139

 ひたひたと上がってきた水位が壁に寄りかかった体を飲み込んでいく。足首に濡れた感触。それは徐々に徐々に脛を膝を太腿を舐めていき、ついには腰に達する。
「ん……」
「起きたか」
 罅割れたような声が耳朶を震わせる。覚えのある地獄に、ハデスは目を覚ました。
「ん……なんで、タルタロスに来てるの?」
「我が連れて来た。主、お前には休息が必要だったようだからな」
 地上では醜悪なモンスターの姿をとる冥府の魔物も、ここ、地下世界タルタロスでは自由に力を振るい、その身を変えることができる。先日ハデスが呼び出した魔物は、背の高い女の姿をして、岩に背を預けて座り込んだ彼を見下ろしていた。
 眠りにつく前の記憶で、てっきりどこかの部屋の壁に寄りかかっているものだと思ったハデスの予測は間違っていた。目を開けたら、それは戸外だった。
 いつも薄紫色の空が広がる、地下の世界、つまりは死者の世界タルタロス。この地には紫色に染め上げられた永遠の夜が広がっている。
 ハデスは泉の中にいた。温泉と言うほどではないけれど、温くて気持ちのよい薄緑色の温度の水。というかお湯。に、腰までを浸して上半身だけ起き上がって泉を囲む大岩に背をもたせかけられていたのだ。
 触手相手とはいえまあ事後は事後だから裸であることに異論はないのだが、だからといって近くに服が見当たらないのは困る。いつまでここに浸かっていればいいんだ自分は。というか、ふやけるだろう。温泉の中なんかで眠ったら。
「どうりでシェリダンに術をかけるとき、やけに効き目がいいと思ったら……」
 あれはタルタロスの魔力に助けられてのものだったのだと、今更になって気づく。冥府の王の称号の通り、ハデスの力が使えるのは冥府の影響が届く範囲だけ。普段はこうして魔物との契約や何かで誤魔化し誤魔化し魔術を使っているが、さすがにここから離れて魔術を使うのも限界だった。
「体の方は回復したか? 主よ」
「って、どうせこっち連れてくるなら、わざわざ上でヤらなくても良かったじゃんか……」
 だからといって、これとこれは別だ。冥府にいれば自然と力が増すのだから、わざわざこの魔物が地上で動きやすいように餌である人間を食わせてやる必要はない上に、それが足りないからと言って、ハデスが身を捧げる必要もない。
「何を言う。人間の味は人間の味でまた別腹だ。我は主の捧げた生贄の数が足りないからと、その正当なる報酬で行為を要求したのだ。ちょうど、エレボスの監視者も気を抜いていたところだしな。上手い具合に戻ってこれた」
「あ、そ」
「別に良いだろう。向こうは特に急ぐ用事でもなし」
「十分に急ぐ用事だよ。あと半年しかないんだ!」
 冥府の魔物のあまりにもおざなりな態度に、ハデスは腹が立った。こんな温泉につかってのんびりしてる場合じゃない。僕は、早くあいつを殺さないと……。
「薔薇の皇帝ならば殺せないぞ?」
「何故!」
 契約と言う術で繋がっている相手、その上こんな近くにいる場合ではこちらの思考なんかこの魔物には筒抜けだ。先ほどの発言に加えまたしてもあっさり言われてしまったそれに、なおさら怒りが込み上げる。
「何故も何も、あの王子の力はもとより主を上回っている。ヴァンピル相手に、人間が勝てるわけないだろう?」
「〜〜〜〜、僕は、黒の末裔だ」
「そうだな。だが人間であることには変わりない。地上であの狼坊やにも言われていただろう」
 確かに、生贄を要求した時にロゼウスに飲ませる血を手に入れるために人間を残しておけという話になって、その時ヴィルヘルムに言われたのだった。お前も人間だったな、と。
 しかし何故それを。
「どうして、お前がそんなこと知ってるんだ! いつから覗き見してた!?」
「主、我は主のことならなんでも知っている」
「ふざけんなこのストーカー!」
 怒鳴ったらやたらと疲れてしまった。
 ずるずると背後の大岩に身を預け、温い湯の中に沈みこむ。
 パシャン、と音を立てて女型の魔物はハデスの上に覆いかぶさるような形で薄緑の湯にその長い手足を浸す。
 ちなみに姿は女型とは言っても、実際にその体が女性であるかというとそうでもない。むしろ、顔がこれでも体は男性型という場合も多い。顔の美しさは、それで餌である人間をおびき寄せるための疑似餌だという。古今東西、綺麗なお姉ちゃんに弱いのは男の性だ。
「お前は何がしたいんだよ……」
 いきなり冥府に連れてこられて、こんな場所で、こんな奴とくだらないネタで喧嘩して。
「はぁ……」
「疲れているな。主」
「誰のせいだと思ってんの?」
「どうせならそのまま休まないか? あと半年ほど」
 その言葉に、ハデスはぴくりと肩を揺らした。
「何が言いたい?」
「あの王子に手を出すのは、もうやめろ」
「どうして!」
 言葉は問いかけではなく、糾弾だった。ハデスは魔物の襟首を掴む。邪魔はさせない。誰にも、こいつにも。
「言っただろう。主、お前の力では、あの男には勝てない」
「そんなこと、」
「やってみなければわからないなどと言うなよ、大預言者」
「っ!」
 唇を噛んだ。切れた。ピリリと痛みが走り、錆びた鉄の味がした。
「預言者よ……お前は知っているのだろう。視たのだろう。未来を。だったらわかるはずだ。薔薇皇帝の即位は止められない。未来は変わらない。むしろあの王子に関われば関わるほど、お前の人生は地獄へと転落し続ける」
「そんなの、今に始まったことじゃない!」
 転落? 地獄? 今更だ。何を気にすることがある。
 最初からこの命に意味も価値もなかったんだ。
 最初から僕は地獄に堕ちるために生まれてきたんだ。
 何もしなくたって、どうせ地獄に堕ちるんだ。
 だったら最期まで、足掻いて足掻いて足掻いて生きる。このままただ緩やかに死を待つだけなんてことは、絶対にしない!
「最初から僕は姉さんのために生まれた。姉さんを満足させるためだけに。禁じられた近親相姦を犯して、いつ実の姉を孕ませるのかと怯えながら、他方では皇帝の愛妾だと蔑まれ罵られ……っ、帝国宰相になってもそれは変わらなかった。姉さんが生きている限り、僕の人生は地獄だ!」
「ハデス……」

「だから僕は、姉さんを殺す」

 あの人がいるからいけない。あの人さえいなければ、僕は幸せになれるのに。
 ――でも僕はきっと、姉さんから離れては生きていけない。
 腕を突っ張って、覆いかぶさる魔物を押しのける。特に抗うこともなく、魔物はすぐに僕の上から退いた。
「ロゼウスが次の皇帝になるというのなら、姉さんはもうすぐ死ぬということだろう」
 薔薇の王子、ロゼウス。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 彼こそが次の皇帝。第三十三代皇帝。
 薔薇の皇帝。
 ハデスはその運命を知っている。魔術に優れた黒の末裔は様々な能力を持っている。その中の一つ、《予言》と呼ばれる予知能力によってハデスは未来を知った。ロゼウスが皇帝になる未来を。
 次の皇帝がすでに決まっているというのなら、今の皇帝はもうすぐ退位するということだ。ただしそれは普通の国の、普通の王の話。彼女は《皇帝》である。
 皇帝になった瞬間から年齢を止める不老不死の存在。彼女を殺せる者などいない。
 皇帝を殺せるのは、皇帝だけだ。つまり次の皇帝が、力の衰え始めた前の皇帝を殺すのだ。順番から行くならハデスの姉、デメテルはロゼウスに殺される。
 そんなことは許さない。
「あの女を殺すのは僕だ。僕が姉さんを殺して皇帝になるんだ」
 ロゼウスなどに邪魔などさせるものか。
 ハデスはぬるま湯の泉から立ち上がる。裸身に冥府の風が吹き付けた。露になった右腕に、漆黒の紋様が浮かび上がっている。これは皇帝を選ぶ選定者の証。
 まだ変わらずにこの腕にあるその紋様を見て、決意をさらに硬くする。
 ハデスのその様子を見ていた魔物が、ぽつりと呟いた音が耳に入り込んできた。
「愚かだな。人間と言う生き物は……変わらないとわかっている運命に、結果の見えている戦いに、それでも身を投じるのだから。まるで遠回しな自殺志願者だ」
 だいたいなんであんな短い寿命で悲惨な人生ばかり生きる人間が多いくせに、親は不幸になるとわかっていて子供を生むんだ? 理解できないと言った風情の魔物に、ハデスは薄く笑いかけた。
「そうだよ。人間なんてみんなみんな、根暗で悲観主義の自殺志願者ばっかりだ」

 そして、人生など、白骨にばかり祈る永遠の夜。


140

 脳天にまで痛みが突き抜ける。
「…………っ!!」
 あまりの衝撃に、激痛に、声も出ない。
「っ、ぁ……っ!」
「痛い?」
 薄暗い声が降って来る。
「次は左足」
 虚ろに病んだ声と共に、腕が膝の裏を滑った。そうして膝下の真ん中辺りから、先ほどと同じように力が込められる。
「次は腕。それとも肩外す? ……ああ。でも外すだけじゃ、すぐににげられちゃうだろうから……」
 やっぱり折ろうか、呟くようなヴィルヘルムの言葉と共に、左腕がとられた。力を込めて、両足と同じように折られる。その瞬間の痛みは何度感じても慣れず、また体を跳ねさせると知りながら、彼は四肢の最後の一箇所に手を伸ばす。右腕も折られた。
 これでは一人で起き上がることもできない。このまま動けない。ちょうどその場所は寝台で、そのまま情けなく伏せったロゼウスにヴィルヘルムは柔らかな毛布をかけてくる。
「言っただろう。逃がさないって」
 くすくす、と。
 毛布に閉ざされた視界の上から病んだ笑いが降って来る。笑声は絶望に黒く染まり、嗜虐的なその行為にも、辿れるのは歓喜ではなくむしろ凍えた悲哀だけだった。
「ヴィ……」
「俺のものだ。ロゼウス。逃がさない。どこにも行かせてなんかやらない」
 先ほどロゼウスが言った言葉は、どうやら彼の痛いところをついたようだ。言葉で痛めつけられたお返しに、言葉でロゼウスを傷つけられない彼はロゼウスの体を痛めつけることを選んだ。
「お前がヴァンピルなのが本当に惜しいよ。ロゼウス……」
「っ……ぁあああ!!」
 わざと折れた箇所を甚振るように突く指に、頭の中で火花が散った。
 ヴァンピルであれば、こんな傷はすぐに治る。酷く綺麗に折られた両の手足は出血を伴わない。血さえ足りていれば、ヴァンピルの治癒速度は人間など比べ物にならないほど早い。
 それをヴィルヘルムは惜しむように、ロゼウスが横たわる寝台の端に腰掛けながら、言った。
「お前がただの人間なら、死なない程度に手足斬って、這いずっても逃げられないよう首輪で繋いで俺のものにしたのに」
 両手足を折られたところで、このぐらいの傷、まる一日もあれば治る。傷の種類と程度にも寄るが、ヴァンピルの傷の治りは異様に早い。
 それでも吸血で命を繋ぐ生物だけあって出血に弱いヴァンピルは、ある程度以上血が足りないと死に至る。四肢を切断するなどもっての他だ。斬っても後で蘇生する時に繋ぎ合わせることができるが、逆に言えば体の各部分が揃わなければ蘇生はできないということ。手首の一つ足の一本落っことして生き返るなんてことはできない。
 ヴィルヘルムは毛布をずらし、ロゼウスの視界を明るくする。見えた天蓋を隠すように、ひょいと目の前に顔を出した。
「好きだよ、ロゼウス」
 ロゼウスよりも少しだけ幼い少年の手が頬に伸びてくる。
「ずっとお前が欲しかった。ロゼウス王子。ドラクルにお前と引き合わされたあの時から」
 ロゼウスはそんなこと思ってなかった。
 俺の人生にお前なんていらなかった。むしろ無理矢理押さえつけられて獣に犯されたという事実は酷い傷として残った。できるならば二度と、顔も見たくなかった。なのに。
「な、んで……」
「お前が好きだから」
 答えになっていない。何故ヴィルヘルムがロゼウスを好きなのか、ロゼウスはそれを聞いているのに。
 シェリダンのことはなんとなくわかる。彼がロゼウスに向けてくれたものは、上手く言葉にできないけれどロゼウス自身にもわかるくらい特別だった。
 けれどヴィルヘルムは違う。この少年が真にロゼウスに望んでいるものは、ロゼウス自身の存在なんてものではない。何かの代替品だ。
「お前はまるで麻薬だな。一度味わえばもう手放すことなんてできない。習慣性があるみたいに、ずっと、何度だって欲しくなる。近づけば近づくほどその思いは強くなるばっかりだ」
 四肢が痛む。
「俺は、お前なんていらない」
 さすがにもう頬を張られることはなかったが、まだ肌に触れたままのヴィルヘルムの顔が歪んだ。
 今にも泣き出しそうに。
「……っ!」
 表情を歪ませたヴィルヘルムはロゼウスの両目の上に手のひらを当てて再び視界を封じた。閉じた瞼の上、手のひらの温もりを感じる。
 そしてむき出しの頬には、ぽたぽたと落ちる滴を感じた。
「泣いているのか? ヴィルヘルム」
「ああ。お前が酷いもんで」
 ぽたぽた。ぱたた。
 やまない雨。涙の雨。
「ロゼウス王子。ドラクル王子に苛め抜かれて心も体もズタボロにされて、可哀想な可哀想な王子様」
「……ヴィル?」
「可哀想だけど、でも本当は全部を持ってる王子様。ドラクルがあんなに執着してた王位継承権も玉座も、ローゼンティアはみんなみんなお前の物。全部お前の物」
 王子様の中の王子様、と、ヴィルヘルムは淡く呟いた。視界が塞がれているので、その顔は見えない。ロゼウスは彼に両目を手のひらで塞がれたまま、見えない視界に目を凝らす。見えるのは、目の前の彼の顔ではなかった。
「ドラクルは可哀想。先に生まれてきたのに、望まれて生まれてきたはずなのに全部ロゼウスにとられて、可哀想」
「ヴィル、何を……」
「カミラ姫も可哀想。彼女は正妃の娘なのに妾の第二王妃が産んだシェリダン王子が全部持って行って何一つ残されなかった。可哀想。ハデス卿も可哀想。最初から搾取されるためだけの、皿の上で食べられるだけの肉として生まれて、いいように食われ続けてる。可哀想」
 ヴィルヘルムはただひたすら可哀想だと告げる。ドラクルが、カミラが、ハデスが。でも。
「お前たちだって可哀想だよ、ロゼウス王子。ドラクルに苛められたお前と、実の父親に虐待され続けたシェリダン王子。お似合いだよね。ああ。そういえば現皇帝デメテル陛下もそうなんだってさ。親からの虐待。それで大人も他人も信じられなくて一番近い血族でありハデスを作らせたんだって。滑稽だよね。笑っちゃう」
 閉ざされた視界では彼がどんな顔をしてそれを言っているのか見ることはできない。
「じゃあ、お前は?」
「俺?」
「そうだ。お前は可哀想じゃないのか?」
 ロゼウスにもシェリダンにも、敵にあたるドラクルやカミラ、ハデスや皇帝デメテルにだって誰だって戦う理由がある。今の自分たちを戦いに向かわせる過去がある。
 じゃあ、この王、セルヴォルファスのヴィルヘルムの持つ「理由」はなんだ?
 彼は何のために戦っている。彼の何が可哀想だという?
「俺は可哀想なんかじゃない」
「ヴィル……」
「俺は、お前たちみたいに可哀想になんかならない。絶対に」
 表情こそ見えないけれど、堕ちてきた声音は酷く凍えていた。
 そしてまたクツクツと、壊れたように彼は笑う。笑いながら、空いた片方の手でロゼウスの顔に触れる。閉ざされた視界のせいで触覚が異様に敏感になり、唇をなぞるその指の形さえ敏感に受け止めてしまう。
「この口を縫い閉じて、この両目を縫い閉じて、手足を斬りおとして、首輪に繋いで、鎖でがんじがらめにして」
 唇を辿る指のせいで、声をあげることもできない。
「そうして、ただ単に性欲処理の肉奴隷だけにしてでも側に置いておければ、どれだけいいか……」
 指先は唇を離れ、輪郭へと映る。
「そうでもなければ……もういっそ、命なんかいらない。首だけを斬りおとして硝子箱に飾っておければ……」
 鼻の先に、ちゅ、と啄ばむような口づけが落とされた。ほんの微かに濡れたような感触が残るのがこそばゆい。
「それだけで、……それが、よかったのに」
 何度も何度も繰り返すその様は、まるで永遠に手に入らないものを求め続ける子どものようだった。

