175

 知っていた。
 君が、妹への初恋など比べものにならない、生涯ただ一つの恋をすること。
 知っていた。
 君が、そのことによって、誰よりも不幸になること。
 知っていた。
 事態のカラクリの全てではない。けれどそれに近いほとんどを知っていた。知っていて君に黙っていた。君を利用するために。
 ――そこのお兄さん! ちょっとこっち来て呑まない?
 ――はぁ?
 出会いは公式でそうなっているような、王城での父王との会見の時に、とかそういうものではない。実はエヴェルシードの城下町の安い酒場だった。とても当時世継ぎの王子だった者と、帝国宰相って呼ばれていた者の初の対面に相応しい場所じゃない。それでもあの時間は、僕としては意外なくらいにはっきりと、記憶の中に留めてある。あそこから全てが始まったんだから。
 ――お兄さんのお名前はー?
 ――お兄さんはやめろ。だいたい、あなたの方が年上じゃないか。私は……シエル。
 ――そう。じゃあ、僕はルキとでも。
 ――じゃあ、ってなんだ。とでも、って。
 ――そのうちわかるよ。
 後日エヴェルシード王城で再会して、顎外れそうなほど驚いていたなぁ。隣にいた王様が吃驚して、どうしたんだ!? って思わず叫ぶようにして問いかけてたもんねぇ。
 それから正体を明かして、先日の偽名による邂逅も全部明らかになって、でもそれを誰に報告したからって利益を僕たちが受けるわけでもないし、そんなぐらいならって、また二人して性懲りもなくお忍びで城下に出て酒飲んだり遊びまわったり。彼のやる事はどう見ても王子様って感じじゃなかったけれど、それが逆に小気味よかった。当時はまだ僕のこの姿より年下の彼を、連れまわしていた僕にもそりゃあ原因はあるんだろうけどさ。
 でも、そんなことはもうない。そんな風にじゃれあう機会を、僕自身が永久に捨ててしまったから。

「シェリダン王を殺せ!!」
「大逆人を赦すな!!」
「あの男を地獄に落せ!」

 民衆を扇動し、その死を切望するように事態を仕向けた僕には、もうシェリダンに対しどんな言葉をかける立場にもない。
 後はただ敵に回るだけ。僕は僕でシェリダンを利用し、シェリダンは真剣に僕を殺しに来るだろう。僕はもう彼の友人なんて、そんな甘酸っぱい立場にはいられない。
 僕が選んだんだ。僕が選びそうなるように事態を動かしたんだ。
 僕が望む未来の光景には、どうしても彼の存在が必要不可欠だったから。だから僕はシェリダンを彼に気づかれないように誘導して、その道を辿るように仕組んだ。
 なのに、何故。
 紅い光景が消えない。《預言者》の能力によって見る事ができる未来の景色。
 深紅の血だまりの中に、二人の人間がいる。いや、人間と言うには相応しくない。二人のうち一人は、白銀の髪と紅の瞳を持つ、忌まわしい魔物なのだから。
 わかっているはずだ。
 このまま僕が願うとおりに事態が進めば、必ずその道を辿るだろう。彼は、彼の手にかかり死ぬだろう。……わかって、いるはずだ。
 なのに何故、その時を思うとこんなにも胸が痛い。 

 ◆◆◆◆◆

 擦り切れた背に触れる石の床が冷たい。
「ごちそうさまでした」
 不機嫌で凄みのある、しかしふざけた様子でそう言ってドラクルは襟元の最後のボタンを留めた。小さく舌を出して皮肉に笑うその表情をいつもの様子に戻すと、いまだ地面に黒髪を散らして横たわったままのハデスの顔を覗き込む。
「卿? いつまでもそのままでいますと、病を得ると思いますが?」
「だ……れのせいだと、思ってるんだよ……・・」
 紅い唇を歪め嫣然と皮肉るドラクルの言葉に、ハデスは掠れて途切れ途切れの声で返した。屋外で無理矢理犯された全身が痛い。
「私を挑発するあなたが悪い。だいたい、被虐趣味なのは卿の方でしょう?」
「あっ……つ!」
 ドラクルが再び、先程さんざんに弄んだ心臓の上の尖りを強く抓む。赤く腫れ上がっていたそこを乱暴にされて、ハデスは痺れて甘い声をあげた。
 くす、とドラクルがまた笑う。
「ほら。こうされるのが気持ちよいんでしょう? 痛めつけられるのが。若い肌を切り刻まれ、滑らかな背を鞭打たれ、その可愛らしい白い尻を叩かれて赤く染められるのがお好きなのでしょう? 口に猿轡をはめられ、目隠しをされ、手首をきつく縛られて無理矢理脚を開かされるのが楽しいのでしょう?」
「ち、ちが……っ、あ、ああ!」
 揶揄する口調にハデスが反論しようとしたところで、今度はドラクルが下肢に手を伸ばした。内股を撫でられて、際どい部分に触れそうな指に翻弄される。
「無理なさらずとも、好きなものは好きと言えばいいのに」
「そ、それは……おまえの、方だろう!」
 何とか叫んだ次の瞬間、ハデスはそれを握りこまれて息を詰めた。
「ひっ……!」
「そういえば」
 わざとらしく芝居がかった口調でドラクルは、愛撫する内にゆるゆると芯を持ってきた少年のものを巧みに昂らせながら言った。
「先程は私の方は楽しませてもらったというのに、ハデス卿に対しては奉仕の一つもせずに申し訳ありませんでした。これから楽しませてあげましょうか?」
「ふ、ふざけるな! お前国で仕事あるんだろ! さっさとローゼンティアに戻れよ!」
「どうせここまで来たら、あと四半刻ぐらい留まっても同じことですよ。こちらの懸案事項の一つは、あなたに潰していただいたわけですし」
「!」
 暗にミカエラを殺したことを言われて、ハデスは瞬間、体にこめていた抵抗の力を抜いた。
「あっ……」
 その隙を狙うようにして、ドラクルは彼の昂りを絶頂に押し上げ、解放に導く。長い指が、少年の若々しいものを弄んだ。
「ああ……!」
 頭の中で白い闇が快楽となって弾け、堕ちていく。一瞬の恍惚の後に虚脱感。ハデスは全身の力を抜いた。
「卿」
「ん……む、ぐっ」
 薄く唇を開いて浅い呼吸を繰り返していたハデスの口に、いきなりドラクルが指を突っ込んできた。独特の苦味と生臭さが口腔に広がって、ハデスはそれが先程彼がハデス自身を慰めていた手だと知る。
「さすがにこのまま戻るわけにはいきませんので、この手は清めていただかないと」
 言うドラクルの手は、勝手にハデスの口内を荒らしていく。一度息苦しさに顔を背けて吐き出したハデスは、再び目の前に示された指を、今度は自分から大人しく舐め出した。ここで言う事を聞いておかないと、後で何をされるかわからないことはもう知っている。しかも、その無体を受けとめるにはすでに彼の身体の方が限界だ。
 サディズムとマゾヒズムは切っても切れない関係にある。マゾヒストがサディスティックなことを行うこともあれば、サディストは潜在的マゾヒストだとも言われる。傷つける快感は、傷つけられた側の威力を知らねば想像できないものだからだろう。
 甚振っているのはどちらで、甚振られているのはどちらなのか。
熟れた果実のように赤い舌をドラクルの白い指に絡め、瞳に涙を浮かべながらもそれを舐めるハデスの様子を、ドラクルは無表情に見ている。
 やがて唾液で洗われた指をゆっくりと引き抜くと、ハデスの頬に手を添えてその額に口づけを落とした。
「よくできました」
 子どもに言うようなその口調にハデスの苛立ちが募る。その一方で、彼はロゼウスに対してもこんな接し方だったのだろう、ということがなんとなく思いやられた。
「それでは、私は戻ります。ハデス卿もごきげんよう」
 ずたぼろに犯した相手の言う台詞ではないと思うが、ドラクルは自分だけ身なりをもう一度整えると、言葉通りさっさと戻ってしまった。長靴の音も聞こえなくなるほど距離が離れて、一人路地裏に死体のように討ち捨てられたハデスは空を仰ぐ。
 エヴェルシードの青い空。あの時、ミカエラ王子も見ていただろう空。
 傾いた建物の寄せ集まる暗い路地裏の隙間から見上げるそれは虚しいほどに爽やかに蒼い。
「僕は……」
 下腹部にまだ鈍い痛みと違和感が残っている。乱暴に遊びつくされた後ろからは、赤と白の液体がとめどなく零れている。破られた服は散らばり、露になった肌には陵辱の赤い痕が残っている。
 ――被虐趣味なのは卿の方でしょう?
 先程のドラクルの言葉が耳元で甦り、ハデスは小さく、違う、と口にした。
 甚振られるのが好きなわけではない。ただ、そうでもしないと確かめられないだけ。
 自分が、「ここにいる」ということを。
「僕は……」
 伸ばした手は短すぎて、あの空には届かない。


