206

「ごめん」
 口を開きばな出てきたその言葉に小さく驚いて、シェリダンは隣に座るロゼウスの顔を見た。
 とりあえずエヴェルシードの現状にショックを受けた部分もあるだろうし、一日くらいは体を休めろとのエルジェーベトの忠告をありがたく受け取って、一行はそれぞれの部屋を与えられた。他の者たちはまだしも、父が投獄されたと耳にしたクルスの動揺が激しい。見かねたエルジェーベトと一同は、主に彼を落ち着けさせるために名目上一人一人別々の部屋を与えたのだ。
 とは言ってもロゼウスとシェリダンにしてみればもはや別々の寝台で眠る方が珍しく、今もロゼウスは自分が割り当てられた部屋から抜け出て、シェリダンのもとへとやってきていた。しかしその表情はどこか沈んでいて、部屋の主であるシェリダンにしても容易に声をかけ難かった。
 そして出てきた最初の言葉が先程の謝罪である。
「ごめん」
「……いきなりどうした」
 エルジェーベトの城と言うだけあって、リステルアリア城は貴族趣味だ。ヴァートレイトの居城にも毛足の長い絨毯を敷いていたことを思い出す。ふかふかとしたそれがロゼウスの軽い足音を吸う。茶系の配色で纏められた室内に、ロゼウスの持つ白はよく目立つ。
 先程の話で、実は落ち込んでいたのはクルスだけではない。
 ウィルとミザリーが亡くなったことも、彼らの方からエルジェーベトに話した。彼女はウィル王子にはさほどの面識はないが、ミザリーのことは一時ヴァートレイト城で確保していたこともあり、よく知っていた。さすがに沈んだ様子で部屋を出て行ったエルジェーベトの後姿をシェリダンは思い出す。エルジェーベトの弟のルイはミカエラと親しく、かの王子の処刑後から元気がないのだという話も聞いていた。
 本来であればローゼンティア王族とエヴェルシード貴族と言う敵同士であった関係。だが馴れ合えば、新たな痛みを生み出すものであると。
 憎い相手は憎いままでいる方が幸せなのかもしれないな……そんな風に思いながらシェリダンは、寝台に腰掛ける。室内に入ってきた瞬間から顔色の暗いロゼウスを手招きし、自分の肩に頭を預けさせた。
 とくとくと鼓動の伝わる距離で話をする。良くも悪くも、これがいつもの自分たちの距離だった。こんなにも近いからこそ一度離れると温もりが恋しくてたまらなくなるほどに。何故これほどはまってしまったのだろう。底のない沼のような想いに。
 永遠などありはしない。
「ごめん。シェリダン」
「だから、どうした?」
「カミラのこと」
 シェリダンの服の胸元を白い手で掴み、縋りつきながらロゼウスはそう言った。
「カミラが、どうかしたのか?」
「だって……俺が、彼女を生き返らせたから今こんなことになって……」
 ああ、そういうことか。ロゼウスが何を言いたいのかシェリダンは納得した。
「気にするな。お前のせいではない」
「でも……」
「くどい。いつまでも終わったことをぐちぐち言うのは止めろ。お前が今更気に病んだところで事態が変わるわけでもないだろう」
 シェリダンの言葉に、ロゼウスがぐっと喉を詰まらせる。
「……お前だって、この事態を予測してまでカミラを蘇らせたわけではないのだろう? 確かに、一度死んだはずのカミラに吸血鬼の力の欠片まで備えて蘇らせてしまったのはお前の落ち度かも知れないが、あの時点で今のこの事態までなど、誰にだって予測できるものではない。私でも無理だ。カミラがあんな大胆な性格になるとは誰も予想できなかったしな」
 思えばロゼウスがエヴェルシードに来てから、全ての歯車は回り始めたのだ。
 だがシェリダンはそれについて悔やむことも恨むことも何もない。彼を気に入り、国へ連れ帰ったのは紛れもなくシェリダン自身の意志だ。他の誰のせいでもない。ドラクルでさえそれは予想外だったと言っていたこのこと。
 そのためにカミラに吸血鬼の超人的な身体能力が備わり、ドラクルたちとの繋がりを作り、シェリダンがエヴェルシードの玉座を追われても。
 それでも後悔などしない程度には、シェリダンはロゼウスに溺れているのだ。勿論自分に対し苦難の道を突きつけてきたドラクルたちに対する苛立ちや恨みはあるが、それでもロゼウスを望んだこと自体を後悔する日は決して来ない。
 初めこそ軽い気持ちだったのかも知れない。共に死ぬ道連れとして気に入っただなんて理由、進むべき未来も何もない道に彼を引きずり込んだ理由は他愛のないものだった。だが今は違う。
「シェリダン……その、話があるんだ」
「何だ? もったいぶらずにとっとと話せばいいだろう」
 歯切れ悪く切り出したロゼウスに対し、シェリダンはさっさと言えと促す。ロゼウスは彼の胸に手を当てて縋った至近距離のまま、顔を上げてシェリダンを睨んだ。
「さっきの、エルジェーベト卿との話、本気なのか?」
「本気とは?」
「エヴェルシードの、玉座を捨てると」
 シェリダンは再び王位に返り咲く気はないと、これまで彼が国に戻る日を待ち続けた女公爵に告げた。
「どうして……だってこの国は、あんたのものだろう。カミラから玉座を取り戻して、そして」
「ロゼウス」
 名を呼ばれてロゼウスは話の途中から伏せていた目を上げた。
 乾いた柔らかな感触が唇を塞ぐ。
「……好きだ」
 ポツリと落とされた言葉はいつものような熱ではなく、ただ捨て切れない寂しさのようなものが含まれていた。
 唇が離れると、ロゼウスはシェリダンを睨む。
「話をそらすな」
 シェリダンが何故このような前触れのない行動に出たのか、その意味を正確に理解してロゼウスは半眼で彼をねめつける。
「俺を誤魔化そうとしても無駄だ。答えてもらうぞ、シェリダン。何故あんなことを言った」
 やはり通じなかったか、と悪戯っ子のように舌を出して、シェリダンが軽く答える。
「何故も何も、実際に私がそう思いそう決めたから言ったまでだ。エヴェルシードの王位を再び手にする気はないと」
「だから、なんで!」
「私が手にしても仕方がないからだ」
 シェリダンの口にする言葉は諦めや放棄とは違う、むしろ確信に近い何かがある。しばらくその朱金の炎の瞳を覗き込んでいたロゼウスは、ふと、あることに気づく。
 深紅の瞳が瞠られ、目の前にあるシェリダンのやけに落ち着いた表情を凝視した。
「あんた、まさか……」
 聞きたくて聞けない話題がある。
「シェリダ――、ッ!」
 それを問いただそうと口を開いた瞬間、またしても口づけに言葉を塞がれる。
 どうしても、どうしても聞かなければいけないのに声が出ない。開いた唇の隙間から舌が滑り込んできて、口内を好き勝手に貪った。
「……ん……ふっ……」
 先程の触れるだけの接吻とは違う、濃厚で熱い口づけ。これまで何度も何度も交わしてきたはずの。
 けれどそれを今、こうして口から飛び出すはずの言葉を塞がれるというそのためだけに使われるのがロゼウスは悔しい。
 しばらくして多少息苦しくなったところでようやく解放され、ロゼウスは再びシェリダンを睨みつけた。
「ロゼウス、お前……」
 薄っすらと涙を浮かべて目元を紅くしたそんな表情で上目遣いで睨むのは反則だとシェリダンは思う。
 だがそんな可愛らしい表情に対し、ロゼウスの口から出るのは可愛くない言葉ばかりだ。底抜けに可愛い男というのも確かにどうかとは思うが。
「いきなり何するんだよ! この馬鹿!」
「ああ。つい」
「つい!? そんな言い訳が通用するはず――」
 言葉はまた途切れ、胸が苦しくなる。この嘘つき、と怒鳴るロゼウスを腕の中に閉じ込めるようにして抱きしめ、シェリダンはその耳元に唇を寄せる。
「……愛している」
 出会ってから幾度となく告げた言葉を囁くと、ぴたりとロゼウスが動きを止めた。出会ってから幾度となく囁いた言葉でも、それが嘘だったことは一度もない。
 初めこそ最悪としか言いようのなかった関係も、いつの間にかここまで来てしまった。もう後戻りなどできるはずはないのだと、良く知った声で頭の中で誰かが告げる。
「お前が兄との因縁にけりをつけねばならないように、私もこのエヴェルシードで自らの問題にけりをつけねばならない」
 シェリダンの言葉に、ロゼウスは沈黙する。
「だからその時まで、何も聞かず、何も言わずにいてほしい。たとえ私が何をしても、お前を想っていることに変わりはない」
「……あんたは、卑怯だっ」
 掠れ声でロゼウスが囁き返す。口調は乱暴でも、その言葉はシェリダンの懇願を跳ねつけるものではなかった。
「私たちはそろそろ、自分たちが引き起こした問題を収束しなければならないんだ。それが、せめてもの責任だろう。だから……」
 王としての責任を。
 シェリダンの言葉に、ロゼウスはただ困惑するように眉根を寄せた。

 ◆◆◆◆◆

 国中が蔓延する病のように不穏な苛立ちに包まれる現在、王城はその病の発祥地である。纏わりつく大気さえも澱んだように、酷く重く感じられる。
 エヴェルシード王城シアンスレイト、王城とつくだけあってそこは国王の住まう場所である。
 現在のエヴェルシードの君主はカミラ=ウェスト=エヴェルシード。男尊女卑思考の強いこの国では歓迎のされない女王である。十六歳の少女は十七歳の兄を追い落として玉座についた。しかし、その評判はすこぶる良くない。
 カミラの治世になってから、エヴェルシードは荒れている。シェリダン王が治めていた時には初めのローゼンティア侵略も功を奏しそれなりの利益を上げ、皇帝の訪問も行われるなど華やかな成果をあげた。その成果は彼自身が父王を幽閉して玉座を簒奪したという事実をも払拭するものであった。しかしカミラ女王の治世となってからは頼みのセルヴォルファス侵略も徒労に終わり、現在のエヴェルシードはその後の処理に追われた頽廃と疲労感に包まれている。
 女王カミラは気の強い少女だが決して玉座につけぬほど傲慢ではない。また有能と呼ぶほどではないが、愚劣で人民を纏める地位につくことが許されないというわけでもない。本人は最大限の努力をしているが、その努力が今のところ報われていない状況だ。
 バイロンやエルジェーベトが必死で支えているものの、この軍事国家エヴェルシードにカミラのような立場の女王は相性が悪いのである。
「ふぅ……」
 一日の執務が終わり、カミラは私室へと戻るところだった。バイロンやその他の大臣たちにも休息を命じ、明日の執務に備える。
 女王ともなれば、一日のうちほとんどを仕事に費やしてしまって休む暇がない。カミラはまだ一日のうちに定められた量の仕事をようやく終わらせられるようになったくらいで、自分の時間を作ることなどほとんどできない。
 それでも文句を言わず、カミラは女王の責務を果す。エヴェルシードのためと言うより自分のためだ。自分で望んで王となったのだ。異母兄であるシェリダンを追い落としてまで。
 自室の前に辿り着き、誰もいない寝室の扉を開いて、中へと足を踏み入れる。
 ようやく一息つけると安心しかけたところで、その身体に太い腕が伸びた。
「!」
 カミラの体を、体格のよい兵士が二人がかりで拘束している。
「な、何をするのよ!」
 身を捩るカミラの言葉に、二人の男は下卑た笑いで答える。そのうちの一人が口を開くが、声に特に聞き覚えはない。王の目に耳に留まらぬほどの小物ということだろう。
「大人しくしてください。女王陛下」
「できるわけないでしょ! この状況で!」
 形だけの敬語で言う男に、カミラは反論する。体を締め付ける腕の力が強くなった。
 一人が更に腕を伸ばし、カミラの胸を掴む。
「痛っ!」
 柔らかな塊を乱暴に揉みしだくその手の動きに、男たちが何を企んでこのような事態を計画したのか嫌でもわかってしまう。半年前の忌まわしい記憶が浮かび上がり、カミラのこめかみに冷や汗が浮んだ。
 男たちのうちのもう一人は、ドレスの裾から手を入れてカミラの太腿を撫で回す。
「女王陛下、最近のご自分の評判の悪さは知っていますか? 女王様は傍若無人で俺たち兵士を人間とも思ってないって有名ですよ」
「誰がそんなことを言っているのよ! 私は、国に対してそれなりの働きをしている者に相応しいだけの待遇をしているわ!」
「そのお言葉に甘えられない可哀想なヤツラもいるんでさ」
「あんたたちがちゃんと働いてないだけでしょう!」
「この女……こっちが黙ってりゃつけ上がりやがって!」
 それまで黙っていたもう一人が口を開いた。カミラの身体に回した腕は拘束というよりももはやほとんど締め付けるようになる。
「別に殺したりなんかしませんよ、女王様! ただ俺たちはちょっとあんたに大人しくなってもらいたいだけなんだ。女らしく、国のことになんて出しゃばらないで、俺たち兵士をちゃんと優遇する女王にな!」
「ちょっと黙っててくれりゃあ、悪いようにはしないぜ!」
 一発殴って大人しくさせようという腹か、伸びてきた男の腕をカミラは咄嗟に受けとめた。
「なに?」
 間抜けな顔をしている男の邪魔な図体を、カミラは人外の力を発揮して蹴り上げる。
「なっ!」
「うわっ!」
 一撃で男たちを振り払い、カミラは体勢を整えた。ロゼウスによって死の淵から蘇らされた彼女には、吸血鬼の超人的な身体能力が備わっている。
 だができれば今は、この力には頼りたくない。
「ルース姫!」
 代わりのように叫んだ名に応え、白き影が蠢いた。その一瞬後には疾風の残影となり、男たちが床に倒れている。
 首の骨が奇妙な方向に捩じれていた。へし折ったらしい。繊細な見かけによらずルースはやることが手荒だ。
「呼びました? カミラ女王陛下」
「それ、全部終わらせてから言う台詞じゃないわ……」
「ええ。そうですね。でも、この方たちは殺してよかったのですよね」
 足下で動かなくなった塊を見下ろしながら、ルースが結構辛辣なことを言う。
「ええ。ただのクズよ」
 カミラもそれに頷いた。
 こんなことを仕出かすなんて、救いようのない愚か者たちだ。待遇改善を要求する気があるのなら、もっとまともな陳情書を書いて来いというものだ。
 話をする気もなくいきなり腕ずくに訴えるなんて、ただ己のことしか考えていない低脳だ。
 しかも女王を襲ってこちらが抵抗することも考えず、ただ自らの都合の良いように事が進むなどと思っている考えなしだ。
 そして民衆の代表者の振りをして、実際は最も愚劣な己の欲望を遂げようとするだけの下衆だ。
 カミラは自らの腹部を撫でる。まろやかなラインを描く腹部の様子は気づかれてはいないようだった。だが急な動きは負担をかけてしまったかもしれない。
 私はこれをどうしたいのだろう。
 エヴェルシードの混乱はついに王の寝室にまで広まった。警戒厳しくて軽く足を踏み入れることなどできぬはずのこの場所に、手引きをしたのは誰だ。
 女王が寝室で襲われかけたとあれば、国家転覆はすぐ側だろう。どうしたらいいかわからない。解決策も、進むべき方向も見つからない。
 国のことも、民のことも、自分自身のことも。
 そしてこの胎に宿る、どちらのものかもまだわからぬ命のことも。
 カミラの今いる場所からは、未来が見えなかった。

