152

「ええ。そう。いいの。そちらはそのように。こっちはちょっと放り出してた仕事が立て込んじゃって、しばらく動く予定はないから」
 皇帝領の居城、執務室。書類の山を前に、デメテルはそう言った。吊り上った口元は、遠い異国で過ごしている相手には見えないはず。彼女は何を考えているのか悟らせず、この会話を終わらせればいい。
「ええ。そうよ。ハデスは今気配が感じられないから、きっと冥府に潜っているのでしょう。駒が一枚盤上から落ちてしまって、もう一枚はもうすぐ撃破される」
 運命は巡る。
「……期待しているわよ。ええ。あなたは何もせずただそこにいらっしゃい。それだけでいいのよ。そうでなければ私は困るの。困るからあなたに手を貸しているの……ハデスと同じことを言うって? ええ。そうでしょうね。きっと、でも、あの子にはまだ先が見えていないの。だから私がこうしているんじゃない」
 自分は、その運命を止める。
 会話の向こうで、相手以外の人の気配がした。きっと彼の側にいつも大人しく控えているあの女性だろう。彼女の思想も強烈なものなのに、彼はそのことに全然気がづいていない。
 皮肉なもの。愚かなもの。滑稽なもの。人間と言うものは。
 自らが盤上の世界を全て知り尽くした神のように驕りながら、背後からの強襲にいずれは葬り去られていく。全てを見通せる者などいない。この自分でさえ。
 皇帝の座。
 それに固執するわけではないが、デメテルが見た未来が真実ならばこの座を渡すわけにはいかない。そのためにハデスがどんな手を打ってこようとも、デメテルは負けるわけにはいかないのである。
 その自分の心の動きさえ、誰かに誘導されたものであるとしても。それでも選ぶのは自分だ。全ては自分の意志。自分が幸せであろうとするそのための選択ならば、そこに限りなく他者の介入があろうとも後悔などするはずがない。
 最後の一割までお膳立てされた舞台でも、そこで踊ると決めたのは己なのだから。
 舞台の上で踊る主役たちは、皆その懐に刃を隠し持っている。偽物ですよ、そう教えて与えられた真剣の威力を知らないままに、王子様の胸にお姫様は剣をつきたてようとし、そのお姫様を魔法使いは殺そうとしている。真実と偽物の演劇の境目がつかないまま、このままでは共倒れ。
 デメテルが見た未来は、歓迎できないものだった。しかも予知はそこで途切れている。つまり、デメテルにはその先の未来が与えられていない。彼女はそこで死ぬ。自分がそうなった場合に何故死ぬのかもわかっているから、なおさら運命を変えざるを得ない。そのためならデメテルは、神にだって反逆してみせる。
「健闘を祈るわよ。維持と言う名の難題をぜひ達成してみせなさい」
 意地悪く通信の向こうに囁けば返される皮肉。維持に達成などない。永遠に継続するからこその維持だと向けたそのままを返される。
 さすが、その維持に失敗したお方の言葉には実感がありますね。せいぜい参考にさせてもらいますよ、と。嫌な男だ。
「デメテル陛下」
 部下が入ってきて、話は終わった。帝国宰相がどこぞにやんちゃをしに行っているせいで、皇帝の仕事が増えて困る。愚痴を漏らせば、部下は渋い顔をした。ですから、弟君というだけで帝国の重役につけるのは反対だと、百年前に申し上げました。聞き飽きたお説教だ。
 皇帝デメテルは世界に召し上げられたその日から、こうして神に反逆している。
 ハデスの――デメテル自身の父親を殺し、その選定紋章印を彼の腕に移した、その日から。

 ◆◆◆◆◆

「ドラクル」
「ルースか。どうした?」
 同父妹が玉座のある謁見の間に入ってきた。背後でその気配を知り、ドラクルは振り返らずに名を呼ぶ。
「いいえ。特に用はないわ……反対勢力の貴族たちはみんな殺したし、ノスフェラトゥの処理もつけた。国家としての政務で滞った箇所はなく全ては一段落しています。ただ……あなたの、姿がなかったもので」
「私にだって休憩の時間くらいはあるよ」
「ええ。ですけれど……」
 この妹は、いつも妙なところで言いよどむ。人心を操り、これまで幾人もの敵も、表向きの味方も、両親と兄妹さえ破滅させてきたドラクルにもこの妹の考えだけは時々読めないことがある。だが、参謀はそのくらい強かである方が都合がいい。
 ルースがいつ自分を裏切るかは定かではないが、その時までせいぜい働いてもらうことにしよう。
「この場所で……こんなところで、一体何をしていらしたの?」
 ドラクルの目的にはこの場所が都合が良かっただけだが、本当のことを言うわけにもいかない。ただ、もっともらしいことを言って妹の追及をさける。
「玉座を見ていた」
「あなたの玉座?」
「ああ。そして父上の玉座だった場所だ」
「……先代ローゼンティア国王、ブラムス=ローゼンティア。ロゼウスの父親であり、私とあなたにとっては本来叔父に当たる、義理の父親……我らが父フィリップ=ヴラディスラフ大公の兄……」
「ああ。そうだ」
 もっともらしいと言っても、これは本音だった。何かを誤魔化そうと気構えたところでするりと口から出るのはやはり本音でしかないのか。ルースが柳眉を潜める。彼女の憂い顔はいつものことで、兄妹の中でもそうそう気にする人間もいない。
「あの男も、もういない。我が父も。母も。お前の母、正妃クローディア=ノスフェルも、ライマ家やテトリア家の王妃殿下も」
「みんなみんな、私たちの策略で殺したのよ」
「ああ。そうだ。……ルース、メアリーの様子は?」
「まだ部屋で落ち込んでいるようよ。あの子は自分の意志であなたにつくと決めたわけではないのだから。アンとヘンリーが面倒を見ているわ」
「その二人に関しては?」
「概ね平常どおりね。変わりきった城の中の様子に何か感じるところはあるようだけれど、今更それを口に出して落ち込むほどあの二人は子どもではないのだから」
「そうだな」
「ああ。でも……ヘンリーとカルデール公爵の間は、まだ微妙なようだけれど。公爵、よりにもよって二人の身柄を押さえている時に、アン姉様にちょっかいを出したようなのよ」
「そりゃあ……ヘンリーは立腹するだろう」
「ええ」
 各役職の人員の動向などは、仕事の時間になったら話せばいい。今は連れて来た元兄妹たちの話を聞いてこの時間をやり過ごす。
 沈黙は嫌いだった。彼は、彼を虐待していた先代国王、ブラムスがドラクルをひとしきりに責め苛み弄んだ後、何も言わずただ複雑な面持ちで彼を見つめているあの沈黙の時間が一番嫌だった。血の散る寝台の上、意味の見出せない無為な時間を過ごすたびに心が軋んだ。
 言いたい事があるならば言えばいいのだ。黙って何か言いたげにされる方が余程気分が悪い。
 ルース、この妹にもそんな風に思えるところがあるが、彼女のそれは厳密に言うと少し違う。彼女の面持ちはいつも遠慮深く何か言いたげな「繊細王女」とされているが、実のところさほど繊細でもか弱くも何でもないことを知っている。ずっとそばにいたのだから。
 ……妙な話だ。愚かな感傷だ。何の意味もない。何の意味にもならない。
 謁見の間、玉座の間であるこの部屋に足を踏み入れ、今はようやく自分のものになった玉座に座るわけでもなくただ見つめているだけだなんて。大理石の床に、窓枠に絡みついた薔薇の影が落ちている。美しき城。美しきローゼンティア。なのに、何故自分はいまだ満たされないのだろう。
「ドラクル」
 兄の隣にまでやってきたルースが細い手を伸ばし、ドラクルの手を握った。儚げな容貌が彼を見上げるがその瞳にはなんの葛藤もない。いつも何か言いたげな風情のくせに、結局彼女は何を伝えたいわけでもないのだ。彼女の想いはただそこにあるだけで誰に伝わるわけでもない。
 そう言えばドラクルはこの妹の口から、誰か好きな男の話を聞くことも、匂わされることもなかったとふと思う。自分とルースの関係を思えば当然かもしれないが、別に誰の名を出されたところで咎めるわけもないのに。
 ああ、この距離こそが、自分が選び取り積み上げたものと言う事か。全てを手放してまたもう一度手に入れるために。なんだって切り捨ててきた。
 ふと目を閉じると、瞼の裏に白い面差しが浮かぶ。ドラクルに良く似ていると言われたがやはり違う弟の顔。眼差しの重さもその笑顔の儚さも鮮やかに思い浮かべることができる。
 ロゼウス。
 全てを切り捨てたドラクルの中で、まだこんなにも大きな存在。彼を憎むことで正気と狂気の境目のこの精神を保ち続けたドラクルの心の中、ロゼウスの存在はあまりにも大きすぎる。失っては自分を支える憎しみが崩壊して生きてはいけない。だからドラクルは、彼を望む。
「ロゼウスを」
「え?」
「ここまでの下準備は完了した……後は、ロゼウスを手に入れるだけだ」
「……ええ。そうね」
 ロゼウスを憎む、ただそれだけでドラクルの心はこの十年以上支えられてきた。
 だからこれからもずっと、私にお前を憎ませろ、ロゼウス。私の墓標たるお前には、我が隣こそ、永遠の墓場としてふさわしい。
 用済みのシェリダン王などもういらない。
「ルース」
 ローゼンティア簒奪こそ順調に終わったものの、やはりこれだけ大掛かりなことをすると疲労が募る。身体的なものはもとより、精神的に酷くささくれ立つ、苛立ちをぶつける相手は、いつも決まっていた。ロゼウスには憎しみを。けれど、ドラクルが機嫌を下降させるたびに向かったのは。
「ドラクル」
 ルースは華奢な腕をドラクルの背中に回す。桜色のその唇に、口づけを送った。
 そして彼は妹の身体を冷たい石床に横たえ、その服のリボンを解き始めた。


