119

 華麗な舞。
 それはそのように表現するのが相応しい剣だった。白刃のきらめきが流麗な弧を描き、残影を残して鞘に収まる。一瞬後には、辺りを舞う木の葉の全てが真っ二つに叩き斬られていた。
こんな場面、昔シェリダンが読んでくれた本の中ぐらいでしか見たことがない。
「へぇ。意外だな」
「そう?」
「そう。ロゼウスなんかの剣を見てると、もっとざっくばらんな剣技って感じがするけど、ウィル王子のはちゃんと剣道って感じだよね」
「それは……ロゼウス兄様は、単純に力と反射神経がいいから、特に型を覚えなくても戦えちゃうから実戦向きの剣を教えた方がいいだろうって、ドラク――」
 そこで彼はいったん口を噤み。
「ドラクル兄上が、言ってた」
 改めてその名前を口にした。
「そりゃ、ああいう感じにもなるわけだね」
「ドラクル兄上は……」
「ああいう感じの人だってことは、わかってますよ?」
 エチエンヌの言葉に、彼は顔を今にも泣きそうに歪めた。まだ幼い容貌……というよりも、本当に幼い少年の名はウィル。ウィル=ローゼンティア。ローゼンティア第七王子、末の王子のウィル殿下。
 シェリダンから言いつけられて、エチエンヌはここ数日彼の面倒を見ている。ローラは主に女性陣で、ロザリーは好き勝手に行動し、アンリという彼の相手はリチャードが勤めている。単純に年齢と性別だけで分担したものだ。ああ、病弱な第五王子殿下だけ特別に使用人をつけているけれど。
 シェリダンは基本的に、よっぽどのことがないと人を信用しない。だから、いざというときにこうして使える手駒は少ない。
 ローゼンティアの王族たちにはそれぞれ、あちらの弱味をこちらが握っているという点では強く出ることもできそうだが、諸々のことを考えるとそれも難しいのだと言う。彼らの扱いは客人ではないが、捕虜でもない。じゃあ何なのかというと、協力関係を求める上で審議中というのが一番近いらしい。それはつまり、すぐにでも敵に転ぶ可能性があるということ。
 だから、シェリダンは一応警戒している。ヴァンピルは強いのだ。ロゼウスやロザリーほど戦闘能力に突出した者はもうそれほどいないらしいのだが、それでも普通の人間より断然強い。だから彼らがこちらを脅すために暴れた時、誰も止められないなどとそういうことになるのは困るので、そのためにエチエンヌたちはつけられた。
 そう、彼らは、彼らの監視。シェリダンの懐刀を自負するエチエンヌとローラと、御前試合でもその凄腕を発揮するリチャードとでローゼンティア王族を監視する。
 だけど。
「意味、あるのかなぁ……」
「何が?」
「何でもない。独り言。どーぞお気にせず稽古を続けてください、王子殿下」
「僕に敬語なんか使わなくていいよ、エチエンヌ。だって、僕は今は王子として扱われるためにここにいるわけじゃないし、歳だって同じくらいだろ? 仲良くして欲しいな」
「……僕は殿下より三つほど年上ですが」
 昔の体験からこういう感じ……十二歳ほどで身体の成長止まってますが、実は僕は十五歳なんだって。
「ええっ!? 嘘ぉ!!」
 やっぱり勘違いしてたか。ああ、ってことは、もしかしてローゼンティアのあの面々みんなことごとく勘違いしてるの? 僕、お子様だと思われてる?