 ◆◆◆◆◆

「あー、やれやれ、これは派手にやりましたねぇ。カミラ様ったらいくら吸血鬼の力をお持ちとはいえ、いつからここまで怪力に」
「私じゃないわよ」
 初っ端からボケた発言で和むはずのない気を和ませようとするイスカリオット伯爵ジュダ卿を冷めた眼差しで眺めつつカミラはそう言った。
「いいからそのクズ、さっさと片付けてよ」
「と言われても、これ目立ちますよ? 明らかに人為的、とはいえない怪物の仕業ですけれど他殺が判明している死体ですからね。下手に人目についてはカミラ女王は夜な夜な人間とは思えない怪力で兵士たちを一人ずつ殺していくんだぜとでもおかしな噂が立ってしまいます」
「じゃあどうしろというのよ」
「もう少し待ちましょうか。宿舎への兵士たちの移動が終わり、完璧に深夜勤務の時間ともなれば絨毯に包んで持ち運ぶくらいで誤魔化せるでしょう。手伝ってくださいね、ルース殿下」
「ええ。わかったわ。でも酷いわ、イスカリオット伯……怪物の仕業なんて」
「おっとこれは失礼」
 女王の寝室に侵入してきた兵士たちの後始末に、カミラはジュダを呼んだ。ジュダ=イスカリオット伯爵と女王カミラの因縁は深い。
 一度は彼女を裏切り、その後再び手を組んで目的通りシェリダンを手に入れたはずの男はしかし何故か彼を手放した。それ以来傍目には普通でも少しでも彼を知っている人間ならわかるほどはっきりと、ジュダは抜け殻のように生きている。
 抜け殻と言えども仮にも伯爵家の者として領地を治めねばならないジュダはエヴェルシードにいて、必要とあれば王の治世にも手を貸すが、それでも基本は何もしない主義だ。ジュダがカミラに呼ばれるのは、こうして後ろ暗い仕事を任されるのが主である。
 同じように潜在的にはシェリダン派だが当面カミラの治世に協力する様子を見せているのは宰相バイロン=ワラキアスとバートリ公爵エルジェーベトだが、彼女たちはジュダよりもはっきりとシェリダンの味方となりうることがわかっているのでこうして弱味を握られるようなことに手を借りるわけにはいかない。必然的に手を汚すような仕事の後始末はいつもジュダに任せることになる。
 幸いにもたまたまジュダが王城にいたから良いとは言え、襲われかけたばかりのカミラに短い距離とはいえ外を歩かせるわけにはいかない。返り血もつけずに二人の男を瞬殺したルースがしずしずと今度はかよわい女の振りで平然とジュダを呼びに行くまでの間、カミラはずっとこの部屋で死体と三人きりだった。
「今日、寝る場所はここで大丈夫ですか? カミラ様」
 見透かしたように聞いてくるジュダの鋭さに舌打ちしながらも、カミラはこれ以上の弱味を見せまいと答える。
「ええ。結構よ。別に寝台で何かあったわけでもなし、血で辺り一面汚れているわけでもなし。見た目は普通でしょ」
「ほう。そうですか。失礼いたしました、普通女性はこういったことがあった場合、現場を嫌がるかと思いまして」
「ええ。そうね。不愉快ではあるわ。でも私はこんなことで、女王が意味もなく寝室を避けることや、もしくは部屋を移ることによって夜中に悪い遊びをしているのではないかと疑われて変な風に王としての評判を落とすことの方が嫌なのよ」
「そうですか」
 くすり、とわざとらしくジュダが笑う。
「あなたはご立派な女王様だ。カミラ女王」
「ではお前も臣下として立派に働いてちょうだい、イスカリオット伯。この死体を誰にも見つからないように処分するのよ」
「かしこまりました。我が主君よ」
 夜もそろそろ更けて丁度いい頃合になっただろうと、どこかから持ってきた絨毯でジュダは二人の男の死体をくるむと、ルースと共に部屋を出て行った。
 一人残されたカミラは、壁際に背中をもたれて座り込む。
「……早く」
 彼女以外無人の部屋で、誰にともなく囁いた。


「さて、こんなもんですかね」
 夜間に火を使うなどすれば目立つ。穴を掘るのも王城の側では駄目だ。夜警の兵士にすぐに見つかってしまう。
 かといってこんな下衆共の死体をまさかいい肥料になるからと言って農民たちの肥溜めにご一緒させてもらってくるわけにもいかないし、誰にも見つからず確実に処分するためにはジュダが自分の領地であるイスカリオット地方に戻って処分するのが一番である。
 吸血鬼の脚力ならばすぐ戻れるからと彼を説き伏せて一緒についてきたルースは死体処理の監視役のつもりなのか、それとも別にジュダに用事があるのか。出来れば燃やしてしまった方が更に判別がつきがたくなって良いのだがやはり夜間に火は控えた方がいいだろうと、イスカリオット城内の死体置き場に持ち込んだ。
 ジュダが遊びで使い殺した奴隷などを処分させるための部屋だが、時にはこう言った用途にも使われる。男たちの身元を確認して、ここで処理にしても使用人たちの口から身元が割れるようなことがないよう確認した上で、明日になったら火にくべればいいだろうと判断する。
「それで、あなたは何の用でついてきたのですか? ルース殿下」
「イスカリオット伯のこの手の道の手腕をこの眼で確認したくて」
「嘘おっしゃい。そんな理由であなたがここまで来るものですか。あのドラクル王陛下の妹君である、あなたが」
 死体置き場を出て、しかしそこから離れるでもなく扉すぐ横の壁にもたれかかりながらジュダはルースに話しかけた。死体置き場の側で話すのは、無言のメッセージだ。ここでなら死体はすぐに片付けられる。自分のものも、相手のものも。
 もっとも、城主の死体やヴァンピルの死体が転がっていたとなればただ事ではすまないのでやはりメッセージ以上の意味はないのであるが。
「あなたも思えば複雑な身の上だ。ドラクル王とは異母兄妹、ロゼウス王子とは異父姉弟、あの二人のどちらとも血が繋がっているということは、もしかしたら一番恐ろしいのはあなたなのかもしれませんね」
「まぁ。そんな、買い被りですわ。イスカリオット伯。私はただのか弱い女です」
「我ら人間の基準ではか弱い女性は男の首を一息でへし折ったりしないものなのですよ……で、結局何が目的なのです?」
 のらりくらりとかわそうとするルースを何とか捕まえて、ジュダは重ねてそう尋ねる。口元に浮かべていた笑みを消して、静かに告げた。
「……もうすぐ、帰ってくるんです」
「誰が?」
「あなたの愛しい方が、この国に」
 思わせぶりな言葉にジュダは瞳を見開いた。
「まさか……」
「ええ、そのまさかですわ。イスカリオット伯」
 ルースはにっこりと、天使のように悪魔の顔で微笑む。ジュダはその笑みにますます予感を強め、すぐに現実となるだろうその言葉を待った。全身が期待と歓喜に打ち震える。
「シェリダン王がこの国に帰ってきますのよ」
 それは混迷に堕ちた今のエヴェルシードにおいて、嵐をもたらす報だ。


207

 船は進路を見失い、花は春を待つのを止めた。堤防は決壊寸前となり、亀裂の入った壁はもうあと一撃で完全に破壊されるだろう。
 内部から膨れ上がり彼らを押し込める壁を壊そうとする水の力によって。
 エヴェルシードの状況はそんなものだった。
 庶民はまだいい。彼らは王城の現状など知らない。ただ夜毎下町の酒場で安い酒を仲間と飲み交わしながら、国中に流れるピリピリとした不穏な空気を感じ取るのみである。
 貴族もまだいい。自らの血統に無意味な矜持を持つ彼らはやはりいざと言うところで始皇帝シェスラート=エヴェルシードの血を絶やすことに抵抗があるのか、現在の王のやり方に不満を持ちながらも表立って反乱を起こすことはなかった。彼らの記憶には更に、イスカリオット伯爵ジュダ卿がシェリダン王から離反し王城に攻め入ったことも新しい。その彼と、この時点では中立派をうたう王国最強の女戦士、バートリ公爵エルジェーベトを敵に回しては勝ち目などあるはずがない。
 しかし、その彼らの間にいる兵士たちはもうすでに限界だった。
「聞いたか? クロノス卿の投獄の話」
「ああ。なんでもご子息のクルス卿のことで、女王様に直談判に行ったって話だろ?」
「反逆の剣聖、クルス=ユージーン侯爵はシェリダン王に惚れこんでるって一部じゃもっぱらの噂だったからな。だがよ、父親が息子を捜しに行きたいってそんなに悪いことか?」
「そんな単純な問題じゃねぇんだよ。今クロノス卿が国を空けたら貴族共の力の均衡が崩れるだろうが」
「それだけじゃねぇぜ。そもそもシェリダン王に心酔してたクルス卿を捜しに行くって事は、シェリダン王を捜しに行くってのと同義だろう? つまり、クロノス卿は真正面から女王に喧嘩を売ったんだよ。お前なんか認めない。シェリダン王の方がマシだってさ」
「いや、あの熊みてーなおっさんはそこまで絶対考えてねぇだろ」
「俺もそう思う」
「まぁな。でも女王の方でそういう意味に受け取る可能性はあるんじゃねぇか? だとしたら、あのヒステリックな女王様が怒り狂ってクロノス卿を牢にぶち込んでもおかしくねぇぜ」
「そんなことでか?」
「やれやれ。これだから女王なんか嫌だってんだ。エヴェルシードには女王なんか必要ねぇんだよ」
 クロノスのことが引き金となり、兵士たちのカミラに対する不満は更に高まっていく。
 もともとエヴェルシードでは歓迎されない女王である。しかも、カミラに力を貸す振りをしてその実無力な女王よと侮って傀儡に仕立て上げれば上手い蜜が啜れると思っている貴族階級とは違い、戦を起こすとき真っ先に送られる兵士たちは完全に実力主義だ。戦争に打ち勝つ力がない者を、彼らは王とは認めない。
 カミラはセルヴォルファスとの戦いに勝利したが、その後の利益が思ったように得られなかったことが兵士たちの不満の発端となっている。結果を出さなければ意味がないのだ。しかし一度の戦いでそれなりの出費をした後で、すぐにまた他国に攻め込むなどという無謀なことは出来ない。そんなことをすれば今度こそ有能な王が玉座について安定しているというローゼンティアから逆に攻め込まれるだろう。彼らはかの国の恨みを、充分にかっているのだ。
 しかし、今現在のこの国が纏まらない状況では、戦いに出向かず国内に留まっていても同じことのように思える。不自然に浮かれた熟した果実のような腐敗一歩手前の空気を漂わせるこの国は、すでに滅びる寸前の様子だ。
 このままではまずい。
 誰もがそう感じていた。不安に苛立ち、怒りに不満、形こそ違えど誰もが変革の必要性を感じていた。
 そのためには、今の国王は邪魔だ。
 兄を追い落として玉座についたカミラ=ウェスト=エヴェルシードはしかし国王に相応しくない。彼女の破滅の葬列にこちらまで付き合ってやる必要はないのだ。
 始皇帝の血統が絶えることがなんだというのだろう。それよりも、今現在この国で暮らす者たちの命と生活の方が重要だ。
 しかしカミラがその玉座にいる限り、エヴェルシードは何一つ変われずに腐っていくばかりだろう。
 そう、彼女は王として不適格だ。だから。
「カミラ女王はその座を明け渡せ!」
 数ヶ月をかけて高まり続けた兵士たちの不満がついに爆発する。
「この国にあんたみたいな女王なんざいらねぇんだよ!!」
 シェリダンが名君だったとは思われないが、それでもカミラよりはマシだと人々は語る。実際はローゼンティアとの争いやイスカリオット伯の暴走など、シェリダンが引き金であってカミラにその責がない問題も多いのだがそんなことは民には伝わらない。
 王城で反乱が起こる。
 城に集った兵士たちが怒りの矛先を全てはそのせいだと不甲斐なき女王へ向ける。
 手に手に槍を剣をその他の武器を持った男たちは王城の中庭、城門前と言った場所に集い、揃って声を張り上げる。
「カミラ女王の退位を要求する!」

 ◆◆◆◆◆

 欲しいものはいつも手に入らなかった。
「この日が来たのね」
 カミラは自室の窓から、そっと外を眺めて呟く。中庭や城門前に押し寄せた兵士たちが怒号を張り上げる。鉄色の甲冑が光を反射して目に眩しい。文官と残った少数の兵士では荒れ狂う男たちの行動を阻止できず、騒ぎは更に大きくなっていく。
 この数ヶ月、エヴェルシードに溜まり続けた澱のようなよどみを受けとめ続けた最下級の者たち、兵士たちはついにその怒りを爆発させた。
 幾百幾千も集った人の心という強大な力のうねりが、現在のこの国の君主であるカミラへと押し寄せる。彼女の責任であるものもないものも、王である、ただそれだけの理由で贖いを彼女に求められる。
 もともとエヴェルシードは、酷く危うい均衡の上で成り立つ国家だった。
 何と言っても、子種が少ない。王位を継ぐ者が極端に少ないエヴェルシード王家は、伝統の割りに常に断絶の危機にあった。
 王家のせいだけではない。国のシステムにも問題がある。他国に侵略して富を土地を奪う国は無法者、野蛮人と呼ばれて時に酷く忌み嫌われる。そして侵略戦争は得るものも大きいが、その分リスクも大きい。今回のように、はるばると遠征をして得た利益が少ないとその不満は一身に国王の責として向けられる。
 エヴェルシードは武の国、戦いの国。
 安定して和平を貫いた時期も長いのだがそれでも今日までこの日がそう呼ばれてきたのは、初代国王にして始皇帝である男、シェスラート=エヴェルシードの性情によるところが大きい。
 始皇帝はエヴェルシード人、もとはザリューク人と呼ばれていた民族の一人だった。ザリューク王家の最後の生き残りは自らの国を滅ぼした敵である当時の暴虐の大国ゼルアータを、かの国に苦渋を舐めさせられた国々の者を率いた解放軍により滅ぼしただけでは飽き足らず、その上にこの地上の全ての国を征服して《世界》と言う名の一大国家を作り上げた。
 それが世界帝国アケロンティス。
 つまりこの国は、シェスラート=エヴェルシードの者なのだ。帝国とは周辺諸国を併合して支配に治める国のことをさす。帝国の中に納まる一つの国として、エヴェルシードは自らのその名をとり、一つの国を作り上げた。
 常に冷たく無表情でありながら、まるで戦いを好むかのように全世界に戦を仕掛け見事勝ち抜き世界の征服を果した戦神、シェスラート=エヴェルシードのその性情を受け継ぐ国を。人間の中で最も強き猛き一族の住まう国として、武の国エヴェルシードを作り上げた。
 初代国王とは名ばかりで、皇帝として世界中を治めていた彼はほとんどエヴェルシードに足を向けることはなかった。実質の統治は腹心のソード=リヒベルクに任せ、しかしシェスラート=エヴェルシードの名は今でも強く語り継がれている。
 暴虐の大国を打倒する復讐を果たし、新しい世界の形を作り上げ、選定紋章印という形で神の承認さえ得た男。
 その存在感は死してなお強烈だ。一説によると不老の魔人とも呼ばれたシェスラート=エヴェルシードは人間の身とは思えぬ三百年と言う長い間、世界帝国を統治し続けたという。本当かどうかなどもちろん後世の人間に判断する術はそう多くはないが、それでも語り継がれているということこそが重要なのだ。
 自分はその末裔だ。カミラは強くそれを思う。シェスラート=エヴェルシード=ザリュークの子孫であるカミラ=ウェスト=エヴェルシードだ。
 だがここで血統は途絶えるかもしれない。カミラの代で、始皇帝の名誉に泥を塗ることになるのかも知れない。
「カミラ女王の退位を要求する!」
 窓の外から聞こえてくる。彼女を破滅へと追いやろうとする怒号が聞こえてくる。
 いつ滅びるとも知れない危うい均衡の上に成り立つ国ではあったが、その終焉の役目を受け持つのがまさか自分であったとは。
 シェリダンを玉座から追い落としてから、まだ数ヶ月しか経っていない。シェリダン自身も即位後四ヶ月で退位と言う、半年にも満たない期間しか玉座にいなかったが、ここで終わればカミラも似たようなものだ。
 どちらにしろ滅びる道しか待ち受けていなかったのだろうか。自分たちには。あるいはこれの立場が逆で、カミラの後始末をシェリダンがつける形だったらどうなったのだろう。あの兄ならカミラがどんな問題を抱えて残しても、上手く処理できたのだろうか。
「カミラ女王はその座を明け渡せ!」
「この国にあんたみたいな女王なんざいらねぇんだよ!!」
 窓の外では兵士たちが、カミラの退位を求めて怒鳴る。しかし勝手なことを言ってくれるものだ。果たして彼らの中には今カミラが退位したところで、新たに国を導く者の目当てがあるのだろうか。そうでなければこの国は滅びるだけだ。指導者を失くして上手くやっていけるほど、気性の荒いエヴェルシードは良い国ではない。
 それでも愛していた。
 どんな形でも、この国が好きだった。
 どうしてもこの国の王になりたかった。そのために異母兄まで罠にかけた。
 外で叫ぶ彼らの中には深く考えず、カミラがただ女王だから退位を要求する者もいるのだろう。
 エヴェルシードは武力を重視する国柄、男尊女卑思考が強い。この国では女王は歓迎されない。差別思考が強く、平民であればまだしも王族の女性は特に肩身が狭い。王女たちは他国や国内の有力な貴族に嫁いで婚姻関係を結ぶくらいしか価値がないのだ。
 カミラは女として生まれてきただけで、両親に疎まれた。
 正確には少し違うか。父は初めからカミラになど興味がなかった。そして父である国王の愛情を得たかった母は、王女ではなく王子が欲しかったのだ。
 他の国では、男女に関係なく正妃の血筋が尊ばれることもあるのだという。また、それほどまでとは言わずとも、庶民出の妾の王子と正妃の王女であれば、身分の関係から王女の継承権が高いことが多い。
 それを、下町上がりの妾妃の子どもが男であり正妃の子どもが女である場合は、問答無用で男子が第一の王位継承権を持つほどに男尊女卑思考が強いのはエヴェルシードくらいのものだ。
 私が男であれば、迷うまでもなく王になれたのに。
 本当はこんな考え方をしてはいけないことはわかっている。それはエヴェルシードの男尊女卑思考を認めることだ。その考え方自体が歪んでいるのだと身を持って知っているのに、自分が不利益を被るのが不当であることに気づきながら世界のあり方に流されようとするのはただの臆病者の腰抜けの考えだ。
 でも、それでも、思ってしまう。自分が男だったならば。
自身ではどうしようもできない生れによって、得られるはずの幸福を紙一重で失う悲しみ。自分だけではない。カミラにだってわかっている。エヴェルシードにはまだまだ同じような事に苦しんでいる人々がいて、この差別は不当だ。それを改革する労苦を負いたくないばかりに自分が男として生まれていればなどと考えるのはただの逃げだ。
 それでも男として生まれたかった。
 永遠にシェリダンの背中を悔しく思いながら見つめ続けるのではなく、せめて対等の立場で競い合い負けるのであれば、まだ納得ができたのに。
 だが窓の外では絶えず怒号は響き渡る。
「女王を殺せ!」
 数ヶ月前に、王を殺せと叫んだのは自分だった。シェリダンを殺せ、と。しかし今、カミラは同じように民から弾劾されている。
 それでも彼女は、女王だ。このエヴェルシードの王だ。疎まれても厭われても、自分で望んでこの地位についたのだ。
 だからこの人々の怒りまでも受けとめる。それが最後の責任だ。
 だが――。
 眼下で、群集が騒ぎ出した。何事か起こったらしい。けれど、何が? 女王たる自分はまだここにいる。
怪訝に思ったカミラは窓枠に取り縋り眼下の光景に目を向けて耳を澄ます。人並みが漣のように割れていくのを見た。そして誰かが叫ぶ。
「シェリダン王だ!」
 何ですって?
遠くから一つの人影がこちらへと向かって来る。その人影を通すように、人々が列を割った。
「シェリダン王が帰ってきたぞ!!」
 カミラは驚きの声を上げる。愕然と目を見開いた。
 帰ってきた。
 このエヴェルシードに、嵐をもたらす王が。