 ◆◆◆◆◆

 目の前にロゼウスとは及びもつかない醜い顔が並んでいる。
「ヴィルヘルム様……」
「なんだよ、大臣たち。俺はお前らみたいなヤツラの相手をする趣味はないんだ。お小言ならさっさと終わらせてくれ」
「陛下!」
「うるさい! 俺はこの国の王だぞ! この国の全てはもう俺のもののはずだ!」
 ぎりりと唇を噛み締めてこちらを睨んできた男の一人に怒鳴り返し、ヴィルヘルムは玉座で足を組む。セルヴォルファスの城は荒野の山を削り出して作っているものだから、当然エヴェルシードや他の人間の国とは似ても似つかない簡素さだ。どれだけ豪華な調度を並べても、壁は岩肌そのままなのだから。
 その灰茶色の暗い牢獄のような王城で、ヴィルヘルムは十六年間育ってきた。先日のエヴェルシード訪問の前は、ハデスに紹介されてドラクルに引き合わされるまでこの国を出たことがなかった。
 囚われていた。閉じ込められていた。繋がれていた。この国に。
 見識を深めるとか他国との交流とか、そういうものとはずっと関係のない位置にいた。
 今でこそセルヴォルファス国王の座についてはいるが、もともとヴィルヘルムは第二十六王子。
「国王陛下」
 気に食わない大臣たちの中では唯一ヴィルヘルムに対しても誠意をもって接しようとする一人が口を開いた。
「どうか、自覚を持ってくだされ。この国を継げるのは、もはやあなたしかおらぬのです」
「従兄弟がいるだろうが。テュールが」
「そうですが、テュール様はやはり直系の王族ではございません」
「俺よりよっぽど家柄がいいけどな」
 俺に対しては、妾の子だ、所詮は娼婦上がりの第十二王妃の子だと蔑まれているのは知っている。それに比べて年上の従兄弟であるテュールは王弟の子だが、きちんと高位の貴族を母に持つ高貴な血筋のお坊ちゃんだ。
「ヴィルヘルム様……どうか、態度を改めください」
「イヤだね」
「殿下」
「今の俺はもう王子じゃない、王なんだよ! この国の!」
「王とは、国を好き勝手に蹂躙し使い減らす存在ではございません。民のためを思い、民のために行動する、人の願いの形代なのです。あなた様のわがままでこの国を疲弊させることは許されません」
「疲弊? どこが? 俺は別に財政を揺るがすほどの浪費はまだしていないし、私兵にしろ国の軍にしろ動かした覚えはないぜ?」
「そうではありません。国交の問題です――ローゼンティアの王族の方を、囲ってらっしゃいますね?」
 その言葉に、ヴィルヘルムはそれまで適当なところに向けていた視線を、何人かの跪いている大臣たち(十数人いると思うが数えるのが面倒くさい。名前ももちろん覚えていない)の一番手前にいる男へと向けた。
「どうして知ってる?」
「あれだけお騒がせになれば。人間の奴隷を一度に四、五人も殺したのは何故です?」
「それはハデス卿に頼まれたから」
「陛下」
 ああ、また説教だな、と思った途端にやはりお小言が始まる。
「帝国宰相と手を結ぶのはおやめください。あの者は、現皇帝陛下に謀反の疑いをかけられているのですぞ。大地皇帝の怒りを買えば、この国がどうなるか……」
「大地皇帝なんて目じゃねぇよ。あんなオバハン、あと半年で死ぬらしいし」
「陛下! いくらなんでも皇帝陛下への暴言は許されませぬ」
「俺に指図するな!」
 ああ、うんざりだ。鬱陶しい。どいつもこいつも、どうしてこんなに……
「ヴィルヘルム様……」
「若僧が、転がり落ちてきた玉座の権威に溺れおって……」
「しっ!」
 今更言葉を封じても、遅い。
「おい、そこの後から二列目右から三番目の男。お前」
 口元に残酷な笑いが込み上げる。血が見たいのはワーウルフの本能だ。
「お前、死ね」
「な、何を仰るのですか、陛下!」
「おやめください、ヴィルヘルム陛下!」
 ヴィルヘルムは玉座から起き上がり、狼狽して硬直する男へと歩み寄った。指名された大臣は動けずにその場に跪いたまま、両脇の大臣たちが必死で動かそうとする。
 けれどその彼らも、ヴィルヘルムが男の目の前に立つとそそくさと逃げていった。
「この国に生きる限り、俺の命令に逆らう事は許さない」
「ぐっ!」
 手を伸ばして片手でその顔を掴む。顔の形が変わるほど手に力を込めると、ぎしぎしと頭蓋の軋む音がした。
「ぐわぁああああ!!」
「うるさい」 
 悲鳴を短く切って捨てると、耳障りな断末魔をも途切れさすためにさっさと首を跳ねた。口から、切り口の首からごぼりと赤黒い血が溢れ出る。
「――っ!!」
「ティタン大臣!」
「誰か、衛兵を呼べ!」
「へぇ? 呼んでどうするんだ? 王様が乱心したから捕らえろとでも言う気か?」
 ヴィルヘルムの言葉に、血の臭気に浮き足立つ謁見の間の残りの者たちはぴたりと動きを止めた。
「ヴィルヘルム様……いくらなんでも、これは身勝手が過ぎます。ティタン大臣は、これまでこの国のために粉骨砕身して滅私奉公いたしてまいりました」
「だから? だからどうした。この国のために動いても、俺のために動かない部下などいらない」
 すでに血の海に沈む肉塊となった男を見下ろして、ヴィルヘルムは口を歪める。
「何が衛兵を呼べ、だ。できもしないくせに。この国で今一番強いのは、俺なんだよ。大臣ども。ワーウルフの王族の最低条件は強いことだろう? 一族の中で最も強い者が王となる。自然の理だ」
「……我々がワーウルフではなく、ただの魔族であったならばそのお言葉は正しいのでしょうね」
 大臣の一人がぽつりと零した。
「誰か、人を呼んで、ティタン大臣の亡骸を清めて弔いの準備をしなさい。この広間を清掃する者も、集めてくるように」
「は、……はいっ!」
 大臣と呼ばれる役職につく人間の中でも下っ端の一人が、長老然とした老齢のワーウルフの言葉に従って部屋を出て行った。
 ヴィルヘルムはそれを気のない様子で眺めて、玉座へと戻る。灰白色の床に、血の足跡がついた。どうせ片付けるのは自分ではなくて召し使いの者たちだ。だからどうでもいい。
「ヴィルヘルム様……まだ、お分かりにならないのですか……」
「何が?」
「力では解決しませぬ。いいえ。解決だけならするでしょう。それぞれにとって、最悪の結果という形で。それが信念なき力なら、なおさら」
「何が言いたい」
「あなた様は、それだけのお力が、それこそ高貴な血筋とあなた様自身で評したテュール様よりも強い力を持ちながら、その正しき使いどころを知りません。意志なくした力はそこにあるだけでただの凶器。抜き身の刃をそのままで床に転がす方がありましょうか。どうぞ、その刃を収める鞘をお持ちください」
「だから、何が言いたいんだってば」
「ご自分でお考えください」
「あ?」
 大臣はそこで言葉を止め、じっとヴィルヘルムの方を見つめた。
「ローゼンティアの王族のこと、先日までエヴェルシードに出かけていたこと、帝国宰相と手を結んでいること。どれも我らの眼には正しき行いとは映りません。それでもあなた様の中にしっかりとした志があるならば、我々も信じたことでしょう。ですが」
 その男は悲しげに目を伏せ耳まで垂れさせると、言った。
「……第二十六王子ヴィルヘルム様。確かに、継承権の低いあなた様を侮り、玉座につくことなど万に一つもないだろうからと教育に手を抜いたのは我らの咎です。あなた様を咎める分だけ、我々も責を追いましょう」
「……」
「どうか、今からでもお考えください。良き王とは、どのような存在であるのか」
 ヴィルヘルムが口を開く前に、男はこちらに背を向ける。
 謁見の間には誰もいなくなった。掃除夫たちはまだ来ない。
 ヴィルヘルムは一人、ぎりりと唇を噛み締める。
「良い王? 国のため? 馬鹿な。そんなことをしたって、誰が俺に報いてくれる。何が俺のために行動してくれるっていうんだ」
 嘲笑う。
 国を、世界を、大臣たちを。
 そして自分を。
「欲しいものはどんなことをしてでも、どれだけ血を流したって手を伸ばさなきゃ駄目なんだよ。遠慮なんかしてたら、幸せにはなれない。だから俺は……」
 転がり込んできた玉座。与えられた力を十二分に利用して、自分の欲しいものを求める。
 どんなに声を嗄らして叫んでも、どうせ世界は、答えてなどくれないのだから。


141

 腹部に巻かれた包帯を解いていく。しばらく前から純白で、先日のような血の染みはもう残らない。ただ、ただ白いだけの包帯を、くるくると外していく。
 差し出された衣装はこちらの意向に沿って簡素だった。装飾の派手な貴族の式服ではなく、いつもの慣れた軍服でもないが、生地は丈夫で見るものが見れば良い品だとわかる。けれどそれをあからさまには悟らせないようにそこかしこに安物のような細工を施し、わざとつまらない品へと見せかけている。
 自分を刺した男による、最後の心遣いなのだと。
 衣装を着込み、手荷物を纏めたところで扉の外から声がかけられた。
「……シェリダン様」
「エルジェーベトか、入れ」
 礼儀正しいノックの後、遠慮がちに名を呼ばれた。全ての準備が整っていたシェリダンは言葉で諾を示し彼女を部屋へと招き入れる。ここはまだジュダの城であるイスカリオット城内ではあるが、先日血まみれにしたあの部屋ではない。公爵を迎え入れるにも、申し分のない場所だろう。
 何しろ玉座を奪われ王位を剥奪されたシェリダンより、公爵の地位にあるエルジェーベトの方が今は身分が高いのだから。そんな皮肉が頭を掠める。
 歪んだ口元に、数週間ぶりに見た女は訝しげな顔をした。
「陛下。お怪我は完治なさったと聞かされたのですが、まだどこか痛みますか?」
「そう案じずとも、傷はすでに癒えている。……エルジェーベト、もう陛下と呼ぶな。私はすでに王ではない」
「そんなことを」
 今度はエルジェーベトが顔をしかめる番だった。もういい年なのだからそろそろ眉間に皺を寄せるのはやめた方がいいのだろうが、彼女は盛大に肌にそれを刻んでいる。
「カミラ殿下のなさったこと、私は認めるわけには参りません。陛下、この国の王はいまだあなたさまでございます。そうでないなどと――」
 仰らないでくださいと続いたはずのその唇を、シェリダンは指先で封じた。戦場に在ってさえ宝玉のような美貌を誇ると謳われたバートリ公爵の美しい唇に塗られた鮮やかな紅が、爪に色を移す。
 驚いた顔をする彼女に、にっこりと、それはそれはわざとらしく笑いかけることでシェリダンはこの意志を示す。
「現状を正確に把握し、それを受け入れねば未来はないぞ、エルジェーベト。……そう、自分が今現在玉座にないのだと思わなくば、簒奪には簒奪で返すなどという思考が展開できるはずもない」
 驚いて丸くなっていたエルジェーベトの瞳が、見る見る、獲物を見つけて歓喜に打ち震える猫のように凶悪に細まった。シェリダンはその唇から指を離す。指先に移ったルージュのせいで、爪が血に染むように赤い。
「では、信じてもよろしいのですね?」
「当たり前だ。今更カミラなどに渡さぬ。それだけではない、私が奪われたもの全て、取り返して見せよう……そう、まずは」
 まずは力を得ることだ。玉座から追われて全てを失ったシェリダンには今、何の力もない。このままイスカリオットの元にいるのも不安があるし、エルジェーベトのところに身を寄せたところで、すぐにカミラの追っ手がかかるだろう。シェリダン一人の問題ならばまだしも、その気性の気まぐれ故にさほどシェリダンの部下としての名は通っていないエルジェーベトまで巻き込めば、それこそ後ろ盾が失われる。そうなってしまっては、終わりだ。
 同じことを目の前の女公爵も考えていたのか、シェリダンの耳元に唇を寄せて告げてきた。
「陛下、ユージーン侯爵の行方が知れません。イスカリオット伯の話によれば、カミラ殿下に囚われたとのことですが。情報が全く入ってこないので詳しい事は何一つ……かの家はすでに侯爵の名を別の血族に継がせて、クルス卿を切り捨てなければ爵位を剥奪するとの令が下されています」
「そうか。……クルスが簡単に死ぬとは思えないが、これでユージーン家も敵に回るな」
「抜け殻の伯爵の方は?」
「ジュダか。あれはもう放っておいていい」
 シェリダンとジュダの間で、静に決着はついた。茶番のような狂った愛を押し付けてきた男をシェリダンは拒絶し、切り捨てた。
 なまじここまで来てしまっただけにジュダがこの先どうするのか、気にならないといえば嘘になる。
 だが、今のシェリダンには彼のことまで気にかけてやる余裕がないのが事実だ。
 一番大切な者はまだ奪われたままだ。こちらは半分不死身のようなもので、その点においては行方知れずのクルスより安心と言えば安心だが、何しろ捕まった相手が悪い。
 セルヴォルファス王ヴィルヘルム。
 かねてよりロゼウスに執着していたあの男。カミラやドラクルと結託して、今度のことに手を加えた忌むべき相手。ジュダの口から聞けたのは、その相手の元にロゼウスがいるという情報だった。
 椅子ではなく、寝台の端に腰掛けながらさらなる情報をエルジェーベトの口から求めた。
「エルジェーベト、ローラやリチャードたちの行方は?」
「まだ、はっきりしたことは……。申し訳ございません。彼らとあの場にいたローゼンティア王族のほとんどの方々が共に行動している事は確かなのですが……」
「何か、隠しているな?」
 エルジェーベトは一瞬顔色を変えた。
「どう切り出すべきか迷ったのですが、陛下、いえ、シェリダン様、お聞きください。彼らは一度我が城を訪れ、またすぐに城を出ました。その時に、病弱であるというミカエラ王子殿下だけを、私と弟のルイに預けてまいりました」
「そうか……それで」
 ミカエラ王子のことは、シェリダンも聞いている。このままでは先が長くない、ということも。けれどそのミカエラを除いたアンリやロザリーと言った、ローゼンティア側の戦力の要である王族、肝心の彼らはどこに?
 シェリダンの問に、エルジェーベトは意を決した様子で答えた。
「ローゼンティアに」
「……え?」
「彼らは、ローゼンティアに向かうと答えました。どうにか、ドラクル王子たちの裏をかく事ができないかと」
「そうか―――!」
 シェリダンの後ろ盾はもうエルジェーベト以外なきに等しいが、ローゼンティアの王族にまつわる混乱はまだ解決されていない。こんな事態になった以上、エヴェルシードはそう遠くない未来、内乱になる。いや、シェリダン自身がそれを引き起こすのだ。その時に、戦力と呼べる者がいなければ意味はない。
 その人手を、彼らはローゼンティアで手に入れるというのだ。ドラクルと、彼と結託したカミラを打倒して二つの国をあるべき姿に戻す力は、あの薔薇の国にある。
「少し前後したが、最初の話し合いの通りというわけか。ローゼンティアで戦力を募ってから、カミラを、そしてドラクルとハデスを打倒する」
 ハデスが何を考えているのかはいまだによくわからないが――おそらく彼は、味方にはならないのだろう。
「シェリダン様。いかがいたしますか?」
 動き出すローゼンティア王家。彼らについていくことを選んだリチャードたち。まだ真意を見せないハデス。謎に包まれた皇帝。抜け殻となったイスカリオット。行方も安否も知れないクルス。
 そして、セルヴォルファスに囚われているというロゼウス。
 全てを一度に選び推し進めることはできない。何かを選び、何かを切り捨て一つ一つをこなしていかねばならない。自身にとっての優先順位が試される時だ。
「エルジェーベト、私は――」
 その時、部屋の外から、また新たに騒がしい声がかかった。

