188

『本当に良いのか? 我等の王よ』
 一人の魔物が尋ねた。
「ああ」
 黒髪の少年が頷く。
「僕はロゼウスのせいで死ぬなんてまっぴらだし、姉さんの道具でいるのもまっぴらだ。せっかくの魔術の才、例え姉に敵わずとも僕の力でできる限りの抵抗を、反逆を、そして復讐をする」
『復讐?』
 それは何のための、何に対しての復讐なのかと魔物は嘲笑う。
 会話をしているのは彼らだけだが、この空間にいるのは二人だけではない。魔術で一時的に構築された冥界と地上の狭間の時空で、無数の魔物たちと少年は向き合う。
「力を貸してほしい」
 少年の言葉を受けて、魔物はその鈍色の唇を、酷薄に歪ませた。
『もう一度尋ねよう。本当に覚悟はあるのか? 楽なことではないぞ。皇帝を殺し、運命を捻じ曲げるのは。預言者よ、だがお前は自らの運命を知る事はできない』
 もったいをつけて確認を繰り返す魔物に、このやりとりに疲れてきた少年は苛立ちを細い眉に表わしながらも頷く。
「そんなことはわかっている」
 だけど、何もしないよりはマシなのだと。
 未来に希望など一つもない少年は、けれど諦め悪く交渉する。どうせこのまま何もせずに手をこまねいていれば、辿り着くのは必ず訪れる死だけだ。そのぐらいなら、どんな非道にだって手を染めるし、どんな屈辱にも耐えてみせる。
 姉の道具として作られた自分は、生まれたその理由がすでに敗者だった。敗者に未来など誰も保証してはくれないのだ。だから自らの力で勝ち取らねばならない。
 気づけば、味方などどこにもいなかった。
『我等の条件はわかっているのだろうな』
「ああ」
 この空間に集った無数の魔物たちがざわざわと身動きする。そっと彼のすぐ近くにまで寄ってくる。
彼は襟元に自ら手をかけて、解いた。これから何があるのかはわかっている。
「使えるものは、なんでも使うさ」

 ◆◆◆◆◆

 一本の極太の触手が後から抜けると同時に、また新たな魔物に腰を掴まれた。
「ん……ぅ、う!」
 口を獣に似ているが地上のどの生き物とも違う形の生き物への奉仕に使われ、呻きながらまた新たな魔物のものが内壁を擦るのを感じる。明らかな人外の化物にいいように犯されるおぞましさに吐き気を堪えながら、それでも離せとも嫌だとも言わない。
 ぬめる触手が肌を這い、怪しい粘液を塗りつけていく。肌色が見えなくなるほど隙間なく体中を魔物たちの手足や口、触手に埋め尽くされて、ようやく解放された口元からは唾液と共に荒い息が漏れた。
 その零れた液体さえ、魔物たちは嬉しげに啜る。自分たちの欲望を遂げる間に、彼自身にも苦痛と隣り合わせの快楽を与え、無理矢理達しさせると零れた精を我先にと争って舐めとった。
 後にはまだ何かの魔物のものが入っている。人間ともその他の生物ともほど遠い姿をした魔物もいれば、姿形は人間に近いが瞳の様子や鱗の映えた肌などが違う魔物もいる。どちらの方がいいとも言えないが、どちらもあらゆる手段で少年の肢体を犯したがっているのは明らかだ。
「ん……ぁああ!」
 腸が破れるのではないかと言うほどに奥深くを、激しく突き上げられる。凶悪ないぼを持ち鉄のように硬いそれが何度も直腸を擦り、前立腺を突く。
 溜まらず何度目かの白濁を零し、窒息する前に荒い息を整える彼の耳元で、この場の代表者たる魔物が囁いた。
『浅ましいことだな、ハデス』
 別の魔物が顔を近づけ、だいぶ息を整えた彼の唇を奪う。舌を強引に絡ませて、濃厚な口づけを与えた。
 下半身はまだ複数の魔物に弄ばれている。ずちゅ、にちゅ、と出し入れの音が耐えない。
『お前ほど必死な者を、我等は見た事がない。一匹や二匹程度の魔物に対しその身と引き換えに契約を迫る者ならかつていなかったわけではないが、これだけの数を相手に、自らの文字通り全てを賭して契約を迫るなど。それも、あんな小さな一つの願いのために』
 生理的な涙の浮んだ目元を、魔物は長い舌で舐める。
『生きるというのは、そんなに大層なことなのか? 地上での役割など放棄してずっと冥府にいれば、我等はお前を歓迎するのに』
「……」
『あのお方のことだって、応えてやればもっと力を―――』
「っ……、テュポン!」
 魔物の口づけから首を振って逃れると、ハデスはその言葉を激しい勢いで遮った。
「次にそれを言ったら、もうお前とは契約しない!」
 身体を差し出す事は、姉である皇帝ほどには魔力の強くない少年にとってもできる唯一の方法でもあるが、もともとその容姿に惹かれて交渉を持ち出してきたのは魔物たちの方だ。
 拒絶の言葉に肩を竦め、先程の言葉を言った魔物は沈黙する。とは言っても間違ってもハデスの剣幕に押されたというわけではなく、単にこれで不興をかって、せっかくの美しい人間の肌に触れられなくなるのがつまらないからだ。
『まぁ、いいさ。その愚かしいまでの必死さこそが、我等を惹き付けてやまないのだから』
『歓迎しよう。冥府の王よ』
 別の魔物がそう言って、再び異形の生き物たちは少年の身体を弄び始めた。


189

 罪には、罰を。
 己の犯した過ちの報いは、その身で引き受けなければならない。

 パン! と乾いた音を立てて、ロゼウスの頬が鳴った。白い肌がみるみる紅く染まっていく。
 しかし、殴ったほうは非力な女性。ロゼウスの肌は薄っすらと紅く染まりはしても、腫れもしなければ歯が折れるようなこともない。それを殊更悔しそうに見て、ミザリーは長い睫毛に涙を溜めた瞳で叫んだ。
「殺したって言うの! あんたの弟を!」
 ローゼンティア第七王子、ウィル。
 彼はシェスラートに意識を乗っ取られていた当時のロゼウスに死を与えられ、この世から消滅した。もはやどこにもいない。
 ローゼンティアの薔薇の王子ロゼウスは、その身に幾つもの宿命を背負っている。次期皇帝という使命を背負う彼は、その前世においては始祖皇帝シェスラート(ロゼッテ)=エヴェルシードの戦友であったロゼッテ(シェスラート)=ローゼンティアであったという。そのシェスラートと呼ばれる人物の意識が生まれ変わった人格であるロゼウスを凌駕し、始皇帝の生まれ変わりたるシェリダンを殺そうとしたのがつい先程までのこと。
 現皇帝デメテルの力により無事に皇帝領へと戻った彼らを迎えたのは、留守番を任せていたミザリーとエリサの笑顔で。
 待ち受けていたのは、その彼女たちからの叱責だった。
 自分がウィルを殺したのだと、包み隠さずに全てを姉と妹に話したロゼウスに対するミザリーの対応が先程の平手打ちだった。
「バカ! この大バカ者! ロゼウスのバカ!」
 咄嗟に責め苦がすらすらと出てくるような器用な性格ではないミザリーの口からは、単純な言葉だけが零れ落ちる。けれどぽろぽろととめどなく頬を伝う涙が、何よりも雄弁にその言いたいことを表わしていた。
「ウィルにいさま……死んじゃったの?」
 エリサは表立ってロゼウスを責めるようなことはないが、仲の良かった兄の訃報に呆然としている。
「エリサ……ごめんね、私、守れなかった……」
 妹を抱きしめてロザリーがそう言った。ロザリーとアンリは元はと言えばウィルを助けに同行したのだ。けれど、何一つできないままに弟が兄弟の手で命を終えるのを見届けねばならなかった。
「ちょっと待て、別にロゼウスだとて好きでシェスラートに乗っ取られたわけでは」
「うるさいわね! あんたは黙ってなさい! これは家族の問題よ!!」
 キンキン声で怒鳴られて、ロゼウスの弁護に入ったシェリダンは一瞬怯む。
「本当に、バカだ、バカだと思っていたけどここまでだとはね、ロゼウス! どうしてあんたはあの子を殺さないようにできなかったの! だって次期皇帝なんでしょ! なんで!! 何のための力なのよ!! 前世の人格くらい気合で弾き返しなさいよ!!」
「無茶を言うな」
 実際に現場を見ていないミザリーにはシェスラートの強さなど知る由もないだろう。だがこれ以上はロゼウスを叩かせまいと、シェリダンはミザリーが手を振り上げないようにその行動を見張った。
 しかしそんな心配は杞憂に終わり、一度弟の頬を叩いたミザリーはくるりと背を向ける。そして、城の中へと向かって駆け出した。零れた涙が地に染み渡る。誰も泣きながら駆け去る彼女を引きとめられなかった。
「ミザリー……」
 アンリが妹を案じる声をあげる。ミカエラに続いてウィルまで失い、蚊帳の外状態だった彼女の精神値も限界だ。
「まぁ、あのお姫様の言う事にも一理はあるわよねぇ」
「皇帝陛下」
「だって、実際シェリダン王のことはあれだけシェスラートが殺したがっていた相手にも関わらず、殺してないじゃない。本当にその気になれば、薔薇王子にも弟王子を殺さないようにできたんじゃない? 気合で」
「そんなこと……」
 デメテルの指摘に、その場に気まずい沈黙が訪れる。誰も彼女の言葉を否定できなかったからだ。炎の檻の内側で何があったのかは知らないが、簡単な顛末は聞いていた。そして何より、戻って来たとき全身の衣装が血まみれだったにも関わらずシェリダンが無事だと言う事実。
「ロゼウス」
 その当の本人は、姉に頬を張られて言葉もなく俯いている少年へと声をかける。
「お前のせいじゃない。あれは……どうしようもできない」
「ううん……シェリダン。俺が悪いんだ。ミザリー姉様は正しいよ」
 しかし、ロゼウスはシェリダンの気遣いの言葉を否定した。
 罪は、罪。
 罰はどこかで引き受けねばならない。自分たちも彼を助けられなかったのだからとロゼウスを責める気持ちを押さえ込んでしまっているアンリやロザリーの代わりに、ミザリーは家族を代表してロゼウスを引っぱたいただけだと。
「だって、ウィルを殺したのは間違いなく俺なんだから」
 己の過ちの結果は、己で引き受けねばならない。

