170

 黒い城。黒曜石を削りだして作られたような城。ぴかぴかに磨かれた床が鏡のように彼の姿を映す。ローゼンティアのヴァンピルは肌も髪も白いからこそ、この黒い床や城の中で一際その存在が映えるのだ。
 王城へこうして足を踏み入れるのは初めてではない。
「どうした? 《――》」
 その人が自分の名を呼ぶ。血塗られた手で奪い取った玉座に座し、優雅に微笑を浮かべながら。
 彼の前で立ち止まる。膝を折って頭を下げ、忠誠を尽くす姿勢となる。
「ドラクル=ヴラディスラフ大公」
 国王の椅子に座っている人をわざと本来の立場たるその名で呼ぶと、きつい視線が俯く自分のうなじに返ってきた。咎めるようなその眼差しは、けれど他にその言葉を聞く人間がこの場にはいないことで緩和されている。
「一体何を考えている? 《――》。他の者がいないからまだしも、誰かに聞かれたらどうするつもりだ?」
「その時はその時かと。ドラクル=ヴラディスラフ大公閣下。私にとって、あなたはいつもそうでした」
 この言葉に嘘はない。私はいつだって、嘘などつかないよ。つきたくないからこそ誤魔化しを重ね、嘘をついたわけではないから、真実を明かす機会さえ失ったけれど。
 それでも、私の《本当》は確かにここにあった。
 兄上。ドラクル兄さん、私にとってはいつだって、あなたこそが大公爵位を継ぐべき存在でした。
「私がヴラディスラフ大公? 馬鹿を言うな。その称号は、爵位は、もともとはお前が継ぐはずだったものだろう? お前にとって、私がそうなることは目障りだったはずなのではないか?」
 自分たちは同じ女の胎から生れた兄弟だ。それが我が父たちの愚かな策略と不和による敵対関係に巻き込まれたために、こんな歪な関係となった。
 兄であるドラクルはその出生を偽られ、ローゼンティア王家の第一王子として育てられ、彼はヴラディスラフ大公爵の嫡子として扱われた。けれど、彼は自らがもともと不要な存在であることを知っていた。父はよく王城の様子を眺めながら言ったものだ。あの王子様が、お前の兄なんだよ、と。
 その言葉の本当の重みを知ったのは、情けなくもつい最近の話。
 ドラクルが、この国の王ブラムスも、自らの両親である大公とその侍女も殺して革命を起こしてからだった。
 途方もなく愚かだった我らの両親の起こした悲劇の結末。きっと彼らは殺されたところで文句など言える立ち場にない。けれどいくら殺したところで、今更現実が覆らないのも事実。
 事実は、受け止めるべきだとは言うけれど。
「いいえ。私は本当に、心の底からドラクル様……兄上、あなたがヴラディスラフ大公となることを望んでいました」
 頭脳も武芸も平均そこそこ、多少情勢を読み取る能力に長けているとはいえ、自分には貴族として何事かを成し遂げるほどの実力などもとよりない。そのぐらいなら、最初から優秀な兄が爵位を継いでくれればいいと、どれほど願っただろうか。
 けれど、そのような消極的ですべて成り行き任せのこの態度が、ドラクルを救うこともできずにただ彼を 蛮行へと走らせる一因となったのも事実だろう。
「……私がヴラディスラフ大公になれば、お前に与えられる爵位はない。ヴラディスラフとしてはじめから生まれてきたというのに、それでは、お前は一体何と名乗るつもりだったんだ?」
 あなたは目を細め、静かな口調で、弟も思えないだろうほど滅多に会わなかった私を玉座から見下ろしながら訪ねた。
 その答に私は口元を緩め、そうして告げた。彼の兄妹たちには何度もそう言って誤魔化してきた、その名前を。
「日和見、と」
 情勢の有利な方を見計らってそちらに味方する。優柔不断で利己的な。
 多分私が名乗るのに、これ以上相応しい名前もないのだろう。
「日和見……? 何だ? 審判者にでもなるつもりだったのか? それともただ単純に、形勢の良いほうへつこうというだけ?」
「いいえ。どちらかといえば、まだその答がでていない胡乱なわたくしという存在を一言で表現してみたまでです」
 私は結局いつまで経っても、ドラクルに味方することも、彼と完全に敵対することもできなかった。本気で彼を支援するつもりならば革命の名乗りを挙げた時に積極的に馳せ参じるべきで、彼と敵対してこの国を守ろうと考えるなら、これまで共にいたアンリ王子たちに、もっとドラクルの弱点などを教えてくるべきだった。
 結局のところそのどちらにも突出することができずに、私は自分自身ですら自身の基本精神が曖昧なままここにいる。
「《――》、面白いよ、お前は」
「ありがとうございます、けれど」
 私の言葉に返答につまり、何と答えていいのかも上手く思いつかなかったのだろう疲れたようにそう言ったドラクルに私は笑いかけた。
「もう、《日和見》はやめようかと思いまして」
「《――》」
「ええ。そうです。《日和見》でなくなるのであれば、私は確かにそう呼ばれるべきでしょう。それでも、まだなんだか納得できないんです。ヴラディスラフの家名を関するその名は、真に私のものではないような気がして」
「……お前は現ヴラディスラフ大公だろう」
「ええ。兄上。あなたが父であるフィリップ大公閣下を殺してくださったから……ええ、でも、それでも」
 私は真っ直ぐに玉座を仰いだ。端正な面差しが私を物憂げに睨んでいる。
「やはり私の中で、ヴラディスラフ大公はいつだって、ただ、あなたお一人でした」
 私ですらなく、あなたお一人でした。
 だから、日和見でもなく、ヴラディスラフ大公でもない私など――。
「待てッ! 何をする!?」
 自らの首筋に短刀を当てて、真っ直ぐに動脈を掻き切った。人間と違って鮮血が派手に噴出す事はないが、赤黒い血が体中を染めていく。
「何と言う事を……《――》」
 呼ばれたかったのはその名前。返したかったのは、この名前。
 もしもドラクル兄上が王太子として王族の一員に連なったままでおらず、素性が知られてヴラディスラフに戻されれば、今度は私の立場がない。ブラムス王の実子であるロゼウス王子によって同じような目に遭わされたくせに、自分が私にそれと同じ事をすると知った時に、あれほど悲痛な、苦痛な顔をした兄上。
 だからこそ、私はあなたを信じられる……。冷徹で酷薄で、でも本当は誰よりも優しいと知っていたから。
 日和見主義はもうやめよう。今まであなたの背を押し出す度胸もなければ、あなたを止める勇気もなかった私。ならば、と命を懸ける。これは盟約。
 世界が少しでもあなたに優しくありますように、と。
「……さよなら――」
 私には、ドラクルを止めることも救うこともできないんだ。だからこそ、彼らにその希望の一端を託した。
 どうか、どうか。
 果たして私の願いが叶えられたのかどうか、今となってはわからない。

 ◆◆◆◆◆

 あの人は酷い人だった。
 容姿はこの上なく美しい。真っ直ぐ通った背筋、凛と顔を上げ、胸をはり、まさしく「王」という雰囲気であった。ブラムス=ローゼンティアは確かに素晴らしい王であった。だけど、だからこそ……赦せなかった。
「ヴラディスラフ大公、本当に亡くなられたの?」
「ダリア」
「あの方、だってドラクル様……陛下の弟君なのよ? これまでだって特に私たちの邪魔をしてきたというわけでもないのだし、厳重注意くらいで生き返らせた方が……」
「そうだな。エヴェルシードを利用した先の侵略で貴族として使える者の数が減ってるし、無理に今人材を殺してしまうのは」
「カラーシュ伯」
 彼らは王城の一室に集まっていた。エヴェルシードと取引し、ローゼンティア国内の治安も改善させたとはいえ、まだまだ国内は不安定だ。少しでもドラクル王の側にいて、彼の力にならねばならない。
 ここにいるのは彼を含めて四人、ダリア=ラナ、フォレット=カラーシュ、ジェイド=クレイヴァ。そしてこのアウグスト=カルデール。彼らはドラクル王が王として玉座につく前からの部下であった。
 あの方の指示に従い裏で手を回し、あの方を王にするための部下であった。
「ヴラディスラフ大公閣下は亡くなったんだ。何があろうとも、それが事実だ」
 アウグストの言葉にラナ子爵ダリアもカラーシュ伯フォレットも黙った。ドラクル王と付き合いの長い二人は、陛下が好んで弟君を殺したのではないということをきちんとわかっている。だからこそ、陛下の気持ちを気遣う。
 しかし、どんなことを言ってもかつて日和見と名乗った、この国で本当の意味で中立をうたった青年は還ってくることはなく、ドラクルもそれを望まないだろう。同父母弟の死を歓迎するような者ではないが、死んだ弟を無理矢理ノスフェラトゥ……死人返りと呼ばれる化物にできる性格でもないことを、ここにいる者たちは全員知っている。
 あの方の脆さ弱さ。
 それはもしかしたら王には向かないものなのかもしれない。けれど、あの方が抱える心の傷は、あの方の責任ではない。
「一刻も早く、この国の状況を整えねば」
 アウグストは言った。ダリア、フォレット、クレイヴァ公爵ジェイドがこちらを向く。
「ローゼンティアはドラクル様が治めるべき国だ。ロゼウス王子に渡してはならない」
「ええ。もちろんだわ、カルデール公爵」
 アウグストの言葉にクレイヴァ公爵ジェイドが頷く。 
 自分たちはドラクル様が即位する前からの付き合いだ。
「今は、ほんの少しでも他者に弱味を見せることは出来ないんだ。ヴラディスラフ大公のことは残念だが、諦めよう。彼が薔薇王子方に味方しなかっただけでも恩の字だ」
「それはそうね」
「ロゼウス王子をこの国の王にするわけにはいかないしな」
「ああ」
「あの、ブラムス王の子など」
 ダリアが憎憎しげに呟いた。それに触発され、アウグストたちもかつてのこの国の様子を思い返す。
 それは、アウグストたちが生まれてからこれまでずっと同じ人物の治世、ブラムス王の御世だった。
「表向きの顔は確かに良かった。お顔立ちは確かに優しげだった。政務だって、何も無能と言うわけではない、普通の王だった。民から人気があったことを考えれば良い王だとも言えるだろう。けれど」
 けれど、アウグストたちはかの王をそれだけで済ますことはできない。
「あの男が裏でドラクル様にしたことを考えれば、当然赦せるはずがないわ」
 そうだ。優しくて慈しみ深い、よくできた王の顔はあくまでも表向きだけ。他の子どもたちの前では良い父親の顔をしていたあの王が、実の子ではない自分の子とされている王子王女たちの中でも、特にドラクルに対して扱いが決してまともではなかったことを彼らは知っている。
「もちろん、それを差し引いても私はブラムス王よりドラクル陛下の方が優れた能力を有すると考えているわ。だからこそ玉座の簒奪に協力したのよ」
「簒奪などと人聞きの悪いことを言うな、ラナ子爵」
「あら、ごめんなさい」
「ああ。……ブラムス陛下はあくまでも、エヴェルシードの侵略によって崩御されたんだ」
「ええ。そうだったわね」
 迂闊なことを言って、どこで誰が聞いているかわからない。嗜めたアウグストに、ダリアは肩を竦めて見せた。
「ブラムス王は良い王ではあるが、優れた君主ではなかった。人当たりが良いから部下から反発を引き起こすことも少なかったが、逆に人を跪かせるだけの気概もない。その上に、裏でしていたことを考えれば人格的にも褒められたものではない」
「ヴラディスラフ大公のことは……だけど、それでも計画に支障があるわけではないのでしょう」
 アウグストとダリアが言い、フォレットとジェイドが頷いた。彼らは視線を合わせ、これからの計画を確認する。
「ああ」
「とにかく、私たちは今までどおり、ドラクル様を支えるだけさ」
「ああ」
「ええ」
「もちろん」
 すべては、我らが王のために。