153

 これは夢だ。
 きっと、そうに違いない。そう思う。ヴィルヘルムは、そう願う。
 これは夢だ――何より酷い、悪夢だ。
 降ってくる笑い声も、優しく触れる指先も。
「ろ……ロゼ、ウス?」
 くすくす、と笑い声が降ってくる。声は同じなのに、その軽やかさは違う。ヴィルヘルムが今までロゼウスと呼んでいた人は、今、この場所にはいないようだ。彼の顔をした何者かがそこにいて、自分に触れていて、けれど、本当のロゼウス自身はどこに行ってしまったのだろう。
 ヴィルヘルムは今、彼にいとも容易く寝台へと押さえつけられている。今まではまだ、人狼族であるヴィルヘルムの方が力が勝っていたのに、そんな事実など最初から嘘だったかのように軽々と。
「ロゼウス? ……ロゼウスは?」
「何を言ってるの? ヴィル。俺は、ロゼウスだよ」
 そう言って、彼はふわりと、羽のようにヴィルヘルムの唇に口づける。頑是無い子どもにするように、それで弱々しい問いかけを封じようとした。
「ロゼウスは……」
「そんなことより」
 ヴィルヘルムの言葉を遮って、彼はまた口づけを送る。
 紅い、紅い、極上の鳩の血色の瞳が自分を覗き込んでいる。
「久しぶりの身体なんだ。感覚掴むためにも、気持ち良いことをさせて? お前で、この身体の使い心地を試させてよ」
「久しぶりの身体……? 使い心地……?」
「そう……でも、お前は何も気にしなくていいんだよ。ヴィルヘルム。ただ俺に全てを任せていれば」
「ひィッ……ああぁッ!」
 言い聞かせるような言葉の終わりと同時に、彼の手がヴィルヘルムの中心を強く掴んだ。服の上からまさぐられて、びくん、と身体が勝手に反応する。
 くすり、とまた一つロゼウスが笑った。
「可愛いね。ヴィル。犯す事はできるくせに、犯されるのは慣れないんだ?」
「犯さ……」
「そうだよ。今、俺に抱かれるのはお前だよ」
 そう言って彼はまた、笑いながらヴィルヘルムの身体に触れた。
「んぁあ!」
 シャツに透けていた胸の突起を強く握られて、苦痛の声があがる。服の上から強く弱く揉み解す手の動きに、痛みとも快感ともつかぬ感覚が襲う。
 早くもあがり始めた息を、このまま主導権を向こうに預けたまま弄ばれないようになんとか整えようとしていれば、それよりも向こうの行動の方が早かった。
 ビリッ、と音を立てて衣服が破かれる。上も下も、脱がされるなんて生易しい言葉ではなく、絹の裂かれる音が響いた。
 頭から血の気が引く。眩暈のような感覚に襲われる。
 俺は今何をされている?
「ロゼウ――んっ!」
 がたがたと震えながら彼の名を呼ぼうとすれば、三度その唇を唇で塞がれた。今度の口づけは深く、口腔内の敏感な粘膜を刺激する。
 舌を絡めて強く吸われ、ほんの少し痛い。焦りと緊張に息ができなくて苦しい。零れた唾液が顎を伝う。
「ん……っ、ふぅ、ん……」
 口づけ一つで脳髄をとろかそうとでも言うかのように、意識を捕らえて離さない、甘美な毒のようなそれ。気持ちいい。でも、怖い。何も考えられなくなる。
 身体から力が抜けて、抵抗をやめた。そうなってようやく、ロゼウスが唇を離す。唾液に濡れて艶めいたその紅は酷く生々しく劣情を伝えてくる。この美しさに劣情を煽られることはあっても、まさか自分が彼にそういう気を起こさせることがあるとは思ってもいなかった。
 破れた服から、素肌が覗いている。そのむき出しの部分に、彼は触れた。ただそれだけで、ぞくぞくとした得体の知れない感覚が押し寄せてくる。ただの行為へと向けられた期待でも快感でもない何か。怖い。怖い。怖い――。
「あ……いや……」
「……どうしたの? なんで泣いているの?」
 ロゼウスがヴィルヘルムの目元にそっと唇を寄せた。知らぬ間に溢れていた涙の滴を、唇で掬い取る。
「泣かないで。お前は何も心配しなくていい」
「あ……」
 ロゼウスの手が、ヴィルヘルムを一度抱き起こして優しく背中を叩く。
「あ、ああ……ロ、ゼウス」
「心配しなくていいんだよ。ヴィルヘルム、お前はただ、心地よい夢に溺れていればいい」
 あの日の俺がそうだったように。
 囁きを一つ残して、ロゼウスは再びヴィルヘルムを寝台に横たえた。衣服の残骸を払いのけて、再び肌に触れる。
「ん……やぁ……っ!」
 胸の突起をやわやわと弄くられて、妙な声が漏れる。ぷっくりと膨らんだそこを弄られるたびに、じりじりとした快感が背筋を伝う。
「あっ……!」
 生暖かい舌がぺろりとそれを舐めあげて、自分のものとも思えない、一層高い声があがった。その間に、片手がまた、足の付け根へと伸びる。
「ふぁ……・や、ぁ……やめ……!」
 無事だった下着の中にも容赦なく手は潜り込み、それをきつく握る。力を込めてしごくかと思えばやわやわと弱く刺激を与え、翻弄する。先端をぐりぐりと押さえ込まれると、身体が跳ねるのを押さえきれなかった。
「や、もう、やめ……やぁっ!」
 先走りでとろとろと濡れ始めたのが普段は思いもしないくらいに恥ずかしくて、押さえつけてくる彼の胸を押し返す。だけど、今日に限ってはびくともせず、ヴィルヘルムの抵抗をロゼウスはくすりと上から見下ろして笑う。
 ものをしごく手は止まらない。他人の手で、しかもこんな風にして与えられる快感が強烈過ぎて、もう何も考えられない。自分とさして体格の変わらないその肩にしがみつきながら、絶頂を迎える。
「ああ―――――ッ!」
 自らの吐き出した白濁が腹と、そこに添えられていた彼の手を汚すのを、脱力した身体で呆然と見つめた。
 ロゼウスは無造作にヴィルヘルムの放ったものに濡れた指を口元へ運んで、艶かしい仕草で舐め上げる。それだけで、大抵の男は達してしまいそうなほど、扇情的な姿だった。
 一口舐めると、彼はその手をまた下へと降ろした。今度は先ほどさんざん弄った場所よりもっと奥へと、後へと伸ばす。
「ヒッ!」
「ん……さすがにきつい、か。あんまり抱かれ慣れてるわけでもなさそうだし」
 しなやかな指が、無理矢理後ろへと潜り込む。異物感に総毛立ち、身体の動きが止まった。
「駄目だよ。ちゃんと力を抜かないと。辛いのはお前だよ」
 青褪めたヴィルヘルムの反応をまたあっさりと笑って、ロゼウスはさらに奥まで指を進めた。元から少年の放った精液に濡れた指はその助けを借りて、ぐちゅぐちゅと中をかき回す。
「あ、あ、ああ……ふぁ、ああん!」
内壁をすられ、あられもない声が漏れる。言いようもない熱が弄られている下腹部に溜まっていくのと同時に、指の数が増やされた。中途半端な圧迫感に、なんとも言えない感覚が背筋を走る。
「あ……うぁ、……やぁああ」
 ぼろぼろと涙を零すヴィルヘルムに、ロゼウスは優しく、残酷に囁いた。
「力を抜いて――挿れるから」
 指が中から引き抜かれる。ヴィルヘルムが答えるのを待たないまま、指とは比べ物にならない質量と熱の塊が、その場所を穿つ。
 痛みと共に、意識が弾け飛びそうな快感に襲われる。
「ああああああッ!」

 ◆◆◆◆◆

 泣き腫らした顔のまま、少年は隣で眠っている。その辺に放り出されていた服を軽く身に纏っただけなので、ひとたび毛布をはいでしまえばその姿はあられもない。自分の方はと言えば上半身裸のまま身を起こし、確かめるように右手を持ち上げ、手のひらで空を掴むように閉じたり開いたりを繰り返す。
 身体にかかる負荷、重い倦怠感や疲労感までもが懐かしく、肺全体を使って深く息をついた。事後の気だるい感覚に身を任せながら、ぼんやりとこの身体の奥底で今は眠っている存在のことを考える。
「……眠っていろ、ロゼウス。今はまだ」
 全ての決着がつくまで、彼は眠っているべきだ。いいや、もしかしたら一生眠り続けている方が幸せなのかもしれない。あんな未来を迎えると最初からわかっているならば。
 先行きを知らないからこそ、人は愚直にも前へ進んでいける。中には一つどころに立ち止まり蹲って自己憐憫に浸り続ける輩もいるが、ロゼウスがそれと少し違うのはわかっていた。
 それに万一、ロゼウスがそういった逃避型の人物だったとしても、彼にはそうして逃げ続けることができないわけがある。あの蒼い髪に、炎の瞳の少年。ロゼッテの子孫シェリダン=エヴェルシード。彼がロゼウスをその道に引き戻し、そしてあの未来を辿らせることになるだろう。
「だからその前に、俺が全て決着をつけてあげる」
 寝台の傍ら、稚い表情で眠る人狼の少年のふわふわとした髪を撫でた。その感触が心地よいのか、ヴィルヘルムはきゅぅ、と小動物のように唸った。狼と言うより、むしろ子犬のようだ。微笑ましいが、同時に反吐が出る。何事も与えられるだけの王様。確かに彼はそうなのだろう。
 夜気が身を包み、刺すように凍てついた。セルヴォルファスは北方の王国。夜は当然、ただの人間ならばそのまま眠れば冷え込んで凍死してしまうほどには寒い。だからこそこの土地には魔族の一種であるセルヴォルファス人、ワーウルフしか住めないのであるし、行為の後にも関わらずヴィルヘルムには軽く服を着せた。
 夜は凍てついていく。
 彼は一人、素肌をさらしながら考え込む。じっくりと見てみたこの身体は傷一つなく綺麗だ。ヴァンピルであるということだけでなく、戦闘の経験が少ないのか、それとも通常のヴァンピルより再生能力が上回るためか。
 ローゼンティアの血がこの時代にまで続いたということは、間違いなく彼女のおかげだろう。一度人間の血を混ぜることによって薄まったヴァンピルの血脈が今は一国を形成するほどにまでなったと考えれば感慨深いものがある。それが、ローゼンティアであればなおさら。
「……サライ」
 ローゼンティアの血を王家としてまでこの時代にまで伝えたであろう、運命の女性の名を呟く。これは彼女の功績だ。懐かしさと慕わしさ、そして微かな罪悪感と寂寞が一度に胸を埋めた。敷布を握りこんで皺を作る。腕が閉じ込めた怒りに強く震える。
 サライ。ごめん。守れなかった。一緒にいてやれなかった。
 他の事を除けば、三千年前の過去、ただそれだけが心残りだ。
「……宿命、か……」
 暗闇の中、隣で一人泣きながら眠る子どもの頭を撫でながら一人ごちる。することもないし今の時間から起きていたところでどうせ客分どころか人質ですらないこの身には明日もそれからもやることなどないのだ。ヴィルヘルムの隣に潜り込み、自らも眠りを貪るために毛布へと潜り込む。
 その瞬間、知ったような気配が感覚の先に触れた。
 ぴくりと反応して身を起こす。確かにこれは、知った気配だ。
「……ジャスパー?」
 遠い遠い場所で、誰かが嬉しそうに笑う。

 ◆◆◆◆◆

「兄様!」
 その少年は国王であるヴィルヘルムを無視して、隣にいたロゼウスへといきなり飛びついた。
「ロゼウス兄様! お会いしたかった!」
 白銀の髪に紅の瞳。そして、整った顔立ち。兄様と言う言葉。わざわざ聞かなくてもわかる。これは、ロゼウスの弟王子の一人のうちの誰かだ。そういえば、エヴェルシードでドラクルたちと戦っていた時に見たような顔だ。
「兄様! 兄様! 兄様」
「……お前が、ジャスパー?」
 ロゼウスの反応は、どこか不思議だ。案の定弟王子も不自然に感じたようで、訝しげに自分を受けとめるロゼウスの顔を覗き込んでいる。
「兄様?」
 大臣たちからの報告で、ヴィルヘルムは魔族の不審者だという人物と引き合わされることになった。そもそも地上には魔族が数種類しかいない。ヴィルヘルムたち人狼族と、ロゼウスたち吸血鬼族、それに人魚。地上にいるのはワーウルフとヴァンピルだけで、人魚は海の魔族だ。バロック大陸の魔族の状態はそれほど情報が入ってこないからわからないが、かの大陸の魔物がこのシュルト大陸にやってくることも少ない。だからこのセルヴォルファスに入り込んだ魔族の不審者と言えば、その可能性は初めからかなり限られていた。
 そして予想に違わずヴァンピルの不審者はロゼウスの知り合いで、彼に会わせろと言って警備の兵たちに無茶を言ったらしい。ローゼンティア王族の一人だと名乗られてしまえば一介の兵士たちに対応する術も権限もなく、大臣たちもこの厄介な訪問者にして侵入者の扱いに困って、国王であるヴィルヘルムへと押し付けてきた。
 そしてやはりヴィルヘルムは自分が困る事がわかっていたので、ことの最初からロゼウスに同席するように頼んでいた。ここ最近どんな理由かは知らないが人が変わってしまったロゼウスは、ヴィルヘルムのことを時々、小さな子どもでも見るような目で見る。
 ロゼウス自身も訪れたという客人にして侵入者の目星はついていたようで、あっさりとついてきた。扉が開け放たれた瞬間、白い髪の少年はわき目も振らず一心にロゼウスへと駆け寄った。
 両腕を軽く広げて彼を受けとめたロゼウスは、若干考え込むような顔を見せている。
「そうか……ジャスパー。第六王子か。腰に選定紋章印がある、薔薇の皇帝の選定者……ふぅん」
 ジャスパー=ローゼンティアと名乗った王子の身体をやんわりと抱きしめながら、彼は何事か呟いている。
「ロゼウス……あのぅ……」
 とにかくこのままこの王子をくっつけとくわけにもいかないし、と口を挟みかけたヴィルヘルムを遮って、弟王子が顔を上げた。
 これまで懐きやすい猫のようにすりすりとロゼウスの胸に頬を寄せていた態度とは打って変わって、冴え冴えとした刃のような瞳でロゼウスを見上げる。その眼差しにヴィルヘルムは背筋がわけのわからない恐怖でぞくりとした。
「な……」
「お前」
 見据えられているロゼウスの方には動揺も怯えもさっぱり見られない。それはヴィルヘルムと違って度胸が据わっているだけなのか、それとも……。
「兄様じゃないな。何者だ」
「さすがは選定者。自らの魂が永遠に仕える帝の魂は見間違えないか」
 ジャスパー王子の眼光の鋭さとは裏腹に、ロゼウスは熟した果実のように紅い唇に艶めいた笑みを乗せる。そして弟王子の髪を軽くかきあげながらあらわにしたその耳元にそっと唇を寄せると、ヴィルヘルムですら聞き取れないほど小さく何かを囁いた。
「我が名は―――。……だ」
 ハッ、とジャスパー王子の表情が変わる。何かに納得したように頷くと、ようやくロゼウスの身体から離れた。
「お迎えにあがったんです。僕は、兄様を。もうすぐその時が来るんです。だから、兄様を返してください」
「返すさ。この一年が終わり、俺の望みが叶ったならば」
 光源は先ほどと変わらない蝋燭なのに、それだけではできない不思議な陰影をその端正な面差しに落として、ロゼウスは頷いた。
「……ロゼウス」
 ヴィルヘルムはなんとなく不安になって、ロゼウスの服の袖を掴む。
「どうしたの? ヴィル」
「……どこにも行かないよな」
「セルヴォルファス王! 我が兄を拘束するのはやめていただきたい!」
「黙っていろジャスパー。……ああ。ヴィル。俺はまだ、どこにも行かないよ」
「まだ?」
 それはいつかは、いなくなってしまうことと同じじゃないか。
「そう。まだ。まだその時じゃないから」
「その時?」
 ヴィルヘルムに対して全体的に優しい態度をとるようになった代わりに、これまで以上に何を考えているのかが読めなくて心の距離が以前より遠くなったロゼウスが、ヴィルヘルムを甘やかすように宥め囁いた。
「ああ。そうだよ。まだ機会じゃないんだ。だから、動けない。でもその時になったら、必ずヴィルヘルムの力も必要とするよ」
「兄様!?」
「……本当?」
「ああ。約束だ。俺はヴィルを置いてはいかないよ」
「……わかった」
 誤魔化されている。わかっていた。わかっているのに、結局ヴィルヘルムは何も言えなかった。
 降ってくる声の優しさがあまりにも切なくて、何も言葉にできなかった。