 ◆◆◆◆◆

 どこだ、あの方は。あの人は、一体どこに。
 王都シアンスレイトからイスカリオット領へはさほどの距離ではないとはいえ、徒歩で一昼夜で着くというわけでもない。当然足が必要だと思えばクルスは何でもやった。
 投獄され擦り切れた衣服を街中を歩いても怪しまれない新しいものにし、食料や水を手に入れた。その程度ならば捕まった時にも見つからなかった隠し財産の一部で事足りたが、さすがに馬は買えない。それだけは盗むしかなく、始めの一頭は何の罪もない貸し馬屋から失敬した。
 後は道でこちらが一人旅と見て襲い掛かってくる盗賊を返り討ちにして調達した。それも他人のものが盗まれたのだと考えれば良い気はしないが、今はそんな瑣末なことにかまってはいられない。主君であるシェリダンの安否がかかっているのだ。
「ぎゃあっ!!」
 腕を捻り上げ、相手の男の太腿に刃を刺す。そのまま短刀から手を離し、背後から襲い掛かってきたもう一人の一撃をかわす。すぐさま反撃に転じて横腹に蹴りを見舞い、よろめいたところで脳天に踵を落とした。太腿に短刀が刺さったままの男がのた打ち回っている横で、三人目の相手をする。
 五人ほどいた盗賊の四人までを倒して、最後の一人を背後から羽交い絞めにする。相手にも見えるよう首筋に押し当てた鈍い光を脅しに、情報を聞きだす。
「現在の王都付近の情勢はどうなっている!簒奪者カミラの軍は」
「な、お、王様なんてそんな偉い人のことは知らねぇよ! お、俺たちはただのおいはぎだぁ!」
「では、イスカリオット伯については」
「きょ、狂気伯爵ってんで有名な奴だろ? 知るもんかよ!」
「なら眠れ」
 役に立たない男を昏倒させて放り出し、何か情報になりえそうなものを探る。手がかりは見つからず、クルスは男たちの荷物からこれから使えそうな武器と僅かな金銭を拝借する。拝借と言いつつ、返すつもりはないが。
「シェリダン様……」
 クルスは唯一と定めた主君の名をお守りのように呟いた。
 最後にシェリダンと共にいたのはイスカリオット伯爵ジュダだ。彼はクルスたちエヴェルシードを裏切りドラクルやセルヴォルファス王とまで繋がっている。あの人非人のせいで、シェリダンは玉座を追われこの国はカミラのものとなってしまった。
 とにもかくにも、まず接触する人物としてはイスカリオット伯を置いて他にはないだろう。接触と言っても当人に顔を合わせるわけではなく、拷問部屋を当然のように有している伯の城を探らせてもらうのが目的だ。使用人の一人や二人を捕まえて、シェリダンらしき人物が捕らえられていないか聞きだしてもいい。
 そこで、チクリと胸が痛んだ。
 アイナ。出会ったばかり、ほとんど言葉を交わすこともなく殺した女性。その僅かな時間でさえ、穏やかな人間性が垣間見え、信頼にも尊敬にも足る人格だとわかった。
 わかったけれど、殺した。
 優しい彼女を殺して、自分はこれ以後どれだけ人を助けて死んだって天国には行けない。必ず地獄に堕ちる。だから彼女と会う事は、死後の世界でだって二度とない。
 天国で謝ることさえできない彼女の命を無駄にしないためにも、クルスはシェリダンを救わねばならないのだ。
「シェリダン様……シェリダン様……」
 そのために人を殺した。盗みもした。罪のある者もない者も、殺した。
 それでいい。僕は地獄に堕ちても構わない。だからシェリダン様を――。
 人の決めた境界線によってあからさまに自然の風景が変わるわけではないが、それでも確かに土地が変わると様々なものが変わる。頬に吹き付ける風の温かさでクルスはイスカリオット領に入ったことを知った。馬が荒い息を吐き、それが風に流されていく。
 イスカリオット領は狂気伯爵と呼ばれる人物が統治する割に牧歌的な雰囲気のただよう土地だ。もともと公爵家であるイスカリオット家は、軍事的にというより、経済で優れた家。軍事国家エヴェルシードの貴族にしては珍しく、その土地だけで飢饉に備えるだけの財の蓄えがあり、完全な自給自足が達成されているという。貴族としては駆け出しのユージーン家とは比べ物にならない。
 クルスの実家であるユージーン侯爵家のことについても、ここまで来る道すがら何かしら聞いてきた。当主――つまりはクルスが国王を裏切った罪により、取り潰しの話が出ているらしい。引退した前当主である父は、現在国王を名乗るカミラから、クルスを切り捨てて自分に服従するかこのままユージーン家ごと反逆するかどちらかを選べと言われているらしい。
 見捨ててください、父上。
 僕はとんだ親不孝者です。だから、どうか。
 もしも両親とシェリダンとを天秤にかけられたら、クルスは間違いなくシェリダンを選ぶだろう。いくら迷っても躊躇っても、結局その結果は変わらない。どんな薄情者と罵られても構わないから、両親にもどうか心を痛めず、自分を見捨てて欲しい。僕は……クルスは、大丈夫ですから。
 イスカリオット城が見えてクルスは手綱を引き絞った。これ以上馬で駆けては、警備兵の警戒網に入る。それだけは避けねばならない。今捕まるわけにはいかない。
 行動は迅速にそして慎重に。クルスは徒歩でイスカリオット城の裏手へと回った。王城へと面した正門より裏門の方が警備が薄いというあたり、イスカリオット伯の恣意を感じる。灰色の堅固な要塞を思わせる壁。それでいて優美な外観。それが故に、隠れる場所は幾らでもある。物陰に身を潜め、見張りが通り過ぎるのを待った。
 いくら待っても、侵入するだけの感覚が掴めない。さすがにあのジュダ=イスカリオット卿の城だけあって、守りが堅い。
 こうなれば強行突破だ。伊達に剣聖と呼ばれているわけではないのだと、クルスは腰に佩いた剣の柄を握る。重みが手のひらに馴染み、呼吸が自然と潜められる。
 シェリダンに出会い、彼を知り、救われ、あの方を守るのだと心に誓った日より、鍛錬を怠ったことはない。
 後は機を窺うだけだと身を潜めるクルスの前で、見張りたちが何か動いた。この位置からではよく見えないが、誰かに声をかけられたようで、二言三言言葉を交わしてから、敬礼をして姿を消す。
 まさか、全員去ったのか? これは好機だと頬を緩めるも油断はできない。なおも人がいないか窺おうと首を伸ばしかけたクルスの耳に、一番聞きたくなった声が届く。
「いるんでしょう? クルス君。クルス=ユージーン侯爵」
「い……」
 イスカリオット伯!
 思わず声を上げそうになった。城の主である彼に知られてしまえば、全ては終わるというのに。
「シェリダン様をお助けしに来た、と? 相変わらずの忠犬っぷりですねぇ。君は。まあ、ダチェス・バートリの方が行動は早かったですけど、君と彼女じゃ出発点が違いますしね」
 バートリ。エルジェーベト=バートリ公爵もこの城……そしてシェリダンと共にいるというのか。わからない。クルスがカミラに王城の地下牢に投獄されている間、一体周囲の人々の身に何があったのか。エルジェーベトがここにいるということは、彼女は何を考えている? そして、この男は……。
 クルスが立ち上がるよりも、向こうがこの場所を突き止める方が早かった。咄嗟に抜いた剣先を突きつけて牽制しながらも、体勢は明らかにこちらが不利だ。
 けれど突きつけられた白刃を気にも留めず、何か疲れきっているような、生気のない表情をしたイスカリオット伯は告げる。
「ジュダ=イスカリオット!」
「シェリダン様は確かにここにいますよ。ユージーン侯爵閣下」
「あの方を返せ!」
「妙な言い方をしますね。彼は別にあなたのものではないでしょうに」
「ふざけるな! でなければその首―――」
「いいですよ」
「へ?」
「あなたのものかどうかはともかく、お返ししましょうと言っているのです。シェリダン様を。私の方は……」
 イスカリオット伯は、ちらりと地面に視線を落とした。
 ぽたり、と一滴。突きつけた剣先によって傷つけられた彼の皮膚から赤い血が零れる。萌える緑の草が炎の色に……彼らの国エヴェルシードの色に染められていく。
「もう、終わりましたから」
 何が、とは彼は言わなかった。
 けれど確かに、イスカリオット伯の中で何かが終わったということが、クルスにもわかった。
「……連れて行ってください。シェリダン様のもとへ」
「ええ」
 クルスは、ゆっくりと剣を鞘に収めた。

 ◆◆◆◆◆

「シェリダン様!」
 扉が開いた、と思った瞬間この数週間久しく見なかった顔が涙をぼろぼろ流しながら飛びついてきた。
「く、クルス!? 無事だったのか! 無事だったんだな……」
 病み上がりの体では、シェリダンより小柄とはいえ鍛えている彼の体を支えきれない。よろめいたところを、背後にいたエルジェーベトに支えられた。
「ユージーン侯爵、陛下はお怪我がようやく治ったところなのよ? 少しは遠慮なさい」
「バートリ公爵……あなたまで……何故……」
 クルスが顔をしかめるのを、エルジェーベトが苦笑しながら受けとめる。
「この国で陛下を欲しがってるって言ったら、真っ先に思いつくのはこの城の主じゃない?」
「では、ここに来たのは偶然……いえ、厳然たる推測の結果だと?」
「そうよ。王城襲撃の直前に私に連絡もなしにあなたの消息が途絶えたってこともあるしね」
「その言葉、信じてよろしいのですか?」
「誓って」
「……」
 エルジェーベトとクルスの、両者とも穏やかな表情ながら殺伐としたやりとりをシェリダンは無言で見つめる。
 今この状況では、もはや誰が敵か味方かもわからない。これまでの協力者が裏切り者であることは、ジュダが嫌と言うほどに思い知らせてくれた。
 自分たちにできるのは、安息を手にするまで限りなく神経を尖らせ張り詰めていることだけだ。
「……クルス、お前……」
 シェリダンが言い出す前にこの肩から手を離し、ユージーン侯爵家当主、クルス=クラーク=ユージーンは足元に跪いた。
「陛下、我が命、我が魂はすでに御身に捧げしもの。このクルス=ユージーンをどうぞお使いください」
「……クルス、いいのか?」
 シェリダンはよりにもよって、自らが姦計に嵌めた妹姫に玉座の簒奪を許した人間だ。
 もとより優れた王ではないことはわかっている。
 血筋の問題を出されれば、庶出の母を持つこの身はカミラだけでなく、高位の貴族にすら及ばないだろう。軍事的才能も政治的手腕も、エヴェルシード王族としては平均的で、特に取り柄もない。シェリダンにできることなど何もない。こうして他人に頼る他は。
 こんな男についたところで、誰が益を与えてやれるというのか。クルスもエルジェーベトも、シェリダンは誰一人としてその忠誠に報いてやることができない。
 それでも、クルス、お前は私についてくるというのか?
「陛下、私の王は、あなただけです」
「では、わたくしも誓いましょう。このエルジェーベト=ケルン=バートリの全てでもって、御身の剣にならんことを」
 クルスの言葉に続くように、エルジェーベトがその隣に同じように跪いた。ドレス姿でも敵を屠れる《殺戮の魔将》と呼ばれる女は、《反逆の剣聖》と並んで慈悲深い悪魔の笑みを湛えた。
「……良いのか? 二人とも」
「はい」
「今更ですわね。陛下」
 きっと二人とも気づいているのだ。窓の向こうから聞こえる、外の騒がしさ。独特の空気。まだ距離はあるだろうが、退路を断たれてしまってからでは遅いのだ。早く、早くと急かす心の奥底でもう一つの声が囁いた。これが最後かも知れないと。
「外は――」
「王立軍の皆様のようですよ」
 とにかく詳しい情報を得たいと口を開きかけたところで、部屋の入り口からまた新たに聞きなれた声がかけられた。クルスが飛び込んできたまま開け放されていた戸に、一人の男が寄りかかってこちらに視線を向けている。
「カミラ姫が動き出したようですね。あなたが生きている限り、彼女にとっては目の上のたんこぶと言ったところなのでしょう」
「ジュダ」
「イスカリオット伯!」
「あら」
 ジュダは一つ溜め息をつくと、シェリダンに向かって小さな袋を投げた。
「これは」
「お好きなようにお考えください。餞別とでも……詫び金とでも」
 袋を開けてみれば、そこには数枚の金貨と、銀貨。それから金に換えられそうな貴金属類。目の前の軍から追っ手がかけられているのにこの表現と言うのも皮肉で失笑が込み上げるが、これは正しく軍資金だ。
「……陛下、私は一度バートリ領に戻り、援軍を連れて参ります」
「その必要はない。エルジェーベト。私がここからさっさと消えれば済むだけの話だ」
「では、せめて門の前に出て、兵隊長とでもやりあってきましょうか。いつまでたっても陛下が見つからないのだ簒奪を許しやがってお前らどうしてくれる、とでも」
「そうしてくれるとありがたいな」
 自ら陽動を申し出てくれた女将軍は、腰に佩いていた剣の一振りを渡してきた。ジュダはまたいつの間にか、動きやすい衣装をシェリダンのものとクルスのものと用意して手渡してくる。
「クルス、お前は」
「僕は陛下と一緒に参ります。どうぞ使用人とでも思ってお使いください」
「……すまない」
 金貨の入った袋を腰に下げ、簡易で心許ない旅支度は急ぎ終わった。
「それでは陛下、御機嫌よう」
 先にエルジェーベトが出て、部屋には三人が残される。
「……ジュダ」
 シェリダンはこの城の主の名を呼ぶ。彼がこの部屋に入ってきた瞬間から、クルスは警戒を緩めない。シェリダンがこの男に刺されたことは知らずとも、クルスの中でジュダは最警戒人物だということだ。
「……お前には確かに辛酸を舐めさせられたし、不愉快な思いもしたよ」
 シェリダンの言葉に、ジュダは瞳を細めた。これまでの狂いきれない道化じみた飄々とした態度ではなく、僅かな表情の変化でその意志を伝えてくる。
 その変化に、クルスは戸惑っているようだった。困惑を顔に浮かべて、シェリダンとジュダを見比べる。 
 シェリダンを庇うように間に立った彼をやんわりと押しのけて、少し前まで王と呼ばれていた少年はジュダの正面に立った。 
 自分より背の高い男を見上げ、ゆっくりと腕を伸ばし、その首に縋り付くようにして抱きしめる。身長差のせいで、爪先が浮きそうだ。
「嫌いではなかったよ」
 煮え湯を飲まされた相手ではあるが、それでも。
「嫌いではなかったよ、お前が。その瞳の中に押し込めた孤独の色も、仮面のように纏った狂気の鮮やかさも」
 いっそ憎んでしまったほうがせいせいするのであろうが、どうしてもそうすることはできなかった。
 これも一つの救いであり……そして拒絶の一つであろうか。多分自分は、自分が一番大事な相手が裏切ったらその相手を絶対に赦せないだろうと思う。だけれど、ジュダのことは許せてしまった。永遠に憎みきるほどの執着を、彼には持てなかった。
 だからこれで終わりなのだ。
 がくり、と崩れ落ちるのと同じ音で膝を着いたジュダが、最初で最後の臣下の礼をとった。
「道中、どうかご無事で……我が王よ」
 その頬を伝う静かな涙。
「ああ。お前も、達者で」
 言葉のない慟哭を抱いて、永遠に別れた。


