の達人ばかりだ。反射的にその言葉に従って地に伏せる。彼らの頭の上を、全てを焼き尽くす光の矢が通り過ぎていった。
「ジャスパー!」
 いつの間にか手に光る弓をつがえたジャスパーが魔力の矢で敵を一瞬にして焼き払っていた。
 ヴァンピルは魔族。人間よりも魔物に近い種族だがそれ故の弊害もある。彼らは魔力に近すぎて自身でそれを操る能力が極端に低い。人間の身体が髪や爪が勝手に伸びるからと言って一瞬でそれを変化させることはできないのと同じようなものだ。
 ジャスパーはそんなヴァンピルたちの中では特殊で、他の兄妹よりは魔力の扱いに多少の融通が利く。彼の二つ名の由来ともなった髪の飾りの宝石、それに普段から己の魔力を溜めて必要な時に取り出せるようにしているのだ。
 ローラたちが十分に敵の注意を引きつけたおかげで弓の具現も間に合った。彼の魔力で、辺りの魔物たちを一瞬にして焼き尽くせたかのように見えたが。
「駄目だ……ッ、また湧き出てくる!」
 一度全てが蒸発したかに見えた地面からまたうじゃうじゃと魔物たちが湧き出てきたのだ。アンリとロザリーが相手をしていた魔の花も再び芽を出してくる。
「畜生! どうすりゃいいんだよ!」
 デメテルが皇帝になった時も世間は大騒ぎだった。異端とされる魔術師の一族の底力は計り知れない。
 今まさにその力を目の当たりにして、彼らは成すすべがない。
「アンリ兄様、僕、以前に聞いたことがあるんです。こういう場合、ハデス卿はどこかに必ず魔法陣を隠しているはずです」
「隠し魔法陣?」
「ええ。それを消せば魔物たちの供給は止まるはず。考えてみてください。ここは冥府じゃない。いくらなんでも後から後から魔物が出現し続けるのはおかしいです」
「わかった。探してみる」
「それまでは、敵を引きつけておきます」
 ジャスパーたちはそんな調子で魔物たち雑魚でありながら、後ろから襲われればひとたまりもない邪魔者たちの相手を余儀なくされた。
 一方シェリダンはやはり一行から少し離れた位置で、ハデスと剣戟を交わしている。
「抵抗を止めてくれる? シェリダン。僕が用があるのはロゼウスだ。君は黙ってこの場を見逃してくれるだけでいい」
「そう言われて、この私がほいほいとそう簡単に引き下がると思ったのか!? お前の目的はロゼウスを殺すことだろう。そんなことはさせない!」
 ハデスとシェリダン。お互いに直接剣を合わせたことはそうないが、互いの実力自体は知っているつもりでいた。だが実際に剣を合わせてみると、思ったよりも相手の強さがわかる。思ったよりも、強い。
 互いにそう思いながら、しかし二人の少年は口を動かすこともやめようとはしない。
「お前は本当に馬鹿だな、シェリダン! だから王になって三ヶ月で玉座を奪われたりするんだよ! まったく、呆れてものも言えないよ! 」
「減らず口を叩くのには現在進行形で事欠かない輩が言っても説得力がないな! 貴様に馬鹿だ愚かだと罵られたところで、私の心は変わらない! ものも言えないというのなら、余計な口出しはやめてもらおう、かっ!」
 最後の一言と同時に腕に力を込め、シェリダンはハデスとの鍔迫り合いを制する。いったん後方に引いたハデスの間合いにすかさず踏み込み、自分の優位に持ち込んだ。構えを取り損ねたハデスは無様にそのまま斬られることこそないものの、一度体勢を崩すと後は防戦一方になる。
 ぎり、と歯軋りしながら彼はシェリダンに叫んだ。
「何故わからない! あいつを殺さなければ、お前だって死ぬんだぞ!」
 間接的にとはいえ、シェリダンにロゼウスを愛するように仕向けたのは確かにハデスだ。皇帝としてのロゼウスの力を削ぐには、彼の弱味を作る必要があった。それがシェリダンの存在だ。
 しかし、体よく扱うための駒として付き合っていくうちに、ハデスはシェリダンの真実を知ってしまった。
 今はできれば、彼を死なせたくない。
 ロゼウスが皇帝になるということは、シェリダンが死ぬということだ。何故かどれだけ事態を屈折させても、それだけは変わらない。シェリダンの死なくしてロゼウスの即位は成り立たない。
 ハデスはそんなもの知らない。たとえ世界にとってはそれが必要であったとしても、シェリダンを殺してまでロゼウスを皇帝にする必要がどこにある。
 けれどシェリダンは、決してその言葉に頷かない。
「構わない!」
 堂々と主張された一言に、ハデスの目の前が怒りとそれ以外の感情で紅く染まる。
 どうしてそんなにロゼウスが好きなんだ。どうして!
