183

 皇帝領の天気は滅多に崩れることがない。四季を通じて枯れることのない虹色の花畑が広がっている。
 しかしそれすらも、皇帝にとっては意のままに操れる現象の一部だという。今現在の皇帝領の景色がこのように穏やかであるのは現皇帝デメテルの精神が安定しているのと、彼女が意識してその景色を変えようとしていないから、というのが主な理由らしい。
 その気になれば辺りを一面の銀世界にも荒野にも、皇帝の住まう宮城を荒城にも変える事ができるというが、それに模様替え以上の何の意味があるのかはさっぱりわからない。基本的に皇帝領には皇帝の身近に仕える者以外は住んでいないので、農業的な天候の事情なども気にしなくていいのだ。
 その、皇帝の精神によって支えられるという不思議な土地《薔薇大陸》を彼らは今、後にしようとしていた。
 身支度、装備を整えて宮城の前に立ち、居残り組との別れを済ませる。
「じゃあな、ミザリー、エリサ。行って来るよ」
「ええ」
「いってらっしゃい、アンリにいさま、ロザリーねえさま」
 アンリが妹二人に声をかける。シェスラートとの決戦当日だった。
 相手方から指名を受けた当人であるシェリダンはもちろん、クルス、リチャード、ローラ、エチエンヌ、そしてアンリとロザリーが同行することにした。
 アンリやロザリーが行くのは二人にとっても弟であるウィルを、そしてロゼウスとジャスパーを取り戻したいからだが、これにもまた一悶着あった。クルスやローラたちシェリダンの部下が彼についていくのはともかく、相手から指示されてもいないのにアンリやロザリーが行っては、ただでさえ何をしでかすかわからないシェスラートの気を逆なでするのではないかと言う危険性があったのだ。
 しかし一行の杞憂は、デメテルのあっけらかんとした一言によって解決された。
「どうせ真正面からやりあえばあんたたち全員が束になってかかっても瞬殺される力の差なんだから、そんなこと気にしないで行ってきなさい」
「しかし、皇帝陛下」
「象と戦うのに蟻が何匹かかっていったところで無駄でしょ? つまりはそういうことよ」
 シェスラート(ロゼウス)=象
「……陛下……」
「私はもっともなことを言っただけよ。それだけの実力差があるんだからしょうがないじゃない。それに、向こうの狙いはロゼッテ=エヴェルシードの生まれ変わりであるシェリダン王、あなただけよ。向こうがそれに執着してくれればやりやすくなるし、同じヴァンピルなら弱点もわかるだろうからその二人は連れていけば」
 こうして鶴の一声により、アンリとロザリーの同行が決まったのだ。今のシェスラートはロゼウスの肉体を乗っ取って甦った状態だと言うが、それが一番厄介らしい。ロゼウスの力を、シェスラートが使うこと。その威力や効果は計り知れない。
 本気のロゼウスの力と言うものは、誰も見たことがないのだという。
「吸血鬼は滅多に本性を表わさない。俺たちヴァンピルの本性。それは人の血肉を喰らう化物。そんなもの、よっぽどの事態でなけりゃあ見せらんないよ」
 アンリがどこか寂しそうに言ったのが、彼ら吸血鬼一族以外の者たちの胸にはひっかかる。
「気をつけてね」
 幼い妹エリサと手を繋ぎながら、ミザリーが決戦に赴く者たちへと言葉をかけた。
 もともと身体的にも精神的にもそう強くない彼女はデメテルが話をした時には休んでいたために皇帝や生まれ変わり云々という事情は聞いてはいないのだが、それでも何か察するものがあったらしい。
 無理に情報を得たがらず、大人しく彼らを見送るのが自分の役目と思っているようだった。姉の様子につられたようにエリサも大人しく手を振る。
「……大丈夫、なのよね?」
「ミザリー?」
「私、私はもう……家族を亡くすのは嫌だからね」
「……ミザリー」
 弟、ミカエラの死に一番のショックを受けていたのは彼女だった。憂いを帯びたその顔は世界一の美姫の名を裏切るものではなかったが、それでも長く見ていたい表情ではない。
 かなうならどうか幸せに。幸せそうに。
 けれどその望みの行末は、シェスラートと直接対峙する彼らの方へとかかっている。
「大丈夫だよ」
 妹を安心させるようにアンリは微笑んだ。
「必ず帰って来る。ウィルもきっと連れ戻してみせるから。そうしたらロゼウスとジャスパーのことは、ミザリーが姉さんなんだからしっかり叱ってやるんだよ?」
「私が?」
「そう」
「わかったわ」
 兄の言葉に口元を綻ばせたミザリーが、せめてもと精一杯の笑顔を作る。
「じゃあ、行くわよ」
 デメテルの言葉に、一同は彼女の近くへと集まった。合図らしい合図もないまま、この土地に来た時同様、一瞬で一行の姿が掻き消える。
 それを呆然と見送ったミザリーの耳に傍らからか細い声が届いた。
「……よ」
「え? エリサ、何?」
 ミザリーと同じく、留守番組に命じられてしまったエリサが何事か呟いている。小さすぎるその声はヴァンピルであるミザリーの耳にも届かず、エリサもなんでもないと首を横に振った。
 虹色の花畑のずっと向こう、シュルト大陸がある。その果てのエヴェルシードとローゼンティア国境近くで、戦いが始まる。
「もう、会えないよ……兄様……」
 予感めいたものがエリサの胸を塞ぐ。目の前の美しい花畑の様子も彼女の心を慰めず、ただ深い悲しみだけが、後から後から沸き起こってくる。城の中で待っているように言われたのに、何故かその場を動く事ができなかった。

 ◆◆◆◆◆

 踊るのは蒼、黒、銀。
 そして橙と紫。
 漆黒の深淵。
 伸ばした手は血に濡れて、冷たい絶望に浸る。そこから引き上げてくれたはずの手が、また絶望に突き落とす。
 瞼の裏で、古の光景が踊る。
 人質となる自分を悲しい笑顔で送り出してくれた村の者たち。自分に斬りつけて、その最期には不自然なほどあえかな笑みで死んだヴァルター。燃える王城から連れ出してくれたロゼッテ。無愛想だけれど面倒見の良かったソード。優しいフィリシア……。
 銀髪に紫の瞳の美しい巫女姫、サライ。
 閉じた瞼の下で、古の光景が巡る。故郷の小さな村から始まって、繰り返される出会いと別れ。そのたびに記憶は甘い感傷と疼くような痛みを連れてくる。
 思いもかけずロゼッテに刺され、最期に思い出すのはいつも彼と、銀髪の少女だった。ロゼッテの橙色の瞳に走る澱んだ狂気を見ながら、サライの笑顔を思い出す。
 何一つできなかった。何も築けず、何も成さずに自分は終わってしまった。
 恨みも悲しみも、心残りもあって当然だ。だがその感情がただ一人の男に向けられて、醜い憎悪に集約されていく。
 止められない。止める気もない。
 悪いのは全て、自分を殺したロゼッテなのだ。彼は王者としての才を持っているから、あの時は世界から導き手たる《皇帝》を奪うわけにはいかなかった。自分が死ぬのなら、なおさら。けれど今の彼は誰のものでもない。世界のものですらない。だから。
 今度こそ、俺のものに。
 シェスラートはぱちりと瞳を開く。
 次の瞬間、彼とジャスパーが待ち構えていた廃教会の前に、複数の人影が突然姿を現した。


 ずっとこの時を待っていた。
「仲間を連れてくるなんて―――」
「いい。ジャスパー。好きにさせろ」
「でも」
「どうせヤツラが何人でかかってきたって、俺に敵うわけないんだから」
 余裕綽々のシェスラートの台詞にシェリダン一行は内心安堵の息を漏らしながら、表面上は顔色を変えずにこの一連の事態の仕掛け人であるシェスラートへと目を向けた。
 ドラクルとのいがみ合いのことがある。ハデスにミカエラ王子殺しの罪を着せられたこともある。シェリダンから簒奪したエヴェルシードの玉座に座り続けているカミラのことがある。しかし、その何よりもまず先に、彼と決着をつけねばならない。
 ローゼンティアの森の奥深く、エヴェルシードとの国境近いとは言っても国境から眺めただけではとうていこんなものがあるとはわからないその場所。崩れかけた廃教会が建っている。高い尖塔が崩れ、十字架と呼ばれる祈りの象徴も砕け、ドアのない入り口から荒んだ内部を晒している。この建物は、もう何千年も前に朽ちたもののようだった。
 シェリダンたち、その中でも特にアンリとロザリーがその建物の様子に魅入られたように動かない。これだけ古い建物なら、某かの状況が王家にまで伝わってくるはずだ。けれど、二人にそんな心当たりはなかった。見逃す恐れがあるのは規模の小さい祠などだが、この教会ほど大きければ誰もが気づかないはずはない。けれど何故。
「どうしてこんなところにこんな建物が、って?」
 他の面々とは違う反応に気づいたのか、シェスラートがゆるりと紅い唇を歪める。ロゼウスの顔に浮ぶそれら見た事のない表情に、アンリとロザリーは背筋に寒気が走るのを感じた。
「簡単な話だ。この空間はずっと、皇帝の力によって閉じられていたのだから」
「どの皇帝に?」
「さぁ。お前たちだって、もうわかってるんじゃないか?」
 シェスラートは思わせぶりな言い方で明言を返さず、シェリダンの方を向いた。
 蒼、と言うよりは藍色と言った方が正しいような、夜空を切り取ったような見事に艶やかな光沢のある髪。橙色というより朱金と言える、燃える炎の色をした瞳。
 彼の目に映る少年は美しかった。最初はただただ魂の様子からロゼッテの生まれ変わりだということに目が行ってしまったが、改めて見ると、シェリダン=エヴェルシードは美しい。
 王子と言うよりは凛々しい美姫を思わせるような華やかな容貌。しかし体格や姿勢は少年以外の何者でもなく、こちらを睨みつける瞳の力は強い。
 この少年が、あの男の生まれ変わり。
 何か言おうとシェスラートが口を開きかけた、その時だった。
「ロゼウス!」
 シェリダンが叫ぶ。
「シェリダン!?」
「エヴェルシード王!?」
 共に連れて来た者たちの様子も顧みず、シェリダンが見ているのはただシェスラート一人だった。否、彼が見ているのはシェスラートではない。
 燃える炎の瞳が求めているのは。
「ロゼウス! いるのだろう! その男の中に!」
 恐らく大地皇帝デメテルが全てを説明するだろうとは同じ皇帝の力を持つ者の連帯感とでも言おうか、なんとなくわかっていたシェスラートだったが、このシェリダンの言葉でやはりと確信した。当の皇帝デメテルは二つの勢力のどちらに加担するでもなく、ただやりとりを見守っている。
「私は始皇帝のなりそこないなどと話をしに来たのではないぞ! お前を取り戻しにきたんだ! いつまでも寝てないで、さっさと起きろ!」
 シェリダンはシェスラートがロゼウスの中で甦っていることを、知らないのではない。
知っていて、それでもシェスラートを無視しているのだ。彼が呼びかけるのは、その唇が紡ぐ名はただ一人。
「ロゼウス!」
 薔薇という意味を持つその名。薔薇の王子。薔薇の皇帝。神に選ばれし代行者。
 そんなこと全て関係がないというように、強く、ただひたむきに呼びかける。
 彼が呼ぶのはシェスラートではない。決して、シェスラートでは――。
 彼はぎりりと唇を噛み締めた。シェスラートの行動によりロゼウスの唇に傷がついて、薄く血の味をさせる。
 始皇帝のなりそこないと言われた男の魂の中で、何かの感情が爆発する。
「俺を無視するな!!」
 どうしてお前はいつも――いつも、俺を見ようとしない!!

