200

 何も失いたくないのならば、最初から手に入れなければいいのだ。ないものは誰も奪えない。喪失の痛みに苦しくて引き裂かれそうだというのならば、もともと何も持たなければいいのに。
 あるいは、今あるものもそのために手放すのか。
「いいね、エリサ。これを持って、とにかくローゼンティアともエヴェルシードとも離れた国に行くんだよ」
「おにいさま……」
「今までのような暮らしはもうできないけれど、辛抱してくれ。お前はこれから民に交じって生きて行くんだよ。畑を耕したり、お皿を洗ったりして生きて行く。……できるね」
 末の妹の手に路銀を押し付け、目線の高さを同じにしてロゼウスはそう言い聞かせる。
「お金の使い方、わかるだろ? アンリ兄様がやってたの、見てたね? 大丈夫。お前ならできるよ。だから……」
 ロゼウスの言葉に、十歳の妹は目に涙を浮かべた。
「エリサはもうおにいさまたちといっしょにいたらダメなの?」
「エリサ」
「もういらないの?」
 赤いつぶらな瞳が見上げてくる。
「エリサはもういらないの? エリサが足手まといだから? だからいらないの? エリサ、たたかえるよ! もっと強くなるよ! だから、だから」
「……違うよ、エリサ」
 涙目で見上げてくる妹の様子は哀れだが、今回ばかりはここで折れてやるわけにはいかない。たとえこれが、今生の別れになろうとも。
 この数週間であまりにも多くの犠牲を払った。大切な兄妹たちを失ってきた。
 ミカエラ、ウィル……そして今度はミザリーまでも。
 ドラクルのもとにいる他の兄妹のことはわからないが、三人だけでももう充分だ。もうこれ以上、誰も失いたくない。
 だから、失う前に手放すのだ。
「……ごめんね。エリサ。俺のせいで、変なことに巻き込んで」
 運命というものはあるのだろう。ひとは生まれてくる場所を選べない。
 ローゼンティア王家になど、生まれてこない方が彼らは幸せだった。今ならそう言える。ロゼウス以外の王族は、王家にさえ生まれて来なければもっと幸せになれたはずなのに。
 けれど今ここでそれを言っても仕方がないから、ロゼウスは末妹の手を離す。
「お前がいらないわけじゃないよ。俺が、いらなかったんだよ」
「ロゼウスおにいさま……」
「だからお前は、もう俺と一緒にいちゃ駄目だよ。俺から離れて、幸せな人生を生きるんだ。俺も、アンリ兄様もロザリーも、他のみんなもお前の幸せを祈ってるよ」
 ごめんね、と抱きしめて耳元で告げた。エリサだけではない。ミカエラにも、ウィルにもミザリーにも。彼らの死を経たからこそ、エリサまでそんな目に遭わせることはできない。ミカエラとミザリーは間接的に、ウィルは直接この手にかけてしまった。ロゼウスの宿命の闇は深い。もうこれ以上巻き込みたくない。
 それでもドラクルを止めるため、自ら残って戦うと決意したアンリとロザリーの心まではロゼウスにも動かせなかった。だが、このまだ幼い末の妹だけは……
 ――シェリダン、デメテル陛下。もしもこのままエリサと離れて、ハデスがこの子を狙ってくる可能性は?
 ――ない。
 ――ないわね。
 ――ハデスだってそこまで鬼じゃないだろう。お前に自ら手を貸す者は憎んでも、お前を見捨てた妹にまで手は出さないだろう。
 ――ありがとう。
「エリサ、お前は生きてくれ」
 他には何も望まない。
「戦わなくていいよ。強くなんて、ならなくていい。ただ、生きて幸せになってくれれば、それだけで」
 エリサが小さな唇を震わせる。
「はい……」
 まだ十歳の少女は己の役割を悟ったのだ。自分がここにいても役に立てることはほとんどない。むしろ兄たちの心労を増させてしまうだけならば、と。
「さよなら、おにいさま」
 一人で生きていくのは辛い。だが死ぬ事も辛いのだ。
 どちらかを選ばねばならないのなら、ロゼウスもアンリもロザリーも、エリサに生きる方を選んで欲しい。
 だから、答はさよならだった。
 荷物を背負い、デメテルのつけた兵に送られて皇帝領とバロック大陸を繋ぐ橋まで向かうエリサの後姿を彼らは見送る。
「さようなら、エリサ」
 二度と会えなくても、このままお互いの死すら知れなくとも。
 それでも生きていてほしいから。
「さよなら、さようなら、おにいさま、おねえさま、さよなら」
 さよなら、ローゼンティア。


201

 冥府から戻って来たロゼウスたちだが、その目的は達成されなかった。
 ロゼウスはハデスにより姉であるミザリー姫を人質に取られ、地下世界タルタロスへと誘い出された。姉であるミザリーをハデスの手からは奪い返すことができたが、その後帰る手段がなくなってしまったのだ。
 冥府と地上世界を行き来するには、特殊な扉が必要だ。それを破壊してロゼウスたちが地上に帰れないようにした元凶、ハデスは彼らにこう告げた。
「地上へ戻りたければ、生贄を捧げろ」
 あの世界に他に人間はいない。地上の生命体でなければ受け付けない扉に捧げる生贄など、仲間内から選べるはずもない。
 その時、助け出したはずのミザリーが言い出したのだ。自分がなる、と。
 かくして燃え滾るマグマに姫君は身を投げ、ロゼウスたちは地上へと戻って来ることができた。
 その代償は、あまりにも大きい。

 こうして全てを失っていく。

「「「一ヶ月!?」」」
 ふと薄着の身を包む肌寒さに気づけば、季節は秋に入ろうとしているところだった。ロゼウスたちが冥府へと赴いた時は、まだ夏の途中だったのに。
デメテルから聞かされた言葉に、彼らは一斉に声をあげた。
「あれから一ヶ月って、本当なのですか? 皇帝陛下」
「だって、向こうではまだ一日も経って……」
「冥府では時間の流れが速いのよ。それでも、一ヶ月で戻って来れたのだからまだ上出来よ」
 異変を感じて世界皇帝を問いただせば、彼女は冥府と地上の時間の流れについて教えてくれた。すなわち、冥府で流れる時間は地上よりもずっと早いのだと。ロゼウスたちが冥府で一日過ごしている間に、地上では一ヶ月もの時間が経っていたのだ。
 ミザリーを亡くし、エリサと別れ……ジャスパーは様々な問題を含みながらもまだロゼウスの側に居るが、それ以外の人々が今どうしているのかはさっぱりわからない。
 ロゼウスたちが冥府に行っていた、その間に何が起こっていたのか。それも、彼らはデメテルから聞いた。
「エヴェルシードが大変みたいよ」
「え?」
「ドラクル王たちのローゼンティア支配は順調のようで、今のところは何事も起こっていないようよ。問題なのはエヴェルシード。カミラ女王の支配体制に、あちこちから不満が出ているの。このままじゃ内部分裂で内乱になるわね」
「内乱……!」
 デメテルの言葉に、さっと顔色を変えたのはシェリダンだった。追放されたとはいえもとは自らが治めていた国だ。内乱になると聞いて、黙ってはいられない。拳が白くなるほど力を入れて握り締める。
「デメテル陛下。詳しくお聞かせ願いたい」
「……エヴェルシードが、セルヴォルファスと戦争したってのは聞いてるわね。そのことで少しだけカミラ姫は軍部を中心に株をあげたのだけれど、今またそれが下がり始めているの。まぁ、もともとあの姫君はあなたに勝ちたい一心で、国を治めるのにも理想も目的も何もあったものではないからね」
 皇帝は全てを知っているというデメテルの言葉は伊達ではなく、彼女はエヴェルシードの内情をすでに掴んでいるようだった。カミラとシェリダンの因縁も当然のように筒抜けだ。
 一行は皇帝の居城内の客室に集められて、楕円のテーブルに並んでいる。お茶を口に運んで喉を潤したデメテルが、続ける言葉に全員が耳を傾ける。
「今のエヴェルシードは、カミラを担ぐ派閥と、彼女を排して新王を立てる派閥で水面下の争いを続けているわ」
「それって……」
「そう。《エヴェルシード王朝》が打倒される危機にあるっていうことよ」
「!」
 デメテルの言葉に、エヴェルシードの面々は一斉に顔色を変えた。
「始皇帝を輩出した家柄ですよ。それでもですか?」
 リチャードの言葉に、デメテルは視線をテーブルの上に乗せた自らの指先を見つめながら答える。
「ええ。だからこそ、今揉めているのよ。始皇帝シェスラート=エヴェルシードをも出したエヴェルシード王家を断絶するか、それともカミラ女王をなんとか盛り上げていくしかないかとね」
「……エヴェルシード王家は代々子種が少なくて有名だ。いつかこのような事態になることは王家では予想されていた」
「あなたたち王族はそうでも、民衆はそうもいかないのよ、シェリダン王。貴族たちは二派に分かれているし、宰相バイロンが奔走してもカミラ女王の高慢と無茶な命令の始末をつけることができない。エヴェルシードはすでに、民衆レベルで不穏な噂で持ちきりの状態になっているわ」
 デメテルが説明を終えると、室内には沈黙が訪れた。
 シェリダンはすでにかの国から追放されているし、今ここで彼が出て行ったとしても問題がややこしくなるだけだ。それでも気にしてしまうし、放ってはおけない。
 そこへ、新たな一石をこの人物が投じる。
「大地皇帝陛下」
「なぁに。薔薇の選定者殿」
 ジャスパーは紅い瞳を眇め、デメテルを横目で見ながら口を開く。
「まだ、言ってないことがありますね?」
 ぴくりとデメテルが柳眉を動かす。
「何故そう思ったの?」
「勘です」
「そう」
 皇帝と次代選定者の間にはこれほどの緊張が流れるものか、デメテルとジャスパーの間にぴりぴりとした空気が張り詰める。
「鋭いわね。じゃあ、これからとっておきの情報をお話しましょうか。その前に一つだけ忠告しておくけど……手を引く気はない? 特にシェリダン王」
「ない」
「考える間もなく即答したわね」
 デメテルの言うとおり、シェリダンは迷うという言葉など知らぬげに即座に否定の言葉を吐いた。
「エヴェルシードは私の国だ。たとえ世界のどこを滅ぼそうとも、あの国が内乱などという恥を晒して滅びるのを黙って見過ごすわけにはいかない」
「うーん。いろいろなところで問題発言ありがとう」
 祖国以外はどうでもいいとはっきり言い切ったシェリダンに対し、デメテルがなんとも言えない顔をする。
「本当にいいのね。後悔しない? 普通なら後悔するような目にこれから遭うという方が正しいのだけれど」
「後悔などしない。だいたい私の悪名など、陛下の弟君のおかげですでに国中に広まっている」
「……それはすいませんね」
 これ以上言っても無駄だと判断したデメテルが、とっておきだと前置きつけた情報を口にする。
「一つ。さっきエヴェルシードは二派に分かれていると言ったわね。ここに新たに一派が加わりたいと考えているの」
「その一派とは」
「あなたよ。シェリダン王。あなたを探し出しもう一度あの国の玉座に着けようという一派。こう言えばわかるかしら? バートリ公爵やイスカリオット伯の派閥よ」
「エルジェーベトたちが……」
「彼らは現在はカミラ女王の側近として国を支えているけれど、あなたが国に戻ればきっと動き出すわ」
「動き出すって?」
 エチエンヌの何気ない質問に、デメテルがさらりと答える。だがその内容はとんでもない。
「カミラ女王の暗殺」
 一同は息を詰める。
「一つの国に王は二人もいらない。しかしエヴェルシード王家は代々子種が少なく、常に王家の存続が危うい状態。通常ならば生かされるでしょうけれど、カミラ女王はやりすぎたからね……シェリダン王がエヴェルシードの玉座に戻れば、間違いなく彼女は殺されるわ。演出効果を狙うなら暗殺じゃなくて堂々の処刑かもしれないけれど」
 そうして、デメテルはちらりとシェリダンに視線を移す。
「どうする?」
「私が戻れば、カミラが殺される、か……」
「かといってこのまま誰もが手をこまねいて見ていてもエヴェルシードは自壊の道を辿るでしょうけれど」
「……」
 シェリダンは押し黙り考え込む。代わりのように彼の隣に座っていたロゼウスが今度は口を開いた。
「皇帝陛下、他には? 先程『一つ』と前置きをつけたからには、もう一つの情報が何かあるのでしょう?」
「ええ」
「それを、教えていただきたい」
「いいわよ。それはどちらかと言えば、あなたに関係あることだしね。ロゼウス王子」
「俺に?」
「ええ」
 ロゼウスに関係がある、つまりはローゼンティア王家全体に関係があるということか。アンリとロザリーの二人も身を硬くする。ジャスパーだけは普段と変わらない。
「エヴェルシード女王カミラの評判を落とさせ、エヴェルシードを滅びへと追いやっている仕掛け人の一人はルース姫よ」
「姉上が!?」
「そう。つまり、今回のエヴェルシードの一件にはローゼンティアが関わっているわ。ドラクル王たちがね」
 ロゼウスたちは苦いものを飲み下す。ドラクル、やはりあなたは――。
 そしてシェリダンたちにしても、ロゼウスたちにしても、そこまで聞かされてしまっては黙っていられない。
「戻るぞ、ロゼウス」
「うん」
 隣り合った二人は視線を交わし、決意を固める。たとえこれが一筋縄でいく問題でなくとも、心地よい結末を生み出せないものだとしても、それでも王族として国を放り出すことは出来ない。
「エヴェルシードへ」
 全てを破壊し再生する、炎の王国へと帰る――。