154

 とにかく、乗り込んでみるか、と。
「いかにも怪しげですね」
「冒険心が疼くな」
「しなくていい冒険なら、しないのが一番だとは思うんですが」
「とは言っても、さぁ来い! と言わんばかりに待ち構えられたこの状況では避けて通るわけにも行かないだろう」
「いまだ霧は晴れないわけですしね」
 シェリダンたちが乗った海賊船の道のりを阻んだのは、謎の霧と遺跡だった。船長によれば呪いだというそれを何とか打破できないものかと、シェリダンたちはその遺跡に入り込んでみることにした。
 遺跡は灰白色の岩で出来ていて、遠目に眺めるより間近に寄ってみる方が意外に繊細な作りの概観を視界に収めることができる。大きなアーチ状で彫刻の施された門が彼らを出迎え、洞窟のようになった内部へと招く。
 海の真ん中に突然生じた遺跡であるため、湿っているだろうと予測したシェリダンたちの考えは外れ、中の空気は思ったよりも乾いていた。ただ、ごつごつとした岩壁に触れると凍ったように冷たく微かに結露のような濡れた感触がする。恐ろしく空気が寒く、肌を刺す。一種の氷室なのだと、彼らは理解した。
 入り口で簡単にそれらの様子を調べ、奥の方までは見えないが足元を確かめて、突入するにしても危険がないことを確認してから、クルスが尋ねた。
「それではシェ……シエル様。覚悟はよろしいですか?」
「ああ」
 クルスの言葉にシェリダンは頷いたが、背後から否定の言葉が入った。
「「「よくないっ!!」」」
「どうしたんだ? お前たち」
 ここまで(無理矢理)連れて来た海賊たちと元盗賊の男たちだ。洞窟の奥を眺めながら、がちがちと震えている。確かに寒いが、上着も着ているというのにそんなに震えるほどだろうか。
「ぼ、坊ちゃん方! どうか、ひらに、ひらに!」
「は?」
「ここここここは、ひ、ひひひ引き返しませんか!?」
「待て。お前たち。どもり過ぎだぞ」
 シェリダンとクルスにそうして帰船を促す彼らは何故かのきなみ涙目だ。
「だだだって! ここ、海の呪いの遺跡なんですよ! 生きて帰ってきたものはいないんですよ!」
「生きて帰ってきた者がいないなら、どうしてそんな話が伝わっている。心霊話の典型的なパターンだ。落ち着け」
「あ、本当だ……じゃなくて!」
 海賊の一人が勢いよく、シェリダンの両肩を掴む。
「だから! 幽霊が出るか鬼が出るか蛇が出るかはともかく、ここは呪われた遺跡なんですってば! 始皇帝陛下の呪いになんか触りたくないでしょ? ないでしょう?! お願い、船に帰ってぇえええええ!!」
「いやだ」
 騒ぐ男たちを一刀両断し、シェリダンはクルスと共に歩き出した。洞窟に足を踏み入れた途端、氷を踏むような冷たい感触が長靴の上から足を刺す。
「シエル様。僕が前を行きます」
「わかった。頼んだぞ。クルス」
「はい」
「お前たちは、何だったら船に戻っていいぞ。どうせクルスがいれば戦闘方面の心配はいらないしな」
「ででで、でもそれじゃ坊ちゃん方二人でなんて」
「私は構わない。お前たちも好きにしろ」
 海賊と盗賊は顔を見合わせごくりと唾を飲み込んだ後、結局船には戻らずシェリダンたちの後についてきた。なんだかんだで、面倒見の良いヤツラだ。全員顔がそれこそ死人のように蒼白だが。
「そう身構えるな。いざと言うとき迅速に動けないようではどの道死ぬぞ」
「し、死ぬ!? ヒイッ!」
「誰も確定事項だとは言っていない。落ち着け」
「でも、坊ちゃん。ここから先何が出るともわからないんですよ!」
「そうだな。幽霊が出るか鬼が出るか蛇が出るか人魚が出るか。あるいはむくつけき大男、別の海賊、鮫、歩く骸骨、発酵したゾンビ」
「おおお、俺たちを恐怖で殺したいんですね? そうなんですね!?」
「別に誰もそんなことは言っていないぞ。それに、全く違うものが出てくるかもしれないじゃないか。麗しい姫君とか妖艶な美女だとか」
「ははは。そうだとしたら、嬉しいんすけどね……」
 まさかこんな海の中の呪われた遺跡にそんな典雅な美女がいるわけもないだろうと、海賊たちはやたらと悲しげに肩を落とす。
「ま、そんなことはないだろうが、遺跡というのだからお宝ぐらいは手に入るかもしれないぞ」
「そうだとしたら随分助かりますね。そろそろ手持ちの金だけではそこが尽きて、虎の子の宝飾品を換金しなければならないかと思っていたところですし」
「そうだなクルス。お前らも、海賊だろう? もっとこれくらい積極的に楽観的に生きたらどうだ?」
「そりゃ財宝は嬉しいっすけどね……呪われた遺跡に財宝の話なんて聞いた事がないっすからね……」
 歩き始めて間もないのにすでに疲れきった顔をした男たちは、諦観の滲む声で呟いた。一見お貴族っぽいのに、なんてたくましい坊ちゃんたちだ……。
 軍事国家エヴェルシードの貴族を舐めてもらっては困る。
 とはいえ、シェリダンとクルスもまさかそこまで楽観してこの遺跡に足を踏み入れたわけではなかった。とにかく先に進むという目的がある以上、霧をどうにかして進路を開くことができれば、それで御の字だと考えていた。
 まさか、遺跡の奥にいるのが麗しい姫君かもしれない。そんな言葉が現実になるとは発言者であるシェリダン自身ですら思いもしていなかったことだ。
 そこはまるで、神殿のような空間だった。
 