 ◆◆◆◆◆

 掲げられたシェスラートの右手に凄まじいまでの力が集まっていく。
「避けて!」
 真っ先に叫んだのはロザリーだった。彼女は即座に、すぐ近くにいたローラとエチエンヌの二人と、リチャードの襟首を掴んで地面に引き倒す。アンリは咄嗟に炎避けの結界を作り、クルスとシェリダンは剣を抜いた。
「!」
 第一撃は魔術だった。そのことに、ロザリーやアンリといったローゼンティアの面々は戦慄を禁じえない。ローゼンティアのヴァンピルは魔族だが、地上に出てきてその能力のほとんどを失って久しい。特に魔族の要とも言うべき魔術は、個人によって力の差が激しい。
 つまり、ほとんど魔術を使えず人間と変わりないようなヴァンピルもいれば、それこそ冥府の魔族にも劣らぬ力を行使できるヴァンピルもいる。
 そして恐ろしいことにアンリとミザリーは前者であり、ロゼウスは後者だった。魔力の強さではノスフェル家の人間に敵う者はいない。それがヴァンピルの最大の力である《死人返り》を左右するのだから。
 アンリの結界は彼らを包む膜というよりは盾状になって、正面からロゼウスが放った炎を防ぐ。
「ま、魔術!?」
 咄嗟に剣を抜いては見たものの、クルスやシェリダン、それにローラたちもその威力に度肝を抜かれていた。いつもハデスが使っているのを見ているとはいえ、それでも魔術師などそこらに普通にいるものではない。驚いて、透明な盾を避ける炎を見ている。
「くっ!」
「アンリ、二撃目もいける!?」
「無理だ! 結界を張りなおさないと!」
 魔術の力量は個人差が激しいと言った。ローゼンティア国内でも、魔術を呼吸をするように自由に使える者は数少ない。
 もともと、魔術など普通に暮らしている限りは必要のない能力だ。火をつけるのも水を汲むのも、魔術を使うより自分の手でやった方が早い。
 その魔術が目に見える効果を発揮するのが戦闘なのだが、それすら凄腕の剣士や武闘家は魔術に頼らず己の力で戦う方が効率よいという。
 けれど一つだけ単なる体術剣術よりも魔術が優れた場面があって――それはこのように、少人数で複数の敵を相手にするときだ。二対七のこの状況で、だからシェスラートはいきなり炎撃を繰り出してきたのだろう。
「エリサ連れてくれば良かったかも」
 もとより様々な面で能力差の激しいローゼンティア王族だが、戦闘能力に至っては、これを考慮しなければ話にならない程の差がある。
 政治手腕から戦闘能力、剣術、魔術、戦略、全ての面において秀でているのはドラクルとロゼウス。この二人だけだ。その後はそれぞれの特技が違って比べようがない。アンリは剣術も魔術もそれなりにこなすが、あくまでもそれなりなのである。そしてロゼウスが相手では、この場面で戦略など立てようがない。
 ロザリーは身体能力の高さ、素手での戦闘力はドラクルをも凌ぎロゼウスと拮抗するが、代わりのように彼女は魔術全般において不得手だった。魔術がそこそこ使えるのは第二王女のルースと、そして末っ子のエリサくらいなのだ。
 そして更に彼らを追い詰めることには、シェスラートのぽつりと漏らしたこんな一言がある。
「炎が弱すぎたな……」
 彼はロゼウスの身体、炎を吐き出した白い手をひらひらと振って具合を確かめている。いくら生まれ変わりと言ってもその肉体との相性には違いがあるのか、どうやらシェスラートは本調子ではないらしい。
 しかしその、不調のシェスラートの様子見程度の火を防ぐだけでアンリの力では手一杯なのだ。
 現時点ではこの場で最強の力を持つはずの皇帝デメテルも、この戦いには介入する様子がない。
 どうすればいいのか。なまじロゼウスの力を知る分アンリとロザリーが思考を巡らせたその時だった。
「ローラ、エチエンヌ」
 シェリダンが彼の懐刀である二人に向けて呼びかけた。
「はい!」
「は!」
「お前たちの得物は用意しているだろうな?」
「ええ!」
「もちろん!」
 双子人形の方を直接見はせず、シェリダンはその視線だけは真っ直ぐにシェスラートに固定したまま尋ねる。主君に応えて、二人は己の得物であるナイフとワイヤーを取り出した。二人の得手は、飛び道具による遠距離攻撃。
「それを使って、こちらが不利と見たら援護しろ。クルス、お前は剣で私の補助だ」
「御意」
「要はロゼウスに魔術を使わせなければいいのだろう?」
ヴァンピルであるアンリやロザリーがこの対魔術戦では使いものにならないとさっさと見て取ったシェリダンは、戦法を頭でさっさと組み立てた。
 ただの人間であり、ハデスのような黒の末裔でもない彼は魔術など一切使えるはずもない。だが非力な人間には人間としてのやり方があるのだ。
「行くぞ!」
 シェリダンが地を蹴るのと同時に、ローラ、エチエンヌ、クルスが構えた。
「っ! 速……ッ!!」
 ジャスパーが深紅の瞳を見開き、シェスラートは電光石火の速度で仕掛けられた自らへの一撃を淡々と受けとめた。淡々と、とは言ってもそれこそ目にも留まらぬ速さで抜かれた剣がシェリダンの攻撃を受け止める際に、派手な硬質な音を立てる。
 魔術を使うのに重要なのは、ある者は呪文を唱えるための「口、喉」。そして魔方陣を描いたり魔力の制御をする「手」だ。彼に剣を抜かせることで、シェリダンはシェスラートの魔術を封じる。本来人は目には目を、歯には歯をの精神で魔術には魔術で対抗しがちで、アンリやロザリーが咄嗟に動けなかったのもそれが原因だが、実際には魔術師にとって一番戦いにくい相手はこのような剣士である。
 世界最強の軍事国家エヴェルシードの国王の座に、一時的とはいえ着いたのは伊達ではない。身体能力が違いすぎるヴァンピル相手でも、剣の腕前さえ拮抗していれば彼らエヴェルシードが勝てたのはこれが理由だった。
 速さと技。それは日々の弛まぬ鍛錬から培われた彼らの実力だ。強大な力を持ってはいてもその使いどころを知らない波のヴァンピルでは思わぬ敗北を強いられることもある。
 もっとも、並どころでないシェスラートは簡単に負けてはくれないようではあるが。
 それでもシェスラートの間近に接近し、彼が魔術を使うどころか十分な腕力を剣に乗せるのも待たないシェリダンの猛攻に、シェスラートは舌打ちを隠せなかった。
「っ、まったく、たかだか人間のくせに、忌々しい相手だな、お前は!」
 シェリダンの繰り出す剣は、その速度からしてみれば驚嘆に値するほど寸分違わずシェスラートの急所を狙う。彼らとしてはロゼウスは生かして取り戻したいが、もとよりノスフェル家のヴァンピルとして彼が人一倍頑強であることが念頭にあるためだろう。致命傷を与えようとする動きにも迷いがない。
 シェリダンの恐ろしいところは、その躊躇いのなさだった。彼の繰り出す攻撃一撃一撃自体も素早いものだが、それを選んでローラたちに指示を出し、シェスラートに仕掛けてきたあの短い時間こそがシェリダンの真価だった。次代皇帝候補、それもヴァンピルとして、明らかに自分より強いと知れている相手に勝つために最善の方法を選択して即座に実行できるだけの神経が並ではない。並でないヴァンピルと、並でない人間の闘いだ。
「貴様こそ、人間を舐めるなよ!」
 返すシェリダンの口調には揺らぎがない。炎の瞳は、空恐ろしいくらいに真っ直ぐだ。
 シェスラートはそれに苛立ちを覚える。シェリダンのその眼差しは、彼の心の奥底に封じていた何かを刺激するのだ。
 だが、苛立つことによって逆に戦況を冷静に見極められるというのも彼の才能の一つだった。目にも留まらぬ速さの攻撃など、そう何度も続けられるはずがない。ましてや、シェリダンはそれこそただの人間なのだ。初速こそシェスラートの眼を瞠るものではあったが、数を重ねるうちに速さの落ちる攻撃を的確に防ぐ。
 そうしながら、シェスラートは彼と、その背後でシェリダンが息を整える間を確保するようにタイミング良く援護をするローラたちの様子を測る。
 彼女たちの援護も、それは見事なものだった。敵として攻撃を受ける側から見れば、これほど嫌なものもないと言った様子だ。シェリダンが少し攻撃の手を休める素振りを見せようとするその瞬間には、ローラとエチエンヌのワイヤーが入る。そうしてシェスラートが背後に距離をとろうとすれば、そちらへ移動したクルスが剣を構えている。
本当に厄介な奴らだ。
 だが、それでもシェスラートの敵ではない。
(ここだな)
 シェリダンの攻撃の合い間をうまくつき、シェスラートは彼の剣を弾き飛ばした。
「!」
 得物を奪われては、さすがにシェリダンも攻撃の手がない。回転しながら弧を描いて飛んでいく剣の行く先を一瞬目で追った、それが彼自身の隙となった。
「シェリダン様!」
 クルスの叫び声が聞こえるのと同時に、伸びてきた白い手にシェリダンは地に叩き伏せられる。シェスラートにしては剣を弾き飛ばした腕とは逆の腕をその反動で伸ばし、素早く簡単に目の前のシェリダンを薙ぎ倒しただけだろうが、攻撃を加えられた方はそうもいかない。
一瞬息がつまり、呼吸ができなかった。込み上げるものに苦しみながら咳き込んだシェリダンの上に、先と変わらない淡々とした表情で佇むシェスラートの影が落ちる。
「っ……!」
 純粋な身体能力では、さすがに敵わない。
「確かに人間にしては強い。よくやるものだ。だが、俺には敵わないよ」
 シェスラートの……その顔立ちはロゼウスのものの、紅い唇が嫣然と弧を描く。
「大人しく死にな」
「くっ……」
 シェリダンが悔しげにシェスラートを睨む。シェスラートが一歩足を進める。
「駄目だ! 兄様!」
 幼い影が、そのシェスラートの身体に体当たりを仕掛けた。


184

「私たちはウィル王子を捜しましょう。アンリ王子、ロザリー姫」
「リチャード」
「ああ、そうか! ウィル!」
 シェリダンに戦闘要員として指名されなかった三人は、そうして本来この場に人質として囚われている少年を捜すことにした。てっきりシェスラートたちがこれ見よがしに連れてくるものかと思えば、そうではない。第七王子ウィルの姿はこの場のどこにも見えず、まずは彼を捜すところから始めなければならない。
「兄様、あの教会が怪しくない?」
「私としては、あのジャスパー王子を先に捕まえて居場所を聞き出すという手を提案するのですが」
 ロザリーが目をつけたのはわざわざシェスラートたちがこの場に彼女らを呼び出した廃教会であり、リチャードが目をつけたのはシェスラートの仲間でありながら多勢に無勢の彼に加勢するでもなく戦況を見守っているジャスパーだった。二つの道を指示されて、アンリはその内の一つを選ぶ。
「先に廃教会を見よう」
「しかし、先ほどロゼ……シェスラート様が言っていたように、魔術で結界などを講じられていたら? それを解く方法を知る人物を先に捕らえておく方が後々やりやすいと思いますが」
「だけどな、リチャード。あんたはよく知らないかもしれないが、ああ見えてジャスパーも強いんだよ。ロゼウスほどではないにしろ、魔術の才能は俺やローより上だ。剣の腕もそこそこ。俺たち三人でかかれば負けはしないかもしれないが、シェリダン王たちとシェスラートとの戦いの邪魔になったり、俺たちが動いていることが知られるのは良くないだろう?」
「つまり、相手に気づかれない内にこっそりとウィル王子の身柄を確保してしまった方がいいと?」
「そういうことだ。もしあの教会に魔術がかかっていたら俺が解く。ロザリー、戦いの方はいざとなったらお前にジャスパーの相手を任せてもいいか?」
「了解。私は少なくとも弟になんか負けはしないわ」
「頼もしいな。じゃあ、行くぞ」
 幸いにもジャスパーはシェスラートたちの戦いに気をとられてアンリたちの行動を気にしてはいないようだった。その目を盗んで、彼らは廃教会へと近づく。
「魔術は何も使われていないようだな」
 シェスラートが廃教会にかけたのは多少過ごしやすくするための魔術だけで、教会自体におかしな細工はしていない。予想外にあっさりとその中に滑り込み、早々と彼らは目的の人物を見つけた。
「ウィル!」
「ウィル! 無事なの!?」
 教会の祭壇の上に、まるで生贄の子羊のように横たえられている弟。上掛けも何もなく、本当にただ単に寝かせられているだけと言った様子だった。だがその周囲に不自然な血の痕などはなく、とりあえず無事は無事のようだった。
 もちろん死体ではなく、ちゃんと息をしている。一度殺したくせに……と思わないでもないが、シェスラートはきちんと彼を生き返らせたようだ。
 しかし、ようやく見つけ出した弟はこれだけ彼らが呼びかけているというのに目を覚まさない。
「おい、ウィル、ウィル! どうしたんだ!?」
「アンリ兄様、この子自体に魔術がかけられているみたい」
「何!? ……本当だ。この気配はジャスパーだな」
 何度呼んでも目を覚まさないウィルの様子に不審を感じたロザリーが探ると、そこには魔術の気配があった。ジャスパーによって、眠りの術がかけられているようだった。相手がシェスラートでなかったのはこれ幸いと言うべきか、早速アンリが弟にかけられたその術を解く。
「っ、術が解けたか……」
 外でシェスラート対シェリダンの戦況を見守っていたジャスパーがようやく気づく。しかし、目の前の戦いも佳境に至っていて迂闊に声をかけられない。 
 仕方なく自ら動き出した彼は、まっすぐに廃教会へと向かった。彼が今使っていた魔術は一つだけ。弟王子のウィルに眠りを与える魔法だ。それが解かれたとなれば考えられるのも一つだけだった。軽く視線を巡らしても、いつの間にかアンリたちの姿が消えている。
「小癪な真似を……」
 冷ややかな彼の表情は、ローゼンティアの第六王子ジャスパーであるよりは、皇帝ロゼウスの選定者に近い。感情を削ぎ落としたような少年はまっすぐに廃教会へ向かうと、すぐさま相手を捕縛する魔法を準備する。敵は三人だからと剣ではなく魔術を選んだのだが、それが今回ばかりは彼の選択ミスとなった。
「どいてジャスパー!」
「っ!」
 名を呼ばれた、と意識するよりも早く、小柄な人影は目の前を駆けていく。止める暇はなかった。右手に蓄えた魔力を放つ暇も。剣を抜いておかなかったことを後悔するよりも早く、背後から殺気が迫る。
「ロザリー!」
「お姉様を呼び捨てとはいい度胸ねあんた!」
 体術においては右に出る者のいないロザリーの攻撃は、術を放つまでに時間のかかるジャスパーの魔術程度では防ぎきれない。魔術相手に素早い物理攻撃が有効なのは、先ほどシェリダンが証明していた。
 右手の魔法を打ち消し、ジャスパーもさっさと思考を切り替え剣を抜く。あのまま捕縛魔術を放っても良かったが、それだとたぶんアンリに阻止されるだろう。
 それにしてもこの狭い廃教会の中で戦うのはまずい、と判断したジャスパーは教会の外に出た。ロザリーの体術はともかく、アンリの魔術を相手にするのはこの状況では不利だ。ならば彼が迂闊に術を放てないように外でシェスラートが相手にしている連中も含めて乱戦にしてしまおう、と彼は考えた。
 だが思惑は外れ、教会の外で繰り広げられていたのは予想外の光景だった。
「駄目だ! 兄様!」
 先ほど止め損ねた小柄な影。素手のウィル程度逃したところでシェスラートの相手ではないと思っていたのだが。
 意外にもそこにあったのは、シェリダンにトドメを刺そうとしたシェスラートがウィルによってそれを阻止されている光景だったのだ。

