164

 花は何度でも繰り返し咲くけれど、前と同じ花などない。それはあまりにも明らかな事実だけれど、人は言われなければそれを重要視しない。
 足元の花などどんなに美しくても、所詮はそれだけの存在。
 人の世の思惑など知りもせず、我関せずと花は美しくそこに咲く。
 それこそがこの世で、もっとも残酷な世界の理であるのかもしれない。

 ――たとえあなたが死んだところで、私がともに死ぬわけではない。

 あなたがいなくなったとしても、この大地にまた繰り返し、別の花々が咲き誇るように。
 かつて私はそう思っていた。

「でも、シェスラート……」
 今はもういない人の名を呼ぶ。
 朽ちた廃教会で、あなたの亡骸すら今はないこの場所で、その血の痕の上に立って私は地獄に最も近い天を仰ぐ。
 ――あなたと共に生き、あなたの命に、未来をあげたい。
 願いは叶わなかった。叶えられなかった。
 何一つあなたに与える事ができなかった。そうして私はあなたの救いになれず、その心を寂しさと憎しみと悲しみでいっぱいにしたまま死なせてしまった。その未来がわかっていたのに止められなかった。
「愛しているの」
 愛していた。
「愛しているの、今も」
 愛していた。誰よりも。
 本当に好きだった。守りたかった。守れなかった。
 自分が不甲斐なく情けなく悔しい。もう一度機会が与えられるのなら、今度こそこの存在の全てを懸けて、あの人に、何かたった一つ、一つでいいから暖かいものをあげたい。
「――神よ、この生涯をあなたに捧げた巫女の言葉です。どうか、聞き届けたまえ……」
 未来などいらない。来世など、転生など、そんな先の可能性はいらない。
 私の花はここに眠る。別の花を繰り返し繰り返し咲かせる意味などない。そんな永遠はいらない。
 だからせめてこの一瞬に、まだ機会をください。この命で、あの人を包む機会を。
 どうか、どうか。

 もしもまだ機会が与えられるのだとしたら、
「シェスラート」
 あなたを救うのは、どうかこの私であるようにと。

 神に願いは通じ、そうして私は今も、ここにいる。

 ◆◆◆◆◆

 酷く懐かしい夢を見た。
 硝子の割れた廃教会。虹色が欠けた窓に、歪な陽光が差し込んでいる。足元は瓦礫が転がり、一歩歩くたびに埃が舞って、それがきらきらと光を弾いていた。
 長椅子の布が破れ、薄汚れた灰色の綿が露出している。祭壇の像は無惨に欠けて首がない。天井の高いその部屋にでは、沈黙が針のように痛かった。すぐ近くで動いた人の気配も息遣いも体温を伝える空気の流れも何もかも感じていたけれど、シェスラートはその場を動かなかった。あの灼熱が脇腹を貫くまで。
 ――俺は、あんたのものだって、言った……のに……。
 ああ。お前は俺を裏切った。
 ――信じられない。
 俺を拒絶した。
 ――あんたも、ヴァルターと……同じだ。俺は…ずっと、側に……いるのに……。
 シェスラートは本当は捧げるだけで良かったのだ。どんなに想っても報われないのなら、無理強いはしない。そんな風に相手を手に入れても仕方がないと、もう十分知っていたから。
 深い傷口からどくどくと命の源が流れ出ていく。このままでは自分は死んでしまう。わかっていたのに、シェスラートは動けなかった。目の前にロゼッテと言う、あんなに美味しそうな“餌”があったのに。
 しかしどうやってもシェスラートがシェスラートである限り、ロゼッテを殺すなんて考えられない。もしもあの時、彼が自分の命を優先して生き延びるためにロゼッテを殺していたのなら、それはもうシェスラートではない。
 好きだった。
 大好きだった。
 本当に愛してた。だから拒絶されるのを覚悟で気持ちを告げたし、それを拒んだロゼッテを恨むこともなかった。ただ静かに諦めてシェスラートはシェスラートとしての幸せを掴んで、それで終わりにしようと考えていた。けれどロゼッテは。
 ――お前が皇帝になんかなったら、俺は永遠にお前を手に入れられない。サライにも誰にも渡したくない。シェスラート……ッ!
 嘘つき。
 この、大嘘つき。
 お前の感情なんか理解できない。お前が俺のことを少しでも想っていたなんて信じない。
 だってそうだとしたら、何故殺す?
 お前は俺が憎いから、だから殺したんだろう、ロゼッテ。愛する者を殺したいと思う奴がいるもんか。心から愛した存在ならば当然何百年でも何千年でも幾億の夜を、生かし続けたいと思うはずだ。シェスラートにとってロゼッテの発言は意味不明で理解不能だった。
 ――……さ、…い……
 ――シェスラート。
 ――赦さない。
 そう、だからシェスラートは、ロゼッテを赦さない。シェスラートを裏切り、殺してもかまわないほどにシェスラートを憎んだのはロゼッテが先なのだから、だからシェスラートはロゼッテを憎む。
 ――愛してい《た》よ。今は憎むべきお前。 
 昔は確かに愛していたし、その想いが変わることなどないと信じていた。シェスラートにとって、ロゼッテは一つの世界だった。決して手に入らないけれど眺めているだけで幸せになれる光の庭のような、そんな場所。
 好きだったのに、ロゼッテはシェスラートを裏切った。せめてただ放っておいてくれればよかったのに、シェスラートから何もかもを奪わずにはおれないほど。
 そんなにも俺が憎かったのか? ロゼッテ。
 ――お前が、この世界を導け――シェスラート=エヴェルシード。そしてロゼッテ=ローゼンティアはここで逝く。
 その命に呪いをかけよう。
 ――憎んでいるよ、シェスラート=エヴェルシード。
 お前は俺を裏切り、俺はお前を憎んだ、しの証拠に俺はお前に罠をかけよう。
 ――俺はお前を憎むよ、だから……。
 懺悔など、告解など許しはしない。優しい振りをしながら内心は酷く傲慢なお前の話を聞いてくれる存在などもういない。だから俺だって、憎いお前の話などもう聞かない。後はお前に俺の望みを押し付けるだけ。お前の意志など関係ない。
 もう、心など、いらない。
 だってお前が一番最初に、俺の心など「いらない」と切り捨てたのだから。
 ――そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のためにその命を捧げろ。俺を憎みながら。
 愛しながら。
 シェスラートはロゼッテのものだと言った。ロゼッテはそう誓った。ならば、名前を交換したシェスラートはロゼッテ=ローゼンティアとして、シェスラート=エヴェルシード。お前の全ての感情を連れて行く。
 ――何故だ……シェスラート……。
 ――だって、俺はお前を……。
 赦さない。
 俺は絶対に許さないし、赦さない。
 ――神の一番の教えは、赦し、受け入れることよ。
 苦笑する妻の顔を思い返すが、どうにも心が理解を拒む。赦す? 赦せ? 俺が、彼を?
 ふざけるな。どうしてあんな男を赦す必要がある。あいつは俺から全てを奪っていった。
 だからシェスラートは赦さない。決して赦さないから、ロゼッテを残していった。ロゼッテの望みどおりになどさせないために。
 死者は想いを語らない。死に逝くことによって、シェスラートはロゼッテへの憎しみを永遠にした。そしてロゼッテが、シェスラートから赦される術も永遠になくなった。
 赦さない。だから憎む。憎ませろ、俺に。
 そしてお前は殺されてしまえばいい。お前の存在になどもはやいっぺんの愛情も感じない。
 むしろ俺を拒絶し殺したお前が今も転生してのうのうと生きているのが赦せない。それならお前は、またもう一度死んでみればいいんだ。いや、今度は……今度こそ。
 この俺がお前を殺してやるから。

 そこで夢から覚めた。
「ん……」
「お目覚めですか? 兄様……いいえ。始皇帝、シェスラート……」
「んー……」
 シェスラートが目を開けた瞬間飛び込んできた景色は遥か昔の景色でもなく、ここ最近見慣れた森の風景だった。強行軍と野宿を繰り返し、確実に距離を埋めていく。
 シェスラートが名前を大々的に出してロゼッテを批難するだろう事はこの程度が最大だ。命を奪われたにしては、ささやかな意趣返しだろう。目の前の少年について自らが思い出すより先に、この身体の正当な持ち主が答えを出してきた。
「……おはよう、ジャスパー」
「おはようございます」
 甲斐甲斐しく世話をやかれ、身支度を整えられる。全て一人の侍従がそれをやっている姿は、はっきり言って間違っても高貴な身分のものではない。けれどそんなこと、どうでもよかった。
 そうだ。全てはどうでもよい。だって俺は死んで――。
「……あれ?」
「どうしたの?」
「いいや。なんでもない」
 訝るジャスパーへと首を振りながら、シェスラートはもう一度自らに問いかけた。
 本当にどうでもいいはずなのに、一度その生が終わった今もなお、どうしてあの男のことを忘れられないのだろう。


165

「来るのは二度目だが、相変わらず陰気な国だ」
 シェリダンが正直な感想を口にした瞬間、後頭部に衝撃が来た。
「失礼ね! 人の故郷を」
「素直な感想を言っただけだろうが。お前の馬鹿力でそう簡単に人を叩くな」
「何ですってぇ〜」
「ロザリー、俺たちは潜伏中なんだけど……」
 アンリ王子がロザリーの襟首をひっつかんでシェリダンから引き離したところで、このやりとりはいったん終わった。
 船は港などという上等な場所にはつかず、入り組んだ入り江を足がかりにローゼンティア国内に潜入することを決めた。シェリダンたちはトリトーンの港で海賊たちと別れ、小船でここまで泳ぎ着くことにした。
 港に来るまで行動を共にし、ついでに船にまで乗せた元山賊たちの行く末については……まぁ、なるようになったと言っておこう。今は船で元気に海賊と言う名の漁師稼業に精を出していることだろう。一度シェリダンに決闘で負け、呪いの洞窟までその目で見てしまった海賊の船長などは、これまでのやる気、もとい殺る気を急速になくして隠居したくなったらしい。もうヤツラはいっそ皆で穏やかな漁師生活でも送るといいのだろう。
 それはともかく。
 船から下りたシェリダンとクルスのエヴェルシード勢、呪いの洞窟から取り付いてくるかのようにやってきた巫女姫と名乗るサライ、海上で再会したロザリー、アンリ、ミザリー、ウィル、エリサのローゼンティア王族勢は、入り江から隠し洞窟を通り、国内に潜入した。
エヴェルシードの王城シアンスレイトは国の中央部よりやや南東に存在するが、ローゼンティア城は国土のちょうど中心部にある。ヴァンピルは人間と違い一つの血筋、つまりは王族を過剰なほどに崇拝するために、王がこの国の中心であることを名実共に象徴しているらしい。だからローゼンティア王国ローゼンティア王城のローゼンティア家、なのだそうだ。
 薔薇の国、白の王国ローゼンティア。
 吸血鬼の住まう国。魔族の国。
 そのどれもがローゼンティアを表わす言葉であり、そんな言葉で表しきれない独特の空気がこの国には宿っている。
 それはいつ見てもシェリダンたち人間の心を掴んで揺さぶる。今年のはじめ、この国を侵略しようとした際、国に一歩足を踏み入れた際兵士たちが凍りついたのを覚えている。隣国ではあるが王城を中心に町が取り囲み、その町の風景すら深い深い森林に隔てられて外からは窺えないこの国の現状は、足を踏み入れたものにしかわからないものだろう。
 シェリダンは直接訪れたことはないが、北方の人狼ワーウルフの国セルヴォルファスもこのような有様だという。魔族の国は人間の世界との交流を拒むかのように、こうして森に隔てられ、訪れた者を異次元に誘い込むかのようだ。
 シェリダンもエヴェルシードの軍人王として軍事的な見解を述べさせてもらうなら、この構造は決して利点とは言いがたい。神秘的と言えば聞こえはいいのだが、要は外から中の様子がわからず、逆に中からも外の様子を掴みにくいということだ。常に他国の侵略を警戒した要塞造りならまだしも、森林に視界を隔てられただけですぐにも攻め込める構造で武力的警戒を怠っているなど、滅ぼしてくださいと言っているようなものだ。
 シェリダンは横目でロザリーたちローゼンティア王族の様子を窺った。滅ぼしたシェリダンと滅ぼされた彼らローゼンティア王族が共にいる、この異常な光景はなんなのだろう。彼らの面持ちからその心の内までは覗けない。
 今はそれを余計に気にしても仕方がないと、深呼吸をしていつも通りの自分を取り戻す。目の前の光景に飲まれてはいけない。森林を越えたところでその光景に目を奪われた足が止まったあの日もこうして自分を奮い立たせた。自分は、前に進まねばならないのだ。前へ、前へ、ただただ前へと。願う未来のために。
「僕はこの前の戦争に参加しなかったので、ローゼンティアは初めてなのですが……」
 シェリダンたちは王城が見渡せる崖の上に立ち、眼下の光景を見下ろしている。クルスがその建物に目を奪われたまま感心したように漏らすので、シェリダンも同じようにローゼンティア王城に目をやりながら言う。
「ああ。見てわかるだろう。ここは《死神の眠る国》と呼ばれている。化物共の巣だ」
 言った瞬間、またしても後頭部と背中に衝撃が来た。今度はロザリーに背中を押され、ミザリー姫に頭を叩かれた。
「崖際で、落ちたらどうしてくれる!?」
「知らないわよそんなこと。距離があるんだから大丈夫なんじゃない」
「シェリダン、あんたねぇ!」
 彼女らは怒っているだが、シェリダンからすればもっともな意見だ。現に他国の様子をその目で見た事があるのだろう、アンリ王子は今度は何も言わず苦笑していた。シェリダンやクルスの視線が王城に集中していたことに気づいているからだろう。
「まぁ……人間にはわかりにくいだろうな、このセンス」
「お兄様!?」
 シェリダンよりもとっつきやすいと見たのだろう、クルスの両側には年少組のウィルとエリサが張り付いて、逆に質問をしている。
「僕たちにはこれが普通だからよくわかりませんけど、他の国は違うんですか?」
「ちがうんですか?」
「ええと……その……エヴェルシードの王城を見ましたよね。あれが、たぶん普通、いや、軍事国家だから多少練兵場とか武器庫が多くてものものしいかもしれませんが、たぶんあれが普通だと思いますよ」
 クルスが告げると、二人は驚いたように目をぱちくりとさせた。
「え! そうなの!?」
「あの灰色の石の地味なお城が普通なんですか?」
「まあ、そうだな。後は城や茶色がかった煉瓦作りもあるかもしれないが、大概はそういった落ち着いた色合いの石で組まれた頑強な城が多い。灰より白の方が多いか?」
「そうですね。エヴェルシードには王城以外にもそれぞれの貴族の居城がありますし、灰色が鉄を示すという意味で王城は灰、他の城砦は白や茶が多いんではないですか? ええと、うちのユージーン城は父上が侯爵を叙勲した二十年ほど前に建てられたばかりなので薄茶のやわらかい色合いをしていますが、イスカリオット城は白ですよね」
「ああ。公爵の時代にはそんなこともなかったが、ジュダの事件があったからあれだな、狂気の白と呼ばれるようになった城砦だろう。純白とはもちろんいかないが、イスカリオットはもともと富のある領主だ。血を流しどれほど汚れてもそれを完璧に取り繕ってしまえるそれが狂気だというのだろうな」
「ねぇ、シェリダン、ユージーン候。私、他のどこに国のどんな人たちに陰気だの化物の国だの悪口言われても構わないけど、あんたたちにだけは言われたくない」
「「ん?」」
 ロザリーが呆れたような眼差しで、口を奇妙に歪めたままこちらを睨んでいる。
「まぁ、うん、エヴェルシードは……まあともかく、うちの国が変わってるのは確かだと思うよ」
 そう言ってアンリ王子が指した先にはローゼンティア王城。
 デザインが変わっているわけではない。人目を引くのはその色だ。漆黒のその外観。
 黒曜石で積み上げられたかのようなその城。優美なその形を、漆黒の威圧が裏切る。更にその城は、世にも奇妙な銀と白の薔薇で取り囲まれていた。
「銀の薔薇……あれ、本物ですか?」
「うん、本物。死神の血に咲く薔薇だそうだ。本当かどうかは知らないけどね。ちゃんとした植物の一種だよ」
「それに、街の建物は赤いんですね」
「ああ。あれはただ単純に赤煉瓦を積み上げてあるからなんだけどね」
 漆黒の王城を取り囲むのは赤い街並み。そしてさらに外側を、黒に近いような濃い緑の木々が囲む。その木々の合い間にも薔薇が多く、赤や白の花をつけている。
「黒と、赤と、白。この三色しかぱっと見眼に入らない。お前らだからこそ生きていけるんだろうな。私は、こんな国に住むのは御免だ」
「エヴェルシードだって灰色の白に赤い服、でも髪は蒼ってかなりの極彩色じゃないのよ」
 シェリダンとロザリーはお互いにそれぞれの故郷をけなしあう。どうもこの辺りを考えると、人間と吸血鬼の間には、とても深い溝があるらしい。
 そんなシェリダンたちを横目に、アンリ王子がふと感慨深げに呟いた。
「やっと帰ってこれた……」
 彼らは辿り着いた。その深い闇、薔薇の闇の国へ。

