212

 生きることと死ぬことの間には、厳密な差異があるはずだ。
 死者は蘇りはしない。死んでしまったものには二度と会えない。
 ヴァンピルのような、一度の生命活動の停止が終焉とならぬような一族であっても、それでも最終的な滅びは免れない。
 自分にとっては、それだけが全てだった。自分以外の世界などどうでもいいくせに、自分の知っている存在に関しては、それが消えて二度とその姿を目にすることが叶わなくなるのが怖かった。

 ――死にたくない、というのは少し違うな。生きていたいんだ。死が怖いのでもイヤなのでもなく、生きていたい。
 ――わからないよ。どこがどう違うのか。

 彼の言葉はよくわからない。「死にたくない」と「生きていたい」というのは、どこがどう違うのか。どちらも「生きていたい」ということなのではないか? どちらも「死にたくない」ということなのではないか?
 彼の言葉はよくわからなくても、それでも自分の気持ちはわかっている。

 死なせたくない。
 絶対に。

 ――お前と一緒にいられるのであれば、馬鹿で構わない。私はもう他には何も望まないから。
 ――お前と一緒にいたい。お前といると、なんだか……酷くやわらかい気持ちになる。
 ――お前といると幸せなんだ。
 ――お前に会ってようやく、私自身が本当に望んでいるものがわかったんだ……自分を生んだ世界を無闇に恨まなくても、憎しみを糧にしなくても生きていられる。そうして最後に残ったのが、エヴェルシードの民や、カミラには幸せでいてほしいという気持ちだった。

 そして、この耳元で囁いた。今回に限ったことではない。幾度も、どんな場所でも、切ないくらいに真摯な声音で。

 ――愛している、お前を。誰よりも、私自身よりも。

 俺だって愛してる。だから。

 死なせたくない。
 殺したくない。
 お前を殺したら、俺だって生きていけない。
 そうなればもはや、狂うしかない。
「だから、死なないで」
 お願いだから、俺にお前を殺させないで。

 どうか――。


213

 どことも知れぬ森の外れ。
「……馬鹿だな、シェリダン」
 遠視の術と言うものがある。魔術師に不可能はない。そんなこと言葉の上だけだとわかってはいても、魔力と呼ばれるその力が他の何よりも有用性が高いのは事実だ。
 現在ハデスが使っているのもその魔術の一つ。遠視の術は文字通り、自らがそこにいなくても遠くの出来事をその場にいるかのように見る事ができるというものだ。その術を使って、ハデスは遠いエヴェルシードの様子を眺めていた。
 事態はちょうど、カミラとの決闘に敗北したシェリダンが民衆に石を投げられながら退散するところだ。顔やむき出しの手を尖った石ころに傷つけられて細い血の筋をいくつも流しながら、それでも堂々と少年は歩いていく。その姿は敗残者でありながら、まさしく王と呼ぶに相応しかった。
 ハデスにはもちろん、自らが憎まれ役になってエヴェルシードの団結を深め、国を救おうというシェリダンの思惑がわかっている。だからこそなおさら、彼を愚かだと思う。
 馬鹿だな、シェリダン。
「お前がそんな苦労をして国を救う必要なんてどこにある。好きでエヴェルシード王家に生まれてきたわけでもあるまいし。滅び行く国なんて放っておけばいいんだ。お前はもうエヴェルシードとは関係なかったのだから。そうまでしてエヴェルシードのために体を張って悪名残してお前に何がある」
 ハデスが今この場で思ったことくらい、シェリダンはとっくに自分で考えただろう。帝国史に悪名を刻む、その意味を。
 そしてわかっていながら、自らの意志を覆さなかったに違いない。見返りを期待しない無償の愛。何も返らないどころか、相手が投げつけられるものが石であってすら受け入れ包みこむ真の寛容。ああ、そうだわかっていた。狂った環境に歪まされていただけで、シェリダンは本来こういう性格だ。
 そして彼からそういった真実を引き出したのは……。
 ――私はお前に出会って変わった。
 シェリダンとロゼウス二人での話になったところで、ハデスは遠視の術を消した。他人の情事を昼間っから好き好んで覗く趣味はない。それがあの二人のものなら尚更だ。
 お前は本当に馬鹿だ。
 胸の内で三度、かつての友人を罵る。ハデスの再三再四に渡る忠告にも関わらず、ロゼウスと共にいることを決めた彼へ。
 《予言》、もとい未来を覗く予知能力によってその展開を知っていたとはいえ、それでもハデスにとっては面白くない。
 どうしてその道の先に待つのが死だとわかっていて、彼はその道を進めるだろう。
 生きていたいことと死にたくないということは、何が違うというのだろう。奇しくもロゼウスが思ったのと同じ事をハデスは考える。
 未熟な精神。彼自身がそうであると自覚していないだけで、九十年以上生きていても彼はただの子どもだった。
 だからわからないのだ。まだ十七年しか生きていない、しかも決して十八歳になることのない少年にわかるそのことが。
「生きていたい」ことと「死にたくない」ことは違う。死ぬのが怖いのではなく、死ぬのがイヤであることは。生きるのに目的や意味を見つけた者と、そうではなくただ惰性で生き続ける者の生に対する認識と執着は違うということ。
 ハデスにはわからない。理解できない。謎かけのような言葉に混乱するばかりだ。
「シェリダン、どうしてお前は……」
「わからないでしょう。あなたには」
 独り言に答が返ってきてハデスは慌てて背後を振り返った。
 聞こえてきたのは今しがた魔術で見ていた誰のものでもない声だ。
 そして彼ら以上にハデスにとって聞きなれた声でもある。
「ようやく見つけたわ。ハデス」
「姉さん……!」
 大地皇帝デメテルは、ついに弟である帝国宰相にして現時点で最強と呼ばれる魔術師の不可視の足跡を辿りここまでやってきた。
 冥府より戻って以来、たった一人で行動し続け誰の目の前にも姿を現さなかったハデス。姿を変え声を変え、国や街を転々としていた。ドラクルのもとにも足を向けなかった。
 自らの魔力が最大限になる冥府での戦いをもってしても彼はロゼウスに勝てなかった。常に様々な状況がそれを許さないということもあるが、そろそろハデスにも焦りが生まれてきた。本当はわかっていたことを、ようやく認める。
 自分の力では、薔薇皇帝となるべきロゼウスには勝てない。
 わかりきっている破滅の未来に向かって強く進む事ができる人間は少ない。人は明日の我が身を知らないこと、それこそが希望なのだ。例えば今、明日お前は死ぬのだと宣告をされて、平静を保てる人間が何人いるのだろう。……そう、シェリダンでもあるまいし。
 しかしハデスの諦めとはまた別のところで、デメテルの言葉は彼の胸を抉った。
「帰りましょう、ハデス。もう私たちが足掻くだけ無駄なのよ」
「何故そんなことが言える!」
 姉の言葉に憤慨して、ハデスは声を荒げた。ロゼウスには勝てないとわかっていても諦めきることのできない彼の耳には、デメテルのその言葉が正しく死刑宣告として響いた。
 ロゼウスを殺さなければ、死ぬのは自分だ。皇帝と選定者は基本的に運命を共にする。稀にあのシェスラートとロゼッテのように選定者だけ皇帝より先に死ぬ例もあるが、その逆はない。皇帝が死んで選定者だけ永らえるなど。
 ハデスにとって、未来は全てが闇だ。いくら予言の能力があるとは言え全てを見通すことができるわけでもない。自分がどうなるのかわからないというのはこれ以上ない不安なのだ。
「ハデス」
「僕に何がわからないって? わかっていないのはあなたの方だ、姉さん!」
 ハデスがここまで不安になるのは、デメテルのせいなのだ。彼女が本来の選定者である父親の腕の皮を剥いでハデスに移植するなどということをしなければ、ハデスはまだ正気でいられた。
「あなたこそ知った顔をして、本当は何もわかっていないじゃないか!」
「ハデス……」
 ハデスは偽りの選定者だ。本来は二人の父親であったはずの選定者の運命を、デメテルは腕の皮を移植することによって無理矢理ハデスへと入れ替えた。しかし、皇帝が選定者より早く死ぬ事はなくとも、選定者が皇帝より早く死ぬ事はある。ハデスの場合は、どこまで彼を選定者と呼んでいいのかわからない。腕の選定紋章印を移植したことで、本当に選定者の運命まで彼に移植されたのか?
 それとも、ハデスは皇族だからただ不老長寿となっただけで、実は選定者の運命まで背負う者ではないのではないか?
 全ての答は、皇帝であるデメテルが死んだ時に明らかになる。だが真に選定者の資格持つ者であった場合、臨終間際に己の死を悟ったところで遅いのだ。
 自分は死ぬのかもしれない。
 だが死なないのかもしれない。
それがわからない苦痛を、デメテルは到底知りはしない。ハデスは彼女の意志によって作られた、デメテルがいなければ生きられない存在。その意味では「選定者は皇帝のために生まれてくる」と言う言葉は正しい。
 生んでくださいなんて、望んだ事は一度もなかったにも関わらず。
 自らを生み出した「親」と言うような存在には必ず感謝をしなければならない? 馬鹿馬鹿しい。感謝をされるような親と言うのは、子どもに感謝されるほどしっかりと育てた親だけだ。
 生憎とハデスの両親は違う。彼らは皇帝となる娘のご機嫌取りの道具以上の意味はなくハデスをこの世に送り出したのだ。皇族としての裕福な暮らしに目を奪われて、生んだ子の未来など考えもしなかった。
 そして両親にその選択をさせたのはこの姉、デメテルだ。
 元はと言えば、ハデスの存在を自分の玩具としてしか望まなかったのは、彼女だ。
 だからハデスはこの世の何にも感謝などしないし、自分がここにいるだけで神に感謝を、などとは思わない。
 このような作られ方をしたからこそ、ドラクルやカミラとも共謀できたのだ。国のために醜い継承争いのために作られた彼らの気持ちを自らの身の上に重ねて、痛いほど理解することができたから。
 そして理解はしても、同情はしない。
 誰を踏みにじってでも、自分は幸福を手に入れる。
「僕は、あなたなんかいらない!」
 追いすがろうとしたデメテルを振り払い、ハデスは転移に入る。
 彼女は追ってこなかった。
 直に対面して知った。デメテルが皇帝として存在していられる時間は、あと僅かだ。

