146

「おやまぁ……」
 ドラクルの様子を見て、アンが溜め息をつく。その直前までぽかん、と大きく口を開いていたものだから、せっかくの美人も台無しだ。
「そりゃあ、無様なことになったのう。ドラクル」
「それはどうも。だというのなら、君の乱暴な弟を何とかしてくれ、アン」
「ジャスパーかえ? しかしあの子、そなたを刺してまで一体どこにいったんじゃろうか」
「恐らく、セルヴォルファスへ」
 ドラクルを刺して屋敷を抜け出した下から二番目の弟は、姉にも兄にも何も告げずに姿を消した。血の匂いで事態を知ってここまで駆けつけたアン、ヘンリー、メアリーの三人が、その行動を聞いて目を丸くしている。
 恐らくジャスパーはロゼウスを取り戻しに北の王国セルヴォルファスへと向かったのだろう。兄妹の中でも、繊細の仮面を被っていたルースと違って本当に大人しかったはずのあの子が一体どうしてそんな風に豹変したのかはわからない。わからないが、何にせよジャスパーがロゼウスに執着しているのは真実で、彼を取り戻すためならばどんな行動もどんな犠牲も厭わないというのはわかる。
「あの……ドラクル兄様、大丈夫ですか……?」
「問題ないよメアリー」
 ドラクルに賛成する事は決してないくせに、それでもお人よしのメアリーが尋ねてくる。心配せずとも、ヴァンピルの再生能力で傷はもうほとんど塞がれている。血で濡れた服は着替えねばならないが、人間にしても重傷ぐらいで即死の傷ではない。たいした負傷ではなかった。
「……ドラクル兄上。最近のジャスパーは、変じゃないですか?」
「ああ。そうだな」
「ヘンリー、君は心当たりがあるのかい?」
 六つほど年下の弟にドラクルが問いかければ、ヘンリーは渋い顔をした。ドラクルより六つ年下でジャスパーの七歳年上。ちょうど中間に立つこの弟ならば、何かを知っているかもしれない。
「心当たり、というほどでもないのですが……」
「なんだい?」
「ジャスパーの腰に、私の知らない痣がありました」
「痣?」
「ええ」
 ヘンリーは自ら志願してこの数週間をジャスパーと同じ部屋で寝ていた。昼間は彼にも役目を割り振っているので出かけていることが多いが、夜は態度の不信な弟を監視しながら眠りにつく。着替えも一緒なので、当然裸を見る機械もあるという。
「このぐらいの大きさで、紅い……はじめは怪我でもしたのかと思ったのです。まるで鬱血痕のような、鮮やかな紅い痣でした。けれど、よく見ると違うのです。確かに変わった痣ですが、刺青と言うわけでもなく、ただ浮き出ているような……思わずそれはどうしたのか痛みはないのかと問いかけましたが、ジャスパーは何も答えず……」
 顔をしかめるヘンリーの言葉を聞きながら、ドラクルはそれによく似た、別のものを思い出していた。
「痣……」
 あれはいつ見たものだったか。
 ――なんです? これは。
 暗闇の中、服を脱いだ白い右腕に大きな紋様が描かれている。指先でその紋様を辿ると、相手は露骨に嫌な顔をした。
 ――これはね、呪いなんだよ。
 自ら誘ってきたくせにさっさと服を着込むハデスの、不機嫌な声が蘇る。そうだ、あれは……
 ――選定紋章印。次代の皇帝を選ぶ、選定者へと与えられる戒めだ。
 呪われたように紅い、血で描かれた刺青のようなその痕。
「……ヘンリー、それ、どんな形だった?」
「え? ええと……どんな形と言われても」
 テーブルにそれを描けないものかと指を乗せてしばし迷った末に、ヘンリーはその図形に最も近いと思われる比喩と共にその紋章を描き出した。
「まるで、薔薇のような……」
 中央部の薔薇と彼が呼んだ模様に関してはドラクルも覚えがない。だがしかし、それを囲む周囲の縁取りには見覚えがあった。
「選定紋章印……」
 何故、ジャスパーがそんなものを持っている。
「どうやら、そのうちハデスに話を聞く必要がありそうだな」
 ドラクルたちの道のりは、まだ遠い。ジャスパーが皇帝とどんな関係があるにしても、ハデスのこれまでの行動がイスカリオットやヴィルヘルムと違ってドラクルに反する傾向が何もないことを考えれば、ドラクルの目的自体がハデスの目的と似通っているということだ。つまり、ドラクルはこのまま動いた方が彼にとっても都合が良いので、邪魔される心配はない。それならば、と胸騒ぎにも似た不吉な予感をしばし胸の中に押し留めた。
「ドラクル、出発の準備ができたけれど……」
 場を開けて、これまでドラクルの指示に従い動いていたルースが戻ってくる。小間使いのようによく働く妹の手には、ドラクルの血に濡れた服の替えまで握られていた。
「ああ。ひとまず、ここを出よう」
 ハデスへの追求は後回しだ。とりあえず今は、ローゼンティアへと向かわねばならない。
新しい衣装に袖を通しながら、ドラクルはアンたちに指示した。

 ◆◆◆◆◆

 安宿の一室に嬌声が響く。
「あっ……んぅ、ヒ、ァ」
 奥深くまで突き上げられて、快感に身体が震える。汗まみれの身体で野卑な男の肉体を受けとめると、またぎしぎしと寝台が軋んだ。
「へへ……お前、本当に……」
 路銀を手にするためと、適当に声をかけた男が熱に浮かされたような充血した目で見下ろしてくる。首筋に顔を埋められて、ちくりと小さな痛みが走った。
「ああっ」
 何度も抜き差しされるものが、卑猥な水音と共に歪な快感を生み出していく。腰を抱えあげられ、言いように揺さぶられながら、天井の染みを見る。
「すげぇ……男も、悪くねぇかと思えてくらぁ……お前、ガキのくせに、こんなもんどこで覚えっ」
 くっ、と短く呻くような声と共に、男が絶頂に達した。濁った液体が身体の内側に吐き出されるのを、黙って受け入れた。
「なぁ、ヴァンピルってのはみんなお前みたいなガキのうちから淫乱で、男のくせにこんないい体してんのか? それともお前が特別なのか?」
 事後の気だるい感覚に身を任せているジャスパーの頬をざらついた指で撫で上げ、男が囁きかけてくる。
「なぁ、お前、気に入ったぜ。初めは男なんてと思ったけどな。この調子なら、また次も買ってやってもいいぜ」
「そう」
「つれねぇな。……お前、名前は」
「僕の名前を知ったら、その場で死んでもらうことになってるんだけど」
 男は一瞬、豆のように小さな目を丸くした。こちらの台詞を冗談だと受け取ったらしい。
「はっはっは。そりゃあいいや。で、教えろよ。なんて言うんだ?」
「ローゼンティア」
「は」
「ジャスパー=ライマ=ローゼンティア。第六王子」
「なっ、お前――ッ!?」
 驚いて何事か口に仕掛けた男の首を、ジャスパーは片手で封じる。人間だったならば体格差からは考えられないその腕力と行動に、男が驚愕の顔で固まった。
 そのまま腕に力を込めて、男の首を捻じ切る。
「こちらこそ気に入ったよ」
 流れ出る血に舌を這わせながら、ジャスパーは嬉しくなって呟く。
「路銀だけでなく、今晩の食事も提供してくれるなんて……」
 ああ。あなたはなんていい客なんだろう。

 ◆◆◆◆◆

 ああ、何故。
 その場にいる人々は思ったことだろう。ああ、何故我等はこんな目に遭わねばならない。こんなにも無様に惨めに死んでいかねばならないのだろうかと。
 信じられないようなものを見る目をしたまま絶命して転がる生首を躊躇なく踏みつけて、凄惨な紅い絵を描く床を歩く。
 ヴァンピルは炎に弱い。だから完全に殺してしまうつもりなら、死体に火を放てばいい。王城を乗っ取り、彼らは殺した同胞の死体に火をかけていく。魔力の込められた石で作られた城は燃え尽きる事はない。けれど火を放たれた屍はただの生命活動の停止と違い、ヴァンピルたちを本物の死へと誘う。
「さぁ、道を空けろ、我が王のために」
 白い髪を気だるげにかきあげて、ドラクルが血の色の絨毯の上を歩く。玉座の前で臓物を腹から零しながらも何とか生きながらえていた大臣の一人が、こちらを見てこれまでの道のりで出会った重臣たちと同じように目を丸くする。
「ドラクル王子……っ! それに、カルデール公爵たち、何故……っ!」
 その男の頭を、ドラクルは長靴の底でガッと踏みつけた。
「ぐっ……!」
「いいザマですね。大臣殿。地に這い蹲った感想はどうですか?」
「まさか、この惨劇……ああ、そうか! やはり、貴様か、この鬼子がっ」
 殿下……いいや、彼らの王は薄く笑う。
「父上と画策して私から継承権を取り上げるのに尽力したあなただ。この程度で死ねるだなんて、思っていませんよね?」
 にっこりと微笑んで、ドラクルは男の頭を踏みつける足に力を込めた。
「ぐぁああああああ!!」
吸血鬼の怪力は遺憾なく発揮され、頭蓋が砕け散る。断末魔に骨の砕ける音が被り、飛び散った脳漿はドラクル自身の衣装をも汚す。
「殿下、お衣装が」
「こんな場所でそれを気にすることもないだろう、フォレット」
 フォレット・カラーシュ伯爵がドラクルの蒼い服に跳ねた返り血と汚らしい男の脳漿を気にしたが、ドラクル自身は気軽に返す。
「それよりも、誰かこの男を、力の続く限り蘇生させそのたびに拷問にかけて惨死させろ」
「我等が主よ、その役目。私が」
「ジェイドか。わかった。任せる」
 先ほどまで五月蝿く喚いていた、今は肉塊と化した男の死体をドラクルは蹴り飛ばす。それを無造作に拾い上げて、ジェイド・クレイヴァ女公爵が命令に従うために広間を後にする。
 城中が一面の炎に包まれていた。だが、それほど弱っている時でもなければ、この炎に飲み込まれるわけもない。玉座への道は赤い絨毯の先にある。そこまでは何故か、炎も侵食していなかった。
 まるでこの方が、その椅子に座ることを祝福するように。
 血とあらゆる体液で濡れた道をドラクルは行く。城の外で襲撃させたノスフェラトゥたちの動きも、待機している仲間たちが制御させているのだろう。少し前までは戦いあう人々の命が点滅する喧騒が五月蝿かったのに、今は城を嘗め尽くす炎が全てを吸い込んで何も聞こえない。
 薔薇の国と呼ばれるその最たる理由である、石の城を多い尽くす魔力で咲いた薔薇。死神の血に咲いたと言われるそれすら炎で燃やし尽くして、竜の王子は血塗れた玉座へと向かう。
 彼らはそれにあわせ、膝を着いて忠誠を誓った。
「我等が王よ」
 そしてここに、ローゼンティア国王ドラクルが誕生する。

