132

 その視線が遠い。
「くっ……う、は、ぁあっ」
 いつものように、お互いの体を重ね合わせる。習慣化した行為。肌を触れ合わせて、相手の体温を感じながらではないと眠れない日々。
「ああっ」
 背中に立てられる爪。一瞬の灼熱感の後、痛みが走って傷口が血を滲ませる。自分では見えないそれを痛みとして感じながら、暗い愉悦に口元を歪める。
 愚かしいと笑うなら笑えと、恥も外聞もなく、むしろ世界の動きなどどうでもいいとばかりに投げ出して、ただこの、狭くはないが外に比べれば決して広くはない一室で、朝と夜を交互に繰り返す。
 いや、時々は太陽が西から昇って朝の次にまた朝が来ていたりしているのかもしれないが、とりあえずジュダはそれを知らないと言うだけ。この部屋の外のことなど、関係ない。
執務も滞りがちになった。この時のために雇い入れた優秀な執事たちが、眉を潜めながら仕事をしている。そのための給料に払う金は増えた。稼がない間に金は湯水のように浪費されていく。
 特に変わったことを始めたわけではない。ただ保つべき日常がゆっくりと綻び始めているだけ。その兆しがゆっくりと現れ始めている。
 世界など、日常など、この平穏など、人生など。
 そんなものは壊れるなら、好きなだけ壊れるがいい。そして残ったものが灰色の瓦礫の山であるなら、私は裸足でそれに登り、喜んで笑い続けよう。
「んっ……はぁ……やめ……っ!」
 艶めいた喘ぎを聞き慣れることはあっても、この熱の昂りは何度だっておさまることなく煽られ続ける。仰け反る白い喉首に、それこそ吸血鬼のように噛み付きたい気分になる。
「あなたを殺して」
 ぴく、と彼の手が反応した。物騒な言葉に身を守る刃を探すかのように、敷布の上を利き腕がしばらく彷徨う。
 無駄な行為としか言いようのないそれを何の気なしに見つめながら、ジュダは言葉を続けた。
「あなたを殺して、その死体をばらばらにして、白い首筋に喰らいついてその血を吸血鬼のように干からびるまで飲み干して、全て食べてしまったら」
 そうして狂ってしまったら。
「とても幸せになれそうですね」
 ざく、と意図的な行動によって、背中の傷が抉られた。さすがに痛い。顔をしかめて、その爪でただでさえ引っかき傷だらけだった背中を抉った目の前の少年を睨む。
「馬鹿じゃないのか、お前」
「馬鹿? そんなもの、今更でしょう」
「ああ、今更だな。そして改善されないのだから、これからだって何度でも言い続けるぞ」
「それは恐ろしい」
 背中を血が伝う感触がする。シェリダンはジュダの背から離した指を自らの口元に引き寄せ、爪についた血を舐めた。それは酷く淫靡な仕草だとこの目に映り、赤い舌が紅い血を舐めとる光景に視線を奪われる。
「……どうした、ジュダ」
 自らの指先を舌で清めると、彼は挑発的に笑った。
「そんな真似をするとますますヴァンピルのようですね」
「ああ。そうだな……いや、だが、そうだ。先ほどのお前の言葉、間違っているぞ」
「どの辺りが?」
「喉に喰らいつく、という辺りだ。私が知る限りでは、ロゼウスはそんな吸血方法は選ばなかった」
「ほう」
 ここに来て、目の前の相手以外の男の名を出すとはいい度胸だ。けれど彼は言葉を続ける。
「そういえばお前のおかげで、ロゼウスに血を提供しなくていい今は貧血もなくてすこぶる体調良好だ。礼を言っておこう、ジュダ」
 心に思ってもいない皮肉を口にする彼に、ジュダは囁きかけた。
「それはどういたしまして。……ねぇ、シェリダン様。知っておりますか? ヴァンピルが普段はその喉に……喉にではなくてもいいから、相手の肌に自らの牙を突き立てない理由」
「理由?」
「ええ。そうですよ。本来ならヴァンピルは獲物の喉笛に喰らいついて血を啜る。それをせずにロゼウス王子があなたに対してしたように傷口の血を舐めとるという行為には、意味があるのです」
「その意味とは?」
「どうして私がそこまで教えて差し上げねばならないのです?」
 にっこりと笑みを返してやると、好奇心に乗せられていた少年は悔しそうな顔をした。
 下唇を噛んで、視線を僅かに逸らす。瞳を細めるその様子がさらに仇っぽくて、ぞくりと下肢に震えが走った。
 ジュダは彼の手を強く掴み、痛みに僅かに歪んだその顔をじっくりと見る。
「そんな相手を誘うような、挑発的な表情、どこで学んできたのですか?」
「どこも何も、お前は私のことを私と同じくらいよく知っているはずだろう?」
 この瞬間の顔つきは自覚がなかったのか、一瞬不思議そうな表情をした後、自嘲の笑みを浮かべてシェリダンはそう言った。そう、確かにジュダは彼のことを執拗なまでに臣下に調べさせ、しかも目の前で口にしたそれを彼自身に肯定してもらったこともある。
「一国の玉座とは、売春で買えるものですか。安いですね、シェリダン様。その安い玉座にかつてついていらしたあなたも、さぞやお安いことでしょう」
「……」
 ジュダの言葉に何も反応を見せないその彼の様子に少々つまらないものを感じて、中断していた愛撫を再開する。
「ヒァ……っ!」
 中途半端に反応していたものの根元をきつく握れば、ひっくり返った悲鳴があがった。可愛らしいそれをついつい聞きたくて、また意地悪をする。
「あっ……くっ、やめろ、は、離せ」
「あなたが私の言葉に、全て素直に返答してくださるのなら」
「……っ」
 食い破りそうなほどにきつく、悔しげな表情で唇を噛み締めたシェリダンが吐息のように囁いた。その言葉を聞いて、ジュダはようやく彼のものから手を離す。
 乱れた寝台の上、横たわった高貴な人は、ジュダの問いかけに嫌そうに答える。内壁をかき回す動きの合い間合い間に、あられもない問いを重ねる。
「――で、その公爵とは一晩に何回ほどしたんです? 薬は? 玩具は? 衣装はどのようなものを? 相手の反応は?」
 狂気じみた細かさで相手の言動を逐一知りたがり、その時の彼自身の反応を知りたがり。
 ジュダが問いを重ねるたびにシェリダンの表情が歪むのを、とても愉快な気持ちで聞いた。
「本当に、大層なご苦労をされたようで」
 この一言に、シェリダンの表情が一瞬さっと強張り、ついで険を含んだ強い眼差しに変わる。
「ああ。苦労ならしたさ。幾らでもな。父上の目を盗んではそれなりの地位と厄介な趣味を持った貴族に渡りをつけ、望まれるままに何でも差し出した。足を開けと言われるならば、開いた。跪けと言われるならば、跪いた。這い蹲って男の醜いものをしゃぶり、この身を好きにさせたそうまでして」
 話している内に感情が昂ってきたのか、彼の顔が悲痛に歪む。
 男尊女卑国家とはいえ、彼の母は初出の第二王妃。対抗馬である妹姫は貴族の出である正妃の子ども。
 シェリダンが玉座を手に入れる事は、楽な道のりではなかった。他でもないその道に協力したジュダだからこそわかる。
 裏切り者だからこそ、誰よりもその心情が良くわかる。ジュダはわかっていて、彼がもっとも傷つくように行動したのだから。
 朱金の瞳に、暗い憎悪が宿る。その刃のように鋭い切っ先は、間違いなくジュダに向けられていた。
「そうまでして手に入れた玉座だったのに」
「私があなたから奪った。……そう」
 憎めばいい。呪って恨めばいい。この私を。
 そうでもしなければあなたは永遠に私を見てくれない。そのくらいならば、恨まれた方がマシだ。
「私が憎いですか、シェリダン様」
「ああ、憎いさ。憎くて、憎くて、憎しみで息が止まりそうだ」
 望んでいた言葉を手にして、シェリダンとは逆にジュダは恍惚とする。
 私はずっとあなたが欲しかったのだから。ロゼウスに向ける執着と独占欲の何分の一でもいい。その感情が欲しかった。私だけを見てくれる瞬間が確かに欲しかった。
 以前はそれこそジュダに興味などなくても、他の誰にも執着などしない王子様だったのに、シェリダンはロゼウスが来てから変わってしまった。あのヴァンピルのためだけの王様になってしまった。
 何が赦せないと言って、それが一番赦せない。私の物にならないくせに、他の誰かのものとなるなんて。
 だから攫ったのだ。
目を離した隙に相手が変わってしまうというのなら、ずっと目を離さなければいい。捕らえて手に入れて縛り付けておけば――。
 そうすれば、大事な相手は自分のものになるだろうか。
 ……いいや、少なくとも私は、必ずそうさせて見せる。
「シェリダン様」
 ぽつりと落ちた声は雨のような重さを持っていた。窓の外は薄暗く、欠けた月の光が今は夜なのだと教えてくれている。
 この夜が明けなければいい。今この瞬間に時間など止まってしまえば、そうすれば……。
「お慕いしております」
 ジュダがそう告げたその刹那。
 視界の隅に、鈍色の光が閃いた。

 ◆◆◆◆◆

 国王になったことに後悔などない。ローゼンティアを侵略し、ロゼウスを傷つけ、王族を殺したことも。カミラを犯したときでさえ、シェリダンは後悔などしなかった。その資格もない。全ての物事が喜びに繋がるわけではないが、少なくともそうすることを選び、望んだのは自分だからだ。
 だから何を感じても、何を考えてもシェリダンは自分が今までしてきたことを否定などしない。自分はエヴェルシードにとって良い王ではなかった。だがシェリダンが自らを否定すれば、そのために命を懸けた者たちはどうなる。
 一つのことを貫くならば、その信念には最後まで責任を持つことだ。誰だって気まぐれで殺されては溜まらない。自らの命を懸けるならば、それはどうせなら最後まで自分の意見を曲げない相手がいい。
 世界中の誰が否定しても、誰が批難しても、それが善や最上の選択ではなくとも、それでも望んだのだと言い続けられるような。
 なのにお前は私の胸を抉る。
「一国の玉座とは、売春で買えるものですか。安いですね、シェリダン様。その安い玉座にかつてついていらしたあなたも、さぞやお安いことでしょう」
「……」
 シェリダンを傷つけることで、ジュダは自らをも傷つけていることに気づいていない。相手も自分も貶めながら落ちていく。
 滑稽なことだ。
 私も、そしてお前も。
「ヒァ……っ!」
 陵辱の手は止まらない。以前シェリダンがロゼウスを監禁して加えたような虐待にこそ走らないものの、執拗な愛撫はむしろ拷問と同じだった。長い指がそれを握りこむと、せき止められる苦痛に苦鳴が思わず漏れる。
「あっ……くっ、やめろ、は、離せ」
「あなたが私の言葉に、全て素直に返答してくださるのなら」
「……っ」
 手元の敷布を握り締め、食い破りそうなほどにきつく唇を噛み締める。微かに鉄錆の味がした。
「……わかった、話す」
 耳元で囁くと、ジュダが口元に薄っすらと笑みをはく。ようやく彼は手を離し、それにシェリダンが息をつく暇もなく質問を浴びせかけてきた。
「――で、その公爵とは一晩に何回ほどしたんです? 薬は? 玩具は? 衣装はどのようなものを? 相手の反応は?」
 あの頃の自分を思い出すのは好きではない。母親が庶出の王子に、できることなど何もなかった。
 差し出せるのは、いつだってこの身一つだけ。わかっていて、この男は聞くのだ。国王になってからはこれ幸いと王都から遠ざけた者たちとのやりとりなど、シェリダンが口にしたくもないのを知っていて。
 露骨な問いを重ねられるたびに、思わず眉根を寄せてしまう。
「本当に、大層なご苦労をされたようで」
 わざとらしく漏らされた言葉に、何かが堰を切りそうだった。言葉が勝手に溢れてくる。胃の中にどろどろとした黒いものが溢れかえっているようで、苦しい。
「ああ。苦労ならしたさ。幾らでもな。父上の目を盗んではそれなりの地位と厄介な趣味を持った貴族に渡りをつけ、望まれるままに何でも差し出した。足を開けと言われるならば、開いた。跪けと言われるならば、跪いた。這い蹲って男の醜いものをしゃぶり、この身を好きにさせた。そうまでして」
 虚空に手を伸ばしかけた。鋭く伸びた腕がそれを止める。求めるものはどうせそんなことをしても今は手に入らない。触れることもできない。
「そうまでして手に入れた玉座だったのに」
「私があなたから奪った。……そう」
 捕らえた腕を離さずにそのまま顔を近づけてジュダがこの身に口づけた。先ほど食い破った唇から血が滲み、その口づけに錆びた暗い情欲の色味を添える。
 シェリダンは目を閉じた。貪るような深い口づけに、男の本気を知る。
 裏切り者の接吻は、死の合図。
「私が憎いですか、シェリダン様」
 肌に触れるのはさらさらとしたさわり心地良い長い髪。切れ長の橙色の瞳。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット。狂気伯爵と呼ばれるイスカリオット伯爵当主その人にして、シェリダンの協力者であった相手。シェリダン自身も覚えていない場所で、実に因縁浅からぬ相手。
 いつの間にか、腹心であるクルスとほぼ近い位置にジュダを置いていた。
 皮肉な笑みに全てを隠しながら、偽悪ぶって乱行を繰り返しながらそれでも心の奥底にある絶望と後悔が透けて見えるジュダが、自分は嫌いではなかった。
嫌いでは、なかったのに。
「ああ、憎いさ。憎くて、憎くて、憎しみで息が止まりそうだ」
 これは本当だ。今はこの男が憎い。
 閉じていた瞳を開ける。その一瞬の瞼の裏の闇を白い髪が過ぎり、紅い眼差しが切なげに見つめてくる。
 彼の容姿の印象はこれ以上なく儚いのに、実際に口を開けばガサツの一言に尽きる。あれほど女装が似合う顔を持ちながら、行動は男らしい以外の何者でもない。しおらしい態度など一瞬で、今頃向こうは向こうで暴れまくっているのかもしれない。
 ああ、早く彼を取り戻さないと。
 泥にまみれ汚濁にまみれ愛する妹を蹴り落してまで手に入れた玉座でようやく、シェリダンが本当に手に入れたものはあれだけなのだから。
 シェリダンが今欲しいのはロゼウス、ただ一人だけなのだから。
 ジュダには応えてやれない。
「シェリダン様」
 嫌いではなかったのに、シェリダンから全てを奪ったジュダはもう憎いだけだ。許す事はできない。けれどジュダの気持ちを思えば、ただ罵り責め立てたところで何も意味がないこともわかっている。どちらが悪かったのだろうか。自分が間違えたとでも言うのか?
 俯いたジュダの視線が顔ではなく、胸の辺りにぼんやりと落ちていることだけを確認してシェリダンは右の耳元に手を伸ばす。いつもと変わらないピアスの感触を確認する。
 窓の外は薄暗く、欠けた月の光が今は夜なのだと教えてくれている。一度満ちた月は後は欠けるばかりで、やがては全てが消え去った新月の暗闇になる。そこからまた新たに生まれ来るものなど、満月を過ぎて欠けるばかりのジュダには関係ない。シェリダンが関係させない。
「お慕いしております」
 けれどジュダが本当に欲しいものはシェリダンではなく、シェリダンが望んでいるのもジュダではない。
 だからこんなやりとりは無意味だ。ジュダが何度空言の愛を囁こうともシェリダンは応える事はない。こうしている間にも刻一刻と時間は過ぎていく。いつまでもこの男の夢のままごとに付き合ってはいられないのだ。
 だからシェリダンは覚悟を決めた。
 王族はそう簡単に自らの身辺から武器を手放さない。ここに囚われる時に腰にはいていた剣も懐に忍ばせていた小刀も取り上げられたが、単に相手を殺傷するだけの威力を有した道具と言うのなら、何もわかりやすい刃物だけとは限らない。
 むしろ隠してこその暗器だ。自分の身を守るためならば、武器は四六時中手放してはいけない。そう考えるならば切り札はそうとは見えない形でいつも身につけていられるものがいい。
 片耳のラピスラズリを外し、金具を指先でほんの少しだけ弄る。ジュダの視線はまだ作業をするこちらには向いていない。宝石の隙間から毒が染み出した。その毒の種類は、王族ならば必ず耐性をつけさせるもので、シェリダンには効かない。
 針の銀が完全に毒に曇る。
 シェリダンは、その針を無防備なジュダの肩口に向かって振り下ろした。


