194

 飛びかかってくる魔物の群を斬り倒しながら進んだ。
「ちっ、キリがないな」
「シェリダン様、あっちの森は!」
 エチエンヌの指差す先に、銀色の森がある。何故か魔物たちはその森を避けているようで、こちらの攻撃を受けてふっとんだ小さな魔物たちまでもが、その木々を避けるようにしている。何かから逃れようと、離れようとでもするように必死な様子で銀色の森から去っていく。
「そうだな……あの場所なら……行くぞ!」
 共に冥府へとやってきた一行のうち何人かとはすでにはぐれてしまっている。残った面々と離れ離れにならないように気をつけながら、少年たちは魔物が近寄らない銀色の森へと駆け込んだ。
「ぜぇ、ぜぇ……」
「はぁ……助かった」
「でも、どうして……」
 魔物たちは銀色の森へと入っては来られない。だが、それは一概にこの森の中にいれば安全ということにはならないようだ。
「あっちの区画には、普通に魔物が寄ってきますよ」
 彼らの周りこそすっきりとしたものだが、少し先には魔物たちが足を踏み入れている部分があるのを見てクルスが言った。
「さっき奴らが現れたのも森からだった。それが、この場所には入って来られないのはどうしてだ……」
 シェリダンが怪訝に首を傾げる。どちらも同じ、銀色の森。生えている植物が違うのかとも思ったが、よくよく観察しても向こうに生え並ぶ木々とこちらの森に立っている樹木は同じものだ。一体向こうとこちらとで何が違うというのだろう。
「だが、この場所が安全だと言うのなら……エチエンヌ!」
「うわっ!」
 ひとまず驚異は去って力を抜きかけたところを、この瞬間を待っていた魔物の一人に襲われる。一行の中で一番小柄なエチエンヌの頭上から襲撃してきた大百足は、その巨体で少年を押しつぶそうとする。
 白い腹が自らへと迫るが、避けるほどの時間はない。頭を庇ってしゃがみ込んだエチエンヌの頭上で、大百足の断末魔が響く。
『ぎゃぉおおおおお!!』
 虫とは思えずそう奇声をあげて、魔物の一匹は絶命した。その死骸の傍らに、抜き身の剣を引っさげたロゼウスが立っている。その刃は大百足の血と体液で緑に汚れていた。
「うわぁ……拭きたいな、これ」
「緑の体液って……なんか嫌ですよね」
 剣の手入れように布を差し出したクルスに礼を言ってそれを受け取り、ロゼウスは平然と何事もなかったように刃を拭い始めた。見ればシェリダンとクルスはすでに魔物たちの血と体液で染まった剣を拭い終わったようだ。
 大百足を一刀で瞬殺した者とも思えぬのほほんとした様子で、ロゼウスは刃を拭う。
「……」
 彼に助けられたエチエンヌは、そのマイペースな様子にロゼウスに何事かを思い切り言いそびれたようだった。
「エチエンヌ」
「は、はい。シェリダン様」
「お前には体術や近接戦闘の特訓もつけてはいるが、どんな力を有しているかわからないこの冥府の魔物相手に直接掴みかかるのは危険だろう。それに、長剣を使う私たちと違ってお前の得手は遠距離戦闘だ。常に誰かの近くにいろ」
「……はい」
 部下を労わるシェリダンの忠告により、エチエンヌはそれ以上の言葉を封じられた。ここで無茶してもろくな結果が出るわけでもなし。役に立てなさそうな場面では大人しくしていることが最大の努力だ。
 一行の強さにかそれとも別の理由があるのか、森の外を囲んでいる魔物たちにも動揺が走る。
『入った……入った……』
『大百足は愚かなリ。この地に入るとは……』
『公爵様のお怒りに触れてはならぬ……』
 何事かぶつぶつと呟きながら、魔物たちが次々に身を翻す。ざざ、と不快な音を立てて、彼らは来たときと同じように唐突に去っていくようだ。
「ここにいるのは、この四人だけか?」
「シェリダン様にロゼウス王子、エチエンヌと、僕だけですか……」
 クルスがここに顔を揃えた少年四人を数え上げる。
 襲撃は先程の百足が最後だったらしく、魔物たちは森を前にして帰っていった。後には大百足の死骸と、それまでにも幾匹かシェリダンたちが斬り殺した魔物の死骸が森に来るまでの坂の途中に点々と転がっているばかりで、何も残らない。先程の騒がしさを思えば逆に不安になるほど、辺りは静まり返っている。
 ロゼウス、シェリダン、クルス、エチエンヌ。こちらにいるのはこの四人だけだ。
「一匹一匹の魔物の強さはたいしたことないようだったが、行動が読めないだけに不気味だな」
「人語も解せるようですしね、あの魔物たち」
「さっき、最後の方なんて言ってたんだろう……?」
 ひとまず危機が去ったのはわかるが、その理由がいまだはっきりとわからないのはそれはそれで不安だ。魔物たちが去った、その理由、ロゼウスはそれを気にするが、他の者はまだそこまで考えるに至らない。
 この森は、何か違う。果たしてこのまま進んで良いものか。
「シェリダン様、ローラたちはどうします?」
「ローラ、リチャード、それにアンリとロザリーか。私たちが固まっているように向こうも四人共にいると良いのだが……大丈夫だろう。あの四人ならば単体でもどうにかなる」
 もともと冥府に棲んでいたという吸血鬼の一族であるアンリとロザリーはさほど酷い目には遭わないだろうし、ローラもリチャードも腕利きだ。
 しかし、やはり右も左もわからぬ冥府というこの地ではぐれてしまったのには不安が残る。
「ロゼウス、お前はどうする?」
「え?」
「え、じゃない。もともとハデスに指名されたのはお前だろう。奴のもとにさっさと姉姫を取り返しに行くか、それとも先にロザリーたちを探すか」
 シェリダンはまっすぐにロゼウスを見つめる。
「お前が決めろ。その決定に私たちは従う」
「シェリダン様!?」
 普段から王として、支配する者としての自覚を持つシェリダンは人が集まると自然と纏め役にやりやすい。しかし今はあえてその座を、ロゼウス本人に務めさせようとする。
「俺は……」
 この死の地下世界冥府においてなお生の輝きを失わない炎の色の瞳に見据えられて、ロゼウスは言葉に詰まった。
「お前が決めろ。お前のことだ。……本当はお前の中では、すでに判断が出ているんだろう。それをお前はこれまで口にする機会を奪われてきていただけで」
「シェリダン……」
「だが、これからはそうもいかない。お前は皇帝になるのだから。誰かに全てを捧げる代わりにその誰かが何もかも肩代わりしてくれるなど、そんな簡単にはいかない」
 王であれ民であれ、人は自らの行いとその信念に責任を持つ者だ。それが世界中全ての人々の命と人生に責任を持つべき皇帝であるとすれば尚更だ。
 シェリダンはその真理をロゼウスに突きつける。皇帝となるロゼウスと、その生をシェリダンは共には生きられない。ロゼウスのためには、人としての矜持を投捨てられない。だがその代わり、他の全ては全部ロゼウスのものだと。これまで支配者の素質を誰よりも持ちながらそれを使うことを知らなかった相手に自覚させる。
 これまでのように、ドラクルに虐げられる代わりにその彼に全ての責任を背負ってもらうわけにはいかないのだ。
「お前が決めろ」
三度目の促しに、とうとうゆっくりとロゼウスは口を開いた。
「……このまま進んで、ハデスとミザリー姉様を探す」
「そう判断した根拠は?」
「デメテル陛下が言っていた。帰り道は決まっていると。だったら上手く魔物から逃げ出して姉様を助けることができてもできなくても、帰りはまた必ずあの扉の前に集まるんだろう。だったら、ハデスに指名されたのは俺一人なんだし、俺は進んだ方がいい。シェリダンたちがローラたちを捜しに戻りたいというのなら、それは否定しないけれど……」
 まだ自身の判断に自信がないのか、語尾が消え入りそうになるロゼウスに。
「わかった。私もお前と共に進む」
 あっさりと頷いて、シェリダンはその隣に立ち二人は歩き出した。黒い下生えに銀の木々が立ち並ぶ異形の景色をものともせず、森の中に踏み込んでいく。
「シェリダン様……」
「どうした? エチエンヌ。クルスもだ。何をやっている。早く来い」
「は、はい!」
 何かが変わろうとしている。
 見慣れたはずの二人のやりとりに、エチエンヌもクルスも確かにそう感じていた。

 ◆◆◆◆◆

「ちょっと、ロゼウス!? シェリダン!?」
 気がついたら二人がいなかった。それだけでなく、クルスとエチエンヌもいない。
「ええ! はぐれちゃったの!?」
「ちょっと、エチエンヌ!? シェリダン様、クルス卿も!」
「……落ち着けよ、二人とも」
 同じはぐれた者でも何かと騒がしいのは、こちらの組には女性二人が二人とも含まれるからだ。ロザリー、ローラ、アンリ、リチャードという組み合わせで彼らはロゼウスたちからはぐれてしまった。
「さて、と」
 アンリは周囲の景色を見回す。リチャードは帯刀しローラも懐に短刀とワイヤーを隠し持ち、アンリ自身も腕前は頼りにならないものの剣を持っているが、ロザリーは素手だ。
 今のところそう強い魔物は出てきていない。最低限の戦力で近寄ってきた者たちだけを叩いてなんとか、魔物たちの勢力範囲から逃れてきた。ローラとロザリーの女性陣が傷一つ負っていないのは、流石というところか。
 四人は崩れかけた廃屋のような場所にいる。
 人間の世界と徹底的に違うのは、そこに生活感の欠片も残っていないことだ。住居という様子ではなく、何か神殿のような建物であった名残だけを見せて、その建物は荒んでいる。
「ここには、魔物は入って来れないのかな……」
 先程まではあれだけうようよと湧き出ていた魔物たちが、ここに辿り着いた途端姿を見せなくなった。
「わかりません。神殿ということは、仮にも聖なる建物だから入れないということか。それともただの偶然なのか。何にしろ、油断はしない方がいいでしょう。ここでは我々は、狼の群の中に放り込まれた鶏のようなものです」
「それは美味しそうね。狼さんたちは必死で私たちを食べようとするわけ」
「そりゃ困ったわ。早くロゼウスたちと合流しないと」
 最後のロザリーの言葉に、しかしリチャードは少し考える素振りを見せた。
「待ってください」
「え?」
「シェリダン様たちは、果たして我々と合流しようと考えているでしょうか」
「……その前に、まず俺たちみたいに向こうも四人でいるのかどうか」
 アンリが突っ込む。
「ええ。ですが、あの方たちのことですからきっと一緒にいるでしょう。魔物たちの動きも、我々ともう一方と二手に別れて負っているようでした」
「向こうも四人一緒にいる可能性が高いということか。ロゼウス、シェリダン、エチエンヌ、ユージーン侯爵と」
「高い確率でそうだと思います。少なくともシェリダン様とロゼウス様は一緒でしょう。なので、四人が揃っていると仮定します。最低でもシェリダン様ロゼウス様が一緒にいてくださればあと二人は放っておいても問題ありませんし」
「何か今さりげなくスゴイこと言わなかった!?」
「そうよ。リチャード。勝手に人の弟見捨てないでよ」
 一通り突っ込み終わったところで話はもとに戻る。
「最初の目的なんですが、我々はこの冥府にミザリー姫を救出に来たわけですよね」
「ええ。そうよ。ハデスを倒してミザリー姉様を助けないと」
「そして、帰り道は決まっている」
「確か行きと同じように帰りもあの門を使うんだろ? だから最後には……」
「あ」
「そうです。つまり、今ここではぐれても帰りにまたあそこへ行けば合流できるはずです。この場合、あの方々がは、どういう行動に出るでしょうか」
「俺たちとの合流を考えるより、先に進むことを考える可能性が高いってことか?」
「ええ。もともとハデス卿のご指名はロゼウス様ですし」
「そうかぁ……そうかもな」
 シェリダンたちエヴェルシードの三人のことはよくわからないが、アンリは兄としてロゼウスのことを考えてリチャードの意見に同意する。
「シェリダン様もそういう性格ですわよね。あの方は私たち部下を『使う』けれど『頼らない』ですから。そのシェリダン様がロゼウス様の意向を考えて、クルス卿とエチエンヌに命を下したとすれば、あの二人は必ず従います」
「……ローラ、エチエンヌは君の弟だろ?それでも、もしかしたら姉を見捨てろと言われたとしても彼は従うと?」
「ええ。もちろん」
一瞬の躊躇すらなく、迷いなくローラは頷いた。
「だって私たちは、そのために在るのだから」
 微笑むその姿に、彼女たちの決意の硬さと、シェリダンへの信頼の厚さを見る。そして、ローラ自身の思いがけない強さと。アンリはまた、自らの胸の内から湧き上がる黒い思いを感じる。
「まぁ、エチエンヌならそうでしょうね。もっとも、それは彼がローラの実力に信頼を置いているからということもあるでしょうが」
「私もいるしね。アンリ兄様。私はロゼウスみたいに頭がよくないから効果的な戦法とか考えられないけど、でも単純な力だけだったらロゼウスより上よ? 戦略不足は、この場にはそれを補ってくれる兄様がいるしね。でしょ?」
「あ、ああ」
「では、意見は纏まりましたね」
 普段は控えめにシェリダンの背後に立ち、大人しくしているリチャードも他に纏め役のいないこの場ではリーダーシップを発揮する。
「ロゼウス様、シェリダン様たちの一行は先にミザリー姫救出のためにハデス卿の情報を探して進むでしょう。私たちもあの方達との合流を目指すよりも、この冥府で何らかの情報を仕入れて、姫君の救出へと急ぎましょう。その途中でロゼウス様たちに合流できたとしても、手ぶらであるのと何らかの知識を得ているのとでは違いますから」
「そうよね。会う気で捜して会えないよりも、最初から別行動で最後で合流すればいっか」
「私たちがシェリダン様に有益な行動をとれればよいのだけど」
「そうだな」
 四人の意見がひとまず統一されて、彼らは先に進むために決意を新たにした。
 だが。
『ギャォオオオオオオオ!!』
「魔物!?」
「ちょっと、この建物の中には入って来れないんじゃなかったの!?」
 先程から姿を消していた魔物たちが、またぞろ大群を引き連れて現れた。ここなら安心して話せるとすっかり落ち着いていた四人は、不意打ちに動揺する。
『美味しそうな女と、不味そうな男……』
 どうやら向こうはあからさまにこちらを食べるつもりらしい。この際、美味そうでも不味そうでも関係ない。まさしく野獣の群れの中に放り出された肉の気分だ。
「私たちを、そう簡単に食べられると思うな!」
 四人は、それぞれ己の武器を手に取った。