 ◆◆◆◆◆

 玉座の上から見る景色は、想像よりも冷めた退屈なものだった。甘美な空想はこの手を血に染めた瞬間に終わり、待っていたのは、果てしなくつまらない現実。
 それでもこれは自分が自分で選んだ道で答なのだから、この玉座を誰かに明け渡すようなことなど絶対に許せない。
 例えカミラがまだ王となるには幼くて、その上この国では歓迎されない女王だとしても、私は私の力でこの国を治めてみせる。シェリダンなどに、この座は返さない。
「……そう、ようやくそうなったのね」
 その玉座で、カミラは隣国との国境に派遣していた兵士からその報告を聞く。
 すでにシェリダンがローゼンティアへと踏み込ませた兵士は引き上げさせ、その国境近くの砦に待機させている。今はもう瀕死の国にそれほど兵士を置かなくても良いだろうなどと言い含めて大臣たちの追及をかわし、その隙にドラクル王子がローゼンティアを簒奪する手助けを。
 そしてカミラの、カミラたちの望みどおりにかの人は玉座へと着いた。次の行動も打ち合わせどおりならば――。
「和平交渉を申し込みましょう」
「は?」
「ドラクル王とですか? ですが!」
「元のローゼンティア王族の全てはシェリダンが殺害しているのです。このままかの国の心情を害し続けてどうなるのです。それも、新王が立った直後に、侵略者である隣国に頭を下げる王などいないでしょう。いい? 私たちがとるべき最前の道は、新王をさっさと認めて、その王と協力体制をとること。向こうを持ち上げてこちらへの敵意を和らげ、なおかつ他の同盟国を刺激しないよう方策をとること」
 そうでなければ、今度はこの国がまた簒奪戦争になる。シェリダンはしぶとい。先の捜索でも見つからなかったといって、死んだと判断するのは早計だ。そうして、あの兄が生きているならば必ずこの国の玉座を取り戻そうとするはず。
 そしてロゼウスもまたそうであるならば、二人は協力してエヴェルシードとローゼンティア、どちらかの牙城から切り崩しにかかるはず。付け入る隙を与えてはいけない。
 ロゼウスへのカミラの想いも、今は一時だけ押し込める。かの方へ再会するための機は、ドラクルが教えてくれる。
 カミラはエヴェルシードの状態を整え、自らの政権の足場固めをしながら、ただそれを待てばいい。
「……カミラ陛下」
「何?」
「非常に、申し上げにくいことなのですが」
「言いなさい」
 臣下がこういう言い方をするときは、その報告は大抵ろくなものではない。けれど、カミラはそれを聞かなければならない。
 ああ、王様って鬱陶しいのね。
 感傷に浸る暇も与えられず、また苛立ちの種を植え付けられる。この国で一番高いはずの玉座に身を落ち着けながらも、まだ誰かに見下ろされている気がする。
「軍部の方で、陛下を支持しないという一派が……今回のローゼンティアからの撤退も、シェリダン様のご命令を陛下が簡単に覆したと、反対が……」
「その指示に関しては、私は間違ったことはしていないわ。シェリダンに追従して私を排斥したいだけの輩の言うことなど、放っておきなさい」
「しかし陛下、自分大事の大臣……あの宰相バイロン=ワラキアスは別ですが、その他の大臣たちからの政権の奪取はともかく、シェリダン様は軍部からの指示が厚かった方ですから……」
「くっ」
 カミラは爪を噛む。
 エヴェルシードは軍事国家。そのため、他国よりもずっと軍の意志が政治に反映される。即位してすぐにローゼンティア侵略を計画するほど軍との連携が強かったシェリダンを追い落としてからは、まだあの兄を支持する軍の一派に梃子摺らされている。
 特にカミラは女王であるため、ただでさえ軍の信用は得がたい。即位するまではこれほど軍部からの反発が強いとは予想していなかったので、ロゼウスがこの国に来るまでの画策中でも、貴族や大臣の懐柔はしても下手な買収でシェリダンに動向が知れるのを恐れ、軍に手出しはできなかった。
「何かあるかしらね、エヴェルシードを揺るがさず、軍部の信用も得る契機が……」
 最もいいのは戦争でその手腕を発揮することだが、女性は基本的に戦に参加しない。あのバートリ公爵エルジェーベトはエヴェルシードでは変り種。しかも、残念なことにカミラにそんな軍事的な才能はない。できるとしたら、裏で画策することだけ。
 せめて、多少大雑把な作戦でも相手を確実に落せる、相手の弱ったところを知り、それをつけ狙う機会がわかれば……
 考えるカミラを背後から抱きしめるように、黒い腕が伸びた。
「お困りのようだね。カミラ姫」
 いつものように漆黒の衣装を身に纏い、黒の末裔と呼ばれる人が玉座の背後からカミラを包むように登場する。神出鬼没ここに極まれりの登場をしたハデスに、眼下の配下たちは度肝を抜かれている。
「ハデス卿。どうしたのですか?」
 イスカリオットとドラクルを通してこの人物の突拍子のない登場や行動にはもう慣れているカミラは、振り返ってその目的を尋ねる。彼の移動方法や出現場所などこの際問題ではない。それよりも大事なのは、その目的。
「助けてあげようか? カミラ姫」
 この人物は《預言者》と呼ばれている。
「教えてあげよう。君に有利な展開へと運ぶ術、近い未来、滅びる国の名を」
 皇帝陛下の唯一の弟は、その毒々しい紅い唇を歪めて笑った。


147

 寝台の中、腕の中に閉じ込めた人の、白い髪を弄ぶ。
一房を持ち上げて口づけると花の香りがする。それから鮮やかな血の匂いと。さらさらと指どおりのよい白銀の髪を手で梳いて、人形にするように、引っ張った。残る片手は彼の腰に回して、動きをやわらかに抑え込む。そんなことしなくても、両腕に枷を嵌めたこの状態じゃ逃げられないだろうが。
「ねぇ、片目が見えないってどんな感じ?」
 ロゼウスの左目を覆う眼帯の上から、瞼に口づける。先日傷つけたその場所への刺激に、残る右目も不愉快そうに歪む。
「不安だ。視界が狭まるし、遠近感がない。その分残った右目を酷使するから、眼が疲れる。死角が増えた分、反応も遅れる」
 つらつらと片目の不便を訴えた彼に、そう、と微笑む。
「理想どおりじゃん」
 舌を伸ばして、頬を舐めた。傷ついた左目の周辺に触れられるのはまだ怖いらしく、一瞬びくっと震えた体が可愛らしい。
 どうせなら何も見えなければいいんだなどと嘯いて、閉じられた右目の瞼に今度は口づける。顔を触り舌を伸ばす程に、ロゼウスの表情が険しくなる。抵抗ができない今だからなおさらだろう。
 綺麗な綺麗なお人形。ヴィルヘルムをただ満足させるためだけの、大事なお人形。
 そうだよ、人形に心なんて望むから間違っていたんだ。
「ロゼウスが悪いんだ」
 眼帯の上から左の瞼に手を当てて断言する。
「せっかく気を許したのに、俺を裏切ろうとするから」
 ぱちりと開けられた瞳は血の色をしている。深い紅。
「……裏切るも何も、俺は元からお前の部下でも仲間でもない」
「そうだよね。お前はただの俺のお人形だ」
 ああ、だからやっぱり、誰も信用しちゃ駄目なんだ。期待しちゃいけないんだ。
 あの時、ヴィルヘルムがロゼウスの膝に顔を埋め、眠りに身を落としている間、何の夢を見ていたのかもう覚えていない。ただ、首筋にぴりりと感じた殺気に目を覚ましてみれば、そこには、魔力で尖らせた凶器の爪を振り上げたロゼウスがいた。
 ヴィルヘルムはその場で、彼の顔の左半分を切り裂いた。せっかくの造作に傷がつくのはもったいないけれど、背に腹は変えられない。
 どうせ再生力の強いヴァンピルなら、このくらいは治るだろうし。今は包帯とその上から眼帯に覆われている左目の傷もどうせすぐに治ってしまう。ロゼウスみたいに魔力で磨くこともせずただそのままの爪で彼の顔を切り裂いたヴィルヘルムの利き腕の爪は、まだ折れたままだ。
 包帯の巻かれた手で同じように包帯の巻かれた彼の顔に触れる。
「苦しい? 銀廃粉を加工した特注の首輪。それとも両腕の方?」
 ロゼウスの顔色はあれからずっと悪い。一応の手当てを施した後は、すぐに前よりも強力な手枷首枷を嵌めて拘束したからだ。
 銀廃粉と呼ばれる対吸血鬼の切り札ともなる薬の成分入りの枷は、身につけているだけでそのヴァンピルの魔力を吸い取るのだという。本来なら一日もあれば治るはずのロゼウスの左目が治らないのもそのせいだ。
 あの時は油断したけれど、もうそんなことはない。こうしてより強力な拘束で力を封じ込めて、どこにも行かせない。
「お前は、俺のものだ」
「……」
 柳眉が潜められ、不愉快だと眼差しで示される。
「そうそう、そろそろ『餌』の時間だよね」
「!」
 でも、すぐにそんな態度をとれなくなることも知っている。
召し使いを呼んで、いつものものを持ってこさせた。
「これ、なーんだ?」
「あ……」
 白い喉が上下して生唾を飲み込む様を、上位に立ったものの愉悦で眺める。
 定期的に血を摂取しないと、ヴァンピルは吸血の渇望に狂うのだと言う。同じ魔族の血は受け付けず、家畜の血は飲むが好まない。一番の嗜好品は、人間の血だというそのロゼウスのために、わざわざ用意させたのはそれ。人間の血液。
 吸血鬼は血を飲まないと狂い死ぬ。だけど、血を飲み続けると今度は中毒性が強くて、それでも正気を失うのだと。
「これが、欲しいよね」
 紅い血の入った小瓶を目の前でこれ見よがしに振って見せて、ヴィルヘルムはロゼウスを挑発する。青褪めた顔色のロゼウスが悔しげな顔で頷くのを待って、壜の蓋を開ける。
 人間の血はヴァンピルにとっては麻薬のようなものだ。
「はい、あーん」
 指先につけたそれを、同じように紅い唇の前に差し出す。伸ばされた舌がこの指を舐め、それでは飽き足らずに口内へと導き包み込む。血の味が消えるようなら、また指を血に浸す。指が唾液でふやけてぶよぶよになるまで、ひたすらその繰り返し。
 そうしてこの禁忌の麻薬でもって、ゆっくりと綺麗な人形を調教していく。ヴィルヘルムが血を与えなければ生きていられないくらいに、する。
 こうして、ゆっくりと俺に溺れてしまえばいい。
「ん……」
 爪の内側に入り込んだ血の滴さえ飲み干そうと、生温い舌先が執拗に指に舐めてくる。その必死な様子に込み上げてくるのは、えもいわれぬ背徳の享楽だ。
 こうして血を与えた後は、いつもの行為より素直で従順になるということも、もうわかっている。そうやってロゼウスの理性や矜持を緩やかに殺していく。
「……俺を見ない相手なんて」
 そんなもの欲しくない。だけど、この綺麗な人を手放すこともできない。
「だから、さっさと壊れてしまえばいい」
 腕を突いて首だけ伸ばして、必死で指先に塗った人間の血を舐め取るロゼウスに対して思った。
「それにしても、人間の血の確保って面倒だよな……」
 単調な餌付けを続けながら、しばし別の方向に思いを馳せる。
 セルヴォルファスはワーウルフの国で、しかも他の人間の国とはほとんど国境を接していない。接したところで、おたくの人間ヴァンピルの餌用に何人かくださいと言うわけにもいかない。今は裏で取引される奴隷の血を抜いてこうしているわけだが、やりすぎれば死んでしまうしそうでなくとも毎回同じ相手から血を抜くのはその人間が怯えて面倒だ。
 いっそそれすらも手間ではなく、楽しめるような……こちらにとって利益になるような相手ならいいのに。
 そう考えたとき、ふっと頭に浮かんだのは藍色の髪と朱金の瞳を持つ一人の人間だった。ああ。あれ以来エヴェルシードの動向についてまだ報告が入ってきてないけれど、かの少年はどうしたのだったか。
「ねぇ、いっそ君の餌なんだけどさ」
 上目遣いでちらっとこちらを確認したきり、興味もなさそうに視線を血のついた指へと落としたロゼウスに聞かせる。
「シェリダン王を見つけて来るってのはどうかな。生かさず殺さずして、ずっと血を提供してもらうの。いい考えだろう?」
 あの男が相手ならば、どれほど傷つけ苦しめようともヴィルヘルムの方でもいっこうに気にしない。むしろ胸が空くだろう。拷問にかけ、泣き叫んで服従したところから無理矢理血を奪い、それを彼の愛するロゼウスに飲ませるならば、もっといい。
 夢想に耽ろうとするところに、衝撃が来た。手枷の重りもものともせず、ロゼウスがヴィルヘルムを突き飛ばしたのだ。
「……何、怒ったの? 彼には手を出すなって? 怖い怖い。あははははは!」
 先程まで血を舐めるのに必死だったヴァンピルが、ただ一人の名前に反応して今では正気の目を取り戻している。
「シェリダンに手を出したら許さない」
「あっそ。お前に許されないからって、何かあるわけ? こうして鎖に繋がれて、男に挿れられて善がるしか能がないくせに」
 首輪から伸びる鎖を思い切り強く引いた。拘束された不安定な状態のロゼウスは体勢を崩す。
「ロゼウスも早く壊れちゃえばいいんだよ。そうすればもっと楽になる」
「……それは、誰の教訓だ?」
 ぴたりと、ヴィルヘルムは動きを止める。零れた小瓶から血が零れて寝台の敷布を真っ赤に染めた。
「壊れてしまえば楽になるなんて……ヴィルヘルム、それはどういう経験に基づく発言なんだ? お前は、壊れた何を見てきたんだ?」
 鎖に繋がれて惨めに這い蹲りながらも、ロゼウスは余裕を湛えた瞳で言った。それはまるで、そう。
 捕食者のような。
 ヴィルヘルムは目を見開いた。
「それとも、壊れてしまったのはお前か? ねぇ、ヴィル。お前は、本当の本心からそう言ってるわけじゃないだろう? ただ事態を楽に進めたいだけなんだろう? 相手が思い通りになることが優先で、相手そのものが欲しいわけじゃないんだ。だから、相手を簡単に壊せる。でも、壊さなくても従順な相手ならもっといいんだよね」
「何、を」
「お前は、自分にとって都合のいい、思い通りになるものしか欲しくないんだろう? そうじゃないと困るんだろう? そうでないと、お前は……」
 これは誰だ?
 ヴィルヘルムの眼には目の前のロゼウスが、まるでロゼウスでない人物のように見えた。毒を含んだ唇が紅く囁く。これ以上聞いてはいけない。
「ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス、お前は本当は――」
 その時、扉の外から激しく叩く音がした。ノックとも言えないノックと同時に、家臣が叫んでいる。
「陛下! 緊急の報せです!」
「なんだ?」
「ローゼンティアが、ドラクル王太子の即位により解放されました――!」
 ロゼウスが驚愕に目を瞠った。