133

 伸びてきた腕が動きを封じる。
「くっ……」
 そのまま捻りあげられて、手の中から毒を塗ったピアスが落ちる。
 それにちらりと一瞥をくれてから、ジュダが憐れむような眼差しでシェリダンを見つめる。
「残念でしたね。シェリダン様」
「お前……、気づいてっ」
「これでも、伊達に何度も死線を潜り抜けてはいませんから」
 シェリダンの腕を拘束し、動けないよう寝台の端に結び付けてからジュダは毒の入ったピアスを周りの毛布ごと拾い上げた。慎重に手で触れないよう運び、軽く衣服を身につけてから、小姓を呼んで指示を出す。
 薄く開いた扉の隙間からピアスを包んだ毛布を差し出して、扉は閉じられた。
 再び室内に静寂が満ち、シェリダンは寝台に戻ってくるジュダを睨む。
「無駄ですよ、シェリダン様。今更この私から逃げようなどと」
「無駄かどうかは、私が決めることだ。私は、お前と共にここで生きながら朽ち果ててやるつもりなどない!」
 眼差しが交錯する。
「……そうですか」
 ジュダはシェリダンの上にのしかかると、また呼吸ごと貪るように、唇を奪った。
「ん……っ、ふ、ぅ……!」
 唾液が口の端から零れ、顎へと滴る。あまりに執拗に求められて、息が苦しい。
 絡まる舌、交わす熱。
 力では敵わないことはわかっている。だけれど、揺れる瞳の不安定さも知っている。
 ジュダの精神は不安定だ。
 だがそれは、シェリダンのせいではない。
 最後に上唇をぺろりと舐めて、彼の唇は離れていった。
「はっ……」
 やっと解放されて、息が上がっている。
 呪うような言葉が、低く落ちた。
「こんなに愛しているのに……」
 違う。
「違う、ジュダ。お前が本当にそう思っている相手は……」
 間違っている。勘違いをしている。
「お前が愛しているのは、私ではない」
「……黙れっ!」
 伸びた腕がシェリダンの首を掴み締め上げる。
 ああ、そうか。ようやくわかった。
 腕を縛り付けられていては、抵抗もできない。ぎりぎりと骨を軋ませて締め上げる手の感触を鮮やかに感じながら、瞼裏に赤い闇を見る。
 ――ロゼウスっ!
 反射的に出てきた名前を、声にならない喉で叫びかけたところで、呼吸が楽になる。
「……っ、ごほっ、げほっ」
 ふと我に帰ったように、喉首に食い込んだ指先が離れていった。解放されて咳き込むシェリダンの頬に、ぽたぽたと生温い滴が落ちる。
 うら若き乙女ならばともかく、大の男が泣いたところで美しくもなんともない。なのに、誰が流してもその滴は熱く透き通っている。まるで硝子の脆さを象徴するように、ジュダの表情は儚かった。
「わ、たしは……」
 目を細めてそれを見上げる。こちらの顔の脇に両手をついて悄然と項垂れるジュダの様子に胸にチクリと針で刺したような痛みが走るのを感じながら、それでも。
「ジュダ」
「……」
「ジュダ=イスカリオット伯爵。この縄をはずせ」
 シェリダンの言葉にぴくりとジュダの肩が揺れた。
「拘束を解き、服を返せ。私をここから出せ。そうすればお前のこれまでの無礼、見逃してやる」
「……今更王でもないあなたが、私に命令ですか?」
「ああ。私はカミラによって玉座を追放されたかもしれないが、それでもシェリダン=エヴェルシードだ」
「王族と皇族の関係に比べて、王族とただの民の関係は弱いものですが?」
「ああ。だが」
 それでも。
「自らに流れる血を否定することなどできない。その血に縛られることとなっても、自らを否定しきることなどできない。私も、そしてお前も。その柵の中で生きて行くしかできないのが人間であるならば、ジュダ……もうこれ以上惨めな真似は」
「黙れっ!」
 なんとか起き上がろうとした身を、再び寝台に強く叩きつけられる。
 横に流れた視線の先で、鈍く光を反射するものが目に入った。
「黙れ……っ、あなたに、あなたなどに何がわかる!」
「など、とは言ってくれる……っ!」
 それがお前の本音か、と言えばジュダの顔が苦悩と煩悶に染まった。
 シェリダンの言葉が水面に投じた石のように波紋を呼んで、嫌でも彼自身に彼の罪を自覚させる。誰しも逃れることのかなわない宿命を、刃の切っ先のように突きつける。
「あなたが……あなたなどに言われたくない! あなただとて、エヴェルシード王の血の宿命に縛られているくせに!」
「ジュダ!」
「子どもは親を選べない。そんなこと、今更言われなくともわかっている! 私だって、イスカリオット公爵の身分などいらなかった! あの人を失ってなお、こんな名前だけの称号を後生大事に頂いて生きていくなんて……!」
「そうか、そのためにお前は私に依存したのか」
「っ!」
「大切な者を失ってなお独り、生きていくことに耐えられなかったから……だから、堕ちたのか、狂気伯爵」
「……うるさいっ! いいからあなたは、黙って私の下で喘げばいいのだ!」
「断る」
 ジュダの意識が逸れている今の内に、シェリダンは。
「はっ!」
 なんとか腕を伸ばし、チェストの上に無造作に転がされていた刃を手に取って拘束を解いた。ある程度傷つければ、あとは腕の力で引きちぎりそのままジュダに刃を向けた。
「っ……シェリダン様!」
 男の頬を紅い筋が走り、溢れて血が零れる。それに気をとられた腹部に、膝を叩き込む。ふらつく体ではさほどの威力は期待できないが、一瞬の隙となればいい。
 眩暈を堪えて、寝台から飛び降りた。服ではなく布としか呼びようのないものを纏い、入り口へと走ろうとする。
 腕を、掴まれた。さすがにこの程度の行動では、この男は出し抜けないと言う事か。
 捕まれた手首に爪が食い込み皮膚を破る。強く引かれて、もともと本調子どころか連日の陵辱で弱っていた体は、呆気なく寝台の上へと引き戻される。
 自分を押さえ込むジュダと目が合う。
 その手に、先ほどシェリダンが彼に投げつけたナイフが握られていることを知る。
 見上げたその場所から天井を塞いで移りこむ顔。今度降ってくるのは透明な涙ではなく、紅い血だ。
「そんなに……嫌ですか。私とはどうやっても相容れないと」
「……当たり前だ」
「そうですか」
 魂の抜けたような調子で、ジュダはそう言うと今にも壊れそうな笑みを浮かべた。
 いや、この時この瞬間、もはや彼は壊れていたのかもしれない。
「それならば……あなたがどうしても、私のものにならないと言うならば……」
 シェリダンの力ではジュダに片腕で動きを封じられてしまう。残る片手で、彼は先ほど握り締めていた小刀を振り上げる。
 もとからあの刀はこのためにあったんだな。今更に悟る。わざわざこの状況で、寝台脇に凶器となるようなものを置いておくわけがないとは思ったが。
 そういうことか。
 始めから、そうするつもりだったのか。
「そんなあなたは、いらない」
 脇腹に灼熱感。
 そして全てが暗転した。