142

「おい、いたか!」
「それどころじゃねぇよ!」
 戻って来た男の一人が、その場に待機していたもう一人の男に尋ねる。けれど、返された言葉は、尋ねた男の予想範囲外の返答だった。
「は?」
「いや、なんか、イスカリオット伯爵閣下の城から同じように前国王のシェリダン様を探していたバートリ女公爵が出てきてな」
 女王の勅命をそれどころで片付けるほどの一体何が起きたのかと思えば、これまた予想範囲外の言葉を投げつけられる。
 ここはエヴェルシード王国イスカリオット地方。あっている。間違っても北方のバートリ領ではない。
「あ、あの……この国で間違いなく一番強い女剣士って噂の、ダチェス・バートリ?」
「そうだ。そのバートリ公爵がな、『あんたたちシェリダン様をどこに隠したのよ!』ってイスカリオット伯爵の城で何があったんだか、ムチャクチャ怒っててな。話しかけようとする兵隊が軒並み倒されて」
「げっ」
「なぁ、この辺りにシェリダン王様がいるって、カミラ女王陛下のお言葉、本当にあってんのか? あのバートリ公爵ですら見つけられないんだ。俺たちに探せなんて無理だろ。もう引き上げていいんじゃないか?」

 ◆◆◆◆◆

 こちらを探す兵士たちに出くわすたびに茂みや物陰に身を潜ませ、シェリダンはなんとかクルスと共に、イスカリオット城から離れた。
「バートリ公爵、大丈夫でしょうか」
「エルジェーベトなら、例えカミラに正面から罵りを受けても軽くかわすだろう」
 ジュダに渡された路銀だけを頼りに、シェリダンたちは兵士たちの目を盗みながら街道に出た。そこからいったん大きな街に戻り、必要物資を調達してから人目のないルートでどうにかこの場を離れねばならない。
 そもそも行き先さえ、はっきりとは定まっていない。
 ロゼウスを取り戻そうにもセルヴォルファスは遠すぎる。国内に留まってはどこにカミラの手が伸びてくるかわからない。だとするとどうにか国外へ逃亡しなければならないが、ではどこに潜伏するのがこの場合最も効率的だろう。
「シェリダン様。あの……」
 クルスが何か言いかける。シェリダンはそちらに顔を向け、けれどその瞬間二人して表情を引き締めた。
 囲まれている。
「……出て来い。何者だ」
 迂闊だった。遠目に見える兵士たちの姿にばかり気をとられて、近くに別の気配が寄ってくることを意識しなかった。
「へぇ。結構勘のいい兄ちゃんたちだな」
 ……国王の座にある時代に、もう少し治安に重点を置くべきだったか。シェリダンは今更にそんなことを少しだけ後悔する。イスカリオット地方はそれでもジュダが気まぐれに盗賊の摘発をするせいなのかおかげなのか、追いはぎは少ない地方だと思っていたのに。
「有り金全部置いてけよ……って、なぁ、お頭。この二人凄い別嬪さんだぜ」
 シェリダンたちを取り囲んだのは大柄な男十人ほど。その内の一人が、こちらを見て素っ頓狂な声をあげる。しばし彼らの中で、感心するような空気が広がった。一体何に感心しているのやら。
「ホントだな。たいして力もなさそうな細いガキ二人じゃ売れるものも売れねぇと思ったが、こりゃあ思わぬ収穫だ」
「確かに労働力としての奴隷にはならねぇだろうが、道楽貴族の玩具には充分なりそうだよな」
 街道で出会った盗賊たちは、シェリダンたちを見て舌なめずりする。
「……シェリダン様」
 クルスが小さく声をあげた。美少年然とした細い眉が困惑したように下げられる。
「これだけお綺麗な面してるなら、金持ちで物好きなババアに売れるなぁ」
「そうだな。ああ、奴隷好きで有名なバートリ地方の女公爵様なんてのはどうだ? 最近ちょうどこっちの方に移動してきたんだろ? 面白がって買ってくれるかも知れないぜ」
 いや、それは無理だ。
 バートリ公爵、女性の方が好きですからね。
 女公爵の知る人ぞ知る同性愛嗜好に思わず半眼になるシェリダンたちを気にも留めず、盗賊たちは勝手な算段を立てていく。
「まあ、そういう細かい話は後にしようぜ。この坊ちゃんたちなら、相手が女だろうが男だろうが、きっと高値で買ってくれるだろうからよ」
 彼らの所持している現金よりもむしろ奴隷として売り払うほうに目的のいった盗賊たちが、次々に得物を取り出す。シェリダンとクルスも、それぞれエルジェーベトとジュダから譲り受けた剣を構えた。
「小僧にしちゃいいもん持ってんじゃねぇか。けどよ、どうせ見かけ倒しだろ?」
「さぁな」
 シェリダンは薄く笑みを浮かべ、横目で確認を取るクルスに小さく頷いてみせる。
 もうカミラのかけた追っ手の兵士たちの姿は近くには見えない。
 存分に暴れろ。
「相手は細っこいガキ二人だ、やっちまえ!」
 そして、白刃が閃いた。

 ◆◆◆◆◆

 ああ、やっぱり、というか、予想通り、というか、常套的展開というか。
「で?」
 大輪の花を思わせる鮮やかな笑顔を浮かべ、シェリダンは目前に一列に跪く盗賊の男たちへと問いかけた。
 ついでに、そのうち数人のいまだ意識を戻さずに目を回している盗賊は、シェリダンの「椅子」となっている。つまりはのびた男たちを積み上げてその上に座っているわけだ。
「私たちに何か言う事はないのか?」
 軽やかなその問に、男たちは大合唱。
「「「申し訳ございませんでした!!」」」
「はっ! この鍛錬不足の腰抜けどもが」
「「「女王様!」」」
 いえ、この方はこれまで国王をしていらした方で女王というと現在は簒奪をおこなったカミラ姫がそうなわけですが。クルスは思った。
 しかしそんなことは構わず、シェリダンと盗賊の話は続く。
 街道にて十数人の男たちに囲まれたシェリダンたちは、剣を抜いて応戦した。結果は圧勝。シェリダンは国王陛下で、本来なら守られる立場にある人間だが、剣の腕も一流だ。
ロゼウスも一流の剣の使い手で、その実力はシェリダンに拮抗する。二人の交流を深めるのが剣術とは、微笑ましいような恐ろしいような……。
 それはともかく、今はこの盗賊たちをどうするかだ。
 この人数の内半分はクルスが倒しだ。クルスもこれで一応軍事国家の侯爵を務めていた人間なので、生半な相手には負けはしない。お役に立てたようで、よかったです。と笑う姿は天使だが、その行動は悪魔である。
 始めはこの人数を相手に、問答無用で伸すなどして足が着いたら嫌だな、と不安になったのだが、結局は一応生かして後で最大限に利用するというシェリダンの言葉に頷くことにした。
「たかだか貴様ら程度の腕で、よくもこの私に喧嘩を売って来れたものだ」
「「「申し訳ございません」」」
 シェリダンは喋る蛙でも眺めるような、冷たい眼で盗賊たちを見下ろしている。累々とした屍(生きている)に腰掛け、その長い足を組み、気だるげにふんぞり返ったその姿は確かに女王様と呼びかけたくなる気持ちもクルスはわからないでもない。
 訂正、入れた方がいいのだろうか。なんだかシェリダン自身があんまり気にしていなさそうなのだが。
「シェリダン様、女王様呼びはよろしいので?」
「まあ、今更だからな」
「今更?」
「ああ。即位の前に、貴族の協力を募ったことがあっただろう。中に一人、『犬と呼んでください!』という奴がいてな……」
「そんなことしてたんですか」
 即位の後ろ盾を得るため、何でもやったとは聞いていましたが……そっちですか。クルスは少し複雑な気分になった。シェリダンに、というよりは彼にそれを要求したのって誰だ。
 確かにシェリダンなら、跪く男を笑顔で足蹴にするなど容易いことだろう。現に今だって。口元に薄っすらと笑みを浮かべつつ男たちを見下ろしている。で、こいつら何に使おうかなーと今まさに思案中の表情である。
「あのー」
「なんだ。私は貴様如き下賎に発言を許可した覚えはないぞ」
「も、申し訳ございませんでした! 国王陛下!」
 あれ、女王という言葉が抜けたなぁ、と思った瞬間、男たちは地面に頭を打ち付ける勢いでもう一度頭を下げた。これが所謂土下座というもので、ガン、ガン、と次々に地面に額を強打する良い音が響く。
「前国王陛下、シェリダン=エヴェルシード様!」
「あれ?」
 いつの間にか、シェリダンのことがバレている。
「あのぅ……さっき城の兵士たちが探してた、逃亡したっていう先代国王……様、だろう……じゃねぇや、ですよね?」
 盗賊の一人がおずおずと、慣れない丁寧語で話しかけてくる。
「あれ? じゃないだろう。クルス。もともと私を『シェリダン』と普通に呼びかけたのはお前だ」
「あ……申し訳ございません。偽名でも考えておいた方がよろしいでしょうか」
「ああ。だがその前に、この事態の収拾だな」
「そうですね」
 こういう場合、正体を知られてしまった相手をどうするかというと。
「じゃあ、手っ取り早く確実に殺しますか」
 先程は手加減して相手に傷一つ負わせずに鞘に収めた剣を、もう一度抜く。
「えーと、こういう場合どうしたらいいのでしょうか。首をそのまま跳ねたら剣筋でまた足跡が辿れてしまいますよね。盗賊にでも見せかけて逃げるには……でも相手が盗賊ですし、こういう相手を殺して金品を奪う盗賊というとどういう殺し方になるのでしょうね」
「「でぇえええええ!!」」
「た、頼む! 命だけは見逃してくれぇえええ!!」
「お願いしますだ――!!」
「オラたち、ただちょっと旅人から荷物はいだり人買いに売っただけで、まだ誰一人殺してねぇだよ――!!」
 クルスが剣を片手に下げて近寄ると、盗賊たちは途端に恐怖の表情で後ずさりした。口々に喚き散らし、泣いて命乞いをする。
「クルス、お前、加減という言葉を知らないのか?」
「え? していますよ。まだ一人も殺していないじゃありませんか」
「だからと言って、この下でのびている連中は全員先程お前が相手をした奴らなのだがな」
 ……それを座布団のように御尻の下に敷いているシェリダン様に言われるのもどうかと思いますが。
「た、助けてくださるのですか……?」
「……」
 盗賊の問にシェリダンは無言で応える。その反応にますます彼らの顔は引きつった。
 そして、その目はクルスの方へと向けられる。
「残念ですけど」
「そ、そんな!」
「だってあなた方盗賊でしょう? ただの民ならともかく、国に税金を納めていない人間を国民と認めるわけにはいきませんからねぇ」
「そ、そんな殺生なぁあああああ!!」
 だってそれが現実ですし。
「待て待て、冗談だ。クルス。剣を収めろ。殺しはしない」
「あれ? 冗談だったのですか?」
「……本気だったのか?」
 シェリダンが胡乱な目つきでクルスを見る。
「お、思い出した……クルスって、クルス=ユージーン侯爵だ……あの悪魔みたいに強いっていう……」
 盗賊の一人が、涙目でクルスを見つめます。そうなのですか? 僕、悪魔のような強さだなんて呼ばれているのでしょうか。イスカリオット伯は狂気伯爵、バートリ公爵は殺戮の魔将と呼ばれている事は知っているのですが。
 何かが決壊したものか、盗賊たちのほとんどが腰を抜かし、地面に突っ伏して泣き始める。
「うわーん!! もうこんな暮らし嫌だぁあああ!!」
「親分! オラ、もういいだ! 百姓に戻る―――!!」
「一月に二度もこんなことがあるなんて、盗賊なんて割に合わねぇよ――!!」
「泣くなぁああああ!!」
 泣き出した男たちの話をなんとはなしに、聞いていると、どうやら彼らはもともとは百姓だったようだ。
「こんなことぐらいで弱音吐くんじゃねぇ! お前ら! どうせフラニア伯の土地に戻っても、ろくに稼ぎなんかねぇだろうが!」
 フラニア伯……ああ、あの。
「がめついって有名な伯爵ですよね」
 このイスカリオット地方の隣がフラニア地方だ。
「ああ。自らの所領の民から法外な税金を吸い上げては着服しているという。一度摘発したはずなのだがな。その後は改めるよう監視を設けたのだが、何故また?」
「陛下がお代わりになってからですよぉ〜」
「カミラ姫様が国王になってから、フラニア伯の横暴な取立てがまた始まったんだす……」
「……フラニアはカミラの支援者の一人だからな」
 確か、フラニア伯爵はシェリダンが国王になる前、王太子時代から税の取り立てのことでシェリダンを目の仇にしてい。シェリダンがジョナス王にそれを見直すように進言したのを知って、カミラの後見として名乗り出たのだ。
 今回カミラが玉座に着いたことで、また調子づいたに違いない。
「なんというか、それはまぁ……」
「……多少は責任を感じないでもないが」
「しかも陛下を探す兵士たちがうろうろしてるせいで、盗賊稼業もろくにできないし」
「いや、それについてはさっぱり責任など感じない」
 強盗は犯罪だ。クルスもここまで来るにはいろいろと盗みを働いたので、人のことは言えないが。。
「それにこの前は、なんだかやたら綺麗なお姉ちゃんたちがいっぱいの集団が通ると思ったら、それがほとんどヴァンピルでやたら強いし〜〜」
「待て!」
 やたらと綺麗な女性連れ、しかもヴァンピルだなんて。
「それって、ロザリー姫たちですか!?」
 思わぬ情報を得たシェリダンとクルスは、今度は先程とは全く異なる強さで盗賊に詰め寄る――。