 ◆◆◆◆◆

 牢獄の中は薄暗く冷たい。灰色の石壁が静かに佇んでいる。苔むした牢獄の中は湿っていて、間違っても居心地が良いとは言えない空間である。
 今まで何度もここに罪人を謀反者を規則の違反者をぶち込んできたのだが、自分がここにぶち込まれる立場になろうとは。
 戦に負けた代償として首を斬られる覚悟はあったのだが、牢獄にぶち込まれる覚悟はそういえばしていなかったなぁ、と状況のわりにのほほんとクロノス、クロノス=ユージーンは考える。
 国から出奔した息子を捜しに行きたいと女王陛下に申し出たところ、すげなく却下されてこの牢屋にぶち込まれた。状況を一言で説明すればそう言ったことになる。
 クロノスは自分の立場からすれば息子を大事にするのは当然だと思っていたが、その逆であるカミラの立場と言うものを確かに深く考えてはいなかった。カミラによって玉座を追われたシェリダン王を信望していたクルスがいきなり国を出奔したとなれば、そこには高確率でシェリダンが関わっている。二人が一緒にいる可能性も高い。
 であれば、クロノスがクルスを捜しに行くと言うのはシェリダンを捜しに行くことと同義だ。しかし男尊女卑思考の強いこのエヴェルシードに歓迎されない女王であるカミラの治世下にシェリダンが戻れば、彼女は玉座を追われる。それがエヴェルシードだからだ。
 玉座を追われた王の末路は、誰よりも雄弁にカミラ自身が証明しているではないか。彼女はシェリダンの命を狙った。彼が国に戻れば、今度は彼女が命を狙われる。簒奪という事を起こす前ならばまだしも、もう彼女は行動に移してしまったのだ。それが見逃されるわけはない。
 クロノスの行動は軽率だった。誰がそれを否定できよう。
「まったく……」
「本当に馬鹿だな」
「!」
 突如牢獄の中に響いた自分以外の者の声に、クロノスは驚いて飛び上がる。武人として成り上がったからには気配を読むことには自身があったのだが、思考に没頭しすぎていたらしい。
 よりにもよって、ただの文官でしかない彼の接近にも気づけないとは。
「宰相閣下」
「クロノス=ユージーン。陛下の逆鱗に触れたそうだな」
 王城地下の牢獄へとやって来たのは、宰相バイロン=セーケイ=ワラキアスだった。クロノスよりも幾つか年上の宰相閣下は、平民宰相と成り上がり元侯爵ということで個人的にも他の貴族よりは親しい。
 だが、こんな場所で会うのは勿論初めてだ。
「宰相、どうしてこんなところへ?」
「あなたがいる以外に、何かあるのか、クロノス卿」
「まあそりゃそうですが」
 クロノスがぼりぼりと頭をかきながら、じめじめとした牢屋の中を眺め回す。お世辞にも環境がいいとは言えないここはどう考えても一国の宰相閣下が話し合いをするのに相応しい場所とは思えない。
「宰相閣下、こんなところに来てはいけません。肺を悪くしますよ」
「ありがたい申し出だが、私はあなたに話があるのだ、クロノス卿。私の身体を気遣ってくれるのならば、あなたがそこから出てきてくれないかね?」
「そう言わないでくださいよ、宰相閣下。女王様直々にこの牢屋にぶち込まれたんですよ。出られるわけがありませんよ」
「出られるとしたら?」
 意味ありげに笑って、バイロンはそうクロノスに言った。
 しかしクロノスはあけっぴろげのない苦笑で返す。
「出られませんて。私にだって女王陛下を怒らせてしまったことぐらいわかります。あのご様子だとまだ数日はお怒りが解けないでしょう。私を出せなんて命令がくだされるとは思いませんが」
 あははと楽観的に笑うクロノスの目の前にバイロンはそれを突きつけた。
「そうだな。だが今女王陛下の命令はないが、ここにこの牢の鍵はあるんだ」
「宰相?」
 訝しげに彼を見返すクロノスに、バイロンはふっとやわらかく相好を崩して微笑みかける。
「逃げろ。クロノス=ユージーン」
「……何を仰っているんですか。宰相閣下。そんなことをしたら」
「女王陛下のもとにはこの後、私が直談判に行く。何、内密だが私はかつてあのシェリダン王にも喧嘩を売って啖呵を切った人間だ。女王陛下相手に怖気づくこともないさ」
「だがしかし!」
 そんなことをすれば罰されるのはクロノスではなく、勝手なことをしたバイロンである。
「クロノス。あなたのやったことは多分正しいのだと思う」
「え?」
「息子を捜しに行きたい。あなたの立場としてそれは当然だろう。だがカミラ陛下にも陛下の立場がある。国王が死ねば国中に影響が出る。代替わりもまた同様。だから彼女は常にそんな不用意な発言をするわけにはいかないのだ」
「はい。この牢獄の中で私もようやくそのことに思い当たりました。無神経でした。できれば女王陛下に謝罪したいのですが」
「だがカミラ女王の怒りは滅多なことでは解けないだろう。それに、あなたの言う事にも一理ある。カミラ女王の方が立場が上だから今回はこのような形になっただけで、クロノス卿、あなたの言う事が全て間違っているというわけではないのだ」
 バイロンは溜め息をつく。それこそ先程クロノスから肺を悪くすると指摘された、黴臭い牢獄の空気を深く吸う。
「今のエヴェルシードは澱んでいるのだ。流れをせき止められた川の水が濁り行くように」
 このじめじめとした暗い空気こそ、今まさにエヴェルシードに充満するものだと。
「このままではいけない。誰かが、何か動き出すことが必要なのだ」
「宰相閣下、あなたは……」
「私では役者には向いていないが、それでもまあ何とか、やってみようと思う」
 クロノスはバイロンの瞳を見る。宰相の橙色の眼差しには静かな決意と覚悟が宿っていた。彼はすでに心を決めているのだ。
 この国と、彼の仕えた王たちのために死ぬ覚悟を。
「カミラ女王陛下は悪い王ではない」
「知っています」
「ああ。私たちは知っている。だが国内にはそう思っていない人間も多い。彼女は正しき補佐がつけば、必ずエヴェルシードを導いていける人間だ。だが周囲はそれを認めず、このエヴェルシードに巣食う永の思想が追い討ちをかける。女王は治世には向かないと」
 世界一の強国家が抱える闇。それを、誰かが払拭しなければならない。バイロンにはそれを果す理由がある。
「悔いているのですか? 宰相閣下。あなたの存在が引き金となって、ジョナス国王が第二王妃を見初めたことを」
「……」
 平民宰相と呼ばれるバイロンの提案によって城下を視察した際に、シェリダンとカミラの父であるジョナス王はシェリダンの母、ヴァージニアを見初めた。
 シェリダンが生まれて来なければ良かったなどとは言わないが、二人の兄妹の運命を狂わせた歯車のひとつは間違いなくバイロンだ。彼があの時城下の視察に自らの地元を提案せず、ヴァージニアが見初められることがなければシェリダンは生まれてこなかった。望んで生まれてきたわけではないシェリダンの苦しみも、彼がいる限り玉座にはつけなかったカミラの労苦も全てバイロンが生み出したようなものだ。
 その責任を、彼はこれから取るという。
「いけません。宰相閣下。あなたはまだこの国に必要なお人だ。あなたが死ねばそれこそこの国は立ち行かなくなってしまう」
「それでもやらねばならないのだ」
 二人がそう話し合っているところ、どこかから地響きにも似た唸りが聞こえてきた。
「な、なんだ?」
「始まったか」
 バイロンが苦渋の表情を浮かべて空気とりの小窓を覗く。そこからは何も見えないが、音だけは牢の中心部より鮮明だ。
「兵士たちによる反乱だ。女王の退位を求めている。クロノス卿、できればあなたにはあちらを止めてほしい。女王陛下の方には、私が」
「その必要はありませんよ」
 バイロンがそうクロノスを促しかけたところで、それまでこの場にはいなかった第三者の声がかけられた。
 しかも今度クロノスがその気配に気づかなかったのは先程のように油断していたからではない。外の喧騒の正体を知ろうと神経を張り詰めさせていた彼の警戒網をその人物が抜けたのは、それだけ彼の方が優れていたからだ。
「父上、宰相閣下。今、あなた方に出てこられては困ります」
「君は……」
「クルス!」
 牢の中と外で、二人の男はその青年の姿を眼にして叫ぶ。
 クロノスが女王に申し出をしてまで捜しに行こうとしていた一人息子、クルス=ユージーン侯爵がそこにいた。


208

 城門での暴動において、彼が姿を現したのに気がつくと、誰もが驚いて凍りつく。
「お、おい! あれ!」
「ん? どうしたんだよ、ここから俺たちの主張によって女王を引きずり出すまでが重要……って」
「シェリダン王だ!」
 誰かが叫ぶ。その叫びをまた誰かが聞きつける。驚きが伝染し、やがて集団はその後方から動きを止めていく。
 目を大きく瞠って絶句し凍りついた男たちの視界に映るのは、埃まみれで汗臭い鎧を来た彼らとは何もかもが酷く対照的な少年だ。
 エヴェルシードの国王、自らが軍人として戦う戦意と決意を表明する深紅の軍服にも似た国王の衣装を身に纏い、完璧な容姿に更に磨きをかけて歩いて来るのは、彼ら兵士がよく見知った少年だ。
 彼らがよく知り、そしてこの数ヶ月は姿を見るどころか生死すら知れなかった相手である。
 蒼い髪に橙色のエヴェルシード人の中でも特徴的な、夜空を切り取ったような藍色の髪に、琥珀の中で燃える炎のような朱金の瞳。すらりとした肢体は少年らしさを残して細身だが、見ていて居心地の悪いような軟弱さは感じさせない美と強さの完璧な均衡を保つ。
 そして何よりもその顔が、白い瞼に通った鼻梁、特に赤いというわけでもないのに、紅を塗らずともはっとするほどに鮮やかな唇と、生気を感じさせる薔薇色の頬が、炎の瞳を庇い伏せる藍色の睫毛が。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 彼らの王だ。
「陛下……」
 誰かがぽつりと呟いて、また囁きはさざめくように兵士たちの間を伝染する。
 まるでシェリダンが唐突にその場に何の前触れもなくぱっと現われたかのような驚きようだが、実際にはもちろん違う。彼は普通に城門から中に入って歩いてきただけだ。門前の兵士たちの騒動を見て動くに動けずどうすることもできなかった見張り番の度肝を抜きながらも、勝手知ったる我が城ということで極々普通にシェリダンは歩いて戻って来た。
 城門の外にはリチャードやローラ、エチエンヌの双子人形と呼ばれる、彼の懐刀たちが揃っている。更にローゼンティア王家の一部、アンリとロザリーとジャスパー、そしてロゼウスが。
 彼らに対しては、シェリダンは「その時」が来るまで待っていろと伝えていた。ロゼウスに対しても、ただ大人しく待っていろ、と。
 シェリダンの望む行動に対し、何かできる手伝いはないかと言ったリチャードたち全員の協力を極力断って、シェリダンは単身エヴェルシード王城シアンスレイトに戻って来た。灰色の威容を誇る王城の門の中から入り込み、兵士たちが彼の姿に気づくのを待つ。
 シェリダンの姿を認めた兵士たちは、予測どおりにぎょっとして動きを止めた。カミラの退位を要求して今にも暴発しそうな爆弾のように荒れ狂っていた男たちが、彼の登場によって静まり始めたのだ。
 そしてしばらくすると、全員が動きを止める。もちろん完全に静止したわけではなく、すぐにも暴れそうに怒声を張り上げ槍を打ち鳴らしていたのをやめだ。ざわめきはまだ残っている。
だがそんな動揺激しい兵士たちも、シェリダンが一歩その足を踏み出すと再び動き始めた。
「シェリダン王」
「国王陛下」
「王様」
 シェリダンが一歩足を進めるごとに、人垣が、人波が割れていく。
 彼の歩みをと止めることは許さない。彼を阻む事は許されないというように。
 シェリダンが進むための道を人々は作る。それこそが王の威厳。追放扱いとはいえ、シェリダンの国王としての威厳はまだこの国に残っている。
 そして彼は今日、それを……。
「陛下がお戻りだ!」
「これでエヴェルシードは安泰だぞ!」
「馬鹿野郎! い、今更戻って来たってな」
「だがカミラ女王よりはマシじゃないか」
「拒絶のふりをしたってお前だって道を空けただろう」
「だが一度はカミラ女王にしてやられた王をまた認めるのか」
「どうなるんだ? どうするんだ?」
 兵士たちの動揺は広まる。
 シェリダンが国王であるという意識は確かに短い間とはいえローゼンティア侵略を初めとしてその指導力を発揮したシェリダン王の印象が強い兵士たちの間には根付いている。しかし、誰も彼もがそうして無条件に彼を受け入れるわけではない。
 父王を幽閉するところから始まり、ローゼンティアを侵略してその最後の王族を花嫁とし、更には妹と父親を殺して王位を確立しようとしたシェリダンに対する態度を国民は決めかねている。カミラを認めないという意味で団結して城門前から中庭に通ずる通路に集った兵士たちの間でさえ、意見はわかれている。
 シェリダンを認める者、認めない者。かつての王としての彼の手腕を信じている者、逆にそれ故にシェリダンを信じきれない者、カミラの治世には納得できないがもはやシェリダンにも何の期待もしていない者、むしろシェリダンが今更に国に戻ってきても困るという者……シェリダンに与えられる評価は決して好意的なものだけではない。カミラと同じく彼も若すぎるし、どうせ二人は兄妹で、お互いを蹴落としあう同じ穴の狢だ。どちらが優れているも何もないだろう、と。それでも若干シェリダンに期待する者がいるのは、女王であるカミラは認められないというエヴェルシードの男尊女卑思考が強い証拠である。
 特に天才というわけでも、史実に残るほど優秀と言うわけでもない。あくまでも人間らしい範囲として優秀で、欲深くて、最高で、最低。シェリダン=エヴェルシードはあくまでもそういったただの人間だ。ロゼウスやデメテルやハデスのように皇帝だの皇帝候補だの選定者だのと言ったレベルで話をしている者たちから見ればちょっと剣が使えるだけの、ほとんど何の取り柄もない普通の少年と言ってもいい。
 けれど、それでも彼は王だ。
 シェリダン=エヴェルシードはその短い記述を帝国の歴史に刻む王である。
彼が目指した未来、それは。
「シェリダン!」
 その場のざわめきを打つように高い声が響きわたった。
 城内の自室から騒ぐ兵士たちの様子を見下ろしていたカミラが、シェリダンの登場に慌てて降りてきたのだ。ちょうど城門前から中庭へと通じる通路の途中、城内に入る正扉の真下で二人は向かい合う。
 国王としての紅い衣装を身に纏い、腰に剣を佩いたシェリダンの様子はこれから何を行うにしても準備万端と言う風情だ。軍服に似せたその衣装は機能上何をするにしても動きやすい。
 一方カミラの方はとるものもとりあえず駆けつけて来たという体で、普段のドレス姿だ。