 ◆◆◆◆◆

 室内には重苦しい沈黙が降りていた。誰も何も言葉を発する事はなく、ただ先ほど聞いた話を各自の中で反芻する。
 持てる情報のすべてを出し合い、状況を把握する。自分たちは皆それぞれ手札が違う。だからこそ、声に出して確認せねばどれが正解かわかりやしない。
 それでも、ローゼンティア、この薔薇の国の秘密は、あまりにも重く苦しい。
 日和見と名乗った青年は館を去った。シェリダンたちにここを好きに使えと告げた後、彼は何の未練もなく、やけに清々しい顔つきをして自らの屋敷を出て行った。一度は他でもない自分の国、シェリダンに、エヴェルシードに侵略されたからこそ順位変動が起きて今は誰がどの役職についているかもよくわからなくなったローゼンティアで、暫定的にヴラディスラフ大公と呼ばれるべき人物だったのだと言う。
 ――もしもできるならば、どうかあの方を救ってあげてほしい。
 シェリダンには彼の心は理解できない。事の中心軸に巻き込まれているのはわかるが、シェリダンはローゼンティアの人間でも、ドラクルの家族でもない。その自分があの男、ドラクルを理解も救済もできるはずがない。もちろん日和見はシェリダンに向けて言ったのではなく、これまでの人生をドラクルの家族として過ごしたローゼンティアの面々に向けて言ったのだろうが、それでもまだなんとなく、しこりのようなものが残る。落ち着かない。わだかまり。この気持ちは一体なんだろう。答が出ない。苛々する。
 こんな時に側にいて欲しい相手は誰もいない。ローラとエチエンヌ、それにリチャードの三人の従者に関しては吸血鬼と行動を共にするのは危険だからと、ロザリーたちは途中で別れたのだと言う。クルスはシェリダンにとって誰よりも信用のおける部下だが、それでも彼の目線はひたすら優秀なエヴェルシード貴族的であって、そのすべてを共有できるわけではない。
 ただ理由もなく縋り付きたいあの紅い瞳とは、もう一月以上会っていないのだし。
 焦りばかりが募る。シェリダンはイスカリオットのことを終えてから、何一つできないままにここまで来た。こんな状態で、こんな様子で何ができる? ローゼンティアに乗り込んだところまではいいが、それから先どうするか? 今のシェリダンにはわからなかった。
 このままでは、またもや咄嗟の状況で事態に反応できず、乗り遅れてしまう。エヴェルシードでカミラに玉座を簒奪された時のような失態を、そう何度も繰り返すわけにはいかない。
「なぁ、俺たち、これから――」
 シェリダンと理由やそこに至るまでの思考の経緯は違うのだろうが、同じ事を考えたらしいアンリが口を開きかけた。すると。
「あ!」
「ウィル? どうした」
 突然、ウィルが叫んだ。視線の先を周囲の人間が追うと、彼の目はどうやら窓の外を見ている。
「ジャスパー兄様の使い魔!」
「なんだって!?」
 彼の言葉に、ローゼンティアの面々が一斉に動いた。全員で窓に張り付いて、その黒い生き物を迎え入れる。ウィルの手に向かって飛んできた蝙蝠を、真剣な顔で取り囲んだ。
「僕宛だ」
 ウィルがそう言って、蝙蝠につけられた手紙を外す。ジャスパー兄様、とすぐ上の兄の名前を小さく呟いて、文面に目を通した。
 その顔が、歓喜に輝く。
「ジャスパー兄様、ドラクル兄様のところから抜け出したんだって! それでね、今、ロゼウス兄様と一緒なんだって!」
「何!?」
 聞こえたその名にシェリダンは立ち上がり、ウィルに詰め寄った。
「それは本当なのか!?」
「う、うん……」
「まぁまぁ。ちょっと落ち着いてくれよシェリダン王。それで、ウィル、ジャスパーからの手紙には他になんて書いてある?」
「あ、ええと……」
 皆の前で、一度ウィルはその手紙の全文を読み上げた。
 それによると先ほどのように、一度はドラクルたちについていったジャスパーが今はロゼウスと共にいることなどが書かれている。二人が現在いる場所も。
 ふと、セルヴォルファス王ヴィルヘルムのことが気にかかった。ロゼウスは彼に囚われているのではなかったのか? シェリダンがイスカリオット伯ジュダと話をつけたくらいだから、向こうも何かの取引をしたのかもしれないが……何か、手紙の送り主がロゼウスではなくジャスパーであり、シェリダンではなくウィルに宛てたためのものだからか、どうにも腑に落ちないことがある。
 けれどそんなことは、とにもかくにも早く彼らと合流してからの問題だ。
「この場所なら、ローゼンティアまで、もうすぐだ……アンリ兄様、僕が、二人を迎えに行って来てもいいですか?」
「ウィル、だけどそれじゃあ」
「お願い。僕が頼まれたんです。だから、僕が行きたいんです」
「……わかったよ」
 警戒厳しい今のこの国で、ロゼウスたちをローゼンティア国内に手引きするのは協力者の存在が必要不可欠だ。二人を国の中へ連れて来るつもりならば、必ず誰かが一度はローゼンティアを出て、ロゼウスたちを迎えに行かねばならない。
 その役目を、まだ十二歳のウィル王子がかって出た。
「いいのか? 本当に」
「ええ。大丈夫です。任せてください」
 彼は力強く頷く。その表情に、迷いも恐れも、微塵も感じられなかった。


171

「行っちゃったわね……」
 軽く荷物をまとめ、手紙でジャスパーが指示したという場所までウィル王子は向かう。手を振って弟の背中を見送ったミザリーが、切なげに眉根を寄せた。
 シェリダンたちは再び日和見の屋敷の中に戻る。漆黒の影が落ちる暗い赤煉瓦の廊下を歩きながら、彼はロザリーに尋ねた。
「ロザリー」
「ん?」
「ロゼウスは何を考えているのだと思う?」
「何……って?」
 シェリダンの質問の意図がわからないらしく、ロザリーは首を傾げた。
「あの手紙だ。どうして、ジャスパーの言葉だけしか書かれていない? 今回の問題は誰よりロゼウスにとって大きなものだろう。望もうと望むまいとドラクルに恨まれて、戦いの中心にいるのは奴だ。私がいることは知らずともお前たちがローゼンティアに入っていることを知っているなら、奴自身からも何か一筆あってしかるべきではないのか?」
 ロザリーはシェリダンの言葉に、しばらく口元に指を当てて考える仕草をした。
「そうねぇ……まぁ、普通はそう考えるものなんだろうけど……」
「普通は?」
「ええ。シェリダンの言うとおりだと思うわよ。でも、私たちにとってはそれが普通だからね。私たちにとって、ロゼウスって兄は、あるいは弟は、そういう人なのよ」
 ロザリーが説明する。
「シェリダンの目にロゼウスがどう見えているのかはわからないけれど、ロゼウスってもともと大人しい人よ。いや、大人しいというか……やる気がないというか。とにかく、ドラクルみたいに自分からどんどん行動していく人や、アンリみたいに自分にできることがあれば積極的に協力するタイプと違って、本当に危機的状況じゃなきゃ自分からは動かないの。ジャスパーも性格は大人しいけれど、ロゼウスは決して性格自体は大人しくないのにやることが大人しいわ。だから私たちみんな、ロゼウスがドラクルに匹敵するほどの実力を持っているなんて知らなかった」
 ロゼウスという人物は。
「ずっと、ドラクルに抑圧されてきたからか?」
「そうかも知れない。でも、それだけとも考えられない」
「ロザリー?」
「私は、ロゼウスは好きでそういう生き方をしていたんじゃないかな、って思うんだけど」
 かの王子のすぐ下の妹姫は、ここに兄がいないからこそできるような顔で、彼を語る。
「ロゼウスって、本当はもっとずっと奥底に何か秘めているんじゃないかな? 私はロゼウスがその奥に何を持っているのかは知らないけれど、お兄様がそうやって何かを外に出さないよう守り続けているのはわかるの。私たちヴァンピルは、大なり小なり、みんなそういう面があるから。ジャスパーのことも、シェリダンがどう思っているのかはともかく……本当はあんな性格じゃない。何か、何かがあったの。何か、まだ私たちが知らない何か」
「何か?」
「ええ」
 ロザリーはそのロゼウスに良く似た美しい顔を品良く歪ませると、言った。
「私たちは今もまだ、誰かに踊らされているような気がする」
 見えざる手を持って、世界を回す誰か。シェリダンたちの知らないところで、何かが起こっている。しかもそれがシェリダンたちに全く関係のない問題ならばともかく、シェリダンも、彼らも、ロゼウスも、彼らの敵であるドラクルたちでさえ、それに巻き込まれている気がする。
 ふと、ハデスの顔が脳裏に思い浮かんだ。黒の末裔。先程《栄光の手》などと彼好みの話をしたばかりだからか、その黒と白の印象が鮮やかに浮かび上がる。未来を見るという預言者の称号を持つ彼ならば、シェリダンたちを躍らせるその謎の力の正体もすでに知っているのだろうか。
「ねぇ、シェリダン」
 ふいに、ロザリーがシェリダンの服の袖を掴んできて言った。
「私、今の状態が怖いの。何か、怖いの。ドラクルと敵対しているとかエヴェルシードと揉めているとか兄妹が離れ離れになっているとか、そんなことだけじゃなくて……」
 彼は無理にその手を振り払うことはなく、逆に彼女の手を掴んだ。
 思わずハッとするほどに、彼女の手は冷たい。もともとヴァンピルの体温は人間より低いが、今は氷のようだった。立ち止まり顔を覗き込めば、蒼白だった。
「なんだかこのままじゃ、みんなが遠くに行っちゃうみたい」
「遠く?」
「うん。遠く。ロゼウスも、他の皆も……どうしてだろ。さっき、ウィルの背中なんて見ちゃったのがいけないのかな」
 強気なロザリーがいつになく落ち込んでいる。シェリダンは何を言う事も出来ず、ただそれを聞くことしかできなかった。しばらくして手が離れると再び歩き出しながら、シェリダンは今ここにいない者のことを思う。
 ロゼウス。
 離れている時間は、彼のことを知ってからは夢のように長い。こんなに不安になるのはロゼウスのせいだ。
 お前がここにいないから。私たちのもとにいないから。
 私の隣にいないから。
 だからロザリーを安心させることも、何も出来ない。今の状態が怖いというロザリー。同じ感覚を、自分も確かにどこかで感じているのかもしれない。
 何かがある。まだ自分たちの知らない何かだ。実際にハデスは、ドラクルたちと協力しながらも彼独自の動機で動いているような節を見せていた。皇帝デメテルが出てきたのも、その弟を諫めるためか、あるいは他に目的があるのか。それとも。
「確かに、何かがある」
「シェリダン」
「ロゼウスのことだけじゃない。他のことにしてもそうだ。ドラクルのことはお前たちにはしっかりとした理由があるのか? ならばそれを差し引いて考えても、ハデスや皇帝の行動など、私たちの理解できないものは多い。けれど何だ……何が起こっていて、それがどこに繋がるのかがわからない」
 けれど、何かが起こっている。
 その何かは……運命はすでに始まっている気がする。
「どうしてだろ。どうしてこんなに怖いんだろう。みんなが離れ離れになって遠くに行っちゃう気がして」
 ロザリーもそのように感じている。日和見が館を去り、ウィル王子がロゼウスとジャスパーを迎えに行って、エチエンヌたちとも今は離れている。敵はロゼウスたちがどんな決着をつけてきたかわからないセルヴォルファスと、もともと喧嘩をしかけてきたドラクル、それに踊らされているカミラ、そして何を考えているのか知れないハデスに皇帝と、そうそうたる顔ぶれであることを考えれば迂闊に動くこともできない。
 そして物事の中心にいるのは、間違いなくロゼウスだろう。だが――。
「大変です! 殿下!」
 日和見の残していった館の使用人が一人、シェリダン、正確にはローゼンティアの王族たちを追って駆けてきた。息を整える暇もなく、告げる。
「エヴェルシードで、ミカエラ王子が――ッ!!」
 そしてまた彼らは、抗う隙もなく宿命に振り回される。

