158

「お休み。ヴィル。……お前はもう、何も心配しなくていいんだよ」
 だって、お前にもう未来はない。
 死んでしまえば、もう明日の心配などいらないだろう?
 それは、あるいは最後の慈悲だった。
「じゃあね。ヴィルヘルム」
 そう言って、あまりにも簡単に、当然のように俺を棄てていこうとするから、だから俺は悪くない。この手が血に濡れているのも、目の前の景色が血に濡れているのも、何もかも、目の前の男のせいだから。
「あーあ」
 ロゼウスは微かに疲れたような顔をして、溜め息とともに吐き出した。
「やっぱりこうなっちゃうのか」
 傷口を押さえたその手は血に濡れている。ヴィルヘルムが刺した傷を手で押さえる、出血に弱い一族の出である彼はすでに蒼白な顔をしていた。普段から白い肌から血の気が消えうせ、さらに翳りのある表情をしている。
「ロゼといい……どうも俺は、こういう結果を引き寄せる体質なんだろうな。この身体の本当の持ち主であるロゼウスが、どうであるかまでは知らないけど」
 翳りはあるけれど、その表情に悲壮感はない。ただ淡々と物事を受けとめている。何も変わらないその表情。
 青褪めているのはヴィルヘルムのほうだ。
「まぁ、結局にしろ、何にしろ、こうなっちゃったのは仕方ないよね」
 深手を負わせたのはヴィルヘルムの方なのに、未だ怯え、惑っているのも彼の方。短刀を握る手から力が抜け、刃が床へと滑り落ちる。灰色の石に落ちた鉄の刃はカラン、と硬質な音を立てた。足元で響いたそれですら、今の世界からは遠い。
「どうして……」
「どうして? 俺を刺しておいて、それはないよね? ヴィル」
 ロゼウスの微笑みは美しい。それだけで、世界の全てがどうでもよくなり、ただ頷いてしまいたくなるほど。
 だけれど、ヴィルヘルムに残された最後の理性の一欠けらが、それではいけないと警鐘を鳴らしていた。
「違う! 俺じゃない! 俺が攻撃を仕掛ける前に、お前が俺を殺そうとしたんだろう!」
 短刀を握って、それを急所に向けて繰り出したのは咄嗟の反応だった。じゃあね、ヴィルヘルム。そんな言葉とともにこちらの命を奪う位置へと正確に伸ばされた狂気のような爪を、それで弾くとともに反撃を食らわせていた。 
 その証拠に、ヴィルヘルムの頬からは一筋の血が流れている。ロゼウスがヴィルヘルムを殺そうとした際に、ヴィルヘルムが動いたために急所を捕らえそこね頬を刃が掠った。その時の血。
 あの時、ロゼウスはヴィルヘルムを本当に殺すつもりだった。これまでもそう言った不穏な敵意は感じたことがあるけれど、今日のこれとは全然違う。迷い、躊躇いながらも刃を繰り出すのではなく、微塵の逡巡もなく振り下ろされたそれ。いつもと違って、今日のロゼウスにはヴィルヘルムを殺そうとすることに対する躊躇いも戸惑いも罪悪感も何もなかった。覚悟を決めたというよりも、始めからヴィルヘルムを殺すのに理由などいらないだろうという、そんな虚無。彼の境遇と自分がしたことを考えればいつどんなやり方で報復と言う名の刃を浴びても仕方ないとは考えていたけれど、今のロゼウスにはその感情さえなかった。全くの無だった。
 虚無。読めない。何を考えている?
「俺を殺すの? ロゼウス……」
 ロゼウスがヴィルヘルムを憎んでいるのならばまだわかる。それだけのことをしたし、毛虫のごとく嫌われていたっておかしくない。顔も見たくないと唾を吐きかけられたって当然だと受けとめられる。だが目の前の男の反応は違うのだ。
「ああ。そうだよ。ヴィルヘルム。俺の目的には、お前の存在が邪魔なんだ」
「だから……殺すの?」
「ああ。そうだよ。俺がお前を殺すのは、お前が憎いからじゃない。お前を殺したいほど嫌っているわけでもない」
 そして何よりも残酷なことを言う。
「邪魔なんだ。どうでもいいんだよ、お前なんか」
 これはロゼウスじゃない。あの日以来、何度も覚えた違和感だった。目の前のロゼウスの身体の中に、誰か別の人間がいるかのようなその違和感。おかしいおかしいと思いながらも、与えられる温もりが心地よくて見てみぬ振りをしてきた。だってヴィルヘルムにとってはその方が都合が良かったから。
 そのツケを、今、こんな形で払う羽目になるなんて。
「どう……でも、いい? 俺のことは」
「ああ。お前の存在も、心も、お前がしたことでさえ、俺にとってはどうでもいいんだ」
 にっこりと、本当に美しくロゼウスの顔でそれは笑う。
 ヴィルヘルムの大好きなロゼウスの顔で、その身体で、けれどロゼウスのものではない言葉を紡ぐ。でもその内容自体は、ロゼウスが思っていてもおかしくないことでもあり。
 だからこそ、なおさら憎しみが募る。
「――ぁあああああああッ!!」 
 頭の中、何かが切れた。瞬間、視界が怒りと別の何かで真っ赤に染まる。
 腰の剣を引き抜き、微笑んだまま佇んでいるロゼウスへ向けて一直線に斬りかかった。造作もなくその爪で受けとめられてぎりぎりとお互いの刀身を削りながら、至近距離で見詰め合う。
「お前は誰だ! ロゼウスを返せ! お前なんかに勝そんな手な事はさせない、言ってもらいたくなんかない!」
「誰だとはご挨拶だな、ヴィル。俺はロゼウスだよ。お前の大事な」
「違う! お前はロゼウスなんかじゃない! 一体誰なんだよ!? お前は何が目的なんだ!」
「目的?」
 ふっと、ロゼウスの中の誰かが、皮肉に唇を歪める。
 ああ、知らない。
 俺はこんなロゼウスは知らない。こんなの、ロゼウスじゃない。
「俺の目的は、ロゼッテ=エヴェルシードって人物を探すことだけど、どうせお前に言ってもわからないだろう?」
「エヴェルシード?」
 ロゼッテという名前には確かに聞き覚えはない。けれど、その姓はエヴェルシード。ああ、また、と思った。
 また、奪われるのか。シェリダン王に。ロゼウスを好きだったのは、自分の方がずっとずっと先立ったのに、後から現れたあの男はいとも簡単にロゼウスの心を捕らえてしまった。こうしてセルヴォルファスにいる間、ロゼウスは困った顔でヴィルヘルムの相手をしながら、いつもシェリダン王のことを気にしていた。彼が自分を返せと叫ぶ先は故郷であるローゼンティアではなく、シェリダン王と共に過ごしたエヴェルシード。
「やっぱり、それが答なんだ……」
 ロゼウスは傷口から手を離す。もう血は止まり、傷自体も癒えてきたらしい。普通に歩き出そうとするその姿にもう一撃を加えようと繰り出したヴィルヘルムの剣を、またも鋼のような爪で受けとめられる。
 魔力で一時的に鍛えたそれを使い続けるのはやはり負担が大きいのか、ロゼウスは、ヴィルヘルムの剣を退けると一度爪をもとに戻した。そしてさっと何もない場所で腕を一振りすると、次の瞬間にはその手に中に見た事のない剣が現れていた。よくハデスのやって見せる魔法のように簡単に、武器をその手にした。
「心は決まったようだね。ヴィルヘルム」
「うん。決まった」
 ずっと先延ばしにしてきた。憎まれ嫌われ疎まれることになるとわかっていても無理強いして鎖に繋がなければ引き止められなかったその感情。自分のもとを離れようとするその生き物を閉じ込めるために、あらゆる手段で足を折ったら、それは羽を持っていた。そんな裏切り。
「いかせない」
 それは行かせない? それとも生かせない? 自分でももう、どちらなのかわからない。
 ただ自分とロゼウスが剣を手に取り戦いあうこの状況は、ずっと前から必然として用意されていたんだと言う事。どうにかして回避したかったけれど、やはり止めることはできなかった。
 ロゼウスの性格はいきなり変わってしまったようでそれには驚いたけれど、もともとの彼の主張とこの状況は何一つ変わっていない。歯車を狂わせていたのは目の前のロゼウスの顔をした誰かではなく、本物のロゼウスのほうだった。ヴィルヘルムを殺すのが一番の近道だとわかっていながら刃を振り下ろす手に迷いを生んでいた、本当のロゼウス。
 だけどどちらにしろ、彼が一番大切な人間があのエヴェルシード王で、彼に再び会うためにヴィルヘルムを捨てようとするという図式は何一つ変わっていない。これまではヴィルヘルムを一思いに殺すことを躊躇って、その隙をヴィルヘルムに衝かれて失敗していたロゼウスから、その逡巡も躊躇も消えただけ。
 俺を殺そうとするその意識に、何の遠慮もなくなっただけ。
 感情が変わっただけで行動の結果は変わらない。どんな過程がそこにあったところで、出てくる結果に反映されなければ意味はない。
 結局お前はシェリダン王を選ぶんだ。俺ではなく。だったら。
「いかせない」
 シェリダン王の元に戻るくらいなら殺す。俺のものにならないなら誰にも渡さない。
「ああ。そうだ。もっと早くこうしていれば良かった」
 そうすれば、昔を思い出して切なくなったり、自分に向かうロゼウスの眼差しの一つ一つに一喜一憂したり、最後の最後で躊躇いのない刃を向けられてこんな想いを味わうこともなかったのに。
 手に入らないのであれば殺してしまえ。
「そうだね」
 ヴィルヘルムの言葉を、ロゼウスは否定するでもなく、ゆったりとした笑みさえ浮かべながら肯定した。それは絶対の権力を持つ神の言葉のように力強く揺ぎ無い。まるで呪いのように心の隅々に染みこんだ。
「殺してしまえばいいんだよ。どうせ自分のものにならないんだったら。だからヴィル、お前も俺が欲しければ殺せばいいよ。俺はお前なんていらないけれど」
 笑顔で告げられたその言葉は文字通りの死刑宣告。だからこそ、俺は。
「――ロゼウス!!」
 吼えて、ヴィルヘルムはロゼウスに斬りかかった。

 ◆◆◆◆◆

 眼下で戦闘が行われている。
「ふぅん……」
 荒野の岩壁に立つセルヴォルファス城と言っても、庭がないわけではない。狭い部屋の中では存分に戦えまいと、少し前に彼らは場所を移していた。灰色の廊下を歩く二人の姿を、セルヴォルファスの召し使いたちが何事かと言った顔で見ていた。その光景を、ジャスパーは更に二人の後ろを歩きながら見ていた。
 途中で立ち止まり、進路を変える。間違ってもとばっちりなど食いたくないから、上の階の、庭の様子が見下ろせるバルコニーの方へと。手摺りに身を乗り上げて、ともすれば落ちそうなほど顔を寄せた。
花壇もなく修練場と言った方が正しいような殺風景な中庭では、すでに戦闘が始まっていた。
 ジャスパーの兄であるロゼウスと、セルヴォルファス王ヴィルヘルム。二人の戦闘は、熾烈を極めていた。吸血鬼と人狼。温室の王子と王。十七歳と十六歳。その他諸々の諸事情を差し引いても、二人が互角で戦えるというのは凄いことだと、彼だけが知っている。
 ロゼウスが剣を繰り出し、ヴィルヘルム王がそれを受けとめる。二人ともある程度得物を駆使しているけれど、やはりいざと言うときには爪が出る。魔族の特徴の一つとして、ただの人間よりも強靭な肉体というものがある。だからこそ、ここぞと言うときにはそれが何よりも強い盾となり、武器となる。
「楽しそうですね。兄上」
 ジャスパーはバルコニーから眼下の戦闘の様子を見下ろす。正しくは、兄の様子を見下ろす。セルヴォルファス王のことなどどうでも良い。
 ロゼウスの力は、今のこの一瞬一瞬に強くなっていく。
 正確にはロゼウスというわけではなくて、その中身は始祖皇帝候補にして選定者という制度を世界に押し付けた三千年前のヴァンピル、シェスラート=ローゼンティアなわけだが、そのシェスラートが引き出している肉体の力は、もともとロゼウスが持っていたものだ。
「……兄様」
 ここから見える戦闘。そこで戦っている人は、僕の兄様。兄様であって兄様ではない。兄様の身体をシェスラートが勝手に使っている。
 ジャスパーはそれが少しだけ不安になる。
「兄様、どうか……」
 ヴィルヘルム王と剣を交わすロゼウスは楽しそうだ。
 はじめこそただ、ヴィルヘルム王が邪魔だという、その感情だけで彼は動いていた。目的のために邪魔なものは排除する。それがシェスラートの思考。だからロゼウスをこのセルヴォルファスで自分の傍に置いておきたいヴィルヘルムの存在は不愉快なもので、シェスラートがヴィルヘルムに剣を向ける事は当然だ。むしろ、最初に優しくしたのが何でだかジャスパーにはわからないくらいだ。
 けれど今となっては、シェスラートはそんなことどうでもよくなっているようだ。ただ純粋に戦いを楽しんでいる者の目をしている。
 ヴァンピルが一定の線を越えてしまうと辿り着いてしまう、狂気の淵。彼らはいつもいつも、そこに落ちないようにそこへと閉じ込められないように、それだけを気をつけて生きている。狂気に陥り理性の箍を外したヴァンピルの力は強大だ。だからこそ、その強大な力を野に放ってはいけない。そのために彼らには制限が存在する。ヴァンピルの魔力を迂闊に解放しないための重石のようなものがいつも心の底にあって、簡単に理性を手放すことはできない。それ故に人狼よりも、力の制御は難しい。
 だけど、その制限を自分に都合の良いように、力の制限を完全に自らで御することのできる存在がいたならば? 
 ならばその者は、間違いなく完全な存在だろう。目の前のシェスラートのように。
 獲物を嬲る獣のようにぎらついた殺戮の欲に濡れた瞳でヴィルヘルム王を見ている彼は、確かに強力な存在だ。単なる力の強さではなく、それは力の制御を自在にこなす精神力の強さを意味している。
 歴史の資料によれば、初代皇帝に仕えたという彼は、ゼルアータを打倒する解放軍の一人として人間の中で暮らしていた時期があるのだという。だからだろうか。自律の心が強く、その分箍が外れたときの反動も強い。
 魔力の制御をすることは、酒に飲まれぬようにすることと一緒だと、かつて誰かが言っていた。泥酔や酩酊状態に陥るよりも、自分が酔っているのだと高揚した気分でいる自分を理解しているその状態が、一番心地よいのだと。完全に酔いに溺れてしまっては、後には苦痛が残るだけだと。酔う自分をどこかで冷静な別の自分が眺めていなければならない、とその人は言った。
 狂気も魔力の制御も、それと似たようなものだという。
 どちらもそれに溺れすぎても、それに酔う状態が強すぎてもいけないのだと。淵に立ち止まり、そんな自分を見つめるもう一人の自分が必要なのだと。
 ロゼウスにとっては、それが魂の奥底に潜むシェスラートという存在だった、それだけのこと。
 眼下でロゼウスの剣が、ヴィルヘルムの持っていた武器を跳ね飛ばす。次の一撃を咄嗟に受けとめた彼の爪ごと斬りおとした。ああ、もうすぐ決着がつくだろう。
 わかっている。これは必要なことだ。ジャスパーはちりりと焼け付くように疼く胸を、ひっそりと宥める。
 ロゼウスは優しいのに酷薄で、自分の興味のない相手には本当にどうでもいいような感情しか向けないけれど、でも一度懐に入れたものには弱い。それこそ淡白で誰かに溺れてしまう姿など滅多に見かけないけれど、小動物を可愛がるように人を目にかける人だと言う事は知っていた。
 その感情の方向や種類がどういったものかはともかく、ロゼウスでは、ヴィルヘルムを手にかける事ができない。だから、シェスラートが出てきた。
 そういうことなのでしょう?
 《――》の目覚めには、彼の存在も必要だった。シェスラートはそのために必要とされた。ロゼウスの真の力、薔薇の覚醒を促すために。
 だけれど、不安になる。目覚めるとは言葉の上だけで、本当はこの道はロゼウスがどんどんシェスラートのようになっていってしまう道なのではないかと。このままロゼウスらしい部分が全て消えてしまって、最後にその身に残る魂がシェスラートのものだけと言う事態になりはしないかと。
「そんなの駄目だ、兄様。あなたはあなたでいてくださらないと」
 世界に望まれているのは、ロゼウス=ローゼンティア。他でもないあなただから。
「そうでなければ、僕は何のために――ッ!」
 何かを考えようとした瞬間、突然頭に痛みが走った。蹲ってこめかみを押さえる。背中に脂汗が伝った。
 今のは一体なんだったのだろう。知らず詰めていた息を吐く。
 ひょっとして、これは考えてはいけないことなのだろうか。ジャスパーはロゼウスのためだけに生まれてきた。だから、それに不必要な人格は消去される。……自分の体の中で実際どんな変化が起こっているのかはわからない。でも、そういうものなのだとは、知っていた。
 だから考えなくてもいい。考えてはいけない。
 ジャスパーはただ、ロゼウスのことだけを考えていればいい。
 バルコニーの下で剣戟の音が止んだ。
「兄様……」
 ジャスパーは手摺りに縋り付いて、身体を持ち上げる。首を伸ばして、その光景を覗き込んだ。
「兄様……っ!」
 ああ、だんだんと、ジャスパーという存在の中から、自分自身も消えて行く。