「この……馬鹿がッ!」
 もういい。忠告はした。十分にしてやった。それでも聞かないと言うなら、もういいじゃないか。
「そんなに死にたいなら、ロゼウスに殺される前にここで死んでおけ!」
 ハデスはそう言って、魔力の助けまで借りて一度シェリダンから距離を取った。持っていた剣を投げるという暴挙に出て、それをシェリダンが防いでいる間に掌に魔力の球を作り出す。
「これで終わりだ!」
 しかし。
「それは困るわ」
 女の声が言った。耳に馴染んだ響だった。
 ロザリーやローラのものではない。もちろんそれ以外の男たちでもない。だが、しなやかな豹のような妖艶な響きを持つその口調は、プロセルピナとはかけ離れている。
 それでも振り返ったハデスとシェリダンの視線の先で、掌をこちらに向けて口を開いていたのはやはりプロセルピナだった。
 その顔には良く知っているのに、彼女の顔で見るはずのない表情が浮んでいる。
「姉さん……ッ!」
 ハデスが思わず叫ぶのと同時に、二人は彼女の掌から生み出された魔力によって勢いよく吹っ飛ばされる。強風に吹き飛ばされるように地面から足が離れ、体が宙に放り出された。
「わぁああああ!」
 彼らが剣を振るっていたその場所の奥は、ローゼンティアへと入り込む崖となっていた。

 ◆◆◆◆◆

 エヴェルシードはローゼンティアのほぼ真西に位置する国だ。だから国境を接していれば北東からでも南東からでも、どこからでも入ることができるように思える。
 だが実際にはそんなことはない。ローゼンティアからエヴェルシードに訪れる時も、またその逆も、彼らはほとんど西の街道をそのまま通ってくる。
 ロゼウスたち一行はエヴェルシードの王城での問題の後北東の森を通るようにしてローゼンティアに向かったが、国境まで来た際にもエヴェルシード北東から即座にローゼンティア北西にそのまま入ることはなかった。彼らは国内に入る際は少しでも西の街道近くに向かって、もどかしいようでも地道に歩を進めていた。
 エヴェルシードの北東からローゼンティア北西に至る道は、土地の高低差によって崖になっている。
 シェリダンがハデスと、そして他の者たちがハデスたちの生み出した足止めの魔物たちの相手をしている間、ロゼウスは最初に彼に向かってけしかけられたプロセルピナと戦っていた。
 闇色の剣をかわしながら、ロゼウスは相手の様子を窺う。情けないことに今は丸腰であるために、基本的に避けるしかできない。
 武の国エヴェルシードの人間であるシェリダンたちと違って、国では平和に暮らしていたロゼウスたちはいつでも武器を携帯する習慣というものがない。そのため、エヴェルシードで一応剣を扱う人数分エルジェーベトから用意してもらった剣は、荷物のある場所に置いてきてしまっている。ハデスとプロセルピナの突然の登場に意表を衝かれたということもある。魔術で空間を移動する彼らは人間の兵士と違ってはっきりとした足音などを聞かせないためにその接近に気づくのが遅れた。
 よって現在、ロゼウスはプロセルピナの闇色の剣を避ける一方だ。
 白刃の閃きをかわしながら観察するところでは、プロセルピナと呼ばれたこの少女は本当にデメテルにそっくりだ。
 黒い髪に黒い瞳、淡い色のきめ細かい美しい肌。年の頃は十四、五歳で確かにその分デメテルよりも印象は幼い。妖艶な色香を持っていたデメテルに比べて、プロセルピナは同じ顔立ちでも清廉な雰囲気を身に纏っている。
 長い黒髪はデメテルと同じ巻き毛、ぷっくりとして厚ぼったい唇が紅い。だがその可愛らしい容姿とは裏腹に、彼女は一切己の感情らしきものを見せない。
 デメテルと瓜二つと言うことは、当然ハデスにも似ていることになる。しかもハデスはプロセルピナのことを自分の娘だなどと言っていた。
 だが、帝国宰相に子どもがいるなんて話はロゼウスもシェリダンも聞いたことがない。それに邪推のようでもロゼウスの感覚としては、あのハデスがデメテル以外の女性と関係を持つとも思えない。
 そして何より、実際に今、この目の前にいる少女だ。
 ロゼウスに斬りかかる動きには一部の無駄もなく、彼でさえかわすのがやっとだ。ハデスがロゼウスに彼女をけしかけた訳も知れる。
 どんな攻撃を仕掛けるにも表情一つ変えずに動き、呼吸も乱さずに剣を振るうのでやりにくい相手だ。戦闘において呼吸の読めない相手ほど厄介な敵はない。
 しかしそれとは別に、ロゼウスには先程から気になっている事がある。
 目の前にいるのはデメテルにそっくりで、ハデスの娘という少女。
 デメテルが死んだという報告と共に彼はプロセルピナを連れてこの場に現われた。彼が殺したという言葉と共に。
 そして何故か、姉にそっくりな少女を連れている。この妙な符号はなんだ。
 目の前にいる少女は。