「――サライ?」

 目の前に少女がいる。彼らは細身のそれを後姿だけで判別できた。天井にあいた穴から差し込む灰色の陽光だけが光源の薄暗い遺跡内部。人の気配に彼女は振り返り、彼らを認めてハッと息を飲んだ。
こちらはこちらでむさくるしい野郎どもばかりということで、目の前の少女の美貌に誰もがぽかんと口を開けていた。ロゼウスの女装や、本当の美少女であるロザリーや同じく美女ミザリーの美貌に耐性のあるシェリダンとクルスだけが、なんとか平常心を保っている。
「まさか本当に美女にまみえるとは思ってもいませんでしたね……って」
 クルスの言葉に、シェリダンは反応する事ができなかった。
 目の前の少女は見事な銀髪と、夜明けの空のような薄紫の瞳を持っている。繊細で儚げな容姿をしているが、瞳の力は強い。なんとなくその顔立ちがロゼウスの姉であるミザリーに似ていると思ったのは気のせいだろうか。しかしそんなことすら、考える余裕はその時のシェリダンにはなかった。
 気づけば音は言葉となって唇から零れ落ちていた。シェリダンはハッと口元を押さえる。何故、自分は今何故そんなことを思った? 言った?
 サライとは女の名前だ。つまり、目の前の少女の名前ということか。シェリダンの言葉を聞いて彼女は薄く微笑んだ。
「シェリダン様?」
 クルスの訝りの声にも答えられない。私は何故そんなことを知っている? ただ、言葉が、自分のものではない想いが胸の中に溢れてくる。
 これは――恐れ?
 少女が優しく残酷に、シェリダンに向かって呼びかける。
「お久しぶりですね。ロゼッテ=エヴェルシード。いいえ、シェスラート=エヴェルシード陛下と呼ぶべきかしら?」
 その名は聞いた事がある。だが、何故そんな言葉を初対面の彼女に投げかけられるのかわからない。
 けれど、初めて会うはずなのに自分は何故か彼女を知っているような気がする。
「私の名はサライ。サライ=ローゼンティア。覚えていてくれて嬉しいわ。ロゼッテ王」
 クルスは言葉を理解するよりまず警戒を先に出し、剣を抜いて構えている。他の海賊と盗賊たちは、事情がわからずにひそひそ声で言葉を交わしながら様子を窺っていた。
 シェリダンと少女の会話に横槍をいれるものは、いい意味でも悪い意味でもいない。
「ローゼンティア?」
 耳に馴染みのありすぎる隣国の名を出せば、彼女はにこりと笑った。ローゼンティア。ロゼウスの故郷である吸血鬼の王国。そして、その王家の名前だ。何故目の前の少女がその名を持っている。
 サライと名乗った少女は、見事な銀髪に藤色の瞳をしていた。銀髪はヴァンピルたちの髪質にぱっと見では似ているようだが、やはりロゼウスの白銀を思い出してしまうと違う。それに、ヴァンピルなら瞳の色は紅のはずではないか。しかし彼女の持つ色彩の特徴は吸血鬼ではなく、西方の国の一つである、ウィスタリア人の容姿を備えていた。
「ヴァンピルは人間と交わらないはずだ。何故、ウィスタリアの人間であるお前がローゼンティアの名を持っている」
「それは私が、ローゼンティアの名を持つ方の妻だからよ。シェスラート=ローゼンティアの」
「シェスラート……」
 先程も彼女はそう言った。
「シェスラートとは、アケロンティスの始皇帝の名だ」
 この世界が《帝国》と呼ばれ、《皇帝》に支配される前。
 ゼルアータと呼ばれる黒髪黒瞳の一族が、シュルト大陸全土を牛耳っていたらしい。暴虐の大国は各国の民たちを次々と征服し奴隷としていった。それに反発して解放軍として放棄したのは、ゼルアータの侵略によって真っ先に滅ぼされた蒼い髪に橙色の瞳のザリューク王国の生き残りだという。
 シェスラート=エヴェルシード=ザリューク。
 解放軍の首魁にして、大国ゼルアータを打倒し帝政を打ち立て、後に世界全土を《帝国》として統一した男の名をそう呼ぶ。つまり、シェリダンたちエヴェルシード人の祖先にして、王族であるシェリダンにとっては直接的な先祖にも当たる。今のエヴェルシード王国は彼が作ったものだ。解放軍として一から積み上げた武力で世界を転覆した男の作った国。だからエヴェルシードは、その時代から三千年も経った今でさえ軍事色が強い。
 だが、少女の言う事はそれと噛み合わない。シェスラート。シェスラート=ローゼンティアとはどういうことだ。始皇帝はエヴェルシード人である。これは間違いのないことだ。文献にも残っている。
「ええ。そうよ。シェスラート=エヴェルシードは確かに始皇帝の名前よ。エヴェルシード。あなたのご先祖よね。シェリダン=エヴェルシード王」
「お前! 何者!」
 サライと名乗った少女が偽名のシエルではなく、シェリダンの本名を呼んだところでクルスが一歩前へと飛び出した。水平に構えた刃を少女の喉元に突きつける。しかしサライは、微動だにしない。見ている方が空恐ろしくなるほど、繊細な容姿に見合わず度胸が据わっている。
「言ったはずでしょう。私はサライ=ローゼンティア。初代選定者ロゼッテ……シェスラート=ローゼンティアの妻」
「初代、選定者?」
「ええ。そうよ。あなたたちがロゼッテ=ローゼンティアと呼ぶ初代選定者の本当の名前は、シェスラート=ローゼンティア。そして皇帝は」
「ロゼッテ=エヴェルシード?」
「そう」
 シェリダンが答えると、少女はにっこりと笑った。その笑顔は美しく、そしてやはりどこか、ミザリーに似ている。
 クルスの剣先をいとも簡単に手でよけると、彼女は恐れ気もなくシェリダンへと歩み寄ってくる。
「シェリダン様!」
「いい。クルス。動くな」
「しかし」
「大丈夫だ」
 サライがシェリダンの正面に立つ。すっと手をあげると、頬を撫でた。そこで彼は初めて、この凍れるような寒い空間の中、彼女が体温のない存在だと気づく。触れた手は氷のように冷たい。
「ふぅん。前の世でも不細工ではなかったけれど、今回は随分と綺麗な顔立ちをしているのね」
「……お前、何者だ。生き人ではないだろう」
 クルスの質問を改めて問いかけなおすと、氷の手を持つ少女はその手をシェリダンの頬から離して紅い唇を幽鬼のように禍々しく吊り上げる。触れられた頬はひんやりなどというものではなく、氷を貼り付けられたようにひりひりとして痛い。
「そうよ。私は三千年前の解放戦争時代の人間よ。神に仕える予言の巫女姫って役職を、聞いたことはない?」
「あったような気もするな。文献の中に……始皇帝を導いた巫女の存在、そうか、お前はそれか」
「わかったなら伏して奉りなさいよね。ふん」
 サライはくるりと身を翻すと、元々いた遺跡の奥へと戻っていった。
 天井に空いた穴から差し込む微かな光だけが頼りの薄暗い空間で、シェリダンはそこに置いてあるものをなんとか見た。
 石の、柩。
 それに歩み寄ったサライは、柩の蓋の表面を愛しげに、そして哀しげに撫でる。神聖な儀式のようであり、同時に艶かしい愛の営みのようにも見えるその仕草に、ぞくりと背筋が震えた。だがそれは、目の前の光景に見惚れたわけではない。湧き上がったのは、確かに苛立ちという感情。
「死者がこの世に留まって、何の用だ」
 この女は醜い亡者だ。外見の美しさなど関係ない。ただの死人だ。
「待っているのよ。シェスラートを」
「それは、どっちのシェスラートだ?」
「私が愛した私の夫。シェスラート=ローゼンティア」
 サライは石棺に向けていた眼差しをスイとこちらに向けると、その藤色の瞳でシェリダンを射抜いた。
「シェリダン=エヴェルシード。ロゼッテ=エヴェルシードの子孫であるあなたがここに来たのは、単なる偶然ではないのでしょう。私が神に与えられた運命のためにこの場所でこうして留まっているように、あなたも《皇帝》の運命に深く関わる人間であるはず」
「……何が言いたい」
「聞きたいとは思わない? 三千年前、《帝国》成立の際に起きた、知られざる悲劇を」
「そのことが……私に関わりがあると?」
「ええ。あるわ。より正確に言うと」
 サライは再び石棺に視線を戻し、囁くような声で告げた。
「あなたの大切な、薔薇の王子様に関わりがあることよ」
「!」
 薔薇の王子、ロゼウス――。
「どういう、ことだ」
「……話を聞けばわかるわ。あなたと彼の、そして、彼のこれからの、彼とあなたの昔の、私と彼の昔の話」
 三千年前、暴虐の大国ゼルアータを打倒し世界を統一したアケロンティス帝国成立の歴史。初代皇帝シェスラート=エヴェルシードは解放軍の党首からなりあがり、やがては世界をその手中に収め王となる。
 普通の人間ならばどこかで志し半ばにして倒れるほどに過酷な事業を成したシェスラート=ローゼンティア、つまりサライがロゼッテと呼んだ人物には、一つの噂がつきまとう。それはただの人間であるはずの彼が、三百年もの時を生きたという伝説だ。事実がどうかはともかく実際に第二代目皇帝の即位は彼が没した帝国三百年目にあたり、現在では選定者によって皇帝に選ばれるとその頭上に冠を頂いている間は不老不死になる。
 だが一方で、帝国が成立するまではそんな事実は一切なかった、神の選定も不老長寿の皇帝も、世界《帝国》が成り立つ前には存在しなかったのだと書き記す文献は多い。恐らくそれは真実なのだろう。
 それでは、一体何が、世界を変えて《皇帝》を作り出した?
「知りたい?」
 美しき巫女が、普通に生きていれば一生知りえることはないようなその真実の一端を目の前でちらつかせて誘う。わかっていながら、シェリダンはそれに乗る。
「知りたい。それが私に、私とロゼウスに関わることならば」
 答えると、サライは何故かこの上なく哀しそうな顔をした。彼女の態度からどちらかと言えば敵意を持たれていると思っていたのに、この表情は確かにシェリダンに向けられたもの。シェリダンを通した誰かではなくシェリダン=エヴェルシードである彼自身を憐れむその不可解な視線に、不快は不思議と感じない。けれど理由がわからないことに不安じみた思いも覚える。
「……なんだ?」
「そう。結局あなたはその道を選ぶのね。三千年前、シェスラートがロゼッテに対してそうしたように」
 何の理由があるのかはわからないが名前が交換されている二人の男のことを口にされて、どちらのことを言っているのかと即座には判別できない。だがどちらであっても、ろくなことではないのだろうということはわかった。
「……こちらへおいでなさい。話してあげる。あなたのこれからの運命を」
 サライに手招きされ、シェリダンは一歩足を踏み出した。
「シェリダン様! あんな得体の知れない女に近づくのは!」
「大丈夫だ」
「でも!」
「大丈夫だ。クルス。何故だかはわからないが、あの女が私を害する事はない」
 彼女の役目はそれではない。サライは夫を、シェスラートを迎えるためだけにいまだ死者となってまでこの世に残っている。
 そして自分が、このシェリダンという一人の人間が、その魂の全てを賭して繋ぎとめる相手は。
 クルスが渋々ながら頷いて道を空けた。シェリダンはサライに誘われるまま短い階段を昇り、祭壇じみたその場所に立つ。石棺が目の前にある。
 その細腕にどんな力が込められているのかあるいはここでは地上の法は通用しないとでもいうのか、サライは重そうな石棺の蓋を滑らせてその中身を彼に見せた。
「――ロゼウス!?」
 中に入っていたのはミイラでも財宝でもなく、一人の美しい少年の死体。腐ることもなくただ眠るように横たえられたその亡骸の顔を見て、シェリダンは思わず声をあげる。
「いいえ。これはシェスラート。これが、シェスラート=ローゼンティア。……でも、彼の魂は、今はここにはないの。とっくに転生してしまっている。この亡骸だって、偽物の作り物よ」
 サライは夫だと呼んだ少年の頬にそっと手を当てた。
 石棺の中の人物は確かに言われてみれば、ロゼウスよりも顔立ちが少し大人びていて精悍な印象を与える。それに、髪が彼よりも短い。だが。それを引いてもなおあまりあるほどに、彼は彼に似ている。
 その彼の頬に少女の細い指先が触れるのを見て、シェリダンは焼け付くような感情を覚える。違う。これはロゼウスじゃない。わかっているのに、とめられなかった。
「教えてあげる。シェリダン王。あなたの、これからの運命を」
 サライはシェリダンのそんな様子に気づいているのかいないのか、ただ平然と顔をあげる。
 そしてシェリダンと視線を合わせて一度躊躇った後、その言葉を告げた。
「シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。あなたはこの一年以内に、《薔薇の皇帝》ロゼウスの運命と関わったことによって、死ぬわ」
 シェリダンは目を瞠る。
 それは、神の託宣だった。


155

 再びその青さを取り戻し空と海の区別のつかない水平線を横目に、船は進む。
 で。
「何故、お前がここにいるんだかな……」
 隣で物珍しそうに海の上を眺めている少女を横目で見遣り、シェリダンは溜め息をついた。サライは船の上で目にするものの何もかもが面白いとでもいうように、海上でイルカが跳ねるたびに瞳を輝かせている。
「おい、サライ」
「うるっさいわね! 何よ、いいところなのに」
「そんな海ばかり眺めていて楽しいものか……というのはおいておいて。貴様、何故ここにいる」
「だって、私はシェスラートを止めなければならないんだもの。いい加減あの人の魂を、ロゼッテから、この世界から、解放してあげたいの。そのためにはあなたにひっついているのが一番の近道なのよ。だって」