 ◆◆◆◆◆

 白い花の咲く並木道を歩いている。特に整備されているわけではないけれど、森の中に自然とできた花天井の道。花びらが雨のように降ってくる。
 ここは確か……ウィスタリアの入り口に当たる場所。
 そして彼らが目指すのはこの世界の果てであって、遠い。
「っていうか、エヴェルシードはシュルト大陸の東方の国ですよ。それが、バロック大陸の西にある薔薇大陸までって、どんだけ遠いんですか」
「仕方ないわよ、エチエンヌ。だってヴァンピルの皆様が、私たちとは行けないって言うんだもの」
 エチエンヌ、ローラ、リチャードの三人は一路、世界の果てにある大陸、「皇帝領」を目指していた。
 その発端はローラが言ったとおり、「ロザリーたちローゼンティア王族の皆が人間と船旅はできない」ということである。
「だからって、どうして僕らは皇帝領まで行くわけ? ねぇ、リチャードさん?」
 ロザリーたちと別れた彼らは、リチャードの勧めにより皇帝領を目指すことになった。エチエンヌもローラもリチャードも、エヴェルシードではシェリダンの側近くにいた人間だ。あのままエヴェルシードにいたら危険だということは、よくわかっている。だからこうなったらローゼンティアの方に乗り込もうという話になった時、自分たちもついていくと言ったのだが、ロザリーやアンリ王子たちはそれを拒絶した。
『ローラ、エチエンヌ、リチャード。悪いけど、俺たちは君たちを連れて行くわけにはいかない』
 アンリ王子からきっぱりとそう言い渡された。あのロザリーでさえも、決まり悪げに目を逸らしていた。
 どうして――。
「他に宛てがないからですよ」
 回想に浸るエチエンヌの耳に声が飛び込んでくる。リチャードが、疲れたように微笑みながらそう言った。
「宛てって……皇帝領に宛てなんてあるの? リチャード? それともまさか皇帝陛下に?」
 ローラがリチャードにそう問いかける。
「デメテル陛下には、そうお目にかかったこともないんですが……」
「じゃあ、どうして?」
「私は《リヒベルク》だから」
 だからかの地に行けばそこに住まう人々の誰か一人くらいは力を貸してくれるのではないかと、リチャードはそう言った。
 エチエンヌとローラは手を繋いで歩きながら、同じタイミングで首を傾げる。
「いや、リヒベルクだからって、それがどうしたの?」
「……知らないんですね」
 リチャードは説明してくれた。
「始皇帝の話、知りませんか? 始皇帝シェスラート=エヴェルシードには、腹心の従者がいたそうです。その人の名が、ソード=リヒベルク、妻はフィリシア=リヒベルクと言って元シェスラート帝の恋人だそうです」
「え? 主君の恋人寝取ったんですか!?」
「いや、その場合下賜された、とかそういう風に言うんじゃない?」
「二人とも……」
 心持ちリチャードの肩が下がっているのはご愛嬌だ。
「……ともかく、私の家名はその通り、始皇帝の時代から続くその従者の家系なんです。ですから……たぶん、誰か力を貸してくれないかなー、と」
「結構いい加減なんですね……」
 エチエンヌは呆れた。リチャードもあんまり考えていなかったなんて。
 てくてくと花の降る並木道を歩きながら、彼らは話をする。というか、話をするぐらいしかやることがない。荷物が少ないのは幸か不幸か、路銀もさして多くはなく、不安が付きまとう。
「でも、実際、そのぐらいしか宛がないのも事実でしょう。シェリダン様はエヴェルシード王ですし、カミラ姫との問題はただの兄妹喧嘩ではすみません。もしも真剣にこの問題に介入できる人となったら……それだけの権威と力が必要なんです」
 一か八かの賭けだと彼は言う。
「でも、そのくらいなら、ロザリーたちと直接ローゼンティアに乗り込んで、自分たちの力で人脈を開拓した方がいいんじゃないですか? あてになるともならないともわからないものを頼りにするより」
「エチエンヌ……」
「あんた、ロザリー姫に置いていかれたことをまだ根に持っているんでしょ」
 ローラの指摘に、エチエンヌはうっと思わず呻き声をあげた。
「そ、そんなこと」
「ないとは言えないわよねー。だってあんたあれ以来ずっとロザリー姫のこと気にしてるでしょー。顔に出てるわよ、顔に」
「ローラ!」
 エチエンヌは姉に詰め寄るが、彼女は弟をからかうのが楽しいらしくやめてくれない。
 じゃれあう双子を一通り眺めた後、リチャードが少しいつもと違う声音でそのことを口にした。
「……仕方がないんですよ。あの場合。だって一緒に行けば、彼らは私たちを殺してしまうでしょうから」
「「え」」
 彼の言葉に、エチエンヌとローラはお互いから視線を外して一端リチャードの方を見た。
「リチャード」
「さん?」
 彼の笑みは陰影が深い。花の降る天井は白い花びらが埋めているけれど日の光なんてほとんど遮断されなくて明るいというのに、何故か彼の表情に落ちる影は深かった。
「……吸血鬼は人間の血肉を喰らって生きる存在です。一概に化物と断じるわけにもいきませんが、彼らが人間の血を飲まねば狂気に狂い、生きて行けないのも事実。海の上などという逃げ場のない場所、そして他に人間のいない場所で私たちと彼らが一緒にいたらどうなるか……もうわかりますよね」
『悪いけど、俺たちは君たちを連れて行くわけにはいかない』
 リチャードの沈痛な台詞に、出発前に聞いたアンリ王子の言葉が重なった。そしてロザリーの、どこか苦しげな表情と。
「彼らが化物とは言いません。けれど、私たちとはかけ離れた存在です。なまじ、その外見が私たち人間に近いからなおさら恐ろしさを煽られるんでしょうね。そしてそんな人間たちの恐怖を敏感に感じ取り、彼らは傷ついてゆく。死体を食い漁る醜い姿など、普通見られたくはありませんから」
 それが大切な人相手ならなおさら。
「でも、エヴェルシードとローゼンティアなんて、隣同士の国じゃない。そんな何ヶ月も航海するわけじゃなし、長くて数週間でしょ?」
「そうですよ。でも、向こうは五人、こちらは三人で、充分な栄養を取れるわけでもありませんし、船旅はとかく予想外の事故が付き物です。万が一、ということになったら」
「それは……・・あんまり考えたくないわね、でも」
「ロゼウスは?」
 ローラの言葉に被せるようにして、エチエンヌは問いかけた。
「でもロゼウスは? あいつは、血を飲まなきゃいけないって言っても、せいぜい一週間に一滴とかそんなもので充分ぴんぴんしてたよ? なのになんで」
「それは、ロゼウス様だからですよ、エチエンヌ。彼以外のヴァンピルはそんなに耐えられませんよ。薔薇の花で凌ぐといっても、限界がありますしね」
「ロゼウス様だから、って、どういうこと? リチャード、あなたなんでそんなこと知ってるの?」
「それは……」
 今日のリチャードは変だ。白い花が雨のように降る神秘的な並木道で、佇む彼はまるで別人のように見える。エチエンヌとローラはまた手を繋ぎ、息をつめてその問の答を待った。
「……なんでそんなこと知ってるんでしょう? 私は」
 双子はずっこけた。
「いや、リチャードさん、聞いてるの僕らだから……」
 リチャードは憑き物が落ちたようにきょとんとしている。もういつも通りのこの人だった。
「いえ……本当に。何故私はそんなことを知っているのか? 自分でもよくわからないんです。ただ」
 リチャードは困惑したように首を傾げながらも、何かを労わるような声でそう言った。何か、吸血鬼に関して特別な思い入れのある人間のように。しかし二人はリチャードからもシェリダンからも、そんな話は聞いたことがない。
「ただ、何故か……吸血鬼とは哀しい生き物なのだと、脳裏に刻まれているような気がして……」
(ロザリー……ロゼウス)
 彼の言葉に、エチエンヌの心はまた遠く離れた人へと飛んでいく。
 はらはらと降ってくるのは白い花弁。けれど瞼の裏に映るのは、血のように紅い彼らのその瞳の光だった。