 ◆◆◆◆◆

「私の言う事が、聞けないと言うの?」
 聞く者の魂までも凍てつきそうな冷たい声音で女王はそう言った。
「そ、そんな……滅相もございません。わたくしどもはただ、この件に関しては我々の裁量に任してくださるという最初の契約の確認に来ただけで……」
「だから何? 例え初めの契約がどうであろうと、私がこうと言ったらこうなのよ。それが聞けないと言うのなら――」
「女王陛下」
 目の前の忌々しい民の群れではなく、そこそこ信頼している人物の一人から声をかけられてカミラは押し黙った。
「……何よ、ルース姫」
「最近の女王様は働きすぎですわ。どうです? 最初はこの者たちが任されていた案件だというのなら、この者たちに託してしまっても」
「それでは王城の権威が立たないわ」
「まったくもってその通りでございます。だから、女王陛下の権力の管轄では女王陛下がサインを記すのですよ。どこまで実質的に責任を分担するか、細かい事の詰めは、宰相であるワラキアス閣下にお任せしましょう。そうして王城の許可を通してから、この者たちに仕事を改めて与えればいいのです」
「改めてって、もともとこの事業は我々がシェリダン王から与えられたもので――」
 一度は許可されたはずの事業を開始するのに再び王城を通せば、またそれに伴うだけの手間と資金がかかる。男の一人が悲痛な訴えの声をあげるが、その内容に女王カミラはますます頑なになる。
「……なんですって? シェリダンが」
 先代ジョナス=エヴェルシード王の第一子シェリダン王子と、第二子カミラ王女の不仲はジョナス王の没する前から有名であった。そして現在エヴェルシード王として玉座に座るカミラは男尊女卑の軍事国家エヴェルシードにおいて本来継承権が上である兄、シェリダンからその玉座を簒奪して女王となったのである。
 兄を嫌って、ことごとく彼のやり方に反発したいカミラにとってシェリダンの名は禁句である。
「だったらなおさら、許すわけにはいかないわ」
 女王の逆鱗に触れてしまった民らは、苦渋の表情で下を向く。先程の声を上げた一人の男に批難の視線が集まり、それ以上に謁見の間にて玉座に座る女王への憎しみが募っていく。
「カミラ女王」
「何……ルース姫」
「シェリダン王が手をつけていた案件ならば、なおさら女王陛下には理解しがたいもの。いっそ今すぐにワラキアス閣下に調整を任せてはどうですか? 閣下の力量は陛下も信用されているでしょう?」
「……そうね。バイロンの力は信用してるわ。でも……」
「これ以上このような下々の者のことで頭を悩ませることはありません。さぁ」
 ルースの言葉に指示されて、カミラは渋々と目の前の男たちに退出を許し、宰相バイロンの下へ赴くように命じた。
「ご立派でした」
 そのカミラの傍らに、これまで玉座の背後に控えていたルースがやってくる。玉座の階段に敷かれている赤い絨毯を踏む爪先は白く可憐だ。容姿そのものも儚げな美女は、正反対の美貌を持つカミラの横に並んで、幼子をあやすように言い聞かせる。
 ルースはローゼンティアのドラクルがまだ政治に不慣れなカミラのためにと派遣したお目付け役だ。
「シェリダン王の残した事業が思ったよりも広範囲に残っていてお疲れでしょう。カミラ女王。でもいいのですよ。それほど焦らなくて。あなたはまずセルヴォルファスを侵略するという一大事を成し遂げたのですから」
「けれど! あの荒野の狼の国なんて、攻め滅ぼしたところでたいした利益にはならなかったわ!」
 宥めるルースの言葉にも、カミラはもう反論する。
「いくら侵略に成功したって、それで国益をあげなければ意味がないのよ! エヴェルシードは戦争の国だけれど、戦争っていうのは勝って相手の国から富を奪って自国を発展させていくためのものなのよ! 短期決戦をしたって、それで何の利益もあがらないのであれば意味がないわ!」
「利益ならあったではないですか。あの一件であなたはこの国においてシェリダン王に劣るとも勝らぬ戦争の上手だと認められた」
「ええ! けれど今になってほとんど利益のあがらなかった戦争をした痛手と出費がのしかかるって、今日にも暴落しそうな評価がね!」
 ルースの言葉に必要以上に上手く丸め込まれないよう、カミラは気を張って彼女と会話する。ルースはドラクルが送って来た彼の懐刀とも言うべき妹であり、決して全面的なカミラの味方ではないのだ。
 侮られてはならない。ローゼンティアにも、このエヴェルシードでいまだにシェリダンを支持する者たちにも。
 国内でカミラに対する評価はいまだ不安定だ。より正確に言うのならば、一度は安定したものが今また悪い方に傾き始めている。
 人狼の国セルヴォルファスを、国王亡き隙を狙って攻め滅ぼしたカミラの手腕は一度は軍部を中心に認められた。ローゼンティアを滅ぼしたシェリダンの二番煎じのようで癪だが、一時はそれで上手くいっていたのだ。
 しかし、森と荊に閉ざされた半鎖国の国とはいえ美術工芸で富を蓄える隣国ローゼンティアから受ける利益とは違い、シュルト大陸北部のセルヴォルファス王国は山と岩壁の国。城でさえ岩肌を切り込んで作っていたぐらいのセルヴォルファス、その民のもう一つの姿である狼の姿を選べば暮らす家も服もいらないと言われている彼らが、富など手にしているはずはなかったのだ。
 距離的な問題も大きかった。ローゼンティアは隣国だが、エヴェルシードからセルヴォルファスまでは相当の距離がある。そこまでの旅費は、もちろんエヴェルシードの負担となる。つまり、国民の血税だ。それだけの出費を出して、得られる利益が皆無に等しいというのはカミラにとっても大きな痛手だった。そしてそれ以上に国民の怒りを煽った。
 だが、それでも彼女は誰に対しても弱味を見せるわけにはいかない。かつて迂闊にもシェリダンと知己であることを知らずイスカリオット伯爵ジュダやユージーン侯爵クルスを信用したばかりにシェリダンに出し抜かれた彼女にして見れば、周囲はもう誰も彼もが敵同然だ。
 シェリダンの残した業績をなぞるだけでは、女王カミラとしての成果を出せない。しかし、一度失敗した以上もう二度と戦果によって支持を高めることもできないだろう。
 ならば、一つ一つの仕事に精を出して油断なくこなしていくしかないだろう……しかしそれは、誰よりもカミラ自身に負担をかける。そう、潰れてしまいそうなほどに。
 女王がそんな状態で出した命令が、果たして皆の満足いく的確なものであるか? 答は先程の訴えに来た男たちの様子を見ればわかるだろう。
 エヴェルシードは、凋落の一途を辿っている。ローゼンティアへの侵略、セルヴォルファスとの戦争、まだ一年が終わっていないのに、激動の日々が続いている。
 このままでは、ゆっくりと滅びに向かっていくようだ。
 エヴェルシード内部ではすでにカミラに対する反発が強い。かといって元々彼の臣下であるバートリ公爵エルジェーベトやイスカリオット伯爵ジュダ以外は真剣にシェリダンの行方を探す者もいないようで、今のところエヴェルシードに残された道は二つだ。
 女王カミラを盛り立てていくか。
 カミラを排して新たな王を立てるか。
 前者は下手すればカミラの悪政によって国ごと倒れる危険がある。しかし、後者の要件も重大だ。
 アケロンティス帝国を成立させた始皇帝、シェスラート=エヴェルシードの血統の断絶。もともと子種の少ないことから存続が常に危ぶまれてきた王家だが、今それが現実に起きようとしている。
 始皇帝の血族が絶える事は、いざ実現すればそれなりの打撃を世界各国に与えるだろう。超常の力を得て三百年帝国を統治したというシェスラート=エヴェルシード。帝国が三千年続こうとも、いまだに彼よりも長い統治を果した皇帝は現われていないのだから。
 あるいは現皇帝デメテル=レーテは黒の末裔初の皇帝としてそれだけの業績を上げるのかもしれないが、そんな未来のことはわからない。
 それよりも今重大なのは、エヴェルシードの血筋が絶えそうだということだ。通常ならばエヴェルシードの血を引く王女カミラを妻として誰かが王として立ち血統を保護するのだろうが、それを行うにはすでにカミラは自力で行動を起こしすぎた。他国の者と手を組んでまで兄王シェリダンから玉座を簒奪し、セルヴォルファスを国益は上がらずとも実質的に滅ぼした女王をのさばらせておく者もいないだろう。 
 カミラにとって、この政局に勝たねば待ち受けるものは己の死のみだ。
「そんなことはさせない」
「どうしました? カミラ陛下」
 小さな独り言も吸血鬼の聴覚で聞き取って尋ねてくるルースにそっけなく返す。
「なんでもないわ」
 ただの人間よりは内情を知っている分だけ信用できる、しかし彼女さえもカミラは信頼しきってはいけない。信用はしても、信頼してはいけないのだ。そしてできることならば、信用すらしきってはいけない。適度に距離を置き、主導権を握りして自身を優位に立たせねばならない。ただでさえローゼンティアとはミカエラ王子の処刑の件でこじれている。
 あの王子の目論見どおり表面上は治まった国交の下で入った水面下の亀裂さえも意識して、カミラは女王としてエヴェルシードを治めようとする。表向きカミラに従順な振りをしている有能な宰相バイロン=ワラキアスも、バートリ公爵エルジェーベトも、国の平和のために大人しくしている連中は皆兄であるシェリダンの帰りを心待ちにしていることを知っている。
 十六歳の少女にとって、孤独すぎる戦いをカミラは続ける。
「ドラクル王に書簡を送るわ。ルース姫、後で届け役をお願いできる」
「かしこまりました。女王陛下」
「それから……」
 いいかけて、カミラは不自然なところで動きを止めた。
「ご、ごめんなさい。少し……」
「ええ。いってらっしゃいませ」
ルースの声に送られて、カミラは口元を押さえ隣室の洗面所へと駆け出した。
 その後姿を見送って、ローゼンティアの女一人、うっそりと薄暗く微笑む……。