 ◆◆◆◆◆

「とにかく、今日はもうそれぞれ身体を休めなさい。食事とかお風呂とか必要な事はそれぞれに召し使いをつけるから、そっちに言って頂戴。さ、入った入った。あなたたちがこんなところで立ち止まられると、私まで城に入れないじゃない」
 デメテルのその言葉に、一同は沈みがちな空気をひとまず振り払って宮殿の中に入った。仕事があると言って姿を消した皇帝の代わりに、使用人がやってきて彼女の意志に沿い、彼らを客室へと案内する。
 シェスラートのことに関しては充分な進歩と言えようが、もともとの問題に関しては何一つ解決していない。そんな疲れと焦りが纏わりついて、その顔色は誰しも明るいものではなかった。気まぐれな皇帝が突然連れて来た訳ありげな一行の世話をさせられる使用人の方が可哀想なくらいだ。
 出立した時と変わりなく、皇帝領の様子は落ち着いている。世界で唯一の楽土、完全なる大地の名は伊達ではなく、この土地には争いの影も見えない。もしかしたらその裏側ではいろいろあるのかもしれないが、少なくともこの土地を客分として訪れるロゼウスたちにはそのようなもの見えなかった。
 大陸中に色とりどりの花々が咲き乱れて虹色の楽園を作り上げている。皇帝の居城はその支配者の性格によってかなり変わった造りにもなるというが、今の皇帝デメテルは常識的な人間の考える《城》という威容を保てる建築に留めていた。白亜の宮殿は大きく、一国の支配者や支配者の血族に連なる者たちが多いロゼウス一行をも圧倒する。
「こちらが、お部屋になります」
 割り当てられた部屋に辿り着いたジャスパーは、ふとその室内に人の気配を感じた。人間であれば気づきもしないレベルだろうが、生憎と聴覚に鋭い吸血鬼には簡単にわかる。
 侍女が扉を閉めて出て行くのを待って、彼はそちらを振り向いた。
「何の御用ですか? 選定者ハデス卿。それとも、誰かと部屋をお間違えですか?」
 宮殿の客室は流石に豪華だった。どれもこれも一級品の調度の合い間、上品な色合いの壁紙に背をもたせかけたハデスが凝る闇のように静かに佇んでいる。
「おっかえり〜ジャスパー王子」
 ジャスパーは近寄ってきた彼を、嫌悪も露に紅い瞳で睨む。
 シェスラートの事が終わったと同時に、ジャスパーについてもアンリたちは不問とすることにしたのだった。本当ならシェスラートの生まれ変わりにして意識を乗っ取られていたロゼウスはともかくジャスパーは全て自分の意志で動いていたのだが、長兄たちと敵対し弟を立て続けに二人も亡くした彼らにはもはやそこまで追及する心の余裕がないらしい。
『……おいで、ジャスパー』
 それに結局はどういったところで、選定者であるジャスパーはロゼウスの言葉には逆らえないのだ。シェスラートによる意識の拘束が解けたロゼウスに促されて、彼は兄の手をとった。
 シェスラートから解放されたロゼウスはまた元通り、ジャスパーたちの兄でありドラクルたちにとっては弟であるローゼンティア第四王子に戻った。その目はもう共犯者として胡散臭いような、忌々しいものを見るような目ではジャスパーを見ない。気安く接してくるがただそれだけの、兄の眼。
 あれはいくら本物のロゼウスとは言い切れないとはいえ、その身体だけでも、とシェスラートに意識を支配されたロゼウスの身体に抱かれてジャスパーが嬌声をあげていたのは事実だ。それがなくなり、どこまで記憶があるのかは知らないがジャスパーに対しても当たり障りのない距離しかとらないロゼウスは何を考えているのか。
 聞けないからこそこちらも深く突っ込んで聞かれることはなく、素知らぬ顔で一行に交じり戻って来たそのジャスパーを、よりにもよってハデスが迎える。
「ちなみに部屋は間違えていないよ。僕は君に用があってきたんだ」
「そうですか。残念ながらわたくしめには卿に対して申し上げることなど何一つありませんのでお引取りくださいませんか?」
「そうつれなくするものじゃないよ。君がエヴェルシードの侵略直後にロゼウスたちと引き離されていた時、手を貸してやったのは誰だと思っているんだい?」
 ハデスのその言葉に、ぴくりとジャスパーの眉が歪んだ。
「手を貸した? 僕から声を奪ったあなたが? ふざけないでください。あなたは僕を利用したかった。そして今も利用しようとしている」
 ジャスパーにはハデスの目的が一から十まで何もかもわかるわけではない。だが彼が自分を利用したがっていることだけはわかっていた。
「僕はもうあなたの誘惑に乗る気はありません。僕は、あなたと敵対する皇帝ロゼウスの選定者ですから」
 初めこそハデスの真意が見えず、ジャスパーも不覚にも彼の言葉に踊らされて事態を攪乱してしまった。だが、もうそう上手くはいかない。いかせない。
「お引取りください。帝国宰相閣下。僕は、あなたの駒にはなりません」
「駒にはならずとも、協力者くらいにはならないか? 僕の提案は、君にとっても悪い話じゃないと思うけれど?」
「何を根拠にそんなことを……」
「だってジャスパー。君は、ロゼウスをシェリダンに盗られたくはないんだろう?」
「!」
 ハデスのあからさまな指摘に、ジャスパーがさっと顔色を変える。
少年の動揺を突くように、ハデスが畳み掛けた。
「可哀想にねぇ。シェリダンよりもずっとずっと前から君の方がロゼウスを愛していたのに、突然出てきたあいつに掻っ攫われて」
「やめろ!」
「ねぇ、どうだった? シェリダンにロゼウスを抱くところを見せつけられた感想は? 自分ではない相手に善がらされるお兄様を見て、殺意や憎悪は芽生えなかったのかい、お綺麗な王子様」
「うるさい!」
「そのくせロゼウスは、弟のウィルを殺してもシェリダンだけは殺したくないなんて叫んだ。もうシェリダンしか見えてないよ、あいつは。そのためなら何だってできるくらいに」
 シェリダンのためなら、始皇帝候補の意識すらねじ伏せられるロゼウス。彼は彼以外、誰も見てはいない。
 こういうときは平素とは逆に、鋭すぎる聴覚が仇になる。ハデスは憐れむような笑みを浮べ、耳を塞いで部屋の中心にしゃがみ込んだジャスパーへと囁いた。
「ねぇ、君のせいだよ、ジャスパー」
 弱った心へと追い討ちをかける。
「ローゼンティアを滅ぼしたのも、ウィルを殺したのも」
「違う」
「違わないさ。だって君が早くにロゼウスの選定紋章のことを発表していれば、ロゼウスはローゼンティアの王位継承争いからは外されたんだよ? そうしたらブラムス王の正式な王子は皇帝ロゼウスと選定者である君を除いて、病弱なミカエラ王子だけ。だったら優秀な甥であるドラクルは玉座につけた可能性が高かったし、そうすればドラクルとシェリダンが手を組んでローゼンティアをエヴェルシードに侵略させることもなかったんだよ。そうすればシェリダンだってロゼウスと出会わなかったし……ねぇ、思わないか?」
 黒衣の少年が白い髪と白い衣装の少年に告げる。
「全部、君のせいなんだよ」
「――ッ!!」
 ジャスパーが素直にロゼウスのことを告げてさえいれば、全ての出来事は始まらなかったに違いない。そうすればそもそも、ロゼウスはシェリダンと出会うことなどなかったのだ。それに付随する悲劇の数々も、全てジャスパーの浅慮が引き起こしたものだ。
 皇帝と言う大きな存在にして、ロゼウスと離れたくない。ただそれだけのために、十四歳の少年が世界を変え、十五の兄と十二の弟を死に追いやった。
「悪いって言うのか……全部、僕が」
「まぁね。でも、しょうがないよね」
 ハデスは蹲るジャスパーの耳元で囁き続ける。甘く甘く。
 悪魔のように。
「だって、そうでもしなければロゼウスは君のものにならないんだもんね」
 ジャスパーの身体がぴくりと揺れた。
「大好きな人を独占して閉じ込めてその秘密を握って自分だけのものにしたい……その愛を手に入れる事ができないって言うなら、いっそ……わかるよ、その気持ち」
 できの悪い弟を慰めるように、ハデスはジャスパーにそう言い聞かせた。
「ねぇ、このまま本当に、ロゼウスをシェリダンにやっちゃっていいの?」
「……よく、ない」
「そうだよね。今まで君のやったことは、裏を返せば全部ロゼウスのためだもんね。ロゼウスが好きだからだもんね……だったら尚更、奪われるのは憎くないか?」
 じわじわと少年の心にどす黒い感情を植え付けながら、とっておきの毒を最後に注ぎ込む。
「あのね、ジャスパー。君にだけ教えてあげる」
 そして預言者は告げた。
「ロゼウスが皇帝になるっていうことはね……ロゼウスが本当の意味でシェリダンのものになるってことと、同意義なんだよ?」
「なっ……」
 その言葉に、ジャスパーは激しく反応した。ハデスの胸倉を咄嗟に乱暴に掴む。
「どういうこと……ッ」
「詳しくは言えない。ここで君にそれを言ったことで未来はまた変わる恐れがあるから」
 ジャスパーの唇は戦慄いて、身体は動揺のままに震えている。もう一押しだとハデスは悟った。
「ねぇ、協力してくれるよね、ジャスパー。ロゼウスを皇帝にしないために。ロゼウスを、シェリダンのものにしないために」

 ◆◆◆◆◆

「はぁ……」
 宮殿において、部屋が足りなくなるなどということはありえない。一人一部屋ずつ用意されているのだが、この状況で一人きりになるというのも心細い。
「……ロゼウスとジャスパーは?」
 兄であるアンリの部屋へとやってきた妹ロザリーの姿を見て、彼はまず尋ねた。
「ジャスパーは部屋に、ロゼウスは……シェリダンに引っ張られてそっちの部屋に行ったのが見えたわよ」
「……」
 ロザリーの報告に、アンリは何とも形容しがたい表情を作る。彼にとって弟がもともとの敵と良い仲になるというのは、耐えられないことなのだろう。いや、彼でなくとも普通の神経と感性を持つ兄は考えないことであろうが。
 ミザリーは先程ロゼウスの頬を叩いた後、部屋に閉じこもったきりだし、エリサも待ち続けついにもたらされた訃報に疲れて眠っている。
 ローゼンティア王家のことは、シェリダンの部下であるクルスやローラ、エチエンヌ、リチャードには関係ない。なまじ少しでも一緒にいたことがあるから逆にいたたまれないのか、彼らもアンリたちに対し何も言ってこない。
「兄様……」
 とりあえず呼びかけてみたものの、言葉が続かないらしくロザリーは部屋の入り口にそのまましゃがみ込む。
「ああ、何やってんだ。そんなとこ座り込んでないで、こっちまでおいで」
「はーい」
 行儀の悪い妹の行動を咎め、アンリは妹を応接用の椅子まで招きよせる。広い客室の中には天蓋付きの寝台に鏡台にチェスト、書き物机に応接用セットと、なんでも揃っていた。
「ねぇ、アンリ兄様……」
「ん?」
「私たち、これからどうしよう。ミザリー姉様はあんな状態だし、ロゼウスだって……」
 ロザリーが口にした二人の名に、アンリも顔を曇らせる。彼らの頭の中で出口を見つけられずぐるぐると回っているのは、先程の宮殿の門前でのやりとりだった。
 直接その現場を見たわけではないアンリとロザリーには、あのシェスラートが作った炎の檻の中で何があったかはわからない。
 だが、ウィルを見捨てたくせにシェリダンだけは助けたというデメテルの言葉をロゼウスが否定しないのも事実だ。
 そう……ロゼウスは否定しない。どんな弁解も抗弁も一切口にしない。
 弟であり兄である彼を、信じていないわけではないのだ。しかしそれが二人の不安を煽るのも事実だった。何か、言ってくれればいいのに。
 だからと言って、シェリダンの方に事情を聞きだすというのも癪だった。彼ならば尋ねれば全ての事情を答えてくれそうだが、もともとエヴェルシードはローゼンティアに攻め込んだ敵。ドラクルが張った罠のことがあろうとも、それは変わらない。出来れば必要以上に弱味を握られたくないと思うのは当然であろう。
 しかしそれだと、永遠にロゼウスにも近づけない。
 第四王子と他の兄妹の間には、何かアンリたちの知らない薄い膜がある。その膜を理解しているかいないかが、きっと彼ら兄妹とシェリダンとの差なのだろう。
 何故ロゼウスはあんなにも、シェリダンが大事なのだろうか。
「ウィル……」
 ウィル、そしてミカエラ。立て続けに弟を失って、ミザリーやエリサだけでなく彼らの精神値も限界だ。
 もともと吸血鬼は争いを好まぬ性格、ましてや、家族同士で争うなどしたくないのに。どうしてドラクルはこんな戦いを始めたのだろう。アンリにはそれが不思議でならない。
「ねぇ……」
 だがロザリーはまた別のことを考えたようだった。
「私たちの方から、ドラクルに連絡ってとれないのかな」
「ロザリー? お前、何を言って……」
「だって、ミカエラもウィルも死んじゃったのよ? こんな戦い、続けて何になるっていうの?」
「そうだよ、だから俺たちはとにかく国内の貴族に協力を求めて、ドラクルたちの力を抑えて――」
「直接ドラクルに渡りをつけちゃ駄目なの?」
「ロザリー!?」
「だって、あんな人だけど、私たちの兄でしょ! 今までずっと、そう思ってきたんじゃないの? 確かに時には残酷にも冷酷にもなれる人だけど、ずっとそうだったなんて思わない。何か理由があるはず。それを知らなきゃ、何も始まらない」
「ロー」
「私たちはもっとちゃんと、ドラクル自身に向き合わなければならないんじゃないの? だって、家族なんだもの」
 それは、アンリにはない考えだった。だって彼は敵に回ったのだろう? 今更何を言ったところで聞いてくれるのだろうか。
 いや……そうではない。
「私たちがただ言うだけじゃ駄目……でも、私たち、ドラクルの言うことを聞いたこと、あったかな……」
 わかっているのは彼がブラムス王の実子ではなかったこと、そしてローゼンティアに謀反を起こしたこと。けれど、本当にそれだけなのだろうか?
「ロゼウスのことだって、同じ気がする」
 わかっているのはロゼウスがウィルを殺したこと、だけれど。
「ロゼウスがウィルを殺して、喜ぶはずがないんだもの」
 言い切るロザリーの瞳には、この世のあらゆる清濁を併せ呑む強い光が浮んでいた。 