 ◆◆◆◆◆

 エヴェルシード王国、北東の辺境。
 木立に隠れるように暗い緑の樹林を進む一団がいる。彼らの旅用の装備は使い古したわけでもないのにくたびれた感があり、長靴は泥に汚れていた。
 日が暮れようとした辺りで、一行は足を止める。一団の中には成人男性から少年少女まで、大雑把に若者とだけくくれる面々が揃っていた。
 手馴れたように野営の支度を終えて、覆いをつけて極力煙が出ないように工夫した焚き火を囲みながら彼らは口を開く。
「……これから、どうする?」
 シェリダンは口を開き、周囲に顔を並べた者たちを見回した。仲間と言うには因縁のある相手とも、今は便宜上手を組んでいる。かといって利害の完全な一致を見る事は少ないので、一つ行動を決めるのにもわざわざこうして相談が必要だ。元は敵同士であるために、下手に纏め役になれる人間も少ない。
 シェリダンは自らの部下であるローラたちを纏めるエヴェルシード側の代表者だ。そしてローゼンティア側からは、第二王子アンリが代表として意見を出し、シェリダンと話を纏めることが多い。
 そのシェリダンは現在手頃な切り株に腰掛け、周りからは一歩離れたところで全体を見回している。足下にはロゼウスが座り込んでいた。
 焚き火の側にはアンリ、ロザリー、ジャスパーというロゼウス以外のローゼンティアの面々と、リチャード、ローラ、エチエンヌというシェリダンの部下たち。王家の兄妹とエヴェルシードの侍従はそれぞれ纏まっている。
「私の用事はもう済んだ。エヴェルシードのことは、カミラと残った者たちが上手くやるだろう。ならば、この国には用がないだろう。あとの問題はローゼンティアのことだと思うが」
「その前に、ハデス卿のことはないのか?」
 現在地はエヴェルシード国内でも、ローゼンティアとエヴェルシードの中間地点に当たる北東の森だ。このまま自分たちから行動を起こすならローゼンティアにすぐ向かうことはできる。だがそれも得策とはわからない。
 そして、冥府から戻って以来彼らは帝国宰相ハデスの話を聞いていない。彼がどう仕掛けてくるのかも不安要素の一つである。
「なぁ、シェリダン王……」
「ん? 何だ、アンリ王子」
「いや、その……ごめん、なんでもない」
 アンリがシェリダンに声をかけようとして、逡巡した挙句取り消した。その様子から内容を察したらしきシェリダンは微かに苦笑すると、それを周りが認識するよりも早く表情を入れ替えてもともとの話題へと戻す。
 アンリがシェリダンに聞きたいのは、彼の未来のことだろう。エヴェルシードでの行動の前に皇帝と死の予言について話した。近く必ず死ぬ事がわかっているのに、どうして今もこうして動くことができるのか。アンリが聞きたいのはそれに違いない。
 シェリダン自身も、きっとこれまでの自分なら恐らく何もかもが虚しくなって全てを放り出して蹲っていただろうと思う。
 けれど今は、違う。
「ハデスのことに関しては何の確証もない憶測だが、デメテル陛下の方で何とかしてくれるのではないか、という楽観があってな」
「そうか。姉君である皇帝陛下が弟宰相殿を諫めてくれるかも、というわけか」
「ああ。確かにハデスとも一回話しあった方がいいとは思うが、それをするにしても、私たちの方から彼の居所を掴むのは不可能だからな。それに関しては仕方がない」
「俺たちから行動するなら、やはり居場所のわかっているドラクルの方から何とかするしかないと言うわけか」
「何とかって……でも、何とかってどうするつもりなの?」
 男たちの会話に、ロザリーが口を挟んだ。
「シェリダン様、アンリ王子、そして……ロゼウス様」
 続けるようにして、リチャードがこの場の主導権を握る二人と、自らは事態に対して言葉少ない控えめな介入ながらも間違いなく物事の中心にいる少年の名を呼ぶ。
「そろそろ、こちらの立場を明確にしてはいかがでしょうか?」
「立場?」
「明確って?」
「あなた方がどういったつもりで行動し、何を望むかと言う事です。特にロゼウス様、ハデス卿は、あなたがご自分の生命を脅かすと考えているからどんな手段でも使ってあなたを殺そうとしているのでしょう」
「そんなつもりがないことを、あいつに伝えろって? やったよ、とっくに」
 長兄ドラクルと同じ年であるリチャードに嗜めるように言われて、ロゼウスは僅かに俯きながらもそう返した。もとよりロゼウスは皇帝になりたいという願望もなければ、ハデスを殺す気もないのだ。向かって来る敵は叩き伏せるが、それ以外はどうでもいい。ロゼウスには到底皇帝の役目など務まるはずもない、自分の周囲以外の世界に興味も執着も薄い人間なのだ。
 ――何故神はこんな自分を次期皇帝になど選んだのだろう。
 その答を聞きたいのは他の誰でもないロゼウス自身だ。 
 しかしシェリダンの普段は寡黙で控えめな筆頭侍従は、今日は珍しく食い下がる。
「そうでしょうか」
「え」
「本当に、あなたは相手にご自分のお考えを伝える努力をなさっていますか? 心で思っていることを、ただそのままにしていませんか?」
「リチャード」
 咎めるように彼を呼んだのは妻であるローラだが、しかし青年は首を横に振る。
「私も以前そうでした」
「……」
「聞いたことがあるかもしれませんが、私、いえ、私の兄とイスカリオット伯爵ジュダ卿は因縁の仲です。我が愚兄の所業が、伯を凶行と後の乱行に駆り立てたのは事実です」
 そういえばリチャードはジュダの城へ出かけた時、彼と個人的な話があるとかで出かけていたのだったか。今となっては懐かしすぎるそれを、ロゼウスは思い返す。
 しかし隣にいるシェリダンが部下を気遣っているためか、ロゼウスはリチャードとジュダの因縁とやらに関しては一切耳にしたことがない。
「あの頃、私は後に伯の怒りに触れることとなった兄の行動を苦々しく思っていました。ですが、それを兄に聞き入れてもらうことはできませんでした。何度か意見を口にしたこともありますが、向こうは向こうで改善する様子がないためにそのうち諦めました」
 暴力的な振る舞いをする兄の説得を諦め、兄の妻であったヴィオレットにいっそのこと、と離婚を勧めたのはリチャードだ。それが後に更なる悲劇に繋がるとも知らず。一人の人間を更正するのを諦め、しかし弟という立場から当主であり兄という目上の者に果断な処断を下すこともできず、安易な道に逃げた挙句多くの人を絶望に突き落とした。
「今では後悔しています。何故もっとあの時、兄とよく話し合わなかったのかと」
 リチャードはあの八年前の事件の一連の責任は自分にあると思っている。だからこそ、兄の身代わりに処刑されようとしたところをシェリダンに救われたという意味は重い。リチャードは最後の最期、本当に生きるか死ぬかの場面になってようやく兄を見捨てる決断をした。そもそも最初の頃から事態に正面から向き合っていれば、兄を殺す羽目になることも、ヴィオレットやその息子ダレルを死なせることも、ジュダの一族皆殺しによってイスカリオット家の血筋を絶やすこともなかったかもしれない。リチャードの実家であるリヒベルク家も潰れ、結果的にそのことで二つの貴族があの時滅びの道を辿ったのだ。
 ジュダの気性を知るリチャードには、彼が恐らく子を作らず、今後もその血を残さずに血を絶やすであろうことがわかっている。
 そう、今でこそ別の理由で危機に瀕しているが、それがなくとも女性関係を持って子を残そうとしなかったシェリダンのように。
「……?」
 そこでリチャードは、何かの予感が脳裏を掠めるのを覚えた。しかし、何に対してのものなのかよくわからない。子孫、女性関係、何だろう、何かを忘れているような。
「リチャード、どうした?」
「あ……いえ、なんでもありません」
 あやふやな感覚は人に伝えるところまでは至らず、リチャードは芽生えた予感を胸の内で握りつぶす。
 彼の言葉に、ロゼウスは考え込んでいるようだった。ふいに顔を上げると、まずはリチャードの方を向いてこう言った。
「ありがとう、リチャード」
 そして彼以外の者たちの顔もしっかりと見て、最後にシェリダンと視線を見交わすと、ローゼンティア側の代表者となるアンリに向けて宣言した。
「兄様、俺はローゼンティアに行く」
「ロゼウス!? でもドラクルに言ったって……」
「そうよ、ドラクルはロゼに対して妙な因縁持ってるんだからきっと聞いてくれないわよ!」
 長兄がこの弟の言う事に対し、聞く耳を持たないことぐらいアンリにもロザリーにもわかっている。
「うん。俺もそう思う。だから、全国放送を使おうと思う」
「全国放送?」
 それはなんだと訝しげに首をかしげる人間の国の面々に説明するところによると、全国放送とは聴覚の優れたヴァンピルだからこそできる業であり、拡声器を使って国内全土に放送を呼びかけるものだと。それを使えば、国中に宣言が届く。
「やれやれ、魔族の国は奥が深いな」
「で、その拡声器はどこにあるんですか?」
「「「王城」」」
「「「……」」」
 ロゼウス、アンリ、ロザリーの言葉に、シェリダン、リチャード、ローラ、エチエンヌの沈黙が返った。
「そこで国中に俺は王位継承権を放棄するということを流せれば、国民に伝わる。国中に流した内容を撤回することもできないから、そこまですればドラクルも信じてくれるんじゃないかと思う」
「自分で自分を引き戻せないところまで追い込むんだな」
「ああ」
 ロゼウスは背後の切り株に腰掛けるシェリダンを仰ぐと、照れたように言った。
「シェリダンの受け売りじゃないけど、俺もローゼンティアの王はドラクル兄様でいいと思う。だから」
 自らの故郷へ、けじめをつけに行く。
「それとハデスの方は、まだ裏があると思う」
「裏?」
「ああ。皇帝と、選定者と、代替わりに関する裏が。あの時……皇帝領でデメテル帝の目的について聞いた時、確か彼女はこう言っていただろう?」
 ――では言いましょう、ロゼウス帝。私はあなたに、今のうちに恩を売っておきたいのよ。
 ――恩?
 ――ええ。そう、恩よ。あなたが皇帝になった時のために。
 ――だけど、俺が皇帝になったら、あなたは……。
 ――ええ、そうよ。普通ならあなたが皇帝になっている頃というのは、私が死んだ後の話よね。でもね、私は世界で初の、黒の末裔生まれの皇帝なの。この意味がわかる?
 ――まさか、死を免れる方法があるとでも?
 ――そう思ってくれてもいいわ。だけれど、それでも私が退位してあなたが即位するという運命までは変えられない。だから、あなたが皇帝になってもせめてこちらの望みのために、恩の一つも売っておこうと思って。
「デメテル帝にはたぶん何か、自分とハデスの未来に関して策があるんだ。だからハデスのことは彼女に任せてもいいだろう。それに見たところ、ハデスの力じゃ彼女には叶わない」
「結構残酷な評価をさらりとくだすな、お前は」
しかしその言葉で、これからの彼らの方針は固まった。
「まずはローゼンティアのごたごたを解決するために、かの国へ。ドラクルたちに見つからず王城の拡声器とやらに辿り着けるかは不明だが、やってみる価値はあるか」
「ハデス卿のことは、その後ですね」
 未来が定められている中で、人は何ができるのだろう。避けえぬ死を知りながら、それでも前に進まずにはいられない。
 進めるから強いのか。
 強いから、進めるのか。
 それとも――。
「じゃ、とりあえず飯にするか」 

 ロゼウスは思う。
 俺は運命を変えたい。皇帝になるならない以前に、そのためにシェリダンを殺すなんてまっぴらだ。
 確固とした意志を保っている限り、自分がシェリダンを手にかけるなどありえない。
 他の誰かを憎んでいる限り、敵対している限り、味方である彼を殺す事はない。
 だから何かをしていたいのだ。動いていたいのだ。そのために誰かと、何かと戦っていたいのだ。卑怯な考えだとわかっている。
 
