125

 黄金事変。

 帝政を造りたまいし神聖悲劇から三千年後。皇歴三〇〇三年晩春、ここに、アケロンティス帝国世界北大陸シュルト東方の王国、エヴェルシードは動乱の時期を迎える。
 欲しい物は力尽くで奪うのが道理として通る軍事国家で、それは歴史上類を見ない異例の事態であった。
 それまでのエヴェルシードでは女王が即位したとしても、いずれも短期間でその座を引き摺り下ろされるのが常だったという。男尊女卑傾向がある国家で、兄王が妹姫に玉座を奪われたというこの事変はいまだかつて、ただの一度しかありえない。
 その当時のことを知る者もすでにただお一人しかこの世になく、闇に葬られし歴史の裏側、今は昔の時の彼方に置き去りにされた真実たちは、あるいはいつか明るみに出る夢を見ることもなく、ただ久遠の眠りを貪るのみか。
 それでも我らがただ知るは、これらの事象の中には、今の時代を形づくる硝子のように脆く繊細な事実の欠片たちが息を潜めていることである。
 例えば今より四千年前のこの事変の中に、必ずその名を記されている人物がいる。
 エヴェルシード伯爵、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
 通称《狂気伯爵》と呼ばれる彼は、その名の通り狂気じみた振る舞いで近隣から恐れられていた。領地の民にこそ滅多に手を出す事はなかったものの、他国から買い付けた奴隷の扱いの酷さは、これまた歴史上に類を見ないものだという。
 ところでこの狂気伯爵ジュダ卿について、ある文書には興味深い記述が残されている。

 ……彼はエヴェルシード国王シェリダンにとって、たぶん、自国の貴族の称号を持つ貴族の中では、二番目くらいに信用されていた人物だったのだろう。ユージーン侯爵には敵わないけれど、主と臣下にしてはそれなりに気安い間柄であったはずだ。イスカリオット伯爵の奇行は国内外で有名だったけれど、それでも彼を重用するだけの理由が、シェリダンにはあったということなのだから。
 それにそういえば、俺が聞いた話では、イスカリオット伯爵はシェリダンの大事な懐刀の双子人形の元々の持ち主でもあるということだった。今はシェリダンの元で楽しそうに……むしろ俺にとってははた迷惑なくらい楽しそうに仕事に精を出す彼らは、元々はイスカリオット伯爵に買われてエヴェルシードにやって来た奴隷なのだと。
 シェリダンがイスカリオット伯爵と共にいる様子は、とても楽しそうなものではない。けれど彼が誰かを相手に無防備な表情を浮かべていることむしろ珍しいくらいで、だいたいの相手にはいつもそんな態度だった。無愛想でもなく素っ気ないわけでもない、けれど媚びることのない凛とした立ち姿で静に相手が自己の領域へ侵入するのを拒むかのような姿勢は、傍で見ている俺からも少々冷たく思うくらいだ。でも、だからこそ……

 実に面白いと言わざるを得ない。王妹擁立の謀反事件を起こした伯爵と、裏切られた王がそれほど気安い間柄であったなどと当時を知らない人間には誰が予想できようか。さらに後の研究者たちの興味を誘ったのは、この文書の作者自身の、シェリダン王への気安さである。
 一国の王の名前を呼び捨て他国の奴隷を小姓として使っていたなどの内情をあっさりと綴ったこの手記は、何の題も見つからずその執筆内容も定まっていないことから察するに、恐らく当時、誰かシェリダン王に親しかった人間の個人的な手記――つまりは日記なのだろうと考えられている。ただ残念なのは、それの後ろの部分が途切れた言葉を最後まで補わないまま、読めない字で書き殴られていることである。
 しかしその問題に関しては、後世の研究者がようやくその一部を解読した。
 それにはこう書かれているという。

 ……だけど、俺はそれを知っていたなら、なんとしてでも彼を止めるべきだったのだ。そう、例え殺してでも。
 それだけが俺の心残りで、当時の失態だった。殺しておけばよかった、あんな男。
 そうすれば、

 殴り書きどころか、この後は紙面自身が恐らく衝動的だろうと思われる乱雑さで破られている。この手記の作者は、一体その場所にどんな言葉を残そうとしたのだろうか。彼にとってシェリダン王とはどのような存在であったのだろうか。
 そして彼にとって、シェリダン王にとって、《狂気伯爵》ジュダ卿は、一体どのような意味を持つ人物だったのだろうか。
 これがエヴェルシードに今も伝わる家名持ち貴族の話であるならばそんな疑問もそれを追及する労力もいらない。しかし、エヴェルシード貴族、イスカリオット伯爵家はこの《黄金事変》が起きた三年後には、当主であったジュダ卿の死によりそのまま取り潰しとなっている。それもそのはずで、大貴族には極めて珍しいことにイスカリオット伯爵家は当時当主のジュダ卿を除くほとんどの人間が死に絶えていたのだ。
 その一族の滅亡理由こそが、ジュダ卿が《狂気伯爵》とあだ名されるに至った経緯でもあるという。
 卿が二十歳を数えるかどうかと言う頃に、彼は自らの一族を惨殺した。その一件で公爵から伯爵に降格されはしたのだが、ジュダ卿はそれ以来血の享楽に耽るようになったという。
 彼の人生に、その時果たして何が起こったのだろうか。
 惨殺事件を起こすまでは、ジュダ卿はどちらかと言えば温厚で理知的ながら武芸にも達者な秀才だったという。努力家の青年を変える何が、その時あったのか。
 そして、何故それから数年後、玉座にも権威にも興味のない堕落の狂気伯爵となったジュダ卿が、国王シェリダンに叛旗を翻したのだろうか。
 全ての真実は歴史と言う名の闇に埋もれ、我々は人の心が紡ぐものの中にそれを求めながら、今日もただ一つの答を探して彷徨うばかりである。

 「薔薇皇帝記」 第二章 裏切りの伯爵
 ――ルルティス・ランシェット


126

 視界は暗く閉ざされている。瞼を覆う布を取り払いたくても、腕が動かせない。
 いや、腕だけではない。手首は後手に縛られ、足首も固定されている。口元にも猿轡を噛まされて、声を出す事ができない。
 そうして、そんな無様な状態でどこかの部屋の床に転がされている。癪に障るのは、その床が粗末な石畳や土の上ではないということだ。この相手は、自らもそれなりの地位にあり、なおかつシェリダンのことも十二分に知っていてあえてこんなことをしているのだと改めて考えれば頭に来ないはずがない。
 その相手が部屋に入ってきた。隠す必要もない足音を耳にして、尚更苛立ちが募る。シェリダンはあえて何も反応せず、相手がこの目隠しと猿轡を外すのを待った。目元の軽い圧迫感が消え去り口の方でも呼吸が楽になると共に、腕を縛る荒縄を引きつかむようにして上体を無理矢理起こされた。
「おはようございます、シェリダン様」
 嫌味なくらいに……いや、間違いなく嫌味だろう、この状況にそぐわない清々しい笑顔でジュダは言った。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
 この国の伯爵であった男は、臣下のものとは思えない笑みを浮かべている。
「いい度胸だな。イスカリオット伯爵。国王である私を、このように扱うなど」
「おや? この状況でおわかりにならないのですか? ――シェリダン=ヴラド=エヴェルシード様。あなたはもう、国王ではないのですよ」
「――」
「今のこの国の王は、カミラ=ウェスト=エヴェルシード陛下です」

 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード、追放。
 カミラ=ウェスト=エヴェルシード即位。

 それが今現在のこの国の状況だと彼は言う。
 シェリダンは目を瞠った。
 あの時、王城に突然攻め入ってきた、紛れもなくこの国の兵。しかも指揮官は国民であるという以上によく見知った男で、そもそも体勢を整える暇もなかった彼らは、あっさりとその手に落ちた。
 その時にカミラの姿を確かに見はしたが、直後に意識を失ったので詳細はいまだ知らない。
「馬鹿な……カミラだと? お前はそもそもカミラを裏切って私を王位につけたのだろう。そんなお前を、彼女が信用するものか」
「御高察はもっともですが、陛下……ではないのでしたね、もう。シェリダン様は妙なところで純真ですね。人間と言う生き物は、自らの目的のためならそれがどれだけ蔑み忌み嫌っている相手だって利用できるし、一度裏切ったはずの相手とだって改めて手を組むことができるのですよ」
 頑是無い子どもを宥めるようにジュダは穏やかに言い、そうしてシェリダンの頬を撫でた。男の指に軽くおとがいを持ちあげられて視線が合い、その瞳に映る病んだ光の激しさにぞっとする。
「やめろ! 放せ! 私に何をする気だ! 王としての利用価値がないなら殺せば良かっただろう! 何故そうしない!?」
 迂闊だった。自分が愚かだった。
 イスカリオット伯爵の胡散臭さは本来のものだと、気儘すぎるくらい気儘に生きているこの男が今更誰かと手を組んでこのようなことを仕出かすとはよもや考えていなかった。
 だが、カミラと手を組んでいたということは、この男はもともと――何もかもを知っていたということではないか!
「何故殺さない、って?」
 ジュダは呆れたようにシェリダンを見る。可哀想なものを見るようなその目が、何よりもシェリダンには不愉快だ。
 目隠しと猿轡こそ外されたが、いまだに手も足も拘束されていて、自由に身動きできない。上体を引き起こして支えるジュダの手さえなければまたあっさりと地面に這い蹲ることになるだろう。あまりにもこの状態は不利だ。
 なんとか、何とかジュダの気を逸らし形勢を有利に持ち込まねばならない。
 彼を睨みながらそう考えていたシェリダンは、続くジュダの言葉に呆然とした。
「そんなもの、あなたが欲しかったからに決まっているじゃないですか」
「――え?」
 この男とは肌を重ねたこともある。
 ジョナス王の第一子、それに継承権の優先される男子であるとはいえ、シェリダンの母ヴァージニアは庶民の出で血筋の高貴さを引き合いに出されれば貴族の母、正妃ミナハークを母に持つカミラとシェリダンは比べ物にならない。即位前、世継ぎの王子でありながらシェリダンが持っているのはただこの身一つであった。
 何でもやった。玉座を手に入れるために。父の愛情が歪んだものでしかないと悟りきっていたシェリダンはその復讐だけを夢に見ながら、滅ぼすための国の王になるためになりふり構わず協力者を求めていた。
 シェリダンの母にもとより憧れを持っている人間は少なくなかった。元から平民でありヴァージニア本人と知り合いであるバイロンのような人間を除けば、王が自ら見初めて攫ってきた娘の美貌に、手が届かぬと知りながら邪な気持ちを抱く者は多かったのだ。
 シェリダンはいつからかそれを知り、慎重に相手を選んでこの顔で彼らを篭絡することを覚えた。母がシェリダンを産み、死んだのは十七歳頃。シェリダンは成長期途中の十五、六の時にはその母に生き写しであったから。
 男色など貴族の嗜みの一つ。
 だがそれを忌避する者も当然いる。だから誰彼構わず媚を売る事はなかった。慎重に相手を選び選び、それでもリチャードやクルスの助言を受けながら、着々と足場を固めた。
 ジュダはその固められた足場の一つ。
 八年前の事件がある以上、ジョナス王の治世下ではもう彼の再起は望めない。そんなこと望みもしない男ではあるが、彼にとっては父よりシェリダンが王についた方が都合がいいのだと。
 八年前の事件、そして五年前のエチエンヌとローラの双子人形事件以来顔を合わせる機会もさほどなかったジュダがシェリダンに協力を申し出たのは、どこからかシェリダンが貴族の協力を得るために身体を売っているという噂を聞き付けて来たのだと言う。即位を手伝ってやるからその身体を許せ、と。
 そのくせさして興味もなさそうな顔をして、この男はそう言った。
 それ以来、時々顔を合わせては求めに応じて足を開く日々。無事玉座についた頃にはもう国内で叛意を持つ輩は粛清し、以前関係のあった者たちで図に乗った発言をする輩もまとめて処分した後で、シェリダンが何をしようとさして興味もない飄々とした姿勢でいたからこそこのイスカリオット伯は残っていたというのに。
 玉座についてすぐに、臣下に異論を唱えさせない早さでローゼンティアに攻め入りロゼウスを攫って来た後も、ジュダとの関係を断ったわけではなかった。
 なのに何故今になって。
「どういう、ことだ」
「どう言う事も何も、言ったとおりの意味ですよ? 私はあなたが欲しかった」
「ふざけるな! ならばわざわざこんなことをする必要はないだろう! カミラを王位につけるまでして、何が目的だ!」
「逆ですよ、あなたが欲しいからわざわざカミラ姫に玉座を差し出したのです。あなたを私だけのものにするために」
 そう言った男の唇が近づいてくる。咄嗟に顔を背けることもできず、裏切り者の口づけを受けた。
「ん……んん!」
 噛み切れた唇から血の味が滴る。
 唇を噛み切ってやったジュダの方は、僅かに眉をしかめた。
「……そういう方とはまあ知ってますが、強情ですね、シェリダン様」
「あたり……まえだ!」
 シェリダンはジュダを睨むが、彼は一向に相手にしない。苛立ちが募る。何だ、何が起こっている!?
「いいことを教えて差し上げます。シェリダン様。あなたが聞くのを怖がっていらっしゃる事柄を――あの時城にいた者たちがどうなったかを」
 その言葉に。
 思わず肩が揺れた。
 シェリダンの動揺をあっさりと見抜いているだろうに何ら気にした風もなくジュダは告げる。
「ローゼンティアの王族たちは、かなり弱っていたようですがほとんどが脱出しました。銀廃粉まで使ったというのに、さすがにしぶとい方々ですね。双子人形とリチャードも一緒のようです」
 銀廃粉。吸い込み身体の内側に入れればヴァンピルを腐敗させるというそれ。あの時、王城の広間に投げ入れられたのはそれか。人間であるシェリダンにとってはただの粉でしかなかったが、彼らにとっては。……だがエチエンヌたちが共にいるのであれば、少しは。
「バイロン宰相を初め、政府高官はそのまま残留です。まあ、これから従わない者はばっさりと切り捨てていくのでしょうが」
 バイロンは賢い男だ。今ここで短慮を起こしてカミラに逆らい、自らの命を危うくするわけがない。それではシェリダンが戻って来たときに何の役にも立たないことなど、あの男ならわかるはず。
「バートリ公爵ですが、王城に来てあなたに会えなかった後、カミラ陛下の即位を認める様子もなく領地に引き返したそうですよ」
 では、エルジェーベトは無事なのだ。もっとも彼女がそうあっさりと殺されるはずもないが。
「ユージーン侯爵の身柄は、こちらで押さえさせていただきました。まあ、功労者は私ではなくカミラ姫ですが」
「なっ……! クルスがカミラに!?」
 負けた。あのクルスが? だが確かカミラはロゼウスの力によってヴァンピルの能力を手に入れたのだと。だとしたらそれも無理はなく……。
 とりあえず、彼は生きているようだ。
 そう考えながらもシェリダンは安心することなど到底できず、ジュダがもったいつけて最後に回したその相手の安否に関する言葉を待つ。
「そして、あなたの愛するロゼウス様は」
 ジュダが口元を嗜虐の嗤いに歪める。
 言葉を待つ間に緊張で、縛られた手足が酷く痛む。
「今回の簒奪の最大の協力者にして功労者である方――セルヴォルファス王ヴィルヘルム陛下に捧げられました」
 驚愕と内腑を燃やす憤怒。
 瞳は見開かれ目の前が深紅に染まった。