202

 気持ち悪い。気持ち悪い。気持ち悪い。
 体調が一番悪くなる悪阻の時期などとっくに終わっているのに、それでも気分の悪さが治まらないのは精神的な負担が大きいせいなのだろう。このままではいつになっても長い謁見や会議などはできず、負担は増すばかりだ。
 カミラの身体のことは、身の回りで働いている侍女たち以外誰も知らない。もちろん国民や国内の貴族も重鎮も知らない。何せ公式にはカミラはこれまで一度も結婚していないのだ。そんな状態で、妊娠などと。
「……どっち」
 胸と腹の間、どちらとも言えぬ場所をさすりながら、空ろな眼差しで呟く。
「どっち、なの?」
 その疑問も、カミラの胸を悩ませる一因である。
 お腹の子の父親である可能性があるのは二人の男。一人は彼女のこの世で最も愛しい相手。もう一人は殺したいほどに憎い相手。
 まさしく天国と地獄。最高の幸福と最大の不幸の二択の答は、全てが終わるその日までわからない。
 刻一刻と迫るその日を待つ一瞬一瞬に、カミラの神経は削りとられていく。じわじわと硬い何かをこそぎ落とすかのようにゆっくりゆっくりとその瞬間が迫ってくる。
 どうやら彼女はお腹が目立たない体質らしく、少しゆったりめの服を着るだけでいまだ誰も彼女の体型の変化に気づいていない。だがそれも時間の問題だろう。あと数ヶ月して臨月近くなれば、嫌でもこれまで隠し続けていた城内の人間にさえそのことは知られてしまう。
 その日が来るのが怖い。
 その時を迎えるのが嫌だ。
 その気持ちが高じて常に苛々とし、落ち着きも冷静な判断も今のカミラからは失われている。そのために補佐としてローゼンティアから派遣されてきたルースがいるのだが、彼女は信頼できる相手ではない。
 ようやく嘔吐感が治まり、カミラはゆっくりと身を起こした。洗面台の前に座り込んでいた脚と腰が痛い。水場にいたせいで体中が冷え切っている。
 エヴェルシード王城の作りは、他国に比べれば一件簡素だがその実優美な装飾がそこかしこに施されている。軍事国家であるこの国は建物の強度を下げるような装飾は絶対にしないが、その分多少費用がかかっても強度を補強した上での装飾なら許されている。だから常人は普通目に留めないような部分が一品物でできていたりするのだ。カミラは水を汲んだ桶を傾けて、自らの吐瀉物を流した。女王のするようなことではないが、こればかりは仕方がない。
 もともとエヴェルシードの王族は軍事国家の人間の常として、一人でなんでもこなせるよう徹底的に教育されるものだ。その気になれば、一人でも生きていける。そう、本当は……。
 けれどやはり人の中にいて、人と関わって、人に認められて生きて行きたいと願うのが人間なのだ。少なくともカミラにそう言った自分の欲望をとめることはできない。
 そして、だからこそシェリダンが生きていれば必ず再びこの玉座を奪い返そうとするだろうと思っている。彼の死を確認するまで、その死に顔を確認するまで安心できない。それもまたカミラの一つの弱味であった。
 洗い場を片付け、大きな鏡で自らの身だしなみに乱れがないか確認してからその部屋を出る。顔色が悪いのは仕方がないとして、他に髪の一筋の乱れも許されない。
 自分は女王なのだから。
 しっかりしなさい、カミラ。内心で己をそう叱咤して、カミラは背筋を伸ばして歩く。廊下ですれ違う使用人たちが、その姿に何の疑問も持たぬように。
 どんなに辛かろうと、時折途方もなく惨めな気分になろうと、それでも投げ出すわけにはいかないのだ。
 この道は、自分で選んだ道なのだから。兄であるシェリダンを追い落としてまで渇望した玉座だ。誰にも渡さない。そのためには自分がまず隙を見せるわけにはいかない。
 痛みさえも感じていないような顔でカミラは歩く努力をする。それだけが今のカミラにできる全てであった。
 逆に言えば、こんなことしかできない。
「カミラ女王陛下」
「バイロン。どうかしたの?」
 執務室へと向かう途中で、宰相であるバイロン=セーケイ=ワラキアスと顔を合わせた。もう四十過ぎになるこの男はシェリダンの治世の下で宰相として働き、そしてそれ以前からもこのエヴェルシードの宰相を務めていた。つまり、カミラとシェリダンの父であるジョナス王の時代からだ。
 軍事国家という体裁からか、エヴェルシードは実力主義の色が強い。とは言ってもその根底に男尊女卑と言う差別意識が働いているので実力で評価されるのは男に限ったことである状況が多いのだが、稀にバートリ公爵エルジェーベトのような例外もいる。
 宰相バイロンは、その実力でその地位を獲得した一人だった。普通は貴族が要職につくことが多い国の政治の中枢を担う宰相という職を、彼は平民から自らの力で昇進して手に入れたのだ。
 ジョナス王は平民の出でありながら有能なバイロンをいたく気に入っていた。しかし、それが逆に仇ともなる。相手が平民と言うだけで差別しないその姿勢は好ましいものなのかも知れないが、彼に関してはその姿勢によって一つの悲劇を作り出す。
 それが、シェリダンの母ヴァージニアの略奪。いかに美しかろうと平民の娘などを愛さなければエヴェルシードが庶出の母を持つシェリダンと女性であるカミラの間で揺れることなどなかったのだ。相手が平民の美しい娘だからと無理強いするだけして捨てるような男も人として問題だが、この件に関してはそうしてくれた方が後々になってこんな風に問題になることはなかったのだ。
 王城内にはいまだカミラではなくシェリダンの治世を望む声がある。もっとも兄であるシェリダンは現在カミラの手によって国を追放され行方不明どころか生死不明ですらあるのだが、だからと言って願う心が止まるものではない。シェリダンの治世というよりも、もはやカミラの支配でなければ何でもいいと思うような輩の方がまず多いのだ。
 そして目の前の男は、そんな優柔不断で事勿れ主義の中立ですらなく、シェリダンの治世を心から望む者である。バイロンが表立ってカミラに反感を示さないのは。ひとえにいつかシェリダンが国に戻って来たときに速やかにもとのまま彼にエヴェルシードを返すためだ。
「女王陛下、どうなされましたか?」
 突っ立ったままじっとバイロンの顔を見つめていたカミラに、宰相は不思議そうに尋ねてくる。はっと我に帰ったカミラは、なんでもないわとその追求を封じた。
 そうして腕に何か書類の山を抱えているバイロンから、午後の執務の内容を聞く。宰相ともなれば書類など近侍の者たちがやってくれるのだが、もとが平民である彼にそんな考えはないらしい。シェリダンにしろカミラにしろ自分でやった方が早いことはさっさと自らの手で行うので、いちいちそれを問題にする輩もいないからだろうが。
どうやら民の訴えは速やかにこの男のもとへと行ったようで、先程カミラが突っぱねて追い払った男たちの話も改めてバイロンの口から聞かされた。
「ですので、この件は私が練り直した後改めて陛下に奏上いたします」
「それでいいわ。明日もこのように、謁見を昼前に回して、午後はできるだけ簡単な書類仕事を量を増やしていいから回してくれる? 休みたいとは言わないけれど、もっと効率よく動きたいのよ。それと、週に一度の軍の視察も……」
 今現在のこの国が荒れていることぐらい、カミラにだってわかっている。
 どんなにやっても、上手くできないのだ。あちこちから漏れ聞こえる不満の声に耳を澄ませても、現状の自分ではどうにもすることができないことばかり。セルヴォルファスとの戦争によって何の利益も上がらないばかりか、そのために使われた軍事予算の穴埋めが痛い。そしてその後に芳しい成果が上がらないせいでカミラに対する全体的な評価が低くなっている。
 しかしこれと言った打開策も見つからないし、的確な助言をくれる相手もいない。バイロンやバートリ公爵エルジェーベトが時折厄介な案件に手を貸して無難にまとめさせるくらいで、それ以上の踏み込んだことは誰もしない。
 当然だ。今のカミラには、何を捨てても彼女のためにつき従う彼女個人の味方など、いないのだから。
 国のためを思ってカミラが失敗をしないように見張る目付け役にはバイロンやエルジェーベトがいる。だがカミラがそれ以上に成果をあげることを期待して手を貸してくれる人間は誰もいない。
 それでも、このエヴェルシードにまだ女王として存在できるだけ自分はマシなのだろうともカミラは思う。
 セルヴォルファスはすでに滅びた。ハデスに唆されたとはいえ他でもないカミラが兵士たちに命じてかの国を攻めさせたのだ。そうして多くの人狼族が死に、王も死んだ。カミラとも面識がある、彼女と同い年の少年王ヴィルヘルムはすでにこの世にいない。
 一瞬でもその背に隙を見せれば、次はカミラが同じ目に遭う。ドラクルと手を組んででもシェリダンを追い落とすことを誓ったあの日から、すでに命運の犀はふられているのだ。今更逃げる場所もない。
 女王としてここに存在するしかないのだ。ただ自分がそうあるように望んだからというだけでなく、そうでなければ、彼女は死ぬしかない。それが定められた道筋だと。
 だからこそ、今この状況で警戒することが必要なのだとカミラにもわかっている。一つの国に二人の支配者は必要ない。二人の人間が同じ玉座を望むなら、争うしかない。
 兄であるシェリダン、彼が次にカミラの目の前に現われる時、その時こそ二人のうちどちらかがその命を失う運命の分かれ目なのだと。