176

 細い体が銀の矢に射抜かれ、血に染まり倒れ付すのを彼はその眼で見ていた。空が憎いほどに青いその日、行われた死刑はもはやその形を保ってすらいなかった。
「すみません、通してください」
 常に身につけている高価な衣服からわざわざ平民用の粗末な身なりにやつしてやってきたのだが、間に合わなかった。ルイは人込みを何とか掻き分けながら、処刑台に近づこうとする。
「すみません、通してください。お願いします」
 エヴェルシード王国内で、二国間の講和のためにローゼンティア王子ミカエラを処刑すると言うその日。王都の広場には人々が集まっていた。新年のシェリダン王の即位以来、エヴェルシードの人々の心は常に不安に晒されていて、今回の処刑もその不安の中で行われるはずだった。
しかし様々な人の思惑と矛盾の隙間にうまく、黒い企みは差し込まれ、事態はある者たちにとっては最悪の方向へと向かおうとしている。
「シェリダン王を殺せ!!」
「あんな裏切り者を赦すな!」
「もともと、父親を幽閉して王になったようなヤツだぞ! 先王陛下を殺したのもあいつではないのか!?」
 ミカエラを処刑するはずだった広場に、突如として乱入してきた複数の影。それはルイにとっては馴染み深い者たちばかりだった。元エヴェルシード国王シェリダン陛下、ユージーン侯爵クルス卿、それにたぶんあの女性はローゼンティア王女ロザリー姫。兵たちや人々の目を引き付ける者の他に、ミカエラを直接助けに行った者もいたようだった。
 直接彼らに手を貸すことのできる立場にないルイは、せめて彼らの作戦がうまく行くようにと、それだけを願っていた。もちろん見張りの眼さえ盗めれば幾らでも協力は惜しまないつもりだったが、残念ながらそれは叶わなかった。
 広場の上空をまっすぐに切り裂いた一本の矢。
 帝国宰相ハデス卿は、何故か先王の時代からこの国と縁が深い。もともと黒の末裔の人間はそれほど溢れているわけではない。遠目に黒髪と判断できたその人の迫力に押され、民衆は彼の言う事を鵜呑みにしてしまった。
 すなわち、今回のことはエヴェルシードを追放された恨みゆえに、この国に仇なそうとしたシェリダン王の仕組んだことだと。
 ルイからすれば、何をばかげたことをと言いたい。しかし国民のほとんどは、シェリダンの人柄を知らない。
 華奢で小柄なカミラ姫との対照も悪かった。外見が人格を判断する全てではないが、兄と妹であれば妹の方が温和ととられても仕方がないだろう。男尊女卑の思想がここではシェリダンにとって仇となっている。
「シェリダン王を殺せ!」
「大逆人を許すな!」
 怒号が耳を打ち、人々はそこかしこで乱闘を繰り広げる。広場は荒れきっていて収拾がつかない。本来この場を収めるべきは女王カミラのはずなのだが、彼女も自らの計算のうちでこの事態を招いたわけではないので、全てを丸く収めるには技量が足りない。別にはっきりとそう聞いたわけではないが、挙動を見ていれば彼女がこの事態の仕掛け人でないことはわかる。そしてこの事態を仕組んだ当の本人であろう帝国宰相ハデスは、あの発言以来ちゃっかりと姿を消してしまっている。
 足もとに引きちぎられた布や木屑が散らばっていた。子どもは泣き出し、男たちは拳を繰り出す。
 処刑台の上で命を失った哀れな少年のことに関しては、誰も思い出さない。いや、あえて思い出したくないのか。
 ミカエラ王子は、銀の矢に射られて命を落とした後、灰になって消えてしまった。
 ヴァンピルは人ではない、魔族と言う名の異形。
 それを、人々は思い知らされた。それが更に事態を悪化させているようだ。
 だけど。
「すみません! 通してください!」
 人込みをかき分けて、ルイは広場中央の処刑台へと辿りついた。
「あの……お願いがあるんです」
 役人の一人に頼みこむ。
「先程の少年……王子の『灰』を、引き取らせてもらえませんか?」
「は?」
 ルイのその言葉に、役人は怪訝な顔をした。それはそうだろう。つまりそれは人間相手であれば死体を引き取りたいと言う事で、ましてやミカエラはヴァンピルだ。
「駄目だ駄目だ。だいたいあの王子の灰は、もう風に飛ばされてしまっている!」
「そこを何とか!」
「駄目だ! お前はなんだ? 怪しい商売者か? この国王陛下の名のもとに行われた処刑の遺骸にあたるものを引き取りたいなどと、気ちがいじみたことを申すな!」
 相手はルイが、国内最大の貴族バートリ公爵の弟であるルイ=ケルン=バートリだとは気づいてはいない。気づかれてはいけないのだとルイにもわかっている。だがこんな時こそ、姉の名を持ち出せないことがルイには歯がゆかった。
 ここでバートリ公爵の名を出せば、すぐにも姉のエルジェーベトはシェリダンを支持する一派として捕らえられてしまうかもしれない。気まぐれで高慢で知られたエルジェーベトは、すでにシェリダンの側近と知られているユージーン侯爵とは違いなんとか王城の疑惑を言い逃れている。そんな危険は冒せるわけがなかった。
「答えろ。この灰を何に使うつもりだ?」
 役人の質問はむしろ義務と言うより、好奇心に変わっている。先程の商売者という言葉もそうだ。世の中には死体や赤子の骨を粉にしたものを妙薬として売りさばく商売があるという。それではないかと役人は疑っている。
 いっそ、そう答えてしまおうかとルイは思った。少なくともミカエラ王子の死を悼みたいなどという理由よりは不審を招かないだろう。吸血鬼の死骸の灰を妙薬として売るなど、不謹慎として追い返されるかもしれないが、姉のエルジェーベトに迷惑をかけるよりはマシだ。
「わ、私は―――」
 意を決して偽りの理由を述べようとしたルイと、不審者を見る冷めた目つきで彼の対応をしていた役人の耳に、艶やかな女の声が届く。
「それは私の弟だけれど?」
「姉さん!」
 女は口元を歪めて笑う。
「誰だ?」
 役人は相当下っ端なのか、貴族に縁のない部署なのか、その彼女の顔立ちにも反応しない。
「あら? 私を知らないというの?」
けれど、いつもと同じく派手なドレス姿のエルジェーベトには彼以外の周囲の人々の注目が集まっていたらしい。こちらに視線を向けた別の役人の一人が叫んだ。
「バ……バートリ公爵!」
「何!?」
 広場の注目が一気に彼女へと集まる。エルジェーベトは意にも介さず、ルイをも素通りして名目上この場の中心人物である少女の元へと赴いた。
「ご機嫌麗しゅう。陛下」
「この状況は間違っても麗しくはないけれど。バートリ公爵。何故あなたがここに?」
「私の居城の一つであるリステルアリアがこの近くですのよ。広場で騒動が起こっていると聞いて、こちらに赴いたのですが……」
 確かに度派手な美女である彼女の登場で広場の雰囲気はいったん静まっている。威圧感がありすぎる《殺戮の魔将》には、さすがに高圧的な役人も酩酊しているかのような暴れ具合の民衆も文句がつけられないのだ。
 そんな風にエルジェーベトが人々の目を引いている隙に、ルイはこっそりと先程の役人と取引した。
 僅かな金銭を払う代わりに、風に散らされず残ったミカエラの遺骸である灰を譲ってもらう。その辺りにあった箱に適当に集められた灰がおさめられた。
姉がまだ女王の気を引いていることを確認して、ルイはその場から早足で姿を消す。
「ルイ様」
 エルジェーベトはあらかじめ馬車を待機させていたらしく、目立たない方へと逃れてきた彼の姿を、侍従がすぐに見つけてくれた。事態を収拾させたエルジェーベトも戻ってくる。
「で、うまくいったの? ルイ」
「姉さん……」
 手の中で崩れ落ちる灰を抱いて、ルイは静かに目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 はらはらと花が降る。
 はらはらと花が散る。
 その様はこの深い緑の森の中において一種清浄で崇高だ。だが、だからこそ地上の惨劇が鮮やかに浮かび上がる。
 ドサ、と重い音がしてそれは地に崩れ落ちた。
 赤い血が傷口から流れ出て、見る間に広がっていく。
乱れ、散らばる白い髪。血の気を失う白い頬。
 ウィルはぴくりとも動かない。完全に死んでいるのがわかる。
 そして、死ぬとは言っても生命活動の停止でしかないこの状態が、本当の意味でヴァンピルの消滅でないことも彼らにはわかっていた。
「これで、もう戻れませんね」
「もとより戻る気などあったのか? ジャスパー」
「……いいえ」
 小さな声、首を振って否定する弟の頭を軽く撫で、ロゼウスの顔をした少年は地に崩れ落ちたウィルの身体を拾い上げようとする。
と、そこへ。
「ロゼウス……?」
 森の道の向こうから、待ち人たちはようやく姿を現した。
 