 ◆◆◆◆◆

「本当に強情だね」
 ロゼウスはそう言ってくる相手を強く睨み返した。
「せっかくだから、ロゼウス王子自身の口から素直な返事を聞きたいなって思ったのに」
「こうして無理矢理攫ってきて、縛りつけて脅すことのどこが素直な返事を聞くための手段なんだ?」
 手には銀の手錠、首にも銀製の首輪、その他にも魔力を封じる仕掛けがそこかしこに施してあり、ロゼウスは自由に動くことができない。
 さすがにロゼウスたち吸血鬼ヴァンピルと同じく魔族である人狼ワーウルフは、対ヴァンピル用の装備や拘束具の備えも万全なようだ。シュルト大陸内ではヴァンピルとワーウルフ以外の魔族は存在せず、お互いが最大にして唯一の敵である自分たちは、いつ敵対してもいいように影で相手の力を封じるように備えている。
 エヴェルシードでシェリダンにされた拘束のような、その気で破ろうと思えば破れる程度のものではなく、ロゼウスの動きを完全に封じる呪具の数々に焦りが募る。
 しかも、ここはエヴェルシードではない。
「ご協力ありがと。ハデス卿」
「どういたしまして。ヴィルヘルム王」
「ハデス……! お前……っ!」
 黒髪の少年が、無感動にロゼウスを見る。
 エヴェルシードで、ドラクルたちに協力していたのを見て以来姿を表すことのなかったハデスがそこにいる。
 冥府の王たる彼の魔術で、ロゼウスはエヴェルシードから一気に大陸北方の霊山、人狼の国セルヴォルファスへと連れてこられた。
 最後の記憶は、銀廃粉で弱ったローゼンティアの兄妹たちと、王城に攻め入る兵士たち。その筆頭に立つイスカリオット伯爵。
 そして、こちらに手を伸ばしたシェリダンの必死な姿。
 咄嗟に掴もうとした手は、ロゼウスを抱え去ったヴィルヘルムにより叶わなかった。すぐにハデスが現れて、ヴィルヘルムとロゼウスをこの国まで空間転移させた。
「何かいろいろと、言いたいことがある顔だね、ロゼウス」
「当たり前だ! 皇帝陛下の弟であるお前が、どうしてこんな……」
「そうだよ。僕は皇帝デメテルの弟だ。だからこそのこの行動だよ」
 久方ぶりに会ったハデスの瞳は、以前にも増して一層酷薄で澱んだ光を宿している。
「俺をエヴェルシードに戻せ! じゃないと、シェリダンが……っ!」
「エヴェルシード? ローゼンティアじゃなくて? へぇ。よっぽどシェリダン王に骨抜きにされたみたいじゃないか」
「ハデス!」
「僕がお前の言う事なんか聞くわけないだろ?」
 こちらが動けないのをいいことに、ハデスは床に蹲るロゼウスの頬をそっと撫でた。しかし刃のように鋭い爪の先が頬の肉を抉る。ぴりりと痛みが走った。
 ロゼウスの血に染まったハデスの爪は、銀緑のような不思議な色をしている。しかも、触られたときの感触が何かおかしかった。ロゼウスは気づく。
「その爪……違うな」
「ああ。ふうん。お前にはわかるんだ。――そうだよ。これは魔力を秘めた特別な爪。タルタロスの妖魔と契約を交わして手に入れた、特別なもの」
「何のために、そんなものを?」
「それは言えない。……けどそうだな、残念。せっかくこんないいものを手に入れたんだから、これでお前の後ろに指突っ込んで、中から内臓かき回してやりたかったよ」
 刃物よりも鋭いそれでそんなことをされたら、痛いどころの話ではない。いくらヴァンピルだって確実に死ぬ。
「悪趣味だなー、ハデス卿」
「お前に言われたくないよ、ヴィル。この前まで遊んでた人間の奴隷はどうしたんだ?」
「あー。目抉って、両手足斬りおとしたらうっかり出血多量で死んじゃってさぁ」
 人間って脆いからやだよなぁ、と、笑うヴィルヘルムの顔は、ロゼウスがこれまで見てきた誰よりも暗い狂気に満ちている。
 ロゼウスが関わった人たちは多かれ少なかれ、皆何か重たい過去を抱えていた。その過去に苦しみ、痛みに嘆き、そうして失ったものを埋めるためにゆっくり狂っていった。
 けれど彼は違う。
 違うのだ。
 何が、というのはまだよくわからない。けれどセルヴォルファス王ヴィルヘルム、彼は、今までロゼウスが出会った人々とはとにかく違う。
「ああ。でもそう言えば」
 灰色の眼が、好奇の光を湛えてロゼウスを見た。
「ロゼウスは不死のヴァンピルなんでしょ? だったらちょっとくらい、乱暴に扱っても大丈夫だよねぇ」
 気に入らない人形の手足を無惨に切り取る残酷な子どもの眼が、ロゼウスに向けられる。しかも、彼の眼は本気だ。本気で、その機会があったらロゼウスをばらばらにしようと考えている。
 まずい。イヤだ。そんなことされたら――。
 しかし救い主は意外なところから現れた。
「確かに丈夫だろうけどさ」
「あれ? なんか文句あるのか、ハデス卿」
「文句はないしむしろやっちゃえって感じだけど、ヴィルはそれだと困るんじゃない? ヴァンピルは出血に弱いから、手足斬りおとしたりなんかしたらロゼウス死ぬよ?」
 お前じゃ生き返らせることはできないだろうし、とハデスは続けた。それを聞いて、ヴィルヘルムはロゼウスを達磨にすることは諦めたようだった。
「ちぇー。じゃあ何して遊ぼうかな。せっかく長年欲しかったものが、ようやく手に入ったのに」
「まぁ……それは」
 衝撃が来た。
「がはっ!!」
 前振りもなく、ハデスがロゼウスの顔を蹴り飛ばしたのだ。頬に灼熱が走る。
「流血さえしなければ、この通り頑丈だけど」
「ちょっと! 顔蹴るなよハデス! 観賞価値が下がるだろ!」
「いいじゃん別に。どうせすぐに治るんだから。ほら、さっき僕の爪で抉ったところだって、もう癒えてる。これ、普通の人間だと三ヶ月は治らないよう呪いかかってるんだけどね」
 頬に痛みが走る中、ロゼウスはそんな悠長な二人の会話をぼうっとしながら聞いていた。
「あーあ。もういいよ、ハデス卿、用事終わったならとっとと帰れば?」
「帰るってどこに? 僕、もう姉さんと大喧嘩しちゃって皇帝領には戻れないけど?」
「……もしかして、セルヴォルファスに居座る気でいる?」
「文句あるの? 誰がここまで連れてきてやったと思ってる? 銀廃粉だって、僕のツテで手に入れたものだよね。イヤならまあ別にいいけど、そうすると僕は別の寝床を求めて、そうだなぁ、ロゼウスを探してるドラクル公なんかを頼りにしなきゃいけないよね。そうするとやっぱり、宿代代わりに情報提供は必要だろうし」
「ああもうわかったよ! 好きなだけここにいればいいよ!」
「ありがとうヴィル。で、ついでなんだけど魔力の補充をしたいから、ちょっと生贄三、四人ちょうだい」
「そんな簡単に集められるか!」
 ハデスはこの国に残る……ドラクルはロゼウスを探してる……二人は本気で協力し合っているというより、何か目的のために一時的に手を組んでる感じだ……それに、ハデスがいう生贄とは……
 断片的な言葉ばかりが頭に残る。
 ぐいと髪を引かれて無理矢理顔を上げさせられた。
「まだだよ、ロゼウス。まだ話は終わってない」
「……ハデス……」
 ロゼウスの髪を掴んでいるのは、ハデスだった。強く引き掴まれた髪がぶちぶちと音を立てて抜ける。頭皮に痛みが走る。
「お前は、なんで俺にそんな憎悪を向ける? どぅして、お前はいつもそんな目をして俺を見る? それに……」
 ドラクルがロゼウスを憎むのは仕方がない。ヴィルヘルムに執着されるのも、気色が悪いといえばそうだけど、まあわかる。
 けれど、ロゼウスとは直接関わりのないハデスに、ロゼウスはどうしてここまで憎まれているのか。こういう状況になる前に、ロゼウスはハデスに何か殺したいほど憎まれるようなことをしただろうか? まったく、覚えがない。
 それに不思議なのは、ロゼウスが彼と、彼として出会った初めのこと。
「お前はエヴェルシードで、カミラの命を狙ったあの庭園じゃなく、ちゃんとハデスとして顔を合わせたとき……シェリダンを助けろと言った。あの時はお前とシェリダンが親しいと思ったからそう気にも留めなかったけど……どうして、お前はわざわざ俺にシェリダンを助け出させた」
 ロザリーがシェリダンの叔父だと言うフリッツ=ヴラド氏の酒場、確か『炎の鳥と赤い花亭』とかいう場所で暴れていた時のこと。
 その時は必死で気にも留めなかったけれど、今考えてみれば、あの状況はおかしい。予言の力と高い魔力を持つハデスが、どうしてシェリダンに降りかかる危機を容易く見過ごし、しかも自分でどうとでもなるはずの状況で何故自らシェリダンを助けなかったのか。
 彼がシェリダンと敵対関係にあるというなら答は簡単だ。しかし、そうしたらロゼウスに彼を助けさせる意味もない。
 けれど、あっけらかんとハデスは答える。
「簡単だよ」
 黒の末裔に特有の、この世界の他の種族は持たざる稀有な黒い瞳が眇められた。
「お前に、シェリダン王を、お前たちにお互いに関して執着させるため。だって彼はお前の運命を握る鍵なんだから、彼と関わることでお前の運命は決まる」
「俺の、運命……」
 この世のどんな闇よりも深い闇色の瞳が、ロゼウスを射抜く。
「そうだ。薔薇王子。焔王をいつか喰らって覇者となる、それがお前の運命だ」
 ああ、そうか。彼は……。
「ねぇ、ちょっとハデス卿。あなたがどんな理由でロゼウスに執着してるかはともかくさ、それはもう僕のものなんだよ。気安く触らないでくれる?」
 ヴィルヘルムの言葉により、ハデスはロゼウスの髪から手を離した。突然身体を支える手を失って、ロゼウスは情けなく床に倒れ付す。
「ま、いいさ。……じゃ、ヴィル、生贄のことよろしく。それじゃ僕は行くから」
「はいはい。部屋ね。案内させるから、ちょっと待っててってば」
 拘束されたロゼウスを残して部屋を出て行く二人の少年のうち、黒い髪のハデスの背を、ロゼウスは湧き上がる複雑な感情を抑えきれずに見送った。