 ◆◆◆◆◆

 ルースはカミラからの書簡を持ち、ローゼンティアのドラクルのもとへと戻って来た。
 エヴェルシードの、地理的関係上抜けるようなとは言わないがそれでも青い空の下から今度は灰色の薄曇のローゼンティアの土を踏む。
「今帰りました。ドラクル」
「おかえり、ルース」
 エヴェルシードが荒れている間はローゼンティアの方は逆に落ち着いている。一度の戦争で大敗した軍事国家相手に油断を見せるなど毛頭ないことで、エヴェルシードが繁栄している間はローゼンティアの民は安心できない。シェリダンとブラムスの治世からカミラとドラクルに覇権が移り変わって今では友好的な関係を取り戻しても、あの戦いの痛手と負担は計り知れなかった。それにローゼンティア側からしてみれば、ミカエラのこともある。今王権を握っているのはドラクルたち反王権派だが、それでも十五歳の王子の訃報は気分の良いものではない。
 そんなわけで、いつまたローゼンティアにとって近くの驚異となるかもしれないエヴェルシードが荒れているということは、吸血鬼たちにとっては良いことだった。いっそ内乱に陥って自壊してくれればもっと安心できるのだが、さすがにそこまではいかないだろう。
 と、いうよりもさすがに隣国の滅びをそこまで傍観してはならないのだ。武の国エヴェルシードの力は驚異ではあるが、一つの国が滅びればそれだけの問題がまた他国に飛び火するものだ。吸血鬼の王国であるローゼンティアでは難民の受け入れなどできないし、隣国が荒野になれば経済的な影響も大きい。そんな危険を見過ごすくらいならばむしろ、ここでエヴェルシードに恩を売って、あの国の舵取りにローゼンティアの手が介入できるようにしておく方が都合が良い。
 だからこそ、ドラクルはエヴェルシードのカミラのもとにルースを送り込んだのだ。適度にカミラの評判を下げ、そして回復して恩を売るようにと。それができる人物はドラクルの信頼厚く策謀の知能を持ちそして何よりもカミラの方でこの提案を承諾するほどの身の証が必要であった。ルースの場合ならそれはドラクルの妹という一言で全て片がつく。
 そうして彼女はドラクルの言いつけどおりエヴェルシードでカミラの評判を意図的に操作するように動き、定期的にドラクルに報告のために戻ってくる。
 これまではただの兄妹だったが現在では建前上は王とその臣下という身分が優先される。ローゼンティアの黒色の石が敷かれた上に紅い絨毯の謁見の間にて、ルースは跪きながらドラクルに状況を報告する。
「カミラ女王の名を落とすことは順調です。女王は身体的な不調も精神的な不安もあって、ここのところ常に苛立っている様子。取り返しのつかない狂態を晒すのも時間の問題でしょう」
 ルースの言葉に、謁見の間とはいえこちらは寛いだ様子で玉座に背を預けるドラクルが満足したように口元を吊り上げる。
「そうか。では、このぐらいで勘弁してあげようか。カミラ女王に関しては。ではルース、お前は今度から今まで下げた分のカミラの評判をそれと気づかせずに持ち上げて救っておいで」
「御意」
「ふふ。ではここからは、堅苦しいやりとりは抜きにしよう」
 ルースの返事を聞いてからドラクルは頬杖ついていた手を外し、指先でルースを招く。
「お兄様……」
 玉座に近寄り、ドラクルの膝に侍るようにしたルースが兄を見上げて微笑む。
「ローゼンティアの方は落ち着いているよ、ルース。エヴェルシードの状況が今また何か仕出かしてもおかしくないほどに荒れているとあって、いつ八つ当たりでまた攻め込まれるかと恐れた王権派の臆病な連中は水面下に潜っている」
「まぁ。それではエヴェルシードの方を私が落ち着かせてしまったら、今度はローゼンティアの方が荒れてしまうのではありませんか?」
 ルースの言葉に、ドラクルはいっそうその笑みを深くした。
「そうだよ。だから、その時がこのローゼンティアの方向を決める一大事だ」
「そこで王権派を打ち倒しあなたが勝てば、今度こそこの国はドラクルのものですね」
「ああ、そうだ」
エヴェルシードが荒れている間ローゼンティアが落ち着いているということは、逆に言えばエヴェルシードが落ち着くと今度はローゼンティア国内が荒れると言う事。隣国の脅威という重石がなくなればローゼンティアの王権派貴族はここぞとばかりにドラクルたち反王権派を排斥しようと動き出して来るだろう。
 だが、土竜がそうやってのこのこと巣穴から這い出てきた時が彼らの最後だ。完膚なきまでに叩きのめし、今度こそローゼンティアの玉座に相応しいのはドラクルであることを認めさせる。
 そうして足場固めをしてしまえば、もうロゼウスが国に戻って来たとしても怖くはない。
 だが、何かがドラクルの脳裏にひっかかる。
「……ルース」
「はい」
「ハデス卿のことなのだが、お前、何か知らないか?」
「何か、とは?」
「彼はまだ何か私たちに隠し事をしている。デメテル帝を倒すという言葉がすでに謀反として彼の大望を晒してはいるが、ハデスにとってはまだ、この私の復讐につきあう理由があるのではないか?」
 ドラクルは考える。彼がブラムス王とその本当の息子であるロゼウスに果たしてどんな形で復讐するかを考えていたとき、自分もその企みにつき合わせろと近づいてきたハデス。彼らは協力関係にあり、ドラクルの復讐が終われば次はローゼンティアの方でハデスの簒奪に力を貸すことになるが。
 それ以外にも、彼にはまだ思惑があるのではないか?
 ドラクルは自身の能力に自惚れるわけではないが有能であるという自覚はしているし、それに対し弱味を握られる部分も多いのだと言う自覚もある。だからハデスが後々の皇位簒奪に関して動かす相手としてもっとも近づきやすいの自分だったのだろうと考えはするが、おかしい。
 まだ何かが足りない気がするのだ。
「これは一体、どういうことだろうな……」
 そんな風に思考にふける兄の姿を、ルースはルースで見つめる。
 ローゼンティア王ドラクルはまだ、ロゼウスが皇帝となるべき運命を持つことを、知らない。