 ――何を企んでいる、世界皇帝。
 ――企むだなんて人聞きが悪いわね。次期皇帝。私はただ、一つだけ願うことがあるだけよ。
 
 ただ一つの祈りのために狂っていく。


214

「もうあなたたちの手助けはいらないわ」
 これまで彼らの助けなくば一人で満足に行動することも叶わなかった小娘が、生意気にもそう言った。
「これまで数々の場面で力を貸してくれたあなたたちには感謝しています。けれど、私は私。エヴェルシード女王カミラ。もう一人で立たなければならないの。女王として、自らの力と、信頼できるエヴェルシードの者たちと国を治めて行く。もう、ローゼンティアのあなたたちの力は借りない。そうドラクル王に伝えて」
 兄にその後を託され、それまでの憎しみと訣別した少女は王へと変わっていた。
「……再び我国と戦争になってもいいと? カミラ陛下」
「我らエヴェルシードにそれを問うのか」
 答えたのは、幼い女王の傍らに立つ派手な女公爵だった。
「そちらがこの話し合いに応じず武力を用いるのであれば、我ら武の国エヴェルシードは全力を持って薔薇の国を迎え撃たせていただこう」
 そう言われては、こちらは確かに引き下がるしかない。その性情穏やかと言われる吸血鬼は、何か特殊な策を練らない限り、世界最強の軍事国家エヴェルシードに敵うはずがないのだ。
 吸血鬼は魔族ゆえ身体能力が人間に比べて高いが、それを司る精神はとんと戦いに向いていないのだ。それでは意味がない。
 一つだけ吸血鬼たちを争いに駆り立てる手段もあるが、それは諸刃の剣だった。吸血の渇望に陥ったヴァンピルは狂気に目覚めて格段に強くなる。しかし正気を失っている間、彼らを上手く操る術もない。狂気の吸血鬼はその本能のままに行動する。 
 よって、この状況は不利と判断し、ルースは大人しくエヴェルシードから手を引くことにした。
 あのまま行けばカミラ女王を傀儡に上手くエヴェルシードの軍事力をローゼンティアに取り込めるところだったものを。基盤が安定していないドラクルの政権にとって、外側から固めていくのは重要だ。国内にはまだドラクルの王権に対して反対派もいるのだ。
「失敗してしまいましたわ……お兄様」
 ローゼンティア王国に戻り、ルースは国王となった兄にそう告げた。
「そうだな。報告は聞いている。シェリダン王が現われたって?」
 謁見の間でのやりとりも堅苦しいだろうと、妹を寝室の方に通したドラクルはまずそう聞いた。しかし本当に尋ねたい事は、その裏側にあることもルースは知っている。
「はい、かの王を私は確かに見ました。そして彼を救わんと一瞬だけ姿を現したのは、確かにロゼウスでした」
 その名にドラクルの表情が微かに歪む。
「ロゼウスはいまだ、シェリダン王と共にいるようです」
「……そうか」
 ルースは弟であるロゼウスと良く似た感情を読み取らせない面差しで、淡々と報告を終えた。そして対面したドラクルの表情を観察する。
「エヴェルシードからシェリダン王を追い出せば、ロゼウスはすぐにこちらへ戻ってくるのだと思ったのだがな。ヴィルヘルムでは、あの子を抑えられまい、カミラ女王の治世下では行き場のないあの子は、私のもとに。だが……」
 ドラクルの目論見どおりには行かなかった。ロゼウスはエヴェルシードのシェリダン王の権威が崩れ去り、彼と離れる機会があったにも関わらず彼のもとへ戻る道を選ばず、シェリダン王との再会を果したのだ。
 それはドラクルにとって一つの誤算だった。ロゼウスはドラクルによってその人格を作られたも同然、その彼ならば支えや縛りを失えば一人で生きることができず、必ずドラクルを頼ってくると思ったのに。別にロゼウスに自活能力がないとかそういうわけではない。ただあの弟は人恋しいくせに他の誰にも執着せずドラクルにべったりだった。彼と離れては生きて行けないと思っていたのだが。
「それだけ、あの子がシェリダン王を愛しているということでしょうか」
 ルースの冷静な言葉に、またドラクルは眉根のあたりを歪ませる。
「愛、だと? 馬鹿な……」
 昨今のローゼンティア情勢は複雑だ。エヴェルシードに侵略された始まった今年のローゼンティアは揺らぎ続けている。先王ブラムスを殺したのはエヴェルシードだと確定しているが、それでもドラクルが王の実子ではないことが王権派の者たちから流れ、不安に惑う民衆を更に揺るがしている。
 このままでは下手をすると、内乱になりかねない勢いだ。エヴェルシードを嘲笑っているどころではない、むしろ、かの国がカミラ女王の治世の下で安定して再びの侵略の危機がなくなれば、今度はローゼンティアが内乱を憂えることとなる。それだけは避けたい。
 内乱にまで発展してしまえば、もはやドラクルの権力の失墜は避けられないだろう。火種はエヴェルシードとされているが、そのエヴェルシードからの侵略をシェリダンに唆したのもドラクルだ。自分の策によって玉座を追われるなど間抜けすぎる。
 それともこれが因果応報と言うべきものか。
養父であるブラムス王を殺し、兄妹を罠にはめ、民たちの思いを裏切って玉座についた報い。
「だが先に裏切られたのはこちらだ」
 この国は本来なら何の問題もなくドラクルに渡されるべきものだった。それを先に歪めたのは実父であるヴラディスラフ大公と養父であるブラムス王。彼らの薄汚い欲望がドラクルを巻き込んだ。
 これは復讐なのだ。自分を裏切った世界の全てへの。
 そして一番の裏切り者はロゼウスだ。可愛い同母の弟は、弟ではなかった。その上、ドラクルが得るはずだった玉座を奪うのだと言う。
 なんて酷い裏切りだ。だから、今度はロゼウスが償う番だ。ドラクルが感じた、それまでの人生全てを覆す絶望の分だけ、彼は残りの人生全てをかけてドラクルに償うべきなのだ。
 だからロゼウスは自分のもとにいなければ駄目なのだと。
 ドラクルはそう望む。国内が乱れ続け、先に解決すべき問題が幾らでもある今であってもあの弟への想いが、憎しみが、消えない。
 そんなドラクルをルースは静かに見守っている。
「そういえば、最近ハデス卿のお姿を見ませんわね」
「ああ。そうだな。彼も姉を打倒して皇帝になるなどと口にしていたが、そちらはどうなったものか……」
 それぞれが自らの望みのために手を組んだ一団ももうばらばらだ。イスカリオット伯爵ジュダは早々に抜け、カミラも彼らを裏切りローゼンティアとの手を切った。帝国宰相ハデス卿とは連絡がとれない。そしてもう一人は……
「さぁ、どうしたのでしょう」
 ルースは相変わらず感情を見せない声で相槌を打つ。彼女の声には常にドラクルに心酔した響もない代わりに、彼への敵意もない。
 この争いの果てにあるものが何なのか、ドラクルは知らない。だが確実に駒は落ちて、命を賭けた遊戯が終盤に差し掛かっていることを知る。
 最後に残るのは、誰であるのか。

 ◆◆◆◆◆

 これは嵐の前の静けさだと言う。
「何の用だ。選定者。私は貴様とする話などないが」
「僕も特に好んであなたと話したい気分ではありませんが、それでもしておかなければならない話というものはあります」
 ジャスパーに呼ばれ仲間たちから離れた場所へとやってきて、シェリダンは露骨に顔をしかめて見せた。
 ロゼウスの弟であるジャスパー=ライマ=ローゼンティア。髪を飾る宝玉のためか宝石王子と呼ばれる十四歳の少年は、薔薇皇帝ロゼウスの選定者でもある。しかし、シェリダンはこのジャスパーとはどうにも気が合わない。
 森の中で野宿を決め、小さな火を使った夕食も終わり後は眠るだけのこの時間だ。藍色の闇にさわさわと暗い葉陰が揺れている。風は時にぬるく、時に涼しく頬をなぶっていく。
 近くには川がある。少し行けば上流の滝にも出るようだ。旅において重宝する水辺の側に陣取って余人に音を聞かれないようにしながら、ジャスパーとシェリダンは向かいあった。
「で、何が嵐の前の静けさだというんだ?」
 元がどんな性格か知らないが、最近のジャスパーは気が強くて変だとロザリーやアンリは言っている。シェリダンにとっては会った時からすでにこの状態だったので物静かで大人しいジャスパーというのは想像がつかないが、それでもしばらくして、今日のジャスパーがいつもと何となく違うようだということには気づいた。
 いつもならば射殺すような敵意でぎらついた眼差しでシェリダンを睨んでくるジャスパーだが、今日は奇妙に静かだ。ロゼウスと同じ深紅の瞳に、年に似合わぬ知性の静かなきらめきがある。放たれた光を穏やかに受けとめて反射する柘榴石の輝きだ。
 どういう理由かは知らないが、今日の彼はロザリーたちの言う「元の状態」とやらに戻っているらしいということだけは、なんとなくわかった。
「貴様、いつもと違うな」
「ええ。あなたにもわかりますか」
「逆だ。むしろ私だからわかるのだろう? 私はまともな頃のお前というものを出会ってこの方見た事がないからな。……何があった?」
 エヴェルシードで奴隷として売られていたのを買った時から、御前試合の際に牢を抜け出したこと、シェスラートと共に姿を現したこと、冥府行きの前に自分たちを裏切ったことなど、思い出しては様々な感情が過ぎる。
 シェリダンの記憶にあるジャスパーはその大半が気性の荒い獣のように暴れ澱んだ瞳で毒を吐く姿であって、目の前にいる凪の瞳を持つ少年と同一人物だとは思えない。今にして思えばこの少年と、こうしてまともに話をすることなどなかった気がするが、それはジャスパーの方でシェリダンと話す気がなかったということもある。
 侵略者と侵略された側、敵同士であるのだから当然とも思えるが、他のローゼンティア王族でドラクル側ではない者たちとは、シェリダンは旅の間でそれなりに話をしている。アンリやロザリーはもちろん、今は亡きミザリーやミカエラ、ウィル、今はどこにいるのかもわからないエリサとも。彼らは彼らで剛毅なもので、ドラクルに唆されたとはいえ一時的にローゼンティアを滅ぼした張本人であるシェリダンと平然と話をしていた。そのことを考えれば確かに吸血鬼とは本来気性の穏やかな一族なのだろう。
 その穏やかで争いを好まない種族、精神の安定度が異常に高い吸血鬼の中でも、特に異例なのがこのジャスパーだった。
 大人しい時でも、何を考えているのかわからない。この辺りはロゼウスとも共通しているのだが、それにしてもシェリダンに向けてくる敵意が只者ではない。
 ローゼンティアの王家においては政治から武芸全般、全てにおいて優れているのはドラクルで、芸術面は第一王女のアン、身体能力は文句なくロザリーが一番で、ロゼウスもはっきりその才能を見せることはないが何でもそれなり以上にこなす。年齢的なものを考えれば、末の王子であるウィルの剣の腕もたいしたものだったという。
 しかしそんな華やかなローゼンティアの者たちの中では特に取り沙汰されてもいなかったのが、このジャスパーだ。物静かで大人しく、誰とも争うこともないが逆に言えば特に誰かと仲が良いこともなかったと聞いているが、シェリダンには最初から喧嘩腰だった。それこそ初めはシアンスレイトの下町にあるフリッツの酒場で顔を合わせた、吸血の渇望によって理性をなくしたロザリーのような態度だった。
 ジャスパーについて他の者たちはどうしてそれほど注目するのかというように首を傾げているが、シェリダンにはわかる。この少年は只者ではない。きっと本人の能力値は周囲が認識しているよりも高いだろう。そして何よりも、大人しいと言われる今この瞬間のジャスパーの瞳の中にも、穏やかであるからといって簡単に人に流されるのとは違う意志の光の強きが見える。
「それをご説明するには、まずこれを見てもらうのが一番でしょう」
 この数ヶ月、普段は正気と狂気の間を彷徨うようだったジャスパーが何故今は落ち着いているのかと尋ねるシェリダンに、彼はやはり年齢に不相応な賢者然とした声音で返した。
 どこかでこんな反応を見たような……と考えかけてシェリダンは気づく。
 ハデスだ。
 今でこそ敵対関係にあるものの、彼はもともと飄々とした性格だった。生真面目さが窺えるジャスパーとは多少違うが、それでも根底は同じように感じる。それはただ単に二人が似ているだけなのか。それとも選定者とは皆このような者なのか。
 淡い感傷に浸ろうとしたシェリダンの思考は、だがジャスパーの次の行動によって止まる。
 手近な樹の幹に背を預けて立っているシェリダンの前で、彼は突然衣服を脱ぎ始めたのだ。
「な、いきなり何を始めるんだ! お前は!」
 自分が多少どころでなくそういう趣味の人間であるだけに、シェリダンはぎょっとした。ジャスパーがシェリダンにその手の気を抱くとは思えないが、逆に刺す気や鈍器で殴る気や埋める気がないとは言い切れない。
「別にあなたにここで妙なことをするつもりはありませんよ」
 冷めた眼差しでシェリダンを見て、ジャスパーは上着を脱ぎ捨てた。服の構造上「それ」を見せるのに、わざわざ脱ぐ必要があったらしい。
「見てください。これを」
 そう言って素肌をさらした少年の腰に、赤い痣がある。
 選定紋章印。
 しかもそれは赤い薔薇の模様をしている。雪のような白い肌に浮ぶ血のような赤い薔薇、それは誰かを思わせる。
 紋様の中心となる薔薇はともかく、それ以外の特徴は以前ハデスに見せてもらった右腕の紋様とそっくりだ。同じ皇帝でもその特性が違えば紋章は変わるという。デメテルは新しいものを生み出す土の属性が強い大地の皇帝、ロゼウスはそれとはまた別で、薔薇の皇帝と呼ばれることになるだろうと。
 心なし、以前見たときよりもその痣の色が濃い気がする。薄っすらと赤く浮かび上がっていた紋様は、今は紅に輝く。それこそ、ハデスの腕で輝いていた時のように。
「段々濃くなってくるんです。今ではもう、こんなに……」
 これでは本当の選定紋章印だ。いや、今までが偽りだったというわけではないが……。
「そろそろ、代替わりの時期と言う事なのでしょう」
 世界皇帝の代替わり。それはすなわち、現皇帝大地皇帝デメテルの死を意味する。彼女が死んで、ロゼウスが皇帝になるという。
 そしてロゼウスが皇帝になる時、それはシェリダンの死をも告げる。
「残り時間は、あまりないと考えられます――覚悟してください」
 ジャスパーが厳かに宣告した。

 ◆◆◆◆◆

 選定紋章印は、はじめは薄っすらと桃色に近いような色で選定者の肌に浮かび上がってくる。痛みはない、精神的なものはともかく、体に何か特別な影響が出るわけでもない。だが彼らにはその紋章のもたらすものの意味がわかるのだという。
 皇帝を指名する存在。選定紋章印、だがこの名前には異説が在る。それは選「帝」印なのではないかと。
 実際どうであるかはわからない。三千年以上の時を経て、世界も変わり続けている。その皇帝の時代ごとに紋章は違う。選定者は神によって選ばれ、皇帝は神の代行者だと言われるが思えばそれも根拠のない話だ。だが皇帝と呼ばれる存在が世界を上手く治める存在だと言うのはどうやら事実のようである。
 古からの言い伝えに縋り、人は皇帝を求める。自らを導いてくれる存在を。
 しかし、選定者や皇帝が、自らその立場となることを望む例は、ほとんどないと言う。
 望む者に望むものが与えられるとは限らず、本当の才能とは自分では気づけないものであるのか……。
 神の代行者は、しょせん代行者であって神ではありえない。