127

「――で、結局あなたは何を企んでるの? ハデス卿」
「企むなんて人聞きの悪い……だいたい、人間誰だって少なからず、いつでも悪巧みしているものじゃないか」
 ヴィルヘルムの問いかけにハデスは笑う。
 見た目こそ自分たちは同い年やその辺りに見られるが、ハデスの今の姿は仮のもの。本当は何十年も生きているこの身からすれば、セルヴォルファスの十六歳の少年王などまだ赤子のようなものだ。
 けれどその赤ん坊は、生意気にもこちらが思ったより達者な口で言い返してくる。
「そうかな。確かにそうかもね。ハデス卿。人間いつだって小さな悪巧みをしている。でもあなたは違うでしょう? あなたが動いているのはいつだって、小さなことなんかじゃない。たった一つの目的のためだよね」
 ハデスは顔から笑みを消した。
 岩肌の直接見える山を、一つまるまる削って城にしているセルヴォルファス城。人狼族は数が少なく居住する国内がどこもかしこも深い森であり荒野でありこの岩山のような状況だけに、王城にほとんどのワーウルフは住んでいる。
 人手はいくらでもあるはずなのに、案内を呼ぶと言ったはずのヴィルヘルムが自分でハデスを案内しているのはこの話をするためか。
 エヴェルシードとは違って何の装飾もなされていない無機質な岩壁の廊下を歩きながら、前を行くヴィルヘルムは背後を歩くハデスを振り返りもせずに告げてくる。
「ロゼウスは、俺のだよ」
「ああ。知ってるよ。それでいい」
「じゃあなんであなたは彼に構うの? 彼は俺のものだって言ってるだろ? どうしてまだ彼についている」
「見届けるためさ」
「見届ける?」
 ようやく立ち止まり、怪訝な顔で振り返ったヴィルヘルムにハデスは先ほどとはまた違った笑みを浮かべた。
「そう、彼が壊れるところを」
 ハデスの目的のためには、ロゼウスの存在は酷く邪魔だ。どんな手段を使っても殺しておかねばならない相手を殺すのに、目の前の相手は酷く都合が良い。
 どれだけ唆してもシェリダンは動かなかった。やはり、彼の役割を考えるとどんなにその愛憎を極めたところで彼がロゼウスを殺すのは無理なのだろう。
 だったら別の手を使うだけだ。ヴィルヘルムはその役目にうってつけだった。ヴァンピルと同じく、身体能力の高いワーウルフ族の長。ロゼウスにとっては彼もまた運命の歯車の一人であるから、否応なく巻き込まれるのはわかっていた。そのくらいならいっそ自分が利用してやろうと。
 悔しいことに、ハデスの力ではロゼウスを殺せない。それはわかっている。そしてそれを、ロゼウスに知られるわけにはいかない。
 幾ら魔力を持っているとはいえ、黒の末裔の身体能力はあくまでも人間のそれ。ドラクルといいこのヴィルヘルムといい、強靭な力を持つ性格の歪んだ人外たちとつきあうのは、ハデスにとっても一種の賭けだった。
「壊れるところ、ねぇ。それは俺に、彼を壊すことを期待しているわけ?」
「そうだよ、ヴィル。執着と言っても、何も愛情だけとは限らないだろう? その逆も十分あるということさ」
「ロゼウス自身も言ってたけどさ、あんたなんでそんなに彼が憎いの? 一体あんたたちの間には何があったの?」
「何も」
「何も? って……」
「何もないよ。その答じゃ不満か? セルヴォルファス王ヴィルヘルム」
 少年王は、少し考えるような間をおいた。
「……いいや。別に。俺は俺の目的さえ叶うなら、人の考えなどどうでもいい」
「そう。……いい子だ、ヴィルヘルム」
 ハデスは魔力を持った爪が生えているのではない方の手のひらで、ヴィルヘルムの頬を撫でた。身長が同じくらいだから、視線はちょうどかち合っている。ヴィルが顔を歪めた。
「なあ……あんた、何を考えている?」
「お前には関係ないんだよ」
「そう。関係はない。でも知りたいね。俺だってあの頃エヴェルシードにいたことで、カミラ女王のエヴェルシード王位簒奪に関係したっていうリスクを負っているんだ。いつまでも蚊帳の外はムカつくね」
「簒奪のことなら、カミラ姫とイスカリオット伯がなんとかするだろう。君に被害はかからないよ、セルヴォルファス王。それに、なんだったらこの帝国宰相ハデスの名前で、各国に圧力をかけてもいい」
「そこまでしてロゼウスを殺したいんだな」
 ヴィルヘルムは、まだハデスの態度に不審を隠そうとはしない。
「大丈夫だよ。ヴィル。君がロゼウスを繋ぎとめている間は、僕が君の元からロゼウスを奪う事はない」
「それならいいけど」
 ヴィルヘルムの気になりどころはそこだったようで、彼は少しだけ安堵の息をついた。
「ところで、皇帝陛下の方はいいのか? 敵対してるんだろ?」
「ああ、姉さん?」
 ハデスは脳裏に、エヴェルシードで衝突した後正式には顔を合わせていない姉の姿を思い描いた。黒い髪に黒い瞳。ハデスにそっくりな顔立ち。当たり前だ、同じ父母を持つ姉弟なのだから。そして更に言えば、ハデスのこの容姿は姉デメテルを基準に、その弟らしい顔立ちになるように調整されている。
「今は皇帝の仕事も忙しいだろうからね。それ以前に、あの人は基本的に面白い事が好きなだけの愉快犯だから。あの人の興を削がなければ、何をやったって構う事はない。だからエヴェルシードがドラクルの唆しでローゼンティアに攻め入っても皇帝からのお咎めはなかったんじゃないか」
「ふうん」
 そんなものか、とヴィルヘルムは頷いている。
 そしてふと顔を上げ、ハデスの目を見つめてきた。
「あのさぁ、ハデス卿。俺はこれでもあなたには感謝してるわけだよ」
「何? 突然」
「あなたがこの国のことについて、あらかじめ予言で教えてくれたから俺は今国王の座についている」
「ああ。でもあれはもともと、そういう運命だったというだけの話だからね。ねぇ、第二十六王子ヴィルヘルム」
 彼の即位前の称号で呼ぶと、途端にヴィルヘルムは嫌そうな顔をした。
 感謝なんて、するだけ無駄なのだ。所詮はヴィルヘルムも、薔薇の王子にまつわる一つの物語、一つの歯車に過ぎないのだから。彼がロゼウスと関わるよう下準備をしたのは確かにハデスだが、そのことがなくても彼はロゼウスに関わるはずだった。
 ハデスの発言は、彼に十分本来彼が持っている敵意を思い出させた。
「まぁ――確かに、俺はあんたたちとは違うからな。あんたとも、ドラクルやイスカリオットとも。あんたたちみたいに《可哀想な》過去を持ってて、そのために足掻いているわけじゃない」
「そうだね、君はむしろ、何も持っていない状態から今の地位を手に入れたんだもんね。第二十六王子様」
 重ねて言えば、ヴィルヘルムの顔がさらに不愉快そうに歪んだ。
 俺はお前らとは違う。
《可哀想》な人になんか、ならない。
 彼の顔にははっきりとそう書いてある。けれど、この後の彼の運命は……
 むしろ、それを阻止するためにもヴィルヘルムには頑張ってもらわねばならない。シェリダンができなかったロゼウスの殺害を、彼にこそかなえてもらわなければ。
「ま、せいぜい頑張りなよ、ヴィルヘルム。何も持たない王子様。ようやく全てを手に入れた王様。その手に入れたものを、これから失わないようにね」
「――わかってる!」
 ハデスは案内役の彼を置いて、一人で城の廊下を歩き出した。

 ◆◆◆◆◆

 やっと、やっと、やっと、手に入れた。
「あっ……くっ……!」
 白い腕が敷布を掴む。きつく爪を立てて、身体中を弄ばれる感覚に耐えている。
「はっ……も、やめ……!」
「やめると思いますか? 何のために私があなたを、こんな策まで弄して、ドラクル公やカミラ殿下まで使って手に入れたと思っているのです?」
 汗ばんだ藍色の髪が乱れ散る。しどけない肌を汚すのは、ジュダがつけた無数の赤い痕。何度も開かれては生理的な涙を零し、またきつく閉じられる朱金の瞳。
 美しい、この上なく美しい少年。その至上の美。
 ロゼウス王子のような、妖艶さで万人を惹き付けるような、そう言った色香ではない。顔立ちは確かに亡き母君に生き写しであるとの噂どおり女顔ではあるが、凛とした立ち姿や肩幅に手足の様子などは、無論女のそれではない。
 むしろ鍛えている分、そしてヴァンピルなどと違って蓄えた分の筋肉が素直に身体につく分引き締まった体つきと言える。
 それでも彼は美しい。
 少女のような美しさと言うわけではない、この年頃の、子どもと大人の境界にある者に特有な不安定な色香。間違いなく少年であり、少年であるからこそ魅惑的なその造型。
「う……うぅ……」
 白い喉をのけぞらせて喘ぐ姿は、ジュダの嗜虐心をくすぐる。これで本人は無意識だというところが何より恐ろしく魅力的だ。
「シェリダン様」
 名を呼べば、それまで苦痛と快楽に濡れていた双眸が急激に強い光を取り戻す。
「ジュダ……貴様!」
「この状態で、そんな顔をされても無駄ですよ。元国王様」
 わざとらしく元を強調してやれば、ますますその美しい顔立ちが歪んだ。けれど元が整っているために、そう大きく崩れたりはしない。むしろ引き結ばれた口元が、真っ直ぐな線を描く柳眉が、そして鋭利な刃物のような光を宿す瞳が、彼の感情の昂りと共に色鮮やかさを増す。
 ジュダはその尖った顎を指先で掬い上げると、今にも高貴な身分も何もかなぐり捨てて口汚い罵り言葉を吐き出そうとした唇を奪う。
「ん!」
 柔らかな唇を啄ばみ、口腔を蹂躙する。逃げる舌を追い絡め、唾液を飲ませるようにして奥へと追い込んだ。
「んーっ!」
 呼吸が奪われて苦しいのか、両手を突っ張りジュダの胸を押し離そうとする。その感覚が切羽詰る頃になってようやく、ジュダは唇と顎を支える指を彼から離した。
「けほっ、かほっ」
 あまりにも執拗で乱暴な接吻は快楽よりもただ苦しさだけをもたらしたらしく、唇が離れた途端シェリダンは咳き込んだ。初めてというわけでもあるまいに、なかなか初心な反応だ。
 涙目になるかつての主君に、ジュダはその矜持を煽るように問いかける。
「どうです? 大人の接吻の味は」
 呼吸困難になりかけて派手に咳き込んだため紅潮した顔で、彼はジュダを睨む。
「お前……今までこんなこと……」
「そりゃあ、王城であなたのお相手をさせて頂いた時は一応主君であるあなたを立てていましたからね。丁寧に丁寧にお相手させていただきましたよ?」
「あれでか」
「あれでです」
 シェリダンがまだ国王としての地位にいたときも、その前に王子であったときも、ジュダは彼に協力する見返りに彼を抱いていた。
「他に引き渡せるものを持たず、今更金銭や権力などで動かない道楽有力貴族を陥落するために、その身をわざわざ差し出すあなたはひたすらにいじらしかった」
 そう告げて見せれば、シェリダンの顔はわかりやすいほどに屈辱と憎悪へと歪む。ジュダへの嫌悪と憎悪。なんて、心地よい。
「ああっ!」
 油断していた胸に指を伸ばし、さんざん弄ってすっかり熟れた赤い飾りを抓った。初めは強く段々と強弱をつけて、押しつぶすようにしながら愛撫すると悲鳴とも嬌声ともつかぬ声が可憐な唇から漏れる。もう片方へと顔を近づけ、口に含んでやわらかく噛むといっそう甘い声が漏れた。
「ロゼウス相手では上に回れても、あなたはやっぱりこちらの素質十分ですよ?」
 わざと酷い言葉を選んで投げつける。わざと、彼が耳を傾けざるを得ない名前を出してその気を引く。
「言うな……」
 案の定シェリダンは誘いに乗ってきた。
「お前が、その名を、口にするな」
 そんなことは許さないと燃える瞳が告げるのに冷笑で返した。
「今のあなたに、どんな権利があってそんなことが言えると?」
「……ひ、あァ!!」
 油断していた下肢に手を這わせ、さんざん刺激を与えられて緩くたちあがりかけたものを強く握ると、抑えきれない苦鳴が聞こえた。
「あ、ああ、あ!」
 いくら口では強がろうとも、ここを直接弄られてはその快感に抗えるわけもない。
苦痛から徐々に快楽へと変わるように、強く弱く、丁寧に弄ぶ。
尖る息、紅く染まった頬、段々と虚ろになりゆく目。
「ひ――っ」
 追い上げられて、絶頂に達した身体がジュダの腕の中で痙攣する。手の中に吐き出された白濁を、見せ付けるように目の前で舐めて見せた。
「お、まえ……」
「言ったでしょう?」
 一度は起き上がりかけた身体を、また体重をかけて寝台へと押し戻し張り付ける。行為を始めてからは外した拘束用の手錠を、もう一度取り出す。
 カチリと残酷な冷たい音は響いて、金属の腕輪が少年の手首を飾る。その動きを奪い、その冷たさで持って絶望を突きつける。
「ねぇ、シェリダン様」
 後ろ向きに座らせ、膝の上に彼を乗せながら尋ねた。
「ロゼウスとはどんなことを?」
 筋肉こそついているとはいえまだ成長途中の身体、ジュダから見れば十分に細く頼りない。
「どんな……?」
 荒い息をつくその耳元に囁きかけ、片手で髪を掻き分けて表したうなじを唇でなぞる。
「あっ……!」
「ロゼウスとは、どんな風に楽しんだんですか? 彼相手だと、あなたが上でしょう? あの細い身体を弄んで、一時だけでも自分が男になれたような、甘い幻想でも見ましたか?」
 背筋を辿り、降りていく。彼の白い背中には、はっきりと紅い鞭の痕が刻まれている。
 これは破滅の刻印なのだ。
 お可哀想なシェリダン様。あまりにも母親に似た容姿のために、七歳から国王たる父親の慰み者として生きてきた。
 実の父であり、この国の最高権力者であった男の悦楽は歪んでいて。息子の白い肌を残酷に鞭打ち続けることで彼は快楽を得ていたのだと言う。
 無惨な傷痕の一つに口づける。滑らかな紅い軌跡を辿るその様子に悪寒を覚えたのか、膝の上でシェリダンが叫ぶ。
「やめろ! 私に触れるな!」
「今更ですよ」
 相当焦っているらしくどう考えても合理的ではない台詞を吐く少年を心底可愛らしいと思いながら、その愛らしい面をどれだけ残酷に引き裂くかだけに意識を集中した。
「ん!」
 顎を捕らえこちらを向かせると、その口に無理矢理指を突っ込んだ。そのまま唾液を掬い取るように、口内を荒らす。
「かはっ、けほっ」
 また咳き込んでいるシェリダンを余所に、ジュダはその腰を軽く浮かせた。指先を後の蕾へと滑り込ませる。
「――っ」
「力、抜いてくださいね?」
 子どもに言い聞かせるように囁いて、指を一気に押し進める。
「うっ……」
「だから力抜いてくださいってば、今更でしょう? 痛い思い、したくないでしょう?」
 そのまま彼の良い部分を探ろうと、指を蠢かせる。中をかき回し、卑猥な水音を立て、内壁を擦る。
「アッ!」
 ある一点をつくと声音が変わるのを知って、そこばかりを刺激し続ける。
「あっ……ヒァ、あ……ああっ、あ!」
 そろそろ解れたかと、本数を増やした指を飲み込む蕾を眺めながら、自らのものを取り出してあてる。
「や、めろ……」
「そんなこと言える状況ですか? ご自分の方が辛いくせに」
 すんなりとジュダのものを飲み込んだくせに、今更そんな虚勢をはるだけ無駄だろう。
「楽しませて、くださいよ。このまま永遠に、ずっと」
 そうして、若い身体を思うがままに引き裂いた。
「あああああ!」