 ◆◆◆◆◆

 ヴィルヘルムは、一通りの報告を聞いてすぐに兵士を下がらせた。
「……会議とか招集しなくていいのか?」
「いいの。必要だったらまた大臣の誰かがやるだろ?」
 それほど重要な会議だからこそ、国王が最高権力者として開催することに意味があるんじゃないか。そう思ったが、ロゼウスは口を出さなかった。
 正直に言って、ローゼンティアのことだ。物凄く気にかかるけれど、ここでセルヴォルファスに介入されたら困る。そのぐらいなら、ヴィルヘルムにはここで自堕落に生きててもらった方がまだマシだ。
 腰に抱きついてくる少年王を見下ろしながら、ロゼウスはこの状況について考える。ドラクルのローゼンティア解放。セルヴォルファスから見ればそういう言い方になるんだろう。けれどその実態は、シェリダンから奪った玉座についたカミラの手を借りた、ドラクルのローゼンティア王位簒奪だ。そこまではヴィルヘルムも知っている。
 ドラクルがついに動き出したということは、今は障害となるべき存在が周囲にいないということだろう。ロゼウスはここだし、そうなるとシェリダンや、ロザリーたちの生死行方も不明か、もしくはドラクルの方で抑えているのか。イスカリオット伯爵ジュダはどこまで協力しているのか、先日はこの城で姿を見せたハデスは、今どうしているのか。
 さらに、皇帝の動向も気になる。ローゼンティアとエヴェルシードの問題は彼女の興味の範疇外なのか、それで予定調和とでも言う気か、デメテルは沈黙を貫いている。ドラクルの行動を、皇帝は意図的に黙認している節がある。彼女の目的はなんだ。
 問題は、ここでこの話が終わらないことだ。カミラがエヴェルシードを、ドラクルがローゼンティアを簒奪して一応の決着はついたように見える。けれど、それだけではこの話は終わらない。
 どこに向かうのかわからない物語だが、一つだけ明らかなのはロゼウスやシェリダンを巻き込んだ企みは、まだ続いているということ。でなければ、ハデスがドラクルに協力した理由が見えない。彼の行動はこのままではドラクルの利益にはなっても、ハデス自身の利益にはならない。そしてハデスはドラクルに理由もなく協力したりはしないだろう。
 つまり、今後の鍵はハデスの行動。
 彼の目的がわかれば、もう少し事態が見えてくるはずだ。ローゼンティアのドラクル、エヴェルシードのシェリダンとカミラ、セルヴォルファスのヴィルヘルム、今まで、行動を起してきた各国の重要人物のそれぞれに、ハデスは非公式の個人的な接触をもってまで関わっている。彼はそうまでして、複数の国を動かしてまで何がしたい。
 帝国宰相ハデス。彼について言えるのは、姉との確執くらいだが……まさかそれだけでこんな大掛かりな行動を起すほど、奴も愚かではないだろう。
 そういえば、ロゼウスはハデスに酷く恨まれているようだ。特段何かした覚えはないのにあの敵意。まさか、エヴェルシードやセルヴォルファスにまで根回しをしてドラクルにローゼンティア王位簒奪を行わせたのは、ローゼンティアに何かがあるということなのか。
「何考えてんの? ロゼウス」
 ロゼウスの思考は、ヴィルヘルムのお気楽な声に中断された。
「ローゼンティアのこと? やっぱりお前が継ぐはずだった国を、誰かに獲られるのは悔しい?」
 拘束具に繋げられた鎖を引きながら、ヴィルヘルムがロゼウスを挑発してくる。
 しかし残念なことに検討外れ。
「まさか。俺はもともと第四王子として育てられた。国を継ぐ意識は全くなかったんだから、悔しいも何も、思うわけないじゃないか。それを言うなら、王太子として育てられたのに直前でその資格をとりあげられたドラクルの方が悔しかったと思うけど? だから簒奪を行ったんだろ?」
 ロゼウスの言葉のどこに反応したものか、ヴィルヘルムが灰色の瞳をスッと細めた。
「ああ、そうだね。お前はいつもそうやって、人の努力を横から嘲笑う」
 拘束されている後手を潰さないように、うつ伏せに押し倒された。ヴィルヘルムが体重をかけてのしかかってくる。
「ねぇ。教えてあげる。俺が知ってるドラクルのこと……あの人は見ていて可哀想なくらい、お前のことを嫌っていた」
 その言葉にチクリと、少しだけ胸が痛む。わかっていたこととはいえ、はっきりと言われると辛い。それでも、そう思う自分自身の心の動きが誤魔化しであることをシェリダンによって自覚させられた今では、昔みたいに歪んだ感覚ではない。
 首を動かして目を合わせると、形容しがたい色彩を湛えたヴィルヘルムの瞳がロゼウスを見下ろしている。
「ドラクルはね、随分早い段階から、自分が偽物の王太子だってことを知ってた。そしてそれは、ロゼウスが生まれてから確定された」
 ロゼウスはドラクルの、荊のはかじるし。
「酷いよね。可哀想だよね。正妃の息子であるお前の才能に、ドラクル王子は何をやっても構わない。血の滲むような努力でそれを表にはしなかったけれど、内心では劣等感に打ちひしがれまくりだったよ。いつか奪われるための王太子の座を温めて。いつ捨てられるかわかったもんじゃない。ドラクルの人生には最初から絶望しかなかった。ロゼウス、お前がいる限り」
 ロゼウスがいる限り、ドラクルに存在価値がなくなってしまう。ロゼウス自身がそう意図したわけでも、望んだわけでもなくとも。
「……可哀想なドラクル。貰えるはずのものを貰えないで、奪われて」
 だけれど、「可哀想」という言葉を繰り返すヴィルの目は、ロゼウスでもドラクルでもない、誰か別の人間のことを思っているような色があった。
「欲しい物が手に入らないんだ。それも、当然持つべきだったはずのものを奪われる。だったら、奪い返すしかないじゃないか。ドラクルがローゼンティアを略奪したのは、当然の行為だと思うけど?」
「当然の、行為?」
 死体の山。血の海。忠義者は全て殺され、老人から赤子までみんなみんな惨殺された。そして手っ取り早い戦力として、死人返り……ノスフェラトゥにされた。意志のない人形となり、死んでも戦わされる民たち。
「ふざけるな!」
「!」
「ドラクルの起こした行動で、何人が死んだと思っている!? 王位が欲しいなら父上に直接言えば良かったんだ! 何の罪もない民を巻き込んで、何が王だ!」
「……っ、それは、持てるものの考えだろう!」
 ヴィルヘルムの腕が伸び、ロゼウスの頭を寝台に押し付ける。腕が押さえられたままなので、無理矢理上半身を引き伸ばされたようになる。地味に苦しい。
「民を巻き込むな? お前こそ甘いことを! そうまでしなきゃ保証されない安寧に、一番苦しんでいるのは誰だと思う!?」
 誰かが幸せになるためには、誰かが不幸になる必要があるのだとヴィルヘルムは主張する。
「だいたい、民ならば無条件に守られるべきだと言うのが甘えだよ」
「何……?」
「税金を払えばなんでもやってもらえると思ったら大間違いなんだよ。それなら俺たち王がそれを受け取らなければ、逆に困るのは向こうだろ?」
「実際にこの国の人々の血税で贅沢してる奴の言う事じゃないな、ヴィルヘルム王」
「そうだな。俺はな。だけど、俺だって好きでこの国のこの王家に生まれたわけじゃないんだぜ? なのに、王様には辞める権利もないのか? そんなの不公平じゃないか」
 ヴィルヘルムにとって、玉座は重荷なのだろうか。
「だからその分、国王にはより多くの権力が与えられているんだろう。幸せになりたければそれを実現するだけの力がある。それを民から与えられているなら、その信頼には応えるのが筋じゃないか?」
 押さえつけてくる腕に抵抗しながら、言葉を吐き出す。
「筋? お前がそれを言うなんて笑わせる。シェリダン王巻き込んでエヴェルシードを破滅させようとしてたのはどこの誰? それともお前があの男の子どもを産めるのか? でなければシェリダンがお前を選んだ以上、エヴェルシードは近いうちに破滅するな。ああ、お前は確かに王の鑑だよロゼウス。ローゼンティアさえ無事ならそれで良くて、他の国の国民がどうなろうと知ったことじゃない。偽善者面するなよ。お前の言ってることだって、単なる自己満足には変わりがないんだ」
 正義などこの世に存在しない。
「……っ!」
 激昂するロゼウスには構わず、ヴィルヘルムは言葉を続けた。
「最初から何も持っていない人間は、誰かから奪わなければ幸せになんかなれないんだ。それで、もともと持っていた人間がどんな可哀想なことになろうが知ったこっちゃない」
 まるで何かを諦めたようなその声音に、表情に、一瞬だけ抵抗をやめる。それがロゼウスの敗因だった。
「だから――」
 油断した隙に肩口を獣の爪で切り裂かれる。失血のショックで、意識が遠のく。まずい、このままの状態で何かされたら――。
「俺はもう、奪うことしか知らない」
 それは、文字通りの死刑宣告だった。