 
 エヴェルシード王都の広場でミカエラ王子殺害の罪を押し付けられたシェリダンたち一行は、とにかくエヴェルシードとローゼンティアの国境の森へと向かっていた。
 シュルト大陸最東端の国ローゼンティアと、その隣国エヴェルシード。二つの国の境には森がある。ローゼンティアは元々大森林によってその四方を囲まれた地形だが、そのローゼンティア領とエヴェルシードの領地を分ける、さらに中立地帯の森林が存在する地点があるのだ。大昔に二つの国で交わされた取引の名残らしいが、詳しい事は現代には伝えられていない。
 ロゼウスの身体を乗っ取った始皇帝候補シェスラートと、彼と手を組んだジャスパーがシェリダンとアンリたちローゼンティアの兄妹と待ち合わせた場所はその森の中だった。ローゼンティア領地と違って荊に閉ざされてはいない森の中、白い花が蝶のようにはらはらと彼らの頭上に降り注ぐ。
「ロゼウス……?」
 木々が生い茂り、そのてっぺんに近い場所に白い花をつける。高い位置から降ってくるその花は雨のようでもあり、蝶が飛び交うようでもある。そんな神秘的な光景の中、シェリダンたちの目には、数ヶ月離れていた程度なのにどこか懐かしい顔ぶれと、そして信じられない光景が同時に目に入ってくる。
 一体何が起こったのか。
「ウィルにいさま!」
 悲痛な声で叫んだのは、ローゼンティアの末姫エリサだった。彼女は四番目の兄の足下に転がる、自分と最も仲のよい末の兄の姿を見て悲鳴をあげる。
 ウィルの身体は血に濡れ、その瞼は硬く閉ざされていてぴくりとも動かない。彼女でなくたって、この場の全員が最悪な想像をする。
 そしてウィルを傷つけたと思しき人物を見つけようにも、その空間にはたった今やってきたばかりの自分たちを除けば、たった二人しかいないのだ。それも、ローゼンティアの王族にとっては間違いなく自分たちの兄妹であるロゼウスとジャスパーの二人しか。
 そしてロゼウスの手は血に濡れている。
 血まみれのウィルを助け起こそうとしたからと受け取るには不自然なその様子。
 一体何が起こったのか。
「ロゼウス……一体、どういうことだ、これは。何があった?」
 シェリダン、クルス、アンリ、ミザリー、ロザリー、エリサ、サライの七人はエヴェルシードの事件があって、必死にここまで逃げてきた。他の場所に身を潜めることも考えられたが、この機会を逃せばロゼウスたちと合流できる可能性がまた低くなる。それにロゼウスたちと待ち合わせたこの森は、主に盗賊や犯罪者の隠れ場所と呼ばれるくらい、身を隠すには絶好の場所だった。
 だからこそ、エヴェルシードの追っ手を引き連れてきてしまう可能性を覚悟で、ここまで来たのだ。先に使者としてロゼウスたちに会いに行ったウィルとも、この場所でなければ合流できないだろうことを見越して。もしも擦れ違いが起きれば、カミラに直接見つからずとも、今のエヴェルシードにローゼンティアのヴァンピルが戻るのは危険だった。
 それどころか、シェリダンの名を出すだけで危険だ。ロゼウスたちにもこの事を伝え、早く顔を合わせて打ち合わせをしないと。会って無事を確認したいという気持ちだけでなく、そんなことまで考えてここまでやって来たというのに。
「ウィル、まさか死……」
 ミザリーが呆然と呟いて、ふらりとよろめいた。それを、彼女の背後にいたアンリが支える。彼女たちの前では飛び出そうとしたエリサがクルスに押さえ込まれていて、こちらもぐしゃぐしゃの泣き顔だった。
 どういうことだ? 一体何が起きている? 何があれば、こんな事態になる?
 シェリダンも、アンリたちもそう言った心境だった。この光景は何だ? どう見てもロゼウスがウィルを殺したようにしか見えない。何故? その理由を考えられるほどに彼らも頭が働かない。
 無理もない。シェリダンたちはシェリダンたちで、すでにエヴェルシードでの衝撃を体験してきた後だ。
 何としても止めるつもりで向かった処刑会場の広場で、彼らは処刑を止めることができなかった。いや、それが正式なやり方に乗っ取った死刑ならば阻止できたのだろうが、彼らが追い込まれたのは到底予測できない事態だった。
 あの時、建物の屋根に乗り上げて銀の矢を射た帝国宰相ハデスの姿。彼はシェリダンにとっては友人であったはずだが、今は手強すぎる敵となっている。彼の放った矢により、ミカエラが死に至った。ただの生命活動の停止ではない、その身に宿る魔力の全てを使い果たしても再生が出来ない、本当の『死』。シェリダンたちはそれを止める事ができず、アンリをはじめとするローゼンティアの兄妹たちは目の前で弟が、兄が死んでしまうのを目撃した。
 ミカエラを可愛がっていたという第三王女ミザリーの嘆きようなど、それこそ語るまでもない。半狂乱になった彼女は無理矢理兄である第二王子アンリに抱えられてようやくここまで来たのだ。広場から逃亡するために走り出した直後では、普段は気丈で戦闘能力と言う点に関しても群を抜いているロザリーでさえ側にいたクルスの助けを必要としたほどだ。長い道のりを行く内にようやくロザリーは精神的に立ち直り、ミザリーもアンリに縋りながらなんとか自分の足で立つことだけはできるようになったかと思えば、この事態だ。
 はらはらと、花が降る。
 弔うように、白い花が降る。
 目の前の光景からはたった一つのことしか想像できないのだが、シェリダンも、クルスも、他のローゼンティアの面々もそれを口にできない。したくない。信じたくない。
 ミザリーが地に崩れ落ちる。その瞳の焦点は虚ろで、兄であるアンリが必死に声をかけながらも、体を起こす事ができないようだ。許容量を越えてしまったのだろう。誰だって、目の前で弟が処刑された直後に、弟が弟を殺したようだなんて知ったら正気ではいられない。
 対するロゼウスとジャスパーが、一見冷静そうに見える事が余計に恐れと不安を招く。彼らはこの事態に対して、何故何も言わないのか。シェリダンたちに先に口を開かせるつもりなのか。
 変だ。おかしい。
 ロゼウスたちが何の反応も返さないことが不気味だ。先程確かに、どこか疑うような確かめるような疑問形の声だったとは言えシェリダンはこの空間に辿り着いたその瞬間にもロゼウスの名を呼んでいる。
 なのに何故、彼はシェリダンに対して何の反応も示さないのか。
 何故、何で、という言葉ばかり繰り返す。もはやシェリダンたちにはわからないことだらけだ。誰もこの事態を正確に把握できる者などいないだろう。そう思われた中で。
「……―ト、シェスラート」
 ただ一人口を開いたのは、この場では唯一ローゼンティア人でも、エヴェルシード人でもない少女だった。
「シェスラート」
 小さいがはっきりした声で、彼女は何かを呼んだ。銀髪に紫の瞳のウィスタリア人サライは、ローゼンティア領海の沖に存在する祠に留まっていた古代の存在だ。その彼女が何かを呼ぶ。
 それは人の名なのだろうか。どこかで聞いた覚えがあるが、この混乱の最中、咄嗟には思い出せない。この場にいる人物は全員シェリダンも知っているはずなのに、そんな名の人物はいない。何故サライはそんな名を呼ぶのだろう。
 そう思っているシェリダンの目の前で、これまで無表情のまま何にも反応することのなかったロゼウスが目を動かした。
 シェスラート、と自分を呼んだサライの方へと。口元がゆっくりとつりあがる。
「久しぶりだな、サライ」
 そして笑った禍々しい顔は、シェリダンがこれまでロゼウスの上に見た事がない笑顔だった。