 ◆◆◆◆◆

 細い腕が必死で腰にしがみついてくる。
 その重みに一瞬何かを揺さぶられかけたが、結局シェスラートはその感覚ごと現在の身体の持ち主の弟を振り払った。
「ええい! 邪魔だ!」
「うわぁ!」
 成長したヴァンピルであれば年齢不詳で体格差などあってなきようなものとなるが、いかんせん彼らはまだ成長途中。十七歳にしては華奢な方とはいえ、ロゼウスの体格程度でも十二歳のウィルを吹っ飛ばすのは簡単だ。
 決死のタックルによって兄を止めたはいいものの、またすぐに弾き飛ばされてしまったウィルは地面を転がって衝撃を受け流しながら悔しそうな顔をした。アンリによって眠りの魔術から解放された彼は状況説明を求めるより本能で何かを察知して一目散にこちらまで駆けて来たのだが、シェスラートの行動を一時的に邪魔するだけに留まった。
 しかしその時間だけあれば充分だった。
「ちっ!」
 シェスラートの舌打ちを追って立てられたのは、剣戟の音。まだ痛む身体をそれでも奮い立たせ、シェリダンが立ち上がっていた。少しだけ離れた地面に刺さった剣を素早く引き抜いて動き出す。
 けれど先ほどまでのような速さに任せた猛攻は叶わない。おまけにそれまでより人数が増えてまた勢力図が入れ替わったせいで、ローラたちも咄嗟に援護する事ができない。
「ウィル! 受け取れ!」
 その、いまだ剣を合わせ続けるシェリダンとシェスラート以外の面々が足を止めている中、末の弟に向けたアンリの声が響いた。
 反射的に腕を伸ばしたウィルの手に、パシ、と小気味よい音を立てて一振りの剣が収まる。武器を手にしたウィルは素早くそれを引き抜いて、シェリダンの攻撃の合い間に援護するような形でシェスラートに斬りかかった。
「お前……っ」
「これでも、剣の腕はドラクル兄様とロゼウス兄様の次に強いんですよ」
 驚いたのはシェスラートより、むしろシェリダンの方だ。まだ十二歳の王子が、シェリダンとほぼ互角の実力を持っているなんて。
 だがこれで事態は好転した。打ち合わせたわけでもないのに息が合うと言う事は、ウィルの実力は本物だろう。二対一になって、シェスラートの顔に今までとは違う苛立ちが現れてくる。
「……!」
 鉄と鉄のぶつかりあう硬質な音が響き、火花が散る。鍔迫り合いに一度持ち込めば、ぎりぎりと嫌な音が耳に届いた。
「ウィル王子!」
「シェリダン様!」
 ウィルも小柄で、力押しと言うよりは速さを生かした剣士だ。シェリダンは負傷により多少スピードが落ちたとは言え、狙いは鈍らない。そんな二人を相手にして、さすがにシェスラートも手を抜くわけにはいかなくなった――かに見えた。
「ええい! 鬱陶しい!」
 何かの線を切ったように、ある瞬間シェスラートはそれまでの緻密な攻撃とは違い乱暴に剣を振るった。咄嗟の判断で交わしたシェリダンが、剣先は避けてもそこから放たれた衝撃波はかわしきれずに地を転がる。再び剣が手を離れた。
「ぐぁ!」
「シェリダン様!」
 ローラとエチエンヌがシェスラートに向けてナイフを投げるが、左手に生み出された魔術の盾によって簡単に阻まれてしまった。その一方で、シェスラートはウィルの攻撃を防ぐことも忘れない。 
 クルスがシェリダンのもとへと駆けつける。ローラとエチエンヌはある限りの飛び道具を投げつけるがシェスラートには敵わない。
 ジャスパーはまだロザリーと交戦していた。体術と剣術の試合なのだが、ロザリーもロゼウス程ではないが、肉体の頑強さにおいては類を見ないヴァンピルだ。しかもところどころでアンリが魔術による援護をかけるのだから性質が悪く、こちらもまだ勝負はつきかねていた。
 そしてシェスラートたちの方では、先ほど攻撃を加えられたのがシェリダンだったために彼の方が貧乏籤を引かされたかに見えたが、それはどうやら違うようだった。
「くっ、う!」
 身長や筋肉のつき方による根本的な力の違い。速さと技術はあってもシェリダンほど剣戟に力の乗らないウィル一人では、シェスラートをかわしきることはできないようだった。一対一になって途端に鋭さを増すシェスラートの攻撃に、ウィルが押されていく。
「ローラ、ウィル王子を補佐しろ!」
「は、はい!」
 手持ちのナイフを全て投げきった双子は暗器のワイヤーを使ってシェスラートに攻撃を仕掛けるが、その特性を知り尽くしていないウィルとではシェリダンとの時ほど上手く連携がとれない。それほどの助けにはならず、しかもシェリダンは先のダメージも残っているのだ。そんなに早く回復することはできない。
 目の前に、美しい死神がいる。
 アンリから借りた剣を、腕が痺れるほど強く弾き飛ばされた瞬間ウィルはそう思った。そして自分の実力では、どうあってもこのシェスラート、ひいてはその器たるロゼウスに勝てないこともわかってしまった。
 武器を失い、彼はシェスラートの前に無防備に立ち尽くす。
「逃げろ! ウィル!」
 ロザリー対ジャスパーの戦いの援護をしながらこちらの状況も横目で窺っていたアンリの声が飛ぶが、ウィルは応えられない。
 優雅なほどにゆっくりと、シェスラートが剣を振るう。
 本当はウィルは、自らの目の前にいる相手が兄のロゼウスではなくその前世たるシェスラートと言う名の存在だということもよくわかっていないのだ。彼が覚えているのは何故か自分に刃を刺した兄の理由のわからぬ変貌振りと、彼とアンリはロザリーたちが敵対しているという事実だけで。
 けれど、飛び出したとき身体が勝手に動いた。シェリダンを殺そうとするロゼウスを止めなければと考える前にそう思っていた。
 確かに意志はあるのに、それでも何かに突き動かされるようにして戦ってきたことは否めない。
 それが何のためだったのか、今、ようやくわかった。
(ああ――そうか、僕は)
 わかって、しまった。
 シェスラートの剣が胸を貫く。時間が止まったようなその透明な静止画の世界の中で、彼は兄の中にそれを見る。
 弟殺しの罪を堂々と犯したとなれば、例えシェスラートの意識を無事に眠らせる事ができたとしても、もうロゼウスはもとのようには戻れない。しかし、ウィルの身体からは今度こそ確実に、彼の命を繋ぎとめる力が抜けていく。次の甦りすら不可能にするほどに。
 誰一人として気づきはしなかったが、全てを見ていたデメテルがその瞬間悲しそうに眉を寄せた。
 シェスラートの唇が仄かに笑み、それを告げる。
「さようなら、宿命の王子」
 ウィルはロゼウスに殺されるために生まれて来たのだ。