 ◆◆◆◆◆

 結果は、言うまでもないことだ。
「文字通り死屍累々ですね」 
「なんだ、手ごたえないわね」
「ロザリー姫、お強いのですね。すぐに倒せてしまいましたよ」
「あら。そんなの、ローラの援護が的確だからよ」
 ほのぼのと言葉を交わす他の誰でもないあの二人、ロザリーとローラがこの状況を作り上げたのである。言葉を交わす様子はほのぼのだが、その内容は物騒の一言に尽きる。
「こっちが相手の胴体に一撃入れた後にすぐ急所を刺してくれるから」
「むしろあんな大柄な相手にあれだけの負傷を与えるのが大変ですもの。トドメはお任せを」
「私が近接戦闘系だから、遠隔援護系のローラとは相性がいいのよね〜」
 うふふふふ、と微笑む姿は花のようだが、言っていることは二人ともかなり怖い。
「さて、と。ではそろそろ私の出番でしょうか」
「へ?」
 これまでそう積極的に戦闘には参与せず、むしろロザリーとローラのタッグが打ち漏らした敵にトドメを刺すぐらいの活躍だったリチャードがそう言った。剣を抜いて何故か辺りの魔物たちの死骸を物色し始める。ぎょっとするアンリに構わず、リチャードはその中から一匹、彼が片手で持ち上げられる中程度の大きさの魔物を引きずり出した。
『ぐ……ぐきぇ……』
「人語を解せないようですが、大丈夫でしょうか」
「あ、魔物の言葉なら大体は私とお兄様がわかるから大丈夫」
 ――何が?
 リチャードの意図不明な問いかけに、あっさりとロザリーが答える。アンリと違って彼女にはこれからリチャードが何を行うつもりなのかわかっているらしい。これから一体何が始まるのか、アンリとしてはイヤな予感しかしないのだが。
「それではこれでいいでしょう。ちょうど程よく生きていますので」
 そう告げた次の瞬間、リチャードは手に持っていた魔物の胴体にずぶりと剣を突き刺した。
『ぐきぇぁぇええええ!』
 急所を外して傷口を抉るそれに、掴まれた魔物が耳障りな悲鳴をあげる。
 そしてもう一人悲鳴をあげたかったのは、無表情でリチャードが魔物を甚振る光景をばっちり目にしてしまったアンリだ。
「ちょ……ッ! リチャード!!」
「どうされたのです? アンリ王子」
「どうって……お、お前こそ何をしてるんだ!?」
「何って……拷問ですよ?」
「ご、拷問んんんん!?」
「ええ」
 今更何を言っているんですかとでも言いたげにあっさりと、リチャードはそう言ってにこやかに微笑んだ。その手はいまだに魔物を掴み剣で刺している状態なので、逆にその笑顔が怖い。
「情報を得なければならないでしょう。まさか私たちに好意的に冥府の王の居場所を流してくれる魔物がいるとお思いですか?」
「それは、でも」
「お兄様、今更何を言っているのよ」
「そうですよ。アンリ王子。無害な魔物ならともかく、こいつらは先ほど私たちをばっちり襲って食べようとした極悪魔物ですよ」
 いや、この状況だけ見るとむしろ俺たちが極悪に見えるぞ。
 アンリはそう思ったが、口には出せなかった。
「疑問はこれで解消されましたでしょうか。では続けていいですね」
「え、ああ、はい!」
 もはや勢いに押されて頷いてしまったアンリの言葉に、意味がわかったのか魔物が悲痛な声をあげる。
『くぎゃっ!?』
「では、拷問再開といきましょうか」

 ――しばらくお待ちください――

「わかったのはこれだけですね」
 恐ろしいことに拷問を始めた時とまったく変わらない無表情で、リチャードがさらりとそう報告する。
「ええと、つまり、私たち吸血鬼はともかく、ローラやリチャードみたいな人間は魔物たちにとって美味しい餌で、だからさっきあいつらはあんなに大挙して押し寄せてきたんだと」
「はい」
「それに、美的感覚はこっちの世界でもだいたい共通で、ロザリー姫みたいな人は食べないけど花嫁に欲しいっていう魔物がいっぱいいるのね」
「そのようだ」
「不愉快だわ」
 御指名を受けたロザリーが憮然とした表情を作る。その美貌にはそれなりの自信があるロザリーだが、毛むくじゃらの一つ目の獣やら青い大百足やら三本首の犬やら牙の長い紫色の虎などから求婚されても面白くはなかったらしい。
「っていうかリチャード、冥府の美的感覚って何かこの先に関係があるのか?」
「ええ。先程、あの建物の中に入ると一時的に魔物が寄って来なかったでしょう。その理由らしきものなんですが」
 美的感覚から一気に現在の身に迫る話をされて、アンリも自然と傾ける耳に力が入る。
「この冥府の中でも、美的感覚は地上と一緒ということは、冥府には人型の魔物と言うものが棲んでいるらしいのですよ」
「人型? それって魔物なのか? 魔族じゃないのか? 俺たちみたいに」
 魔物より一段高位に存在する種族、魔族の一種である吸血鬼のアンリはそう尋ねたが、ここでようやくリチャードが戸惑うような顔を作った。
「そう……なのでしょうか? 魔物と魔族の細かい違いは我々人間にはわからないのですが……しかしロザリー姫の翻訳によるとあの魔物たちはそれも『魔物』だと言っていたようですよ? その魔物が、美しいものを好む性質だそうです。あの丘から見えた建造物の幾つかはその魔物の所有で、傷をつけると恐ろしい報復が待っていることから魔物たちは近寄りたくなかったそうです。森の幾つかもその魔物の領地だというので、どうやら問題の魔物は冥府の貴族の一人のようですね」
 逆に言えば、他の魔物たちが近寄りたがらないその場所を選んで通れば、とりあえず当面魔物の大群に襲撃される心配はしなくていい。
 しかし、無断で領地に入って、その問題の、「偉い魔物」に見つかってしまったらどうなるのだろうか。
「我々は魔物たちの美的感覚で言えば上位にあたる人型ですから、上手く行けば見逃してもらえるようですよ?」
「うっかり怒らせちゃった場合は」
「その時はもう戦うしかないのではないかと。それに……」
 この場にいるのはこの四人と拷問された魔物と、死んだ振りをしている魔物、そして本当に死んだ魔物だけで誰を憚る必要もないはずなのだが、何故かリチャードが声を潜める。
「…………だ、そうです」
「は?」
「え?」
「へ? ……それはまた」
「でもそうなると逆に、私たち危ないんじゃないの?」
「いえ、それが……は……なので、……が私たちによって……ならば、それもまた一興ということで見逃してくれるのではないかと」
「えぇ?」
「はぁ」
「え〜〜〜〜!」
 冥府にもいろいろな事情があるんだな……四人はそう思ったという。
「まあ、とにかくそういうわけで、ハデス卿の居場所はあの灰色の神殿だそうです」
「というわけで、で繋いでいい台詞なのか今のは。文脈おかしくないか?」
「気にしないでください」
 ローラ、リチャード、アンリ、ロザリーの四人は拷問した魔物から目的地であるハデスの居場所を聞き出し、先を急ぐ。


195

 乾いた道を歩く。
「本当に、この森には魔物が出ないな……」
 冥府の空は紫。夜明けのような薄紫の空に、白い雲がかかっている。その光景になんとなくシェリダンは、サライの瞳を思い出した。
 そういえば彼女の瞳もこんな色だった。淡い紫色の瞳は、神秘的な印象を見る者に与える。紫は異界に通じる色なのだという。それは良い意味でも、悪い意味でも。
 関係あるのかどうかは知らないが、とりあえず冥府の空は紫だ。
「うん。この森の内側にはほとんど生き物自体の気配がない」
 ロゼウスもシェリダンの言葉に頷く。
「探れるのか?」
「うん。俺はここの空気に馴染むのかも……なんだか、地上より呼吸がしやすいような感覚。魔力がずっと冴え渡るって言うか」
 言葉の途中で、シェリダンはロゼウスの腕を掴む。
「わかっているだろうな。ロゼウス」
 思いがけず強い目に見据えられて、ロゼウスは一瞬動きを止める。
「お前は、私と一緒に地上へと帰るんだ。残りたいと言っても、鎖をつけてでも引きずっていくぞ」
「うん。わかってるよ」
「ならいいが」
 何やら不機嫌そうな……訂正、不機嫌そのものの表情でシェリダンが渋々と頷く。
「シェリダン様、ロゼウス様。ところで、向こうに見えるあの建物は?」
「ああ。うん、あれに向かってる」
「あの建物ですか?」
「ああ。あの建物からは唯一、魔物の気配がするんだ」
 クルスの問にロゼウスは答え、彼の視線の先を自分も追った。
 ロゼウスたちが今歩いている森の道の向こうには、灰色の建物がある。灰と言っても、鈍色と言うより本物の灰に近い、白っぽいような極々薄い色だ。燃え尽きたその色の建物が銀色の森に抱かれている。
「なんだか、我々の世界の建物と変らないな」
「ええ。貴族の屋敷という感じですが……」
 その建造物の造りは人間の世界とほとんど変わらず、端々に凝らされた衣装が禍々しい印象である以外は貴族の館と言うに相応しい建物だった。
「こんな冥府に、誰が住んでいるんでしょうか」
「少なくとも魔物であることは確かだろう」
「いや」
 シェリダンとクルスの主従の話に、ロゼウスはつい口を挟んだ。
「いや、って、じゃあ何が住んでるって言うの?」
 エチエンヌが皆を代表して尋ねる。
 ロゼウスは紅い瞳の視線をずっと目前の灰色の建物に注ぎ。
「魔物じゃなくて……魔族かも」
「魔族?」
「魔物と魔族って、どう違うんですか?」
 どんな答が返って来るかと思えば、魔物とさして違わないような答。少なくとも人間である三人はそう感じた。しかしロゼウスの感覚は違うらしい。
「んー、俺たちから説明するのはちょっと難しいけど……あのさ、さっきの生き物たちは魔物で、俺は魔族だって言ったらわかる?」
「あれ? ローゼンティア人って吸血鬼族じゃなかったっけ?」
「吸血鬼族が魔族の一種なんだよ、エチエンヌ」
「どうも私たちにはその辺がよくわからないな。魔物も魔族も言葉にしてしまえばさして違いがわからない」
「じゃあ百足と同衾したい? シェリダン。冥府から恋人として一匹連れ帰ってみる?」
「すまん、私が悪かった」
 ロゼウスは吸血鬼族と言う名の魔族である。そして先程彼らが戦って倒した三つ首の狼や前進を金色の毛に覆われた一つ目の豹、大百足や六本足の兎、青い大蛇などは魔物である。両者にさして違いがないということはロゼウスもそれらと同類ということだ。
「同じ生き物の枠には括られても単なる動物よりあんたたち人間が一段高等な生物だって認識されているように、魔族は同じ冥府から作られた生物のうちでも魔物より高等な存在なんだ」
「つまり冥府の動物が魔族で、冥府の人間が魔族だということですか?」
「そんなものかな」
 厳密に言えば寿命や生態などもっと違いがあるのだが、ロゼウスはひとまずクルスの言葉にそう頷いた。
「と、いうことはあの屋敷に住んでいるものが魔物ではなく魔族かもしれないということは」
「あそこには人型の生き物が住んでいるということですか?」
「ああ。だって大百足やケルベロスにはあんな屋敷必要ないだろ?」
「確かに」
 四人は揃って、歩く内にすでに目前となった建物を見上げた。
 黒い土に立つ銀色の森に抱かれた薄灰色の建物は、その威容を彼らに晒している。
 貴族の屋敷の門前に飾られることが多い銅像は、人間の世界ならば獅子や鷲などに加え、宗教的な色の強い国では天使や神の使途の像が多いが、ここでは蝙蝠の翼を持つ悪魔像が多かった。がりがりの骨に皮だけ張ったような悪魔たちがカッと目を見開き牙を剥いた像がずらりと立ち並ぶ。
「なんか落ち着く……」
「「「ええっ!?」」」
 ロゼウスの発言に、人間三人は一歩引いた。
「そういえばローゼンティアの景色って」
「外観は赤と黒の派手な景色である以外おかしなところはないが、そういえば燭台がハンドオブグローリーなセンスだったな」
 直接ローゼンティアを訪れたのがシェスラートとの戦いで森のはずれの廃教会だったエチエンヌとは違い、シェリダンとクルスはローゼンティア国内に入った。しかも日和見と名乗った貴族の屋敷にまで招かれている。その時の記憶を思い返すと、確かに建物の外観こそこれほどではなかったが、ローゼンティアの様子はこの屋敷と……。
「やっぱ、同類じゃないか……」
「だから魔族かもしれないって言ってるじゃないか」
「いや、そういう意味じゃなく」
 そんな風に一行が屋敷の門前で騒いでいるその時だった。
『ようこそ。招かれざる客人よ』
「!」
「この声、どこから……」
 魔力の多い大気を直接震わせて、声は彼らの耳に届いた。招かれざる、と言いながらもどこか楽しそうな色を含んだ声は、ロゼウスたちの訪問を面白がるように言葉を続ける。
『私は今君たちが騒いでいる目の前の屋敷の者だよ。歓迎しよう』
 どこかから監視でもしているのか、相手にはロゼウスたちの様子が筒抜けのようだった。その言葉と同時に、彼らはどこかから視線を感じるようになった。見られている感覚はあるのに、それがどこからなのかはわからない。魔術に強いロゼウスだけは、それが本物の眼ではなく魔力による視界だからだということがわかったが。
「歓迎?」
『そう。歓迎する。何しろこの冥府には、客人……それも人間が訪れることなど稀だからね』
 どうやら会話は成り立つようで、シェリダンが思わず漏らしたその疑惑の声すら面白がるように、屋敷の主だという声の主は言葉を返す。
「……どうする?」
「情報は必要だ。それに、この屋敷に住んでいる相手はかなりの実力者だ。……話を聞くなら下等な魔物の断片的な情報を繋ぎ合わせるより、人と同じ思考回路と言語能力を持つ相手に理路整然と語ってもらいたいところだけど……」
「ならば」
 四人は眼前に聳え立つ屋敷を見上げた。言いたいことはもう言ったというのか、先程の声はすでに聞こえてこない。しかし、どこかから見られている気配は変わらずに感じる。
 試されている。どうして?
 進まなければ、わかるはずがない。そしてどちらにしろ、この冥府では彼らの味方はおらず、敵だらけなのだ。今更真正面から敵とぶつかったところで構いはしない。
 非常に大雑把にそのような結論を出したところで、四人の意志は固まった。
「ロゼウス」
「わかった。行こう」
 彼らが足を進め始めると、大きく頑丈そうな屋敷の門が手も触れずに一人で開き始めた。招くように。
 獲物がやってくるのを口をあけて待つ獣のように。