「――デメテル陛下?」
 ロゼウスはそう呼びかけていた。
「……」
 確証はない。でも感じるのだ。
 目の前にいるのは、あの大地皇帝と同じ存在だ。
「あなたはデメテル陛下だろう!? 何故そんな姿に!」
 目の前にいるのは、皇帝デメテルではないのか? だがハデスは彼女は死んだと言った。自分が殺したとも。ハデスのことだから例えば人に暗殺させて自らの眼で死体も見ずに死んだなどと軽く言うことはないだろう。殺したというからには確実に手をかけたその実感があって言っているに違いない。
 実際に彼の腕からは選定紋章印が消え、ジャスパーはロゼウスが皇帝だと宣言した。そう考えれば確かにデメテルは死んだらしい。
 だとしたら、この違和感は、胸騒ぎは何だ。
この何ともいえない不安は。
「くっ」
 刃の一撃が来て、ロゼウスは後方に跳んでかわす。追って斬りつけてきたプロセルピナの剣を身を屈めて避けると、下方から脇腹を狙って蹴り上げた。
 ガッと鈍い音がして、プロセルピナが血を吐く。ロゼウスと距離を取り、蹴り飛ばされた箇所を庇うように手を当てた。
 その顔は無表情で感情の一つらしきものも浮かんでおらず、ひたすら人形じみている。
「……人形?」
 ロゼウスはハッとした。そうか、この目の前の少女は。
「!?」
 その時、彼の視界の端で何かが薄青く光った。
 ここからでは少し距離のある崖際で、シェリダンとハデスが戦っている。だが先程までは剣を持っていたはずのハデスが今は手ぶらで、その代わりに掌に魔力の光を溜めている。
 離れていても目を射る光のその凶悪さに、ロゼウスはハデスの殺意を感じ取った。それが衝動的なものであれ何であれ、彼はシェリダンを殺す気なのだ。
「待て――!」
 止めようにも、ここからでは届かない。ロゼウスから二人の位置は遠く、シェリダンとハデスの位置は近すぎる。ローラやエチエンヌ、ロザリーたちもこの事態に気づいた。ハデスが強い魔力を使い始めたためか、魔物たちの動きが鈍っている。だが彼らからも距離があって、シェリダンのもとへは間に合わない。
 目の前のプロセルピナのことを忘れ、ロゼウスは駆け出した。だがわかっている。ここからではハデスがあの力の塊をシェリダンにぶつける方が早い。
 定められた運命によればシェリダンを殺すのはロゼウス自身のはずだとか、今ここでプロセルピナに背を向ければ背後から斬られる可能性があるだとか、そんな諸々の理性的な事柄は頭から吹っ飛んでいた。ただ彼を守りたい一心でロゼウスは駆け出したのだ。
 しかし数歩も行かぬ内に、事態は進む。
「これで終わりだ!」
 叫んだハデスの言葉を軽くいなすように、華やかな色気のある声音でプロセルピナが言った。
「それは困るわ」
 思わず振り返って見たその顔は知らない。だが浮かぶ表情は間違いなく彼らの知るデメテルのもの。
 背筋にぞくりと寒気が走る。その感覚は大きな魔力が動いたことを示す証だ。プロセルピナが穏やかな微笑を浮かべたまま、魔力の風を放つ。
「わぁあああ!」
「うわぁああああ!!」
 シェリダンとハデス、二人が戦っていた場所はエヴェルシードとローゼンティアの国境線の崖際だ。
「シェリダン!!」
 二人の体が、夜明けの虚空の闇に真っ逆さまに吸い込まれていく。


222

「別に殺してはいないわ。ハデスも、あなたの愛しい人も無事よ」
そう言って、少女は笑いながら長い髪をかきあげた。華奢な体つきは豊満な女性の肢体をしていた前皇帝とは違う。だがその仕草は紛れようもなくあの女帝と同じだ。
「……どういうことだ?」
 プロセルピナの言葉を一応は信じ、ロゼウスは崖へと向けていた目を彼女の方へと戻す。さきほどの魔術はロゼウスの目から見ても殺意を万全に果すものではなかった。たぶんプロセルピナは本当に二人を崖下に落としただけだったのだろう。
「シェリダン王がいると厄介だわ。だから、ちょっと隔離させてもらったの」
 もう疑いようがない。
 彼女は、プロセルピナの正体はデメテル=レーテ。先代皇帝だ。
 ハデスの手によって殺されたという彼女が、何故若返った姿でこんな場所にいるのか。それもだいたい見当がついている。その理由まで。
「乗っ取ったのか……?」
「人聞きが悪いことを言わないで。この娘はもともと魂を持たない人形よ。その中にちょっと、お邪魔させてもらっただけ」
「人形?」
 ロゼウスはプロセルピナの姿をじっと見つめる。どこからどう見ても人間だ。先程戦った感触では肌が接触したのは数度しかないが、それでも温かく柔らかい人間の肌だった。人形のわけがない。
「ええ。暗黒の末裔に伝わる禁術の一つよ。死者との交わりによって作り上げた受精卵の成長を促進させ意志を持たない人間を作る。ハデスは自分の精子と私の卵子からこの人形を作り上げた。私はそれを借りてるだけ」