159

「は? 金欠ぅ?」
 事態を報告した瞬間、その男はそうして小ばかにしたように眉をあげやがった。
「お前たち……そんな理由でこの場所で海賊やってたのか……」
「なっ! いいじゃないのよ! あんただって似たようなものでしょ!?」
「私たちが似たようなものかどうかはともかく、海上での略奪行為は普通に考えて違法なのだが……」
 いいわけないだろ、と。数週間ぶりに見るシェリダン……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは言った。彼は相変わらずだった。
「ロザリー、お前たちは私たちがトリトーンの港に辿り着くよりもよほど早く海に出たはずだと思うのだがな……」
「う、うるさいわね! 仕方ないでしょ! そうなっちゃったものは!」
「しかも、素人だけで航海しようという考えがまず無謀もいいところだ……いくらお前らが半分不死身のようなものでも、さすがに溺れたら死ぬだろう」
「だから、悪かったわね! あんたたちみたいに港で暴れて海賊脅迫するってそれもどうなのよ!」
 ロザリーの最後の台詞に、それまでマストの柱の影や船内へ繋がる入り口の隙間で様子を窺っていた向こうの船の海賊たちが揃って頷いた。
「とにかく落ち着け。事態を整理しよう」
「というか、船、進めないか? せっかく人手揃ったし……なぁ、俺たちももちろんローゼンティアに連れてってくれるんだろう? シェリダン王」
「アンリ王子……もちろん連れて行ってはやるさ……せいぜい私とクルスをしっかり案内しろ……」
「ああ。約束するよ。取引完了。じゃ、俺たちもこっちの船に移っていいか?」
 もう知るか。どうにでもなれ。そんな感じでシェリダンはロザリーの乗船を許可した。ちゃっかりと取引をつけたアンリを先頭に、ロザリーたちローゼンティア王家の者たちはは皆して、シェリダンが脅迫行為によって手に入れたという海賊船へ移った。
「で、実際問題、本当に俺たちは困ってるんだ。何しろあの時着の身着のまま出てきちゃったから、金がなくてさ」
「ああ、そうだろうな……途中で稼ぐとか考えなかったのか?」
「いや。そういう頭はなかったなぁ。そんなゆっくりしている時間もないと思ったし。あんたがエヴェルシード王城で俺たちに着せてくれてた服、あれが絹製で高価なもんだったからしばらくはそれを売った金で凌いでたんだけどね」
「それは良かったな……時間がないというのに、イスカリオットに足止めされて後から海に出てきた私たちに追いつかれたのか?」
「う! 痛いところつくなぁ。でも、本当に大変だったんだってば。何しろ――」
「シェリダン王」
 アンリとシェリダンの気の抜けるような会話に、凛とした一つの声が中断を入れた。
「サライ」
 銀髪に紫の瞳の、物凄い美少女がシェリダンに声をかけた。ロザリーたちもその人の姿に、思わず動きをぴたりと止めてしまった。こんなに綺麗な人は見た事がない。ミザリーは別として。
 だがそういえば、そのウィスタリア人の美少女は、どこかミザリーに似ているような気がする。
「どうでもいいから。さっさと船を動かすわよ。行くのでしょう? 薔薇の王国、死神の眠る国へ」
「あ、ああ」
 ロザリーたちが乗ってきたボロ船はシェリダンたちの海賊船の後尾に繋がれて行くこととなった。あの海賊船も、もとはどこかから奪い取ったものである(実はロザリーたちも人の事は言えない)。ただし海賊の船員込みではなかったから、ロザリーたちは本当に五人だけで海の上を進んでいた。それがシェリダンたちの船に移って、少しだけ余裕ができる。
 この船の上では細かい仕事は全部もとから海賊の船員たちがやってくれるとのことで、ロザリーたちはシェリダンと、これまでのことと、これからのことを含めた話に入る。
「そっちのチビどもは、随分疲れているようだな」
「え? ああ、まあ、長旅、だったからね」
 シェリダンの指摘に、アンリが苦笑を浮かべた。ウィルとエリサが疲れてもう動けない様子である理由は実際はそれだけではないのだが、大声で言うのは憚られる。
 ただ一つ言える事は、本来、ローゼンティア人、ヴァンピルの海賊などいないということ。ロザリーたちはそれをわかっていて、無謀にも海に出た。シェリダンたちと違って船を奪った際に人間の海賊たちまでも連れてこなかったのにも理由がある。
「船内で休んでいていいぞ? 部屋ならクルスに案内させる」
「ああ……ありがとう」
 アンリはエリサを抱き上げ、ミザリーがウィルの手を引いてユージーン侯爵の案内で船室へと向かった。ロザリーはぽつんとただ一人その場に残って、シェリダンと顔を見合わせる。
「あの、シェリダン……」
「なんだ?」
 頼みごとをするなら、この場合シェリダンが一番都合がいい。わかっているのに、ロザリーは躊躇った。
「シェリダン王〜♪」
「わぁ!」
 その隙……隙にかどうかはともかく、またしても艶やかな声が今度はロザリーとシェリダンの間に割って入った。きらきらと光を弾く銀髪が軽やかに跳ねて、一人の少女がシェリダンに飛びつく。
 甲板の上でのやりとりに、辺りの海賊たちの視線が一度こちらに集まる。けれどその少女が手を一振りすると、男たちは見てはいけないものを見たかのように、そそくさと作業に戻っていった。
「何の用だ? 呪いの女神」
「呪いとは失礼ね。いいじゃない。私が私の子孫と話したくって何が悪いの?」
「だったら最初からロザリーに飛びつけばいいだろう?」
「あら。いきなりそんなことしたら吃驚するじゃない。ねぇ?」
「え? は、はい」
 その人物はとても綺麗だが、同時にどこか掴みにくい人だった。凛然としているのに奔放で、どこか人をひきつけずにはおられない魅力を持った女性。そんな女性が、今はシェリダンの隣にいる。ロザリーは少しだけその光景に、胸の痛みを覚えた。
 二人としてはこのまま二人の世界に入ってしまうつもりはさらさらないようで、サライと名乗った銀髪の少女はロザリーへと向き直った。
「初めまして。ロザリー=ローゼンティア。私はサライよ。逢いたかったわ」
「は、はじめまして。ロザリーですけれど……会いたかったって?」
「この女の言う事は気にするなロザリー。事態がややこしくなるだけだから、説明は後にしてくれ……」
「あ、うん」
 にこにこと笑顔で手を差し伸べるサライとは打って変わって、シェリダンはなんだか苦虫を噛み潰した顔をしている。ロザリーはサライに両手をとられ、その神秘的な紫の瞳に見つめられながら、彼女の言葉を聞いた。
「ここまで。よくがんばったわね。よく我慢してきたわね。偉いわ」
「え……」
 サライは声を潜め、ここにいるロザリーとシェリダンだけに聞こえるような声量で話す。
「海上では人間の血が調達できない。だから、ヴァンピルの海賊は通常存在しない。吸血鬼の性質くらい理解しているつもりよ? 何しろ、あの人がそうだったから。そのために船に人間の船員を乗せなかったんでしょ?」
「!?」
 ただの人間にこうもあっさりと事情を見抜かれたことにロザリーは驚き、一方シェリダンはハッと気づいた顔で彼女を見ていた。そうなのか、と小さく尋ねられて、頷く。
「うん……うん、そう、よ。でも、あなたは、どうして――」 
 ロザリーは困惑の眼差しを、シェリダンではなく目の前のサライと名乗った少女に向けた。けれど美しい、ミザリーに似た美しさとロゼウスのような性格を併せ持つ少女は答えない。
「じゃ、後は二人でよろしく。向こうのアンリ王子たちも大変だと思うから、シェリダン王、クルス卿を貸してね」
「え……あ、ああ」
 この場合の貸して、は「ユージーン侯爵を使わせて」というより「侯の血を飲ませてね」に等しい。ロザリーたちヴァンピルの一回の吸血量なんてほんの一舐めだからたいした量ではないのかもしれないが、普通の人間はこういう発想はまずしない。
「許せクルス……」
 半ばサライの勢いにつられて頷いてしまった感のあるシェリダンが、サライの後姿が船室に消えていくのを見送りながら十字を切る。
「ロザリー」
「へ?」
 あまりの事態についていけず、ぽけっとそれを見ていたロザリーは、ふいにシェリダンに名を呼ばれて我に帰った。そしてまた我をなくしそうになる。
「シェリダン……」
「必要なのだろう?」
 いつの間にか小刀を取り出したシェリダンは、それで自らの指の先を傷つける。白い指先に膨れ上がった紅い血の珠の鮮やかさと甘い香りに、ロザリーはくらりと眩暈を覚える。
「い……の?」
「ああ」
 掠れ声で尋ねたのに、普段どおりの頷きが返ってきた。伸ばされた指をロザリーは自らの唇に含み、その久方ぶりの味を堪能する。
 身体の奥深くで、今にも暴れようとしていた何かがざわりと蠢いてようやく落ち着く。恍惚として、一瞬に目が覚める感覚。舌の上に鉄サビの味が残った。
「ご、ごめんなさい……」
「いい。気にするな。そういう習性なのだから仕方ない」
 ロザリーがシェリダンの指を離すと、彼はその手をもう片手で拭うでもなくただ手首を押さえ込んで支えた。俯くその表情には翳りができていて、何があったのかと彼女は不安になる。自分は何をやったのかと。
「シェリダン……あの……」
 よくわからない羞恥だかなんだかで頬が熱くなるのを感じながら、ロザリーは目の前の少年になんとなく言葉をかけならければならないように思っていた。名前を呼んですでに話すことの尽きた内容を悟らせないままに、先にシェリダンの言葉によってそれは封じられる。
「……は」
「え?」
「ロゼウスは……今頃どうしているのだろうな」
 炎の色をした瞳の少年のその心を占めているのは、いつもただ一人。
 そしてその人は、ロザリーの大切な兄でもある。
「ロゼウス……」
 彼らは二人、遠くの人を思って海の果てに視線を移した。