「ロゼウスが、そのシェスラートの生まれ変わりだからか?」
 
「……そうよ」
 彼女の言葉の続きを奪い、シェリダンは遺跡の中でサライによって聞かされた事実を口にした。三千年前の時代から残された屍の巫女姫は頷く。
 水色の空に海鳥の翼から抜け落ちた白い羽根が舞う。
 ひらりと足元に落ちてきたそれをなんとなく眺めながら、シェリダンは船の縁にもたれ甲板に顔を向けた状態のまま、サライと話を続ける。
 あの遺跡のことは、まるで夢のようだった。あの場所から出てきた途端、海上を覆う霧は晴れ、船に戻って来た時には遺跡自体がまるで最初から存在しなかったかのように消えていた。
 つい先程までそこにあったはずのものが一瞬でなくなり、振り返るとそこにはただ青い海が広がるだけというあの衝撃を、どう言葉に表せばいいのだろう。戻って来たシェリダンたちとは逆にしっかりとその遺跡のある方向を向いていた海賊の残りのメンバーが一様に度肝を抜かれて目を丸くして青褪めていたことを考えれば、知らない方が身のためかもしれない。
 しかし呪われているという遺跡に足を踏み入れ、石棺に納められていた者のロゼウスにそっくりな顔を見た事は確かに夢ではない。その証拠が、今ここで暢気にかもめと戯れようと無謀な試みをしている美少女だ。
「サライ……貴様、人の話を聞いているか?」
「だから聞いてるってば。それで、だからそのロゼウス王子がどうしたの?」
「ああ、それでだな……」
 ロゼウスの話を聞きたいというからこうして自分がわざわざ見ず知らずのどうでもいい女に説明をしてやっているというのに、サライは真面目に聞く様子がない。一応耳には入っているようだが、片手間という感じだ。
 青い海を眺めつつ、やがてサライがぽつりと言った。
「なんていうか……凄い惚気ね……」
「なんだ?」
「なんでもないわ。別にいいのよ。だってあんたはロゼッテじゃないし、そのロゼウス王子って子は、シェスラートの魂を持ってるけどシェスラートじゃない。私は気にしない。大丈夫大丈夫」
「何を自分に言い聞かせているんだ?」
「だから気にしなくていいって」
 どうもシェリダンとサライでは話が噛み合わないようだ。向こうは三千年の時を遺跡の中で過ごしているというのだから当然かもしれない。
 三千年間も、石棺に眠る相手をただ思って、ひたすらに思って、またまみえる日を願ってただ生きるとはどういう気持ちがするものなのだろう。
「シェスラートの意識がそのロゼウス王子の中で残っていれば、それは王子自身のためにもよくないことよ。シェスラートが彼を乗っ取ってしまう。シェスラートの魂が未練を捨てて解放されればロゼウス王子に身体を返すだろうけれど、でもシェスラートと因縁のあるロゼッテは……」
 サライはちらりと私を見た。
「なんだ?」
「……いいえ。あなたの中のロゼッテは、目覚めるつもりはないようね」
「それは、どういう意味だ。まさか私が……」
 海から視線を離し、くるりと身を翻し私と同じように船べりにもたれたサライはこともなげに告げる。
「ええ。あなたは、ロゼッテ=エヴェルシード。つまりは始皇帝シェスラート=エヴェルシードの生まれ変わりよ」
「何ぃ!?」
 大声を出したために、甲板に出ていた男たちのことごとくがずっこけた。
「な、何かあったんすか!? 坊ちゃん! お嬢さん!」
「いや、なんでもない。作業を続けてくれ」
 海賊たちを船の作業に戻らせ、シェリダンはサライと話を続ける。
「どういうことだ? 始皇帝の生まれ変わりだと?」
「別におかしなことではないでしょ。魂ってのは何度でも生まれ変わるものらしいわよ。それにあなたはロゼッテと同じくエヴェルシード人で、シェスラートは彼にそっくりだというローゼンティアの王子に宿っている。同じ時代に生きた者同士なんだから珍しいことでもないでしょ」
「死んだのは別の時代のはずだが」
「まあ、そういうこともあるってこと。だいたいそれで言ったら、あなたとロゼウス王子もかなり離れた時代に死ぬことになるじゃない」
「――」
 サライの指摘に、シェリダンは思わず言葉を失った。離れた時代に死ぬ。自分とロゼウスが。普通に考えれば確かにそうだ。人間とヴァンピルの寿命は違う。
 身体から力が抜け落ちる。虚脱感が支配する。
「ちょっと。大丈夫? そんなに気にすることないじゃない」
「……いや、気になるだろ、これは」
 のほほんとしたサライの言葉に、シェリダンはよけい脱力を煽られた。ああ、なんだろうこのノリ……誰かに似ているような……あ。
「わかった……お前は、カミラに似ているんだ」
「え?」
「顔立ちが似ているのはミザリー姫だがな。性格がカミラそっくりだ」
 あの異母妹に似ているのか……どうしてすぐに気づかなかったのだろうか。シェリダンはカミラには常に敵意しか持たれていなかったからだろうが、よくよく見てみると野心はあって気が強いのにどこか抜けたところのあるあの妹にそっくりだ。
 あれはあれで抜けたところが可愛らしくもあったが……少し複雑な気分になる。ロゼウス、お前は三千年経っても女の趣味が変わらないのか?
 ロザリーもローラもシェリダンやロゼウスの周りにいる女性は皆気の強い者ばかりだが、二人はまだカミラに比べればしっかりしている。ロザリーは芯の通った性格だし、ローラは賢い。それらに触手が伸びずにカミラが好きだったというのは……。
「ねぇ、ちょっと。何か別の世界に往ってない?」
「あ、ああ。大丈夫だ。それより、先程の話の続きを……」
「ええと、どこまで言ったっけ? ああ。そうそう。ロゼッテの生まれ変わりであるあなたについての話ね。うん。それはまぁ大丈夫よ。だってシェスラートは吸血鬼だったけど、ロゼッテは人間だもの」
「……それは、何か関係あるのか?」
「大有りよ。魔族である吸血鬼は転生後の人格に影響を与えられるほど力が強い者も稀にいる……シェスラートがそうだろうけど。でも人間は一度転生してしまえば、前の生での記憶は全て浄化されて封じられる。次の人生にその前世の性格が影響されるなんてことはほとんどないでしょう。それが例え、ロゼッテほど強い未練と執着を残した人物であっても」
 よほど強い感情を残して絶命した者でもない限りそれが転生後の魂に引き継がれる事はない。生半なことでは、そんな事態にはならないのだと。
「始皇帝の、未練?」
「ええ。彼は、シェスラートとちょっと……その、いろいろとあって」
「そうか……現代でもハデスとデメテル陛下のように、選定者と皇帝の間は複雑なものだしな」
「……そうよ。だから。シェスラートを止めようにもロゼッテはいない。だから、私がなんとかしないと……」
 サライが考えに浸るように黙り込み、そこで話は途切れた。潮風だけが、死した者の肌も生きているシェリダンの頬も撫でていく。
 死してなお恨みを抱え、転生後の肉体を乗っ取るまでする感情とは一体どういったものなのだろう。
 そしてそんな相手を思いやり、数千年間も柩の中の骸を守って死者として生き続ける者、サライの気持ちですらシェリダンには想像がつかない。
 途方もない時の永さのなかで、ただ一人、たった一人、その唯一の相手だけを想って生きる。
 それは、どんな――。
「敵襲だ!」
 シェリダンの物思いは、見張り台の上から告げる男のその声に破られた。
「何!? どこの船だ!」
「詳しくはわからねぇ! だが一直線にこっちに向かって来る!」
 海賊たちはにわかに動きだす。慌ただしくなった甲板の上で、シェリダンはサライの手を引いた。
「お前は船室に隠れていろ」
「問題ないわ。私は解放戦争にも従軍した人間よ。荒事にはこれでも慣れているの。それに、死人だから痛み、感じないの。気にしないで」
「そういう問題ではない!」
 シェリダンの忠告にも耳を貸さず、サライは甲板へと残った。黒い帆を掲げた船が近づいてくる。ある程度まで距離を詰めると、そこから一つの影が、驚くべき跳躍力でこちらの船へと飛び移った。つばのある帽子に隠されているが、その声音は若い女のものだ。背で結ばれた長い白髪。
「全員大人しくしろ! 命までは奪わない! この忠告が聞けない限り、私たちは刃を交えることに―――あれ!?」
 どこかで聞き覚えのある声だ。シェリダンがそう思うと同時に、女が頓狂な叫びを上げて口上をやめた。帽子を取り払って素顔を晒した女の名をシェリダンが呼ぶのと、向こうがシェリダンを呼ぶのは同時だった。
「シェリダン!?」
「ロザリー!?」
 向こうの船に残っている、他のローゼンティア王族たちも続々と姿を見せ始めた。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろ地上に戻らねばならないだろう。ハデスは冥府での養生が終わった後、そう判断した。配下の魔物の屋敷で、用意された服を着る。
「アラクネの織った糸で作られた服だ。そう簡単には破れない」
 掠れたようなぶれたような妙な声を持ち、女の外見と男らしい性格と言う微妙な魔物が、そう言ってその服を差し出した。その場で着替え始めたハデスを、上から下まで舐めるように眺めている。時折わざとらしく唇を舐める仕草をするが、あえて無視した。今日はこいつに関わってやる時間はない。
「よかったな。主、その服なら簡単に切り裂かれたり破られたりしないから簡単に強姦もされないぞ」
「まず第一に言う事がそれか。そして普通に脱がされたら終わりだろ」
 防御力とか魔力の遮断とか炎を遮るとか、いや、この際防水でもなんでもいい。そういう役に立つ力があるならいい。しかしその効果はなんだ。そして意味がない。
「最後に一度くらいヤっていかないか? 我はヴァンピルやワーウルフやセイレーンたちと違ってこの世界でしかこのような人型をとれないのだ。いつもあの姿では飽きるだろう」
「飽きるも何も、もともとお前と好き好んでそういうことをする気はない。契約分はもう差し出したはずだ。いいからさっさと上に運べ」
「なんだ、つまらない。もっとゆっくりしていけばいいものを。冥府に来たのは久しぶりだろ。時間なんて、減るもんじゃないだろうし」
「バリバリ減るわ。しかも、ここ(冥府)と地上じゃ時間の流れが違うだろう! お前たち不死の魔物にとっては時間なんてたいしたことのないものに思えても、僕にとっては大問題なんだよ!」
 冥府での数日は、地上の数ヶ月に匹敵する。ひとっ風呂浴びた時間で、もう帝国の方では何週間経ったことか。早く、早く戻らなくては。全てが終わる前に。
 紫の空が頭上に広がっている。先程まで浸かっていた緑色の湯は暖かかった。モノクロームの花が咲く、歪だけどここはここなりの風情がある世界。
 嫌いなわけではない。知り合いもいない帝国宰相としての重責を押し付けられることもないこの冥府が、心安らぐことも確かだ。だけどハデスは。
「行くな」
 ハデスの焦りを見透かして、更には怒りを煽るかのように魔物はハデスを引き止める。腕をつかまれて動けない。いくら今は人型をとっているとは言っても、目の前の相手は魔物だ。
「行くな、ハデス。もう地上には戻るな」
「何をふざけたことを」
「本心だ。あの世界に戻って、何かお前の益になることはあるというのか?」
「!」
 思わず、言葉が出なかった。
 辛い世界。いつか奪われる明日。道具としてだけ望まれた命。誰かのための人生。そこに自分はいない。
 屍のように生きて、いらなくなったら棄てられる恐怖に常に怯えながら虚勢で自分を守るのか。
「地上に戻ったところで、お前は幸せにはなれないだろう。それどころか」
「うるさい!」
 叫ぶと、目の前の魔物の顔が僅かに歪んだ。
「だから、どうしたって言うんだ! 現状に不満があるならば、この手で変えればいい。辛いからってただ逃げて、逃げて、自分のことから目を逸らして、それで何かがあるっていうのか! 何も片付けずにただこの世界に逃げ込んだところで、そんな生に価値はない!」
 叫んだ言葉に、ハデスはこれまでも充分理解していたはずの自分の本心を知った。逃げ続けることに意味はない。ああ、そうか。
 だから僕はお前が憎いんだ、ロゼウス。現実から逃げて夢の世界に浸る事が許されたお前が。ドラクルの庇護も愛も憎悪も失ったってお前はシェリダンに庇護されて生きて行けるのに、なのに誰かの心を捕らえて離さない。ずるい。僕は……僕は、姉さんに棄てられたらただの厄介者で、生きてはいけないのに。
 縛られているのはどちらだ。
「僕は……生きたい」
「お前は死ぬ」
「!」
 確定された未来を告げるかのような揺らぎない響でもって、魔物は告げた。
「死ぬぞ、ハデス。このままお前が地上に戻れば、一年以内に確実に死ぬ。殺される」
「……お前、まさか未来が」
「ああ。視えるぞ。伊達にこの場所で生きてはいない」
「なんで今まで黙ってた!」
「お前に未来が視えるのに、我までがそれを教える必要があるのか? 知っているものだと思っていたから、我はお前がいつ止めるのだろうとそう思っていた。なのに、止める気配がない。だから今回は言った」
 ハデスはぎり、と唇を噛み締める。《預言者》などという称号の割に、ハデスの未来予知の能力は低い。誰よりも自分でわかっていたことだが、まさかこんな形で突きつけられるなんて。
「それは……僕がロゼウスに負けるということ?」
「当然だ。お前の力では、あれには勝てない。あの薔薇皇帝には。あの狼王もだ」
「……わかっている」
 わかっている。自分ではロゼウスに敵わない。相手にもならない。力を制御している状態のロゼウスにすら、剣の上では勝てなかった。余裕ぶって退散するので精一杯だった。
 ハデスができるのは、見えた未来の通りに状況を導き、それをどこかで変えるだけ。未来は変わると信じて。
「……あの男の運命は変わらない」
「何故そう言い切れる」
「薔薇皇帝は、地上で最強の存在だからだ。あの男を超える存在が現れない限り、そしてあの男が自滅しない限りは、薔薇皇帝の運命に干渉などできないだろう」
「……っ!」
 わかっている。
 ハデスではロゼウスに勝てないし、それはヴィルヘルムも同様だ。ドラクルだってそうだろう。彼には知略や人脈と言う武器があるからそれがどう功を奏するかもわからないけれど、逆に言えば一対一での勝負が怖いからそんな回りくどい手段をとっている。
 わかっている。
 ヴィルヘルムはもうすぐ死ぬ。理由はよくわからない。ハデスのお膳立てなのかあの二人自身に何か問題が起きたのか。少なくともヴィルヘルムの初恋は叶う事はなく、仲間として手を組むことすらなくあの二人は死をもって訣別する。
 そして、いずれはシェリダンも。
 全ての者を巻き込んで死の淵に叩き込む。ロゼウス、お前はその存在そのものが罪なんだ。お前を殺せば、みんなみんなみんな、幸せになれるのに!
 勝手と言われようとも構わない。ハデスはそう思う。
「お前では決して、あの男には勝てない。ハデス――」
「そんなこと、やってみなければわからない! 運命は変えられるかもしれないじゃないか! それともお前には、全ての未来が見えているとでも!?」
「……いいや。我にもお前がやがてあの男のせいで死ぬところまでしか見えない。その未来も、もしかしたら神の気まぐれによって変わるかもしれない」
「だったら!」
 余計な口を出すなと怒鳴りつけ、くるりと背を向ける。
「……魔物のお前にはわからないかもしれないが、人間には、どんなに決意を固めようと、見てみぬ振りして上手く生きようと、決して見逃せず愚かな決断を下してしまう瞬間が、あるんだ。危険だとわかっている運命に、自ら飛び込んでしまう、そんな瞬間が」
「……ああ」
「だから、僕は……何かをせずにはいられないんだ」
 確かに自分の力ではロゼウスには勝てないかもしれない。だが、あの男に後味の悪い最悪の勝利をもたらすことならなんとでもできるだろう。やり方さえ選べばどんなに強い相手にだって傷をつけることはできるはずだ。
 諦めない。諦めきれない願い。
 ロゼウス。お前だけは、なんとしてでも―――。
「……愚かだな、お前は。あんな男のことなど、気にしなければいいだろう。やつのことも、大地皇帝のことも」
「姉さんのことは言うな!」
 これから顔を合わさねばならなくなる姉のことを持ち出され、ハデスは一層怒りを覚える。
「……わかった。我はもう止めぬ。行くが良い、主よ。必要になったら我を呼べ」
「言われなくとも。せいぜいこき使ってやるよ」
 ハデスはその場を後にしようとし、ふと気づいて振り返った。
「そうだ。名前」
「?」
「お前、名前はなんて言うんだ? いざ呼ぼうとしたって、名前を知らないじゃないか」
「……今までだって普通に召喚していただろうが」
「今までは悠長に儀式を行う時間があったからね。でもいざと言うときは、真の名を知らなければ呼びようがないだろ。だから、名前は? 僕がハデス=レーテであるように、お前にも名前はあるはずだ」
「我の名は――」
 魔物はこれまでずっとつかんでいたハデスの手を離して何かを言いかけ、そして何も言わずにやめた。離れたぬくもりに一瞬未練じみたものを感じそうになって、ハデスは慌ててかぶりを振る。
「いい」
「え?」
「我の名など、覚える必要はない。普通に呼べ。頭に思い浮かべろ。我が主の声を聞き間違えるはずがない。だからそれで充分だ」
「……そう?」
「ああ」
「なら」
 ハデスはさして追求もせず。普通に歩き出した。魔物と別れて、冥府の出口へと向かう。魔物の力を借りれば手っ取り早いのに、引きとめようとしたくらいだから無駄だろう。
 歩きながら、ふと感傷的な不安が襲ってきてハデスは服の袖をまくった。彼が彼であるための存在の証、右腕の選定紋章印を確かめる。だが。
「え?」
 紋章が、薄くなっている?
「まさか……まさか、もう」
 選定紋章印は、その皇帝の地位を保証するものだ。それが薄くなってきたと言う事は、皇帝の威勢が衰え始めたことを示す。
「姉さん――――」
 早く、早く戻らねば。あの世界へ。