「どうりでロゼウス兄様の態度がなんか……ああ、ってことは」
「ウィル王子よりロゼウスとの方がまだ歳が近くて、実は僕ミカエラ王子と同い年なんだよね」
「ジャスパー兄様どころか、ミカ兄様と同じ……」
 ってその二人は一歳しか変らないだろうがって言ってやりたいけど何か落ち込んでいる風なのでそのまま放置しておく。眺めていると、先ほどはあっさりと漂う木の葉のすべてっを真っ二つに切り裂いたってのに、今度は枯葉に真正面から鼻を叩かれていた。バカだ。
「……でも、見た目は子どもじゃないか」
「事情があるんです。それを言ったら、お前らの一番上の兄貴、どこが二十代だって?」
「ヴァンピルはある一点を境に身体の成長が遅くなる種族なんだよ」
「じゃあ、僕も似たようなことが今起きてるってことで」
「納得できない」
「しなくていいよ」
 ああ、もう、本当に。
 意味なんてあるのかなぁ。
 こんな監視なんかして。今目の前にいるウィル含め、ローゼンティアの連中はもうとっくに覚悟を決めているようじゃないか。それぞれがぞれぞれ、できることのために動き出している。
 ミカエラ王子とアンリ王子、それにミザリー姫は肉体派じゃないから直接戦闘に関わる領域というよりは、貴族たちの交流関係を調べ上げてそこでローゼンティアの復興とドラクル王子たち反王権派打倒のための足がかりを得るようだった。
 一方、ここにいるウィル王子と末っ子のエリサ姫は意外にも武闘派で、何かあったら戦いは彼らに任せるなんて、一回り以上年上のアンリ王子が任命していた。二人の年齢差を考えれば明らかに大人が子どもに戦いを押し付けていて、それはいいのだろうかとエチエンヌとしては驚くわけなのだが。
 そういえば、ロザリーはどうするのだろう。彼女は最近ずっと城内をひたすらうろうろして考え込んでいるようで、あまり何かをしているという様子はない。シェリダンは時々話すようだが、ロザリーはまだ心を決めていないようだとしかエチエンヌは聞いていない。旗印にされるロゼウスが迷うのは仕方がないけれど、ロザリーは……ローゼンティアの再興について彼女が迷うのは、また違う理由だ。
 彼らは、そして自分たちは、これからどうなるのだろう。
 どうなるかはなってみないと本当にはわからないが、少なくとも今はまだ、平和だ。もちろん不穏な空気もあって、そのためにウィルはこうしてここで剣の稽古なんかしているわけだが。
 中庭の緑たちが散らされて、あとで庭師が泣くだろう。
 どうでもいいことを考えるエチエンヌの耳に、再びウィルの声が届いた。
「ねぇ、エチエンヌ」
「なんですかい、王子殿下」
 すっと目の前に少年の手が差し出された。
「君が複雑な事情の下にシェリダン王の下にいることはわかった。その年齢が、外見どおりではないということも。……それでもやっぱり、仲良くしてくれると嬉しいな」
 にっこりと彼は笑う。
 変な王子。ロゼウスとはまた別の意味で、あまりにも王子らしくない。普通の王子は、こんな風に敵国の王の小姓である元奴隷なんかに、そうやって握手を求めたりはしない。
 敬語もやめて欲しいと言われて、エチエンヌは呆れたように一度溜め息ついてみせる。まあ、もともと表面上すら取り繕いきれず、おざなりな態度だったのだから今更か。ロゼウスに対してはもうとっくにああ、なわけだし。
「わかったよ。ウィル」
 差し出された手をとり、握り返した。

 ◆◆◆◆◆

「それでは、誓っていただきましょうか? 子爵。今度こそは、裏切らないと」
 今、自分たちの目の前にはローゼンティアのとある貴族がいる。とある、というとどんなことだか意味不明だけれど、一言で言えばアンリのこの言葉からもわかるとおり、ミザリーたちを見捨てた貴族、裏切り者。