203

「エヴェルシードに戻りたい」
「私は便利な移動道具じゃないわよ。シェリダン王」
「……」
「……わかったわ。連れてってあげるわよ」
 デメテルの移動能力により、シェリダンたちは皇帝領薔薇大陸から再びシュルト大陸東部の国、エヴェルシードへと戻ることとなった。
 準備を整え、一行は城の門前に立つ。虹色の花畑の中に立ち、最後の武器確認を行う。
 デメテルは何の思惑があってか、これ以上はないというほどしっかりと彼らの装備を揃えてくれた。ロゼウス、シェリダン、クルス、リチャード、アンリには長剣を、ローラとエチエンヌには使い捨てのナイフを幾本も。ロザリーとジャスパーには武器はないが、全員が衣装を一新したので個々の防御力は上がった。
 エヴェルシードを追放され、着の身着のままで国を出てきた一行はもともとの持ち物が少ない。それぞれセルヴォルファスやジュダの下で最低限の路銀はもらったが、もはやそれで何とかなるような状況でもない。
 その経済面に関する不安を、デメテルは一蹴したのだ。出し惜しみなく彼女は皇帝の居城からこれまで貢物として届けられた財宝を引っ張り出し、それぞれに見合う武器を与えた。数ヶ月分の生活費に困らないだけの金を、すぐに使える金貨、銀貨、銅貨といざと言うときの質草になるような宝飾品とで渡された。
 ロゼウスたち自身にも、何故彼女がここまでしてくれるのかがわからない。以前デメテルはこうしてロゼウスたちに協力する理由を、次期皇帝であるロゼウスに貸しを作るため、などと言っていたが……。
 デメテルにどんな思惑があろうとも、今のところ彼女が味方だというのは本当のようである。渡された品には、毒や罠の仕掛けられたものはない。それに関してはこういったものを見分けるのが得意なアンリが保証した。
「今度は全員で行くのね」
 門前まで見送りに出てきたデメテルが、最終の準備をする一行を見る。
「ああ。いつまでもここに、あなたの世話になるわけにもいかないし」
 彼女の言葉にロゼウスは頷き、隣に立つ弟を見遣る。
 初めはミカエラもミザリーもウィルもエリサもいたのに、今はもうロゼウスとアンリとロザリー、そしてジャスパーだけとなってしまったローゼンティアの兄妹。それもこの場で最年少の弟に当たるジャスパーのことは、まだ本当に味方になったとは言いがたい。ハデスに唆されて、彼は確かにロゼウスを嵌めたのだ。その行動が結果的にミザリーを殺すことにも繋がった。
 ジャスパーに関しては、不確定要素が多すぎる。ハデスやデメテルの言葉によれば、選定者は皇帝のために生まれるのだという。その宿命に則って、ジャスパーもその主君であるロゼウスのために存在するのだ。だが神の意志を現世に示す選定者としての行動とジャスパーの本心は、傍から見る分には酷くわかりにくくて仕方がない。
 一体彼が何を望み何を求めるのか。残念ながら、ロゼウスたち兄妹でさえ彼のことをこれまで本当には知らなかったということだ。ジャスパーにはジャスパーの思惑があるのだというが、ロゼウスやアンリにはそれが何なのかわからない。
 ところがシェリダンやエチエンヌたちエヴェルシードの面々は、なんとなくそれがわかるような気がすると言う。
 下手に目を離してまたハデスや誰かに接触される恐れがあるよりは、とシェリダンの提案によって今回はジャスパーも同行させることにしたのだ。奴隷として売られ、吸血衝動によって暴走し、シェスラートに協力し、ハデスを脅されたジャスパーはロゼウスたちから見れば多少性格が変わったように思える。もともと口数の多い少年ではなかったジャスパーは、最近とみに喋らなくなってきている。
 気がつくと彼は何か言いたげに口元を引き結びながら、ロゼウスをじっと見つめているのだ。
 ――僕は兄様のために生まれた。
 いつかの暗い告白がロゼウスの脳裏を過ぎる。あれはジャスパーの本心だったのだろうか。それとも選定者としての使命がそう彼に言わせたのか。
 わからないが、このままジャスパーを捨てるわけにもいかない。
「もうここに戻ってくるつもりもありませんから、ジャスパーも連れて行きます」
「そう。わかったわ。……と言っても、あなたが次の皇帝である以上、私が死んだらこの城はあなたのものになるんだけどね」
 ロゼウスの服の裾を握って佇むジャスパーを見ながらそのことを聞いて苦笑したデメテルは、どこか諦観の漂う口調で告げる。
「……そのことなんですけれど、皇帝陛下。何故、次の皇帝が即位すると前皇帝は必ず死なねばならないんですか? 皇統に関してはあまり伝わってませんけど、わざわざ前皇帝を処刑とかするんですか?」
 ハデスはロゼウスの前で何度もそう繰り返したが、実のところロゼウスはそれについてよくわかっていなかった。ロゼウスだけでなく、一般的な国王になるべく帝王学を叩き込まれたシェリダンやアンリもそれについては詳しくは知らないと言う。
 皇統には謎が多い。皇統というより、皇帝と言う方が正しいのだろうか。あくまでも皇帝は世襲制ではないのだから。だが代々の皇帝たちの前歴や退任後についての話と言うのは、ほとんど流れて来ないのが現状だ。
 現に先だって、ロゼウスたちは彼の前世だというシェスラート=ローゼンティアとその名を交換して実際に始皇帝として務めたロゼッテ=エヴェルシードの因縁を聞いたばかりだ。
「ああ、それ。そんなもの、文句は神様にでも言ってちょうだい」
「何?」
「そういう宿命ってものがあるそうよ。皇帝と選定者の殉死の運命やら、代替わりが速やかに行われるためか何か知らないけれど、前の皇帝が必ず何かで死んでから次の皇帝が即位するっていうの」
 そしてデメテルはその若く美しい顔に、悟りきったような表情を浮かべた。
「私は最近になって特に皇帝の任を解かれるような大きな失敗をした覚えはないし、これと言って生き方を変えたことはないわ。それでもあなたが今ここに、その子の身体に選定紋章印を宿して存在すると言う事は、私は近いうちに死ぬのでしょう」
「デメテル陛下」
「いいのよ。ハデスはあなたに八つ当たりで怒っているかも知れないけれど、それ自体はあなたのせいではないもの。あの子のしたことをあなたに許してほしいとは言わないけれど、あの子にも心はあるわ。特に私はあの子に対して無茶をしたからね」
 両親を殺して父の腕から紋章印を剥ぎ取り生後間もない弟の腕に移植してまで選定者の任務と宿命を与えた。デメテルの行ったそれは、ハデスの望んだことではなかった。
 けれどそうしてハデスに逃れようのない運命を与えた彼女もまた、自らが志願して皇帝になったかと言われれば違う。天啓はある日突然彼女に訪れたのだ。
 虹色の花畑で、傍目には争う気配もないほどに静かに対峙するデメテルとロゼウスの間にあるのは、去り逝く者と生き続ける者という以上に、奪う者と奪われる者という関係だ。
 二人の持つ色彩はまったく対照的である。人間の女帝は黄色い肌に黒い髪と黒い瞳を持ち、吸血鬼の王子は白い肌に白い髪と紅い瞳を持つ。生まれ育った環境も身分も何もかも違う二人。
 だがその根底には、一つの連帯感とも言えぬ共感があった。二人は同じことを知っている。
 この世には、自分自身ではどうにもならないことがあることを。
 ロゼウスは望んでローゼンティア王の第一王子として生まれたわけではない。その地位こそは誉れ高いかもしれないが、それがドラクルを苦しめ続けたものであるとすれば、それは例え何百万の国民を救っても一つの罪であるのだろう。
 ロゼウス自身にはどうしようもないことではあるが。
 そんな事情を、彼以外の人々もみんな抱えているものだ。目の前にいるデメテルも、ロゼウスの服の裾を掴むジャスパーも、ハデスも、ドラクルも。
 人は人が願うとおりには生きられない。奈落の底を覗かなければ知ることのできない深淵もあると、言葉で言うのは容易い。だが。
「ロゼウス」
 デメテルとの間に言葉の続かなくなったロゼウスのもとへ、自分の方は持ち物の確認やらクルスたちエヴェルシードの面々と相談して事の次第を解決するために必要な行程やらを確認していたシェリダンが、ロゼウスのもとへと歩み寄ってきた。
「シェリダン」
 デメテルは何も言わず、ロザリーたち別の者と話をするためにさりげなくロゼウスから離れていった。何も言えないままロゼウスはその身が離れたのを見送って、近寄ってきたシェリダンへと視線を移す。
「どうしたんだ? 出発直前に」
「ちょっとな。昨日荷物整理をしていて見つけた。ここのところ忙しくてうっかり渡すのを忘れていた」
「?」
 何のことだかわからないという顔をするロゼウスの前で、シェリダンは懐の中をごそごそとやり始めた。やがてその手に、小さな袋を乗せてロゼウスの前に突き出す。目の前で袋の中身が開けられると、その中には一揃いのピアスが入っていた。
 紅い宝石は、柘榴石だろう。きらきらと控えめだが確かな光を放つ小粒の石を眺めて、ロゼウスは声をあげた。
「綺麗だね。何、これ。くれるの?」
 渡す、ということはロゼウスにこれを持っていろということなのか? そう考えて尋ねたロゼウスだが、シェリダンから返ってきたのは否定の言葉だった。
「いいや」
 ……だったら何故俺に見せたんだ。
 意図の掴めない行動に眉を上げるロゼウスの目の前で、一度その柘榴石の紅いピアスを閉まったシェリダンは、徐に自らの耳へと手をかけた。
 シェリダンがこれまで身につけていたものは、その髪と同じ色のラピスラズリのピアスだ。けれど、どこかロゼウスが見慣れたものと違う。
「エヴェルシードにいた頃につけていたやつと違わないか?」
「気づいたか? そうだ。あれもこれも旅の途中で買った安物だ。だが、細工はすでに施してある。見ろ」
 シェリダンは自らの耳から外したピアスを示してロゼウスに説明する。
「ここをこう……こうすると毒が滲み出てくるようになっている」
「ああ、うん。で?」
「お前にやる」
 ロゼウスが声を上げる間もなく、シェリダンは自らの耳から外した方のピアスをロゼウスの耳にぶすっと遠慮なく刺した。
 ちなみに同じ耳飾りでもロゼウスはそれまでイヤリングはつけたことがあってもピアスはしたことがない。そんなことは露ほども気にかけず、シェリダンは一つ目に続き、二つ目もさっさと皮膚に針を押し込んでしまう。
「いて! ……たたた、うわ!」
「ロゼ!? どうかしたの?」
 声に驚いて振り返るロザリーになんでもないと返しながら、ロゼウスは慣れない感触に戸惑いの声をあげる。
「ちょっとシェリダン、これ……」
「常時身につけられる物の方が、いざと言うとき武器になっていいだろう」
 人の耳に予告なく穴を開けてくれた男はあっさりとそう言って、自分の耳に開いた風穴には先程ロゼウスに見えた方の紅いピアスを嵌めなおしていた。こちらは当然慣れた様子で、痛みを感じている表情でもない。
 その様子をロゼウスの隣でじっと見つめていたジャスパーが、ポツリと呟いた。
「ロゼウス兄様の色」
「え?」
「シェリダン王の耳……兄様の方は、シェリダン王の色」
 そういえば柘榴石はロゼウスの瞳の色、ラピスラズリはシェリダンの髪の色ともとれる。シェリダンの瞳は金色がかった朱色なので、同じ色合いの石は滅多にないし、これまでは髪の色に合わせて無難にラピスラズリをつけていたのだろう。だが今ではロゼウスとそれぞれお互いの身体の一部の色を交換した形になる。
「お前が私のものだという証だ」
 王城でつけていたものはジュダの城でなくした。旅の途中の港で買った安物とはいえそれまで自分が身につけていたピアスをロゼウスに押し付けた形になるシェリダンは、ロゼウスの耳から流れた血を舌で舐めとる。
「これから先何があっても、お前は私のものだ。――そして私がお前のものであるように。私はもう、それだけで充分だ」
「シェリダン……」
「永遠に放してなんかやらないからな。わかっているだろう。ロゼウス」
「うん」
「……お二人とも、僕がいるんですけど……」
 ジャスパーの存在を無視して二人の世界に入りかける野郎共に、弟は突っ込みを入れる。その怒りの眼差しを、シェリダンは余裕の表情でもって受け流した。
 更にジャスパーは怒りを煽られる。
「三人とも、そろそろ行くんでしょ?」
 出発の準備が整ったとデメテルが声をかけてきた。

 ◆◆◆◆◆

 少し冷たい風を頬に感じ、一行は知らず瞑っていた目を開けた。
「じゃ。私はこれで」
 そんな短い言葉だけを残し、デメテルが文字通りその場から姿を消す。魔術によってあっさりと皇帝領に戻った皇帝には、例えばここがシェリダンたちの思った到着地点でなくとも別の場所に移動させてくれるような気はないらしい。
 一行の周囲は、緑に囲まれていた。草原が広がり、遠くには田畑が見える。それを耕す農夫の姿は、ここからでは遠すぎて豆粒のようだ。
 あまりにも牧歌的な雰囲気。
 しかし、その遠くには建物の群生が見える。エヴェルシードの濃い灰色の建物郡が並ぶ、そこは王都だ。青い空の下にそびえている城は、王城。
「ここは……」
「この景色、どこかで見覚えがあるような気が」
 シェリダンの言葉に、クルスが答えた。
「王都の近くだと思います」
「それは見ればわかるんだが」
「そうではなくて……ええと……ユージーン侯爵領だと思います」
「お前の土地か」
「はい。見回りの中で何度も見た……と思います」
「そうだな。ユージーン侯爵領は王都近くそして牧歌的な土地だ。だが……」
「少し、雰囲気が昔と違います。雰囲気が暗い」
 クルスが悲しげに呟いた。シェリダンにもその理由がわかる。ユージーン侯爵領はクルスが侯爵家当主としての役目を果さずにシェリダンを追って国を出たために、侯爵領は罰を受けたのか、人の姿がこれだけ少ないというのに酷く空気が重苦しい。
「僕は……」
 侯爵失格だ。小さく呟いた声を、誰もが聞いたがそれに同意も反対もしなかった。確かにクルスのやっていることは領主としては失格だ。だがそれに救われているのは他でもないシェリダンである。
 王を捨て、忠誠を捨ててでも、民を守るのが領主の役割だ。本来ならクルスはシェリダンを捨て、民を守るためにカミラに傅かねばならない。
 それができないのであれば、確かに領主失格だ。そのせいでどれだけの人が苦むのか、所詮は王侯貴族の立場である彼らには理解できない。
だが、それでも、譲れないものがある。
「クルス」
「シェリダン様」
「ここからユージーン侯爵領に戻ってもいいぞ」
 クルスが言葉を失い、橙色の両目を見開く。
「何、を……」
「ユージーン侯爵としての立場に戻って良いぞ」
 シェリダンはその台詞を平然として言えるのが嘘のように、穏やかに微笑んでいる。
「何を仰るんですか、陛下! 僕は……!」
「だがこの土地の民はお前と言う主をなくしたことで疲弊している。かつてはこの国を治めていた者として、私はそれを歓迎したくはない。お前が私を選んでくれたことは嬉しかった。だが、民を大事にしてやれ、クルス。この土地には何十万もの……」
「どれだけ多くの民を従えたって、あなたが僕の主君でなければ意味がない!」
 滅多に感情を荒立てることのないクルスが、他でもないシェリダン相手に叫んだ。
「どんな立派な名君の称号を抱いたって、あなたのために働く事ができないなら意味がない!!」
「クルス……」
「僕は駄目な領主で結構です! シェリダン様、それでもあなたのために生きていたい! 僕の人生にはあなたという主がいないと意味がないんです!」
 クルスは腹の底から声を吐き出した。聴覚の良すぎるロゼウスたち吸血鬼にとっては耳が痛いくらいだ。
 シェリダンは溜め息をついた。
「それは、私が侯爵領に戻れ、と言ってもか?」
「はい」
「これが私の命令でも」
「はい。今の状態でこの国に戻り、シェリダン様を恨むカミラ姫の下に仕えてもあなたのためになるとは思えない。だから、まだ僕は、シェリダン様、あなたのお側におります」
 どうやっても意見を変えないクルスの頑固な様子に、シェリダンは二度目の溜め息をつく。
 ロゼウスがエリサを遠ざけたように、シェリダンもここでクルスを遠ざけたかったのだ。自分たちの問題に巻き込みたくないということもあるし、先程の言葉通りクルスにはユージーン侯爵領の民を守ってほしいという思いもある。
 エチエンヌやローラ、それにリチャードはもう帰るべき家も、守るべき民もない。だからこのままシェリダンのそばにいるしかないだろう。しかしクルスは違う、愛してくれる両親も守るべき民も財産も作り上げた功績もまだ、今ならば取り戻せる。
 それに。
「このままお前が私についていても、どうせ私は……」
「え?」
「……いや、なんでもない」
 言いかけた言葉を飲み込んで、シェリダンは瞳を閉じた。
これは今、クルスに意識させるべき言葉ではないだろう。シェリダンとて海の洞窟でサライに言われたことを、ハデスに再び告げられるまで忘れていた。いずれは思い出すかもしれないが、今はまだ忘れていた方がいいのだろう。お互いのためにも。
「シェリダン!」
 ロゼウスの鋭い声が呼んだ。
 はっと振り返ったシェリダンとクルスの眼に、こちらへと駆けてくる影が見える。馬に乗った人影らしい、相手はどうやら一騎だけだ。
 しかし話に集中しすぎたためか、身を隠すのが遅れた。もともと平原と遠くに田畑しか見えない目隠しするようなものの何もない場所に放り出されたのだ。その場に緑の布を被って這い蹲っても隠れられそうにはない状況だ。
「ちょ、どうする!?」
「私たちこの場では悪目立ちしすぎですよ!」
「僕たちじゃなくてもそうだよ!」
「いや、あるいは薄緑の髪のフィルメリア人あたりなら」
「隠れられるわけないだろ!」
「っていうか全員落ち着け! 相手は一騎だろう! 叩けばいいだけだ!」
シェリダンの一喝に、皆は冷静さを取り戻す。
「そ、そうだな。あの人影を倒して馬を手にいれられたら有利じゃないか!」
「九人で一頭には乗れないでしょう……」
 とにかく、ここで見つかるのは得策ではない。シェリダンもクルスもこの国内では有名人だ。しかもどこか田舎ならばともかく、王都に程近いユージーン侯爵領でその領主の顔と国王の顔を知らないと言う者も少ないだろう。
 しかし一行の心配は杞憂に終わった。
馬に乗った人影は、見慣れた相手だったのだ。
「シェリダン様!」
 女は驚きに目を瞠って馬上から叫ぶ。引き絞られた手綱のせいで、馬が前足を振り上げた。一幅の絵画のようなその様子を眺めながら、シェリダンたちも叫ぶ。
「エルジェーベト!」
「バートリ公爵!」