 ◆◆◆◆◆

 灰色の廊下には濃い紫の絨毯が敷かれていた。明かりの類は一切ないのに、その建物の仲は何故か明るかった。明るいといっても真昼のように明るいというのではなく、動くのに不都合がない薄明るさというくらいだが、全く何もないよりはいい。
 人間の屋敷のように召し使いと呼ばれるような存在が出てくることもなく、ロゼウスたち四人は外で聞いた声の案内だけに従って、屋敷の食堂らしき場所へと辿り着いた。長いテーブルの端に人影が見える。
「ようこそ、我らの冥府。地下世界タルタロスへ」
 そう言って彼らを出迎えたのは、一人の男だった。
 灰色の肌に濃い紫の髪、紫の瞳。薄い唇がロゼウスたちを眺めて笑みを刻んでいる。顔立ちは整っているが、その灰色の肌のせいか冷たい印象を与える。
「歓迎しよう。ここは私の屋敷だ。ゆっくりとしていきたまえ」
 男がそう言う。その言葉に対する返答相手として、他の三人はロゼウスへと視線を集めた。
「生憎だけれど、そうもいかない。名も知らぬ冥府の貴族様。俺たちは目的があってこの世界にやってきた。その目的を果たさなければならない」
「そうか。それは失礼した。ロゼウス=ノスフェル=アケロンティス=ローゼンティア陛下」
 名も知らぬ、と言ったこちらに対し、その男はロゼウスの名を正確に答えてきた。しかも間に帝国名「アケロンティス」を挟んだ、その名前は。
「何故それを知っている」
「私はこれでも冥府の王であらせるハデス卿の部下なもので。まぁ、もっともあの方は私のことなどさっぱり信用していないし、こうしてあなた方が来ているというのに連絡の一つも寄越してくれないがね」
 薔薇皇帝となるロゼウスの運命を言い当てた男に対し、四人は疑惑と敵意の眼差しを向ける。その言葉の中に更にハデスの名前が出てきたことで、ますます不信感を強めた。
「そう警戒しなくてもいいじゃないか。私の方では、あなたたちに危害を加える気はないよ」
「信用できない」
 はっきりと言い切ったシェリダンに対し、男は意味ありげな視線を向ける。
「やれやれ、皇帝の運命の少年はいけずだねぇ」
「は……はぁ?」
運命の少年とは、と言いかける前にいけずという言葉にシェリダンは変な表情で固まった。
「閣下」
埒の明かないやりとりを続けても仕方ないと悟ったのか、シェリダンがいけず呼ばわりされたことなど気にも留めずロゼウスが男に再び話しかける。
「敵ではないと言うのなら、とりあえず貴公の名前も教えていただきたいのだが」
「ええ。わかっています。そう謙らずともようございますよ、皇帝陛下。私の名はラダ。冥府の公爵が一人、ラダマンテュスと申します」
 男はそれまで座っていた豪奢にして悪趣味な椅子から立ち上がり、ロゼウスに向かって一例して見せた。
「ラダマンテュス……」
「ええ。以後お見知りおきを」
 そして彼は食卓に向けてさっと手を振った。
「え?」
「ええ!」
クルスとエチエンヌが続けて驚きの声をあげる。ラダマンテュスと名乗った男が手を振ると、突然長テーブルの上に豪勢な料理が現れたのだ。
「親睦のしるしにいかがです? そろそろお腹も減ってくる頃合ではないでしょうか。お話はこれをつつきながらした方が、効率もいいかと思われますが」
「毒でも入っているのではないだろうな」
「気になさるならあなたが味見してみたらどうです? ロゼウス陛下」
 味見ではなくて毒見だろうと、言われてロゼウスは手近な料理を一口食べてみた。
「! これは……」
「ロゼウス!?」
 ヴァンピルであるロゼウスならばまだ毒に対して耐性があるが、冥府の毒などというものをシェリダンたちに口にさせるわけにはいかない。
 ついでに、世界各地に古代伝わっていたという神話の中には死者の国でその食べ物を食すると地上へ戻れなくなるという話がある。それこそハデスの名の元となった冥府を治める神ハデスは、そうして妻ペルセポネを得た。
 しかし、今ロゼウスが口にした食べ物はそのどちらとも違う。そのことにひとまず安心しながら、ロゼウスはテーブルの遠い向こう端にいる男の様子を疑わしげに窺う。
 確かにこの場に出された料理は毒でも生者を冥府に引き止める類のものでもないが、それとは別の薬効がある。そのことについて、ロゼウスは男に問いたかった。
「信用していただけたでしょうか」
 にこやかな笑顔の下で真意の探りあいをする。
「……ああ」
「それでは晩餐にするといたしましょう。どうせそのお体では、ハデス卿には勝てますまい」
四人は目配せを交し合い、適当にその辺りの席についた。
 食事と言ってもロゼウスにそれほど人間のするような食事は重要ではなく、むしろこれはシェリダンたち人間用に作り出された歓待だ。すぐに熱量に変えられる菓子などを選んで口にしながら、一番おざなりな食事ですむロゼウスと、先程から実は酒しか飲んでいないラダマンテュスの間でやりとりが続く。
「最初に聞いておきたい。あなたは一体何者だ? どうして俺たちに味方しようとする。ハデスの部下と言っていたが、これは彼を裏切る行為だ」
「簡単なことですよ、地上の皇帝陛下。私は立場上彼の部下と言う事になりますが、心の底から服従しているわけではありませんので」
「どういうことだ」
「おやおや、すでにおわかりでしょう。あなた方の国は国王が代替わりしたとして、国内の貴族全員がその新王に納得するというのですか?」
「……」
ラダマンテュスの言葉にロゼウスは押し黙った。
「そういうことですよ。だからといって、私は真っ向からハデス卿のやることを否定してみたりするわけでもありません。ただ、あの方にイヤガラセをしたいだけなのです」
 ラダマンテュスはにっこりと笑顔を浮かべる。
 その笑顔に、ロゼウスたちは何だか嫌なものを感じた。
 ロゼウスは何となく、先程まで歩いていた森に他の魔物が現れなかった理由がわかった。この辺り周辺一帯は、この場所に屋敷を置く彼の領地なのだろう。ラダマンテュスの不興を買いたくなくて、あの魔物たちは彼の領地内には心情的に立ち入るに立ち入れなかったのだ。
 この男、強い。
同じ空間にいる相手の実力をそうやって判断しながら、ロゼウスは考える。
(この男、本当は何を企んでいる?)
 と、さりげなく様子を窺っていたロゼウスの眼差しにラダマンテュスが気づいた。単にロゼウスが彼の方を見ていたことに気づいたのではない。その真意を知るために奥底まで覗き込もうとしていたのに気づいた視線だった。
「薔薇の皇帝陛下。あなたとは、もっとじっくりお話したいな」
「?」
 彼がパチリと指を鳴らすと。ふっとロゼウスの周囲から物が消える。
「ロゼウス!?」
 いや、逆だ。ロゼウスの方が先程の部屋から移動させられたのだ。
 黒い、何もない空間にラダマンテュスと二人きりになる。何もないと思ったのは表面上だけで、ラダマンテュスは闇に呑まれて見えない椅子のようなものに腰掛けると、ロゼウスにも同じようにするように指示をした。
「さて。それではここからお互いの腹の内を割った話し合いと行きましょうか」
 紫の瞳が、不穏な光に瞬いた。