 ◆◆◆◆◆

「本当にいいんですか? 王」
「いいよ。ちょっと手強いじゃじゃ馬だから、存分に痛めつけちゃって。ヴァンピルのタフさは保証するから」
「ヴィルヘルム……お前っ!」
「何? やっぱり対複数は怖いって? 今更だろ? 輪姦なんて」
 こちらの体を押さえつける男たちの向こうから、にやりと薄笑いを向けてくるヴィルヘルムを睨む。
 セルヴォルファスに連れて来られてから、どれだけ経ったのか。昼も夜もない荒野の断崖に掘られた城の中で、いいようにワーウルフたちの玩具にされている。
「ふざけるな……っ! 放せお前ら! 俺に触るな! どけ!」
「気の強い王子様だな。こんな可愛い顔して」
「体つきもまるで女だな、これは」
「ヴァンピルってのは面白い種族だよな」
 群がる男たちは四人ほど。力で拮抗するワーウルフのこれだけの人数を相手にしては、ロゼウスでも抵抗できない。銀の拘束具こそ外されたけれど、四人に押さえつけられていては歯が立たない。
 悲鳴のように布を裂く音がして、服が破られた。あらわにされた肌に、ワーウルフの長い舌が伸びる。
 ざらりと胸の先端を舐められて、肌が粟立つ。
「お、いい反応するなぁ」
 ニヤニヤ笑いと揶揄する口調に、頬に朱が上る。
「王、でもこれ、王の愛人でしょう? 本当にやっちゃっていいんですか?」
 舌なめずりしながら屈強な男の一人が問いかけるのに、ヴィルヘルムは悠々と離れた長椅子に坐したまま頷いた。
「だからいいってば。そのままじゃ全然言う事聞かないから、ちょっと大人しくさせてよ」
 ぼろぼろに犯して、ぐちゃぐちゃにして、誰の言う事でも従順に聞く奴隷にしてよ、と。
「やめろ! 放せ! ……誰がヴィルヘルムの愛人だぁ! ざけんな!」
 聞き捨てならない一言に反応するが、誰も聞いちゃいない。
「はいはい、大人しくしてろよ、お姫様」
「ん――っ!!」
 更に叫ぼうと開いた口に、ひとりの男が取り出したものを突っ込む。理不尽な暴力と不快な感触に素直に屈してやる理由もなく、躊躇わずに歯に力を込めた。
「ぎゃぁああああああああ!!」
「っ、このガキ!」
 男のものが離れた瞬間、遠慮のない力で頬を殴りつけられる。
「げっほ、がはっ!」
「信じられねぇ! このガキ、噛み千切ろうとしやがった!!」
 残念なことに、噛み切れはしなかったけど。これが普通の人間の男だったら落せていたんだろうけど、ワーウルフはそんなところまで頑丈だ。
 表面だけ切れた時に出た血を吐き出す。いくら血を飲むヴァンピルで、魔族の血は飲めないとかそういうこととは関係なしにこんなもの飲みたくない。
 押さえつけられた状態で強く殴られたせいで、頭が床に打ち付けられた。がんがんと痺れるような痛みが響く。血に咽せて息は苦しいし、もうさんざんだ。
 このまま飛びそうになる意識を、髪を乱暴に引き掴まれることで戻される。
「あっ……がはっ……」
「やれやれ。駄目だな、どいつもこいつも」
「お、王! こんな奴さっさと殺し―――」
「俺の玩具に勝手なこと言うなよ。あ、お前。もういいから治療しにいってこいよ」
「ヴぃ、ヴィルヘルム王……」
「で、お前らはどうするんだ? さすがにヴァンピルの牙は鋭いからもうこっちの口は使わせられないけど。まだ下の口が残ってるけど?」
 ヴィルヘルムは王と言うだけあって、他のワーウルフより力が強い。
 周りのワーウルフたちに無造作に命じる様に、暗い気迫がある。
「う、うう……」
 髪から手が放されると、支えきれずに体が床に落ちた。血に汚れた床に再び四肢を押さえつけられて、さらに服を破られてほとんど全裸にされる。
 男たちの一人が、足の付け根に顔を寄せる。
「ああっ!」
「くくくっ、さっきのお返しって奴だろ? 食いちぎらないだけ、感謝しなよ?」
 歯型がつくほど強く噛まれて、激痛に悲鳴をあげる。
 ロゼウスの姿を嘲笑いながら、左手を抑えるヴィルヘルムが他の男たちに指示を出す。
「そいつは出血に弱いからあまり血は流さないように。さすがに屍姦の趣味はないだろ? それでもいいって言うなら、まあ、一度くらい殺しても生き返るからいいんだけど」
 人がヴァンピルだと思って、勝手なこと言ってくれる。
「うっ」
 憎まれ口を叩こうとした瞬間、新たな痛みに呻いた。後に、男の一人が指を入れている。
「ああっ! う、い、いた……!」
 食いしばる唇に口づけながら、ヴィルヘルムが嗤う。払いのけたいのに腕は動かないし、痛みでそれどころじゃない。
「再生力が強いのも考え物だね。せっかく毎晩毎晩広げてやってるってのに、次の日には元通り。普通の人間ならガバガバで使いものにならなくなるのに、お前のお尻はいつも引き締まってて犯しがいがあるよ」
「や、やめ、ろ……苦し……」
 男の指が、無遠慮に中をかき回す。濡らしてもいない指で荒らされる内壁が、強烈な痛みを訴えてくる。
「無理矢理入れてやりたいところだが、さすがに狭すぎるな。これじゃ入れる方が痛ぇわ。王、先にやりません?」
「なんで俺」
「この中であんたが一番小さ――すいませんごめんなさい余計なこと言いましたぁああ!! ごへあ!」
「……一人、戦線離脱しましたね」
 男の一人がヴィルヘルムに暴言を吐いて部屋の隅まで吹き飛ばされる。
「まぁまぁ、気にするこたねぇよ。王様。この中であんたが一番若くて小柄なんだから。あれが小さいのも当然だろ?」
「うるさい! 余計なこと言うな!」
 最初に一人、更に一人と抜けて、残った二人がさらに手足を拘束する手に力を込めてくる。
 逃げを打つ腰を無理矢理押さえつけられ、足を開かされた。
「ああもう結局こうなるのか? せっかくお前らにも楽しませてやろうと思ったのに」
 ヴィルヘルムが侵入してくる。
「う……ぁあああああ!」
 他のワーウルフたちはそれぞれ、別の場所を弄ぶ。首筋を啄ばみ、下を弄りまわす。
「あっ……ふあ、ヒ、ぁああア」
 ぐちゅぐちゅと粘液のかき回される音がして、圧迫感を訴える場所に、なんとも言えない感覚を伝えてくる。
「もう、や、めろ……!」
「はっ……」
 絶頂に達したヴィルヘルムのものが中に出されるのを感じながら、同じく達した身体から力が抜ける。
「相変わらず、中は最高……」
「ふざけるな、この」
 吐こうとした罵詈を横から伸びた手に封じられる。
「これ以上に酷い目に遭いたくないのなら、今の王にそれは言わない方がいいですよ?」
 ヴィルヘルムの側近の一人に見透かされて言葉を押しとめられ、思わず眉間に皺が寄る。ロゼウスの嫌そうな顔を見て、ヴィルヘルムが笑った。
「別に今更このぐらいなんでもないじゃん。小さい頃からどうせドラクルに何度も強姦とか輪姦とかされてるんだろ?」
「うるさい」
 黙れ、と、どうせ聞かないだろうと思いつつ声をあげかけたその時だ。
「今頃シェリダン王だってイスカリオット伯爵に手篭めにされてる頃だろうしさぁ」
「ヴィルヘルム!」
「なんだよ」
「シェリダンはイスカリオット伯に捕まっているのか!?」
「あ」
 失言に気づき、ヴィルヘルムが咄嗟に視線を逸らす。
「シェリダンは俺と違ってまだエヴェルシードにいるんだな。それも、イスカリオット伯のところに」
「……だからどうしたって言うんだ? 居場所と相手がわかったって、お前にはシェリダン王を助け出せなんかしないよ。ロゼウス」
「そんなこと、お前に判断されるまでもない。俺が決めることだ」
「逃がすと思ってる?」
「止められると、思ってるのか?」
「言っておくけど、男どもに磔にされて足開いてるその姿で言っても説得力ないからな」
 ヴィルヘルムの言葉が忌々しい。
 だけどこれで、シェリダンの居場所はわかった。
 向かう先はやはり、炎の王国エヴェルシード。ロゼウスは決意する。
 絶対に俺は、ここから逃出してみせる。そしてシェリダンを――。


134

 ああ、私は愚かだ。
 寝台の上で昏々と眠り続ける人を見つめながらそう思う。
 朝も夜もなく、一日中ただその人だけを見つめている。
 ずっとずっと、見つめ続けている。
 彼はまだ目覚めない。
 ジュダがシェリダンを刺したのはもう三日前。すぐに治療こそさせたものの、失われた意識はまだ戻っておらず、夢の世界を彷徨っている。
 その表情は、起きてジュダと向き合っていた時とは打って変わってとても安らかだ。自らが迎えた現状でありながら、ジュダは浅ましくもそのことに絶望する。
彼にとって、私は必要ない。
 ジュダがシェリダンをいらないのではない、ジュダこそがシェリダンにとって、必要なかった。
「シェリダン様……」
 寝台の脇、椅子を引いて側に侍りながら眠り続ける人の手を握り目覚めを待つ。祈るように重ねたその手を組んで、自らの額を押し当てた。
 愚かな私よ。
 過去の過ちよ。
 そしてこれからの未来にも、犯され続けるであろう私の罪。
 あなたがいなければ、私は進むべき道も見えないのに。
 けれど許せなかった。
 私以外の人の名を呼び、愛し続けるシェリダン様が。私がシェリダン様と出会って変ったように、ロゼウス王子と出会ったことによってこの方も変わった。
皮肉ではなく笑うようになった。相手の言葉に真剣に怒るようになった。
これまでのシェリダンは、どこか世界に対して一線を引いていた。ジュダやエチエンヌたちもそうであるように、他者と確かに関係を築きながらも、心の奥底では誰も必要としていなかった。
 信じた相手に裏切られるのは辛く、願いが叶わないのが辛い。
 望まれて生まれ、両親に愛されたいという人並みの当然の願いすら叶えられなかったシェリダンの心の闇は深く、希望と言うものをことごとく奪い去った。期待をかけて裏切られる痛みに慣れておこうと、どこかで心に予防線を張っていた。
 本当はとても傷つきやすいから。
 心に膜を張るのは、傷つけられることに耐えられない弱い自分を知っているからで。そういう意味では誰よりも弱い人だった。
 だからジュダのような裏切り者はもちろん、リチャードやエチエンヌという信頼できる部下を置いていても、最後の最後で彼らに期待はかけなかった。
 シェリダンはいつだって、彼らが自分のもとを離れることを許していた。それがいい証拠だ。やめたいならばいつでもやめればいいという姿勢は相手にとっては優しく見えるのかもしれない。けれど違う。見返りを求めない欲の無さは、最初から相手に期待をしていないことから引き起こされる。お前の心など、どうでもいいと。
 望めば手に入らないことが辛いから。願いが叶わないのは辛いから。
 彼が全身全霊で引きとめようとした相手など、ジュダは一人しか知らない。
 銀の牢獄に閉じ込めて、鎖に繋いででも引きとめようとした相手など。シェリダンがそうしてでも引き止めたかったのは、ロゼウスだけ――。
 眠り続けるシェリダンは彼の夢でも見ているのか、妙に安らかだ。
 ふいに部屋の外が騒がしくなる。
「侵入者だぁあ!! 逃げろォオ!!」
バタバタと慌ただしい足音が行き交い、悲鳴が断末魔と共に途切れる。濡れた重い物が転がる音と共に、城の一画が静になればまた別の場所で悲鳴が上がった。
「閣下! 閣下ぁあああ!!」
「どうかお助けを!」
「っ! ぎゃあぁあああ!!」
 医師以外立ち入り禁止を命じたこの部屋にも足音が近づき、バン、と荒々しく扉が開け放たれた。のろのろとそちらへ顔を向けたジュダの目に映ったのは、肩から血を流しながら指示を仰ぐ壮年の執事の姿だった。
「伯爵閣下! 侵入者です! どうか、指示をっ!! ぐぁあああ!!」
 彼が叫びかけた言葉が、中途で途切れる。大柄なその体の向こうには、全身を血に濡らした細身の美女が仁王立ちで剣を構えていた。
「残酷なことをするものね、イスカリオット伯。侵入者はただ攻撃しろなんて命じるもんじゃないわ。だからほら、こんなに死人が増えてしまった」
「……彼らを殺したあなたに言われたくはありませんよ。バートリ公」
 そこにいたのは、エルジェーベト=バートリ女公爵だった。いつかはここに辿り着くと思っていたが、思ったより動きが早い。
「カミラ陛下に監視されていたのでは?」
「この私が、あんな小娘の生温い命令の一つで動かせると思っているの?」
 血塗れたドレス、血塗れた剣。それを隠そうともしないまま、彼女はずかずかと許可もなしに部屋の中へと踏み入ってくる。
「シェリダン陛下はどこに――シェリダン様!?」
 寝台の上に横たわる人影を見て、彼女は驚きの声をあげた。
すぐさま駆け寄り、彼が重篤であることに気付いて触れようとしていた手を引っ込める。その代わりと言わんばかりに、側にいたジュダの胸倉を掴みあげてきた。
「どういうことなの?! これは! 答えなさい!! ジュダ=イスカリオット!! 今回の事は、あなたはどうして……っ!!」
 彼女自身もまだ全ての情報を掴んだわけではないのだろう。最後の方は混乱していて、上手く問いにならない。
 けれど事件のほぼ全ての首謀者と呼ばれて差し支えの無い立場にいるジュダには、彼女の言いたい事がわかった。
「どうして、ですって?」
 くす、と。意図したわけではない。けれど思わず零れたのはそんな笑いだった。
「決まっているじゃないですか。欲しかったのですよ。この方が」
「え?」
「シェリダン=エヴェルシード様が欲しかったのです」
 胸倉を掴むエルジェーベトの手から力が抜けた。
 それよりもまず先に、ジュダの体からは力が抜けている。いいや逆か。始めから抵抗する気などなかった。
 ここで彼女に殺されるなら、それはそれで構わない。もとより、この生へ執着などなかった。――ヴィオレットとダレルを失ったあの日から、自分にはもう。
 けれどエルジェーベトは剣を掴む手をあげはしない。
「馬鹿な人……」
「自分でもそう思いますよ」
 血濡れの剣を、彼女は鞘に納めた。シェリダンが眠る寝台脇に膝を落として、溜め息をつく。血の気を失った白い寝顔に手を伸ばし、頬を撫でた。
 この状態のジュダに何を聞いても無駄だと思ったのだろう。カミラによる玉座簒奪の詳細を聞こうとするのを諦めて、彼女は全く別のことを口にした。
「ねぇ、これ、聞いたことがある? シェリダン様が、ロゼウス様を刺したことがあるって」
「……え?」
「知らないんだ。ふぅん。要するに、似たもの同士なのよ、あなたたちは」
 エルジェーベトは傷ついたわが子を見守る母親のような眼差しを、意識の無いシェリダンに注いでいる。
 シェリダン様がロゼウスを刺した? どうして。エルジェーベトの言葉の感じではただ浅い怪我をさせたというよりも、殺す気で刃を向けたという方が近い。シェリダン様が、いつどうしてそんなことを?
「城に連れて来た初めの頃、ロゼウス様はカミラ姫と仲が良かったからね。それにヴァンピルの再生能力のことを隠して、王族たちの生死についても偽っていて……裏切られたと思ったんでしょうね」
 誰から聞いたのかはわからないが、エルジェーベトはジュダにそう教えた。
「同じなのよ、あなたも、シェリダン様も。手に入らないのなら殺してしまえばいい、と。まあ、ロゼウス様の場合はヴァンピルだから甦ることができたけれど、シェリダン様は……」
 ロゼウスがどのくらい負傷して寝込む羽目になったのかは知らないが、彼とシェリダンでは前提がまず大きく異なっている。
 ロゼウス王子はヴァンピルで、強靭な身体と脅威の再生力を持っていて。
 けれどシェリダンはただの人間でしかない。
 ああ、そうだ。
 自分で刺したくせに、ジュダは彼の治療を使用人たちに指示した。殺すつもりで刃を向けておきながら、なんて酷い矛盾だ。
「……イスカリオット伯」
 エルジェーベトはジュダの顔を見ないままに問いかける。
 先手を打ってジュダは彼女の言葉を封じ、皮肉を吐いた。これ以上傷つかなくていいように。
いつだって自分は卑怯だ。わかっていた。今も十二分に感じている。
 けれどジュダには、こういう生き方しかできないのだ。
「嘲笑うのですか、私を。あなたも私を愚かだと罵るのですか? 無様だと蔑み、背を向けますか? どうぞ、したいのならばすればいい」
「いいえ、違うわ」
 そして断罪よりもなお鋭い刃は、処刑人の刃は振り下ろされる。
「この方を殺そうとして、そうしてあなたの手に残った物は何?」
 誰かを殺して手に入れることのできる愛など、ない。
「私は……」
 祈りの形に組んだ手に、一つの雨滴が零れた。