177

「久しぶりだな、サライ」
 銀髪の少女に微笑みかけるその顔。
 違う。これは違う。誰だ。
 白銀の髪、血のように紅い瞳。人形のように、少女めいた美しい面差し。それらはどれも彼の知るロゼウスそのものだ。
 だが違うのだ。
 これは、ロゼウスではない。
「ロゼウス!」
 シェリダンが呆然としている間に、ミザリー姫を抱きかかえながらアンリが叫んだ。その声にハッと我に帰ったのはシェリダンや、同じく呆然としていたロザリーであり、名を呼ばれた当のロゼウスはまったく彼に反応しない。彼らの言葉は耳にとどいているようだが、それが心にまで届いている様子がないのだ。彼が無反応なのは、シェリダンたちの存在に対してだ。
「ああ……」
 どこかぼんやりとした様子で彼はアンリを見つめる。そして口元に指をあてると、何かを思い出すような仕草でようやく兄の名を呼んだ。
「第二王子アンリ、兄様か」
 その様子には、シェリダンだけでなくその場の全員が違和感を覚えたようだった。
「ロゼウス……? どうしたの?」
 ロザリーが不安そうに尋ねるが、その様子にもロゼウスは反応しない。
 彼の右手には、まだ傷を負ったウィルが無造作に掴まれている。早く生き返らせてやらなければならないのに、この異様な空気に皆、動くことができない。
「ロゼウス様!」
 その緊張を破ったのは、この場にいるシェリダン以外の、もう一人のエヴェルシード人だった。
「クルス?」
 ユージーン侯爵クルス卿。彼はシェリダンの側近ではあるが、ロゼウスに対しては主君の大切な相手という以上の認識を持たない。しかもその認識もどちらかと言えばシェリダンがロゼウスを気に入っている、というもので、ロゼウスがシェリダンを愛し敬い支えている、というものではない。
 つまり、シェリダンの部下として彼を敬い護ることにこそ価値を置くクルスにとって、ロゼウスとは微妙な間柄の相手であった。シェリダンがロゼウスをとても大切に思っている事はわかる。だが、ロゼウスは「シェリダンの有益な部下」ではない。一方が愛しているからと言ってもう一方がそれに必ず応えねばならないという法はなく、お互いの立場を考えればロゼウスがシェリダンに対してそのような感情を抱く方が奇跡だ。
 ロゼウス自身に対しては一切含みなく、ただシェリダンという存在を介してロゼウスと繋がっているクルスは、だからこそこの場を代表して声をあげることができた。
「答えてください! ここで何があったのか? ウィル王子を殺したのは、あなたなのですか!?」
 単刀直入すぎるその問に、ロゼウスは困惑も憤りも怯む様子もなく、これも率直に答えた。
「ああ」
「――ッ!!」
 その言葉に、アンリもミザリーも、ロザリーもエリサも、ローゼンティアの者たちが一斉に言葉を失う。
 がくり、とあの気丈なロザリーが膝を折る。先程まではなんとかウィルのもとへ駆けつけようとしてクルスに押さえ込まれていたエリサは、いつの間にか大人しくなっていた。
 シェリダンも動けない。
 ロゼウスのその酷薄な様子。別に彼が聖人君子だなどと思ったことは一度もないが、だからと言って、ここまで平然と弟殺しを告白できるような、そんな性格だっただろうか。
何かが違う。何かがおかしい。
そうは思うのだが、どこがおかしいのかわからない。それを口にしてしまえば、全てが終わりそうな気がして言葉にできない。
「ロゼウス、お前――お前は、」
 お前はダレだ?
 言葉にできないその問を耳にしたかのように、静かに答えたのはロゼウスの背後に立ちこれまで一言も喋らなかった少年だった。
「この人は、ロゼウス兄様じゃないよ」
「え?」
「何?」
 ジャスパーの言葉に、顔を上げたのはアンリとロザリーだった。
 その瞳には必死な光が宿っている。ああ、とシェリダンは思った。彼らは縋っているのだ、一縷の希望に。弟を殺したのが、同じ兄妹であるロゼウスではないことを。
 ひとの心は弱い。ひとではないヴァンピルもどうやら同じらしい。自らの身内が手を汚すことに平然としている者などいない。ドラクルの時には、まだ特殊な事情があった。王位継承権を本人にどうにもできないところで剥奪されて先王を憎んだ、という。けれどロゼウスがウィルを殺す理由などどこにもないのだ。だからこそ彼らは、そうではないことを願っている。
 けれど状況だけ見れば、どう見てもロゼウスがウィルを殺したようにしか見えない。それどころか先程のクルスの問に、彼ははっきりと頷いたのだ。自分が殺した、と。
 では目の前の人物がロゼウスでないというのは、どういうことなのだろう?
「その通りよ。だけど、あなたたちが考えているのとは、少し違うと思う」
 ジャスパーの言葉を、サライが補足するように肯定した。
「……どういうことだ?」
 低い声で尋ねたシェリダンに、サライは変らず悲しげにロゼウスの方を見つめたま説明する。
「彼は確かに、あなたたちの知るロゼウス=ローゼンティアではないわ。けれど、間違いなくそのロゼウス自身でもあるのよ」
「意味がわからない」
「生まれ変わり、って知ってる?」
「ラクリシオン教の教えか? 生憎と私は無宗教者なんだ。宗教なんぞと言う古代人が人心を救いのためだか単なる支配制の助けなんだか知らぬが言いように操るために作り出した体制なぞ興味ない」
「巫女である私の前で神の教えを冒涜しようとはいい度胸ね。あなたと宗教論議を交わしている暇はないわ。だから、これだけ聞いて。生まれ変わりはあるのよ。魂は次の生にまた引き継がれるの」
「とうてい信じられないな」
「でも真実よ――彼は」
 サライはそこで一度言葉を切り、ロゼウスから離れなかった視線を、一瞬だけシェリダンへと向けた。
「彼は、《シェスラート》の生まれ変わりよ」
「そんな人物知らな――」
 言いかけて、ようやくシェリダンも気づいた。
「……ちょっと待て、シェスラートというのは、あのシェスラートか?」
「ええ。私が知っているシェスラートは一人……いいえ。ある意味二人とも呼べるけれど、それだけよ。そしてシェリダン、あなたが何を言いたいのかも予想がつく」
 シェスラート。聞いたことがないなんてものではない。その名には、確かにシェリダンも覚えがある。この世で最も有名でありながら、普通に生活している普段には意識するはずのないその名。
 始皇帝、シェスラート=エヴェルシード。
 けれど、違和感は拭いきれない。目の前のロゼウスの典型的なローゼンティア人の顔立ちと、シェリダンの中での始皇帝シェスラート=エヴェルシードの印象がそぐわないからかもしれない。始皇帝はその名の通り、蒼い髪に橙色の瞳のエヴェルシード人だった。エヴェルシード建国の祖でもあるその男と、目の前のヴァンピルの少年は決して同じ名で呼ばれるはずなどない存在だ。
 だが、生まれ変わりなどというものが本当にあるのだとすれば、人種の違いなど些細なことなのかもしれない。
 それでも、到底信じられないことには変わりはない。
「嘘だろう?」
「本当よ。って言っても、あなたが知っている事情と私が知っている事情は大分違うけれど」
 サライが無情にも断言する。
「ロゼウス=ローゼンティアは、シェスラートの生まれ変わり、ただし――」
 ただし、今度は何なのだ。すでに混乱の極みだというのにまだ何かあるのか。
 ロゼウスもジャスパーもろくに説明する気はないようで、彼らは何をするでもなくその場に立っているだけだ。アンリやロザリーは一応まだ正気は保っている様子だが、ミザリーとエリサは完全な放心状態。この中で一番事態への衝撃度が少ないクルスも、この状態でどう動くのが最適か、読みきれないでいる。
 こんな状況でサライは更に何を伝えてくれようとするのか。思ったものの続きを待つシェリダンの耳に、彼女ではない者の声が届く。
 パキ、と空気に亀裂が入るような音がして、その存在が唐突にその場に姿を現した。しかも彼は、サライの言葉をまるでこれまでの会話を聞いていたかのように引き継ぐ。
「ただし、シェスラートと言うのは歴史に残る皇帝シェスラート=エヴェルシードのことではなく、本来彼の代わりに皇帝になるはずだったシェスラート=ローゼンティアのことだけれど」
 冥府の王ハデスが、全てを知る者の顔でそう告げた。

 ◆◆◆◆◆

 一つだけわからないことがある。
 俺は、あの男を果たして愛していたのかどうか。
 黒い髪、黒い瞳。人間でありながら、強い魔力を持った者を他民族より比較的多く生み出すというその一族。いつしか力を持ちだしてザリュークをはじめ大陸中の国を征服していった、その支配国家の、最後の王。
 俺は、彼に取引によって一族から連れてこられた奴隷だった。あの男の慾望を叶え、その願いを聞いて手を汚す代わりに一族の安寧を得た。少々卑怯な取引だと言う事は俺にも自覚があったし、結果的にそれが何の役にも立たなかったということも、知っている。
 こんなにも自分は無力だったのだと自覚したあの日。あれ以来、俺の運命は変わってしまった。……いや、本当は、彼から引き離されたその瞬間に全てが変わってしまったのだろうけれど。
 ゼルアータ国王ヴァルター。
 変わり者の王だった。一筋縄では測れない男。残酷に見えて、その残酷さには理由があった。その裏に潜む彼の底知れない哀しみについても、大体わかっていた。
 憎み、嫌いきることはできなかったと言ってもいい。立場的には唾棄してやまない敵のはずなのに。愛していたのかどうかはわからない。でも嫌いじゃなかった。それだけは確かだと言える。俺は彼を……。
 ふざけた話。愚かな感傷。遅すぎる後悔。
 彼はもういない。それは当たり前だ。けれど、俺がロゼッテたちと行動していたあの時ですら彼はもういなかった。そう、
俺は死に逝くヴァルターを見捨てて、一人だけ生き残ったのだから。
 ヴァルターではなく、ロゼッテを選んだ。あの男のために、死んでやれなかった。
 約束というのとは少し違うけれど、一緒に果ててやる気くらいあったのにな……。自分でも言葉にならない感情が胸を塞ぐ。
 自分以外の者を救う取引をして城に連れてこられて、その代償に抱かれる。ああ、そう言えばロゼウス、この関係はたぶん、お前とシェリダン王にも似ているよ。

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス=ローゼンティアは、シェスラートの生まれ変わり、ただし――」
 サライの言葉の後を、亀裂の入った大気の隙間から現れた少年が引き継ぐ。
「ただし、シェスラートと言うのは歴史に残る皇帝シェスラート=エヴェルシードのことではなく、本来彼の代わりに皇帝になるはずだったシェスラート=ローゼンティアのことだけれど」
 黒い髪に黒い瞳。相変わらず黒い衣装を身に纏っている。その手には滅多に使わない彼の杖があり、口調はいつも通りだが表情は険しい。
「ハデス!」
 シェリダンは叫んだ。そこにいるのは、見慣れた友人、いや、友人だった男だ。
 黒の末裔と呼ばれる、魔力に突出した人間を多く送り出す一族の裔にして、強大な力を持つ魔術師。その姉であるデメテルにこそ敵うことはないが、それ以外の相手に対しては魔力でハデスが劣ることはない。伊達に冥府の王と呼ばれてはいない。
 その彼が厳しい顔つきをして、ロゼウスを見つめる。
 ロゼウスの肉体に甦ったかつての皇帝候補、シェスラート=ローゼンティアを。
 しかしそんな事情は露知らず、むしろハデスに関してはもっと重要な用件を抱える陣営もここにはいるのである。
「帝国宰相ハデス卿!!」
「おわっ」
 怒髪天の勢いで叫んだのは、ユージーン侯爵クルスだ。
「よくもシェリダン様の前にその顔を出せましたね! 一体どういうつもりなんですか!?」
 この事態も非常事態ではあるが、ウィルのことに関してはクルスはほとんど興味もなければ、手立てもない。そしてヴァンピルは灰にならない以上まだ救える手立てがあるということで、多少楽観視もしている。更に言えばクルスはロゼウスの人格にさほど信頼を置いていないので、そう言った意味での衝撃も他の面々より少ない。
 それよりも彼がシェリダンに忠誠を誓う者として気になるのは、ここに現れた帝国宰相その人がシェリダン罠にかけたという事実の方であった。
 罠にはめられた当の本人であるシェリダンも、厳しい顔をしている。
「ハデス、お前は一体何を考えている?」
 かつての友人に投げる彼の言葉は鋭い。だがその鋭さに一欠けらの曇りがあることも、親しい者であればこそわかる。
 確かにハデスはドラクルたちに協力する素振りを見せ、もとより裏切り者として動いていた。けれど、ミカエラ王子を直接手にかけ、シェリダンにその罪を着せるなど、そこまでやるとは誰も思っていなかったのだ。
甘い考えと言われればそれまでだが、少なくともローゼンティア王家の因縁に絡めとられた形のシェリダンたちの戦いは、国や民をこれ以上巻き込むのではなく、彼ら当事者だけで繰り広げられるものだと思っていた。もっともドラクルが簒奪のためにエヴェルシードにローゼンティアを侵略させた時点で、必要なまでに多くの血は流れてしまっているのだが。
「今のお前が何を考えているのか、私にはわからない」
そのシェリダンの言葉に、ハデスは皮肉に唇を歪めることで答えた。
「今の僕が? じゃあ聞くけど、昔なら君は僕が何を考えていたかわかっていたって言うのか? 今も何も、僕はもともとこの瞬間のために君に近づいたんだよ、シェリダン」
 シェリダンはハデスの瞳を見る。言葉は確かに人の意志と思想を表す鏡だ。だからこそ言葉により人は人の人格を判断する。その言葉には、その人がどんな論理を持ってどんな行動を選んだのかが自然と込められている。
 けれど言葉に表されることがない本当の奥底の感情まで、瞳は表すのだ。
「僕はもともと、君を利用するために近づいたんだ。僕の目的のために」
 怖いくらい透明にハデスの声は澄んでいてそこには真実の響がある。しかしそれと同時に、彼の瞳は悲しげで苦しげだった。
 彼を信じる事はできない。現にハデスはすでにミカエラを手にかけている。けれどその行為がどんな感情の元から行われたものかを、シェリダンに断じることはできない。
 そしてシェリダン自身にも、選ばなければならない道がある。
「……ならばお前は私の敵だ。帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティス」
「ああ。元エヴェルシード国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシード」
 訣別はこんなにも呆気なく訪れる。
 その頃になると、アンリやロザリーもようやく事態に頭が追いついてきた。
「あ……ハデス、卿。あなたが、ミカエラを殺し……」
 気丈に意識を保ちながらもどこか空ろな目をしていたロザリーが、蒼白になりながらもハデスを睨む。
 その視線を、ハデスは並一つない水面のように静かに受けとめる。
 一触即発の緊張状態を、しかし一つの声が破った。
「ゼルアータ人……」
 ポツリと落とすように呟かれた声はロゼウスのものだ。張り詰めた空気の中にそれは響く。全員が一斉に彼を振り向いた。
「黒髪黒い瞳……ヴァルターと同じ……ああ、そうか、お前がロゼウスの記憶の中にある帝国宰相ハデス。今は黒の末裔と呼ぶんだったな」
 何かに納得するようなその仕草は明らかに不自然で、先程の「生まれ変わり」という言葉についてもよくわからないシェリダンにとっては、その反応にどう返していいのかわからない。ハデスはロゼウスの言葉に少し意表を衝かれた様子を見せたが、すぐに表情を引き締めた。
「そう……現皇帝の帝国宰相か」
 口元に指を当てて何事か考え込む様子を見せた後、ロゼウスはあっさりとその言葉を口にした。
「邪魔だな」
 無造作に存在を断じるその一言。
「!」
 次の瞬間、その傍らから飛びだした影が、一直線にハデスへと斬りかかった。