 ◆◆◆◆◆

「こんなところに呼び込んで、何を内緒話をしてくれると言うんだ?」
 突然の空間移動で二人きりにさせられたにも関わらず平然と尋ねるロゼウスに、ラダマンテュスはこちらも平然と返した。
「それは、こちらの思惑を。上ではハデス王本人に聞かれる恐れがあるからね」
 そう言って彼は、どこか遠くへと視線をやる。それが今現在ハデスのいる場所の方向なのかもしれない。だがどうせこの上下左右もわからない空間では同じだろうと、ロゼウスはその先を追うのを諦めた。
「どうして、こんなことを? それに、なんで俺だけ?」
「それは、今から私がする話の内容に関わってくることですよ。そうだな……あえて後者の質問に先に答えるとするならば、せっかく久々の食事にありつけた他の三人が、私の話にそれを吐き出してしまうのは可哀想でしょう?」
「はぁ?」
 謎の説明に、ロゼウスは怪訝というより呆れたような声をあげた。だが、これはそもそも前置きに過ぎないのだと言う事をこれから充分知ることになる。
「単刀直入に言いましょう。私は彼が欲しいのですよ」
「……彼? まさか」
「ええ。ハデス王のことです」
 ロゼウスにとっては皇帝の宿命を巡って因縁深い相手の名を、ラダマンテュスは奇妙にも愛しげな者の名を口にするかのように口にする。
「ロゼウス帝、あなたはハデス王と何か争うわけがあるくらいだ。ならば、あの方の本当のお姿を見たことがあるでしょう?」
「ああ。ある、けど?」
 そういえばハデスはもともとカミラを襲った刺客としてロゼウスの前に現れたのだった。あの時は大人の男の姿、その後はずっと十五、六歳ほどの少年の姿で現れているが、そのどちらも見た事がある。それとも他にハデスの姿というものがあるならば別だが。
「その本当の姿、というのは人間年齢にして十六歳くらいの少年の姿、でいいんだよな」
「ええ。そうですよ。あの方が実の姉である大地皇帝に、初めて陵辱された年齢です」
「――え?」
 思いがけないラダマンテュスの言葉に、ロゼウスは軽く目を瞠った。大地皇帝デメテルの弟にして帝国宰相を務める以上実年齢は九十歳近いハデスが、魔術で簡単に姿を変えられるのにも関わらず何故あの姿にこだわり続けるのかと思ったが。
「十六ともなればそろそろ腕力も大人の男並みについてくる頃。胸の辺りこそ豊満ですが全体的に細身で華麗なる姉にまさか魔術などという反則で組み敷かれて襲われたことに、あの方は今も納得がいかないのですよ」
「そう……なのか」
 初めて知ったハデスの真実に、ロゼウスは何とも言いがたい感覚を覚える。
 しかし悠長にハデスのその姿を選んだことに対して思いを巡らせていられるのもその時までだった。
 ラダマンテュスの言葉は続く。
「ええ。可愛らしい方でしょう。本当に」
「それは――」
「もう、縛り付けて無理矢理突っ込んで泣かしてみたい! と思うでしょう」
 はい? ハデスの幼いが故に切実な意地に対して皮肉ったのかと思われたラダマンテュスの更に予想外な言葉に、ロゼウスは続く台詞を失う。
 そして乗りに乗ったラダマンテュスの発言は続く。
「ああ、そもそもあの容姿! 故ゼルアータ暗黒の王国の末裔たる漆黒の髪と瞳! 色素のせいかどこか重く硬質な印象を与えるあの黒髪! 瞳孔の色と違いがなく瞳そのものをその色で塗りつぶしてしまったかのようなあの一色の瞳! 高くはないが綺麗に通った鼻! 桜色の可憐な唇! タルタロスの魔族どもの濁った灰色の肌と違う生気に満ち溢れた黄色い肌! 大きいが切れ長の瞳が同じ色の睫毛に縁取られて苛立たしげに唇を噛みながら世界を見ているあの様子!」
 ロゼウスは床と思われる辺りをさりげなく蹴り、その男から一歩引いた。
 ラダマンテュスには悪いが(?)ロゼウスはハデスの外見にはさほど興味はない。整ってはいるし、姉のデメテルがすっきりとした美人であるだけあって普通の顔立ちの人間の中にいれば美形と称されるだろうが、しかしそれだけだ。シェリダンのように華やかな美貌を目にしていると、整っているがそれだけであるハデスなどには、ロゼウスはそれほど興味も湧かない。子どもではあるがエチエンヌの方がまだ綺麗な顔をしている。可愛らしいという言葉を使っていいならば、クルスもそうだろう。
 しかし、ラダマンテュスはそれらのことも全て把握し許容し包み込んで(?)いるようだった。
「何よりいいのは、絶世の美貌などではないところ!」
 あ、わかってたんだ……自らの趣味のマニアックさを自覚している魔物だか魔族だかの男の言葉に、いよいよロゼウスはコメントしづらくなる。
「そしてあの性格の絶妙な捻くれ具合! 姉であるデメテル陛下に対する愛情と憎悪という二律背反のコンプレックス! 自らの存在証明のためにマゾヒスティックに傷つけられることを好み、女性が好きなくせにわざと男に抱かれようとするあの変質! もう、たまらない! 彼は私の理想にぴったりだ!」
 何気に彼に関わった者たちが、姉を殺すと宣言する彼の複雑な態度から感じ取るハデスがデメテルに向ける感情など重要事項をさらりと含んでいるのだが、内容ではなく言い方のせいで全く深刻な話に聞こえない。
「ああ、我ら魔の領域の者に比べれば絶対的に身体能力では敵わないと知っているのに負けるのが許せないあの強気な眼差しを完全に屈服させることができたらどんな恍惚が得られるか……! あの細い手足を縛りつけ無防備に局部を晒すように実験台に固定し、その身体の隅々まで私の指と舌と言う名の道具で調べつくし暴いてやりたい。あの格別美しすぎるわけではないが年頃の少年らしい浅はかな熱意と矜持に燃える顔が私の行動に心の底から嫌悪と拒絶を示し、狂ったように暴れてこの手を振り払おうとするところが見てみたい。他の男には抱かせる自分の身を、私だけは拒絶するあの彼が、私に犯されざるを得なくなって本気で青褪めるところが見たい。 いつか必ず見てみたい!」
 ロゼウスはハデスの恋愛事情にはさっぱり興味がないので彼がどんな相手と関係を持っているのかは知らないが(とりあえずシェリダンとは肉体関係のない普通の友情だと言うのは以前聞いたが)ラダマンテュスはハデスにまったく相手にされていないらしい。
 ……というか、整った端麗で冷静そうな顔の裏に潜むこの性格が見透かされて避けられているのではないだろうか。
 しかもラダマンテュスの話はまだ続いている。
「あの桜色の唇を無理矢理こじ開けて私のものを、あごが外れるまでしゃぶらせたい。あの筋肉や身体の強さとは無縁の頼りない胸板を飾る乳首を私の口に含み、飴のように舐め転がしたい。そしてあの肌理の普通な肌に一目で陵辱されたとわかる痣を無数の花のようにしつこく散らし、その惨めたらしい姿を記録に残しておきたい。あの無駄な肉などない薄い尻たぶを開いて小さな穴を暴き、私の指で丹念に解し、嫌がる彼のその場所に私のこの興奮に熱く猛り狂ったものを入れて内部が擦り切れるほどその奥を突きたい。痛みに泣き叫び血を流しながらやがて感じる快楽に喘ぐ掠れ声が聞きたい。そして私の吐き出した雫を顔に受けて呆然とした境地から我に帰ったハデス王が、絶望に涙の浮いた瞳を怒りに燃やし、これ以上の陵辱を拒んで自ら舌を噛み死を選んだ唇にそれを妨害するために私の指を突っ込んで、流れた血と精液の味に死さえ赦されない絶望を感じながら壊れていく様が見たい。ああ、ぜひとも見たいんだ」
 誰がどう好意的に聞いてもそれは恋ではなく変態的な欲求の告白はようやく結びを迎えたようだった。相手に抵抗しきるハデスの様子がリアルに想像できて怖いところが、ラダマンテュスの相手に夢を見ず正確に理解しながらそれを最大限利用して屈辱を与えようとする趣味を見事に表わしていてなおさら怖い。
「と、いうわけで私がいかにあなた方のいうハデス卿が好きなのかわかってもらえたかな」
「ああ……充分過ぎるほど」
 本気で充分過ぎた。
「だから、私はハデス卿の部下ではあるが彼の味方ではないんだ。むしろあなた方が彼の力をそいでこの手に彼が転がり堕ちる機会を作ってくれるならいくらでも協力しよう」
「そ、それはわからないんだけど……だいたい、ハデスのことは姉のデメテル陛下の管轄だし」
 それに、そもそもロゼウスが皇帝として即位したらデメテルの道連れでハデスも死ぬのではないか? ではロゼウスに味方するのはラダマンテュスにとって不利益ではないのか? いや、それともここは冥府だからこそ本格的にハデスを殺してその魂を好き勝手弄びたいという魂胆か? ……もはやまともに彼の言うことを考えるだけ無駄なような気がしてきた。
 そして最初にラダマンテュスが言った、これを聞いたら食事中の三人が吐く、という言葉の意味もわかった。シェリダンとエチエンヌ辺りはまだしも、クルスは絶対に撃沈される類の言葉の羅列だった。
「わかっているさ。大地皇帝のことは。しかし、こちらも伊達に冥府の王に恋しちゃいないんだ。策は練ってある、ああ、あなたが皇帝として即位したら彼が死ぬという心配も無縁だ。私にも考えくらいあるからね」
「そ、そうなのか」
「私はあなたのおこぼれを頂くことにするから、好きに動いてくれたまえロゼウス陛下。そう、私に身体の隅々、細胞の一つ一つまで犯されて壊れたあの少年にその後は屈辱的な拘束具を嵌め貞操帯を嵌めて犬のように鎖に繋いでかわいが」
「わかった! あんたの熱意はもうわかったから!」
 だから続きは後で一人で言ってくれ、とまだ何かヤバい妄想プランを語ろうとするラダマンテュスの言葉を制し、ふとロゼウスは一つだけ気になって聞いた。
「あの……上の三人とかには興味は」
「ああ、彼らはみんな美人だね。だけど私の好みじゃないんだ。あなたもね。ハデス卿の代わりにあなた方を身代わりにしようとすることはないからその辺は安心してくれ」
「そうか」
 ハデスよりも上の、絶世の美貌というに相応しい容姿のシェリダンはラダマンテュスの好みではないらしい。じゃあいいや、とハデスが聞いたら激昂しそうな人でなし発言をして、ロゼウスはとりあえず、その場の疑問を納めた。


196

「さて、私の心情と目的に納得していただいたところでこれからの話に入ろう」
「ああ」
 とまれかくまれラダマンテュスの話はようやく締めに入るらしい。
「まず、ロゼウス陛下。私はあなたに協力する。どうせ今回もこんな絶好の機会だというのにハデス卿は私に仕事を振ってくれなかったわけだし」
 よっぽどこの男に借り作るの嫌なんだろうなぁ、ハデス……とロゼウスは思わないでもなかったが、敵のことはどうでもいいので無視する。
「ハデス卿は、地上からあなたの姉上を攫ったのだったね。その姫君は、これから冥府の生贄に捧げられる」
「え!?」
「おや、不思議かい?」
「聞いてないぞ! そんなこと!」
「誰も言ってないからね。だから私が今説明しているんだろう」
「それはそうだけど……」
「疑問がないなら話を続けさせてもらうよ」
 パンパンともともと二人しかいない空間であるのにわざわざ注目を引くために手を叩いたラダマンテュスを睨み、ロゼウスはその言葉を一言も聞き漏らさないようにとする。
「ハデス卿は皇帝の座を巡ることで、あなたを酷く恨んでいる。ロゼウス陛下、あなたを殺す事が目的だ。あなたさえ殺せば、とりあえず彼の憂いは全て取り除かれるからね……次代皇帝を奪うことで世界をどんな混乱に落とし込むかなんて、彼には関係ないだろうからねぇ。もともと産んでくださいと頼んだのでもないのに道具として襤褸雑巾のように使い捨てられるために作られた彼に、他者を気遣う余裕などないし」
「そんな……」
 自分が皇帝となること、それに実感はさっぱりわかないロゼウスだがラダマンテュスの言葉に感じるものはある。
 世界皇帝は神の意志により、その時の世界に最も必要な人物が選ばれる。その皇帝を殺せば、世界は歪む。
 ハデスがロゼウスを殺したいだけならともかく、それに世界を巻き込んでもいいと言うのなら問題だ。確かにロゼウスの即位と同時に死ぬとされている彼に他者を気遣うことまで求めるのは酷かもしれないが……だが、しかし。ドラクルやカミラと違って、ハデスは唯一ロゼウスが皇帝になる運命を持つとしっていてその存在を消そうとしている。だけど、自分が彼に憎まれると言う事もわかるから……。
「ラダマンテュス卿」
「なんだい? ロゼウス陛下」
「あなたはさっき、俺がハデスと戦って負かしてもそれは気にしないと言った。それは、どういう意味だ? もしかして、俺が皇帝になってもハデスを生かし続ける方法はあるということか?」
「その通りだよ、陛下。この世の中に絶対はない。抜け道などどこにでもあるものさ。私はそうやって彼を手に入れたい」
「あ、そうか。ここでハデスを生かしても結局あんたに陵辱され拷問され隷属する運命が待ってるのか……」
 ラダマンテュスの言葉を聞いて、ロゼウスは自分の一瞬考えたことは無駄かもしれないと思った。
 その考えを正確に察したのか、ラダマンテュスが苦笑するように相好を崩す。冥府の魔族である彼にしては、それはとても人間らしかった。
「ハデス卿を生かしておく気があるのかい? ロゼウス陛下。君の弟の仇だろう?」
 ハデスの射る銀の矢に貫かれて絶命したミカエラ。
 彼のことを忘れたわけではない。それでも。
「そうだな。あいつは俺にとっては仇だし、全ての元凶でもある。でも、だけど」
 それでも世界のためなら一人の人間の存在理由から歪めて使い捨てのように死を与えていい理由にはならないから。
 償いと権利は別物だ。過ちに罰は必要だけれど、罪を犯せば全ての権利が剥奪されるわけではない。
 それすらもただ世界のためなどという言葉で奪うのが正当だというのなら、ロゼウスは皇帝の存在に何の意義も見出さない。
「優しいとは言わないよ、ロゼウス陛下。あなたのそれは優しさに見える、形を変えた残酷だ。けれどまぁ、敵であるハデス卿にそこまで考えを及ぼせるのは……別に立派でもないか。弟の恨みより自分の考えを優先させただけだから」
 生きるという事、そして他者を生かすという事はとても難しいのだと、冥府に生きる魔族が言った。
「ま、それでもあなた様の場合、これからことが進めば絶対にハデス卿を赦せなくなるのだろうけどね」
「え?」
「今はそれでも……いつかは」
「それ、どういう意味……」
 ロゼウスがラダマンテュスにその言葉の真意を問いかけようとした時、どこからか鐘の音が聞こえてきた。
 ゴーン、ゴーン、ゴーン、ゴーン……
「な、何これ!」
 咄嗟に彼は耳を押さえる。この何もない暗闇の空間に突如として鳴り響いたその鐘の音は気のせいなどというものではなく、むしろ耳を塞ぎたくなるほどの大音量で鼓膜に響く。
「ああ、鳴り始めたね。儀式の鐘が」
「儀式?」
「君の姉上を冥府の生贄にする儀式だ。ハデス卿の魔術は冥府の魔物の力を使うもの。つまり、その魔物たちに彼らの気分を喜ばせる美しい生贄を捧げれば彼の力は飛躍的に上がる」
「姉様が!」
「ではさっさと話を終わらせよう。よく聞きたまえ。私があなたたちに協力的なことはもはやあの強壮剤入りの食事でわかっているだろう? ハデス卿のいる場所は灰白色の石作りの神殿だ。目の前に大きな湖があることが特徴だ。この屋敷から出る道をその神殿へ直結させておこう。ただし、橙色の花を植えている線から出てはいけない。そこが私の領地の境目で、領地内にいれば私を恐れて他の魔物は近づかないが、私の領地を一歩出ると他の魔物が飛びかかってくるよ。ハデス卿のことに関して話はこれくらいだ」
 そしてラダマンテュスは立ち上がり、マントをばさりと翻す。
「ではここから出よう。お仲間ともすぐに合流させる」
 それを合図に、暗闇に包まれた空間が歪み始めた。ラダマンテュスの姿がその闇に飲み込まれていく。
 全てが消え終わる直前、声が聞こえた。
「そういえば、このことを忘れていたね」
 何かを思い出したようなラダマンテュスの声に、すでに心はシェリダンたちとの合流やミザリーを救うことに向かっていたロゼウスは彼の方へと意識を引き戻される。
「ハデス卿やドラクル王など、ご自分の敵方でも救いたい者を救おうとするのはいいけれどね、ロゼウス陛下。だからといって、これまでにすでに踏みにじってきた者のことを忘れてはいけないよ。死者には何もしてやれないけれど、彼らにだって権利は確かにあったのだから」
「え?」
「可哀想な狼を一匹、この冥府に落としただろう。彼も確かにあなたの行動においては邪魔者だったろうが、それでもあなたの兄上やハデス卿に利用され操られていたに過ぎないのにね……」
 ラダマンテュスがマントを払う。
 その布地の影に、人がいることにロゼウスは気づいた。微かに見えたその影。薄茶色の獣の耳の生えたその影はただの人間ではない。
 しかし確かに見覚えがある。
 ――可哀想な、狼……。
 顔までは見えない、けれどあれは。
「まさか……ヴィルッ!?」
 その名を呼び、思わず手を伸ばそうとしたところで世界が途切れた。