 ◆◆◆◆◆

「え……?」
 ドラクルは玉座にて、気の抜けた声をあげる。無様だとわかっていても止める事ができず、それは零れていた。
「いかがいたしますか? 陛下。今なら、あなたのお言葉で処刑を取りやめさせることも」
 行儀のいい部下たちは彼の失態を聞かなかったことにするらしく、そうして何でもない顔で続けた。
「エヴェルシード王国にて、《誓約》によるミカエラ王子の処刑と、エヴェルシード、ローゼンティア両国の和平。我々の意志を介さずになされたローゼンティア側からの講和申し込みとその方法についての選択が絶妙です。《誓約》を持ち出してくるところが、また。このまま成り行きに任せてしまえば、我等はミカエラ王子の思惑通り、エヴェルシードと連携をとれなくなります。あの王子に、それだけの力があるとは」
「ミカエラはあれでも父上の正統なる王子の一人だ……」
 ドラクルは呆然と、カルデール公爵アウグストたちから、そのことを聞いていた。エヴェルシードでミカエラが処刑される。エヴェルシードとローゼンティア、両国の平和のために、と銘打って。
 表向きは突然の侵略と抵抗、一時的な占領とその解放、緊張状態に陥ったローゼンティアとエヴェルシードでも国王の強引な代替わりを挟み、こじれにこじれた関係を清算するためのもっとも手っ取り早い方法だと。
 エヴェルシードを侵略したシェリダンにはカミラが手を下したことになっている。ならばローゼンティア側が払わねばならない犠牲とは何か。向こうで王を一人犠牲にしているからには、こちらでも相応の対価を差し出さねばならないと言うことは、明白。
 ロゼウスやアンリたちを含みドラクル以外のローゼンティア王族は皆生死不明となっているから、もしも彼らが名乗りを挙げなければ国民は皆ローゼンティアの王族がほとんど絶えたものと思う。そうしてドラクルとミカエラしか残っていないと思われた状態で、ミカエラが講和のために命を投げ出すなどと言われたら。
 美談の裏に隠された弟の真意。自分たちローゼンティア側からは、どうやってもそれを断ることはできないというこの複雑な局面。
 ここでローゼンティアがその申し出をミカエラ個人が言い出したことで国では認めないと言い出せば、講和を断られたという形でエヴェルシードはローゼンティアに対して厳しい対応をせねばならなくなる。かといってエヴェルシード側がローゼンティアに甘い対応をすれば向こうの国でこちらにつけこまれるという反対がカミラにたいしてあがるだろう。どちらの道を選んでも、そして処刑がすんなりと実行されても、王族の一人を処刑した国と仲良くなどできるわけがない、と。どの道を選んでも、ローゼンティアとエヴェルシードの間に決定的な断裂が入る。
 血をもって諫め、和を求める。その思考自体が血生臭く講和の意志にふさわしくないことなど、もはや関係ない。この処刑騒動は、はじめにミカエラがそれを言い出した時点でどのような手を打っても八方塞になることを目に見えていたのだ。
 ここでは、それを受け入れたカミラを責めてもきっと仕方あるまい。
「陛下……ドラクル陛下」
「聞こえている。何だ」
「いかがなさいますか?」
「……」
 ミカエラ。ローゼンティア第五王子、ミカエラ=テトリア=ローゼンティア。ロゼウスのすぐ下の弟でブラムス王の血を引く正統な王子の一人。
 病弱で取り柄など何一つないと言われたあの子が、こんな果断な決断をするなどと。自らの命さえ使い捨て、それでもドラクルとカミラ姫のエヴェルシードが手を組むのを阻止したいと?
「だが……負けるわけにはいかない」
 ここで終わりになどしてしまえば、自分は今まで何のために生きてきたのだ。なんのために今、奪い取ったこの玉座に座っているのだ。
 私の目的の邪魔はさせない。その相手がミカエラ、例えお前でも。
「……ドラクル陛下」
「カルデール公爵。今から、確実に信用できる伝書蝙蝠の経路を確保せよ」
「ご連絡をとるのですか? どなたに」
「……決まっているだろう。あの方だ」
 事がローゼンティアとエヴェルシードの問題にも関わらず当事者で打開できないならば、外からこの出来事に影響できるだけの力のある人物を呼べばいいのだ。カミラ姫の場合は連絡をとる手段を持たず向こうが神出鬼没に現れるのを待つばかりだろうが、さすがにドラクルはそういうわけにもいかない。知り合って数年がかりで、ようやく時間こそかかれど意志を確認できるほどの連絡手段を持つことができた。
 この考えは当然のものだと思ったのだが、しかしカルデールは少し困ったように顔を歪めた。
「いえ、そうではなく、どちらの……」
「ああ。そうか。ハデス卿の方だ」
 同じような外界の権力者という点においてだと選択肢が二つあり、彼はそのどちらを選ぶのかということで迷っていたようだ。
「あの方がそのことを明かすのはもう少し先だろう。今不用意に動いていただいて、こちらは解決しても向こうがこじれたら目も当てられないことになる。まずは一つずつ解決していくしかない」
「その一つずつとは言っても、一つの罠に幾つもの獲物をかけるのがあなたさまのやり方でしょう」
「ああ。そうだ。わかっているじゃないか。カルデール公爵」
 ドラクルが目を細めて見下ろすと、彼が玉座を簒奪する以前からの腹心の部下の一人は深々と礼をとった。これまでは国のお偉方に知られないようひっそりと暗躍させていたが、この国が名実共にドラクルのものとなった今日ではそんなことはもう関係ない。カルデール公爵アウグスト卿は、堂々と謁見の間の赤い絨毯の上で服従の姿勢を作る。
「アウグスト=カルデール。ヘンリーと協力して構わない。お前は今わかっている限りの情報を集め、それをハデス卿に送りつつかの方の助力を請え。向こうが取引を持ち出してきたなら、お前の判断で何でもくれてやれ」
「かしこまりました。それでは、連絡をとる間、城内のことはジェイド卿にお任せください」
 アウグストはそう言って退出の挨拶をしてから謁見の間を辞す。後にはドラクルと数名の部下が残されたが、彼らに指示を下す前に新たな報告があがってきた。
「ドラクル陛下。先日のヴラディスラフ大公閣下の件ですが……」
「話せ」
 どこか気まずい様子で、報告役の兵士がそれを伝えた。
「大公閣下が、行方不明であるはずのアンリ王子殿下、ミザリー殿下、ロザリー殿下、ウィル殿下にエリサ殿下、それとエヴェルシード人の少年二人と、ウィスタリア人の少女と会っているのを目撃したとの通報がありました」
 報告を聞き終えて、ドラクルは一瞬だけ瞠目し、ついで口元に笑みが込み上げてくるのを感じた。
「アンリ、やはり国に戻って来たか」
 そして重要な役者がもう一人。
「まさか、シェリダン王が一緒だとはね」
 エヴェルシード人の少年のうち、一人は確実に彼で間違いないだろう。そうでなければ、あのアンリが吸血衝動を抑えられない危険を抱えてまで人間と行動を共にする理由がない。その危険を冒してまで彼がローゼンティアに連れてこなければならない人間など。
 他のもう一人のエヴェルシード人の少年は彼の部下の一人だろう。ちょうどシェリダン王派の侯爵が一人行方不明だという報告がかなり前からカミラからもたらされていた。最後の一人、ウィスタリア人の少女と言うのが気になるが……今のところウィスタリアは自分たちの思惑にも争いにも全く絡んでこない国であるから、国家規模の権力者という線は薄いだろう。ウィスタリアとローゼンティア、エヴェルシード二国は地理的に遠くかの国がこちらのやりとりに口を出す益がない。
「……まぁ、いい」
 花形こそまだ揃ってはいないが、舞台は着々と整えられていく。ドラクルは部下たちにそれぞれの役目を与えて、一端自室へと退いた。
 国王の座についてからも、かつての父の部屋を使う気になれない。これまでと同じく第一王子としてあてがわれていた部屋に戻り、ふと懐かしいことに思いを馳せる。
「……ミカエラ」
 ロゼウスに懐いていたあの弟は、そう言った意味では必然的にドラクルと顔を合わせることも多かった。ロゼウスをいいように振り回すドラクルに嫉妬して、幼い敵意の視線をぶつけてきたあの瞳。病床に縛られている生活が長かったためか常にどこかひねくれてはいたが、根は誰よりも素直だった。
 そのことを、自分は確かに知っているけれど。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンたちは急遽、エヴェルシードへと戻った。日和見のあらかじめ遺しておいてくれたツテを使えば、そう難しいことでもない。
「っていうか、あの航海の日々はなんだったの……?」
「やっとの思いでエヴェルシードから脱出してこんなに早く戻るなんてな」
 エヴェルシードへと入り、処刑が行われる街の一角に身を潜めながら、彼らローゼンティア王族の口から零れるのはそんな愚痴だ。確かにシェリダンとクルスもそれは思うのだが、元はと言えばアンリたちがミカエラをエヴェルシードに置いていったのが問題ではないのか? いや、だがしかし第五王子は病弱で船旅には耐えられなかっただろうという話ももっともだし、その預け先がバートリの元だということを考えると……。
 ここは流しておこう。
「仕方がないだろう。それとも、貴様等は自分の弟を見捨てるのか」
「まさか!」
「さっさとミカエラを助けに行くわよ!」
 ローゼンティアで、日和見と名乗った貴族の青年の屋敷に留まっていたシェリダンたちに届けられたのは、ローゼンティアがエヴェルシードに和平を申し込んだという報だった。しかもそれはただの交渉ではなく、ローゼンティア側が第五王子の血を捧げることを条件に差し出したのだという。
 形としては、不自然ではない。軍事国家エヴェルシードと魔族でありながら争いとは縁遠いローゼンティアでは国力が違いすぎる。人間に比べてヴァンピルの数は少なく、国土条件も不利だ。戦いが長引けばローゼンティアの民は間違いなく疲弊して、最悪の形で負けるだろう。
 一度侵略したこの自分が言うのだから間違いはない。
 それを防ぐために、今回ローゼンティア側はエヴェルシードの玉座に今はシェリダンを追い落として座っているカミラへと申し出たのだと言う。
「何かおかしい」
「おかしい、とは?」
 アンリ王子が険しい目つきをしながら、着々と処刑準備の進められる処刑台の様子を建物の影から首だけ出して見ている。
「だって、ミカエラの処刑がどうのって言ってる間、ドラクルはずっとローゼンティアにいて国を纏めてたんだろ? それに、どうしてミカエラの居場所がバレたんだ? シェリダン王、あんたの部下はそんなに信用が置けない人か?」
「エルジェーベトを侮辱するな。彼女はそんな人間ではない」
「だとすると、不自然なんだ。だいたいどうしてミカエラ? 和平のためになんて名目で、第五王子をわざわざ捧げる意味はなんだ? これがドラクルがなんでもいいから他の兄妹をエヴェルシードに殺させるつもりで動いたなら、俺の名前を挙げて戦争の罪を着せて指名手配にでもするのが妥当だろう。居場所はわかってないんだし。……少なくともこんな回りくどいやり方、ドラクルはしないと思う」
 アンリ王子の言葉に、今回の処刑騒動に違和感を覚えていたシェリダンも頷く。
「そうだな。だいたい、あの男がかつての兄弟姉妹の中でもっとも執着しているのはロゼウスだろう。たまたま手近で見つかったからなのかもしれないが、わざわざ第五王子を使う理由がわからない」
 表向きにはローゼンティア側からの王族の処刑を含む講和申し立て。その捧げられた血を誓約として、両国の平和と友好を約束させられるという。
「逆に考えてみてはどうでしょうか?」
 クルスが遠慮がちに口を挟んだ。
「逆?」
「ええ。そうね。逆なのよ」
「だから、逆とはどういう意味だ?」
 クルスの言葉に次いで、サライも口を挟む。しかし逆だ逆だと言われても意味がわからない。
「だーかーら、なんで処刑が行われるかじゃなくて、この処刑によって何が起こるのかを考えるのよ。今回の講和を仕組んだ人物の目的は、そこにあるはずでしょう?」
 数人係で処刑台は組み立てられていくが、処刑本番まではまだ時間があるようだ。ミカエラ王子の姿もまだない。考える時間くらいあるだろうと、サライの言葉によりシェリダンたちは思考を巡らせた。
「この処刑によって、もたらされるものとは――」
 まず、表向きの理由はローゼンティアとエヴェルシード両国の講和だ。
「ねぇ、でも、誰かの血が流されて、それで成り立つ平和なんてあるの?」
「ミカにいさまが死んじゃうなんて、エリサはいやです」
 ミザリーとエリサが、手を取り合いながら、口々に言う。
「確かにな。講和を目的とは言っても、実際王族の犠牲を強いて成された和平で根本から二国間に友好が成り立つなどありえない」
「ローゼンティアは特に王族絶対というか、絶対王政だから尚更だよ。民がそんな方法に納得するわけがない」
「なら、今回の処刑を仕組んだ者は、ローゼンティアとエヴェルシードに和平を結ばせて表向きは丸く収まるように見せかけて、実は二国間に亀裂が入るように仕組んだというわけか?」
「何のために? ローゼンティアとエヴェルシードが手を組まないことで利益を得るのって……」
「私たちだ」
 シェリダンの言葉に、しん、とその場が静まり返った。
「ローゼンティア王はドラクル、エヴェルシードはカミラが今支配している。表向きだろうと何だろうとローゼンティアとエヴェルシードに和平が結ばれる事が重要なのではない。むしろそれによって、ドラクルとカミラがそう簡単に連携を取れないよう二人を分断したかったんじゃないか?」
「それって、私たちのためにってこと?」
「ああ。少なくとも私やお前たち、そしてロゼウスが動きやすいようにするためとしか思えない……」
「ね、ねぇ。じゃあ、それって」
 ロザリーが震え、上ずった声で告げる。
「そんなことする必要があるのって、ミカエラ自身くらいじゃないの」
「……自分から言い出したのか」
 第五王子に関する印象は、シェリダンの中にはあまりない。少し病弱だと聞いただけで、他の兄妹の方がよほど印象が強かったものだし。時期的にもあの小うるさいジャスパーとほぼ同時に会ったために、あちらへと気をとられた。
 しかし、病弱だの身体が弱いだの言われているわりに、やけに強い光を宿す瞳をしていたことは知っている。
「まさか……そんな、ミカエラが、自分でなんて……」
 ミザリーが身体を震わせる。末姫エリサがその姉の肩に縋り付いた。
「おねえさま、だいじょうぶ? しっかりして!」
「なんてこと……」
 シェリダンたちの考えを、一連の言葉を纏めて簡潔にしてみせたのは第三者にあたるサライだった。
「第五王子ミカエラ=ローゼンティア殿下は生まれつき病弱で、普通に生きている分には、どうにも他の兄妹たちの足手まとい。人質にとられてしまえば優しい皆は手を出せないだろうし、窮地を独力で乗り切る実力もない。けれどローゼンティアを簒奪したドラクル王とエヴェルシードを簒奪したカミラ女王は着々と力をつけていて、このままではローゼンティアの兄妹たち、特にロゼウス王子にとって不利になってしまう。そのくらいならば、いっそ足手まといになる身を捨て、二つの国の戦争は止めつつ二王の間は裂く方法をとった……と。要するにこういうことなのね」
「そんな馬鹿なこと!」
「でも王子は本気みたいよ」
 サライが白い指で壁の影から処刑の行われる広場を指示した。
「!」
「ミカッ!」
「おにいさま!」
 罪人のように白い簡素な服に着替えさせられたミカエラ王子が、ようやく広場へと引き出されてきた。周りを取り囲む兵士たちは、護衛なのか引き立てるための人間なのかよくわからない。
「人の弟になんてこと……ッ」
 温厚な表情を崩さないアンリが、ぎりりと唇を噛み締めた。ミザリーとエリサはきつく手を握り合う。
「けれど、陛下」
「クルス?」
 そんな中、ローゼンティア勢の苦悩と怒りを知らぬかのように、並一つない水面のように落ち着いた表情でクルスが言った。
「これが上手くいけば、逆転の好機ですよ」
「何?」
 彼の言葉の真意をつかめず、シェリダンは眉根を寄せた。
「ここで陛下がローゼンティアの王子であるミカエラ殿下を救えば、陛下のエヴェルシード王としての地位を取り戻すことができるのではないでしょうか?」
「ッ! そうか」
 ドラクルとカミラがそれを了承したとはいえ、処刑による講和ともなれば民の反発も大きい。けれどその反発を利用して、講和の条件に非道を持ち出した二王を廃することができれば。
「逆転できる。ミカエラ王子を助ければ、カミラたちを出し抜けると言うのか!」
「ええ。そうですよ! 一石二鳥じゃないですか!」
 クルスの頬が上気し、シェリダンも俄然やる気が沸いてきた。そうなれば。
「何としてでも救うぞ。ミカエラ王子を」
 ことはもう、ローゼンティアだけの問題ではすまない。