 かつての王と今の王。兄と妹は、敵として対峙する。

 ◆◆◆◆◆

「久しぶりだな、カミラ」
「シェリダン!」
「いや、もうカミラ女王と呼ぶべきか?」
 朱金の双眸に嘲るような色を上澄みのように滲ませ、シェリダン=エヴェルシードは口を開く。藍色の髪、炎の瞳、国王としての深紅の正装がよく似合う。
 とるものもとりあえず駆けつけたカミラは、いつも通りのドレス姿だ。美しいが、ただそれだけ。不審な表情で、突然帰ってきた兄を見つめる。彼女たち兄妹の中では言葉にすればそんな簡単なことだが、国にとってはそうではない。王の帰還。
 それは嵐をもたらすもの。
 船を転覆させ、全てを海の藻屑に帰してしまう黒雲の到来を告げる。
 いまだエヴェルシードにおいてシェリダンの影響は大きく、更にはシェスラート=エヴェルシードから続く始皇帝の血統を途絶えさせようという動きもあるくらいだ。そんな静かな混乱の真っ只中に前王であった彼が戻って来た真意とは。
 決まっている。一つしかない。
「だが私はお前を王と呼ぶわけにはいかない」
 少なくともこの場にいる者たちはみなそう思い、シェリダン自身もそれを思わせる言葉を吐いた。
「……なんですって?」
 黄金の瞳に剣呑な光を宿し、カミラは兄を、否、兄であったはずの男を睨む。こんな男、もう自分の兄でもなんでもない。最初からそんな大層なものではなかったのだ。シェリダンはただの、人間としてのクズだ。
 その彼は告げる。
「率直に言おう。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。お前が我が手から奪った、私の玉座を返してもらおう」
「寝言は寝て言いなさい」
 シェリダンの言をぴしゃりと跳ね除け、カミラは堂々とそう言い放った。衣装こそシェリダンのように着飾っていないが、彼女とて伊達にこの数ヶ月女王を名乗っていたわけではない。
 その思ってもいなかった迫力に、兵士の一部はおや? と首を傾げる。
 これまで単純に男性と女性と言う事で男尊女卑思考の強いエヴェルシードではシェリダンの方がカミラよりも優れていると判断されていたが、本当にそうなのだろうか。頭半分背の高い兄と少し距離を置いて睨み合う彼女の眼差しは強く、決して兄であるシェリダンに気合負けしていない。
 シェリダンはその容色の美しさもあってか、さすがは王族の気品と言うべきか、何とも言いがたい迫力がある。兵士たちは彼が姿を現すごとにいつもその迫力に押されていたものだが、今ここにいるカミラからは、シェリダンと同じものを感じはしないか。
 玉座を追われた王と、今まさに追われようとしている女王。
 二人の立場は、皮肉にも今この瞬間、ようやく対等となったのかもしれない。性別も身分も生まれ持った宿命も越えて、ようやくその存在全てが同条件、平等の立場に。
「玉座を追われた王が、今更何の用?」
「先程言ったとおりだ。私の玉座を返せ」
「そんな戯言をほざくためにこの場に来たのなら、その無様な姿を晒す前にすぐに帰りなさい。今のエヴェルシードにお前の居場所などない!」
 普段から不甲斐ない臣下と歯向かう者に対し向けている舌鋒を異母とはいえ実の兄にも鋭く向けて、カミラはそう告げる。
「そうだな。今のエヴェルシードに私の居場所はない」
 彼女の言葉に周囲が思うよりもあっさりと頷いて、しかし、とシェリダンは瞳を細め妖美を湛えて笑いながら挑戦的にその言葉を口にする。
「あなたが今座っている玉座を明け渡していただければ、私の席くらいできるだろう?」
それはカミラを殺してその座を奪い取るという、あまりにも堂々とした簒奪宣言。
「そう……お前はその気なのね」 
 カミラも黄金の瞳をすっと細める。
「ああ。いい加減に決着をつけよう、カミラ。このまま何度も命を狙ったり狙われたりするのはうんざりだ。私はもう全てをお仕舞いにしたい。お前を殺して、この全てを!」
 腰に佩いた剣を引き抜き、シェリダンはその切っ先を離れた場所に立つカミラへと向けて言う。
「私と決闘しろ! カミラ=ウェスト=エヴェルシード! 私が勝てば、その王の称号は私のものだ。このエヴェルシードに、弱き王などいらない!!」
びりびりと周囲の空気まで震わせるような威勢の良い台詞をシェリダンは腹の底から吐き出す。カミラは怖じけた様子もなく、濃紫の髪をなびかせてその宣言を受け止める。
 シェリダンの突然の宣言に対し、カミラの反応に周囲の注目が集まる。折しも今この場に集まっているのは兵士たちだ。エヴェルシードの兵士にとって、強さは世界の全てだった。
 そう、この武の国エヴェルシードに、弱き王などいらない。 
 シェリダンの言葉に、固唾を呑んで行き先を見守りながら兵士たちは内心で頷く。エヴェルシードに弱い王などいらない。たとえ勝負に負けるところを見せることにならなくとも、この場でシェリダンからの決闘の申し込みを拒否するような軟弱な王は、女王だろうとそうでなかろうといらないのだ。
 シェリダンの決闘申し込みに対するカミラの返答に一同の注目が集まる。視線が針のように少女の細い身体に突き刺さり、無言の圧力をかけている。
 カミラがただの気の弱い普通の少女ならば、ここで大勢の男たちに好奇と敵意の視線を受けて、こんなにも堂々としていられるはずがない。
 だがカミラは、集った兵士たちの数の気迫に負けることなどなかった。まがりなりにも一国を治めようという人間が、この程度の人数の兵士たちに怯むようではエヴェルシードだけでなく、どんな国の王も務まらないだろう。
 カミラは女王だ。
 誰が認めずとも、今この国の王はカミラなのだ。
 城門前と中庭に通じる通路に集まった何百人もの男たちの前で、彼女はシェリダンの決闘申し込みへの答を返す。
「いいだろう!」
 少女らしい高い声は、そのか弱い外見に反して力強くシアンスレイト城内に轟く。
「その申し出受け取った! シェリダン=ヴラド=エヴェルシード!! 私が勝てば、貴様は金輪際このエヴェルシードに足を踏み入れることまかりならぬ!!」
 シェリダンがカミラに玉座を要求したならば、カミラはシェリダンに今度こそ正式な国外追放を要求する。
 お互いの名誉と進退を賭けた戦いは了承された。
「シェリダン、私は御前試合の時、王位を奪うために試合を申し込んだ。それと同じ事よ。私が勝ったら玉座は私のもの」
「そして私が勝てば、このシェリダン=エヴェルシードのものとなる。我らは腐ってもあの始皇帝エヴェルシードの末裔だ。腑抜けのようにあっさりと他人に玉座を奪われるなど我慢ならぬ」
「そのくらいならば、私はこの手で私の玉座を掴みとるわ。シェリダン、あなたを殺しても」
「そうだ。それでこそ、武の国エヴェルシードの王として必要とされる気概」
 敵として対峙するこの場には不自然なほど穏やかに、シェリダンは笑った。
「!」 
 カミラは密やかな異変を感じるが、シェリダンはその仄かな笑みをすぐに消してしまい、後には余韻も残さない。すぐにこの先の戦いへと向けて話題を移す。
「さぁ、カミラ。戦いを申し込まれた方の流儀として、お前は好きな得物を選ぶ事ができる。武器は何にする?」
「剣で」
「そうか」
 カミラの言葉を聞いて、丸腰の彼女のために兵士の一人が女王の剣を取りに行く。二人は同じ武器を選んだ。剣はエヴェルシードの嗜みだ。
「着替える時間をやろう。その格好のままでは、いくらなんでも戦いづらいだろうからな」
「結構よ」
 シェリダンは動きやすい格好だがカミラは裾を引きずるようなドレス。それで戦うわけにはいくらなんでもいかないだろうと着替えを促したシェリダンに対し、妹は必要ないと首を振る。
 カミラのための剣をとりに行っていた兵士の一人が戻って来た。彼女はそれを受け取り、いきなり抜く。
「女王陛下、何を」
 まだ決闘の合図どころか、その状態にもなっていないので、剣を悪戯に振り回せば必ず誰かに当たって死傷者が出るような状態。慌てて二人の王が戦う場所を作ろうと先を争ってシェリダンとカミラを囲む環を広げようとする兵士たちに見向きもせず、カミラはその刃を己の膝元に当てた。
 ドレスの長い裾を掴む、と、刃でばっさりと切り落とす。裾がぎざぎざと不格好になるが、気にも留めない。
「私はこれで充分だわ」
 白い膝とふくらはぎを惜しげもなく晒し、世間からすればみっともないとしか言いようのない格好になったとも思わず堂々と彼女は宣言する。
「さぁ、始めましょう」
 シェリダンが、白い羽のような軽さで薄く微笑んだ。

 ◆◆◆◆◆

「父上、宰相閣下。今、あなた方に出てこられては困ります」
 涼やかなその声と共に、彼はその場所に現われた。
「クルス!」
「クルス卿!」
 灰色の石はところどころ黒ずみ、じめじめとして黴が生えている王城の地下牢。埃っぽいその室内にそぐわないほど可憐な容姿の青年が現われる。エヴェルシード人の蒼い髪に橙色の瞳はもはや言うまでもなく、その顔立ちは牢に入れられたクロノスにも、彼を助けに来たバイロンにも見慣れたものだ。
「クルス、お前……」
「お久しぶりです、父上。勝手に飛び出して行って、申し訳ありません」
「ああ……そうだな。だがそれよりも教えてくれ。一体何があったのか」
「その前に、まずはそこから出てもらってもよろしいでしょうか? 外の役人にはすでにとりなしてありますので。――我が主、シェリダン様の名において」
 聞き捨てならない一言をクルスは発するが、それについての追求も後回しだと、クルスは鍵を使って牢獄の扉を開け父・クロノスをそこから出す。宰相バイロンは後に疑われないように、と自らの持ちだしてきた鍵もクルスに奪われ、三人は地上へと上がった。
 地上と言ってももともと地下牢の入り口は王宮の内部にある。城の廊下に出た三人は、更に人気のない場所まで向かった。
 今は城門前から中庭へ向けての通路で起きている兵士たちの暴動とそれを鎮めた何かにより、人の気配はそちらへと多く集まっている。中庭入り口での光景を一目見ようと兵士以外の者たちもそちらに集中しているため、城の上階の方が警備も手薄だった。
 クルスたちは、主のいない玉座が待つ謁見の間へと向かった。思ったとおりにその場所には誰もいない。空の玉座は中庭での戦い次第でどちらの王が自分に座るのかを静かに待ち続けている。
 エヴェルシードの血塗られた玉座だ。
 クルスは窓へと歩み寄ると、硝子にそっと顔を近づけて中庭の光景を覗いた。戦いはまだ始まったばかりという様子だ。
 濃紫の長い髪の少女と、藍色の髪の少年が剣を打ち合わせている。少女の衣装は裾が無理矢理きりとられぎざぎざになったドレスだ。
 周囲の兵士たちは固唾を飲んで見守るばかりで、誰も二人の戦いを止めようとする者はいない。城門の方から誰かがやってくる気配もないということは、リチャードたちの方でも上手く彼らを足止めしているのだろう。
 そして今度は自分の役目だと、クルスは振り返る。
 彼と一緒になって背後から中庭の光景を見下ろしていた父クロノス卿と、バイロン宰相閣下を見上げる。
「父上」
 中庭で、特徴的な藍色の髪からどうもカミラと戦っているのはシェリダンらしいと見て取り驚愕していた二人が、クルスの言葉にはっと我に帰りそちらへと注目する。
 バイロンは大人しいものだが、クロノスはもう我慢ができないようだった。
「クルス!」
 大音量で怒鳴られ、一瞬長い間の不在に関する叱責かと身を竦めたクルスをかまわずにクロノスは大きな腕で抱きしめた。
「心配したのだぞ!」
 クルスは呆気に取られ、バイロンも呆然としている。クルスは確かにもともと小柄な青年だが、体格の良いクロノスの腕の中にいるとまさしく子どものようだ。父親の厚い胸板に顔を押し付けるようにして抱きしめられて息苦しい思いをしながらもクルスは、今までどれほどこの人に心配をかけていたのかと悟る。
「申し訳……ありません、父上」
 きっとユージーン侯爵領の屋敷では、母も一人息子の行方と消息に関して心配しているだろう。旅の間頭の中では何度もよぎったその思いを、クルスはずっと封じ込めてきた。主君であるシェリダンが大変なこの時に、自分の両親のことなど気にしている場合ではない、と。
 だが侯爵を継いだばかりのクルスが国から追放された王を追って出奔したという話は王城にも侯爵領にも国中に届いているだろうから、そのことによって両親がどんな不利益を被るのだろうかと言うことはクルスにとって常に心配な事だった。
 どうやらクロノスのこの、クルスが旅立つ前と面相こそ多少やつれてはいるがそれ以外の態度やなんやかやについてはほとんど変わっていない様子を見ると、父も母も健在であるらしい。
 よかった、と思いながら、彼らのことを平然と放って出奔してしまった自分をすまなくも思う。
 それでもシェリダンを見捨てるなどということができないのもクルスの性格であった。しかしよく考えずとも、とっくに父も母も亡くして妹が敵に回った今では天涯孤独、自分よりも基本的な能力値は上だというパートナーたるロゼウスとどこにでも彼についていくリチャードたち侍従を従えるシェリダンと、特定の民に特に目をかけた覚えはないが国には自分のせいでカミラの怒りの矛先を向けられそうな両親を残してきているクルスでは違う。
「父上……本当に、ご心配をおかけしてすみませんでした」
「ああ。全くだ。この馬鹿息子。どうして一言相談してくれなかった。私たちに何も言わずに国を出るなどと……!」
 すでにユージーン侯爵はクルスからは剥奪された称号だ。侯爵領の管理はクロノスがしていたが、爵位に関しては継ぐ者もおらず宙ぶらりんの形になっている。だがクルスが帰ってきた。
 眼下ではシェリダンとカミラが戦っている。
 まさかあの状態でシェリダンがカミラに勝って何もないということはないだろうから、またエヴェルシードは荒れるだろう。それが、バイロンとクロノスの予測である。
「ユージーン侯爵……クロノス卿、とにかく一度彼と話をさせてくれ。クルス卿、一体何があった? こんな風に現れて、シェリダン様は一体何をなさるつもりだ?」
 宰相にそう問われて、それまで父の腕の中に抱きしめられていた青年は再び表情を険しくした。ちらりと窓の外の中庭での決闘の光景を一瞥してから、バイロンとクロノス二人へと向き直り話始める。
「そのことで僕は、ここに来たんです。父上、宰相閣下、たとえあそこで何があってもあなた方は動かないようにと」
「何?」
「シェリダン様のお考えです。そのために僕は、あなた方に説明と足止めをする役目をあの方から仰せ仕りました」
 バイロンが怪訝な顔をする。クロノスの方も、よく意味がわからないという様子だ。無理もない、とクルスは思う。その計画を聞かされたとき、彼でさえ一瞬唖然としてシェリダンの正気を疑ったくらいだ。
 あの陛下はいつもいつも、こちらの予想を裏切ってくれる。けれどクルスは、そんなシェリダンの臣下なのだ。だから。
「お二人に聞いて欲しいことがあるんです」
 少しでもシェリダンの手助けをしたい。それが彼にとっても、自分にとっても荊の道だとしても。