 ◆◆◆◆◆

 もう、そんなこと、とっくに知っていた。世界は自分を置き去りに動いていく。それでも、何かできることがあるのならば。
「……っ、ロゼウスと、シェリダンは……」
 乾いた風が頬を撫でた。足元の暗緑色の輝きを放つ魔方陣が消えた瞬間、移動の際は軽減されていた重力が病みあがりの身体にのしかかる。苦しい。
 ここはだいたい、シュルト大陸ルミエスタ王国の辺りか。エヴェルシードともローゼンティアとも、少し距離がある。
 風の中に混じる魔力が針のように鋭く肌を刺す。ハデスに向けられた敵意でもないものが、びりびりと伝わってくる。
 辺りは暗く影が落ち、それは緑の葉の形をして揺れる。ここは木漏れ日も届かない樹海の中のようだった。
 魔物に送られ、冥府から地上へと戻った歯ですを待っていたのは、北の方で誰かと誰かが戦う気配だった。魔術師としての感覚を大陸全域に広げ、その気配を探る。あの方角にあるのは、人狼の国セルヴォルファス。争う二つの大きな気配は、どちらも知ったものだった。
「ロゼウスと、ヴィルヘルムが……」
 ハデスは袖をまくりあげ、自らの右腕を見た。露になったその場所には、これまでその存在を主張していた痣がかなり薄まって残っている。皮膚を移植されたためにそこだけ色の違う肌の上の黒い紋章。今はもう目を凝らさないと見えないほどになっている。やがて完璧に消えるだろう。
 そうなった時こそが、ハデスの真の戦いの始まりだ。
「これまでどんなにやっても、誰をどうけしかけてもあいつを殺す事はできなかった。まだ機会が来ていない……せめて、前皇帝が廃されないと、次の後継者は生まれないから……」
 これまで何度も、予言の能力を使ってその未来を見た。けれど、何をやっても、いつも結果は同じだ。ハデスの望みは叶わず、世界はロゼウスのものになる。
「そんなの許せない……許さない」
 薔薇の王子ロゼウス。どうしてだろう。その存在を知った時から、ハデスはロゼウスの全てが憎かった。その存在自体を全霊をかけて憎み、疎んだ。ロゼウスがハデスを知るずっとずっと前から、ハデスはロゼウスを憎んでいた。その燃える憎悪は、まるで激しい恋のようにハデスを縛り付けて解放しない。
 恋ならばまだ楽だったのだろう。
 どんなに心が遠くても、相手が自分を見向きもしなくても、それならばそれで、足元にひれ伏して身を差し出せばいい。踏みつけられて打ち棄てられる側でも特別になれれば、それで満足できるはずなのに。
 ハデスの身に巣食うこれは紛れもない憎悪だ。誰よりも自分がわかっている。だからこそ、ハデスはロゼウスがそこにいる限り救われることはない。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 薔薇の王国ローゼンティアの、第四王子にして真の王太子。この世で最も強い力を持つ王となるべく、選ばれた存在。
 彼の兄として育てられたドラクルは、ロゼウスを憎んでいる。何故ならロゼウスは、ドラクルのはかじるしだから。ロゼウスがいることによって、第一王子であったはずのドラクルはその存在価値を失う。生まれてきた意味もその命も、無駄なものとなる。その能力値において全てが彼を上回るロゼウスが生まれてきたから。
 彼の憤りを、ハデスは少しだけわかる気がする。なぜならハデスにとっても、ロゼウスは墓標だから。
 ロゼウスが《――》になれば、ハデスはその価値を失う。そのためだけに生まれてきた役割を別の人間に奪われ、何の意味もなさない人間となる。一度も自らの手で何かをなしたことがないまま。
 そんなのは御免だ。
「……やってるな」
 セルヴォルファスの方で、強い二つの気配が戦っている。ヴァンピルのロゼウスとワーウルフのヴィルヘルム。どちらもただの人間でしかないハデスにしてみれば、物凄い実力の持ち主だ。ハデスは間違っても、二人と正面から戦うなんてできない。それはロゼウスはもちろんのこと、優秀な兄たちを亡くして突然玉座が転がり込んできた未熟な国王、ヴィルヘルム相手でも同じだ。
 ハデスはヴィルヘルムや他の人々のように真正面からロゼウスと向き合う実力がないからこそ、何重にも罠を張る。
 魔方陣のあった場所から移動して、とりあえず歩いてこの地上で身体を動かす勘を取り戻しながら、これからの動きを考える。
 ロゼウスを止めなければ。なんとしてでも。彼が完全に自分の中に眠る力に目覚めてしまったら、もうどうしていいのかわからない。冥府の王の力は、所詮は《――》には遠く及ばない。悔しいことだけれど。
 ヴィルヘルムには悪いが、彼ではロゼウスには勝てないだろう。可哀想な狼王。彼に忠告をしてセルヴォルファス王になるよう仕向けた時には、ハデスにはまだその後の未来は見えていなかった。まさかヴィルヘルムがロゼウスに惚れるなんて、誰が予測できただろうか。何しろロゼウスは男だ。いくら見た目は綺麗だからって、欲情するなんて冗談じゃない。それでも、ヴィルヘルムは数年越しでも彼を手に入れるための行動を起こすほどに、ロゼウスに惹かれてしまった。
 あれは魔性だ。全てを引きつけながら、触れたものは皆その鋭い棘で刺し殺す。鮮やかな大輪の花を咲かせながら、いざとなると心は誰にも許さない。だからこそ、薔薇の王子。
 もしもこれから先、ロゼウスに干渉できる余地があるとしたら、その人物はきっと、ロゼウスにすら心を開かせるような人間だけ。
 唯一彼の魂に言葉を響かせた、シェリダン=エヴェルシードだけ。
 ふと傍の木の幹に手をついて立ち止まり、ハデスは再び魔力の探査網を伸ばした。意識を集中して、ロゼウスやヴィルヘルム、ドラクルなどの強大な力を持つ存在たちに比べればか細いほどに力のないシェリダンの気配を探る。力はないけれど、シェリダンの気配は特徴的だ。燃え上がるような朱金の炎のような生命力をしている。
 いた。海だ。それも、ローゼンティアに近い。そういうことか。
 シェリダンの位置と、彼の側にまた複数のヴァンピルの気配があることから大体の思惑は読めた。海側からローゼンティアに侵入し、まず奇策でもってドラクルを落としローゼンティアの王権を取り戻す気だろう。ロゼウスとどこまでそれを打ち合わせているか知らないけれど、野放しにしておいたら厄介なことになるに違いない。 
 何しろこの世界において、ロゼウスという存在に干渉できるのはシェリダンだけなのだ。逆に言えば、ロゼウスを直接害することができずとも、シェリダンの方を上手く誘導すればロゼウスを破滅させることができる。
 ハデスはもともとそのためにシェリダンに近づいた。笑顔を浮かべながら誰にも心を開かないロゼウスの運命に介入するには、それだけロゼウスの心の奥底に触れられる存在が必要で、それはシェリダンをおいて他にはいなかった。特筆して優秀でも高貴でもない、庶出のエヴェルシードの王が、どうしてそれほどまでに……。
「そして、それでも、僕は……自分の目的を諦めきれない」
 ヴィルヘルムがロゼウスに惹かれることを予測できなかったように、ハデスもまた、シェリダンごとロゼウスを罠に嵌めるためにあの炎の瞳の少年を利用することに対し、こんなにも苦しくなるなんて、考えもしなかった。


160

「がっ! ぐは!」
 圧倒的な差だ。戦いにすらならない。
「なん……でっ!」
 なんで、なんでここまでロゼウスが強いんだ!?
 左脇腹を狙った蹴りに対し、ぎりぎりで避ける。かわした先を読まれて、右肩に打撃が来た。
 剣などとうに折れて庭の片隅に打ち捨てられている。ヴァンピルとワーウルフなら、素手でやりあう方が攻撃力は大きい。そして攻撃力が大きいと言う事は。
 殺す気だ。
 ヴィルヘルムが持っていた武器は短刀だったが、すぐに弾き飛ばされた。ロゼウスの長剣もへし折って、これで状況としては互角。
 肩、右の太腿、一度決められた鳩尾、じくじくと痛みを訴える各部位を無視して、痺れた手足を動かす。
 ヴィルヘルムのほうもロゼウスに全くダメージを与えられていないわけではなくて、彼の白い頬にはヴィルヘルムの爪で切り裂いた紅い筋が走っている。
 迷いない足取りで向かって来るロゼウスの首筋を狙って、また爪を繰り出した。
「チッ!」
 向こうの膝蹴りを横に飛んで避ける。ヴィルヘルムの爪はロゼウスの首を僅かに掠り、紅い鮮血が黒い土に散った。
 吸血鬼の一族は出血に弱い。逆に人狼は出血は勿論、あらゆる怪我や負荷に強い。一対一で戦えば、いくらヴィルヘルムがそれほど優れた人狼ではなくとも、そんなあっさりとは負けないはずだった。
 さすがにかすり傷でも急所である首の傷は気になるのか、ロゼウスは片手を先程の傷に当てている。出血に弱くとも傷の再生能力は人狼を遥かに上回るヴァンピルだから、時間を与えればあの程度の傷、すぐに塞がってしまうだろう。
 ロゼウスが動かない間に、ヴィルヘルムの方から今度は攻撃を仕掛ける。ヴィルヘルムの方は殺すつもりはなく、けれど相手は死の淵からも甦るというヴァンピルだからこそ、殺してもいいやというような気分でやっている。いいや、むしろそうでもなければ、確実にこちらが殺されてしまう。
 それほどに、今のロゼウスは強い。
「でやあ!!」
 腹部を狙った蹴りはあっさりとかわされた。もう血は止まったらしく、首から手を離して彼のほうも襲い掛かってくる。伸びた腕を逆につかんで、その勢いを利用して放り投げた。地面に叩きつけようとした勢いの方は上手くロゼウスに殺され、拘束が弱まった瞬間に逃出される。駄目だ。向こうの方が断然器用だ。
 速さで勝負するなら、本当は狼の姿に戻った方がいい。だけどそうすると、人型同士ならある程度読めるお互いの急所に関する認識が変わってしまって、逆に相手がヴィルヘルムの身体のどの部分に攻撃を入れたいのかが読めなくなる。
 さらにもとからロゼウスより小柄なヴィルヘルムの体格では、狼型になるとさらに小さくなってしまい腕力が乗らないのだ。ロゼウスは女のような細腕のくせに、怪力を誇るヴァンピルの一族だけあってもとから力が強い。今まではそれをどこに隠していたのかと思うくらい――強い。
 考える間にも、相手の魔力で伸ばした鋭い爪が迫っていた。爪も牙も、種類こそ微妙に違えど何もワーウルフの専売特許ではない。短い舌打ちに次いで今度は鋭い手刀が振り下ろされる。横にかわし、回転をかけた蹴りを屈みこんで姿勢を低くすることで避けたヴィルヘルムは、一瞬ロゼウスの表情を見た。
 ぞくり、と背筋に嫌な震えが走る。
「ロゼウス……!」
 削られた体力。自分ではそんなに軟弱でもないと思っていたのに、今のヴィルヘルムはもう力を使い果たそうとしている。荒い息で名を呼んだ。
 息一つ乱さず、顔色一つ変えないロゼウスは冷ややかな眼差しをしたまま。
 ああ、これが彼の本性なのか。ヴィルヘルムはようやく悟った。ドラクルの恨みを買い、ハデスが必死で殺そうとしていたわけ。これが、この残酷さがロゼウス=ローゼンティアの神髄。
「ロゼウス!」
 必死で名を呼んだけれど、ロゼウスにはまるで聞こえてもいないような感じだった。自分は目の前にいるのに。ここにいるのに、どうでもいいみたいに。それがむしょうに悔しくて情けない。だから。
「俺は、あんたなんかに負けるわけにはいかないんだよ!」
 だって自分はこれでもセルヴォルファスの王だ。ワーウルフを取りまとめるもので、この国を治める者だ。何でも手に入れることができると言われた存在が、たった一人すら自分のものにできないなんて滑稽もいいところだ。
「これで終わりだ!」
 ありったけの力を込めて、攻勢に転じる。
「ああ、そうだな」
 しかしそんな涼やかな言葉と共に、ロゼウスはあっさりとヴィルヘルムの攻撃をかわした。目にも留まらぬ速さで死角に回り込むと予想外の方向から次の打撃を加えてきた。予想できず、さらにはその状態に備えることもできず一瞬呆然としたヴィルヘルムは、まともにその攻撃を喰らって吹っ飛ばされた。
 胸から腹にかけてを思い切り蹴り飛ばされて、地に転がる。最後の方は、背中と身体の脇で地面をこする形になった。服も破れ皮膚が擦りむけ、じんじんと痛む。けれどそれよりも。
「がっ! ごほっ! ……ぐっ」
 吐き気なんてものではない。吐いたのは大量の血だった。蹴られた箇所を中心に、どこの骨が折れた? どれだけの内臓が潰れた?
 痛い。苦しい。気持ち悪い。寒い。全ての感覚が入り混じり、視界の奥で赤と青の光点が点滅して周囲の景色がぼやける。焼け付くような痛みが腹部から胸部を襲った。
「ごふっ……! けほっ」
 あまりにも濃い血の味に眩暈がしそうになる。粘性のそれのせいで、喉が詰まりそうになった。酷く渇いている。
その間も折れた肋骨が肺を突き破り、息ができない。どす黒い血を吐くたびに傷口が広がって、なおさら苦痛を増長する。
手足と背中が痺れ、意識が、全ての感覚が闇に呑まれそうになる。
「どうなることかと思ったけど……そろそろこの身体にも慣れてきたな」
 ロゼウスの言葉も、もう耳に入らない。音を聞いても、それを言葉と判断するほどの力が戻ってこない。
 だから、ヴィルヘルムがわかったのは、たった一言だけ。
「ぐぁあ!」
 身体を不自然に折り曲げて蹲ったまま血を吐いていたヴィルヘルムの身体を、ロゼウスが首を引きつかんで無理矢理引き上げる。怪我の痛みと絞首による窒息の苦しさで、今度こそ本当に意識が飛びそうになる。
 でもそんな心配は無駄だったのだと、この一言で最期に知る。
「さようなら。ヴィルヘルム」
 うっそりと笑って、ロゼウスは言った。
 ヴィルヘルムの首を締め上げたまま、その手が伸びてヴィルヘルムの胸に触れる。ヴァンピルの爪が魔力で刃のように鋭く尖り、磨き上げられている。それを、思い切り左胸に突き立てた。
「―――――ッ!!」
 そしてヴィルヘルムは自らの身体の中で、無理矢理心臓の握りつぶされる音を聞いた。