 ◆◆◆◆◆

 ――一緒に逝ってあげるから。

 誰かが歌うのだ。

 そして夢は続く。

(どこだ? ここは)
 そこは紅い花の咲く場所だった。深紅に包まれて、果てが見えない。深紅の地平線など、生まれて初めて見た。夢の中でだが。
 しかも驚いたことに、そこは薔薇の海だった。一面の深紅は、紅い薔薇の花だった。普通の薔薇は蔓が延びて棘を持ち緑の部分があるものだが、その薔薇には棘も無く、蔓は大輪の花の下部に埋もれてぱっと見気にならない。
 紅い海。
 まるで、血のような。
 ここはどこだ。
 ――ローゼンティアだよ。
 答える声に、自分にこの夢を見せている者が誰なのかを知った。
(ハデス、お前か)
 ――そうだよ、シェリダン。
(何が目的だ。ここがローゼンティアだと? 侵攻の際には、私はこんな景色は見なかったぞ)
 ――お前の通ってきた景色が、お前が見たローゼンティアの全てとは限らないだろ? まあ、ここはどうせ夢の中で、お前がこの景色をそうでもなければ見る事はないのは真実だけど。
 その言葉が終わると同時に、ふと目の前に黒髪の少年の姿が現れた。何故か疲れきったような顔をして、複雑な顔でシェリダンを見ている。
(ハデス、何を考えている?)
 ――僕の願いについて。
(お前の願い?)
 ――そう。お前にも関係があることだよ。シェリダン=エヴェルシード。……お前には、まだ生きてもらわなきゃ困るから。
(何?)
 夢の中だから本体ではないだろう、ハデスの現し身は、ふと視線をシェリダンの視点がある方向から逸らし、紅い薔薇の花畑の一点を示した。
 そこにシェリダンは、思いがけない人影を見る。
(ロゼウス!)
 白い肌、白い髪、紅い瞳。間違いなくロゼウスだ。
 けれど、シェリダンが知る彼とは違う。憂い顔の彼はシェリダンがあまり見たことのない服装をしていて、頭の上で結んだ髪は腰を過ぎるほど長い。そして雰囲気がどこか大人びている。かといって、顔立ちが変わったというわけでもない。
 俯いたまま紅い海を渡る彼に、シェリダンは咄嗟に駆け寄ろうとした。
 けれどそれを、他でもないハデスに止められる。
 ――無駄だよ。彼に君は見えていない。あのロゼウスは、お前が知る《今》の彼とは違うから。
(どういうことだ?)
 ――知る必要はないんだよ。シェリダン。君はこの意味を、永遠にね。
(……どういう、意味だ)
 幻影のハデスは首を横に振った。
 ――これが最後だろうから、一つだけ忠告してあげるよ。シェリダン。ロゼウスを諦める気はない?
(いきなり何を言うんだ? あなたは。あるわけないだろう、そんなもの。私は――)
 ――ロゼウスが好き? 彼と一緒にいることで、今よりもっと酷い目に遭っても、後悔しないの?
(しない)
 ――本当に? 
(ああ。私が今更ロゼウスを厭うなどありえない……何故いきなりそんなことを?)
 ――そう。何を言っても無駄なんだね。一応君には少しだけ親しみがあるから忠告に来たけど、やっぱり無駄だったね。
(ハデス)
 薔薇の海を歩きながら、ロゼウスは誰かを探すような素振りを見せている。彼の眼には自分たちの姿は入っていないのか? 彼が探しているのは、シェリダンではないのか?
 その隣にいるべきは。
 私のはずだろう?
 ――忠告はしたからね。シェリダン。
 ハデスがしつこいくらいに、何度もそう繰り返す。忠告。何のための忠告だ。ロゼウスと道を別てと言う唆し。
 そんなことできるはずがない。
(……好きなんだ。愛しているんだ、ロゼウスを。だから、そんなことできるはずはない)
 ――仕向けておいてなんだけど、君も相当不遇の人生を送る羽目になるんだよ、シェリダン。
(それは《預言者》としての言葉か? ハデス=アケロンティス卿)
 ――友人としての忠告だよ。シェリダン=エヴェルシード。……ロゼウスに関われば、お前は絶対不幸になる。僕はそれを知っている。
(そんなこと、あなたなどに判断されるいわれはない。私が不幸になるかどうかは、私が決める)
 ――……そういえば、お前は最初からそういう奴だったよ。
 苦笑する気配が漣のように伝わってくる。
 ハデスがシェリダンを何かに利用したくて近づいてきたのは知っている。けれど彼と言葉を交わし、それに安らぎを覚えていたのもシェリダンは自分でわかっている。
(ハデス。私がロゼウスと共にあろうとすることは、お前の計画に差し障ることか?)
 ――いいや。むしろ好都合だよ。
(では、黙ってくれ。見逃しておいてくれ。私は……)
 つい先日、こんなことになる直前に交わした約束を思い出す。カミラの名前が刻まれた空ろな墓標の前で、彼らは誓いを交わしたのだ。
 一歩前へと踏み出して、こちらへと歩み寄るロゼウス。
 ――俺は《逝く》よ。
 男にしてはほっそりとした指先が伸びて、シェリダンの頬に触れる。囁くように告げられた誓い。
 ――お前と共に。
 その言葉がどれだけシェリダンを救ったかロゼウスは知らない。
 シェリダンがどれほど、その言葉を待ち望んだのか知らない。
 ロゼウス。薔薇の王子。シェリダンがこの世で唯一欲したもの。父への憎悪や母への執着を越して、この手にと望んだもの。
 愛しても報われることなどないと、悟りきって諦めていたシェリダンが、それでも愛した分だけ愛されたいと望んだ相手。一度はその心などいらないと叫んで自分を誤魔化したけれど、やはり無理だった。
 シェリダンの願いは。
(私はロゼウスと共に逝く)
 ――それが、シェリダン=エヴェルシードの願いか。
(そうだ。あまり長い時間は待たせないぞ。幾らロゼウスの寿命が長いと言ったって、ヨボヨボの老人と心中しても楽しくはないだろうからな。その未来は、そう遠い話ではない)
 ハデスは見慣れた者にしかそうとわからない程度に顔を歪めた。
 その表情に、一瞬だけ、ほんの少しだけ胸を針で突かれたような痛みを覚える。
 けれどそれだけだった。
 ――お前の気持ちは十分わかったよ、シェリダン。
(そうか)
 ――僕はロゼウスの敵だから、お前の敵に回るよ?
(わかった。その時には、全力で相手をしよう。……というか、今更じゃないか? お前は今までだって、何度もロゼウスにちょっかいをかけていただろうが。この前だってドラクル王子に味方をした)
 ――そうだけど、あれとこれからは違うから。
(へぇ……どう違うんだ?)
 ――……教えないよ、敵には。
 小さく笑う気配と共に、ハデスの姿がその場からかき消える。後に残されたのはシェリダンと、シェリダンの知らないロゼウスと、舞い散る薔薇の花弁だけ。この紅い薔薇の海に自分たちだけ。
 何故だろう。先ほどのハデスの様子がこびりついて離れない。どこか寂しげで苦しげな、らしくないハデスの様子。
 彼がシェリダンを利用しようと近づいてきたことは知っていた。けれど、それでもローラやエチエンヌやリチャード、クルスのような部下以外で、シェリダンにとってハデスは唯一と言ってもいいほどに親しい相手だったのだ。そうでなければまだ手駒の少なかった玉座について間もない頃、父を幽閉している間の見張り役を、彼に頼むわけがない。
 シェリダンがハデスの存在にどこか救われていたように、彼もシェリダンに対し、少しでも友情めいたものを感じていてくれたのか。何を企んでいるのかはわからないが、それだけはわかっていた。そしてドラクルと手を組んでいる以上、彼の狙いは十中八九、ロゼウスに関わることなのだろう。本人も自己申告していたことだ。
 それでもシェリダンは、ロゼウスを手放す気はない。今はこうして離れていても、必ず取り戻す。
 逃げることはできない。
 自ら閉ざした扉。頑丈な鎖。黄金の手錠。空が堕ちて来る。
 永遠に離さない眼差しの追跡者。
 会いたい。また会って抱きしめたい。あの頬に触れたい。あの唇に口づけたい。あの瞳を見つめたい。
 一緒にいたいんだ。ジュダがシェリダンにどんな思いを向けようと、ハデスがどんな未来を予知してシェリダンに忠告しようと、この想いを止めることはできない。その先に待つのは必ず破滅。上等ではないか。むしろシェリダンは望んでいたのだ。その輝かしい破滅こそを。
 永遠なんてどこにもないのだから、生きていることに意味はない。醜く老いさらばえてまでみっともなく生にしがみつくくらいなら、シェリダンはこのままで時間を止めたい。ロゼウスの隣にある至上の幸福の中で、自分の時間を止めてしまいたい。
 それほどに好きなんだ。

 ――なぁ、ロゼウス。お前、始めの時に言っただろう。私を愛さないと。
 ――ああ。カミラが死んだと思ったとき? 言ったな、確かに。
 ――今はどうなんだ?
 ――どうって?
 ――今も同じなのか? ただ単に約束をしたから私と心中してくれるわけか? 嫌っているのに、憎んでいるのに。
 すると、彼はふわりと笑った。
 ――ああ、そうだよ。
 ――……そうか。
 ――何? 落ち込んでるの? シェリダン。
 ――別に。
 ――嘘つけ。思いっきり動揺してるじゃないか。……だって、仕方がないだろ? 俺はやっぱりあんたのことをスキとかアイシテルとか、そういう感情は持ち合わせていないんだから。
 ただ、とその時彼は人を惑わす魔族らしく、この上なく美しく笑った。それはまるで、鋭い棘でもって人を傷つけ威嚇しながら、それでも人を魅せずにはおれない薔薇の微笑。

 ――この気持ちは恋よりも強くて、愛より醜いものだと思うから。

 紅い薔薇の海をシェリダンが知るよりも大人びた、けれど癒えない傷と寂寞のようなものを抱えた様子のロゼウスが彷徨う。あんな彼は、自分は知らない。知らないけれど、シェリダンがロゼウスを厭う日など来るはずがない。
 ハデスに忠告された時から覚悟していたが、彼に自分は触れないようだった。至近距離まで歩み寄っても、見えていないかのように全く反応なしだ。
 それがあまりにも寂しいので、いつかのように口づけて見る。夢を見ているのはシェリダン自身で、眠り姫に口付けるのも自分で、目覚めるのも自分自身とはなんて滑稽な喜劇だろう。
 ――だからお前は俺のものなんだから、俺はお前と一緒に逝くと約束したんだから、俺のいないとこで勝手に死ぬなんて許さないからな。
 ただその言葉だけを頼りに、シェリダンは目を覚ました。