128

 何故、こんなことになっている。私は、一体、どうして。
「ぅ……」
 渇いた喉で呻けば、引き連れるような痛みが走った。血を吐きそうな痛みを堪え、必死に唾液を飲み込んで潤いを取り戻そうとする。
「……は……」
 視界は暗い。室内には闇が降りている。シェリダンの身体はどうやらやわらかな寝台の上にあるようで、ここは……。
 思わず考え込みそうになる頭に、腰の痛みが現実を訴えてくる。
「そう、だ……私は」
 思い出した瞬間、ざっと血の気が引いた。起こした上体は背後の枕に戻るのではなく、前のめりになって爪を毛布に食い込ませる。発作的に込み上げた吐き気を、何とか堪える。
 体勢を変えたことにより、どろり、と内股から白濁の液が伝った。その生々しい感触と、今も局部を苛み続ける疼くような痛みに、目の前が夜だと言うだけでなく暗く染まる。
「あ……」
 酷く喉が渇いていた。
 何か飲む物はないのか。これまでは望めば何でも手に入る国王の地位にあったというのに、今は水の一杯すら自力では手に入れられないこの有様だ。
 急速に覚醒した意識が、見たくない現実を突きつける。身動きした際にするはずの衣擦れは裸の身体では起こるはずもなく、その代わりにしゃらりと足首につけられた鎖の音が鳴った。
 玉座について以来、鎖で繋がれるようなことなどなかった。というか、大抵の人間は鎖や手錠、足枷で拘束されるようなことはない。シェリダンがそんな経験があるのは、ひとえに狂った父親の狂った遊戯に付き合わされた幼少の頃の記憶のため。
 もっとも、特定の人物に対しては容赦なくそれを行ったシェリダンが批難するのも滑稽なことだ。シェリダンがロゼウスにしたことも、到底赦されるはずはない。ただ、シェリダンは赦されることを望んでいるわけでもなかった。そんなものはどうでもいい。シェリダンはかつて彼が父にされたことを未来永劫赦さないと誓い、復讐を実行した。赦さないのだから赦される必要もない。だからロゼウスにもシェリダンをただ憎めば良いと。
 そして今、これをなした人間も、同じような思考だろう。
 赦さない、絶対に。
 だから赦される必要もない。
 相手がそう思っているのなら無駄だと、誰よりも自分がよく知っている。一方的な執着一方的な憎悪。この世で何よりも怖い感情は、それが一方的であることだと思う。
 しかし人は他者と心を通わせるなんて思いもしない生き物だから。
 こうして簡単に相手の心など切捨て、容れ物だけあればいいのだと偽りの獲得に酔いしれる。
 足首に嵌められた頑丈な枷に、忌々しいという感情が芽生えた。
 ジュダは今ここにはいない。
 この身を犯すだけ犯してさっさと放り出した男は、シェリダンを一体どうしたいのか。カミラによる王位の簒奪が成功したならさっさと先王であるシェリダンを殺せばいいというのに、あの男はそれをしなかった。
 ジュダ。イスカリオット伯爵ジュダ卿。
 彼は私が欲しいのだという。
 なんて趣味が悪いのだと嘲笑ってしまう。このヴァージニアの美貌を受け継いだ見た目に騙されて勝手にシェリダンの偶像を作りあげた他人ならいざ知らず、誰よりも近くでシェリダンを知っていたはずの彼が。
 もう滑稽すぎて、涙も出ない。国の王位を揺るがすほどの裏切りを、あの男が起こした理由はそれか。泣けてくるのに涙は出ない。零れたのは、渇いた笑い。
「くっ……くっくっくっく。ははははは」
 涙など出てこない。
 ジュダのために泣きはしない。そんなはずはない。だから頬を濡らすコレは、ただの雨水だ。部屋の扉が閉ざされ窓が硬く封印されていようとも、ただの雨の滴なのだと。
 自分はいつからあの男を変えた。
 配下にと組み込む前、出会った回数はさほど多くない。ジュダがあの事件を起こした後、一族の者の誰かの墓参に来ていたときと、エチエンヌとローラの事件のとき。
 特に、拘るようなことはなかったはずだ。あのジュダが血迷うようなことなんて。
 私が覚えていないだけか? だとしたら……やはり彼は滑稽だ。当事者の記憶にすら残らない曖昧なもののために、自らも危ない橋を渡り。
 後処理もせずにさっさと部屋を出たらしい男を胸中でさんざん罵っていると、前触れもなく扉が開いた。
 寝台に上体を起こしていただけで、何も疚しいことはしてない。むしろ、足首の鎖のせいで、そんなことはしたくともできない。
 それなのに、そうしてノックもなく扉を開けられると動揺してしまう自分がいる。本来ならその前にノックもなしに入るとは無礼だと責めるべきなのだろうが、ジュダの意図は明らかだ。予告をしてシェリダンが何か脱走準備でもしていた時にそれを隠されては困る、と。前触れもなく部屋に入ることで反撃の準備を未然に封じるそれは一つの監視なのだ。
「どうしたんですか? いきなり笑い出して。外まで聞こえましたよ」
「なんでもない。ただお前が愚かだと思っただけだ」
「そうですか。それは結構なことですね。湯殿の用意ができましたので、お連れしに来たのですが」
 何が結構なものか、あからさまに投げ遣りかつ適当にシェリダンの言葉を流したジュダは、その手に新たな拘束具を持っていた。
 単純な形の手錠だが、一度嵌めると中々開けられない仕組みのものだ。それを容赦なく、シェリダンの両手首に嵌める。
 寝台に固定されるならともかく、こうして両手首を一まとめにされると、自分が罪人にでもなったような気分になる。確かにシェリダンは間違っても清廉潔白という言葉とは馴染みがないが、だからと言って、ジュダに対して何かをした覚えはない。
「……ジュダ」
「どうせ歩けないでしょうし、連れて行ってあげますよ」
 言葉をかける暇さえ与えられず、ジュダはシェリダンの足枷を外し、裸体にそのまま毛布を巻きつけると首の後ろと膝下に腕を差し入れて一気に抱き上げた。
「ま、きついのは我慢してくださいね」
「……誰が」
「しなくても別に構いませんよ。どうせ状況は変わりませんから」
 あっさりとそう言い放ち、シェリダンを抱えたまま彼は歩き出す。いまだ痺れている体は、彼が一足ごと歩くたびに伝わる振動だけでも酷く辛い。随分乱暴に扱ってくれたようだ。
「ジュダ、お前……」
 再度。
 かけようとした言葉は、他でもない相手の男の口づけにより封じられる。
 ただ啄ばむだけの、軽い口づけ。言葉を奪い反論を許さない、そのためだけの手段。
 なのにそれは何故か優しかった。
「……口なんて開かない方が、言葉なんて交わさない方があなたのためですよ?」
 子どもに言い聞かせるように、ジュダは告げる。
 実際二十七歳の貴族の青年からして見れば、十七のシェリダンなどただの子どもでしかないだろう。ただの子どもでしかないシェリダンに、何故彼は。
 無駄なのに、何をやっても。お前が私を欲しいと言っても、私が欲しいのはお前ではない相手だ。そんなものでもいいのかと。
 シェリダンは少なくとも嫌だった。自らの想う相手に別の想い人がいると知った時、さんざん痛めつけて泣かせた。どれほど望んでもその相手は振り向かない。これほどの屈辱はない。その目が自分以外の誰かを見ている。これほどの孤独はない。
 お前は、そんなもので満足なのか?
 聞いてみたいはずのその問いを、口に出すことさえ封じられて言葉は喉の奥で死んでいく。巡る想いは還る場所を知らないまま、シェリダンは脳裏で、今シェリダンを抱くのではないただ一人の面影のみを求めた。
 蒼い髪ではなく白銀。橙色よりも濃い、血の色そのものの深紅を。
 ロゼウス――。
 この状況ではどうやら探しに行くこともできない。お前は今、どうしているのかと。

 ◆◆◆◆◆

 何故、そんなところで燻っている。
(誰……?)
 頭の中で誰かが囁いた。苛立たしげな舌打ちさえ聞こえてきそうな、その声音。忌々しそうで、怒っているようで、なのにどこか哀しそうで。
 俺は早くあの人のもとに行きたいのに、今度こそ本当にあの人を手に入れたいのに、どうしてお前はこんなところにいるのだと声は責めてくる。
 一体なんでそんなことを言われなきゃならないんだ? ロゼウスは首を傾げ……たわけではないけれど、気分的にはそんな様子だった。わからない。この状況が全くもってわからない。
 そこは夢の中だった。
 いつか見た夢。
 目を開けようとすると、実際に瞼が開くのではないけれど視界がはっきりするような感覚があって、目の前が闇から透明に開けた。
 涙の湖底。
 それはいつか見た夢。
 けれど以前と違うのは、そこに誰かの姿があることだ。
 ――お前は自分の涙で溺れている。
 ロゼウスにそう突きつけた声の相手。
 その声の主は自分だった。だから今度も。
 目の前に同じ顔がある。白い髪も紅い瞳もロゼウスと同じ。
 けれど、どこか違和感を覚えた。
 ダレ?
 お前は……誰だ?
 人影はにこりと笑った。無意識に鏡を覗きこむように同じ仕草で腕を伸ばしお互いに腕を絡める。相手の微笑が、困惑するロゼウスの瞳に映る。
 俺はお前だよ、薔薇の吸血鬼。そしてお前は俺だ。
 相手はそう告げるけれど、ロゼウスは違和感を拭えない。
 誰。
 お前は誰だ。
 俺はお前など知らない。
本能的な恐怖に駆られそう言うロゼウスを相手はますます楽しそうな笑みを浮かべて、けれど残酷に告げた。
 いくらそんなことを言ったって、お前が俺であることは変わらない。だから。
 
 いつかお前の、その身体をもらうよ。

 身体の内側で心臓が音を立てて跳ねる。
「――――っ!」
 飛び起きると、全身がぐっしょりと汗をかいていた。隣にいたヴィルヘルムが怪訝そうに声をかけてくる。
「ロゼウス?」
 ロゼウスは、自分の身体を抱きしめた。

 ◆◆◆◆◆

 時間だけが過ぎていく。
 ――いつかお前の、その……
「あっ!」
「何考えてる?」
 後から髪を掴まれて顔を引き寄せられる。痛みに、思わず呻いた。
「ヴィ、ル」
「最中に別のこと考えるなんて、やけに余裕じゃん? それなら、もっともっと、理性なんかどろどろに溶けるほどよくしてあげよっか?」
 ここに連れて来られて以来、毎晩ヴィルヘルムに抱かれている。ワーウルフによるヴァンピル封じは万全で、どんなにしても逃出すことができない。
「今日も脱走しようとしたんだってね、ロゼウス。どうしてそういうこと考えるかなぁ」
「どうして、も、何も、当然だろう? 俺は、お前に無理矢理ここに、連れて、来られたんだから」
 脱走を試みるのは当たり前だ。ハデスの魔法で一瞬にして連れてこられた、大陸北端のセルヴォルファスから東部地域のエヴェルシードへ向かうのは徒歩では絶望的な距離だが、それでもロゼウスはいつまでもここにいるわけにはいかない。
「俺をエヴェルシードに帰せ、ヴィルヘルム」
「嫌に決まってるじゃん」
「俺は、戻らなきゃならないんだ」
「だから嫌だって。ロゼウスが俺を好きになってくれればいいだろ?」
 二人の会話はいっこうに噛み合わない。どこまで行っても平行線だ。
「ねぇ、あの時はハデス卿に邪魔されたけどさ、本当に言う気はないの? ……誓ってよ、ロゼウス王子。俺の物になるってさ」
「誰が……あっ!」
 寝台の頭の方に鎖で両手を拘束されたロゼウスにのしかかりながら、ヴィルヘルムは頑是無い子どものようになんどもそう繰り返す。
 それを拒絶し続けるロゼウスの裸の胸に、彼は一度鞭をくれた。
「ああ。ローゼンティア人の特徴だけど、肌が白いからよく映えるよね」
 激痛と共に、赤い痕が残る。灼熱感が傷痕を追うように沸いてきて、ロゼウスはたまらず身を捩った。
「ねぇ、言ってよ。このセルヴォルファス王ヴィルヘルムのものになるってさ」
「誰が……っ!」
 ロゼウスは痛みを堪えて首だけをなんとか起こし、鞭を持って立つヴィルヘルムを睨んだ。
「絶対に言うもんか!」
 少年の灰色の瞳が冷たく細まる。
「うぐっ!」
 また一度鞭を振るうと、ヴィルヘルムはそれを床に放り捨てた。代わりに、寝台脇のチェストの引き出しに入れておいた、錠剤と液体の薬品を取り出す。
 ロゼウスは弱気な顔を見せないようにしながらも、内心では戦々恐々としていた。それはもう何度も使われていて、見覚えがある。
「どうしても言ってくれないんだね。じゃあいいよ。またこれ使っちゃうから。その威力、身を持って知ってるくせにね」
 錠剤を口内に押し込まれ、そのまま口を封じられた。吐き出そうと試みるも、ヴィルヘルムはロゼウスがそれを嚥下するまで手を離さない。最後は飲み込んでしまうことになるその様子を見届けてから、今度は液体を自らの手に取った。たっぷりと指に絡めて、淫靡な舌なめずりをする。
「ああっ!」
 前触れもなく後ろに指を突っ込まれる。強張ったその場所を、薬品を塗りたくった指で彼は強引に解し始めた。
「ヒッ、あ、痛っ……ぁ、ああ!」
「ふん。なんだよド淫乱。こんなこと、本当は慣れきってるくせに」
 快感を刺激する場所は探さず、ただ本当に指でかき回して中を緩ませてからヴィルヘルムはようやく指を抜いた。疼き続ける胸の鞭打たれた痕とは別の熱を持つそこを放り出されて、荒く息をつくロゼウスの、今度は前へと触れてきた。
「ヒァっ!」
 ただ、先端に指が触れただけ。それだけで、凄まじい快感に脳が揺れる。
 先ほど飲まされたのは媚薬。飲まされたものも、後に塗られた軟膏と液体の中間のようなとろりとした薬品もそうだ。
「うあっ、や、やめっ……ん、んぅ!」
 ガッと乱暴につかまれ扱かれると、言葉にならない切れ切れの呻きだけが漏れる。
「あーあ、一人で乱れちゃって」
 ロゼウスの様子を冷たく見下ろして、ヴィルヘルムは薄っすらと微笑んだ。
「いいよ。もう、溺れて、乱れて、狂ってしまえばいい。お前なんか壊れてしまえばいいんだ。俺のものになる気がないなら、こっちで勝手に、その身体の隅々まで犯すからサァ」
 また液体を手に取り、それを刷り込むように卑猥に乱暴にロゼウスのものを弄ぶ。耐え切れずに出したものを顔に受けて、それでも狂的に笑っている。
「ああ。残念。再生能力の異様に高いヴァンピルじゃなければ、とっくにクスリに依存して廃人になってる頃なのにね」
 心などいらないと、彼は言ったとおりにするらしい。ハデスとは四肢切断の話などしていたし、一体どういう悪趣味だと疑う。
 心……相手の心なんて、いらない。
 かつて同じような言葉を口にした少年を思い出す。朱金の炎色の瞳を強く燃え上がらせて、でも寂しげに俺に壊れてしまえと言い捨てた彼は、それでも愛してほしいのだと全身で告げていた。
「……っ、シェリダン……!」
 思わず名を呼ぶと、ヴィルヘルムが一瞬瞳を眇めた。けれどすぐにどうでもいいと言うように、再びロゼウスの身体を弄び始める。
 こんな時、シェリダンだったきっと自分としている最中に他の男の名を呼ぶなって、きっと怒る場面だろう。それが今では、酷く懐かしくておかしい。
ヴィルヘルムは彼とは違う。
 だから、ロゼウスはここから抜け出さなくちゃいけないんだ。
「ヒッ」
 ヴィルヘルムが入り口に自分のものを押し当てた。遠慮もなく奥へと進め、ロゼウスの全身に快楽と痛みが同時に走る。先ほどクスリで潤されほぐされたおかげで切れてはいないが、その分雷に打たれたような痺れと快楽のせいで死にそうだ。
「ああああっ!」
「ふ……相変わらず、中はすっごくいい。ほらほら、言葉ではどんなに俺を拒んだって、ここはこんなに素直じゃないか。ぎゅって締め付けてさ、そんなに俺が欲しかったの?」
「いやだ……っ、違う……あっ」
「違わないでしょ? ロゼウス王子。お兄様仕込の、淫乱で貪欲な王子様。ドラクルが言ってたよ。お前はただの、ご主人様を慰める奴隷ですらない肉人形だって。だからあの時も俺に貸してくれた」
 初めての邂逅の時を持ち出して、ヴィルヘルムはロゼウスを詰る。けれど。
「そんな言葉、今聞いたって全然痛くも痒くもないね!」
 ロゼウスはもうドラクルの真実を知ってる。敵の正体もその全体像……ヴィルヘルムやハデスたちが皆で手を組んでいることもわかっている。だからもう、怖いことなんて。
「……つまんないの。可愛くない。まあ、そこがいいんだけどさ」
 やれやれと、まるで呆れたと言わんばかりにヴィルヘルムは唇を尖らせる。
「別にいいか。そこでどんなに強がったところで、お前は今俺の下で喘ぐしかできない。それは変わらないんだから」
 そうして、腰を動かし始めた。
「あっ……うぁ、はっ……」
 ぐちゅぐちゅと水音と、肉のぶつかり合う音がする。
 シェリダン―――。
 望まぬ快楽に身を浸しながら、ロゼウスはただ一人のことだけを考えていた。