172

「その処刑待ったぁああ!!」
 そうして、争いが始まる。
 斬罪に処されるはずだったミカエラ王子を救うために、シェリダンたちは処刑場と化した広場へと乗り込んだ。王都シアンスレイトのはずれにあるこの場所には、近隣の住民が悉く押しかけている。
 空は青く、刷毛で塗ったように歪な明るさで描かれている。その下に群集はひしめき、薄汚れた道を埋め尽くす。シェリダンたちは三手に分かれ、それぞれの役割を確認した後、処刑台を目指した。
 これまでに何人もの血を吸ったギロチンの刃が鈍く光っている。
 その光の傍らに佇むミカエラ自身に向けては、ミザリーとアンリが駆けつけた。シェリダンとクルス、ロザリーの戦闘員はとにかく邪魔する者を叩き斬るために群集の中央へと突っ込む。そしてそこから混乱を起こし、鎮圧のために出てきた警備兵たちを斬り捨てる。
 エリサは群集に紛れてさりげなく彼らの足が処刑台から遠ざかるように誘導し、サライには退路の確保を頼んである。
「ローゼンティアの王子を殺させるわけにはいかない! さっさと彼を離せ!」
 フード付の丈の短いローブを纏い、顔を隠しながらシェリダンは叫んだ。剣を抜き放ち掲げると、荒事に縁のない一般民衆は慄いて波のように周囲から一歩引いた。
「この曲者め!」
 クルスとロザリーと共に、出てきた警備兵たちを相手どる。彼らもシェリダンにとってはエヴェルシードの大事な民だ。無闇に殺したいわけではない。
 シェリダンたち戦闘員の役目はとにかく、アンリとミザリーがミカエラを奪還するまでの時間を稼ぐこと。最後までこの場に残り、眼晦ましとなること。
 即座に倒すのではなく、むしろ舞台で剣舞を演じるように派手な立ち回りで相手を翻弄する。動きが大袈裟であればあるほど相手はこちらを侮るし、周りから巻き添えを恐れた民衆が離れていくのでちょうどいい。このために今回は、普段はその爪で相手を引き裂くというロザリーまでもが男装して長剣を扱っている。
「おい! 何やってるんだ! さっさとこいつらを倒せ!」
「処刑を邪魔させるわけにはいかないぞ!」
 シェリダンたちをなかなか倒せないことに焦りを覚え始めた警備兵たちが鋭く声を掛け合う。だが連携をとる暇は与えてやらない。
 正面の相手の突きを交わし、その得物を真下から叩いて上に跳ね上げる。武器を手放して無防備な鳩尾に柄で打撃を加え、昏倒し崩れ落ちた身体を踏み台に、その奥へと待機していた別の兵へと斬りかかる。
 上から来る剣戟は交わしきれず、押し返すほどの腕力も私にはない。寸前で自ら受けとめるように力の方向を変え、攻撃をいなしたところで反撃に転じる。
「うわっ!」
「ぐっ!」
「ぎゃっ!」
 哀れな警備兵の悲鳴を聞きながらも腕は休めない。状況を把握しようと動かした視線の先、アンリとミザリーが処刑台のミカエラ王子のすぐ側に辿り着く様子が見えた。
 けれど、すぐに動き出すわけではない。
「この野郎!」
 背後から来る殺気を感じて相手の攻撃をかわした。第二撃は咄嗟に両腕で刃を受けとめ、なんとか持ちこたえる。ぎりぎりと嫌な音を立ててこすれあう刀身の鋭さを間近で見ながら、何とか均衡をずらして相手の攻撃を無効化した。力をかける方向をいなされて見失った相手の後頭部に蹴りを見まい、石畳に伏せさせてからまた視線を処刑台へと戻す。
 なんだ、何をやっている!? 辿り着いたのならばすぐにでも抱えあげて攫えばいいものをアンリたちは動かない。ミカエラと何か口論にでもなっているのか、言い争う気配だけが伝わってくる。
「シェ――ご主人様!」
 クルスの鋭い声が飛び、シェリダンは自らの身に危険が迫っていることを知った。まだ倒しきれない警備兵の残党が飛びかかってくる。間一髪それをかわし、また数人を地に沈めた。
「あいつらは!?」
「何か、説得に梃子摺っているようです。でもこのまま僕たちが暴れ続ければ全ての警備兵がこちらに来るでしょう。そのほうが連れてくるのは容易です」
「わかった。私たちはこのまま、せめて奴らがやりやすいように」
「はい」
 シェリダンたちに次々と倒された警備兵の山ができるのを見かねて、ギロチンの側にいた男たちが全員この騒ぎを治めるのに駆り出されたようだ。処刑台周辺から人がいなくなる。その間にアンリたちはミカエラを説得しているらしい。
 シェリダンたちは少しでもアンリ王子たちを有利にするために、派手に暴れて警備の目を引き付けなければならない。
 とは言ってもそれは主にシェリダンとクルスの考えのようで、ロザリーなどは違った。彼女はもはや遠慮なしに邪魔をする者は全て叩いて、敵を全員昏倒させるつもりのようだった。シェリダンやクルス相手ではまだなんとか相手になる兵もロザリーの前では例外なくほぼ一撃で倒されている。
「おい!? 一体どういうことなんだよ!?」
「知るかよ! こっちが聞きたいね!」
「和平交渉はどうなるんだ!?」
 民衆たちの間でも困惑と憤りの声が聞こえ始めている。そろそろこの場に留まるのも限界か? だがここで何もせずに引くわけにはいかない。多少の危険を冒してでも、この場合はミカエラをちゃんと確保できねば意味がない。
「あっちの男を狙え! あれが首領だ!」
「主人と呼ばれていたぞ!」
 勘の良い警備兵たちの一部の言葉に、シェリダンは思わず舌打ちした。先程のクルスの「ご主人様」発言のせいだろう。まさか名前を呼ぶわけにもいかないからクルスの中で咄嗟にそれしか思い浮かばなかったのだろうが、それでもどうやら先程の言は悪手だったようだ。
 この騒動の首魁はシェリダンだと見定めた兵士たちがこちらに集中的に向かって来る。彼は剣を構えなおした。民衆が引いて少し空間の出来た広場の中、一対複数はなかなかに辛い。それが全員間合いの限られる長剣だけではなく、相手によっては飛び道具や遠距離攻撃のできる槍や何かを使っているからなおさらだ。
 この状況を見て取って、クルスとロザリーがいったんシェリダンの元へと集まった。お互いの背後を守るような形で、彼らは一箇所に集中する。
「ご無事ですか?」
「ああ。今のところはな」
「サライから合図が来たわ。兄様たちがミカエラを連れてきたら、すぐに脱出しましょう」
 状況はシェリダンたちに有利に働いている。背中合わせに戦いながら、確かに数が減ってきた警備兵を前にそう言い合った。
 しかし。
「っ!」
「シェリダン様!?」
 突然頬のすぐ横を斬った風に、シェリダンは思わず飛びのいた。その動きで顔を隠していたフードがずり落ち、衆目に造作を晒すこととなる。
「え」
「まさか」
「シェリダン王……?」
 ざわめき始める人々の驚きを意に介す暇もなく、叫んだのは少女の声だった。
「シェリダン!」
 間違いなくシェリダンの名を呼ぶのは、ただ一人。黄金の視線がこちらを射抜く。
「カミラ!」
 剣を構えた妹が、シェリダンへ向けてぎらつく殺意を放っていた。