190

 自らに与えられた客室に入ろうとした瞬間、腕を引かれた。
「シェリダン?」
「お前はこっちへ来い」
 炎の瞳をした少年のその不機嫌な様子に感じるものがあり、ロゼウスは大人しくその後をついていった。ここで特に断って何かすることもなければ、正直部屋に一人でいたくないのも事実だ。しかしシェリダン以外の人間は逆に、今のロゼウスとは同じ空間に居辛いだろう。
 皇帝の宮殿に無数に客室の一室の扉を乱暴に開け、シェリダンは中へと入った。ロゼウスの手首を捕まえたまま部屋の扉を閉め内側から鍵までかけると、ようやくこれまで捕まえていた存在の方へと目を移した。
 刃のように鋭い眼差しに射すくめられた、と思った次の瞬間にはシェリダンの手によって壁際に追い詰められている。伸ばされた手を避けた拍子に背中が壁面にぶつかり、篭もった鈍い音を立てた。
 ふわ、とロゼウスの白銀の髪が揺れて、また乱れもせずに肩の上で落ち着く。
「何故あそこまで言われて言い返さない!」
「ミザリー姉様のこと?」
「他に何がある! そうだ。あの女、事情も知らぬくせに勝手なことを……ッ」
 やはり、と思った通りにシェリダンの話題は城前での姉とロゼウスとの会話だったようだ。
 自らの前世であるシェスラートに意識を乗っ取られ、弟のウィルを殺したロゼウス。彼のことを姉であるミザリーは責めた。それがシェリダンには気に食わないのだという。
「お前だって、好きであの弟王子を殺したわけではないだろう。文句があるなら、あの女が自分で奴を助けに行けばよかったんだ。その労苦を他者に肩代わりしてもらいながらその結果に不満があれば文句をつけるなどどんな、」
「シェリダン」
 ミザリーに対しての悪口雑言を続けざまに口に出しそうな彼を、ロゼウスは寸前で押し留める。
「落ち着いて」
「お前こそ、どうしてそんなに落ち着いている。責められたのはお前なんだぞ!」
 だからと言ってここでシェリダンがロゼウスを責めるのも何かおかしいと言えばおかしいのだが、そのことに関しては両者とも口にしない。実際、ミザリーがロゼウスを糾弾する際に割って入ったのはシェリダンだけだった。他の者たちに止められなければ、平手打ちの後一方的に言葉を投げつけて去って言ったミザリーを追いかけてでも文句を言いたかったのだろう。
 だけど例えシェリダンがそこまでしようとしても、ロゼウスはそうまでは望まない。
「シェリダン、ミザ姉様のことを悪く言うのはやめて」
「ロゼウス」
「姉様は悪くないよ。それに、助けに行けなかったのもしょうがない」
 彼女は、弱いのだから。
「ミザ姉様は体質的にもともと腕力も魔力も身につかないひとなんだよ。努力でどうにかなる問題じゃないんだ。それができたらやってたし、誰よりもそれを望んでいたのは姉様本人だ。そのことについて、姉様を責めるのはやめて。……わかるだろう、お前なら」
「……」
 ロゼウスの言葉に、シェリダンは押し黙った。シェリダン自身は良く知らない相手とはいえ、これまでの人生を彼女の弟として過ごしたロゼウスの言葉には重みがある。ミザリー姫という存在についてこんなところで考えさせられたことで、ようやく頭が冷えてきた。
 この世の中には、努力でどうにもしようのないことがあるものだ。シェリダンが己の出生を選べなかったように。
 人は自分がどのような存在でもって生まれてくるのか選べない。無力で無能の姫君と言えど、彼女自身にどうしようもないことを責めるのはそれもまた一種の卑怯だろう。
「……悪かった。それに関しては謝る。だが、だからと言って、お前がウィル王子を助けられなかったことを、あの王女が責める立場にあるのか?」
「だって、ミザリーお姉様が裁いてくれなきゃ俺はいつまで経ってもこのままだよ?」
 罪は罪。
 それを受け入れねば進めない、どこにも。
「あれでいいんだ。今一緒にいる他のみんなは本当の意味で俺を裁くことなんかできないから。必要なんだよ、ミザリー姉様の言葉は」
 どんなに言葉を取り繕ったところでウィルを殺したのはロゼウスだ。その事実は変わらない。なかったことにはできない。
 そしてロゼウスは、その責任から逃れる気もない。
「そう、自分の力ではどうしようもないことは……あるんだよ……・」
「ロゼウス、お前――」
 もともと不必要に明るい性格ではないが、今日のロゼウスはとくに沈み込んでいるようだ。その悄然とした様子の中に微かに秘められた決意の色を見て、シェリダンは彼が何について考えているかを知る。
「答えろ、ロゼウス=ローゼンティア」
 薔薇王国の薔薇王子。けれど今はこの名は、それだけを示す記号ではない。
「お前は、自分が《皇帝》になる運命だということを、知っているのか……?」
 シェスラートに意識を乗っ取られている間の記憶は、どのくらいロゼウスも共有しているものなのか。シェリダンの直球の問に対して、ロゼウスは曖昧な返事を返す。
「……俺がシェスラートに身体を奪われてた間のことは、知っているとも知らないともいえない。シェスラートの気分次第で、その時のことははっきりと眺めることができたり、逆に俺の意識は眠らされて全然見えなかったりした……でも、これだけは知っている」
 薔薇の皇帝。
「この世界の次の皇帝は、俺なんだって。――どうして、俺なんだろう……」
 アケロンティス帝国において皇帝とは世界の全てを手に入れた権力者のことだ。だが今実際にその地位を遠からず手に入れるはずの少年の眼には、困惑だけが浮ぶ。
「俺、皇帝になりたいなんて、思ったこともないよ、なれるとも思わない。どうして、俺が皇帝なんだろう……?」
 いくらその運命に納得が行かないからと言って、皇帝になるという立場を拒否できる者はいない。誰よりもここにいる二人がよくわかっていることだ。
 シェスラートを殺したロゼッテは、彼の代わりに皇帝になって三百年以上の時を生きた。しかし彼はそれほどの長命をシェスラートの存在なしに世界を治めることなど望んだだろうか。
 どうしようもできないことがあるのだ。
 皇帝は、次の皇帝が現れるまでは死ねない。逆に死にたくなくても、次の皇帝が出現することはその皇帝の死を示す。今のデメテルとロゼウスの関係がまさしくそうだ。
「ロゼウ――うわっ」
 言葉をかけ辛くて名前を呼んだシェリダンの胸に、次の瞬間ロゼウスが飛び込む。身長は頭半分も変わらないから実際に飛び込んでいるのは胸と言うよりも肩だ。
 シェリダンはまだ血まみれの服を着替えてはいない。その破れの目立つ肩口にロゼウスが目元を押し付ける。そういえば風呂や食事など、これらのことに関して使用人を寄越すとデメテルが言っていたか。だとしたらそろそろ来る頃だろうか。
 シェリダンだけでなく、ロゼウスの方だって長い間の旅の埃に汚れた衣装のままでぼろぼろの姿だった。ふと我に帰れば自分たちはものすごい格好をしている。
 だがシェリダンのそんな束の間の現実的な実感も、次のロゼウスの言葉に吹き飛んだ。
「慰めて」
「は?」
 今、なんと言った? この男。
「俺がミザリー姉様に叩かれたのを憐れんでくれるんでしょ? だったら、シェリダンが慰めてよ」
「ちょっと待てお前……それは……」
「そうだよ」
 泥にまみれていても、汚れのついていない肌は白く美しい。ぐしゃしゃに乱れた髪も白銀の輝きこそくすんでしまっているがその艶は失っておらず、これだけはいつもと変わりない瞳は紅玉のようで。
「誘ってるの」
 思わず、殺す気か、と言いかけた。何か……何をされたわけでもないのに死にそうだ。その上目遣いは反則的だと思った。
「ロ……ロゼウス?」
 戸惑うシェリダンに詰め寄り、ロゼウスは少しだけ背伸びする。ブーツの踵を僅かに浮かせ、口づけしようと顔を近づけたところで。
「すみません、お湯とお食事のご用意ができましたが」
「ああ! 今行く!」
 侍女の声に救われて、シェリダンは思わずロゼウスの肩を掴んで止めた。びっくりしたような顔でロゼウスが動きを止める。
 冷静になれ私たち! 今の状態は血まみれ泥まみれ破るまでもなく破れている衣服、埃やら血やらその他の体液やらでどろどろのぼろぼろで!
「やるのは一通り湯を浴びて食事してきっちりと雰囲気を整えてからだ!」
「……わかったよ……」
 そこまで力いっぱい宣言しなくても、とロゼウスは思ったとか思わなかったとか。