 ここはエヴェルシード国内でありながら、ローゼンティアの人間を引き込むにも都合の良い隠れ家の一つ。もともとそれが全部ハメられたことだったとはいえドラクルと手を結んでローゼンティアを侵略したシェリダンはこの手の情報に異様なまでに詳しい。なので、ミザリーたちはそのうちの一つを借りて、ローゼンティアのまだ生き残っている貴族たちと連絡をとっていた。
 生き残りと言っても、話をする相手は慎重に選ばねばならない。こちらの味方になるよう説得した相手が、まさかドラクルたちの仲間ではかなわない。人選と対応は慎重に慎重にする必要があった。それを割り出すのは、アンリの役目だ。
 ドラクルが優秀だというのは国内外に知れ渡っていた事実だが、そのドラクルに負けず劣らずアンリも優秀なのだ。第二王子で、本人が威厳とか迫力と言った言葉とは無縁の朴念仁であるためそういう見方はしてもらえないが、ミザリーたち兄妹は二番目の兄の有能さを十分に知っている。知略王子の名は伊達ではないということも。
 その知略王子の立てた作戦に、ミザリーは協力することになった。
 例えば今日、話は数時間前に戻る。
『ミザリー姫!』
 その場所で声をかけられて、ミザリーは振り返った。待ち合わせ場所をあらかじめ連絡して、ローゼンティア貴族の一人に迎えにきてもらったか弱い姫君、を演じる。演じるも何も実際ミザリーはか弱いのだが。
 そう、ミザリーは弱い。一人では何もできない。
 だから、ミザリーからの呼び出しということで警戒する人間は少ない。彼女は王族とはいえ本当に何の力も持っていない、見た目だけの女だ。
 案の定、ローゼンティア人だと知られないよう変装したその男はミザリーに駆け寄ってくると、すぐに安心させるように手を握った。
『こちらです、姫君。どうぞ我等と共に安全な場所へ……』
『いえ、待ってください。できたらこの国を出る前に少しだけお話をしておきたいことがあるのです』
 彼らがどんな情報を持っているのか、ミザリーたちにも厳密にはわからない。だから、たぶんこうだろうと主にアンリが推測した事柄を交えて、ミザリーは相手の反応を引き出すように話をする。
 アンリがこちらの味方をさせようと、引き込もうとした人種は二種類。
 一つは、純粋に彼らローゼンティア王族の味方。あのエヴェルシードによる侵略の時にも寝返ることのなかった忠臣たる人々。
 そしてもう一つは、あの時にはドラクルやエヴェルシードの思惑に乗ったが、実際にはどちらの陣営に属するという気もなく、日和見というよりもまだ浅はかな中立者を気取る小物貴族。
 後者の情報に関しては、他ならぬシェリダン王からも協力してもらった。エヴェルシードは軍事国家。武力の国とはいえ、それだけで戦争に勝てるわけではない。内部から切り崩しをかけるのが通常の有効策で、その筆頭がヴラディスラフ大公爵……つまりはドラクルで、それが罠だったわけだが、何も集めた情報の全てが無駄と言うわけでもなく、彼が見定めた上でこれは使えると思った人物のリストを作ってもらった。
 自国内の人間のことを、他国の王に聞かなければならないなんて……ローゼンティアは――いや自分たちローゼンティア王族は堕ちたものだ。だからこそ、国内からも外国からも付け入られた。
 だからって、やられっぱなしではもちろんいられない。
『なるほど、そういう事態になっていたのですか……』
 ミザリーの目の前で、話を聞いた貴族の男がこれ見よがしに同情する素振りで何度も頷く。この男はあの戦争の時、ろくに戦闘もせずエヴェルシードに降伏して王家を売り渡した裏切り者……裏切り者とも呼べないかも知れない、ただの小物。
 ミザリーは最後の仕上げにかかる。
『ええ。ですから、私、本当に不安で……一応エヴェルシード王が、こちらが簒奪者を迎え撃つ、対ドラクルの旗印として立つのならば協力してくれるとは、仰っていますけれど……』