166

 いつまでもこの黒と白と赤の国を眺めていても仕方がない。眼下の景色はいきなり変わったりしない。ここで立ち止まっていたところで、何か状況を打破できるわけでもない。
 とにかく、動き出さなければ。
「それで、これからどうするんだ?」
「うん、まずは……」
 シェリダンがアンリ王子に問いかけたところで、振り向いた視線の先の彼の背後から手が伸びてくるのが見えた。
「アンリ王子!」
 叫ぶと同時に、彼自身も素早い動きで臨戦態勢をとる。しかしシェリダンたちの意表を衝くことに、突然現れたその人物は攻撃をしかけるでもなく、いきなりアンリ王子に飛びついてきた。
「アンリ王子お久〜♪」
「そ、その声は!」
「それにこの行動、もしかして」
「はぁい。私ですよ?」
 この状態のシェリダンたち一行にやけに明るい声をかけてきたのは、一人の青年だった。もちろんこの国で現れる以上白い髪と紅い瞳のヴァンピルで、年齢はアンリ王子と同じくらいだろう。二十代半ばといったところか。
 王子に引き剥がされてようやく見ることのできた顔は、穏やかな表情を浮かべている。少し垂れ目の、温和そうな顔立ちだった。体格や姿勢も軍人や武闘家のものではなく、いかにも貴族の坊ちゃんと言った様子だ。
 しかし、この国ではそれが全くあてにならないこともすでにシェリダンは知っている。ローゼンティアのヴァンピルは一体どこに筋肉を隠し持っているんだというくらい、華奢な手足で強大な攻撃力を発揮する。ロゼウスがいい例だ。
 とにかくその人物は誰なのかと、シェリダンが問いかけようとしたところで―――。
「ひ、日和見ぃ!」
 ガシッ、と音を立てそうな勢いでアンリ王子がわざわざ自分からその男に抱きつき返した。
「……は?」
「日和見、ですか?」
 突如一行の前に現れた男はにこりと笑う。彼を呼んだと思われるその言葉に、シェリダンとクルスは思わずマヌケな声をあげた。日和見ってなんだ日和見って。どう考えても人名ではない上に、綽名だとしても奇妙だ。
「そうそう。私は日和見。日和見主義だからね。だからあなたたちと敵対するつもりなんてのも今のところないんだぁ。そこの彼、その物騒なものを下ろしてくれない?」
 異変に気づいた時点で腰の剣を抜いていたクルスを指して、彼はそう言う。
「シェリダン様」
「いい。クルス。引け」
「はい」
 シェリダンは自分に指示を仰いだクルスに頷いて見せてから、男へと向き直る。
「お前は何者だ」
「人に名を尋ねるときは自分から名乗れと言われなかったのかい? エヴェルシード元国王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード殿?」
「!」
 不満げに唇を尖らせて見せながら、男はそう言っていとも簡単にシェリダンの正体を言い当てた。再びクルスが剣を抜こうとするのを、ロザリーが止めている。
「やめて。この人はたぶん敵じゃないわ」
「たぶん?」
 ロザリーの不審な物言いに、シェリダンとクルスは説明役を怪しい青年本人からロザリーへと移そうとした。けれど他でもないその青年本人に、質問を封じられる。
「私の正体について知ろうとするのはいいんだけど、でもここにいたらさ、すぐに国王様の兵隊に見つかっちゃうよ。大分国内の様子が整ってきたとはいえ、まだまだノスフェラトゥの兵士はその辺をうろうろしているからね」
「国王様?」
 アンリ王子が今度は怪訝な顔をする。彼らの父親、あるいは養父にあたるローゼンティア王ブラムスは、すでに死んでいる。他でもないシェリダンたちエヴェルシードが殺したのだから覚えている。それなのに国王とはどういうことかと問いかける王子の視線に、日和見と呼ばれた男は事も無げに答えた。
「うん、ドラクル国王陛下だよ」
「!」
「お兄様……」 
 だいたいの人間が驚き、そして苦しげな呻きを漏らす。ミザリー姫が悲しそうに長い睫毛を伏せ、ウィル王子とエリサ姫は手を繋いで身を寄せ合った。
「残念だけど今のこの国は、ほとんどすっかりドラクル王のものなんだ。彼が来る前に一時期王権派とかいうわけのわからない集団と、反王権派とかいうドラクル王支持の一派が水面下で争ったりしてたんだけどねぇ。今はエヴェルシードの兵も引き上げて、見た目はいつも通りのこの国では、ドラクル王が全ての権限を握っているよ」
 まるで昨日の天気を語るようにあっさりとした口調で、日和見は説明する。険しい目つきをしたアンリ王子が、彼へと詰め寄った。自分より背の高い相手の胸倉を掴み上げる。
「日和見、これは一体どういうことだ? お前は俺たちの敵なのか? 味方なのか? 何の目的があってこんなことをしようとしている」
 その強い口調に年下のローゼンティアの兄妹たちは気の強いロザリーまでも含め、皆が顔を強張らせた。
しかし。
「え? 何が目的も何も、君らの方で私を呼んだんだろ?」
「は?」
「え?」
「日和見様、私たちは何もしてはいないのだけれど……」
 男の予想外の答に、シェリダンやクルスも含め皆が目を丸くした。呼んだとは、一体誰が……。
 そこで彼らは、これまでこの場所から極自然と姿を消していた存在に気づいた。
 わざと立てられた足音に、一同一斉に背後を振り返る。
「私よ。私がこの子を呼んだの。あなたたちに協力してくれると思ってね」
「サライ……」
 いつからいなかった、この女。
 シェリダンは絶句した。他の者たちも顎が外れているようだ。
「い、いないの気づかなかった。サライ、あんたそんなに存在感がな――」
「違うわよ失礼ね! ただ単に気配消すのが上手いだけよ」
 余計なことを言って頬を張られたアンリ王子を呆れた目で見遣りながら、日和見という男はシェリダンたちに提案する。
「なんだか面倒なことになっているようだけど、とりあえず場所移動しないかい? この場所、王城の近くが危険だっていう、そのぐらいは嘘じゃないとわかるだろう? 後の事は、そこの人が説明してくれるんだろう? 一度私の屋敷に来てくれないか?」
「……シェリダン、どうするの?」
 ロザリーが不安な表情でシェリダンの袖を引いてきた。彼はその顔に一度視線をやってから、日和見へと向き直る。
「いいだろう。どうせここにいても危険ならば、どこへ行ったところで同じだ。お前の屋敷とやらに案内しろ」
「うん。わかった」
 日和見はあっさりと頷き、極自然に歩き出して一行を案内する。
「ああ。そうそう、言い忘れていた」
 その彼がまた唐突にくるりと振り返り、私にしっかりと視線を向けてこう言った。
「ようこそ焔の王よ。この薔薇の国、ローゼンティアへ」

 ◆◆◆◆◆

 地面に敷いた布の上で、その身を絡めあう。
「あ……んぅ……うぁ、ああ」
「なかなかいい声あげるじゃないか」
 夜目にもはっきりとわかるほど、その肌は白い。自分を組み敷く美しい人の、眼前にある裸の胸を眺めながら、ジャスパーはあえかな声をあげた。
「あっ……や、め……ッ」
「ふふ。嘘だろう? ここはそんな風に言ってないじゃないか」
「ヒィ!」
 きゅっと悪戯に自身を握り締められて、思わず悲鳴が漏れた。それでも身体の反応は抑えられず、どろどろとした粘性の液体で彼の手を汚しながら、少年は身体を弄り回される。
「さぁ、言いなよ。ジャスパー。ローゼンティアの情報、お前たち王家の兄妹の情報、エヴェルシードの情報、お前が知っていること、全てを。俺がロゼウスの意識から読み取るには、限界があるんだ。何しろ深層心理の世界に叩き込んでしまったからな。こんなことなら半分は起こしておけばよかった。そうすれば、この身体でお前を犯す姿を見せつけてやれば、強情なあれも口を割ったかな」
 蝶をいたぶる猫のように酷薄な笑みを浮かべて、彼は両腕を背後の木の枝に縛り付けたジャスパーの身体を、好き勝手に弄ぶ。そうして苦痛と隣り合わせの快楽に人を落とし込みながら、拷問よりたちの悪い尋問で、ジャスパーから情報を得ようとする。
「あ……に、兄様……」
「中にいる俺はお前の兄様じゃないって、お前はすでに知っているはずだけど? ……ああ、でも、そう。お前はこの顔で、ロゼウスのこの身体で、無理矢理抱かれるのがそんなに嬉しい?」
「アアッ!」
 これまでじわじわと刺激されていたそれに、いきなり強い刺激が加えられた。その痛みすら快感と身体が認識して、堪えきれずに濁った液体を吐き出す。
「ふ……犯されて感じてイっちゃうなんて、無様だね。しかも、相手の顔身体は愛する相手ではあっても、中身は違う人間である俺だってわかってるくせにさ。それとも、それが男のサガだって言い訳する?」
「うう……」
「へぇ。泣くんだ。泣いてもいいよ。どうせ誰も助けになんか来やしない」
 目元に滲んだ涙は、生理的なものか心の痛みか。
「あ、痛ぅ!」
 考える暇も与えられず、今度は胸に手を伸ばされた。無造作な指先は赤い尖りを強く掴んで、玩具のように卑猥に扱う。
「いた、痛いッ、やめて……やめ、」
「まさか」
「ああっ!」
 乱暴に掴んだ手を離されたと思ったら、今度は歯で、血が出るほどに噛まれる。
「ひっ……ひっく……」
「ああ。そんなに痛かった? でもいいだろ。どうせすぐに治るんだし」
 乳首に滲んだ血をぺろりと舐めあげて、捕食者の笑みで彼は笑う。ロゼウスの綺麗な顔で、ロゼウスがジャスパーに見せたことのない残酷な表情で。
「兄様、兄様、ロゼウス兄様ぁ……」
「もぅ。そんなにロゼウスが好きか? まったく、俺が言うのもなんだけど、こんなののどこがいいんだか」
 どうやら生前もロゼウスとほとんど変わらない容姿と性格をしていたというシェスラートにとっては、ロゼウスは特に魅力的でもなんでもないらしい。あっさりとそう言い捨てて、再び組み敷いた少年の下肢を弄り出す。
「ふぁ……」
「ああ。ふぅん。いい具合だな」
 先程とは違い優しく扱かれて、痛みの余波じゃない素直な快感に身体が反応する。散々こうして飴と鞭を使い分けられて鳴かされてきたと言うのに、まだ足りないのか。
 ジャスパーはぽろぽろと涙を流しながら、その愛撫を受け入れる。どんなに自律自制しようと思っていても、身体は優しく触れる手に飢えている。
「んっ」
 後の方へと、滑らかな指がするりと一本差し込まれた。
「へぇ、こっちも特に腫れたりはしてないんだ。そう言えば吸血鬼なんだから当たり前だよな。死ぬ前は人間に交じって暮らしてた時間が結構長いから、もう自分の反応の方が異常なんだって理解し始めてさ。あんまり周りのヤツラがそうだっていう感覚なくって」
 シェスラートの言っている事はたぶん彼の感じている真実だろう。でも。
「もと、もと……あんたが僕をあんな風に、誰彼構わず抱かせたりしなければ、そんなとこが腫れるなんてしない……」
「はは! ああ、まぁ、そうだろうな」
 一文無しでセルヴォルファスを追い出された二人は、当然旅の資金もなかった。必要なものを揃えるのには金がいる。その費用を、シェスラートはジャスパーに身体を売らせることで手に入れた。
 もともとジャスパーだって一人で旅をしていた頃は、なりふり構わずなんでもやってきた。当然身売りなんて当たり前の手段だった。けれど彼がジャスパーに今回やらせたそれは、ジャスパーがそれまでやって来た方法よりもよほど狡猾だった。
 数人がかりで無理矢理押さえ込まれ、一晩乱暴に抱かれ続けることもあった。
 あるいは暇を持て余し金に飽かせた貴族の女のあそこを、手足を戒められた格好でずっと舐めるだけなんていうのもあった。どんな依頼でもシェスラートは巧みに相手から最大限の額を引き出す。復讐を諦めて、女衒にでもなった方がいいのではないかというほどの手腕だ。それでもどうしても金を払わないとか、値切り倒そうという客からは、殺して血を奪った。
「怒るなよ。こんなこと、生きて行くには当たり前のことじゃないか。他人を食い物にするなんて、誰だってやってる」
「ああっ」
 後に突っ込まれた指が、ぐちゅぐちゅと中をかき回す。散々吐き出させられた精液でぬめるそれが、異物感と快楽とないまぜになって背筋に痺れを走らせる。
「ん……ふぁ、ああ、いやぁ……」
 その指が身体の奥の一点を突くと、わかりやすく身体が跳ねた。にやりと口元を歪めたシェスラートが、そこを集中的に刺激する。
「はぁ……ふぁあああッ」
 もう少しで弾けるというところまで追い上げられ。
「えっ」
 前触れもなく、突然するりと指が中から引き抜かれた。異物感と圧迫感が急になくなって、楽になるよりも丹田に溜まった快感が取り残されて辛くなる。けれどそれ以来シェスラートがいっこうに動く気配がない。
「な……なんで……」
 彼はジャスパーの顎に指をあてて仰のかせると、視線を合わせて子どもに言い聞かせるように言った。
「ちゃんとイかせて欲しければ、俺に情報を教えるんだよ、ジャスパー。それを全部聞くまでは、お前の中に俺のものを挿入れてなんかやんない」
「そんな……」
「じゃあ言いなよ、まずは思い出しやすいだろうから、ローゼンティアの情報からでいいや」
「!」
 ジャスパーは必死で彼の視線から顔を背けた。半ば狂気に落ち時々記憶は途切れるようになって、最近まともに彼自身の理性が残っていたことなんて滅多にない。けれどこれは駄目だと思った。いくらもう祖国なんか関係ないと言っても、兄妹の情報を売るなんて。
「へぇ。抵抗するんだ? じゃあずっとそのままでいる? どうせ両手を縛ってるから自分で慰めることもできないだろうけど、いっそ根元を紐で縛ってイけないようにしたまま犯し続けるとか。むしろもう、これを斬りおとして目の前でどこかの獣に食わせるとか、そういう拷問方法、確かどこかになかったっけ……?」
 シェスラートの次々に述べる方法にざっと血の気が引く。それでもジャスパーは黙っていた。
「ちっ……そうだな、じゃああれをやるか」
「え? ……うあぁ!」
 突然何事か思いついた様子のシェスラートが僕の上に馬乗りになる。そうして彼は無造作に伸ばした手のひらで、ジャスパーの目元を覆うように頭を掴んだ。
「ああっ!」
「見せてもらうぞ、お前の記憶。全部はわからないけど、それでも一番強烈な弱点くらいはわかるものさ……」
 僕の、一番の弱点……?
「……ふ、くっくっくっく、あっははははは!」
 シェスラートは突然笑い出した。
「ああ! そうなんだ、そんなにロゼウスが好きなんだ。なるほどね……」
「な、何を」
「大好きなお兄様がとられるのが許せなくて噛み付いたら、シェリダン王に見事に報復されたってわけ! 目の前で大事なお兄様が男に掘られている場面を見るなんて、そりゃあ災難だよな」
「なっ……!」
 よりにもよってそんな記憶を。羞恥に赤面するジャスパーを、しかしシェスラートは思いがけず真面目な表情で見下ろしてきた。口元は微笑を形づくるけれど、目は笑っていない。
「ねぇ、ジャスパー。だったら、共犯にならないか?」
「え?」
「お前はシェリダンが憎いんだろう? 俺の目的も奴を殺すことだ。ローゼンティアのことは言えなくても、憎い仇の情報なら幾らだって渡せるだろう?」
「……僕はあの城ではずっと他の皆と引き離されて閉じ込められてたから、ほとんど何も知らない」
「ああ。それでいい。知ってる限りのことを話してくれ。どんな情報でもないよりはマシさ」
 そうして、シェスラートはジャスパーから情報を聞きだすと、腕の拘束を解く。
「協力しようじゃないか。お互いの目的のために」
 暗い夜空の下に、湿った音が再び響きはじめた。