 ◆◆◆◆◆

 そうして、肌を重ねる。
「あ……ん、うぅ、ん……」
 始まりは深く、濃厚な口づけだった。呼吸を奪うほどに長く、執拗に互いの口内を犯す。絡めた舌、零れる唾液、苦しくなっては離れ、角度を変えてまた口づける。
 離れていた時間の分を埋めるように、触れた先から身体が溶けて混ざり合ってしまうのではないかと思うほどに、熱く。
「はっ……」
 離した唇を、銀の雫が伝う。それを手で拭う間もなく、ロゼウスは胸元に与えられた刺激にびくんと身体を震わせる。
「あ……」
「触れるぞ」
 言う前に触れているのだが、それについては何も言わせない。寝台に横たわった状態で覆いかぶさるシェリダンを見上げるとその口元は薄く笑んでいた。
「ん……」
 形良い指が、白い胸を飾る赤い突起を抓み、弄んでいた。ぷっくりと色づき硬く尖るまで指で弄くる。
 ふいに熱い呼気が肌に触れたかと思うと、シェリダンの唇がちょうどそれを口内に納めているところだった。
「あっ……!」
 舌の上で舐め転がされて、背の辺りになんとも言いがたい感覚が走る。緩く曲げた膝の裏に、じっとりと汗をかいた。彷徨う指先は敷布に爪を立てる。
 そうして声を堪えている内に、シェリダンの手が下へと滑る。
「ああっ!」
 自身をきゅっと握りこまれて、ロゼウスはたまらず声をあげた。
「ん、や、ぁ……」
「慰めて欲しいと言ったのはお前だろう」
 それまで唇で遊んでいた乳首にちゅっと軽い音を立てて口づけを一つ落とすと、下への攻めに集中し始めた。両手を使って刺激し、やわらかかったそれに芯を持たせる。
「ん、んーっ!」
「声を殺すな、と言ってもここは宮殿だし無理か……まああの陛下のご気性では何も言われないと思うが……」
 言いながらも攻める手を止めない。手淫だけだというのにたまらず達して、それまで自分を弄んでいた手を白濁で汚す。
「ふぁ……」
「どうだ、久々だ。気持ち良かっただろう?」
「久々……?」
 うっかり疑問符で言ってしまったところで、シェリダンの顔色が変わる。
「久しくないと……? お前、私と離れている間に誰かと寝たのか?」
「そ、それは……」
 まずい、と思ったときにはすでに遅く、シェリダンのこめかみに青筋が浮ぶのをロゼウスは見た。
「へぇぇえ? で、誰と寝た? 何をした? どのくらいやった? 答えろ、ロゼウス」
「シェ、シェリダン。そんなの知ったところで何にもならな――」
「私が知りたいんだ。いいから答えろ」
 うっかりシェリダンの嫉妬心を煽ってしまったロゼウスは、それまでの行為の数々を全て答えさせられた。
「ヴィルヘルムに……は攫われたときのあの状況では仕方ないとして、ジャスパーともやったあ? それにお前、今言葉が微妙におかしくなったぞ。まさかお前が男役か?」
「まさかって何まさかって何。そりゃ、あんたとはこうだけど俺も一応男なんだけど! っていうか、そういうあんたはどうなんだ! まさかずっとやってなかった……? わけじゃなさそうだな」
 今度は先程とは別の意味で顔色が悪くなったシェリダンの様子から、ロゼウスは彼の方もさほど貞淑な日々を送っていたわけではないことを知る。
「うるさい。私のあれも不可抗力だ。だいたいお前のようにいつでもどこでも誰彼かまわずやっていたわけではない」
「俺だって半分は不可抗力で、残りの半分だってシェスラートのせいだよ!」
「へぇ? ほぉ? ふーん? それで、ヴィルヘルムに突っ込んだり突っ込まれたり、旅の途中で小銭稼ぎに抱かれたり、あげくにはジャスパーとまで関係を持って? たいした貞節ぶりじゃないか、ロゼウス?」
「だから、俺の意志じゃな――」
「それほどやっているなら、別にお前をとくに慰めてやる必要もなさそうだな。むしろ私の方がこの数ヶ月の寂しさを慰めてもらいたいくらいだ」
「そういう寂しさの慰め方は専門が……い!」
 普通の寝台よりは段違いに広いとはいえ、やはりそこは寝台の狭さ。その上で逃げられるはずもないのに思わず背で敷布を擦って逃れようとしたロゼウスの肩を押さえ、シェリダンは自らのものをつきつける。
「できないとは言わないだろう? ロゼウス」
 卑怯だ、と。
 この声に言われたら、逆らえないのに。
 離れていた時間、何度も何度も耳の奥で繰り返し再生した声音。ふらふらと夢見心地のように、ロゼウスはそれに従い、体勢を変え目の前に差し出されたシェリダンのそれを咥える。紅い、小さく整った唇が懸命に奉仕する姿は艶やかでありながらどこか凄烈な背徳の気配を漂わせていた。
 生温く柔らかい舌に与えられる刺激と同時に視覚からの影響も無視しがたく、跪いて自らのものを咥える美しい少年の姿にシェリダンはごくりと生唾を飲み込む。ロゼウスの紅い瞳が潤み、目元まで桜色に染まっている。懸命に絡ませる舌の先から唾液が零れてぱたぱたと敷布に染みを作る。
 ああ。
 熱に浮かされながらシェリダンは考える。
 美しいその姿とは裏腹に無様に這い蹲って、自らのものを餌を貪る犬のように舐めるロゼウスの、その、白く細い首筋。接吻の痕では生温いらしく、彼ら吸血鬼は軽い怪我なら瞬く間に癒えてしまう。襟の高い服を着れば隠れる所有印などでは生温い、この首に直接首輪を嵌めて、飼い犬のようにはっきりと自分のものにできたらいいのに。
 犬は主人の命令に忠実で、決して裏切らない下僕。だが、ロゼウスは犬ではない。それどころか、下僕にすらならない。
 皇帝。
 その言葉がいずれ二人を引き裂くのだ。それは命じるもの、それは上に立つもの、それは全ての支配者。
 ちくりと裸の胸の奥に痛みが走った。それはどんな薬草でも名医にでも治療できない。わかっているから胸の痛みを放置して、シェリダンはロゼウスのこめかみの辺りを掴んでその顔を自らから引き剥がす。
 ぽたぽたと唾液と先走りの交じった液を口から垂らしながら、まだ奉仕が終わっていないと、ロゼウスは不思議そうにシェリダンを見上げる。
 その姿ににっこりと微笑みかけて、シェリダンは今だからこそ言える言葉で命じる。
「そのままの姿勢で後を向け」
「え……」
「いいから、その姿勢で向こうを向け」
「ちょっ……わかった、よ……」
 四つん這いの姿勢で尻を相手に向けるという並々ならぬ恥ずかしい体勢をさせられてロゼウスは、それでも首を曲げて背後を見遣る。するとシェリダンが、その尻の合間に顔を埋めているところだった。
「な、何やって……ヒッ!」
 後の入り口に感じた濡れた感触にロゼウスは思わず悲鳴をあげる。
「あ……ああ、いやぁ、だめ……!」
 窄まりに舌が差し入れられ、やわらかく蠢くものが内部を舐る。小さな穴を直接舐められて、ロゼウスはびくびくと身体を震わせた。けれど、自ら逃れようと体勢を変えることは、ない。
「はぁ……ふぁ、あ……」
がくりと腕が折れて上半身を支えられなくなり額が敷布につく。尻だけを突き出した格好になった彼のその場所に、シェリダンは指を一気に二本差し入れた。
「あ……ん、くぅ……ン、ンン」
 ぐちゅぐちゅと音を立ててかき混ぜられるたびに、快感が強まっていく。一度達して力を失っていたはずのものが、またとろとろと先走りの雫を垂らして震える。
 そして先程は解放の手前で寸止めだったシェリダンは、今度こそ熱を発散させようと指を引き抜くと、ほぐれたロゼウスの内部に己のものを突き入れた。
「ひッ、ぁああ、あ!」
「くっ……」
 指とそれでは質量が段違いだ。待ち望んだ刺激に、両者とも甘美な苦痛のうめきをあげる。
 求め続けたその繋がりに、二人はしばし言葉もなく相手の存在を感じるための行為に没頭し始めた。


191

 初めこそ飽きるかと思われるほどに互いの唇を貪るくせに、一度行為が始まれば快楽を得る方に意識が集中してそんな甘ったるい時間はとっていられなくなる。要はがっついているんだろう、典型的な子どものやり方だ。シェリダンはそう思った。
 そうして一たび熱を解放してふと我に帰ると、なんとも言えない気分になるのだ。
「ロゼウス……」
「ん……何……」
 吸血鬼の少年の滑らかな白い肌には傷一つつかない。正確には、ついても瞬く間に癒えてしまうのだ。それに対して、シェリダンの鎖骨の辺りには幾つか紅い花が散っている。
そのあとを指で軽く撫でながら、ふとシェリダンはこれまで気になっていたことを尋ねた。
「そういえばお前、どうして首筋から血を吸わないんだ?」
「え?」
 一戦終えて、それからすぐの話題としてはどことなく不適当なような、そうでもないような……吸血鬼は夢魔、淫魔と呼ばれる魔族とも繋がりがあるので、艶めいた話題と言えなくもないが。
「なんでいきなり? ……そう言えば、腹減った」
 シェリダンの唐突な問に思わずきょとんとした顔をしながら、次の瞬間ロゼウスはこれまた唐突に腹を押さえた。互いにまだ裸で寝台に横たわっている状態なのだが、毛布の中で身を起こす。皇帝領の季節は穏やかな春の終わりの気候を保たれているので、凍えるということはない。
「はいはい。待っていろ。いや、それとも先程の話の続きになるが、物語などではあれだろう、首筋に牙を立てて、という形だろう? あれでなくていいのか」
「その話の前に、いつものやり方で血をくれ……今日は力を使いすぎたから、いろいろな意味で補充しておかないと」
「もしかしてお前、今日は珍しく自ら誘いをかけてきたのはそれで……」
「ふふふふふ」
 ロゼウスがにやりと笑う。いいように使われたのだと知って、シェリダンは憮然とする。一瞬このまま血をやるのはやめようかと思ったが、続いた言葉に気を変えた。
「半分はね。でも、後の半分は、本当に、触れたいって思ったからだよ」
「ロゼウス」
 白い手が伸びてくる。
 ロゼウスがその肩口に顔をうずめるようにして、シェリダンを抱きしめたのだ。
 そしてゆっくりと顔をあげ――。
「!」
 その一瞬に感じた異様な感覚に、シェリダンはぴたりと動きを止めた。肩に、何か鋭いものが当たっている。それがロゼウスの牙だと理解した瞬間、感触は離れていった。同時に、身体もほっと何かに安堵したように動くようになる。
「血、ちょうだい」
「あ、ああ」
 枕元のチェストの上に置いておいた小刀を使い、指先に刃を滑らせる。ぷくりと血の珠が膨れ上がった指先を、ロゼウスが口に含む。
「ん……」
 たった一滴。今のローゼンティア人というよりも、物語に伝えられる恐ろしい魔族、魔物である吸血鬼の伝承ではこんなものではない。魔族よりも数段下級の存在である魔物であった頃の吸血鬼は、人の喉首に喰らいついて鋭い牙で大量の血を啜る化物だと聞いたのだが。
 生温い舌で指に滲んだ血を舐めとったロゼウスが満足気に顔を離す。こういうときの彼の態度は人間と言うよりも、獲物を頭から喰らいきって満足した獣のようだ。
 その紅玉のような鳩の血色の瞳がそう思わせるのかもしれない。紅い瞳なら他にバロック大陸のネクロシア人がそうだが、彼らの瞳を見ても人外だなどと感じない。この深紅は、ローゼンティアの吸血鬼、それも一部の者に特有のものだ。
「ごちそうさま」
 ぺろりと口元を舐める様子が淫らなほどに鮮やかだ。
「で、さっきの質問の答は?」
「ああ、あれ? 今シェリダンが感じたことでたぶんあってるよ?」
「?」
「俺に牙を突きつけられたとき、怖くなかった?」
 その言葉に、シェリダンはハッとして先程の感覚を思い返した。自分の身体の動きを止めさせた、あの何とも言いがたい、感覚。その正体を、今ようやく知る。
 あれは、恐怖だったのだ。喉元に何よりも鋭い武器を突きつけられた時と同じ。
「ロゼウス……?」
 だが、その言葉だけではそれ以上何を言いたいのかわからない。そして、その言葉だけでは微妙にシェリダンの問に答えていないような気がする。まさか、こちらが怖がるから首から血を吸わないとでも言う気か?
「ヴァンピルが相手の喉首に喰らいつくのは、それが獲物である時だけだ」
「だから、何を」
「わからない? シェリダン、人は獣をどうやって食べる? 生きたまま喰らうのか?」
 古来より人は狩りで得た獣を、止めを刺して息の根を止めてから調理して。吸血鬼と人間の関係は、それをそのまま、人間を獣の位置に置き換えただけだと。
 生き物の食事は大体が、殺した他動物の死骸を喰らっているものだが……。
「つまり、お前たちが相手の首筋から血を吸うのは、同時に相手を殺すことを意味するわけか」
「そういうこと」
 ふわりと柔らかく微笑んだまま、ロゼウスは再びシェリダンに身を寄せる。首筋に唇を寄せられても、今度は怖くなかった。ロゼウスは肌に牙を立てるのではなく、シェリダンの首筋をただ舌でなぞっている。
「なぁ、吸血鬼のその殺し方だと、相手はやはり苦痛を覚えるのか?」
 またしても好奇心に刺激されたシェリダンの問いかけに、ロゼウスは考え考え答える。
「さぁ……? ええと、でも、ずっと最期の瞬間まで死ぬほど痛いってことはないと思うけど……? 何しろ俺も同族に血を吸われたことはないしなぁ。でも、吸血鬼の牙には即効性の毒というか媚薬と言うか麻酔と言うか、そういうのが含まれてるから死ぬまでに多少の時間があっても、相手が痛みを感じるのは最初の一瞬のはずだ。だってほら、相手に痛い思いをさせていると、暴れられるだろ? 俺ぐらいならともかく、小さい力の弱い吸血鬼だと獲物に逃げられるかもしれないから」
 言わば上手く相手から血を奪うための仕組みだ。自然とはよくできているものと言うべきか。恐ろしいというべきか。
「吸血鬼、とは言っても実際には相手が干からびるまで血を吸うわけじゃない。ただし、血を飲むと同時に肉も喰らう。吸血鬼は夢魔の親戚で甦った死体の成れの果ての一族って伝説があるからかな、死体を喰らって力にする」
「干からびるよりは損壊死体の方が絵的に……いや、どっちも同じか」
 思わずその様を想像して、イヤな顔をするシェリダンだ。
 その首に、もう一度そっと触れてきたロゼウスの指が辿る。そして口づけを落とすと、また一つ紅い痕が残った。
「今、無防備だっただろう、シェリダン」
「そうだな」
「ここで俺がちょっと首筋に牙を立てて血を吸うだけで、あんたは死ぬ」
「そうだな」
 お返しと言わんばかりにシェリダンもロゼウスの鎖骨に噛み付く。少し強めに、それこそ血が出そうなくらい強く噛んだのにロゼウスは少し顔をしかめるくらいだ。そして何事もなかったように話を続ける。
「そんな簡単に殺せるのに、あんたは俺たち吸血鬼にとっては、餌の一人でしかないのに」
 ロゼウスがシェリダンにつけた痕は鮮やかなのに、シェリダンがロゼウスに残した痕はすでにゆっくりと消え始めている。染み一つない美しい白い肌。
 その時、予感がした。
「なのに、あんただけは殺せない」
 白い肌に落ちる透明な涙。けれど口元は微笑んでいる。いつかこの儚い笑顔のために全てを失うだろうと。
鬱血した痕はすぐにでもわかる接吻の名残だが、これも傷と言えば傷。こうしてシェリダンの身体には傷が残っても、ロゼウスは美しいままだ。
 種族が違うのだから当たり前だが、その当たり前が、酷く、悔しい。きっといつかシェリダンが傷ついて傷ついて襤褸雑巾のようになっても、それでもロゼウスは綺麗なままなのだろうと。
「おいていかないで」
 それはこちらの台詞だと思った。