「やっぱり乗っ取ったんじゃないか。たとえ意志があろうとなかろうと、人間としての器を奪うなんて」
 ロゼウスはプロセルピナの姿に険しい目を向ける。これでようやく合点が行った。
 ハデスが自分の娘だと言ったプロセルピナ。その容貌は、デメテルに瓜二つ。実の姉弟である二人の一部を使って魔術によって作り出された人間には魂がない。
 デメテルはある程度の予言ができる。未来を先読みして、この結末を知っていたのだろう。彼女はわざと自らの死に抗わず、遺伝上は自らの娘にあたる身体へと乗り移ったのだ。
「そうまでして生きたいのか!」
 全ては運命に逆らうため。
「生きたいわ」
 静かに彼女は頷き、少女の顔立ちで睨みつける。妖艶な美女の面影が、全体的に華奢な少女の立ち姿に重なった。
「皇帝として私がこの世にある以上私の選定者であるハデスまでその運命に巻き込まれてしまう。あの子を死なせない。絶対に死なせはしない。そのためなら私は、皇帝であることを捨てる」
 プロセルピナはプロセルピナとしてそこに存在するが、魂はデメテルのものだ。大地皇帝としてのデメテルに肉体は死んだがその存在自体は消滅していない。
 運命が捩じれる音が聞こえるようだ。ロゼウスにはデメテルの思惑がわかった。彼女はハデスの殺意も裏切りも暗黒の末裔の魔術も自らの命も全てを使って、自分と弟に降りかかる宿命を歪めたのだ。
 デメテルは皇帝ではなくなった。だが彼女自身はまだ存在している。ここに帝国史の例外がまた一つ刻まれた。次の皇帝に殺されるのではなく位を放棄した先帝。その場合彼女とその選定者の命運は、どうなる?
「あなたは、これからもう死ぬことはないのか? ハデスも……」
 自らがシェリダンだけでなく二人をも殺すと言われているロゼウスとしては複雑な気持ちになって、思わずプロセルピナにそう問いかけていた。彼女はにっこりと笑う。
「ええ。そうみたいね。始皇帝の頃からそもそも、この世の決まりなどは神様がわかりやすく条文にするのではなく各々の想いと行いから例を重ねていくもの。皇帝の代替わりに際して次の皇帝が先代の皇帝を殺すことや前の皇帝が死んで次の皇帝が玉座に着くと選定者は死ぬのがこれまでの決まりだったけれど、私の今のこの行動でまたその例も変わったわ」
「皇帝がその立場を放棄すれば、命を失う事はないと? 廃帝デメテルよ」
「なんとでもお言いなさい。私はこの結果に満足しているの」
「できればぜひその反則技を俺にも教えて欲しいね」
 だが、デメテルが宿命を捻じ曲げたということは、ロゼウスにもそれが可能であることを意味するのではないか? ロゼウスはそれに賭けてみたくなった。
 彼の言葉をうけて、プロセルピナはしかし沈鬱に眉を寄せる。
「……いいえ。これは暗黒の末裔である私たちだからこそできたこと。それに、あなたがどんなに未来を変えたいと願ったところで、シェリダンを殺すことだけは避けられないのよ。彼を殺さねばあなたは皇帝にはなれないから」
 痛ましいものを見つめるようなデメテルの視線が癪に障る。
「何で……どうしてっ!」
「知らないわ。よりにもよってあなたを皇帝に指名した神様に聞いてちょうだい」
 すげなく切り捨てながらも、プロセルピナはロゼウスを見てどこか辛そうだ。
 彼女には未来が見えている。たぶん、ロゼウスとシェリダンが迎える終焉の光景も。
 けれど、彼女は決してそれを口に出す事はない。
 このまま冷たくロゼウスを見放すかと思えたプロセルピナは、しかし次の瞬間ふいに優しくこう言った。
「一つだけ方法があるわよ。ロゼウス王子」
 え、と顔を上げたロゼウスに微笑んで告げる。
 プロセルピナの右手が上がる。
「貴方が先に死んでしまえば、シェリダン王を殺す事はないでしょう?」
 その右手にはすでに十分な魔力が貯められている。
「ロゼウス様!」
「兄様!」
 シェリダンとハデスが崖下に吹き飛ばされ、プロセルピナがデメテルとして正体を明かした辺りから魔物たちや魔の植物の動きは止まっていた。手こそ空いていたが重い話の流れ上これまで動くに動けなかった他の者たちも、その暴挙には口を挟まずにはおれなかった。
 ロゼウスは間一髪でプロセルピナの攻撃を避ける。
「どういうつもりだ! デメテル帝!」
「できればプロセルピナと呼んで欲しいわね。私はもうデメテルではないのだから」
 またもや攻撃の用意をしながら、プロセルピナが先程とは打って変わった無表情で告げる。攻撃に神経を集中し始めている。
「私はドラクル王やカミラ姫と違って、あなたに直接的な恨みはないの。だからどうしてもあなたが死ななければ気が晴れないなんてこともないの。でもね、ロゼウス王子。あなたは、その存在自体が危険すぎる」