156

 与えられた部屋に戻り、服を脱いだ。
 あれはロゼウスではない。別人だ。しかしジャスパーたちにとても深く関係のある人物でもある。
「始皇帝シェスラート……」
 本当の、シェスラート。本来皇帝になるべきだったはずの人。
 運命を歪められて、魔道に堕ちた存在。
「ロゼウス兄様の身体を使って、何をしたいのか」
 だが、それについてはあまり心配はしていない。ロゼウスのことだから、あの程度の相手には負けないだろう。最終的には、必ず勝つはずだ。
 だって、ほら。
 服を脱いだ裸の腰を見てみれば、そこにはもう紅く、匂いたつように浮き出た薔薇の紋章。選定紋章印。ジャスパーはうっとりと微笑む。これこそが我が兄の栄光を示す証。
「……ああ、そうか」
 最初の皇帝候補にして初代選定者、シェスラート=ローゼンティア。
 彼の運命を、呪いと共に引き継いだ、愚かで心弱い人間の男、ロゼッテ=エヴェルシード。
 ゼルアータだとかザリュークだとか、ゼルアータの系譜を引く《黒の末裔》だとか、そんなことはどうでもいい。ジャスパーには関係のないことだ。
 ジャスパー=ライマ=ローゼンティアはロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアのためだけに生まれたのだから。
「……あれ?」
 寝台に身を投げ、腰の紋章をするりと撫でながら、ジャスパーは自分で自分の考えたことに首をかしげた。
「なんで僕、そんなことを知っているんだろう……?」
 選定者。皇帝。神聖なる悲劇。予言の巫女姫。偽りの歴史。滅びた国。死神の眠る国。
 薔薇の闇が意識を飲み込んでいく。
 何か、何か黒いものが胸につかえている気がする。それが何なのか、わからない。
「当然だよ」
 答えは意外な場所から来た。
「だって、選定者は皇帝に魂を歪められて誕生する。一番最初の皇帝の誕生が、歪められた歴史そのものだから。同じ過ちを二度繰り返すことは許さない、と。神は、告げた」
 帝政が誕生するまで世界の宗教的権力の一角を担っていた巫女姫サライは、それを正しく受け取った。だからこそ彼女は夫であるシェスラートの死を、回避させることができなかった。
「わかってるだろ? 君ももう。預言者は万能じゃないし、皇帝は限りなく神に近いけれど、神じゃない。世界の在り方は不自然なんだ。その不自然を覆い隠し誤魔化して世界を存続させるために、選定者はその皇帝が即位するのと同時に、あらゆる感情を奪われる。そんなのは、生きているだけの屍と同じだ……ジャスパー王子、君はそんな人生で満足なの?」
 ジャスパーは顔を上げて、その人の顔を見た。
 これまでにも幾度となくジャスパーの前に現れた黒髪の少年。現帝国宰相にして選定者ハデス。
 これまで順調に進んできた帝国の歴史に交じりこんだ、唯一にして最悪の異端者。それでありながらある意味では、ロゼウスにとって一番の僥倖となるべき存在。
 より強い皇帝を作り出すための、踏み台。
「……満足できないのはあなたの方でしょう。大地皇帝の偽物の選定者」
 この人物だけは、ジャスパーに関してとやかく言う資格はないはずだ。
「選定者でもないあなたが、何故僕のことに口を出す? どうせあなたが足掻いたところで、運命は変わらない」
「……変えてみせる。そのための命だ」
「そのため? 違うでしょう。真の選定者でもないあなたがその座にいるこの時代は、ディヴァーナ・トラジェディアのやりなおし。歪められた運命。至高の皇帝。偽りの選定。足掻く周囲の人々。そうして、悲劇は繰り返される」
 世界は最初から間違っていたのかもしれない。けれど間違っていたなりに天秤の均衡を保つために作り出された法が存在していた。
 その法を破り、一石を投じたのは大地皇帝デメテルであり、彼女によって投じられた石である帝国宰相ハデス。
「……傀儡め」
「構わない。僕はそれで。僕は兄様のために生まれてきた」
「神と皇帝の忠実な人形。魂のない人間。そんなものになって嬉しい?」
「嬉しいとか嬉しくないとか、そういう問題じゃないんだ。あなたは?」
「僕?」
「本当に可哀想なのはあなたのほうでしょう? ちゃんとした選定者だったならば、そんな複雑な心、抱かなくてすんだのに」
「……君が、シェリダンと気が合わないわけがよくわかったよ! ジャスパー王子!」
 ハデスはぎりりと唇を噛み締めた。黒髪に黒い瞳の、整ってはいるけれどロゼウスやシェリダンに比べたら地味目な顔立ちが歪む。
「君はもうほとんど魂を乗っ取られかけているんだね。選定者に心などいらない。彼らはただ、皇帝に忠実な奴隷であればいい!」
「そうだね。偽物の選定者。本物の選定者の皮をはいで紋章を移したあなたは、その理からは外れている。だから普通の選定者ならば欠片でも考えるはずのない、自分の皇帝への謀反なんて思いつく」
 それこそが、自分を真に苦しめるのだと知っているくせに、足掻くことをやめられない。
「……ああ、そうだよ。僕は君みたいには決してならない。世界なんて、運命なんて……ロゼウスに殺される運命なんて、変えてやる!」
 憐れな人。
 ジャスパーは口に出さずにそう思った。
「ジャスパー王子。君はこれからどうする?」
「どうもしない。……時はもう少しで満ちる。薔薇の皇帝は目覚める。誰にも止められない。あなたにも」
「そうだね。でも、そうすると、君の大事な『ロゼウス』兄様は消えることになるよ」
 その言葉に、凍りついたはずの心の中が少しだけ疼いた。
「……何」
「だって、そういう運命だもん。君は神の傀儡かもしれないけど、預言者じゃない。だから、僕よりもさらに正確な未来は見えていないんだろう。君は、ロゼウスが何を経て皇帝になるか知らないんだ。この時代が、《神聖なる悲劇》のやりなおしということまで知っているくせに」
「……どういう意味?」
「さぁ? 自分で考えれば」
 それだけ言い捨てると、ハデスは来た時と同じく唐突に姿を消した。
 ジャスパーは一人部屋に取り残されて、ゆらゆらと心の内側から込み上げてくるものに意識を任せる。
 寂しい小さな部屋の奥で泣いている誰かの声を聞いた気もするけれど、何もかもがどうでもよかった。

 ◆◆◆◆◆

 最近のエヴェルシードは騒がしい。
「卿、これから登城ですか?」
「おお。大臣殿。そうです、そうです」
「よろしければご一緒させてもらえませぬか? 徒然の道のり、話したいこともありますしね」
 舗装された道を馬車は行き、「偶然」道で出会った者たちを揺らす。がたがたと石畳を回る車輪の音で、会話は外には漏れ聞こえない。御者は口の堅い物静かな男で、金さえもらえれば仕事はきっちりやるというタイプだった。
 余人の聞き耳のない馬車の中で、密談は交わされる。とは言ってもそうたいした内容ではなくちょっとした噂話のようなものだ。少なくとも男たち二人はそう思っていた。
「さて、聞きましたかな。カミラ陛下のこと」
「ああ。最近軍部の方によく顔を出されているという」
「シェリダン陛下が軍部の方で支持をもらっていた方でしたからね。カミラ陛下につくこと、貴族側は異論なくとも、お兄君を指示していた軍の連中としては、あんな小娘が玉座に着くことなど認められないのでしょう。陛下は陛下で、自分に従わない軍の男どものご機嫌取りをしているんでしょう」
「ですがそのカミラ姫様は、どこからか魔性の力を得てとてつもない強さを手に入れたのではなかったでしょうか?」
 男の一人がそう言えば、もう一人が記憶を辿りつつ答えた。
「そういえば、貴公はあの御前試合を見ていなかったのでしたね。死んだと思われていたカミラ姫が突然会場に現れ、あの殺戮の魔性と呼ばれたバートリ公爵に深手を負わせて逃げた上に一時は王妃様までもが攫われたという噂が立っていましたが。私の見たところでも、確かにカミラ姫はバートリ公爵に傷を負わせていました」
「噂も何も、事実という話ではなかったでしょうか。王妃様との関係で、あの頃のシェリダン様が荒れていたという話も。どうもジョナス王陛下が崩御なさってから、この国は落ち着きませんな」
「ええ。宰相のバイロン=ワラキアスは気にせずに政務に励めなどと言っておるが、どこまで奴を信用してもよいものか。ジョナス王陛下が崩御してここ最近、その息子といい娘といい未熟な王に仕える我らの身にもなってもらいたいものだ」
「所詮ワラキアスは平民上がりの宰相ですよ。いざと言うときの意見など通るまい。それより、今はカミラ姫の軍部通いの方ですよ」
「ああ。あれは、放っておいても良いでしょう。あの姫君は、我らが恭順を示していると見ていい気になっておるのですよ。だからこそ、次は軍部の連中のご機嫌取りをして自らの政権を安定させたいなどと考えているのでしょう」
「全く、女は余計なことをせず、黙って貴族の家の一つにでも嫁げば良いのだ」
 男尊女卑国家であるエヴェルシードでは、女王カミラは歓迎されない。それを如実に表した台詞に、しかしもう一人は嫌悪を示すでもなく、当然のように頷く。
「忌々しいミナハーク=ウェスト王妃の外戚勢力がこれで遠ざかったと思ったのに、今回死んだはずのカミラ姫が生き返ったことでまた五月蝿くなってきました」
「ええ。ですが、所詮平民の母を持つシェリダン王には外戚らしい外戚権力など存在していませんでしたからね。後ろ盾となっていたはずのイスカリオットが裏切り、バートリは沈黙している。ユージーンは侯爵当主の若僧が姿を消したとかであの家も今はもめているでしょう」
「何しろ、武力で成り上がったクロノス=ユージーンにとっては一人息子でしたからな。クロノスの年齢を考えればもう一度当主に返り咲くこともできるでしょうが、そのためにはカミラ姫の信頼を得ねばならぬと考えれば、あの家はもう取り潰しで確定でしょう」
「今は保留されているようですが」
「シェリダン王に取り入り、他の権力と付き合いをしなかったツケが今回回ってきたということでしょう。我らのような本物の貴族と張り合うには、成り上がり者には荷が重すぎたのですよ」
「おやおや……」
 馬車の中で向かい合った二人の男は、暗い噂話にひとしきり笑う。
「さて、そのシェリダン王ですが、確か突然国を棄て出奔したという話でしたな。イスカリオット伯の挙兵に関しては、カミラ姫側が幾つも情報操作をしているせいで事態がわかりにくくなっていますね。その後、新体制のもとで権力を握るならまだしも数度カミラ姫と謁見した後イスカリオットもまたバートリと同じく沈黙していますし」
「私の方では、シェリダン王はイスカリオット伯が兵を持って王城に攻め込んだ際に殺されたと聞きましたが。しかし、その後バートリ公爵がイスカリオットに向かったという話も。あの女傑は一応シェリダン王派ではあっても、元来が気まぐれな気性のため何を企んでいるのかわかりづらい」
 エヴェルシード国内のさまざまな情勢に思考を馳せながら、そして男たちは一段と声を潜めた。
「……とまれかくまれ、シェリダン王が今王城にいないことは明らかなのですよね。謀反のために逃出したか、あるいは国を棄てて王妃と駆け落ちしたという噂が事実か。何にせよ、彼が生きていたとしたら、貴公はどう出ます?」
「私ですか?」
「ええ。そうですね……」
 馬車は、彼らと彼らの主カミラの陰謀渦巻く王宮へとゆっくりと進んでいた。