 ◆◆◆◆◆

 まったく、厄介なことをしてくれたものだと思う。
 ロゼウス、この事態はお前のせいだぞ。ここにいない人物にその責任をおしつける。当然だろう。彼が全ての原因なのだから。
 目の前に風を生み、前髪の何本かを持って言った白刃の閃きを前にシェリダンはそんなことを思った。
「シェリダン! 覚悟!」
「するわけないだろ!」
 カミラが長い髪を靡かせてシェリダンへと斬りかかって来る。その動きは俊敏で華麗だ。先日はまだ得物が手に馴染んでいないような雰囲気があったが、今では細剣を不自然でなく使いこなしている。
 カミラ=ウェスト=エヴェルシード。シェリダンより一つ年下の、妹。蒼髪橙瞳のエヴェルシード人の中でも波打つ濃紫の髪に黄金の瞳が特徴的な、十六歳の少女。今はシェリダンからこの国の玉座を奪い、王を名乗る者。
 彼女はもともと、その華奢で可憐な外見に見合う程度の力しか持たぬ非力な姫君だった。兄ではあるが腹違いであり、しかも庶民出の母を持つシェリダンを玉座から追い落として自分がエヴェルシード王となるべく画策していた。その時でも力技ではなく、周辺の貴族に取り入って策謀を好んだはずだ。これでも軍人王である私とカミラでは、戦闘能力という点においては圧倒的な差がある。そのはずだった。
「はっ!」
 気合一閃、カミラの剣戟をシェリダンは間一髪でかわす。それでも頬にぴりりとした痛みが走り、皮一枚斬られたことを知った。石畳の足場の悪さをものともせず、カミラは果敢に攻め込んでくる。
「くっ」
 負ける気はしないが、楽に勝てる相手でもない。身のこなしの軽い相手は、こちらの一撃をやすやすとかわす。空を斬った刃を一端引き戻して体勢を立て直そうとすれば、すかさず打ち込んでくる。受けとめた腕に、不自然なほどの重い痺れ。美しい装飾を施されたレイピアでこんな威力を普通は出せない。つまりカミラは普通ではないということ。
 カミラが力を手に入れたのはロゼウスのせいだ。ヴァンピルの血は人間の身体能力を上げる効果があるのだという。ロゼウスは、自らの血をカミラに与えた。
 それまではただの人間の小娘でしかなかったカミラは、それによって優れた身体能力を得た。それまでは剣など持ったこともなかったのに、今では疲れも見せずにやすやすと刃を振るっている。
 もともとの実力差がある以上、シェリダンとてそう簡単にやられはしない。しかし逆に言えば、軍事国家の国王としてそれなりの強さを求められ普段から体を鍛え技術を磨いていたシェリダンと張り合えるほどに、今のカミラは強い。
 銀の刃がその軌跡に合わせ残影を生む。カミラの振るう剣をシェリダンはかわし、こちらの攻撃も避けられ、仕掛けては惑い、惑わしては挑まれる。
 昔なら考えられもしなかった事態だ。この自分が、よりにもよってカミラと剣を合わせるなど。
「今日こそ死んでもらうわ! シェリダン!」
 自分を兄とは呼ばない妹。
「断る!」
 カミラの一撃をシェリダンは受けとめ、腕の軽い痺れを無視して反撃に転じた。カミラの方は、さすがに身体能力こそ格段に上がったものの、技術の方は一朝一夕では身につかない。
 シェリダンの攻撃の型に合わせきれず、カミラがようやく一撃を負う。華奢な肩が血に染まった。
「降参しろ、カミラ。そしてローゼンティアの王子を放せ」
 もともとカミラにとっても、ミカエラを死刑にして益があるわけではない。そう考えるシェリダンの耳に、けれど返ってきた返答は。
「イヤよ!」
 黄金の瞳に燃えるような憎悪を抱いてカミラはシェリダンをねめつける。傷の痛みを堪えて顔色は白く、息が荒い。それでも負けを認めないその気質こそ、まさにエヴェルシードと言えた。
「……ロゼウスの弟だぞ」
「あんたがそれを言うの!? シェリダン!」
 彼の言葉に、いっそ悲痛なほどにカミラは顔を歪める。食い破りそうな勢いで唇を噛み、血の流れた腕で剣を握りなおす。
「私からロゼウス様を奪ったのはあんたでしょう! あの人を手に入れるためなら、私はなんだってする……それが、例えあの人の弟君を殺すことだとしても……ッ!」
「カミラ、お前……」
 一国を統治する者にしては、カミラの言葉は身勝手な我欲に溢れすぎていた。その瞳はただ一人を追い求め、そのためなら一欠けらの隙もなくシェリダンを憎む。
 ただ一つの救いは、そんな彼女の言葉をシェリダンが以外の者が聞いていなかったことだろうか。小さな声ではないが混乱の只中にあるこの現場では他の人間の耳には入っていないだろう。ロザリーや他のヴァンピルにならば届いているかもしれないが、少なくともカミラにとっての民であるエヴェルシード人は聞いてはいない。
 彼らが剣を振り回しているために、処刑を見に集まった民衆は広場中央部から距離をとって遠巻きに眺めていた。カミラの配下で処刑場の警備の兵たちは、クルスとロザリーが少し離れた場所で相手をしている。シェリダンとカミラは一対一で向かい合い、お互い以外の相手など意識していない。
 けれど、お互いがそれぞれ相手に向ける気持ちは違うのだろう。シェリダンはいつもこの妹に対しては複雑な気持ちを抱くが、カミラにとってもシェリダンは特別な相手。強すぎるほどに強い、憎悪の的。
 ここで会ったが百年目とばかりに、カミラは自分を睨みつける。その腕からはぽたぽたと、赤い血が零れている。
 ヴァンピルと違って、人間の血には何の効能もない。ただそれが流れ出すたびにその者の命が滑り落ちていくだけ。けれどシェリダンはカミラの赤い血を見ていると、何か眩暈のようなものを覚える。戦場で、王城内の策謀の果てに、些細な稽古の失敗でさえ、流血など見慣れているはずなのに。
 錆び付いた鉄の匂い、その腐臭は、いつか城の隠し牢で甚振り殺した父が流したものと同じ。
「な、ぜ」
 痛みのためか、カミラの頬を汗が伝う。苦しい息の下、妹は呪うように呟いた。
「何故、いつもあんたが私から奪うの」
「カミラ」
「男だから? 年が一つだけ上だから? だから、だから奪うの? この国のもの全部、あんたの物だって言うの? そうして私には何もないの? 私が女だから、だからいけないっていうの?」
「カミラ、違う」
 正気なのに空ろな瞳に、カミラは絶望めいた色を湛える。すっと光を失って暗く凝ったその目に、シェリダンは癒えぬ悲哀を見る。
 その悲哀が、自分のせいであることもわかっていた。
「違わないわ! この世にあるもの、みんな全部シェリダン、あんたが持っていったじゃない! エヴェルシード王の座も、お父様の愛情も、この国の全ても!」
 エヴェルシードは、いまだ男尊女卑思想の強く残る軍事国家だ。伝統的に継承権は男児が優先する。その国の王家に、女として生れたカミラは、ただそれだけで不利だった。
 もともと、シェリダンとカミラの間にさして大きな差などない。血筋の貴賎を持ち出すなら貴族の母を持つカミラの方がよほど玉座に相応しいくらいだ。
 ただ、シェリダンがこの妹より有利だったのは、男として生れた、その一点のみだ。それがために男子継承が慣例であるエヴェルシード王の座に、庶民出の母を持つにも関わらずつくことができた。身体的な能力、カミラが力を得るまでの武力に関してだって、男として生れたら当然女よりは有利に決まっている。政治や軍事的な駆け引きのことは、王太子として教育されたシェリダンと同じようにカミラが相応の教育を受けていたのなら、彼の方が負けたのかもしれないのだし。
 それなのに、エヴェルシードではカミラは王として生半なことでは認められない。カミラがシェリダンに劣っているかどうかではなく、それは彼女がただ女であるからという理由でだけだ。
 カミラがシェリダンを恨むのは仕方のないことだと、シェリダン自身も知っている。もしも少しだけ歯車が違ったら、この結果にはならなかったのかもしれない。
 けれど。
「そうしてあんたは、ロゼウス様まで私から奪っていく!」
 シェリダンにだって譲れないものはある。
「あれはもともと、私のものだ」
「何を言っているのよ!」
 彼の言葉に激昂し、カミラが再び斬りかかって来る。ロゼウスがかつてその身に与えたヴァンピルの血のおかげで、もう傷口は塞がっているようだ。それを再び開くような痛みに耐えて、カミラは剣を振るう。
 この妹は、ロゼウスのことが好きなのだ。シェリダンと同じように。顔の事はともかく、境遇と母親の立場から考えて随分似ていない兄妹として育ったものだと言われていた二人は、やはり紛れもなく血のつながった兄妹なのだ。同じ相手を、こんなにも好きになるなんて。
 だがカミラ、お前にロゼウスをやるわけにはいかない。お前がどんなにあの男を愛していても。ロゼウスがお前をどんなに想っていても。
 刺客に襲われて一度死にかけたのだというカミラに、ロゼウスは自らの血を分け与えたのだと言う。死者を蘇らせる力を持つヴァンピルの血。カミラが今振るっている力は、その副産物だ。それでもロゼウスの目的は彼女を人外の身体能力を持つ超人にしたかったわけではなく、ただ死んでしまったカミラを生き返らせたかっただけ。
 死を受け入れられずに新しい命を与えるほど、ロゼウスはカミラを愛していた。そのことを考えると、シェリダンは自らの心臓が狂おしい炎に焼かれていくような心地がする。
妹姫であるカミラとは玉座を巡って争ったこともあるが、本気で憎んだことはない。彼女の母である正妃ミナハークはシェリダンの母親を精神的に追い詰め自殺に追いやった張本人であるが、カミラ自身はそれとは無関係だ。だから恨むことなどすまいと思っていたし、実際そのように恨んだことなどない。
 だけど今は、かつて愛していたはずのこの妹にさえ、シェリダンは複雑な気分を抱く。
「どうしてあんたなのよ! 私ではなく!」
 それでも彼女の方が彼に向ける感情は昔から一貫して変わらない。決して緩むことなどない、その、激しい憎悪。
「私は、お前だけはけっしてゆるさない――! シェリダン=ヴラド=エヴェルシード!」
 鋭い一撃が、真っ直ぐにシェリダン目掛けて振り下ろされた。