129

 ――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
 ――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
ヴィオレット。
 ――これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様。
 ――愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています。
ダレル。
 あなたたちは酷い。
 私を一人残して逝きながら、この私に幸せになれなどと仰る。
 世界中の人間全てを不幸にしてでも、幸せになれと。
 あなたたちがいなければ、幸せになどなれるはずもないのに。私の中はもう空っぽだ。欲しかったのは些細な平穏。三人で笑いながらティーパーティーを繰り広げたあの一時。そんなものだったのに、もう叶わない。
 父を斬り捨て一族を惨殺した私は、本当ならあなたたちの後を追ってあのまま死ぬつもりだった。この残酷な世界に未練などないと、墓標の前でその下の安らかな暗さを思う。
 だけど、それを止めた人がいた。

 ――幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい。
 そうしなかったのはただのお前のエゴだろう? 

 自分だけを幸せにすることは何よりも簡単だ。ああ確かに彼の言うとおり、私はそれをしなかった。
 私は、私が幸せになるために相手までも不幸にしていいと思うのならば簡単に幸せになれた。それをしなかったことも、また確かに私の選択。
 あの時のシェリダン様の言葉は身に染みた。傷ついた心に塩を塗りこむように残酷で正しかった。
 愛シイモノハ、チャント縛リツケテオカナケレバ駄目ヨ?
 私を見据えるシェリダン様の瞳はきつく、刺すように鋭い。あまりにも美しく、それでいて儚い印象をもつ王子。
 ああ、欲しいな。
 そう思った、それが始まり。
 ――ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい。
 ええ、殿下。私はあなたの言うとおり、あなたを踏みにじって勝手に幸せにならせていただきます。
 それが、この事態のもともとの始まり。

 全ては巡る因果なのだ。応報の言葉の通り、報いは必ず自身に応える。この世のできごとは何もかも、運命と言う名の全てが自分自身のせいとなる。ならば。

 ぴちゃぴちゃと音を立てて舐めあげる。
「ん……」
 長椅子に身を預けて座る美しい人の足を開かせそこに顔を埋め、ひたすらに奉仕する。名を失っても、あなたは我が王。崇める気はないのに、讃える気はあるというこの矛盾を飲み込む都合の良い思考回路。
 手錠で繋がれながら奉仕されるという相反する状況に置かれた人の羞恥と憂いとが混ざった顔を見る。悔しげに唇を噛んで、拒否もできずにこの状態に流される彼の思考すら奪うように、一気に追い上げる。
「あっ……くっ、ジュダ……、やめ」
 命令とも懇願ともつかない言葉には当然耳を貸さず、無理矢理絶頂へと導いた。吐き出された液体はさんざん苛めすぎたせいか、薄い。ソレを飲み干して、わざとらしく唇を舐めながらジュダは息を切らすシェリダンの様子を見上げた。脱力した身体は、長椅子の背もたれでずるりと崩れる。
「お、まえ……っ!」
「なんです? このぐらい、いつものことでしょう? それが、未来永劫このまま続くということでしょう」
「未来など、……ない。お前には、永遠など」
「何故そう言えるんです?」
 可愛らしい人の両顎を手で挟むようにして、視線を自分の方へと向けさせる。エヴェルシード人の髪は暗い青、蒼と呼ばれるその色で、瞳は橙色が普通だ。だけど彼のその髪は夜闇を絹に浸して綴ったような藍色で、瞳は燃える炎のごとき朱金。
 あの頃もすでに整った顔立ちをしていたが、十七歳になった今となっては、並の女など太刀打ちできないような美しい少年。稀有なその美貌を歪めて、彼はジュダに視線を向ける。
 その視線が本当はどこを見ているかなど、ジュダには関係がない。心など手に入るのを待っていては、一生そんな日は来ない。
 愛しいものは縛り付けておけと、あの日ジュダが愛したヴィオレットが言った。
 だから、ジュダはその通りにしようと思う。こうしてこの人をジュダの城に閉じ込めて縛り付けて思う様犯して、そうしてどろどろに溶かしてしまえばいい。
 自分が幸福になりたいのならば。
「シェリダン様……昔の話を覚えていますか?」
「昔の話?」
「ああ、あなたはまだ幼くて、覚えてはいらっしゃらなかったのでしたっけ。イスカリオット地方の墓所で、お会いしたでしょう? 私は身内の墓参りをしていて、あなたはリチャードを連れて、彼の兄の墓参りに来ていた」
 話を振って見るが、シェリダンはほとんど記憶にないようだった。ただ、ぽつりと。
「ああ……あの時、あの場所にいたのは、お前だったのか……」
「ええ。そうです」
 ジュダは目を細めて、シェリダンの顎を捕らえその美しいお顔を覗き込む。
「あの時、あなたが私に言った言葉を、私はよく覚えています。例え、あなたが覚えていらっしゃらなくとも」
 勝手に幸せになるといい、そう言われた。
「だから僕は勝手に幸せになります。あなたを不幸にして。人は幸せになるためには、他者を不幸にしなければならない生き物だから」
 自分が幸福になるために、人から奪う。その幸せも自由も権利も誇りも体も命も、何もかも。剥ぎ取って骨と皮だけにして、それでもまだ足りないと他者を喰らう。
 この世に生きる人間こそが、最も醜悪で救いがたき妄執の怪物。人の血を呑む吸血鬼など比べ物にならない、同胞ぐらいの忌まわしき堕天。
 頬から外した手を、彼の手首に添えた。力を込めると、確かに男のものではあるがまだ華奢とさえ言える成長途中のその手首が軋む。苦痛にシェリダンは顔を歪める。
「私は幸せになりたいのです」
 その歪んだ顔に無理矢理ジュダは口づける。胸のうちの暗黒の水面に、狂った歓喜が波紋を広げる。
「だから、あなたから奪うのです」
 この裏切り者の口づけで。
 舌を絡め唾液を飲ませ、さんざんに口内を蹂躙してようやくその唇を解放した。
 濡れて果実のように赤く染まり、飲みきれない唾液をつぅと顎まで伝わらせたその表情は、どんな美女の痴態よりもジュダをそそる。
 そうだ楽しませてくれ。
 あなたの絶望で、私のこの欠落を埋めてくれ。
 そうでないと私は。
 ――どうかあなただけは幸せに。
 ジュダの腕の中で事切れたヴィオレットの言葉は、まだ彼を苛んでいる。けっして逃れることはできない。自分が彼女を忘れない限り。
 シェリダンを手に入れて、彼に溺れればもうこの心の空ろから逃れられると思っていた。
「ジュダ」
 燃える炎の瞳がジュダを睨む。
「お前の本当の望みは何だ。こんなことをして、お前の願いは叶ったのか?」
「――っ!」
 その言葉に、ジュダは思わず言葉を失う。
「馬鹿な男だ。お前は私を通して、『誰か』を見ているに過ぎない。その誰かが手に入らないからこそ、お前は私に執着しているだけだ。そこにどんな感情もない」
「違う! 私は、あなたのことがっ!」
「好きでいるわけはあるまい」
「何故そう言える! あなたにだって、私の心などわからないはずだろう!」
「わかるさ。お前のそれが、私に向けるには歪んだ想いであることぐらい」
 今まで、何をやっても身代わりであることに苦しんだ、自分にだけはわかるのだと。
 シェリダンはそう告げた。
「諦めろ、ジュダ。お前は私を愛していないし、私はお前を愛さない」
「……そのようなことを言って、あなたはどうするおつもりですか? ロゼウス王子はもうヴィルヘルム王のもとで、あなたがどうやったって彼を取り戻すことなど不可能ですよ」
 セルヴォルファスはヴァンピル王国ローゼンティアと同じく魔族の国。しかもワーウルフは、温厚な気性のヴァンピルと違って好戦的な種族。下手に足を踏み入れれば例え誰であっても八つ裂きだろう。
「できるさ」
 だが彼は何の気負いもなく、ごく当たり前のようにそう言った。
「どうして?」
 その瞬間、シェリダンは本当に幸せそうに、薄く微笑む。
「ロゼウスも、私に会うために動くだろうから」
 それを信じて疑わない表情と声音だった。

 やっと手に入れた。今度こそ手に入れた。失う前に私のものにして一生縛り付けて離さないのだと誓った。
 なのに。
 手に入れたと思ったものは、もう、とっくに他の誰かのものであったことを私は知ったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「そちらはどう? イスカリオット伯」
「順調ですよ。順調も何も、永久停滞というか現状が進みようもないと同義ですが。それを言うなら、カミラ殿下……いいえ、カミラ陛下はどうなのです?」
 エヴェルシード王城、シアンスレイトに顔を出す。現国王の即位を手伝った人間としては、そのまま放置と言うわけにもいかない。簒奪だけ協力して後は極力手を出さない事が双方に有益な条件の一つではあったけれど、そうして向こうの問題を見逃してあっさりとようやく作り上げたこの状態を元の木阿弥にされても困る。
 ある程度、カミラの動向に目を光らせて置く事は重要だった。せっかくシェリダンを手に入れても、その代わりに愚王が立たれては困る。彼女一人で全てを行えとはもちろん言わないが、彼女が国を機能させるだけの機構を上手く操縦できるかは、見定めておく必要があった。
「バイロン閣下は」
「よく働いてくれているわよ。喜んでいないのは確かだけれど」
 シェリダンに忠誠を誓った宰相は、短気を起こして罷免されるほど間抜けではない。カミラのもとで自分の足場をなんとか留まらせ、シェリダンが戻るのを待つつもりだろう。……それは不可能だと思うが。
「先日私があげた二、三の人物に関しては」
「あからさまに新勢力に取り入って媚びて自分だけは上手い汁を啜ろうって輩だったわね。それが明らかになったから、罷免したわ。あなたの忠告どおり、恨みを買いすぎないように、適度に」
「そう……上に立つものにとって必要なのは、何事も適度な匙加減ですよ。それは特に人心を操るために。おだてすぎてもいけないし、怒らせてもいけない。適度に満足と適度に不満を持ち、自らが虐げられているとは気づかせない程度に要職から遠ざけていく。そうすればいまだ後見勢力をウェスト家以外に持たない陛下でも、穏当に政治を進めることができます」
「そうだといいわね。……いいえ、私がそれをやらなければいけないのね」
 絢爛な玉座に付きながらも、カミラは溜め息をついた。
「お疲れですか? 国王陛下」
 元々男尊女卑思考のある軍事国家では、女王は歓迎されない。加えて歳若く特に才知に長けるというわけでもないカミラがその座につくことは、並大抵のことではないだろう。しかもそうして玉座を得た方法は簒奪。
「そうね。王様の仕事って大変だわ。でも逃げるわけにはいかないもの。ここを明け渡せば、今度こそ私の命はない……」
 国を追われた先王シェリダンの行方は今もわからない……ことになっている。実はジュダのところにいるということは、彼らの協力者しか知らないこと。
 カツン、と硬質な足音が響いた。
「やぁ、イスカリオット伯爵」
 髪を蒼く染めて目立たないように多少の変装をした、ヴァンピル。
 人は主に髪型と輪郭と目で相手を見分けるのだと言う。だからよっぽど慣れ親しんだ相手でなければ、彼の顔立ちがつい最近までこの城にいたある人物と似通っているということに気づかない。
「お似合いですよ、ドラクル王子、その格好」
「そうかい。あんまり嬉しくはない褒め言葉だね」
 彼が今着ているのは、貴族の一般的な服装だ。仮初めの爵位を与えるのはいざそれが明るみに出たとき危険な策だが、この場合はいたしかたない。王城内を自由に歩き回る権利を得るために、ドラクル王子……いいや、ローゼンティア貴族ヴラディスラフ大公ドラクルは、エヴェルシードに下級貴族の一人として潜入していた。ご丁寧に極力怪しまれないよう、もとは他国と縁戚を結ぶことで力をつけた、新参成り上がり貴族という設定までつけて。
 カミラが表立って動く立場になった以上、彼は影からそれを補佐している。
 彼女の政権を確立したら、その時はまた彼の差し金によってこの国は戦争を始めるのだろう。
 薔薇の王国ローゼンティアと。
 もともと、そのための準備はシェリダンがしていた。カミラはそれを乗っ取ればいいだけ。シェリダンはどちらかと言えば貴族より軍部に人気のある国王だったからその信頼を彼と犬猿の仲だったカミラの方へと向けさせるのは並大抵の事ではないかもしれないが、それも時間の問題だと二人は言う。
 そうしてエヴェルシードの兵力を使って、ドラクル大公はローゼンティアを自分のものにするつもりなのだ。もともと国王の息子ではなく、真の第一王子であるロゼウスが生きている以上間違っても玉座に着くことのない大公爵は自らの手で策略を練ってそれを奪いにいく。カミラが先にこうしてエヴェルシードの王位簒奪を叶えてもらったからには、今更約束を反故になどできるはずもなければ、策謀家を目指すわりには馬鹿正直なカミラがそうするはずもないだろう。
 ドラクルは玉座へと悠然とした動作で歩み寄り、カミラの手をとる。彼女はその手を握り返し、視線を合わせた。
 話に聞けばカミラが好きなのはロゼウスだという。それでどうして彼を陥れようとしているその兄に与するのかは謎だが、まあ人の心などそう簡単には計れないもの。実際ジュダもシェリダンを手に入れるために彼女と彼と協力関係にあったことを考えれば、そう不思議なことでもないのかもしれない。
 それにしてはカミラはドラクルにいささか心酔しすぎている感があるが、それも含めて人間心理は複雑だという話だろう。傍目からは恋人のように見えても、彼女が彼に向ける感情はどうやら恋ではないらしい。しかしカミラがドラクルをそれなりに信用しているのは変わらず、ジュダの眼から見れば彼女は立派なドラクルの傀儡だ。
 この国のことが、いいように別の国の者の手で動かされる。ドラクル自身はロゼウスにも執着があるようだが、それはローゼンティアを手に入れる事が先だと順位をつけて後回しにしている。
 やがてローゼンティアと戦争し、その国を彼に捧げ、セルヴォルファスに今現在ロゼウスがいるはずと言う事を考えれば、かの国とも揉めるのだろう。この国は動乱に包まれる。黄金の復讐姫がもたらすのは確かに戦いと災いの時代なのかもしれない。
 と、そこまで考えてジュダは思考をやめた。
「まあ、後の事はお好きになさってください。軽いことなら協力してさしあげますが、私はもう基本的には、手を引かせてもらいますよ」
「ああ。どうせ戦争になったらあなたの手を借りることになるだろうけどね、イスカリオット伯」
「はいはい。ですから、それまでくらいは蜜月に浸らせてくださいよ」
 ジュダの言いようにカミラは顔をしかめたが、構ってはいられない。逆にドラクルの方は、面白げに口を歪めて見つめてくる。
 そう、ジュダにはこの後のことなど全て関係ない。もう彼らとは、全くの無関係とは言えないだろうは手を切った。ジュダの目的はすでに叶っているのだから。
 ジュダはもう何も考えず、ただあの人を抱けばいいのだ。