157

 王としての執務は、最近何かと放り出しがちだ。突然現れては消えたハデスのことや、ロゼウスの弟王子だというジャスパーの登場に、さすがにセルヴォルファス城内は小さな混乱に見舞われている。その場その場で揉め事を収め、ヴィルヘルムは小難しい事はもう大臣たちに任せきって部屋に閉じこもっていた。
 あの日以来人が変わったようなロゼウスは、以前の様子とは打って変わってヴィルヘルムに優しくしてくれる。優しくしてくれるから、ついつい甘えたくなる。身体を重ねたり、口づけをもらったり、ただ柔らかに髪を撫でてもらったり、こちらが求めなくても与えられる、些細な甘い仕草に酔いしれた。
 桃色のふわふわとした雲の上を歩いているような幸せな心地。動く気もここから離れる気もしない。日がな一日ロゼウスにくっついていれば、今の彼はヴィルヘルムが言い出す前から望む反応を与えてくれる。一緒の寝台で眠り、ふと人恋しくて目覚めた夜中にはそっと手を握ってくれた。
 今も昼間から私室に篭もり、ヴィルヘルムは彼の膝で甘えている。獣型はそんなに体重がないから、相手の負担にもなりにくいだろうというだけでなく、ただ単にヴィルヘルムがその方が楽だからそうしただけだった。
 こうしていると、昔を思い出す。
「いい子だね。ヴィル」
 白い手が伸びて、優しく頭を撫でてくれた。狼の姿に戻っている薄茶色の毛並みを手で梳かすように何度も何度も撫でる。優しい兄の手のように。
 わぉん、と小さく泣いて、その胸に顔を寄せた。小さな犬ほどの姿になったからか、ロゼウスは軽々とヴィルヘルムを抱き上げてあやす。耳を触られて、くすぐったいような暖かいような感触に笑いたくなる。ロゼウスの服の胸元に鼻面を擦り付ける。すい、と猫を相手にするように、ロゼウスはヴィルヘルムの顎の下に手を当ててくすぐった。
 爪を隠して足を彼の肩にかけ、その肩口に顔を埋める。長椅子に腰掛けながら、子供を抱きかかえるようにヴィルヘルムを抱きかかえたロゼウスが、頬をその毛並みに触れさせる。
 心地よい人肌。心地よい抱かれ方。心地よい、毛並みを撫でてくれる手。
 ゆっくりと眠気が襲う。あまりにも暖かくて幸せで、このまま眠ってしまいたくなる。
「おやすみ、ヴィル」
 それを見越したように、ロゼウスが言った。眠ってもいいよ。ここにいるから。こうして抱いていてくれるから、と。そう保証する声音に、安心して身を任せる。
「……ま」
「んー?」
「にいさま……」
 ぴくり、と一瞬だけ動きを止めたロゼウスが、再びヴィルヘルムを抱きかかえる手に力を込めたのを、眠りに落ちる前に感じる。
「にいさま……ロゼウス……」
 まるっきり赤子をあやす仕草で、ロゼウスがぽんぽんと軽く背中を叩いてくる。うつらうつらとしたヴィルヘルムの意識は、もうすでに安らかな眠りへと導かれるところだった。
「おやすみ。ヴィルヘルム。せめて夢の中でくらい、幸せに」
 ふわふわと、柔らかな雲を踏む。
 ふわふわと、幸せな夢の上に立つ。
 そこに滑り落ちる間際に聞いた、どこか哀しげで切なげな言葉の意味は夢に落ちた瞬間消えてしまった。けれど、しっかりとこの身を抱く腕の感触だけは忘れない。
 夢を見る。
 優しい夢を見る。
 優しくて、哀しい夢を見る。
 まだ兄たちが生きていた頃の夢。年下であるのをいいことにさんざん甘えて甘えさせられて可愛がってもらって。
 どの兄たちも優しかった。わがままを聞いてくれた。
 遊びつかれて変な場所で寝入ってしまった自分を、何度兄たちが抱いて部屋へ戻してくれたかわからない。彼らに軽々と抱き起こしてもらうために、わざと理由もなく狼姿になっていた気がする。この姿の方が小さくて軽くて柔らかくて抱き上げやすいし向こうも撫でていて心地が良いのだと聞いて、だからヴィルヘルムは獣型で辺りをうろついては兄たちに構われていた。
 幸せだ。幸せだった。
 もう二度と手に入らない。
 荒野に立つ岩壁を削った居城であるセルヴォルファスの城はたくさんの王子がいて家臣がいて。だから明るくて幸せだったのに、どうして今はこんなことになってしまっているのだろう。本来殺風景な城はそこに笑顔の火を灯す人々を失って、我侭ばかり言うことしかできなくなったヴィルヘルムとそれに疲れ呆れた顔をした大臣や召し使いだけが歩くようになった。かつてのような光は、もう戻らない。
 どうにかこの状況を打開したくて、まだ何をすればいいのかもわからない国王の権利に戸惑っているとき、ヴィルヘルムが出会ったのはドラクル。
 同じ魔族の国としてローゼンティアからの親善大使という名目でやってきた後ろ暗い第一王子は、ヴィルヘルムにいろいろなことを教えてくれた。良いことも、悪いことも。
 ハデスもそうだが、彼も大概性格が悪い。表向きは穏やかな表情を浮かべていても、腹の中では何を考えているのかわからない二人だった。だけど第二十六王子からいきなり国王にされたヴィルヘルムのことを家臣である大臣たちも持て余していたから、ヴィルヘルムはセルヴォルファスの中には素直に頼れるような相手もいなくて、必然的にドラクルやハデス、そして彼らと親交のある不良仲間と一緒にいるようになった。
 神出鬼没のハデスを仲介に、書簡のやりとりを交わす日々。ある日、ローゼンティアのドラクルから誘いが来た。うちの国に来ないか? と。二つ返事で引き受け、向かった先で引き合わされたのは自分とそう変わらない年齢の一人の美しい少年。
 ドラクルは大概性格が悪い。
 良いことも教えてくれた。悪いことも。機嫌が悪いと八つ当たりされることもあったし、ヴィルヘルムは年齢差や帝王学についてドラクルの助言を多く受け取る身だったから、いくらローゼンティア王子とセルヴォルファス王と言えど、対等ではない。今でこそドラクルの手を借りずとも自国の状態の判断は自分でつける(それが正しいか間違っているかは別として)ようになったけれど、昔はドラクルやハデスに頼りっぱなしだった。
 子どもだったヴィルヘルムから見ればすでに青年の息に入っていたドラクルや年齢を感じさせないハデスはとても大人に見えて、口答えなんて基本的に思い浮かばなかった。思い返してみれば、随分酷いこともされたのだと思う。
 だが、彼らを恨むことはない。心のどこかではあれやこれやと傷ついたり責めたい気持ちはやはりあるのだろうが、それにも増して僥倖と言える出会いが、彼らのおかげであったから。
 ――泣かないで。

 忘れない。

 ――泣かないで。狼さん。泣かないで……

 自分を抱きしめて撫でる白い手。暖かいことは暖かいけれど、普通の人間よりは少し低い体温。さらりと落ちた白い髪。甘い声。
「ロゼウス……」
 獣の口では不明瞭になりがちな発音。だけれど眠る間際に、やはり意識のそこからふわりと浮き上がってきたのはただ一つのその名前で。
「お休み。ヴィル。……お前はもう、何も心配しなくていいんだよ」
 瞼に一つずつ唇を落とし、最後に額を掠めていった口づけ。まるきり幼子をあやす調子のそれに、しかし不快感は覚えなかった。
 ゆっくりと抱きかかえられた身体は長椅子から寝台に移され、敷布の上で丸くなって眠る背中を、その手は撫でる。夢の中でもその暖かさを感じていた。あの日以来一度も忘れた事はなく、焦がれ続けた温もりがここにある。
 だから、俺は……だから。
 傍らでまだ起きているロゼウスに伝えたい言葉があるのに、もう眠りに沈んでしまった身体は言う事を聞いてくれない。暖かい手に撫でられて、柔らかい寝台へと抱き映されて、きちんと干された敷布からはお日様の匂いがしてふわふわで、隣には確かな気配がある。
 なのに、言葉が出てこない。意識の最後の最後の一欠けらだけが起きているこの状態ではそれを伝えられない。
 ふと意識を向けると、ロゼウスが自分を見ているのがわかった。視線に顔を上げたいけれどそれすらもできない。ただ、熱のない静かな眼差しを受けとめる。
 彼も俺に何か言いたいことがあるんだろうか。
 だったらちょうどいい。俺もずっとずっと、本当の本当に彼に言いたいことがあったのだから。
 背中を撫でてくる手は優しくて心地よくて思わず涙が浮かびそうになる。どういう事情かはわからないけれど、ヴィルヘルムは今確かに欲しいものを手にしている。ずっと欲しかった、ロゼウスからの慈しみを。
 ねぇ、聞いて。
 目が覚めたら、今度こそまっすぐに、ちゃんと素直な気持ちで、伝えたい事があるんだ。