143

 彼らの潜んでいた茂みの前を、大勢の足音が通り過ぎていく。
「……」
 息を殺し、気配を殺し、辺りが静まり返るのを待つ。
「……行ったわよ」
 兵士たちの気配が消えたのを見計らって、ロザリーは顔を出した。続いてぞろぞろと、茂みから這い出る人影。
「ぷは……」
「緊張しました……」
「皆様、大丈夫ですか?」
 アンリ、ミザリー、ミカエラにウィルにエリサとロザリー。それからローラとエチエンヌとリチャード。
 あの混乱のシアンスレイト城から抜け出せたのは、彼らだけだった。ロゼウスやシェリダンのことにまで、手を回す余裕はなかった。
「ねぇ、アンリ兄様……私たち、これから、どうすればいいの?」
 人間たちの視界が利かなくなる夜を選んで距離を稼ぐ。とは言っても行き先など決まっていない。どこへ行けばいいんだろう。どこへ向かえば、またあの幸せだった日に戻れるんだろう?
 暗い闇の中、ロザリーはヴァンピルと違い夜目の聞かないエチエンヌの手を引いて歩く。ローラはウィルとエリサに挟まれるようにして歩き、リチャードはミザリーと協力してミカエラを支える代わりに行き先を示してもらっていた。
 自分の右の手のひらの中、エチエンヌの温かい体温だけが、ほっとする、この世の光。
 今にも不安で崩れ落ちそうなこの心を叱咤してくれる。
「シェリダン様……」
 エチエンヌがポツリと呟く。
「ロゼウス様も、それにユージーン候もしばらく前から行方不明にって……」
 ローラが涙声で口にする。
 ロゼウス。シェリダン。
 愛しい兄と、いけ好かない少年王と。
 二人とも無事かしら。 
 どうか、無事でいて欲しいと。
 願いながら夜露に濡れる草むらを歩く内に、目の前の影が纏まって倒れる。
「ミカエラ!」
「ミザリー、どけ!」
 ミザリーとリチャードに支えられながら歩いていたミカエラが倒れたのだ。もともと彼は体が病弱な上に、エヴェルシードのローゼンティア侵攻の際に一度殺されて生き返って、ドラクルたちを始めとする兄妹たちと敵対して、そして今度はこの襲撃だ。ここまでよく持った方だと思える。
「駄目だ。熱が高い。どこかで休ませないと」
 アンリが苦渋の面持ちで弟の容態を見る。歩けないミカエラを背負い、辺りへと視線を走らせる。
「宿……なんかとれないよな、これじゃ」
「待ってください。私がなんとかします」
 この場では唯一のエヴェルシード人であるリチャードがそう言って姿を消した。
 しばらくして、近くの民家の納屋を借りる手筈を整えたらしく、戻ってくる。
「ミザリー、お前とエリサでリチャードと一緒にミカエラを見てくれ」
「え? アンリ、でも」
「いいから。さすがにこの人数で押しかけるわけにも行かないし。そうなるといざ見つかった時に言い訳が聞かない。ミカエラの状態が良くなるまででいいから」
「エリサ、これを持っていて」
「おにいさま?」
「いざと言うときの軍資金だよ……いいかい? お前が、ミカ兄様たちを護るんだよ」
「アンリ王子、皆様……」
「頼む。リチャード。この中ではエヴェルシード人であるあんたが一番怪しまれにくい。どうか、弟たちを頼む」
「……わかりました」
 リチャードの背にミカエラを預け、面倒を見るのにミザリーを、いざという時の警護も兼ねてそれなりに腕の立ちながらも一番小さな妹のエリサをつけ、アンリは四人を送り出した。
「……ごめんな。ローラ、ロザリー。お前らも女の子なのにな」
「いいえ。私のことは気になさらないでください。アンリ王子」
「そうよ兄様。私たちは大丈夫。それにさ、ここにいるのなんて、ウィルを除いたら戦える人がいないじゃない。私たちがここに残っていて良かったと思うけど?」
 野宿決定組の中でも女性であるという理由でロザリーとローラに気を遣う彼に冗談めかして告げると、疲れた顔をしながらもようやくアンリは笑ってくれた。
「ああ。そうだな。頼りにしてるよ、ロザリー」
「任せて」
 嘘よ。本当は、何もかもが不安だけれど。
 今は泣き言を言っている場合じゃない。私たちの場合はまだかけられた追っ手もぬるいものだと思う。これが、騒動の中心にいたロゼウスやシェリダンは……。
 二人のことを考えると、胸が不安で締め付けられる。いてもたってもいられなくて、大声で叫びながらがむしゃらに走り回りたい。
 そんなこと無駄だってわかってる。だからこそ、こうしてロザリーたちは、これからどうすればいいのかを話し合う。
「アンリ兄様、何か考えはある?」
「ミカエラ王子は限界のようだし、とにかく一度どこかで体を休めるか、変装道具でも入手しないと」
 草むらに無造作に腰を降ろし、彼女たちは身を寄せ合って話し合う。ロザリーの隣に座ったエチエンヌも顔をしかめながら、この場で一番の年長者に尋ねた。一行の中で最年長であるのはリチャードだけれど、彼は唯一のエヴェルシード人であるから、とこれまでも無理をしていろいろと調達してきてくれた。無計画に進むのでは、彼の負担も限界だろう。
 行く先、目的地、そして目標を定めねばこれ以上前へは進めない。最終的な目標は勿論ロゼウスやシェリダンと合流することなのだろうけれど、まず二人が今現在どうしているのかもわからない。
 あの王城襲撃の日、投げ込まれた銀廃粉と言う名の毒薬にロザリーたちヴァンピルは次々と力を失って倒れていった。ロザリーとアンリはなんとか持ちこたえたが体の小さいウィルやエリサ、病弱なミカエラや体力のないミザリーは意識を失い、リチャードやローラ、エチエンヌたちの助けを借りてようやくその場を逃れる事ができた。煙幕が張られていたため、その場の状況も全くわからなかった。ただ、その場に留まる事は危険だからと、逃げることに必死だった。離れた場所にいたロゼウスやシェリダンを、気遣う余裕もなかった。
 そして逃げ続ける最中、ロゼウスのことはわからないけれど、シェリダンは玉座から追放されたのだと聞いた。新しく国王になったのは、ドラクルたちとも繋がりのあるカミラと言う名の、シェリダンの妹。
 これまで敵同士ではあったけれどなんとか奇妙に平穏な均衡を保っていたロザリーたちとシェリダンたちとの日々はもう戻ってこない。ロゼウスがそう簡単に死ぬはずはないとわかっているけれど、シェリダンはどうかわからない。彼らに関しては全く情報がなく、唯一信用できる協力者であるユージーン侯爵の行方もわからないという。これほどの大人数や情勢を考えたら、かつてロザリーを助けてくれた酒場の店主、フリッツ氏のもとにも匿ってもらうわけにもいかない。
 逃げて逃げて逃げて。もうくたくただった。先の見えない地獄に放り出されたみたいに、みんな疲れ果てていた。一端は未来が見えかけただけに、今回の事は、ローゼンティアを出てきたときのそれよりもなお酷い絶望が瞼を覆う。
「とにかく……とにかく、どうするか決めよう。全ては、それからだ」
 当面の目的を決めて、徐々にロゼウスやシェリダンの消息を掴むこと。ロザリーたちヴァンピルはこのエヴェルシードでは目立ちすぎるので変装が必要であるし、シルヴァーニ人のローラとエチエンヌだってそうだ。影に隠れて行動するしかない。こそこそと。日陰の虫のように。
「どうせこの国の周りには、カミラ姫からの手配書が回ってるだろうし、地上にはどこも、僕らの逃げる場所なんてないよ」
「そうすると誰にも見咎められない行路なんてあるわけないし、隠れ隠れ行くしか……」
 ロザリーとエチエンヌがそうぼやくと、アンリが何かに反応を示した。
「誰にも見咎められないコウロ……?」
 知略王子と呼ばれる彼はその朱色の瞳に知性のきらめきを乗せると、エチエンヌとローラに尋ねた。
「二人とも、ちょっと手伝ってくれ。この周囲の状況について」
「え?」
 地面に指先で地図を書く。ローゼンティアにいた頃から明らかな世界の地理はともかく、エヴェルシード国内からその周辺地域にかけてのローカルな知識は五年この国にいる双子の方が詳しい。ローラとエチエンヌの助けを借りて、アンリは先程閃いたらしき思い付きに、形を与える。
「みんな、この図を見てくれ」
 地面を見るために手元を照らしていた明かりを置いて、アンリはロザリーたちに一つの道を指示した。
「さっきエチエンヌとロザリーが言っただろう? 地上にはどこも逃げる場所はない。誰にも見咎められない行路でもなければって」
 アンリの指が、地図を辿る。シュルト大陸の最東部に位置するローゼンティア。そのローゼンティアを覆うように西隣に位置するエヴェルシード。彼の指は現在地と思われる箇所からすっと一本の道を追った。けれどその辿り着く先は。
「え?」
 ロザリーは驚いた。エチエンヌも驚いた。ローラもウィルも、みんな驚いた。
「アンリ王子、これって……」
「な? 盲点だっただろ? この道なら、俺たちが通ったところで逆に見咎められない。見咎められても、逆に堂々と逃げることができる」
「でも、移動手段が……」
「奪うしかないだろうな」
 一度思いついた考えを、アンリは撤回しない。困惑に顔を歪めるロザリーたちに、彼は強い瞳で告げる。
「さぁ、行くぞ、ローゼンティアに」

 ◆◆◆◆◆

 後手に縛られたまま、床に膝を着くことを強制される。そのまま椅子に座った彼の膝へと顔を埋め、滾る欲望を口に含むことを強制された。
 エヴェルシードの王城にいたときと違って、女物の衣装を纏わされることはない。けれど、それが何の救いになるのか。腕の拘束は外されず、前髪を掴まれて無理矢理に上げさせられた顔に、男のものを突きつけられる。
「せいぜい俺を満足させるといいよ」
 酷薄に微笑んで、ヴィルヘルムが言う。
「この国で一番偉いのは俺だ。だから、なんだってできるし、手に入る。逆らう事は許さない。気に入らない人間は殺せばいい」
 それは確かにセルヴォルファスにおいてはそうなのかもしれない、ここは力の国だという。だけれど、ローゼンティアの出であるロゼウスには関係ない。
一度そう言ったら、強かに頬を殴られた。ヴァンピルと同じく、人間にはない尋常な身体能力を持つ魔族の一員であるワーウルフの力で振るわれた暴力は、容赦なく吸血鬼であるロゼウスの肌にも傷をつける。
 体から力が抜けていく感覚がする。近頃ずっと、酷くだるい。疲労が溜まっているのだとわかる。
 ヴァンピルは滅多に疲れない。人間より頑丈な一族だから、人と同じ生活習慣に合わせている限り疲労を感じることなんてないのだ。それでもここに来て、同じく人ではないヴィルヘルムの、家臣にさえ窘められている異常な生活習慣に巻き込まれていると、段々と日付の感覚や体力の使い方を忘れていく。
「ん……ふぁ……」
 朦朧としかけた頭で、目の前のものをしゃぶる。これを拒んで抵抗する気力すら、今のロゼウスにはない。
 薄っすらと笑みを浮かべているのにそれでもどこかつまらなそうな顔で、ヴィルヘルムは自分のものをしゃぶらせているロゼウスを冷たく見下ろしていた。
「……つまんない」
 幼子のような呟きがぽつりと落とされる。
 訪れた絶頂に、白濁が飛び散る。飲み込みきれずに噎せて、大部分を床に吐き出してしまう。
「あーあ」
 飛び散った自身の白濁を見て、ヴィルヘルムがわざとらしく口を開く。吐精の快感にわずかに潤み恍惚となった目元を細めて、薄茶色の髪をかきあげる。
「零したね。掃除が大変だ」
「お前が……す、わけじゃ、……いだろ」
「そうだよ。するのは俺じゃない。そんなにこの部屋の掃除婦を苛めたかったわけ? ロゼウスも案外性格悪いんだねぇ」
「だれ、が……」
 誰がそんなことを言った。
 本当に、毎度毎度、血やら男の精液やらで汚れた床を片付ける人間も大変だ。それだけならまだしも、こいつの部屋にはなんだかよくわからない怪しいものがところせましと置いてあるからかなわない。
 なんでこんなどうでもいいことを考えているんだろう俺は……
 そう思った瞬間、くらりと眩暈が来た。視界が真っ暗に染まり、体を支えていられない。縛られた腕は痺れ、このままだと顔から床に激突する。
「おっと」
 そんなところで、椅子に座ったまま手を伸ばしたヴィルヘルムに受けとめられた。
「あーあ。もう限界なの? 案外体力ないんだね」
「お前が、盛り過ぎ、なんだろ」
「そうかもね。だから、まだまだ離してなんかやらない」
 決して優しいとは言えないやり方で、長椅子の上へと引き上げられた。縛られた腕を背中に、うつ伏せの姿勢で首を捻ってヴィルヘルムを見る。
「気絶したいならしていれば? それでもまだ、離してなんかやらないから」
 ズボンが引き摺り下ろされ、肌を露出させられる。暴かれた場所に少年の指が這い、生温い快感を与えていく。
「やめろ」
「やめない」
「もうやめろ! ヴィル!」

「絶対に、やめない」

 込み上げてくる諦めに似た感情に、ゆっくりと瞳を閉じる。
「……好きだよ、ロゼウス」
 ロゼウスが何を言ったところで、ヴィルヘルムには通じない。
 ヴィルヘルムの言葉が、ロゼウスに響かないように。