209

 止めなければ、あの馬鹿げた騒ぎを。二人は城門と市街を別つ正扉の前で話を聞くとすぐに、その思いで馬を降りて駆け出した。得物は腰に佩いている。不足はない。だから。
 止めないと。
 だがその疾走は始まってすぐに、現われた人影によって制止された。
「止まってください」
「ここから先へは行かせません」
「それがシェリダン様の望みです」
 馬に乗ってくれば良かったと、同時にジュダとエルジェーベトは思った。城門の中には多くの人が集っていて、迂闊に騎乗したまま飛び込めば踏みつけてしまう者も出るかもしれない。そう考えてわざわざ自分の足でそう長くもない距離を駆けてきたわけなのだが、馬で飛び越えてしまえばこんな苦労はなかった気がする。
 王城へと登城しようとしたイスカリオット伯爵ジュダとバートリ公爵エルジェーベトの眼前では、城門から中庭に通ずる通路で騒ぎが起こっていた。門衛に聞くと、どうやらそれには本来この国にいないはずだった人が深く関わっているらしい。そう聞かされれば到底黙ってはいられない二人は、すぐに現場へと駆けつけようとした。
 それを阻む者たちがいる。
「ローラ、エチエンヌ、リチャード」
彼らに関する付き合いは、エルジェーベトよりもジュダの方が圧倒的に深い。名を呼んだ伯爵に対し、リチャードが何とも言えない顔をする。ローラとエチエンヌは警戒を崩さない。
 その場にいたのは彼らだけではなく、ローゼンティア王家の人間も一緒だった。アンリ、ロザリー、ジャスパー、そしてロゼウス。
「王妃様、これはどういうことですか?」
 王妃とは言っても、エヴェルシードを出ていた間、彼はもちろん普通の男衣装を身につけていて、とくに女装はしていない。むしろその衣装も、この朝、彼らの面倒を見たエルジェーベトが用意したものだ。特に装飾が施されているわけでもない普通の村人が使うような薄手の外套を着た、明らかに少年とわかるロゼウスに対するには不適切な呼称だが、それでも彼女はそう呼んだ。
 外面上は普段通りに王城に向かいカミラに仕えねばならないエルジェーベトと独自の行動をとるシェリダンたちで分かれたのだが、こんなことなら目を離さなければ良かったと彼女は今頃後悔する。
 普段はそうと気づかれず鉄壁のポーカーフェイスを誇るロゼウスだが、今日は不安な様がはっきりと目に見える顔をしていた。その彼の様子に良くない感じをじわじわと覚えながらも、エルジェーベトはロゼウスに話しかけた。
「こんなことをさせるために、私はあなた方に一夜の宿を提供したわけではありませんよ」
「バートリ公爵?」
 エルジェーベトの言葉には、彼らよりも先にジュダが反応した。これで彼には、エルジェーベトが一行を匿っていたことが知られてしまった。けれどそれも今となってはたいしたことではないという。
 この一件が終われば、彼らはエヴェルシードを出て行く。他の誰でもない、シェリダンがそう決めたのだから。
 こうして言葉を交わすのも、もしかしたら最後になるのかもしれない。
「公爵、これはシェリダンの意志だ」
「何ですって? いいえ、それが例え陛下のご意志だとしても私は止めさせていただきます」
「バートリ公爵」
「あなた方はご自分が何をしているのかお分かりですか? こんなことをして、たとえシェリダン様が上手く場を纏めたとしてもまともに玉座に着けるとでも? 王位を取り戻すつもりなら、長く待てとは言いませんからせめてもう少し準備を整えてから」
「違う」
 エルジェーベトの台詞の続きを、ロゼウスは否定の言葉で遮り、断絶した。
「違う。バートリ公爵。シェリダンはもう、王位につく気はないんだ」
「……何ですって?」
 先程と同じ、けれど段違いの重みを持った問いかけの言葉に対し、ロゼウスははっきりと告げる。
「シェリダンはこのエヴェルシードの、王になる気はない」
「王妃様!」
「そんな馬鹿な」
 エルジェーベトも、他の面々と睨み合いながらその話を聞いていたジュダもあまりの衝撃に目を瞠った。
 エルジェーベトとジュダは、これまでなんとかカミラを宥めてバイロンと協力し、他の重臣たちと意見を擦り合せながら国政を進める役目を担っていた。それもこれも全ては、カミラのためというより本来シェリダンのためだ。シェリダンがいつ玉座に戻ってもいいようにエヴェルシードという国を守っていた。
 エルジェーベトとジュダだけではない、宰相バイロンや王城の警備隊長モリス、将軍セワードなど、王としてのシェリダンの帰還を待ち望む者は多い。
 シェリダンは特に名君、天才的な頭脳と武力を持つ最高の国主、というわけではない。だが彼はどこか人の心を惹きつける。そういった魅力に惹きつけられた者たちにとっては、彼とカミラを比べるなど初めから考えてもいなかったことだ。エヴェルシードの玉座に着くのは彼しかいないと信じ、彼の帰りを待ち続けていた。それはもはや、カミラに対する裏切りですらない。
 しかしそうまでして彼らが信じた相手は、この国を再び導く気はないと言う。
シェリダンは。
「陛下は、エヴェルシードを、私たちを見捨てるおつもりなんですか?」
 囁くような掠れ声で、エルジェーベトはそう漏らす。ヴァンピルの鋭敏な聴覚でその言葉をしっかりと聞き取ったロゼウスは、ゆっくりと首を横に振る。
「違う」
「ではどうして」
 間髪いれずに今度はジュダが口を挟んで来た。エルジェーベトも同じことを問いたげにしている。
 今頃は別の場所で、クルスが彼自身の父や宰相であるバイロンに、同じ話をしているだろう。リチャードやローラ、エチエンヌも彼らと初めは同じ気持ちだった。ロゼウスにとってもシェリダンのそれは意外な決断だった。だからこの先二人がどういう反応をするのかもわかる。
それでも告げた。
「シェリダン自身が、エヴェルシードに捨てられに行ったんだ」

 ◆◆◆◆◆

 キン、と澄んだ硬質な音を立てて、弾かれた剣は地面を転がる。
 城門から中庭へと抜ける通路の敷石にぶつかったために、そんな音が出たのだろう。中庭の入り口の少し広まった部分で決闘していたシェリダンとカミラの戦いは、これで決着が着いた。
 だが、息を詰めて見守っていた周囲の感嘆するような、感心するような、あるいは落胆するような反応とは裏腹に、その結果に納得しない者もいる。
 カミラは先程シェリダンの剣を弾き飛ばした自らの得物をその場に乱暴に放り出して、兄へと詰め寄った。
「これでお前の勝ちだな」
 悔しがるどころか、表面上は無愛想に、だが彼と親しい者にはかろうじてわかる程度の、どこか穏やかな表情でそう言ったシェリダンの頬をカミラは平手で叩いた。
 乾いた音こそしたものの叩かれたシェリダンにたいした痛みはなく、またその頬も赤くなってはいない。むしろ勝者と敗者が逆転したかのように、動揺が激しいのは決闘に勝利したカミラの方だ。
「どういうつもりよ!」
「どういうつもりも何も、言葉の通りだ。見たままだ。お前は私に勝った。私はお前に負けた。約束どおり、私はこの国を出て行く」
「……ふざけんじゃないわよ! 私があんたに勝てるわけないじゃない!」
 女王自らがそうはっきりと口にしていい言葉でもないが、カミラはシェリダンに詰め寄ると思わずそう口走っていた。
 そしてそれは、この場に集う多くの兵士たちの心の内の代弁でもある。そう、誰もカミラが勝つとは思っていなかった。だが先程の戦いは、別にシェリダンがあからさまに手抜きをしたようにも見えなかった。
 つまりはそれが、二人の実力だと言うのか? 残る疑問をご丁寧にも、女王であるカミラが自ら解消しようとしてくれている。
「どうして、お前が私に勝てるわけがないんだ?」
 周囲に聞かれないよう今度は巧妙に声を潜め、シェリダンは僅かに唇を動かしてそう言った。
「どうしてって、それは……」
「私とお前はこれまで、こうして真剣に向き合って戦った機会などないぞ? 御前試合の時は不意打ちだったしな。それでもあの時、お前はあのバートリにすら圧勝した」
「でもそれは、吸血鬼の力で」
「ロゼウスから分け与えられたにしろ何にしろ、それを扱うのはお前自身の力だ。もともとの剣の才能がそこそこなければ実力を発揮できまい。この国の気質から言って表立ってお前に剣を与えて戦わせる者もいなかったが、それはお前が剣で私に劣る証明になどならない。……いや、むしろこれで、お前が私より優れているということがとうとう明かされてしまったな」
「シェリダン!」
 これからのことが分かっているはずなのに滔滔と語るシェリダンの様子に、何か不吉な、忌まわしい予感を覚えてその語りを止めさせようとカミラは声を張り上げる。戦っていた先程より、今の方が肺が痛むような大声をあげている。
「この勝利は、まぎれもなくお前の力だ」
 シェリダンにカミラを殺す気はなかったが、それでも試合に手を抜いたわけではない。
 そんな小細工をしなくても、人知れず努力するカミラはすでに兄を超えていた。もしかしたら、別の場所で命懸けで戦えば勝敗は変わったかもしれないし、同条件で本気で立ち会えば彼女より強い者など幾らでもいるだろうが、それでもこの場で彼女がシェリダンに勝ったというのは事実。
 下手な細工をする手間もこれで省けた、とシェリダンは微かに息をつく。そして声を張り上げた。
「聞いた通りだ! この決闘は我が異母妹、カミラ=ウェスト=エヴェルシードの勝利となる! かねての誓言通り、私はこの国を出て行こう」
 シェリダンの言葉に、周囲を囲む兵士たちに動揺が走った。シェリダンに期待をする者もカミラを半ば認めていた者にとっても、この幕切れは意外だったのだ。
 更にシェリダンは続ける。
「ふん! たかが女王程度、この私の力ならば簡単に排斥できると思ったのだがな!」
 強気な発言はあるいはいつも通りかもしれないが、今の彼の言葉にはあからさまな棘がある。
「まぁいい。くれてやるさこんな国。お前はせいぜい私の後釜に座って、愚民どもを甘い餌で手なずければいい」
 ざわ、と周囲がこれまでとは違う緊張に包まれる。
 彼らの中に芽生えたのは違和感だ。この台詞ではまるで、彼らがこれまで信じてきたシェリダン=エヴェルシードという人間は兵士や民たちを愚民と蔑み都合よく扱ってきたようではないか。
「なぁ、シェリダン王は何を言っているんだ……」
「あれが、俺たちがこれまで信じてきた王様なのか……?」
 民の動揺と芽生え始めた疑心を確認しながら、シェリダンはなおも言葉を重ねる。
「このような国、私はもういらぬ。せっかく我が即位後すぐにローゼンティアを侵略したというのに、その後あっさりとかの国をドラクルに奪還されてしまった不甲斐ない兵など」
「なんだと!」
「あのローゼンティアの復活が、俺たちが情けないからだっていうのか!」
 今度ははっきりと示された侮蔑の言葉に、兵たちが怒りを滾らせる。
 ローゼンティアに関しての問題は、事が事だけに複雑だ。殺したはずの王族は蘇り、滅ぼしたはずの国は復活した。奪った財宝こそエヴェルシードにあるが、領地はドラクルの即位と共に奪い返された。後にカミラがドラクルと取引して争いは治めたが、それがなければ今頃エヴェルシードは、まだローゼンティアとの戦争の只中にあっただろう。それも、ドラクル王はブラムス王より手強いと言うのに。
 王族を殺しつくせというのは、シェリダンの命令だ。実際にアンリたちが蘇って御前試合の時のようにエヴェルシードに乗り込んできた以上、確かに彼らを見逃したのは大いなる失態である。出された命令が殺しつくせというものであった以上、そうしなかった兵士たちは命令に従わなかったということになる。
 だがそれを主張するには、まずシェリダンがヴァンピルとは灰になるまで負荷を与えなければ蘇る種族だと兵士たちに教える必要があったのだ。それをしない以上、非は不完全な命令を出したシェリダン側にある。だいたい、敵が強すぎて取り押さえられなかった、などという不可抗力で命令に従えなかった者たちは、本来責められるべきではない。王と言う責任者こそ、責任をとるためにいるのだから。
 勿論シェリダン自身もそう考えている。だから彼は即位中、自らが玉座にある間は一言もそんなこと言わなかったし、思ってもいなかったことだ。
 それを、ここではあえて、まるで兵士たちが悪かったのだと責任転嫁するようなことを言う。人として最低な発言を。
 彼は彼らに嫌われるためにここへ来た。
 シェリダンとカミラのうち、どちらも名君と呼ばれるほどの器ではないが、カミラよりもシェリダンがマシと思われて玉座に望まれている。だがシェリダンはこの国に戻る気はない。
 民衆がシェリダンの評価をカミラより高くしてあるために彼女を王として認めたくないと言うのなら、そのただの男尊女卑思考の差別感に基づいて不当に下した評価を改めさせるまでだ。
 実際、シェリダンとカミラにたいした力量の差はない。シェリダン自身、重要な案件は優秀な家臣であるバイロン任せで過ごしてきたのだ、その政治に対する姿勢はカミラとどこが違うというのか。王とは自身が有能である必要はなく、有能な人材を正しく登用することこそ王の仕事なのだ。それならばカミラも充分にその条件を満たしている。
 性格に関しては、カミラは確かに以前、権力欲にのみ囚われて幼いわがままを繰り返す子どもだった。シェリダンとて大差ない。
 それでもこの数ヶ月で、二人は変わったのだ。
 シェリダンは自分が何故変わったのかわかっている。そしてカミラも同じだとわかっている。
 だからこそ、この国を彼女に託す。
「カミラ=ウェスト=エヴェルシード。お前がこの国の王だ」