135

 ああ、思い出さなければ。
 この命が、何のためにあるのかを。

「そのほうは、剣の腕前では同年代の群を抜いて素晴らしいそうだな」
 玉座に座るのはこの国の王。ジョナス・エヴェルシード。
 クルスは父の横に膝を突いて跪き、王に拝謁している。
 我が名はクルス。クルス=クラーク=ユージーン。父は現在エヴェルシード西部のユージーン地方を治める領主であり、侯爵。クルスは過日の剣術大会で優勝し、その褒章として王に拝謁する権利をもらった。ジョナスは玉座に座ったまま頬杖をついて、跪くクルスたちを見下す。
「先日の試合も見たぞ。素晴らしい腕前だったな。良い跡継ぎを得たことだ、クロノス・ユージーン侯爵」
「はは! このような者にもったいないお言葉……」
 クルスはユージーン侯爵の長子とはいえ、まだ自力で位を得たことも世襲の位を継いだわけでもない。すなわちさして平民と変わりないクルスのような……まだ十二歳の子どもが、王に口を利くなど許されないことだ。返答は全て侯爵である父がする。
 ユージーン家は元々子爵の位を頂いていた。今になって侯爵家と呼ばれるようになったのは、全て我が父、このクロノス・ユージーンの力だ。
 ジョナス王は気性が激しい人物であり、その心に添うのは並大抵のことではないと聞く。そのため、気に入られた者はよく取り立てられるが、一度不興を買うともはや出世は見込めないそうだ。父は王に気に入られた一人だった。
「ところで」
王はふいに会話の流れを変えた。
「お前の息子、剣の上手と言うからにはお前のようにもっと筋骨隆々とした猛者を想像したのだが、中々に愛らしい顔立ちをしているな」
 クルスと父ははっきり言って似ていない。エヴェルシード人特有の蒼い髪に橙色の瞳。クルスはその色彩だけは父上譲りで瞳が少し黄色っぽいのだが、基本的な顔立ちは母親譲りだ。
「この息子はこれの母親に似ておりまして」
 父が説明する。
父上と母上はなんというか……息子の僕から見てもお似合いだと思います。いえ、あの、たくましい夫とか弱げでいて芯の強い美しい妻、という夫婦を傍目から見て。……実際には大男の父上の方が、小柄で大人しそうな母上の尻に敷かれているというのは内緒です。秘密です。
「そうだな。お前とは似ても似つかない。数年後が楽しみな容姿だ」
 自分ではよくわからないのだが、クルスはなんだか褒められているようだ。確かに母に似ているこの顔は整っているようだが、クルスとしては武人として生きるなら、もっとたくましい――父のようになりたかった。
 この時までは。
 父の隣でクルスがずっと頭を下げているのも気にせず、王が再び口を開いた。
「まあ、我が息子には及ばないがな」
 はい?
 その途端父は物凄く力を込めて王の言葉に頷いた。
「はい! もちろんこのような愚息がシェリダン王子殿下と肩を並べるなどあってはならないことです」
 すでに頭をたれているクルスの頭を父が押し込んでさらに下げさせる。父上、痛いです。
「クルスは成長すれば、殿下の良い臣下となられるでしょう。どうぞお見知りおきを」
「ああ。シェリダンには同じ年頃の知り合いなどほとんどおらぬ。仲良くしてやってくれ」
 とは言っても、この時クルスはまだ王子の姿を見たことすらなかった。
 そんなこんなで王の御前を辞して、クルスたちは謁見室を出た。ユージーン侯爵館よりもずっと豪奢な廊下を並んで歩きながら、クルスは父に尋ねる。
「それにしても、陛下はよっぽど王子殿下のことをお大切になされているのですね……父上?」
 クルスが王と王子の名前を出した途端、父の顔色が変わった。
「クルス、この城内で殿下の御名をみだりに口にしてはならぬ」
「何故でしょうか?」
「あの方の殿下へのご寵愛は、数年前に亡くなられた正妃陛下よりもよほど上だという話だ。あの方はご子息を目の中に入れても痛くないほど寵愛しておられる。不用意に殿下に近付いたりしたら、どうなるかわからぬぞ!」
 それは、どういうことなのだろうか。父の言いようでは、王の王子への態度はまるで、ただの父親が息子に期待をかけること以上に鬼気迫ったものがあるような様子だ。
「それはいったいどういうことですか?」
「お前はまだ知らなくていい。……いいか、クルス、これだけは言っておく。何があっても、決して王子殿下だけには手を出すな」
 こんな真剣な顔をした父は初めて見た。そんなに王子は重要な人物なのだろうか。いや、勿論一国の世継ぎの王子が大切な人間であることはわかっているのだが……。
 一体、シェリダン王子とはどんな方なのでしょう?
「クルス、私はまだ二、三寄らねばならないところがある。お前はどうする? 先に侯爵領に帰っているか?」
「いえ、せっかくですから王城を見て回りたいと思います。父上の用事が終わる頃に落ち合いましょう」
 クルスは父と別れて中庭へと向かった。先ほどから気になっていたのだ。城の一階部分の一部は中庭に面した回廊であり、鮮やかな緑が目に飛び込む。
「すごい……侯爵館よりよっぽどすごいや」
 クルスは王城の絢爛さに感嘆の声を上げながら奥へ奥へと入り込んだ。季節の花が色とりどりと咲き乱れ、甘い香りを放っている。木々の枝に止まった小鳥たちが誰の求めがなくとも歌を歌いだし、景観を壊さぬ適度な休息所がそこかしこに設けられている。木々の陰から見えていた大理石の四阿の一つに、クルスは歩み寄った。
 近付くにつれて、そこに人がいるのが見えてくる。
「あの……」
 声をかけようとして、クルスは思わず口ごもった。声と足音に反応して振り返ったのは、女の子だった。それはそれは。
 世にも稀なる美しさ。
 夜空の如き藍色の髪に、不思議な朱金の瞳。一目で魅了されてしまいました。自分でも頬が赤くなるのがわかる。
 クルスより幾つか幼いだろうその少女は、四阿の長椅子から腰をあげ、こちらへと向かってくる。ゆっくりとしたその歩みは、気高い女神のようだ。
「お前、先日の剣術大会の優勝者だな」
「は、はい!」
「私も見ていた。なかなか良い太刀筋だったな」
 ……この言い回し、どこかで聞いたような気がするのだが……。
「だが、あれでは最後の詰めが甘い。その証拠に最終戦ではザヴィアー公爵家の次子に負けそうになっていただろう。剣にかける気合が足りぬな」
 ……怒られました。ちょっと待ってください。初対面の相手に、何故こんなことを言われなければならないのでしょう。
「そ、そんなこと、どうして見ず知らずのあなたに指摘されなければならないのですか!? 淑女なら男の命を懸けた決闘に口を出さないで下さい!」
 エヴェルシードは男子王位継承が普通だ。つまり、他の国に比べ若干男尊女卑思想が強いのだ。しかもそれを騎士道と履き違えることも多い。クルスもこの時はそうだった。
 目の前の見ず知らずの美少女に向かって、その時のクルスは思わずそう言ってしまっていた。
 顔を赤くして憤慨するクルスとは対照的に、少女は次の瞬間目を丸くした。意味がわからないと言うようにぱちぱちと長い睫毛をしばたたかせ。
 次の瞬間、くすくすと笑い出しました。
「……はははは。そうか、お前、私が誰だか知らないのか。だからそんな態度を取っていられるのだな」
「? どういう意味ですか?」
 クルスが首を傾げると、その少女はクルスの手をとった。案外に強い力で、その手を自らのマントの中、胸へと押し当てる。この年頃の少女ならさほど胸などなくても当たり前……と言うには平らすぎるような胸だ。まさか、と思っているとその手がさらに下へとひかれた。
 クルスは自分の勘違いに気づき、思わずさっと頬を赤らめた。
「し、失礼しました!」
「よい。よく間違われる。まさか父上のお気に入りのユージーン侯爵の息子が私の顔を知らないとは意外だったがな」
 父上のお気に入り。その言葉が一体何を指示すのかを考える余裕すらその時のクルスにはなかった。自分の間違いの恥ずかしさでいっぱいだ。
 少女、改め世にも稀な美しさを持つ少年は、そんなクルスの胸のうちなど知らず、身体を覆っていたマントを脱いだ。クルスの腰をチラリと見て剣を佩いているのを確認すると、自らの腰の得物を指示してこう言った。
「どうだ? ユージーン侯爵子息。私と一試合してみないか?」
「え?」
 それは意外な申し出だった。男だと知れた今でも、こんなに優雅で美しい少年が剣を振るうところなど想像がつかない。
「私は先日の大会には出場していないんだ。したがって、自分の実力が今どのくらいとも知れない。優勝者のお前とやるなら、だいたいの目安のほどは出よう。手加減はいらん。遠慮なくかかってこい」
「は、はい!」
 庭園は十分な広さがあって、四阿を抜け出すと薔薇に囲まれた広場がありました。クルスは剣の道を志す者として申し出を断ることなどしたくない。
「それでは、お願いします」
 クルスは目の前の相手が誰だか全く知らなかった。だが、王宮にいるのですから良家の師弟の誰かなのだろう。この気さくな様子から見ても、子どもの剣の試合の一度や二度で目くじらを立てるような家ではない、……と思う。
 クルスは剣を構え、そして。

 ◆◆◆◆◆

「父上、本日、僕はお恥ずかしながら剣の試合で負けてしまいました……」
「何っ!? 相手はどこの誰だ!!?」
「ええと、王宮の中庭でお会いしたのです。僕より幾つか年下の、とても美しいまるで少女のような少年です。髪の色が濃い藍色で、瞳が朱金と呼ぶような色の」
「……クルス、お前それは―――」

 クルスは今王宮にいる。
 理由は簡潔だ。「王太子殿下に呼び出された」から。
 王太子も何も、この国の王は子種が少ないのか、(いや、正妃との仲が不仲で滅多に同衾しない上に最愛の第二王妃が結婚一年半で死んでしまったからという説もありますが)そもそも王子は一人しかいない。王女も一人、合計しても王の子どもは二人しかいない。
 これは第二王妃まで迎えた王家にしては物凄く珍しいことだ。普通は継承問題があるが、何十人も妾を抱えてそのうち何割かを王妃にして、嫡子も庶子も合わせて十人くらい軽く生ませるわけだ。実際にはその倍はいるとか、いや、子どもの数字自体はあっていて妾の方が多すぎるとかむしろ無理強いされて泣く泣く自ら首を括る女性も後を絶たないとか言われているが。
 他国と血を交えないことで有名な隣国ローゼンティアですら、王妃は三人しかいないのに子どもは十三人もいる。それなのにエヴェルシードは王妃も子どももたったの二人だ。
 国主ジョナスは、非常に珍しい人物だ。王子は継承問題、王女は外交のために嫁がせることを考えても複数必要なのは言うまでもないが、そんな王子も王女も一人ずつしか産ませなかった上に、王が溺愛していると言う王子は、正妃の子どもどころか、まず母親が貴族ですらない。第二王妃ヴァージニアは下町の生まれだが、王が行幸の折に見初めて……半ば無理矢理、いや、半ばと言わず無理矢理略奪したあげく彼女の両親を殺して王妃につけたのだそうだ。
 その王妃陛下から生まれたのがシェリダン王子だ。エヴェルシードは軍事に力が入るので、男子継承に重きの置かれる国である。過去に女王が生まれたこともありますが、いずれもその王権は短命だった。しかしそうそう正妃の子ではない王子が玉座につくというのも……というわけで歴代の大概の王たちは、正妃が男子を生むまでは第二王妃以下、妾に子を産ませないことが普通だったのだが。
 ジョナス王は、よほどヴァージニア王妃を愛していらっしゃったのでしょうか? クルスが生まれる前に死んでしまった王妃の顔を見た事はない。肖像画の一つでさえ、完成する前に亡くなってしまったそうだ。
 ただ、シェリダン王子、王太子は、まだ幼くしてヴァージニア王妃に生き写しだという。
 そしてその才も十分なものだと言われる。シェリダン王子に何かがあったら、この国は一気に傾くのだろう。幸い先代の王も子種の少ない人物で今のところ直系の王族の他に王位を狙う公家などがいないのは、彼にとって僥倖とも言える。王女であるカミラに関してはクルスもまだ会ったことがないので、何とも言えないが。
 というか、これだけべらべら語っておきながら、クルスは王太子にもまだお目にかかったことはない。いや、なかったはずだった。
「よく来たな。クルス=ユージーン」
 客間に呼ばれてお会いした殿下は……先日中庭で出会った、あの少女とも見紛う美しい少年でした!
「お、王子殿下! 先日は申し訳ございませんでした! ご無礼をお許しください!」
「会っていきなり謝罪か? しかも叫ぶなうるさい」
「は、はい。すみません……」
 長椅子の中央に優雅に腰掛けた少年は、跪くクルスを見下ろしながら呆れ顔だ。
「お、恐れながら王子殿下、このような僕に一体何のお申し付けでしょう?」
 やはり先日の非礼を咎められて、僕を処断するおつもりでしょうか?
 父上、母上、申し訳ございません!
「先日の――」
「や、やはり先日のこと怒っておられるのですね!?」
「おい、ちょっと待て。何故そうなる?」
 最初の一語にうろたえる余り、クルスには王子の言葉の続きが頭に入らなかった。父上母上申し訳ございません。
『クルス、これだけは言っておく。何があっても、決して王子殿下だけには手を出すな』
 思いっきり手を出した上にお呼び出しまで受けてしまった。古今東西探しても王子殿下をそれと知らず剣の試合などしたのは自分だけだろう。
 ユージーン侯爵家は終わりだ。
「申し訳ございません! 極刑に処すならばどうか僕だけを! 侯爵家は何も関係ないのです!」
「お前な……」
 しばらく何事か考えるような間を置いて、王子が口を開いた。
「お前……先日のことをそんなに反省しているのか?」
「は、はい。お百度参りでもお遍路でもなんでもしますのでどうか家族だけは!」
「そうじゃない。クルス・ユージーン。もしもその気があるなら、私の命に従え」
「はい?」
 クルスはぽかんとした。王子、それも次代の国王である王太子殿下のご命令であれば断れるわけもありませんが、どういうことでしょう?
「私は城下に出かける。未来の剣豪クルス・ユージーン。お前はその護衛をしろ」

 ◆◆◆◆◆

「陛下、クルス・ユージーン侯爵、ただいま参上いたしました」
「ああ、入れ」
 執務室にクルスを迎えいれて、シェリダンは部屋の一角に供えられた応接用のソファに落ち着いた。この部屋で人と話すこともある。仕事の途中や、さほど大事でもない客と言ってはあんまりだが、国内の貴族で気心の知れた臣下などを呼び寄せる時はこの部屋へ通すこともある。
 「炎の鳥と赤い花亭事件」のすぐ後。
「事後処理はあらかた終りました。フリッツ・ヴラド殿にも説明をいたして、全ては滞りなく終りました」
「よくやった。褒めてつかわす」
 シェリダンは口元をゆるりと歪め、クルスの方へその手を差し出す。目前にすっと伸びた白い手をクルスは両手で恭しくおし抱き、その指先へと口づける。唇を滑らせ、舌でなぞるように。とくに何があるというわけでもないのに、どこか背徳を感じさせる行為。
「服を脱げ」
 クルスは命じられたとおり、上着を脱いで床に落としました。シャツを捨て、上半身裸になってシェリダンの目の前に膝立ちになる。武人としては貧弱さを感じさせる胸に、一際目立つのが脇腹の傷痕だ。
 その傷にシェリダンの唇がそっと触れた。生暖かい舌で古傷をなぞる。クルスは自分の肌の上をはうシェリダンの仕草をじっと眺めていました。えもいえぬ感覚に頬が火照る。
「クルス」
「……なんでしょう、陛下」
 我に帰ったクルスに、シェリダンは言った。
「お前の命は、私のものだな」
「ええ」
 七年前のあの日より。
「この命はすでに、陛下へと差し上げております」