 闇色の光球が地面で炸裂したかと思うと、爆風を縫ってプロセルピナが斬りかかってくる。手には先程と同じ剣が復活している。
「きゃあ!」
「こいつら、また!」
 そしてこれまで、躾けられた犬のようにぴたりと動きを止めていた魔物たちもその活動を再開し始めていた。もとはハデスが召喚したはずの冥府の魔物たちは、いつの間にかプロセルピナの支配下にある。
 彼女の正体がわかったところで、形勢は変わらない。むしろ本領を発揮したプロセルピナの前で、一行は不利になっていくばかりだ。
「くそっ!」
 舌打ちしてロゼウスは毒づいた。崖下に落とされたシェリダンの安否も気にかかる。プロセルピナは死んではいないと言ったが、この状況ではその言葉を信用するのも難しくなった。
 先程一時的に攻撃をやめてロゼウスと会話をしたのは、この猛反撃の準備を整えていたというわけか。
 これまでどうにも敵か味方かわからなかったプロセルピナだが、この攻撃を見るだに彼女は味方ではないようだ。
 ハデスが世界の全てを復讐のためには放り出せるというのなら、姉も同じと言うわけか。彼女は自らの思惑のためにこれまでロゼウスに味方し、そしてこれからは敵対する気だ。
「好き好んで他人を不幸にしたいわけではないわ。でもロゼウス皇帝、あなたを生かしておけば、ハデスが辛い目に遭わされる。私としては、それを見過ごすわけにはいかないのよ!」
 そしてプロセルピナにも打算はある。
 デメテルとハデス、両方の高位魔術師の力を継いだこのプロセルピナの器を以ってしても、皇帝としての本領を発揮したロゼウスには勝てないだろうと。
 だからできれば、ここで殺しておく。そして殺せなくても――。
「油断大敵よ、第四王子ロゼウス殿下」
 後の事は彼に任せておけばいい。
「!」
 いつの間にか、ロゼウスたちは大勢の兵士に囲まれていた。

 ◆◆◆◆◆

「あなたの役目は、彼らがここに着くまでの足止めですか?」
 予想外の一団の登場にロゼウスはさすがに顔を引きつらせる。そんな彼を嘲笑うように、プロセルピナは優雅に微笑んだ。
「お好きに解釈なさってどうぞ。どちらにしろ、このままあなたをドラクル王のもとへと連行させていただくわ」
「――!」
「ドラクルですって!?」
 ロザリーが声をあげる。長兄を、長い間そうだと信じていた男を敵視する妹は、今は簒奪者となった彼の名前に顔色を変えた。
「私に課された命は、ロゼウス王子の捕獲。あなたを王城へと連れて行きます」
「どうして、あいつが……ッ!」
「どうして、とはおかしな問ですね。ロザリー殿下。ドラクル様はずっと、あなた方のお兄様として過ごしていたのですよ。ご兄弟の皆様にお会いしたいと思うのは、当然ではありませんか?」
「カルデール公爵!」
 プロセルピナの背後から、兵士たちの一団を引き連れて現われたのはカルデール公爵アウグスト卿だった。第一王子ドラクルの腹心の部下にして第三王子ヘンリーの友人としてローゼンティア王族とも馴染み深い彼の姿に、一行は眉を吊り上げる。
 これまでは、ローゼンティア滅亡に始まるこの一連の出来事が始まるまでは彼は信頼ができる貴族の一人だった。だが今は違う。
「この裏切り者! 私たちをドラクルのところに連れて行ってどうするつもりなのよ!」
「裏切り者とは心外な。私はもともとドラクル様の部下であり、あなた方に対してはもとより裏切るも何もありません」
 カルデール公爵アウグストが引き連れているのはもちろん、ローゼンティアの兵士たちだ。久々に見る同胞の姿がこんな形となって、元王族の彼らは悔しい気持ちでそれを見る。
 アウグストに連れられた兵士たちは皆一様にどこかに感情を置き忘れてしまったかのような表情をしている。それだけ訓練された兵士ということか、それとも……
「後ろの人たち……まさか、彼らはノスフェラトゥ?」
「何!?」
 兵士たちの顔色を眺めその異様さに気づきあることを指摘したジャスパーの言葉に、アンリが驚愕の声をあげた。よくよく見てみれば、確かに彼らローゼンティアの兵士たちには生気と言うべきものがない。
「よく気づきましたね。さすがはジャスパー王子」
 にっこりと、この状況が嘘のように穏やかに笑ったアウグストがジャスパーを褒める。そんな見せ掛けの経緯も感嘆の様子も、今となっては白々しいばかりだ。
 アウグストは傍らに立っていた兵士の一人の頬を撫でて口を開く。
「彼らはノスフェラトゥ。私の、可愛い忠実な部下たちですよ」
 頬を撫でられた兵士は微動だにしない。それどころか、アウグストに触れられたことそのものをまず意識してはいないようだ。
 ノスフェラトゥ。それはローゼンティアのヴァンピルの最大の能力にして禁忌。暗黒の末裔が死者の胎から胎児を取り出すのと同じように、使えながらも使えない術。