 ◆◆◆◆◆

 剣戟の音が響き渡る。
「くっ」
 正確には、それは剣と剣の打ち合いではない。一方は金属製の杖だ。目にも止まらぬ速さで斬りかかって来たジャスパーの一撃を、ハデスが受けとめる。
「ジャスパー!」
「ハデス!」
それぞれの名を、誰かが叫ぶ。事態はここに来て混乱の頂点に達したようだ。先程からミカエラの処刑、ロゼウスによるウィル殺害、ロゼウスが皇帝シェスラートの生まれ変わりというものであるとの話。これ以上驚くことなんて他にあるかという経験ばかりを積んでいるのに、その上が更にあるとは。
これまでほとんど喋らなかったジャスパー。ローゼンティア第六王子。今年で十四歳の彼は、少女めいた面差しと言われるロゼウスよりも更に儚げな顔立ちをしている。髪につけた飾りの宝石が特徴で、体つきはまだ幼いだけあってぱっと見には年頃の少女と区別がつかない。
 しかしその剣の腕はなかなかのものだった。これが剣豪と呼んで差し支えのない腕前であるロゼウスやシェリダン、剣聖とすら呼ばれるクルス相手ではまた違ったろうが、普段は肉体の酷使より魔術を使うことが多く護身術は人並み程度にしか身につけていないハデスを相手するのには充分だ。
 断っておくならば、ハデスも決して弱くはない。何せ見た目こそ十六歳の少年だが、帝国宰相として生きてきた年月が違う。少年姿のこの時はまだしも、彼は大人の男性に姿を変えることもできるので、その時であればジャスパーに負けはしないだろう。
「この! 調子に乗るな!」
「それは、あなたの方だと思いますが」
 はっきりと苛立たしげな顔をするハデスに対し、ジャスパーは淡々と返す。ヴァンピルの少年は、感情がまるで抜け落ちてしまったかのように表情がない。
「人間風情、それも後は衰退してゆくだけの皇帝の選定者が、僕に勝てるとお思いですか?」
「お前ッ!」
 ジャスパーの挑発の言葉に、ハデスが激昂してますます手を強める。剣のように斬ることはできずとも、金属製の杖は充分な攻撃力がある。打ちかかってくるその手を受けとめながら、それでもまだジャスパーは無表情だった。
「ね、ねぇ、兄様……姉様……」
 ローゼンティアの王族兄妹たちは、もはやこの状況にどう動いていいのかわからなくなってしまっている。ジャスパーは確かに兄弟で、帝国宰相ハデスは同じく兄弟の一人ミカエラを殺した敵。けれどロゼウスがウィルを害した事実も忘れてはならず、ジャスパーはそのロゼウスに与する人間だ。どちらを助けていいものかわからない。ジャスパーを助けたい気持ちはあるのだが、目まぐるしく動く事態に、足が地に縫い付けられたように動かなかった。
 そして不本意ながらも状況を傍目で見る方にばかり回ってしまった彼らは、不意に気づく。
「ジャスパー、様子がおかしくない?」
 ロザリーがアンリとミザリーに尋ねる。アンリは微かに顔を上げたが、ミザリーは反応しない。すっかり理性を失ってしまっている。ミカエラを特に可愛がっていた彼女にとっては、もう全ての出来事がどうでもいいのかもしれない。ウィルが一時的とはいえ殺されてしまったエリサも同様だ。
 けれど彼女ほど全てを捨ててしまえないアンリとロザリーは、ジャスパーの様子を見ていてそれに気づいた。
「ジャスパー……」
「おかしいよ。最近確かにいつもちょっとずつおかしかったけど、あれはおかしい」
 表情が違う。態度が違う。気弱で剣さばきもどこか相手に対して遠慮があったはずのジャスパーが、あんなに人を傷つけることに躊躇いなく剣を振るう姿なんて、国にいた頃は想像もできなかった。
「ロザリー?」
「シェリダン、ねぇ、聞いて。ジャスパーがおかしいの。それに、ロゼウスだって」
「ああ……第六王子のことはともかく、ロゼウスのことは私もそう感じている。だが」
 ロザリーの言葉を受けて、シェリダンはちらりとサライに視線を送った。しかしその視線に気づいているだろうに銀髪の美少女は、悲しげな表情をしたままこれ以上の事態の説明をする気はないようだった。
 ロゼウスが始皇帝の生まれ変わり、いや、後にハデスが言った言葉も含めて考えれば、もっと複雑な運命の中の住人であるらしい。それはすでに聞いたが、この事態は本当にそれだけなのだろうか。そう言った疑問がシェリダンの中に浮かぶ。
 ジャスパーのことについて、シェリダンはそれほどよくは知らない。だがかつてエヴェルシードの奴隷市場で買い上げ、王城に連れ帰ってきた時にわかった。彼のロゼウスのへの執着具合。それは確かに、弟が兄に向けるものを越えていた。だからこそシェリダンは当面の敵であるドラクルと得体の知れない威圧感を漂わせるルースを除けば、ジャスパーをローゼンティア王族兄妹の中で最も警戒していたのだ。
 この子どもは、放っておけば何をやりだすかわからない。
 しかし今のジャスパーには、あの時感じたのとはまた別の怖さがある。あの時は小さな竜巻のような威勢を自分に対して恨み罵る声をあげるジャスパーに感じたものだが、今の彼は嵐の前のようにひたすら静かだ。
 それが恐ろしい。
「シェリダン様、僕たちはどうしますか?」
 放心状態で動く様子のないエリサを放して、クルスがシェリダンの元へと近づいてきた。ジャスパーとハデスの戦いはまだ続いているし、ロゼウスはそれを傍観している。ローゼンティアの王族兄妹はほとんどが使い物にならないし、サライは厳密には敵か味方かも不明だ。
 行動を起こせるとしたら、シェリダンとクルスの二人しかいない。
「……私たちには、知らないことが多すぎる」
「ええ」
「できれば、事態を把握するためにハデスは生かして捕らえたい。ロゼウスも今はわけのわからぬ様子だが……殺すな」
 ハデスのことははっきりと敵対関係が明らかになったが、ロゼウスに関してはまだウィル殺しの理由を何も聞いていない。あの不自然な態度に関しても。一度情報を全て整理するためには、ハデスもロゼウスも生きて捕らえる必要があるだろう。
 もっとも、そんな言い訳を作らなくとも、シェリダンにロゼウスをここで殺すなどという選択肢がとれるはずはない。
「はい。ジャスパー王子は?」
「……あのロゼウスは何を言う気もないようだから、情報を聞くならジャスパーの方がいいのだろうな。だが、無理だと思うなら生け捕りは諦めろ」
「――了解しました」
 いつも穏やかな風貌のクルスが、人の良い貴族の青年から一転して王命に従う冷徹な部下の顔になった。その彼と簡単に機を測って、シェリダンたちは動き出そうとする。目標はロゼウスとハデスの捕獲。
 しかし二人が動き出す前に、事態にまたもや変化が訪れた。
 剣と杖で打ち合っていたジャスパーとハデスの戦いは、両者ともに相手に決定打を加えられないことから長引いていた。
ハデスの得物は杖なので、相手にそれなりの負荷を与えるには攻撃を直撃させなければ意味がない。だが、身の軽いジャスパーはそれを悉く避けていた。一方そのジャスパーの身の軽いという長所は弱点ともなりうる。体重の軽さゆえに攻撃に威力が加わらないジャスパーの剣の一撃では、ハデスの杖を斬ることも、得物を弾き飛ばすこともできないのだ。ヴァンピルと人間という差はあるが、その差はハデスの魔術で多少埋められる。
 膠着状態に陥る戦況を打破したのは、それに関しては年の功というべきか、ハデスの方だった。
「!」
 ハデスが杖の手元を捻ると、その先端から刃が現れた。仕込み杖だったというわけだ。直前で刃に気づいたジャスパーがそれを跳ね上げるようにして一撃を喰らわせた後、追撃されないよう後方に距離をとる。
 血が流れた。
「最初からこれが狙いだったんですか?」
 ジャスパーの能面のようだった表情にここで初めて苛立ちが表れた。腰の辺りを斬られた彼の肌に紅い痕。一見傷に見えたそれが、そうではないことに一拍遅れて周囲は気づく。ハデスによって斬られた傷自体はジャスパーにとっては浅いものらしく、すぐに癒えて消えてしまった。だがその腰に刻印されたような紅い痕は消えない。
 そして彼に攻撃を仕掛けたハデスの方も、ジャスパーの剣に右腕の辺りを切られていた。薄く肌が切れてその傷も残っているが、彼の腕にも同じような痕が見える。
「え……」
「なんだ、あれは……」
 見慣れぬそれに驚いて、彼らを捕らえようとしていたシェリダンとクルスはその動きを止める。ジャスパーとハデスはお互いに睨み合っていた。その紅い刻印を。
 まるで肌を刻んで描いたかのように紅い紋様。細部は違うのに、全体的によく似たその図形。
 それは――。
「選定紋章印」
 サライが告げた。
「皇帝となるべき者を選出する、それが唯一の資格よ」
 選定者は皇帝のために生まれる。
 そして一つの時代に、選定者が二人存在する事はない。