148

 王様になんてなりたくないよ。

「ヴィルはもしも王様になれたとしたら、何が欲しい?」
 ある日兄の一人がそう言った。
「王様に?」
 ヴィルヘルムは足りない頭で必死に考えた。王様になれたら、王様になれたら、王様になれたら……まず、自分が王様になる様子なんて思い浮かばない。
「だって俺、王様になんてならないし」
「そうか? でも俺たちに何かあったとしたら、お前が王様になることだってあるじゃないか」
「そんなことないもん! この国は兄様たちが継ぐんでしょ?」
「兄様たち、って。そりゃあ俺たちも王太子ではなくても王子だからそれなりの役職で国を支えるんだろうけどさ。それなら、お前だってそうだろ?」
「俺は兄様たちが頑張ってるのを横から見てるだけでいい」
「えー? こらこら、ずるいぞヴィルヘルム」
 兄の一人に抱きしめられて、ぐしゃぐしゃと髪をかき回されながらその温もりにしがみつく。
王様になんてなりたくないよ。だって俺が王様になるってことは、この温もりを失うってことだろ?
「兄様大好き! みんなみんな好き!」
「はいはい。俺も俺も」
「俺もー」
「僕も」
「私もですよ」
 まだ片手の指の数で足りる年齢の頃、そうして兄たちに甘えて甘えて過ごした。セルヴォルファスの殺風景な荒野の城には、暖かな笑い声が響く。他のどの種族よりも国よりも自然と近く暮らすワーウルフにとって、弱肉強食は当たり前。それでも同じ群れである家族の中では、そんな敵意などありえないと思っていた。
 あまりにも優しく輝かしく慕わしい憧憬の日々。
 いつかなくしてしまうなんて思いもしないまま、そのぬるま湯の安寧に浸っていた。心地よい幸せにとろけて、確固たる自我なんていらなかった。自分も他の人間も一緒だと思っていた。誰かが守ってくれて助けてくれてその分自分もできることをして、それだけでいいと思っていた。
「レオ兄様、肩車して」
「はいはい。この甘えん坊め」
「でも、私たちがヴィルヘルムをこうやって可愛がれるのももうあと数年といったところでしょうね」
「ああ。貴族の一部が、最近何だか不審な行動を起してるって聞くし、父上が健在である間に、早く俺たちも足場固めをしないと――」
「そう、ですね……」
 俺を肩からすとんと下ろして、腰を屈めた兄は同じ目線で言った。
「王様になれば何でも手に入る」
「なんでも?」
「ああ。この国で一番偉い人だからな。だから、父上が今いろいろと問題を抱えていても、大兄上が玉座につきさえすれば、俺たち兄弟のことに口を出せる人間なんて、名実共にいなくなる。だから」
 砂の城は呆気なく崩れる。
「ヴィルヘルム王子殿下! 兄君たちが――!!」
 幼いヴィルヘルムには政治だの謀略だの、難しい言葉が並んでもよくわからなかった。
 昨日まではヴィルヘルムを兄弟の中でもどうしようもないお子様としか見ていなかった大臣たちが、急に何か重要な役目のある人間を見る目で、ヴィルヘルムを見る。
「……お聞きください。第二十六王子、ヴィルヘルム殿下」
「……いやだ」
 本能的な恐怖を感じて、ヴィルヘルムは座らされた玉座の上で腰を引く。どうして自分がここに座らされているのかわからない。……兄上たちは?
「騒動の元となった家は、一族郎党まで処刑が完了いたしました。他の貴族たちも……」
 何か覚えるのも面倒な名前だけずらずらと並べられても、覚えられない。難しいことなんて何一つわからない。覚える前に、それが自らの役割だと押し付けられた。
 自分が座ることなど未来永劫ないと信じていた玉座。
「……兄王子殿下方は、皆様、身罷られました」
 だからその言葉の意味なんて、知りたくはなかった。兄たちは、今の王家に反対する貴族たちの策略で皆亡くなったのだと、幼いあまりにそれに対抗する術も持たなかったのに、今回に限ってただ一人兄たちと出かけなかった自分だけがこの国に唯一残された王族なのだと。まったくの偶然が産んだ僥倖だと大臣たちは涙を流す。
 いや、これは偶然などというものなどではない。
 暗殺された父と兄たちの死に目には当然会えず、子どもが見るものではないと、遺体にすら触らせてもらえなかった。死んだと聞かされ黒い棺桶だけを見送り、わけがわからないうちに物事が目まぐるしく過ぎていく。
「ヴィルヘルム王子殿下、いえ……セルヴォルファス国王ヴィルヘルム陛下」
 大臣の一人が跪いてヴィルヘルムに告げる。
「あなた様がこの国の王なのです」
 王様になったら。
「王様って……何」
 頬が生温い滴に濡れる。熱くて冷たくて気持ち悪い。それを拭ってくれる指は、もうすでに亡くしてしまった。
 ここに今残っている大臣たちは、貴族の謀反にも加担しなかった忠臣だ。わかっているのに、何の感慨も浮かばなかった。ただ胸に虚無の暗黒が落ちる。
「王様って、何? 王様になったら、何ができるの?」
 茫然自失として尋ねるヴィルヘルムに、大臣の一人が答えた。

 ――ヴィルはもしも王様になれたとしたら、何が欲しい?

 いらない。何も要らない。ただあの日々が戻ってくるなら、欲しいものなんてないよ。

「国王に、なれば」
「この国の全てが、あなたのものです。ヴィルヘルム様」
「この国の全ては、あなた様のお言葉一つに従います。何でも手に入るし、何だってできます。あなたに逆らえる者など、この国にはおりませぬ」
 ――王様になれば何でも手に入る。
 ヴィルヘルムはあの暗殺の直前、またもあの人と顔を合わせていた。黒い髪に黒い瞳の、美貌と言うには地味な、けれど端正で洗練された容姿の少年。若き帝国宰相。
 ――君は明日、お兄さんたちと出かけてはいけないよ。絶対に駄目だよ。大人しく留守番をしていなさい、ヴィルヘルム。そして僕からこう教えられたことを、出かけるお兄さんたちに言ってもいけない。いいね。ちゃんと言う事を聞くんだよ。そうすれば。
 きっといい事があると、ヴィルヘルムを抱き上げてハデスは笑った。
 ――やがて、全てが君のものになる。そう、この国の全てが。
 彼の予言ははずれない。確かにヴィルヘルムは全てを手に入れた。この国の全ての富と権力が一度に転がりこんできた。
 ヴィルヘルムのもともとの立場は第二十六王子。通常ではどんなに足掻いたところで玉座に手が届くはずもない。どうやったとしても国王になんかなれるわけがなかったのに、それはヴィルヘルムの手の中に転がり込んできた。預言者の言う事を少し聞いただけで、こんなにも容易く。
 人はこれを僥倖と呼ぶのだろう。
 人から見れば、ヴィルヘルムはこの上なく幸運な人間だろう。易々と玉座を手に入れどんな我侭でも叶えられる立場になって、他に継承者がいないから王位をこれ以上奪われる心配もない。後は適当に結婚なり妾を持つなりして後継者を作れば、全ては安泰だ。
 その言葉は、元はと言えば外交関係上知り合った吸血鬼の国の王子が言ったものだ。政治的なものは全て大臣たちに任せているとはいえ、今セルヴォルファスで正式に王族を名乗れる人間はヴィルヘルム一人。重要な会議にはどうしても顔を出さないわけにはいられないし、友好国との親善には気を遣う。彼らと同じ魔族の国でありながらさほど親交もなかったローゼンティアから送られてきた大使は、その国の第一王子でありヴィルヘルムより十一歳年上のドラクル王子。
 初めこそ兄たちと同じくらいの年齢の青年に感じたのは憧れと懐かしさだったけれど、そんなものはすぐに吹き飛んだ。彼がヴィルヘルムに教えたのは、悪い遊びの数々だ。せっかく国で一番偉い立場にいるのだから、好きなことをなんでもすればいいじゃないかと言って。
 服を脱いで闇の落ちる一室。ヴィルヘルムの顎をやさしくくすぐりながら、彼はやわらかく囁いた。
「幸せなんだね、ヴィルヘルム」
 幸せ? 幸せって何?
 ドラクルは、自分がローゼンティアの本当の王子ではないと、後ろ暗い遊びにヴィルヘルムを引き込む際にこっそりと教えてくれた。彼が本当はもらえるはずだった玉座は、彼の弟とされている本当は従兄弟である少年に、全て奪われてしまうのだと言う。こんなにこんなにこんなに努力しているのに報われないで、他者が全てを持っていく。だから、何の努力もなしに玉座と権力を手に入れたヴィルヘルムが羨ましいと。
 その声の響があまりにも哀しかったから、ヴィルヘルムは、ああ、彼は可哀想な人なんだな、と思った。
 そして自分の境遇。これを、人はこの上ない幸せと呼ぶのだろうと。

 ◆◆◆◆◆

 ぎりぎりと首を絞められる。殺す気はないようだ。ただ痛みと苦しみを与えたいだけの暴力に、戒められたこの身は晒される。
「……っ、……!」
 咽喉仏を圧迫する親指に呼吸を阻害されて顔が歪む。今の自分はきっと酷い顔をしている。
 ぱっと手を離され、一瞬の空白の後、ごほごほと咳込む羽目になった。
「はっ……はぁ……くっ!」
 気道を塞がれる加虐から解放され、ロゼウスはヴィルヘルムを睨む。
 ヴィルヘルムは熱しているのに冷めた瞳で、ロゼウスを見下ろしている。
 肩口の傷が痛い。
 ワーウルフの鋭い爪に切り裂かれた傷から血が流れ、力を奪う。吸血鬼の命は血だ。たいした怪我でなくとも出血量によっては命に関わる。その範囲が普通の人間よりも狭いのがヴァンピル。
 強靭なのに脆いという、矛盾した生き物。
 再生速度から言ってこの傷は命に関わることはないだろうけれど、死の淵に陥る前に下手をすると自我を失うかもしれないくらいには深い。血が、流れ落ちる。意識がそれに乗っているように、一滴一滴と零れおちていく。
 くす、と甘くヴィルヘルムが微笑んだ。
「ヴァンピルはよく人間の血が甘いなんて言うけど」
 傷口に顔を寄せて囁く。
「そのヴァンピルの血は、どんな味がするのかなぁ」
「ああっ!」
 ヴィルヘルムはロゼウスの肩の傷を舌で舐めた。傷を抉るようなその行為に、思わず苦痛の声が漏れる。
 ぴちゃぴちゃと、新たな血を噴出させるように舌で傷を弄る。
「あ……あ……」
「痛い? 痛いよね。痛いでしょう?」
 ふふふ、と歌うようにヴィルヘルムは笑った。ロゼウスの血で口元を濡らしながら。
 その酷薄な笑顔に、疲れたような諦めとなおも燃え滾る執念の焔が見える。
「可哀想だね、ロゼウス」
 傷口をわざと抉りながらヴィルヘルムが言葉を紡ぐ。
「本当はローゼンティアの王になる資格を持っているのに、それを奪われて転落しちゃった王子様。エヴェルシードに侵略されてシェリダン王に玩具にされて、今度は俺の元でこんな目に遭って、可哀想以外のなにものでもないよねぇ?」
 可哀想だ、可哀想だとヴィルヘルムは繰り返す。ああ、こんなやりとりを前にもしたような覚えがある。
「でも、元はと言えばお前がドラクルから全部持っていっちゃうから、それが悪いんだし。あんなに頑張って頑張ってでもお前が生まれた瞬間全部奪われることが決まっちゃったドラクルは可哀想。それにシェリダン王だって、子ども時代に父親から虐待されるわ、異母妹はさっさと敵に回るわ、裏切り者はいっぱいいるわで可哀想。狂気伯爵って呼ばれてたイスカリオットだって昔いろいろ何かあったみたいだし? カミラ姫はシェリダン王に何かされた恨みがあるんでしょ? それから侵略されたローゼンティアの民だって他の王族だってもちろん可哀想だし、帝国宰相のハデスだって、元はと言えばお姉さんである皇帝陛下から苛められてたんだから可哀想」
 可哀想、可哀想、可哀想。
 口癖のようにヴィルヘルムの口からはその言葉が飛び出る。頭が痛くなるほど、その単語ばかりを彼は繰り返す。
「なぁんだ、みんなみーんな、いろいろ可哀想なんだねぇ」
 アハハハハハ! と高らかに笑い声を上げた彼に、ロゼウスは言葉の刃を突き付けた。