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンのはっきりとした宣言に、一瞬その場は静まり返った。
 いまだ不可解な面は残るとはいえ、確かにカミラは決闘においてシェリダンに勝ったのだ。それにシェリダンは、かつては王として務めたこの国をもういらないなどという。
「シェリダン!」
「カミラ、後はお前が何とかしろ。私はもうこの国の王などではない。女王はお前だ。お前がこれからこの国の全ての責任を持つのだからな」
 責任のあるところに権利もある。彼女に責任があるということは逆に、彼女に権利があるということ。
 王であるという確かな権利。
「当たり前だ! ここは例えどんなことがあったとしても、私の国なのだから!」
 売り言葉に買い言葉で、カミラもシェリダンの言葉に返した。そろそろ彼女にもシェリダンの思惑が理解できはじめている。だからこそ、なおのことそれを口にするわけにはいかなかった。
 シェリダンを憎みながら、この国で誰よりも熱心に彼を見つめていたのはカミラだ。物心つく頃から目の前に立ちふさがっていた壁である異母兄。そのカミラだからこそ、先程の彼の言葉が本心などでないことはすぐわかる。そして彼がこの場でこの状況でそういった発言をする理由も理解せざるを得ない。
 女王らしく胸を張り、堂々と立つカミラの姿を目にしてシェリダンがふいに微笑んだ。
 やわらかなそれをすぐに皮肉なものに変えて、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは口を開く。
「たいした愛情だな! こんな世界の中ではちっぽけな、どうでもいいような国に対して」
 とんだ大根役者ね。カミラは思う。だがその演技に、周囲は見事に騙されている。
 世界とはなんて簡単で複雑なものだろう。これを作り出した神はとんだ悪趣味だ。こんな滑稽な悲喜劇。
「ではな、愚民ども。お前たちはせいぜい戦うしか脳がないこの国で足掻き続けるがいい」
 またも明らかな捨て台詞を残して、シェリダンは踵を返す。
 呆気に取られてカミラとシェリダンのやりとりを見ていた兵士たちは、その言葉に我に帰った。
 そして落ち着いて彼の言葉を理解すると共に、頭に血が上り始めた。
 流石にまだ彼が王であったという感覚は抜けないものの、沸きあがる怒りをそのままにしてもおけない。
 発散するためによくある簡単な、それでも非道で効果的な方法をとる。ここは屋外だからそれをするのも簡単だ。
 別にのろのろとしているわけではないが、堂々とした姿勢でゆっくりと、城の正門までの距離を自らの足で稼ぐシェリダンへと、辺りから石が投げられる。
 一つではない石は、そのうちのほとんどは動く対象物に向けて投げられたものである以上しかたなく、はずれた。だが中の一つが、シェリダンに見事に当たる。
 こめかみに当たったそれが皮膚を薄く破り、紅い血が一筋流れる。
 血を見たらもう止まらなくなるのが人間だ。民衆の怒りが一斉に弾けた。
「ふざけんな! この愚王が!」
「俺たちを都合のいい捨て駒扱いにしやがって!」
「俺たちの眼が間違ってた! あんたをカミラ女王より優れた王だなんて思うなんてな!」
「お前なんか最低だ!」
「実の父親を幽閉した人でなしのくせに!」
「ローゼンティアを中途半端にしか滅ぼせなかったのはお前のせいだろ! それを俺たちに責任押し付けやがって!」
 宙を飛び交う石の数はやがて増え、石の雨がシェリダンに降り注ぐ。避ける方が難しくなり、小石から大きいものは大人の手のひらの半分もあるものまで、勢いが強いものも弱いものもかなりの数が彼に向けて投げられる。
 避ける方が難しいが、シェリダンにはこれを避けるつもりは毛頭ない。確かに小石が目に入ったりしたら困るが、それ以外は甘んじて受ける。
 ミカエラが処刑される予定だった広場でのことも思い出す。あの時は不可抗力で王子殺しの犯人にされた。水が高いところから低いところに流れるように、民衆は良くも悪くも易きに流れる。良くも悪くもあるそれをわかっていて、今度は自ら真実を捻じ曲げてでもそれを利用したのだから、その結果は自身で受けなければ。
「信じていたのに!」
「俺たちはあんたが庶民出でも、気にしないって! 王子様のくせに俺たち兵士の訓練場に平然と顔を出すあんたみたいな奴が民の気持ちをわかってくれる王に相応しいって、信じてたのに!」
 いくらシェリダンよりもカミラを認めさせるためだとはいえ、かつての王の酷い裏切りに泣く、この声を。
 石がまた身体に当たる。皮膚が切れて、血を流す。エルジェーベトに調達してもらった厚手の服はその程度では破れないから、大粒の一撃にやられても痛みこそ感じるもののそれほど酷い様子には見えない。けれどむき出しの手や顔は、尖った石がぶつかるたびに切れて血を流した。
 人々の罵声を浴びながら、悪意と慟哭に満ちた石の雨を浴び、それでもみっともなく取り乱したり許しを請うたりすることはなく、あくまでも不遜に堂々とシェリダンは歩いて行く。
 城門の外までの距離まではまだ結構な長さがある。だが誰も彼を捕まえようとは動き出せない。その代わりに石を投げた。
 また新たな一撃が瞼を切り、シェリダンの顔が苦痛に僅かに歪む。それでも足を止めないし、怒る様子も見せない。
 あまりの様子に、背後からその歩みを見ていたカミラの方がそれを止めたくなる。
 しかし彼女より先に、彼のそんな様子に耐えられない者がいた。
「シェリダン!」
 悲鳴のような声で名を呼んで、飛び出してきたのは白い人影だ。着ている服は黒を基調とした暗く地味な色合いなのに、何故か印象は鮮烈な白。その人影が、まるで魔法のように鮮やかにシェリダンの姿をその場から攫う。
「ロゼウス様!」
 ただ一人カミラだけが、その人影がかつてシェリダンの王妃と呼ばれた者であることに気づいた。


210

 どうして、どうして届かないの?
 ――お兄様!
 小さい子どもにとって、一歳の違いというのは大きい。その一年があるかないかで、日常から吸収できるものが全然違うのだ。
 その頃の彼女にとって、兄はとても大きな、強い、優れたものに見えた。彼女の人生に兄がいない月日は考えられなかった、良くも悪くも彼はずっと彼女の生活の一部だったのだ。
 庶出の第二王妃の息子と、正妃の娘。立場としてさほど大きな違いがあるわけでもない。どちらも立場は常に不安定だ。だが年齢の壁はそんな難しいことよりももっと直接、彼女の中に実感として降り積もる。
 ――待って、待ってよ!
 在りし日の光景を思い出す。まだ自分たちを取り巻く環境の難しさなど気にも留めず、無邪気に愚かに幸せだった頃。
 ――ねぇ、待ってってば! お兄様!
 彼女よりも少しだけ歩幅の広い彼は、さっさと歩いて行ってしまう。彼女の呼びかける声が聞こえていないのか、立ち止まる様子もない。いくら追いかけても手を伸ばしても、届かない後姿。
 一際声を張り上げた。
 ――おいていかないで!

 ◆◆◆◆◆

「痛ぅ……」
「それだけ怪我してれば、痛くて当たり前だ! じっとしてろ! 治療するから!」
「うるさい……子犬のようにきゃんきゃん喚くな……どうして出てきた、ロゼウス」
「どうして、じゃないだろ! この馬鹿! 無茶しやがって!」
 先程、中庭から城門まで向かう途中、道の両側に並んだ兵士たちから石の襲撃を受けたシェリダンを建物の壁伝いに移動するという人間にはできない荒業で回収してきたロゼウスが、涙目になって怒鳴りつける。
 予定ではあの後正扉から出てきたシェリダンを連れてそのまま街中を馬で駆けて王都から退却するはずだったのだが、ロゼウスが飛び出してきたことにより、その計画は崩れ去った。アンリたちには悪いが、このまま城の裏手まで迂回してもらおう。
 シェリダンを抱えて人目につかない場所に降り立ったロゼウスは、その怪我の様子を詳しく目にして紅い瞳に薄っすらと涙を浮かべる。
「お前が泣くことではない」
「だって……悔しくて、ムカついて……悲しくて……」
 こぼれそうな雫が頬を伝う前にロゼウスは袖でそれを拭い去り、代わりにキッ、とシェリダンを睨みつける。
 口を開く前から苦笑を見せるシェリダンに対し、また怒鳴る。
「シェリダンの馬鹿!」
「はいはい。馬鹿で結構だ」
「あんたは大馬鹿者だ!」
「わかっている。それで、エルジェーベトたちの方はどうだ」
「二人に関しては説得したよ。後でアンリ兄様たちと一緒にこっちに来るかもしれないけど」
 ロゼウスはどこで落ち合うとも言っていなかったが、シェリダンは深い傷こそないとはいえ身体のあちこちから血を流している。これだけの量の血の匂いであれば、吸血鬼である兄妹たちは簡単に見つけ出せるだろう。
「そうか。……ところで、ロゼウス」
「何? 大人しくしてろよ。治療魔術は苦手だけど、このまま怪我を治して……」
「ちょうど流血しているところだし、このまま血を飲むか? お前に血をやるたびにわざわざ新しい傷を作るのもなんだし」
シェリダンとしては何気ない言葉だったのだが、それはロゼウスの逆鱗に触れたようだ。
「あんたって、本っっ当に大馬鹿者だな!」
「何だ、先程から人を馬鹿呼ばわりして。そんなに言うならやらん」
「いい。もらう。本当はそこまで言うならしっかり懇切丁寧にちゃんと新しい傷を作ってやりたいところだけど、あんまりにも無様で惨めなあんたの様子に勘弁して、今はこれで許してやる」
「誰が惨めだ。それに、私がお前にいつ何の許しを必要とするというんだ」
 憮然としたシェリダンの様子には構わず、ロゼウスは手近な樹の幹に体をもたせ掛けたシェリダンの上にのしかかる。
 瞼を閉じさせて、その顔や手にできた傷口に唇を寄せる。その辺りに落ちていた石を投げられた傷口なんて、間違っても清潔なものではない。だがロゼウスは、文句もなくシェリダンの傷から直接血を舐め取った。それは別に、ここに水がなくて洗えないからという理由ではなくて。
 一つ一つは小さな傷とはいえ、流血するほどの怪我だ。打撲もかなりあるがまずは止血が先だろうと、血を流している傷から処置をする。傷口を直接ざらついた舌で舐められる感触にシェリダンが僅かに呻く。
 そうしてロゼウスが全ての傷口を苦手な治療魔術によって塞ぐと、シェリダンはようやくほぅと小さく息をついた。
 しかしそうやって気を抜いた隙に、もう一度だけロゼウスの唇が降りてくる。今回は流血の難を逃れたはずの、その唇に。軽く重ね合わせられただけのそれからは血の味がした。
 肩に回した腕がそっと抱きしめてくる。シェリダンの肩口に顔を埋めながら、ロゼウスはくぐもった声で小さく言う。
「……まったく、人の気も知らないで、無茶なことして……」
 馬鹿だ、本当に正真正銘の馬鹿だ。ロゼウスは悪態を繰り返す。
 心配した、不安だった、そんな言葉の代わりに、何故そんな無茶をするのだとシェリダンを責める。事前に全て聞いて、こうなることも、シェリダンがどのような考えでそれを行ったのかも全てわかっていながら、それでも責めずにはおられない。
「……あんたは、馬鹿だ」
「ああ」
 静かに頷くのが憎たらしい。
「……だが、これで終わりだ。私のエヴェルシードに関する責任は」
「シェリダン」
「後の事は、カミラに任せよう」
 静かにそう言ったシェリダンの言葉に頷きかけたロゼウスは、ふと怪訝な表情で顔を上げた。
「どうした」
「いや、そのカミラが来るみたいなんだけど」
「何?」
 ヴァンピルの超聴力でそれを聞き取ったロゼウスが視線を向けた方向から、確かに馬が一頭駆けてくる。騎手は濃紫の髪を靡かせた少女だ。
「カミラ……」
「シェリダン!」
 ロゼウスの手によって傷を癒されたシェリダンは、ロゼウスがその上からどいたのに合わせて身を起こす。
 そしてやってきた妹と対峙する。
「この卑怯者! いきなり押しかけてきて何なのよあれは!」
 馬鹿の次は卑怯者と、妻に続いて妹にまで詰られたシェリダンはますます苦笑するしかない。
「だから何もかにもない。言葉の通りだと言っただろう? カミラ、これからはお前がエヴェルシードの王だ」
「何よ、お情けで私に玉座をくれようってわけ? 随分気前が良いことね。笑わせないでよ! 私を馬鹿にしてるの? それとも憐れんでいるの!? 施しの王位なんて、私はいらないわ!」
「違う。施しではない」
 真剣な表情をシェリダンは告げる。
「カミラ=エヴェルシード、お前こそ、この国の玉座に相応しいと思ったからそう告げたまでだ」
 カミラが一瞬、虚を衝かれたような表情になる。
「私はこの国を去る。去らざるを得なくなる。全てを押し付けられたお前にとっては迷惑なことかもしれないが、それでもお前に託したい。他の誰でもなく」
 何度も敵として渡り合った。
 小さなことから大きなことまで、くだらないことから重要な問題まで争いあった。
 早く死ね、いや、自分が殺してやると、はりきって命を狙い狙われした。
 なのに何故だろう。カミラは凍りついたように動けないでいるまま、その疑問を頭に思い浮かべる。今この瞬間聞こえる言葉が、どこか遺言めいて聞こえるのは。
 何故だろう、その遺言めいた言葉を、自分が寂しいと感じるのは。
 今まで、ずっと憎んでいたはずなのに。
「カミラ」
 名を呼んで、シェリダンは腕を広げる。のろのろと自分も数歩歩み寄ってきたカミラの身体を、母親が子どもにするようにやわらかく抱きしめる。
 いや、そんな表現は相応しくない。母親と子どもではなく、これは。
「例えお前自身がそれを認めたくなくても、お前は私の愛しい妹だ。だがお前はそのために全てを失うべきではない。お前はすでに、私に追いつくでも並ぶでもなく、私を追い越したのだから」
 兄と妹は抱擁する。
 カミラも自らの腕を惑いながらもそっと上げて、シェリダンの背中に回した。間違いなく抱きしめる。本当はいつもすぐ側にあったはずの温もりを。
「お兄様……」

 どうして、どうして届かないの?
 まだ自分たちの母親の確執も知らず、王家だけでなく国中を取り巻く差別のことも知らず、ただ無邪気に愚かで幸せだった頃。
 ――お兄様!
 ――待って、待ってよ!
 ――ねぇ、待ってってば! お兄様!
 彼女よりも少しだけ歩幅の広い彼は、さっさと歩いて行ってしまう。彼女の呼びかける声が聞こえていないのか、立ち止まる様子もない。いくら追いかけても手を伸ばしても、届かない後姿。
 一際声を張り上げた。
 ――おいていかないで!