 ◆◆◆◆◆

 目隠しをされ、後手に縛られた状態で床に転がされている。
とは言っても頭は少年の膝の上で、つまりは彼も直に床に座っていると言う事だ。
 セルヴォルファスに住まうワーウルフは、華美や装飾とは無縁の種族だ。人間に近しいその姿だが、頭には狼の耳を持ち、尻尾も生えている。
 だからヴィルヘルムも自身が国王であるということなど全く頓着せず、薄い敷物をしいたけだけの床に座り込んで、ロゼウスの頭に膝枕をしながら、顔を上に向けさせた。
「ぅ……」
「人間の血はさすがにこの国じゃ用意できないけど」
 無理矢理開かされた口の中に、粘性の液体が注ぎ込まれる。錆びた鉄の味がするそれは、ロゼウスたちヴァンピルが欲して止まず、そしてこれなくしては生きていけない、血。
 エヴェルシードではむしろ血液を用意するのは大変だと、薔薇の花を噛まされていた。血液を長く摂取しないヴァンピルは、渇きに狂う。それを防ぐ唯一の妙薬が、死の国に咲く薔薇の花だ。ローゼンティアに咲く品種とは違っても、量をかき集めれば何とかなった。
 そしてロゼウス個人に関して言うならば、時々直接シェリダンから血を貰っていた。
 甘い甘い蜜のような、極上の血。若くて健康な少年の生き血なのだから、美味いのも当然だ。
 けれど今飲まされているのは、思わず吐き出したくなるような不味い血だ。
「おっとっ! さすがにこれを吐くのはやめてくれよ。掃除が大変と言うか、むしろ絵的に大変なことになるから」
 そりゃあグラス一杯の血液を吐き出せば大変なことにはなるだろう。ヴィルヘルムはロゼウスの口を押さえ、無理矢理その血液を飲ませた。
「な、何、これ……」
 嚥下した液体は生温く喉に貼り付くようだった。上半身を起こして咽ながら、一応尋ねてみる。
「確か鳥だか豚だかの血。ここには人間はいないし、確か魔族の血は飲めないんだろう、ヴァンピルって」
「ぶ……」
 確かにこの国には薔薇の花が咲いていないし、魔族の血は力に変えられないからどこから調達するかと言えばその方法が正しいのだろうけれど。
「難儀な一族だよなぁ。ヴァンピルって。人間たちと同じ地上に生きるのに、人間の血を吸わなきゃいけないなんて。ああ、むしろそのためにわざわざ地上になんて住んでるのか?」
 人間であるシェリダンといたときよりも、むしろ種族こそ違うとはいえ同じ魔族であるワーウルフと共にいる方が自分たちは異常なのだと自覚させられる。
「確かヴァンピルは、魔法の薔薇に囲まれた人間の死体が甦った生き物なんだよね」
「……そういうワーウルフは、確か神の一種である狼が人間の娘を犯して産ませた半狼が始祖なんだろう」
「ふふ。なんだ。始まりのイカレ具合はどっちもどっちってわけだ」
 何が楽しいのか、ヴィルヘルムは笑った。まだ目隠しを外されないロゼウスは、気配だけでそれを察する。
「ねぇ、だーからさ、シェリダン王はやめて俺にしときなって。ロゼウス王子」
「……嫌だ」
「だって、人間なんてしょせんお前らヴァンピルの餌だろ? 餌と仲良くする魔族なんて、聞いたこともないよ。人間だってそうだ。家畜の牛と恋愛する人間なんかいるか?」
「それとこれとは違う」
「違わない」
 目が見えないということは少なからず恐怖を煽る。特に、この状態ですぐ側にいる相手が信用ならない時には。
「違わないだろう。ロゼウスにとって、シェリダンは美味しい餌。餌を愛してるなんて馬鹿げてるよ。だから、やめときなって」
「んっ……!」
 言うだけ言って、ヴィルヘルムは唇を重ねてきた。拘束されて逃げることもできず、それを受ける。口の中の血の味を洗うように、ヴィルヘルムの舌が口内を舐めて犯していく。
「うっわ。まずっ! こんなのいつも飲んでるの?」
「飲んでない……せめて、薔薇の花さえあれば」
 薔薇があれば、この身の中に眠る魔を封じることができる。
 いや、もうむしろ、本性を無理に抑えずに解放してしまった方がいいのか?
 今ならその恨みの矛先を向けられるローゼンティアはないし、ロゼウスにとって、ヴィルヘルムは狂気に陥って殺してしまったところで全く胸の痛まない相手だ。
 だけど。
 ――いつかお前の、その身体を……。
 夢の中で聞いた声が蘇り、ロゼウスは動きを止めた。
 できない、駄目だ、それだけは。
 あの声に自我を解き放ってはならない。「彼」の望む通りの展開を、描いてはならない。
 何故かはわからないけれどそう思った。
「あっ……」
「大変だねぇ。本性を偽って生きなきゃいけない種族は」
 ロゼウスが気を取られている隙に、ヴィルヘルムがまた手を出してきた。突如として伸びた手に服が破かれる。けれど目隠しは外されず、拘束は解かれるどころか増えた。首に銀の首輪が嵌められる。
「や……やめろっ!」
「だーめ。いいじゃない。似合ってるよ、その姿」
 手が縛られていれば、首輪を外すこともできない。抵抗できないロゼウスを、いつも通り無造作な手付きでヴィルヘルムが弄ぶ。
「どうせならその口も塞いじゃおうか。ああ、でも、悲鳴が聞きたいし……」
 恍惚とするような声と共に、胸に痛みが走った。
 肌を何か鋭いもので、一文字に薄く裂かれたようだ。血が零れる感触がする。
「いくら出血に弱い種族って言っても、これぐらいは大丈夫だろ……」
 生暖かい舌が肌を這う。ぴちゃぴちゃと零れた血を舐める音。目隠しをされているため、視覚と触角でしか状況を判断できない。これもまたいつものお遊びの一つなのだと、わかっていても苛立ちが減るわけでもなく。
 だけど好きにすればいい。拙い抵抗は続けながらもそう投げ遣りに思うのは、こんなことでは今更屈しないと自分でわかっているからだ。
 こんなことぐらいで絶望なんかしない。俺が、俺が本当に怖いのは。
「――いっそ感謝してほしいくらいだよ」
 ヴィルヘルムが呟く。
「ロゼウス。そばにいればいつかきっと、お前はシェリダン王を殺すよ。餌として」
この胸を真に凍らせるものは――。
「――――っ!!」
ロゼウスは何も言う事ができなくなる。
「それを未然に防いでやってるんだから、だから……いっそ、感謝してほしいぐらいだよ」


130

 いらない。いらないいらないいらない! 本当に欲しいものが手に入らないのならば、もう何も!
 暗闇の中に立つ。闇に沈んだ部屋の中では何があるのかわからない。何があるのかわからないというより、むしろこの部屋には何もなかった。完璧な漆黒の牢獄となるように、ハデスがヴィルヘルムに頼んで用意させたのだから。
 しばらく暗鬱な沈黙が支配していた部屋の、扉が一度だけ開かれた。この中が闇であるゆえに眩しい光は扉が開けられた分だけ白い筋となって浮かび上がる。
 その隙間からこの部屋に放り込まれてきたのは、幾人かの人間の男女だった。まだ少年少女という年齢の、子どもたちだ。
「このぐらいでいいの? ハデス卿」
「ああ、十分」
 男女二人ずつ計四人。これだけの「生贄」が寄れば、当分魔術を使うのに困ることはないだろう。少年少女たちは全員が縄で列車のように繋がれている。
「別にいいけどさ。一人くらいこっちにも寄越してくれない? 人間の奴隷。ロゼウスって確かヴァンピルだから、人間の血を飲まないと死んじゃうんだろ?」
「死ぬんじゃなくて、狂うんだよ。でも駄目だ。僕の方も今は結構ぎりぎりなんだ。魔力の補充をしないと術が使えない。ロゼウスには、豚の血でも飲ませとけばいいだろ」
「そんなんでいいの?」
「さぁ? 知らない。魔族だからお前たちワーウルフの血は使えないし」
「じゃ、一応試してみるよ」
 どうしようもないやりとりをかわして、生贄の奴隷を運び込んできたヴィルヘルムは部屋を出て行こうとする。
 扉を完全に閉め切る瞬間、しかし彼は振り返って思い出したように告げた。
「そういえばさ、ハデス卿」
「……なんだよ? まだ何かあるの?」
「たいしたことじゃないんだけど」
 冥府の魔物を召喚するには、集中力が必要だ。精神集中のその途中に入っているハデスの耳に、ヴィルヘルムの声も言葉も今は耳障りだった。
「だから、何?」
 さっさと言って出て行けと思いながら先を促すと、彼はとんでもない発言を残していった。
「――確かあなたもロゼウスの餌になれる、『人間』なんだよね」
 集中力が切れた。
「うわぁっ!!」
 小さな熱も光も伴わずただ紫色の煙だけが立つ小さな爆発を起こして、術が完成する。それと同時に、部屋の扉が閉められる。
「ヴィルヘルムっ!」
 咎めるために名前を読んだが、彼は無視をした。
「……ったく、」
 僕が人間だって? ああ、そうだよ。黒の末裔とはいえただの人間だ。姉さんの弟として皇族になって以来不老不死の魔術師としてすっかり人外扱いされているけれど、僕は人間だ。
 それがどうしたっていうんだ?
『珍しいなハデス。最後の最後、お前が失敗するなんて』
「……別に失敗したわけじゃない。こうしてお前はここにいる」
『ああ、そうだな。我は確かにここへ、この地上へと召喚された。だが……あれはお世辞にも、心地よい移動とは言えなかったぞ』
「はいはい悪かったよ。今契約の貢物を渡すから、それで勘弁してよ」
『ほう?』
 最後こそ多少精神力を乱して術が中途半端になったとはいえ、無事にこうして冥府の魔物を呼び出す事には成功した。
 ぬめる触手と、毒々しい体色のなんとも呼びようがない姿形の「魔物」。部屋の半分を埋め尽くすその巨大な体の中央には、人間の上半身に似たものがついている。その上半身の整った女性のような姿と、魔物としての本体のギャップに誰もが目を驚かせる。
 これが僕の能力。僕の力。
 魔術によって、冥府の魔物や時には死者を呼び出して操ることができる。
 けれど、そのためには代償を支払わねばならない。
 ハデスは部屋の隅でがたがたと震えている「代償」たちに目を遣った。彼らにはハデスのために、この魔物へと捧ぐ生贄になってもらう。
「さぁ、冥府の使者よ、貢物だ。受け取るがいい」
『ありがたい……ありがたい……』
 魔物はその触手を、いまだ縄で縛られたままの奴隷たちに伸ばした。拘束を引きちぎってそれぞれを自由にしてすぐ、自らの触手で彼らを絡めとる。
「なっ……っ!? や、やめろォ!」
「きゃぁあああ!! いやぁああ!」
「助けて、誰かぁああ!!」
「うわああああ!!」
『喰ろうていいのだな』
「ああ」
 魔物の言葉にハデスは頷いた。その山のような胴体にすっと切れ目が入ったかと思うと、そこからずらりと鋭い牙が並んだ口が出現する。
 捕らえられた奴隷たちは、もはや恐慌状態に陥っている。
「いつも通りに、好きに嬲って、犯し殺せ」
 ハデスは魔物にそう宣言して、少しその場所から離れ部屋の隅に座り込んだ。
 ぐちゃっと何か柔らかいものが潰れる音と液体が飛び散る音がして、悲鳴が相次ぐ。泣き喚く声を無視して、ハデスは壁にもたれて身を休める。
 ああ、疲れた。ここ数ヶ月、様々なできごとがあった。今年が姉の治世の最後の一年だからとはいえ、言われたとおり人間の身には堪える重労働だ。だがここで動かなければ、今年で全てが終わってしまう。
 それだけは避けなければ。
「姉さんが死んだって、僕は、生きるんだから」
『それはたいした決意だな』 
 奴隷の少女の一人を、その無数の触手で前から後から犯しながら魔物が声をかけてきた。
「……今日の生贄には満足した?」
『足りない』
「そんなこと言うなよ。今この状況でこれ以上どうしろっていうんだ」
 バキ、ゴキ、と骨が砕ける盛大な音を立てて、奴隷の少年が魔物の巨大な口の中に飲み込まれていく。ぐちゃぐちゃと咀嚼の音が響き、犯され続ける気がふれた少女の悲鳴がこだまする。
 そちらにも飽きたのか、魔物は瀕死の少女をも本体に開いた口の中へと飲み込んだ。あと二つ、真っ先に首を落とされて転がっていた死体も、無造作に喰らう。
 部屋の中には死臭が立ち込めた。
『足りないぞ、ハデス。まだまだこんなものでは』
「だから、これ以上は今の状況では無理だって。ヴィルヘルムにもう少し奴隷を買ってくるよう頼むから――」
『そうではない。お前が欲しい』
「……はぁ?」
 ああ、またか、と内心うんざりしながハデスは魔物の言葉を聞く。
『言っただろう、更なる力を得たくば我にその身を捧げよ。さすれば、今よりも更に強大な魔力をお前に使わせてやる』
「……その話なら、何度も断ったはずだ」
『別にお前を頭から喰らうわけではないぞ。その人間にしては美しい身体を堪能させてくれれば良いのだ』
「いやだよ。お断り。どうせならロゼウスでも犯れば? あれでいいならヴィルに言って、幾らでも借りてやるけど?」
 そのついでにさっさと殺してくれればありがたいんだけど、とハデスが言うと、魔物は人間の上体部の表情を奇妙に歪めた。
『断る。奴の力は強大だ。今の我では、奴には太刀打ちできない』
「太刀打ちできない? ……銀で拘束していても?」
『そうだ。あの神気に触れれば我が身が焼ける。もともと我等タルタロスの魔物は地上に来れば力が落ちるのだ……なぁ、ハデス。お前の望みは奴を殺すことなのだろう?』
 魔物の声は糸を引くように粘っこく、ハデスへと絡み付いてくる。
 もう、時間がない。予言の通りなら、今年中に何とか始末をつけないと――。
 ハデスは覚悟を決めた。
「いいだろう。冥府の使者よ。この身体、お前に捧げよう」