「一番『可哀想』なのはお前だろう。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス」

 ぴたり、と。
 その瞬間、ヴィルヘルムの動きが止まった。獣の耳がぴんと毛を逆立てる。
「――なんだって?」
 壊れたカラクリのようにぎこちない動きで、ヴィルヘルムが組み敷いたロゼウスを凝視する。
「だから、可哀想なのはお前だと言ったんだ」
「馬鹿な! 俺のどこが『可哀想』だって」
「そういうところだよ、ヴィル」
「っ!」
 肩の傷に指を食い込ませて掴みかかってきたヴィルヘルムがまたも動きを止める。ロゼウスは傷を抉られる痛みに耐え、出血で朦朧とした意識の中で答える。乱れそうな呼吸を何とか繋ぐ。
「ドラクルが可哀想? シェリダンが可哀想? 俺が可哀想? 違うだろう、セルヴォルファス王ヴィルヘルム。本当に可哀想なのはお前だよ。ドラクルだって、シェリダンだって、俺だってカミラや他の皆だって、少なくとも逆境の中で自分の欲しいものを手に入れるために生きて、行動している。でもお前は違うだろう」
 灰色の瞳が極限まで見開かれてロゼウスを見下ろす。視線は不安定に定まらず、揺れるというよりも震えている。
「他者を『可哀想』だなんて言葉で貶めて、自分の痛みから目を逸らして人の状況より自分の状況がマシだと己で己を慰める。お前が一番『可哀想』だ」
 これはかつて、ロゼウス自身がシェリダンに言われた言葉だ。自分はドラクルを愛しているんだから傷ついているはずなんかないと首を振ったロゼウスの身体を強く抱きしめて、自らの傷口を直視しろと暴いた。荒療治だけれど、彼は確かにロゼウスを救ってくれた。
 けれど俺は……俺ではヴィルヘルムを救う事はできない。それを望みもしない。
 ロゼウスはこの憐れな少年の心臓に穿たれた傷を抉る。それはロゼウスの肩の傷を先ほど「この子」が抉ったより、ずっとよっぽど、痛いはずの行為だ。
「他人が『可哀想』じゃないと困るんだろう? ヴィルヘルム。そうでなければ、世界の皆が幸福であれば、お前自身が『可哀想』な子になってしまうから!」
「――うるさぁい!!」
 返された悲鳴に、ロゼウスは皮肉な笑みを浮かべた。それは自嘲に似ている。
 ヴィルヘルムのしていることは、一種の逃避だ。世界中の人間が可哀想であれば、自分は可哀想ではないと。
 そんなことじゃないのに。どんな相手にも不幸は降りかかるし同じように幸福は手に入る……ロゼウスがドラクルに憎まれ、シェリダンと出会ったように。
 ただ、『可哀想』の一言で済ませられる運命なんてどこにもない。
「……自分の想いに、素直になればいい。俺がお前に言えるのはそれだけだよ」
 ロゼウスだってシェリダンに言われるまで気づくことも治すこともできなかったことだ。自分はヴィルヘルムのことを全然知らないけれど、こんな言葉一つで簡単に癒せる傷じゃないぐらいのことはわかる。
 それでもロゼウスには、このぐらいしか言える言葉がなかった。これを聞かされたヴィルヘルムの方は。
「うるさい! お前の言う事なんて知るもんか!」
 ああ、やっぱり駄目かとロゼウスは今にも途切れそうな意識の中、倦怠感と共に思う。あの真摯な説得は体当たりで人にぶつかっていくシェリダンだからこそできることで、ロゼウスにはどうもそう言った方面での人徳や力は皆無のようだ。
「そんなこと、お前になんて言われることじゃない。お前に、一体何がわかるっていうんだ! 俺の何が!」
 ロゼウスのしたことはどうやら、燻っていた炎に油を注ぐだけのことになったらしい。ヴィルヘルムが涙目の顔に歪な笑みを浮かべる。
「俺が『可哀想』? ははっ! そんなはずはないよ、ロゼウス。可哀想なのは、可哀想になるのはお前だろう! お前でなければ、ならないんだ!」
 再び、寝台にこちらの身体を押さえ込む腕に力が込められる。
「そうだ……俺は、『可哀想』になんかならない。絶対に、なりはしない……だから」
 お前こそが、不幸になればいい。
 虚ろな灰色の瞳には、ロゼウスへの憎悪が映りこんでいた。


149

 昔を思い出す。
 あの後随分、俺を悩ませてくれた記憶。他にも辛い事はいろいろされたけれどそこまでくれば立派にもう心の傷だと訴えでてもいいくらい、嫌だったこと。
 なの何故だろう。
 あの時と状況は違うのに、今の方がずっと、胸が痛い。

「ん……」
 肌に痕をつけようと、首筋に唇が吸い付いてくる。ちくりとした痛みを伴って、それは何箇所も鎖骨や胸の上を彷徨う。
 心臓の上の尖りを乱暴に抓まれ、膝を相手の膝で割られる。全部感触があってから初めてわかることで、それまでの緊張が並じゃない。
 視界は布で覆われている。腕は拘束され、他の箇所も鎖で繋がれて身動きがとれない。そもそも視界が塞がれているのだからロゼウスは簡単に動くわけにはいかないのだけれど、裸の肌に直接触れる金属の冷たさが恐ろしい。出血こそ止まったものの、肩の傷はまだ痛んでいる。
「あっ……ひ、ァ……っ」
 いつもより執拗に時間をかけて、ヴィルヘルムの手が愛撫とも言えない愛撫に没頭する。
「あ、うぁ……」
「もっと色っぽい声出しなよ」
 快楽ではなく苦痛を与えるような触り方をしておいて、彼は無茶なことを言う。胸元に熱い吐息を感じたと思った瞬間、さんざん指先で弄られてきた乳首が濡れた柔らかなものに触れられる。舐められたのだ、と気づく頃にはカァ、と頬に血が上る。
「顔が赤いよ? こんなこと、今更でしょ」
「う……うるさい」
「ふーん。まだそんなこと言ってられる余裕あるんだ」
 前触れもなく、先ほど傷ついた肩口に衝撃が来た。治りかけの場所をまた突かれて、一瞬衝撃に息が止まる。
「……っ!!」
「あはははは。声、我慢しなくていいのに。喘ぎ声もいいけれど、やっぱり聞くなら悲鳴が一番心躍らせる」
 挑戦的にそんなことを言われたからこそ、悲鳴だけはあげるまいと唇を噛み締め息を詰めて耐えるロゼウスに構わず、ヴィルヘルムはさらに手を滑らせた。片方の乳首を甘噛みしたまま、右手を内股に差し入れる。足の付け根を乱暴にまさぐられて、背筋に冷やりとしたものが走った。
 指先がゆるゆると、それに触れる、先端を爪でツウと撫でられて、詰めていた力が身体から抜けていく。
「はッ……や、め……ッ!」
「ないよ? やめない」
「ああっ!」
 熱い手のひらにキュッと握りこまれて、嫌でも身体が反応した。丁寧に指で扱かれるその感触に、意識が集中する。
「快楽に弱い身体だよねぇ。ロゼウス。どんな男相手にだって乱暴されて感じられるほどの、呆れるほどの淫乱だ。無理矢理お前を抱いた奴はみーんな喜ぶだろうねぇ。こんなことしても、感じてもらえるんだって」
 陵辱にはまりそうだよね、歌うように軽やかなその口調に嫌な予感を感じる暇もなく足を広げさせられると、後ろにいきなり指が突っ込まれた。
「―――ッ!!」
「ああ。これでもやっぱり悲鳴はあげないんだ」
 慣らしも濡らしもしていないその場所に、ヴィルヘルムは乾いた指を無理矢理差し込んだ。まだ切れてはいない内部で、無遠慮に動かす。一本、二本……三本目も無理矢理挿入する。
「ぐ……」
「さすがに狭いか。俺が痛い思いをするのは嫌だし」
 勝手なことを言って、彼は後ろから指を引き抜いた。圧迫感が消えてもずきずきとした痛みの残るその場所を放って、今度は再び前へと指がかかる。
「ふぁ……!」
「んー、ひもひいい?」
 見えないから心の準備もできないのに、いきなり自身を柔らかな粘膜に包まれる。ロゼウスのものを口で含んだヴィルヘルムが、舌を絡ませて刺激を与えてくる。
「ん……」
 熱に潤んだような声をあげて、口での奉仕とも言えるその行為を続ける。熱心な舌に下腹部に溜まった熱は追い上げられて、無理矢理その欲を吐き出させる。
「ッ」
 目隠しで塞がれた視界が真っ黒から真っ白になった。しかし吐精の余韻に浸る時間は短く、ヴィルヘルムの舌打ちと共に我に帰る。粘性の液体を舐める生々しい水音だけを聞かせて、頬に汚れた手が伸びた。
「……今度は俺の番だね」
 酸素を求めて喘ぎ、薄く開いていた唇を無理矢理開かされ、彼のものを突っ込まれる。
「んんッ!」
「ちゃんとやってあげたんだから、そっちもちゃんとやってよ。気持ちよくさせてくれたら、少しは丁寧にヤってあげるから」
 ヴィルヘルムの望みを叶えない限りこの状態から解放されることもないだろうと、仕方なく舌を動かし始めた。
「はッ……どうせ、これも……ドラクルやシェリダン王に教えこまされたんだろ……? やたらと上手いじゃないか……」
 手錠で繋がれた手で根元を扱き、じゅぷじゅぷと唾液を絡めた先端を舌先で弄って相手を絶頂に追いやる。前髪を掴まれ、喉奥をいきなり突かれた。
 溢れた苦い液体を、飲み下せずに思わず吐き出す。
「が……けほッ」
「は……」
 ヴィルヘルムが頭上でくすりと笑いを零すと、ロゼウスの口元を汚すその滴を指先で掬い取った。
「遊びはおしまい」
 熱に浮かされた声と共に、その濡れた指が先ほどは無理矢理暴かれた後ろに差し込まれる。潤滑油代わりの精液の助けを借りて、こうした行為に鳴らされた場所は今度はあっさりとそれを受け入れた。
 グチュグチュと音をさせて、ヴィルヘルムが中で指をかき回す。直腸を擦るその動きに、いちいち翻弄される。
「アッ…………!」
「ここ?」
 最も敏感な場所を探り当てられて、零れ落ちる声は平生の自分より高くなる。その場所ばかりを刺激されて、一度弛緩した身体にまた熱が篭もり始めた。
 頃合を見計らったヴィルヘルムが中をかき回していた指を引き抜く。
「……いくよ」
 律儀に耳元で囁いて、指とは比べ物にならない質量のものを挿入した。
「ああっ! ヒ、ぃ……ッ」
「あっつ……でも」
 でも、と。何かを言いかけて結局口を噤んだヴィルヘルムが、有無を言わさず腰を使い始める。
 後は怪我の痛みも身体を繋げる行為の快楽も塞がれた視界の不安も何もかもが真っ白く真っ黒く溶けて、全てがわからなくなっていった。