 死んだ者の体に偽りの命を吹き込み、人形とする術だ。ちょうど目の前にいるプロセルピナのようなものと言えば聞こえはいいが、実際にはもっと下等な術だ。ハデスが作り上げたプロセルピナは魂こそなくとも身体的には普通の人間と同じように生きるのだが、ノスフェラトゥはそうではない。
 彼らは術者の命により、ただ動くだけの本当の意味での人形となる。すなわち生ける屍。偽りの命とはただその身体を動かすためだけのものであり本当に蘇らせるわけではない。そのため、いつかは身体が腐って使えなくなってしまう。
 吸血鬼にとって最も屈辱的な末路だ。
「なんてことを……カルデール公爵!」
 自国の民を生ける屍扱いにされてアンリが拳を握り締める。無表情で佇む死体の兵士たちは恐れよりもただただ哀れを誘う存在だ。
「仕方がないのですよ。王権派の抵抗活動は思ったよりもしつこくてドラクル様に素直にこの国を譲り渡してはくださいませんでした。それならばもう、武力で鎮圧するしかない」
「それはお前たちの都合だろう! 自分の欲望のために罪なき民の命を弄んだこと、赦されると思うな!」
 二十六年間第二王子として生きてきた気迫を持って、アンリが叫ぶ。
 しかしアウグストはものともせず、彼の主であるドラクルがよくするように薄っすらと微笑んでいる。
「私たちの都合? では、簒奪をせねばドラクル様が不当に貶められていたのは、誰の都合なんです?」
「そ、それは……」
「綺麗事などでご自分を誤魔化すのは、やめておしまいなさい、アンリ王子。あなただって王ではなく大公の子。ご自身の立場を欺かれた恨みはあるでしょう?」
 闇の深淵へと誘惑するように甘く、アウグストがアンリに向かって囁く。
「あなたはただ、ロゼウス王子を我等に差し出してくださればよいのですよ」
「っ! 断る!」
 アウグストの誘惑に一度は視線を迷わせたアンリだったが、続く言葉にははっきりと拒絶の意志を示した。
「ドラクルの目的はロゼウスを殺すことだろう! 殺されるってわかってる弟を、みすみす渡せるか!」
「兄様……」
 アンリの言葉に、ロゼウスが小さく瞳を揺らす。王の子と王弟の子、立場は違っても味方となってくれるアンリ。
 そんな兄弟のやりとりは知らぬと言いたげに、アウグストは冷めた目で二人を眺める。
「……別に殺すとは言ってないんですけどねー」
 ドラクルの命令はとにかくロゼウスを彼のもとへ連れて来いというものだ。そしてできれば他の兄妹も。
 だが、エヴェルシードの者たちはいらない。
 兵士たちが一斉にローラ、エチエンヌ、リチャードに剣を向ける。
「!」
「あなたたちは要らないんですよ。ドラクル陛下がお望みなのはそこの王族方四人だけですから」
「待て!」
 ノスフェラトゥに辺りを囲ませてエヴェルシードの侍従たち三人に攻撃を仕掛けようとしたアウグストを、ロゼウスは止める。
 遅まきながらプロセルピナが何のためにハデスとシェリダンを崖下に落としたかわかった。これに巻き込ませないようにするためだったのだ。ハデスは近頃ドラクルと連絡をとるのを拒否しているらしく、シェリダンにいたってはロゼウスを除けばもっとも強い恨みの対象だ。彼らがここにいれば、もっと事態はややこしかったに違いない。
 だが、だからと言ってエチエンヌたちを殺させるわけにもいかない。
「彼らに手を出すな! 用があるのは俺なんだろう!」
「ええ。そうですよ、ロゼウス殿下。あなたに用があるのですから、この者たちに邪魔をされては困るのですよ。だから殺すのです。……シェリダン王はどうしたんです? 一緒にいたと聞いていましたのに。彼まで殺すのが私の任務なんですけどね」
 アウグストは肩を竦めて見せる。やはり彼は、プロセルピナがシェリダンを崖下に落としたことを知らない。
 彼は何を考え、彼女は何を考え、ドラクルは何を考えているのか。たとえ同じ集団に属していても個々の思惑は別々だ。ロゼウスたちはどうするべきかわからなくなる。
 考えろ。最悪なのは、ここでロゼウスもシェリダンも捕まること。しかしその最悪の可能性だけはデメテルが回避してくれた。
 ロゼウスが捕まっても、シェリダンが自由であれば道はある。
「……ドラクルのもとに向かうのは、俺一人では駄目なのか?」
「連れて来いと命ぜられたのはあなた一人ですが、そこの者たちを残しておけばどうせ邪魔立てしてくれるでしょう。シェリダン王に関しては見つけ次第殺せと言われておりますが、その部下に関しては何も。ですからここで殺していくか、殿下が望めば共に王城に捕虜として向かっていただくことになります」
 ロゼウスに選択の余地はない。
「では、彼らも共に。殺す事は許さない」
「かしこまりました」