 かさ、と草を踏む音がしてシェリダンとジャスパーは振り返った。
 そしてその途端にしまった、という顔になる。彼に聞かれないようにこちらまで移動してきたはずなのに、気配を消す術は向こうの方が上手と言う事か、当の本人に今の話を聞かれてしまっていたようだ。
「……シェリダン、ジャスパー……今の話……」
 傍らの木の幹に手をついて立つロゼウスは、蒼白な顔をしている。
「残り時間が少ないって、どういうこと……?」
「……言葉の通りだ」
 ここで嘘などついても何の気休めにもならない。どうせ予言では、今年中にシェリダンは死ぬと言われているのだ。今年中にロゼウスが皇帝になるのだと。
 今は秋のはじめ、今年が終わるまで後四ヶ月程だ。残り時間はもともと、それほど多いわけではない。
 だが言葉にしてはっきりもうすぐだと言われると落ち込むのも当然だ。この場合は死ぬと言われているシェリダン自身よりも、彼を殺すさだめにあるというロゼウス本人の方が重症のようだが。
「ジャスパー、少し外せ」
「な……っ、……いえ、わかりました。失礼します」
 シェリダンの一方的な言葉に一瞬目を剥いたジャスパーは、しかしすぐに冷静さを取り戻して素直に踵を返した。
 確かに今の彼の精神はとても落ち着いているようだが、立ち去る間際に見えた彼の瞳には、これまでの狂気とは違う強い色が見えた。今までのように無邪気なほどに容易く「好きだ」とロゼウスに言って見せたような強引さはないが、しかし一見平静を装う少年の内面に燃え滾るマグマのような暗い想いがあるのをシェリダンは見て取る。あの少年は、兄であるはずのロゼウスを家族としてではなく、男として愛してしまっている。だから他の誰よりもシェリダンと反発するのだ。
 そしてその想いは、ロゼウス自身にはどうやら届いていない。ふと、シェリダンはヴィルヘルムのことを思い返した。自分よりも年下のセルヴォルファスの少年王はロゼウスに心囚われていたが、最終的には彼の手によって殺されたのだという。
 ロゼウスがヴィルヘルムを殺したこと自体はシェリダンとしても何とも思わないが、それでもあの少年はロゼウスと相対する時一体どんな気持ちでいたのだろうかと、今となっては詮無い考えが心を過ぎる。
 多くの者に好意を寄せられながら、ロゼウスはそれを与えられたうちの半分も返さない。好意をやりとりするという考え自体に疎いのだろうが、それで報われない相手は辛いだろうなとシェリダンは考える。何せ彼自身も少し前まではそうだったのだから。
 何て不安定な魂。
 腕の中に飛び込んできた身体を抱きしめながら思う。白い髪の垂れた肩口に顔を埋める。
 彼の心を手に入れた。一番残酷なのは他の誰でもない自分自身。シェリダンは必ず、ロゼウスを置いていくのだから。
「いかないで」
 抱きしめた身体が小さな声で囁く。背中に細いが力強い手が回される。
「おいていかないで」
 たどたどしい言葉は幼児のようで胸が痛むが、その言葉に応えられないこともシェリダンは知っていた。
「……別に、今すぐ死ぬわけではない」
「でも」
「私は健康体そのものだ」
「だからこそ、怖いんじゃないか。どうしてあんたが死ななくちゃならない。俺が皇帝になることが、どうしてあんたを殺すことに繋がるんだ? わけわかんないよ……」
「ロゼウス」
「一緒にいたい」
 切ない願いは唇から零れ、赤い雫となる。
「一緒にいたい。あんたと一緒に生きたい」
 他の誰かが殺すのであれば、まだ諦めがつくだろう。もしくは絶対にそんなことはさせないと意気込むか。
 だがロゼウスの場合は、自分がシェリダンを殺すのだと予言されている。だからこそ怖いのだ。
「予言なんて、なければよかったのに、どうしてこんな……」
 ロゼウスの言葉に、シェリダンはふとかつてのハデスの表情を重ねた。未来が見えるとは便利だな、そう言ったシェリダンに、そんないいものではないよ、と笑って見せた彼。それはこういう意味だったのだろうか。
 だがシェリダンは感謝している。
「ロゼウス、別に予言は悪くない。未来を先に知るか知らないかはともかく、その時に起きる出来事は変わらないのだろう?」
 未来が見えたところで、果たしてそれが変えられなければあってもなくても結末は同じだ。
「むしろ私は、予言があって良かったと思う」
「どうして!」
「だから先日のように、エヴェルシードのことに決着をつけることができた」
 あれはある意味、自らがかの国の未来を紡ぐことはないというシェリダンの諦めから来るものでもあったのだと。
「……そんなことない。たぶんあんたの性格だったら、未来を知っていてもいなくても、きっとあそこで同じことをする」
 カミラを貶め簒奪し返してまで玉座に再びつく気はシェリダンにはないだろう。ロゼウスにはそう思えた。もっとも彼を信じる部下たち、それこそクルスのような人々の意見はまた違うのかも知れないが。
 ああ、そうか。
 だからこそ予言に、未来を知ることに意味などないのだ。
「この世には決してどんな状態であっても、変わらない選択と言うものが存在する」
 強い信念を窺わせる声音でシェリダンが言う。その表情が一瞬で解け崩れ、切ないようア顔で更に続ける。
「どんなに努力しても、どうにもならないこともな」
 どんなに死にたくないと願っても人はいつか必ず死ぬ。襲いか早いか、それだけの違いだ。例え天命をまっとうしたとしてもシェリダンの場合ロゼウスと最期まで共に生きるなどということは無理なのだ。彼はそれを受け入れた。受け入れるしかない。
「いやだ」
けれどロゼウスはまだ、目の前に突きつけられた運命に納得できない。
「いやだ。俺はあんたを殺したくはない。死なせたくない。あんたが死んだら、俺だって生きていけない」
 極限の状態に置かれているからこそ口にできる、それは熱烈な告白だ。
「お前がそう思ってくれるだけで、私は……・・」
 何事かを言いかけたシェリダンは、しかし皆まで言わずに語尾を大気に溶かした。一度目を瞑り、白い瞼を震わせる。
 代わりのようにロゼウスを抱きしめる手を緩めると、ゆっくりと瞳を開いて、訝る彼の顎に手を伸ばす。
「……誤魔化すの?」
「そうじゃない。こちらの方が手っ取り早く伝わるかと思っただけだ」
「……ずるい」
 言葉の代わりに口付けると、背中に回された手が一層強くシェリダンの服を掴んだ。


215

 野営をするなら水場探しは欠かせない。よほどのことがない限り、可能な限り近くに川や湖などの水源がある場所で休息をとるのが普通だ。
 今回ロゼウスたち一行が休んでいたのも、森の中を流れる川の近くだった。本当に川岸すぐ側に留まると逆に何事かあったときに対応できない。火事の心配だけはなくとも、雨で氾濫した川に呑まれたり敵や獣に追い詰められた時水の中に落とされたりする。だから少しだけ距離をとって野営の支度をしたのだが。
「こっちだ」 
 口づけを止めると、シェリダンはロゼウスの手を引いて川のすぐ側へとやってきた。
夜の川辺は狂ったように明るい月の光に照らされている。白い月光は幅広の川の進行方向に向かって小さく漣立つ水面を浮かび上がらせていた。
 水音に小さな物音はかき消されてしまう。多少の声も。
 ここなら誰にも、今からする行為の音は聞かれずに済むだろう。
「どうだ?」
「う、うん。これなら向こうのアンリ兄様やロザリーたちには聞かれないと思うけど。……でも、ジャスパーは俺たちが一緒にいること知ってるし、戻って来なかったら他の奴らにもバレるんじゃ」
「端から隠そうなどとは思ってない。当たり前だろう? だいたい今更だ」
 仲間たちの耳目を憚るロゼウスとは違って、シェリダンは最低限の気配りだけで後はどうでもいいようだった。確かにリチャードたちにしろロザリーにしろ、自分たちが何をしているかなど今更気にすることでもないのだろうが。
「それとも、お前はこのままでいいというのか?」
「あ!」
 くすり、と赤い唇を楽しげに笑みの形に歪めたシェリダンはふと手を伸ばしてロゼウスのそれに触れる。先程までの濃厚なキスで高まった熱を意識させるように、力をいれずになで上げた。
「あ……ん、や……」
 手のひらの下で布地を押し上げるそれの質量にシェリダンは満足そうに笑うと、なるべく石の少ない地面を選んでさっさとロゼウスを押し倒した。
「ちょっと……!」
 のしかかってくる胸板に手をついて軽い抵抗を試みながら、いきなりのことにロゼウスが小さく抗議する。
「いいだろう別に。もどかしいのはお前の方なのだろうから」
「そういうあんたは、余裕だってのか?」
「お前よりはな。何せ私はお前と違ってか弱い人間だからな。基礎体力が違うんだ。お楽しみは最後の最後にとっておくとして……・そうだな」
 ろくなことを考えていない悪戯っ子の笑みでシェリダンはこう言った。
「お前をまずは三回ほどイかせてから、私も堪能しようとするか」
「な、ちょ、三回って」
「私とお前では体力の消耗が違うからな。お前はそれまで、その痴態で私を楽しませてくれ」
「ち、ちた……って、シェリダン!」
 熱を持つ欲望に触れながらさらりととんでもないことを告げたシェリダンに、ロゼウスは顔を真っ赤にして反論しようとする。
 だが彼の言葉は、その次のシェリダンの台詞と瞳に封じられた。
「それとも、お前は今ここで私とこんなことをするのは嫌か?」
 朱金の瞳がひたりと恐ろしいほどに澄み切ってロゼウスを見据えてくる。そう言われてしまうと、ロゼウスには二の句が継げなくなった。さんざん歯噛みした後、結局出てきたのは大変正直な言葉だ。
「そんなはずないだろ!」
「そうか。それは良かった」
「シェリダン、お前……」
「さっさと始めるぞ。長引かせると明日に響く」
「それがわかってるくせに……」
 どんな反論も抗議も、シェリダンの言葉が飲み込んでいく。
「本当なら一分一秒でも長く、いつまでもお前とこうしていたい」
 ロゼウスは一瞬詰まった息を、身体に走った動揺を強いて忘れるよう意識を紛らわせる。
「ああ!」
 その隙をついたように、シェリダンは先程から緩やかに触れていたロゼウスのものを、きゅっときつく握りこんだ。びくん、とロゼウスが大きく身体を震わせる。
 一度熱く口づけた後、ヴァンピル特有の尖った耳を舐りながら囁く。彼ら自身は自らの眼で見る事はないとは言え白い肌を赤い舌が蛇のように這う絵はえもいえずなまめかしい。
「言っただろう、まずはお前に先にイってもらうと」
 これ以上刺激して服を汚すのはまずいと、ロゼウスはシェリダンの手によって下衣を剥ぎ取られる。エヴェルシードに囚われていた頃のような美しいドレス姿ではないが、旅装束を乱されて覗く白い肌は、月の下で酷く劣情を煽った。
「せいぜい服を汚さないように気をつけることだな」
「汚れたら、そこの川であんたに洗濯してもらうからな」
「ふふ。汚すこと前提か? 激しいな」
「そうじゃなくって!」
 何を言われても倍で返される状況に、ロゼウスは閉口して唇を尖らせる。ロゼウスはもちろん頭は悪くはないが、口達者とそれは別問題だ。
その尖らせた唇にも、シェリダンは口づけを送る。
「……愛しているロゼウス」
 それに応えながらロゼウスは吐息し、
「だからあんたはずるいって言うんだ」
 相手の背中に腕を強く回して呟いた。