 ◆◆◆◆◆

 こぽ、こぽり。
 水の音がする。
「ああ、なんだ、またここに来たの?」
 誰かがくすくすと楽しげに囁きかけてきた。その声には覚えがある。その口調には覚えがある。どちらも慣れ親しんだ、自分自身のものだった。
 けれど少し違うのは、彼は俺が気づいていないことまでも突きつけること。
 ――お前は自らの涙で溺れかけている。
 かつてそうロゼウスにつきつけてきたその声が、夢の中で頭に響く。
 そう、これは夢だ。
 俺自身の夢の中だ。
 透明な水に満たされた世界。空も地面もないのに、ロゼウスはそこに立っている。
 こぽりこぽりとどこかで泡が生まれては消えていく。水の中、魂がたゆたう音がする。
 精神世界とでも言えばいいのか。ここはロゼウスの夢の中。そして心の中なのだと。
「そういうこと」
 もう一人の自分が笑う。
「……誰だ、お前は」
 姿はない。声だけが聞こえてくる。それに不満を覚えて険を含む誰何の声をあげれば空間そのものがさざめいた。
「人の陣地に勝手に侵入してきたくせによく言う……」
 声はくすくすと笑う。
「これでいいのか?」
 声に形が伴う。目を擦る間もない一瞬後、そこにその存在は現れていた。
「俺……?」
 声が同じ。口調が同じ。だからその姿が似ている事だって別段驚くほどでもないだろうに、それでもやっぱり自分と同じ顔が目の前に現れれば驚くのは人情というもの。
 目の前に現れたのは、間違いなくロゼウスと同じ顔の生き物だ。
 けれど、何かが違う、どこかが違う。とても似ているのに、微妙に差異が発見できる。
髪の長さは向こうが短く、身長や体格は多少向こうの方が男らしい。
 そして衣装は、古い時代の鎧のようなものを着ている。まだ何も知ることなくローゼンティアでそれが当然だと王城で暮らしていた頃、歴史の勉強中に本で見た古代の兵士の姿そのものだ。
 ……顔がロゼウスとそっくりなだけに、凄まじく似合っていないが。
「悪かったな。だからって鎧の一つもつけなけりゃ、戦場ではすぐ死んじゃうだろ?」
「戦場?」
 心の中で思い浮かべただけのことなのに、相手はきっちりと文句を返してきた。当然だここは精神世界で、自分たちの心は複雑に絡まりあい繋がっているのだから。
 それでも、相手の考えている事はわかるのにその素性事情背景が掴めない。どこから派生したのか推測できない言葉の羅列に、思考が役目を放棄したがる。ああ、なんだこの状況。
「ロゼッテの奴には最期の最期でしてやられたけど、俺もこれでもゼルアータの将を討ち取った英雄だからね。世界の支配者になることを望んだわけじゃないけど、さすがにあの最期は酷いとは思わないか?」
 ねぇ、と彼は笑いかける。
 ロゼウスと同じ、ヴァンピルの紅い瞳。
「はじめまして、ロゼウス=ローゼンティア。俺の名は―――名乗る必要はないか。お前はここで眠るんだから」
「え?」
 突然の宣告に、ロゼウスは目を瞠った。眠る? いきなり何を言っているんだこの男は? そもそもこの世界は夢の中ではないのか?
「そういうことじゃなくってさ」
「じゃあ、何?」
「お前の器を俺に貸してってこと」
「……どういう、意味?」
 嫌な予感がする。
「その身体を明け渡せロゼウス。そうすれば俺が、お前の欲しい物は全部手に入れてやる」
「身体を、明け渡すって……」
 冥府には確か、憑依系の魔物にそんな能力を持つ魔物がいるのではなかったか。けれど、どうして。それはどういう意味だ?
「どうもなにも、そのままだよ。俺はその気になれば、お前の身体を奪って使うことができる」
「だって、そんなの……」
「もともと、俺とお前は同じ人間だ」
「え?」
 ロゼウスと同じ顔をした、古代の自称英雄はうっそりと笑う。
 その笑顔がどこか恐ろしくて、ロゼウスは咄嗟に声が出てこない。なんだろう、夢の中だと言うのに、身体が重い感じがするのは。
 このままでは、大事な何かを奪われてしまう気がする。なのに、足が動かない。逃出したい。逃げられない。
 ふと、身体に激痛と鈍痛が同時に走る。肩と下半身が、それぞれ別の理由と酷さで痛む。
 ロゼウスの方は動けないのに、向こうは平然とした顔でロゼウスへと近づいてくる。両手を伸ばして、そっとロゼウスの頬を挟みこんで視線を合わせた。
「可哀想に、ロゼウス。お前はもう傷つかなくてもいいんだよ?」
「な……何を……」
 思わせぶりなことをいい、薄暗い笑みをはきながら近寄ってきたから何をされるのかと思えば、相手は優しく囁いた。
「この肩の傷も、犯された部分も痛いよね? お前の人生は苦難ばかりだ。もっと抵抗してもいいんだよ? そうやって聞きわけのよい振りして自分を誤魔化していたって、どうせ最期には裏切られてしまうんだから」
「裏切られる? ……誰に」
「この世のあらゆるもの全てに」
 彼は全てを悟りきったかのような笑みを浮かべた。
「ねぇ、だからロゼウス。その身体を俺に頂戴?」
「いや……」
「俺がお前の代わりにその身体で生きてあげる。俺が、お前の代わりにお前の愛しい人まで、手に入れてあげるから。あの時はもう失敗したけれど、今度はもう下手は打たない。ねぇ、だから、その器を俺に頂戴?」
「いや……いやだ!」
 身体の痛みが酷くなる。相手の囁く声が、目に見えない圧力となってのしかかってきた。
 片腕だけ捕まれ、膝から下は力が抜けて相手に縋りつく形になる。全身が酷く重く気だるい。そのロゼウスに、相手はこんなになっても極々優しい調子で話しかけてきた。
「ねぇ、『可哀想』なロゼウス? お前はもう無理しなくていいんだよ?」
「無理なんか、してない……」
「じゃあ、その傷は何?」
「き、ず……?」
 示された肩には、鋭い何かで抉られたような傷がある。
「それに、その身体。自分で自分の姿を見てみなよ。どんなに惨めな姿をしているか」
「え……・」
 反射的に自らの姿を確認すれば、肌には紅い鬱血痕が残されていた。そして、そうと意識して見れば下半身にぬるついた感触がある。身体の奥が、ずきずきと鈍く痛みを訴えてくる。
「かわいそうに」
 ロゼウスを縛り、呪うように声は降って来る。
「傷つけられて犯されて、辛かったでしょう?」
 辛い? 辛かったのか? 俺は?
 夢を見る前を思い出す。壊れかけの灰色の瞳が瞼に浮かび上がってきた。そうだ、ヴィルは……
「覚えていなくて良いんだ。そんな辛いことは」
「なんで……」
「俺がお前を解放してあげるから。大丈夫。お前の願い『も』ちゃんと叶えてあげる。最終的にはちゃんとあのエヴェルシードの少年を与えてあげるから、だからしばらくそこで大人しくしていてよ」
 エヴェルシードの少年。その言葉に、朱金の瞳が甦ると共にハッとこれまでのことが朦朧とした頭と疲れた身体に浮かび上がってきた。
 ヴィルヘルムに傷ついたまま抱かれて失血で意識を失って。なのに俺はどうしてこんなところにいる。こんな状態になっている。
 多くの血を流すと、ヴァンピルには困ったことが起きる。
 自我の喪失。命を守るために本能が勝手に目覚めて殺戮を行う。自分が自分でなくなる。そんな危機的な状況に今まで陥ったことがなかったからこれまでこんな経験をしたことはなかったけれど、ひょっとして今がその時なんだろうか。
 自分は死にかけていて、それを何とかするために狂気の人格が交替しようとしているのか。
「な、何を……っ!」
 腕を掴む夢の中のもう一人に狼狽し上ずった声で尋ねるが、答えてくれない。ただ歪な微笑だけが返る。
 こぽり、と涙の湖に小さな泡が生まれて消えていった。水の中で窒息しそうになる。溺れる。駄目だ。ロゼウスはまだ何一つ。自分の力で果していないのに。
「いいじゃないか、別に。ちゃんと頑張ったところで、誰に褒めてもらえるわけでもなし」
 なんとか身体に気合を入れて意識を保とうとするロゼウスに、けれど彼はやはり甘い誘惑を吹き込んだ。
「眠っていればいいんだよ。ロゼウス。そうしてお前が目覚めた暁には、きっとお前の望みどおりの世界が広がっているから」
「そ、そんなの……」
「できるよ、俺なら。だって俺は――」
 二度目のその名乗りあげは、ロゼウスに深い困惑と、そして微かな絶望をもたらす。
「だ……めだ……」
 勝てない。敵わない。俺の力では。
 このままでは、自分の力を、ロゼウスという存在の全てをこの魂に奪われる。駄目。そんなの――。
 悲鳴をあげた精神とは裏腹に、残された最後の意識が闇に沈もうとする。眠れ、眠れ、と耳元で穏やかに誘われ続ける。
 自らを支えてくれる名を呼んだけれど、音にはならなかった。