 ◆◆◆◆◆

 誰かが、呼んでいる。
 それは封じられた名。今は奥底に押し込められた、魂の名。

 絞められた首から、声無き断末魔が響く。
 肉に食い込んだ右手が生暖かく濡れた。魔力で伸ばし鋭く研いだ爪の間に血と肉片が入り込む。これまで鼓動をうっていた心臓は、今は赤黒い肉潰れた肉の塊だ。直前に折った肋骨は腕を突っ込んだ自分自身の手にも引っかかり、不愉快な感触を残す。けれどそれも、もう終わり。
「さようなら。ヴィルヘルム」
 自分は人狼の少年の心臓を握りつぶした手を、その身体から引き抜いた。首を絞めていた左手も離し、無惨な肉塊に変わったそれを無造作に地に放り投げる。
 ヴィルヘルムの穴の開いた左胸から、どくどくと紅い血が流れていた。血だまりなんてかわいらしいものではなく、紅い紅い血の池ができる。流れる血液はその赤い腕を伸ばし、黒い土を染めていく。
 ヴィルヘルムの柔らかい茶色の髪も、耳も、みんな血に濡れてしまっている。人狼は吸血鬼と同じく再生能力に優れた一族だが、不死でも甦りのなせる存在でもない。
 ここまですれば、まず助かることはないだろう。
 足元の砂を蹴り、一度は捨てたそれへともう一度歩み寄る。痙攣する身に、屈みこんで囁きかけた。
 人間なら即死の大怪我でも、人狼にとっては違う。少しだけ長く、息が続いてしまう。もっとも肺を潰され肋骨を折られ心臓を握りつぶされて首の骨も絞めていた影響で折れている身としては、そんなものあるだけ苦しみが長引くだけだろう。
 呼吸すらままならず、ただ苦痛だけを感受する時間を引き延ばされている哀れな少年は、空ろな瞳で彼を見ていた。
 いや、空ろではない。今にも瞳孔が開ききりそうなその灰色の瞳には、ひたすらに疑問が浮かんでいる。
 何故。どうして。なんで。嘘だ。
 どうして自分がこんな目に遭わねばならない、今にも死にそうで、避けられないものとしてその運命を受け入れなければならない。ひたすらにそれを疑問に思い、その答をただ一人知っている自分へと説明を求めるでもなく視線を向ける瞳。どうして。見つめれば答えるとでもいうように。
 いつだって殺戮は理不尽だ。どんな理由があろうとも殺された側が殺した相手を許すことはない。殺される者は自分が何故そうされるのかもわからぬまま、その不条理に身を浸していく。
「かわいそうに」
 その言葉に、少しだけヴィルヘルムの瞳に力が戻った。怒りとなる前の激しい感情が一瞬だけ瞳の灰色を揺らがせるが、それでも持続しきれずに途中で力尽きる。
 彼は涙を流すわけでもなく、ロゼウスの記憶から得た情報を元に言葉を降らせる。
「お前は可哀想な子になりたくなかったんだね。王様になれば何でも与えられると聞いて、どんな者でも幸せになれるのだと聞いて、だから自分は幸せなんだと思い込もうとした。だって王様になっても幸せになれなかったら、お前は兄たちを一度に失った自分の悲しみと向き合わねばならないから」
 ロゼウスの目から見るこの少年は、ただひたすらに哀れで、愚かだった。心を守るために自分を誤魔化し続け、その虚像に他者をも巻き込みたがる。世界は味方なんだと思いたがって、だからハデスやドラクルのような、信用に足りない相手にさえも縋ってしまう。所詮この世に味方などいないのに。
 本当に自分の身を案じてくれる忠臣には我侭を言い放題で、暴言ばかりを吐いた。彼らがヴィルヘルム自身のことを思って口うるさく言うのも知らず。その一方で、自分に対し甘い言葉ばかりを吐く相手を信用した。
 王の権力を我が物とし、自らも能力がそう優れたものでないことを自覚しながらも他者に頼るために権力を分け与える事はなかった。全て自分の物である代わりに、なんでも自分でやりたがり、決して国王という立場を人と共用したがらなかった。誰の苦言も耳に入れず、自分の欲望にだけ忠実で。
 それはロゼウス自身の生き方とも似ている。嫌なもの辛いものは目に入れたくなくて自分の殻に閉じこもる。だからなおさら、ロゼウスはこの少年を気にしていたようだ。けれど、そんなこと彼には関係ない。
 だって幸せになりたいのなら、他人を構っている余裕などない。幸福は有限なのだから、手元にないのならば、奪え。そう――余すことなく、徹底的に、最後の一欠けらまで。
 奪え。
 他者の命も誇りも涙も何もかも。誰かのために行動なんかしたって、結局相手は報いてなどくれないのだから。だったら欲しいものを手に入れるためには、ただひたすら奪うしかない。
 この子もそうであれば良かったんだろう。自らの欠落を認めて、補うために他者から奪う。それならば歪みが生じることはなかったのだ。けれど彼は自らの痛みから逃げた。寂しい自分の心に気づけず、そのために、他者を嘲笑うたび、自らに跳ね返る言葉に気づかなかった。
 可哀想な子ども。
 けれど、それを導いたものは間違いなく彼自身の愚かさだ。だからこそ、救われない。
 自らの痛みから逃出したものは、いずれそのツケを自分自身で払うことになる。
 その想像を絶する苦悩を味わう前に冥府へと送ってやる事は、彼にとっては慈悲の一種とも言える。
 ――まぁ、どうでもいいのだけど。
「ヴィル」
 声に柔らかさを乗せる。ロゼウスが普段弟妹に向けるような慈しみさえ篭もった声音で、彼は瀕死の少年王へと話しかける。
 これは呪い。
「俺は、お前なんてどうでもいい」
 ぴくり、と痙攣なのか彼の言葉に反応したのか、一瞬ヴィルヘルムの狼の耳が震える。
「どうでもいいんだよ。ヴィルヘルム。お前を殺したくらい、俺の中では痛くも痒くもない。お前が死んだって、俺は困らないし、お前に惚れているわけでもない。だから」
 思い知ればいい。自分だけでなく、世界の他の生き物も。思い知れ。世界はこんなにも醜く絶望的で、生きとし生ける者はその絶望の中から逃れること叶わないと。
「さようなら。可哀想なヴィルヘルム。結局他者をかわいそうかわいそうと嘲笑うお前こそが、全部滑稽な一人芝居に踊らされていた、かわいそうな役者だったんだよ」

「――――ッ!!」

 魂の咆哮に、空気がびりびりと震えるようだった。声無き声で、今この瞬間、絶望と言うものを知らされたヴィルヘルムが絶叫する。
 それを見て、彼は込み上げてくるものを止められなかった。
「くっ……くくく、ハーッハハハハッ、ハハッ! アハハハハハハ!!」
 嘲笑、哄笑。
 戦っている間や他の日常生活を行っている間はまだ久しぶりの生身の身体に慣れきっていなくてこの戦いも最初はこんなか弱い人狼相手に梃子摺ってしまったけれど、いざ完璧にこの身を使いこなせればなんということはない。
 ヴィルヘルムの瞳から、苦痛や生理的な理由以外での涙が後から後から零れて血で汚れた頬を濡らした。
 もうすぐで普通に死ぬだろうけれど、せめて最後の情けだけでもかけてやろうか。
 けれどその瞬間、ゆらりと足を踏み出した彼の魂に直接呼びかけるかのように、誰かの声が響いた。
 ――ロゼウス兄様!!
「うっ……!」
 ズキリ、と頭に痛みが走る。思わず額を押さえ、その場に蹲った。今のは一体何だ。思う暇なく、身体の奥でもう一人の自分がざわめいた。
「チィッ……! ロゼウス、お前はまだ、眠っていろ!」
 血塗れた両腕で彼は自らの肩を抱きしめる。けれど、先ほどの呼びかけに反応したのか、眠っていた子どもが魂の奥底から起きだしてきた。舌打ちする間にも、意識が入れ替わろうとする。
 だけどもう無駄だ。
 絶望の涙を流したヴィルヘルムの瞳の中、瞳孔が広がっていく。澄んだ灰色が濁って光を失っていく。
 お前が何をやったところで、もう無駄なんだよ、ロゼウス。

「ヴィ、ル……?」
 ふと、気づけば仰いだ空から雨が降り始めていた。

 ◆◆◆◆◆

 酷い夢を見た。
「――ッ!!」
「ミカエラ!?」
 叫んで飛び起きると、温かい腕に支えられた。低いヴァンピルの体温ではなく、人間の体温。
「ルイ……」
「どうしたんだ? 凄く魘されていたよ?」
 心配そうな表情で、エヴェルシード人の顔なじみの青年が覗き込んでくる。ミカエラは自分でも真っ白な顔をしている事がわかった。血の気が失せて、青褪めているはずだ。
 毛布を硬く握り締める手が白い。力が入って、骨が浮き出ている。青白い血管も透けている。
「今、夢で、兄様が……」
「それって、第四王子のロゼウス殿下?」
「え……」
「名前、読んでたよ。ロゼウス兄様! って……シェリダン陛下の王妃になった方だよね……何かあったの?」
 いつもはふざけた喋り方で人をおちょくることしかしないルイが、珍しく真剣な顔で問いかけてくる。どうやら本当に自分は、相当酷い顔色をしているらしい。
「よく、わからないんだ……夢で、その……とても酷い、夢を見て……」
 ロゼウス兄様。
 あれは確かに、ロゼウスだった。よく似た顔立ちのロザリーでもドラクルでもなく、ミカエラのすぐ上の兄だった。どこかわからない場所、殺風景な岩壁に囲まれた空間で、誰かと対峙している。相手の顔はよく見えない。ただ、乾いた風だけが鮮明な荒野。
 そこで兄が、血に濡れていた。――酷薄な笑みを浮かべ。
 ミカエラは思わず、夢の中で彼に呼びかけた。理由などわからない。あれが何だったのかなんて知らない。それでも、止めなきゃ駄目だと思ったのだ。自分はロゼウスの弟だから、ロゼウスが望まないことを行うのを止める義務がある。
「それより、ルイ、僕が眠っている間に、何か情報はあった……?」
「残念ながら、さっぱり。アンリ王子たちから出航の報せがあったきり、何も連絡は無いよ。姉さんが派遣している諜報部員からも、音沙汰はなし……ごめん、ミカエラ」
「ううん。謝られるような、ことじゃないから……」
 アンリやロザリーたちが海路からローゼンティアに向かうと決めた際に、身体が弱くて足手まといとなるミカエラは置いていかれた。一人くらいなら匿うのもそんなにたいしたことはないと、バートリ公爵エルジェーベトがヴァートレイト城にてミカエラの面倒を見てくれている。
 とは言ってもミカエラはあの女公爵と直接顔を合わせる事は少なく、大概話をしてくれるのは、この公爵の弟であるルイだ。本来なら彼のような身分にある者は侍従の真似事などしないのに、状況が状況だからか、ミカエラの世話は公爵の弟閣下である彼自らが行ってくれている。
 与えられた広い部屋の天蓋付の寝台で日がな一日寝て過ごしていた。最近、エヴェルシードによるローゼンティア侵略から一度の死亡と蘇生、それにドラクルの裏切りと、度重なる情勢の激変に心労が続いたせいか、また一段と具合が悪くなった。
 自分でももうわかっている。
 自分は、もうあと何年も生きられない。下手をすれば、あと数ヶ月……もたないだろう。たぶん、ローゼンティアが彼らヴァンピルの……裏切り者のドラクルではなく、正しいローゼンティアの血筋に取り戻されるところを、自分はこの目で見る事は無いだろう。
 刻一刻と、自らの身体から命が滑り落ちていく感覚が、意外とよくわかるものだ。幼少の頃からいつ死ぬかいつ終わるかと周囲から危惧されていたこの命も、ようやくあともう少し……。
 だけどできるならば、せめて最後に一度だけ、誰かの役に立ってから死にたい。
 生まれてから病弱な身体のせいで人に迷惑をかけるだけかけて、一度も誰かの役に立ったことのないミカエラの、それだけが願いだ。
「ねぇ、ルイ……」
「ん? なんだい? ミカ」
 ふいに、誰かにこのことを話してみたくなった。誰かと言っても、この空間にはミカエラ以外にはたった一人しかいないのだが。
 寝台の脇からミカエラの身体を支えて再び寝かしつけてくれたルイが、毛布を整えると寝台横に椅子を引き出してきて置く。彼はそのままその椅子に座り、毛布から出したミカエラの手を優しく握った。
「昔ねぇ、姉さんがよくこうしてくれたんだよ。君と一番上のお兄さんほどじゃないけど、僕も姉さんと少し年齢が離れてるからね」
「ああ。七歳くらいの、差だっけ……?」
「うん。だから俺は姉さんにとってはいつまで経ってもよっぽど小さい子どもに見えてたんだね。熱を出して寝込むと、枕元にいてこうして手を握ってくれてたんだ」
 ここにいるよ、と。眠りの中では一人きりでも、眠るその側には必ずいるから、と。
「ルイは、お姉さんが……バートリ公爵が好きなの?」
「真正面から言われると、いくら家族愛だとしても照れくさいね。まあ、《殺戮の魔将》なんて呼ばれてるおっかない姉さんだけど、俺にとってはただ一人の姉さんだからねぇ」
 そりゃあ家族は大切だよ、と苦笑するルイに、ミカエラも表情を緩めた。
 繋げられた手から温かな体温が伝わってくる。
 昔、自分もよくロゼウスにこうしてもらったことを思い出す。
「僕も、兄様や姉様たちが、大好きだよ……ドラクルのことも、今でも」
「ミカエラ」
 横たわり手を繋いだままのミカエラの言葉に、ルイの顔から笑みが消える。眉を曇らせた彼の様子に構わず、ミカエラは言葉を続けた。
「そりゃ、ローゼンティアを裏切ったことや、父様たちを殺したことは怒ってるし、許せないけど……でも、家族、だから」
 ミカエラはドラクル=ローゼンティアという人間を知っていた。いつも澄ました顔をしているようでいて、本当は兄妹の中で一番努力家だった尊敬すべき長兄。それが父の実の子ではなく、自分やロゼウスとも血が繋がっていないからだと知った今では寂しさが増すばかりだけれど、それでもミカエラはそんなドラクルの姿に、寂しさと共に憧れを抱いていたのは事実だ。
 ドラクルの方はミカエラの扱いに困っていたことも知っている。病床では人間観察くらいしかすることがなくて、自分に関わる人々のいちいちの仕草などをよく見ていたから、顔に出ていないことまでわかってしまう。ドラクルは病弱なミカエラの扱いに困っていた。不愉快を示すわけではないが、腫れ物に触るようにしていた。寂しかったけれど、憎くはなかった。
 本当に優しいと言ったら、たぶんこのルイのような人なのだと思う。ミカエラの世話は面倒だろうに、文句の一つも言わずにたわいないからかいを口にするルイの手はいつも優しい。
 ローゼンティアではミザリーも優しかったし、アンもそうだった。ウィルやエリサの年少コンビはやかましかったけれど、でも純粋に心配してくれているのは伝わってきた。同い年のメアリーとはよく喧嘩もしたし逆に意気投合したりもした。一つ年上のロザリーは気が強いと恐れられているけれど、あれで案外世話焼きだ。
 ルースやジャスパーはよくわからない。あの二人は大人しくてほとんど積極的に動く事はなくて、兄妹の中ではあんまり話したことがない部類だ。なんとなくの性格はわかるけれど、二人とも本質は巧妙に包み隠して見せないようにしている節もあった。 
 アンリとヘンリーは優しかったけれど、それと同時に確かに現実を見る人でもあったから、身体の弱いミカエラがいかに政治的に役に立たないかも十二分に理解していたのだろう。無茶を言ったりやらせたりしなかったけれど、逆にその分期待も全然かけなかった。ドラクルのような腫れ物に触る扱いと、究極的にはそれは同じなのだろう。
 そして、ロゼウスは……。
「ねぇ、ルイ」
「……なんだい?」
「頼みがあるんだ」
 ミカエラがそう口にすると、ルイが怪訝な顔をした。首を巡らして彼の方へ視線をやると、先ほど額に乗せてもらった、水で濡らされた布が落ちる。それに構わず、ミカエラはルイの橙色の目を真っ直ぐに見つめて言った。
「僕を、エヴェルシードの国王居住地へ……シアンスレイト城のカミラ王のもとへ連れて行ってほしい」
「ミカエラ!? 君、一体何を言って……」
「お願いだ。必要なことなんだ、これは……」
 もしも願えるのならば。
「僕は……僕だって、ローゼンティアの王子だ。だから、僕にできることをしたい」
 自分は誰かの……ロゼウスの役に立って死にたい。ロゼウスの憂いを、取り除いてあげたい。
 大好きな兄様。
 思いつく方法はただ一つだけだった。何かを為すために、無力なこの身が差し出せるものも、たった一つだけだった。
「ミカエラ。でも、アンリ王子たちが戻ってくるまで、ちゃんと大人しく待っているって約束だっただろう?」
 ミカエラの言葉に不穏なものを感じとったらしく、ルイが必死に呼びかけて考え直すように言ってくる。その気遣いはとてもありがたいものだとわかっていたけれど、ミカエラは枕に乗せたままのかぶりを振る。
「うん。そうだけれど、でも僕は、ドラクルやロゼウス兄様とは、まだ約束していないから」
「ミカエラ」
「お願いだ、ルイ……」
 もしも、願えるのならば――。
「僕にできることをしたいんだ」
 繰り返されるやりとり。やがて、とうとう強情なミカエラの姿勢に折れたルイが、悲壮な顔をして頷いた。