136

 王子に会ってまだ二度目にしかならないのに、クルスは王子に城下へと連れ出されている。いや、王子はシアンスレイトの城の外を知らないので案内役をもクルスがかねることになるのだが、そのクルスもぶっちゃけほとんどユージーン領の外に出たことはない。
 なので、父と王城まで来るのに前回と今回、二度ほど行き帰りに通ったシアンスレイトからユージーン領への市場通りをご案内させていただいている。
 もういっそ何かの陰謀なのかというくらいあっさりと城を抜け出すことができたのはいいのだが、その後は一体どうすればいいのか。その前に世継ぎの王子が城をあっさり抜け出せるって時点で普通ではないのだが、どうやらシェリダンは前々からこの計画を実行するつもりで細部を詰めていたようで、誰にも見咎められずに城を出て、シェリダン自身が手配した馬車で市場に向かう。
 市場ではこの季節の果物や、新鮮な肉が吊るされていたり、外国の商人が色とりどりの雑貨を売っているのを見ることができる。シェリダン王子はそれら一つ一つをはしゃぐでもなく、それでも真剣な眼差しで興味深そうに眺めている。
 クルスは最初王子の半歩前に護衛として向かうか、後に控えたほうがいいのかと思ったが、王子自身に止められた。どう見ても年下のシェリダンにクルスが付き従っているのでは、怪しくて注目を引くかもしれない。せっかく庶民の服装に着替えた意味がないと怒られた。さすがは王子、クルスより何倍も頭の回転が速い。
 それでどうなっているのかというと。
「あの、僕ごときがでん……シェリ様の隣に並ぶなど恐れ多く……」
「いいからさっさと歩け。次はあっちの店を見るぞ」
 知人のように振舞え、と命じられたクルスはあろうことか、この国で二番目に偉い人物と肩を並べて歩いている。しかも、シェリダンと名乗ってしまえばすぐにバレるからと言う理由で「シエル」と愛称を呼ぶように命じられた。
 エヴェルシードでは一般的に、王族の名前を平民が名乗ったりはしない。後に自分と同じ名の直系の王族が誕生すると、その年内に生まれた者は幾ら自分の方が先に生まれていても、改名しなくてはならないほどだ。そんな必要はないと王族が言っても、習慣として気を遣うのが民というものである。
 まあ、いちいち国民が改名していては役所の戸籍係が困ると言う事で、王族はたいてい平民がつけないような名を名乗るのだが……ジョナス王やシェリダン王子の名前は、歴代国王の名前に比べれば地味、というか人名らしくて普通、いや、良心的だ。
 そういえばどうでもいいことだが、自分の名前は「クルス」だ。クルス・ユージーン。父上に聞いたら、この名前の意味は「十字架」なのだそう。
 自分は武人だから、これから先きっと幾人でも殺すのだろう。何人でも傷つけるのだろう。傷つけて引き裂いて打ち砕いて屍の山を作り、その道を進むのだろう。十字架を背負う、だから「クルス」なのだそうだ。
 エヴェルシードの貴族の名前は、幾分変わっている。例えばクルスより八歳年上のジュダ・イスカリオット伯などは「裏切り」という意味の名前だ。「ジュダ」は裏切り者を指すのだそうだ。そしてその通り、まだ若きジュダ卿のせいで、あの家は公爵から格下げにされ、さらに一族郎党のほとんどが当主の手によって粛清されるという惨い事件がつい先日起こったばかりだった。
 そんなことを考えている間に、この場でも事件は起こった。
「おい、ガキっ! その金は俺のだぞ!」
 はっと気づいた時にはすでに遅く、タチの悪い男たちに囲まれていた。隣に立つシェリダンの顔には不快の色。なぜなら先ほど男に怒鳴られたガキ、とは恐れ多くもこの王子のことだからだ。
 王子はその手に一枚の銅貨を握っていた。それを示し、不愉快そうな様子で言う。
「別に盗む気などない。足元に転がってきたから拾っただけだ」
 この少年に銅貨の一枚をねこばばする必要などない。たとえ目の前に金銀宝石の山を積まれても無感動だろう。この国の全ての富が、いずれこの少年のものになるのだし。
 だが、目の前のいかにも野卑で低脳そうな男たちはシェリダンに絡む。
「そうかぁ。そりゃあ親切にな、お嬢ちゃん。じゃあせめて向こうの店でさ、礼をさせてくんねぇか? いい思いさせてやるよ」
 しっかり男ものの服を着こんではいるのですが、またもや女扱いされたシェリダンは男たちを冷たく睨む。クルスには正面の一人の背後にいる二人、合わせて三人組の会話が図らずも聞こえてしまった。
「すげぇ上玉だな、ギルフォードの変態親父のところになんか連れてきゃあ、きっと高く売れるぜ」
 クルスは腰の剣に手をかけた。それを、シェリダン王子が抑える。この場で流血沙汰を起こすなというのですか、殿下。
「結構だ。私たちは用があるからもう帰るところだ。これは返しておく」
 なんとか男たちをかわしてシェリダンが身を翻そうとしたところだった、銅貨だけ相手に渡そうと伸ばした彼の片腕を、正面の男がつかんだのだ。
「……私に触れるなっ!!」
 その途端、凄い勢いでシェリダンが男の腕を払いのけた。それが騒動の元だ。いつの間にかあたりは野次馬も巻き込んでの乱闘騒ぎになっていた。クルスも剣を抜く。王子も得物を手にする。
 けれど、状況は大の大人三人に対し、こちらは子ども二人。相手も剣を持っている。
「ユージーンっ!」
 いつの間にか追い込まれていたのは、クルスの方だった。二対一はまだ早かったようだ。しかもならず者連中が意外に腕が立ったということもある。クルスは一人を相手している間に、もう一人から背中を狙われた。ただの子どもにしては腕が立つ来栖たちに、相手も焦っていたのだろう。長引かせては警吏の役人が出てきかねない。
 背中から斬られようとするクルスに、王子が飛びついた。まるで、守るように。それはまるで時が止まったかのような一瞬で、周囲のものの動きがやけにはっきりと見えた。華奢な背中がクルスと刃の間に躍り出る。
 心はたぶんその瞬間に決まったのだと思う。
「っ……!!」
 脇腹に走った熱を持つ痛みを、クルスは声を殺して耐えた。
「クルスっ、何故」
 世界は止まっているように見えていた。その中にシェリダンの背中が見えていた。だからクルスは咄嗟に彼の体を胸の中に抱え込み、男の刃を自らの身体で受けた。クルスがシェリダンに抱きついたことで狙いがそれ、男の刃はクルスの脇腹を貫通した。
「で、……か……」
 あなたがご無事であればいいのです。
 あなたこそが、生きなければならないのです。僕ではなく。
 だから僕は貴方を守れれば、もう、それで十分です。
「医者を呼べっ!」
 薄れゆく意識の中で、クルスは高らかに張り上げられる声を聞いた。
「皆のもの、聞け! 我が名は―――」

 ◆◆◆◆◆

「申し訳ございません」
 王が怒髪天の勢いで激怒していると聞いた。
「何故お前が謝る必要がある」
「ですが」
 全てが終わった後の王子は疲れきっていた。だがこれは数日後のことだ。
 もともと、王子を城下に連れ出した上このように危険な目に合わせたのだから、クルスは極刑は免れない。いくら武功で名声を打ち立てたユージーン侯爵の息子であろうと、それはどうにもならないことだった。
 ジョナス王のシェリダン王子への寵愛は並々ならぬものと父から聞いた。それがどのようなことかはいまだによくわからないが、とにかくシェリダンのことを深く愛しているということは、この事態でもわかる。
 シェリダンはクルスが傷を受けてすぐ、王家の紋章入りの指輪を相手と周りの人々に見せて、身分を明かし、医者を呼んだ。やって来た町医者の手で応急処置が施され、安静に王城へ運ばれ、王宮侍医の手で丁寧な手当てを受けたおかげでなんとかクルスは一命をとりとめた。だが、城内はこのことで物凄い騒ぎになっているそうだ。
 父は息子であるクルスの不始末とその重体の様子を聞いて、真っ青になったそうだ。けれど王が怒っているのでどうすることもできない。
 自分はこのまま助かっても、どうせ死ぬのでだろう。
 なのにそんなクルスの側には、シェリダンがいる。怪我一つ負わず、無事な姿だという話だ。それだけでも、自分の生きる価値はあったのだろう。
「死ぬな」
 ぽつりぽつりと、春の雨音のように暖かく心地よい声がクルスの耳朶を打つ。
「死ぬな。ユージーン侯爵子息……クルス」
 ああ、僕の名前。
 十字架というこの名の意味。
 それを背負うことすらできずに死ぬのだと思っていた。けれど耳朶を打つ雨だれに似たこの声こそが、もしかしたらクルスの十字架かもしれない。
 寝台に横たわるクルスの手を握り、額へと当てながらシェリダンが悔恨する。クルスはこの時、まだ起き上がることも瞼を開くこともできなかった。それでもシェリダンの声は、優しい雨だれのように耳に染み込んでいく。
「何故こんなことになっている? お前をそんな目に遭わせたかったわけじゃない。私はただ……私と話をしてくれる相手が欲しかっただけだ」
 詳しい事情はわからない。だが、手のひらから伝わってくるのは、熱くも冷たい、人の孤独という名の感情。
「お前のせいじゃない。全て、悪いのは私だ……何故あの時、お前は私など庇ったんだ」
 守りたかったから。
 この人に言って差し上げたいのに、流れ込んでくる切々とした声を聞くだけでクルスの目も口も動かない。真っ暗闇に、手のひらから伝わってくる温もりが全てだ。
 泣かないでください、殿下。あなたにそんな声をさせたかったわけじゃないんです。
 あの時、クルスは嬉しかった。シェリダンが自分を庇ってくれようとした時、本当に、本当に嬉しかったのだ。
 クルスの意味は十字架。
 自分は武人だから、幾人でも殺すはずだった。何人でも傷つけ、命を奪い、貶めるために生まれた。そしてそのための命は、守られるということなど今日まで知らなかったのだ。形ばかりの護衛で申し訳ありません。
シェリダンはあの時、クルスを助けようとした。
 それだけでクルスはシェリダンを信じられる。きっとシェリダンは良い王になるだろう。その側で働けないのは残念だが、それでも彼が生きていてくれる方が自分が生き残るよりずっといい。
「お前を死なせはしない」
 耳朶を打つ穏やかな雨音。
「私のせいなどで、これ以上望まぬ死人を増やしたりするのものか」
 懐かしい故郷の景色。雨の日が好きだった。よっぽど雨天のための稽古をつけるときでもなければ、大人しく家の中にいられた。まるで普通の家族のように、剣も戦争も死臭も関係なく、一家で穏やかな団欒を。
 父上、母上、ごめんなさい。
「絶対に、死なせたりなどするものか」

 ◆◆◆◆◆

 シェリダン殿下が王を説得したということで、クルスは怪我が癒えると同時に、無罪放免された。いや、無罪放免されたのでちゃんと最後まで治療してもらえたというところだろうか。だいぶ大きな傷痕は残るが、後遺症もない。
 クルスは王城内を歩いていた。前を行くのはバイロン=セーケイ=ワラキアス宰相閣下。何故、宰相と歩いているのか? クルスにもわかりらない。ようやく怪我が癒えたと思えば、一度ユージーン領に戻った後、再び王城に呼ばれた。そして宰相の案内で、どこかへ連れて行かれるようだ。
 宰相が立ち止まったのは、一つの部屋の前だった。扉は薄く開き、中の声が微かに漏れ聞こえるが、辺りは人払いされているのか、誰もいない。
「閣下、ここは……」
 国王陛下の寝室前だ。
「いいから、黙って中を覗いてごらんなさい」
 王の部屋を覗き見するなど恐れ多いどころの話ではない。けれど宰相の態度には有無を言わせぬものがあり、クルスは隙間から中の様子をちらりと見た。
 そして眼にしたのは、とても信じられない光景。
 部屋の中にいた国王は、寝台の上だった。それだけならまだしも、両腕を突っ張ってそのたくましい身体の下に誰かを組み敷いている。細くて白い肌。そしてこちらに頭を向けているのは……藍色の髪。
 裸の陛下の下でか細い悲鳴を漏らしていたのは、シェリダン王子だ。のけぞった拍子にこちらに気づいた彼と、目があってしまった。朱金の瞳が驚愕に見開かれる。
 そのシェリダンの様子に気づいた王が、息子の視線の先を追ってクルスを見つけた。こちらを見たまま一瞬だけ不敵に笑うと、再び自らの下にいるシェリダンの肌に触れた。
 それ以上は見ていられなかった。クルスは足音を消すことも忘れてその場から駆け出して逃げ出した。心臓が破れそうに五月蝿い鼓動を奏でている。
 殿下。殿下。殿下。……殿下っ!
『あの方の殿下へのご寵愛は――』
 父の言ったことの意味が、ようやくわかった。
 そして自分には、どうすることもできない、無力だということも。