204

 ガシャンと音を立ててグラスが砕け散る。
「何よ! 女王である私の言う事が聞けないと言うの!?」
 カミラは怒りのままにそうやって食器を薙ぎ払うと、食事中に案件の奏上に来た男を一喝した。可哀想なのは今日の料理を作った料理人たちと、この部屋の後片付けをする侍女たちである。
「女王陛下、ですが……」
「あなたとの問答は無用よ! いいから、先日の通りになさい!」
「そんな……!」
 怒鳴られてもめげずに食い下がろうとした男に、カミラはデザートの皿を叩きつける。すでに吟味の終わった件に関して、今更がたがたと。
 男の言い分には確かに一理ある。訴えももっともかと思われる。
 だがしかし、ここで男の言葉を認めてしまえば他の件もそれに関して往々に調節しなければならない。城に何事かを申し出た団体だけを常に優遇するわけにはいかないのだ。しかもそれは数日前にこれで完全決着だとけりをつけたはずの案件ではないか。
「女王陛下! お話をお聞きください!」
「聞きたくないと言っているのよ!」
 このままでは埒が明かないばかりか女王の機嫌の下降するままに部屋の被害が増えるばかりと判断した侍従の一人が、バイロンを呼びに行った。数ヶ月に一度は実家のある城下の下町に戻る宰相は、しかしここ最近はそれもなくずっと王城シアンスレイトに留まっている。カミラの面倒を見るたびに。
「女王陛下!」
 バイロンがやってきた部屋で見たものは、乱れたテーブルに床下に割れた皿とグラス。デザートを頭から被った男と、明らかに苛立った形の女王。
 状況を見れば、若き女王がヒステリーを起こして訴えに来た民の男を甚振っているようにしか見えない。
 しかし、デザートを被っているとはいえ男の顔に見覚えのあったバイロンは、二人が言い争っているのが何の案件に対してか理解した。城に何事かの用件でやってくる人間など決まった相手でなければ到底覚えることの叶わないほど多いのであれば滅多にないその記憶は、その男がつい先程バイロンの方も訪れたことが理由だ。
 宰相は深く溜め息つく。
 カミラにももちろん言いたいことはあるのだが、その前にこの男を部屋から出す方が先決だ。
「卿、貴殿はここで何をしておられる」
「さ、宰相閣下」
「卿の持ちこんだ件は先程、このワラキアスがしかとお聞きしたはずだが」
「そ、それは……」
「わざわざ女王陛下のお食事中に無礼にもこちらまで赴いて、何をしておられるかと聞いている」
 男が押し黙る。こめかみに脂汗をかいている。
 カミラは仲裁に入ったバイロンの、すでに男の用事を聞いているという言葉に眉間に皺を寄せた。それはつまり。
「お、恐れ多くも、わたくしは先程宰相閣下にお話した件を女王陛下に直接聞いていただきたいと」
「それが無礼だと言っている。私が明日議題にかけるといったものをこんな時間に女王陛下のお耳にいれる必要がある。貴殿の申す事は火急ではないと判断されたが?」
「そ、それは……」
 カミラは深く溜め息をついた。そして、眼差しを先程よりさらに険しくして告げる。
「出て行きなさい。この場から即刻! そうでなければ、明日は朝の議会の前にお前の首を刎ねるわ!」
 女王の恐ろしい命令に、男は尻尾をまくって退散した。
「女王陛下……」
 残されたカミラとバイロン、そして周囲の小姓や侍女たちはこれでようやく落ち着いたと安堵の息を吐いた。どうにも怒りっぽいこの女王様は、人の神経をすり減らす。それを制御できるものは極少数しかいない。
「グラスを叩きつけ、デザートの皿を投げつけるのはやりすぎです。これをたてにあの男がまた女王陛下に対する風聞を流しでもしたらどうするのです?」
「ふん。そうなったら、今度はあの男の所業をこちらが流してやるだけよ」
「ああいった手合いは気に入らなければすぐに自分が被害者面をするのが得意です。対応は慎重になさるのが賢明です」
 バイロンの言葉に、カミラはじろりと彼を睨んだ。彼のいうことはもっともなのだが、感情が納得できないのだ。
「カミラ陛下、陛下のお気持ちをお察しいたします。あの男は私に話を通しては自分に有利な条件をつけてはくれないと判断し、女王陛下が真剣に議題内容を考え判断をくだすことがないだろう食事時を狙ってあえてここに来たのでしょうから」
 カミラの対応もあんまりではあるが、先程訴えに来た男は男で問題だったのだ。彼は宰相バイロン=ワラキアスよりも無能で甘い判断を下すだろうとカミラの能力を見くびって、適当に言いくるめて自分に有利にことが運ぶようにこの時間にこの場所を訪れたのだから。
 だが、カミラを腑抜けと侮ったことがそもそもの間違いだ。
 カミラの対応は問題だが、彼女は話そのものを聞く気がなかったわけではない。むしろ全て聞いた上で、あれだけ彼女を怒らせたのが男の言い分だったのだ。
 まだ若すぎる女王だから適当な言い回しで言いくるめられると不敬にも女王を見くびったのが男の敗因だ。しかも、気性の激しい最高権力者として彼女の下す処断は常にバイロンよりも苛烈である。
「ですが女王陛下、あのような輩をいちいち相手にしていてはまともに国政が進みませんよ?」
「わかってるわ」
 食事時の訪問など、それこそ話半分に聞くか断ってしまうのが王の常だ。それをまともに招き入れるのだから、カミラは確かに仕事熱心な王ではあるのだ。
 だが、足りない。そうあえて言うのであれば心の余裕とでも言うべきものが。先程のことだって、カミラが冷静であれば本来は彼女一人で治めることが出来たはずの事態である。
 こうして身近に接するようになりバイロンも知ったが、カミラはけして何もできない人間ではない。むしろ行動力という点で見れば人一倍活動的で、何かを行う意志が強い。参謀さえ優秀であれば、充分王になれる器だろう。それができないのは、やはりまだシェリダンの事が気にかかっているからであろうか。
 妹は常に兄の後ろに追いやられてきた。
カミラに足りないのは絶対的な余裕。だがそのことに本人が気づいていない。無意識下で肩肘を張ってるためか、自らの精神の限界を認められずにいるのだ。
 だがこのままでは、このエヴェルシード王国は……。
「食事を続けてください、女王陛下」
 不穏の種はすでに撒かれていた。