161

 セルヴォルファスの城は荒野の岩壁を削り出して作られている。その生活の半分は獣と同じだという人狼族の国では、獣の暮らしなど当たり前だ。
 他の国々のように華美な装飾など一切ない。くすんだ土と岩の色の城。中庭と言っても花壇などなく、人が踏まない場所は野の花がそのまま咲いている。
 大地の国、黒の王国と呼ばれるだけあって、その土は黒い。闇色の海に浮ぶように、落ちたものはその黒に包み込まれる。
 目の前には無惨な屍が転がっている。
 灰色の瞳は瞳孔が開ききり、魂は虚空を見つめている。
「…………」
 胸部は陥没し心臓の位置には穴が開き、衣服は血で染め上げられている。口から顎にかけて吐血の赤が汚し、傷口を押さえた両手も真っ赤だ。
 そして温もりが失われていく。
「……ロゼウス兄様? いえ、シェスラート。どうしたんですか?」
 バルコニーで戦いを傍観していたロゼウスの弟、ジャスパーがそのまま降りて近づいてきた。選定者の役目に目覚め始めている少年はこの事態にもまったく動じず、彼へと話しかけてくる。
「別に」
 彼は足元の屍の下にしゃがみこんだ。
 手を伸ばし、その頬に触れる。血の巡りが止まり、体温の戻ることのない肌を撫でて、瞼へと手を伸ばした。
 ヴァンピルは人間の血にしか渇きを覚えない。だから人狼のこの少年の血には、何の感慨も沸かない。それでこそ酷く冷静なほどに、彼はそれを行った。
 哀れな少年王の、瞳を閉じさせる。
 それは口元を汚す血さえなければ、ただ眠っているだけのような亡骸だった。

 ◆◆◆◆◆

 本当に、好きだったんだよ。

『いいよね。ヴィルは。何も努力なんかしなくたって、待ってたら勝手に玉座が転がりこんできたんだから!』
 普段の口調は優しいのに、ドラクルは時々情緒不安定になる。
 俺は彼より十一歳も年下だし、帝王学の何たるかも知らない。体格に優れてもいないせいで、出会った頃のドラクルには知識でも剣でも、何一つ勝てなかった。薔薇の国の王子と大地の国の王。でも、力関係の優劣は決まっていた。
『良かったね! お兄さんたちが死んだおかげで、君は王様になれたじゃない!』
 普段の態度は優しいのに、ドラクルは時々荒んだ態度をとる。そんな時は、年下で彼に逆らう術のない俺は、よく八つ当たりの対象にされた。やけに暴力を振るいなれている彼は、見えない場所を傷つけるのが上手い。
 国王になってからは剣術や武術の先生も萎縮してしまって親身に教えてくれる人がいなくなった俺は、誰に身体を見せることもなく、その痛みに耐えていた。それでも、殴られているだけならばまだ良かった。一番痛いのは、この台詞。

 ――良かったね! お兄さんたちが死んで!

 幸せだね。ヴィルヘルム。幸せだね。
 ドラクルもハデスもそう言った。兄様たちの命と引き換えに、王様になれて良かったね、と。
 幸せな自分。誰よりも、恵まれている自分。
 五、六年ほど前、ローゼンティアに招かれたのは、両国の国交のためだった。けれどローゼンティアもセルヴォルファスもシュトゥルム大陸に二つしかない魔族の国で、俺たちだけが仲良くしても他の人間たちの国々には関係なかったから、大々的な発表とか大規模な歓迎式典とかは行われなかった。大人同士のやりとりならばそれだけで充分な、会談だけ。それだって俺はまだ子どもだったからローゼンティアのブラムス王とまともな話し合いになるはずもなく、大臣の隣で無理に大人用の椅子に座らされて話を聞いていた。俺の頭上を飛び交う意味のよくわからない話を、頭を疲れさせながら聞いただけ。
 第一王子であったドラクルとの面識彼が俺たちの国に来た時にすでにあったけれど、他の王子や姫たちとは顔を合わせていなかった。ローゼンティアの意向ではドラクルを対セルヴォルファス外交の代表者にするとのことで、外の王族との対面に全く重きを置いていなかったようだ。
 人間たちの国ならばそれでもどこかで繋がりを持たせようと夜会でも開いて片っ端から挨拶させるところだけど、魔族は基本的に同種族としか結婚しない。だから、同い年のロザリー姫やすぐ下のメアリー姫との婚約話に発展することもなく、俺は本当にただローゼンティアに招かれただけだった。
 大臣たちに付き添われて、同じ年頃の子どもと話すこともなく、白と黒と赤の色彩に囲まれたローゼンティアで、俺の精神的な疲れは限界に達していた。お目付け役たちの目を盗んで、他国の城の中を無礼だと考えもせず、一人でうろつきまわった。
 そして、見た。
 中庭でじゃれつく、二人の少年。一人は俺と同じ年頃で、もう一人は知った顔だった。ドラクルだ。
『兄様!』
 ありし日の俺が兄様たちにひっついてまわっていたのと同じように、ドラクルにまとわりついていたのはロゼウス。駆け寄ろうとした瞬間に一度立ち止まり、おずおずとドラクルの顔色を窺って、兄が微笑んでいるのを確かめてから改めて抱きつく。ドラクルが困った顔で、それを抱き上げた。
 なんて幸せなその光景。
 ――兄様! 兄様! 兄様!
 誰も咎めてなどいないというのに、走って逃げた。大臣たちも近寄らせず、部屋に閉じこもる。
 昔に戻りたかった。王様になんてならなくていい。兄様たちに会いたかった。
『……ヴィルヘルム王?』
 その日のうちに、部屋を訪ねてきたのはドラクルだった。大臣たちの誰かだと思ってうっかり扉を開けてしまった俺は、泣き顔を見られてまた逃げようとする。それを、丁寧だが有無を言わせぬ手付きで無理矢理引き寄せて、ドラクルは昼間ロゼウスにしたみたいに抱きしめた。その時は俺はまだ、ロゼウスのことは知らなかったけれど。
 大きな手で頭をなで、背中をぽんぽんと叩いて安心させてくれる。ドラクルは、まるで兄様みたいだった。優しく抱き上げられて、俺は兄様みたいだったドラクルに縋った。
 たぶんそれはドラクルの作戦だったのだろう。
 俺がドラクルに懐くとすぐに、ドラクルは俺に様々なものを見せた。様々なものを教えた。俺はドラクルに惹かれていって、そうして――。
 いつしか、彼に全く逆らえなくなっていた。良いことも悪いことも付き合わされた。ドラクルの教えてくれる世界は確かに面白かったけれど、反面、怖いことや悪いことも多かった。彼が俺を引きずり込んだのは、彼の闇だ。
 身体を重ねるようになると、それに比例して暴力を振るわれる回数も増えた。ドラクルは不思議な魅力ある人物で、一度囚われると容易にその檻を抜け出せない。俺はただ一人で耐えるしかなくて。
 あの日もそうだった。
 ――いいよね。ヴィルは。何も努力なんかしなくたって、待ってたら勝手に玉座が転がりこんできたんだから!
 ――良かったね! お兄さんたちが死んだおかげで、君は王様になれたじゃない!
 何に機嫌を悪くしていたのか、ドラクルは俺を苛めて憂さ晴らしをしてきた。酷い言葉と振り上げられた手に俺は彼の部屋を逃出し、中庭の薔薇の茂みで蹲っていた。狼の姿になれば、狭い場所にも潜れる。そして荊の棘の下では普通の人間は探しには来ないだろうと考えて。
 けれど荊の下で震える俺に、声がかけられた。
『どうしたの? あれ、お前……』
 俺を見て一瞬顔を歪めたその少年はロゼウス王子。人型で会ったことはなかったけれど、俺より一歳年上の薔薇の国の第四王子だ。何故そんなことを知っていたかと言えば、俺はその数日前にドラクルの手によって彼に引き合わされたからだった。多分ロゼウスにとっては忌まわしいばかりの、あの獣姦の夜の数日後だった。
 俺を見て少し怯えた風情のロゼウスはけれど、そこで踵を返して一目散に逃出す、なんてことはなかった。
 薔薇の下で震えている俺を見つめると、腕を伸ばしてきた。大人にはくぐれない棘の茂みの下も、子どもの小さな身体ではたいした障害にはならない。あの日のドラクルのように優しいのに有無を言わさぬ手付きで俺の身体を引き寄せると、優しく抱きしめた。
『泣かないで』
 俺はその時狼の姿をしていた。人狼は人間と獣型と両方の姿を使い分けられる。だけれど人が犬や猫など獣の表情を見分けにくいのと同じで、獣型になると途端に多種族との交流がしにくくなる。向こうに俺たちの感情が読めないからだ。
 なのにどうして。
『泣かないで。狼さん。泣かないで……』
 獣型の俺を抱き上げて、ロゼウスは自分自身が泣いているような声で言った。白い手が俺の毛並みを慰撫するように触れ、あやす。
『ドラクルに苛められたの? あの人、機嫌が悪いとすぐに人にあたるから。でももう、きっと大丈夫だよ。だから』
 泣かないで。大丈夫だから。泣かないで。
 荊の茂みに囲まれた中庭で、俺を抱きしめてロゼウスは囁いた。ヴァンピルの体温は他の種族に比べて低い。けれど、これまで感じてきたどんな人の体温より暖かく感じた。傷ついた心を癒す心地よいぬくもり。
『大丈夫だよ』
 抱きしめられた腕の中で涙を流す。はらはらと、後から後から涙は零れてきた。それを鬱陶しがるでもなく、ロゼウスは俺を宥め続けている。俺が落ち着くまでずっと。

 好き。
 この人が好きだ。

 数日前の夜にはあんなことがあって……ドラクルからの指示だから逆らうわけにも行かなかったけれど、ロゼウスが本気で嫌がっていたことを、俺は本当はわかっていた。本当ならこの姿を見るのも嫌だろうに、なのにロゼウスは、荊の茂みの下で一人蹲って震えていた俺を抱きしめてくれた。
 嬉しかった。
 本当に嬉しかったよ。
 俺がドラクルに求めていたような温もりは、本当はこちらの方だったんだ。国に戻ってからもロゼウスが忘れられなかった。女の子に恋をするよりもまず先に、ロゼウスに恋をした。その後もそれなりに付き合いを続けていたドラクルとは顔を合わせていたけれど、ロゼウスに会える事はなかった。でもずっとずっと、会いたかった。
 側にいて、ただ、普通に優しくして欲しかった。特別なことをしてもらいたいわけじゃない。ただ、セルヴォルファス王でも幸せな王子でもないただの「ヴィルヘルム」を見て欲しかった。あの薔薇の茂みでしたみたいに、もう一度抱きしめて欲しかった。だけ。そのために生きてた。
『ねぇ、ヴィル、提案があるんだ』
 どうしても彼が欲しかった。たぶん、中庭でドラクルとロゼウスがじゃれあうあの日の光景を見たときから、意識しないでもずっと惹かれていたんだと思う。ロゼウスは俺にとって、全ての綺麗なものや幸せなものの象徴だった。綺麗で幸せそうで羨ましくて。
 彼を手に入れられれば、俺もそんなものをまた手に入れられるような気がしていた。
『お前は、ロゼウスにもう一度会いたくない?』
そしてドラクルはそんな俺を見抜いていたんだと思う。だから、俺のことをハデス卿たちと企んだ計画に巻き込んで、利用した。俺は最後まで、ドラクルの駒扱いだったんだね。
 でも。