 ◆◆◆◆◆

 袖を捲り上げて腕を見る。薄い。ほとんど色がない。
「くそ……ッ、まさか、こんなに早く……ッ!!」
 ハデスの右腕に刻まれているはずの選定紋章印が、もはやその意味をなさぬほど薄くなり消えかけている。皇帝が交代する証だ。ロゼウスの力が目覚め始めている。
「畜生……まだだ。まだ、何も上手く行ってなんかいないっていうのに……!」
 焦りばかりが募って、上手く物事が判断できない。このままではロゼウスに全てを奪われる。わかっているのに、ハデスにはどうすることもできないのが悔しい。
「どうすれば――」
 ヴィルヘルムはすでに殺された。ドラクルはこのことに関しては知らない。シェリダンはやはりあてにならない。使える駒は、どれだ。
「ジャスパーはシェスラートと協定を組むだろう。あの強かなガキなら、必ずやる。カミラにエヴェルシードを動かさせ――、いや、駄目だ。これ以上ことを大事にしたら他国に介入する理由を与えてしまう。でも……始祖皇帝が目覚めたら、僕に勝ち目なんてないぞ……!」
 苛々と爪を噛むが、何の解決にもならない。苛立ちが増すだけで、ハデスは指を離した。
「こうなったら、また冥府から魔物を呼び寄せてけしかけるか……? だが、始皇帝にどこまで通用するか」
 ハデスだとてこれでも帝国宰相として何十年も生きている。ロゼウスにあっさり負けるなんて思いたくはない。だが始祖皇帝が相手ならば話は別だ。
 遠見の術で覗き見た目に映る光景。
「畜生」
 この腕には薄くなった選定印。
 もう、時間がない。
「何してるの?」
 ハデスの苛立ちを増す声が、背後から緩くかけられた。あまやかな香りと共に、細い腕が背中から抱きついてくる。
「何でもない」
「そんな風にはとても見えないわ」
「何でもないって言ってるだろ!」
 彼はデメテルを払いのけた。今は何もかもが鬱陶しくて仕方ないと言うのに、その苛立ちの大元にもなっている相手に引っ付かれて嬉しいわけがない。
「カリカリしてるわね。ハデス」
「そういうあんたは、随分余裕だね、デメテル姉さん」
 もう何をこそこそする必要があろうか。どうせバレていることなんだ。今ここでぶちまけたところで何の問題があろうか。だからハデスは叫ぶ。
「お前はそんなに僕が足掻くのを見ていて楽しいか!」
「え?」
「何故何も言わない! 僕が皇位を狙っていることを知っているくせに、どうして何も言わないんだ!!」
「それは……」
 突然激昂したハデスの様子に、何故かデメテルが眉根を寄せた。歪むその顔が答を口にする前に、ハデスは先手必勝とばかりに叫ぶ。
「そういうところが気に食わないんだよ! 姉さん!」
 目障りならば消せばいい。
 邪魔になるなら殺せばいい。
 それすらも面倒ならば四肢をもぎ取って閉じ込めておく事だって、なんだってできるくせにこの人はやろうとしない。デメテルはハデスより力が強い存在、世界皇帝。帝国宰相如きの謀反など気づいたその瞬間に握りつぶせるくせに、何故今まで弟を泳がせた。
 それともハデス程度の力では、敵にすらならないと言うのか。
「あんたのそういうところが憎いんだよ!!」
「ハデス……」
 そうだ。憎くて、憎くてたまらない。気に食わないなんてまだ生温い。僕は確かにこの人が憎い。ロゼウスよりも。
 文机の上のインク壷やペンを全て腕で振り払って薙ぎ倒して、姉の方へぶつけてからハデスは部屋を出る。こんなことをしたところで何にもならないことは知っている。ただの癇癪だ。それでも止められない。どうしようもない。
 足音荒く、ハデスは部屋を飛び出した。
「あーあ……」
 床に散らばった書き物道具を見て、デメテルは溜め息をつく。女官がまた嘆くだろう。インク染みが絨毯について、これはきっと落ちない。そのままにしておくのと片付けてしまうのと、どちらが良いものか。
 とりあえずインク壜だけでも片付けようと手を伸ばしたところで、指が滑った。インクの中に指先を浸して、真っ黒になる。
「あ……」
 やはり私では駄目ね。ここ数十年ずっと家事など召し使いに任せきりで自分ではやってこなかったデメテルはそう思った。皇帝になる前は、一番身分の低い一族で、奴隷のような暮らしを当然としていたというのに。
 ハデスはあんな生活を知らない。だからこうして床にインクを零しても、それを嘆きながら片付ける侍女たちのことなど気にせず部屋を出て行く。
 床に落ちたインクやペン。
 零れたインクに浸した指先は真っ黒。
 黒は我らが色、黒の末裔の色。
 デメテルは先程ハデスに振り払われた手をそっと押さえる。
「何故、だなんて……」
 そんなの、決まっているじゃない。
「あなたに時間がないということは、私にも時間がないと言う事だわ」
 世界は、刻一刻とその様相を変えていく。


167

 両国の王が新たに入れ替わったことで、ローゼンティアとエヴェルシード、二国間には微妙な緊張状態が続いていた。
「まだっるこしいわね。そろそろさっさと仲直りしたことにして、完全にシェリダンを追い詰める手筈をあの方と整えてしまいたいのに」
「仕方ありません。女王様。よもやあなたとドラクル王が手を組んでそれぞれの第一王位継承者を追い落としにかかったなどと、言えるわけもないのですから」
 腹心の部下の宥めにも、カミラは拗ねたような顔を崩さない。民への体裁などどうでもいいとまでは言わないけれど、シェリダンがいつ玉座を奪い返しに来るとも知れない間は生きた心地がしないのも確かだ。
 今日は謁見の間ではなく、執務室で話を聞いている。大きな窓から明るい日差しが入り込むけれど、その窓は巧妙に飾りに見せかけた鉄格子が嵌っている。一国の王ともなればいつ狙撃されるかわからない。弓を射られても矢を弾き返すよう、窓にそうして細工が施されている。
 そしてこういったこの環境こそが、軍事国家エヴェルシードの王になるということ。
「何かいい方法はないかしら」
「ローゼンティアをエヴェルシードが侵略したというのは事実。和解が一朝一夕に成り立つはずもありません。向こうの王がローゼンティア内部を支配し整えるのを大人しく待ってみてはどうでしょうか」
「結局、それしかないのよねぇ」
 エヴェルシードの兵はカミラの命令で引かせ、ローゼンティアが国交を平常どおりに再開できるようになるまで待つしかない。部下にそう宥められて、カミラは溜め息つきながら頷くしかなかった。先日のセルヴォルファスへの侵略で軍部からのカミラへの支持は安定したけれど、やらなければいけないことはまだ山のように残っている。王という職業は大変だ。だからといって、投げ出す気もなければ譲るつもりもない。
「シェリダンの動向は全くつかめないの?」
「ええ。先日、トリトーン港の方でそれらしいお方が海賊相手に大立ち回りを繰り広げた、というのが風の噂として伝わってきているのみです」
「そう。でも、それには確かユージーン侯爵らしい連れの姿も書かれていたのよね……港になんか向かって、何をする気かしら、シェリダンのやつ」
「申し訳ございません。わたくしどもにはわかりかねます」
「いいわ。下がっていなさい」
 部下たちを下がらせて、カミラは執務室でまた一人書類と向かい合いながら一段と深い溜め息をついた。
「思惑、か……」
 シェリダンの思惑はもちろん気になるけれど、その他にも気にしなければいけない問題が今のカミラにはその手元の書類の山のように積んである。そう、さしあたって重要なのは。
「結局、この前のあれはなんだったのかしら」
 彼女は書類にサインする手を止め、数日前のことに思いを馳せる。
 セルヴォルファス陥落の報を聞き、帝国宰相ハデスからはこれからのことについて慎重な対応をするようにと求められたあの日。
 ここにやってきたのは。
「カミラ陛下、失礼します」
「いいわ。入りなさい」
 執務室の扉が叩かれ、カミラは入室の許可を出した。城仕えの通常のメイドの格好をした者が、特に気負いもない様子で告げてきた。
「あの、女王様。先日お倒れになったミカエラ王子が、先程ようやく目を覚ましました」
 これで、気にしなければいけない問題のうち一つが解決される。
「わかったわ。御苦労様。あなたたちは休んでていいわ」
 休息とその裏に人払いを命じて、カミラはかの王子のもとへと足を運んだ。

 ◆◆◆◆◆

 これが、ローゼンティア第五王子ミカエラ=テトリア=ローゼンティア。
 カミラは目の前の寝台の上に半身を起こす少年を見た。美しい顔だが、その顔色は酷く悪い。もともと紙のように白いヴァンピルの肌が、目に見えるほど青褪めている。手足も細く、女であるカミラ自身と比べてもたくましくは見えない。今にも倒れそうに儚げな風情を漂わせる少年。
 この人物のことを、彼女ははっきり言って名前程度しか知らない。吸血鬼の王国ローゼンティアは閉鎖的な国で、他国とほとんど交わらない。隣国であるエヴェルシードとも本当に友好を保つ程度の付き合いしかしていなかったので、エヴェルシードの王女であるカミラですらローゼンティアの王族の事情には詳しくない。普通なら隣国同士両王家の婚姻などで結束を深めるものだが、ローゼンティアに限ってそれはないのだという。
 薔薇の王国は魔族の国。ローゼンティアの民は、皆例外なくヴァンピルという吸血の魔人たち。
 そのために彼らは、人と極力関わろうとはしない。また、人間と魔族の間に子を成すことも普通は歓迎されない。魔族は魔族の国の間でその血統を守っている。
 ローゼンティアのヴァンピルたちは、ほとんど外の国に顔を出さない。
 特にこのミカエラ王子は、人間よりも身体能力に優れ頑強であり、再生能力に秀でたヴァンピルの中でも異例の存在だと聞いた。何しろ、彼は強靭な肉体を持つヴァンピルにしては珍しく病弱なのだそうだ。
 ふわふわとした巻き毛に、赤い瞳。染み一つない手は青白く、生気がない。
 彼は、先日いきなりこの城へとやってきた。エヴェルシード王城シアンスレイトへ。シェリダンを追い落とそうと襲撃をかけたときに逃げたはずのローゼンティア王族たちの一人が、よりにもよって何故ここへ、今この時に舞い戻ってきたのか。
 城内は小さな混乱に包まれ、カミラも驚いていた。見れば他にローゼンティア王家の連れは見当たらず、バートリ公爵の弟という人物が一緒だったらしい。
 そして、いざ謁見の間にてその話を聞こうとしたとき、口を開く前に彼は突然倒れた。
 もともと具合が悪かったところを、無理してシアンスレイトまで来たらしい。バートリ公爵の別荘の一つはこの近くのリステルアリアにもあるが、バートリ領自体は国内でも王都から一、二を争う遠さ。
 そして数日間熱を出して寝込んでいたミカエラ王子の意識が戻ったと聞いたのは、つい先程のことである。
「突然すみません、カミラ姫……いいえ、エヴェルシード女王陛下」
 寝台に半身だけを起こしたまま、彼は脇に座るカミラへとそう謝罪を述べてきた。
「いいえ。それよりも……単刀直入に窺います。殿下は、一体何をしにここへ?」
 病人相手に回りくどい言い回しをしてまた倒れられても困る。カミラは率直にそう尋ねた。この少年は、ロゼウスの弟。国を裏切ってまでカミラに味方してくれるドラクルとはまた違った意味で、複雑な思いを抱く。
「……ローゼンティアとの講和に、手間取っていると、お聞きしました」
 前置きなく尋ねた言葉に前置きなく答えようと口にされたその言葉は、現在のこの国の最重要懸案事項だった。ローゼンティアとどのように和解に持ち込むか、カミラも部下たちも頭を悩ませている。
 ここは上手くやらねばならない。失敗は許されない。
 あの兄が隣国を侵略など余計なことをしてくれたせいで、今の彼女がこんなに苦労しなければならない。ドラクルには借りがありすぎる。それを幾らかでも返さないと、いつまで経っても対等の立場には立てない。そして下手に回るということは、いざというときに動けるような情報経路を確保できないということにもなる。ドラクルだけでなく、ハデスにもその力を認めさせなければならないカミラはそれに歯噛みする。あの二人の企みから、自分一人弾き出されるわけにはいかない。
 考え始めると堂々巡りで止まらないその考えに横槍を入れるような形で、ミカエラ王子の言葉は驚くべき方向に続けられた。
「一つ、方法を提示したい」
「方法?」
「エヴェルシード女王、カミラ陛下。僕は今のこの国と我国との現状を憂えています」
 身体が弱く、ずっと寝台の上で過ごしてきたという王子は、けれど心の弱さとは無縁の表情で淡々と続けた。
「軍事国家であるエヴェルシードと違い、ローゼンティアにははっきり言って、長期の戦に耐えるだけの国力はありません。戦が続けば民は疲弊し、国は荒れてゆきます。仮にもローゼンティアの王子であった僕としては、その事態は、間違っても歓迎できるものではありません」
 自分の国の弱点を敵国の王であるカミラの前で語った王子は、その赤い瞳で真っ直ぐに彼女を射抜く。
「だから」
 そこに込められた重みには、確かに命がかけられていた。
「僕は、ローゼンティアの王子としてあなたに講和を申し込みます。この、命と引き換えに」
「え……」
「ゲッシュ……誓約です。もちろん、ご存知ですよね」
 数代前の皇帝が定めた法の一つにそれはある。ゲッシュ。誓約を意味するその言葉。
 命を懸けて何事かをなす時にそれは使われる。
「カミラ女王陛下。あなたはエヴェルシードに有利に事を運ぶために、講和の方法を探しているのでしょう。このままただローゼンティアに頭を下げればエヴェルシードは戦争に負けたことになり民たちの気勢を削ぐし、諸国への体面も悪い。かといって、侵略された側のローゼンティアが国を取り返したことを謝罪するわけもなく、向こうが容易くこの国を許せば今回の出来事の裏には何かある、と世界に知らしめることとなる。それは、あなたにとってもお困りなのではありませんか」
 ああ、それとも、我が兄ドラクルにとっても、と言うべきでしたか。綺麗な顔で、綺麗な笑みで、けれど紛れもないヴァンピル特有の酷薄さを込めて彼は笑う。
「今のままでは両国とも動く事はできず膠着状態が長引きます。僕はローゼンティアの民たちをこれ以上、我が兄の野望に巻き込んで苦しめたくはありません。ですから、あなたに協力してもらいたいのです。カミラ女王陛下」
「私に、どうしろと」
「先程申しあげたとおりです、お願いを聞き届けてください」
 綺麗な、綺麗な、綺麗な、その笑み。
「エヴェルシード女王カミラ=ウェスト=エヴェルシード陛下。わたくし、ミカエラ=テトリア=ローゼンティアを処刑し、その血をもって二国の講和を成してください」