 ◆◆◆◆◆

「王様になれば」

「なんでも手に入るんだ」
「……そんなことないよ、ヴィルヘルム」
「そんなことないなんてことない」
 それは、そっと部屋の空気に落とされるような稚い口調。
 寝台の上、ロゼウスは彼の膝を枕に眠ろうとするヴィルヘルムの頭を撫でる。薄茶色の髪を梳きながら獣の耳にそっと触れると、少年は気持ち良さそうに灰色の瞳を閉じた。
 どうもこの少年は、感情の揺れが激しい。躁鬱……と言うには鬱っぽい面は少ないが、癇癪を起した時とそうでないときの落差に、ときどきついていけなくなりそうになる。
 歪んでいる。
 だけどその言葉は、もうロゼウスにとっては馴染みのもの。ロゼウスはシェリダンによってそれを突きつけられた。醒めない夢の中で溺れることを望んだロゼウスに、シェリダンは現実を見ろと言った。
 あの時は余計なお世話だと思ったそれは、でも彼がロゼウスのためを思ってしてくれたことだった。自分の見たい物だけを見て、聞きたいことだけを聞いて、それで得られるものは仮初めの安堵。本物ではないのだと。
「俺は本当は、王様になんかなるはずじゃなかった」
「え?」
 ヴィルヘルムの思いがけない言葉に、ロゼウスは思わず疑問の声をあげる。
 そういえば、セルヴォルファスの王位継承問題とはどうなっているのだろう。長命種族ヴァンピルのローゼンティア王家では、ロゼウスを含めて十三人が王位継承者とされていた。実際はもっと複雑で陰惨な事実が裏側に隠されていたわけだけれど、王族にとって継承問題は付き物だ。
 なのにこの国、セルヴォルファスに来てからロゼウスはその手の噂を聞いたことがない。エヴェルシードでは図らずもカミラと接触してしまったし、どこの王族にも誰が有力で誰が無能で、それらの噂の一つや二つくらいあるものだと思うけれど。
「ねぇ、だからロゼウスも、俺の側にいてよ」
「……ヴィルヘルム」
「俺は王様になったんだから、全部が思い通りになるはずなんだ。そうでなきゃ、ならないんだ」
 聞きわけのない子どもは、そうでなければならないと繰り返す。
 そうでなければ、ならない。
 ふと、その言葉が引っかかった。
「俺は王様になった。本当はそうなるはずじゃなかったのに、なった。だから王様になると何があるんだって聞いたら、欲しいものがなんでも手に入るって言われたんだ」
「……誰がそんなこと言ったんだ?」
 一度癇癪を起した後は、憑き物が落ちたように大人しくなるヴィルヘルムは、ロゼウスの膝を枕に眠りかけている。
「大臣」
 いつもは狼のくせに小鳥を捕まえて楽しむ子猫のような無邪気で残酷な光を湛えた瞳が、今はとろんと蕩けている。
 ずっとこうしていれば可愛いのに。……むしろ、こちらの方が彼の本性なのだろう。いつも見せている、傍若無人で傲慢な王の顔は作り物。
 喋り方こそ幼いが(ってロゼウスが言えることでもないが)、普段のヴィルヘルムはそれなりに王としての仕事は果しているらしい。我が儘に変わりはないが、仕事はできる、と。その気になれば敬語も使えるし、各種式典用の礼儀作法だって完璧だ。
 エヴェルシードでもシェリダンと真っ向から対立していたし、本性はともかく表の顔はまともだ。
 それがどうして、一皮向くとこうなるのか。王としての責務を果している時は大人びているのに、一度力を抜くと年齢よりも幼げだ。まるで子どもがそれまで無理をして大人の振りをしていたように。
 王族だなんて厄介な事情を抱えている以上、ロゼウスにもシェリダンにも、ローゼンティアの兄妹たちにも勿論そういうところはあった。人前で見せるしっかりとした顔は建前で、本音はまだまだ未熟で我が儘で甘えたい放題の子どもだ。もっとも、ロゼウスたちローゼンティア王家は第一王子であった二十七歳のドラクルから十歳の末っ子エリサまで年齢が離れていて、一概にそう比べられるものでもなかったけれど。
 でも、ここまで酷くはない。
 ロゼウスたちは王族であることを求められる時、意識してそういう仮面を被っていた。そうして、ことが終わったらそれを脱いで、本当の自分に戻っていた。
 ヴィルヘルムはそれが上手くできていないみたいだ。王としては王の、そうでない、ただの十六歳の少年であるヴィルヘルムならヴィルヘルムと、上手く使い分けることができない。一番初めにこうしろと被せられた仮面を顔に貼り付けられて、それを当たり前のものとして生活しようと努力しているのに、やっぱり上手く行かなくて息苦しいよう。しかも本人はそれに気づいていない。
 呪うように張り付いた仮面に息も目も塞がれて何も見えず苦しいはずなのに、本人はそれが普通のつもりでいるから時々転んでは怪我をする。そんな感じだ。彼が貼り付けているものは仮面であって決して彼自身の顔ではないのに、彼はそれを自分の顔だと思い込もうとしている。
 ――王様になれば。
 王になるって、どういうことなのだろうか。ロゼウスもそういえばヴィルヘルムと似たような境遇だ。どういう事情かはわからないけれど、ヴィルヘルムは王になる予定もなかったのに突如王になるように運命の歯車が回ったらしい。ロゼウスだとて、ドラクルがローゼンティアに謀反を起さなければ、まさか自分が第一王子だなんて思いもしなかっただろう。いきなりそんなことを知らされたら、誰だって混乱する。
 王様だから、俺は王なんだというのが、ヴィルヘルムの口癖だ。
 ――そうでなければならない。
 そしてこの言葉にその謎を解く助けが隠されているのだと思う。そうでなければならないということは、ではそうで「なかった」時には、どうなるのかということ。
 そうでなければならないことがそうでなかった時に、何が起こるとヴィルヘルムは考えているのだろう。
「……さま」
「ん?」
 ロゼウスが考え込んでいる内に、大きな子どもはすでに眠りについてしまったようだ。膝の上で何かむにゃむにゃと呟くヴィルヘルムの口元に、耳を寄せる。
「兄様」
 聞こえた言葉に、ハッと目を瞠った。
 兄様。ヴィルヘルムには兄がいるのか? だから、自分が王位なんて継ぐはずはないと?
 でも……だったら、何で「弟」である彼がセルヴォルファスの玉座に着いている?
「兄様……」
 呟くヴィルヘルムの顔は幸せそうだった。良い夢を見ているのだろう。
「……ああ、そうか」
 お前も夢を見ているんだ。見ている夢から、醒めたくないんだな。ロゼウスが昔、そうであったように。
 ドラクルに愛されたかった。だから与えられる虐待も愛情の一つの形だと自分を誤魔化して、都合のいい夢を見ていた。
 ロゼウスにそれを突きつけたのはシェリダンで、だからロゼウスはようやく現へと戻ってこれた。
 優しい夢に遊ぶのと、残酷な現実を知ること。
 どちらが幸せなのかなんて、本人じゃないとわからない。でもロゼウスは、これで良かったと思っている。
 あの朱金の瞳が綻ぶ瞬間は、ドラクルと見たどんな朝焼けの太陽より美しかった。
 絶望があるから希望を知る。
 だからヴィルヘルムも、彼が本当の幸せを得るためにはその夢から醒めなければならない。ロゼウスはまだ彼のいろんな事情やその考え方を知るわけではないし、「そうでなければならない」という言葉の意味だってさっぱりだ。でも、そのくらいはわかる。
 仮初めの安堵に溺れたところで、本当の安らぎは得られないことを。
「……て」
「ヴィル」
「ずっと……そばにいてね……いかないで……兄様……」
「っ!」
 息を飲む。服の裾を、いつの間にかその手に握られていた。
 心を置き去りに大人になった子どもが、誰かの温もりを求めている。
「いかないで」
 迷子の子ども。被ったことを忘れた仮面の下で、ひっそりと泣いている。
 いかないで。もう、それだけでいいから。本当に欲しいものはそれなのだと。
 やっとお前がわかったよ、ヴィルヘルム。
 ああほら、でもやっぱり。お前が欲しいのは俺じゃない。
 夢から目を醒まして、現実の大地をしっかりと踏みしめて生きる事は残酷だけれど、それを突きつける者の優しさは本物だ。
 だからヴィルヘルムに本当の幸せを与えたいと思うなら、誰かが彼を夢から醒まさなければならない。
 けれど。
「ごめんな……ヴィル」
 ロゼウスはヴィルヘルムの髪を撫でるのとは逆の手に意識を集中する。弱った体ではこのぐらいの小細工ぐらいしかできないが、拘束具を外されている今しか機会はない。
 爪の先に魔力を集めて、鉄のような硬度と刃の切り口とを作る。
 それを、思い切りヴィルヘルムの首に振り下ろした。


144

「君はやがて、全てを手にする」
 預言者の口から語られたそれは、何より残酷な未来だった。

 午後の勉強が休みとなって、せっかくだからと城の中を駆け回った。途中行き会う使用人たちに、走ってはなりませんと揃えたように同じ言葉がかけられる。
「兄様!」
「ヴィル? どうしたんだ? 歴史の授業は」
「先生が御用ができたからって、お休みになった!」
 兄様と言っても、ヴィルヘルムに兄は二十五人いる。ヴィルヘルムが第二十六王子なのだから、その分上に兄がいるわけだ。ついでに姉も妹もいるが、弟はいない。ヴィルヘルムは、セルヴォルファス王家の末っ子だった。
「兄様、今暇? 遊んで遊んで遊んで――っ!」
「おいおい、ヴィールー、苦しいってば」
 部屋の一つで本を読んでいた歳の離れた兄の一人の首に抱きつき、そうやってせがむ。これだけ兄弟がいれば、セルヴォルファスは後継者には困らない。特に末子であるヴィルヘルムは玉座に手なんか届くはずもなく、特段誰にも敵視もされなかったため、好きなだけ兄たちに甘えていた。
 姉や妹もいたけれど、行動が乱暴だと言われるヴィルヘルムの扱いを、姉たち女家族は持て余していたらしい。自然とヴィルヘルムの面倒は兄たちが見てくれることとなり、男兄弟に揉まれてますます活発な遊びを覚えるという循環だった。体を動かすのが得意で、難しいことを考えるよりも、外を駆け回っていたかった。人間の姿だとしょっちゅう服を泥だらけにして困るということで、狼姿でその辺を転がっていることも多かった。
 五歳より下の記憶はそんなものだ。ヴィルヘルムは兄たちが好きだったし、兄たちもヴィルヘルムを可愛がってくれた。
 幸せだった。このまま毎日が続けば、他に何もいらなかった。
「ヴィル、お前は本当に勉強が苦手だなぁ」
「そんなんじゃ、立派な王様になれやしないぞ」
「いいもん。俺は王様になんてならないもん。だって、王様になるのはジード兄様でしょ?」
「まあ、そうなんだけどさ。でも王子があんまり使えないのも困るって」
「ほら、そろそろ勉強しに戻りますよ」
「えー」
「いや、ヴィルヘルムに今日の分の宿題をさせないと、俺たちも出掛けちゃ駄目って言われてて……」
「ぶーぶー」
「はいはい、わかったわかった。拗ねないの」
「お前がちゃんと先生に出された課題をやり終えたら、兄様たちが思いっきり遊んでやるから」
「ホントっ!?」
「ああ。約束するよ」
 歳の離れた兄たちに甘えて、甘やかされて。
 肩車で部屋に戻ってはしょうがないなと溜め息つく教師のお小言を受けて、ひとしきりそれが終わると今度は真面目に課題に取り込んだ。なんだかんだでヴィルヘルムは兄たちと一緒に過ごしたくて、最初は文句を言うけれど最後にはちゃんと課題をこなした。
 帝王学とは言っても、国王が覚えるべきそれと、補佐の末端もいいところにつくだろう第二十六王子ではその密度が違う。長さが違う。重みが違う。
 それが本当に役に立つ日が来るなどとは思いもせぬまま、ただ兄たちに褒められたい一心で頑張った。これだけ兄弟がいると誰しも得手不得手があって。これは誰よりよくて誰より悪くてなんて比べられては一喜一憂したり、ご褒美だと言ってもらえたお下がりの玩具にはしゃいだりした。
 父親や母親はさすがに継承権の高い王子たちの教育に集中していてヴィルヘルムのように特に取り柄もない末子にかける期待など欠片もなかったから、ヴィルヘルムはほとんど兄たちと、そして大臣の一部に育てられた。
 二十五人の兄のうち、特にヴィルヘルムと同じように継承権の低い二十番目以降の兄たちが優しくしてくれた。継承権も十番台ならなんとか功績をあげて重要な地位に着く可能性もあるが、継承権二十五位だの二十六位などは、あってなきようなものだと。将来的な見込みが全然ないと言われているのも同然だったけれど、その分かけられる圧力もなくて楽だった。

 そんなある日、ヴィルヘルムは運命の先行きを知る人を見た。
 その色彩は、暗黒。

「ねぇ、エーリヒ兄様、レオナルド兄様」
「ん?」
「どうしたんですか? ヴィル?」
 仔狼の姿で長椅子の上を跳ね回っていたヴィルヘルムをひょいと抱き上げて、エーリヒが尋ねてくる。
「この前、城に黒髪の人がいたよ? あんな髪した人、初めて見た? ねぇ、あれは誰?」
「黒髪ぃ?」
 ヴィルヘルムの問に、レオナルドは首を捻った。エーリヒも、理由は知らぬように困惑を面に宿し、両者は顔を見合わせた。
「黒髪ってことは、あれですよね?」
「ああ。あれだよな? でも、城になんかいたか? っていうか普通、いるわけないんだが」
「?」
「あ、レオナルド、エーリヒ、ヴィルヘルム。なんだお前たち、こんなところにいたのか」
 二人の兄が首を傾げている合い間に、もう一人兄が室内に入ってきた。
「あ。なあオズヴァルト兄貴。今、城の中に黒の末裔って……」
「うわっ! バカ! レオ、その口いますぐ閉じろ!」
 レオナルドがヴィルヘルムの質問を受けて新たに入ってきたオズヴァルトに声をかけると、途端にオズヴァルトは顔色を変えた。
「んがもがごが……なんだよ、兄貴」
「不敬罪になるところを救ってやったんだから、感謝してほしいくらいだ」
「不敬罪……オズヴァルト兄上、つまりそれって……」
「察しがいいな。エーリヒ。そうだよ。お前が思っている通りのお方だ」
「ヴィルが、城の中で見たんですって」
 エーリヒの言葉にオズヴァルトはヴィルヘルムの前に膝を着くと、視線を合わせてこう言った。
「なぁ、ヴィル。お前、その黒髪のお方を見ただけか?」
「うん。見た。東棟の廊下を歩いてたの、北の部屋から見た」
「そうか。じゃあ、直接あのお方と顔を合わせたわけじゃないんだな」
「兄様?」
「よく聞け、ヴィルヘルム=ローア。その黒髪のお方はな」
 それはこのアケロンティス帝国の、宰相なのだと兄は言った。
「帝国宰相、ハデス=レーテ=アケロンティス様だ。くれぐれも無礼な振る舞いをしないように気をつけてくれ」
「エライヒトなの?」
「ああ。すっごく、エライヒトだ」
「どのくらい?」
 兄は悪戯っぽく笑った。
「俺たちの父上が百人いても届かないくらいに」
「そんなに凄い人なんだ」
「ああ」
 そして兄は、その帝国宰相のことに絡めて《黒の末裔》という民族について話してくれた。
 いわく、ヴィルヘルムたちワーウルフや東のローゼンティアのヴァンピルのような魔族ではないが、強い魔力と高度な魔術技術を伝承する人間の一族の一つだと。
 そして特に、当代の皇帝陛下がその黒の末裔の出身だという。だからたまたまその時国に来ていたハデスという少年(に、見えた)も、皇帝である姉の威光で宰相になったのだと。
 そしてもう一つ、兄は興味深い話をしてくれた。
「あの宰相閣下はな、未来を視る力があるんだってさ」
「未来をみる? じゃあ、明日雨が降るとかもわかるの? 今日の晩御飯も?」
「うーん。それは宰相閣下じゃなくてもその仕事人に聞けばわかると思うんだが……とにかく、宰相閣下は《預言者》っていう別名を持っている凄腕の魔術師で、未来に何があるとか、全部わかっちゃうんだって」
「へぇ。すごいねぇ!」
「ああ。凄い人なんだ。だから絶対、怒らせちゃ駄目なんだぞ?」
 ヴィルヘルムはその時の説明に対して、特別感想など抱かなかった。今日のように明日が来て、定められた歯車は狂うことなく皆の予想通りの未来が来るものだと思っていたから。
 だからその言葉の意味を、本当の意味で理解したのは随分後だった。
「予言しよう。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス」
 魔族より魔族らしい人間が、楽しげに笑ってそう言った。
「やがて、全てが君のものになる。そう、この国の全てが」
 ヴィルヘルムにはこの言葉の意味が、すぐにはわからなかった。
 そして、気づいた時には、全てが遅すぎたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ――あのさぁ、ハデス卿。俺はこれでもあなたには感謝してるわけだよ。
 ――何? 突然。
 ――あなたがこの国のことについて、あらかじめ予言で教えてくれたから俺は今国王の座についている。
 ――ああ。でもあれはもともと、そういう運命だったというだけの話だからね。ねぇ、第二十六王子ヴィルヘルム。

 よりによってこの僕に、感謝などと伝えてきた無垢で、それゆえ残酷なまでに愚かな王子を内心で嘲笑う。
 ヴィルヘルム。お前のための舞台は、最初から整っていたんだよ。
 僕が何もしなくたって、君はロゼウスの運命に勝手に巻き込まれる。

 ――まぁ――確かに、俺はあんたたちとは違うからな。あんたとも、ドラクルやイスカリオットとも。あんたたちみたいに《可哀想な》過去を持ってて、そのために足掻いているわけじゃない。