 ◆◆◆◆◆

 ――お願い、兄様、負けないで。どうか……あなた自身の運命に。
 ごめんね、ウィル。
 その願いは聞けないよ。

「おいていかないで」
 自分では止められない涙を流しながら、ロゼウスはシェリダンに縋り付いた。裸の胸に、形のない恐怖が忍び寄ってくる。
 その冷たさを少しでも振り払いたくて、シェリダンの胸に顔を寄せる。少年にしては白くきめ細かい肌をしているとはいえ、シェリダンの肌はあくまでも人間としての白さ。新雪そのもの真っ白な肌をしたロゼウスとは違い、血の通ったやわらかな色合いをしている。
伝えられる温もりにほっとしながら、過去と、今をようやく見据えた。いや、そんな大層なことではない。ただロゼウスは、気づいてしまっただけだ。
 ――お前が、お前さえ生まれて来なければ!
 かつて、泣きながら自分を殴る兄の姿に、自分は生まれてきてはいけなかったことを知った。
 ――ごめんなさい。兄様ごめんなさい。ごめんなさい。
 生まれてきてごめんなさい。
生きていてごめんなさい。
 ドラクルが先代ローゼンティア王の息子ではなく、その弟フィリップ=ヴラディスラフ大公の子として生まれてきたのは、彼自身のせいではない。
 子は親を選べず、自分で自分が生まれてくることを選べる生き物などいるはずがないのだ。もし選べるとしたのなら、いずれ全てを失い絶望に叩き落されるためだけのそんな生を、彼は決して選ばなかっただろう。両親のことや自分と兄の真の関係については知らずとも、その兄の哀しみだけを感じ取ったロゼウスは、いつも心の中でそう思っていた。
「全部俺が悪いんだ」
 そう信じていた。
「俺さえいなくなれば兄様は幸せになれる。わかってたのにのうのうと生きてた」
 兄の哀しみに対し理由のない罪悪感を覚えても、それを昇華する方法を知らなかった。だから彼から与えられる暴力や蹂躙に、平気な顔をして耐えていた。
 俺は兄様が好きだから、だから何をされても大丈夫。そんな風に自分を誤魔化して。
「俺が全部我慢すれば、何事もなく平和でいられるんだから」
 辛いなんて、痛いなんて、悲しいなんて思ってはだめ。
 自分ひとりが耐え続ければそれで片付く問題ならロゼウスは幾らでもそうする。
「そうして、お前は耐えたのか。私との、ローゼンティアに関する契約も」
 自分一人が耐えればそれで済む問題だと言うのなら、ロゼウスはいくらだって耐えた。そして耐える気だった。
 けれど。

 ――俺は、お前だけは殺したくない!

 あの時、自分の本心を改めて思い知った。
「俺はウィルを殺したのに、お前を殺せなかった。酷い男、酷い兄だ。でも、だから気づいた……お前を愛している」
 愛している。誰よりも。
「弟より自分の好きな相手を選んだ。シェリダン、お前に生きていて欲しい。誰よりも。誰を殺しても……俺を殺しても」
 愛している。自分自身よりも。
 自らの残酷さを証明するのと引き換えにそれを思い知った。
「あんたに生きていてほしい。どうか、おいていかないで」
 十七年の人生で、本当に心の底から願ったのはただ一つ。いつも口では、ああなるといいのに、そう言っては叶わないのだからと受け入れて諦めてきた願いの中たった一つ、これだけは譲れないもの。
 吸血鬼と人間では寿命が違う。決して最期まで共には生きられない。だけど、一緒にいたい。
 生まれてきてはいけないのだと、知っていたのに願ってしまった。そして周囲を破滅に落とし込むこの存在自体が罪であることを知りながら、それでも今はここに生まれてきた何よりの幸福を思う。
「本当に身勝手なことだけど、俺は今自分がここに存在することを神に感謝する。――シェリダン、あんたに会えて嬉しい。あんたに会えて良かった。それさえあれば、他にはもう何もいらない」
 それが罪深いことだと知りながら、愛した。
 生まれてはいけなかった存在の辿る道が、明るいものであるはずがない。人を滅びへと導く者の行末が、安息などであるはずはないのに。
 それでも、更に願う。
「わがままを言ってもいい?」
「何だ?」
「カミラにこのまま、エヴェルシードを譲らない?」
「…………何を言っている、ロゼウス」
 先程の自分の質問の比ではない唐突なその言葉に、シェリダンは朱金の瞳を瞠った。
「それでお前は、俺と一緒に皇帝領に来てくれないか? この次代皇帝、ロゼウスのもとに」
 皇帝になる運命を、逃れられるはずもない。けれど皇帝になるからこそ、叶えられる願いもある。
 現皇帝デメテルが彼女の即位後に生まれた弟ハデスを帝国宰相として側に置くように、皇帝は気に入った人物に自らと同じく次代皇帝が生まれるまでの不老不死を与え、部下として扱うことができる。そうなれば、ロゼウスが皇帝として間違いのない治世を敷く限りは共にいられる。
 だが。
「――断る」
「っ! どうして!?」
「……皇帝の部下になるということは、人間を捨てるということだろう。私は、そんな道は選ばない」
「な……だって、そうじゃなきゃ、あんたは」
「ああ。私はお前より必ず先に死ぬ。……そうだな、いつかは必ずお前を置いていく。だがロゼウス。それでも私は、人間以外の何者にもなれない」
 弱く脆い人間、ロゼウスの言うとおり、彼が本気になればシェリダンなど一ひねりだろう。
 だが、この弱い身だからこそ知ることができた世界があるのだ。
 攫われ陵辱された少女から生まれた、呪われた王子。ロゼウスとはまた違った意味で、シェリダンも生まれてきてはいけなかった。だけど、だからこそ人より少しだけ多くのことを知ることもできた。
 それを、自ら異形の身と化すことでなかったことになどできない。
「……ッ!!」
 ロゼウスが悲痛に顔を歪めた。だが、シェリダンには自身の言葉を撤回する気はない。

「私は人として生き、人として死んでいく。それが、私の唯一の矜持だ」

 例え、国一つ巻き込む心中を目論んでも、後に狂王と罵られることになったとしても。それでも。
 どんなにロゼウスを愛していても、だからこそこれだけは譲れないのだと。シェリダンがシェリダンでなければ、彼らは出会うこともなかった。
「……別に、そう長い間離れ離れになるわけでもないさ」
「でも! 皇帝は自分の意志では死ななくて、俺は、あんたと一緒に生きる事ができなければ、一緒に死ぬことも、できないのに……」
 ぽろ、と紅い瞳から涙が溢れる。
 だが安易な口約束などシェリダンにはできない。ロゼウスと共に生きたいのはシェリダンだとて同じで、そしてこの絶対的な寿命の長さと言う問題に恐れを覚えるのも同じだ。
 だから、気休めにもならない言葉を口にする。
「別に、私が死んでそう長い間お前が残るというわけでもないだろう。ロザリーたちのようにお前の信頼している者はいるし、何より皇帝になるということは、お前の寿命も本来の法則から外れるということだぞ。始皇帝シェスラート=エヴェルシード……本当はロゼッテと言う名のあの男は三百年ほど生きたが、そうではない普通の皇帝はだいたい百年ほどの治世だった。今のデメテル帝だってそうだ。お前の治世だって、そのぐらいで終わるのかもしれない」
 だとすれば、人間であるシェリダンの寿命から長くても五十年と差はないだろう。そうシェリダンは口にするが、そんな言葉でロゼウスの不満が解消されるわけはない。腕を掴む手が離れない。
「ロゼウス」
「……ごめん。でも、でも……」
 それでも、共に生きると言って欲しかったのだと。
「俺が、皇帝になるまでにあんたの気を変えさせられたら?」
「その時はその時だろうな、もっとも、私の気が変わるとは思えないが」
「……変えさせて見せるよ」
 そしてこの先に待つ自身の運命を知らぬ少年は、もう一人の少年に宣戦布告の口づけを贈る。
「シェリダン、あんたを逃がしはしない。ずっと俺と一緒だ。絶対にその気を変えさせて見せる」
 シェリダンはなんとも答えようがなく、ただロゼウスのその強気な言葉に苦しげに微笑んでいた。