『姫君……』
 ミザリーは両手にそっと握った男の手を、胸元に引き寄せる。触れそうで触れないぎりぎりの位置でもったいぶって、潤んだ瞳で男を見上げる。
 さぞやか弱げに。しかしどこか高貴に。そして何よりも、もう目の前の相手しか味方がいないのだと思わせるように儚げに。
 ミザリーは自分の容姿が非常に優れていることを知っている。
 そしてミザリーは……自分の取り柄が、それしかないことも知っている。
 熱心に相手を見つめてみせれば、目の前の男が薄っすらと頬を染めてたじろぐのがわかった。
 彼女ははっきりいって美人だ。ローゼンティアの王女はアンやロザリーもみんな美人だが、それでもミザリーは飛びぬけて美しいのだと。別に望んでそうなったとか気合を入れて美貌を作っているとかそういうことではなく、ローゼンティアの王族はだいたい、何かの才能を持って生まれてくる。王子よりも王女の方がその話題を出すならばわかりやすいだろうか。第一王女アンは芸術面に優れ、第四王女ロザリーは飛びぬけた戦闘能力を持っている。しかしミザリーは……何も、できない。
 綺麗なだけのお人形。硝子箱のお飾り。男たちはミザリーの美貌に背筋が寒くなるような美辞麗句を連ねてくれるけれど、口さがない婦人たちはミザリーのことをそうこき下ろしていることも知っている。
 ええ、そうよ。私は単なる顔だけのお飾りよ。悪いの? 好きでそうなったわけじゃないわよ。
 でも、だからこそ、これが役立つ時は十二分に使う。
『お願いします、子爵……』
 頼りなげなたおやかな風情で、ミザリーは男の手を握りながら訴える。
『どうか、私たちローゼンティアを助けて……』
『姫君……っ!』
 男の貴族にしか使えない手と言えばそうだけれど、大概の男はこれで陥落してくれる。
『もちろん! 我が子爵家の威信をかけて、あなた方ローゼンティア王族をお救いいたすと約束しましょう!』
 そこで。
『その話、嘘じゃありませんよね』
 タイミングよく扉をあけてアンリが部屋の中に入ってくるのだ。
『だ、第二王子殿下?』
『お久しぶりですね。子爵、ご協力ありがとうございます。あなたの忠誠心には感涙の極みですよ。では早速、どれほどのことをしていただけるか話し合いましょうか。私と』
『は、はい……』
 ミザリーは兄に男の正面の席を譲って、その隣に座りなおした。
「いや、しかし」
 密談が終わって、ハメられた貴族は心底疲れたように言った。
「まさかここまでされるとは思いませんでしたよ」
 アンリの考えた方法を簡単な言葉に直せば要は「美人局」。間違ってもこういう場面で王族がするようなもんじゃない、と。
 しかし彼は苦笑して。
「さすがに最初から俺が出て行っても、誰も話を聞いてくれないでしょ」
 アンリは国内では、ドラクルに比べて能力の劣る第二王子だと言われていた。
こんな時の交渉のコツは、相手に、こちらより自分が優位だと思わせることだという。その上で、そちらの方が立場が上なんだからとさもこちらが下手のように、相手の負担を吊り上げるのだと。
 アンリも侮られている王子なのだから、相手に自分の方が優位だと思わせることまではできる。けれど、それはそれで駄目なのだと。ミザリーにはよくわからないが、こういった交渉ごとには双方にそれなりの利益があって、それを目に見えるようにしてやることが重要なのだと。アンリ相手だと、その旨味があまりにも少なく見えるのだそうだ。
 その点、ミザリー相手だとまた問題は違ってくるのだそう。