 人のことを、可哀想だなどとはよく言ってくれたものだ。あの王子様は、どうやらここまで来ても何もわかっていないらしい。

 ――ま、せいぜい頑張りなよ、ヴィルヘルム。何も持たない王子様。ようやく全てを手に入れた王様。その手に入れたものを、これから失わないようにね。
 
 殊勝な振りを無理して作らなくたって、あの狼っこの浅はかさなど熟知している。あれへの心配はいらない。どうせ僕が予言で見たとおりの運命を彼は辿るだろう。
 憐れな犠牲者よ。
 タルタロスで休息をとりながら、ハデスは地上に飛ばした使い魔が戻って来たのを知る。紫色の鴉を腕にとまらせると、その瞳をぺろりと舐め上げて、それが見てきたものを自らの網膜に映した。
「……へぇ、イスカリオット伯、もう手を引いたんだ」
 エヴェルシードでは変化が起きていた。まず、狂気伯爵と言われるジュダ=イスカリオットが自らの宣言を覆して早くもシェリダンを解放してしまった。彼は唯一無二の従者クルス=ユージーンと共に、今度は南へと向かっている。
「シェリダンはさすがにもう動き始めたか」
 ハデスは複雑な気分でそれを見、けれどまだ事態は決まっていないと、再び意識をセルヴォルファスの方へと戻す。もう一つの影はまだ動いていない。ロゼウスはヴィルヘルムに囚われたままセルヴォルファスに留まっている。もっともそれも時間の問題だろうが。
 遅かれ早かれ、ロゼウスはその内に必ずヴィルヘルムを殺すだろう。
「さて。例え捨て駒扱いにするにしても、あのヴィルヘルムがロゼウス相手にどこまで持つかな」
 すべての準備が整うまでとは言わない。それでもせめて、ある程度こちらの計画が進むまで持ちこたえてくれればそれだけで御の字だ。
 暗い地獄の中、ハデスは二人の少年の運命を傍観しながら、その皮肉をひっそりと嘲笑った。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスもシェリダンもその権力と武力から引き離し、舞台の最下層へと引き摺り下ろした。カミラが王としてその地位につき、ヴィル――セルヴォルファス王ヴィルヘルムがロゼウスを攫っていったという。ユージーン侯爵クルス卿は生死行方共に不明であり、帝国宰相ハデスは自ら姿を晦ましている。
 隠れ家の一つ、ドラクルは機を待つ。望んでいるのは浅はかな戦争ではない。その結果に待つものだ。手に入れたいものがあるのならば、敵を打ち倒しただけで満足してはならない。そして倒したと思った敵が、後から復活してくる可能性が大きいのならば尚更だ。
 人間であるシェリダン王がどこまでできるかはともかく、ロゼウスにローゼンティアに戻られては厄介だ。国内の反王権派貴族への根回しは順調に進んでいるとはいえ、まだ王族に信を置いている者たちも多い。
 エヴェルシードを煽って侵略させた当時こそ混乱状態にあったローゼンティアも、近頃になってようやく体勢を立て直し始めてきたところだ。ノスフェル家が動き出し、一度殺されたヴァンピルたちが続々と生き返っているらしい。エヴェルシードは厄介事は御免だとその勢力の大半をカミラの指示で引き上げ、今度はエヴェルシード国内の簒奪の余波に備えている。ドラクルたちローゼンティアにも王権派と反王権派がいるように、エヴェルシードでもシェリダン派とカミラ派に別れるらしい。それでもこの国は兄か妹かを選ぶだけなのだから、楽なものではないか。
 協力体制を結んだエヴェルシードのある貴族の屋敷の一棟を今は貸し出されている。シェリダン王の治世にあってはかの少年の名の下に、カミラ女王の治世たる今はその少女の足元に跪いて忠誠を誓うその男は、またいつでもカミラ姫を裏切りやすくするための足場固めとして、ドラクルと手を結ぶことを望んだ。こうしてドラクルは十重二十重にも蜘蛛の巣を張る。幾つもの道を用意しておく。ハデス卿が姿を晦まそうが、ヴィルヘルムがロゼウス欲しさに裏切りに近い行動をとろうが構いはしないように。
 所詮誰も本当に信用してはならないのだから。その意味で、エヴェルシードの尻軽な貴族どもは素晴らしく扱いやすい。ローゼンティアではこうはいかない。
少数民族、それも地上の魔族と言う特殊な人種であるだけにローゼンティアの支配体制は埃を被りそうなほど古く、王族への信頼は通常揺るがない。民たちはローゼンティア王家だけを信じ、簒奪など考える輩はほとんどいない。
 元々、世界帝国建国に寄与したロゼッテ=ローゼンティアの子孫として、その強すぎる能力を讃えられつつも忌み嫌われてきた一族だ。
強すぎる力を持つ生き物は、通常暴力的になる。自らの力を持て余し、それを存分に発揮するために無意味に暴力に転化する。
 それを少しでも防ごうとヴァンピルのこの血にかけられた呪いこそが、殺人衝動を抑える封印。渇きや負傷による自らの命の危機に陥らない限り、吸血鬼の力の暴走を抑える魔術。
 その反動で、ローゼンティアの民であるヴァンピルたちは皆一様に穏やかな性格となった。暴力を好み、罪を犯す者などほとんどいない。平和な国。
 我が祖国ながら、なんて気持ちの悪いことだろう。
 誰も彼もが疲れている時でも真面目ぶって働き、和を好むと言っては気の食わない相手にも笑顔を浮かべ、美を讃えるその口は少しでも異常なものを見えない。
 まるで嘘つきの国だ。その滑稽さに自然と嗤いが込み上げる。
 何かも嘘。全てが偽り。そもそも魔族であるヴァンピルが争いを、暴力を、殺戮を、血を、好まぬはずなどないというのに。魔力で封じたそれの上から穏やかな顔の仮面を張り付けて、その仮面を自らの素顔だと思っているのだから愚かしいばかりだ。
 真実が知りたいのならば、潔くその顔の皮を肉ごと剥げばいいのだ。赤黒い筋肉もぶよぶよとした内臓も青い血管も全て余計なものを取り払って美しい白骨だけとなったなら、ようやく本来の『自分』の顔が見えてくるだろう。
 この自分がいい例だ。何もかも偽りで塗り固められた王子の称号。望んで纏ったわけではないその仮面を顔の皮ごと剥がされて、醜い内側を晒している。
 ああ、嗤いが込み上げる。
 手に入れたと思った物は全てが偽者だった。最初から、この自分自身が何より嘘だった。
「だがもうすぐ嘘ではなくなる」
 虚飾に彩られた屋敷の、無駄に豪奢な長椅子に寝そべってドラクルはそう言葉にした。アンもヘンリーもルースもメアリーも今はここにいない。彼らは彼らで、好きに動いている。ドラクルが好きにしているのだから、彼らにもそのくらいの自由は必要だろう。もっとも、自らドラクルについてきたアンやヘンリー、最初からドラクルの共犯者であったルースとは違い、メアリーと後、得たいの知れないもう一人の監視については手を抜くわけにはいかないが。
 そろそろ様子を見に行った方がいい頃合だ。
 今のところドラクルの計画に大きなズレや予測違いの事柄はない。ただ、一つだけ不安要素がある。部屋を出て、人気のない廊下を歩き別の部屋へと向かう。扉を開けてこちらに背を向ける椅子に視線を移すと、そこに白い後頭が見えた。
「……ジャスパー」
 名を呼ぶと、これまでの下から二番目の弟。本当は血の繋がっていなかった偽者の兄弟が振り返った。
「ドラクル兄様」
 にっこりと、弟であった少年は慎ましやかな笑みを浮かべる。個性的な兄妹が多いと言われたローゼンティア王族の中でも特に主張しない地味な性格と言われた一人。
「何を思っているんだい? ここ最近」
 だが、再会してからのジャスパーはと言うと、どうも様子がおかしい。元から仄にロゼウスへ淡い感情を抱いていたようだったが、ここのところ特に拍車がかかっているように思われる。
 勿論、ジャスパー自身は滅多にそんなこと口には出さない。だが、同じように外目には笑顔を浮かべながら世間を欺いてきたドラクルには、この自分の半分ほどしか生きていない弟の薄暗い欲望が透けて見える。
「別に何も」
 自然な笑顔で答える彼の正面の応接椅子を陣取り、この一日、いや、この屋敷に移ってから数週間も、日がな一日何をするでもなく椅子に座って思索に耽っている彼へと問いかける。
「へぇ? では、何を考えているんだい?」
 「思う」と「考える」。同じような言葉ではあるが、実際は違う。思うということは願望を自身の中に抽象的から具体的にまで確立することだ。
 考えるということは、その願望をどう実行に移すべきか模索することだ。
 ジャスパーの願いはすでに決まっているのだ。だから彼には今更思うことなどない。だから彼は揺らぐことなどない。すでにその次の段階に入っている。思うことを成し遂げるためにどうすればいいのか、考える。
 ドラクルの問に、宝石王子と呼ばれる少年はそれこそ透明な宝石のように美しい笑顔を浮かべた。
「僕の望みを、現実にするために何が必要なのかを」
 ああ、やはり。
「そうか。それは頑張ってくれ。ジャスパー。それで、お前の望みとは?」
「僕の望み?」
 彼はうっそりと口角を吊り上げる。
「それは、ロゼウス兄様に――」
「ロゼウスに、なんだい?」
「……いいえ。それから先は、ドラクル兄様には内緒です」
 ジャスパーは緩やかな笑みを浮かべたまま、ふと、それまで椅子に座ったまま何事かを考え続けていたその姿勢を崩す。緩められたその動作に特に注意も払わず、ドラクルは彼に言葉の続きを促した。
 少しでも多く、情報を引き出さねばならない。この少年がドラクルについてきてから最近何を考えているのかわからないのは、もどかしい上に危険だ。不安要素は一つでも少ない方がいい。ジャスパーが何を考えているのか知れれば、その不安要素を解消することも、そこまで行かずともドラクルの害にならぬよう対策を練ることもできるだろう。
 そうして警戒せねばならぬほど、近頃のジャスパーの様子はおかしいのだ。もともと大人しい性格だったとは言え、この数週間ずっとこの与えられた部屋で必要最低限の生活行動をとる以外は座り込んで微動だにせず考え込んでいるなど、どう考えても異常だろう。
 彼はこんな人間だっただろうか。
「酷いな。教えてはくれないのか?」
「ええ。だって」
 言葉の続きを最後まで聞く前に、腹部に灼熱感が襲う。
 戦慄いた唇から鮮血が溢れて顎を伝った。ドラクルがあげようとした声が言葉になる前に、ジャスパーが再度口を開く。
「僕の望みも、ロゼウス兄様の未来のことも、ドラクルお兄様には関係ありませんから」
 ああ。彼はこんな人間だっただろうか。
 ドラクルの腹部に刺した短刀を引き抜く前にわざとジャスパーは横へと捻った。傷口をかき回されて襲う激痛に目の前が深紅に染まり、苦痛に顔を歪めた。短刀が引き抜かれると支えを失った体から力が抜け、床へと崩れ落ちる。
 ふらりと、ジャスパーはまるで自然な足取りで部屋を出て行く。傷を負ったドラクルは、それを負うことができない。急所を刺されたわけではなく即死もできない痛みに点滅する脳裏を落ち着けながら、体力の回復を待った。
「――ドラクル!? その怪我、どうして!」
 しばらくして、ジャスパーの様子を見に来たらしいルースが部屋の扉を開け、負傷したこの姿に血相を変えてドラクルに駆け寄ってきた。
「ふ、ふふふふふ。はははははは」
「ドラクル?」
「やってくれるじゃないか、ジャスパー=ライマ=ローゼンティア!」
 様子がおかしいのは気づいていたが、まさかここまで過激な行動をとるとは。全く予想もついていなかった。
「その傷……ジャスパーが……?」
 ドラクルの妹であり、ジャスパーにとってはかつての姉にあたるルースも信じられないものを見るように瞳を見開いている。あの兄妹で一、二を争う大人しい弟がこんな暴挙に出るなどと、彼女も予想していなかっただろう。
「聞け。ルース」
「なんでしょう、兄上」
 腹部の傷に的確な応急処置を施しながら、ルースがドラクルの言葉に反応する。
「ジャスパー。あれの思惑はまだ不明だが、その目的はロゼウスだ」
「はい」
「そして、ロゼウスを手に入れるためならば手段を厭わない様子。理由の詮索は特段しなくて構わない。この先もしもジャスパーに会う事があったなら」
 さよなら。さよなら。さよなら。痛む腹部の傷に恍惚と感謝を共に、ドラクルはまた一つ不要なものを切り捨てる決意が沸く。
「迷わずに、殺せ」
「――はい」