 ◆◆◆◆◆

 ――全部俺が悪いんだ。
 ――俺さえいなくなれば兄様は幸せになれる。わかってたのにのうのうと生きてた。
 ――俺が全部我慢すれば、何事もなく平和でいられるんだから。
「……そうだよ。わかってるじゃないか」
 苛立たしげに、少年はそう言う。
「お前は生きてちゃいけないんだ。お前がいるから、僕たちは死ななくちゃいけない。お前が生まれてきたから」
 ぎりりと握りこぶしを作ると、柔らかい手のひらの肉が爪で抉られて血を流す。紅い滴りがそれまで寝そべっていた寝台に零れ、敷布を染めた。
「お前さえいなければ、全てがうまくいくのに」
 ハデスは呪いの言葉を繰り返す。
 ようやく彼が目覚めたのは、デメテルがロゼウスたちを連れて戻ってくる直前だったミザリーとエリサはそのことを知っているが、彼女たちは彼女たちで弟であり兄であるロゼウスと顔を合わせないようにしているので、ハデスが目覚めたことはまだ他の誰も知らないはずだ。後は、上手く共犯者として抱き込んだジャスパーと。
 同じ建物の中に今、ロゼウスとシェリダンがいる。その会話をハデスは盗み聞いている。
「お前は、知らないからそんなことが言える」
 魔術を通じて流れ込んでくる声に、ハデスは強く唇を噛み締めた。
 ロゼウスの行動、発言、そのいちいちが彼の癇に障る。それどころか、ハデスは彼の存在そのものが嫌いだ。それはロゼウスによって現帝国の権力者という座から引き摺り下ろされるのだと言う恨みでもあるし、まったく関係ない事柄からでもある。
 望まれて生まれ、だが世界における道具の域を出ない存在。そこまではハデスとロゼウスは同じだ。しかし、そこからが重要だった。
 ロゼウスはその存在の重さに必要とされるだけの能力を、十二分に備えて生まれてきた。選定者のなり損ないであるハデスとは違う。
 その事実を思うたびに、ハデスは胸が苦しくなる。自分が人に自分の望むように愛されないことなど当たり前だが……だが、それでも。
「僕は、お前が嫌いだ」 
 その綺麗な顔立ちも、卓越した能力も、世界に望まれるその存在も、その全てが嫌いだ。ハデスのものさえ全て持っていくロゼウスが嫌いだ。
例え、その半分は自らが仕組んだことだとしても。
 預言者として名高く、予知夢で未来を知ることのできるハデスだが、自分の運命に関する事はほとんど見えない。そのため、可能な限り予知夢を分析して未来に手を加えようとするのだが、細かいことになればなるほど上手く行かない。
 何しろ現実には自分が介入して作り上げる状況などいくらでもあるのに、予言の能力ではそれらを全て見る事ができないのだ。どんなに望んだ未来へと誘導しても、他でもない自分の行動でそれがずれていく。腹立たしいと言ったらない。
 そして何より腹立たしいのは、それでもハデスは運命に介入することを止められないという自分自身の生き方だった。彼の目標は変わらない。
 ロゼウスを殺す。
「僕は諦めない。絶対に全てを手に入れてみせる」
 殺すと一口に言っても、相手は次代の皇帝になるほどの実力者であり、人間より基本能力が勝る吸血鬼。対するハデスは魔術こそそれなりに使えるがその身体はただの人間。どんなに冥府の魔物たちを地上に呼び出して力を借りようとも、術の使い手である自分自身を狙われたら勝ち目はない。それがわかっているからこそ、ハデスはこれまで真正面からロゼウスとぶつかることはしなかった。
 だが、ここに今、一つの可能性がある。
 もしも自身は十二分に魔術を使える環境下で、人質をとって戦えば?
 この場所、皇帝領だからこそ使える手段が、そっと彼の脳裏に忍び寄る。
 もっとも、基本的な身体構造が吸血鬼よりずっと脆弱なただの人間であるハデスにとっては、それでさえも命懸けなのだが。もう随分とたくさんの代償を、その運命を変えることのためだけに払ってきた。
ロゼウスを敵に回そうとさえしなければ味わわずに済む苦労を、ハデスは自ら買うのだ。
「だって僕は――」
 その言葉の続きは、闇に消えた。


192

 コンコンと扉を遠慮がちに叩く音が聞こえて、寝台に突っ伏していたミザリーは顔をあげた。
「……誰?」
 今は、気軽に誰かと離せる心境ではない。気に入らない相手だったら追い返そうとする彼女の耳に、意外な声が届く。
「ミザリーお姉様……僕です、ジャスパーです……」
「ジャスパー?」 
 ロゼウスと一緒に戻ってきた、もう一人の弟の方だった。珍しい、とミザリーは思う。彼女とジャスパーは繋がりが薄いがそれは二人が特別仲が悪いなどという理由ではなく、大人しい性格のジャスパーはもともと他の兄妹ともそんな頻繁に、積極的には喋らないのだ。その彼がわざわざどうしたのだろう?
 ミザリーはウィルのことでロゼウスを怒ってはいたが、そのロゼウスと一緒に行動をしていたというジャスパーのことにまでは気を回していなかった。
ただ普段は自分とほとんど口を利かない、影の薄い弟が何の用かと純粋に不思議になって扉を開ける。
 しかしそこにいたのは、ジャスパー一人ではなかった。
「こんばんは。ミザリー姫」
「ハデス卿!」
 悲痛な顔をした弟の背後に立つ人影を見て、ミザリーは声をあげた。

 ◆◆◆◆◆

「きゃぁあああ!」
「姉様!?」
「ミザリー!?」
 突如聞こえた悲鳴に、ロゼウスやアンリたちヴァンピルはいっせいに部屋を飛び出した。聞きなれたあの声は、ミザリーのものだ。
「どうしたんだ!?」
 ロゼウスと共にいたシェリダンも、新しいズボンに軽いシャツを一枚羽織っただけの姿で彼の後を追って飛び出してきた。廊下で鉢合わせた面々は、みなとるものもとりあえずと言った風体だ。
 時刻はすでに真夜中、間違ってもふざけて大声をあげるような時間帯ではない。
「ロザリー、何があった?」
「わからないの。でもミザリーの悲鳴が聞こえて。姉様弱いから、何かあったなら助けに行かないと!」
 先陣を切って駆け出したロゼウスとアンリの二人を追って、一同はミザリーの部屋へと走る。 
 そこで見たのは、夜空を切り取った窓枠に足をかけ、気を失っているミザリーを抱えて飛び降りようとしているハデスの姿だった。
「ハデス!」
「やぁ、シェリダン、久しぶり」
 重傷の昏睡状態から目覚めたかつての友人はこの状況で場違いなほど普通に挨拶をする。
 だがそれを返す余裕がシェリダンにあるわけはなく、ハデスもそれっきりシェリダンに注意を向けない。
 彼の眼差しは、憎悪を湛えてロゼウスに向けられていた。
「一足遅かったね、ロゼウス。これで陣が完成した」
「陣って……」
「そう、僕の遊び場へ繋がる魔方陣――姉姫を無事に取り返したければ、追ってくるんだな!」
「待て! ハデス!」
 気絶したミザリーを乱暴に抱きかかえたまま、ハデスはそれだけを告げて窓の外へと飛び降りた。皇帝領の夜の闇にその姿は消えていたが、途中で地面が青白く光る。それが彼の言う魔法陣なのだとロゼウスたちにはわかった。
「ミザリー!」
「姉様!」
 慌ててロゼウスやアンリたちも軽く建物五階分はあるその距離を飛び降りてみるが、ハデスとミザリーの姿は見当たらず、魔法陣もどこにも存在しない。
「どうすればいいんだよ……」
 驚く暇も与えられず解決の糸口もわからない、その素早い一連の出来事に、ロゼウスはただ呆然とするしかなかった。