173

 予想外の展開になって、ミカエラもしばし呆然としていた。
「その処刑待ったぁああ!!」
 聞き覚えのある声が叫んだ。同時に、広場を囲む建物の影から複数の人影が飛び出してくる。処刑台の上と言う、人より数段高い場所にいるからこそよくその光景が見えた。
 ミカエラのすぐ隣には使い込まれたギロチンがある。幅広の刃が鈍い光を放ち、木製の枠には黒ずんだ血が染みている。見ているだけで不吉な道具。処刑道具なんて何を持ち出しても穏やかでないことは確かだけれど、これは一等恐怖を煽る。
 それでもミカエラは、この申し出を引き下げるわけにはいかなかったのだ。
 病弱な身体。尽きかけている命。才能に乏しく、人を魅了するだけの何かも持っていない。何の取り柄もない自分がせめて最後に一つ役に立つためには、今回の処刑はどうしても必要なことだった。
 初めに危惧したよりもずっとカミラは単純で、本来なら何かと理由をつけて拒否したり情報を隠蔽することで隠し通すことができたはずのミカエラの処刑による講和という問題をあっさりと引き受けた。それが実行されればエヴェルシードとローゼンティアの間にはしばらくの間だけでも、決定的な亀裂が入る。
 ミカエラはそれに賭けていた。今のままのローゼンティアの状態はまずい。このままドラクルの思い通りにことを運ばせることはできない。それならばどんな手段を使ってでも、この状況を打開しなければならなかった。
 少しでも時間稼ぎができれば、きっと後はロゼウスがなんとかしてくれる。ミカエラはそれに賭けていた。 
 ロゼウス兄様。あなたでなければならない。ドラクルは優れた人間だけれど、彼では王にはなれない。ローゼンティアを見事に治めることなど到底できはしまい。だからミカエラは彼を何とか廃して、ロゼウスに玉座に昇ってもらいたい。けれどミカエラ自身がそのために役立つのは無理だから。
 せめて何かしたかった。兄のために。それがどんな些細な、過ぎ去ればすぐに忘れてしまうような小さなことでも構わない。大事なのは、自分がロゼウスのために何か一つでも役立てないかということ。
 病弱で非力。取り柄と言えるようなものは皆無。自分は本当に駄目な王子で、そんな自分に対してもあの国はずっと優しかった。もちろん厳しい人や心ない相手もいたけれど……それでも、だからこそ、その玉座には国のためになる人に座ってほしい。
 ドラクルにはきっとできない。あまりにも深い愛情と憎悪と哀しみに囚われている、あの兄には。だからミカエラは自分の希望を、ドラクルではなくロゼウスに託したかった。
 そのためなら、死んだって構わないとずっと思っていた。
 でも。
「ええい! お前たちも救援に駆けつけろ!」
「ですが閣下、それではこちらの警護が手薄に」
「向こうを突破されたらどちらでも同じだろうが」
「しかし奴らの目的はこの王子を奪うことなのでは……」
「いいからさっさと行け!」
 兵士の忠告も聞かずに、貴族の一人が彼らを広場の中央で闖入者たちが暴れているのを止めるようにと威圧的に命じて送り出した。
 剣を振り回す者たちに恐れをなして、集まってきた民衆の波が蠢き引いていく。
 広場に乗り込んできて暴れているのは、ローゼンティアの兄妹たち。フード付のローブに顔を隠していてもわかる。壇上からだとその光景はよく見渡せた。あそこで威勢よく警備兵たちを叩きのめしているのは、きっとロザリーだ。他二人はエヴェルシード人のようだから、一人は多分シェリダンだろう。ロザリーたちは、彼と合流したのか。そんなことを思っていた矢先。
「ミカエラ!」
 自分の名を呼ぶ声が聞こえた。
「良かった。無事だったのね」
 心底からの安堵を向けられてミカエラは瞬く。綺麗な笑顔は充分見慣れていたはずなのに、とても懐かしくて胸が痛んだ。
「ミザリー……姉様、アンリ兄様」
 ロザリーやシェリダンたちが暴れているおかげで手薄になったこの場所に、その二人がやってきた。第二王子アンリと第三王女ミザリー。ミカエラたちと一緒にいた兄妹の中では年長者二人だ。
 ミカエラが目を向けると、まだ数人は残っていた警備の男たちを、アンリが殴り倒して気絶させていた。
「ミカエラ! そこから降りてきて! 一緒に逃げましょう! 帰るのよ、ローゼンティアへ!」
 処刑台は遠くからでも見渡せるように高く作られている。ミカエラの位置からだと、ミザリーの頭も足元だ。その遥か下から、姉は必死に叫んでいた。
「帰りましょう! 今なら大丈夫よ!」
「姉様……」
 ミカエラと同じく取り柄がないなどと言われながらも、その美貌は世界で最も美しいと言われる姉が懸命に手を伸ばす。届かないとわかっているのに飛び上がって、彼が降りてくるようにと促す。
「ミカエラ! 助けに来たぞ!」
「アンリ兄様」
 全ての男たちを縛り上げ、二番目の兄がミカエラの方へと向かって来る。ミザリーの隣に並んで、手を差し伸べた。背の高い彼が腕を伸ばせば、ミカエラがそちらへと近づけば何とか抱えておろしてもらうことができる。だけど、だけど。
「兄様、姉様」
「ミカ」
「僕は……戻りません」
 アンリが驚いた顔をした。ミザリーが見る見るうちに蒼白になる。
「何を言っているのよ! ミカエラ!」
「そうだぞ、馬鹿なことを言わないで、早く戻って来い。俺たちと一緒に帰ろう」
 ミカエラはその場から動かないまま、ぶんぶんと首を横に振った。勢いをつけすぎて気分が悪くなる。ここ数日ずっと良くならない体調は慢性的な頭痛や眩暈と結びついていた。
「戻りません。僕は自分の言葉どおり、ここで死にます」
「ミカエラ!」
「もう、それしかないんです。僕が役立てるようなことは」
 アンリはよくわからないというような顔をしている。けれど、ミザリーがミカエラの言葉に反応した。
「ミカエラ」
 彼女と自分はある意味では同士だった。王家の兄弟姉妹の中でも、能力のない、利用価値のない王族仲間だった。
 ミザリーがミカエラによく構いたがっていたのは、それが理由だろう。ミカエラがいなければ彼女は王家で唯一の無能者になってしまうから。
 けれどだからこそ、彼女だけはミカエラの言いたい事がわかったらしい。
「馬鹿なこと言わないで! ミカエラ」
 宝石のようだと讃えられる赤い瞳に涙が浮ぶ。
「そんなことをしたって、ロゼウスは喜ばないわよ!」
「姉様」
「それともあんたは侮ってるの!? ロゼウスを! そんなに大事なお兄様が、あんたを犠牲にでもしなければドラクルに勝てもしないなんて!」
 美人は怒っても美人だと言う言葉を証明しながら、かつて見た事がないほど険しい表情で、彼女はそう言い放った。
「あなたがロゼウスを大事に思ってることは知ってる。ロゼウスのためなら何でもできるって。でも、本当にこんなことでロゼウスの奴が喜ぶだなんて思っていたら、それは大間違いなんだからね! 本当にあいつが大事なら、その力を信じてみなさいよ! あんたのやってることなんて、全然無駄なんだからね!」
 ミザリーの言い様には、ミカエラどころかアンリまで驚いていた。
「ミザリー、お前」
 第三王女は第四王子とさほど友好的な仲でもなかったはずだ。ロゼウスは自分からそれをひけらかしたりはしないけれど確かに才能溢れる人物で、ミザリーとは正反対。彼女はそれを嫉んでいたはずなのに。
「あんたが死んだって、何も変わらないわ! そんなこと考えないで! 戻ってきなさい! ミカエラ!」
 強い言葉。
 決して強くはないはずの人なのに、魂の込められた言葉。
「ミカエラ……お前は、本当はどうしたいんだ?」
 アンリが真摯な眼差しでミカエラを見上げて問いかける。
「本当にお前は、ここで死にたいのか? そんなことないだろ? お前、本当は生きたいんじゃないか? 生きて、俺たちと一緒に帰って、ロゼウスに会いたいんじゃないのか」
 自分より弱いものの、弟妹と言った存在の願いを叶えずにはいられない兄はそうミカエラに問いかけた。
 アンリ、ミザリー、二人の言葉がミカエラを揺さぶる。
「帰ろう、ミカエラ」
「帰りましょう」
 ローゼンティアへ。故郷へ。家族のもとへ。
 あの懐かしい日々へ。
「あ……」
 もしも、過去へと戻れるならば。
 ロゼウス兄様――。
 ふわりとやわらかい笑顔が瞼の裏に浮ぶ。思わず一歩前へと踏み出し、アンリの差し出す手に従って処刑台から離れようとしたミカエラは――。
 一瞬、強い光が広場中を満たした。灰色とも銀ともつかないそれのせいで、目を開けていられない。彼らだけではなくそこにいた全員が例外なく、目を瞑ってこの予期せぬ事態に困惑を表わした。その中で。
 視界が暗転する。
「え……」
 遠い正面に翻る黒衣。その手に弓は構えられているのに、矢がつがえられてない。鋭い切っ先が皮膚を裂き肉を抉る感触と共に、赤が広がった。
 破魔の銀の力が、全身へと染み渡っていく。
「ミカエラ――――!?」
 最期に聞いたものは、ミザリーの絶叫。
 
 僕の人生は、ここで終わった。

 ◆◆◆◆◆

 それは、圧倒的な光の洪水と共に起こった。
「くっ」
「う」
 シェリダンもカミラも、思わず目を瞑ってそれをやり過ごす。瞳を開けてなどいられない。反射的に瞼を閉じてしまうほどの、圧倒的な光。
 熱もなく音もなくこれならば、まさか目晦ましか? それにしては規模が大きい。相手の眼前でやるならばともかく、こんな広場一帯を包み込むような範囲で。
 けれどそれをできそうな人間が、知り合いの中に一人二人といる。
 まさか……
「ミカエラ――ッ!」
 女の悲鳴が響き渡る。ミザリーが弟の名を絶叫した。
「な……」
 一体、何が起こったんだ。
 光に視界を奪われていた数瞬の間に、何事か起こった。慌てて処刑台へと視線を向ける。もう戦いどころではない。シェリダンもカミラも、別の場所で警備兵を相手にしていたクルスやロザリーも、その他の人間たちも、誰もかれもが皆視線をそこへと向けて。
 愕然とした。
「な、に……」
 離れた場所で剣を取り落とす音がする。きっと必死に弟を助けようとしていたロザリーだろう。わかっても視線を離すことができない。その緋色の光景に釘付けになりながら、ゆっくりと自分の中で血が下がっていくのを感じる。
 処刑台の上が血に染まっている。シェリダンたちは何もしていない。首切役人たちでさえも動いていない。警備兵の使う刃もギロチンも、濡れてはいない。
 しかしミカエラの身体からは大量の血が流れている。これまでも何人もの血を吸ってきた処刑台が新たな血に染まり、木製の台は黒く変わった。端の方から血が滴って、赤い細い滝のようになる。それが石畳を真紅に染め上げた。惨劇の画は惨劇により描かれる。
 倒れ付したミカエラは苦悶の表情を浮かべていた。
 その命を奪おうとしているのは、一本の矢だった。
 その尾に黒い、鴉の羽根を使った矢。シェリダンはそれに見覚えがある。けれど妙だと思ったのはその矢が銀色に輝いていることで、わざわざ羽根までつけているというのに、木でできてはいない。何かの金属。あの輝きは、銀。
 ヴァンピルには動きを封じ、身体能力が人間を上回る頑強な肉体を持つ彼らにとって例外なく大きな負荷を与える事ができるという、銀だ。
 そんなものを身体に打ち込まれれば、あの吸血鬼の王子がどうなるか。
 そして矢の位置から、シェリダンは恐らくそれを射たのだろう者の場所も知った。
「ハデス――」
 黒衣が翻る。
 処刑台の正面、とは言っても広場の広さの分だけ離れた場所、街並みがまた始まる最初の建物の屋根に上り、彼はそこにいた。
 ただ白いだけでない肌はわずかに黄色味を帯びている。それに映えるのは黒い髪と黒い瞳で、際立った美形と言うわけではないが、誰もが認める端正な面差しだ。その面に、今は怖いぐらいの無表情を浮かべている。
 常態がそうだというのではない。今のハデスの顔は、明らかに作っている。これからのことに備えて。これからのこととは、何。
 彼自身が名を馳せて有名と言うより、有名なのは彼の姉である皇帝陛下だ。けれど帝国宰相という名だけが一人歩きしている感のある彼のことを、皇帝を知る者が見れば一目でわかる。彼はそのぐらい姉に良く似ているから。
 民衆はその名を知らないかもしれないが、少なくともここにいる者たちの中には彼を知る者が多くいた。
「ハデス卿?」
「あの方が、どうして!」
 カミラが眉根を寄せ、クルスが困惑して叫ぶ。
 すらりとしたその身に纏うのが黒い衣装というところはいつもと同じだが、普段とはどこか趣が違う。これまでは魔術師的なローブを羽織っていることが多かったのに、今日はマントと活動的なチュニックなど身につけているからだろう。何のためのその衣装かはすでにわかっていた。
 彼の手にすでに弓はないが、あのハデスのことだ。魔術ですでに隠したのだろう。
「ちょっと! どういうことなの!?」
「一体何が起こったんだ!?」
「処刑されるはずの王子が、すでに殺されているぞ!」
「誰がやったんだ!? 何があった!」
 ミカエラのことに、民衆も気づいてざわめき始めている。それを治めるべき立場にいるカミラ自身も何が起こったのかわからず困惑しているのだ。鎮静できるわけがない。
 これまで弟を助けようと必死で動いていたローゼンティアの者たちは身体から力が抜け、地に座りこんでしまっている。ロザリーが警備兵に取り押さえられようとするのを、クルスが慌てて止めに入った。サライが走ってきて、民衆に紛れていたが今の状況に衝撃を受けて動けないエリサを路地裏に回収して行った。
 シェリダンは処刑台の方へと目を移し、その光景を見つめた。アンリとミザリーは、人の頭より高い位置にある台に必死で手を伸ばしている。それに反応して、ミカエラが僅かに手を伸ばした。まだ生きているのか!? 先程のぴくりとも動かない様子から死んだものだとばかり思っていたシェリダンは驚き、そして。
「え――」
 処刑台の上にうつ伏せに倒れていたミカエラの身体が、指の先から灰となって消えていく。
「いやぁああああ!!」
 兵士に取り押さえられながら、ロザリーが叫ぶ。
「ミカエラ!」
 兄姉たちが呼ぶのも虚しく、彼の姿は白い灰となって跡形もなく消えてしまった。そんな場面になってようやく、シェリダンは今日、この場所に吹く風が案外に強いことに気づいた。ミカエラ王子が灰となった先から、風に流されて散っていく。
 あとには何も残らない。
 以前ロゼウスに言われたことを思い出した。馬鹿だな、シェリダン。最初の戦いについてのことだ。シェリダンがエヴェルシード王としてローゼンティアを侵略し、王侯貴族を残らず打ち倒したという辺りで。
 あんたたちは俺たちの身体を切り刻んで息を止めたつもりなんだろうけど、詰めが甘い。ヴァンピルは死んだら、灰になって消える。身体が残っているならまだそれは、復活の可能性が十二分にあるということ。
 では、もう生き返る見込みのないヴァンピルは灰になって消えてそのままだというのか。問うと、なんとも言えない顔で、その時ロゼウスは頷いたのだった。
 ミカエラは死んだ。
 そして彼はもう、目の前のカミラのように、誰かが命を与えれば生き返るなどということはない。もう二度とかえらない。
「なんだ……あれは……」
 驚きざわめいていた民衆たちからは畏怖の込められた声があがる。いいや、これは畏怖などというものではなく。
「死体が消えたぞ! 一体どういうことだ!?」
「化物! やはりヴァンピルなどと関わるべきではなかったのよ!」
「これが、ローゼンティアの……」
 動揺させられているのはシェリダンたちだけではない。エヴェルシードの民衆たちも同じだ。
 彼らが感じているのは、未知のものへと覚える純然たる恐怖。
 恐れは人を容易く狂気に突き落とし暴走させる。このような状態にある民衆を扇動する事は、ある程度の能力を持った為政者ならば容易い。
 彼にはそれがあった。
「聞け! この場にいる全ての民よ!」
 張りのある声が響き、全員の視線がそこへと集まった。シェリダンやカミラは反射的にそちらを向き、ロザリーやアンリたちは絶望に打ちひしがれながらものろのろと顔をあげる。
 聴衆の耳目を集めたハデスは、ゆっくりと腕をあげる。
 その腕の先は、はっきりとシェリダンへと向けられていた。彼とカミラが戦っている周囲には人がいない。誰かと間違えるはずもない。
 ハデスは高らかに宣言する。
「今回の事は、そこにいるエヴェルシード先王、シェリダンが起こしたこと」
「な……」
 一体何を――!
「和平を申し出たローゼンティアの王子処刑の意志を蹂躙し、玉座簒奪という我欲のために彼を殺害し、カミラ女王の御世を貶めようとした。シェリダン=ヴラド=エヴェルシード! 貴様こそ二国間の平和を脅かしこの大陸、ひいては世界に仇なす大逆の徒なり!」
「ハデス!」
 彼は一体何を言っている!? その言い様では、まるでシェリダンが全てのことを計画してこの国もローゼンティアも、全てを貶めようと……。
 シェリダンはハッとして目を見開く。そうだ、とハデスが言いたいのだということがやっとわかった。
 彼は私に全ての罪を着せようとしているのだ。
「馬鹿なことを言うな! 一体何の根拠があって!」
「では何故貴様はそこにいる。エヴェルシードを追われた人間が、この国にどんな手段を用いてでも返り咲く意志がなければ、戦乱を止めるならまだしも講和を邪魔する必要はないだろう?」
「――ッ!」
 咄嗟に、言葉が出なかった。
 それはまさに、この処刑場に乱入する前、クルスと話していたことだった。ここで上手くできれば、玉座を奪い返せるのではないかと。
 そう一瞬でも考えてしまった。それがシェリダンの敗因となった。
「皆の者! このエヴェルシードの民よ! 聞け! シェリダン王こそこの国を転覆する大逆人ぞ!」
 ハデスが言う。それに乗じて、カミラも言葉を発した。
「そうだ! 国に仇なす逆賊、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードを殺せ!」
「カミラ!?」
「大逆人を許すな! 現国王カミラ=ウェスト=エヴェルシードが命ずる!」
 あらん限りの声を出して叫ぶ。