 ◆◆◆◆◆

 儀式の時間は迫っている。
「もうすぐで、君の命が終わる」
 祭壇の上に縛り付けたミザリーの頬をハデスは撫でる。
「君は冥府の生贄となり、僕の力となる。どう? もうすぐ死ぬ気分は」
「最悪」
 首だけを動かして、ミザリーはハデスを睨みつける。
 ハデスの言う事によると、自分はこれから冥府の魔物たちに嬲り殺され死体を食い尽くされるのだとか。
「一応ロゼウスをおびき寄せる為の人質とはいえ、こっちの儀式も結構重要なんだ。始めさせてもらうよ。弟さんが助けに来なくて残念だったね」
 ハデスの言葉に、ミザリーは皮肉に笑った。
「この臆病者」
 ぴたり、とハデスが動きを止める。
「卑怯者とは言わないわ。弱い者が知恵を凝らすのは当然だもの。だけど、あなたは臆病者よ」
「何……?」
「あなた、そうやっていつも罠を張り巡らすばかりで、でも正面からロゼウスと向き合ったことがあるの?」
 ロゼウスと、正面から。
「ドラクルがあの子を敵視しているのはわかる。あの兄にはわかりやすい理由があるからね、王太子の座を奪われる、と。けれど、あなたは何なの? 何故そんなにロゼウスが憎いの? あの子はあなたに何もしていないのに」
「……ロゼウスが皇帝になれば、僕と姉は前皇帝とその選定者として殺される」
「そんなの、わからないじゃない。ロゼウスは権力欲で相手を殺すような子じゃないわ。それを美徳とは言わない。自分以外の人間に関心がないだけだもの。でも帝国宰相、あなたは何なの? あなたはロゼウスのことを何も知らずに、ただ敵対心を抱いているだけじゃないの。どうしてあの子と向き合おうとしないの? 喧嘩を売るのは、その後にすればいいじゃない」
「わからないの? 僕だってドラクルと同じだよ。ロゼウスがいれば無条件でこの存在を抹殺される。死にたくないと思うのに理由がいるかい?」
「本当に? 嘘でしょう? あなたの思惑は、もっと別のところにあるんじゃないの? あなたはそれが上手くいかないからって、ロゼウスに八つ当たりをしているんでしょう。あの子にあなたを理由もなく殺す気概なんて良くも悪くもないわよ。あなたがあの子に何かしない限り、ね」
 ミザリーは皮肉に笑ってハデスを嘲り、ハデスはハデスでその漆黒の瞳を酷薄に細める。
「……何とでも言えばいいよ。囚われのお姫様。どうせ君は、ここで死ぬ」
ハデスが視線をやった方を見遣ると、そこにはまだ遠目だが、目を疑うような魔物の大群がこちらへと向かってきていた。段々とその足音と振動がこの場所まで伝わってくるようだ。
「うるさいんだよ。お前も、姉さんも、あの男も。誰が何を言ったって、僕の心は変わらない。ロゼウスと姉さんを殺してこの世界を奪う」
 そしてハデスは口を開くと、滅多に使わない呪文の詠唱を始めた。彼ほど高位の魔術師になると、生半な魔術で呪文など必要としない。これは、ハデスが真剣であり、それほどこの魔術が重要であるという証だ。
 滅びの時間が迫っている。

 ◆◆◆◆◆

 ざわざわと何かおぞましいものが地を這う気配がする。
「我が声に応えよ、我が言葉に集えよ、タルタロスの魔物たち、我が望みのために、ここに冥府の生贄を捧げる」
 ハデスの呪文が終わらないうちに、神殿を目指して魔物たちが集まってくるのが祭壇に縛り付けられたミザリーの眼にも見える。最初は灰色の影からはじまり、今ではその畸形がヴァンピルの視力を持つ彼女にははっきりと見て取れるようになった。遠目に赤い点としか見えない魔物たちの眼が、爛々と輝いている。
「さて、儀式の始まりだ」
 カッチリと隙なく黒服を着込んだハデスの方は、その言葉と共に、祭壇から離れる。
「君は冥府の生贄だ。これからこの魔物たちに犯しつくされ、殺されて死体を食べられる」
 冥府に住まう生き物の生態は地上の生き物とは本来違う。
 生き物とは言っても本来死者の行く先と言われる冥府に彼らが棲むからには、そこには条件があるわけだ。冥府の魔物たちは本来食事を必要としていない。実体があってその生命活動を維持するという生物の形態を保っているわけではないので、定期的な食事などは必要がないのだ。
 では何故その冥府の魔物が人間を喰らうのかと言えば、それは彼らの魔術に関係する。
 魔力は無尽蔵にそこに溢れるものではなく、一定条件の下では有限な資源である。例えば人間や地上の魔族が持つ魔力は、その本人が食事を摂り睡眠を取り日常生活を送る中で熱分を作り力に変えるように使ってはまた作られるその人物が生きている限り半永久的なサイクルの中にあるが、冥府ではそうもいかない。
 食事も睡眠も本来必要としないという魔物の生態は本来この環から外れている。彼らの魔術の使い方は、自分の近くどこかに在る魔力を使うというものだ。しかし人間や魔族の身体の中にある魔力と違って、見えない箱の中に入れておいた魔力量には限りがあるのだ。大きな術を使うときにその不足分は自分自身で生み出すか、あるいはまたどこか別の場所から補わねばならない。
 その魔力を補い、または生み出す儀式が「生贄」である。
「ロゼウスは来ないね。まあ僕には好都合だけど」
 ハデスの言葉に、ミザリーはほとんどそうと気づかれないほど僅かに眉を歪めた。
 魔物たちはすでに人間の視力でもその姿形がわかるほど彼女たちの間近に迫っている。大きな百足のようなもの、目がいくつもある兎、逆に一つ目の豹や鱗の生えた獅子、蜥蜴の頭にサイの体を持つような生き物、翅の生えた大蛇、巨大な蜻蛉、言葉では説明しがたい、地上のものではない姿形をしている魔物たち……。
 あれに殺されるどころか、触れられると考えただけでも気が遠くなってくる。いっそひと思いにここで死にたいぐらいだ。どれだけ傍若無人でも人間であるハデスならまだしも、あんな化物に触れられるのは嫌だ。
 だが、祭壇に縛り付けられ、身動き一つとれないミザリーにはなす術がない。そして例えこの身が自由であろうとも、もともとヴァンピルにしては無力なミザリーにはあんな魔物の大群に対抗できる力はない。
 私はここで死ぬの? エヴェルシードに祖国を滅ぼされた時よりも強い絶望が襲う。あの時も一方的な暴力に一度命を奪われたけれども、ここまで理不尽な思いは感じなかった。
 ここでミザリーが死んで魔物たちの餌と成れば、それはそのままハデスの力を上げることとなるのだという。つまり、ロゼウスを不利にさせてしまう。ミザリーがロゼウスを貶めるのだ。
 無力な自分が恨めしい。これが他の兄妹であれば、こんな無様なことにはならなかっただろう。先日死んだウィルでさえ、腕力ならばハデスには負けないはずだ。末っ子のエリサだってそうだ。隙を衝けばハデスとせめて互角には戦えるだろう。それができないのは、ミザリーだけだ。
 その弱さのために、ミザリーはここで死んでいく。
 そう確信した時に脳裏に想いうかべたのは一人。死に際に人ならば神の名を呟くと言う。シュルト大陸で普及しているのはラクリシオン教がほとんどで、ローゼンティアも魔族の国だがその例には漏れない。しかしミザリーが思い浮かべたのは神ではなかった。
 すでに亡くなった両親でもない。無能な自分をいつも冷たい眼で見ていた長兄ドラクルでもない。優しいが多少優柔不断と言われる第二王子でも、すぐ下の第三王子でも、美しく覇気があり芸術に優れる第一王女でも影の薄い第二王女である姉たちでもない。すでに亡くした弟であるミカエラやウィルたちでもなければ、ロザリーやエリサ、気の弱いメアリーのような妹たちでもない。
 こんな時に、絶体絶命の時に、神の代わりに叫ぼうとした名はただ一つ。
「―――ッ!!」