145

「着いたぞ、ここがトリトーンの港だ」
 街道で叩きのめした盗賊の一味に案内されて、シェリダンたちはエヴェルシードの最南、海へと出る手段を求めて港町へとやってきた。
 それも、ただの港町ではない。
「うん。私の期待通りだ。よくやったな」
「へへー! 陛……いえ、シエル様のためでしたら、このぐらいなんてことないっすよ!」
 シェリダンによって(半分はクルスも担当したが)叩きのめされた盗賊の一味は、今ではすっかりシェリダンの手下に成り下がっている。本当は部下と言った方がいいのだろうが、何しろ教養や儀礼とは無縁の田舎者庶民集団なので、真面目くさってそう呼ぶのも躊躇われる。
 ついでにシェリダンは、クルスに「陛下」とも「シェリダン」様とも呼ぶのを禁じた。
 王族の名前は、通常一般の民はつけてはいけないことになっている。すでにつけてしまった名を変えろとは言われないがその後に生まれてくる子どもたちに王子の名前をつけることは禁じられているので、この国に十七歳より年下でシェリダンという名前の人間はいない。
 アケロンテでは生まれた日に関わりなく一年の始まりの一日に全員が年齢を一つあげる。そのように考えると十七歳で「シェリダン」と言う名前の人間は全くいないように考えられるが、実際に人間はそう都合よく同じ日に全員が生まれてくるわけではない。ちなみにシェリダンの生まれた日は一年の終わり頃なので、厳密に言うと十七歳で「シェリダン」という名前の人間がいる可能性は高い。
 それでもやはり、十七歳以下は通常いないと言われている王族の名前なので、そのまま名乗っていればあっさりと前国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシードであることがバレてしまう。あの時も、この盗賊たちにシェリダンの素性が知られてしまったのはクルスの迂闊な発言のせいだ。
 そのため、今現在のシェリダンは「シエル」という偽名を名乗っていて、クルスや盗賊たちにもそう呼ぶように命じた。
「いい具合に柄の悪そうな連中が揃っているな」
 道行く人々の様子を眺めながら、シェリダンはそう仰いました。
 確かにシェリダンの指摘したとおり、この港町を歩く人々は全員が何かしら前科を持っていそうに柄の悪い連中ばかりだ。
 例えばぴかぴかの肌色の頭に布を巻いた男の腰には荒くれ者がよく使う幅広の剣が下がっているし、例えば筋肉質な髭面の男の右目は眼帯で塞がれている。ついでに顔に大きな傷のある男にしなだれかかって歩く女性の露出の高い衣装から見える背中には派手な刺青が刻まれており、すぐ近くで小さい子どもが無邪気にスリを働いていくのが見えた。シェリダンやクルスは自分たちに関係ないので別段取り締まりもしないが。
 露店に並ぶ品物は、食料こそまともなものの、貴金属の類は凄まじい。錆びて欠けている装身具の類はまだいいが、中には明らかに血の染みがついている宝石を堂々と並べてあったりもする。どこからか略奪してきたものだろうか。
 よくよく見れば、立ち並ぶ建物の扉や壁は何度も壊されて修理した跡が見られる。壁に人型の血の染みがついている建物もある。町のあちこちに髑髏が掲げられている。
 人々の服装も、眼帯や頭に巻くスカーフや腰に巻く布が流行っているようだ。
 そして、港町と言うからには港に船が並んでいるのだが、そのどれにも黒い旗が立っており、その中にも各種個性的な髑髏が描かれている。
「さすが、《海賊港》と呼ばれるだけのことはあるな」
 感心したようにシェリダンが言った。
 エヴェルシードの辺境、牧歌的な田舎とはまたちがった意味で辺境と呼ばれるこの港町トリトーンは、海賊業が盛んで有名な港なのだ。
「活気のある町ですね」
「海賊業、つまりは犯罪が盛んで稼ぎが確かという、悪い意味での活気だがな。取締りを強化することが今年の議題の一つに挙がっていたはずだ。運が良いと言うべきか悪いと言うべきか」
 ふう、と運命の因果なことに嘆息しつつも、シェリダンはすたすたと迷いなく歩いて行く。クルスと盗賊たちは、その後を必死に追いかける。二人は盗賊たち十人を仲間というよりは部下としてこちらにぞろぞろと引き連れてきているのだが、ここは海賊港であるだけに大所帯の移動など特に気にすることもないのか、誰も動揺していない。ここまで来るのに、総勢十二人というのは結構大変だったのだが、複雑な気分だ。
「シエル様!」
 シェリダンは何の考えがあるのか、盗賊たちにとにかくこの町まで案内しろと言ったきり、クルスにも全く説明しない。
 そもそもこの町に行くと言った時、クルスはとても驚いた。確かにロザリーやリチャードたちの一行は南の方へ向かい、それが海の方角だとは知れたが、何故いきなり《海賊港》なのだろうか。
 そんなクルスの驚きも知らず、というか知っていても気にせず、シェリダンは自ら露店商の白髪の老人に話しかけて情報を得ている。
「……ふむふむ。なるほどな。そうか。この町で一番勢力の強い海賊は……」
 話の途中で、シェリダンは露店というだけあって布一枚引いた簡素な店に並べられた商品に目を落とす。
 品物を買うのと引き換えでなければ、話をしない、そういう取引だそうだ。
 シェリダンは布の上を一通り見た後、たいして迷った様子もなく、藍色のラピスラズリのピアスの一式を手に取り、銀貨を一枚店主の手に握らせた。
 ちなみに補足しておくと、間違ってもこんなところで売られている安物のピアスに、それほどの価値はない。いや、シェリダンが元から身につけているピアスの一つで、ここの店の品物全てを買ってお釣りが来るほどの金額だ。
案の定店主は目を丸くした。
「これじゃどんな情報と合わせたところで、幾らなんでも高すぎるな。わしゃぁ不当な商売はできんよ。お兄さん、もう一つ選びな」
 促されて、さらにシェリダンは今度は石榴石のついたピアスを選んだ。
「で、どれがその船だ?」
「ああ。あれだよ。あの二番目に大きい、紅目の髑髏が描かれているやつ」
 老人の言葉に、クルスも港に並ぶ船へと視線を向けた。確かに多くの船の中で、最大というわけでもないのだがそれなりの大きさと迫力ある旗の掲げられた船が目を惹く。外観もそれなりに立派で、最大の大きさの船よりしっかりした造りになっているのではないだろうか。それが、この町で一番勢力の強い海賊の船らしい。けれど、シェリダンは何故そんなことを尋ねているのだろうか。
「それと、その海賊の一味の特徴を教えてくれ。行きつけの店などな」
 更に情報を聞きだし、シェリダンは店主の手にもう一枚銀貨を押し付けた。そうしてから、布の上で視線を彷徨わせ、途中でちらりとクルスの方を見る。
「何ですか?」
「翡翠……ではないな、お前は。店主、この琥珀をくれ」
「おう。そっちのバングルともセットになっているから、両方持っていけ」
「わかった。助かる」
 総額銀貨二枚分と言うこんな小さな店では法外なほどの値段を払って、シェリダンは装身具の買い物を終えた。むしろ買い物と言うより情報を貰うのが目的だったようだが、それも済んだ模様だ。
「クルス。ちょっとじっとしていろ」
「シェ……シエル様?」
 シェリダンに言われて、クルスは道の端で立ち止まった。シェリダンは先程買った装身具のうち二つ、琥珀の嵌められた腕輪と首飾りを、さっさとクルスの身につけていく。
「シエル様? これは……」
「いざという時の軍資金代わりにもならないが、使い道は上手く考える。私もジュダのところでピアスが欠けてしまったからな。改造して代わりを見つけないといけないから、ちょうど良かった」
 そう言ってシェリダンはクルスの腕と首に装身具をつけ終えると、今度は最初に買った二つのピアスを手のひらの上で転がして見つめた。一番に買ったラピスラズリは元からシェリダンの持っている毒入りのピアスに近い形状と色で、もう一つの柘榴石は。
「その色、ロゼウス様の瞳の色に似ていますね」
 そう告げると、シェリダンが仄かに微笑んだ。そのまま、どちらも耳には嵌めずに懐へと仕舞いこむ。
 そうしながら、彼らの足は先程の店主から聞きだした情報を元に、この町で一番の勢力を誇る海賊たちのたむろするという酒場に向かう。
「あのう……シエルの旦那」
「旦那って……」
「俺たちゃあ、これからどうすればいいんで?」
 呼称への突っ込みはさておき、クルスも気になっていることを盗賊の一人がシェリダンに尋ねた。元々はこの盗賊たちの頭であった男だ。
「ああ。なんだ、まだわかっていなかったのか? お前たち」
「へい、じゃなくてシエル様。でも僕もわかりませんけど」
「クルス、お前まで……」
 話しているうちに、説明された店の正面に辿り着いた。
シェリダンは一度そこで立ち止まると仁王立ちになり、腕を組む。
「いいかクルス、ロザリーやエチエンヌたち、ローゼンティアの一行と我が従者たちは、南へと向かった。ここまではいいな」
「はい。この者たちに聞いた情報ですね」
 そこまではクルスにもわかりる。何故なら、クルスもその場にいたのだから。間違えようもない。
「向こうは南を目指していたのだろう。南と言えば、何がある?」
「イスカリオット、フラニア地方から南と言えばいろいろあると思いますけど……でも、ここに来たという事は、目的地は海ですか?」
「そうだ。恐らくロザリーやリチャードたちは、海路を使ってローゼンティアへ戻る気だ」
 シェリダンは頷いて説明をした。
「エヴェルシードがどうのというよりも、まずこの状態で彼ら薔薇の国の王族が頼れる国はない。ならば他国に協力を求めるだけ無駄。さっさとローゼンティアに戻って協力者を募った方がまだ見込みがある。ヴァンピルの容姿では陸路を移動するのは変装しても目立ちすぎるし、何よりエヴェルシードとローゼンティアの国境にはカミラの配置した兵士たちがいて封鎖されている。彼らを倒しても良いが騒ぎを大きくすると、ローゼンティア国内に入る前にまた警戒されて障害が生まれる恐れがある。それならば、誰にも知られないそして見つからない、あるいは見つかったところで見咎められない行路から、ローゼンティアへと入るべきだ」
 それが、海の上だと。確かにエヴェルシードは海向こうの国とは同盟を結んでいるために海軍がそれほど発達しておらず、広く警備の緩い海上でならば見咎められることもなく進むこともできるかもしれない。
 シェリダンたちが盗賊たちにロザリーたちのことを聞いた時、彼らが言っていたのは一行は南へ向かったというそれだけだった。そこからここまで推測できるシェリダンの考えに感心しながら、まだクルスの疑問の全ては晴れたわけではない。
「でもシェ……シエル様。いくら海上を行くとは言っても、船がなければどうにもなりませんよ?」
 確かに海路を使えば陸上よりは穏便にローゼンティアに入れるかもしれない。しかし、それには長い航海に耐えられる船があることが大条件だ。海路を使うと言う事は当然国境から直接ローゼンティア王都に向かうよりも遠回りになり距離があるのだから、それなりの日数はかかる。そんな頑丈な船を買うほどの懐の余裕は、生憎イスカリオット伯の餞別の路銀で旅をしている今の彼らにはないはずだ。
「ああ。それはな。今から手に入れるところだ」
「……シエル様?」
 宣言するシェリダンの顔は、とてもにこやかだ。満面の笑みだ。それはもういっそ清々しく――胡散臭いほどの。
 つまり、ろくな方法じゃないんですね。クルスは頬を引きつらせながらも、次のシェリダンの行動を見守る。
 そして彼はどうしたかというと――いきなり目の前の店の正面玄関を蹴破った。中でガタガタと椅子を倒して人が立ち上がる気配が。殺気も感じる。
 けれどそんなことは知ったこっちゃないとでも言わんばかりに、シェリダンは向けられた殺気を受け流し、彼らを強気な眼差しで睨みつけながら、隣に立つクルスへと宣言した。
「クルス。私は――海賊になる」
 …………本気ですか?

 ◆◆◆◆◆

 嬉々として破壊活動。
「シェ……いえ、シエル様、今まで実はストレス溜まりまくっていたんですね……」
 とばっちりで飛んできた椅子を蹴り落としながら、クルスは思わず呟いた。それほど声量を落としているわけでもないが、港のとある酒場の店内中央でとてもとても楽しそうに中にいた海賊たちをぶちのめしているシェリダンには聞こえていない。
「わ、わー!」
「死ぬ! 俺たちまで死んでしまう!」
 ちなみにこれまで彼らについてきたあの盗賊の一味だが、シェリダンの暴走のせいで机やら椅子やら酒瓶やらが飛び交う店内で飛来物に頭をぶつけられないよう必死で身を屈めている。足元に飛んできたらどうするんだろうと一応気にはなりつつも、クルスはクルスのほうで手一杯で特に助けてあげようという気も起こらない。これがシェリダンのことならもちろん自分の身を削ってでも助けるが。
 とりあえず現在、飛びかかってくる海賊たちを次から次へと地面に落ちたとんぼのごとき屍に変えているシェリダンは心配しなくても良さそうだ。
 むしろ、これまでの戦いではいろいろありすぎた。いくら手っ取り早く手近な隣国とはいえ、ローゼンティアに侵略戦争を仕掛けて以来エヴェルシードは気の休まる暇がない。国が、と言うよりはむしろシェリダンを始めとする関係者一同が、という感じではあるが、それにしてもこれまではいろいろと大変だった。
 クルスも酒場と言えば思い出す。あのフリッツ=ヴラドの酒場『炎の鳥と赤い花亭』で初めてロザリーに会った時のこと。
 あんな女性は初めてだった。確かにクルスはイスカリオット伯爵ジュダやバートリ公爵エルジェーベトに比べれば弱いかもしれないが、あんなにあっさりと重傷を負わされ瀕死になるとは。戦場でもそうそう体験した事はないあの衝撃。白髪に血のような紅い瞳の美しい姫君の、渾身の右ストレート……。
 などとクルスがつい数ヶ月前の過去を懐かしんでいる間にも、店内にはうずたかく、気絶した男たちの山が築かれていく。
 ……楽しそうですね、シェリダン様。
 またもやとばっちりでこちらに飛んできた男の一人をクルスは問答無用で地面に叩き落し床とお友達にさせてから、近頃にはなかった生き生きとした表情で戦死者(気絶)を増やしている主君を見る。
 シェリダンは本当は結構強い。クルスは今になっても決闘で三度に一度は負ける。身長に至ってはクルスより十センチほど高く、細身の身体にもしっかりと筋肉はついている。並みのごろつきの十人や二十人なんて、それこそ相手にならない。
 しかし最近彼らの周りと言えば、イスカリオット伯やバートリ公を抜いたとしても、ローゼンティア絡みのヴァンピルなどあっさりと人の力を超越してくれる化物揃いで。うっかり自分が物語の乙女並みに弱くなってしまったものかと、何かにつけては自信をなくしそうになっていた。クルスもシェリダンも、イスカリオット伯とは因縁がある。
 そんな中、先日の盗賊一味と言い今回の海賊と言い、紙一重の剣先をかわすどころか無表情に手で掴んで流血も厭わずに挑みかかってきたりしないあくまでも普通の人間と手合わせ(と言うレベルはすでに越えている)をするのはさぞや楽しいのだろう。
 だが、これがどうして「海賊になる」に繋がるのだろうか。
 クルスがそう不思議に思いつつ、またしても今度は蹲る盗賊一味に向かって飛んできた机を蹴り落とした時だった。
「何の騒ぎだこれはァ!?」
「あ、兄貴!」
「船長!」
 最初にシェリダンによって蹴破られた酒場の入り口から、清々しい風と共に一人の髭面の大男が立っているのが見える。ここはエヴェルシード国内だが海を行く者に国籍などあってないようなものだ。男はこのシュルト大陸の人間ではないらしく、バロック大陸ラウザンシスカ系の銅色の髪に藍色の瞳をしていました。
「お前が船長か?」
 床に転がった一人の海賊の腹を片足で踏みつけながら、別の海賊の胸倉を掴んでいたシェリダンは、頬に跳ねた返り血も鮮やかに男に向かって微笑みながら問いかけた。
「おい。お嬢ちゃんよ。一体何が目的だか知らねぇが、俺の部下から手を離せ」
 言われた通り、男を放すシェリダン。どさりと音を立てて床に落ちた男の腹を極自然に踏みつけて、船長と呼ばれた大男の前に立つ。ぐぇ、とあがった悲鳴には、船長と呼ばれた男も無視だ。それでいいのだろうか。
 船長の手がいきなりシェリダンの胸へと伸びる。膨らみがないか確かめるように探っているようです。軽く眉をしかめただけで服の上から無遠慮にまさぐる手付きに何も言わず、シェリダンは自分より頭二つ分背の高い男を見上げた。
「なんだお前。男か。じゃあ、人の店をこんなにしてくれたお礼に身体で返せっていうのも無理か」
「いいんじゃねぇですか? お頭。そんだけ綺麗なツラしてんなら、男でも高く売れんでしょ?」
「違いねぇ」
 船長と一緒に来た男たちの二人が、風通しよくなった戸口から何か言っている。
 その横では、入り口近くに避難していた、シェリダンたちが従えて来た盗賊一味が顔を青褪めて震えていた。彼らとはまだ数日の付き合いだが、もうちゃんとシェリダンの性格はわかっているようで、ぶつぶつと呟いている。
「に、逃げやせぇ、海賊の旦那! そ、その方を怒らしちゃなんねぇ!」
「そうだそうだ、シエル様に喧嘩売るなんてそんなげに恐ろしいこと……っ」
「そのお方が可愛らしいのは、顔だけだぁあああ!」
 シェリダンのことをよくわかっているようで。
「クルス」
「はい」
 具体的な指示ではないが、クルスはクルスでシェリダンの言葉に従う。剣を抜いて、戸口に控えている海賊子分の二人と向かい合った。
 シェリダンの方は、海賊の船長と交渉を始めている。
「で、お前さん一体何が目的でこんなことを仕出かしたんだ?」
「船が欲しいんだ。頑丈な船が。私たちを目的地まで送り届ける船員付ならばなお良い。なぁ、お前、私の部下として働く気はないか?」
「正気か? お嬢ちゃん。お前さんがやってくれた俺たちの部下、それにこの店、お前がしたことは明らかに俺たちに喧嘩売ってるようにしか見えねぇがな」
「賊の流儀などどこでも変わらないだろう? 欲しい物は力尽くで奪うのが礼儀だ。違うか?」
「がっはっはっは! いいぜ。その通りだ。ま、お前みてぇな可愛い子ちゃんにあっさりやられちまったそいつらもそいつらだしなぁ!」
 可愛い子ちゃんっていう言葉遣いがすでに古いなぁ、とクルスは飛びかかってきた海賊子分二人を剣の鞘で叩き落して気絶させながら思った。
「俺はそんな簡単にはいかないぜ?」
「ああ。それは面白い。ではこうしないか? 船長。私がお前との決闘に勝ったら、お前は私の手下の一人となれ。つまり、お前の海賊団はそのまま、私のものとなるんだぞ?」
「はーっはっはっは! さっきから聞いてりゃあ面白いことを言うお嬢ちゃんだぜ! なんだ? 賊の流儀ってのは、お前さんもどっかで盗賊稼業でもやってたってわけかい? その日焼けもしてねぇ白い肌じゃ、まさか同業者じゃないだろ?」
「ああ。違う。違うが、まあ似たようなものだ」
 エヴェルシードは欲しいものは戦争してでも力尽くで奪う国ですからねぇ。クルスはシェリダンの言葉に内心で頷く。でもそれと海賊、一国の王と海賊を同じ立場で考えるのもどうかと思いますが。
「面白ぇ。じゃあ、約束してやるよ。お前さんが俺に勝てたら、うちの海賊団はまるまるお前さんのもんだ」
 まさか負けるとは露ほども思っていない船長はあっさりと約束する。
「せ……・船長、だ、だめ……だ、そいつ、もたぶん……」
 クルスの足元で先ほど倒したはずの屍が何か余計なことを言いそうになっているので、床に接吻させるように頭を踏みつけて黙らせた。幸いにも船長はこちらの様子に気づいていないようで、そのまま会話は続けられている。
「だが、俺が勝ったらお前さんはうちの一味中の慰み者の上、奴隷市場行きだぜ?」
「ああ。いいぞ。できるものならやってみるがいい。せいぜい私を満足させてくれ」
 あー、シェリダン様本当に楽しそうだなー。
 元々の盗賊一味は、戦いが始まる前にと早々に耳を塞いだ。後にはクルスと、ただ海賊たちの屍だけが残る。
「後悔すんじゃねぇぞ?」
 その言葉を発した船長自らが心の隅々奥深くまで「後悔」という言葉の意味を知るまで、後三十秒。