 ◆◆◆◆◆

 能ある鷹は爪を隠すのだという。僕にとって、鷹とは兄様のことだった。
 ――あのね、ミカエラ。
 ふふ、と大変な秘密を打ち明けるように薄暗く楽しそうに笑いながら、ロゼウスはその時、ミカエラにこう言った。
 ――何かあったときにはね、実際より愚かなフリをしておくんだよ。相手が自分を侮ってくれる方が、かえって後で有利に働くから。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア王子は四番目の王子にして本来は第三王位継承者。第三王子ヘンリーに継承権を譲渡したため第五位にまで下がっていたが、どちらにしろ彼に玉座を狙う気など微塵もなかったことをミカエラは知っている。
あの人の考え方は、間違っても人の上に立ち民を導こうという者の考えではない。いざとなったら民を守る事はするだろうけれど、教え導く君主としての心構えなど、ロゼウスにはまったくなかった。そしてその時はそれを、不自然になんて思わなかったのだ。
 ――ねぇ、ミカエラ。お前もきっといつか、本当に欲しいものを手に入れられると、いいね……賢さをひけらかすのは愚かだよ。そうして自ら苦難の壁を積み上げるくらいなら、緩い荊鉄線を乗り越えてごらん。その方がきっと楽だ。
 ああ、兄様……たぶん、あなたの言う通りなのでしょう。僕の王よ。
 それでもあの方は、鷹だったのだ。
 その身の内に鋭い爪を隠す、鷹だったのだ。

 これがエヴェルシード王国の現国王、カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 ミカエラは目の前に座っている女性を見つめた。すぐ上の姉ロザリーと同い年である十六歳。蒼い髪に橙色の瞳であるエヴェルシード人の中では特徴的な、濃紫の髪に黄金の瞳を持っている。波打つ髪はヴァンピルの白髪と違い夜空の色で存在感がある。激しい気性を瞳の宿し、多くのエヴェルシード人がそう言われるように火のような印象を与える人だった。
 彼女は今のこの国の王で、ミカエラたちを一度は追い詰めた勢力の一派で、シェリダン王の敵。兄であるロゼウスがシェリダン王に味方する意志を決めたからには、彼の敵である彼女はミカエラにとっても敵ということになるのだろう。
 先日は謁見を求めてすぐに話しをするつもりだったのに、倒れてしまって不覚だった。もうそろそろ限界だ。自分で自分の身体の調子がわかっている。与えられた一室の寝台に寝かされて、動くことが出来ない。豪奢な部屋。間違っても人質扱いとして物置に押し込まれることなんてない。この分ならいけるだろう。
 自分はもうすぐ死ぬ。
 だからこそその前に、ミカエラにはやっておかなければいけないことがある。この身体の弱さのせいで、故国に戻る兄妹についていくこともできなかった。恐らくもう二度と、自分はローゼンティアの土を踏む事は叶わないだろう。あの今となっては懐かしい国の様子をこの目で見る事は叶わない。もう二度と。
 薔薇の国よ、さよなら。
「いいえ。それよりも……単刀直入に窺います。殿下は、一体何をしにここへ?」
 話を始めるとすぐに、カミラ女王はそう切り出した。あのシェリダン王の妹姫にしては、腹芸は苦手らしい。直球勝負で来たカミラに、こちらも同じような態度で返す。
 愚かに振舞え、とロゼウスは言った。
 ミカエラの真の目的など、この女王に気づかせてはならない。
「……ローゼンティアとの講和に、手間取っていると、お聞きしました」
 本人の申告通り単刀直入に切り出された話にこちらも本題をすぐさま返す。世間話も追従も無意味。腹の内を探りあうのは、ある程度手札が出揃った頃でないと自分には無理だ。できるならば、相手もそのくらいの力量であるならば願ったり。
 ここは上手くやらねばならない。失敗は許されない。
 ドラクル兄様。残念ながら、僕はもうあなたを兄として慕うことはできないようです。不幸になってほしいわけではないけれど、たくさんの人を、巻き込み不幸にしてまで玉座に執着するあなたの心が僕には理解できない。それは僕がもともと継承権の低い王子だからなのかもしれないけれど、隣国の、それこそシェリダン王まで利用してローゼンティアを滅ぼし征服したあなたのやり方には、僕は賛同の意を唱えられない。
 けれど、ミカエラは自分では間違ってもあの兄を止めることなどできないこともわかっている。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。本当はドラクル=ヴラディスラフだと知れたかの人は、確かに優秀だった。ミカエラの力では敵わない。普通の人より弱いくらいの、この自分では。
 だけれど、戦況を支える駒の一つになるくらいはできる。
「一つ、方法を提示したい」
「方法?」
「エヴェルシード女王、カミラ陛下。僕は今のこの国と我国との現状を憂えています」
 兄王から力尽くで玉座を奪い取ったという少女王が、しかし一見してはそうは見えない優雅な様子でミカエラの話を顔を険しくして聞いている。反応を仔細に窺ってみると、思ったとおり、まだドラクルとの間でどのように講和を成すかを詳しく取り決めてはいないらしい。
「軍事国家であるエヴェルシードと違い、ローゼンティアにははっきり言って、長期の戦に耐えるだけの国力はありません。戦が続けば民は疲弊し、国は荒れてゆきます。仮にもローゼンティアの王子であった僕としては、その事態は、間違っても歓迎できるものではありません」
 ミカエラはあえて、ローゼンティアの現状を語った。戦を長引かせたくないのは本当だ。話で聞いただけとはいえ、故郷はエヴェルシードにはじめに負けたあのシェリダン王との戦いの時でさえ壊滅的だった。その後カミラ姫がなんだかんだと理由をつけてローゼンティアから兵を引いたとしても、すぐには立ち直れていないだろう。国を出る前に多くの兄妹で確認した事柄によれば、かなりの貴族がすでに殺されているか寝返るかしていたという話だし、悪い状態になっていることは考えられても、この数ヶ月でローゼンティアの様子がよくなったとは思えない。
 そんなこともあって、戦を長引かせたくないのは本当だ。けれど、それ以上に大事な問題もある。
「だから」
 そのために、ミカエラは命をかける。
「僕は、ローゼンティアの王子としてあなたに講和を申し込みます。この、命と引き換えに」
 きっとこのために僕は生まれてきたんだ。
「え……」
「ゲッシュ……誓約です。もちろん、ご存知ですよね」
 数代前の皇帝が定めた法の一つにそれはある。ゲッシュ。誓約を意味するその言葉。
 命を懸けて何事かをなす時にそれは使われる。その誓約を破ることは許されない。
 ミカエラ=ローゼンティアはローゼンティアとエヴェルシードの講和のために死ぬ。この血をもって戦争の終結を世界に宣言する。
 命を懸けた誓いは破られない。決して逃出さない。必ず死ぬ。それを条件に、戦争を終わらせる。
 傍目にはこれが、国のことだけを考えて何が何でも戦争を終わらせたい人間の捨て身の策に見えてくれるだろうか。
「カミラ女王陛下。あなたはエヴェルシードに有利に事を運ぶために、講和の方法を探しているのでしょう。このままただローゼンティアに頭を下げればエヴェルシードは戦争に負けたことになり民たちの気勢を削ぐし、諸国への体面も悪い。かといって、侵略された側のローゼンティアが国を取り返したことを謝罪するわけもなく、向こうが容易くこの国を許せば今回の出来事の裏には何かある、と世界に知らしめることとなる。それは、あなたにとってもお困りなのではありませんか」
 ああ、それとも、我が兄ドラクルにとっても、と言うべきでしたか。
 ちらりとそれを口に出してみたが、カミラ女王は動揺こそしているものの、ミカエラの思惑に気づいているわけではなさそうだった。
 二人がしているのはそれぞれ国家にとって有害なことで、ミカエラはそれを止めるために命を投げ出す。そのように捉えられていればいい。
 真の狙いは別のところにある。
「今のままでは両国とも動く事はできず膠着状態が長引きます。僕はローゼンティアの民たちをこれ以上、我が兄の野望に巻き込んで苦しめたくはありません。ですから、あなたに協力してもらいたいのです。カミラ女王陛下」
 ローゼンティアの民を、ドラクルの野望にこれ以上突き合わせたくないと言うのは本当。
 そして真に止めたいのは、大衆に本意を知らせないまま、これ以上ドラクルとこのカミラ女王が手を組むことだ。
 血の誓約によって贖われた講和であれば、二国はすぐさま手を結ぶ事はできない。王族一人犠牲にして手に入れた講和を、無下に扱う事はできないだろう。そしてこれ以上ないくらいに講和の理由がはっきりしていれば、調整と偽ってお互いがお互いの国を行き来することもできないだろう。
 今のままでは膠着状態でそれをいつ解くかはカミラとドラクルの手腕次第になってしまう。しかしミカエラが死ねば、二人が民衆を言いくるめる前に講和に持ちこみ、なおかつ膠着ではなくしばしの間二つの国家に沈黙と断絶を与えることができる。
 自分にできるのは所詮ここまでだ。
 そして、後の事は兄が……きっとロゼウスたちがやってくれる。
 ミカエラはそう信じている。
「私に、どうしろと」
「先程申しあげたとおりです、お願いを聞き届けてください」
 ミカエラは微笑んで見せた。
 玉座を求めた哀れな女王よ。あなたはこの存在を刻み込むがいい。たかが一王族程度の存在でありながらも、一つの戦況を左右する力を持つ事ができるということを。
「エヴェルシード女王カミラ=ウェスト=エヴェルシード陛下。わたくし、ミカエラ=テトリア=ローゼンティアを処刑し、その血をもって二国の講和を成してください」