 ◆◆◆◆◆

 その宿命は、《荊の墓標》。
 出会う者全ての墓標を築く運命にあると。

 ロゼウス=ローゼンティアは数多の死を積み重ねて《皇帝》になる。

「ウィル―――――ッ!!」
 アンリの絶叫が響いた。
 シェリダンも、彼を支えるクルスも、離れた場所からその現場を見ていたローラとエチエンヌも、ジャスパーを相手にしていたロザリーとアンリとリチャードも。
 誰もが動きを止めて、その光景を凝視していた。
「っ……!」
 ずるり、と血糊のついた剣がウィルの細い体から引き抜かれる。ロゼウスの得物は、レイピアなんてお上品な剣ではない。それなりの幅も太さもある剣が少年の身体を抉ったのだ、惨な傷口から血が溢れてくる。
人間よりも多くの血液を必要とするはずの吸血鬼族の身体から、まさしく命の源であるその血が流れ出していく。
 誰の目にも、ウィルが瀕死であることは明らかだった。かろうじて崩れかけた体を支えるようにロゼウスの服を掴んだ手にも力が入らない。小刻みに震えて指が解かれていくその白い手で、けれど必死にしがみつく。
「に……さま……」
 口の端から一筋の紅い血を零しながら、ウィルは最期の力を振り絞って顔を上げ、呼びかけた。
 氷のような無表情の仮面を被るシェスラート――その底にいるはずの兄の魂に。
「兄様……ロゼウス、兄様……」
 シェリダンにロゼウスと呼ばれた時は激昂したシェスラートだったが、今この瞬間は何の反応も示さない。その顔は淡々とした色を浮かべ、自分に縋りつく弟王子の様子を見ている。
 愛らしい顔を苦痛に歪め、一言発するのも辛いだろう身体にそれでも力を込めて、ウィルはロゼウスに呼びかける。
「お願い……負けないで」
「ウィル……?」
 遠くからその様子を見ていた……ただもう見守ることしかできないロザリーがその言葉に不思議そうに弟の名を呼んだ。
 しかしウィルは彼女には構わず、一心にシェスラートを、その中のロゼウスを見つめている。
「お願い……兄様……負けないで、どうか……あなた自身の運命に」
 それまで睫毛一本動かさなかったシェスラートの表情が僅かに動いた。
 死の淵にある者だけが使える力か、ウィルは何かを見通すように予言のような懺悔のような言葉を続けた。
「あなたのその……深い、悲しみ……だけど、必ず、救いは訪れるから……僕、たちは……兄様をずっと、助けて……あ、あげられ、なかったけど……ッ!」
 ウィルの呼吸が乱れ、ロゼウスの服を握る手が激しく震えた。泣くのを堪えるようなその仕草に、彼の最期が近いことをその場の全員が知る。それでも、縫いとめるようにきつく彼はロゼウスの服を掴んでいた。
 きつく、きつく。
 何かを後悔するように。
 ウィル=ローゼンティア。ローゼンティア王家の一番下の王子、末の弟。最後の弟。
 数多い兄たちに囲まれて、それでも自らの個性を見失わなかった強く優しい、やわらかな心の持ち主。幼さゆえと言われることがあろうとも、確かに誰よりも真っ直ぐだった。
 一番下の弟として生まれたゆえに、ウィルはドラクルや、ロゼウスのような継承争いの苦しみとは無縁だった。それについて彼が何かを思っているということは、誰も聞いたことがなかったが。
「ごめんなさい……」
 エヴェルシードの暗い森で湖底の王家の話を聞いた時も、シェリダンたちと共に逃げ続けた時も。
「ロゼウス兄様……の、なんの、力にも、なれなくて……」
 何も言わないけれど、思わなかったわけではないのだと。
 半分しか血が繋がっていなくても、ウィルは確かにロゼウスの弟だったのだ。
「にいさま……僕は……あなたの、弟に生まれて……」
 その先に何を言おうとしていたのか。
 ウィルの深紅の瞳が力を失う。きつく握り締められていた服を掴む手からも力が抜ける。とす、と軽い音を立てて地面に小さな身体が落ち、その先から灰になっていく。
 それは吸血鬼の完全なる死。
 亡骸すら遺さず、灰になってしまう彼らには柩すら、いらない。
「ウィル!」
「ウィル――ッ!!」
 アンリやロザリーが叫ぶも、もう届かない。
 どうして、どうしてこんなことに。
 ただ、優しかっただけの弟が、家族思いの弟王子が、よりにもよって敬愛している兄の手で殺される。
 こんなに残酷なことはない。
 アンリとロザリーの身体から力が抜ける。二人ともその場にへたり込んでしまった。
 だけど、灰になっていくすぐ下の弟の姿に、ジャスパーもそれ以上戦いを続けられなかった。ミカエラのことは情報としては知っていたが、それでもこうまであからさまな家族の死を眼にしたのは、彼は今回が初めてだ。
 四、五百年は生きるという吸血鬼にとって、十二歳での死はあまりにも早い。その生はあまりにも短い。
 灰になるウィルの姿を見つめ、彼を手に掛けた張本人は彫像のように凍てついていた。ただ圧倒的な、返り血をまとって今では畏怖すら感じられる美しさ以外に何一つ表に現さないロゼウス――シェスラートはウィルの死に衝撃を受けているシェリダンたちを殺すのが今が絶好の機会だとわかっていて、それでも動かなかった。
 しん、と場が静まり返る。
 動けない、誰も。
 だがやはり、静寂は長くは続かない。
「!」
 シェスラートが剣を振り払った。ぴしゃり、と血が地面に払われる。ウィルの血だ。わかっていてアンリとロザリー、ジャスパーたちは動けなかった。反応できたのはシェリダンと、クルスやローラたちだけ。
 そしてシェスラートの狙いも彼らだけだった。シェリダンへと向けて、彼は魔術を放つ。察したクルスが身を盾にして庇おうとするが、シェリダンは彼を突き飛ばして地面へと転がる。
「シェリダン様!」
 結果的にはその選択が正解だったのか不正解だったのか。わからないが、これまでの時間で少しだけ彼は回復していた。だがその程度のことがこれからの戦況にどれだけの影響を与えるというのか、予測はできはしない。
 否、最悪の予想だけならいつだってできるのだ。
 ゆらりと、シェスラートのこの場でも鮮やかな白い姿が紅い闇に浮ぶ。
 いつの間にか日が暮れて夕闇が降りてきていた。それを、シェスラートの魔術が赤々と照らす。
 シェリダンがクルスを突き飛ばした次の瞬間、辺り一面を炎が包んだ。いや、その言い方では語弊があるだろう。炎はシェリダンとシェスラートだけをその中に残して円形にぐるりと辺りを取り囲み、シェリダンを仲間たちから分断した。人の身長ほどもある炎の檻に阻まれて、これではローラやエチエンヌも迂闊に援護することができない。
 まるで闘技場の中に放り込まれた気分になる。灼熱の炎の檻の中、シェスラートと二人きり。炎の熱の静けさに包み込まれ、外の世界のことなど何も聞こえなくなる。
 その静寂の中で、ただシェスラートの声だけははっきりとしていた。
「さぁ、これで邪魔をする者はいなくなった」
 氷のようだったシェスラートの表情がようやく動く。
 白い髪に紅い瞳を持つヴァンピル。彼の美しさは、中に燃え滾る地獄の業火を封じた氷。そのようなもの。
「心おきなく、殺しあおう」
 相手は次代の皇帝。それを差し引いてもヴァンピル。目前であっさりと弟を殺し、自分を今まさに殺そうとしている。炎の檻に阻まれて、助けは来ない。
 軽く現状を確認すると、シェリダンは覚悟を決め、静かに剣を構えなおした。


185

 そして、呆気なく勝負はついた。
「ぐっ!」
 肌に爪が食い込むほど肩を強く掴まれて、ダンッと地面に叩きつけられる。衝撃と共に息がつまり、あばらが軋んだ。
 周囲を取り巻く炎の檻の勢いは衰えるところを知らず、けれど地面はすぐ側でこれだけの業火が燃えているとは感じさせない常温を保っている。どうやらシェスラートが意識的にそうなるよう調節しているらしい。ヴァンピルは炎に弱いのだという。けれど彼ほどの実力者であればその身一つを結界で守ることなど容易いだろうから、きっとこれはシェリダンをも含めての配慮なのだろう。煙も火の粉も全く流れてこない。
 長く、少しずつ、じわじわと彼を甚振るための。
「まだだ……」
 暗い灰色の空に、炎が燃えている。それを背景に、白い姿がゆらりと立つ。
「まだ……まだ、足りない」
 一度離した腕を再び伸ばして、シェスラートはシェリダンの前髪を掴んだ。苦痛に白い面を歪めるのを無視して、無理矢理顔をあげさせる。ぶちぶちと乱暴に掴まれた髪が引き抜かれる音がした。
「こんなものでは……まだ……」
 美貌の吸血鬼の口調は、人一人責め苛むこの瞬間にも淡々としている。その凪の水面のような穏やかさとは裏腹に、細い手足が繰り出す攻撃は機敏だ。
「がっ!」
 どこもかしこも痛めつけられて、体中の力はすでに抜け切っている。その脱力状態は良かったのか悪かったのか、鳩尾を鋭く蹴り上げた一撃にシェリダンの身体はさしたる抵抗もなく地面を擦るようにして吹っ飛んだ。新たにできた擦り傷から流れる血など気にも止まらないくらい、鳩尾への蹴りは衝撃的だった。横たわったままくの字に身を折って咳き込む。
「ぅ、ぐ……げほっ」
 鈍痛と鋭痛の両方を身体のあちこちで味わう。呼吸が荒くなるのに、肺までも痛くてろくに息ができない。意識が掠れそうになる。
 強い。
「こんなもので終わりか?」
 強い。
「もう、立つ気力もない? 軟弱だな?」
 その魂は始皇帝候補だったというシェスラート。そして身体は次期皇帝ロゼウス。どちらにしろ相手はこの世で最強の存在、皇帝であるということだ。
 強い。
 強すぎるほどに強い。ただの人間ごときに、敵うわけがない。彼に命を狙われた時点でこうなることなどわかっていただろう。しかも相手はこちらを憎んでいる。
「俺の恨みは、こんなものじゃ晴れないよ? ロゼッテ……」
 激しい痛みに遠のきかける意識を懸命に引きとめながら、シェリダンは考えた。けれど諦め悪いそのくせが、思考を勝手に続けさせる。
 そうなのだろうか?
 本当に? 憎まれているのは私なのか?
 シェスラート。ロゼウス。シェスラート。
 ロゼウスは私のもの。呪うようにシェリダンはそう繰り返す。呪うように――祈るように。
 ロゼウスに関してのことなら、その責を、痛みを、全てを負うのは自分であるべきだ。しかし今目の前にいるのは誰だ。
 シェスラートなんて知らない。
 自分が必要なのはロゼウスだけだ。譲れないそれだけを口にしようとせめて唇を動かしかけたその時――。
 ドスッ
 鈍い音が、身体の中心辺りで聞こえるのがわかった。肉を裂く音。しかし骨も内臓も極力傷つけず、ただ刺しただけ。理解したその瞬間にも灼熱のような痛みが生まれる。
「――ッ!」
 剣で串刺しにされたその苦痛に声にならない叫びをシェリダンが上げる中、またしても淡々とした声は降ってくる。
「足りない。まだ……」
 ずる、と身体から何かを抜き取られるような不快な感触と共に、鉄の刃が傷口から引き抜かれる。栓を失って腹部の傷から、先ほどのウィルのように溢れんばかりの血が流れ出てきた。剣の抜ける一瞬びくりと身体が痙攣する。
 叶うなら怒鳴りつけたかった。しかし、激しい痛みにままならない。
 シェスラートはシェリダンを一息に殺すだけの実力がありながら、彼を嬲るためだけにわざと急所を外したのだ。その分苦痛が長く続く。どくどくと心臓の拍動に合わせてその一瞬ごとに傷口から血液が流れ出していくのが、わかる。
 このままでは放っておいても遠からず出血多量で死ぬだろう。人間とは脆い生き物だ。
 けれど、このままですむはずがないこともシェリダンはわかっていた。シェスラートはロゼッテの生まれ変わりであるシェリダンを、恨んで恨んで恨んでいるのだから、可能な限り苦しめて殺すのだから、こんな程度で済むはずはないだろう。事切れる最後の一瞬まで、意識を失うことも許されず甚振られるに違いない。
 その証拠に飢えた声はまだ降ってくる。
「足りない。こんなものでは。まだ……どうして」
 痛めつけられているのはこちらのはずなのに、いっそ悲痛なほどの響さえその声に宿してシェスラートがそう言った。剣を無造作に地面に放り出して、彼はシェリダンのもとへと屈みこむ。否、膝を着いて乱暴にシェリダンの顎を掴むと、苦痛に呻く顔を自らの方へ強引に向けさせた。
「お前を痛めつければ少しずつ楽になっていくかと思ったのに、全然だ。全然足りない。こんなものではまだ満たされない」
 もどかしい苛立ち交じりの声音がかけられる。激痛に表情を歪めながらもシェリダンは何とかそちらの方を見ようとする。無理矢理とはいえ、向けられた視線が絡んだ。殺気と憎悪に瞳が煌き。
「憎い。お前が憎いよ、ロゼッテ。お前はいつだって俺から全てを奪っていくんだ。俺は何も、何一つお前に望まなかった。いや、望んだけれど、お前は応えなかった。俺はその後、お前にそれ以上の何かを求めたか? ただ、変わりなくそこにいさせてもらえれば他には何もいらなかったのに、お前はそれすらも俺から奪った」
 シェスラートの紅い瞳。
 縫いとめるようなその色に、心が軋んだ。
「憎い。誰よりも、お前が。一度は必要だと言って見せて、飽きたら簡単に棄てるのか? 優しい顔も穏やかな声も全部その日のための嘘だったっていうんだろう? お前は嘘つきの卑怯者だ」
 表情こそ微かに眉をしかめる程度。けれど彼と同じロゼウスの顔をよく見ているシェリダンには、それが痛みを堪える表情だとわかった。
「返してくれお前に奪われたものを。そうでなければ俺は満たされない。それがないと、この穴を塞げないんだ」
 満たされないと繰り返す、彼のその瞳に焦燥がある。何かが欠落した深紅。シェリダンはその色を知っていた。
 その紅い瞳は、魂につけられた深い傷口を映したような無惨な鏡。
 瞬く間に、これまでさんざん苦痛を与えられた相手に対する疑問と理解が渦を巻いて広がっていく。一つ湧き上がってはああそうだったのだと答の与えられる問の中で、ここにいてここにいない存在が叫んでいる。
 ああ、どうして!
 シェスラートの――ロゼウスのものであるその瞳に鈍い光が走った。自ら顔を向けさせたシェリダンの顎から手を離し、その代わり襟の高い服から伸びた首筋に指が触れる。
「ぅ――ぐぅ!」
 骨を折るかと思う勢いで、首を絞められた。本当に折らないのは、またじわじわと苦痛を与えるためだろう。あくまでも人間の力の範囲内で、じわじわと絞め殺していく。かに思えた。
「……駄目だ」
 その手も、すぐに離される。解放された瞬間に咳き込むと、傷がまた凄まじく疼いた。激痛に目元に涙が浮び、止める事ができない。
 咳き込みながらも、空ろなシェスラートの声を聞く。ゆるりと狂気に堕ちていくその心。
「扼殺死体なんて中途半端に醜いだけ。そんなのお前には似合わないだろう? 始皇帝様。どうせなら、とびきり残酷に、無慈悲に、醜悪に」
 シェリダンの身体の方ももう限界だ。ただでさえ出血が酷いのに首まで絞められて、意識が朦朧としているどころじゃない。気を抜けばすぐにでも別の世界へと旅立ってしまいそうな中、彼はただ一つの言葉を言うために崩れ落ちそうな精神を繋ぎとめる。
「ロゼウス……」
 相手がぴくりと反応し、ついで眉をひそめる。目の前にいるのは彼の前世であるシェスラート。けれどシェリダンは、それしかこの存在を呼ぶ名など持たなかった。
 最後の力を振り絞って視線を相手に向けると、シェリダンは精一杯の笑みを作る。額に脂汗さえ滲んだその顔はしかし美しく、唇からはただ真摯な言葉を零す。体中の力を抜いてもこの言葉だけはその限りではない。
 いつだって真剣で、彼にだけはいつも本気だった。だからこれも紛うことなき本心だ。
 全身全霊の祈りを込めて、告げる。
「私は、お前になら殺されてもかまわない」