178

 選定者は皇帝のために生まれ皇帝のために死ぬ。
 一つの時代に選定者が二人存在することはなく、けれどここにこうして、証である選定紋章印をもつ者が二人存在する。
 それは即ち、皇帝の代替わりを示す。
「え……ええ?」
 今上帝はハデスの姉デメテルであり、ハデスは彼女の選定者だ。そしてジャスパーが同じ証を持つということは、彼が選んだ者が次の皇帝と言うことだ。
 現皇帝の、デメテル帝の時代が終わる。
 そんなことは、この世界の誰もが予想していなかったことだろう。
「あれが、選定紋章印……」
 選定者は普通、皇帝の身内から生まれると言われている。若干の例外はあるが、大概は皇帝の家族が選定者となる。これは、絶対に裏切らない者だと言う前提から成り立っているらしい。どの程度の近親かはともかく、家族から選定者が生まれる場合は多い。もっとも生まれるとは言っても、地上に誕生したその瞬間から選定者の宿命を背負っているわけではなく、また皇帝もそう定められて生まれてくるわけではない。
 あくまでもその皇帝候補、選定者候補がどういう人物であるかが重要だ。皇帝の選定とは明らかに後天的なものである。
 だから今回の事態も、結果を纏めれば全てが「偶然」で括られる出来事なのだろう。
 しかしそれにしては、タチが悪い。
 ジャスパーに斬られた右腕に素早く治癒の魔術をかけながら、ハデスはこの場にいる人物の中、ただ一人を睨んだ。自分を斬りつけたジャスパーではない。同じ選定者の立場にあるこの少年も憎いが、それ以上の憎悪が彼の中には存在する。
「選定者は皇帝のために生まれ、皇帝のために死ぬ」
 代替わりは、前任の皇帝と選定者の死を示す。
「だから、同時代に二人の選定者はいない」
 ジャスパーはいまだ選定者ではない。ハデスの右腕にかなり薄くなっているとはいえ、まだ選定紋章印は残っている。それが完全に消えたとき、彼は選定者の資格を失いジャスパーがその後を引き継ぐ。
 そしてその瞬間は、とりもなおさず現皇帝デメテルの死と、次代皇帝誕生のその時だ。
「次の皇帝が誕生した時、僕は死ぬ。選定者は皇帝に殉じる生き物だから」
 だからハデスはこれまで画策していたのだ。
 死にたくないから。
 険しい目つきでハデスはその人物を睨み、指をさした。あたかも選定者が皇帝を選ぶかのような光景だが、役者が少し違う。ハデスはあくまでも彼の前の皇帝の選定者。
 ハデスにとって、彼は憎んでやまない存在だった。自らを、そして姉を、死においやる存在なのだから。
 この場にいるハデスとサライ、そして次代皇帝と選定者当人を除く全員が皇帝の代替わりと呼ばれるその事象に対して驚愕を露にしているのは訳がある。皇帝の代替わりとは、本来その皇帝の力が衰えた時に発生するものだからだ。
 力、というものが何を示すのかは定かではない。実際、表向きには問題なく世界を治めているように見えた皇帝でも突然資格を剥奪されて崩御した先例はある。けれどそういう人物は影で道に外れた行いをしていたという報告もある。そしてそうでない皇帝たちは、大概が傍目にもわかるほど統治能力を失い、その衰えを世界にそれとなく知らしめて自然と崩御の流れになるのだ。
 結局どうあがいても老いと言うものから人はのがれられないと言う事なのか。皇帝には不老不死が与えられるが、それでも精神まで若々しいままでいられるものは少ない。皇帝がその皇帝たる資格を失って人間性を失った時に代替わりは行われる。たいていは悪法を乱発したり自らの欲望のままの行動を行い、その頽廃ぶりが誰の目にも火を見るより明らかとなってから新皇帝への代替わりは起こる。
 しかし。
「デメテル帝が、もう代替わり?」
 第三十二代大地皇帝デメテル。彼女は即位してまだ百年程度の皇帝だ。その治世は短くもないが、長すぎるということはない。そして問題なのが、彼女が今すぐ退位になるようなことを何もしていない点だ。
 内部事情こそ知らないとはいえ、デメテル帝が平生どのような人物かについて、特に問題のある噂は聞かれなかった。皇帝と言っても所詮人間であるし、もともと皇帝となるような人材は変人ばかりで多少のことなら見逃される。デメテルに関して囁かれるのは、せいぜい実弟であるハデスを選定者として、そして愛人として囲っているくらいだ。
 その彼女を代替わりさせる要因。
 それこそ、ハデスが次代皇帝を憎んでやまない要素でもある。魔術一族《黒の末裔》の出である、能力的にも歴代最高の力を持つデメテルがすでに代替わりを迎える理由。
 それは、現れてしまったからだ。
 彼女よりも力を持つ皇帝が。
 ――憎い。
「いい度胸だな。ひとを指さしちゃいけないって、お姉様から教えられなかったのか? ハデス」
 指さしたハデスの厳しい視線の先で、彼は笑う。本来彼のものではない記憶と能力をいいように使って引き出した情報でからかいを口にする。
 その笑みはハデスが自身の予言能力で見たものとは多少異なっている。これまでの関わりで、少しずつ運命は捻じ曲げられている。だけど、足りない。まだ足りない。
「ひと? お前がひとだとは知らなかった。ただの薄汚い魔族だろ?」
 ハデスは全ての憎悪をもって、その相手をねめつける。
 お前さえ、お前さえいなければよかったのだ。その身は荊の墓標。ドラクルが彼を憎んだ理由がよくわかる。
 自分ではなく、他者にあらゆる死と破滅をもたらす運命の存在。
 後天的に選ばれるべき皇帝でありながら、その能力値と宿命だけは生まれながらに基準を満たしていた者。
 そしてこれから、皇帝になる最後の要件を満たそうという者。
 ――憎い。
 その身に与えられる名は「薔薇」
 薔薇の皇帝。

「第三十三代皇帝、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」

 時が、止まる。
「え?」
「な、何を……」
 シェリダンも、クルスも、アンリもロザリーも。
 頭がついていかない。
 そんな彼らを哀しそうにサライが見ている。全てを知っているような彼女のその目を、シェリダンはどこかで見た事があると思った。決して消えない哀しみを湛えた目。
「サライ……」
 彼女はハデスの言葉を肯定する。
「ええ。その通りよ」
 ジャスパーが剣を腰の鞘に戻した。その彼を背後に控え、次代皇帝は不敵に笑う。
 ただの旅装束とそれに相応しいマント。それだけ。金糸銀糸の刺繍も宝石もない。なのに、何故か必要以上に堂々として威厳があるように見える。
さらさらと風になびく白銀の髪。嫣然と細められたのは鳩の血色の極上の深紅の瞳。笑う顔立ちはロゼウスのもの。けれど表情はロゼウスとは違う。
 今ロゼウスの中にいるのは誰だ? 
 あるいはそれこそが、次の皇帝だとでもいうのか?
 わからない。何も、わからない。
 シェリダンはただロゼウスを見つめた。そのシェリダンをちらりと一瞥して、ハデスはロゼウスを再び睨みつける。再びというより、もはやハデスはロゼウスに対しては睨みつけることしかしていないが。
 ――ああ、憎い、彼が。
 この世界を支配せしめ、そして世界から全てを奪うはずの皇帝。
 お前など。
「消えてしまえ!!」
 叫んだハデスの掌から生まれた光が、次の瞬間恐ろしい熱量の塊となって辺りを襲った。