 ◆◆◆◆◆

 黒いシャツの襟元のボタンに手をかける。ゆっくりと脱いでいては決心が鈍りそうで、ここは覚悟を決めろ自分と、一気に上も下も脱ぎ捨てた。
 冥府の使者は、暗闇に爛々と光る蛍光緑色の目でこちらを見てくる。
『長かったぞ』
 ひた、と血の匂いのする床に足を浸す。血だまりがぱしゃん、と跳ねて、足首の少し上まで血に濡れた。
 先ほど生贄の奴隷たちを殺した時も、魔物は血は盛大に噴き出させたが臓物を直接ぶちまけることはしなかった。血のにおいと内臓のにおいは微妙に違って、内臓の臭気は嫌いらしい。骨も脳も皮も、切り落とした首なども今は全てその本体に開いた口の中に飲み込まれて、その糧となっているだろう。
 ハデスとしても肉片と臓物がそこかしこに散らばされた床よりは、ただ血に濡れている床の方がまだ見苦しくない。
 どちらにしろ、濃い鉄錆のにおいに息がつまりそうになるが、そんなことこれから行われることに比べればまだ安いものだ。
 一歩一歩近づくハデスの身体に向けて、魔物はその無数の触手をうねらせながら伸ばす。
『ああ、長かったぞ。ハデス。冥府の王の名を持つ者よ。待ちわびた……』
「……っ」
 足に手に、絡み付く触手。薄灰色に濁ったそれを使って、この魔物は相手の生気を犯しながら奪うのだ。先ほどの安っぽい生贄たちはお気に召さなかったのか、たいして陵辱することもなく、それなりに弄んだ後はさっさと胃袋に収めていた。
『安心しろ、主よ。お前の命を喰らおうとは思わぬ。手足を齧り取ってしまおうともな』
「わかっている。そんなことしたら赦さない」
『ああ。我がお前に求めるのは、純粋な快楽。その美しい顔が歪み乱れる様を、我にとくと見せてくれ……!』
 何が主だ。ハデスは思う。
 主だなんて、思ってもいないくせに。
 灰色の触手がさらに身体へと巻きつく。太腿を締め上げ、両腕を拘束する。ぬめぬめとする液体の膜が常に表面に張っているような状態のその触手は、僅かに濡れたような感触と共に肌の上を滑る。
 冥府の王など、預言者など、そんな称号など何の価値もない。
 必死で修行して魔術を覚えて、それでハデスがやっている事はせっせと魔物への餌運び。生贄を用意することで、冥府の使者たちのその強大にして醜悪な力を借りる手筈。王などではない、使われているだけ。ただの雑用係。
 それもこうして慰み者にされているならば、もっと堕ちたものかもしれない。あからさまに人外の化物のために自ら服を脱ぎ足を開いて喘ぐ。人間相手にそうする娼婦の方が、よっぽど高尚な生き物だ。
 僕は最低だ。でも、そうしなければ生きていけない。姉さんの我侭で生み出され、彼女がいなければ容易く存在理由も価値もなくなる僕は、自分が生きるために手段を選んでいる余裕はない。
 ねぇドラクル、お前もそうなんだろう? あの日出会った、血の色の目をしたヴァンピルは、ハデスと同じ影を背負っていた。ロゼウスが生まれた瞬間、その存在意義を無くした可哀想な王子。そして姉さんのための道具でしかない僕。
 いつも目の前に立ちふさがるのは、この身に絡み付いて棘を刺す、残酷な荊の墓標。その全存在でもってこの命を規定し葬り去る、罪深き至高の絶対者。
 だから消えて欲しかった。そのために力を求めた。そのために、なんでもできる。
 姉さん、僕は……。
「んぐっ!」
 肌の上を這いずるだけでなく、魔物が太めの触手を口の中へと突っ込んできた。どこか植物じみた苦い味が口の中に広がる。どろりとした粘性の液体が喉に流し込まされ、無理矢理胃の中に落ちる。ハデスがそれを飲み込んだところで、一度魔物は触手を抜いた。
「けほっ……な、にを、飲ませ……」
『ただの媚薬だ。本来獲物を快楽に陥れて逃がさないようにするための罠だが、特別に使ってやろう。主は苦しむ必要ない。それでせいぜい楽しめばいい』
「この状況が……すでに十分……不愉快だ」
 だけれど、先ほど飲まされた粘液のせいで、腹の底が熱い。
「ふあっ!」
 身体の中心を触手で軽く締め上げられて、思わずあられもない声が上がる。そのまま別の触手が、追い上げるように這いずって刺激を与えていく。けれど、それはどれもこれももどかしいだけの感覚にしかならなかった。
 魔物の触手は人の腕ほどに太いものから、糸のように細いものまで無数に、それぞれが独立した生き物のように蠢いている。ただのつるりとした紐のようなものだけでなく、中には吸盤やいぼや、また得体の知れない器官がくっついているものもある。
 細い触手が胸に絡みつき、縛り上げるようにして乳首を締め付けた。他にも無数の触手が全身を覆って、ぎりぎりと身体を締め上げる。おかげでろくに身動きもできない。
 そうして逃げられないよう厳重に捕らえておきながら、魔物はハデスの足を開かせる。一本の太い触手が、太腿を這い上がって身体の上へと昇ってくる。その明らかな意図に、背筋に怖気が走る。
「や、やめ……あ、あん、ぐ、ぅ」
 咄嗟に叫ぼうとした口の中へ、言葉を奪うように再び触手が突っ込まれた。そのまま奉仕しろとでも強制するように、ぐちゅぐちゅと口の中をかき回す。
 そうしているうちに、ついに後にも触手が侵入してきた。粘液の助けを借りているとはいえ、太すぎるそれが、内臓を押しつぶすような圧迫感を伝えてくる。こういったことに慣れきった内部が切れないことだけが唯一の救いだ。
「〜〜っ!」
『やれやれ、早まりすぎたか』
 人間のように舌打ちこそしないものの、苛立たしげな魔物の声が聞こえてきた。太すぎる触手は一度抜かれて、ほっとしたのも束の間、今度は紐のような細い触手が幾つも束となって中に入り込んでくる。何度も内部を行き来し、奥をついて、ずちゃ、ぬちゃ、と聞くに耐えない音を立てる。
 その触手が内壁を擦るたびに、飲まされた媚薬の粘液も効いてきて、脳を溶かしそうな快楽が生まれる。
「ん、んんっ!」
 口の中に別の触手を突っ込まれた今の状態では、声を出すこともできない。苦しい。それを察したかのように、魔物はハデスの口からそれを引き抜いた。
「ごほっ、けほっ」
 ひとしきりむせた後は、与え続けられる刺激に生理的な涙が、ぽろぽろと頬を伝っていった。
「あ、ああっ! ヒッ、ふぁあああ!」
 一度達して醜い白濁を吐き出しても、魔物はまだこの身体を貪ることをやめなかった。相変わらず奥へと入り込んで、ひたすら後を犯し続ける。
 血塗れの部屋に、冥府の植物の香りと魔物の粘液と、せき止めるものもなく何度もイかされた僕の精液のにおいとが入り混じって、酷いことになる。
 あらゆる場所を触手が突き、締め上げ、ひたすら侵入して内壁を擦る。限界まで足を開かされて、広げられた孔に何本もの触手が先を争って入り込む。一度解放して休ませた身体をまた今度は別の触手が侵入して犯す。
あまりにも奥へ奥へと入り込むものだから、そのまま腸の中も胃の中も突き進んでやがて下から入った触手が、口から出てきてこの身を串刺しにするのではないかと思うくらい。
「あっ……あ、ああ……」
 魔物がようやく満足してこの身を血の海に解放する終わり頃には、喘ぐ気力もなくただ悦楽に鳴いて泣くこの身は、世界の誰よりも惨めだとわかっていた。

 ◆◆◆◆◆

 ――ねぇ、姉様。どうして僕にはお父様やとお母様がいないの? 普通は死んじゃったとか別の家にいるとか、みんな知ってるものなんだって。でも僕は聞いたことないよ? ねぇ、どうして僕にはお父様もお母様もいないの?
 ――……私たちの両親はね、死んだのよ。あなたが生まれてすぐ。
 ――本当? どうして?
 ――どうしてだって、いいじゃない。二人は死んだの。その方が良かったの。
 ――そう……なの? だって、ミラーカ先生が連れて来てくれた子たちは、みんなお父様とお母様の話してたよ。僕には姉様だけでそんなのいないって言ったら、そんなはずはないって教えてくれたんだよ。
 ――っ、あの女。庶民の出だから逆につけあがる事はないと思ったのに、とんだ期待はずれだったわね。すぐに辞めさせてやるわ。
 ――姉様? どうしたの? 怖い顔してるよ……
 ――……なんでもないわ。それより、ねぇ……両親が……父さんも母さんも、いないのは、寂しい?

 自分こそが寂しそうな、何かを恐れるような眼差しで彼女はハデスに尋ねた。

 ――ううん。そんなことないよ。だって僕の側には、いつも姉様がいてくれるから。僕が一番大事なのは、顔も見たこともないお父様たちより、姉様だから。

 真剣に答えた。それだけが、その頃のハデスの真実だったから。
いつも彼女は側にいた。ハデスが寝ている時間に全ての仕事をこなして、目覚めてから眠るまでずっと側にいてくれた。赤ん坊の頃から物心がつくまで、まだ十八歳の少女が面倒を見て。
彼女は煩わしい様子一つ見せず、教師をつけて勉強させられる時間が主になるまで、いつもいつも辛抱強くくだらないやりとりの相手をしてくれて。
だから親なんて本当に必要なかった。ハデスには姉、デメテルさえいればよかった。それで十分だった。

 ハデスの言葉を聞いて、姉はこれ以上なく優しく微笑んだ。

 ――ありがとう。ハデス。――私もあなたが一番大事よ。大好きよ。だからいつまでも、あなたを守ってあげる。あなたのことを、必ず守るわ。

 この《皇帝》の名にかけて。

 ずっと、ずっと。

 ――たとえ誰が相手であっても、あなたを必ず守るから――。

 酷い嘘つきだ。
 あなたはあなた自身から、僕を守ってはくれなかった。信じていた人に手ひどく傷つけられる。守るといったその口で僕を責め苛む。それこそが、なんて酷い裏切り。騙し討ちよりもなお酷い。

 好きだったよ、姉さん。
 大事だった。誰よりも――自分よりも。

 なのにどうして、人は変わってしまうんだろう?