 ◆◆◆◆◆

「災難でしたね。ワラキアス宰相閣下」
「イスカリオット伯……」
「こんな時間までお仕事御苦労様です」
 気品ある顔つきの青年はそんな言葉と共に、彼の執務室の前でバイロンを出迎えた。王城内部で立ち話と言うわけにもいくまい。バイロンは部屋の扉を開け、ジュダを招き入れる。
「また女王陛下のヒステリーにつき合わされたのですか?」
 言葉を飾るということを知らないような率直な発言をする普段言葉を飾りすぎる青年の言葉に、バイロンは溜め息と共に答えた。
「女王陛下をただのヒステリー娘だと侮りその逆鱗に触れた者の後始末に付き合っていたのだ。勘違いはしないでいただきたい」
 ここ最近、バイロンは自分の呼吸と言う呼吸が溜め息に変換されているのではないかと思う。
 ジュダは整った造作の中、唇を薄く笑みの形に歪めた。バイロンが椅子を勧めたにも関わらず彼は入り口から数歩入ったその場に立ったままである。
 狂気伯爵。ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
 八年前には自らの一族を惨殺するという乱行を犯した貴族。殺戮の魔性と呼ばれるエルジェーベトとは、また違った意味で恐れられている青年だ。
 シェリダンがまだこの国の王であった時、彼はそのシェリダン王に味方しているように見えた。しかしそもそもシェリダンがエヴェルシードを追われる原因を作ったのもジュダだ。彼は土壇場でカミラに味方して簒奪に手を貸し、シェリダンをその玉座から引き摺り下ろした。
 だが、少なくともあの頃のバイロンの眼から見てジュダがシェリダンを忌み嫌っていて王として不適当と扱っている様子はなかったし、簒奪が成功し政権がカミラへと交代してもジュダがさほど真剣にカミラを立てる気がないのもわかっている。簒奪の協力者としてはちょくちょく借り出されているが、それでもジュダはカミラに心の底から忠誠を誓っている様子ではない。
 それどころか、最近のこの青年は何にも心動かされることはないような有様だった。シェリダンを追放してカミラを玉座につけたことも一体何が目的だったのか。特にその功績でカミラから何か褒美を貰った様子もなければ彼女の熱心な派閥でもないジュダの扱いには、エヴェルシード中の貴族が首を傾げている。
 いっそバイロンやエルジェーベトのようにカミラを手助けしながらもあからさまにシェリダンを立てる様子を見せてくれればまだわかりやすいのだが、そんな様子でもないようだ。
 彼は一体何を考えているのだろう。
 バイロンはもう四十過ぎになる。だが、まだ三十年も生きていないこの若者の考えていることがわからない。
 人は大人になればなんでもできるように子どもの頃は考えていたものだが、実際にもう大人と言うより老人と呼ばれるに相応しいほどの年齢となって、そんなこともないのだなと知る。願っても叶わないことばかりで、いつも最悪の事態を止めることができない。
「宰相閣下、現在のこの国の様子はどうです?」
「それはこの城に引き篭もっている私などより、貴殿の方がよくご存知ではないのか。イスカリオット伯」
「私は領地に住んで領地の資料に目を通しているだけ。あなたはここに住んでいるが、国中から集められる情報を知っている。それらを考えれば、あなたの方がこの国をよく知っているでしょう。何せあなたは一人で三人の王に仕えた宰相閣下だ」
 三人。ジョナス、シェリダン、カミラ。
 四人目はいらない。
「何が言いたいのだ。伯」
「そろそろこのエヴェルシードは危ないと言うことですよ。王城だけではなく、エヴェルシード全域で民の不満が高まっている」
「……王が代われば、当然それに伴った改革が行われる。だが、民衆の暮らしはそう簡単に変われるものではない。ジョナス王が退位されてシェリダン王の治世になったのももともと急な話だったのだ。それが半年もしないうちにまたカミラ王の治世となり、民はついていけないのだろう」
「それはよくわかっていますよ。だが、我々の仕事はそうやってこの国が潰れないように策を講じることでしょう。民のことを思いやるのは勝手ですが、それで国を滅ぼしてしまえばまた路頭に迷うのは民ですよ。これまで絶対王制の軍事国家だったこの国で、いきなり王家が断絶して指導者がいなくなったところで民が生きのびられるはずはないのですから」
「ではどうすればいいのだ」
 もっともなことを言うジュダに、だがバイロンは苛立った口調で尋ねる。ジュダの言うことは確かに正しいが、しかしそれはカミラの未熟な統治能力の補佐を務め、彼女を排するにしろ持ち上げて甘い汁を啜るにしろどちらにしても利用することには変わらない輩との対応をしたことがないから言える言葉だ。
 カミラが努力していることも、そのやり方が無茶であることもバイロンは知っている。そのおこぼれに預かろうと、あるいはカミラ自身の存在を玉座から排してしまおうと虎視眈々と狙っている貴族たちのことも。そんな上層部の混乱に巻き込まれて、国内各地で民が疲弊していることも。
 このままでは民衆の不満が爆発して内乱になる。内乱。それはもっとも恥ずべき事だ。皇帝によってアケロンティス帝国においてこのエヴェルシード公爵領を任されている王が、自身の能力のなさを自ら示しているも同然だからだ。
「簡単なことだ」
 しかしそんな恐れを払拭することを、ジュダは容易だとあっさり言ってのけた。
「カミラ女王に不満が集まるのであれば。新しい王を玉座に据えればいい」
「だがそれではまた国民に負担がかかる。それに次の王がカミラ女王より優れていると誰が知るのだ」
 国の慶事には民も祝い金として祭を開く。そうまでして即位を祝った新王の統治が以前よりもまともなものであるという保証はない。しかも新王を据えるとは言っても、実際今この国にはカミラの他には王族が一人もいないのが現状なのだ。
 そのバイロンの考えも、ジュダは簡単に治めた。
「それはまったくの新王を立てる場合でしょう。祝いの慶事もいらなければ、カミラ女王より優れている事はすでに実証されている。そして王族である。そういった人物が再びこの国に立てばいいのですよ」
ジュダはあっさりと言い放つ。
「シェリダン王さえこの国に戻れば、全てが解決します」


205

 エヴェルシード王国の不穏は城下にまで広まっている。
 一日の仕事を終えた兵士たちは、城に住み込みで働いている者以外はそれぞれの家に帰る。王城まで通えるくらいなのだから、王都を出ることは滅多にない。あるいは故郷の村から王都まで出稼ぎに来て王城に勤めている者もいるが。
 もともと王都シアンスレイト在住の兵士たちは、朝、昼、夜と絶え間なく城を警備するために交替で当番を決め、その警備と警備の合い間の休みが長い場合に家へと帰る。そうして頼りない財布をそれでも懐に、安い酒場へと繰り出していく。
「なぁ、聞いたか? 例の話」
 ここにいる兵士たちも、そう言った手合いだった。「炎の鳥と赤い花亭」で酒を飲んでいる兵士二人は、任務を終えてその休みに酒を飲みながら語り合っていた。
「ああ。女王陛下に不満が高まってるってことだろ?」
 内容はここ最近のエヴェルシードの情勢に関するできごとだ。
「聞いたか? ユージーン侯爵の先代当主、クロノス閣下が女王陛下に何か言いに言って、今は牢の中だったてさ」
「マジか。当主本人のお坊ちゃんは前のシェリダン王の熱烈なファンで一緒にどこか行っちまったとは聞くが……親父さん苦労してるんだなぁ」
「女王にしても今回は処刑にするのではなく、そこで頭を冷やせってことらしいが……周りから見たら女王も充分頭を冷やしてほしい相手だよなぁ」
「でないと俺たちが大変だ」
 王城に登城する貴族たちの統制がとれず城内が混乱しているように、城下もまた普段にはない浮かれたような、腐った果実のような爛熟の気配に満ちていた。
 滅びる前の国は憂いに沈み込むのではなく、むしろ浮かれたような雰囲気に包まれるのだという。人間何かを諦め、通り越した境地に達すると後は楽天的になるしかないということか。希望は時に絶望よりも性質が悪い。
 だが、まだ現時点ではエヴェルシードが即座に滅びる事はないように見える。民の不満は集まっているが、その流れをどうにか改善できれば、国は良い方向へと向かうだろう。
 女王カミラの治世一年目、土台が簒奪でありもともと王権を確立する基盤の脆いカミラにとっては、始まりからすでに正念場であった。
「お大臣の誰かが言ってたらしいぜ。このままではこの国が滅びちまうってさ」
「おいおい本当かよ。あることないことにびびった無能なおっさんの戯言なんじゃねぇの?」
「いや、ダーリグからの情報だが、今回は違うってさ。上の方でも有能で知られるお役人方が揃って頭を抱えてるんだってさ」
「そうかぁ」
 男たちは顔を見合わせ、ここ最近の王城の様子を思った。
 一般の警備兵である彼らにとって、王や大臣など雲の上の人だ。それでも先代シェリダン王などは気さくな少年だったと評判でよく兵士たちの練兵場や兵舎にも顔を出したと言うが、今のカミラ女王に関してはそういったことはしない。
 兵士たちにしてはセルヴォルファス侵略以来、目だった仕事がないのが現状だ。とはいってもその狼の国に攻め込んだのも、つい数ヶ月前のことなのだが。
男の一人が、深く溜め息つく。
「とうとう、この建国三千年のエヴェルシード王国も終わりかぁ……」
 もう一人の男はぎょっとした顔になる。
「な、何言ってんだよお前」
「だって、俺たちのお隣のローゼンティアも、北のセルヴォルファスも滅びたぜ」
「滅ぼしたんだろう、俺たちが」
「国ってのは結構簡単に滅びるもんよ。特に俺らエヴェルシードみたいな、君主が一つ間違えば大人数の命が勝ち目のない戦場に投入されていくような国はな」
「カミラ女王はセルヴォルファス侵略には勝算があるから仕掛けたみたいだが」
「たった一度じゃ、それが成功なのか失敗なのかわからねぇよ。だいたい、セルヴォルファスに攻め込んだところであの国は岩と土しかねぇじゃねぇか。あんなところで暮らせるのはそれこそ人狼ぐらいのもんだろ。戦って何を得られたわけでもねぇ」
「あの後それに気づいたんだもんなぁ。たいした旨味のない戦いだったとな。まぁ、負けるよりは勝つ方がいいんだけどさ」
「だが勝っても国の利益にはならない戦いは無意味だ」
 結局そこへ辿り着く話に、二人の男は同時にまた溜め息ついた。暗い話題ばかりで頭が痛くなる。
「このエヴェルシードがなぁ、滅びるのか?」
「絶対に滅びないなんて保証はねぇよ。現にローゼンティアとセルヴォルファスは俺たちが滅ぼした。人様の家に泥棒に入り込んだ奴が、自分の家だけは被害に合わないなんて思ってるようじゃ駄目だろう」
 腐敗した国の片隅で、男たちの嘆息が響く。
「……」
 店主のフリッツはそれを聞きながら、ただ無言でグラスを磨いていた。

 ◆◆◆◆◆

 その日、王城には意外な客が訪れていた。
「顔を上げなさい。クロノス=ユージーン」
「は」
 クロノス=ユージーン卿は先代ユージーン侯爵、一人息子のクルスに爵位を譲った後は領地で平穏な暮らしをしていたのだが、その息子が行方不明となったことにより、再び領地を治めることとなった。
 王国側としてはクロノスにユージーン侯爵の位も復活させて務めさせようとしたが、当の本人であるところのクロノスがそれだけは、と拒否した。彼の中では侯爵位は息子とはいえすでに人に譲ったもの。それを今更再び戴くのはエヴェルシード貴族としての矜持が泣くと言われては、国としても無理強いは出来ない。
 クロノスの中では、理由も告げずに出奔したとはいえユージーン侯爵とはいまだ息子であるクルスのものなのだ。一人息子の不在に心を痛めた妻はここのところ寝台に伏せっている。
「それで、何の用なの?」
 謁見の間、玉座について女王カミラはクロノスを出迎える。蒼い髪に橙色の瞳をした典型的なエヴェルシード人の容姿をもつクロノスは、もうすぐ二十歳を迎える息子を持つとは見えない若々しさのたくましい男である。深謀遠慮とは無縁だがそれゆえ重宝する国の貴族の一人で、しかしいかんせん彼は統治者というよりも父親としての面が強すぎたか。
「私に国を空ける許可を頂きたい。国王陛下」
「……いきなり何を言い出すの?」
 クロノスの突拍子もない申し出に、カミラは呆れた声を返す。
 眼下に跪く男は必死のようだが、その図体で必死だからこそなおおかしい。
 彼は今、この国がどんな状況だかわかっているのだろうか。国内はカミラ派と彼女を排してそれ以外の王を立てようとする派閥に分かれて、水面下で競っている。表立ってそういった攻防にならないのはイスカリオット伯爵ジュダ卿やバートリ公爵エルジェーベト卿と言った大物貴族がどちらにも参加せず中立を守っているからで、その均衡が崩れたらエヴェルシード国内はすぐにでも内乱となるだろう。
 そしてユージーン侯爵領を治めるクロノスは、ジュダやエルジェーベトと同じくどちらの派閥にも属さない中立派であった。彼がこの時期にこの国を空けるとなればその意味は大きい。
 やけに堂々とした離反宣告だと思いつつもカミラが聞いていると、クロノスはさらに思いがけないことを彼女に続けた。
「私は、息子を捜しに行きたいのです」
「息子……お前の息子である、現ユージーン侯爵家当主、クルス=ユージーンを?」
「はい」
 十九歳の青年侯爵クルスは、クロノスとその妻フレイヤにとっては一人息子である。幼い頃より努力家で品行方正な子どもだった彼を、両親である二人は溺愛していた。それでもたおやかな淑女であるならともかくこのエヴェルシードで男として生まれたからには、とそれなりに好きにさせておいたのだが、それが今回は仇になった形だ。
 カミラがその玉座からおい落とした先代国王にして彼女の実兄シェリダン、その王に忠誠を誓うクルスはシェリダンが国内から追放されると共に姿を消した。
 確証のある話ではなく噂程度だが、彼を再びエヴェルシード国内で見たという証言は、ローゼンティアとの間で問題となったミカエラ王子の処刑現場である。あの場所には主君であるシェリダンも姿を見せ、これまた不確定ではあるが、カミラとローゼンティアが手を結ぶのを潰すためミカエラ王子を自ら処刑したという。本当だろうか。
 その噂が真実にしろそうでないにしろ、今もクルスはシェリダンと一緒にいる可能性が高い。クロノスはそう踏んでいる。
 そしてシェリダンと共にいるということは、クルスの立場は今も危ないと言う事だ。シェリダンに関してはカミラ直々に指名手配をかけている。いつクルスに対してもそうなるかわからない。
 そんな危険な状況に陥る前に、クロノスとしては息子を見つけ出して手元に戻しておきたかったのだが。
「駄目よ」
「何故ですか!?」
 女王は考える時間ももたずにさっさとクロノスの言葉を切り捨てた。思わず理由を問いただすクロノスに、冷徹な言葉が返る。
「今のエヴェルシードにおいて、侯爵としての権威をほぼ実質握っているのはお前なのよ、クロノス=ユージーン。その侯爵代理が息子可愛さに領地の支配を放り出して国を空けるとは何事? 息子のことは諦めなさい」
「そんなことできるはずがありません!」
 カミラの言うことはもっともだったが、言い方が多少まずかった。彼ら夫妻にとっては目に入れても痛くない一人息子を諦めろなどと言われて、父親が引き下がるわけにもいかない。
「それでは、私は息子クルスと共に、息子と一緒にいるであろうシェリダン王のこともお探しします! かの王がこの国に戻れば、エヴェルシードの混乱も治まるでしょう!」
 今現在のエヴェルシードの状態が、カミラでは支配し切れない勢力が口々にシェリダンさえ国に戻ればと言い合っていることだとはクロノスも知っている。だが、その一言は他の誰に言ったとしても、カミラにだけは言ってはいけなかったのだ。
「クロノス=ユージーン! お前っ、何を言ったかわかっているの!?」
 エヴェルシードの混乱は確かにシェリダンが戻れば治まりそうな話ではある。だがそれを面と向かって現国王カミラの前で言うということは、つまり彼女では力不足だと言っているも同然。
 そしてシェリダンを連れ戻すということは、カミラを玉座から追い落とすと同義だ。追い落とすとは婉曲的で平穏な表現で、実際は簒奪者が正当な王のもとで保護されるわけがないので、カミラに死ねと言ったも同然の言葉である。これでは謀反と見なされても仕方がない。
 カミラ女王の前では、シェリダンと言う名に王をつけることは決して許されはしないのだ。
「この者を牢へ!」
 エヴェルシードの情勢は、刻一刻と悪化していく。