『ぶっちゃけ俺みたいな何の取り柄もないって思われてる男の後見人なんかするより、ミザリー、お前の後見をする方が男の貴族だったら楽しいんだよ。お前がもしもローゼンティア女王になるようなことになったら、お前と結婚して配偶者の地位を手に入れられる。そうすれば今までとは比べ物にならない躍進だし、何より男は綺麗な女の子を守る、ってことにそこはかとない憧れを抱いているもんなの。まあ、王権奪還に失敗してもお前が手に入るならそれだけで! って思ってる奴はいっぱいいるだろうしな』
 無能だと思われているのはミザリーも同じ。そのミザリーが……。
「よもやあなたがここまでするとは思いませんでしたよ、ミザリー姫」
 私にも、何かができたら。
「それでは、協力の件は」
「ええ。お約束いたしましょう」
 取引は無事終了し、男は来た時よりもさらに慎重に国へと帰る。いまやこの問題はローゼンティアだけでなく、エヴェルシードまで巻き込んだ、建国以来の大事となってしまった。だから、慎重に行動せねばならない。
 しかし去り際、男は気になることを言った。
「そういえば王子、姫、王権派、反王権派という言葉を知っていますか?」
「え?」
「……どこかで聞いた事があるような……」
 王権派。反王権派。なんだろう、どこかで耳にしたことがあるような気も。
「簡単に言ってしまえば、王権派はローゼンティア王族支持の派閥、反王権派はヴラディスラフ大公支持、つまりはドラクル殿下の派閥ですよ」
「ああ」
 アンリが納得したように頷いた。
「しかし、その王権派の一部の姿が、最近見えなくなっているというのです」
「どういうことだ?」
「いなくなった一部というのは、特に王家を持ち上げる青年貴族たちだったのですが、つい最近、国内を移動する姿が見られたという情報が入って以来、音沙汰なしなんです。その時期と言うのが」
 アンリとミザリーは顔をしかめた。
「皇帝陛下の歓迎晩餐会の前後?」
「私たちが、ちょうどドラクルと対峙した時だわ……」
 何故、よりにもよってその時期なのか? あの頃、やはり何かあったのだろうか?
「そして、これは一応まがりなりにも反王権派に所属していた形になる私には不確定情報で、確約はできない報せなのですが」
「話してくれ」
「その王権派と共に、第五王女メアリー姫が一緒にいたというのです」
 そして最後の王族が舞台に揃う。


120

 夢を見ていた。
 あの日の庭園。
 クルスは自らの剣を持って、一人の青年にその切っ先を向けている。手袋を叩きつけて、相手を睨む。今の自分から昔の自分に忠告が叶うなら即座にやめろと言ってやるのに、そんなことできるわけないのが哀しかった。
 決闘を仕掛けた。負けた。
 相手はその端正な容貌を歪めて嗤う。
 それだけならまだしも、打ち負かされたクルスへと手を伸ばす。剣技に関してはまだともかく、この時のクルスの腕力はまだ、少年期を抜けない子どものそれ。頼りない、それ。とうに成人した大人の力には敵わず、呆気ないほど簡単に地面に押し倒されて組み伏せられる。
 無理矢理仰ぐことになった空が狂気のように青く、一瞬のその光景すら青年の長い蒼い髪が紗幕のように塞ぐ。
 見上げた相手の、白い肌に浮かぶ口元が嗤う。ふいに、決闘で怪我をすることや命を失うのとはまったく違った恐怖が込み上げてきて、思わず身も世もなく抵抗した。叫んだ。
 口づけられて滑り込んだ男の舌の感触。生温い唾液の味。肌蹴られた胸元を撫でる手。何もかもが気持ち悪い。イヤだ。誰か。助けて。
 王宮に用事のあった父親が姿を見せたときは本当にほっとした。
 相手は伯爵。こちらは当時侯爵子息。相手は元は公爵家が降格されたもので、こちらはもともとの階級から成り上がったもの。そして事が事だけに訴えることもできない。
 蟠りを抱えたままクルスは成長し、やがて、その因縁ある相手がクルスと同じくシェリダン王子の懐刀の一人だと知る。
 もう、あの頃ほど彼を怖いと思っているわけではない。現に、シェリダンの命令だと思えば協力だってできる。だけれど。