 その存在は、世界における神の代行者。

「姉様!」
 次の瞬間、迫り来ていた魔物の一群が吹き飛ばされた。


197

 祭壇前に集まってきている魔物たちをロザリーやアンリが吹き飛ばす。
「ハデス!」
 一方この一連の事態の首謀者のもとにはシェリダンが飛びかかっていった。
「シェリダン! お前か!」
「ああ! さっさとミザリー姫を返してもらおうか!」
 どうせ姿形の大きな異形の魔物たちと戦えば人間であるシェリダンたちの体力などすぐに尽きてしまう。それでもエチエンヌやローラ、リチャードにクルスはロザリーたちの援護へと回したが、ハデスの足止めをするなら、シェリダン一人で充分だ。
 無事に神殿前でアンリたちと合流できたロゼウスたちは、魔物たちを弾き飛ばしながら一目散に祭壇へと向かった。ここまで来たなら小細工はいらない。
 ラダマンテュスのように人間の姿形に近い高位の魔族がいるならばもう少し複雑な対策を練らねばならないだろうが、見たところハデスの周囲には彼以外に人間の姿も、人間に似た姿もない。そうなれば後はろくな知能を持たない下等な魔物だけが相手で、彼ら相手に高等な作戦はいらないだろう。そんな時間があったらとにかく叩き潰すのみだ。
 そしてこの場で唯一野放しにしていてはいけないハデスには、シェリダンが向き合う。
 薄灰色の神殿は、すぐに彼らが巻き起こした別の色で染まった。魔物たちの紫色の血と、緑の体液だ。少し小高い丘に立ち目の前に緑柱石色の湖がある神殿だが、その湖にロザリーやエチエンヌたちが遠慮なく魔物たちを叩き落している。
 シェリダンの長剣での一撃を、ハデスはどこから取り出したのか、丸腰だったにも関わらず宙から引き抜いたらしき短剣で防ぐ。獲物の長さと強度を考えれば命懸けのその防御から一転して、ハデスは素手の右手でシェリダンに反撃した。
 獣が相手を爪で引き裂くように伸ばされた右手。シェリダンはその一撃を難なく避けるが、その際に不思議な違和感を覚えた。
「!」
「ちっ」
 交わされたことにハデスが苛立った舌打ちをするが、シェリダンはそれが肌に掠りもしなかったのに背中に冷や汗を流す。
(今のは……)
「ハデス、お前それは……」
「ああ。さすがに君ほどの武術者ともなればこれの威力が肌で感じられるってわけ? そうだよ。これは冥府の魔力をつぎ込んだ爪」
 にい、と唇を歪めたハデスが追撃する。
 たかが爪での攻撃などに、長剣を持つシェリダンが後ずさりした。
「勘がいいね、だけど!」
 ハデスははじめにシェリダンの攻撃を防いだ短刀も持ち出して斬りかかって来る。しかしシェリダンも負けてはいない。
「いくら八十年以上生きた帝国宰相だろうと、この軍事国家の王にその程度の腕前で勝てると思うか!」
 ハデスの右手の爪がどんな力を秘めているのかはともかく、それがとてつもない力を持っているものだということはわかった。
 ならばそれを使わせなければいいだけだ。シェリダンはそう判断すると、すぐにいつもの調子を取り戻して自分から相手に仕掛ける体勢になる。
 爪を魔力で強化したとはいえ、それが生えている指も腕もハデス自身のもの、脆弱な人間の体にそぐわないその武器をつけたハデスはそうである以上必死だ。爪でなら剣を受けとめられるが、目測を誤って腕を落とされてはたまらない。
 シェリダンは見た目に似合わぬ力で剣を振るい続ける。爪ではその攻撃を受け止めきれず、防御が完全でない以上反撃もできないと悟ったハデスは爪を使うのを諦める。
「このっ」
 再度の舌打ちと共に今度は空中からシェリダンの扱う武器に見合った剣を取り出した。これでようやく両者の備えは互角だ。
「異形の力に頼りすぎではないのか? ハデス。いくら人間が魔物や魔族に比べてしまえば脆弱な種族だろうと、知恵を凝らせばその差を埋めることもできるはずだ」
 かつて人間の身でありながら、ドラクルの手引きがあったとはいえ吸血鬼の王国ローゼンティアを滅ぼした少年は言う。
 相手の力、そして己の現状と真剣に立ち向かえばできないことなどないはずだ。シェリダンはそう信じている。その意味が他者には充分負け犬の遠吠えに見えるような結果であったとしても、本人が納得できればそれでいいではないか。
 だがハデスは納得できないのだという。
「ほざけ! お前に何がわかる!」
 ハデスとて伊達に帝国宰相として長い時を生きてはいない。大人の姿の時ほどではないが、この少年時の姿でもそれなりの実力は有している。
「ハデス! 今ならまだ間に合う! 抵抗をやめて、ミザリー姫を返せ!」
「やなこったね!」
 鍔迫り合いの際にシェリダンはそうハデスに呼びかけるが、ハデスはシェリダンの言葉を一笑に付して、その一撃を打ち払うと共に距離をとった。
「わからないの? シェリダン? 僕はもうローゼンティアを簒奪するドラクルの計画にも手を貸したし、エヴェルシードを君から奪ってカミラ姫に渡した。ミカエラ王子も殺したし、ヴィルヘルムを唆して結果的に死に導いたのもこの僕だ。僕はもうどうやっても、この血濡れの道以外を進むことはできないんだよ!」
 最後は叫ぶような調子でハデスは語気を強め、それと同時に大振りの一撃を隙なくシェリダンに浴びせた。咄嗟に防御の姿勢をとったシェリダンは、奥歯を噛み締めながらそれに耐える。
 お互い一歩引いて距離を取り直して、また向かい合う。ハデスはこうしている間にも他の者たちがどんどん自分の計画を邪魔しているのがわかっている。だが。
「ハデス」
 シェリダンの言葉から身をそらすことができなかった。理性はこのままシェリダンを無視すれば背後から斬りつけられるからだと言っているが、だが、そういったことよりも……。
「それは、姉君のためか」
 脳裏を過ぎる寂しげな微笑と、甘い声と。
 その残酷な裏切りの夜と。
 ぎりりと唇を強く噛んで舌に錆びた鉄の味を乗せながら、ハデスは苛立ちのままに怒鳴りつける。
「うるさい!」
 叫ぶというより、むしろ悲痛なその声にシェリダンは一瞬目を瞠り、そして告げる。
「ハデス! 例えロゼウスが次の皇帝になったとしても、お前やデメテル陛下を無闇に殺したりなどしない!」
「そういうことじゃない! 例え本人がどうであれ、運命は変わらない! 次代皇帝は先代の皇帝を殺すために生まれてくる!」
「そんな運命、どうして信じられる! 納得ができないものならば、変えて見せればいいだろう!」
「だから今……変えようとしているんだろうが!」
 叫ぶと共にハデスはシェリダンの剣を払い上げるように一撃を加えた。
 得物を弾き飛ばされるのをなんとか堪えたシェリダンは、しかし後退せざるを得なくなる。その様を皮肉げに笑んで見遣ってから、ハデスはこれまでとは打って変わって無防備にシェリダンへと背中を向ける。
 祭壇を背にして戦っていた彼の背後では、ロゼウスがミザリーの縄を解いていた。ハデスもそれに気づいていなかったわけではない。
「!?」
 いきなりのことにぎょっとするロゼウスにそれを告げる。
「いいことを教えてあげる。ロゼウス。お前もこれまでさわりくらいは聞いたかもしれないだろうけど、きっとちゃんとした預言者がそれを教えてくれることはなかったんだろ? じゃあ僕が言ってあげる。これがお前の運命だと!」
 ハデスの口ぶりにハッと何かに気づいた様子のシェリダンが顔色を変えて叫ぶ。
「やめろハデス! 言うな!」
「黙れ! いいじゃないかシェリダン。僕はお前のためを思って言ってやるんだよ」
 預言者の唇は絶望を放った。

「ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!」

 ◆◆◆◆◆

「姉様!」
 ハデスはシェリダンに、魔物の軍勢はロザリーたちに任せ、ロゼウスは祭壇に縛り付けられているミザリーのもとへと駆けつけた。
「ロゼウス、あんた……」
「姉様、無事?」
 冥府への生贄にされかけていたミザリーは、ロゼウスの顔を見て何故か呆然とした表情を見せる。
「遅くなってごめんなさい。今、縄を解くから」
 四肢を祭壇に固定されているミザリーの手元の縄をまずロゼウスは外す。縄と言ってもここはさすがハデスというところか、対ヴァンピル策は怠らない。銀を織り込まれた縄は吸血鬼の力を奪うものだ。
 右手、左手……それでも織り込まれた銀のせいでまだろくに動かないミザリーは自力では固く結ばれた縄を解くことができず、両足の縄もロゼウスが外すのを待つ。
 ようやく全てを外し終わった時には、くっきりと赤い痕が残ってしまっている。しかしそれもいったん縄さえ外してしまえば、すぐにヴァンピルの再生能力でもとへと戻るだろう。
「姉様、怪我は……」
 ロゼウスが見たところ、ミザリーの身体にこれと言って目立つような傷はない。だが、裸に布一枚かけられていただけの彼女の全身を隈なく見たわけではないので、細かいことはわからない。
「ないわ。別に」
 今はもうほとんど影響ないが、あの行為の後下肢を鈍く苛んでいた痛みを思い出してちりりとしたミザリーは、しかし首を横に振る。
「よかった……」
 その答に安堵したロゼウスが息をつくのを聞く。ふと気づいたように彼は、着る物のないミザリーへと自分のコートを差し出した。ロゼウスが着て膝まで届く長さのあるコートだ。対して身長の変わらないミザリーが着ても同じくらいの長さとなる。
 しかしこういうところにすぐに気づかないで一拍遅れて気づく辺りがロゼウスだ、ともミザリーは思った。身体こそ、まだどこか華奢な印象が残るとはいえ男の体型になってきた弟は、しかしこんなところばかり昔と変わらない。変わらないのだとミザリーは思っていた。だが……。
 ロゼウスがふいに表情を張り詰めさせ、一点を見た。
 何故かシェリダンと手合わせしていたはずのハデスがこちらを振り向いている。二人の決着はまだついたようではないのに、ハデスには余程叩きのめされた様子も、その逆もない。
「!?」
 いきなりのことにぎょっとするロゼウスに構わず、残酷で、それでいてどこかが欠けた歪な笑いでハデスはそれを告げる。
「いいことを教えてあげる。ロゼウス。お前もこれまでさわりくらいは聞いたかもしれないだろうけど、きっとちゃんとした預言者がそれを教えてくれることはなかったんだろ? じゃあ僕が言ってあげる。これがお前の運命だと!」
 ロゼウスは怪訝そうに眉を潜めたが、それまでハデスと相対していたシェリダンはそのハデスの口ぶりにハッと何かに気づいた様子で、顔色を変えて制止を叫んだ。
「やめろハデス! 言うな!」
「黙れ! いいじゃないかシェリダン。僕はお前のためを思って言ってやるんだよ」
 そのハデスの言葉と共に、絶望が叩きつけられた。
「ロゼウス=ローゼンティア! シェリダンを殺すのは、お前だ! お前はシェリダン=エヴェルシードの命を糧に、皇帝という至高の座を得る!」
「――え?」
 何、を。
 言われているのかわからない様子で表情を失くすロゼウスへと、更にハデスは言葉を叩きつける。言葉で人が傷つけられるならば、これほど簡単なことはないとでも言うように。
「言葉の通りだよ! 薔薇皇帝。お前が真の皇帝となるのに必要不可欠な条件は、シェリダンの死だよ。それも、お前が殺すんだ」
 まぎれもなく、はっきりと、「ロゼウスが殺す」。
 そう言い切ったハデスの言葉に動揺し、ロゼウスは動けなくなる。せいぜい口を使うのが精一杯だ。
「な……何を言っているんだ! 俺がシェリダンを殺すなんて……そんなこと、あるわけない!」
「あるんだよ、実際に。僕はこの目で未来を見た」
 剣を持っていない方の手で片目の瞼に軽く触れるハデスは、ロゼウスの言葉を一笑に付す。
「嘘だと思うなら僕以外の預言者にでもなんでも聞いてみればいいだろう? だけど僕は知っている。いつどんなことで変わるかわからない未来の中で。これだけはいつも不変だった。お前はこの先、何がどうあったってシェリダンを殺すんだよ!」
「嘘だ!」
「嘘じゃない」
「そんな……そんなこと……」
 確かに吸血鬼は人間の血を吸う生き物。
 だがそんなことがあるはずがない。
 そんなことをロゼウスが自分自身に許せるはずがない。あのシェスラートがシェリダンを殺そうとした時でさえ、ロゼウスは一時的にその力を封じ込んで抑えた程なのだ。その彼も消えた今、これから先何があったって、シェリダンをそんな目に遭わせることなどあるはずがない。
「本当に?」
 しかしロゼウスの葛藤をまるで手に取るように理解していると言った様子で、ハデスは追い討ちをかける。
「自分の敵は自分自身なんだよ、ロゼウス」
「――その言葉、あなたにもそっくり返されるようだけど?」
 ロゼウスを嘲笑うハデスに向けて、弟の代わりにミザリーが言った。
 背後からの殺気に気づき振り返ったハデスは、間一髪でシェリダンの剣戟を受けとめる。
「ハデス……お前!」
「なん、だよ! シェリダン! 本当のことだろう。それに、お前はその様子だと自分に起こることを知っていたみたいじゃないか」
 ハデスの言葉に、シェリダンはぐっと詰まった。かつて古代の巫女姫サライに言われた言葉が、そんなことあるはずがないと思いながらも心のどこかに引っかかっている。
 そして今、これまで遠回しにロゼウスに関わることを忠告してきたハデスの口からも、同じ言葉が飛び出た。
 だけど、だが……それでも。
「それでも私はロゼウスの側にいる」
「殺されても構わないってのか?」
 声には出さず小さくシェリダンは笑った。
 忌々しげな舌打ちと共に、ハデスが力押しでシェリダンの剣を押し返す。
「シェリダン! ……ごめん姉様、俺」
「行ってきなさい。そろそろアンリ兄様たちも来るし、私は大丈夫」
「ごめんなさい」
「うっさいわね。さっさと行け」
 ロゼウスはミザリーの傍らから飛び出し、シェリダンへと加勢する。
 流石にハデスの力が増すここは冥府と言えども、ロゼウスとシェリダンの二人を相手取った剣での戦いはきつい。ハデスはいったん二人から、そして戦場全体からも距離をとり、体勢を立て直す。一振りで表れた黒い杖を振り、魔術で応戦しようとする。
 しかしそれもロゼウスが本気を出せば無駄だ。
 二度目の舌打ちをした冥府の王は、神殿の屋根に飛び上がると、何かの呪文の詠唱を始めた。不穏な力は黒い光の塊となってハデスの掌上へと集まる。
「何をする気だ!」
 ロゼウスが追撃して攻撃しようとも、さすがに杖に魔力を帯びさせた武器で跳ね返してしまう。ならば直接屋根に上り物理的に攻撃をしかけるまでだとロゼウスが飛びあがったところで、ハデスの呪文が完成した。
「お前を貶める手段は、何も直接殺すことだけじゃない」
 陰惨な微笑を浮かべたハデスは、ロゼウスに向けて放つかと思われた光の塊を、まったく明後日の方角に向けて振りかぶり放った。
「何……?」
 ロゼウスには咄嗟に、その意味がわからなかった。ハデスが狙ったのは本当に誰もいない場所で、しかもかなりの遠距離だ。ロゼウスとは別の方向に光を投げるとはいえ、別に仲間の誰を狙ったわけではない。
 しかし、神殿の下から屋根上でのその光景を見ていたシェリダンは顔色を変えた。こちらの動向に気づいた、これまで魔物の相手をしていたアンリも同じように事態に気づく。
「えぇっ!」
「しまった!」
 叫んだシェリダンにロゼウスは戸惑いながら尋ねた。
「な、何」
「あの方角、私たちがここへとやってきた扉のある方角だ! まさか、それを――」
 そこに来てようやくロゼウスもハデスが何をしようとしていたのかに気づいて顔面蒼白になる。
 冥府への移動は、定められた扉からしか行き来できない。それを破壊されてしまえば、地上へと帰る手立てがない。
「まさか……」
 愕然とするロゼウスの耳に、自暴自棄になったようなハデスの言葉が響く。
「お前たちはこの死者と魔物の園で、せいぜい絶望すればいいんだ。アーハハハハハハ!」
 魔物たちをあらかた倒し終えてやってきた他の者たちの耳にも、その耳障りな哄笑だけは鮮やかに届いた。