 ああ、でもやはり、あなたは私を置いていってしまうのね。
 どんなにおいていかないでと叫んでも。

「愛しているよ、カミラ。私の妹」
 今までそれは彼女にとって、ただ忌々しいだけの言葉でしかなかったはず。けれど、だけど、本当は。
 他でもない、ロゼウスに助けられて吸血鬼の力を得る前、死の間際に思い浮かべたのはシェリダンの後姿だった。振り返らないその背中に追いつきたくて並びたくてこれまで息切れ破れそうな心臓にも構わず走ってきた。カミラの人生の中に彼のいない日はなかった。
 それを疎ましく思っていたはずなのに。
「シェリダン……私は……」
 在りし日の言葉を伝えようにも、もう遅すぎる。あまりにも長い時間が経ったのだ。
 どんなに願っても、人は過去に戻れはしない。だから良くも悪くも、未来を作って行くしかないのだ。
 この瞬間にさえ未来は始まっている。カミラはシェリダンからエヴェルシードを託された。彼の心にどんな思惑があるのかはまだはっきりしなくとも、それだけは確かだ。
「どうか、幸せに。エヴェルシードを頼んだぞ。お前は、きっと良い王になる」
 いざというと言葉は喉を塞ぎ、ただ嗚咽が漏れた。
 恐らくこれが最後になるだろう永遠の別れに、カミラはただ泣いていた。

 ◆◆◆◆◆

「結局、カミラはお前が好きだったんだな」
 王城へと向けて馬で駆けていくその後姿が遠ざかる。ロゼウスはしんみりとした口調でそう言った。
 波打つ濃紫の長い髪、黄金の瞳。美しい容姿に苛烈で奔放な気性。ロゼウスも彼女のことは好きだった。異性で初めて好きになった人間なのだから、初恋と呼んでも差し支えない。
 その恋がたった今本当に破れたのだ。いろいろ言いたいことはあるのだが、上手く言葉にならない。
「カミラはお前が好きだと言っていただろう」
「言葉ではね」
 本当に大事なことなど、人は何一つ口に出せないものなのかも知れない。
「これが、お前の決着なのか、シェリダン」
「ああ」
「……どうして、エヴェルシードの王に戻らないんだ?」
 ずっと聞きたかったことをロゼウスは聞いた。
 ロゼウスだけではない。デメテルの力によってエヴェルシードに送られ、エルジェーベトの居城でその決意を聞かされてから、誰もがずっとそれをシェリダンに聞きたかった。だが、彼は他の誰にも決意と覚悟の程は聞かせても、その理由は口にしなかった。
 アンリたちがやってくる姿はまだ見えない。当分ここに二人きりだろう。
 いい機会だからと、城の裏手からローゼンティア側へと抜ける小さな森の一角で、ロゼウスはついにそれを尋ねた。
 なんとなく、ロゼウスにはそのあたりはついているのだが。
「私はもうすぐ、死ぬそうだ。それも、お前に殺されて」
 案の定シェリダンの口から返って来たのは、ロゼウスの予想に違わぬ言葉だった。
 ――シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたはこの一年以内に、《薔薇の皇帝》ロゼウスの運命と関わったことによって、死ぬわ。
 ――ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!
 シェリダンは同じ事を、二人の人間から言われている。どちらも素晴らしい予言の能力を持つ人物だ。一人目はサライ、二人目はハデス。もっとも、前者についてはロゼウス本人は知らないので彼は後者のハデスの言葉のみで考えているのだろうが。
 一人目のサライの予言の時には、シェリダンもまだそう深刻には捉えておらず、その後のローゼンティア侵入の際のごたごたに巻き込まれて忘れていたくらいだ。予言の内容にしても実感を伴わず、漠然と、ドラクルにまだ狙われているロゼウスと関わり続けるのが危険なのは当たり前だろうと思っていたくらいだ。
 そんな気持ちが徐々に、不穏な未来を信じる確信へと変わっていったのはロゼウスが次の皇帝だと、現皇帝デメテルの口からはっきり聞いた時だった。
 シェリダン自身も並みの人生を送って来たつもりはないのだが、どうやらロゼウスは軽くその上をいくらしい。次期皇帝の託宣を受けた彼の運命に、すでにシェリダンは巻き込まれてしまっている。こちらもシェリダンの事情にロゼウスを巻き込んでいるのだからお互い様だが。
 そしてトドメが、あの冥府でのハデスの宣言だった。
 彼ははっきりと言った。ロゼウスがシェリダンを殺すのだと。
 ハデスは嘘つきだが、その嘘と長く付き合ってきたからこそシェリダンには彼の本気がわかる。あの時の彼は本気だった。そしてそれ以前にも、シェリダンはロゼウスに関わるなと、ハデスから忠告されている。
 だから多分彼らの言うとおり、シェリダンはロゼウスに殺される。
「殺さない」
「ロゼウス……」
「俺は、お前を殺さない。殺すわけがない」
 向かい合って立ち並び、ほとんど目線の変わらない相手は真っ直ぐにこちらを睨みつけながら宣言する。
「あんたが死んだら、俺だって生きていけるわけがない」
 シェスラートとの決戦の時、弟であるウィルは殺してもシェリダンを殺そうとするシェスラートの意識には抵抗して見せたロゼウスだ。
 彼にとって、シェリダンを殺す事がどれほど苦痛なのかわかる。
 シェリダンも同じだ。出会った初めの頃、吸血鬼の蘇り能力を隠していたロゼウスに激怒して彼を衝動的に刺し殺したことはある。だが今は、同じ事をできる自信がない。逆に言えば、心中したくても自分からは彼を刺し殺せる自信がないということだ。
「殺したくない……」
 ロゼウスは呻く。
 紅い唇から言葉が零れる。
 絶対に殺したくない、と。
 だがこの世界に、「絶対」など存在しない。いや、わからないと言うべきか。
「ロゼウス、だが私とお前は、永遠に共にいることはできない。種族が違うからな。それを承知でお前と共に行くなら、どうせ国の事は相応しい誰かに任さざるをえないだろう?」
 どんなに心構えをしていたって、何が起きるかわからないのが運命で現実で世界だ。ハデスはロゼウスがシェリダンを殺すとはっきり告げたが、それがどのような形でもたらされるのかはまったくわからないのだ。
 だから先に覚悟を決めた。
 どんなことがあっても、ロゼウスと共に生きるという覚悟を。そのために全てを捨てる覚悟を。そして今回エヴェルシードにけじめをつけにやってきた。
「それで、カミラに国を譲るために、あんなことを……?」
「それだけではない。カミラは王たるにふさわしい人物だ。なまじ自分が女であるから、もしも国王として存分に力を振るえる舞台が整えば、このエヴェルシードの永の病である男尊女卑思考も撤廃するように努力するだろう」
 シェリダンがカミラに期待しているのは、そう言った面もある。彼女が国を変えてくれれば、この先シェリダンの母であるヴァージニアのように、不幸な女性も少なくなるだろう。
 できれば自分がこの手でやりたかったのだが、これから半年もせずに死んでしまうのでは、こればかりは仕方がない。
「それに、現実的な問題もあるしな。実際今年に入って私の即位、その後のカミラの即位。国王の代替わりにどれほどの出費が出るか知っているか? その費用を無駄にしないためにはその王が何年在位すれば報われると思う?」
 国王が代わるとは、ただ言葉の上だけの問題ではないのだ。王が変われば国の方針や法令はもちろん、日常使われている品や書類の細かい形式など、全てが変わる。前の王のものを残すわけにはいかぬものも多いし、時期もまずい。奪われてすぐに反撃に出るならまだしもカミラが即位してから数ヶ月、すでに彼女の命令の下、シェリダンの治世の名残は全て片付けられているだろう。それを一から用意するのはまた手間がかかって仕方がない。ただでさえ今年に入ってローゼンティアとセルヴォルファスと、二度も戦争をしたのだ。そんなところで無駄な出費と手間と人心に負担をかけては今度こそ本当に国が滅びてしまう。
「わかってる……俺も一応帝王学は修めているから。……でも、それでも!」
 それでも。
 ロゼウスには簡単に納得できない問題があるのだ。
「……あんたの名前は、帝国史に残るぞ」
「光栄だな。たかだか在位四ヶ月程の王が」
「ああ、そうだ! あんたはたった四ヶ月しか国を治めなかった、暗君として名を刻まれる! あんたが追放されたことには変わりない、あんたは父親を殺して玉座につき、妹から反撃されて玉座を奪われた間抜けな王として歴史に残るんだ!」
 そう、シェリダンの名はエヴェルシードの歴史に残る。
 乱暴な手段で国を乗っ取った庶出の王でありその行動は傍若無人。しかもローゼンティアとの戦いは一度は勝ったものの後にドラクルに奪い返されたのだから無効、唯一の光明である兵士たちの信頼も、先程の石の雨降る最後の行進によって失った。
 エヴェルシードにおいて、文字通りシェリダンは全てを失ったのだ。
 彼の名前は王として刻まれても、その修飾語は酷いものとなるだろう。しかもそれは、カミラがこの先良い治世を行って功績を治めれば治めるほど悪化していく。国とはそういうものだ。カミラが名君となれば、彼女がシェリダンから玉座を簒奪した行為は暴虐の愚王から民を救ったとして正当化され、英雄視される。
 シェリダンの名は、本人にはどうにもできないところで汚され貶められていく。
「……あんたは、馬鹿だ」
「そうだな」
「全部、民のためを思ってそうしたんだろう……エヴェルシードがどうなったって、見捨てておけばこれ以上傷つかないでいられたものを、カミラやこの国の人間たちを救いたいがために、こんなことをしたんだろう……?」
「そんな美談じみた言い方をするな。私は私のしたいようにしただけだ」
「でも! 世界はそうは見ない! あんたが他人のためにどれだけ自分の身を削ったかなんて、誰一人記して残してはくれない!」
 罵詈雑言を投げかけられ、無数の石の雨を浴び、血まみれになって。
 心にもない悪態を吐きまでしてエヴェルシードを救いたかったシェリダンの心は誰にも知られることなく、彼に救われた人々は彼を安君として貶めていく。
 そんなことがあっていいのか。
「ロゼウス」
「馬鹿……シェリダンの馬鹿……」
「もういいんだ」
 これまでのエヴェルシードは、恐ろしい凪の海のようなものだった。
 そこに嵐を持ち込み、嵐に打ち勝って船体を立て直せば、もしかしたら船の中での船長や重役の位置を彼はつかめたのかもしれなかった。
 だがシェリダンはその道を選ばない。
 彼が示したのは、まだ若く航海に不慣れな今の船長のために、その凪の海でも手ずから櫂を漕いで、舟を自力で進ませる方法。彼の願いは船の中での役職や利権ではなく、ただそのエヴェルシードという舟が、無事に航海を続けることだと。
 その中に、自分の名などいらない。
 ただ、辿り着いてさえくれればいいと。
 自らが助けた人々に罵られ石を投げつけられるとはどんな気分なのだろうか。
 ロゼウスは知らない。例え刺され切り刻まれ死の淵から蘇る事はできても、ロゼウスはそんな痛みに耐えたことはない。そんなことはできない。
 全てを擲って誰かのために自分を捧げることなど。
 できるはずもない。正義を行ったのに、悪人とされて、それで構わないなんて。
 もちろんシェリダンだって善人ではない。父王をかつて虐待された恨みにより拷問して苦しめ、しかもとどめを罠にはめたカミラに刺させたこともある。彼女を強姦したこともそうだ。それをロゼウスに強要させたことも。ロゼウス自身だって他の兄妹だってローゼンティアの民だって随分この男に酷い目に合わされた。
 彼は人として最低のクズだ。わかっている。でも、それでも。
 誰かのことを心から思い、自らの評判を貶めても自らが愛する国のために行動する。虚栄心などではない、心からの行いが、決して報われる日が来ないなんて。
 そんなのは間違っている。
 思うのに、ロゼウスにはどうすることもできない。ここでそれは違うのだと叫んだらそれはシェリダン自身の望みも、カミラのこれからの治世も乱すことに繋がる。第一、エヴェルシードの民は信じないだろう。
 もはやシェリダンの名はこの先ずっと、貶められていくしかない。
「ロゼウス」
「……」
「なんでお前が泣くんだ?」
「お前が、あんまりにも馬鹿だからだ」
 馬鹿だ、馬鹿だ、本当に、正真正銘の馬鹿だ。これ以上ない愚か者だ。
 なのにロゼウスは、そんなシェリダンを嫌えない。
 むしろ、こういう彼だからこそ好きになったのだ。
「……別に私はそれほど凄いことをしたわけでも、立派なわけでも、聖人君子でもなんでもないぞ?」
「でも!」
 キッ、と紅くなった眦を吊り上げたロゼウスに対し、シェリダンは全てを失ったくせに、そんなこと微塵も感じさせない柔らかな表情で微笑んだ。
「……もしも私がそういう者に見えるのだとしたら、それはお前のおかげだ。ロゼウス」
「……何故……?」
 シェリダンはそう言うが、ロゼウスには本気でわけがわからない。きょとんとするロゼウスに対し、シェリダンは背負うものの何もない、年頃の少年らしい、ただ明るい笑顔を向ける。
「気づいていないなら、大概お前も馬鹿だな、ロゼウス」
「だ、だから、何がだよ!」
「教えてやらん。自分の頭で考えろ」
「シェリダン!」
 なんだかやたら楽しそうなシェリダンの様子に、ロゼウスはついていけずに戸惑う。イヤな感じではないが、理由のわからないものは不安だし、自分が追いつけないのは腹が立つ。先程までの涙とはまた別の意味で顔を真っ赤にして、シェリダンへと詰め寄る。
「シェリダン! さっきのはどういう意味なんだよ! 俺のおかげって何!?」
「言葉通りだ」
「それじゃ意味がわからない!」
「だから、自分で考えろと言っている」
「……意地が悪い!」
「お互い様だ」
 いつしか暗い空気は晴れていた。
 遠くから、アンリやリチャードたちの駆けつける馬の蹄が聞こえてくる。