 ◆◆◆◆◆

「はっ……ん、んん……ふぅ……」
 自分の指を噛んで声を抑えるロゼウスの足下に、シェリダンは蹲る。
 石の転がる川原と森の境界に当たる柔らかい地面の上で、服の一部だけを肌蹴て淫らな遊戯に耽る。今この瞬間だけは宿命も使命も未来の予言も何もかも忘れて、このまま。
「ん……」
 シェリダンの舌がロゼウスのそれを這う。生暖かい口内に迎え入れられて、背を木の幹に預けて中途半端な体勢をとらされたロゼウスはたまらないと言った表情でシェリダンの「奉仕」を受けている。
 奉仕と言ってもする側のシェリダンは余裕の表情で、される側のロゼウスは顔立ちを歪めている。困ったように下げられた眉と、自らの指を噛んで唾液で塗らしている苦痛の表情が何とも言えずに色っぽい。上気した頬、瞳に浮かぶ涙。
「あ……ふぁ、ああ……」
 快感を堪えるロゼウスの様子を時折上目遣いで観察するシェリダンの方も、自らの手で追い上げられていく美しい少年の媚態に身体の中の熱を煽られていく。これはまずいな、と内心で呟いて、自分が追い詰められる前に相手を追い詰めることを選んだ。
「あ、ちょっ! やぁっ」
 ロゼウスの方は、これまでの緩やかな責めが急に乱暴になったのについていけない。シェリダンに空いた手で根元の方をぎゅっと掴まれると、たまらず噛んでいた指が唇から離れた。
「あ、あ、ああ……ヒィ!」
 たいした力ではないと言っても歯で柔らかく先端を噛まれて、その痛みに刺激を受けて達してしまう。
「つぅ……」
 快楽と痛み、頭の中が真っ白になる脱力感を覚えて背後の幹にもたれる。そのロゼウスの吐き出した白濁をシェリダンは飲み込んで、わざとらしく唇を舐める。
「はっ……やらしい顔だ」
「そ、れは、あんたが……」
 シェリダンの指が伸びてロゼウスの顎をすくう。シェリダン自身美しい指の持ち主だ。柔らかな色の肌に整えたわけでもないのに綺麗な形の爪。それがロゼウスの華奢な少女めいた白い顎にかかり、それこそ思わせぶりに持ち上げる。
 深紅の瞳に涙が浮び、その奥には苦痛と羞恥に透けて燻る熱が見える。朱金には劣情が浮かび、だがそれだけではない飢えた獣の貪欲さと同時に切なさをも併せ持つ。
「そういえば」
 甘い掠れ声で囁く。
「お前は、酷くされるのが好きだったな……」
「そんなことな……あっ!」
 一度達して萎えたはずの場所をまた強く握り締める。
「ふふふ。嘘をつくな。酷くされて感じるくせに。そう、こんな風にな」
「あ、いや! ふぁあ!」
 唾液やら何やらで濡れたそれを更に刷り込むようにして、乱暴にシェリダンが握る。
「痛……いた、いたいっ!」
 男の急所だけはどんなにしたところで鍛えようがない。普段はそうと悟らせずにポーカーフェイスで本心を晒さないロゼウスが、この時だけはありのままの姿を見せる。それがシェリダンは好きだった。しばらく苦痛に歪む顔を堪能していたが、ロゼウスが本格的に嫌がる前に、攻め手を変えた。
 手を離し、唇をロゼウスの胸に寄せる。暴かれた白い胸の上、外気に晒されて多少固くなった突起を躊躇いもなく口に含み、飴玉のように転がす。
「ん……ふわ、あ……」
 それまでの苛めるような触れ方から一転して優しい愛撫を与えられて、ロゼウスが甘い声をあげる。赤い尖りを舌で優しく弄ばれると、もどかしい快感にふるふると体が震えた。
 唇を離し、反対側の乳首を指先で抓むと、ますます切なげに表情を歪めた。
「ふ……」
 吐息を零す唇にシェリダンが口付ける。口腔内を舐めつくし、舌を絡め、お互いの唾液を啜る。歯列をなぞる舌の動きを追いかけているうちに必死になって、呼吸すら忘れてしまう。
「あ……シェリダン……」
「ロゼウス……」
 唇を離して一番に名を呼ぶ。潤んだ紅い瞳には今この瞬間、彼以外の何も映ってはいない。
 木の幹に背をもたせかけたロゼウスは脱力しきり、両足をだらしなく広げている。弛緩しきった体は局部が丸出しで、唾液でべとべとに濡れた表情と相まって淫靡だ。身体の両脇に投げ出された腕の内ロゼウスの右手と自分の左手を繋いで、シェリダンは右手を再び伸ばす。
「少し放っておいた間に、寂しがっていたようだな」
 胸への愛撫の間放置されていたロゼウスのそれ。しかし官能的な口づけと愛撫で、すでに芯を持ち先走りの液に濡れている。
 シェリダンの指がその先端を思わせぶりにツゥと撫でる。粘性の液体が滑りをよくし、軽く指先を前後させただけでロゼウスが快感を堪えてびくんと身を震わせる。
「そろそろこっちも可愛がってやる」
「あ……」
 ロゼウスのものを撫でた指を、シェリダンは躊躇う素振りもなく自らの口元へと持って言った。丹念に指先をしゃぶって湿らせた後、その指がロゼウスの身体の下を探り、後ろの蕾を突き止める。閉ざされた場所を開くように、湿らせた指をゆっくりと押し入れた。
「あっ……あ、ああ、あ」
 まだ指一本だというのに、待ち望んだ挿入にロゼウスはシェリダンと片手を繋いだまま身を震わせる。
 男を受け入れるのに慣らされた体は、今更指一本でどうにかなるほどやわではない。しかし慣らす前の場所は当然固く、きついそこをシェリダンの指がゆっくりと蠢いてほぐしていく。内壁を擦る指の感触が与える快感に打ち震えながら、しかしもっと太くて熱いものが欲しいのだとロゼウスは唇を噛み締め、首を横に振る。
「あ、ああ……シェリダン、もう……」
「まだ駄目だ」
 指の数が一本から二本に増やされる。
「ん……ふ……」
 ぐちゅぐちゅといやらしい音を立てて、中をかき混ぜる。そのうちに指が奥の一点に触れると、ロゼウスの身体がびくりと大きく跳ねた。
「ここか」
「あっ、ちょ、駄目ぇ!」
「構わない。もう一度イっておけ」
「ああ!」
 後にシェリダンの指を咥えたまま、前立腺を刺激されてロゼウスは二度目の絶頂を迎える。身体の奥底から湧き上がる制御できない快感に、ぽろぽろと涙を流した。
「あ……」
「どうした? 満足したか?」
 涙でぼろぼろのロゼウスの様子を見ながら、シェリダンがわざとらしくそんな風に尋ねた。
「ちがう……」
「違う? こんな風に淫らな姿を見せて股間を己のものでこんなに汚しておきながら、何が違う?」
 二度目の射精を終えて、ロゼウスは今しがたの解放感と、いまだせき止められたままの熱の圧迫感と二つに挟まれて苦しい。
「さぁ、言え。何が違う? お前は何が欲しい?」
 殊更優しく囁いて、ロゼウスの顎を持ち上げたシェリダンに対し、哀願してみせる。
「あ……お願い、シェリダン」
 両腕で縋りつく。
「違うんだ……指じゃなくて、欲しいのは、あんたの……」
 それ以上は言葉にならず、ぎゅっと抱きついて肩口に顔を埋めた。衣服を剥がれて心許ない下半身は、しかしまだ解放されきらない熱に燃えている。
 はやく、はやく、この疼くような熱い欲望から解放して。
 いいや、この堕落しきったやりとりを、もっとずっと焦らすように続けさせて。
 相反する感情に引き裂かれながらただシェリダンにしがみついていると、耳元に唇を寄せたシェリダンが耳朶に口づけを一つ落としてこう言った。
「わかったよ、王子様」
 願いを叶えてあげましょう。
「あ!」
 ぐい、と足を広げられただけではなくその身体を地面へと完全に押し倒されて、ロゼウスはまた不安な心持になる。
 彼を押し倒したシェリダンの方はというと、ロゼウスの上にのしかかりながら笑っている。
「随分いい眺めだな……ほら、私を欲しがってこんなにもひくついている。正直な身体だ」
 開かせた足の中央、露にされた局部をまじまじと眺めて、最後に残った羞恥心で顔を紅く染めるロゼウスの反応を楽しんでいる。しかしそれもそう長い時間ではなかった。
「あ……!」
 入り口に自らのものをあてがったシェリダンが、唾液と先走りの液でさんざんにほぐされたそこへと腰を押し進める。
 身体の中を出し入れされる待ち望んだものの感触に、ロゼウスは歓喜した。ぎゅっと締め付けてくる内壁の熱さ、どろどろに溶かされるようなそれに、シェリダンも思考を奪われていく。
 体を繋げてお互いの存在をあらゆる手段で貪り、ただ快楽を追って、追って。
「ああ……シェリダン!」
「くっ……ロゼウス」
 そして最後はお互いの名を呼んで、果てる。


216

 ぱしゃん、と水の跳ねる音がする。
 川の水にそのまま浸かるには少し肌寒い季節だが、火照った肌を冷やすにはちょうど良い。かといってただ浸かるだけですませるというわけにもいかず、身体にこびりついた情事の名残を全て綺麗に洗い落とす。
「終わったか?」
「ああ」
 背中合わせで自らの肌を洗っていた二人は、それぞれに声をかけあって川から上がる。汚れる前に途中で脱いだために、衣服の方は無事だ。この季節に洗濯をして乾かないとなったら困りものだ。
 石の転がる川辺から柔らかな下生えを踏む地面まで辿り着いた時、ロゼウスはぐい、と背後から腕を引かれた。
「あっ」
 逆らわずにその力に任せて背後に倒れこむ。抱きしめられたと思った途端に、地面へと押し倒された。
「シェリダン……」
 川辺には体を拭くための布しか持って行かなかった。先程まで着ていた洋服は木の枝に干してある。
 従って、今現在二人は裸だ。
「……まさか、まだやるってわけじゃないだろ?」
 覆いかぶさるというより抱き合ったまま横になっているという形で、生身の胸と胸を合わせたまま下にされたロゼウスは表情の見えないシェリダン相手に戸惑った声をあげる。
 今のシェリダンの体重は全てがロゼウスに預けられている形だ。そのぐらいヴァンピルであるロゼウスにとってなんともないが、自分の肩口に埋められてしまったシェリダンの顔が見えないのはどうにも不安を煽る。
 身体を洗ったばかりでまだそこかしこに水滴の残る肌と肌を合わせる。膝を絡め、指を絡めて手を繋ぐ。平らな胸も引き締まった腹から腰にかけても露にしたまま、ただ身を寄せる。
 シアンスレイト城での頃の生活と違って、川の水などで洗い立ての髪は石鹸の香りなどしない。だが、うなじにはりつく藍色の濡れ髪の様子は艶かしく、ロゼウスはシェリダンのそのうなじを見つめながら囁くようにして尋ねた。
「……どうしたの?」
 くぐもった声で返答がかえる。
「もう少しだけ……このまま……」
 肩口に顔を埋められているため、ロゼウスの肩の方で熱い吐息が触れた。答えたシェリダンは一度繋いだ指を解き、ロゼウスの体へと手を伸ばし抱きしめる。
 密着した肌。触れ合う吐息。自分を抱きしめる強い力。
 震える身体。
 震えている? あのシェリダンが。
 自らの愛した国の民たちから事情も知らず心ない言葉と共に石を投げられても、動じる事はなかったのに。
 それに気づいた時、ロゼウスは呆然とした驚きのあまりに身体の力を抜く。するとますます力を強めたシェリダンの腕が、裸の身体に食い込んだ。軋むような苦しさを感じるけれど、声をあげられない。
 ああ、そうか。
 今になってようやくロゼウスは知る。
 シェリダンも本当は、死ぬことを恐れているのだということを。
「……い」
「あ?」
「離れたくない……お前と」
 彼は噛み締めた唇から血を流す。かそけき囁きは、ロゼウスの肌を通して胸に響いた。
 死ぬこと自体が怖いわけではない。エヴェルシードの武人は生半な苦痛などに負けはしない。
 だが、その果てにロゼウスを残して逝くのが辛いのだと。
 死ぬのが怖いわけではない、だが死にたくない彼はその先の暗黒に震える。
 あと何度、こうして肌を重ねられるだろう。
 あと何度、口づけを交わせるだろう。
 あと何度、手を繋いで夜を眠ればその時を厭わずに迎えられるのだろうか。わかっている。そんな日はきっと永遠に来ない。
 できるならずっとこのままここでこうしていたい。今この瞬間に時が凍りつき世界が滅びるなら、どれほど幸せだろう。
 だがそんなことは、それこそないのだと知っている。
 誰かが死んでも世の移ろいは止まらずに歩みを前に進める。死は絶対なのに、二度と取り戻せないのにそれでも人は喪失を抱いて前へと進む。それは果たして強さなのか、弱さなのか。
 この瞬間に感じている肌の痛み。白皙に食い込んだシェリダンの爪の痛みすらもいつかロゼウスは忘れてしまう。一つの命が終焉を迎えて後、どんな風に世界は動いていくのか。何も変わる事はなく。それを自分が知れないのが、辛い。
 死にたくない。
 できればこのままずっと、二人で生きていきたい。
 誰も邪魔をしないで。誰も責めないで。互いの存在さえあれば、もう他には何もいらないから。ドラクルのことも皇帝のことも何もかも全て捨てて逃亡できればいいのに。そうすれば未来は変わるだろうか。
 変わったとして、そんなこと本当にできるはずがないけれど。
 どんな社会でも柵はある。全てを捨てる事ができる人間などいるはずはない。このまま仲間たちを置いて運命から背をそむけて手に手を取り合って駆け落ちしたとしても、きっと自由になどなれない。全てを捨てるということは自分で解決すべき問題も投げ出してしまうのと一緒だ。
 背負うものが元から何もなければそれでも良いかもしれないが、生憎と彼らにはそれが多すぎた。果すべき役目を放り出して逃げたりしたら、自分で自分を許せない。
 相手の手だけをとるには、大切なものが多すぎた。
 できるなら全てを守りたい。味方はもちろん今は敵となってしまった愛しい人たちも、彼らが巻き込んだ無辜の民も。みんな、みんな。
 どうして平和でいられないのだろうか。
 争いによって出会っておきながら平和を望む。どうしようもない矛盾の中に自分たちはいる。
 気づけば彼らの世界は、どうしようもないことで構成されていた。そもそも生命の存在には理不尽が付きまとう。どんな風に生まれてくるかなど、本人が一切選べないのだから。
 どうしようもなく生まれて、解決できない問題に悩み、また仕方がないのだと嘆いて生きていく。いつか必ず訪れる死を避ける術も知らないまま。最期まで運命に蹂躙されるばかりで抵抗を知らず。
 それでも生きていく。生き足掻く。人生などどうしようもないのだと胸の内で悲鳴をあげながら、心から血を流しながらそれでも今の地獄より少しだけマシな居場所が欲しくて。
 ……そんな場所が、本当に欲しくて。
「ようやく手に入れたと思ったのに」
 頬を流れる透明な雫とは裏腹に乾いた声でロゼウスは呟く。正面向いた先に仰ぐ空の藍闇と白い月。背の下には茂る青草の下生えのやわらかな感触があり、鼻腔には川の水の匂いが漂ってくる。触れたシェリダンの体温は暖かい。
 幸せになりたい。なりたかった。どれだけの人を踏みつけにしても、蹴落としても幸せになりたかった。
 もう、たぶん、叶わない。
「好きだよ、シェリダン、本当に……」
「ああ、私も」
 残り時間は少ないと言う。現皇帝デメテルに死期が迫っているのだと。外見上は健勝そのものの彼女に一体何が起こるのかさっぱりわからない。そしてハデスたちが当然のように告げる未来、ロゼウスがシェリダンを殺すと言う事もわからない。絶対に、絶対にそんなことはしないのに、したくないのに。
 それでも、別れの予感はあった。
「……悪かったな、そろそろ行くか、ロゼウス」
「うん」
 シェリダンがロゼウスの上から退いて、身を起こす。二人は手早く衣服を身につけて、すでに寝ているであろう仲間たちを起こさないように忍び足で戻った。