 そう、これが、自分にできる最後のことだ。


168

 ミカエラが寂しいと思うとき、その人は何故かよく会いに来てくれた。
 ――ミカエラ。調子はどう?
 ――兄様、そこは調子ではなく、具合を聞くところだと思います……。
 ――細かいところは別にどうだっていいじゃないか。あ、さっきアン姉様がクッキーを作ってくれたんだ。一緒に食べよう。
 ――お菓子作り……ミザ姉様とロザリーも一緒って聞いていたんですけど。
 ――……えーと、麗しきお姉様と可愛い妹の名誉のために、俺は黙っておくことにするよ。
 ――また失敗したんですか? ふふ。相変わらずですね。
 優しい、というのとは少し違う。ロゼウスは自分に対して興味がないこと、ミカエラは知っていた。
 ロゼウスの瞳はいつも、ドラクルだけを追っていた。いつもいつも。一途に焦がれるような眼差しであの長兄を追っていて、そこにミカエラの入れる隙間はない。
 中庭を歩く二人をよく見ていた。ローゼンティアは薔薇の王国だから、どこにでも薔薇が咲き乱れている。朝焼けの薔薇園で、何事か話しながら二人はよく顔を合わせていた。
 ミカエラは、それをよく部屋の窓から見下ろしていた。二人が中庭の奥の方へと行ってしまうとわからないけれど、手前の一部分はミカエラの部屋から見ることができるのだ。ローゼンティアの治安は穏やかで、空気の綺麗な上階にミカエラの部屋はある上に窓際に寝台を置いている。飾り棚の植木鉢の薔薇の花越しに二人を見ていた。
 ロゼウスは、基本的に他人にあまり興味のない人だ。優しい笑顔を常に浮かべていられるのは、あんまりその相手に興味がないからだろう。それも知っていた。長兄ドラクルが一番大事で、後の相手にはそれほど強い執着を見せてはいないように思える。すぐ下の妹であるロザリーのことはとても気に入っていたようだけれど。ミカエラは普段はあまり気にかけられていなかった。
 なのに、どうしようもなく寂しい時に限って側にいてくれる。
 うんと幼い頃、ミカエラは高熱にうかされて、意識不明の重体になったことがある。
 もとより体力のない彼はもう、耐えられないのではないかと周囲に言われていた。このまま命を終えるのだろうと見限られて、周囲の人たちは国葬の話をしていた。……聞こえていた。熱にうかされて意識は途切れ途切れなのに、そんなことばかりよく聞こえてしまう。
 ミカエラ王子はもう駄目だ。そんな諦めの声を聞くたびに、まだ生きてる、と叫びたくなる。なのに、乾いた喉ではそれすらもできない。苦しいとも怖いとも悲しいとも寂しいとも言えないまま自分が死んでいくのかと思えば、何よりもそれが怖かった。苦しいのにはもう慣れたけれど、それを誰にも知られないまま、思われないまま死んでいくのは嫌だった。せめて、せめて誰かにそれを知ってもらえたら。
 ――ミカエラ。大丈夫? 痛くない? 苦しくない?
 泣きながらミカエラの看病をしてくれようとしたのは、第三王女ミザリーだった。だがすぐに侍従や部下たちによって部屋から追い出された。
 そこまで死にかけるほど重症になったのはみかえらの身体がもともと弱いからだが、その時の高熱の原因は流行り病だった。国一番の美姫であり政略結婚の要、その気になれば国を傾けることもできるだろうと言われているミザリー姫に、死にかけの何の役にも立たない王子の面倒なんて診させられない、と。
 母親も同じ理由で入室禁止を言い渡されたようだった。気の弱い彼女は周囲に流されて、一度も見舞いには来てくれなかった。王族たるもの、それで当然だ、仕方ないとは思っても、寂しさは消えない。
 広い部屋にただ一人残されて孤独が煽られる。
 今死んでも、きっと誰も気づかない。少ししてから人が入ってきてそれでようやくわかるのだろう。僕は独りだ。それを、ミカエラは悲しいほどに強く感じた。ミザリー姉様たちでさえそれなのだから、同母の弟であるウィルやすぐ上の姉であるロザリーが来られないのも仕方ないのだと、自分を納得させた。
 そんなときにひょっこりと、あの人は現れたのだ。
 ――ミカエラ。
 熱で途切れがちになる意識。あるいは夢かもしれないけれど、重ねられた手のひらの感触を今でも覚えている。重い瞼を開けたミカエラに優しく微笑みかけたのは、すぐ上の異母兄、ロゼウス王子だった。
笑顔が、夢のように美しかった。本当に夢かもしれない。
 口を開けても声が出ない。喉が嗄れ、声は掠れて身体が罅割れそうに痛い。察してくれたのか兄は枕元の水差しを手に取り、ゆっくりと飲ませてくれた。
 ――ロゼ兄様……。
 せめてこの人にだけでも何か聞いて、覚えていてもらえればと、周囲の言うがままにもう死を覚悟していたミカエラは彼に言葉を残そうとした。けれど。
 ――駄目だよ。ミカ。
 その唇で、掠めるようにこの唇に触れられた。病気で熱を持つミカエラとは違う、正常な温かさ、人間からしてみれば少し低いのだと言うそれが酷く心地よかった。
 ――遺言なんて聞いてあげない。生きるんだよ。
 どうしてそんなことを言うのかわからなかった。彼は、もうすぐ死ぬかもしれないのに。死にそうなのに。
 ただ、涙が溢れてきたのは覚えている。
 自分でもどうしようもない流れるそれを、ロゼウスが拭ってくれた。肌がかぶれるといけないからと言って、最後に濡れた布で綺麗に拭う。また別の布を濡らして、額に当てた。すぐに熱が移って温むそれを感じながら、腫れた瞼を癒すように白い手が塞いだ。
 ――おやすみ。
 夢を見ていた。幸せな夢だった。
 夢を見るくらいに、幸せに生きていた。
 その後ミカエラはなんとか持ちなおし、ここまで生き延びることができた。どうせ早いか、遅いかの違い。影でそう囁かれいつ死ぬのかと危惧されていようとも、それでも、ここまで生きていた。
 あの時のことは、後でロゼウスに聞いてみた。夢ではない証拠ににっこりと笑ってくれて。その後ロザリーから事の顛末を聞いてますます兄が謎になった。
 だってよく考えてみれば、あの時ミカエラの部屋は入室禁止を言い渡されて看病の侍女たち以外は出入りができないようにされていて、警備の衛兵が立っていたはずなのだ。ミザリーやロザリーを追い返した時のようにロゼウスのことも追い返そうとした兵士たちを、彼は軽く気絶させると言う力技に出たらしい。
 あれは確か九年前、ロゼウスが八歳、ミカエラが六歳の頃。末っ子のエリサなど生れて一年も経っておらず、ドラクルだってまだ十代だった。
 衛兵たちも、まさか優秀なノスフェル家の血を引く王子とはいえ八歳の子どもに負けるなんて思っていなかったのだろう。
 でもわからない。あの時、何故ロゼウスがそこまでしてくれたのか。初めからそんなに親しかったわけでもない。
 僕のことなど、どうでもよかったのではなかったの? 
 ミカエラにとって、ロゼウスとは愛しいと同時にひたすら謎な人だ。
 優しくないのに優しくて、穏やかそうに見えて実は強引で。
 そしてどこか、ミカエラには知れない翳りをその瞳に抱いている。だからこそ今、願う。
 せめてあなただけは、どうか幸せになってほしいと。
 エヴェルシードに侵略された時のように、外的要因で死んだ場合、ヴァンピルはそのまま生き返ることができる。《死人返り》の一族と呼ばれるノスフェル家ほどそう簡単にはいかないけど、それでもミカエラだとて、一度エヴェルシード人に殺されたにも関わらずここにこうしている。
 だけれど、ミカエラの生れつきの病弱は変わらない。病気に危うくなるほど弱いそれは天命だ。定められしものは覆せない。
 寿命が五百年ほどもあるヴァンピル。けれどミカエラは、どうせ最初から二十年生きられるかどうかだと言われていたらしい。今回の蘇生、故国への隣国の侵略。家族の死去。限界だと、自分でもわかっていた。
 だからせめて、僕は誰かのために死んでいこう。
 それがローゼンティアの民や国のためならこの命にも、少しは生れてきた意味があるかもしれない。
 それが少しでもロゼウスのためになるならば、自分はとても幸せだ。
 ドラクルはドラクルで辛かったのかもしれないけれど、ミカエラはやはり、ロゼウスの肩を持つしかできない。
 王に、君主に、ふさわしいのはロゼウス=ローゼンティアしかいない。
 だから。
「兄様、どうか……」
 部屋の外から、扉を軽く叩かれた。

 ◆◆◆◆◆

 ああ、彼も疲れた顔をしているな、と思った。
「ルイ」
 入室の許可をする言葉と同時に扉を開けたのは、ミカエラをここまで送ってきてくれた人だった。エルジェーベト==ケルン=バートリ公爵の弟であるルイ=ケルン=バートリ。ミカエラは彼に頼み込んだ。エヴェルシード女王への目通りを願いたい、と。公爵の弟である彼の権力あってこそ、ミカエラのその願いは叶えられたようなものだ。
 先程、カミラ女王にミカエラの願いを話した。
 まだ返事はもらっていない。「考えさせて」と難しい表情をしていた彼女はすでにドラクルと内密に連絡をとれる手段を持っているのだろうか。それとも持っていないのだろうか。それによって全然話は違ってしまう。あのドラクルが、ミカエラごときの策に騙されてくれるものか。
 どちらにしろ勝負は早いほうがいいと思って、あの後さらに脅しをかけておいた。自分はこんなにもすぐに死にそうなのにあなたの決断が遅れて講和が成り立たなくなったらあなたのせいですよ、と。遠回しに。更に言えば、エヴェルシード国内で理由もなくローゼンティア王族のミカエラが死亡したら、真っ先に殺害容疑をかけられるのはカミラ女王自身であり、そのためにローゼンティアがエヴェルシードに戦蜂起するかもしれない、と軽く脅迫しておいたのだ。
 答は長くても数日中に出されるだろう。
 つまり自分の死は、もう眼前に迫っている。これがなくても死ぬんだから、どちらでも同じと言えば同じかも知れないけれど。
 しかしミカエラはどうせならローゼンティアやロゼウスのために死にたい。カミラ女王を上手く誘導できるように願っている。
「ミカエラ、起きたんだって? で、なんですぐに私に知らせず女王様の方にいくかなぁ……」
「だって、そのために来たんだし。言えないまま終わるのも嫌だから」
「……ミカ」
「軽い気持ちで言っているわけじゃないよ」
 ルイが溜め息をついた。
 寝台の上を動かないミカエラに合わせて、彼は先程カミラ女王が座っていた椅子をさらに寝台近くまで引き寄せて座る。
「……本当に、言っちゃったんだ」
「うん。言ったよ」
「……平気なのか?」
「大丈夫」
 大丈夫。
 僕はもう決めたから。自分に出来ることの中で、一番いい方法を選べたんだから大丈夫。
 しかしルイは納得していないようで、ミカエラの身体には触れないまま、寝台に手をついて詰め寄って畳み掛けてくる。
「怖くはないのか? 痛かったり苦しかったりするのかもしれないんだぞ? カミラ女王だってまだそうするとすぐに答えられたわけじゃないんだろう。今ならまだ引き返せるよ。ミカエラ。わざわざ自分から苦しい道に飛び込まなくたって、穏やかにその日を迎えれば……ッ!」
「ルイ」
 ミカエラは彼の名を呼んだ。
 いつかロゼウスが自分にしたように、その唇を自らの唇でかすめるようにして塞ぐ。
 いくらヴァンピルとはいえ弱りきった子どものミカエラと、人間の大人の男でかなりの武人であるルイ。どちらの腕力が強いかなど一目瞭然だが、ルイは凍りついたように動かなかった。
 でも、その唇は熱い。人間は命をその身体の中で燃やして生きているからだと言う。ミカエラらのように、人間からその血を奪い取って冷たい体の中に取り込むヴァンピルとは違う。
 ここは炎の国エヴェルシード。ならばそこに住む人々は、なおさら他の国の人よりも熱いのだろうか。
 ミカエラは知らない。世界を見る前に、この命を潰える。故国であるローゼンティアと隣国にして敵国であるエヴェルシード。これだけしか知らずに逝く。
「決めたんだ。もう」
「――ッ!」
「そんな顔するなよ」
 目の前でルイの顔がくしゃりと歪み、ミカエラはミカエラでどんな顔をしていいのかわからなくなる。
「大丈夫だよ。怖くない」
「……嘘だ。本当は、怖いんだろう」
 顔を上げたルイは、強い眼差しでミカエラを睨んできた。
「怖くて怖くて仕方ないんだろう? ミカエラ。死ぬのが怖くない人間なんて、いるわけないじゃないか……そんなにロゼウス王子が好きなのか? そのために命を投げ出せるくらい?」
「……ルイ」
 ミカエラは彼の胸に身を投げ出すようにして抱きついた。
「……お願いがあるんだ」
 耳元で、小さく囁いた。

 ◆◆◆◆◆

「あ……、んっ、うぁ……」
 衣擦れの音が響く。
 その中に、ぴちゃぴちゃと乱れた水音が交じる。
「は……ぁ、ああ……」
 肌を熱い手がなぞる。優しくやわらかく、まるで壊れ物を扱うように。その手が、酷く熱い。
「あ……そこ、もっと……」
「ここ?」
「アッ!」
 幾ら弱っているとは言っても、すぐに死ぬなんてことはない。ヴァンピルの取り柄はとにかく頑丈だと言う事。
 こちらの身を案じて渋るルイをこれくらいなんでもないからと誘って、ミカエラは今彼と肌を重ねている。
 これから極めて短い間だろうが何かとこの城で世話になるにあたって、肌に痣を残す事はできない。処刑前に死に装束に着替えさせられたところでそんなものを見せてしまっては、面目と言うか体裁が悪い。
 けれど、胸に鮮やかに色づく赤に、男の唇が寄せられる。きつく吸われて、妙な声が漏れる。痕が残ると困る場所は、吸われて赤い痣を残される代わりに、舌先でツツ……と撫でられた。そのもどかしいような刺激に、背筋にぞくぞくとした感覚が走る。
 前を弄っていたルイの指が、ふとそれを弄んでいたのを止める。
 その代わり、尻を鷲掴むようにして滑った。そのまま後の孔を広げようとする。
「ミカ」
「ん……」
 差し出された指を素直に口に含んだ。丁寧に舐めしゃぶって、唾液で濡らす。充分に濡れたその指を、後へと差し込まれた。
「ああッ」
 熱い指が内壁を抉るようにしてかき回す。直腸を擦られると、たまらなくなる。奥を入り口を行ったりきたりして彷徨うその指の感覚を、思わず全身で感じてしまう。
「ミカエラ。力抜いて」
「あ……でも……ふぁ、あああ」
 いいところを探し当てていた指が一点を突くと、堪える事ができなくなった。ルイの肩にしがみつく。
 頃合を見計らって、ルイが中から指を引き抜いた。
「……挿入るよ」
 一瞬圧迫感が消えて物足りなさを感じる場所の入り口に、圧倒的な質量と熱を持ったそれがあてられる。充分にとろかされた場所に、じわじわと差し込まれた。
「あ……っ!」
 快楽が殆どである強い刺激に耐え切れず、ぽろぽろと涙を流した。決して乱暴ではないのに、行為の上なら当然の激しい動きは、確かに体力を奪う。
 昇りつめると、頭が真っ白になった。どろりと、中に吐き出されたそれの濡れた感触を味わいながら、ふと頬に落ちる雫を知る。
「……ルイ?」
「ごめん」
 ぽたぽたと連続して降ってくるのは汗ではない。一言だけ謝って、彼は寝台に手をつき身体を支える一方の手を持ち上げて目元を拭った。
「……いいのかい? ミカエラ」
「……ん?」
「最後が、私で」
 全てが終わり、荒い息遣いもまだ整わない。熱の残滓は体中を支配している。けれど、頭の中は怖いくらいに冷静で。
「うん」
 本心から頷いた。
「お前がいい」
「そうかい」
 離れる前に額に口づけが送られた。肩をつかまれ、強く抱き寄せられる。彼はミカエラの肩に目元をきつく押し当てた。
「ありがとう、ルイ」
 わがままを聞いてくれて。願いを叶えてくれて。
 これが僕からあなたにできる、最初で最後の礼だ。