 ◆◆◆◆◆

 この国で姿を晒すわけにはいかない者たちが集まっているのならばひとまずは、とエルジェーベトに案内されてシェリダンたちはリステルアリア城へと向かった。
 エルジェーベトの領地であるバートリ地方はエヴェルシード王国内でも北の辺境にある。領地こそ広いが王都から遠いその場所を治めるのは難しい。国内の情勢が不安定な現在、エルジェーベトは自らの領地であるバートリ地方のことは代理人に管理を任せ、自らはシアンスレイトの王城に頻繁に足を運んでいる。
 今年はまだ半分を終えたばかりだというのに、すでに怒涛の一年である。新年が始まるとともにシェリダンが父ジョナス王を幽閉して自らがエヴェルシード王として即位した。直後にローゼンティアへと侵略し、ロゼウスを国に連れ帰る。だがローゼンティアの支配は上手くいかず、そのうちにドラクルやハデスやジュダたち様々な者の思惑が重なってシェリダンは玉座を追われ、カミラが代わりに女王として玉座についた。しかしセルヴォルファスへと侵略した彼女の思惑は外れ、エヴェルシードは今、困窮の時代である。
 そんな中、王城にまた新たな動きがあったのだとシェリダンたちはエルジェーベトの口から聞かされていた。
「父上が!?」
「そうよ。クロノス卿は王城の地下牢にぶち込まれたわ」
 クルスの父であるクロノスは、カミラに直接、息子を捜すために国を空けたいと申し出たそうだ。聞いた瞬間に無茶だ、とシェリダンは思った。恐ろしく直情思考の男なので無茶だと自身でわかっていてもやっただろうが、それにしても。
「エルジェーベト……カミラは」
「案の定激怒しておりますよ。おかげでここ数日政務が更にはかどらなくて困っております。宰相閣下はそろそろ倒れますわね」
 バイロンと共にカミラを支えてエヴェルシードの中枢を担う女公爵は、そうして深く溜め息をつく。
 今のエヴェルシードは、風のない凪の海に放り出された船のようなものだと。航海に出る際、本当に怖いのは嵐ではない。それよりも恐ろしいのは、果ての見えない長きに続く凪なのだと。風のない海は船の進む力を奪い、停滞する状況の中で人々は自ら心病んでいく。あとはその船の中に残った食料や財宝を競い合って人々は争う。
 恐ろしいのは嵐より、凪。
 今のエヴェルシードの状況がまさにそれだ。シェリダンが父王を廃して玉座につき、そのシェリダンもカミラの手によって王位を追われた。ローゼンティアとのことも、セルヴォルファス侵攻に関しても決着し、全ての出来事が落ち着いて特別にすることのなくなった今が、この国にとって最も苦難の時期である。
「あの……バートリ公爵、父上は……」
 クルスが遠慮がちに、それでも青褪めながらエルジェーベトに問いかける。例え国に混乱を持ち込んだ人間だとしても、クロノスは彼にとって大切な父親だ。クロノスにとってクルスが大切な息子であるように。
 素直に父親の身を案じる彼の様子に、エルジェーベトはどこか痛いような顔をしながらも答えた。
「生きてはいるわよ、一応ね。ただ地下牢にぶち込まれただけよ。クロノス自身はさして気にしてもいないでしょう。頑丈な男だからね。それは私よりあなたの方がよく知っているでしょうけど」
「は、はい。ありがとうございます。バートリ公爵」
「礼を言うにはまだ早いわ。ユージーン侯爵。……どうします、陛下。クロノス卿のことをきっかけとして、この国は今にも爆発しそうですよ」
 クルスからシェリダンへと視線を移し、エルジェーベトは憂鬱に満ちた表情でかつての君主に尋ねる。
 クロノスとカミラのやりとりは、当人たちにとっては些細なことかもしれない。だが周囲にとっては違うのだ。両者とも恐らくさほど重要視してはいないが、女王であるカミラはもちろん、クロノスも現在のエヴェルシードにおいて重要人物のうちの一人である。
 ユージーン侯爵を継いだクルスが、シェリダンに心酔していることは知る者は知る事実である。そしてエルジェーベトやジュダも、誰かに問われた際に、特に隠し立てするようなことはなかった。
 ユージーン侯爵クルス卿は、シェリダン=エヴェルシード陛下についていったのか? その問に対し、シェリダンに近しい部下たちは特に肯定をするわけでもなかったが、否定もしなかったのだ。
 もちろん全ての者がシェリダンの置かれた状況を知るわけではないので、国を追放されたシェリダンがまたエヴェルシードに戻ってくると信じている人間は稀だが、それでもこのままカミラに従うよりは、と望みをかけるものもいる。
 そして、シェリダンやカミラといったエヴェルシードの血筋に期待するのはもうやめ、新たな国王を立てようとする一派もいる。もともと実力主義の風潮が強いエヴェルシードであれば、君主の地位を腕ずくで奪おうとする考えもさほど忌避されるものではない。男尊女卑思考の強いこの国で男子であるシェリダンが王位にあるのならばまだしも、女王であるカミラには最初からかけられる期待が少なかった。
「ただ、新王擁立派の問題は、新たな王として相応しいと言える相手がなかなか見つからないことのようです。大貴族であればあるほど危ない橋は渡りませんし、意気込んでいる中堅貴族の中にはそんな品格のある者もいませんしね。全体を纏めるだけの実力のある者が一人でもいれば違うのでしょうが」
 一つのこと一から始める時、頭に相応しい人物がいるのといないのではまったく違う。
「エルジェーベト、お前はそうしないのか?」
「ご冗談を。陛下。私も、イスカリオット伯もするわけないでしょう。クルス卿はそちらにいますしねぇ……しかもシェリダン様、その言葉からすると、もうあなた様が玉座に返り咲く気がないようですよ」
「ああ。ないからな」
「え?」
 それまで澱みなく言葉を続けていたエルジェーベトが、シェリダンの言葉に舌を止める。
「……ご冗談を」
「私は本気だ、エルジェーベト」
「陛下!」
「ルース=ローゼンティアを知っているか?」
「え? ……ええ、はい」
 突然の話題の転換についていけず、シェリダンに食って掛かろうとしたエルジェーベトはその気勢を削がれた。問われた女の名は特に耳に覚えがあるわけでもない。それでも名前から、相手がローゼンティア王族、つまりロゼウスたちの兄妹だとはわかる。
「ドラクルに協力するロゼウスの姉の一人だ。ルースというその女がカミラに協力していると、私はある筋から聞いた。エルジェーベト、どうだ?」
「ええ。確かにローゼンティアの王女の一人が、ドラクル王からカミラ姫の補佐をするようにと寄越されてはいますが……シェリダン様、それがどうかしました?」
「そのルースと言う女は、カミラを言いように操るためにドラクルが送り込んだ者だろう。私がこの国に関わり続ける限り、今後も同じ事が続くぞ。エヴェルシードはローゼンティアと永遠に対立し続ける」
「構わないじゃありませんか。向こうから仕掛けてくるなら上等。売られた喧嘩は買いましょうよ」
「バートリ公爵!?」
アンリ、ロザリーと言ったローゼンティアの面々は好戦的なその言葉にぎょっとする。しかしエルジェーベトの言うことは、エヴェルシード人としては普通の考えだ。
 しかしシェリダンはこの時ばかりは、その考えを好まない。
「向こうが真剣に仕掛け、もしくはこちらが向こうを完全に奪う気ならそれでもいいがな。だが今のこの国とローゼンティアの対立関係は、私やロゼウスがドラクルに踊らされている結果だ。そんなものに、いつまでも民を巻き込んで労力を費やすのは無駄だとは思わないか?」
「まぁ、それは確かに」
 エルジェーベトは国内において、宰相バイロンを除けば誰よりも政治能力が高い。もっとも感情的にそこまで冷静になれるかは別で、またクルスほど熱心でないとはいえシェリダンに対する忠義もあるので彼を立てようとするそちらの方向へと考えがちだが、真剣に国のことを思えばそれが得策でないこともよくわかっている。だから国内でもシェリダンを支持する基盤はまだあり彼らは弱小ではないとはいえ、今になって動き出すのを躊躇うのだ。
「……聞いて欲しい。エルジェーベト、皆。私には考えていることがある」
 今のエヴェルシードは、凪の海。
 逆に言えば、この凪に何かを持ち込めば一気に国内の形勢を変えることもできる。シェリダンの存在はエヴェルシードという水面に投じられた一石だ。嵐を呼ぶ暗雲となるか、それとも。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは言った。
「私は――」