「シェリダンを殺せ――!!」

 ヴァンピルという未知の存在に対する畏怖と恐怖を持ち、揺れていた民の心がそれによって纏め上げられる。数ヶ月前までは、他でもないシェリダンの手により治められていた民が。
「そうだ! シェリダン王を殺せ!」
「このような事態を招いた全ての災厄の元凶、シェリダン王を殺せ!!」
 はっきりと向けられる敵意、敵意、敵意。
 なんだ、これは。
 なんだ、この状況は!
「シェリダン様!」
「シェリダン!!」
 動揺のあまり、背後から斬りかかられたのにも気づかなかった。呼び声に反応して咄嗟に刃を跳ね上げて受けとめる。クルスとロザリーが周囲の警備兵たちをもはや手加減なしで倒し、こちらへとやってきてシェリダンに加勢する。舌打ちしたカミラが彼らから距離をとる。数瞬のうちに、目まぐるしく事態は動いた。
「撤収するぞ! 全員急げ!」
 指示を出せないシェリダンに代わるようにアンリ王子が叫んだ。目の前で弟の死を見て蒼白な彼は、けれど泣き叫ぶミザリーを抱えあげると、周囲が荒れ狂う民衆によって塞がれる前にと、一路広場の出口を目指した。ロザリーに手を引かれ、クルスに背後を守られながらシェリダンもそれに続く。それでもまだ頭が動かない。
 どうして、どうして、どうして。
 かつては友人とさえ思った男の酷い裏切り。彼が敵だとはわかっていたはずなのに、それでも心のどこかで甘えがあったのだと知った。
 ハデスは最悪の形で、自分を罠に嵌めたのだ。
「……ょうッ」
 唇を噛み締めると、血の味がする。
「畜生ッ!」
 どんなに叫んだところで、過去へは戻れない。


174

 かつこつと長靴の音は意外にはっきりと屋根に響いた。けれど、それを気にする者などいないのだからどうでもいい。
「苦肉の策ですね」
 どこからともなく現れた彼はハデスの隣に立ち、そんな風にまずハデスの行動を評した。神出鬼没と呼ばれる彼のもとにそんな風に現れるのだから、その男も立派に人外だ。いや、もとから立派に魔族だけど。
「状況を考えれば、不自然な気がしますよ。あの状態で、どうやったらシェリダン王がミカエラを殺す事ができたというのです?」
「多少の辻褄合わせなど、観客が勝手にやってくれるものじゃない? だって検証しようにも、ミカエラ王子の身体は消えてしまったしね」
 死ねば跡形も残らない。
「便利だよねぇ。ヴァンピルって、化物はさ」
 ハデスの皮肉にもドラクルは顔色一つ変えずに、また先程の状況を淡々と分析して責めた。肩口を過ぎるほどの彼の長めの髪が風に煽られる。
 屋根の上に登ったハデスたちは、そこから眼下をひしめく群衆の動きを見ていた。蟻の群を観察しているよう。この位置にいる自分たちは、たぶん蟻の巣穴に水を入れて溺れさせることができるように、黒々としたあの人だかりをも簡単に殺せるのだろうなということを、彼は思うのではなく感じていた。そして感じていることに感慨はなかった。世界はひどく、近くて遠い。
「あの立場で、シェリダン王がミカエラを殺す理由はない。カミラ姫を失脚させるにしても、それならばカミラ姫が進めた政策たる処刑を取りやめさせる方が効果的だと思いますけどね」
「それはそうだろうけど、そう言った合理的な判断をいざと言うときにとれないのが人間ってものでしょ?」
「ですが」
「そういうもんだよ。君たちヴァンピルは違うのかもしれないけれど」
 畏怖すべき魔族に対して感じる嫌悪。それでも儚げな容貌の、二国の講和を理由として死を選んだ高潔な少年に与えられた悲劇。もともと先王を幽閉、殺害して玉座についたというシェリダン自身の印象の悪さ。兄王子と妹姫なら前者の方が性格的に酷薄だろうという偏見。これまで為政者が目まぐるしく変わり侵略戦争を繰り返し国政が安定しきらなかたエヴェルシードで、また統治者が代わることによって生活が変わるのかと言う国民の不満。
 人間は恐ろしく脆く、自らが傷つけられることに対して過敏な生き物だ。一度警戒心を煽ってやればそこに冷静な判断など存在しない。狂った生き物を誘導して底なし沼に静めることなど容易い。檻に閉じ込められたことにも気づかず、勢いよく鉄格子に頭を打ち付ける愚鈍な動物め。
 エヴェルシードが自壊する火種などそこかしこに燻っていた。ハデスはそれを煽っただけ。ここはもともと、全てが綿密に仕組まれたものでなくても、一つを爆発させれば後はもうその炎の勢いに呑まれていくだけの国だった。
「ここでシェリダンを優位にさせるわけにはいかないんだから仕方がない」
「この事態を収めるべき、カミラ姫の器量を信じていないのですね」
「あなたはどうなのさ。ドラクル王。ならあなたは、カミラ姫にそこまでの能力があると思っているの?」
「いいえ。彼女には度胸こそありますが、執政はさほど優れているとは思えません。補佐が必要でしょう。今度のことも、ある意味ではあなたの助けがあってこそシェリダン王に敗北せずにすんだ」
「結局あなたもこれを勝利だと見ているじゃないか。ならドラクル、君は要するに、弟を僕に殺されたのが悔しいだけなんだろ?」
 せせら笑うと、一瞬だけ殺気が返る。しかしすぐにそれは収められた。彼の目的には、帝国宰相、魔術師ハデスという人間の協力が必要不可欠だ。ハデスは自分が、何かのことを起こすときにあまりにも使い勝手のいい駒であることを自覚していた。だからこうして、シェリダンにもドラクルにもヴィルヘルムにも頼られる。
 だが、それでいて彼は口を利かぬ意志を持たぬただの駒ではない。
「歪ですね。ハデス卿。あなたは結局何なのですか?」
「何って何?」
 先程の仕返しなのか、ドラクルが脈絡もなくそう切り出した。
「あなたは人間を馬鹿にしている。そうやってあなたという扇動者の言葉にたやすく誘導される人々を嘲笑して見下している。けれど、あなたは人間だ。いくら魔術と言う超能力を行使し、只人には不可能なことをできても、それでもあなたは人間だ。それは、あなたの魔族嫌いから見てもわかる」
 ドラクルは腕を伸ばし、ハデスの頬に手を当てるとそっと撫でた。
 人間より体温の低い、冷たい、不快な、気持ちの悪い、ヴァンピルの手。
 この手に悦楽を求めたこともあったけれど、それでも結局は僕の心は満たされない。僕が満たされる時、それは……。
「そうして人間を見下し、魔族さえも見下しながらあなたが本当に求めるものは何なのです? 人を駒として扱いながら、自らが駒扱いであることは許せない。それは私たち相手にではなく、もっと大きくて偉大な、あの方に対する反応として……」
「!」
 ハデスはドラクルの手を振り払った。魔力の宿る爪を持った右手でそれを行うと、切っ先がドラクルの生白い肌に赤い跡を残した。流れた血を彼は無表情に舌で舐めとる。そんなことをしたって、ヴァンピルの血は同胞を鎮めることはできても、再摂取によってヴァンピルの力に戻るわけではないらしいけど。
「シェリダン王が好きだったんでしょう、ハデス卿。けれど彼という友人を得てもあなたの心の欠落は満たされない。それを埋めない限り、あなたは自分の命と存在に価値をもつ、一人の人間として生きられない。だからその最終目標のために近づいて利用して今こうして貶めたシェリダン王なのに、いざとなったら辛い? やめてくださいよ。そんなあなたの勝手な感傷で、私に八つ当たりするのはね」
「お前……ッ」
 ハデスは自分を分析しようとするドラクルの態度にイラついた。胸倉を掴んで睨む。この姿では彼の方が背が高いために、さして向こうには動揺もないのが余計ハデスを苛立たせる。
「勝手なことを言うな。お前に何がわかる」
「知りませんよ。あなたのことなど」
「お前だって、自分勝手で狭量な価値観で生きて世界にそのわがままを押し付けているくせに! ロゼウスは憎いのに手に入れたくて、同じように本当は弟じゃなかったミカエラ王子を憎む事も出来ずにその死を悲しむ!? お前だって家族に対して複雑な愛憎抱きすぎて自滅しているだけだろう! そのために国一つ動かして多くの民の命を犠牲にした男が、何を常識ぶって――っ?!」
 突然、ドラクルに手のひらで口元を強く塞がれた。とうとう怒り出すのかと思ったけれど、違う。
「そろそろ民衆が散り始めこちらにも戻ってきます。お静かに。場所を移しましょう」
 彼に腕を引かれて、屋根を降りた。その途端、路地裏の薄汚れた壁に強く身体を押し付けられる。
「痛っ!」
 ロゼウスより劣るとはいえ、ドラクルもヴァンピルの中では桁違いに能力が高い方だ。当然、腕力含む全ての身体能力も。いくら魔力と言う特殊な力を持つハデスだって、純粋な暴力の前では勝てない。
 魔力の爪で抗おうとしても、その右手はとくに念入りに押さえ込まれている。動けない。びくともしない。酷い悔しさを感じて顔を上げれば、冷たい唇に呼吸を奪われた。
「〜〜ッ!」
 乱暴に口内をまさぐられる内に、ドラクルは体重をかけて足でハデスの身体を固定する。そしてハデスの右腕は離さないまま自由になったもう一方の手で、荒々しく服を引き裂いた。
「〜〜、新調したばっかだってのに、なんてことしてくれる!」
「それはすいませんね。あなた世界で二番目の権力者なんだから、しみったれたこと言ってないでまた買ったらいいじゃないですか」
 やっと唇を離されたのでそう言えば、返ってきた言葉はそんなものだった。反省のない口調で淡々と告げると、ドラクルは破れた衣装の隙間から手を差し込んできた。
「うあっ!」
 ちぎるかのような勢いでつままれた乳首に悲鳴をあげれば、耳元に顔を寄せた男が低く囁く。
「結局、私もあなたも同類なんですよ」
 その言葉と手付きに、ああ、やっぱり怒っているんじゃないかと夏場でも路地裏の影になった石壁の冷たさを感じながら思った。ドラクルの肌は冷たいのに、吐息だけが熱に浮かされたように熱い。
「私にはあなたの協力が必要だし、あなたにも私の協力が必要なんでしょう? ハデス卿。あなたが私を心の底では見下していようが、同胞である人間たちを侮蔑していようが勝手だし、シェリダン王に対して複雑になろうともどうぞ好きになさってください。私だとて、あなたを本当の意味で敬ったりなどしない」
 彼らの中で、何かが確実に剥がれおちていった。ドラクルは本来なら、言ってはならないはずの言葉を言っている。彼の場合帝国宰相たるハデスを敵に回すのはまずくても、立場が本来かなり上であるハデスは、彼を敵に回して本当の意味で困ることはないはずだ。それなのに真の目的をまだ言ってもいないハデスの態度を、彼がこれまでに感じたものだけで判断して彼の協力が必要だろうと決め付けている……。それが当たってしまっているのだから、なおタチが悪いのだけれど。
 削れ、剥がれ落ちていく、心の仮面。美しい皮一枚剥いだ人間の顔の下には、赤黒い筋肉のねじれ絡まった醜い内部が覗いている。
 何をきっかけにそうなったんだろうか。さっきのミカエラ王子の死? いや、違う。そうではなくて。予兆はたぶん、ずっと前から、僕たちがそうと気づいていないだけであったのだ。
 それ以上考える余裕は与えられなかった。ゆるゆると下肢をまさぐっていたドラクルが、ふいに強くそれを掴む。
「アアッ!」
「そういえば卿は、清純そうな見かけによらず、乱暴にされるのがお好きでしたね」
 耳を食みながら囁いて、ドラクルは言った。
「ならば望みをかなえて差し上げましょう」
 こんな時ばかり本来の身分差を逆に強調することによって、皮肉る。それだけ立場の違う相手であっても、ハデスはドラクルに対しては、無様に足を開く存在だろうと。
嫌味ったらしく馬鹿丁寧にそう言って、男は少年の身を引き裂いた。