 ◆◆◆◆◆

 その国は、薔薇の闇の奥深く。

「東方は?」
「このアウグスト=カルデールに」
 かしこまっている分にはかまわないが、相好を崩せば見る者に少し軽薄な印象を与える甘い顔立ちの青年が胸に手を当てて頭を下げた。黒い絨毯に跪き、臣下の礼を取る。
「西方は?」
「わたくし、ジェイド=クレイヴァが参ります」
 白銀の髪を美しく結い上げて、薄い化粧を施した女が同じように膝を着く。
「北は?」
「フォレット=カラーシュが参りましょう」
 体格のよい精悍な顔立ちの男がすぐさま答え。
「南」
「ダリア=ラナにお任せください」
 後の三人より少し若い女が一人、頬を薔薇色に染めて答えた。その瞳はすでに殺戮の期待に輝く。
「そして王城は私、新王ドラクル=ヴラディスラフ……いや、ドラクル=ローゼンティアが守りを固めれば完璧と言う事か」
 玉座にて、跪く四人の部下を前にしてドラクルはこの国の守りを決定した。これからのことを考えれば、国土の四方の守備は強化しておくべきだろう。ドラクルが行ったのと同じように、隣国の勢力を利用して攻め込むなどということを向こうにされては仕方ない。
 カツン、と長靴を鳴らして玉座から下座を見下ろすための段差を降りると、この国がドラクルのものになる前からの部下たちはいっせいに顔を上げた。
「ご立派です。ドラクル様」
 カラーシュ伯フォレットが子どもの晴れ姿を見る父親のように笑みを浮かべた。クレイヴァ公爵ジェイドが冷静な面差しのまま控えめに賛同の意を示し、カルデール公爵アウグストは女たらしと言われる甘い顔立ちをにやりと歪め笑って見せた。ラナ子爵ダリアも今にも飛びついてきそうな満面の笑みで褒めてくれる。
「とっても素敵ですよ、ドラクル王子。いいえ、ドラクル陛下」
「ありがとう。ダリア」
 彼女に答え、ドラクルは四人の顔を順繰りに見回しながら腕を組んだ。
「さて、ここまでは全てが順調に行きましたね。殿下」
 アウグストがそう切り出す。事務的な話が一度終われば、これからは雑談を装ってそれぞれの動向や思考を密やかに探りあう時間。
 ドラクルは祖国ローゼンティアの簒奪に成功し、国内での権力を無事に手に入れた。エヴェルシードに侵略され占領されていた間は多少混乱状態にあった国内を、適度に治める。
 ルースやヘンリー、アンと言った兄妹は傍にいるが、ドラクルに従うことを良しとしなかった第二王子アンリを始めとする兄妹の幾人かは、まだ行方知れずのままである。エヴェルシードでシアンスレイト王城を襲撃しカミラの即位の手助けをしたイスカリオット伯爵からも、逃げられたという以上の情報はない。彼らの動向も、気にしなければならない問題ではある。
「順調すぎて、逆にこれから先向こうがどう出るのか気になるがな」
「向こうと言うと、エヴェルシードの姫やハデス卿……ではないですね。ロゼウス様ですか」
「ああ」
「あの方は、セルヴォルファスにいるのでは?」
「ヴィルの力ではロゼウスをそう抑えておくことはできないよ。それに、ハデス卿から不吉な予言を聞いてもしまったことだしね」
「そうですか……」
「だから、ロゼウスは近いうちに必ず、セルヴォルファスを抜け出すはずだ。ハデスを倒して、ね……」
 ドラクルは瞼の裏に、自分に良く似ていると言われる弟の顔を思い浮かべる。薔薇の美貌を持つ少年は、ドラクルの前では泣き顔ばかり見せていて、もうそんな記憶しかすぐには思い浮かばない。
「ですが、陛下」
「なんだ、ジェイド」
「ロゼウス様は本当に、このローゼンティアに来るのでしょうか?」
「どういう意味だ?」
 女公爵のクレイヴァが、少しだけ困ったように眉を下げながら伝えてきた。
「……あの方は、深いところでは玉座などどうでもいいと思っているのではないかと考えます。陛下、人は自分を基準に物事考えます。金が欲しい者は他人も金を求めているのだと、権力を求める者は他者もそうだと。ですが、ロゼウス様は本当に玉座を望んでいるのでしょうか?」
「……っ」
 ジェイドの言葉に、ドラクルは色を失う。
 ロゼウスが、この国の玉座に興味がないだと? 比喩でも何事かの謎かけでもなく、本当に?
 ロゼウスを育てたのはドラクルだ。だからロゼウスの性格はドラクルの影響を多大に受けているはず。だがわかってもいる。自分とロゼウスは別の存在だ。
 だけど、そんなことがあってたまるか。この自分が執着するローゼンティア王位を、この国の玉座を、奪い合う相手であるはずのロゼウスが最初からどうでもいいだなんて。
 そんなことは絶対に認められない。
 自分一人だけがロゼウスの存在にこんなにもこだわり、ロゼウスの方では自分のことはどうでもいいだなんて。
 私の墓標として生まれた弟王子は私のことをなんとも思っていないなんて!
「来るさ」
 そんなはずはない。あれだけ虐げ傷つけ、ロゼウスは私を憎んでいるはずだ。ドラクルはそう思う。
 そしてもっともっと、この私を憎めばいい。激しい憎しみで息がつまり、魂が引き裂かれるまで。
「ドラクル様」
「ロゼウスにとっても、この国は特別。何しろ故郷だからね。この地に生きる民たちや他の兄妹の願望の、全てを無視するような子でもないだろう」
「……そうですか。申し訳ありません。さしでがましいことを申しました」
「いや、いい。下がれ。アウグスト、フォレット、ダリア、お前たちもだ」
「御意」
 ジェイドも、アウグストたち他の貴族も全て返してドラクルは部屋に一人になる。玉座のある謁見の間はローゼンティアでも他のどこの城の例に漏れず広い。
「……来い。ロゼウス。今度こそ、我々の宿命に決着をつける時だ」
 私が憎んだように、お前も私を憎め。
「お前にとって、一番重要な存在はこの私だろう」
 その憎しみの全てを持って生きる相手は。
「それはどうかしらね」
 声に出してはいなかった独白に、相槌が返ってきたのはその時だった。
「……デメテル陛下」
 長い黒髪に、黒い瞳。美人だがその顔立ちは派手ではなく、鮮やかな化粧さえなければもっと落ち着いた印象を与えるだろう、この時代この帝国の最高位に君臨する存在。
 しかし今日は様子が違う。
「どうされたのです? そのお姿は。なんだか、いつもより……若く見えますが」
「あら、失礼ね。ドラクル大公。私はいつでも若いわよ」
「……そうですね」
「冗談よ。一応、この姿を見せておこうと思って」
 答えるデメテルの様子は、ドラクルが指摘したとおり確かに若く、いや、幼くなっていた。
 もともと彼女は十八歳で皇帝となり、肉体の年齢をその時点で止めた人物だ。だから、本人が言うとおりもともと若い。顔立ちが大人びているので二十歳過ぎにも見えていたが、十八歳の面差しをしている。
 けれど今現在ドラクルの目の前にいる大地皇帝デメテルは、どう見ても十五歳以下だった。顔立ちも、どことなく違う。限りなく似ているが、どこかに差異がある。
「一体どうなさったのです?」
「んー、いや、私、そのうちちょっとこういう姿で現れることになるから、間違えられても困るかなーって」
「別にあなたがどういった姿で現れようと、今更驚く者もいないと思いますが」
「そうねぇ。いらない心配だったみたい。でも、一応、ね」
「はぁ……それで、それはどういう意味があるのですか? この姿で現れる、ということは。何か若返るあてでもあると」
「いやねぇ。ドラクル大公。そう何度も若返るを連呼しないでよ。まるで普段の私が老けてるみたいじゃない。人に聞かれたら大変よ? どれだけ普段は若作りしているのかって」
「どうせここには私とあなたしかいないのですから、言い方などどうでもいいじゃありませんか。それより、はぐらかさないでください。あなたがその姿になることには、一体どういう意味があるのです?」
 ひらりひらりと花の間を飛び交う蝶のような軽やかさで人の追及を煙に巻こうとする姿勢に誤魔化されず、ドラクルはなおもその同じことについて問いを重ねた。皇帝デメテルの、普段は紅のせいで紅い唇が今日は珊瑚の色をしている。その珊瑚が吊り上る。
「そうよ。この格好には意味があるの。私は近いうちに、この姿になるわ。でも、それは誰にも止めることはできないでしょうし。私も、あえて好きにやらせる」
「あなたがそう仰ると言う事は、ハデス卿ですか」
 彼女の、この世界帝国最高権力者である彼女が最も大事にしている弟閣下の名を出すと、デメテルの笑みが一段と深くなり、そして翳りを帯びた。
「……私はあの子のためにも、どうしてもロゼウス王子をこの世にのさばらせて置くわけにはいかないの」
「……どういう意味です?」
 この皇帝陛下も変わった方だ。大地皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。
 強大な魔力と異端の文化を持っていた移民、後に大国ゼルアータを成立させ、暴虐の限りを尽くして呆気なくザリューク人に打ち倒された《黒の末裔》。その生き残り。
 まさか帝国が成立する前に栄華を極め、そのままであればこの世界に帝政が打ち立つこともなかっただろうその鍵となった民族から、皇帝が生まれる。滅ぼされた民族から王が生まれ、滅ぼした人々を治める。これはなんという皮肉だろう。
 これまでの歴史上例を見ないほどに強い力を持つ皇帝。最強の帝、デメテル=レーテ。
 彼女が何を考えているかは、恐らく誰にもわからない。ハデスと共謀するドラクルに、何故そのハデスから疎まれ、死を願われているデメテル陛下が近づいてきたのか。
「さぁ、どういうことだと思う?」
 この方は私の敵か。
 それとも味方か。
 いや、むしろ……。
「私には、あなたがハデス卿のために何かをしようとしている、ようには微妙に見えませんね。そうでしたら、ハデス卿がもっとあなたの動向に気づいてもいいはず」
「ええ。そうでしょうね」
「だいたい、ハデス卿がもとから関わってこなければロゼウスとの繋がりなど存在しなかったのですよ。何故、ロゼウスの行動を阻むのが、ハデス卿のためになるのです?」
「それは仕方ないわよ。運命がそう決まってしまっているのだもの」
「運命、ね。実に使い勝手の良い言葉ですね。幸も不幸も何もかもそのせいに、そのおかげにしてしまえる。そこまでに積まれた己のあらゆる行動の結果を無視して」
 良いことも悪いことも、全ては積み重ねだ。生きる人々の一瞬一瞬の選択の積み重ねが未来を作るのだ。
 血塗られた手で勝ち取った玉座に座りながら、ドラクルはここまで来るのに屠った命の数々を思う。それを、誰かのせいになどしない。
 私は酷い男で、酷い王でいい。
「でも確かに、人の力ではどうしようもないことは多いでしょう。皇帝なんて言われたって、案外に無力なものなのよ」
「おやおや。この世界で最強の力を持つお方がそのように仰られては、我々凡人にできることなど最初からたかが知れている、と言われているようにもとれますね」
「そう? そんな気はないわよ。だって私には確かに無理なことは多くても、私より強い力を持つ者には、できることはたくさんあるわけだしね」
「あなたより強い力を持つ? そんな人間、今のこの時代にいるわけがない」
 皇帝とは、世界最強の力を持つ者の名。そしてデメテル=レーテ陛下は、これまでの歴史上でも類を見ない強大な力を持つ皇帝だ。彼女より強い力を持つ存在など、いるはずがない。
 しかしドラクルがそう言うと、デメテルが先程とはまた種類の違う笑みを浮かべた。
 その笑顔が、まるで「お前は何も知らない」と言われているようで、ドラクルには少し不快だ。
「……どちらにしろ、あなたは私にあなたの目的をお話してくださることはないようだ。ハデス卿とロゼウスの関わりなどと、意味ありげなことを仄めかしながら」
「うふふふ。悔しかったら、当ててみなさいな。ドラクル大公。人一人の思惑すら読めなくて、王だなんて、名乗れないとは思わない?」
「そうですね」
 皇帝の言葉の一つ一つがドラクルの気に障る。しかも、この人物は肝心な事は何一つ答えてくれないときている。
「御自分のためですか? 陛下」
「あら、それは……」
「ハデス卿のためだなどと、嘘でしょう。あなたはあなたがただ望むままに、私もロゼウスもハデス卿自身をも利用して、何かをしようとしている」
 ドラクルがそう指摘すると、少しばかりデメテルが意表を衝かれたような顔をした。
「そうね。そうよ。その通りだわ。当たり前じゃない。自分の幸せのために動いて、何が悪いのかしら。でもそれが、ハデスのためでもあるのは本当よ」
「どうして」
「私は、あの子を愛しているから」
 そして獲物の蝶を捕食する蜘蛛の笑みで、女は紅変わりの陰をはいて笑う。
「陛下。失礼ですが、あなたの愛情は弟君にはさっぱり伝わっていないようですが」
「あらあら。つれないわねぇ。あの子も反抗期だし。あなたまでそんな口聞いて」
「ではこれからは、あなたに素直な弟人格でも演じてみせましょうか。ハデス卿と違って」
 この人物はドラクルにとっては敵でも味方でもないし、その時の状況次第によって簡単に裏切るだろうし、逆にどこで手を貸してくれるかもわからない。
 信じきってはいけないし、だからと言ってその力が借りられるのならば、振り払うにはあまりにも惜しい手だ。
 だが困るのは、彼女の弟にあたるハデスはデメテルを打倒して自らが皇位につかんという目的がわかりやすいのに対して、弟に命を狙われている彼女自身は何を考えているのかわからないということ。皇帝が動くのは自分のためというのは間違いないだろうが、それがハデスのためにもなるとはどういうことだろう。
 他の人間にしてもそうだ。ハデスだけでなく、正当なる王家を裏切って自分についているカルデールや、ブラムス王殺害の際に利用させてもらったシェリダン王、その妹にして彼を追い落とすことを企んだカミラ姫、シェリダン王自身を手に入れることを望んだイスカリオット伯、ロゼウスに好意を持っているヴィヘルム王などはその目的がわかりやすかったのに、デメテルの考えはドラクルには読めない。わからない。何を考え、何を望んでいるのか。
 いや、他に一人だけ――。
 ――兄様。
 自分と同じ、紅い色の瞳が脳裏を過ぎる。
 ――愛しています、兄様。
 ――ロゼウス様は本当に、このローゼンティアに来るのでしょうか?
 先程の話で、ジェイドが口にした言葉が蘇る。
 ――……あの方は、深いところでは玉座などどうでもいいと思っているのではないかと考えます。陛下、人は自分を基準に物事考えます。金が欲しい者は他人も金を求めているのだと、権力を求める者は他者もそうだと。ですが、ロゼウス様は本当に玉座を望んでいるのでしょうか?
 わからない。読めない。エヴェルシードで対面したときのロゼウスの、全てを知ってそれでもなお王位を譲ろうとする発言は、ドラクルには理解できなかった。どうして目の前の女と、あのロゼウスのそんなところが重なる。
 ロゼウスを育てたのは自分だ。だからロゼウスのことを一番よく知っているのは自分のはずだ。そのロゼウスが自分に理解できない存在になるなどと、そんなのは許せない。
 だからあれを手元に置き、閉じ込めるためならば何でも利用して、何でもやってやる。
「まぁ、あなたと弟君の確執のことなど、私にはどうでもいいのですが」
「そうでしょうね。あなたもロゼウス王子という、自分の弟との確執でいっぱいいっぱいだものね」
「あれは、私の弟ではありません。しいて関係性をあげるなら従兄弟です」
「でも、弟だと思っているでしょう?」
 相変わらず人形のように、種類は違えども笑みというその表情は変えずにデメテルが言った。
「十七年間ずっと、弟だと思って生きてきたのでしょう?」
 私は、ロゼウスを。
「そんなことはありませんよ」
「そう」
「ええ。それで、用件はそれで終わりですか? 陛下。その姿を見せにきて、それで」
「ええ。まあ……ああ、そうだ。一つ、大切なことを忘れるところだったわ」
 とっとと話を終わらせてしまおうとしたドラクルに、デメテルは何事か思い出したように口を開く。記憶の中を探るように、口元に白い指を当てた。
「ええと……そうね。これとこれはあなたに言ってもしょうがないことで……そうだわ」
 そうして世界の命運をその手に握る皇帝は、また一つ、流れる星のように儚い一つの命の終わりを告げた。
「あなたのお友達のセルヴォルファス王。ヴィルヘルムとか言ったかしら。あの子、もうすぐ死ぬわよ」
 ドラクルは弾かれたように顔を上げた。