 好きだった。

 ロゼウスが――好きだったよ。

「さようなら。ヴィルヘルム」

 俺がお前に与え、そしてお前がどうでもいいと切って捨てた嘘のような悪夢のような日々の中で、でもそれだけは、本当だったんだよ……。

 ◆◆◆◆◆

 ぽつぽつと雨が降る。
 雨は、神様の涙なのだという。世界でもっとも普及している宗教は二つ、ラクリシオン教とシレーナ教。シュルト大陸では、ラクリシオン教が一般的だ。それは、薔薇の国でも。
 この大地の王国でも。
 雨は、神様の涙なのだという。
 この雨は誰を悼むための涙なのだろうか。
 頬にあたる雨粒は酷く冷たい。セルヴォルファスは大陸の北にある国だ。細長い森林は緩やかな帯状にセルヴォルファスの荒野を包み、他国とは隔てている。そのため、同じ魔族でも人間の国であり軍事国家という側面から一種威勢のあるエヴェルシードと国境を接しているローゼンティアに比べて、世情に疎いという側面がある。
 孤独な国。
 セルヴォルファスは一種そういう宿命を課された国だ。地理的な条件はもとより、魔族の国。性質の半分が狼である人狼は、実際食人と同義の吸血習慣のあるヴァンピルよりさらに露骨に人肉を喰らう印象をもたれている。
 おまけに狼は群で生活する生き物。同族内での繋がりが強く、その分他国への警戒は強く友好関係の維持にさほどの執着がない。彼らは彼らだけで生きていけるからだ。
 そんな孤独の国の王とは、一体どのような存在なのだろう。
 雨粒が頬にあたる。瞼に当たって目元を滑り、筋をかいて流れていく。
 一粒ごとに、冷たい礫に緩やかに意識が目覚めていく。
 目覚めたロゼウスを迎えるのは、雨に流されようとしても流されきらない血の匂い。鉄錆の生臭さと、泥の匂いが入り混じる。
 雨に洗われていく全身に、ぬるついた違和感がつきまとう。洗われきらない手のひらを眺めると、紅かった。
「ひっ」
 思わず、呻き声が漏れてしまう。覚えがない。わけがわからない。何があった。
 俺は何をした?
 いや、わかっている。本当はわかっているはずだ。薄っすらと脳裏に残っている記憶。俺ではない俺が、やったこと。
「ヴィルヘルム……?」
 黒い土の上に無惨に横たわるその姿。胸部の傷は隠せないけれど、顎を濡らす吐血を雨に洗い流されたその姿は、眠っているようにも見える。だけどそうでないことは、ロゼウスが一番よく知っている……知っているはずだ。
「嘘だ」
 現実を否定したくて言葉が零れる。
「嘘。嘘だ。だって、殺す気なんか……」
 ヴィルヘルムはぴくりとも動かない。
「嘘じゃない」
「!」
「嘘なんかじゃないよ。ロゼウス兄様。これは確かに現実で、間違いなくあなたがやったこと」
「じゃ、ジャスパー」
 いつの間にか背後に来ていた弟は、ロゼウスを見てにっこりと微笑んだ。
「さすがは僕の兄様。ヴァンピルより武力に優れるというセルヴォルファスのまがりなりにも国王陛下を、こんなに簡単に屠る事ができるなんて」
 その微笑があんまりにも愛らしく穏やかなので、ロゼウスの頭には一瞬その意味が入ってこない。
「――え?」
 目の前にいるのは誰だろう? 本当にジャスパーか? 自分の弟の。嘘だ。ジャスパーはこんな性格じゃない。もっと大人しくて控えめで遠慮がちで、優しい性格だったのに。
 だけど、それでも、そんなことすら些細だと思えてしまうようなことは。
 その変化は。
「俺、は……」
 足元の地面がぬかるんで泥と化していく。血だまりは土に染みこんだ上に雨に洗い流されて、黒炭のようなこのセルヴォルファスの黒い大地と同化してしまっている。
 雨は冷たく、細い矢のように肌を刺す。髪が頬に張り付いて鬱陶しい。
 両手は相変わらず、洗い流されない血に汚れている。
「俺は……俺は……っ」
 俺は誰なんだろう。
「俺は……これ、本当に俺が……っ!?」
 微かだけど記憶に残っている、けれど感情が受けつけないこの現状。シェスラート。あんたは実に楽しそうに、目の前の少年を殺した。
「違う……違う! あれは俺じゃない!」
「あなただよ、兄様」
「違う! 俺は、ヴィルを殺す気なんてなかった!」
 殺す気なんて―――ッ!
「だって、死ねばいいと思ったでしょう?」
「ッ! そ、れは」
「ずっと思っていたんだよね。兄様を閉じ込めて邪魔をして、シェリダン王に会わせないようにしようとするヴィルヘルム王なんて、死んでくれればいいのに、て」
 魔力で伸ばした爪をその喉首に振り下ろした日を思い出す。
 そうだ。死ねばいいと思っていた。何らかの形で彼を屈服させれば、自分はこんな国に留まらずにすぐにでも出て行けるのに、と。
「でもここまでする気はなかった!」
「同じだよ。結果は出てしまったんだから。あなたが嘆いたところで死者は戻らない」
 それでも、本当にここまでする気はなかったんだよ……。
「だって、ヴィルは……」
 確かにロゼウスはヴィルヘルムに対して恨みがある。さんざん痛い目にも遭わされたし、エヴェルシードからここまで攫われてきただけでも大打撃だ。自分だけではなくシェリダンにまで何かしたんじゃないかという懸念もある。
 でも、それでも。
「ヴィルヘルムは、《可哀想な》子だった……」
 俺は可哀想にはならない。ヴィルヘルムの口癖だった。だけどロゼウスには、その言葉を繰り返す彼自身が本当は一番可哀想なのではないかと思われて仕方なかった。
 ヴィルヘルムを見るたびに、ロゼウスは少し前までの自分を思い出していた。ドラクルが欲しくて欲しくて、ただ兄に愛されたくて仕方がなかった日々。後であれは幼少期の虐待によって自分の心を守るために作り上げた歪な愛だとシェリダンに目を覚まさせられたけれど、その間の心の欠落がそれで埋まるわけではない。
 ロゼウスの場合には、シェリダンがいた。底なしの沼から引き上げてくれた。
 ローゼンティアにいた時だって、まったく味方がいないわけではなかった。アンリはロゼウスとドラクルのことを知ってからいつも気にしていてくれたし、他の兄妹はただただ、いつも皆優しかった。ロゼウスには味方がたくさんいて、多分人にそう思われるほど、自分は不幸なんかじゃなかった。
 でも、ヴィルヘルムには誰もいない。
 少なくともヴィルヘルムが望んだ範囲で、彼の味方になってくれた人間はいなかったのだろう。でなければドラクルやハデスに縋るわけがないのだから。
 誰も彼を助けてやらなかったし、ロゼウスもそうだった。彼よりも自分のことを優先した。死ねばいいと、確かに、願った……。
「でも、ここまでする気は、殺す気なんて……なかったのに!」
 ロゼウスが願う「死んでしまえば」は、そうして自分の前から消えて自分の邪魔をしないでいてくれれば、もうそれだけでよかったのだ。けっして、憎いから、疎ましいから、存在が許せないから死んでしまえ、殺してしまおうと考えていたわけではなかった。ロゼウスはヴィルヘルムの力になれないしなる気もないけれど、それでも、彼が自分とは関係ないところで、彼自身の幸せを見つけてくれるならそれに文句はなかった。
 最後のトドメは自分が刺した。
 可哀想な子どもを、一度も救うことなく可哀想なまま死なせてしまった。
「どうして俺なんだよヴィルヘルム! どうして!」
 俺に関わらないでくれ! 関わらなければ、きっとこんな結末は迎えなかったはずだ。
「仕方がないんです」
「ジャスパー」
 人とは思えぬ微笑を湛え、弟であったはずの少年は言う。
「あなたが、それを選んだから」
「俺が? 俺が何を選んだって?」
「これから起こる全ての結末を」
「……え?」
 ジャスパーの言っていることが、何のことだか全然わからない。
「ヴィルヘルム王のことは、仕方がないんです。当然の結末なんです。だって彼も選んでしまったんだから。あなたを」
「……」
「そしてロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。あなたは選んだのでしょう。あなたの心の中に住まうたった一人を」
 ただ一人。
 こんなにまでして、こんなことを仕出かして。確かに殺しなど初めてではないが、今までのそれとこれは違う。なのに、それなのに自分は償いなどする気もなく、ただ一つだけを望んでいる。
 それはここに横たわる大地の国の王だった少年ではなく、炎の瞳をした――。
「……シェリダン」
 彼に会いたいがために、ロゼウスはこれからも生きていく。そのために何度でも罪を重ね、他者を犠牲にし、それを悼むこともなくただ踏みつけにして前に進む。
 なんて酷い身勝手だ。
 だから、だから……ッ!

「さようなら……ヴィルヘルム」
 彼に与えられるものは、せめてこの雨に紛らせたひとしずくだけだった。


162

 違うのに。こんなことしたくなんてなかったのに。叫ぶ俺の心の奥で、誰かが――もう一人の自分が囁く。
 ――本当に?
 ――だってお前はあの王が邪魔だったのだろう。だから排除した。自分の道を塞ぐものだから。それだけだ。今更何を嘆く事がある。
 ――忘れるなロゼウス。お前は俺で、俺はお前だ。俺の行動は全て、お前の心の底の願望と表裏一体なんだよ。
 もう一人の自分の名は、シェスラートと言うのだと知った。
 ――さぁ、お前が起きているのもそこまでだ。もう一度俺に身体を渡せ。そして俺は……。
 またゆっくりと意識が眠りにつく。

 ◆◆◆◆◆

 黒い大地に雨が降る。
 流された血を洗っていく。
 氷の針のように冷たい、刺すようなその雨。老体にはもちろん、若い者にも堪える。
 惨劇の舞台となった中庭で、数人が向かい合っていた。彼らは足元に転がるその国の王の屍に沈痛な眼差しを投げながら、その瞳には憎悪はなく、理性とそれをもってしてもどうにもならぬ諦めが浮んでいるだけだった。
 落ち着いている、けれど疲労しきった顔の老人たちが、この場へと訪れていた。
「お引き取りください、ローゼンティアの王子殿下」
 セルヴォルファスの大臣たちに言われ、彼は数度瞳を瞬かせた。
「いいのか? 国王殺害犯をそんなあっさりと解放してしまって。それとも、後からグッサリ行くつもりか? だったら前もってこんな風に声をかけるのはやめた方がいいと思うけど?」
 彼の言いように、大臣たちの幾人かは眉を潜めた。ヴィルヘルムの生死にも衝撃こそ受けたもののさほど悲しんでいる様子のないその数人が激昂しかかるのを、老齢の長のような貫禄を持った一人が止める。あとの者は、大人しく項垂れて跪いている。
「我らがセルヴォルファスの国王陛下は、お一人で中庭に出向いた際、不幸な事故に遭われたのです」
 代表の大臣がそう言った。彼は目を瞠る。意味を飲み込むと同時に口の端を吊り上げ、嘲るように彼らを見下した。
「俺の罪をなかったことにしてくれるって? どういう風の吹き回しだ?」
「あなた様のためではございません。ヴィルヘルム様のためです」
「は! 一国の男王が男相手に骨抜きにされて結果的にその相手に殺されるなんて国の恥だって?」
「そうです。あなた様の名誉など我等には関係ありませんが、ヴィルヘルム様のことは別です。あの方の所業をなかったことにするかわりに、あなた様がこの国にいらっしゃった事実も消しましょう。良い取引だと思いませんか?」
「ああ。思うよ。随分とまぁ、言ってくれるじゃないか」
 彼は口元に先ほどと同じく皮肉な笑みを浮かべた。この城の人狼の手勢程度に負けるつもりは毛頭ないが、戦わずにさっさとこの国を脱出できればそれに越したことはない。
「わかった。取引は成立だ。俺は何も知らない、何もやっていないし、何もされていない」
「そうです。それが、全ての者のために一番良い選択でしょう」
「ああ」
 そうなれば、もうこんな国に用はない。彼は大人しく側に控えていたロゼウスの選定者ジャスパーを促し、踵を返す。
 しかしその背に、先ほどの大臣のしわがれた声がまたもや追いかけてきた。
「いくら人が罪をなかったことにしても、実際にその罪が消えるということではありません」
 振り返らないままに、彼は足を止める。
「……へぇ。だから何だ。貴様等は俺を恨むと言う事か」
「はい。お恨み申上げます。ローゼンティアの王子殿下。そしてあなた様にも、ヴィルヘルム陛下を恨む権利がございます」
「……」
「あなた様の行い、この国の王を我等セルヴォルファスの民から奪ったこと。それは、許されないことです。そして……ヴィルヘルム様があなたになさったことも、決して許されることではありませんでした」
 大臣の声には深い悔恨が満ちていた。
 ヴィルヘルムは確か十年近く前から国王の座についていたはずだ。あまりにも幼い頃は側近たちが代わりに政務を執り行っていたと聞いた。成長してからの彼は、かつての世話役たちを鬱陶しく思い、自分の周囲から遠ざけるようになり、口うるさい小言に耳を貸さず好き勝手に振舞うようになったと聞くけれど。
「ああ。ヴィルヘルム様。我らが導いて差し上げなければなかったのに」
 雨に紛れて、老人の頬を伝う滴が何であるのかはわからない。
 ただ求めるものとは形が違っただけで、欲しいものはすぐ側にあったのだ。ヴィルヘルムはそれに気づかず、結局は彼自身が持っていたものすら手放して全てを失ったけれど。
 すぐ足元に咲いている小さな花に気づかず、崖際に咲いている大輪の花を欲しがって、結局崖から落ちてしまった哀れな子ども。
 でも同情はしない。後悔などしない。悪いとも思わない。奪い奪われるなんて当たり前だ。彼は彼として彼にとって目障りで、宿体であるロゼウスに危害を加えたヴィルヘルムを粛清しただけのこと。それが罪であると知っていても、償う気など毛頭ない。償えば罪が赦されるなどと言うのならば。
「……で、ください」
「何」
「赦されるなどと、思わないでください」
 大臣の声は深く、深い水底のようでいてそこに沈みこんだものを容易には覗かせない。
「その罪が、赦されるなどと思わないでください。いつかあなたも必ず報いを受けましょう。我らの王が、こうしてその傲慢の報いを受けたように」
 償えば赦されるのが罪だというのならば、自分は償うことなどしない。赦されないこと、永遠に責め苦を受け続けるこの道だけがただ彼にできる贖いだ。自分自身がその道を選んだ。償いなどいらない。そんなものに意味はない。
 だって俺は、永遠にあいつを赦さないのだから――!!
 だから自分自身が許されないことも、赦されないことにも構いはしない。
「わかっている」
 結局一度も振り返らないまま、彼は中庭を立ち去った。ヴィルヘルムの死に顔は胸に留めるだけ留めて、もう思い出すこともない。
「行くぞ、ジャスパー」