 この命はあなたのために。
 ただ、あなたのためだけに。
 クルスはあの時の殿下に……今は陛下となったシェリダンに忠誠を誓う。
 シェリダンが自分を犠牲にしてクルスの命乞いをしてくれた。返そうとしても返しきれないほどの恩だ。
 あの後、シェリダンがクルスを王城に呼ぶ事はなかった。だがクルスはどうしてもと頼み込み、再三再四、各方面に頭を下げまくってようやくシェリダンとの面会にこぎつけた。そして、事情を聞いたのだ。
 その時にこの方に一生忠誠を近い、命を捧げようと決意した。
「申し訳ございません」
「何故お前が謝る必要がある? 悪いのは全て、私だ」
「ですが」
 いいえ、今回の事は全て、僕が不甲斐ないから、だから起こったのです。
 そうしてまた一つ、あなたを傷つけた。
「殿下。いいえ、シェリダン様」
「……なんだ?」
「お側近くへ寄ることをお許しください」
 シェリダンは驚いたような顔をする。あの悪夢のような光景の後だ。シェリダンは無意識に胸元を隠すように、服の襟をきつくかき合わせていた。
「……私は、お前があのような場面を見て、私から離れていくものだと、二度と顔も見たくないほど軽蔑するものだと思っていた」
「そんなことはありません!」
 それどころかむしろ。
「僕をあなたの、エヴェルシード王シェリダン様の臣下にさせてください、お願いします!」
 この国の王はあなたしかいない。ジョナス王亡き後、必ずこの方の時代が来る。内政能力は高いといわれるジョナス王より、この方はさらに優れた王としての才能を持っているだろう。それは民を、人を守ろうとする力。
その時にはクルスも完璧な武人として剣士として、今のままではない、もっとちゃんと、本当に強くなっているようにするから。
「貴方を守りたい」
 ただそれだけなのだ。
 貴方は王であるから民を守る。だけれど、そうして何もかも守ろうとする貴方は酷く無防備で痛ましい。だからこそ、自分があなたを守りたいのです。
 シェリダンは泣き笑いのような顔で言った。
「…………物好きめ」


137

 目を覚ます。
 夢から覚める。夢から引き離される。
 いつだって過去は輝かしく、懐かしくて慕わしい。あの頃のように何も知らず、何も思い悩まずにいられたらどれだけ幸せなのだろうかと。
 還りたい。還りたかった。けれど。

 舞い散る紅い花。
 ――……リ……ン?

 夢で、誰かが名を呼んだ。

 手のひらが温かい。まず感じたのはそれだった。痺れたように重い瞼を押し開いて、見上げた視界に金色の天蓋が映る。幾つもの襞が優雅に垂れ、シェリダンの視界を覆う。
 力の入らない体は柔らかな寝台に抱きとめられ、脇腹が酷く痛んだ。寝ぼけた頭が、こうなる以前に何があったのかと考え出す。
 ああ、私はそうだ……ジュダに。
 ゆっくりと首を巡らせると、シェリダンの右手をジュダが両手で握り締めていた。
「……っ」
「陛下」
 声が出ない。喉が貼りついたように渇いている。
 寝台の枕元のチェストの上から、ジュダが水差しを手にとった。同じく用意されていたグラスを手に取り、一瞬迷う素振りを見せる。
 口元にグラスを近づけられたが、角度が悪い。喉元に零れた水に、ジュダが渋い顔をする。
 またしばし逡巡した後に、彼はグラスの水を自らの口に含んだ。
 ゆっくりと降りてくる唇から、体温で生温くなった水が流れ込んでくる。やたらと久しぶりという感じのする潤いに、徐々に脳が覚醒してくる。
「ジュダ……」
 彼の手から水差しが落ちて、床に転がる。分厚い豪奢な紅い絨毯は衝撃を受け止めて、硝子製のそれは割れない。
 むしろ今にも割れてしまいそうなのは、それを落とした男の方だった。一体何日寝ていないのか、端正な目元に隈ができてしまっている。
「シェリダン様……目が、覚めたんですね、良かった……」
 ジュダが寝台脇に突っ伏した。
 脇腹が痛む。
 シェリダンが今こうしてここに横たわる羽目になっているのは、この男に刺されたからだ。自らシェリダンを殺そうとしておいて、何が良かっただと。
 腹の傷が開くと言う事は置いておいても、シェリダンに激昂する権利はあるのだろう。だが今にも壊れそうなジュダの様子に、シェリダンの方が何も言えなくなる。
 まだ体に力は入らない。全身が気だるい倦怠感に包まれている。脇腹の傷は勿論、どれほど眠っていたのか首筋や腰など、体のあちこちが痛い。
 そんな中、腕を伸ばした。我ながら血の気のない手を、ジュダの方へと触れさせる。その触れた頬を、一筋二筋、後から後から涙が零れおちていく。
「……シェリダン様、私は……」
 ジュダの動向が不穏だと聞いて以来、シェリダンはこの男、ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵の過去について調べさせた。
 その中で出てきた情報の一つに、不確定ながらも興味を引くものがあった。父方の叔母との恋。もともと品行方正だったというジュダはある日突然彼女を殺し、さらに一族の人間をことごとく殺している。ジュダが《狂気伯爵》と綽名される由縁となった事件だ。
 穏やかで勤勉、真面目で誠実な青年を狂乱の殺戮者へと変えたものは一体何なのか。
 シェリダンは知らない。あの頃、自分のことだけで手一杯だったシェリダンにこの男の詳しい心境などわかるはずがない。
 ただ一つはっきりしている、シェリダンにもわかることは、ジュダは狂気を演じているに過ぎないということ。
 残酷な運命の操り人形のように、激しい悲しみに突き動かされて血の乱行へと駆り立てられる。けれど心底から狂っているわけではないから、いつも壊れた心の奥底で苦しんで。
 お前は愚かだ。
「……シェリダン様」
「ジュダ」
「お慕いしております……お慕いしております」
 それは嘘なのだろう。
「ジュダ……お前は、勘違いしているだけだ」
「……違います」
「違わない」
 ああ、脇腹の傷が痛む。
 なのにどうして、シェリダンはジュダを憎めないのだろう。
ジュダを狂気の深淵に立たせたのがその叔母だと言うのならば、シェリダンはその背を押したのか。この痛みも状況も、全てはシェリダン自身の咎か。
 唇に温もりが降りてくる。柔らかで熱く、さらりと乾いた感触。女性の唇のように、ふわふわでしっとりとしているわけではない。
 何故だろうな。強引に呼吸を奪うものより、荒々しく体を繋げる行為よりも何よりも、この口づけが一番辛い。
「ジュダ」
 紅い目元。今にも泣きそうな顔をしている男に告げる。
「裏切り者よ。多分お前は、この世に生まれてこない方が幸せだったのだな……」
 ジュダがシェリダンの右手をとり、涙で濡れた自らの頬へと押し当てた。シェリダンの手にもその涙は零れ落ち、濡らす。後から後から。
「そうなのかも、しれませんね……」
 叔母との恋。禁じられた恋。そして全てを失い、最愛の人も、自らの一族も何もかもをその手で奪いとった。そう、彼から全てを奪ったのは自分自身。自分であるからこそ、何よりも生きる事が辛くてたまらない。
 どんなに誠実に生きたとしても、その結果は努力に報いてくれない。
「私と一緒に堕ちてくれませんか? シェリダン様」
 ジュダが泣きながら微笑んだ。シェリダンも微笑を返す。
 返しながら、脳裏に浮かぶのはジュダとの未来ではなかった。シェリダンの心の面影にはいつも白銀の髪と血の色の瞳を持つ少年が住んでいる。
「……なぁ、ジュダ。知っているか?」
「……はい」
「遥か遠き国では、救世主を裏切った弟子はお前と同じ名をしているそうだ……」
 裏切り者の接吻は甘く、その信じる相手を地獄へと突き落とす。
 人の子は誰しも十字架を背負うのならば。
「……裏切り者の弟子は、銀貨三十枚で救世主を売った。しかしその後、自らの行いを恥じて自殺したという」
 シェリダンは寝台脇のチェストを眺めた。先日はそこに短刀が置かれていた。それによってこの傷も負ったものだ。
 今も水差しが乗っていたその奥に、きらめきを放つ白銀の刃が見える。絨毯の上を転がる水差し。シェリダンの寝巻きは襟元が零れた水で濡れ、酷い有様だ。ジュダの憔悴した様も重く、全ての物事が鬱陶しい倦怠感となってこの体にのしかかる。
ああ。こんな状態ではロゼウスを探しに行くことすらできないではないか。
 だが、解決していない物事を無責任に投げ出して飛び出すのは性に合わない。半年もない僅かな期間とはいえ、一国の王を努めたことが影響しているのか。
 シェリダンを主と相手が呼ぶ限り、シェリダンはその者に対して責任がある。
「ジュダ」
「はい」
「お前がしたことはわかっているな」
 声を張り上げれば、こめかみに脂汗が浮かぶ。
「お前は立派な裏切り者だ。そしてこれ以上の裏切りは許さない。お前は私の臣下だ。お前がそれを忌避したところで、それが変わるわけではない」
 そうであったならば、シェリダンが玉座を負われた今でさえもジュダがそんな真摯な眼差しでシェリダンを見る謂れがない。この存在そのもので自分が彼を繋ぎとめるのだというのであれば、彼はやはり自分の部下。
 だから、シェリダンはシェリダンとしてお前に命じよう。
「勝手に死ぬ事は許さない」
 寝台脇のチェストの上の白刃を横目で睨みながら告げた。
「お前の命は私のものだ」
 シェリダンはロゼウスのように優しくはないから、シェリダンを裏切り刺し殺そうとしたジュダに温情などかけはしない。儚く微笑んで何もかもを受けとめたりなんてできない。
 代わりに突きつける、絶対の答を。
「裏切り者のユダでさえ救世主が死した後になって死を選んだ。ならばお前も同じこと。私が死ぬまで、裏切り者であるお前が死ぬなど許さない」
 それがお前に与えるただ一つの罰だと。
 ジュダの手から力が抜け、シェリダンの手をとることもできなくなる。寝台の敷布に滑り落ちたその手が祈るように組まれ、ジュダはその手に額を押し当てた。
「わかり……ました」
 死ぬよりも苦しそうなその様子に、シェリダンは思わず苦い笑いを浮かべる。もう、脇腹の傷は痛まない。
ふと室内を見渡せば、あの日のままだった。始めに紅いと思った絨毯の元の色は違う。紅いと見えたのは、ジュダがシェリダンを刺したときに流れた血のせいだった。
 まだ換えられていない包帯にも、深紅は散っている。絨毯の深紅、包帯の深紅。飛び散り染みわたったその紋様が、まるで花のようだった。一面の蘇芳の花。その血のように紅い花の花言葉は、裏切りと言うのだった。
 そして流された血は黒ずんで、いつしか紅い花は枯れた。