150

 誰かに、呼ばれた気がした。
「え?」
「シェ……シエル様、どうなさったんですか?」
 船の舳先で、隣に立っていたクルスが話しかけてくる。先ほど、耳にと言うよりは脳裏に直接届いたような声は、彼のものではない。
 吹き付ける潮風が心地よい。海の風などもっとべたついて鬱陶しいものだと思っていたが、こうして風を帆にはらみ疾走する船の上では、案外に気持ちの良いものだ。
「いや、何でもない……ただ」
 誰かに、呼ばれたような気がした。
「それって……」
 クルスの言葉は途切れ、甲板の奥の方から誰かが駆けてくる。
「おーい! 旦那方! 食事の用意ができましたぜ!」
「ああ。今行く」
 船員の一人に呼ばれて、シェリダンたちは話を中断して男の後について船内へと降りていった。焦げ茶色の木造の狭い廊下を歩く。城の廊下を歩くのとは違って始めはこの狭さに慣れなかったものだが、今では大体この感覚もつかめた。クルスもそのようだった。所詮シェリダンもクルスも環境には順応しやすい軍人だ。
 あのトリトーン港で海賊と一悶着を起こし、その結果手に入れた船でこうしてローゼンティアへの航海を続けている。シュルト大陸の外海を周り、海からローゼンティアへと赴く道だ。
 食堂へ向かうと、むさ苦しい海の男たちの集団と、その中に縮こまるようにして混ざっている元盗賊たちがいる。
「よう、坊ちゃん。今日の飯はポトフだぜー」
 シェリダンが決闘で勝ったことを理由に船員含めもぎとったこの船は、今ではいいように機能している。
シェリダンの目的はとにかくローゼンティアまでの航海だ。永住的な船長の座など興味はない。この期間だけ船を貸せといったら、決闘後の海賊たちは快諾してくれた。
「いや、それは……あんなものを見せ付けられたら誰でも逆らう気力を無くすと思いますよ……」
「あんなもの?」
「シエル様、鬼神のようでしたよ……」
「エヴェルシードの貴族以上の階級なら、あれくらいは当然だろう」
「まぁ、伊達に僕ら軍事国家を名乗ってませんからね」
 クルスは人のことを鬼か何かのように言うのだが、厳密に言うとシェリダンよりクルス自身の方が強い。向こうがシェリダンと稽古なり試合なりで剣を合わせようとしても無意識に手加減が入るのとは違って、敵と対する時のクルスは普段と別人のように酷薄だ。
「それに、ロゼウスは私より強いぞ」
 白銀の髪に血の色の瞳、白い面に薔薇色の頬をした愛しい面影を瞼に浮かべながらシェリダンは告げる。
 会いたい。無事な姿を見たい。名前を呼んで抱きしめ、あの声で名を呼ばれたい。一度考え出すと欲望が止まらずに焦燥は募る。軽口に紛らせて名前を出すとたまらなくなる。なのに、絶対に忘れる事ができない。
 しかし、そのためにも冷静になって、まずは自らの武力戦力を確保する事が第一だ。シェリダン一人ではドラクルどころか、あのヴィルヘルム王にすら勝てない。
 わかっている。知っている。嫌と言うほどに。ロゼウスの力で吸血鬼の能力を身につけたというカミラにさえバートリ公爵エルジェーベトが負けた。エヴェルシード王国一の剣士が。あの人外たちに対応するには、それなりの「力」が必要だ。今までシェリダンにとってそうであった玉座と権力すら、呆気なくカミラに奪われた。なれば一から、全てを作り上げ持っていたはずのそれを奪い返すしかないのだろう。
 そのためには、ローゼンティアに向かうしかない。エヴェルシードにはすでにカミラの根回しが入っているが、混乱に乗じた吸血鬼の王国でドラクルと直接対峙できれば……。
 全ての事態は、あの男が元凶なのだから。
 そしてロゼウスを取り戻す。
 思考に囚われそうになったシェリダンに、クルスの気の抜けた声が届いた。
「え? そうなんですか? でも、戦争の時はへい……シエル様が、勝たれたんでしょう?」
 ロゼウスの方がシェリダンより強いという話の続きだ。感心と半信半疑がない混ぜになったクルスの疑問に、シェリダンは注釈をつけてやる。
「酒場でロザリーを止めたこともある」
「でもあれは、暴走したヴァンピルを止めるのはヴァンピルならではの方法ってことですよね。それに王妃……じゃなくて、ロゼウス様、何か一時期弱ってませんでした?」
「ああ、それは……」
 それは、私が。
「……ヴァンピルには弱点が多いのだそうだ」
「銀とか十字架とか日光とか?」
「まぁ、そんなようなものだ」
 一時期、ロゼウスと険悪になったことがある。一時期も何も元から親しくなる要素がなかったと言われればそれまでだが。だから、鎖で繋いで閉じ込めた。
 自分の行為を正当化しようとは思わないが。あれの魅力は魔性だとも思う。一度目に入ったらもう視線を逸らす事ができない。どうしても欲しくて、手に入れたくなる。
 離れているのが不安で、今頃セルヴォルファスでどうしているのか、まさかあのヴィルヘルムに良いようにされているのかと思えば、気が狂いそうになる。
 荒れ狂う心を無理矢理鎮めた。
「ロゼウスは強い……だが、ムラがある」
「ムラ?」
「ああ。ヴァンピルとはもともとその強大な力を制御するために身体能力を精神性で押さえこんでいるような生き物だが、ロゼウスは特にその傾向が強い、らしい」
 スプーンを加えながら説明を続ける。
「……その情報、誰から」
「ロザリーだ。ロゼウスを除けば、あれと一番会話をしているからな。酒場の時のことが顕著な例だろう。まさかあんな女に簡単に殺されかけたとは不覚だ。しかしいつもあんなに全力では、日常生活を送れないだろう。硝子のコップなど持った瞬間に割れる。そのためにヴァンピルは自らの力を自らの精神で制御するという働きが強いのだと……クルス?」
「そう……ですか」
「クルス、まさかお前、ロザリーが好きなのか?」
 クルスが料理を噴いた。真正面で話をしていたシェリダンではなく、隣にいた海賊の一人に被害が行く。主君であるシェリダンに非礼をおかさないところは臣下の鑑だが、被害者にとってはいい迷惑だ。
さらには椅子を蹴倒し、彼は立ち上がった。いきなり動いたために、狭い船の食堂内で背中合わせの背後の席にいた海賊の一人にそれが直撃し、悶絶している。
「痛ぇ!」
「何するんだよ坊ちゃん!」
「ああああごめんなさい! って、シェリダン様!」
「その名で呼ぶな」
「でででででも!」
「どもり過ぎだぞ、クルス。何をそんなに動揺している。私は気にしないぞ? いっそ全てが終わったら、結婚でもさせてやろうか? お前たちなら家柄と身分もちょうど釣り合うだろう?」
「そ……そ、そんなこと!」
 真っ赤になって、それからふと冷静になって、クルスはこう言った。
「いえ……あの、僕に関しては、別にいいです。だってロザリー姫の好きな方は……」
 クルスが意味ありげにシェリダンを見て、そうして躊躇ってから、胸元に入れている何かを握り締めて言葉を変える。
「……僕のファム・ファタルとはすでに出会いました。他の誰をも、愛する事はありません」
「そうか」
 ようやっと事態が落ち着き、クルスも席に着きなおす。周りで食事をしていた海賊たちは、一様にほっとしたような顔で食事を再開した。そもそも事態を見守るようなことをしなくてもいいのだが。
まぁ、国王として人に見られることが多かったシェリダンも貴族であるクルスもそんなことは気にしないから別に構わないが。
「……私たちは、何の話をしていたのだったか?」
「ええと……そう、ロゼウス様の話ではありませんでしたか? 強さにムラがある、と」
「ああ、そうだったな。ロゼウスの強さは、その時の気分によってムラがある。だいたい戦う者は誰しもその時の体調や状況、気分の高揚や他に気にかかることなどによって実力の増減があるが、ロゼウスの場合はそれが本当に大きい。吸血鬼はそもそも普段は無意識のうちに自分の力に制御をかけていて、普通の人間の力を大幅に越した力は出せないようになっているらしい」
「……ローゼンティアが滅ぼされるその瞬間でも?」
「ああ。そういうものらしいな。だから吸血鬼は長い間吸血ができないと、人格が変わって凶暴になると言うのだろう。生死に直結してようやく制御が外れるんだ。中には意志の力でその制御を完璧にこなせる者もいるらしいが」
 シェリダンが知る限りの中では、ドラクルがそれだとロザリーは言った。だからこそ彼は優秀だと一目置かれていたのだと。しかし今ではわからない。実際は王の血を引いていないというドラクルは、そうでもしなければ国の中枢に立てなかったのだろう。だからこその苦肉の策。
 一方ロゼウスは、自らの力の制御と言う面にかけては恐ろしく下手らしい。もともとの力が飛びぬけていて、普通にしていても人間の国ならば上位者に入るほどの剣や武術の腕前があるからさほど困らないそうだが。だが、それはある一つの事実をも意味する。
「では、もし、何らかの理由によって、ロゼウス様の心の箍が外れ、力の制御があの方の意志とは別のところで行われるようになったら、もしくはロゼウス様が自らの力を完璧に使いこなせるようになったら」
「ああ、そうだな」
 クルスもシェリダンと同じ結論に辿り着いたようだ。
 ロゼウスの力が制御なしで解放される、つまりそれは、吸血の渇望か、そうでなくとも何らかの理由によって、彼が狂気に陥った時。
「その時は、この世にロゼウスに敵う者などいなくなるだろうな」

 ◆◆◆◆◆

 白い海鳥たちが頭上を飛び交う。凪に入ると情けなくしなだれた帆の周りを旋回し、彼らは翼を休めている。
 海は青く煌いて、波が白い光を反射する。遠い緑の上で魚が跳ねて、小さな飛沫が見えた。
 そしてそんな光景を見ながら、シェリダンは苛々していた。
「シエル様……天候のせいなんだから仕方がありませんよ」
「ああ。わかっている。わかっているとも、クルス。だがこの遅々とした進み具合に、我が心がささくれ立つのは止められない」
「ええと……何か気分転換でもします?」
「気分転換も何も、何もないだろうこの船は」
「えーと……まあ、そう、ですよねぇ」
 クルスもついには言葉を止めた。二人同時に、深い溜め息が漏れる。
 凪に入ってしまえば、帆船は進むことができない。人数もそれほどはいないこの船で、人力で漕いで進もうにも一日二日の凪程度で無理矢理体力を使うのもいただけない。凪はあまりにも長く続くようなら問題だが、海賊などもともと海の上が塒だという。長期の航海を基本として作られそれだけの物資が積まれていれば、一日程度その場に留まったところで大きな問題は無い。
 問題は無いが、暇だ。
「いっそ他の海賊でも襲ってくれば、軒並み倒して漕ぎ手として奴隷にした後用済みになったら海に落とせばいいのにな」
「そうですね。でも、ここの船以外もこの凪で留まっているでしょうから、そんな人たちも訪れないでしょうね」
 シェリダンたちが言葉を交わすたびに階下が騒がしくなる。シェリダンとクルスは船の甲板の上部と下部の間、船内においては天井となる床の上からもう一段高く作られた階段のような部分に腰掛けているのだが、下の段は海賊たちが働きまわっている。デッキの掃除をしながら、男たちが「マジかよ! あの坊ちゃんたち!」
「どこまでおっそろしいんだ。普通海の上で戦闘になるなんて命懸けだろ? うちみたいな大所帯だって、歓迎はしねぇぜ」「しかも用が済んだらさっさと海を棺桶にしろたぁ、並みの悪党でもそんな台詞吐けねぇよ!」「もう一人の大人しい面の坊主も侮れねぇ。普通にスルーしてそんな良い獲物転がってねぇって意味合いのこと言ってんだぜ!」聞いたところで面白くもないので後は割愛しよう。
「せめて高いところからでも、何か見てみるか? クルス」
「見張り番をするんですか? シェ……シエル様が? でも、今のところどこを見渡しても海が青いばかりで……ん?」
「どうした?」
「あれ……なんでしょう?」
 クルスが何かに気づいたと同時に、船の周辺にも不審な現象が起き始めた。
「……霧が出てきたな」
 凪のせいで船は一歩も動いていない。いや、船なのでその言い方はおかしいが。だが海上で微動だにしていなかったのは事実だ。それなのに辺りは霧に包まれ始めている――こんなに晴れているのに?
 空が翳るでもなく唐突に立ち上った霧に船は完全に包まれ、霧のせいで空気が灰色に暗く見える。
「視界が利きませんね。これでは……」
 クルスが念のために、と腰の剣に手をかける。だが迂闊に動けば味方をも斬ってしまいそうな視界の悪さだ。何も見えない。
「おい! 船長!」
 自分たちは航海に詳しくない。こういうことは本職に聞いた方がいい。シェリダンは剣を握っていない方のクルスの手をきつく握り、船長が勤める操舵室へと向かった。
「おや、エヴェルシードの坊ちゃん」
「船の周辺にこの晴れ晴れした真昼間に霧が出てきた。外の様子は明らかに怪奇現象だ。これはどういうことだかわかるか?」
 髭面の船長は、シェリダンたちを認めて困ったような顔をした。地図や海図、羅針盤に……よくわからない道具が乱雑に置かれた操舵室で、彼に詰め寄る。
「困ったことになっちまったんだ」
「やはりこれは不測の事態か? これまでの凪はこの前触れ」
「いや、あれはたぶん関係ねぇ、と思うけどよ。たぶん俺たちは捕まっちまったんだ」
「何に? この船の位置からさほど離れていない島々に住むという人魚にでもか?」
 実際に今のシェリダンの知識で思い浮かぶのはそんなことくらいだ。もう少し先に、人魚の入り江と呼ばれる地区がある。しかし目的地がローゼンティアである以上、今のシェリダンたちには用のない地域だ。人魚は上半身が人間、下半身が流麗な魚の姿をしているという、美しい魔族らしい。だが、この地上においてロゼウス以上に美しい存在もないだろうし、残念ながら興味はない。
 それよりもシェリダンたちを足止めするこの霧。
「いや、そういうことじゃねぇ。確かに時々悪戯好きの人魚に船をひっくり返されそうになることもあるが、今回はそういうんじゃねぇ。人魚は大体嵐の時に姿を見せる魔族だしな」
「では、なんだ」
 船長の説明は微妙に要領を得ない。何かを口にしたくなくて本題を避けているようだ。だがシェリダンをはぐらかそうなど、いい度胸だ。
「三秒以内に答えぬと、海に叩き落と――」
「うわぁああ! 待ってくれ! 言う、言うから! ……俺たちは呪われちまったんだよ!」
「「は?」」
 突拍子もないその言葉に、シェリダンとクルスの疑問符が被った。船長の傍らに今まで影薄く控えていた航海士も、肩を竦めている。
「だから、こういった突然の霧は海の呪いの一種なんだって! 俺たちは、始皇帝様の恨みを買っちまったんだよ!」
「始皇帝だと?」
 船長が頭を抱えて叫ぶ中、また新たな一人が操舵室の扉を開いた。
「船長!」
「今度はなんだ!?」
「変なものが現れました!」
「意味がわからねぇ! もっと詳しく!」
「変なものがいきなりバッと現れたんです!」
 こんな場面で何をコントを繰り広げているんだと思ったが彼らは大概大真面目だった。下っ端海賊の一人が酷く慌てた様子で、船長の腕を引いて操舵室の外、甲板へと連れて行く。
「何だぁ? 何があったってんだ?」
「あれ見てくださいよ! あれ!」
 状況を理解するには、この船の最高責任者についていくのが懸命だ。シェリダンたちも彼らの後に続いて、先程四方を霧で閉ざされてしまった視界に何が突然顕現したのかと様子を見に行く。
 そして大口開けて絶句する羽目になった。
「……なんだ、あれは」
 霧の向こうに、灰色の岩窟が口を開けている。
 殺風景な感覚を起こさせるほどに味気のない岩の洞窟なのに、よくよく見れば細部には細かい装飾が施されているのもわかった。何か、酷く意味ありげな。
 一番目立つ入り口の上に描かれた紋章は、どこかで見た事がある。だがどこで見たのか思い出せない。薔薇を模したようなあの図形、どこかで……
「……どうやら俺たちは本格的に、招かれちまったようだな……怒れる海の支配者に」
 しかしシェリダンが何かを思い出す前に、がくり、と肩を落とした船長が、悲壮に呟いた。