 ◆◆◆◆◆

 雨が降るんだ。
 水の矢が空から降って何かを射抜いていく。それは冷たく凍てついていて、触れると手が痛い。神の流す涙は透明で、けれど人ならぬ瞳の落とした涙は熱を持たずに冷たかった。
 雨が降るんだ。
 あまりにも雨が強いので、溺れてしまうように錯覚する。水が降ってくるのではなく、水の中にいるみたいだ。
 冷たい水の中にいる。
 ――そうだよ。それがお前の人生。
 誰かが水の中で囁いた。こぽ、こぽり。白い泡が浮んでは消える。
 この場所には覚えがある。いつも心の中の一番深く、そして一番身近にあったところだ。
 ――溺れてしまうんだよ。お前は、自らの流す涙で。
 だってお前は現に今、涙で溺れているだろう。そう、かつてつきつけてきた声。その声が誰のものなのか、今のロゼウスは知っている。
 ざぶん、と水に沈みこむ音と共に心の湖底へと引き込まれた。鏡写しのようにそっくりな姿をした相手と、お互いが天地も左右もなくただ逆さまになって向かい合う。
 ――……シェスラート。
 ――そう。ロゼウス。久しぶり。
 自分と同じ顔をした相手がにっこりと笑う。
 ――と言っても、お前に実感はないだろうけどね。俺はいつも、お前のすぐ側にいたよ……お前の中に。
 ――俺の、中。
 ――うん、そう。
 何が楽しいのか、シェスラートはくすくすと笑う。無邪気さを装って、世界へ哄笑を叩きつける。
 ふとそれが途切れると、改めて向き直りロゼウスの瞳を覗きこむようにした彼が言った。
 ――この前は無理やりにでも引き上げられたのにね。今のお前の近くに、お前を引き上げてくれる人間はいない。このままでは、またこの涙の湖で溺れてしまうよ……?
 ヴィルヘルムをあっさりと手にかけた残酷さも今は遠く、シェスラートの声は包み込むように優しい。けれどその優しさも所詮はまやかしで、彼がその気になればいつだってロゼウスの喉首に迫れるのだとわかっていた。
 こぽ、こぽり。こぽ。
 水音がする。水の中にいる。
 ここは枯れない、涙の湖底。
 ドラクルに虐待されているという現実から逃げて、自らの心の奥に閉じこもっていた自分はいつもこの水の底の住人だった。涙の湖で溺れて息もできないまま、自分が死んだようにいることにも気づかずに。
 そこから、引き上げてくれたのはシェリダンだった。いっそ乱暴なほどに必死な顔で、ロゼウスをこの湖の外へと連れ出した。
 なのに今の自分は、どうしてかまた、この場所にいる。
 ――溺死って苦しいらしいよね。刺されて死ぬのとどっちが苦しいかな。
 シェスラートの無邪気な声が痛い。
 ――お前は、刺されて死んだの?
 ――え?
 ――だって死に方なんていく通りもあるのに、いきなりそれを挙げるから。
 ――ああ、うん……
 ロゼウスの言葉に、シェスラートは一瞬顔色を変えた。質問には歯切れの悪い口調で返し、視線をそらす。
 ――なんでお前は、俺の身体を使ってまで甦ったんだ? そんなに、前の人生に未練があったのか?
 シェスラートと言う名は、初代皇帝の名として歴史に刻まれている。シェスラート=エヴェルシード。だけど目の前の自分によく似た彼は、どう見てもヴァンピルだ。シェリダンやリチャードやユージーン候のような、エヴェルシード人ではない。
 では、シェスラート=エヴェルシードとは……そして目の前の彼は、一体誰なのだろう?
 でもそれよりも更に気になる事がある。
 ――お前の目的は、何?
 情けなくも身体を乗っ取られて、ヴィルヘルムをこの手にかけたのは確かにシェスラートであり、ロゼウス自身だ。もう起きてしまった出来事は変えられないけれど、これから先までしたくもないことを彼に勝手にされてはかなわない。だからこそ、その目的を知っておく必要がある。
 ――ロゼッテ=エヴェルシードの抹殺。
 氷のような声でシェスラートは答えた。
 紅い瞳を持っているのに、ローゼンティアのヴァンピルの印象は大概冷たい氷のようなのだという。アンリやウィルやエリサは違うかもしれないが、少なくともロゼウスやドラクルに人間らしい温もりなど似合わない。
 激昂しているときも微笑んでいる時も、常に炎のような熱さをその内に抱いたシェリダンのような人間とは大違いだ。
 ――ロゼッテ……って、誰?
 エヴェルシードというからにはかの国の人間なのだろう。けれど、聞いたことがない。記憶の片隅にどちらかと言えば引っかかるのは、ロゼッテ=ローゼンティアという名前だ。確か三千年前に帝政を確立した始皇帝がシェスラート=エヴェルシードで、ロゼッテ=ローゼンティアはその直前に命を落とした、彼の側近ではなかったか?
 正史には刻まれていないが、そのロゼッテのことについて書かれた、当時始皇帝の側近をしていた男の手記が残っているのだ。ロゼウスはそれを、確かあのエヴェルシードの王城の中で見た気がする。。
 ――ロゼッテ……ロゼッテ=エヴェルシード……
 耳馴染みのない言葉をどうにか何か思い出せないかと繰り返すロゼウスを見つめ、シェスラートがまた一つ、くすりと笑う。
 ――ロゼッテは、俺が愛した相手。
 ――え? 
 ――そして今は……お前も良く知っている相手だよ。俺がこうして三千年の時を経て子孫であるおまえの魂に転生したように、向こうも何故か同族というか、子孫の魂に宿ったようだけれど。
 ロゼウスが良く知っている相手。
 同族の魂。すなわち、エヴェルシード人。それも国の名を持つとなれば当然王族の誰かだろう。その子孫となれば。
 嫌な予感がした。
 ――ちょっと待て! まさか――!
 ロゼウスの狼狽の叫びにも関わらず、シェスラートが口の端を吊り上げ、先ほどとはまったく別の、禍々しくひどく嬉しそうな顔で笑う。
 ――ありがとう。ロゼウス。ロゼッテの生まれ変わりを見つけてくれただけじゃなく、もう一度奴を愛してくれて。
 その微笑は狂気をたたえて、いっそとろけそうに酷く儚い。

 ――これで俺もあいつに、愛する者から殺される絶望を味わわせてやる事ができるよ。

 彼の言葉が終わるその瞬間、湖底に嵐が起きた。透明な水が漆黒に染まり、水流が叩きつけ動きを封じる。
 ――待て!
 ロゼウスの制止の声も虚しく、水流に負けて目を閉じた一瞬の隙に、シェスラートの姿は消えていた。
 ――やめろ! 俺の身体で勝手なことをするな! ここから出せ! おい!
 どれほど叫んだところで、後の祭りだった。一転して黒く閉ざされた空間は、もはや何の声も誰にも届かない牢獄へと成り代わった。逃げ込み場所ですらない。
 やめろ。やめろ。やめろ。
 ロゼッテ=エヴェルシードの抹殺。それは、まさか。まさか。
 シェリダン――!!

 他の誰を殺しても、それだけは絶対に赦せはしない。

 ◆◆◆◆◆

 遠い、遠い場所で。
 あの人は目覚めた。
「サライさん?」
 肩を叩かれて振り返る、気遣わしげな表情をして、ロザリー姫が立っていた。
「どうかしたの? 真っ青だけど、気分でも悪いの?」
「い……いいえ。大丈夫よ。でも、ちょっと部屋に戻らせてもらうわね……」
 サライは笑って誤魔化して、船室へと降りていった。青い水平線を眺めながら潮風を浴びる甲板は好きだけれど、今はそんな気分じゃない。
 オークで作られた船の木目をなんとはなしに眺めながら、壁に手をついて廊下を歩く。時折、外を覗ける丸く小さな窓から見える海で、魚が銀色の腹を見せて飛び跳ねた。
 数千年ぶりに見る外の世界は、何もかもが色鮮やかで眩しかった。魔力の霧に守られたあの遺跡は暗く灰色でいっぺんの慰めと言えば、石棺に横たわるあの人の顔を一日中眺めて暮らすだけ。しかも、どんなに見つめても彼がその紅い瞳をひらいてくれるわけではない。白と黒と灰色の、光無き世界。
 ここは違う。外の世界は青い海も青い空も白い雲も人々の肌の色や服の色も何もかも、サライの目を射るのではないかというくらいに華やかで。しかもうっかり出会った相手が中身は憎い天敵と言えど見た目は絶世の美少年なんてものに転生してやがるから、タチが悪いことこの上ない。
 サライは彼と違っておそらく天寿をまっとうした。死ぬ間際のことなんて覚えていないけれど、予言の巫女として、一人の人間として、極普通に死んだはず。暗殺でも自殺でもない。寿命も普通の人間程度だったから、結局ロゼッテの治世の最後までを見ることはできなかった。
 それでも、世界で生きていた時間は格段に長い。彼がヴァンピルで見た目どおりの年齢でなかったことを付け加えても、それでもまだ当時の彼よりサライが老衰を迎えた年齢の方が上のはずである。それだけ、彼が若い内に死んだとも言えるのだけど。
 シェスラート……。
 この眩しい世界を、本来定められた寿命の十分の一も過ごせなかったひと。今の帝国世界をなす基盤となり、世界に……そしてロゼッテ=エヴェルシードに捧げられた人。
 本来皇帝になるはずだった彼が、ロゼッテに殺されたところから世界の運命は変わってしまった。シェスラートの代わりにその名を名乗り、皇帝として立ち働いたロゼッテは、いったいどんな思いで彼のいない年月を支配者として過ごしたのか。世界一の権力者にして唯一絶対の存在なのに、あの男も最後まで自分の欲しいものは手に入れられなかったという。最期まで側で見ていたわけではないから、もちろんこれは想像と伝聞を合わせたものだけれど。
 サライはロゼッテが、どれほど歪な形ではあっても、シェスラートを愛していたのを知っている。
 だからと言って赦す事は出来ない。だってシェスラートは自分の夫だ。私のものなのだ。あの愚かな傲慢な男が手をこまねいている間に、シェスラートに愛を囁いてその信頼を得、彼からの愛情を受ける立場になったのは私のはずだ。
 なのに連れていった。
 自分からシェスラートを奪った。
 だからサライはロゼッテを赦さないし、実際に殺されたシェスラートはもっと彼を赦さないだろう。
 だってシェスラートも、彼を愛していたのだから。
 急に身体から力が抜けて、サライは廊下で蹲った。唯一壁に残した手は、窓の硝子板に触れている。
 サライがやっているのは、ただの空回りの、無意味なことなのかもしれない。三千年前、シェスラートは彼女を選んでくれたような顔をしていたけれど、でも本当はその心がロゼッテを向いていることを、サライは十二分に知っていた。
 本当はこの時代でロゼッテの生まれ変わりと出会ったら、真っ先に殴ってやろうと思っていた。
 サライはロゼッテが嫌いだ。声を大にして言えるくらいだ。夫を奪った男という何か単語選びを激しく間違った感のある事実の上で、何度もあの男を呪った。それでも爽やかな外見に反してあの男を生かしたまま本来の寿命以上に長い間皇帝の責務を押し付けるという陰湿な仕返しをシェスラートが自分ですでにやっていたから、サライは皇帝を支える巫女としてそれを手助けするだけで、あの時は特にロゼッテ個人に復讐はしていなかったのだ。
 しかし死後の恨みはまた格別だ。魂が浄化を嫌がって、一番痛いことだけ覚えている。だからサライは本当はもっとおばあちゃんになって老いさらばえてから死んだはずなのに、こうしてシェスラートを失ったその時のままの姿でいる。神の導きかどうか知らないが、気づいたらそうだった。
 たぶんシェスラートもそうなのだ。彼は甦ったら、真っ先にロゼッテに会いに行く。そこにある感情が憎悪なのか愛情なのか、彼女にはわからないけれど。
 それでも、そんな強い感情を彼から向けられる、サライはそのこと自体まずロゼッテが羨ましかった。
 その上何故今度の転生先は美少年なのか。
 たぶん本人も予想外のはずの事実に八つ当たりしつつ、何とか意地でその場から立ち上がる。いけないいけない。本来死人である自分は気を抜いたら世界から消えてしまうのだから、何とか気力を保たないと。
 シェスラートと再び出会うまでは。
「サライか? どうした」
 廊下の向こう側から歩いて来る人影があった。噂をしたわけではないが、頭の中で考えていた相手の一人だ。
「シェリダン……」
「おい、何故そんなところに……具合でも悪いのか?」
 近づいてきてサライの顔色を見ようとした相手の頬を、指を伸ばして思い切り抓りあげる。
「いっ!」
「まったく。なんで今生であんたはそんな顔なのよ。そりゃ確かに以前も悪い顔じゃなかったけど、次は美少年なんてあんまりだわ」
「何の話だ!」
 サライが指を離してその痛みから解放された瞬間、シェリダンは思い切り、心の底からそう叫んだ。
「サライ?」
 大きく溜め息をついたサライの様子を、不思議そうにシェリダンが窺ってくる。こんなところは確かにロゼッテの面影がある。昔もあの男はサライとは噛み合わないテンションで生きていた。
 そう、サライはまず会ったら第一に、この男を殴ろうと思っていたのだ。
 でも何故かそうはできなかった。実際に顔を合わせてしまったこの少年は、あの日のロゼッテとは違う。確かに仕草や些細なことの端々にあの男の面影を見出す事はあるけれど、なのにロゼッテとは違うのだ。本質が違っているのだ。
 サライがあの男とは共にしなかった時間、その数百年の間に、彼も変わったということか? 
 そう、この感じは、どちらかと言えば……
「……何かあったのか?」
 先ほど前触れもなく理不尽に頬を抓られた身としては大層寛大にそれをスルーして、シェリダンは気遣わしげにサライに尋ねてくる。
「あったんじゃないわ。これからあるのよ」
 今のロゼッテがどうしてこんなことになっているのかはわからないけれど、シェスラートの事はなんとなくわかる。ロゼッテに恨みとすら言えない強い強すぎる執着を残して死んだあの人は、間違いなく目の前のこの少年を、転生後の命をその代償として奪うだろう。
 その時に何があるのか、それでシェスラートが本当に欲しいものを手に入れられるかはわからない。
「……シェスラートが、目覚めたわ。あなたの愛しい『ロゼウス』はもういないわよ」
 目の前の朱金の炎が、ハッとしたように瞬いた。