 ◆◆◆◆◆

 世界帝国アケロンティスにおいて皇帝の権力は絶対である。それがどんな暴君の荒唐無稽な、あるいは残虐非道な命令だとて、それが勅令だというそれだけで人は逆らえない。
 皇帝は選定者という存在を持つ。神に選ばれたその代行者。皇帝の意志は神の意志。逆らう事は許されない。
 皇帝領に仕える者は、皆妙な矜持を抱いて生きている。世界で最も権力を持つ至高の存在の足下近く這い蹲ることができるのがそれほど嬉しいのか、決して皇帝の機嫌を損ねないよう、彼女の顔色を窺ってばかり。
 もちろん、そんな側近たちを選んだのも現皇帝である大地皇帝デメテル自身の責任だ。有能な彼女は一人でなんでもこなせるため、ただ仕事をするだけの機械程度の利用価値しか部下に求めない。能力と人格は比例するわけではなく、故意か偶然か知らないが、特にデメテルが集めたのは仕事こそ完璧にこなすがその人格性という点においては鼻持ちならない嫌な連中ばかりであった。
 彼らは皇帝という存在の側近くに在りながら、逆に皇帝という存在に対して敵対意識も持っていた。自分たちはこんなに有能であるのに、この小娘に敵わないというのか。そんな気持ちでデメテルを見ていることがわかった。
 十八歳で皇帝となったデメテルは神の理に従い、その時点で身体の成長を止めている。化粧で多少年上に見せてはいるが、肉体の年齢はせいぜい二十五、六に見えるかどうかというところだ。どちらにしろ四十五十をとうに過ぎた政治の重鎮たちにとって見れば小娘だろう。だが彼らは表立って皇帝に逆らうことはできない。
 彼らがその苛立ちの矛先を向けた相手は、皇帝ではなく、その弟だった。
 完璧なる知性と魔力、そして美貌をも持ち合わせた大地皇帝デメテル。虐げられている民、黒の末裔出身であることを除けば欠点などない彼女の、唯一の弱味がこの弟にまつわることだった。
 そもそもデメテルの選定者として認められているハデスは、本来正式な選定者ではない。これは公然の事実として、誰もが知っていることだ。
 選定者は皇帝と言う存在が誕生するその時に、身体の何処かに「選定紋章印」と呼ばれる紅い痣を天より与えられる人間のことだ。選定者の指名により、皇帝は選ばれるという。
 何故そんな仕組みになっているのか、正確には誰も知らない。それは神聖なる悲劇と呼ばれた帝国成立の際の事件に関わる秘密だとも、神がより効率よく帝制を確立するための縛りだとも言われている。
 神が皇帝と言う存在を示したいのであれば、何故紋章を皇帝の候補自身に授けないのか? 選定者とは、何のために存在するのだろうか? その理由を誰も解明できない。真実は神のみが知る。
 ただ、皇帝は選定者と言う自身に絶対服従を誓うしもべを持つ事は世界中に知れ渡っている。時々の例外があるとはいえ、その多くは身内から生まれると言う事も。
 選定者は皇帝が正しく神に選ばれたことを示す存在。だが一部の例外はある。
 例えばこんな話がある。自らは皇帝にもなれると思いあがったある野心家が、選定紋章印を真似た偽の紅い痣を友人に刻ませて皇帝領を訪れたことがかつてあった。
 当時の皇帝は怒ることもなく、あっさりとその男に一時的に玉座を譲り渡した。
 玉座を譲り渡された野心家は激務に耐え切れず、一月ともたずに衰弱し、二ヶ月を越す頃には自ら皇帝の下へと足を運び、頭を下げて頼み込んだ。貴方こそ皇帝に相応しい、どうか戻っていただきたい、と。
 すると、皇帝は笑い出した。
 皇帝は自身の選定者を呼び寄せ、その紅い痣を特殊な薬品を染みこませた布で洗い落とした。……そう、当時の皇帝自身も騙りの皇帝だったのだ。野心家は驚いて皇帝を問い詰めるが、返って来たのは意外な言葉だった。そなたを待っていた。
 野心家だった男の身体には、紅い痣が浮んでいた。
 選定紋章印は選定者として相応しい者に授けられる。その基準が如何なるものであるかは、誰も知らない。
 こんな例があっても、それでも皇帝には選定者が必要とされている。
 皇帝が何故選定者を必要とするのかわからない。そもそもこのような例を持ち出されては、皇帝という存在に本当に選定者が必要なのかすらわからない。
 現にデメテルは選定者に関して二度目の例外を作った。
 ハデスはもともとの選定者ではない。もとの選定者の選定紋章印をその肌に移植して無理矢理選定者とされた存在だ。
 そこにつけ込まれて、ハデスは生まれた時から軽く扱われがちだった。
 皇帝が選定者である実父を嫌ったために選定紋章印を移された、偽りの選定者。野心家の男にはあとから選定紋章印が浮んだが、ハデスにはそれがない。その能力がいかほどの物かさえ人々は知らない。
 そしてもう一つ、ハデスには侮られる理由がある。
 それは彼が、姉皇帝の愛人であるということだった。
 あの時は、あの時までは人並みの忠誠心も家族としての敬愛も姉であり皇帝である存在に対して持っていた。
 優しい姉だと思っていた。自分が何のために作られたか、それを知るまでは。
 それは彼が十六歳になった夜。
 ――おやめください! 姉上!
 デメテルは誰よりも優秀な魔術師だ。彼女に魔術を使われて、まず勝てる者はいない。
 もっとも、ハデスにとってそれは青天の霹靂だった。彼がこれまで姉に使われた魔術と言えば怪我や病気の治療やそう言ったものであり、自らに姉が危害を加えると言う事を予測すらしていなかった。
 優しい姉だと思っていた人は、ハデスがどんなことをしても手をあげたこともない。だからその時のハデスは、魔術によって自らの身体が自室の寝台に固定されたその瞬間も、何が行われるか全くわかっていなかった。気づいたのは、デメテルの手が明らかな意図を持って服の中に滑り込んだ時。
 ――姉様、やめて!
 肌を優しく撫でられて、わけのわからない感覚にぞくりと鳥肌が立つ。ゆっくりと服を脱がされて裸にされて、羞恥で顔を紅く染めながらもまだ事態が信じられなかった。
 ――大人しくして、ハデス。あなたに痛い思いはさせないはずよ。
 十六歳になった彼には、その行為が何をするものかわかっていた。だが、経験した事はない。初めてのことを、姉と。何故こんな……。
 ――ハデス、私の弟。私の、大事な……。
 潤んだ瞳で自分を見つめるデメテルは、皇帝でも姉でもなく女の目をしていた。
 ハデス自身は拘束されて動けず、デメテルが全てを行う。本来ならば臣下の身分にあるハデスの方が奉仕するべきだ。だが、けれど、だけれど。
 ――やめて、おやめください、姉上、皇帝陛下……。
 すすり泣くハデスのものを自らの入り口に導いてデメテルが苦しげに顔を歪める。
 生暖かく濡れた膣内が自らの性器をしめつける。結合の感触に、行為が進むにつれて、嫌悪以外の感覚を覚える。
 荒い息、汗ばむ肌、髪を振り乱して腰を振る女の姿。初めて見た異性の身体は姉のものだった。皇族という立場にありながらデメテルが羽目を外したところを見た事のないハデスは、自分も分不相応な無茶をすることや、女を呼び寄せて遊ぶことなど全くしていなかった。しておけば良かったと、あの時後悔した。そうすればあんなに衝撃を受けることもなかったのではないかと、真剣に思う。
 ――やめて、もう許して、姉様! こんなこと許されるはずがない! 僕らは実の姉弟なのに――!
 精神的な背徳感を、身体は反映してくれない。瑞々しい女の肉に包まれて、体は正直に快楽に反応していた。
 彼女の中で射精にまで導かれて、全てが終わった後に、心の底から絶望する。
 敷布を汚す二種の液体。紅い血と、白い精液。内股を同じように血と精液で汚した女が笑う。もう彼女を姉とも思えない。
 デメテルは男を知らなかった。彼女は男遊びを趣味とし、誰でも良くてたまたま倫理を踏み越えて弟に手を出したという手合いではない。相手が弟のハデスであると十二分にわかったその上でハデスにこんなことをしたのだ。
それを知った瞬間に、もう二度と逃れられないのだと悟った。
 ――愛しているわ、ハデス。あなたは私のものよ――
 彼は美しい蜘蛛の巣に絡めとられたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 デメテルの愛人と知られてからは、ハデスを見る人々の眼は変わった。
 帝国宰相。それが新しくハデスに与えられた称号だった。役職ではない。役職と言えるほどハデスはその役目を果してはいない。
 本来自身が最高峰の政治能力を持つデメテルに宰相など必要ないが、そこには建前というものがある。帝国宰相の名を与えられてからは、これまでのようにハデスが表立って批難されることは少なくなった。誰もが彼にひれ伏して頭を下げる。
 そして、以前よりも影で嘲笑うことが多くなった。
 嘲笑はハデスだけでなく、実弟を愛人扱いにするデメテルにも向けられた。これまで誰が言い寄ってきてもまったく興味を示さなかった女皇帝は両親を殺しても高潔の人と見られていたが、色に関する話題は呆気なくも彼女の名声を一度地に落とした。所詮人の話題は下衆なゴシップに向かいやすいということか。
 以前よりも更に蔑まれた目で見られているのがわかる、帝国宰相の名。これまで以上にお飾りの称号だろうと笑われるたびに、望まずその地位を与えられたハデスの自尊心は傷つく。
 これまでのようにお上品な努力などしていられなかった。幸いにもこれだけは誰にも負けないと言える才能、冥府に通じる門を開く力を持っていたため、迷うことなく冥府の魔物たちと契約した。死に物狂いで彼は強くなった。
 だが、デメテルには敵わない。
 一度悪意を持ってしまえば、もはや姉を皇帝として相応しい人格だと認めることなど不可能だった。彼女を皇帝にした結果、それがこの自分の命だとわかっている。ハデスは両親が大分高齢になってからデメテルの声によって「作られた」子どもだ。彼女がハデスという存在を望まなければ、自分がこの世に誕生しなかったことはわかっている。
 けれど、ハデス自身はそんなこと望んでいない。
 運命は残酷だと知ったから、せめて抗いたかった。ここでも幸か不幸か、ハデスには「予言」という未来を見る能力が与えられた。
 その力が伝えてくる未来は、決して幸せなことばかりではない。自分に関係があることもないことも、見てしまうのは悲惨な光景ばかりだ。そしてハデスは基本的にそれに対して何も出来ない。
 何も出来ない。何もしない。
 そもそも何かをすることなど誰からも望まれていない、それがハデス。
 皇帝領にいるハデスの評価は高くない。外の国からして見れば彼の魔術師としての実力は申し分ないが、皇帝領にしてデメテルの側近く仕える者たちは彼女の弟である帝国宰相を決して評価しない。
 体のいい八つ当たり要因にされていることはわかっている。
 しかしハデス自身に誰にも文句を言わせないだけの実力があれば、そんな陰口などそもそも存在しないはずだ。
 皇帝領にいる間、ハデスはずっと孤独だった。
 姉皇帝の寝所に侍る時間が嫌だった。拒否したくてもその権利などハデスにはない。そもそも彼の立場は皇帝の弟と言うよりも愛人として成り立っている部分が大きいのだ。
禁じられた関係を続けながら、日に日に増す無気力感。時々矢も立てもたまらなくなって、どんなにハデスが無茶を仕出かしてその後始末に追われたとしても。デメテルは本気で怒ることすらない。
 何をしてもしなくても同じ。ハデスには生きている実感と言うものがいまいち薄い。だからそのうち、姉へのあてつけの意味もあって男と寝るようになった。
乱暴にして。姉譲りの顔でその手の男に囁けば、呆気なく相手は篭絡された。もはや痛みでしか自分を現実に繋ぎとめられないことを無様だと自分で笑いながら、それでも止めることができない。
 生きていても、今この瞬間に手首を切って死んでも同じ。デメテルにとって、ハデスはただのお人形遊びの人形だ。それがわかるから尚更無気力で自棄になる。このまま生きていても死んでいても代わりないまま日々は続くと思っていた。
 ある日、その未来を予言の力によって目にするまでは。
 次の皇帝の誕生とデメテルの権力の崩壊。
 新しい皇帝が生まれる事は、皇帝の死を示す。
 そして皇帝が死ねば、その選定者も死ぬ。
 ハデスはデメテルの正式な選定者ではない。だからどの程度運命が連動しているのかわからないが、少なくとも死の危険が付きまとっているということだけは確かだ。
 冗談ではない。何故、望んでもいない選定者の地位など与えられ、姉皇帝の玩具にされたままで死ななければならない。そのぐらいなら――。
 僕は、皇帝の座を奪う。
 これまで屈辱と忍従の日々の代償を、返してもらう。どうせ意味がないのだろうと避け続けていた帝国公爵、つまりは諸外国の王たちとの社交にも交じり、自らの権威を固めるべく暗躍する。
 予言の中で見た少年は美しかった。
 まさに白皙の肌、髪は白銀の光沢を持ち、長い睫毛も光り輝く銀色だ。通った鼻梁に、紅い唇が絶妙な配置で治められ、指先から足の先まで美しい完璧な美貌を備えた少年。
 何よりその、深紅の瞳。
 固まった血のような深い深い紅い色をしたその瞳。彼の持つ色彩はシュルト大陸東方の吸血王国ローゼンティアの民としては当たり前にありふれているものだが、その中でも特に深い紅の瞳が印象的だった。
 本当に美しい、美しすぎる少年だった。薄気味悪いほどに。
 ハデスの予言の力は未来に起きる光景を断片的な無音の映像として夢に見ることだ。だからその少年を捜す手がかりは夢で見た光景しかない。
 あの美しい少年ならば、見間違えることはないだろう。だがいくら顔がわかっていると言っても、それだけでどこの誰だかわかるものか? 世界は広いのだ。ローゼンティア人だとはわかっていても、一国全てが捜索範囲ではデメテルの退位の日までに捜し出せるかわからない。
 予言の能力で視る未来は、それが起きるはっきりとした日付までは知ることができない。夢と同じ場面に出くわして初めてその時だったのだと知ることもある。だが今回ばかりはそんな言葉で流してしまうわけにもいかない。焦燥を募らせると共に随分早くから計画を立て、下準備をしてきた。全てをはじめたのは大体十年前くらい。
 その頃、各国の王たちと交流をしている中で新しい顔が交じり始めた時期だった。父親から譲位された若い国王や世継ぎの王子たちが社交の場に顔を出す時期。その中でハデスは一人の少年を見かけた。
 以前から夢で見ていた時期皇帝の少年について、ローゼンティア国王とどうも顔立ちが似ているような気がしていたのだが、それが彼を見て確信に変わった。
 ローゼンティアの王子ドラクル。十年前、十七歳だった彼は夢で見た少年とよく似ていた。しかしハデスが予言の能力で見たのは彼ではない。
 それでもこれだけ顔立ちが似ているのであれば、血縁者の誰かであるという可能性はある。特に吸血鬼は長命で十年二十年では姿形の変わらない種族だ。彼についていけば、あの夢の少年が見つかるかもしれない。
 そして期待は叶えられた。
 ――ドラクル王子、あれは?
 ――私の弟ですよ、ハデス卿。ロゼウス=ローゼンティア第四王子です。
 夢よりも幼い顔立ちだったが、彼こそがあの予言の未来の人物だと知った。そして当時のロゼウスの姿と夢で見た光景との差異から、彼があの予言の年齢に達するまで猶予があることもわかった。
 ハデスが夢で見た少年の年頃は十六、七歳。吸血鬼の性質上これ以上ということはあっても、これ以下の年齢だということはないだろう。
 ローゼンティア王国の王子から次の皇帝へ。その少年は、何の憂いも知らず生きているようにハデスには見えた。不公平だと思った。世の中にはもっと恵まれない環境で努力している人間もいるのに、生まれ持った才能で全てを手に入れてしまうなんてあんまりだ。
 それは愛され望まれている王子と姉皇帝の玩具以上の価値を持たない自身とを比較して生まれる嫉妬だとわかっていたが、止めることはできなかった。そのぐらい、ロゼウスを包む環境は優しすぎるくらいに優しかった。
 しかしその後、ドラクルが狂う。
 何の欠点もないような第一王子は、実は王子ではなかった。彼の憎しみはこれまで弟だと思っていた本当の第一王子ロゼウスへと向かい、ドラクルはロゼウスを虐待するようになる。
 ロゼウスが不幸になることで多少の溜飲を下げながら、しかしハデスの見た未来は変わらない。彼はそれでも、皇帝になる。
 その頃の夢は、彼が一人の少年を殺す夢だった。全身を返り血に染めて、無造作に亡骸をひっつかんでいる。
 ロゼウスに殺される人物に関して、見えて得た情報は蒼い髪。ただそれだけ。瞳の色はその時点ではわからない。段々と過去に遡るようにして知れた情報と本人と出会うのが彼の場合はほとんど同時だった。
 蒼い髪の一族は、この世界には一つしかない。武の国エヴェルシード。
 そこの国唯一の王子様が、夢で見たとおりの少年だった。シェリダン=エヴェルシード。
 彼はロゼウスに殺される。ハデスは出会う前から知っていた。
 知っていて、この少年に近づく事が運命を覆す鍵だと思った。彼は皇帝ロゼウスの心に最も近くなる存在だ。
 デメテルを殺害し、そしてロゼウスまで殺害するにはそれなりの準備が必要だ。まずあの姉を殺すのが生半なことではない。彼女の力を削ぐところまで運命を進め、途中で舵を切り替える。決してロゼウスを皇帝にはさせない。その至高の座を得るのはこの自分だ。
 そのためには、誰だって捨て駒にしてみせる。ドラクルも、セルヴォルファスのヴィルヘルムも、シェリダンも、その妹カミラも、全ては自分の目的を達成するための駒だ。
 用済みとなれば、いつだって捨ててしまえばいい。
 ハデスには、何もいらなかった。