 ◆◆◆◆◆

 忌まわしい吸血鬼。
 人喰らいの化物。
 自分たちの姿が人に近いだけに、食人の習慣がなおさら人間たちの恐れに拍車をかけるのだということを、シェスラートは知っていた。
 向けられる敵視。
 ひそひそ声の陰口。
 仕方がない。人間は吸血鬼と違って、か弱い生き物なのだから。しかもそれは彼らのせいではない。吸血鬼がその食人の習慣を変えられないように、人間も拳で岩を軽々と砕くような強さを、もともと持つようには作られなかったのだ。
彼らのせいでないことを、責めるわけにはいかない。……例え彼らが吸血鬼のことをわかってはくれなくても。だからあの頃の吸血鬼族は、大陸の端の山奥でひっそりと暮らしていた。
 その生活から良くも悪くもシェスラートを引っ張り出したのは、当時栄華を誇っていた暴虐の大国ゼルアータだった。一部の魔力を持った能力者を上手く使い、ゼルアータ国王ヴァルターは飛躍的に自国の力を増していた。それまでは人間たちの争いを横目に慎ましくも日々を送っていた吸血鬼族の日常を、直接的に壊したといえば彼のことだ。
 黒い髪に黒い瞳の、整ってはいるがどこか冷たい目つきの男。何かを諦め冷え切ってしまったような、そんな眼差しの。
 けれど、その冷たい氷の奥で燻っているものがあることもシェスラートはわかった。その瞳がシェスラートを求め、呼んだのだ。自分のもとへ来い、と。
 黒の王。
 暗黒の末裔。
 魔族であり生態から人間と違う吸血鬼族とは、また異なる理由で人間でありながら人間に差別されてきた一族の王は、酷薄だがある意味ではとても公正だった。
 本当に行くの、と泣きそうに顔を歪めて引き止める家族や一族の者たちを振り切って、その頃勢力を増したゼルアータに吸血鬼族への暴虐だけは見逃してもらう代わりにと、シェスラートは彼のもとへ侍った。
 征服者の顔の通り、あまり良い噂を聞かなかったヴァルターのもとで過ごした日々は、確かに身体的な安らかさは勿論心の穏やかさともほど遠い。けれどふとした瞬間に暗黒の王の見せる寂しげな表情は、幾度もシェスラートの行動を躊躇わせた。
 魔力持つ者が多い一族とはいえ、所詮相手は脆弱な人間。ゼルアータの傲慢な支配体制に不満を持つ国家も多い。案外かの王とその下に仕える王城の人間辺りを皆殺しにすればもっと早くにあの暴虐の大国に巣食う澱を、洗うことができたかも知れないと言う考えを実行に移せないほどには、シェスラートはヴァルターに惹かれていた。
 高慢で冷酷な、征服者の王。けれど彼の瞳に宿る孤独は、いつかどこかで見た事があるもの。彼を救うことも殺すこともできないまま時は過ぎて、王の狂気は進み、ゼルアータに虐げられた人々の不満は募り、運命の日はやってくる。
 向けられた刃。
 シェスラートにとって、ヴァルター王はどうしても殺すことのできない相手だった。
 しかしヴァルターにとっては違ったらしい。解放軍と名乗る、ゼルアータの暴虐に苦しめられかの国を憎む人々の集団が城下に攻め込む直前、ヴァルターは身近な者たちを斬り殺し自ら破滅の道を選んだ。
 シェスラートすら道連れにしようとした彼に、その時、最初で最後の抵抗をシェスラートはした。それまでどれほど身体を弄ばれても、酷い言葉に心を引き裂かれても黙って受け入れ耐えていた彼が、それだけは拒んだ。
 俺はあなたを殺せないのに、あなたにはそれができるんだな。想いは等量などではないと、知っていたはずなのに勝手に傷ついた。それを恥じる心があったから、銀髪の少女が同じように懐かしいような瞳で黒の王のことを語りだすその日まで、誰にも口にできなかった言葉。
 報われないのに捨てられないのか。そして縋る、叶わない片想いに。せめて彼がそう望んだように、その亡骸を抱いて朽ちれば少しは満たされるかと炎の中で終焉を待っているとき、ふいに光は訪れた。
 ロゼッテ=エヴェルシード。
 蒼い髪に橙色の瞳の、典型的なザリューク人。穏やかな風貌をした青年は、解放軍の首領やザリューク王家の人間であることを除けば、あるいは取り立てて特筆することのない人間なのかもしれない。
 だけど彼は優しくて……仲間である吸血鬼以外から、それは初めて得た優しさだった。あんな場所にいて王に侍り、最後は王を殺したシェスラートを、何故かロゼッテは受け入れてくれた。
 嬉しかった。
 とても。
 嬉しかった。
 その後、故郷と違って吸血衝動を抑える薔薇の花など滅多に手に入れることができない戦時下の行軍の途中耐え切れずに死体を喰らい、その姿を見られた時もロゼッテはシェスラートを見捨てなかった。ますます嬉しくて……彼を好きになってしまった。
 愚かな、今思えば本当に愚かな自分。脆弱な身体と短い寿命、それ故に強く弱い心を持つ人間に惹かれて最後に裏切られる痛みなんて、ヴァルター王の時に懲りておけばよかったのに。シェスラートはそう嘲笑う。叶わなかった二度目の恋。
 求めても拒絶されて、最初から諦めていなかったと言えば嘘になる。絶望的な想いに報われることなどなくていい。それでも好きだった。せめてその気持ちのまま、ロゼッテの側にいられれば、シェスラートはそれで幸せだったのだ。
 故郷の村の様子、ゼルアータでヴァルター王の側に侍る日々、解放軍の粗野だが気のいい連中。
 それなりに楽しく、穏やかに見える日々も争いと戦いの中も駆け抜けてきた。だけど本当の意味で満たされたことはない。
 吸血鬼族のため、仲間のためにとヴァルター王に身を売り、それすらも無駄になって今度は解放軍に。一部の人には認められたが、ロゼッテを推すというだけでなく、シェスラートを吸血鬼だからという理由で排斥したがる人間も多かった。喜びと哀しみは常に隣合わせだ。
 それでも許される限りは側で力を貸せればそれだけでいいと、ささやかな願いすらをロゼッテはうち砕いたのだ。報いてくれない彼を恨むよりも他の相手と心通じあうことができたらそれが一番いいのだと、ようやくサライと幸せを得ようとした、その後で。
 ――赦さない。
 決して、赦せはしない。
 あんな風に最後に殺すつもりならば、どうしてあの時ヴァルター王と共に死なせてくれなかった!
 お前も俺をいらないと言うんだな。泣きたい気持ちで見上げた彼はけれど精一杯の告白を断った時と同じように泣きそうで。
 あの時、どうして殺せなかったのか……。弱く脆く、吸血鬼からすれば突けば容易く死んでしまいそうに儚い、人間と言う存在。どんなに屈強な大男でもそれは同じ。流れる年月の中でいつも自分だけが一人。
 それでも生きてそばにいたかった。
 ただ、あなたの側で生かせて欲しかった。
 彼自らの手で刃を見舞われた時、襲ったのは絶望だった。必死の言葉も届かず、無理矢理ヴァルターに斬り付けられた時と同じ痛み。
 ああ、お前も俺をいらないと言うんだな。
 俺を必要としてくれる者なんて誰もいない。シェスラートはそう思う。人間とは違う吸血鬼、人ぐらいの忌まわしい化物と嫌われる存在。族長の息子としてヴァルターのもとに赴いた時は、村の者たちにも反対された。いつだって賛同は得られないで、しかしそれで事態が少しでもよくなるならと、この身を差し出すことしか彼は知らない。できない。
 ロゼッテだけは、そんなことしないと思っていたのに。
 ただ側にいたかっただけなのに。
 お互い別の相手を選び、一番近い位置にはいられずとも、それでもただ、一緒に生きていたかっただけなのに。
 生きて側にいられればそれでよかったのに。

 ロゼッテの側にいたかったからこそ、死にたくなんてなかったのに。

 どんな望みをこの胸に抱こうとも、全ては生きているからこそ。なのに彼は自分を必要とせずに拒絶しただけでなく、殺すことによって全ての未来の可能性全てを奪っていったのだ。側に居ることすら赦さず、シェスラートに与える幸福なんて何もないとでもいうように。シェスラートを選んでくれたサライの幸せさえ纏めて奪っていった。その先シェスラートができるはずだった全てのことをその手で消し去った。彼の思考構造はシェスラートには理解できない。
 いつだって本音を見せてくれなかったロゼッテ。最後の最後に早口で矢継ぎ早に言われた言葉。あれは本心だったのか。
 わからない。知る術すらロゼッテが消した。側で一緒に悩み苦しんでそれでも求め合う関係を、彼はシェスラートに求めない。一緒に生きることどころか、シェスラートの存在すら認めないのだ。それが最も傷ついた。
 だからせめて、手ひどい裏切りの返礼に今度は自分が彼を殺せば、少しは気が晴れるだろうかと……。

「私は、お前になら殺されてもかまわない」

 心のどこか望んでいたはずの言葉を聞いた時、けれど同じように魂の奥底に封じ込めて眠らせたはずのものが震えた。
「いやだ!!」
 自分ではない自分の声が悲鳴のように迸り、そしてシェスラートの意識は、彼のロゼッテに向ける憎しみを凌駕するほどの強い想いによって暗転する。