131

 ずきずきと全身が痛む。
「ぅ……」
 喉の奥が乾いて貼りついていた。あげようとした声は言葉にならず、どこか切れて滲んだような血の味とぴりぴりとする痛みを訴えてくるだけ。倦怠感を覚えながら、脳を揺さぶられた後のような最悪な目覚めを迎える。ここは、どこだ。
「……ぁ、」
 なんだかこんな状況を、つい最近も経験したような気がする。石床の牢獄に転がされ全身を拘束されて、腕は荒縄で縛り上げられているために擦れて痛い。
 シェリダン様。言葉にできないその言葉を、胸のうちで繰り返し呟いた。僕は一体どうして、こんなどこかもわからない場所にいる。確か、イスカリオット伯の不審な動向を調査するためにその屋敷へ赴いたところを捕らえられ、脱出しようとしたところで――。
 自らの行動をなぞる内に、クルスの中で記憶が蘇ってきた。そうだ、あの時カミラに出会って。それから。それから!?
 彼女に出会って以降の記憶がない。つまり、自分は彼女に負けて――!
 改めて現状を確認しようと、クルスは青褪めたまま身を起こそうとする。しかし、できない。何箇所も厳重に縛られているため、腹筋を使って起き上がることも不可能だ。
 ただひたすら焦りだけが募る中、牢獄の扉が開けられた。差し込んできた一筋の光に、そちらを向こうと何とか首だけを巡らせて相手を確認する。
「あら、気がついたのね」
「カ……カミラ、ひめ……っ!」
 必死に唾液を飲み込むことで、何とかその名を口に出した。かつては仕える王族の一人であった彼女は、今はどうあっても敬えないような邪悪な笑みを浮かべて、地に転がされたままのクルスを見下ろしている。
「いいザマね。ユージーン侯爵。いつぞやの、人を罠にかけてくれたお礼よ」
「やはりあなたは、僕を恨んで……っ」
「ええ。でも、そんなのついでよ。私が本当に憎いのはシェリダンただ一人」
 兄であるお方を蔑むように呼び捨て、彼女は陶然と告げた。
「あなたが大事なシェリダンは、もういないわよ」
「……え?」
「あなたが眠っている間に、いろいろなことがあったの。私の即位と、先王シェリダンの追放」
「追放!?」
 譲位でも退位でもなく、追放。
 それは彼が何かを犯したために、ということか。そんなの――。
 そこまで考えてから、はた、とクルスは気づく。
 カミラはシェリダンをずっと憎んでいた。シェリダンを殺し、そうして玉座を乗っ取るのだとその心に誓っていた。その後、一度は死んだと思われていたが、こうして今ここにいる。
 実際何があったのかはよく知らないが、一度は死んだと周囲に思わせねばならない程にシェリダンに追い詰められたこの少女が彼を恨んでいないはずはない。つまりこれは、復讐で、王位の事は追放と言うより、むしろカミラによる簒奪なのだ。
「ここはどこだ! シェリダン様はどこにいる!?」
「教えるとでも思っているの? 私が、あなたに」
「そういう言い方をするということは、あの方はまだ生きておられるんだな!?」
「さぁ? どうでしょうね。それよりあなた、その口調どうにかならないの? 私はこの国の王なのよ」
「僕が主君と定めたのはシェリダン陛下ただお一人だ。彼と敵対するあなたのことなど」
 睨み付けるが、カミラは多少つまらなそうな顔をしただけでその態度を変えない。以前は微笑ましいほどに単純だったのを知っているだけに、新たに見せられたそんな強かな一面に焦りが募る。
「あの方は、どこだ……っ!」
 掠れ声で叫べば、鉄格子を挟み正面で睨み合ったカミラは酷薄に笑った。
「知りたければ、私の傘下に入りなさい。ユージーン侯爵。そうすれば、命だけは助けてあげるわよ。ああ、あなたのだけは、という注釈もつくけれど」
 シェリダンの生死はいまだどちらとも明らかにしない、そのカミラに、クルスは迷うこともなく返答する。
「断る。誰があなたなどに」
「良い度胸ね。でも愚かだわ。こんなところでそんな格好で言ったところで、説得力や迫力なんてないってことに気づかないのかしら」
 クルスは相変わらず両手首足首他にも肩や胸の辺りをきつく締め上げられていて、身動きが取れない。顔だけをカミラに向け、転がったまま彼女を見上げている。
 確かに無様この上ない格好だろう。けれど、だからと言ってそれを辛いとは思わない。クルスにとって辛いのは、ここで何もせずシェリダンを失うこと。
「やれやれ。少しはバイロンの素直さを見習ったらどう? あの男は、シェリダンではなく私に従ったわよ?」
「バイロン宰相が?」
 ローゼンティア侵略の後、一度だけシェリダンに叛旗を翻し暗殺を謀った宰相閣下。あまり面識のないクルスは、個人的にはさほど相手のことも知らないが。
「……いいことじゃないですか。彼がおらず、あなただけで政治をすればこの国は倒れてしまう」
 カミラが不快げに顔を歪める。
 バイロンをどこまで信用していいのかはわからないが、彼はあの事件の後、シェリダンに改めて忠誠を誓っているはず。彼が素知らぬ顔でカミラに味方をしているとは考えにくいから、恐らく彼女のすぐ近くで、その足元を掬い本当の主を引き上げる機会を窺っているのではないか。
 クルスはそう考える。クルスの主はシェリダンだから、目の前の少女を主だなんて絶対に認めるわけにはいかない。
「……まあ、いいわ。考える時間も後悔する時間も、あなたには十分あるのだから」
 せいぜいここで頭を冷やしながら、自分がどうするのが一番いいかよく考えることね。見事に悪役な台詞を吐いて、彼女はもと来たとおり颯爽と牢獄から出ていった。その間クルスは結局身を起こされることも、何かの情報や水を与えられることもなかった。あるいは助けてくれと縋ることを望まれていたのかもしれないけれど、生憎とそんなつもりはない。
 彼女に仕えるのであれば、多少惨めでもこのまま牢獄で飢え渇いて死ぬ方がマシだ。
 だけれど、その前にまずはできることを考える。先ほどの会話を考えれば、ここは王城シアンスレイトのどこかである可能性が高い。女王になったとカミラ姫が言った以上、彼女がいるのは国王の住居である王城だろうから。簒奪を行ったばかりで城内が混乱している時期ならなおさら、王が城を遠く離れるわけにはいかないだろう。
 そしてシアンスレイト城には、王族しか知らない秘密の牢が幾つもあるのだと以前シェリダンが言っていた。
 クルスはシェリダンを始め、これまでこの国の玉座を固めていた人々がどうなったのか知らない。けれどはっきり死んだと口にしない以上、まだ希望は残されている。リチャードやエチエンヌたちだって、簡単に殺されるような者たちではない。
 シェリダンに関してはそれこそどちらか定かではないとはいえ、死んだのならそう言ってしまえばいいものをそうしなかったというカミラの態度を考えれば、生きている可能性は高いと思う。
 だから、諦めない。
 胸中で決意を固めた時、牢獄の入り口が再び開いた――。

 ◆◆◆◆◆

「……誰? ですか」
 牢へと入ってきた人物は、どうやら女性のようだった。
「あ、あの! わ、私!」
 焦っている。困っている。怯えて、いる。
「あのう……ユージーン侯爵閣下……私、あなたのお世話をするように頼まれた者です」
「……お世話?」
 訝りと侮蔑、そしてここへいない人への憎悪をこめて、クルスは嘲笑う。
「処刑人、の間違いじゃなくて?」
 尋ねると、女性は橙色の目を大きく瞠った。
「ええええええっ!?」
「っ!」
 怒るか、馬鹿にするなと喚くか、むしろこちらを蔑むか、そのどれかだと思っていたクルスは、純粋な驚きの絶叫に思わず身を竦ませた。
 もちろんクルスだって、本気でそう考えているわけではない。
 牢に入ってきた女性は、見たところ年齢が十代後半から二十代前半。随分細身、むしろがりがりに痩せていていかにも非力そうだ。見た目はただのエヴェルシード人だけれど、奴隷……だろうか? こんな非力そうな女性に大の男の首を落せるわけはない。
 だからただの世話役だと言う言葉を疑うわけではなかったが、それでもこの状態では、例え相手が誰であろうと、皮肉の一つも言ってやりたいと思うところだろう。
 返ってきたのは、この予想外の絶叫だったわけだけれど。
「あ、あの! 私本当にただのお世話役で! 処刑とかそんなこと、何も……何も、聞いてません! 本当です! 信じてください! 侯爵閣下」
 女性はこちらが吃驚するぐらい真剣に、先ほどのクルスの皮肉を否定してきた。鶏がらのようながりがりの腕を振って弁解する。
 その様があまりにも哀れと言うか、惨めと言うか……なので、クルスは折れることにした。
「……ええ、わかっています。意地悪を言ってしまいました」
「え?」
 クルスが真実、言葉で傷つけたい相手は彼女じゃない。カミラだ。シェリダンに害をなす全ての者だ。この人は関係ない。
 思いがけない展開によって逆に冷静になった頭で、彼女の方へ視線だけ向ける。
 言葉をかけようとして、クルスは動きを止めた。先ほどの世話役の女性がこちらへと歩み寄ってくる。
 この牢獄は、どうやら地下にあるらしく部屋の隅に上の階へと昇る階段がある。その階段から床石二つ分ほどの幅で通路が伸びていて、部屋の中で囚人を閉じ込める場所は鉄格子で区切られている。
 その、凶悪な囚人を本来は閉じ込める役割を持つ鉄格子へと、何のためらいもなく彼女は近づいてくるのだ。
「何を……」
「あ、えっと。そのままじゃ動けないだろうと思いまして、えっと、私の判断で縄を解いてもいいと言われたので」
 そう言って彼女は、手元の鍵束から一つの鍵を取り出した。それがこの牢獄の鉄格子の鍵らしく、カチャカチャと音が立てられた後、軋んだ耳障りな音を立てて扉が開く。
 もっとも開いたところで、今のクルスにはどうすることもできない。相変わらず両手両足首は纏められているし、胸と腕を一まとめに縛り上げられ、膝も抑えられている。縄と枷が両方嵌められていては、さすがにどうすることもできない。よくもこれだけ厳重に拘束してくれたものだと思う。ちくちくと刺さる縄の感触は煩わしい。
 けれど、危険な敵にかける拘束としては打倒だとも考える。このぐらいでなければ、クルスだって他の人だって、何とか機を窺って逃げるだろう。
 自分がされて腹が立つことには変わりがない。けれど、相手からして見ればこれが必要最低限の処置。
 その拘束を、この女性はご丁寧にもわざわざ外してくれようとしている。
「ええと、まずどこからはずせばいいのかしら……?」
 困ったように、明らかにこんな仕事手馴れていない風情で、彼女はそう言ってまた鍵束を探った。手錠と足枷の鍵を見つけ出し、それぞれ外す。まだ拘束は解かれていないとはいえ、金属の冷たい重みが体から離れ、石床に落ちた拘束具はガチャンと派手な音を立てた。
「えっと、次は……」
 縄の結び目に女性は手をかけた。当然、きつく結ばれた荒縄がそんなことで解けるわけもない。わざと解けないように結ばれているのだ。
「ん〜〜……」
 細く色の悪い指先を今にも破けそうなほど真っ赤にして、女性は縄が解けずに溜め息をついた。そのまましばらく黙ってクルスが見ていると、彼女は自分の懐を探り始めた。
「っ!」
「えっと……動かないで、じっとしていてくださいね……」
 彼女が取り出したものは、一本のナイフだった。
 それも、こんな刃で縄が切れるのかというくらいぼろぼろのナイフだ。
「……っ!」
 それでも紛れもなく刃物。どんなに切れ味が悪そうでも、ナイフであることには変わりない。まさかここでいきなりグサリとはやられないとは思うけれど、危機感を覚えるのは当然だ。
 クルスが内心息を詰める中、彼女は特に迷った様子もなく、それをクルスの手首を戒める縄へとあてた。
 ぎしぎし、と切るよりも軋むような音を立てて、じれったいほどの時間かけて、その戒めが解かれる。切れた縄が死んだ蛇のように力を失って床に落ちた。
「待っていてください。今、この足と肩の縄も切ってしまいますから」
「……」
 それからやっぱりまた長い時間をかけて、彼女はクルスを拘束していた全ての戒めを取り払った。ナイフはすっかり刃こぼれしている。
 全ての拘束が解かれて、クルスはようやく地に這い蹲るような姿勢から体を起こすことができるようになった。
 拘束を解いてくれた世話役の女性とようやくまともに目線を合わせる事ができる。
「……どうして」
「え?」
 思わず、その何の変哲もない目鼻立ちの顔を眺めて問いかけていた。
 彼女は美しくはない。むしろ醜い。クルスが普段目にしていたのは貴族に面会するために精一杯着飾ってやってくる人々で、それなりの容姿を持っていた。
 そして更に言えば、仕えるべき主君のシェリダンはその美貌を見初められて先代ジョナス王の妃となったヴァージニア王妃の子であり、やはり見惚れるほど美しかった。シェリダンがローゼンティアから攫ってきたロゼウス王子を始めローゼンティア王族の面々は誰しも人間離れした美しさをしていたし、ミザリー姫などその美しさのあまり、本当に生きているのかと、精巧な人形を見せられているのではないかと疑いたくなるような美女だった。
 そんな風に肥えてしまったクルスの眼から見て、目の前の女性は醜くてみすぼらしいの一言に尽きる。切れ長というよりは糸のような目、かさかさに渇いた唇、大きな鼻と、そばかす。明らかに痩せすぎていて骨が皮を着て歩いているように見える。
 だけれど、その容姿に対して不快を感じる事はなかった。むしろ覚えたのは、彼女の行動に対する不可解。
「侯爵閣下、お水を飲みますか? えっと、お食事の時間は決まっているんですけど、水だけはとっておかないと死んじゃうからって……」
「これは誰の指示だ」
「え?」
「こんな簡単に囚人の戒めを解くなんて……僕が縄を解かれた瞬間、あなたに襲い掛かるとは考えなかったんですか? 他の人からそう教えられませんでしたか?」
「え? え? あの、私……」
 クルスの指摘は当然考慮してしかるべき問題だと思うのだが、彼女はそんなこと考えもしない様子だった。
「こんな囚人の世話を任されるなんて、あなたもさぞや不愉快でしょうね」
 自嘲交じりの皮肉をまた言えば、何故か女性はこれまでのどこかおどおどとした態度とは打って変わって素早い動作でクルスの手をとり、どこか思いつめたような様子でまくし立ててきた。
「そんなことありません! 閣下! 私、私は自分で閣下のお世話をさせていただくよう、カミラ姫様に頼んだのです!」
「え?」
 今度は……いや、今度もクルスが驚く番だった。
「ユージーン侯爵閣下……あの、覚えて……いませんよね。一年ほど前、シアンスレイトの街で、主人に鞭打たれようとした召し使いを助けてはくださいませんでしたか?」
「……あの時の!」
 顔こそはっきりと記憶してはいなかったものの、その言葉にクルスは記憶の糸を手繰り寄せる。そういえば確かに一年ほど前、城下町でそんなことがあった。
 その時、街中で使用人を痛めつけていた貴族は顔見知りの男爵で、適当に嗜めて、二度と使用人を乱暴に扱わないよういい含め、念のために何人かその監視をしばらくつけさせてもらったのだけれど。
 始めは反発されるかと思ったその行動も、向こうがクルスがシェリダンに近しいと判断して近づくことを判断したために、根に持たれたり、裏で向こうがまた召し使いを粗末に扱う事はなくなったはずの事件だった。
「私、あの時閣下に助けていただいた奴隷です……今は別の方のところにお仕えしていて、その方が今度カミラ姫の頼みで使用人を貸し出すことになったって聞いて、それで……」
「そうだったのか……」
「ありがとうございます。ユージーン侯爵閣下。私など何のお役にも立ちませんが、せめてこうして閣下に感謝の言葉を伝えたくて、ここに参りました」
 クルスにとっては、些細な、本当になんでもないできごとのはずだった。けれど彼女は、そんなクルスに感謝を抱いてここまで志願してきたのだという。
 とても複雑な気分だ。カミラは何を狙って、わざわざクルスにこんな監視役をつけたのだろう。
 けれどひとまず、この彼女にもう一つだけ聞かなければならないことがあった。
「聞いてもいいかな?」
「はい? 私でお答えできることなら、なんでもどうぞ。カミラ陛下からも、特に何かを言ってはいけないとは、言われていません」
 つまり彼女はクルスが手に入れて有利になるだけの情報を持っていないとも言える。だけど。
 主の命令を待つ忠犬のような目で彼女はクルスを見ている。
「……知っているだろうけれど、僕……私は、クルス・ユージーン。……君の名前は?」
 女性はにっこりと笑って答えた。
「アイナ、と申します」