 ◆◆◆◆◆

 不意打ち。
「うわぁああ!!」
「きゃあ!」
 ハデスの掌から放たれた光の球はまっすぐにロゼウスを狙っていた。しかし、周りにいる者たちもその爆発の影響は受ける。
「ちっ」
 シェリダンとクルスは咄嗟の判断で、ロゼウスやジャスパーの捕獲を断念してハデスの攻撃から周囲の者を庇い身を伏せた。シェリダンはロザリーを、クルスはエリサを、ミザリーに関してはアンリがいまだ抱え込んで護っている状況であるし、サライにはそんな守護など必要ないようだった。
「サライ、お前……」
 爆風から身を庇った様子もないのに、かすり傷一つ負っていない巫女姫をシェリダンは見上げる。攻撃に備えて殆どの者が伏せている間も、彼女は微動だにせずもとの位置に立っていた。
「言ったはずよ。私はすでに死んでいるのだと」
 平然とした表情の彼女をなんとも言えない面持ちで眺めていたのだが、続く第二撃の破壊音に振り返った。
「ロゼウス!」
 ハデスはいつの間にかその手に黒い剣を持っていた。明らかにこの地上に存在するものではないその材質は、魔力で作り上げたらしい。それを持って、彼はロゼウスに斬りかかっている。
 しかし、ロゼウス自身は得物を抜いていない。彼は素手でハデスの剣を受けとめていた。
 黒い刃を撫でるように添えられた白い指。
 絵画的なまでに美しく、悪魔的なほどに残酷だ。
「くっ!」
 ロゼウスが剣を止めているのとは逆の腕を上げたのを見て取り、ハデスは自ら刃をなぎ払うようにして後方へと跳ぶ。ロゼウスから距離をとって、剣を構えなおす。
 無駄のない動きで地を蹴り、渾身の力を持って刃を叩きつける。全てが受けとめられ、せめて反撃されぬようにと素早く距離をとり、離れては詰めて。
 剣豪と呼ばれるほどではないが、ハデスも相当な使い手だ。手合わせをした事のあるシェリダンもそれは知っている。
 けれど、今のロゼウスとでは、素手と剣ですら相手にならない。
 明らかにハデスの分が悪い事が、シェリダンにもわかった。
 彼自身に問題があるというより、相手が悪い。サライによって『シェスラート』と呼ばれた今のロゼウスは、剣を振るっていてもその感情が全く顔に表れないのだ。何を考えているのか、さっぱりわからない。真剣に闘っているようにも見えない。だから次の手が読めず、一度でも捕まれば何を仕掛けてくるかわからない。
 だからこそハデスは必要に応じて距離を詰める他は、離れてその攻撃をかわすことに注意を置いていたのだが。
「もういいだろう」
 それまで戦っている間、恐ろしいまでに無表情だったロゼウスがようやく表情らしきものを浮かべる。
 人形めいた面差しが一気に人間らしくなる。呆れたようなその顔。
「――え?」
 次の瞬間には、すでに勝敗は決していた。ハデスはいつの間にか地面に叩きつけられ、首根っこを押さえ込まれている。
「ハデス!」
 思わず、敵だということ、彼が自分をはめたのだと言う事も忘れてシェリダンは叫んだ。
「ぐ……う、ぅう」
 一度は地面に引きずり倒したハデスを、ロゼウスは片腕一本で今度は首の根を掴んだまま持ち上げた。首吊りと首骨折の両方の危険の只中にあるハデスは、必死にもがいてロゼウスの腕を外そうとするが、うまくいかない。
 そうたくましくもないロゼウスの腕が軽々とハデスを地面に足が届かない位置まで吊り上げ、苦しめる。骨にかかる負担も尋常ではない。
「か、はっ……!」
 みしみしと嫌な音がする。引きつれた皮膚に皺が刻まれ、ロゼウスの爪で傷つけられた肌は血を流す。視界は赤と青と黒のまるで雷が交互に音をさせずに光っているように明滅し、息ができない。舌を出してハデスは喘ぐが、ロゼウスが手を離す気配はない。口の端から唾液が零れて顎を伝う。
「もう、いいだろう?」
 先程と同じ台詞を、ロゼウスは今度は、殊更に抑揚をつけて繰り返す。
「先代の選定者だかなんだか知らないが、俺はお前などどうでもいい。お前がなんでロゼウスを目の仇にしているのかはよくわからないが、ロゼウスの敵なら多分俺にとっても敵なんだろうな」
 だから。
 囁いた唇がにぃ、と酷薄な笑みを刻むのと同時に、ハデスがそれまで苦しげに細めていた瞳をカッと見開く。
 そして同時に、ロゼウスがその首を掴む手に力を込めたのがわかった。
「――ッ!?」
 声にならない断末魔を聞いて、シェリダンが叫ぶ。二人の元に駆け寄ろうとするが、ジャスパーに阻まれた。
 あくまでもロゼウスの邪魔はさせまいとする少年と取っ組み合いになりながらも、声だけでも、とシェリダンは叫ぶ。
「やめろロゼウス!! ハデスを殺す気か!? 何のためにそんなことをするんだ!」
 それまでシェリダンの存在を意にも介していないように見えたロゼウスが、この時初めて反応した。
「……っ」
 虫の息のハデスをその手から離すと、ロゼウスは視線をシェリダンの方に向けた。その右手は血に濡れている。ハデスの血だ。だが、そんなものどうでもいいような様子で、彼はただシェリダンだけを見つめる。
「何のために?」
 冷ややかな――ただ冷ややかな眼差し。紅く凍てつく瞳。
「決まっている。邪魔が入らないようにするため」
 ロゼウスは最初から、ハデスのことなど気にも留めていなかったのだとわかる、そのあっさりとした態度。
 シェリダンを押さえ込んでいたジャスパーが離れた。抵抗がなくなり、しかしシェリダンはそれに気づかない。ただロゼウスだけと相対する。他の誰の存在ももう目に入らない。紅い視線に串刺しにされ、その場に縫いとめられる。
 時が止まったようだった。先程ロゼウスが次の皇帝だと知らされた時とはまた違う感覚。
 これまでシェリダンはまるで、自分の存在をロゼウスが全く気にしていないのだと思っていた。シェスラート、という古代の皇帝と同じ名の人物がどうのこうのと言われている今のロゼウスの、自分に対する態度はあまりにも無関心に見えた。それにサライのように生まれ変わりだの、始皇帝だのと関わりが深くないただの人間である自分には、話がさっぱり見えてこない。
 けれど違う。そうではないことにようやく気づく。
 無関心どころか、無関係どころか、ロゼウスの視線は真っ直ぐにシェリダンを見つめている。これ以上はないと言うその強さで。彼の目的は、他の誰かではなく最初からシェリダンだったのだ。
「ロゼウス……」
「誰にも邪魔されたくないんだよ。お前と話すときには」
 ひたりとこちらを見据えるロゼウスの眼差しに込められた感情の意味。彼以外の他の誰かからそんな視線を向けられるのは慣れていた。けれどロゼウスから、シェリダンはこんなにも強くその感情を向けられたことはない。
 そう、ローゼンティアを滅ぼしたその日でさえ、ロゼウスからこんなにも強い憎しみを向けられたことはない。
 その憎悪の瞳の強さのまま、彼は艶やかに唇を吊り上げるのだ。
「今度こそ――お前を殺してあげる」
 シェリダンの背筋に、ぞくりと痺れが走った。恐れ? 不安? それとも……。
 どくん、と心臓が一つ鼓動を打つ。何かに応えるかのように。
炎に引き付けられる羽虫のように、思わず一歩を踏み出したその時だった。
「「シェリダン様!」」
「陛下!」
 三つの声が彼を呼んだ。その内の二つは、完璧に息が合っている。どれもよく聞き覚えのある声だ。
「エチエンヌ! ローラ! リチャード!」
 あのエヴェルシード王城での混乱の最中別れたまま久しく顔を見ていなかった部下たち。突如としてこの空間に現れた彼らにその場の人々が気をとられている隙に、黒い影が動く。
「お前!」
 ロゼウスの苛立ちを含んだ声に反応して再び視線を戻せば、彼は背後を睨んでいた。先程打ち捨てた瀕死のハデスの傍らに、彼を抱きかかえるようにして一人の女性がいる。長い黒髪に黒い瞳で、その面差しはハデスによく似ている。
「大地皇帝!」
「この場は退くわよ」
 事態を把握などする暇もない。
彼女のその言葉と同時に、シェリダンたち一同はロゼウスの前から忽然と姿を消した。