アウグストの命により、エチエンヌたちに縄が打たれようとする。
 しかしそれを、突如として周囲を覆った煙幕が阻んだ。
「何だこれは!?」
 アウグスト隊が叫びを上げて煙から顔を庇う。魔力を含ませた煙は、術者が攻撃したい相手だけを攻撃するというものだ。
 魔術の専門家であるプロセルピナが一緒にいる以上、こんなものは目晦ましに過ぎない。しかしアウグストたちが煙に苦しんでいる一瞬の隙に、驚いているロゼウスの手を誰かが引いた。
「向こうへ! 荊が茂っているから馬では追って来れないわ!」
 凛とした声音でいいつける、その人をロゼウスは知っている。煙の隙間から新たな敵の姿を見て、アウグストも困惑の叫びをあげた。
「ルース殿下!? 何故!」
 ロゼウスは彼女の言葉どおり荊の森へと向かいながら、ローラやエチエンヌを囲んでいた兵士たちも片付ける。
「とにかくあっちへ!」
 何が起こったのかよくわからないながら、一行はルースに導かれるままローゼンティア軍からの逃亡を開始した。


223

「う……」
 硬い地面と土の匂いを頬に感じ、呻きながらハデスは身を起こした。
「な、なんで……」
 頭上を仰げば鬱蒼と木々の葉が生い茂っている。ひらひらと花びらのように木の葉が舞い落ちる。体の下に無惨に折れた枝が転がっていた。どうやら崖から落ちた際に、あの木の枝葉の茂みをクッションにしたらしい。
もちろんこの崖の高さだ。それだけではこんな軽傷では済むまい。ずきずきと痛む右足首を庇いながらハデスは思った。先程の魔術によってここへと落とされた際に、死なないような手加減もされていたのだと。
「プロセルピナ……」
 違う、あの時の彼女の表情は。
「姉さん……」
 プロセルピナの顔で笑ったのは、確かに彼が殺したはずの姉、デメテルであった。
「もう、何がなんだかわからないよ……」
 何故、プロセルピナの身体にデメテルの魂があるのか。確実に殺したはずなのに。これまでの感情がないような挙動は全て演技だったのか? 遺伝的には娘であるはずの少女の中身は姉。
 もはや、悲しむべきか喜ぶべきかわからない。殺し損ねたことを嘆けばいいのか、それとも彼女が生きていたことに安堵すればいいのか。
 ハデスは額を抱えて蹲る。落下の際に無傷とはいかず、痛めた足首。折れてはいないが、挫いたようだ。治癒の魔術をかけるが、痛みはすぐには引かない。
「ぅ……」
 小さな呻き声が聞こえた。
「っ、シェリダン!」
 少し離れた場所で乱れていた藍色の髪を目にしてその正体を知る。ハデスと一緒に、彼と戦っていたシェリダンも同じように崖下へと落とされたのだ。
「生き……てる」
 声が聞こえたのだから当然なのだが、眉を歪めて苦しげな表情を作った彼の様子にハデスは思わずそう呟いた。シェリダンはまだ意識を取り戻さないようで、硬く瞼を瞑ったままだ。彼の剣は別の場所に放り出されている。
 ハデスはまだ魔術の馴染まない、痛みの残る足を引きずって、彼のもとへと歩み寄った。
 少年らしさの残る薄い胸は上下し、唇はちゃんと呼吸を繰り返している。
 また先程のようにハデスは一方で安堵し、もう一方でそんな自分に違和感を覚えた。
 ついさっきまで、殺そうとしていた相手だ。
 こうして無事を確かめて安堵するなんて馬鹿げている。理性はそう考えるのに、心がそれを受け入れない。
 手を伸ばし、シェリダンの首を軽く掴んだ。力を込めずに首筋を押さえ、今にも絞め殺せるようにする。
 親指の下で感じる脈拍。確かに生きている。今なら殺せる。今この瞬間にシェリダンが目を覚ましたとしても、仰向けに寝ている彼に馬乗りになったハデスを、首を絞められながら振り払うほどの力はさすがにないはずだ。
 ここでシェリダンを殺せば、運命はまた覆る。シェリダンを自分の手にかける事がロゼウスが皇帝に即位するための絶対必要条件だというのならば、その前に彼が殺されてしまえばロゼウスが皇帝になるという未来ごと潰せる。望みのない、真っ暗な明日を変えられる。
 だけれど、ハデスの手からは力が抜けていく。
 そして透明な雫が頬を伝って彼が覗き込むシェリダンの頬に落ちた。
「ぅ……ハ、デス?」
 目を覚ましたシェリダンが見たものは、立ち上がり袖で涙を拭っているかつての友人。だが、シェリダン自身の頬も濡れている。目元は乾いているからシェリダン自身が意識を失っている際に自分で涙を流したわけではない。それだけで彼は、自分が倒れている間何があったのかを察した。
「痛……!」
 身を起こしたシェリダンから離れようと動いたハデスが、足首を押さえて動きを止める。
「どうした?」
「足が……」
「落ちたときに挫いたのか? そもそも、よくあの高さから落ちて私たちは無事だったな」
 プロセルピナの魔術によることをハデスはシェリダンに伝え、そしてこれからどうするかを話し合うことになる。