217

 シェリダン=エヴェルシードはハデスの頭の中にある「王子様」像をことごとく打ち壊していった。
 別に彼の容姿が貧乏ったらしいとか、行動が所帯じみているとか、品がないとかそういうことを言いたいわけではない。
 むしろ、外見だけで言えば彼はこれ以上ない「王子様」だった。
 エヴェルシード人の容姿は白い肌と蒼い髪と橙色の瞳が特徴だが、シェリダンの持つ色彩は変わっている。海底の藍色の闇を浚ったような髪、琥珀の中で炎が燃えているような朱金の瞳。体つきは多少華奢だが、それでも弱弱しいというほどではない。健康的な少年そのものの体格だ。
 言葉遣いも、立派と言う程でもないが下品でもない。身支度もちゃんとしている。能力的に他国の王族と渡り合えないわけでもない。
 立ち姿は一幅の絵のようで、人目を惹きつける。剣の腕は王国でも有数で、誰の前に出しても恥ずかしくない王子様だ。
 その彼に唯一の弱点があるとすれば、それは血筋ということだろう。シェリダン王子の立場こそエヴェルシード世継ぎの第一王子だが、彼の母親は庶民の出。貴族であり正妃を母に持つ第二子、カミラ王女には血統では敵わない。
 そしてシェリダン自身も、母親が庶民だということを気に留めていた。いや、むしろ母親を慕い、父親である国王を嫌っていた。
 庶民の格好に身をやつして平気で下町を歩く彼は、身分に囚われぬ柔軟な思考の持ち主だった。自らが辛酸を舐めているからか他人に厳しいところが少なからずあったが、それでも無為に人を貶めたり蔑んだりする性格ではない。
 王よりも民を、自分よりも誰かを気にかけることのできる彼は、方向性さえ間違えなければきっと良い王にあるだろう。ハデスでさえそう思った。
 そしてふいに我に帰る。何を馬鹿なことを。自分は皇帝の座を簒奪するために、彼の命を利用しようというのに。
 エヴェルシード人であるはずの彼が、何故未来の皇帝たるローゼンティアの王子と関わりを持つことになるのか。ドラクル王子に近づいていたハデスはそこから情報を掴む。
 軍事力を一切持たない、表向きは一枚岩を名乗るローゼンティアの隣が世界一の軍事国家だと武勇で名高いエヴェルシード。内乱一つ起こそうにも軍事力を持たないローゼンティアに、ドラクルはエヴェルシードを利用して戦争を仕掛けようと言うのだ。
 ハデスはそれを、止めることもなく見ていた。世界を治める大地皇帝である姉デメテルも、特に止めはしなかった。
 ドラクルの生まれは、いわばローゼンティアと言う国があの状態で存続していたならばいずれ必ず起きていただろう腐臭の結晶。その彼が隣国を利用してでも自国の転覆を企むのであればそれでも構いはしない、と。そして利用されるシェリダンもシェリダンだ。君主の愚かさが即座に国民の生命に響く世界で、彼らは意図的に破滅の道を歩む。
 ハデスはそれを傍観し、時折求められて手を貸した。例えばシェリダンが父王を幽閉した時の監視役、などは。
 予言の能力で見る未来の通りに行動し、いつか来るその時を間違えないようにあらゆる陣営と手を結んで簒奪の足がかりを作った。行く先々で方々に甘い顔をし、自分でも嘘ばかりついている自覚はある。
 ロゼウスが皇帝になるという運命を知らないドラクル王子たちからして見れば、ハデスの行動はかなり奇異に映るだろう。だがそれでもいい、欲得ずくの人間だとしてもようは適度に信用されればいいのだ。信頼などいらない。自分は一人でいい。
 その方が、いつか裏切る時に気が楽だろう。
 ――ハデス、私に力を貸してくれるか?
 馬鹿なシェリダン、僕なんかを信用なんかして。ロゼウスと共に破滅の宿命の中心にいる彼だけは、決して僕を信用してはいけなかったのに。
 庶民に対して気さくな王子様、その後王様にもなった人物。平気で民の着る服を着て城下をうろついていたシェリダンには身分による差別感などない。彼の母親はもともと庶民。カミラ姫との対立でどうしても血統の差は感じずにはいられなかっただろうが、それと相手を身分や格好で差別するのは別なのだ。それが本人の努力で何とかできないことなら尚更だ。
 生まれながらの王族は、普通偽りの選定者たるハデスを認めない。姉皇帝の愛人であるとすれば尚更だ。どうせ色仕掛けで帝国宰相の役職を奪い取ったのだろうと。
 ハデスの選定者の証である選定紋章印は、彼が生まれた直後にデメテルが両親を殺して父親の腕の皮を剥ぎ弟である彼に移植したもの。
 ハデスにそれをどうにかする選択権などなかった。しかし周囲はそう思わない。
 少しでも理解を示してくれたのは、シェリダンだけだった。
 次皇帝ロゼウスを陥れるための道具、いつでも捨てる駒、そのつもりで彼に近づいた。そのために彼を利用した。
 デメテルに対する反発のせいで、ハデスもこれまで品行方正とは言いがたい行動を幾つもしてきた。王子様らしくないシェリダンとは気が合って、彼といる時間に救われていたのも事実。
 だけれど、すでに歯車は動き出してしまった。
 もう止められない。ここで素直に止められるほど、ハデスはシェリダンのように強くはない。
 デメテルを殺し、ロゼウスを殺して皇帝の座を得る。道具として生まれてきて使い捨てられるなどまっぴらだ。この復讐を簒奪を捨ててしまえば、ハデスにはもうそこに存在する意味がない。存在理由を失って真っ直ぐに立ち続けることができるほど、ハデスは強くない。自分でそうわかっている。
 何としてでも復讐を成し遂げねばならない。
 運命の日は近づいてきて、ついにロゼウスとシェリダンが出会うところまで来てしまった。
 二人がいるところを見ていると、ぎりぎりと胸が締め付けられる。シェリダンがあまりにも幸せそうだから。
 引き裂くために出会わせたのに。
 僕は僕であるために、姉を殺しロゼウスを殺しシェリダンを裏切るだろう。皇帝になったとしても、世界を統治できる自信があるわけではない。そもそも二人を本当に殺せるかどうかも定かではない。皇帝になりたいというよりも、簒奪しなければ自分の意味が失われるのだ。
 後のことなどどうでもいい。
 これは自分を生み出した世界に対する復讐。
 復讐は、それを行うことこそが目的なのだ。成し遂げられればそのあとの事はどうでもいい。
 デメテルの玉座を奪ったその瞬間に死んでも構いはしない。
 狂った思考の中で一掴みでも幸せの欠片を得られれば、もはやそれでいいのだ。あるいはそれすらも本当は必要としていないのかもしれない。
 自分はただ、破滅してしまいたいだけなのかもしれない。
 そんな弱さを認めて我が身を振り返り、今更行動を正す強さなんて、持っていない。