198

 壊されてしまった、地上への帰り道が。
 ――いい? こちらから開ける扉と、向こうであなたたちが自力で開ける扉は同じものよ? この形を忘れないでおいてね。扉はあなたたちが帰りたいと念じたら帰れるようにはしておくけれど、この魔術はそう何度も簡単に利用できるものではないわ。失敗したら、それきりよ? 
冥府へと向かう際に、デメテルはそう言っていた。ミザリーを奪還したらすぐに扉を開いて帰れるようにはしておくとのことだったが、肝心のその扉自体が壊されてしまってはどうしようもない。
「僕は冥府の王として、自分だけはこの空間と出入り自由だしね。お前らまで親切に地上になんて届けてやらないから、ま、ここで長く平和な余生を送るんだな。魔物たちの棲家だけど」
 魔術によって扉を壊した本人であるハデスは、神殿の屋根の上で飄々としている。
「ハデス! お前っ……!」
 シェリダンはぎりりと歯噛みする。ただでさえ魔族と人間だけで構成された彼ら一行に、魔術師はいない。他の者たちなら打破できるかもしれない状況が、シェリダンたちにはできない。
 だからこそ冥府の規則はデメテルから聞いた分とラダマンテュスの言葉に従ってきたというのに。
「地上に戻れなければ、どうしろと……!」
 どんな状況であっても人間たちの住む世界でさえあればシェリダンとて希望を捨てない。しかし、この冥府の法則性や常識は彼にはさっぱりだ。
 ここはなんとしてでも、ハデスを吐かせて地上に戻らねばならない。
「ハデス! なんでもいい! 地上に戻れる方法を教えろ! 決着はそれからだ!」
「ハッ! 教えるわけないじゃん。だいたい戻れるわけないよ。冥府から地上に戻る方法なんてない」
 そのハデスの言葉に負けず劣らず皮肉な響で返したのはシェリダンではなく、別の人物だった。
「嘘だな」
あっさりとそう看破したロゼウスに、ハデスも険しい目線を向ける。
「嘘じゃない」
「嘘だ。そうでなければ、もっと早くこの手を使っているはずだろう。お前は俺に勝てないことを最初から知っていた。こんな人質使うような作戦まで使ったのはそのためだろう。それだけ実力差があることがわかっていて、殺さずとも閉じ込めるのが有効だとわかっているなら、もっと早く使っているだろう? それとも、そんなことすらわからない馬鹿なのか? お前は。ドラクルと組むなんて周到なことまで仕出かしておいて、そんなわけはないな」
 ロゼウスの言葉に、ハデスの口元は盛大に引きつった。馬鹿呼ばわりがきいたらしい。
 他の者たちは呆気にとられている。これまでひたすらドラクルの影で立ち尽くすばかりだったロゼウスの意外な一面が、ローゼンティアが滅びエヴェルシードを追われてから次々に発揮されている。
「……だぁれが馬鹿だって? 四六時中一緒にいる兄に嫌われまくっていることにも気づかなかった間抜けが」
「いやぁ、姉さんが好きじゃないとかなんとか言っといて会う人間全てにシスコンがバレバレの帝国宰相に比べたら俺の間抜けなんて可愛いものじゃないか」
「へぇ」
 世にも恐ろしい睨み合いが続いた後、ようやく舌戦が終わり話題が再開される。
「で、そこの間抜けさ」
 訂正。舌戦は終わってはいない。続行されたまま次の話題に移っただけだ。
「ロゼウスお前、皇帝と次期皇帝の関係は死をもってしか清算できないと知らないのか?」
「知らない。それに、違うだろう? そんなの建前だ」
「建前じゃない。本当のことだ。最初の皇帝と選定者がそうだったせいか、皇帝の代替わりには必ず死と言う名の一つの儀式を伴う」
「俺にはそんな実感がない。お前を殺して特に利益が出るでもなし。なんで理由もないのにそんなことをするんだ?」
「皇帝の《絶対感覚》か……そうだな、ロゼウス、お前は皇帝としてその直感を信じるんだな。だがお前はわかってないんだよ。運命には抗えないということに。お前が僕に対する憎しみを抱かないのは、まだ物語がそこまで進んでいないからさ」
 ふっと寂しいような微笑を浮かべて、ハデスはシェリダンの方を見た。
 その視線を受けとめて、シェリダンは己のうちで心当たりを探る。ざらつく何かが手に触れていることがわかっているけれど、それをここでは口に出さない。出してもどうにもならない。
 予言。未来をみること。
 人はいくらその状況に備えても、実際にその場面になってみないとわからないことなどいくらでもあるものだ。
 だから今はとにかく、脱出のことだけを考える。
 そしてロゼウス側に打開策の見えないこの場面で少しだけ動いた人物がいた。
「ロゼウス様、少し……」
「ん? あ、ああ……」
 リチャードは何故か彼の主君であるシェリダンではなくロゼウスの背後に歩み寄り、耳元で何か囁いた。次の瞬間、ロゼウスの姿がその場から消える。
「何!」
 皆が驚くのを余所に、ことを仕掛けたリチャードとその妻であるローラだけが平然としている。ローラはすでにリチャードの性格をよく知っているし、彼が何を考えているのかもわかっているようだ。
 一人目線を屋根から動かさなかった彼女の見守る先で、事態への変化は訪れる。
「どわぁ!」
 一瞬で屋根の上に飛びあがったロゼウスに突き飛ばされて、油断していたハデスはそこから落とされた。たいして高さもないから大きな怪我をすることもないのだが、その身にはエチエンヌとローラが二人がかりでワイヤーをかける。人間の腕力では絶対に切ることのできない頑丈なワイヤーだ。
「ぐっ!」
「確保完了」
「これでいいのか? リチャード」
「ええ。尋問を行う際にはまず対象の身柄を拘束しませんと逃げられてしまいますからね。彼をここで逃がしては私たちには地上に戻る術もないのですから、慎重になるべきです」
 この状況に危機感を覚えていたのは何もロゼウスやシェリダンだけではなく、一行が皆一蓮托生なのだ。見かねたリチャードがロゼウスに指示して何やら事態を動かしている。
「さて、ロゼウス様。次の段階ですが」
「うん」
「こう言った場合効果的なのは、相手の弱味をつくことです。何かハデス卿の弱点など知りませんか?」
「弱点? うーん。特には……」
「そうですか。別にハデス卿の内的な要因でなくともいいのですよ? 誰かから何かされるのが今の彼にとって不愉快である。それさえわかればいいんです」
「あ。それなら」
 脳裏に先程仕入れたばかりの新鮮なネタがあることを思いだして、ロゼウスは口を開いた。
「そうだな。ハデスがここで脱出手段について口を開かないのであれば、お前を冥府の公爵ラダマンテュスに引き渡す」
 その言葉を聞いた途端、今まで切れないワイヤー相手に地道な抵抗をしていたハデスの動きがぴたりと止まる。
「な……ラダ!? お前ら、あいつに会ったのか?」
 脈ありと見て、ロゼウスは更に続けた。
「ああ。お前は彼に惚れられているんだろう。今度会ったら鎖に繋いで犬のように可愛がってやるとかなんとか、その他ここでとても口に出せないような凄いことをいろいろ言っていた。あいつにお前を引き渡すことにするよ、ハデス」
「や、やめろ! くそ、どうりでここに辿り着くのがやけに早いと思ったら、あいつに会ってたなんて!!」
 顔色を青く変えたハデスが、苦虫を噛み潰した表情になる。
「……わかった、扉なしで地上へと戻る方法を教えてやる」
「本当!?」
「やらなかったら僕をあの変態男のもとに連れてく気だろう、お前は」
「うん」
「それは嫌だから、教えてやる……だけど」
 縛り付けられ脅されて劣勢に陥ったハデスだが、不敵な様子は鳴りを潜めたわけではなくそこでまた笑みを浮かべると酷薄に告げた。
「決めておくんだな。誰が犠牲になるかを」
「え?」
「決まっているだろう? 冥府の儀式に、生贄はつきものだと」

 ◆◆◆◆◆

 この世には、抱えられる熱量の限界というものがある。
 その熱量の計算式を全て理解できる者、それこそが皇帝である。だがしかし、理論を理解できることとその理論を実践することには天と地ほどの隔たりがある。理論はその途中の事実の欠落を仮定で穴埋めして最終的な解に辿り着けるが現実的にはそうも行かない。理論の途中で空白にされた、現実には存在しない途中式、それがその時点で完成不可能なものである場合、何かで補う必要がある。補ったものを使うということはその精度は理想とは劣るが――。
 とにかく、世界は口で言うほどに上手くはいかないということだ。
 この世の物事には全て代償がつきまとう。何も差し出さず何も奪われず、手に入るものなどない。
 あるいはそんなものもあるのかもしれないが、だとしたらそれは自分が意識していないだけで、今の自分の力でも手に入れる事が可能なものだということだろう。
 そう――世界は、現実は、優しくなどないものだ。
「決まっているだろう? 冥府の儀式に、生贄はつきものだと」
 ハデスの言葉にその場に静寂が下りた。
「生贄……?」
「なん、だと……」
 吐き出されたあまりにも無慈悲な現実に、一同は凍りつく。
 冥府から地上へと帰る扉はハデスによって破壊されてしまった。デメテルの力によりこの地に送られてきた彼らには、他に帰る手段がわからない。頼みの綱は敵であり冥府の王とも称号を持つハデスに帰還方法を聞くことだけなのだが。
「生贄って……それじゃあ」
「わざわざ誰が犠牲に、などと言うからには、そこいらの魔物をひっつかんで差し出せば良いというものでもないわけですね」
 これまではなんとか平静さを保っていたローラやリチャードもさすがに顔色を変えている。
 と。
「ハデス自身を差し出しちゃ駄目なの?」
「ロゼウス!?」
「おま、そんなさらりと鬼畜発言を!」
 ロザリーとエチエンヌのツッコミにもめげず、ロゼウスは捕らえたハデスの顎を指で持ち上げながら言って見る。
「だって、この中で俺たちが問答無用で殺しても構わない相手なんてハデスくらいだろ?」
「お前、馬鹿だろう? 僕がいなかったら、どうやって扉を開くんだよ。魔術ってのは普通術者が死んだ途端にその効果が消えるものだろうが」
「ああ。そうか。ただの人間はそうだったな……ちっ」
「舌打ちしやがって」
 二人が睨み合ったところで、事態が改善されるわけでもない。
「さっさとこの針金どけろよ。扉は開くだけ開いてやる。そこからどうするかは、お前たちが決めればいい」
 ロゼウスがハデスの首筋に、刃のように尖らせた爪を当てたままハデスを立たせる。ローラとエチエンヌがそれぞれワイヤーを解くが、首に当てられたそれのせいでハデスは無駄な動きはできない。
「下手な事はしないでもらおう。お前がそれをしなかったらどうせ俺たちはここに一生幽閉なんだから、それくらいならお前を殺す」
「本当にいい性格してるよ、お前」
 魔術を行うために手で印を組み、そのままハデスは呪文の詠唱を始めた。
 何が起こるのかと一同が辺りを見ていると、変化が起きたのは目の前の湖だった。淡い緑色の水を湛えていたはずの水面が赤く色を変える。
 それと同時に彼らが立っていた神殿にも変化が起き始めた。薄灰色の建物は崩れて形を変えていく。ぐらぐらと揺れる地面に立っていられなくなり、ロゼウスたちは地面に膝をついた。
「こ、これって……」
 ハデスの呪文が終わる頃には、周囲の風景が一変していた。
「これ……扉、ですか……?」
 クルスが口にしたとおり、そこには新たなる扉が出現していた。神殿の建物が崩れて、その形を扉へと変えたのだ。
「そう。そしてこの溶岩が生贄を捧げる祭壇」
 ハデスの言葉に彼らが先程まで湖だった場所を見ると、そこには燃え立つ赤いマグマが湛えられていた。そうと意識した途端、周辺の大気が燃えるように熱いことに気づく。ロゼウスたちヴァンピルはこの程度平気だが、普通の人間であるシェリダンやローラたちは汗をかいていた。
「あの扉は全部、冥府から地上へ戻ろうとした人間の命が作ったものなんだよ。本当の意味で冥府と地上を行き来できるのは、冥府の王とそれに準じる力を持った者だけだ。それじゃ……僕はこの辺で失礼するよ。後はあのマグマに誰かが身を投げればそれで済む話だから、お前たちで勝手に決めな」
「あ! 待て!」
 扉に気をとられてロゼウスが少し目を離した隙に、ハデスは魔術でさっさと姿を消す。一足先に地上に戻ったのかもしれない。
「くそ! 逃げられた!」
「……後から背を押される心配がないだけ、マシとするか。それで……まさか誰かが飛び込むわけにもいかないし、どうする?」
 ハデスのことは追いかけようにもその術がなく無駄だと諦めて、シェリダンが眼下の赤い湖に目を落とす。地面はせり上がるように変動して、もとは平坦だった大地に段差ができている。ロゼウスたちがもともと通ってきたあの扉があった丘も、もとはこうしてできたのかも知れない。
「どうするったって……どうするのよ!」
 ロザリーが叫ぶが、その問に答えられる人間はいない。
「また、ラダマンテュスの屋敷に戻って話を聞いてみるのはどうでしょうか? 彼なら何か知っているのでは?」
「それだクルス! ロゼウス、またあの森に――」
『無理だね。それは』
 自分たちで何とかできないのだから他人に聞くしかないと、クルスが妙案を提示したかに思えたところでその声が空中に響いた。
「ラダマンテュス!」
『御機嫌よう。皇帝陛下とそのお仲間の方々。私を頼ってくれたことは嬉しいが、残念ながらお役に立てそうにないね』
「お前、この事態を見てたのか?」
『冥府は退屈だからね。他にすることもないし』
「だったら止めればいいだろう!」
『無茶言わないでくれ。私にもできることとできないことがあるさ。あなたがあそこまで我らの王を挑発するなんて予想の範囲外だよ』
「……!」
『こちらに戻ったとしても無駄足になるよ。私とて冥府の住人だ。しかしこの世界から地上へと抜け出る方法など知らない。その扉を作り上げる以外はね』
 冥府の王。その真髄は、本来簡単に行き来できない冥府と地上を移動することができるという能力。
 本来地上と冥府は決して交わらない世界だ。その世界を行き来できるという能力は、それだけで賞賛に値する。皇帝としての才能を持っていたデメテルでさえ、冥府のことを完全に掌握することは叶わないのだ。
 だからこそ、この事態が生じる。
「他の人間がこの世界にやってくるのを待つとかは?」
 さりげなく自分勝手なことを言うローラに、リチャードが首を振る。
「そもそも私たちだってハデス卿に誘い出されなければここへ来る事はなかったんだ。普通の用事で冥府に旅行に来る人間もいないだろう」
 オルフェウスがエウリュディケを取り戻しにでも来ない限り、通常そんな事態はありえない。
「でも、だったらどうするの?」
「……」
 誰もがその先を口にできない中、ただ一人が口を開いた。
「私がいくわ」