 ◆◆◆◆◆

 部屋を移しても待遇は変らない。逃げられないようにその全身を鎖付きの手錠と首輪で拘束している。窓には鉄格子が嵌っていて、それも特注の銀製だ。逃げられないだろうし、逃がす気などない。
 やっと、やっと手に入れたのだから。
「……あ」
「何?」
 先ほどまで体を重ねていた人が小さく声をあげる。
「どーしたのー? ロゼウスー?」
 まだ薄物を一枚羽織っただけの彼に、問いかけながら抱きついた。
 これは俺の物。俺だけの物。
 一目見た時から欲しいと思った。その肌に触れた感覚が忘れられず、再会して言葉を交わしてからはなおさら彼が欲しくなった。
 俺の物だ。誰にも渡さない。
 白い肌、白い髪。紅い瞳。
 あまりにも印象的なヴァンピルの容姿。月のない暗闇に映える魔族の姿。
 お前は人間の国になんかいる存在じゃない。我等と同じ、地下の国からやってきた魔族。
「ねぇ? どうしたのってば。――ロゼウス?」
 これだけヴィルヘルムが話しかけているというのに、ロゼウスは返事をしない。薄物一枚羽織ったまま、体を重ねた際の汚れも落さずに寝台の上で放心している。
 今日も手荒に扱った影響で、白い敷布には紅い花が散っていた。傷だらけの肌はすでに癒えている。見た目には元通り美しいまま、人形のように寝台に伏せっている。
 その彼が、先ほど少しだけ声をあげて何かに反応した。
 瞳の先にあるものを、彼が気にしたものを自分も知りたくて尋ねてみる。
「ねぇ、どうしたの? 何があったの?」
 ゆさゆさと肩を掴んで揺さぶってみるけど、ロゼウスは俺を無視する。俺を無視して、どこか遠くを見ている。
「ねぇってば……」
「ふふ」
 小さな笑い声に反応して、正面に回ってその顔を覗き込む。
 息を飲んだ。
「ああ……目が覚めたんだ」
 笑うロゼウスは幸せそうだった。春先の庭に咲く花に、ひらひらと蝶が寄ってきた瞬間を見たかのように穏やかな顔をしている。
 その視線は目の前にいるヴィルヘルムではなく、どこか遠いところに向けられていて。
「……誰のこと、言ってるの?」
 今初めて気がつきましたと言わんばかりの顔で、ロゼウスが質問に答えずに一言零した。
「ああ……居たのかヴィルヘルム」
 ガツン、と。柔物を殴る鈍い音が室内に響いた。
 ぱたぱたと血の滴る音がする。また敷布が赤で汚れる。
 避ける気もなかった相手の上に、当たり所が悪かったらしい。ヴァンピルは人間より歯が鋭いから、そのせいもあるのか。
 ヴィルヘルムが殴ったロゼウスの頬は見る見る内に紅く腫れ上がり、そして切れた口から血が零れていた。
 でもその傷だってすぐに癒えるから何でもないとでも言うように、ロゼウスはひたすら無関心な態度をヴィルヘルムに対して見せている。
 嫌悪より、憎悪より、軽蔑よりもなおその態度に腹が立った。
「――こっちを見ろよ!」
 無理矢理その首に嵌めた首輪から伸びる鎖を掴んで、首を絞め殺しそうな勢いで顔を向けさせた。さすがに苦しいのかロゼウスは首が絞まらないよう首輪を両手で掴み、不自然な体勢を堪えている。
 その瞳がようやく、鬱陶しいとでも言いたげな空気だがヴィルヘルムを見た。それに満足して、言葉を連ねる。
「いい度胸だな。居たのか? なんて。お前の記憶力は鶏以下か? さっきまで俺にヤられてあんあん喘いでたのはダレ?」
「ヴィ、ル……放せ」
「お前がちゃんと俺の相手をするならな」
「ふっ……寂しいのか? お子様が。構ってもらえなくて拗ねて、それでイヤガラセしたいんだろう? お生憎だな。俺は子どもを相手にする趣味はないんだ」
「ほざけっ!」
 減らず口しか叩かないその頬をもう一度強く殴ってから、ヴィルヘルムはロゼウスの首輪を放した。けほけほと咳き込むロゼウスの動きを封じるように、体の上にのしかかる。
「いい? お前はもう俺の物なんだ。だから俺の前で、他の事考えるなんて許さない」
「そんなの、俺の勝手だろう」
 癒えきらない傷からぼたぼたと紅い血を零しながら、ロゼウスは全く堪えていない様子でそう告げた。
 その紅の瞳。
 流れる血と同じ紅。
 極上の鳩の血色の宝石のような瞳は、ただ無感動にヴィルヘルムの顔を映している。ヴィルヘルムに視線を合わせているのはお情けで、まるで本意ではないと言いたげだ。実際にそう言いたいのだろう。この数日どんなに話しかけても、すごく投げ遣りな応対をされている。
 暴力ぐらいでは振り向かせられないと知っているけれど、ヴィルヘルムは殴ることしか知らない。ワーウルフの国セルヴォルファスでは力が全てだ。弱者など必要ない。強者に従えばいい。
 なのにどうしてこの男は。
「ロゼウス王子。お前は自分の立場がわかっていないようだな。今のお前は俺の捕虜だ。勝手ができるなんて思うなよ?」
「思ってるわけじゃないけど。だからってお前に特に媚びてやる必要もないし? セルヴォルファス王ヴィルヘルム。お前、何をそんなに怖がっているんだ?」
 ――怖がっている? 俺が?
 その言葉を聞いた瞬間、ヴィルヘルムは思わずびくりと肩を揺らしてしまった。その動揺に付け込んで、ますますロゼウスが饒舌になる。
「お前、本当はわかっているんだろう? 正々堂々と決闘したら、俺には勝てないって」
 違う。
「可哀想に。セルヴォルファスの王がこれじゃあ、この国の行末は思いやられるな」
 違う。
「ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。所詮お前は――」
 違う。違う違う違う!
「黙れっ!!」
 ダン、と思わず横の壁を殴りつけた。あまりにも力を入れすぎて石がぱらぱらと粉になって降って来る。
「何が言いたい!」
「ふぅん。言ってしまっていいんだ? ヴィル」
「ロゼウス! お前っ!」
 服を着ていなければ胸倉などつかみようがない。その代わり露な肩をぎりぎりと爪が食い込むほど強く掴んだ。ワーウルフ特有の尖った爪が、肌を傷つけまた新たな血を流させる。
 けれどロゼウスは全く気にしない。与えられる痛みを享受しながら、ヴィルヘルムを嘲笑う。
「何がそんなに怖いんだ? ヴィルヘルム」
「……うるさい」
「俺を犯すだけなら、別に反応なんか気にせずさっさと抱けばいいし、犯すだけ犯して放り出せばいい。それをしないのはお前が俺に何かを求めているからだろう。ねぇ、ヴィル? 例えこっちが無反応でも、自信があるなら途中で声が我慢できないくらいいろいろすればいいだけだし? それとも」
 それができないと言う事は、その行動の過程の中に、ヴィルヘルムにとって必要な何かが入り込んでいるわけだと。ロゼウスはまるで全てを知っているかのような態度でヴィルヘルムを見透かそうとする。
「『無関心』は、そんなに怖いか? ヴィルヘルム王様?」
「黙れって言ってるんだよ!」
 ロゼウスのその言葉に、ヴィルヘルムはカッと頭に血が上った。――悟られた! よりによってロゼウスに! 自分の方が好きなだけこの相手を弄んで傷つけて、心までぐちゃぐちゃに踏みにじって楽しむはずだった相手から、こんな屈辱を受けるなんて……っ!
「お前に何がわかる、ロゼウス」
「わからないね。お前の気持ちなんて、わかりたくもない。愛想を尽かしたならさっさと俺をエヴェルシードに戻せこの馬鹿」
「何を、この――」
 言葉を交わしているうちに気づいた。
「ああ……そう。そういうことか」
「ヴィルヘ――」
「俺を怒らせてここから解放させようって魂胆だろ? そう上手くはいかせてやんない」
 読めてきたぞ。この男の考え……。ロゼウスが忌々しげに舌打ちする。
「生憎だけど、まだまだお前をここから解放する気はない。むしろ、そのままずーっと、一生、俺の奴隷でいてもらわなきゃ」
 ヴィルヘルムを怒らせて自分を放りださせようなんて、そんな考えに乗るわけがない。
「ちっ」
「でもさっきの一言、やっぱり頭に来たから――」
「え?」
 本当に、なまじ先ほどよりは通常と変らないいつもの態度だからこそ心を引っかかれるような思いでヴィルヘルムはロゼウスを見下ろす。 
 ヴィルヘルうの体によって標本のように寝台に縫いとめられたロゼウスが、こちらの顔を呆然と見上げながら、まだ自らの身に降りかかる不幸を何の予感もしていない目で見つめてくる。
 ヴィルヘルムを拒絶しているそんな瞳なんか、いらない。
「宣言してやる。ロゼウス。俺はお前を―――絶対に逃がさない」
 そうして、無防備なその体に手をかけた。


138

 それは深紅の罪だった。
 深い、蘇芳の裏切りだった。

 鍵を外された鉄格子は僅かな風に揺られてきぃきぃと軋むように耳障りな音を立てている頃、クルスは一人の女性と共に城の外へと向かっていた。
「こちらです……ユージーン侯爵、こちらに抜け道があるんです……」
 牢番の女性、アイナの案内でクルスはシアンスレイト城の地下牢から脱出を目論んだ。クルスにかつて恩を受けたことがあるというアイナは、とにかくここから抜け出したいというクルスの言葉に躊躇いながらも頷いて、脱獄を手伝ってくれた。
「私にとって、侯爵閣下は恩人ですもの。いくらカミラ様の命令と言えど、侯爵がそんな酷いことをなさる方には見えませんもの」
 シェリダンを探しに行きたいと言ったクルスに、アイナは眉を下げながらそう言った。カミラから、クルスが逃出さないようちゃんと見張って置くようにきつく言われているらしい。
 なんでもクルスを逃がせば、それこそ国中が大変なことになるから、と。クルスはこの国における大罪人なのだから、と。
「ここから抜け道を使って城の裏手に出るの?」
「はい……ここを潜るんです。ちょっと泥だらけになりますけど、我慢してくださいね」
「ああ。大丈夫」
 アイナに鍵を開け拘束を解いてもらい、クルスは牢を脱出した。いったん牢屋から出てしまえば、後はどうとでもなる。より負担の少ない確実な脱出を考えれば案内役は必要不可欠だが、牢の見張りの男たちを殴り飛ばすくらいは朝めし前だ。
 イスカリオット伯に決闘で負けて屈辱を味わわされて以来、クルスは体術の方も鍛えることにしていた。それでもやはりイスカリオット伯爵には通用しなかったが、一般の軟弱な兵士程度ならクルス程度の格闘能力でも倒すことができる。
 見張りの男二人をぶちのめして、それからもどこかで警備の兵士に会うたびに問答無用で叩きのめして、クルスはアイナの先導につき従いながらシアンスレイトの外へと出た。
 彼女の教えてくれた抜け道は本当に抜け道と言ったもので、人目は少ないがそれ以外の苦労は拒む術はなかった。埃だらけの排気口の中を通り、食材を仕舞った木箱の裏に空いた抜け穴を利用し、途中でどこからか入手してきた薄いローブで身を隠しながらここまで逃げてきた。
 月が明るい夜だ。暗闇に狂気のような黄金が浮かんでいる。
 城の裏手の通用口付近、それも他の召使たちには見咎められないような森の木陰に入り込んだところで、ようやく息をつけた。戦場を駆けるのとはまた違った緊張感がある。
 擦れ違った料理人の一人がローブで身を隠したクルスを見て不審に思ったようだったが、アイナがクルスをさりげなく隠しながらにっこりと笑顔を向ければそれで信用したようだった。特別美しくもないこの牢番の女性は、その気性から王城の人々の信頼を勝ち得ているらしい。クルスはぼんやりとそんなことを思う。
 その話からもわかるように、クルスたちは途中、使用人たち用のまかないを作る厨房に立ち寄ってきた。そちらの方が、警備の人間に見咎められずに出入りできるのだと。部屋の隅の、食材が入った木箱の積まれた薄暗い場所を歩いたので、埃と泥だらけのこの姿も特に咎め立てはされなかった。
 これから戦うなら、できるだけ武器が必要になるだろう。途中で倒した警備兵から長剣を一振り拝借したけれど、それだけでは心許ない上に、応用力にかける。調理台の端の方に置かれていた小振りのナイフを一本、懐に隠し持った。
「ユージーン侯爵閣下、ここまでで良いのでしょうか……?」
「ああ。ありがとう、アイナ」
 本当に、彼女のおかげで助かった。他の道程はともかく、牢の鍵を開ける事はさすがにクルスでもできない。
「あ、あの。でも、ユージーン侯爵閣下、その……本当に大丈夫ですか? 私はよく知りませんけど、カミラ様はあなたを牢から出したら大変なことになるって、凄い剣幕で仰っていて……だ、大丈夫ですよね! ユージーン侯爵がそんな、国に酷いことなんてなさるわけありませんもの、それよりこれから――」
 彼女はどこまでも純粋な人だった。カミラの言葉を、額面どおりに受け取っている。
「アイナ」
 クルスは彼女の名を呼んだ。
「はい、なんでしょうか、こうしゃ……」
 アイナの言葉が途切れて、代わりにぽたぽたと液体の零れる音がする。地面には吸い込まれるだけのそれが、足元の草を叩いて弾くような音を立てた。
「え?」
 滴るのは紅い血。
 クルスが刺した彼女の腹部から流れる、蘇芳色。
「ごめんね」
「な……こうしゃ、く……ど……し、て……」
 脱獄を手伝ってくれたことには感謝している。けれど、彼女をこのまま生かしておくわけにはいかない。共に逃げることもできるわけがないし、彼女の口からクルスのことが知られるのは、少しでも遅い方がいい。
 それに。
「ごめんね。アイナ。ありがとう」
「な、なん……」
「この国への反逆者である僕としては、感謝しているよ」
 我が号は《反逆の剣聖》。
「え…………?」
 本気でわからないと言った彼女の瞳が、最期に大きく見開かれる。
 カミラがクルスについて言ったことは正しい。クルスを逃がせば、この国のために良くない。クルスはこのエヴェルシード王国への大罪人だと。
 何故ならクルスは、あくまでもエヴェルシードというよりシェリダンへ忠誠を誓った者だからだ。彼がこの国にとって良い王になるかどうかではなく、彼のためにこの国を捧げることこそが、クルスの望みだからだ。
 カミラとシェリダンのどちらがエヴェルシードにとって良い王であるかなど、クルスは知らない。けれどカミラがシェリダンから奪った玉座に座るというのならば、クルスはシェリダンを再び王位につけるためにシェリダンを手助けする。
 そのためならこの国に反乱の一つも起こして見せよう。それは決して、この国のためにはならない。他国への侵略はともかく、内乱など無駄に国民と財政をすり減らし疲弊させるだけだ。
 それでもクルスはシェリダンの臣下だから、あの方のためならばその道も選ぶ。
 シェリダンのために生き、国へ仇なす反逆者。
 この手はとっくに血に濡れているのだ。救った人間の数よりも、殺した人間の数の方が多い。
「そん、な……」
 クルスはその体から手を離し、縋り付いていた力も抜けたアイナの体が地面に滑り落ちる。鮮血の紅い花が辺りに散った。
「ごめんね……裏切り者で」
 狂気のような月に照らされたこの場は紅い舞台。
 あの月だってきっとここから見れば真ん円だけれど、そばで見れば歪な棘だらけの形をしているのかもしれない。遠くから見て期待をかけてくれたのは結構だけれど、クルスはそれに応えられはしない。
 だから、ごめんね。
 所詮この身はいつであっても、蘇芳に濡れた裏切り者――。
 

 《続く》