 ◆◆◆◆◆

 姉姫を無事に取り返したければ、追って来い。
 ハデスはそう言って、闇の中に浮かび上がった魔法陣へと消えた。一瞬だけ青白く円を描いたその図形は、今は跡形もない。
「ねぇ、さっきの何!?」
「ロザリーにもわからないの?」
 ミザリーを抱えたハデスが消えた辺りの地面を必死にロゼウスが探る横で、恐慌状態に陥りそうになっているロザリーが叫ぶ。その言葉に、エチエンヌが反応した。
「とにかく落ち着いて」
「落ち着けって、だって!」
「大丈夫だよロザリー。追って来いって言うぐらいなんだから、ミザリー姫は人質扱いで、恐らくは無事だ。もしも何か罠を仕掛けてくるとしたら、僕ら奪還班の方にでしょ」
「そ、そうね……」
「そうだよ。方法は必ずある。後は戦って取り戻すだけだ。できるだろ?」
 エチエンヌの言葉に落ち着いて、ようやくロザリーは身体の震えを止める。
「……ごめん、私らしくないわね。ちょっと、驚いちゃって」
「いいよ。驚くこと続きだし。それに、僕らは魔術のことなんかわからないからね。ロザリーにはわかるの? あれって、いつもハデス卿が使ってる移動魔術とは違うの?」
「そう……みたい。なんだかよくわからなくて、凄く怖い感じがした……」
 ロザリーが不安げに今は闇に沈む地面を見つめる先では、ロゼウスとアンリが必死で地面を捜索していた。
「アンリ兄様、何かわかる?」
「いいや……ロゼウス、お前の方は?」
「俺にも、これ、よくわからない。普通の魔術じゃないみたいだけど……」
 先程の青白い魔法陣が消えた辺りを、二人は懸命に探っている。しかし、当然ながら何も出てこない。光が消えた後はただの地面に戻り、叩いても虚しい音が響くばかりだ。
「あれは、何かの移動魔術だろうか……よくわからないものだった。吸血鬼の使う術式にはないものみたいだったけど……」
「ロゼウス、アンリ王子」
「シェリダン」
 言葉の途中で名を呼ばれ顔を上げると、念のためにと周辺の森を探っていたシェリダン、クルス、リチャードたちがちょうど戻って来たところだった。
「何か手がかりはあった?」
「いや……人の姿はまったく見当たらなかった。やはり、先程の魔法陣と言ったか、その中にハデスとミザリー姫は消えてしまったのではないか……」
 ロゼウスたちは魔力で、シェリダンたちエヴェルシードの人間は研ぎ澄ました感覚で近くにある気配を探る。しかし、ミザリーのものもハデスのものも感じられない。
「追って来いって言ってたな、俺に」
「ああ。……ハデスはデメテル帝の選定者だ。彼女が死ねばハデスも用無しとして殺される。それを回避するために、奴はお前を殺したいんだろう……」
「シェリダン……」
 かつての友人の行状の真意を知ってしまったシェリダンは、苦しげな顔をする。
「大丈夫だ。それよりも今は、お前の姉の心配だろう」
「うん」
 同じ城内には幼いエリサもいたのに、何故ハデスはミザリーの方を連れて行ったのか。それについても謎だ。彼はただ単にロゼウスに対する人質としてミザリーを連れて行ったのか。そもそも何故、ロゼウスに「追って来い」などと言ったのか。ここでは戦えないわけでもあるというのか? ハデスの真意がわからない。
 膠着状態に陥るロゼウスたちを救ったのは、艶やかな女性の声だった。
「あらあら、大変なことになってるわね」
「デメテル陛下!」
 ローラとエリサの二人が、皇帝デメテルを連れて来たのだ。
「とりあえずこんな表で立ち話もなんだし、一度中に戻ってくれない?」
「ですが陛下、ミザリーが……」
「って言っても、あなたたちにはそのミザリー姫を攫ったハデスの行方がわからないってこの子たちに聞いたわよ? いいから中に入りなさい。オケアノスの間ね」
 この場で唯一ハデスの行き先に関して手がかりを持っているだろうデメテルの言葉を無碍にも出来ず、一同は彼女の言う部屋の中へと入った。
 そして、その途端に目を瞠る。
「何……これ……」
「魔法陣よ。あなたたちのお望みの場所、エレボス、タルタロスへの道を開く扉」
「エレボス?」
「タルタロス?」
 デメテルの口から出てきた言葉に、一同は怪訝な顔をする。耳に馴染みのない言葉だ。
「そう。こういえばあなたたちにもわかるかしら……地下世界、冥府」
「冥府……そうか、ハデスの通り名、冥府の王というのは」
「そうよ」
 シェリダンの言葉に、デメテルが頷く。
「あなたはあの子とそれなりに付き合いがあるから聞いたこともあるでしょう、エヴェルシード王。あの子の称号は《冥府の王》。それは言葉の通り、冥府の魔物たちと契約を交わし、彼らを従える能力者のことよ。これに関してはハデスの実力の方が上で、細かい冥府の決まりに関しては私でもよくわからないわ」
「皇帝陛下でもですか?」
 世界の全てを支配する神の代行者たる存在が不可能を口にするその様子に、ローラが不思議そうに尋ねた。
「ええ。そうよ。皇帝が治めるのは、あくまでも地上の人間世界のことだけだから。吸血鬼や人狼の一族はこの帝国の土地で暮らしているから私の管轄だけれど、それ以外の魔族や魔物たちに関しては、皇帝でもわからないの」
「そんな……」
 世界で最強の力を持つ皇帝、そのデメテルでも詳細がわからないという冥府。
「簡単に説明するとこうね。まず、ハデスは冥府にいると力が増すの。ハデスの魔術はそのほとんどが冥府の魔物との契約によるものだから、彼らの力が無尽蔵に引き出せる冥府でのあの子は強いわよ」
「だから、ロゼウスを冥府におびき出そうとしているのか」
「ええ。それと、一口に冥府って言うけど、あなたたち、冥府がどういったところかわかっている?」
全員が首を横に振った。
「そう。まず……地下世界は、三つに分かれているっていうことは知っている?」
「三つ?」
「そう。一つは楽園。一つは幽界。一つは地獄。まず、死者が最初に行く世界がエレボス。そしてそこで裁かれ罪人と判断された者が落とされる地獄がタルタロス」
「地の奥底……」
「そうよ。そしてハデスは、恐らくこのタルタロスにいるわ。そこに魔物たちが住んでいるから」
「そのタルタロスに向かう方法は」
「ここに魔法陣があるでしょう。これは私が以前、永い年月をかけて描いたものよ。私は冥府の中で直接行動することはできないけれど、そこに扉を開いて、あなたたちを送るくらいならできるわ」
「だったら、俺たちを送って欲しい! お願いします、デメテル皇帝陛下!」
 皇帝の言葉を聞き、早速アンリが懇願を始めた。ロザリーとエリサもそれに便乗する。
「私たちからもお願いします、陛下!」
「こうていへいか!」
「はいはい。わかったわよ。わかってるわよ。せいぜい頑張ってきなさい」
 アンリたちの懇願にデメテルが極あっさりと頷いて、冥府へ向かう方法はこれで安泰かに思われた。
 だが、一人だけ、納得できない顔でデメテルを見つめている者がいる。
「デメテル=レーテ=アケロンティス陛下」
「なぁに? ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア王子」
 安堵の息を吐こうとしていた室内でただ一人ロゼウスは険しい顔をして皇帝を見つめる。
「あなたの目的は、なんだ」
「目的?」
「そう」
「おい、ロゼウス、そんなこと」
「だっておかしいだろう。あなたとハデスは皇帝と選定者ということで運命を共にしている。同じ時に、同じように俺のせいで死ぬはずなのに、どうして俺を殺したいハデスと違って、あんたは俺たちの味方をするんだ?」
「皇帝と選定者は必ず仲良しこよしじゃなきゃいけないなんて決まりはないわよ。それに、それを言うならあなたの選定者はどうだというの?」
「そういえば、ロゼウス、ジャスパーは?」
「……あの子は、呼んでも多分無駄だ」
 ロゼウスがますます目元を厳しくする。
「何を企んでいる、世界皇帝」
「企むだなんて人聞きが悪いわね。次期皇帝。私はただ、一つだけ願うことがあるだけよ」
 ロゼウスとデメテルは睨み合う。そういえばこの二人は、直接顔を合わせていたことがほとんどない。なのに何故か、どこか言葉にならない部分ででも通じ合っているかのように、お互いの言いたい事がわかるようだった。
 もっとも、言いたい事がわかるのと考えているのがわかるのとでは少し違う。
 ロゼウスはデメテルの真意を気にする。ドラクルにハデス、これまでにもヴィルヘルムなどと渡り合ってきたロゼウスだが、今目の前にいる相手の実力は桁外れだ。できれば正面衝突したくない相手だが、それだけに放置するということもできない。
 彼女の真意が重要だ。どう考えても自らの命を死に近づけるだけだというのに、何故次期皇帝であるロゼウスを助けるような真似をする?
 流石に彼のことは誤魔化せないと思ったのか、しばらくしてデメテルが肩を竦めて息を吐いた。降参、と小さく呟いて、告げる。
「では言いましょう、ロゼウス帝。私はあなたに、今のうちに恩を売っておきたいのよ」
「恩?」
「ええ。そう、恩よ。あなたが皇帝になった時のために」
「だけど、俺が皇帝になったら、あなたは……」
「ええ、そうよ。普通ならあなたが皇帝になっている頃というのは、私が死んだ後の話よね。でもね、私は世界で初の、黒の末裔生まれの皇帝なの。この意味がわかる?」
「まさか、死を免れる方法があるとでも?」
「そう思ってくれてもいいわ。だけれど、それでも私が退位してあなたが即位するという運命までは変えられない。だから、あなたが皇帝になってもせめてこちらの望みのために、恩の一つも売っておこうと思って」
「……」
 ロゼウスはデメテルの漆黒の瞳に視線を注ぎ、その胸の奥底まで暴こうとするように真意を探る。
「一応本当の話よ? まぁ、あなたがどう思うかは勝手だし、私に借りを作りたくない、とあなたが思うならそれもあなたの勝ってだわ。さぁ、」
 どうする?
 しばらくそのままデメテルを睨んでいたロゼウスが、とうとう折れて、詰めていた息を吐き出した。
「……わかった。あんたを信用する」
「それはよかった」
 全然よくもなさそうな平然とした表情で、デメテルが頷いた。


193

「いい? こちらから開ける扉と、向こうであなたたちが自力で開ける扉は同じものよ?この形を忘れないでおいてね。扉はあなたたちが帰りたいと念じたら帰れるようにはしておくけれど、この魔術はそう何度も簡単に利用できるものではないわ。失敗したら、それきりよ? ――じゃあ、準備はいいかしら」
 デメテルの忠告に真剣に耳を傾け、ロゼウスたちは最終確認に頷いた。冥府にはそう長い時間滞在できないらしいが、それでも新しく旅支度を整え、覚悟を固める。
「一口に冥府と言っても、ただ単純に死者が向かう世界、とは違うわ。死者が生前の罪によって裁きを受けるのはエレボスであって、あなたたちがこれから向かうのはタルタロス。そこは死者が罪の重さによって責め苦を受ける地獄でもあり、冥府の住人たちの居住区でもあるわ」
 地下世界タルタロス。
 これからロゼウスたちが向かうのはそれだとデメテルは言う。
「頼みます」
「皇帝陛下」
 ロゼウスとシェリダンの視線を受けて、デメテルが深く溜め息で返した。
「一つだけ言っておくわ」
「?」
「私は、これからおきる出来事を知っているわ。あなたたちが冥府で何を体験するのか……でも、言わない方が良いのでしょうね」
「俺たちは、聞いた方がいいのか?」
「さぁ? 聞いて変えられる未来があるのなら。でも、予知見の能力は完璧じゃないから、中途半端な情報でまた未来が変わってしまうこともあるし……それに、夢にまで見るような未来なんて、どうあがいても変えられないものよ」
 どこか諦めたような表情で言う彼女に、ロゼウスは訝るように眉を上げた。
「これ以上は言わない方がいいのでしょうね。もともと、私の弟の不始末だもの。そして、他でもない、あの子にそんな道を選ばせたのは私」
「デメテル陛下?」
「恨むなら私を恨みなさい。次代皇帝。そう、例えハデスがどんなことをしたとしても――あなたは間違いなく、私の次の皇帝となるでしょう」
 これぞ予言という風情で厳かに告げるデメテルの餞の笑顔を見送り、ロゼウスたちは魔法陣の中心に立つ。
「開け、冥界の扉。三つ首の獣よその目を休めよ、憂愁の河の渡し守よその櫂を休めよ。大地皇帝デメテル=レーテの名において告げる。境の扉くぐりし者は常盤なる身にあらず、エリュシオンの守人の眼くぐらせ、その門を通せ」
 途端、魔法陣が淡く光り出す。水底のようなその色は、ハデスが使った魔法陣と同じ輝きを放っていた。
 青い光に包まれながら、ふとロゼウスはそれがまた別の何かに似ていることを思う。しばらくして気づく。それは、あの夢の中で見た、涙の湖に似ているのだ。
 魔法陣によって現場に送られるというより、その場に光で扉が造りあげられていくようだ。浮かび上がった青い光が、硝子のように透明な門を形成する。
 死者の涙で閉ざされた国。
「いってらっしゃい」
 デメテルの声を最後に、世界が切り替わった。

 ◆◆◆◆◆

「う……」
「ああ。気がついた?」
 彼女が目覚めた時、そこには見た事もない風景が広がっていた。
 自分に声をかけてきた相手が誰とも明確に認識する前に、硬い寝台の上から上体を起こして辺りを見回す。まだ夢見心地の瞳に、薄紫の空が移った。
 そこは建物の中ではなく。四阿のような場所だった。屋根を支える柱の間に壁はなく、彼女が寝かせられていたのは石の長椅子のようなものだった。飾り気のない灰色の石の神殿のような造り。そして、空の色は紫。
「ここは……」
 思わず声に出して問うと、先程の声の主が返してくる。
「地下世界タルタロス。君たちの言うところの、《冥府》の一部だよ」
 その声を聞いたところで、ようやく意識が覚醒する。
「ハ……ハデス卿!」
「そうだよ。ご機嫌いかが? ミザリー姫」
 急速に甦ってくる、意識を失う直前の記憶。皇帝の居城の中、与えられた部屋に閉じこもっていたミザリーのもとを弟のジャスパーが訪ねてきた。不審に思いながらも扉をあければ、そこにいたのはジャスパーだけでなく、彼はこの黒衣の少年を連れていた。
 そうして、そこから先の記憶がミザリーには、ない。
「な……なんで、どうして、ここは……」
「さっきちゃんと教えてあげたっていうのにもう忘れたの? 物覚え悪いね、お姫様。言っただろう」
 芝居がかった動作で腕をあげ、ハデスは彼女の眼前に広がる景色を示す。
「ここは我が庭、死者と罪人と無数の魔物たちが暮らす世界、《冥府》」
 絵画の説明でもするかのようにあっさりと彼はそう告げた。
「め、冥府って……私、死んだの?」
「まさか。君はまだ生きてるよ。ただ、肉の器を持ったまま僕が連れて来ただけだ」
 思わず頬を抓って感触を確かめていたミザリーに、明らかにバカにした口調でハデスが言う。
「じゃあ、なんであなたは私をこんなところに連れて来たのよ!」
 目の前にいる男は少年の姿をしているが、実際はそうではない。何十年も生きている帝国宰相で、自分たちを罠にはめた人間の一人で、しかも――。
「ミカエラを殺しただけじゃ……まだ飽き足りないって言うの!? あなたたちは、一体何がしたいの!」
 ハデスはミザリー最愛の弟、ミカエラを銀の弓で射て殺した人物だ。
「答えなさいよ!」
 ウィルを殺したというロゼウスのことは確かに許せない。だが、そもそも全ての事の元凶はこのハデスと共謀したドラクルなのだ。彼が何もしなければローゼンティアは滅びなかっただろうし、ミカエラだって死ななかった。ウィルだって。自分たちはずっと平和に暮らせたのに。
「私たちローゼンティアの人間が、あんたに何かしたの! どうして、あなたは私たちを目の仇にするのよ!」
「私たち? ああ、そうか。君はあの時にいなかったんだっけ。んー、いや、いるにはいたけど放心状態で僕の話を聞いてなかったんだっけ。まぁ、どちらにしろ」
 近づいてきたハデスがミザリーの肩を掴み、石の長椅子に乱暴に押し倒す。
「僕を恨むより、もっと他に恨む相手がいるんじゃないの? ミザリー姫」
「え?」
「恨むならロゼウスを恨みなよ。あいつが全部悪いんだから。あいつの存在自体がね」
 仰向けにされたミザリーの視界はハデスに塞がれる。黒髪の向こうに、明らかに地上とは違う紫の空が見えた。
「やれやれ。まだロゼウスたちが来るまで時間はあるし、ちょっと遊びながら教えてあげようか」
「え?」
 次の瞬間、ハデスの唇がミザリーのそれを塞いでいた。