169

 このままではとにかくマズい。そう言ったのはジャスパーだった。
「何がマズいと?」
「ローゼンティアにこのまま入るわけにはいかない。ロゼウス兄様はドラクル兄様の恨みをかっている。見つかったらただじゃおかないだろうし、最重要人物として指名手配されているはずだ」
 ああ、とシェスラートは頷いてロゼウスの記憶の中からそのことを引っ張り出す。
「長兄との王位継承問題か……別に、ロゼウスにその気はないんだろ」
 ヴァンピルの体力は人間とは違う。途中途中休息をとりながらも、セルヴォルファスから歩き続けてそろそろローゼンティアに入ろうというところまで来た。かの薔薇の国には、きっとロゼッテの生まれ変わりであるあのエヴェルシードの少年がいる。そのためだけにシェスラートはローゼンティア……かつての我が名が冠された国へと向かっていた。
 夏が始まろうとしていて、森の中には花が咲き乱れている。薔薇の花も道のところどころに見える。だからこそ人がさほど通らないこの道でものんびりと歩いていることができた。路銀は前の街でジャスパーに稼がせ、懐は暖かい。憂えることもなく、この弟とは同盟を結び、行く道は順調に思えていたのだが。
「指名手配など関係ない。見咎められたなら、強行突破してしまえばいいだろう」
「そういうわけにもいかない。あなたの目的がシェリダン王にあるのはわかったけど、ドラクル兄上を甘く見ない方がいい」
「ふぅん」
 ロゼウスの兄、正確には長い間兄だと思っていた男、ドラクル。
 柔らかな物腰に際立つ知性。ローゼンティアの王家の十三人の兄弟姉妹の中では、一頭抜きん出て優秀だとされていた男。本当は先王ブラムスの血を引いていない男。
「けど、あれは……」
「え?」
「いや、なんでもない」
 あの男の目的は、なんとなくわかる。多分これは自分がロゼウスであってロゼウスではないからなのだろう。長い間涙の湖底でロゼウスと同化しながら世界を見ていたときには気づかなかったが、改めて第三者の視点で状況を判断すると、何をそんなにくどくどしく悩んでいるのかと言ってやりたいようなことばかりだ。何故本人は気づかない。
 ……いや、気づいているのか。
 ロゼウスは本当は、全て気づいているのかも知れない。知っていて、ああいう態度をとるしかできなかったというわけか。
 何度生まれ変わっても、何度生を重ねても。
「人の愚かさなど、変わらない……」
「シェスラート?」
「なんでもない。それより、ジャスパー。お前はそれでいいのか?」
「何?」
「お前としては、紛い物の俺と大事な兄を区別したいのはわかる。だが、他の兄弟姉妹の前でもそう言うのか? ……その手紙、ローゼンティアの他の兄妹たちに出すんだろう」
 ジャスパーの手元に、先程切り株を使って彼がしたため、封筒もないから折りたたんだだけの簡素な手紙がある。
 シェスラートの読みが正しければ、それは十中八九、彼がローゼンティアの他の兄妹へと向けた手紙だ。当面の味方は少ない。民衆を操り軍隊を動かすなんてこと、いくら王子とはいえ今の自分たちには不可能だし、誰か貴族に頼るといっても、第一王子として長く人々に実力を認めさせ信頼されたドラクル以上の立場になど、いきなりなれるわけはないだろう。この事情をわかっていて、シェリダンと繋がりがあって、ローゼンティアへも影響力を求めるとなったら、他の兄妹に渡りをつけるのが最も手っ取り早い。
「その通りですよ、……兄様。アンリ兄上たちは生きていれば間違いなくローゼンティアに向かっているでしょうから、協力を願います。もしかしたら、すでに国内に潜入を果しているかもしれない」
 自らの国であるのに潜入とは、滑稽もいいところだ。
 ジャスパーは常につけている髪飾りの宝石をそっと手で弄った。一度取り外して何かすると、その手に黒い小さな塊が乗せられている。
「なんだ?」
「僕の使い魔の蝙蝠です。これに、手紙を運ばせます。……誰がいいかな」
 ジャスパーの手のひらの上で、その黒い塊は徐々に姿を現した。豆粒ほどの大きさだったものが、空気に触れた途端膨らむように人の頭ほどの漆黒の蝙蝠となる。
「……ウィルに。僕の弟の、ウィルにこの手紙を届けて」
 逡巡の末に、ジャスパーは自らの使い魔にそう命じた。
「末の弟か。どうしてそういう選択にした」
「……ウィルは剣の腕が兄妹の中でも、ロゼウス兄様とドラクル兄様に次ぐほどに優れています。子どもということで周囲の警戒心も薄れる。そして説得は他の兄妹に比べて容易い。呼んで得はしても損はないでしょう」
「ふうん」
 ロゼウスと記憶を共有するとはいえ、その辺りの複雑な感情はシェスラートにはわからない。素直にジャスパーの判断に任せることにした。
 黒い蝙蝠姿の使い魔が、四つ折の紙片を足にくくりつけて飛んで行く。
「ローゼンティア王国に、エヴェルシード王国か……」
 シェスラートはそれをしばらく見送ると、ジャスパーを促して再び歩き始めた。