「こうなったら、一度協定を結ばないか? 私にしろお前にしろ、自分一人では上に戻れないだろう?」
「見くびるなよ。それとも馬鹿にしているのか? 僕一人なら、魔術ですぐに戻れるに決まってるだろ!」
「ふぅん。そしてまたすぐにあの娘に落とされてくるのか? それはいくらなんでも馬鹿らしくないか?」
「……」
 結局、ハデスはシェリダンの言う事を聞いて、一度二人で元の場所へと戻ることになった。元の場所に固執するというよりも、むしろシェリダンにとっては仲間のところというべきだがそれがローゼンティア軍の襲撃により変更されているなど崖下の彼らは知るよしもない。
 まだ治りきらない足首が痛むというハデスを、シェリダンはしょうがないな、と言う風にひょいと背負いあげる。所謂おんぶの姿勢である。
「なっ……! お、下ろしてよ!」
「無理をするな。動けないんだろう? 心配せずともちゃんと治ったらこちらから放り出してやるから」
 角度にして直角の断崖絶壁を身長の二十倍以上登れるような技術は二人にはない。シェリダンはハデスを背負い、崖沿いの道なき道を歩き出した。どこかで坂になっている箇所を見つけ出し段々と上に登らなければならない。面倒だ。
 彼に背負われているハデスはハデスで、気まずい思いをするばかりだ。先程まで殺そうとしていた相手に、何故自分は背負われていたりするのだろう。もはや情けないという言葉などでは語りつくせない。
 だが、安心する。
 シェリダンの背に背負われ、その背中に身体を預け、肩口に額を押し当て、暖かな体温を感じる事は彼を酷く安心させる。まるで幼子に返ったように。
 物心がつかないような小さい頃はよくこうして姉の背に背負われていた。あの頃は唯一、無邪気に甘えていられた。今となってはもう夢物語だ。第一、外見年齢十六、実年齢は百歳近い男がこんな風に誰かの背に負われることを望むなど間違っているだろう。
 それでもこの体温は安心する。先程他の誰でもない自分の手で消しかけた体温。崖の上での戦いだけでなく、崖下に落ちてまだ目を覚ます前のシェリダンさえもハデスは殺そうとしたのだ。
 それなのに。
「……で」
「ん?」
「……ないで、死なないで、シェリダン」
「ハデス……」
 肩口に顔を埋めて呟いた。シェリダンが微かに首を動かしても俯いたハデスの黒髪しか見えない。
「死なないで」
 殺そうとして、死ねばいいと思って、駒として利用して、だが生きていて欲しかった。矛盾している。
 いつの間にかロゼウスを陥れるための駒の一つではなくシェリダン自身をハデスは必要としていた。それが叶わないことを知っているから、理不尽な癇癪を起した。
 しかし今、死んだはずのデメテルがプロセルピナとして蘇ったり、己の腕から選定紋章印が消えたりして改めて思う。
 自分が欲しかったのは、こんなものではない。皇帝の座なんて、本当はどうでもよかった。赤い痣のような選定紋章印はただそこにあるだけで、痛みも何もない。だが、あれは重荷だった。ずっとあの刻印はハデスにとって何より重たいものだった。
 めぐらせた思惑の幾つかが叶い、幾つかが裏切り、幾つかが立ち消えて、そして今思う。
 失いたくない。
 定めに踊らされてこれ以上何も失いたくない。
 シェリダンに死んでほしくない。
「すまない、ハデス」
 だが君はやっぱり選ぶのだろう。最後にはロゼウスに殺されるその道を。この世の誰も彼を止めることはできない。たとえ彼の愛するロゼウス自身さえ。シェリダン=エヴェルシードは自由だ。
「どうして、だよ。どうしてあんな奴がいいんだ。どうして!」
 顔を上げないまま問いかける。顔を埋めたシェリダンの肩が濡れる。ロゼウスなんかのためにお前が死ぬ事はない。何故、とまた繰り返し問いかけた。
「ハデス、私は――」
 彼の口から初めて聞いた、その本当の気持ち。
 なんでそんなことを言うのかわからない。やっぱりお前は馬鹿だとハデスは彼を罵った。怒るでもなくシェリダンはそれを受けとめる。
 ふいに、道の先から誰かが近づいてくる気配がした。
「……誰だ?」
暗い森の中をランタンを持って歩く、それは華奢でか弱げな一人の少女だった。雰囲気がどうも鋭くなく、二人は最初、それがただの村娘かと思ったくらいだ。しかしその認識は次の彼女の名乗りで一変する。
「シェリダン王、それに、帝国宰相閣下ですね。わたくしはローゼンティア第五王女、メアリー=ローゼンティア」
 ロゼウスの妹の一人だ。何故こんなところで?
「あなた方を迎えに来ました。ロゼウスお兄様と引き合わせて差し上げます。わたくしについてきていただけませんか?」
 メアリーの思いがけない言葉に、二人は顔を見合わせた。


 《続く》