 ◆◆◆◆◆

 頬を撫でる優しい手。自分を膝の上に抱き上げる。彼が泣いているのを見かけると、怒るよりまず先に心配してくれた。強がって拭った目元が腫れると、水で濡らした布で拭ってくれた。
 ――どうしたの? ハデス。誰かに苛められたの?
 ――姉様……。
 ハデスはデメテルが十九歳の頃に生まれた弟だ。それぐらい齢が離れていれば、親子に見えると言っても過言ではない。もっともデメテルは皇族になったその日から身体の老化が止まっているためいつになってもその外見は十八歳の女性のままだったが、それでも二桁に満たない年齢だった頃のハデスから見れば立派な大人に思えた。
 ――あなたは私の大事な弟よ。何も心配することはないの。さぁ、何かあったらちゃんと姉さんに話して。私がすぐに解決してあげるから。
 繰り返し繰り返し聞かされたその言葉は頼もしく、自分を撫でる手はただやわらかだった。母のような姉。彼女がいれば両親がいないことも気にならなかった。どんな誹謗中傷も、ハデスが言い返す間もなくデメテルが相手をやり返す。
 ――ふん、七光りが。
 ――誰が七光りですって?
 ――こ、これは皇帝陛下! その、こんな小さな子どもを皇帝領に留めるのはどうかと……。
 ――この子は私の弟であり、選定者よ。私の手元において何が悪いの?
 ――贔屓が過ぎますぞ! いくら皇帝と言えど、血筋だけで側近を選ぶなど!
 ――七光りと言ったのはお前自身だわ。ハデスの魔術師としての能力はすでに一流よ。それを七光りと言うのなら、優秀な家族を持つ人間は遺伝の法則から当然優秀だと言う事になるわね。だったらお前は何? 七光りで自らの身内を取り立てさせることも自分自身がその恩恵に預かることもできない凡夫でしかないお前は何?
 ハデスを貶めようとする人間は、デメテルと対峙しなければならない。彼女は弟の身辺に常に気を配り、細心の注意を払っている。ハデスの身の回りの者を選ぶ基準は彼女自身の周囲に侍る人間を決めるより厳しい。
 ――宰相閣下、どうぞ皇帝陛下にお取り成しを……。
 ハデスがデメテルの弱味だと知られてからは、逆に姉皇帝に近づく前に彼に取り入ろうとする者も増えてきた。何をするにしても、デメテル。良いことも悪いこともハデスの世界は全てデメテルが基準となっている。彼は彼個人で存在する人間ではなく、常に姉であるデメテル帝の付属物だった。
 ――ハデス、あなたは何も心配しなくて良いのよ。
 宮廷で陰口を叩かれた時、社交の場で失敗をした時、姉皇帝に反発を隠さず皇帝の弟をたぶらかして笑い者にしたい性質の悪い女が寄ってきた時、全てハデスが手を下す前にデメテルがハデスの周りから害虫を遠ざけていた。気づけば侍女や侍従の顔ぶれが変わっていることがよくあった。昔働いていた人は? と聞いても誰も答を知らない。仲が良かった同年代の小姓も、優しかった年上の侍女もいつの間にかいなくなってしまった。彼らがハデスを中傷していたとか、大臣の手先でハデスに仇なそうとしていただとか聞くのはいつも後の話だ。ハデスが知らない間にデメテルは動いている。
 ――ねぇ、姉様。
 ――なぁに? ハデス。
 ――その……僕は学校、とかに行かなくていいの?
 ――学校? ああ、国学府のこと?
 ――そうじゃなくて、もっと普通の……庶民が通うような……。
 ――行く必要ないわ。あなたは私の弟だもの。
 ――でも、世間の一般常識とか、そういうのも勉強しなければいけないんだってみんな言ってたよ?
 ――……みんな?
 ――うん、みんな。
 ――そう。でも、あなたはいいのよ、行かなくて。あなたは特別なの。だからみんなと同じことをする必要はないの。
 その頃、世界にはまだ「黒の末裔」を差別する風潮が強かった。
 黒髪に黒い瞳に黄色い肌、魔力を持つ者が生まれる事が多いこの特殊な一族の権威が段々と持ち上げられたのはデメテルが皇帝になって数十年が経ってからだ。ハデスが少年の頃にはまだ黒の末裔は差別迫害の対象だった。
 ハデスの知らないところで、デメテルは全てに手を回していた。真綿にくるんで守るように、少しも傷をつけないように。どんなものからもハデスが傷つくことがないように守っていた。
 それでも途切れ途切れに聞こえる噂話から、ハデスは自分の立ち位置がどんなものか自分でわかっていた。
 ――だってどうせハデス様は……。
 ――皇帝陛下の弟君ですもの、そりゃあいい御身分よねぇ……。
 振り払っても振り払っても纏わりついてくる腐臭。
 ハデスがどんなに努力しても、こと冥府のことに関してはデメテルより詳しくなってもそれでも姉皇帝を超えることはできない。
 彼女なくして彼の存在は成り立たない。
 優しい姉。誰よりも優れていて素晴らしい姉。ハデスにとって母でもあり、姉でもあり、一番身近な存在だったデメテル。
 自分を守ってくれる彼女への思慕が募ると同時に、相反する憎しみが増していったのは何故だろう。大好きな姉を尊敬していると口にしながら、その裏側では嫉妬を抱き、時折鬱陶しさを感じていたのは。
 ――姉君と仲が悪いのか?
 ――どうして?
 ――なんとなく。
 後にシェリダンにあっさりと見破られることになるその感情を、昔のハデスは自覚していなかった。
 デメテルに守られながら、デメテルがいることで貶められる自身の立場。好きでその腕に刻んだわけでもない選定紋章印。
 それでも、あの夜まではまだデメテルを姉として愛していた。自分はただの姉が好きな弟でいられた。
 ――ハデス、あなたのことは私が守ってあげる。ずっとずっと、必ず守ってあげるから。どんなものからも……。
 だが、それならば彼女に傷つけられた分の痛みはどうすればいいのか。
 ――姉様、やめて!
 今も生々しく血を流すこの傷口を、どうすればいいのか。
 ――ねぇ、姉様。あなたにとって、僕は何?
 徹底的に人を貶めるか、逆に自虐的になるか。そんなことでもしなければもう自分で自分がここにいるのかどうかもわからない。
 ――私を挑発するあなたが悪い。だいたい、被虐趣味なのは卿の方でしょう?
 ――ほら。こうされるのが気持ちよいんでしょう? 痛めつけられるのが。若い肌を切り刻まれ、滑らかな背を鞭打たれ、その可愛らしい白い尻を叩かれて赤く染められるのがお好きなのでしょう? 口に猿轡をはめられ、目隠しをされ、手首をきつく縛られて無理矢理脚を開かされるのが楽しいのでしょう?
 蔑んだ口調で言うドラクルの言葉は半分当たっている。そうだ。そうでもしないと自分の存在すらも自分でわからない。
 痛いことや辛いことや苦しいこと、他人に積極的に押し付けるそれらが大嫌いなのに、そうでもしなければ自分を認識できない。
 僕をこんな風にしたのは誰だ?

 ◆◆◆◆◆

「……いらない」
 薄闇に沈む花畑は虹色だ。もっとも、この暗さでは足下に咲き誇る花の色などいちいち識別できない。 
 皇帝領の花畑。
 冥府から戻って以来姿を晦まし続けていたハデスはようやくここまで戻って来た。薔薇大陸皇帝領。そこには現在の皇帝である大地皇帝デメテルの居城がある。
 しかしそれも今日までだ。
「殺さなきゃ」
 ぽつり、と呟いた言葉が夜風に流され虹色の花々の上を滑っていく。
「殺さなきゃ……姉さんを」
 あの人はもう、僕にはいらない。
 陰鬱に呟いて、ハデスは口元に薄い笑みを浮かべる。病んだ微笑は俯いた目元にも影を落とし、その端正な容貌を一際儚げに見せた。
 絶望と希望を繰り返し、愛と憎悪の狭間で揺れ惑い、もはや血の乱行でしかこの気分を鎮めることはできない。
 今のハデスを作ったのはデメテルだ。だから、とハデスは彼女に償いを求める。恨みを晴らそうとする。
 彼女が生きている限りその存在に縛られ続ける。デメテルが皇帝であっても、なくても。そしてデメテルが皇帝である以上、彼女がこのままただ死んでもハデスはその亡霊に悩まされ続けるだろう。例えハデスの目の前から本人が消えたとしても、世界が彼女を忘れない限り。
 それを、自らが皇帝になれば変えることができる。
 ハデス自身が皇帝になることでやっと彼女を超えられる。だから、是が非でもその至高の座を得たかった。
 足下で柔らかな花々を今も踏みにじっているこの花畑。
 皇帝領の景色はその皇帝の精神状況を表わすのだと言う。こうして美しい虹色の花々を咲かすデメテルの精神は常に安定しているのだという。
 ハデスがもし皇帝になったとしたら、きっとこの花畑は白黒の影の世界のような色彩に染まることだろう。
 何故なのかは自分でわかっている。わかっていて、止められない。
「……僕はもう、それ以外は何もいらない」
 皇帝の座が欲しい。たった一瞬でいい。デメテルを追い越したい。もう彼女の付属物でありたくない。
 だからこの願いさえ叶えば、他にはもう、何もいらない。
「さよなら、姉さん」
 ハデスの右手が銀色に光る。正確にはその爪の先だ。冥府の魔物との契約によって手に入れた特別な爪が、刃のような鋭い輝きを宿している。
 機は熟した。デメテルの皇帝としての力は今が最低値だ。これを逃せばもう後はない。
 彼女を殺し、そしてロゼウスをも殺す。そうなれば後はもう、ハデスの天下だ。

 あの人を、殺さなきゃ。