「俺は、あんただけは殺したくない!」

 ロゼウス=ローゼンティアが叫んだ。


186

 パチパチと火の粉が弾ける音だけが聞こえる赤の静寂の中で、その叫びは灰色の空を切り裂く。
「ロゼウス……?」
 瞠目するシェリダンの前で、彼はその表情を先ほどとは一転させる。血のような深紅の瞳には大粒の涙が溜まり、髪と同じ白銀の眉が、心の底から傷ついたように下げられて。
 強いように見える彼の、本当は脆い心の奥底を見せた姿――ああ。
「ロゼウス……お前なんだな」
 一度強く瞳を閉じ、ロゼウスはこくりと頷いた。俯いた拍子に目元に溜まった雫が零れて頬に炎の照り返しを受けて輝く紅く輝く光の筋を描く。
「シェリダン……」
 シェスラートは彼をシェリダン=エヴェルシードとしては見ない。その唇からは久しく呼ばれることのなかった自らの名を聞いた時、シェリダンの胸に言葉にならない感情が広がった。
「ロゼウス、お前――」
 たまらず開こうとした口を、けれど思ってもみなかった言葉に塞がれる。
「どうして、あんなことを言うんだよ!」
 これまでの儚げな表情からさらに一転して眉を吊り上げたロゼウスがシェリダンを怒鳴りつける。言われた方は訳がわからずに、思わずその凛々しい面差しに似合わぬきょとんとした無防備な表情を見せてしまった。
「俺になら殺されてもいいなんて……俺に、お前を殺させるなんて!」
 大きな瞳をさらに大きく吊り上げて憤慨するロゼウスの瞳からは、しかし同じように流れ続ける涙もよく見えた。怒りながら泣いている彼のそのどちらの感情も、ただ一人シェリダンにだけ向けられたものだ。
 シェリダン=エヴェルシードにだけ。
「俺は……あんただけは殺したくない! 他の誰を殺しても、お前だけは……」
 シェスラートがシェリダンの首を絞めるために近づいた距離は近い、すでに息も絶え絶えな彼の傍らに座り込んだロゼウスはその肩に手をかけながら震えている。ロゼウスの細いが力強い指に掴まれた部分の服に皺ができる。
「ロゼウス……」
「生きていて。お願いだから……頼むから、生きていて……」
 滑らかな頬を滑る透明な涙。炎の紅を受けて染まる紅涙は血を思わせる。
 脆く弱い人間、命永いヴァンピルからすれば、儚いほどに短いその寿命。
 死に急がなくたって、いつか別れの日は来る。けれど、こんな形でそれを望むわけじゃない。
 強さはある。多少のことでは、生半な相手にはやられはしない。危うい破滅願望を見せながら、その裏に生きる意志もある。あると思っていた。
 だけど、シェスラートの意識を通してシェリダンのあの微笑を見たとき、ロゼウスの中で何かが弾けた。甦りの力を持ち、特にその能力の強いノスフェル家の者であるロゼウスにとってはいつもどこかで薄い膜一枚を隔てていた死の実感が、急激に襲ってきた。
 怖い。
 死は怖い。死ぬのは怖い。
 自分が死ぬのはどうでもいい。ただ、シェリダンが死ぬのが怖い。彼を永遠に失うかと思うだけで、気が狂いそうになる。
 それだけは何があっても許せないし、赦せない。例えシェリダン自身がそれを許し望んだとしても耐えられない。
 ましてや、自分が彼に手をかけるなんて。
「お願い……お願い、死なないで……嫌いになってもいい。俺を殺してもいい。あんたがどんな酷い人間になっても俺がどんなに酷いやつだと言われようとも構わない……他には何も望まない……生きていて」
 それだけだから。願うのはただ、その一つ。それさえ叶えばあとのものは全部諦めてもいい。これ以上に欲しいものなんてない。願うことなんてない。
 シェリダン以上に大切な存在なんてない。
 弟のウィルは見捨てたくせに、と罵られてもロゼウスは構わない。なんて酷い男だ、自分で自分の薄情さはわかっている。それでも。
「愛している……本当に。だから、生きていて」
 愛しているからあなたに生きていてほしいのだと。
 情と言うよりもむしろ純粋に自らの欲から出た言葉。だからこそ重みがある。
 しかし、ロゼウスが自由に言葉を紡げるのもそこまでだった。
「ぅ……うう!」
 突然、彼は自らの手で顔を押さえながら苦しみ始めた。それまで涼やかだった白い顔のこめかみに汗が浮く。
「黙れ……ロゼウス、黙れ……」
 兄と信じていた相手に長年虐待され続けたせいか、ロゼウスの心はどこか未発達だ。それまでは自覚していなかった事実を、ロゼウスもシェリダンに指摘されてようやく気づいた。彼の心は、いまだ弱い。
「弟は見捨てといてこの男だけは生かしたいなんて……大層な御身分じゃないか……」
 脂汗を浮かべて苦しみながらもせせら笑うその表情はロゼウスではなく、シェスラートのものだ。精神的なものはロゼウスよりも彼の方が強い。再び、ロゼウスの意識は前世の人格であるはずの彼に乗っ取られようとする。
「ロゼウ……ス、ッ!」
 変化に気づいて彼の名を呼んだシェリダンは、起き上がろうとして動いた拍子に走った激痛に息を止めた。あまりの驚きに忘れていた痛みが甦る。流れすぎた血がまた溢れる感触と同時に貧血で目の前が暗くなった。
「……シェ、リダン……」
 最後の力を振り絞って、ロゼウスがそちらに目を留める。いまだシェスラートと戦い続ける精神の消耗が肉体に現れ、手も足も小刻みに震えている。だが。
「!」
 横たわり瀕死のシェリダンに、ロゼウスは素早く口づける。それだけを終えると、地面に手をつくようにして一度がくりとその身体が崩れた。
「くそ……」
 毒づきながら再びその身を起こすのはもう彼ではない。
 しかしロゼウスの意識を封じ込めてその身体を乗っ取ったシェスラートは、身を起こした自らの下にいるシェリダンの様子にも舌打ちする。
 ロゼウスの最後の力で、先ほどシェスラートがつけたはずのシェリダンの怪我が完全に治っていた。従来の治療魔術では傷を塞いでも失った血液は戻らず、疲労の回復もできないはずだが、それらが完璧に成されている一段高等な魔術だ。これで事態は振り出しに戻った。
「くっ!」
 顔を歪めるシェスラートの隙をつくようにして、シェリダンがその身体を思い切り突き飛ばした。少しでも距離が離れた隙に身を起こす。武器である剣はとっくに弾かれてしまって近くにはない。
 だが彼に殺されてやるわけにはいかなかった。何故ならロゼウスは、それを望まないのだから。
 シェリダンの眼差しに宿る、先ほどとは違う光に気づいたシェスラートは苛立ちを増すようだった。美しい面を歪めながら吼える。
「忌々しい! さっさと死んでしまえ!」
「断る!」
 威勢が良いのは形だけ。シェスラートはそう判断していた。体術での取っ組み合いなら必ず自分が勝つと。
 けれど二人の距離が近づいた時に、シェリダンの腕がシェスラートの身体を引き寄せた時には驚いた。この身体では少しだけ相手の方が背の高いその胸に抱き寄せられて、思わず硬直してしまう。
もつれた足のせいで地に再び崩れる。中途半端に膝を着き座ったままの体勢で、それでもシェリダンはシェスラートの身体を抱き締める手を離さない。
「ロゼウス!」
 耳元で呼びかける声が熱く、その熱に痛みを覚える。
「戻って来い! 一度はできたことなら、次もできるはずだ!」
 決して自分の名を呼ばないその声。シェリダンと呼ばれる彼は、ロゼッテの生まれ変わりのはず。魂でそう判断して確かにシェスラートも彼をロゼッテの生まれ変わりとしてしか見ていなかったのだから人の事は言えない。だけど。
「……どうして」
 人間であれば、折れそうなほどに強くと言っていいほど抱きしめられた腕の中で力を抜き、シェスラートは呟く。それまで必死にロゼウスに呼びかけていたシェリダンがその声音に反応して、耳を傾ける。
 炎に包まれた静寂。紅い照り返しを受けるシェスラートの白い髪。シェリダンの身体は傷こそ癒えたが服は破れ切り裂かれ血みどろだ。場所はあの廃教会の前で。
「どうして誰も、俺を必要としてくれない……」
 魂の叫びは、声に出されればかように力ないものであるのか。抱きしめた姿勢を変えず腕の中にシェスラートの細い身体を閉じ込めながら、シェリダンはゆっくりと瞬きしてその声を聞き取る。
「忌まわしいこの身が、愛される資格がないことはわかってた……でも、それでも……」
 恐ろしき人喰らいの化物。吸血鬼という魔族の習性。それでありながら人の世に暮らすというこの苦しみ。人の世界にあれば忌み嫌われ、けれど同じ一族の者たちにも、ヴァルター王のもとに侍った決意と覚悟はわかってもらえなかった。
 見返りを求めていたわけじゃない。どんなに胸が痛んでも、それで仕方ないものだと思っていた。自分の身を差し出した自己犠牲などと言って酔う思惑はない。だから自分が差し出し味わった痛みに、苦しくても切なくてもわかってもらえなくても、耐えてきた。
 それでも、やはり心のどこかでは、シェスラートは誰かに認めて欲しかったのだ。愛して大切にしてくれなんて、そこまでわがままは言わない。でもせめて、嫌って蔑んでこの身を否定までしないでほしかった。
 そこにいていい、と言ってもらえればただそれだけで良かった。
「ロゼッテ……お前は最後まで、俺を信じてもくれなければ、必要ともしてくれなかった……」
 愛している。だから生きていてほしい。先程ロゼウスがシェリダンに向けた言葉はシェスラートにも通用する。愛している相手には生きていてほしい。
 けれど、ロゼッテはシェスラートを殺した。それは言葉にはされなかった一つの答。
 憎しみの裏返しは、愛と哀しみ。
 炎の熱気で一度乾いた頬に再び透明な筋が描かれる。ロゼウスとシェスラート、同じ魂を持つ二人が同じように涙を流した。
 ――わかっている。自分は吸血鬼。人の世にはこの存在自体が決して許容されない忌まわしい化物だということは。でも……
 ――ごめんなさい。兄様ごめんなさい。生まれてきてごめんなさい。俺の存在自体があなたを苦しめていることはわかってる。だけど。
 だけど、叶うなら愛されたかった。
 自己の存在を否定する裏で愛を求める醜い強欲。しかしその感情はシェリダン自身にも覚えがある。
「それでも、それでもお前が俺を嫌うと言うのなら」
 どんなに望んでも得られないのなら。
「今度こそお前を殺して、その命だけでも手に入れてやる」
 心は手に入らない。だが私がお前を殺せば、お前は私のものになるのか……?
 その感情にも、覚えがある。同時に唐突な速さで目の前のシェスラートの想いにも、彼を殺したという自分の前世、ロゼッテ=エヴェルシードの行動の理由にも理解が広まった。
そしてシェスラートの抱える矛盾にも気づいた。彼は自らの行動と感情の結びつきに齟齬が出ていることを自覚していないのだ。
 やはりロゼウスの前世だな、こんな時なのに、少しおかしくなる。そして――。
「お前は俺を愛してくれない。それでも構わない、俺は――」
「……違うんだ、シェスラート」
 声はそれまでと変わらない。だがどこか口調と抑揚が違う。え、と思わず顔を上げたシェスラートの瞳に映るのは、こちらを見ているシェリダンの橙色の瞳――。
 橙?
 それはエヴェルシード人、旧ザリューク人には当たり前の色だが、目の前の少年には当てはまらなかったはずだ。だが今確かにそこにあるのは、あの特徴的な炎の朱金ではなく、ありふれた、けれど懐かしい夕焼け空の瞳。

「ロゼッテ……」

 三千年前と同じ舞台に、ついに役者が揃ったのだ――。

 ◆◆◆◆◆

 ――頼む、代わってくれ。
 何故愛してくれない、シェスラートの悲鳴のようでいて、静かな祈りを含んだその言葉を聞いた時、心の奥底から誰かが縋るように囁きかけてくるのをシェリダンは知った。
 ――どうか。シェスラートを救えるのは俺だけだ。頼む、代わってくれ。
 「救う」という言葉は一見傲慢に思えるがその声に込められたのはむしろ痛いほどに強い贖いの気持ち。まさか私ごとその命を差し出すなどと言うつもりではないだろうな、と思いつつそれでも声の必死さには抗えなかった。
 ――代わってくれ。どうか。
 言い残した言葉がある。どうしても伝えたい言葉がある。声の調子からからそのことが伝わってきた。それを、酷く後悔していることも。
 他人に意識を明け渡すなんてまっぴらだ。
自分は例え心が切り刻まれ血を流そうとも最期まで自分でいる。思想は命よりも重い。そこまで考えるシェリダンにとって、それは本来なら到底受け入れられないはずの頼みだった。
 だが。
 ――仕方がない。少しだけだぞ。
 そんな風に思った瞬間、落ちていく自分の心の代わりに誰かが浮上してきた。