 ◆◆◆◆◆

 焼きついているのは白い服の印象だった。
 ――兄様。
 兄弟の中で、白が似合うと言ったらあの弟だったと思う。俺もドラクルも白はよく着ていたけれど、それは「似合う」とかいうものではなかった。狂気の白が貼りついて剥がれない。そんな感じだった。
 ミカエラは違う。柔らかな、綺麗な、汚れない、白。春の終わりに咲く小さな花のような、優しい白。
 たいして興味があったわけじゃない。病弱でいつも部屋にこもりきりだと言う彼に会いに行ったのは、ほんの気まぐれだった。
 なのに、何故かこちらの予想外に懐かれてしまって。
 ――兄様、ロゼウス兄様!
 俺が部屋を訪れるたびに、青白い頬を紅潮させてミカエラが飛びついてくるのがなんだか嬉しくて……見返りがほしいから彼を構っていた。ドラクルの激しい憎悪に当てられた後に、優しくする振りをしながら自分が癒されたかった。言葉の通じない動物を構えば一時的に癒されるように。
 酷い兄だった。優しさの欠片もない人間だった。罵られても仕方ない。
 ミカエラは俺にとって、一番大切な相手ではなかった。本気で好きで愛されたくて仕方がなくて裏切ることを許せないほどに愛しい相手、ではなかったから、気安かった。傷つけることにも傷つけられることにもたいした意味を考えなかったから、側にいることも苦痛ではなかった。
 可愛い弟。俺に、ふわふわとした温かいものだけをくれた。
 それを、ふと、思い出した。
『ミカエラ……?』
 天も地もない水の中、その存在が世界から消えたことを知った。

 ◆◆◆◆◆

 はらはらと花が降る。森の小道に、雨のように。その儚い影が降り積もり、道を白く染め上げていく。蝶の屍のように繊細な花の残骸が、彼らの頭上に降り注ぐ。
 まるでセルヴォルファスであの凍てついた雨に降られた時みたい。頬に触れる花びらが、こんなに優しい色をしているのに氷のように冷たかった。安らかな木漏れ日に、白い蝶の屍が降り注ぐ。
 ジャスパーは隣に立つ人の袖を引いた。
「ロゼウス兄様、今……」
 言葉にはならない。この感覚を、どう言って伝えればいいのかもわからない。全身が震える。
 半身を切り取られたような虚無感に襲われる。
 血を分けた兄の一人にそれをどうにかして伝えようとしたところで、彼はジャスパーを見ないで正面に視線を据えたまま口を開いた。
「ああ。死んだな。ミカエラが」
 返ってきた冷たい声に、ハッと気づく。
「え、ええ……」
 ああ、そうだった。この人は今は僕の兄様のロゼウスじゃないんだ。その前世たる始皇帝候補、シェスラート。
「ミカエラ兄様……どうして……」
「エヴェルシードの方で何か騒ぎがあったようだと、確か前の街で聞いたんだったな。それと関係があるのかも」
 あの病弱な兄の気配が消えた。これまでのような、一度死んでも生き返れるただの死ではないこともわかった。本当の消滅。世界からその存在が消されたのだ。
「もともと病弱だったんだってな。何事かあれば、真っ先に死んでもおかしくはなかったんだろ?」
「それは……そうですが……」
 シェスラートの冷静な言葉に、ジャスパーも次第に落ち着きを取り戻す。心臓を針で貫かれたようなあの衝撃はまだ心に残っているけれど、耐えられない程ではない。
 そうだ。わかっているはずだろう、ジャスパー。
 僕らは今、とても危うい極限の状況にいる。いつ誰が死んでも、殺しても、殺されてもおかしくないような状況だ。
 わかっていたはずだ。そんな状況であるなら、確かに真っ先にあの兄が犠牲になってもおかしくはないと。何を今更、動揺する事がある。
 いらない。何もいらない。そんなものはいらない。そんな、すぐに揺さぶられる弱い心なんて、生きて行く上では不要だ。
「好都合じゃないか。ローゼンティアの血を引く者を、一匹減らしてくれたんだから」
 ロゼウスの顔をしながら、ロゼウスではない存在は平然としたものだ。ロゼウスはあんなにもミカエラに信頼され心を寄せられていたというのに、今その中にいるシェスラートはまるで知らぬ気に振舞う。
「それよりジャスパー、そろそろ来るぞ」
「はい。約束の時間です」
 シェスラートに言われて、ジャスパーは顔を上げる。彼と同じく道の先を見ていた。そこに、しばらくして小柄な人影が現れる。
「ロゼウス兄様! ジャスパー兄様!」
「ウィル」
 先日伝書蝙蝠を使って連絡をとった弟王子のウィルだった。彼は遠くからでもロゼウスたち二人の姿を認めると、嬉しそうな顔で走り寄ってくる。
「……兄様!!」
 ジャスパーを呼んだのかロゼウスの方を呼んだのか、彼はそう言って感極まった顔をすると、二人の間に飛び込むようにして抱きついてきた。
「良かった! 無事だったんですね! お二人とも!」
「ウィル」
 受けとめた体の確かな重みを感じる。弟の柔らかな髪を撫でる。そしてもう二度と、こうして自然に触れることは叶わなくなることを思う。
「それで、二人とも、とにかく一度ここから――」
 ローゼンティアに。その言葉は、音にされずに途切れた。
「え?」
 真ん丸く目を見開いて、心底不思議そうなウィルの表情。細い体から力が抜け、ずるりとその場に崩れ落ちそうになるのを、彼の片腕を無造作に片手で掴んだロゼウスが止めた。
 そしてそのもう片方の腕は、ウィルの脇腹に埋まっている。
「ど……して……」
 信じられない、と言った顔でウィルがつぶらな瞳でロゼウスを見上げる。そしてその兄の紅い瞳に、何の感情も浮んでいないことを知る。
「……これで一度死亡、か」
 まだ弟は灰になってはいない。それでも生命活動は間違いなく停止している。彼の死に顔を眺めながら、シェスラートが楽しげに呟く。
「邪魔なんだ。ローゼンティアのヴァンピルなんて。それがこの俺自身の子孫の血でもな」
 かつてこの世の支配者になり損ねた男は酷薄に笑う。
「今度こそこの俺が、ロゼッテを殺してこの世界の帝位に着くにはね」
 はらはらと白い花が蝶のように辺りを舞い、雨のように木漏れ日の隙間に降っていた。

 ◆◆◆◆◆

 銀の矢に心臓を射抜かれてはどんなヴァンピルでも生きてはいられない。
 最期の瞬間、見た空がとても青いようだったのは僕の気のせいなんだろうか。
 ローゼンティアの土を二度と踏む事はないだろうとわかっていた僕は、エヴェルシードで死ぬ。炎の国と呼ばれる隣国の空は、けれど湖の底から天上を覗き見たらこうなるのではないかというように、青く美しかった。
 故郷の空は常に薄曇で、昼間でも灰色に染まっている。僕はずっと、空は灰色なのだと思っていた。だからそう言ったときにロゼウス兄様が吃驚したように瞬いて、違うよ、と教えてくれた時は驚いたものだ。
 そんな他愛のないやりとりすら、今はこの目に映る空よりも遠い。そう、遠すぎて手が届かない。あの青と流れる雲には手が届きそうなのに、過ぎ去った日々には、もう二度と手が届かない。
 ロゼウス兄様。
 愛しくて、大好きで、どうしても幸せになって欲しい人のことを考える。今頃どこでどうしているものか。さっぱりわからないけれど、でも苦しい思いをしていなければいいと思う。
 そしてできるなら、どうか幸せにと。
 彼は特に聖人君子でもないし、聞きわけ良さそうな顔をして案外わがままだということも知っている。ロゼウス兄様は大人しい兎の皮を被った狼のような人だ。周囲が与える評価以上の能力を持っているくせに、自らは積極的には動こうとしない。
 でも彼のあらゆる力が誰よりも優れていることを、僕は知っていた。ローゼンティアの王となる人は、ドラクル=ヴラディスラフではなく、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアでなくてはならない。それは家の名前や正当な血筋という問題ではなく、ただロゼウス兄様の方が、ドラクル兄上より優れているから、それだけだ。
 大好きな兄様。
 ロゼウス兄様だけでなく、兄妹はみんな大好きで大事だったけれど、それでも特にロゼウス兄様が大切だった。あの人のために死にたかった。
 僕はとても役立たずで、何をするのにも使えなくて、無力で。蔑むこともできたはずなのに、ロゼウス兄様の目には一度だってそんな色が宿ったことはない。それが彼の周囲に一枚薄い膜が張られてそこから世界を見ている生だとわかっていても、それでも嬉しかった。彼が僕をどうでもいいと思っていることの証明こそが理由で惹かれるなんて、それこそ滑稽もいいところだ。
 あの人は優しくて、残酷で、強くて、脆い。
 僕はロゼウス兄様のために、何かしてあげたかった。役立たずのこの命を、誰かのために使いたかった。それができて初めて、僕は本当に意味を持って、生まれてくる事ができたような気になれるから。
 ロゼウス兄様のために死ねたのなら、僕はとても嬉しいだろう。
 後の事はきっと大丈夫。世界は僕が生きようと死のうと大きく動きはしないだろうけれど、でもロゼウス兄様がいる。だから大丈夫。
 そのロゼウス兄様が好きになったのがあのシェリダン王だというのはちょっと癪だけれど、それでも兄様がそう言うのなら仕方がない。あの憎らしい男の幸せも、どうか願っておいてあげるよ。
 僕らを裏切りローゼンティアに一度は仇なしたドラクルだって、ずっと僕の大事な兄様だった。もしも彼が赦される日が来るというのならば、できれば幸せになってほしいよ。
 ロザリーや他の兄妹たちも。ローゼンティアの残された民も、エヴェルシードでも何故か僕たちに優しくしてくれた人たちも、みんなみんなみんな、どうか幸せになって。
 世界がそうなってくれるのであれば、僕はこの命を失うことだって、悲しくはないから。だから――。

「シェリダン王を殺せ!!」
「大逆人を赦すな!!」
「あの男を地獄に落せ!」

 幸福を、祈る。
 どうか、どうか、どうか。
 この世に在る限り、どんな生き物も宿命から逃れられない。傷つけて傷つけられて間違って迷ってまた繰り返す。
 その祈りの儚さに幾度となく絶望し、与えられた運命の過酷さに繰り返し打ちひしがれながら、それでも――。

 全ての命ある者へと、祈り続ける。


 《続く》