 ◆◆◆◆◆

 懐かしい子どもの頃。
とは言っても、もう二十歳を過ぎた女の昔なんて、まだ十代の若者から見てみればそれこそ赤ん坊の頃よね。
 風に飛ばされた帽子が王城の中庭の木にひっかかってとれなくなり、私は困っていた。自分ではとれないし、誰かにとってもらおうと思っても誰を頼ればいいのかわからない。
 一番上の兄はなんでもよくできるけれど、その分才のない私を馬鹿にしているのが優しい態度の裏側に透けて見えていたし、召し使いたちに頼んでも同じ。またあのお姫様は余計な仕事を増やして……と陰口を叩かれるに決まっている。
 十歳を過ぎた頃には誰もが目を見張る美少女、と呼ばれるようになったけれど、それまでの私はただの子どもだった。いいえ。ただちょっと可愛いだけの普通の子どもならばまだいい。何の才もない無能で無力な子どもだったわ。だから最初から好意的に助けてくれる相手なんて誰もいなかった。
 それでも二番目の兄やすぐ下の弟は割合よくしてくれたけれど、その二人は折悪しく外出中。自分と同じ女である姉たちには頼めないし、自力で木登りもできない。できたとしても、ドレスを汚してまた怒られてしまうわ。
 どうしようもなくて泣きたくなっていたところに、あの子はやってきた。
 ――姉様!
 ――ロゼウス?
 当時八歳だった私の半分の年数しかまだ生きていない弟は、私を見つけて何が嬉しいのかにこにこと近寄ってきた。高い木の枝にひっかかった帽子を、私もまさか自分よりもずっと小さいこの子にとらせる気なんてなかったのだけれど……。
 ――はい、姉様。
 止める暇もなくするすると木に登り、ロゼウスは私の帽子を取ってきた。でも……私はまだ何も言っていない。ただ、枝にひっかかった帽子をずっと眺めていただけ。
 ――どうして……。
 ロゼウスは答えない。ただ、にこにこと笑顔を振り撒いている。
 こちらが何か言う前からその人の望みを察し、叶える……そんな力にこの弟は優れているんだ……私は幼心にそう刻んだ。
 その日から私の、才ある者への嫉妬の対象が増えた。
 何を言っても八つ当たりしても痛い顔一つしない弟。何も考えずに生きているように見えて、だけどいつも何かを欲しがっていた。それが何なのか、私にはわからなかったけれど。
 私はロゼウスが羨ましかった。そんな風に満たされなくてもこの弟はもう充分色々なものを手にしているように見えて。
 でも、でも本当は――。
 ――はい、姉様、お帽子。
 ――……ありがとう、ロゼウス。


199

「私がいくわ」
 それは行くなのか逝くなのか。
「ミザリー!?」
「姉様」
「お姉様!?」
 この場でただ一人犠牲にならねばならない者としての宣言をしたミザリーに、アンリ、ロゼウス、ロザリー、ローゼンティア王族の面々が反応する。
 マグマの熱気で、大気はそれ自体が燃えるように熱い。どちらにしろ長くこの場所には留まれない。だが無慈悲な決断を下す勇気は誰にもなくそれぞれが立ち尽くしていたところだった。
 そもそもロゼウスたちは、ミザリーを助けにこの場所までやってきたのだ。
「駄目だよ! 姉様!」
 ここで彼女を失っては本末転倒だ。その想いを胸にロゼウスはミザリーの元まで駆け寄ってくる。
 腕をただ触れるだけ。そっと掴んで、引き寄せる前に一度顔を見た。青褪めるロゼウスとは対照的に、波のない凪の海のような瞳をしている。
 絶世の美貌と謳われるその顔を綺麗に微笑ませて。
「……後は、あんたに任せるわ。ロゼウス」
「……え?」
 伸ばした腕で彼女は一度だけ弟を抱きしめた。
「ねえ……さま……」
「負けちゃ駄目よ」
「え?」
「この先、どんなことがあっても、その運命に負けちゃ駄目よ」
 ミザリーが口にしたそれは、奇しくもウィルが言ったのと同じ言葉だ。
 どうか、あなたの運命に負けないで。
「あんたは皇帝になるのだから」
 私が何も言わないうちから失くした帽子を取ってきてくれたロゼウス。その願いを人々が表立って言う事はできずとも、本当の本当に求めている真実を掴みとり、叶えてくれる。
 世界がそれを必要としていると言うのならば、この弟は皇帝になるべきだ。
 先程、無意識のうちに彼女が彼に助けを求めたように、ロゼウスの力を必要としている人間が、この世界にいると言うのなら。
 私は――。
「手間かけさせてごめんね、アンリ兄様、ロザリー。それにシェリダン王たちも」
「ミザリー!」
「お姉様!」
 アンリとロザリーは叫ぶように妹の、姉の行動を止めようとしてシェリダンたちは何もできずに立ち尽くす。
「私は本来ここでお前を止めるべきなんだろうな。だが、言えない。地上に戻りたくないとは……」
 そのためならミザリーすらも犠牲にする。本末転倒であろうとも、シェリダン自身は自分と他の仲間たちのことが大切なのだ。ミザリーを救うために全てを捨てる選択など初めからありえない。
「そう。なら、ロゼウスを押さえていて」
「わかった」
 だからここだけはとミザリーの求めに応じて、シェリダンとクルスがロゼウスを押さえ込む。
「姉様!」
 アンリとロザリーにはリチャードとローラ、エチエンヌがつく。
 しょせんどんなに強くても人間の腕力。吸血鬼にとっては振り払えない力ではない。だけど三人は振り払えなかった。
 そしてミザリーは誰かに突き落とされてそこに落ちるのではない。自ら足を踏み入れるのだ。
 赤い赤い湖。燃え立つマグマ。
 吸血鬼は火炎に弱い。そもそも命を捧げるための生贄なのだから、生きて戻って来られるわけはない。
 ロゼウスたちはミザリーを救いにこの冥府までやってきたのだ。なのに何故。
 疑問を打ち払うのは靡いたコートの裾。熱された大気に煽られてそれが風をはらむ。
 長い白銀の髪がふわりと柔らかに宙を舞って。
 それは永遠のような一瞬だった。
「姉様――――!!」
 死者の世の門が開く。

 ◆◆◆◆◆

「おにいさま!」
「戻って来たわね」
 薄青い光に包まれたと思った瞬間、ロゼウスたちはそれまで踏みしめていた罅割れた大地ではなく、平らな大理石の床を足の下に感じた。
 エリサとデメテルが、一様に疲労した表情の彼らを出迎える。
「それで首尾はどう? ずいぶん時間がかかったようだけど」
 デメテルの問に、彼らは疲れきった表情を更に凍りつかせる。その様子に不穏なものを感じたデメテルとは対照的に、ローゼンティア王家の末っ子であるエリサは無邪気に兄たちに尋ねた。
「ミザリーおねえさまは? ねぇ、おにいさまたち、おねえさまは? ……おにいさま?」
 十歳の少女の声は、ふいに不思議そうな顔と共に途切れる。
 魔法陣のあった床から離れられないまま、白い頬に涙を滑らせる兄の顔に視線を釘付けにされて。

 ◆◆◆◆◆

 遠くの景色を映していた水晶玉に、彼は血の気のない灰色の手を一振りしてその映像を消した。
「やれやれ。皇帝陛下は無事に地上にお戻りになられたようだ」
 水晶玉に映されていた最後の映像はロゼウスたちが冥府の門をくぐりこの地下世界から姿を消したところで終わった。確実に気配が消えたことはここからでもわかっている。
「その犠牲は少ないものではなかったようだが……」
 姉姫を助けるためにこの世界にやってきたロゼウスは、結果的にその姉姫を失うことになった。骨折り損のくたびれ儲けで済ますにはあまりにも趣味の悪い事態だ。冥府の生贄として化物に犯し殺されるのとマグマに自ら身を投げるのと、どちらが楽だなどと言えない。
 ラダマンテュスは目の前に酒の注がれたグラスを置いて、楽しげに肩を揺らした。グラスをどこに置いたかなど関係がない。ここは彼の魔術が支配する空間、彼が今は不要だと思ったものは近くをふわふわと邪魔にならない程度に浮遊していて、またいつでも取れるようになっている。
「運命とは残酷なものだねぇ。ロゼウス=ローゼンティア。この全世界を支配する何者かの手により、世界は彼を皇帝にするために動く。本人もそして周囲もそれを知らぬまま、ただ、踊り続けるしかない。……ああ、今回のことでまた一つロゼウス王子は、皇帝へと近づく」
 幾つもの喪失と別離を乗り越えるたびに、彼は覇王としての器に目覚める。
 ラダマンテュスは脳裏に藍色の髪と朱金の瞳を持つ少年を描き出した。人間離れした美貌の、しかしどこまでいっても人間でしかない少年。彼こそが、ロゼウスの運命を握る鍵だ。
 この冥府ででも読み取れた、ロゼウスの彼への執心ぶり。ではあの少年を失ったら、虚無のヴァンピルはどこまで狂ってくれるのだろうか。
 それを想像すると、今から胸が高鳴り心が躍る。ぞくり、と背筋を走った快感にあわせて、白濁の液体を吐き出した。
 いまだ、一人の少年がその股間に顔を埋め奉仕を続ける場所へと。
「……ぅ、ごほっ、けほ」
 飲み込みきれずに噎せた少年は、それまで咥えていたものからいったん口を離す。その唇から、ぼたぼたと白い液体が垂れた。
「おやおや駄目じゃないか。飼い犬がご主人様の屋敷の床を汚すなんて」
 見れば少年の首には太い首輪が嵌められ、鎖で繋がれている。鎖の先はいつの間にかラダマンテュスの手が握っていた。それを乱暴に引っ張られ、少年は苦しげな顔になる。
「あ……」
「願いを叶えてほしいと言ってきたのは君だろう? 私は条件を提示したまでだ」
 そうしてラダマンテュスは再び少年を自らのものへと押し付けると、涙目の少年を更に抉るように言葉を続ける。
「私を六百六十六万回イかせてくれれば、君の願いを聞いてあげるよ――ねぇ、ヴィルヘルム」
 薄茶色の髪に獣の耳、愛らしい顔立ちの少年がその言葉にぽろぽろと涙を流しながらまた男のものに舌を這わせ始めた。


 《続く》