 ◆◆◆◆◆

「……シェスラート」
 自らの名を呼ぶロゼッテの声を、シェスラートは信じられない思いで聞いた。自分とロゼウスと違って、体格が良く雄々しい男だったロゼッテと、妖艶さと清らかさを併せ持った美少年であるシェリダンに、容姿の相似はほぼないと言っていい。それでも瞳の色が、何よりそこに浮かぶ光が、彼が紛れもなくロゼッテ=エヴェルシードであることを示していた。
「ロゼ……お前、どうして……」
 炎の熱風に髪を揺らされながら、シェスラートが呆然と問いかける。二人の距離はいまだ抱きしめあったままだ。お互いの睫毛の長さまで見て取れる近さで、その顔を悲しげな色に染めながらシェリダンの身体に甦ったロゼッテが口を開く。
「……逢いたかった。シェスラート」
 諸々の事情や経緯に関する疑問も興味も感慨も、その言葉に散らされる。
「どの面さげて、そんなこと!」
 できるなら思い切り殴りつけて怒鳴りつけたかった。
 もとのシェスラートの身体と比較しても遜色のないロゼウスの身体能力。彼が全力で殴れば、人間など呆気なく血の詰まった袋に代わるだろうという力。シェスラートの思ったとおりに殴っていれば、今頃転生者の身体を借りたロゼッテとの会話は成立しなかっただろう。だが。
 実際に動いたのは口だけだった。それもほとんど戦慄いて声が揺れ、迫力など全然ない。
「わかっている。俺にそんなことを言う資格がないことは……でもこれだけは、本当だ。お前に逢いたかった、シェスラート」
 そして彼は瞳を閉じて口を開き。
「愛している、シェスラート」
 瞼の裏に映るシェスラート本来の面影と腕の中の魂の波長を重ね合わせて、告げる。
 シェスラートが目を見開く。
 鳩の血色の瞳が、ロゼッテの表情を映しこむ。
 その色づいた果実のように紅い唇が、震え。
「ふざけるな!」
 殺すほどの力ではない。だが強く、彼の華奢な見た目どおりほどの力で突き飛ばした。
「ふざけるな……! 今になって、何を言い出す! お前が……お前が俺を殺したんだろう!?」
 愛しているというのなら、どうして自分を殺したりしたのだ。シェスラートには、まったくもって理解できない。
 だが突き放されて距離が開いたにも関わらず、ロゼッテの瞳は変わらない。彼はシェスラートを、シェスラートだけを強く見つめ続ける。
「ああ、そうだ。俺はお前を殺した」
「!」
 てっきり生前のように言い訳をするものだと思っていたシェスラートは、開き直ったようなロゼッテの言葉に驚く。言い訳されたらされたで怒りを覚えただろうが、予想通りに進まなかったこともそれはそれで忌々しい。
 ロゼッテは言葉を続ける。
「俺はお前が欲しかった。だからお前を殺した。俺はそんな方法しか知らなかったから。それを……今では愚かだとは思っている。だがそうまでしてお前を手に入れたいとあの時の俺は思っていた。そのことは、もう否定しない」
 悲しげな苦しげな、言葉で言い表せないような表情であの日シェスラートの細い体を剣で抉ったロゼッテ。
 そんな顔をするなら何故……、そんな風に思わなかったわけではない。迷いや戸惑いを捨てきれないロゼッテのその表情が受け入れられなかった。
 優しいけれどともすれば優柔不断。解放軍首領であるくせに押しに弱い。そんなロゼッテの姿は、時折彼の仲間を不安にさせた。シェスラートが皇帝になるという予言をサライが出した時にもとのリーダーであるロゼッテではなく彼の方を指示した一派がいることは、そう言った理由も関係していた。
 それでも最後の最後には様々な人々の意見を取り入れた決定案を自ら作り出すロゼッテの姿は指導者としてのあるべき理想だったが……その彼がたった一つだけ明確な答を出さなかった問題がある。
 それはシェスラートへのこと。
 結局あなたはシェスラートを愛していたのですか? そうではないのですか? それは彼の元婚約者であるフィリシアと後に結婚して夫婦共々ロゼッテに仕えた腹心であるソードにもわからなかったらしい。
 シェスラートが彼を恨んだまま死に、死してなおその恨みを捨てられないのも無理はないと言える。
 だがそれから三千年経った今、ロゼッテはようやくその心の内を、はっきりと言葉に露にした。
 シェスラートが死んだのは、皇歴が始まる前。本来皇帝になるはずの運命を持っていた青年は、その役目を最も愛し憎んだ、自分を殺した男に無理矢理託して死んだ。
 そしてその後、ロゼッテはシェスラートに押し付けられたその皇帝の職をよくこなしたのだ。これ以上失うものもなく、シェスラートが最期にかけた呪いによって三百年以上もの寿命を得たロゼッテ。鬼気迫る勢いで計画を遥かに超えた早さで二つの大陸を統一し、世界帝国アケロンティスを築いた。
 ロゼッテの人生において、シェスラートと過ごした日々よりも彼が死んだ後の方が長い。シェスラートを決して忘れることなどできるはずもないのに、シェスラートのいない日々を過ごした。
「お前にとってどう思われようとも、俺は、お前を愛している」
 言いながらロゼッテは一歩を踏み出す。シェスラートがぴくりと反応するが、後退しようとした足はそこが自らの魔術によって作られた炎の檻の中だと気づいた。迂闊に逃げる方が危ない。
そして一歩一歩ゆっくりと、ロゼッテはシェスラートに近づいてくる。
「愛しているよ。シェスラート。言葉にすることなどできなかった。好きだといくら口で言ってもこの想いをお前に上手く伝えられなかったし、お前は俺を信じられなかっただろう。……俺がお前を信じていなかったから」
 あの時のロゼッテはたぶん、ただ好きだという言葉を免罪符に自らの弱さをシェスラートに押し付けただけ。
 それを感じ取っていたからこそ、シェスラートもあの場面になって「好きだ」という彼の態度を信用できなかった。
 強い執着、上手く言えないけれど確かに気になる。その瞳が自分以外の誰かに向けられるのが気に入らない。サライと共に笑い合っている姿を見ると、胸が痛んだ。
 だけどそれは、愛ではなかった。幼い独占欲は、愛などと言えるほど高尚なものではなかった。
「それを、お前が死んでから……お前を殺してから知った」
 一度は死ぬほど後悔してみなければ、知る事ができないことはあるだろう。
 一度は殺したいほど誰かに強い想いを抱かねば、わからない境地もあるだろう。
 けれど、それでもその過ちは大きすぎた。他でもないシェスラート自身に皇帝の役割を与えられた以上あとを追って狂うことすらできないほどに、シェスラートという存在はロゼッテの人生に影響を及ぼした。
「シェスラート……あの頃の俺は、お前を殺せばお前が俺のものになると思っていた」
 幼い、と言うには齢を重ねすぎていたが、少なくとも大人ではなかった。どうしようもなく愚かだった。
 ロゼッテの両親は、父親が母親を殺した後自害するという末路を辿った。浮気な母を手に入れるには、父にはそれしかなかったのだ。だからロゼッテも愛する者を手に入れるには殺すという方法しか知らなかった。婚約者であったフィリシア相手には思わなかったそんな感情を起こさせたというほどには、シェスラートに向ける想いは強かったのだろう。だがそんなのは言い訳にすぎない。
 ゆっくりと歩み寄ってきたロゼッテが再びシェスラートに触れる。細い肩をつかみ、向き合って瞳を覗き込む。
「シェスラート……お前を殺した後、俺は皇帝になった。そして、世界を治めた」
 シェスラートがそう望んだからだ。だけど。
「お前のことを一時も忘れたことはなかった」
 三千年越しの告白がなされる。
「何をしていても思うのは、考えるのはお前のことばかり。お前の髪お前の瞳お前の肌お前の身体。その外見も性格も初めて出会った時のことも最期のあの日のことも、何度だって繰り返して思い出した。酒や女や享楽の限りに溺れるなんてものじゃない、そもそもそんなことを試してみようとも思えないほどにずっとお前のことばかりを考えていた。俺が生きているのはお前を思うためで、俺が皇帝になったのはお前の遺した言葉に従ったからで、俺の信用した仲間はお前を知る連中で、俺が作った全ての建物も法も全部お前のことを考えながら、お前だったらそうするだろうと思いながら作ったものだ。お前の同胞である吸血鬼族に逢うたびにお前と関係がないか確かめお前の面影がないか探さずにはいられなかった。お前に繋がるものは何一つ処分できずに血の染み付いた剣すらそのまま残していた。生きることの全てがお前に繋がっていた。死にたいと一番強く思うのはお前を思い返すときだった。お前は魔力を使い果たして死ぬんじゃなくほとんど自らの意志で死んだようなものだからその消滅は緩やかだった、お前の身体が少しずつ灰になっていくその様を俺は三日三晩ただ見つめていた。柩のいらないお前の骸たる灰を瓶に入れていつも懐に持っていた。お前を知る仲間たちから聞き集めた情報で、何をするときもお前の望むような行いができるように常に気を張っていた。サライのことはもちろん、お前がもともと愛していたヴァルター王ですらもういないのに俺はずっと嫉妬していた。俺の中で一番はっきりしているのは最期の時に俺を赦さないと言ったあの言葉、あの言葉を何度も何度も反芻した。お前の笑みも俺を呪う声も何もかもが俺を苦しめた。お前を思いお前に繋がる全てが苦しいのに俺はそれを求めずにはいられなかった。俺の生きる時間の一瞬一瞬にお前は存在していた。……ようやく気づいたんだよ、シェスラート」
 相手を殺せば、自分のものになるのか? その問はずっとロゼッテの胸の中にあった。どうすれば愛しい人を永遠に、誰に奪われることもなく手に入れられる。どうすれば。
 殺せば自分だけのものになるだろうと思い、ついにはそれを実行してしまった。シェスラートがそれをどう思うかも考えず短絡的に自らの浅はかな慾望を遂げ……だが彼のいない日々を過ごすうちに気づいてしまった。
「俺がお前を永遠に手に入れたんじゃない」
 愛していた。だから、永遠にあなたを手に入れたかった。自分のものにしたかった。誰にも渡したくなかった。だけど。
「お前が俺を永遠に手に入れたんだ」
 シェスラートは永遠になったけれど、その存在はロゼッテ一人のものではない。サライはもちろん、ソードもフィリシアも彼を覚えていた。殺してもシェスラートはロゼッテだけのものにはならなかった。
 囚われたのは、むしろロゼッテの方だった。
 何をしていても思い返すのはシェスラートのことばかり。存在の全てをシェスラートに縛られていた。三百年もの間、ロゼッテはシェスラートだけのものだった。他の誰も目に入らない。
 殺してしまい、どんな言葉を発してもそれが返って来ることがないからこその永遠。嫌いになるどころか、諦めることもできない。
 本当に、なんて、愚かだったのだろう。
「愛している、シェスラート。今度は嘘じゃない」
 三百年かけて出した答の全てを、お前に捧げる。
「ロゼッテ……」
 ぽろ、とシェスラートの紅い瞳から涙が零れた。
「俺も……お前が好きだった。好きだったからこそ、殺されて悲しかった。お前も俺をいらないっていうのかと」
「違う。愛していた。今も……愛している」
 そうすることで何を得られるというわけでもないのに、ただ愛している。それだけ。
 たったそれだけのことが、ずっと欲しかったのだ。シェスラートも、ロゼッテも。
「――ぁああああああ!!」
 ロゼッテの腕の中で、シェスラートが崩れ落ちた。追うように膝を着いて、ロゼッテがシェスラートを抱きしめる。
 地に手をついてシェスラートはむせび泣く。欲しかった真実がようやく手に入ったはずなのに、それでも満たされない。理由はわかっていた。
 どんなに言葉を尽くして愛を語っても、彼らは本来死んでいるのだ。この世に残っていてはいけないはずの存在。破滅願う復讐すら虚しかったが、今更愛を得たところで何になろう。
 もうどうしようもないのに。
 三千年にわたる擦れ違いにようやく決着をつけた今だからこそ思う。やっと実感できた。
「俺たちは……」
 どうすればいい。どうすれば……。
 その時、炎の檻の内側にいるはずの彼らの傍らに、一つの人影が姿を現した。