211

 そこには、先程まで対面していた女王を除くほぼ全員が揃っていた。
 イスカリオット伯爵ジュダ、バートリ公爵エルジェーベト、クロノス=ユージーンに宰相バイロン、そしてクルス=ユージーン侯爵とリチャード、ローラ、エチエンヌ、ローゼンティア王族であるアンリ、ロザリー、ジャスパー。
 ロゼウスはまず単独行動を兄であるアンリから怒られた。その上でローゼンティアの面々は自分たちの話はこれで終わりだと一歩引いて、口を閉じた。
 王城の裏手、小さな森の中でシェリダンはこれまで部下であった人々と最後の会話を交わす。
そしてそこには、一つの決意が込められた。
「クルス」
「はい」
「お前は、エヴェルシードに残れ」
「え」
 シェリダンのはっきりとした命令口調に、クルスは驚き、次に出せる言葉を全て喉の奥に落っことしてしまったようだ。小さく唇を開いたまま、唖然として何も言えずにいる。
「お前はこのエヴェルシードに残り、ユージーン侯爵としてカミラに仕えてくれ」
「な、何故ですか!? 例え何があっても、僕の主はシェリダン様だけです!」
「だがお前は、エヴェルシード貴族だろう。ならば侯爵としてこの国に尽くす義務があるはずだ。違うか?」
「シェリダン様のお側にいられないのなら、侯爵の名など捨てます!」
 今更考えることもないと即座に言い返したクルスに対し、シェリダンは苦笑せざるを得ない。先程カミラとも言い合ったが、あれはまだ妹との会話。だがクルスはシェリダンより二つ年上の人間だ。年齢的には兄貴分のはずなのだが、どうも弟と話しているような感覚になる。
「そんなことを言うな。そこにいるクロノスが泣くぞ」
 クルスが侯爵、すなわちユージーンの名を捨てるということは、父であるクロノスと縁を切ると言うことだ。
 当の父親本人、クロノスもまた、息子の様子に苦笑するしかない。こうして顔を合わせてクルスからシェリダンのことを聞かされ説得されるまでは、激怒して最愛の息子を殴り飛ばしていたかもしれないが。
 クルスは誰よりも強くシェリダンに忠誠を誓っている。そう、彼のためならどんな不当な扱いも我慢し、非道な命令にも従い、命すら捧げる覚悟で。
 だけれど、この扱いはあんまりだと彼は思ったようだ。これまでただ一人、どんな時もシェリダンにつき従ってきた。ジュダの兵が王城を襲撃して後離れ離れになった時も、クルスはシェリダンの下へと我が身も顧みず駆けつけた。
 そのクルスを、シェリダンはここに来て捨てようとしている。
「何故ですか? シェリダン様。僕に至らぬところがあったら仰ってください。必ず直しますから」
「お前に至らぬところなど、ない。至らぬ主君は私の方だ」
「なぁ、シェリダン王、あんたもしかして……」
 口を出さないと宣言したはずなのに、アンリが神妙な表情で口を挟んできた。その躊躇いがちな言い様から、シェリダンとロゼウスは彼もハデスのあの予言を聞き、しっかりと覚えていたのだと知る。あの発言をどこまで真剣に受け取るかによって、シェリダンのこの判断が当然のものか不当か、意見は変わるのだ。
 とは言っても、それがなくても現在のエヴェルシードの情勢が不安定で、カミラの王権確立には信頼できる人物が側にいる事が必要なのは明らかだ。ジュダやエルジェーベト、バイロンと言ったエヴェルシードの重鎮たちはその辺りを慮り、さらにシェリダン側の様子がどこか以前と違うことを読み取って、その上で自らに与えられた彼からの最後の命令を受けとめた。
 それができないのはクルスだけだ。
「陛下は全然、至らぬ主君なんかじゃありません! 貴方以外の王などこの国にはおりません!」
 クルスの言う事も一理はある。傍観者に徹したロゼウスはそう判断する。先程の事自体はどういう受けとめられ方をしようとも、シェリダンが真実エヴェルシードのことを思っているのは事実。確かに彼以上にこの国の王に相応しい者はいないだろう。
 だがロゼウスは他の誰かではなく、シェリダンのためですらなく、ただ自分のために押し黙る。エヴェルシードにシェリダンを渡したくないから、クルスが必死になってシェリダンの気を変えようとするのを平然とした顔で見ている。何よりも問題の中心にいるのは自分であると知りながら。
「どうして、僕は駄目なんですか! 別に永遠にエヴェルシードに戻らないと言っているんじゃありません! シェリダン様のローゼンティアのドラクル王との争いが治まって、事態が落ち着くまで、それまででいいんです! お側にいさせてくださいませんか!?」
 必死の懇願にもシェリダンは首を横に振る。
「駄目だ。この国に残れ」
 クルスにとっては、死刑宣告でさえこれほど重くは響かないだろう一言を告げる。
「……っ、どうして、僕だけなんですか!?リチャードやローラたちが良いのなら――」
「彼らには他に行く宛てもない。だがクルス、お前は違う。それはお前自身がわかっているのだろう?」
「っ!」
 クルスは唇を噛んで押し黙る。その肩に、父であるクロノスが手を置いた。
 シェリダンにとっては、生涯で一度も得られなかったものだ。それを正面で見て、穏やかに笑みを浮かべる。
 だがその笑みすらも一瞬で消し、殊更酷薄さを強調するように表情を作ると、彼はわざと残酷な言葉を吐いた。
「それとも、お前は私についてくるためならそこにいる父を殺せるとでも言うのか? お前の行動に対して何の責任もないお前の母も、たまたまお前の領地に生まれたために支配下にいる民たちも」
いきなりの父親を殺せ発言にさすがにクルスはぎょっとして、思わず背後のクロノスを振り返った。クルスが俯いて目にしていなかったシェリダンの先程の微笑からその意図を一足先に掴んでいたクロノスは、苦笑いするしかない。それはエルジェーベトやジュダも一緒だ。
「できないだろう、お前は」
「それは……っ、でも、そんなこと」
「ユージーン侯爵」
 食い下がるクルスに追い討ちをかけるように、それまで沈黙していたロゼウスも口を開いた。
「結果的にという言い方は微妙だけど、俺はやった」
 ドラクルに唆されたとはいえ、ロゼウスは自分の父母を殺したシェリダンを選んだ。それに旅の中でも、自らウィルを殺した。なのにシェリダンだけは殺せなかった。
 家族よりもシェリダンを選んだ。他の誰でもない彼だけを。
 この先も自らと血のつながった相手を殺すのかもしれない。ただ自分がシェリダンと一緒にいたいがために、平然と自らの兄妹を殺すのかもしれない。
 実感を伴った言葉は重く、ロゼウスのその一撃にクルスは今度こそ言葉もない。
「あ……あ……僕は……」
「クルス、お前がカミラに、私の妹に力を貸してくれるというのなら、それで充分私は嬉しい」
 穏やかに微笑んで、シェリダンは手を伸ばした。年上なのに弟のような、部下でありまた友人でもある青年を抱きしめる。
「お前を信頼している。だからこそお前に託したい。このエヴェルシードを」
 シェリダンはロゼウスたちローゼンティアの面々とリチャードたち以外、つまりクルス以外はこれまでの旅に同行していないエヴェルシードに属する全員と向かい合っているから、クルスを抱きしめるために近づいたことによって、背後でそのやりとりを見守っていたジュダたちにもよりいっそうはっきりとその表情は見て取れた。
 あまりにも穏やかで、気負いなく満ち足りた、あまりにも美しい、それは聖者の微笑。
 何故、どうすればおなじ人間であるはずの生き物がここまで優しげな表情ができるのかわからない。
 シェリダンは確かに、どこか人を惹きつけるところがある。しかしそれは、痛みに耐えて清濁併せ呑む度量によるもので、同時に必要があれば残酷な決断や冷徹な切り捨ても厭わない人物だった。決して彼は天使や救世主のように優しげで誰にでも手を差し伸べるような聖人ではないのだ。けれど……。
「ジュダ、エルジェーベト、バイロン、クロノス」
「は、はい!」
「お前たちにも頼む。カミラを支えてやってくれ。あれ一人では、まだ国を上手く導くことはできないだろう。お前たちの補佐は必要だ」
 ジュダも、エルジェーベトも、バイロンもクロノスも。
 そしてクルスも。
 厳粛にその言葉を受け止める。

「お前たちを信じている」

 これまでは、確かに心がありながらもどこか空ろだったその言葉が、今この瞬間は何よりもかけがえのないように光を放つ。シェリダンは本気でそう言っているのだ。だからこそ彼らにはまたわかってしまった。
 きっと彼らが主君である彼と顔を合わせるのは、これが最後になると。
 石を投げられた衣装には血の染みができているし、髪だって少し乱れている。けれどその分取り澄ましたところのない、これがシェリダン=エヴェルシードという少年の自然体だ。
 その姿を目にするのもこれが最後だろうと。
「陛下」
ジュダがその場に跪いて、誓いの体勢をとった。クルスからそっと離れたシェリダンの手を取り、そっと指先に口付ける。
「我らはこれからカミラ女王に仕えます。ですがあなたは、紛れもなく我らが魂の主。それを、どうかお忘れなきよう願います。我らにあなたが願うのであれば」
「ああ」
 告げる声はやわらかく、秋の微風に溶けて消えた。
「約束する」
 そしてシェリダンとロゼウス、リチャードとローラ、エチエンヌの双子姉弟、アンリたちローゼンティアの面々はエヴェルシードを後にする。

 ◆◆◆◆◆

「いいのか。本当に」
 アンリの言葉にシェリダンは頷いた。他の者たちはまだ彼の真意に気づいていないようで、やりとりを聞くでもなく聞き流している。次の目的地はとりあえず、宿のとれる場所だ。エルジェーベトから餞別の路銀は貰っているのだが、もうこれからは誰にも頼れない。
「ああ。というより、こうするしかなかったと言うべきか」
「……辛いのか?」
「いや、むしろクルスやカミラのことに関しては、もっと早くこうするべきだったのだと思っている」
 だから悔いはないのだと。
 抱える宿命の重さに比べてやけにすっきりした表情のシェリダンを見遣り、アンリはそれ以上何も言えなくなる。正直なところ、彼は兄として弟であるロゼウスがこの少年と深い関係になっていることを認めたくもなければ、許したくもない。
 だが、それでも二人の想いは真実だ。ハデスがあの時叫んでいたことを、アンリは吸血鬼の聴力でもってしっかりと聞いていたのだ。その時には話題にしなかったが、あれからずっと考え続けていたこともある。
 そして今日ついに、その未来が来るのであれば、シェリダンは国を妹へ譲り渡すと言った。それはつまり、国王の座と引き換えにしてもロゼウスと運命を共にするということだ。
 そこまで言われてしまっては、もうアンリに彼らのことを何も言うことはできない。
 そしてシェリダンは彼から離れ、彼らと少し離れて俯きがちに歩いていたロゼウスへと歩み寄る。
「ロゼウス」
「うるさい。話しかけてくんな」
 ロゼウスに関しても、今回の一件はいろいろと思うところがあるのだ。一時的に明るい顔も見せたが。本心ではやはりこの状況にはしゃぐことなどできないに決まっている。
 シェリダンはそっと手を伸ばし、ロゼウスに触れる。白い手の中に自らの手を滑り込ませ、やわらかく繋ぐ。
 ハッと顔をあげるロゼウスに、微笑みかける。何も心配する事はないのだというような表情に、けれどますますロゼウスは胸を締め付けられる。
「あんたは、馬鹿だ……」
「わかっている。馬鹿でいい」
 やけにあっさりと、こちらが拍子抜けするような気安さでシェリダンは頷く。
「お前と一緒にいられるのであれば、馬鹿で構わない。私はもう他には何も望まないから」
 ロゼウスは言葉を失った。
 堪えていた涙が頬を流れる。一筋、二筋と零れたそれは光を反射して、きらきらと輝く。
 やけに世界の全てが綺麗だった。シェリダンにはそれら全てが眩しく見える。
 サライはシェリダンがロゼウスと関わることで。この一年以内に死ぬと言っていた。ロゼウスが次期皇帝になるということで皇帝と殉死する運命にあるハデスは、やけに焦っていた。
 この命がいつまで持つかは、シェリダン自身にもわからない。
 何せ病や怪我ではなく、運命に殺されるというのだ。しかも今現在自分に刃を向ける様子などまったくないロゼウスの手によって。シェスラートでもその他の誰でもないロゼウスの手によって殺されるなど、今の彼らの関係からは決して考えられないことだ。
 どんな未来が待ち受けているのか、予言の力を持たない彼にはわからない。
 わからないけれど、それに足掻く気持ちがいまいち薄いのも確かだ。
 勿論、このままむざむざ運命とやらに素直に殺されてやる気は毛頭ない。シェリダンはできるならば、ロゼウスと共に生きたい。
 だが、彼と離れてまで死の運命を回避する気がないのも自分の中で明らかだった。だからこうするしかないのだ。
 国王の代替わりが起これば国民に金銭的な負担と再びの国内の波乱を招くという意識も強い。エヴェルシードの民のためには、シェリダンが玉座に舞い戻るよりカミラがこのまま女王を続けた方がいいというのは本当だ。
 けれどシェリダンにとっては、それ以上に大事なのが自分の気持ちだった。
 いや、それと言うのも少し違う。自分の気持ちを本当に大事にした結果、こうしてできる限り上手く丸める方法を選んだというべきか。
 握り締めた手の柔らかな感触を思う。
「ロゼウス」
「……何?」
「愛している」
「いきなり、何を」
「愛している、お前を。誰よりも、私自身よりも」
 この一年の始まりを思い返してみよう。
 即位と同時に父王を幽閉して国の実権を握り、何の咎も関わりもないローゼンティアを侵略して滅ぼした。たくさん人々の血を流し、涙を流してきた。他でもないシェリダン自身の手で。
 それだけではない、当初のシェリダンの目的は、ゆくゆくは彼自身の国であるエヴェルシードをも滅ぼすことだった。
 シェリダンの出生は間違っても幸福なものとは言えない。ジョナス王に強姦されたヴァージニアの嘆きは深く、シェリダンはその存在自体で母を傷つける。強姦されて生まれた子どもを母親が愛せるわけがない。だがそうして生まれてきて、母親が悲しみのあまりに自殺してしまった子どもはどうやって生きればいいのだろう。
 生まれた時から間違っていた。正妃の子であるカミラは女であったから、男王の存在はエヴェルシードの民の望む者であったかもしれない。だがシェリダンの存在は何百万人の国民に望まれても自らの母を精神的に追い詰め殺すようなものだ。そんな命に、どんな祝福があるというのだろう。
 ずっとそう思っていた。自らをとりまく環境の全てが憎かった。口には出さず、声なき悪意をじわじわと振り撒き続け、いつしか暗い望みを抱くようになる。
 全てを滅ぼしてしまえばいい。屍の山を築け。この世界も、この国も。
 滅びてしまえばいい。
 だが一番そうした方がいいのは、価値がないのは、自分の存在だとも知っていた。
 破滅を望む心。幸福など要らない。生まれたそのこと自体が間違いである自分は、どんなことをしたって幸せになどなれるはずもないのだから。
 そう思っていた。
 それを、変えたのは。
「ロゼウス」
「……何?」
 先程と同じやりとりを繰り返す。ロゼウスはいきなりの告白、しかも離れて歩いているとはいえ他の者たちもいるこんなところでのそれを警戒して多少構え気味だが、シェリダンは極自然な様子で告げる。
「私を変えたのはお前だ」
「え……?」
「私もカミラも、お前と出会って変わった」
 シェリダンはロゼウスに出会って変わった。
 彼だけではない、カミラもそうだ。それがあらゆる偶然の重ね合わせによる結果だとしても、その積み重ねが自分たちを変えたのは確かだ。
「お前と一緒にいたい。お前といると、なんだか……酷くやわらかい気持ちになる」
 優しい春の木漏れ日のような、暖かで淡い光。
 そんな感情を幸せと呼ぶのなら。
「お前といると幸せなんだ」
 他に何も要らない。それだけで幸せな気持ちになれる。
 そうしてようやく気づいた。自分が欲しかったのはこれなのだと。
 世界の破滅や血の匂いや、屍の累々とした光景ではなく、この温もりが欲しかったのだと。
 わかった瞬間にこれまで執着していた破滅への願望が薄れた。これまでの無謀ともいえる大胆な行動に怖気づくわけでも、いきなり死を厭うようになったわけでもない。ただ、死を望まなくなっただけだ。
 生を望むようになっただけだ。
 生まれて初めて、心の底から生きていたいと願うようになった。
「ロゼウス、お前と一緒に生きていたい。私は……生きていたいんだ」
「……あんなことしたのに? あんな風に国中から蔑まれることをして、そうして評判落として、俺には殺されるって予言をされて、そんな今になって、そんなことを言うのか?」
 シェリダンの手を握るロゼウスの手のひらが強張る。
「ああ、そうだ……馬鹿みたいだろう? だが、本当なんだ。死を望むのではなく、生きていたいと思って初めて、本当の意味で死が怖くなくなった。不思議だな、人間は。馬鹿みたいに過ちを繰り返し、罪を重ねて、そうしてようやく知ることもある」
「死ぬって知って初めて、死にたくないなんて」
「死にたくない、というのは少し違うな。生きていたいんだ。死が怖いのでもイヤなのでもなく、生きていたい」
「わからないよ。どこがどう違うのか」
「そうか? ……お前はまあ、それでいいのかもしれないな。誰もがこんな経験をする必要はないだろう」
 それでも。
「お前には感謝している」
「……」
「お前に会ってようやく、私自身が本当に望んでいるものがわかったんだ……自分を生んだ世界を無闇に恨まなくても、憎しみを糧にしなくても生きていられる。そうして最後に残ったのが、エヴェルシードの民や、カミラには幸せでいてほしいという気持ちだった」
 シェリダンは自分の中にこんな気持ちがあるなどと知らなかった。彼は彼を生み出したあの炎の国を、憎んでいると思ったのに。だから全て滅ぼすなどと言っていたのに。
 だがロゼウスと出会い、本当の自分を知り、暗い氷のような悲しみと表裏一体の憎しみが穏やかに溶け出して、最後に残ったのはかの国の幸福を願う気持ちだった。
「私はエヴェルシードを愛している。他国を武力で侵略するしか脳のない国、それは本当のことだ。他の国々からどれほど罵られても構わない。それでも私はあの国を愛していたんだ……」
「シェリダン……」
 今更になってようやくそのことに気づいた。女性であるカミラが忌避される以上他に後継者らしき後継者もいないために、手に入れる事自体は苦もなく手に入れた玉座。自分が王である以上に、愛着なんてないと思っていたのに。
「全部お前のおかげだ」
「……そんなことない。俺は何もしてない。今度の事は全部、あんたが自分でやったことだ。良いことも、悪いことも。俺は何もできなかった」
 沈み込むロゼウスに、シェリダンは不意打ちのように口づけた。
 一瞬はっとして、そしてロゼウスは瞬いた。
 また一筋、ロゼウスの頬を涙が伝う。
 後から後から透明な雫は溢れてくる。
 もうどうしようもない。すでに行動を起こし、結果は出てしまった。今更変えることも出来なければ、変える気はシェリダンにはない。
 シェリダンがこの先ずっと、エヴェルシードの不甲斐なき王として悪名を伝えられていくことが、ロゼウスにとってはどんなに辛くても。
 それでもシェリダン自身が、まるで気にすることもないように微笑むから。
 ――真実は闇に葬られていく。
「シェリダン」
「ん?」
「俺も、お前が好きだ……いや」
 握った手に力を込める。
 聖者が事切れるその日まで。
「愛している」
 どうしてだろう。《愛している》と言う言葉が、こんなにも哀しく切なく救いがたいものとして響くのは。

「だからお前の葬列なんて、お前の死体なんて、お前が死ぬのなんて見たくない」

 その日は、確実に迫っている。


 《続く》