163

「あーあ」
 雨降る地に一人佇み、ハデスはそれを知る。
「やっぱり、こうなっちゃったか……」
 視線の先にある城はまだ遠い。荒野に建てられたというより岩壁を削り出して作ったような簡素なその王城は、自然と共に生きるセルヴォルファスの国の象徴だ。
 今はその王国から火が消えている。一見どこも変わりないようだが、明らかに活気がない。
 ヴィルヘルムが死んだ。
 ロゼウスに殺された。
「そうだね。やっぱりお前はそうして殺すんだ。初めこそ甘い顔をして見せるくせに、最後は結局、誰一人要らないなんて」
 可哀想な王様、ヴィルヘルム。彼は薔薇の覚醒を促すための、駒の一つ。世界を動かすために世界に翻弄され世界に見捨てられた。
「やっぱりお前は残酷だ。ロゼウス」
 この世界はロゼウスのために動いている。
 これまでの歴史上類を見ないその存在を誕生させるために、多くの者がその血を流す。ヴィルヘルムはその鮮血の舞台の幕開けを飾ったに過ぎない、これから先も、彼のためにますます人が死ぬ。
 ハデスは、それを知っていた。
「ごめんね」
 知っていてヴィルヘルムに教えなかった。
「ごめんね」
 知っていて、彼がいずれ必ずロゼウスに殺されることを見逃していた。
「恨んでいいよ。ヴィルヘルム。僕を、世界を、ロゼウスを。君にはその資格がある」
ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。運命に裏切られ続けた子ども。
 ハデスの能力は予言だ。そう遠くない未来を知ることができる。自分に関係あることの場合もあれば、関係ないことまで見えてしまうこともあるけれど、ヴィルヘルムのことは後者を前者に変えた例だった。
 ハデスは、彼を利用した。本来であれば幸せとは言えないまでもそれなりに平穏に生きて行けるはずだった子どもを、無理矢理ドラクルと面識を持たせ、ロゼウスに関わらせることによって破滅へと追い込んだ。
 この罪から逃れることはできない。
「愛する家族を失って、なりたくもない国王になり、たった一つ手に入れたかった本当に好きなものにまで選んでもらえなくて……恨めばいい。憎めばいい。呪えばいい。誰も君を責めないから」
 ハデスにとって彼はただの道具だった。ロゼウスを殺すにしても、一足飛びに命を奪うことなどできないとそれもまた予言で知っている。だからこそ彼を陥れるための罠を張るために、それだけの権力と力を持った手駒が必要だった。その一つがヴィルヘルム。彼の存在はあまりにも、都合が良すぎたのだ。ハデスにとっても、ドラクルにとっても。
 ロゼウスに関わることで彼の運命は変わってしまう。ハデスはそれをすでに知りながらも、あえてヴィルヘルムに教えなかった。玉座に即位した時ハデスが囁いた一言で未来を告げるハデスの言葉を純粋に信じきっていたヴィルヘルムに、あえてその道を進むよう仕向けた。
 直接ヴィルヘルムを手にかけたのがロゼウスならば、間接的にそうなるようにしたハデスも同罪なのだろう。ハデスは確かにヴィルヘルムをその道へと誘った。鋭い荊の群生地を甘い花畑のように偽って。
 ロゼウスの力を目覚めさせるには、生半可な生贄ではいけない。彼の怒りを煽り、彼に殺されることによってその実力を発揮させるための生贄に、人狼の王ヴィルヘルムはうってつけだった。
「恨めばいいよ。ヴィルヘルム」
 僕を憎めばいい。僕を、ロゼウスを、彼は憎めばいいんだ。
 僕は少しも動じないから。お前を死に追いやった僕は、その事実に傷ついたりはしないから。だってこの現実は、僕が望んだことなんだから。
 ――あのさぁ、ハデス卿。俺はこれでもあなたには感謝してるわけだよ。
 ――何? 突然。
 ――あなたがこの国のことについて、あらかじめ予言で教えてくれたから俺は今国王の座についている。
 ――ああ。でもあれはもともと、そういう運命だったというだけの話だからね。ねぇ、第二十六王子ヴィルヘルム。
 馬鹿なヴィルヘルム。僕はお前のためになんて、今までただの一度も行動したことなんかない。
 ――俺は、可哀想になんかならない。
 お前のその決意を知っていて、僕はお前を《可哀想な子》にした。全部わかっていてやったんだ。それを否定はしないし、悪意があったことも否定はしない。僕は完全に僕のためだけに、お前の命を使い捨てにした。本来お前のものである命を、僕のために使ったんだよ。だから、責めていいよ。
 僕はお前の死に涙なんて流さないよ。
 お前がいなくなったことを、悼んでなんかやらないよ。
 僕はお前がもういないことを、嘆きなんかしないよ。
 それを知っていたこれまでもそうだったんだから、今更その通りにお前が死んだからって、その死に何の感慨も覚えたりなんかしないよ。これは決まっていたことで、僕はとっくにその結果を受け入れていたんだから。
 だからお前は僕を憎めばいい。僕もロゼウスを憎むから。お前の憎しみを否定する資格もない。ただそうして憎んで憎んで、憎むことで少しでも救われるなら憎めばいいんだ。
 僕にはお前に償う資格がない代わりに、お前に赦されることも望まない。
 恨めばいい。償えはしないけれど。
 だから。
「……ごめんね。ヴィル」
 ヴィルヘルムの死に泣く資格のないハデスは、ただこの空に、白い弔いの花だけを手向ける。
 これだけは、このただ一度だけは、僕の行動はお前のためだけのものだよ。

 それでもロゼウスからのものでないなら、お前はきっといらないって言うんだろうね。

 ◆◆◆◆◆

 終わりはいつだって唐突に訪れる。それを、知っていたはずだった。
「大臣……」
「そちらは終わったのか。柩の用意は」
「はい。全て整っております。ですが……」
 背後で召し使いの一人が何か言いたげに口ごもる。それを知りながらも、男はあえて聞かぬ振りをした。
「そうか。では、各村の長に連絡して、葬儀の手配を。国政の事は当分、私たち大臣職にある者が交代で取り仕切ることとなる。次の王も選ばねばならぬ。休みをとりながら、各々無理のないように働いてくれ」
「は、はい……」
 柩の用意が整ったとの話を聞いたことで、これからやることが定まった。とりあえず雨振る地面に打ち晒しにしておくわけにもいかなかった高貴なる人物の姿を前に、男は動き出す。
「人を呼ばないとな。陛下の亡骸を、柩へと運んでもらわないと。そう、それに氷の用意も必要だな……」
 目の前の台の上には一人の少年が横たえられている。顔についた血を拭ったその屍は一見して眠っているようにしか見えない。無惨に潰れた胸部を隠すように、布がかけられている。そして眠るように目を閉じたその顔へと、今、男が目元を隠す布をかけた。
 滑らかな瞼がその下に隠されて、もう何も見えなくなる。ただ、屍として横たわる。目元一つ隠しただけで、自然とこの身体から命というものが感じられなくなった。
「ヴィルヘルム陛下……」
 かつて、最も王位継承権から遠いがゆえに誰からも敵視されることなく、利害の問題から縁遠いために誰からも愛され可愛がられた少年の姿はもうない。そこに横たわっているのは、いつしか道を間違えて自ら地獄への坂を下っていった暴君。いくら国内での無茶は自重していたとはいえ、よりによってヴァンピルの王子に手を出すなど、してはいけなかったのだ。
「……あなた様をお引止めすることができず、もうしわけございませんでした」
 これは彼らの罪だろう。ヴィルヘルムを止める事ができなかった。
 国王であろうとも一人の人間だ。間違えたならば誰かが正し、迷っているのならば手を引いてやらなければならなかったのだ。血筋以外の経験も何もかも、先を生きる自分たちは知っていたのだから。ただ先人として未熟なかの王をより良き方向に導くために心を砕いてやる事ができていれば……そんなことを今更言ったところで、ヴィルヘルムはもういない。
 これは自分たちの罪だ。
「あの……本当に、これでよかったのでしょうか」
「ああ……そうするしか、なかったんだよ」
 ヴィルヘルム一人止める事ができなかった自分たちに、あのヴァンピルの王子をどうして止めることができようか。こうするのが一番良かったのだ。この国のためには。
 王家の血筋が絶えた今、セルヴォルファスは滅びの一途を辿っている。彼ら魔族は人間の国よりも複雑だ。王族の血が尊ばれるには、それだけの理由がある。だからこそ早急に、次代の王を選ばねばならない。
 不甲斐なき我らをどうか責めてくださいヴィルヘルム陛下。あなたの死を悲しむ余裕すら、我らは持つことができませぬ。男は祈りを捧げた。
「さぁ。やることはたくさんあるんだ。他の大臣たちとも連携をとって、王国を――」
「閣下ッ!!」
 とにもかくにも国王不在の間の穴を少しでも埋めようと彼らが動き出そうとしたとき、その報告はもたらされた。
「我が国に侵略する勢力が見えます!」
「何! どこだ!? 一体、どういうことだ!」
 伝令の兵が報告する。ワーウルフは個々人の身体能力に優れた種族ではあるが、人間と言うひ弱な生き物相手でもその統率力ほど厄介なものはない。今のところヴィルヘルムがヴァンピルの王子とのことで個人的にローゼンティアと国交を複雑にしそうなことの他は、戦を起こされるほど緊張関係にある国などなかったはずなのだが。
 そして不吉を感じさせることに、まだ年若く野心溢れるだろうその伝令の顔からは、血の気が引いている。この年頃の若者が、戦う前から恐れをなすほどの勢力など……。
「エヴェルシードです」
「何」
「紅い旗に、鎧に身を包んだ兵士たちはいちように蒼い髪をしておりました。あの雲霞の如き大軍は、紛うことなきエヴェルシード王軍」
「何だと!?」
 あの軍事国家が、セルヴォルファスに敵対するなどと。
「何故だ? どういうことだ? 理由は――」
 しかしそんなことを問いただす暇はない。そしてこんな切迫した事態になって、そんなことを聞いて何になる。
 彼らの予想も何もなく、宣戦布告などもちろん発さずに攻めてきたのはこの大陸、いや、世界最強と名高い軍事国家だった。皇帝陛下の監視さえなくなれば、瞬く間に世界を征服できるだけの実力を秘めた戦闘国家。
 そんな国の、しかも大軍だと? こちらは王を失って統率を乱すばかりのこの状況だというのに――!!
「ヴィルヘルム陛下!」
 せめて、せめて王がいれば! 王さえいれば! 何故死んだりしたのです、ヴィルヘルム陛下、今のセルヴォルファスでは、エヴェルシードとの戦いに勝ち目はありません。王のいないこの状況では、降伏を選ぶことすらできません。いや、そもそもあの軍事国家相手に、生半な上辺だけの降伏宣言など通じるかどうか。我等魔族の流儀を、ローゼンティアと隣国であるかの国はよくも悪くも知っている。
 終わりはいつだって唐突に訪れる。それを、知っていたはずだった。それなのに。

「意外とあっけないわね。人狼の国、セルヴォルファス王国」

 皇歴三〇〇三年。永遠に閉じた春。
 シュルト大陸北方に位置する国、黒き大地の王国セルヴォルファス、滅亡。

 ◆◆◆◆◆

 伝令から、北の国を責め滅ぼしたという報告が伝えられた。
「意外とあっけないわね。人狼の国、セルヴォルファス王国」
 カミラは玉座についたまま、正直な感想を口にした。隣国であるローゼンティアをシェリダンが滅ぼしたときは七日かかった。なのに、こうして軍事に不慣れなカミラが移動だけで兵の消耗するセルヴォルファスを攻略するのに要した時間がたったの三日?
「そのことについてなのですが、カミラ陛下、奇妙な報告があがっています」
「聞きましょう」
「我々がかの国に足を踏み入れる前に、セルヴォルファスでは何事かあったようです。今はまだ正確な情報は伝わってきていませんが、噂によれば、なんでも我が軍の到着直前に国王の暗殺があったとか……」
「え?」
 国王の暗殺。物騒な言葉にカミラの頭は一瞬理解が遅れた。一拍遅れて、その暗殺された国王の姿に辿り着く。
「セルヴォルファスの王って……ヴィルヘルム陛下が?」
 親しくした覚えはないが、それでも一時は目的のために手を組んで、言葉を交わしたこともあるあの少年。カミラと同じ、まだ十六歳の国王が――。
「はい。何者かに殺害されたようですが、大臣たちにはそれを隠そうとする痕跡が見られました。葬儀の準備に追われているそこに、我々エヴェルシード軍が踏み込みました。ヴィルヘルム王は幼少時に即位して以来、暗愚な面が浮き彫りになってきたということで、最近はその傾向が特に酷く、それを憂いた内部の人間が王を暗殺したところではないか、と我々は考えております」
「そう……わかったわ。下がってよろしい」
 礼をして謁見の間から退出する兵士の背中を見送った直後、またしてもいつかのように背後から手が回された。
「ハデス卿」
「聞いた? ヴィルのこと」
「ええ……ロゼウス様ですか?」
「当たりだ。カミラ姫」
「……卿はもしかして、この事を知っていましたの? だから、いきなり私に、シェリダンを退けて軍部の評価をあげるために、セルヴォルファスを落とせなんて……」
 神出鬼没の帝国宰相、ハデスの指示に従いカミラはそうして北の黒き王国、セルヴォルファスを責め滅ぼした。たかだか人間の軍と人狼という世界で最強の身体能力を持つ一族。果してそう簡単に上手くいくものかと思ったのだが。
「それだけってわけでもないけどね。この国にはセワード将軍がいるし、エヴェルシードは軍事の天才が多く生まれる国だ。それに、ローゼンティアの時と条件が違うことに、ワーウルフってヴァンピルより更に数が少ない種族だってことがある。人口が王城近辺に集中してるから攻め込みやすいしね……でも、そうだね。やっぱり一番の理由は、ヴィルヘルムが死んだ混乱に付け込みやすいから、かな」
「……そうですか」
 何はともあれ、その作戦は成功した。シェリダンと同じく魔族の王国を、軍事に疎いカミラが攻略する。それによって、カミラの軍部での評価があがり、国内での政権の基盤がこれによって文武両方でできあがることになる。
 シェリダンがエヴェルシードに戻って来たところで、もはや容易に彼女からこの玉座を取り返せまい。
「……気になる事があるんです」
「何?」
「ロゼウス様、本当にヴィルヘルム王を殺害したのですか? あのロゼウス様が?」
 思い出すのは、優しい白い手。かつてカミラを死の淵から救いあげたその手の持ち主が、彼女と同い年のあの少年を、そんな簡単に殺せるのだろうか?
「別に、ロゼウスだって簡単にやっちゃったわけじゃないよ。彼はヴィルヘルム王に相当酷いことされてるし、ヴィルヘルムがいる限りあの国を動けない。それに――まあ、いろいろ事情があるけれど、いいじゃない。僕たちに有利に事が運んでいるなら」
「……ええ」
 有利に、ね。つい先日まで同盟者として遇していたはずの人の死に、有利、か。
 それがドラクルとハデスの考えならば、カミラも気を抜いてはいられない。いつ捨てられるかわからないのであれば、ますます身辺に気を配り警戒せねばならない。
 ロゼウス様……。
 愛しい人の姿を瞼の裏に思い描いても、その人は何も答えてはくれない。ヴィルヘルム王を殺した彼が今何を考えて、何を求めているのか知りたい。
 それが兄、シェリダンに繋がるというのなら、私は――。
「君はとにかくこのまま、エヴェルシードでの基盤づくりに励んで。カミラ姫」
「ええ。わかりました」
 ハデスの指示通り、カミラが頷いた。その時。
「カミラ陛下!」
 再び伝令が駆け込んできた。
「何事?」
 戦争関連の報告は順次あげるように指示してある。攻略が終わったのなら、それほど警戒する必要もない。こちらの目をかいくぐって逆襲の蜂起をすることができるような勢力がまだ残っているのなら警戒する必要があるだろうが、セルヴォルファスにはそんな勢力も残っていないと言うのが先程の報告だったのだ。
「へ、陛下にお目にかかりたいという者が、現れまして……」
「何? それがどうかしたの? 謁見に望むなら、どんな身分にしろ相応の手続をとるようにと」
「いえ、あの、それが……」
 ほとほと弱りきった先ほどとは違う顔の男に声をかけると、ますます困った顔をされた。彼は戦事に関する報告役ではない、国内の揉め事を処理するのが主な仕事で、戦事の報せも全て一度彼の眼を通して吟味されて王に伝えるような伝令の纏め役ともいうべき位置にいる。その彼がこんな顔をするなんて珍しい。
 その理由はすぐに知れた。
「お願いがあるのはわたしです。エヴェルシード国王、カミラ陛下」
 報告役の後ろから、細い人影が現れた。彼は役人をやんわりと押しのけ、謁見の間へと足を踏み入れる。
 その人は白い肌白い髪に紅い瞳。カミラよりももう少し幼い感じの、ロゼウスに似た少年。
 ローゼンティア王子、ミカエラ。
「少し、お話があります。カミラ陛下。わたしと、取引をいたしませんか?」
 そう言って病みつかれたような顔に真摯な眼差しを湛えたのは、ロゼウスの弟王子、ミカエラだった。


 《続く》