187

「やれやれ。だからあなたたちは馬鹿だっていうのよ。男なんて、みんなそんなものかも知れないけれど」
「サライ……」
 いつの間にか、炎の檻の中に銀髪の少女がいた。懐かしいその面差しに、シェスラートもロゼッテも目を丸くする。
「お前……実体じゃないな」
 ロゼッテが驚いたように言う。サライの身体は、半透明に透けていた。
 シェリダンたちと出会った時こそ巫女の力によって実体のようにその姿を保っていたサライだが、シェスラートたちのように転生者の器に甦るどころかそもそも生まれ代わりすらしていない。それはつまり。
「そうよ、私は幽霊。何よあんたたち、人がずっと待ってたって言うのにさっさと生まれ変わってその相手の身体乗っ取るなんて、反則よ」
「ご、ごめん」
 何故それをこの場で彼女に謝るのかはともかく、その達者な口に負けて思わずシェスラートは謝った。昔から口では彼女に勝てない。シェスラートよりもっと勝てないロゼッテなどは、もう沈黙するしかないのだが。
「サライ……お前も残っていたのか」
「ええ。もちろん。どうせその子の身体を通して知っていたんでしょう?」
 ロゼッテとサライが睨み合う。この二人は昔から気が合わなかった。ロゼッテがシェスラートを殺して皇帝になってからは、特に。
 それでもサライはシェスラート亡き後、他の誰とも結婚しないまま皇帝ロゼッテの補佐に努めた。皇帝は神の代行者と言えども、はじめから帝国がその形を成していたわけではない。代々の皇帝たちの行動によって、少しずつ代わっていったものだ。
 サライの行動によってロゼッテの治世は保たれたのも確かだ。だが彼と彼女の仲に男女の甘い空気など微塵もあるはずはなく、その様子はまるで。
「ロゼッテ=エヴェルシード……あんたは本当に最後の最後まで、どころか死んでさえ忌々しい男ね!」
 サライとロゼッテは、シェスラートをとりあうライバルだ。
「俺もやっぱり、死んでからもお前は気に食わない。サライ」
 射殺す……も何もすでに死んでいるが、そんなようなサライの眼光は、シェスラートの身体をしっかり抱きしめるロゼッテへと向けられている。
 三千年前のあの頃のロゼッテだったら、サライからそんな視線を向けられるのに耐えられず、気まずげに腕を離しただろう。
 だが彼も、こうして時を経て甦り本音を晒し、自分自身の想いと選択と向き合うことによって変わったのだ。
「だが俺はもう、お前からも、シェスラートと向き合うことからも逃げないよ。お前にはすまないが……俺は、シェスラートが好きなんだ」
「知ってるわよ。シェスラートもそうだってことも知ってるわよ。でも私もこの人が好きなのよ」
 心底呆れたといった表情で、サライはロゼッテの宣言をそう流した。彼女の視線の先で、シェスラートがロゼッテのはっきりとした態度にいささか目を瞠りながらも自分でしっかり彼に抱きついているという光景が繰り返されているのだから尚更だ。
「……本当に馬鹿ね」
 両想いだとわかっていたのなら、どうしてあの時もっと早くはっきりと行動しなかったのだ。サライが交じることにより多少は妙な感じになったかもしれないが、それでもロゼッテがはっきりとした態度でいたならばあんな結果になることはなかったはずだ。
 けれど良くも悪くもこのアケロンティス帝国世界の歴史は、そうやって紡がれてきたものである。彼らの悲劇すら踏み台にして、人は前へと進む。
「……二人とも、もうそろそろ眠りなさい」
 本当に馬鹿な男たち、サライは心の中で、三度目のその言葉を繰り返す。
「すでにロゼウスやシェリダンという、新しい命の形を得てしまったあなたたちには、当然昇天なんてものはないわ。普通ならここでそして二人は一緒に天に昇りましためでたしめでたし、ってなるところだけど、あんたたちにはそんな未来ないんだから覚悟しなさい」
 シェスラートもロゼッテもそれぞれ言い分はあるとはいえ、どちらもすでに死んだ身であり、そして生まれ変わった魂でもある。転生後の人格は本来前世を引きずるものではないが、この場合は特別だ。皇帝と言うものの力は、それだけ強いということなのか。
 生まれ変わった後の人生は、同じ魂ではあるが、あくまでも違う人間のものだ。それを短い間とはいえ奪って使用した罪は重い。例え彼ら本人が赦したとしても。
 だから、シェスラートとロゼッテは眠るのだ。
「吸血鬼に棺桶はいらず、私はロゼッテより先に死んじゃったけれど……でも、今でもあなたたち二人の意識を元通り今の人格の最奥に封じ込める手伝いくらいはできるわ」
 普通の人間であればそんな風に魂から前世の意識を目覚めさせたり封じたりすれば現世の人格に影響が出そうなものだが、ロゼウスは次期皇帝であるしシェリダンも決して心弱くはない。一度封じてしまえば後はおそらく、大丈夫だろう。
「サライ……お前まさか、そのためにそんな姿になってまで、この世に残ってたのか……?」
 一度は自分の妻になったはずの人を、シェスラートは見つめる。彼女が生んだ自分の子が子孫を残しやがてローゼンティア王国を作った。つまり、ロゼウスはシェスラートの子孫だ。
 シェスラートの言葉に、サライは微笑んで返した。当時世界で一番美しかった少女の笑みだ。その美貌は今の世でも子孫であるミザリーに受け継がれている。
「さぁ、そろそろ柩に釘を打ちましょう。今度こそちゃんと弔ってあげる。今度こそちゃんと、私たちは終わりましょう」
 自らの子孫の身体の中に甦ったシェスラートを見つめ、サライが歌うように告げる。死んでいる者は、死んだ方がいいのだと。
「思い出を振り返るなとは言わないけれど、やはり過去に囚われては駄目よね」
「……ああ」
 シェスラートは万感の想いをこめて頷く。
「そうだな」
 シェスラートはロゼッテを好きになってもヴァルター王を忘れたわけではなくその存在を比較してしまったし、ロゼッテはロゼッテで両親の最期がトラウマになっていた。シェスラートを殺して皇帝になったロゼッテは文字通り永遠に彼のことに囚われたし、今ここに彼らがいること自体、サライも含めて全員が過去を後悔し囚われた結果だ。
 だがやはり、転生者のその人生はその人自身に任せた方が良いのだろう。
 シェスラートもロゼッテも、それぞれの生まれ変わりの言葉に少なからず影響を受けた。やはり死者の妄執と、今生きている者の覇気は違う。
 だからそろそろ本当に、柩に釘を打とうと。
 その昔人々の世界では、吸血鬼は棺桶で眠ると信じられていた。そうして朝をやり過ごし、再び自分たちの時間である夜が来るまで待つのだ。
 けれど、彼らの眠りはただのそれではなく、死者の眠り。
 せめてこの生が終わるまでは、死者は目覚めないように、その柩に硬く釘を打つべきだと。
 サライが微笑んで促す。彼女の誓言に導かれて、シェスラートとロゼッテは最後まで硬く抱き合った。その終わりの瞬間にはお互いの存在を魂で感じたまま――ゆっくりと眠りについていく。
 相手への言葉にならない執着も火のような憎悪も氷の愛も、何もかもが意識の奥底に沈められていく。それと同時にサライの身体も光のように輝き出し、砂のように風に乗って崩れ始めた。
 三千年にわたる悲劇の結末から、ようやく解放されるのだ。
「ただ一つ気になるのは……遺されたこの子たちのことね……」
 お互いの身体にもたれるようにして仲良く一時的に意識を失っているロゼウスとシェリダン、それぞれシェスラートとロゼッテの生まれ変わり。
 あの時の彼らに負けず劣らず、この二人もなかなか数奇で、そして世界に影響を与える運命の持ち主だ。
 さらに彼女の不安を煽ることには――似ているのだ、彼らは昔のシェスラートたちに。
 もちろん性格や人格がそのままというわけではなく、むしろ表面だけ見たらまるで違う。そしてどちらかと言えばロゼッテの優柔不断さがロゼウスに、シェスラートの意地の強さがシェリダンに影響を与えている気がする。 
それでもどこか、何故か彼らは三千年前の二人に似ていると感じてしまうのだ。
 ヴァンピルと人間、ローゼンティアの吸血鬼と、エヴェルシード人。そして《皇帝》。
 運命が絡み合い、どんな結末を連れてくるのかわからない。だから。
「あなたたちは、どうか間違えないでね」
 がらがらと炎の向こうで廃教会が崩れ落ちる。彼らの魂の柩に釘打たれた者たちを除けば、歴史の奥、時代の闇に取り残されていたものたちが今、こうして消えて行く。
「あなたたちは私みたいにこんな姿で地上に残っても、さっさと生まれ変わってその相手の人生を乗っ取ったりしても駄目よ」
 消えかける寸前、サライは美しく優しく微笑みながら、儚い祈りだけをそっとおいていく。
「ねぇ、ロゼッテ。特にあなたのことは私嫌いだから、そんな早くに天の国になんて、来ないでね」

 長生きしてくれなきゃ、駄目だからね。

 ◆◆◆◆◆

 炎の檻は消え、結界の向こうで廃教会が崩れ落ちる。燃え尽きていく薪のように、黒く焼かれて一瞬で風化していく。
 あの建物も、三千年前の妄執に巻き込まれていたのだ。死者であるがためにこの地上で過ごすこと叶わず海に逃れていた巫女姫ともども。
 その物語も、やっと終わりを迎える――迎えた。
 過去に囚われ正しき生を営むこともできず、甦って罪を重ねる。死んでいるものは、死んでいた方がいいのだろう。
 世界はその時生きている者のためにある。
 だから。
「ぅ……う、ん」
 雪のように白い瞼を震わせて、ロゼウスが目を覚ました。紅い瞳を彷徨わせて状況を確認するようでいて、その実探しているのは一人だ。
「シェリダン……」
「う、……ロゼウス?」
 お互いにもたれるようにして崩れ落ちていた二人は、ようやく目を覚まして相手の姿をとらえた。
「シェリダン……」
「ロゼウス……」
 先程までは必死で気づかなかったが、二人ともあちこち泥まみれ煤まみれだ。シェリダンに至っては服が切り裂かれ血で染まっている。ロゼウスもその返り血で濡れている。悲惨な状態ではあるが、本人たちはとりあえず無傷だ。
 シェスラートとロゼッテの分まで含めて、こんなに喉を酷使したことはないと言うほどによく喋り叫んだ日。結界が解けたために頭上は薄灰色の曇り空へと戻っていく。
 離れた場所にクルスやアンリたちの姿も見えるが、今はそれ以上に。
「おかえり」
 シェリダンが口を開く。
 エヴェルシード王城の襲撃から、セルヴォルファスや海洋航路など、長く離れ離れになってきた。
 腕の中にいるのは、間違いなく本物のロゼウス。改めて感じる。ようやく戻って来たのだと。
「おかえり……ロゼウス」
「うん」
 ロゼウスの瞳から、涙が溢れる。
「ただいま」

 ◆◆◆◆◆

 炎が消えた向こうに、二人の少年の姿が見える。
「ロゼウス! シェリダン!」
「シェリダン様!」
「ロゼウス兄様!」 
「陛下! ロゼウス!」
 ロザリーやエチエンヌたちは、二人のその雰囲気に、驚異が去ったことを知る。涙を流して抱き締めあう二人には、妙な威圧感などない。いつも通りのロゼウスとシェリダンだった。
 炎の檻は消え、廃教会は崩れ落ちた。結界が解かれてこの土地も自然の時の流れに去らされやがて全てが消え行くだろう。
 そして死者たちの心は封じられた。
「これで、ようやく終わったのね……」
 二人の無事らしい様子を眺めて自分も瞳に涙を浮かべながら、ロザリーがそう呟く。
「……そうだろうか?」
 だが、アンリはそれに単純に頷く事はできなかった。
 そうだろうか、本当に。

 ◆◆◆◆◆

「みんな、無事よね……」
 皇帝領薔薇大陸。
 宮殿に残されたミザリーとエリサは、ロゼウスと戦いに赴いた他の兄妹たちの無事をあんじていた。アンリとロザリーのことはもちろん、今は複雑な事情によって敵対してしまっているが、ロゼウスとジャスパーだってミザリーの弟であり、エリサの兄であるのだ。どちらも無事であればいいと思うし、もともとは敵であるとはいえ、エヴェルシードの元国王シェリダンにも彼の部下たちにも借りがある。彼らも含めて、全員が本当に無事であればいいのだが……。
 そして、ウィル。
 もともとアンリたちは彼を助けに行ったのだ。剣の腕に秀でた、正義感の強い末の王子。
「ウィルにいさま、大丈夫かな……」
 末の王女であるエリサは年齢の近い彼と一番仲が良い。兄を心配する妹の姿に、ミザリーは慰めの言葉をかける。
「大丈夫よエリサ。アンリ兄様たちが向かったのですもの」
 名指しで呼び出されたのはシェリダンとはいえ、アンリも、ロザリーも一緒に現場に赴いたのだ。無事でないわけがないではないか。
 しかしその気遣いの言葉も、呆気なく揺らされる。
「それはどうかな」
「ハデス卿――」
 これまで重傷を負って伏せっていた、漆黒の帝国宰相が二人の王女の前に姿を現した。

 ◆◆◆◆◆

 シェスラート=ローゼンティアはロゼウス=ローゼンティアの中で、再び眠りについた。
 魂だけで現世に残っていた巫女姫サライの厳重なる封印を受けて、もはやロゼウスの生に彼が甦ることはないだろう。
 シェスラートと言う名の、始皇帝になり損ねた男の物語は、ようやく終わったのだ。

「おかえり、ロゼウス」
「ただいま、シェリダン」

 シェスラートの存在は封じられた。ロゼッテももうシェリダンの中で甦ることはないだろう。皇帝になるはずだった男と、皇帝になった男、彼らの存在は確かに今生を生きるロゼウスたちにとって驚異であった。
 しかし、ロゼウスが次期皇帝の宿命を背負うのは、決して彼がシェスラートの生まれ変わりであるためではない。

「これで、ようやく終わったのね……」
 本当に?

「みんな無事でいるといいのだけれど」
 その結果は……

 シェスラート=ローゼンティアの物語――神聖なる悲劇は、確かにここで終わりを迎えた。
 だがしかし。
ロゼウス=ローゼンティアの物語は、ここから始まったのかもしれない。


 《続く》