 ◆◆◆◆◆

 ――俺がお前を解放してあげるから。大丈夫。お前の願い『も』ちゃんと叶えてあげる。最終的にはちゃんとあのエヴェルシードの少年を与えてあげるから、だからしばらくそこで大人しくしていてよ。
 ――眠っていればいいんだよ。ロゼウス。そうしてお前が目覚めた暁には、きっとお前の望みどおりの世界が広がっているから。
 ――そ、そんなの……
 ――できるよ、俺なら。だって俺は――。
 告げられた名前は、絶望的なもので、ただそれだけの威力で、あらゆる謎も疑惑も封殺した。
 勝てない。敵わない。俺の力では。
 その存在に、勝てるものなどいない。どうして、そんな存在がここにいて、俺に向かって囁く? やめてくれ! 俺から、「俺」であることを奪わないでくれ!
 全感覚全神経、この身体の細胞の隅々まで、余すところなく乗っ取られる感覚に慄いて、声にならない声で唯一の人の名を呼ぶ。届かなくても。
 シェリダン――。

『では、もし、何らかの理由によって、ロゼウス様の心の箍が外れ、力の制御があの方の意志とは別のところで行われるようになったら、もしくはロゼウス様が自らの力を完璧に使いこなせるようになったら』
『ああ、そうだな。その時は、この世にロゼウスに敵う者などいなくなるだろうな』

 そして、望みは叶わない。

 ――憎みます。あなたを。恨みます。私からあの方を奪ったこと。
 ――サライ、俺は……。
 ――言い訳など聞きません。私の夫を、愛する人をあなたは奪った。その事実は変わらない。変えられない。だからあなたは、――として生きなさい。

 ――これは呪いだよ、ロゼ。俺を殺すお前への。
 ――そうだよ。それだけの年月を、お前は世界のために生きるんだ。《帝国》のために その命を捧げろ。俺を憎みながら。
 愛しながら。

 だからお前は、俺になるんだ。

 遺跡の中に足を踏み入れ、湿った洞窟内を歩いた。霊廟じみたその最奥で、思わぬ人影と出会う。華奢な細い姿。夜明けの紫の瞳に長い銀髪の美しい娘。
「――サライ?」
 気づけば音は言葉となって唇から零れ落ちていた。彼はハッと口元を押さえる。何故、自分は今何故そんなことを思った? 言った?
 サライとは女の名前だ。つまり、目の前の少女の名前ということか。彼の言葉を聞いて彼女は薄く微笑んだ。
「シェリダン様?」
 クルスの訝りの声にも答えられない。自分は何故そんなことを知っている? ただ、言葉が、自分のものではない想いが胸の中に溢れてくる。
 少女が優しく残酷に、彼にに向かって呼びかける。
「お久しぶりですね。ロゼッテ=エヴェルシード。いいえ、シェスラート=エヴェルシード陛下と呼ぶべきかしら?」

 初代皇帝、始皇帝はエヴェルシード人であることは知られている。
 かの人の名前は、シェスラート=エヴェルシードというはずだ。

 ――眠っていればいいんだよ。ロゼウス。そうしてお前が目覚めた暁には、きっとお前の望みどおりの世界が広がっているから。
 ――そ、そんなの……。
 ――できるよ、俺なら。だって俺は――。
 シェスラート。
 我が名はシェスラート=ローゼンティア。
 
 さぁ、やりなおそう。この悲劇。
 さぁ、塗りなおそう。偽りのディヴァーナ・トラジェディアを。


151

 そして、望みは叶わない。

「ん……」
 重い身体がずきずきと疼くのを感じて目が覚めた。
 肌には誰かの温もりが触れている。
「ぅ……ロゼウス……」
 上半身だけ起こして寝台の上を見てみれば、白い肩をさらして、背中合わせのようにしてロゼウスが眠っている。こちらに顔を向けないその姿勢が無性に寂しくなって、ヴィルヘルムはそのむき出しの肩に手をかけた。
「ロゼウス……起きて。ねぇ、起きてよ」
 寂しい。
 その綺麗な顔が俺を見ないのは。
 その紅い瞳が俺を映さないのは。
 寂しい。
 ロゼウスがシェリダン王に向けていた眼差しが、あのドラクルに対するよりも暖かくて、幸せそうで、気安くて、何かとても良いものだったということを、知っているからなおさら。
 ――王様になれば、この世の全てが手に入る。
 ヴィルヘルムは敷布に皺を作るほどそれを掴んで、かつての教えを反芻する。王様に、なれば。
 本当に、全てのものが手に入るの?
 ロゼウスはヴィルヘルムを見ながら、いつもヴィルヘルムを見ていなかった。ヴィルヘルムの先にいる誰かを見ていた。それは敵としてのドラクルでもあり、あるいは今は遠く引き離されたシェリダン王なのだろう。
 それがむしょうに悔しかった。
「ね、ロゼウス……起きてよ」
 まだ白い肌に残る鬱血痕、頬には涙の流れた筋。ヴィルヘルムを拒絶する背中。肩口の傷はもう癒えたみたいだけれど、よくよく見ると毛布にその部分を濡らしていた血が移っていた。
 感情の制御ができない子ども、城の中で、そう陰口を叩かれているのは知っている。あんなお子様のお守りをせねばならない大臣たちが可哀想だ。そう、誰からも蔑まれていることを知っている。自分は誰にでも嫌われている存在だ。
 でも、でも、どうかお前だけは。
「嫌わないでよ……おいてかないで。どうか、俺を、好きになってよ……」
 誰か、誰かどうか。
 俺を好きになって。嫌わないで。どこにもいかないで。消えないで。
 どうか、どうかどうか。
 祈りに応えるかのように、ロゼウスの睫毛が震えた。白い瞼がゆっくりと開かれ、紅い瞳が現れる。身を起こす。
 現金なもので、そうして彼が目覚めてしまえば、言葉にならないヴィルヘルムの不安はパッと吹き飛んだ。
「ロゼウス」
 寝起きの身体に縋り付けば、普段は鬱陶しいと嫌がるのに、彼は今日は微動だにせずヴィルヘルムの身体を受けとめた。
「……?」
 おかしい。何の反応も返らない。
 まさか、ヴァンピルは人間より頑丈だからとさすがに肩に大怪我を負ったあの状態で行為を強要したのは無茶だったか? そんなに負担が大きくて一晩立って傷が治ってもまだ調子が戻らないと言う事か。
 悪い想像にザッと音を立てて血の気が引く。けれど、その頃になってようやくロゼウスが動いた。上半身を起こしても力なくだらりと身体の横に下げたままだった腕を上げる。左手がヴィルヘルムの背中に回され、もう少し上がって、髪を撫でた。
 そして右手は俺の左頬に。
「ろ、ロゼウス?」
 紅い瞳がひたと俺を見据えてくる。そして静かに瞼が下りた。
「え……」
 ふわりと柔らかな感触が唇を覆っている。
 口づけられた、と気づいた瞬間には、もう濡れた舌が滑り込んでいた。絡みついて吸われる。気持ちいい。でも、でも。
(なんでっ!?)
 なんでいきなりロゼウスから接吻を? だって、ロゼウスは俺をどうとも思ってない。むしろ、憎んでいるはずだろう? なのにどうして。
「ん……んぅ……ふ……」
 唾液を零して、舌を絡めあう。敏感な口の中の粘膜をあますことなく堪能し尽くそうとでも言うような、深い口づけ。それだけで、背筋にぞくぞくと快感の震えが走る。
 それでも何故だろう、嬉しいはずなのに、酷く怖い。
「は……」
 ようやく解放された時、ヴィルヘルムは息も絶え絶えだった。情けなく舌を垂らして酸素を貪り喘いでいると、またふわりと、白い指が頬に触れた。信じられないほど優しい手付きで、肌を撫でる。
「ロゼウス……」
 それに誘われるようにして、ヴィルヘルムは顔を上げた。
 ロゼウスは美しく微笑んでいる。
 けれどその笑顔を見た瞬間、ヴィルヘルムの中で何かが大きく警鐘を鳴らした。どくん、と心臓が跳ねる。
 違う。これは違う。
「――誰だ、お前は」
 言った瞬間、これまでとは構図が逆転してヴィルヘルムは天井を見ていた。その視界に、ひょい、とロゼウスの姿をしたその『誰か』が映りこむ。
「おかしなことを言うね。ヴィルヘルム。俺はお前の知っているロゼウスだろ」
「違う……違う! 違う! 誰だよ、お前は!?」
「だから、ロゼウスだってば」
 おかしい。なんだこれは。ヴィルヘルムはロゼウスに肩を押さえ込まれるようにして寝台に縫いとめられている。片腕一本で。
なんで、なんで振りほどけない! これまでは確かに、腕力は俺の方が上だったのに!
「離せ」
「どうして?」
「離せ!」
「俺が好きなんだろ? ヴィル」
 違う。ロゼウスはこんなこと言わない。こんな人じゃない。
 ――……自分の想いに、素直になればいい。俺がお前に言えるのはそれだけだよ。
 昨夜かけられた言葉を思い返す。あの言葉に込められた意味を、ヴィルヘルムはまだ見抜けなかった。わからなかった。今更涙が込み上げる。
 目の前で自分を押さえ込んでいる男は、自分が知っているロゼウスじゃない。
「いやだ。返して。ロゼウスを返してくれ! 俺が好きなあの人を!」
 目の前の少年……いや、身体はロゼウスだけれど、浮かべる表情はもっと大人びたものだ。彼は怒りも喜びも、蔑みも憐れみも何も返さずにただ微笑んでいる。
 ヴィルヘルムは初めて、この人を怖いと思った。

 ◆◆◆◆◆

 雨が降り始めた。
「……始皇帝の、涙」
 ジャスパーは空を見上げる。灰色の曇り空から水の矢が降ってくる。ざぁざぁととめどなく降って、彼の顔を濡らす。
 髪を飾る宝石の台が錆びてしまいそうで、慌ててそれをローブのフードで隠した。
「待ってて。ロゼウス兄様」
 無意識に腰を撫で、紅い薔薇模様の紋章が浮かび上がっている辺りに触れながら呟く。兄様。大事な兄様。自分はあの方のために生まれてきた。
 頬に当たる雨粒は鬱陶しくて、一度目を閉じた。もう一度開いた時、視界広がったそらの一面の灰色が、瞳みたいだな、と思った。ああ、確か僕がこれから向かうセルヴォルファスの民は、こんな瞳の色をしているのではなかったっけ。
 泣いているのはセルヴォルファス。
 そして泣かせているのは……
「誰なんだろうね」
 身体の奥から楽しい気持ちが込み上げてきて、ジャスパーは哄笑をあげる。
 雨は絶え間なく降り続け、ジャスパーが殺して地面に打ち伏した盗賊たちの血までも、綺麗に洗い流していった。


 《続く》