 ◆◆◆◆◆

 未来を知るということは、幸せなことなのであろうか?
 ハデスはその謎について、よく考える。そして、何度でも同じ答を出す。
 絶対に、良いに決まっている。その方が幸せに決まっているのだ。
 だから彼は夢を見る。所謂予知夢。彼の予言能力の根源となる、未来の事象を知る術だ。
 未来を《見る》と一口に言ってもその方法は術者によって異なる。この先に起こる光景を映像情報として見ることのできるハデスにとっては確かに《見る》であるが、他の術者にとってはそうでないかも知れない。
 例えばハデスの能力にしても不完全なもので、彼の場合映像情報を見る事はできるのだが、それに音声が伴わない。なので、時折一連の光景を全て目にしても、そこに音声が伴わないために事態の経緯がさっぱり理解できないことがある。
 そういったときには、その未来映像に出てくる人物がどこの誰であるか、どのような状況に置かれているどんな性格かなど把握し、映像に出てくる人々の唇を読んだりして何とか切れ切れに情報を集めるのだ。そこには大層な努力が必要とされるのだが、彼のその影の汗に気づく者は少ない。
 その原因はハデス自身というよりも、彼の姉である今上帝、大地皇帝デメテルの負うところが大きかった。何しろアケロンティスにおいて皇帝は全知全能の存在だ。彼女が指を一振りするだけで世界の全ての事象が意のままに動く様を見慣れているその家臣たちは、ハデスの能力をさして優れたるものだとは思わなかったらしい。
 それでも、それは皇帝となったデメテルが特別なだけであって、ハデスが無能かと言えばそういうことではないのだ。むしろ、彼は相当の努力を代償に一般的な黒の末裔でも滅多に届くことのない領域にまで到達している希代の魔術師だ。
 しかし、この黒の末裔という存在がまた曲者だった。
 世界《アケロンティス》帝国に存在する三つの大陸。そのうちの一つは皇帝領薔薇大陸、もう二つが普通の人々の国家が存在する大陸で、北にシュルト大陸、南にバロック大陸が位置する。
 三千年ほど前、後の世に神聖悲劇と呼ばれる大戦が起こった。大戦として語られるそれの実態は、革命戦争だと言う。
 シュルト大陸は皇歴三〇〇三年の現在において九つの国に分かれているが、皇歴が定められる以前はほぼ一つの国が大陸を牛耳っていた。その国の名はゼルアータ王国。彼らは黒い髪に黒い瞳を持ち、その民には魔力を持つ者が多かった。
 魔力を持つとは言ってもまさか民の全員が全員そんな優れた才能を持っているわけでもなく、何もできない者も多かったのだが、それでも魔術と呼ばれるような力とは通常縁のない人々にとっては驚異だった。ただそこに存在するだけであれば何ら害のないようなそれを、優れた支配者が上手く使えば尚更だ。
 もともとの王の技量と魔術の力により、黒の民ゼルアータはかつてシュルト大陸のほぼ全域を支配した。彼ら自身シュルトでもバロックでもないどこか別の土地からやって来た移民だという言い伝えもあるが、定かではない。世界が神の力により皇帝の支配する帝国とされた時に、それ以前の時代に関する書物の一切が焼かれ、文化的なものも長きに渡った革命戦争とそれ以前のゼルアータ支配下での忍従の暮らしから解放された民衆の歓喜と興奮と強欲と憎悪の中で失われていったのだ。戦争が起これば敵対国やその属国を訪れた兵士が略奪を行うのは当然のことであり、ゼルアータ人は国の権力者は残らず殺害され、見逃された民も全てを奪われて大陸を追われた。
 曰く、このシュルト大陸にもはやお前たちの居場所はない、と。
 そこで、全てを失ったゼルアータ人はシュルト大陸を追い出されてバロック大陸の端の端、最東端の気候的に最も厳しい土地へと移り住んだ。しかし一つの大陸で栄華と同時に暴虐を極めた異能の力を持つ集団に対し世界は優しくない。バロック大陸に移り住んだ彼らを待つのは、迫害の道であった。
 自業自得なのかもしれない。当然のことなのかもしれない。他者を虐げその血を啜ってきた一族にはお似合いの末路と言えばそうだろう。しかしその罪科は、その時代に他民族を迫害した当人たちが負うべきではあっても、そんな事実の全てが遥か時の彼方に忘れ去られようとしている今現在の元ゼルアータ人……黒の民が負うべきことではないはずだ。
 はじまりこそ自分たちを虐げた民族に対するシュルト大陸の民衆の復讐であったその蔑視は、三千年と言う長い年月を経ていつしかその性質を変化させた。それも、良い方ではなく悪い方へ。
 黒の末裔に対する蔑視は、いつしか彼らの行状ではなく、その得意な能力の方へと向けられるようになったのだ。黒の末裔は世界で最も多くの魔術師を輩出する民族。彼らに対する偏見の眼は厳しく、強い。
 かつては世界の繁栄を意味した《黒》というその名も、ほとんど奪い取られてしまった。黒の末裔の黒はもはや意味をなくし、シュルト大陸においてはゼルアータの滅亡、帝制成立後に建国されたセルヴォルファスが黒の国と呼ばれているほどだ。
 黒の末裔、それはもはや世界においては差別の対象にしかならない。だが魔術師の能力は確かに一定の階級以上の人々の役には立ち、彼ら権力者に取り入るように黒の末裔は汚れ仕事に手を染めることをほとんど生業のようにして生きてきた。なんでもした。なんでも請け負った。
 それでも彼らの国を滅ぼした存在の象徴である《皇帝》がこの地上を収めている限り、決して自身が権力を握る立場にはつけない黒の末裔。
 しかしその均衡を、一人の少女が崩す。
 世界の常識が覆された理由は、彼女の父親に選定紋章印が現れたことだ。選定者は身内から生まれる。少女は父に選ばれて皇帝となった。
 それが第三十二代皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。
 皇帝にも向き不向きというものはあるのだが、どうやら魔術師と皇帝の力は近いらしい。皇帝は必ず魔術を使えるようになるというのだから当然ではあるのだろう。それらの事情も幸いして、もともと魔術的な才能に優れていたデメテルは歴代の皇帝の中でも最強と呼ばれる力を手に入れた。
 決して表立って権力を握ることができない、旧ゼルアータ人という立場でありながら。
 かつて始皇帝と呼ばれたシェスラート=エヴェルシードが滅ぼした国の民の血を引く者が、今は最強の皇帝となっている。そんな馬鹿なことがあるものかと、落ち着かなかったのは周囲の方だった。
 皇帝を選ぶのは選定者だが、その選定者を定めるのは神の意志。皇帝の所業に対して滅多なことでは家臣は口を挟めはしないし、何よりデメテルはあらゆる意味で強い。
 魔術師として戦闘力にも知識にも優れ、政治的な思惑に関しては感情を全く読み取らせない。服飾品や美食にさほど興味があるわけでもなく、特に趣味と言えるものもない。おまけに男にもなびかない。彼女に取り入りたい相手にとっては全く隙のない厄介な相手であり、彼女を煙たく思う相手にとっては忌々しいことこの上ない相手である。
 もっとも神もそんな彼女だからこそ皇帝に選んだのであろうが、人の感情とはそう素直に納得の行かない現状を受け入れたりはしないものだ。
 そして彼ら、デメテルに取り入り媚を売りたい輩にしろ、黒の末裔としての彼女を蔑む輩にしろ、皇帝の周囲に集う者たちが最終的に辿り着くのが彼女の弟であった。
ハデス=レーテ=アケロンティス。
 皇帝デメテルの実弟にして、その愛人としても知られている帝国宰相。そして、今では大地皇帝の選定者でもある。
 彼の運命は、生まれたその瞬間から、いや、生まれる前から姉であるデメテルの手の内にあった。彼女が望み彼女のために生まれてきた彼女の弟。父親の腕から紋章の入った皮膚を剥いでそれを弟の腕に移植した皇帝はその後両親を殺害する。彼の出生の理由も彼の選定者、愛人、帝国宰相という身分や待遇も、周囲は歓迎しなかった。むしろ他のことについては常人には真意の読み取れない笑顔でそつなくこなすデメテルに関して、それだけは明らかな失策と周りの者たちは考えている。
 その苛立ちの捌け口となるのは、彼らが逆らえない皇帝デメテルではなく、彼女によってこの世に存在させられ全ての身分と立場を与えられたハデスだった。選定者であることはもちろん、帝国宰相につけられたことも贔屓だと周囲の者たちは口さがない。そして、それは事実でもある。
 そんな環境で育ち、ハデスが何を考えると思うのか。誰だとてすぐにわかるはずだ。到底幸せには程遠いだろうと。けれどハデス自身にはどうしようもない。自分に最も合っている魔術の才すらどんなに磨いたところでデメテルに届かない。彼女に叛意を持つ者にしろ、従順故にその存在に完璧性を求める者にしろ、全てのデメテルに翻弄される人間たちの中で、もっとも彼女に支配されているのは、他の誰でもないハデスなのだ。
 だから彼は答える。
 未来を知るということは、幸せなことなのであろうか?
 ハデスはその謎について、よく考える。そして、何度でも同じ答を出す。
 絶対に、良いに決まっている。その方が幸せに決まっているのだ。
 未来さえわかっていれば、こんな目に遭わずに済んだ。何もかもを知り引き返せないところまで来る前に、逃出すこともできたのに、と。
 古代の神話がある。人が未来を知りすぎるとろくなことがないという教訓話。確かに先の出来事を知りすぎれば人は未来に希望を持てなくなる。先にある絶望を知ってしまえば生きていけなくなる。だから未来を知るということは、一概に幸せとは言い切れない。
 けれど、それでもとハデスは思う。
 あの時にこうなることがわかっていれば、必ず逃出したのに。予言の能力を僅かなりとも手に入れてから思った。あの時に、あの時にこの力があれば最悪の事態を回避できた。こんなことにはならなかったはずなのに。
 だからハデスは今日では《預言者》と呼ばれるほどに予知能力を鍛えた。手に入れるためにあらゆる代償を支払い、力を手に入れた。そして惜しみなくそれを使う。一秒前の未来でさえ見たい。知る事は知らないことより幸せなのだと、そう信じて疑わない。
 二度と間違わないようにと手に入れた力で、彼はその中に白銀の髪に紅い瞳の少年を見る。彼が自分に仇なすものだから殺そうとした。でも敵わない。
 瀕死の身体に遠くなる意識。遠くで声が聞こえる。

「ハデス!」

 黒髪の、黒い瞳の皇帝は自らに叛意を持つ弟をさも当たり前のように助けに来る。
 いつだってハデスを支配してやまないのはただ一人。何度も繰り返し見た夢も、吸血鬼の少年と炎の少年を通して結局は彼女へと繋がる。
 姉さん。
 あの時は、あの時までは、確かにあなたが好きだった。

 未来を知るということは、幸せなことであろうか?