 ◆◆◆◆◆

 ぐったりと弛緩した身体を石の寝台に預け、ミザリーはその見事な白銀の髪をハデスの男にしては細い指先にからめとられるままにしていた。
 破られた衣服はもはやただの布切れとなっている。身を隠すものもろくになく、艶かしい身体が陵辱された痕もあらわだ。
 切り出されたような石の台の上に散ったその髪を、ハデスは自身も軽く上着を羽織っただけの姿で弄び続ける。手に取っては梳いて、さらさらとした滑らかな手触りのそれが指から零れ落ちるのを楽しんでいた。
「そんなに、白髪が珍しいの……?」
「見る分には珍しくはないけど、これだけ長い髪を触るのは初めてかな」
 ハデスは口元に小さく笑みを刻んで、ミザリーの髪を撫でる。
「姫の髪は猫の毛みたいにふわふわしてるんだね……姉さんの硬い髪とは違うんだ」
 無意識のように漏れたその言葉から、ミザリーは重要な単語を聞き逃さなかった。
 姉さん。
 この帝国宰相ハデスは、その姉である大地皇帝デメテルと不仲のはず……世間では姉であるデメテルが一方的に弟を愛人にして権力まで与えて可愛がっているのだと言われているが、この様子だと……
「帝国宰相……」
「んー」
 ミザリーの髪から手を離し、しどけなくあらわにされた首筋に口づけながらハデスが反応を返す。
「あなた、本当は皇帝陛下のことがお好きなのではないの?」
「……何故そう思う?」
 先程の台詞に自覚がないのだろうか。
「姉と他の女を比べただけでシスコン? 単純な判断だ」
「女の勘を舐めないでくれない? あなたの声……聞く人が聞けば、すぐにわかるわよ」
 やれやれ、と呆れたのはどちらだったのか。二人は束の間、視線を交錯させる。
「……身体洗ってあげるよ」
「結構よ」
「そのままの格好でいるつもり? ま、別に僕はそれでも構わないけれど」
 つぅ、と先程の行為でお互いの混ざり合った体液に濡れるミザリーの太腿を撫で、ハデスは笑う。
 屈辱に頬を紅く染めるミザリーの裸の身体を抱き上げて、ハデスは神殿側の泉へと向かう。自分も上着を脱ぎ捨てて、淡い緑色の水に抱き上げたミザリー共々浸かる。
 ハデスに抱かれているというのは不快だが、肌を重ねた今では今更と言う気もする。ミザリーはそれまでなんとなくしか目にしていなかった冥府の景色に視線を移した。
「紫色の、空……」
「それに緑色の水、だよ。ここは冥府。地下世界タルタロス。人の手の届かない場所……」
 冥府の空を見つめるハデスの様子は、気のせいかミザリーの知るものと違う。判断しようにも知り合って間がなく、しかも敵同士というためにほとんど情報がない。相手と向かい合って感じることが全てで、詳しいことなど何も知らない。
 ミザリーにとってそれはもしかしたら、ハデスやシェリダンだけでなく、他でもない自分の家族であるドラクルやシェリダン、ジャスパーのことに関してもそうかもしれないが。
 冥府の泉の水は、無理矢理開かされた身体の痛みを消していく。けれど、直接的な痛みよりも胸が疼くような、その傷の方が痛い。
 もう、戻れない……。
「ジャスパーをどうしたの?」
「ちょっとつついてやっただけだよ。あの子は二重三重の裏切りを抱えて心が磨り減っている。追い詰めるのはわけない」
「ロゼウスを……どうしたいの?」
「苦しめて苦しめて殺してやりたいね。いっぺんの、慈悲すらなく」
 呟くハデスの横顔を下から眺めて、ミザリーはその言葉に彼の本気が潜んでいることを知る。
「私を……これからどうするの?」
 ローゼンティアが滅ぼされてから、さんざんな目にしかあっていない。ドラクルの裏切り、ヘンリーたちとの別れ。目の前でミカエラを失い、ウィルまでも殺されてしまった。しかもそれを成したのはロゼウスで、この現場にいたってはミザリーはその目にしていない。
 このまま、何もせず、誰のためにもなれず死んでいくのか。今まさに自分を抱きしめる男の手の中に、ミザリーの命は握られている。
 そもそも人質とするなら、ミザリーでなくとも、幼くかよわいエリサでもよかったはずだ。何故わざわざジャスパーを使ってまで、ハデスはミザリーを攫ってきたのだろう。
「……光栄に思うんだね、ミザリー姫」
 湖から引き上げた身体を抱きなおし、ハデスは彼女を抱えたまま先程の神殿へと戻る。
 そこでミザリーは、この世界に来てから先程まで、自分が寝かせられていた場所の全貌をはっきりと見た。
「……祭壇?」
「そう。あたり」
 灰色の石造りの建物。四阿にも似たその建築の中央に作られた石の台。
 それは捧げ物を置くための祭壇だ。
「君は、冥府の生贄だ」
 ハデスが、冷ややかな表情で言ってミザリーを再びその台へと繋いだ。

 ◆◆◆◆◆

 淡い青い光がその色を緑に変えて、魔法陣はその役目を終えた。陣の中心から現れた扉をくぐると、そこはすでに別の世界である。
「うわぁ……っ」
「な、なんですか? ここは」
 ロザリーが感嘆の声を上げ、クルスが不安そうに辺りを見回す。
 ロゼウス、シェリダン、クルス、エチエンヌ、ローラ、リチャード、アンリ、ロザリーの八人はロゼウスに向けられたハデスの挑発の言葉通り、彼を追って冥府へとやってきた。
 音もなく魔法陣が消え、足下の光も消える。それでも行きに現れた扉は消えず、その場にあった。これはもともとこの場所に存在していたもので、デメテルの術はそれを魔法陣にくぐらせたものだったのだろう。
「ローゼンティアの景色も言葉通り人外魔境という感じだったが、ここはまさにその通りだな」
「ちょっと、うちの国が魔境ってどういうことよ」
「言葉通りだ」
 常識人のクルスやリチャードは眉を潜めているが、シェリダンやエチエンヌは物怖じせずに辺りを眺めている。冥府・タルタロスの不思議な景色にも、動じることなく視線を走らせた。
 シェリダンの言葉通り吸血鬼の住むローゼンティアは人外魔境だが、この冥府も意味合いとしてはあながち間違っていない。
 薄紫の空に、遠くに見える湖は光の加減などではなくはっきりとした淡い緑色。木々は黒と銀色で、ローゼンティア王城の外壁に這っているあの銀の薔薇を思わせた。吸血鬼もかつては冥府の魔族の一種だと言うから、もともとここから持ち込んだのかもしれない。下生えは黒に近いほどの濃い緑で、ところどころに小さな橙色の花が咲いている。
 ロゼウスたちが送られたのはどうやら小高い丘の上らしく、ぐるりと辺りを見渡せば周辺の様子がよくわかった。幾つか建物があり、それは灰色の神殿のようなものや、これもまたローゼンティア王城のように漆黒の館のようなものがある。貴族の館風の造りの建物を囲む虹色は、花畑なのだろうか。遠目に色彩だけでは判別できないような摩訶不思議な景色も冥府には存在している。
 紫の空は明るく、昼とも夜ともつかない。そこに、紅い月がかかっている。
 そこかしこに感じられる、生物の気配。だがそれは慣れ親しんだ地上の生き物とは違う。
「不気味だな」
 冥府はエレボスとタルタロスの二層からなる。死者がはじめに訪れる世界はエレボスといい、そこで生前の罪を裁かれ世界の最下層であるタルタロスに落とされるか、楽園であるエリュシオンに行けるかが決まる。
 今回ロゼウスたちが訪れた地下世界タルタロスとは、本来は生前重い罪を犯した死者を死後に懲罰を受けさせる場所である。
 そして、もう一つの意味もある。
「冥府タルタロス。王の宮殿の近くは、魔物の棲家、か」
 アンリがそこかしこに潜む生き物と言えない生き物たちの気配を探りながらそう言った。
「うじゃうじゃいるね」
「うじゃうじゃいるわね」
 ロゼウスとロザリーも息ぴったりで頷く。
「ところで」
 いつでも控えめな優秀な侍従、リチャードが遠慮がちに一同に声をかけた。
「皆様、これからどうなされるおつもりですか?」
「どうって?」
「ハデス卿の居場所を、どうやって探すのですか?」
 ロゼウスがきょとんとして尋ね返すと、リチャードからもっともな言葉が帰ってきた。
「……そういえばハデスの奴は自分を追ってこいとロゼウスに伝えたきり、その行き場所が冥府であることも言わずに姿を消したんだったな」
 シェリダンがすでにげんなりした顔で回想する。このこと自体だって、デメテルの協力がなければロゼウスたちは冥府に辿り着けなかっただろう。
 だが、ハデスがそれを考えていないとは思えない。姉がロゼウスたちに協力体制をとっていると知っているのだから、それを見越した作戦を立てるものだろう。
 デメテルは地上でもシェスラートとシェリダンたちの戦いに口を挟む様子はなかったが、それが実弟であるハデスとロゼウスの戦いになるとどうなるかわからない。ハデスが冥府を選んだのはそもそも、彼女が手出しをできない彼の領域、という意味ではないのか。
 ここ、タルタロスは冥府の王と呼ばれるハデスにとっては己の庭も同然だろう。彼が優位になれる条件がそろった場所であり、罠にはめるのは容易い。
 だが、進まぬわけにもいかない。なるべく早く辿り着かねば、恐らくロゼウスに対しての人質としてだろう、連れ攫われたミザリーの命も保証されない。
「とりあえず、誰かに道でも聞いてみる?」
 ロザリーが言った。ハデスの称号が《冥府の王》というぐらいなら、その王様の居場所は誰でも、あるいは誰かが知っているのではないかと。
「そうだな。それ以外手はないか。聞き出そうとした相手にいきなり襲い掛かられない保証はないが、その時はその時で――」
 だが、シェリダンが言いかけたまさにその時、彼らの周囲に異様な気配が近づいてくる。
「何だ!」
「あれは!」
 彼らがいた丘の上に、無数の生き物たちが集まってくる。いや、それらを生き物と簡単に言っていいものなのだろうか。
「冥府の、魔物……!」
「くっ」
 それは地上で言うなら巨大な虫の姿に似たものや、言葉では上手く言い表せないような姿のものもいた。どれもこれも酷く大きく、不気味な姿をした冥府の生き物たちだ。
「剣を抜け! 戦うぞ!」
「でも、この数ですよ!」
「相手できるものだけでいい! とにかく道を拓け! この丘から降りねば何もなるまい!」
 ざわざわとたくさんの生き物が寄ってくる気配を感じながら、シェリダンがそう号令をかける。
 魔物たちの目的はわからないが、なんとなく良いことではないのだろうと、それだけは全員がわかった。
『人間』
『生きた人間がここにいるぞ』
『どうしてだぁ……?』
『食べていいかな』
 先頭の一団が飛びかかってくる。
「逃げろ!」
 ロゼウスたち一行は、とにかく武器を抜いて無我夢中で走り出した。