 ◆◆◆◆◆

 連れてこられたのは、王城から程遠い土地にある一つの屋敷だった。エヴェルシードと違い、ローゼンティアには王城以外の城がない。その代わり各地方の領主たる貴族の館は、それだけで城と呼べそうなほどの豪邸だ。
 日和見、とあまりにも胡散臭い名前を名乗ったその男がシェリダンたちを案内したのは、そういう屋敷だった。崖の上から国土を一望した時にも思ったが、この国では視覚の限界にでも挑戦しているのか、やはり建物は黒と赤を基調にしている。それを囲む荊の森は黒と見紛うほどに濃い緑で、薄紫の曇り空の下、異世界の景色でも見ているように薄暗い。
 赤い煉瓦と黒い屋根のその建物の外観をさらに怪しく飾っているのは、壁面を覆う荊だった。この国ではそれが当然のことのように、どこに家にも薔薇の茂みがあり、壁には荊が這っている。王城にはこの地方にしか咲かない特殊な銀色の薔薇が繭のように世界を閉ざして覆っている。
「え? 薔薇がそこかしこに植わってる意味? 非常食よ」
 ロザリーはあっさりとそう言った。
「……非常食?」
「うん。あれ? ロゼウスから聞いてない? ……わけないわよね。私たちの吸血衝動を薔薇で抑えられるってこと、あれを人間の血を吸う代わりに食べるの」
 そういえばロゼウスもエヴェルシードに来た当初はそう言って薔薇の花をよく食んでいた。しばらくして慣れてからは、シェリダンの血を舐めるようにさせていたから忘れていたが。
「はーい、えーと、八名様ご案内〜」
 日和見の言葉で屋敷の中へと通された。これだけの豪邸だと言うのに、使用人が一人も出てこない。それどころか、人の気配がない。ここには誰も住んでいないのかと思わせるが、それにしてはそこまで荒廃しているわけでもなし、やはりここは日和見自身や誰かの別荘なのだろう。
 案内された屋敷の廊下も、壁が黒く窓が高い位置にあって光が届きにくいために真昼だというのに深い影が落ちている。その中を、では明かりをつけましょうかと先頭を歩く日和見が燭台を持って歩くのだが、そのセンスがまた。
「……ハンドオブグローリー……」
「……シェリダン様、僕たちは度胸を試されているんですか?」
 ローゼンティアを訪れるのは初めてとなるクルスが引きつった顔で問いかけてくるが、シェリダンたち以外は皆平然としている。この国で生まれ育ったヴァンピルたちはともかく、サライはウィスタリア人のくせにやけに飄々としていた。あの悪趣味な燭台を見てもそこかしこの魔界の景色を描いたと思われる絵画を見ても「あら、懐かしい」などとのたまっている。この女も立派に人外のくくりだ。
「あの……それって……本物、じゃ、ないですよね……」
 怖いなら黙っていればいいのに、ただ歩いているのも怖いのか青褪めながらもクルスはついつい聞いてしまっている。アンリ王子が目の前にしているものの悪趣味さにそぐわない快活な笑顔で答えた。実際にそれを手にしている日和見は笑顔のままその《栄光の手》を振ってみせる。炎が揺らめいてまた怪しい影を作った。
「本物なわけないじゃん、ユージーン侯爵」
「そ、そうですよね」
「うん。まあ、死体の手がいい松明になるのは本当だけどな。ミイラは乾燥してるし、屍蝋を使う手もある。まあどちらにしろ、人間の身体は脂肪があるからよく燃えるんだよなー」
「……ッ」
 快活に笑い飛ばしておきながら、アンリ王子は何気なく怖いことを言っている。一瞬安心しかけたクルスの顔が、また一瞬にして強張った。
 しかもこの辺りで話題を打ち切ればいいのに、兄王子に続いて今度は末の王子が何事か言い出す。
「それにこれは真っ黒だから明らかに鉄でできた中に普通の蝋燭を埋め込んだ偽物で……あ、そうか。ユージーン候は本物の《栄光の手》を見たことがないんですね」
「え?」
 見た事があるのか、ウィル王子十二歳。
「あのねー、ほんものは人間の手をそのまま使うからねー、ちょっとへんしょくしたこい肌色なのー」
 見た事があるのか、エリサ姫十歳。
「は……はは。物知りですね、皆さん……」
「というか、貴様ら昔は実際にそれを使っていたんじゃないだろうな」
「あっはっは。イヤだなー。シェリダン王」
「しかも、『人間』の手というところにやけに先程から拘った言い方をしている。ヴァンピルの腕はハンドオブグローリーにはならず、外の国の人間の手を使ったのではないか?」
 しかも位置関係から考えると不愉快なことに、このローゼンティアに一番近い人間の国は我らがエヴェルシード。ローゼンティアはシュルト大陸の東端にあるため、他の国家とはほとんど境界を接さない。
「知らない方が幸せなことってあるよね」
 日和見がにっこりと笑った。これ以上聞いてはいけないような笑顔だった。
「……私はそれより、シェリダン王の言い方もさっきから気になるけどね。あなた、ユージーン候の驚きようとは違っているもの。《栄光の手》について初めから知っていたわね?」
 青褪めるクルスのことはひとまず置いて、ミザリーにシェリダンの方も突っ込まれた。
「……ハンドオブグローリー《栄光の手》とは、黒魔術に使う呪具の一種。二種類ほどあって、一つは人間の手をそのまま蝋燭として火を灯すものと、もう一つは手を燭台にその指の間もしくは指先に蝋燭を立てるもの。ちなみに今、日和見が使っている燭台は前者がモデルだな。これを作るにはどちらにしろ、絞首刑で死んだばかりの殺人犯の死体から腕を斬りおとす。男でなければいけないというのも条件にあったか? 腕をそのまま使う場合中指だけを立てた状態にし、屍蝋化させる。先ほど人間の身体は脂肪があるからよく燃えるとアンリ王子が言ったが、その通りだ。人体の脂肪分が変性して死体が蝋状になるのを利用する。もう一つは死体の腕を液体に浸したり薬草を必要とするなどの煩雑な処理が必要で、その燭台に立てる蝋燭自体も殺人犯の髪や首を括って自殺した人間の脂肪などから作り上げる。後は、腕自体を単純に蝋に漬け込む方法もあるらしいな。効果は、その蝋燭の火を見た者の動きを封じたり、これを持つ者は他人の目に映らない、などと言われている」
 シェリダンが話し終えると、途端に場が静まった。皆歩みは止めないので、暗い廊下に人の手の形をした燭台の明かりだけが灯り、コツコツと日和見の革靴の足音が響く。
「……シェリダン様……」
「シェリダン王……」
「あんたなんでそんなに詳しいのよ」
「聞いたからだ。友人、というか飲み仲間に」
 クルスだけでなく、ヴァンピル王族たちまで妙なものを見るような目をしている。しばらくして微妙な声音で発された問にシェリダンが理由を答えると、ますます怪訝な表情が返る。
 一人だけ、シェリダンの話す「友人」に心当たりあのあるクルスがぽつりとその名を呟いた。
「ハデス卿ですか……」
「ああ」
 《黒の末裔》という特殊民族の子孫であり自らも最高級の魔術師である彼とシェリダンは、よく城を抜け出して城下町で遊んだ。遊ぶといってももちろんその内容が健全なものであるわけはなく。安酒を飲みながらハデスがシェリダンに教えたのは、ろくでもないような知識ばかりだった。
「ハデス……って、帝国宰相? シェリダン、でも」
「はい、つきましたよ」
 彼はいまやシェリダンたちの敵となっている。
 何事か言いかけたロザリーの言葉を遮って、日和見が到着を告げた。やはり人の姿はなく、調度こそ整っているがその部屋には何も用意されてない。
「いやー。すいませんねぇ。お客様をお呼びすると言うのに支度の一つもしていなくって。今お茶を淹れますから、ゆっくりしてくださいね〜」
 そう言うと、日和見は自ら茶の支度をするらしく部屋を出て行った。シェリダンたちはそれぞれ勝手に席に着く。先程から気になっていたことを、周りのローゼンティア王族たちに聞く。
「あの男、結局何者なんだ? これだけの屋敷なのに、使用人が一人も出てこないのはおかしくないか?」
「え? ああ。日和見のことはちょっと複雑だけど、召し使いが出てこないのは当然よ。だってこんな時間に押しかけて、警備兵以外はどこでも寝てるに決まってるじゃない」
「寝てる?」
「ヴァンピルは夜行性だもの」
 ……忘れていた。そういえば、当然のように真昼間の陽光の下を歩いてはいたが、彼らは本来真夜中に活動して昼間は息を潜めている種族だった。
「お前らはやはり棺桶で眠るのか?」
「そうすることもなくはないけど?」
 ヴァンピルについてはやはりわからない。
「お待たせ。いやー、ごめんねー。雇用人が少ないからあんまり無理させたくなくてさー。はい、どうぞ。あれ? そちらの方はどうしたの?」
「い、いえ。なん、でも、ありません……」
 戦場ではばったばったと敵を薙ぎ倒すクルスも目の前で黒檀のテーブルに血のような紅い獣の頭部を象りズラリと生え揃った牙が周囲を縁取る器に盛られたお茶請けの菓子を見ると涙が込み上げてくるらしい。心情的に物凄く食べ辛い。しかも困ったことに、人間と同じ食事をしなくてもいいヴァンピルたちには別の器に何か用意されているから、これは人間である自分たち用なのだろう。
 シェリダンは苦悩する。
「ところで日和見、知っての通り、俺たちはこんなところで歓待されている場合じゃないんだ。君から何か話があるというのなら、早速本題に入って欲しい」
 一口だけ薔薇の香りが漂うお茶を飲んで喉を潤すと、真剣な目をしたアンリが日和見にそう言った。
「できれば、この十数年間結局一度も教えてくれなかった君の本名やら、素性やらも交えて」
 どういうことだ? この男の名はシェリダンたちだけでなく、アンリたちローゼンティア王族の面々も知らなかった? そしてそんな名前すら知らない人物を、彼らは信頼していたのか?
「ええ。わかりましたよ。アンリ王子殿下」
 それまで優しげな面差しに底を覗かせない怪しい笑顔を浮かべていた日和見が、ふと表情を引き締めた。
 シェリダンはそれを見て、ふと、ドラクルを思い出す。彼に似ているとなればロゼウスともロザリーとも似ているはずなのだが、そんな感じはしない。ただ、ドラクルと似ているな、と思った。造作と言うより、雰囲気の問題なのだろうか。
「話しましょう。あなた方のまだ知らない。我が兄の――ドラクルの真実を」
「兄、だと……?」
「ええ。ドラクル=ヴラディスラフは私の兄にあたります」
「ちょ、ちょっと待って! 日和見! そんなこと一度も聞いてないぞ俺たち!」
「うん、言ってないからね」
「だ、だってドラクルと兄弟ってことは!」
「うん。ここにいる何人かとも半分だけ血が繋がっているよ。我が父、ヴラディスラフ大公フィリップの血がね」
 爆弾発言を平然とその場に投下した男は、真剣な顔を崩さぬまま薄く微笑んだ。その表情はやはり、ドラクルに似ている。
「なっ! ちょ、待てって! そんなはずないだろ!!」
「だって日和見、あなたは確かに後宮に出入りしていたけれど、でも大公閣下の子息なら名前が紹介されないはずが」
「ああー、うん。それには事情があってね」
「私たちには、何が何やらさっぱりだが」
 ローゼンティア王族の者たち、特に年長組は悉く顔色を変えて驚いているようだが、部外者のシェリダンたちには事情がわからない。
「順を追って説明します。……まずは、私の素性から説明した方が早いでしょう。父はヴラディスラフ大公フィリップ、母はその侍女でした」
「ん? 侍女って確か……」
「そうだよ、アンリ王子。ドラクルを産んだのも、大公の侍女の一人。私と彼は同父母の兄弟なんだよ」
「本当の、弟」
「ああ、そういう言い方もできるかもしれませんね……ただ、知ってのとおり私はヴラディスラフ大公子息として世間にその存在を発表されてはいない者だ」
 日和見はそう言った。ローゼンティア王族たちの視線が、その言葉によって揺れる。
「どういうことだ?」
「言葉の通りですよ、エヴェルシード王。私は私として、世間にその存在を認められていません。それは、ブラムス王によって阻まれました」
「父上に?」
「ええ。ロザリー姫。あなた方のお父上、ブラムス=ローゼンティア王に私が十歳になる頃にはドラクルの素性が知れていましたから。ブラムス王はそのうちドラクルを排してロゼウス王を玉座につかせ、ドラクルにはその血統どおりヴラディスラフ大公の椅子を与えるつもりだったのですよ。ですから、弟である私がそこにいると問題がややこしくなるので存在を隠されたのです」
「存在を隠されたというが、どういうことだ? お前が生まれたときからドラクルのことが先王に知られていたわけではないのだろう。すでに生まれている赤子の存在を隠すなど」
「ああ、それはですね、シェリダン王、あなた方エヴェルシードと違って、ローゼンティアの王族関係は魔窟です。どこの国でも多少はそうだと思いますが、この薔薇の国は特に酷い。王の直系の血を引く王族に有力者が生まれる事がはっきりしすぎているために、それ以外の者などどうでもいいように扱われる。となると、自らが権力を持つためにはどうしますか?」
「他の有力者の子を殺す……なるほどな。生まれたばかりで抵抗力のない赤子の存在をそのまま知らせれば、格好の餌食というわけか。だからある程度成長しきるまでその存在を隠しておくのだな」
「ええ。その通りです。下級貴族などはそれほど気にしませんが、ローゼンティアの上流貴族と王家にはまだそういう風習が残っているのですよ。存在そのものを隠す場合もあれば、出産の事実だけ宣伝してその奥方の領地に隠れ住む場合もある。それでも、今回はいつもよりはあけっぴろげな時代でしたけどね。一番多くの子を産んだとされる第三王妃アグネス様……ロザリー姫方の御母堂ですね。彼女は下級貴族の出身なので、その子どもである継承権の低い王族たちはさして暗殺の標的とされることもない。問題は第一王妃クローディア=ノスフェル様と第二王妃マチルダ=ライマ様なのですが、このお二方の場合は逆にどちらが先に第一王子を産むか争っていて……自らの家柄が上であることを示すためには王子が生まれなければ話になりません。ドラクルやアンリ王子は、生まれてすぐにそれを宣言されましたよね」
「ああ。とは言っても、第一王子が正妃の子で第二王子が第二王妃の子、の場合だと古来の伝統に則って俺の継承順位は二位だったわけだけど」
 ローゼンティアは、さほど歴史が古い国と言うわけでもない。寿命が四百年も五百年もある種族にしては、建国千五百年はそれほど長い時間でもない。少なくともただの人間の国であるエヴェルシードが建国三千年近くを迎えることを考えれば。しかしその歴史の浅さを補うためか、もともとの風習なのか、この国はやけに王族の血統を重視し、伝統を大切にする。
 正妃の血筋を重くうけとりそれによって継承順位が決まるローゼンティアでは、第二王妃の息子であるアンリが継承権第二位であることは特例なのだという。本来ならその位置に来るのは第四王子にして正妃の第三子で次男たるロゼウス、次が正妃の第二子ではあるが女性であるためロゼウスより継承順位の劣る第二王女ルース。その二人の前に、アンリ王子が食い込む形になる。
「まぁ、それはいいとしてさ。教えてくれよ。日和見。お前の知っていることを」
「ええ。お話しましょう。……と、このように私は次期ヴラディスラフ大公の座を追われ、隠し子として育てられました。もっとも隠したのが実父ではなく国王の思惑の方だったので、王自体には認識されていて、そのために皆さんがこれまで私を信用してくれた手形、王城の後宮に入る権利を与えられていたわけですが」
「どうあっても名乗ることはできない、日和見と呼んでくれ……あれは、こういう意味だったのですね?」
「ええ。その通りです、ミザリー姫」
 これまで話し続けた日和見は、一口お茶を口にして喉を湿らせた。自らが大公家の人間であることは明かしたものの、いまだ彼は本名を名乗らない。名乗らないままで話を進める。
「私は、兄ドラクルがどれほどロゼウス王子……十七年間弟として育てられてきたあの方を憎んでいるか、知っています」
 シン、と場に沈黙が降りた。
「自らに当然与えられるはずだったものを、目前で他者に奪われる恨み、それは一体どんなものなのでしょう?」
「それを言うのなら、日和見様。あなたも同じではなくて?」
「ええ。そうですね。私も与えられるべきだったものを奪われた、という形になるのでしょうね。けれど私は最初から知っていました。自らが大公の愛人たる侍女の子であることも、王太子であるはずのドラクル王子が兄であるということも。本当を言うのなら、ずっとあなた方が羨ましかったのです。私はあの方と二親同じ実の弟なのに、弟として、あの方に会うわけにはいかない」
 ローゼンティアの面々がハッとした。それは恐らく日和見の本心なのだろう。やわらかいのに翳りを追う眼差しが、窓の外、この場所からでもよく見える、国の中央部に聳え立つ漆黒の城を見つめる。
 彼はこの場所から何度もそれを見ていたのだろうか。血を分け合ったはずの人にも、酷く遠すぎて手の届かないその居城を。
「まぁ、どちらにしろ私たちには関係のないことだな」
「シェリダン」
「それよりも、話を進めろ。それとも話を進める必要がないとでも?」
「え?」
 チャキ、と音を立てて男の首に剣が突きつけられる。
「ユージーン候!?」
「いつの間に!」
 軍事国家の上層部、それも国で剣の腕の最高位を争う男を舐めてもらっては困る。テーブルの下、隣に座るクルスに指先だけでシェリダンが出した指示に従って、彼は日和見を拘束した。
 そしてここから先は自分の役目。
「貴様の言い方だと、まるでドラクルを敬愛しているように聞こえる」
「うん。敬愛しているよ、兄だからね」
「ならば何故私たちをこの屋敷に招いた。罠にでも嵌めるつもりか。そちらがその気ならこちらもこのような手段に出るまでだ。不穏な動きを見せれば即座にその首掻っ切る」
「人質というわけかい? でも私がそれほど重要な人物に見える?」
「実の弟というだけで充分だろう。実際あの男はローゼンティア王族の中でも、自らに与する者を連れて行った」
「なるほどねぇ……でも、それはあなたがローゼンティアの内情を知らないからじゃないかな。エヴェルシード王。向こうにはヘンリー王子の友人のカルデール公爵がいるし、ルース王女はもちろんアン王女ももとからドラクル王子寄りの人だからねぇ。ああ、なんでかお城に幽閉されてるメアリー姫くらいなら仲間に引き込めると思うけど」
「メアリー!? 王城にいるのか!?」
 アンリが顔色を変えた。シェリダンにはあまり馴染みのない名だが、話から察するに顔を合わせたことのない最後の王族なのだろう。
「うん。そう。知らなかったのかい?」
「一人だけ行方が知れなかったんだ。これで……」
 後はロゼウスさえ合流すれば、ローゼンティアの十三人の兄妹全てが揃う。
 だが、それについて言及するのは後回しだ。
「貴様の目的は何だ。私たちをわざわざこんなところまで連れて来て何がしたい。お前はドラクル側の人間なのだろう」
「うーん。正確にはちょっと違うねぇ」
 言っただろう、と彼は目を細め、道化のように大仰に腕を広げる。
「私は日和見だと」
「……観察者を気取りか」
「いや、どちらかというと傍観者かな。今、この国は王権派と反王権派の二極に分かれている。そのどちらに与した方がいいのかを、私は私で見極めねばならないんだよ」
 何せ私は日和見だからね。そう嘯いた男の表情には、シェリダンにはわからない何か深い感情の川が流れている。流れゆく世界を見つめるその瞳の中には、きっとこのことも他のことも皆すべてを飲み込み、すべてを記憶しているのだろう。
「お前は……」
 言葉が続かず、シェリダンは口を閉じる。日和見は最後まで名を名乗らずにそれで通し、にっこりと笑った。
「もういいかい? 私にできるのは、ここまでだよ」
「日和見様」
「さぁ、私にできるだけのカードはすでに与えた。ゲームを始めるのは君たちだ」
 日和見はシェリダンたちにありったけの資金と情報を与えると、この屋敷は好きに使えと言い残して何処かへと姿を消した。
 その去り際、全員が見送りに出た屋敷の門前で彼は振り返り微笑んで、ローゼンティアの面々へと告げる。
「一つだけ、願ってもいいかな」
「……何を?」
「もしもできるならば、どうかあの方を救ってあげてほしい」
 あの方? ドラクル?
「あの男に、救われる資格があるとでも?」
「ないだろうね。でも、もとはと言えば存在から策謀の内に作られ世界の全てに裏切られて傷つけられるほどの罪が、あの人にあったのかい?」
「……」
「ねぇ、頼むよ。できる限りでいいからさ」
 それだけを言い残して。
「行っちゃった……日和見のお兄ちゃん、どこに行っちゃったの? どうして行っちゃったの?」
 彼の後姿を見送り、シェリダンたちは屋敷に戻った。アンリとミザリーは厳しい顔をしている。ロザリーは事態がはっきりと飲み込めたわけではないのだろう、けれど本能的に何か掴んだのか、不安な表情をしている。クルスも事態はわかっていない。サライはアンリ王子たちと同じく厳しい表情をしている。一番幼いエリサが、誰にともなく尋ねた。
 シェリダンはその身体を抱き上げる。
「彼は自分の道を選んだんだ。彼の望む場所へ行ったんだよ」
「のぞむばしょ?」
「ああ」
 そして二度と、戻っては来ない。
「……この国は動き始めたんだ」
 良くも悪くも、シェリダンたちは己がその駒の一部であることを知った。