 そこで夢は急速に遠ざかっていった。人の気配に、身体が自然と起きはじめる。
 冷たい。硬い……石? の感触。クルスは今までどこか石床のある部屋に転がされていたらしい。
「気がつきましたか?」
 聞き覚えのある……なんてもんじゃない。よく知っている声が聞こえた。
「イスカ……ト、……く」
「おはようございます」
「ここ、は……」
「地下牢ですよ。あなたが忍び込んだあの屋敷の、ね」
 薄汚れて凍えた静謐なその部屋に、嘲るような彼の声は思いがけずよく響く。
「な……ん……」
 喉が貼りついたように、声が上手く出ない。渇いたな、と思った瞬間、鉄格子の扉を開けてイスカリオット伯は中に入ってきた。
 けれど扉が開いても、逃出す事はできない。地下牢の床に転がされていたクルスの手足は、縄できつく縛られている。腕も動かせないよう胸の辺りと、膝までがっちりと。まったく、これでは本当に手も足も出ない……。
 このままならさぞや首を落とし安いだろう。
 そう思った瞬間、足の拘束が解かれた。ついでに胸も。えっと思う暇もなく肩を無理矢理抱き起こされ、顔をあげさせられて。
「ん……」
「喉渇いてるんでしょう、さ、どーぞ」
 投げ遣りな口調で、イスカリオット伯爵ジュダはクルスの口元にどこからか取り出した水差しを近づけた。ようやく水分をとって、人心地がつく。
「はっ……イスカリオット伯!」
「なんです? クルス=ユージーン侯爵」
「先ほどの話は、本当なのですか!?」
 この際腕の拘束などどうでもいい! クルスは真っ先にそれを尋ねた。どうあってもこれだけは、確かめておかねばならない。
「あなたはこの国を……シェリダン様を裏切るおつもりですか!?」
「裏切る?」
 彼は酷薄に微笑んで、祭壇の上の羊を眺めるような、哀れなものを見つめる眼差しでクルスを見た。
「裏切るも何も、私ははじめから誰の味方でもない」
「そ……」
「誰も彼もを自分の基準で考えるのは誤りですよ、クルス卿。それがいい意味であれ悪い意味であれ、人は確かに自分と同じように他人を考える生き物ではあります、が……」
 クルスよりも八歳ほど年上のジュダは、大人が子どもに対して言い聞かせるように言う。
「飛んで火にいる夏の虫、か」
「え?」
「さぁ、どうしようかな。ここであなたを始末してもいいんですが、そうすると陛下の疑惑を深めますからね」
 そうだ。自分は出る前にこのことをエルジェーベトに告げてきた。彼女から連絡が行けば、あるいは。
 しかしジュダの言葉は憎らしいくらいに余裕綽々で、この事態にも全然動じていないようだった。クルスは今更になって自分の行動を後悔する。一人で出てきたのが吉と出るか凶と出るか、自分でもわからない。部下を使えば人知れず始末されてしまうだろうし、自分で行けばこういう危険はあるけれど、少なくとも侯爵が行方不明になれば、シェリダンに何らかの異常を知らせることだけはできるだろう。
 殺すなら殺せばいい、と腹を決めて叫ぼうとしたクルスの耳に、ジュダの、どこか気だるげで投げ遣りな声が届いた。
「まあ、いいか」
「な……」
「準備はすでに整っているのだし、後は計画を予定よりも早めてしまえばいいだけですしね。先ほどあなたも見たとおり、あのヴィルヘルム王が協力してくれるというならば、わざわざ彼らを待つ必要はない。むしろ、ドラクル閣下たちがいない今の方が好都合かも……」
「な、何を……」
 するつもりなのだと、最後まで問いかけることは叶わなかった。
「がはっ!」
 腹部に入れられた一発のせいで、一瞬息が止まった。彼は腕を拘束されたままのクルスの前髪を掴んで、無理矢理顔をあげさせる。
「い、ぐっ」
「準備は整っているとはいえ、やっぱり人に計画を左右させられるのは不愉快ですからね……」
 余裕に見えたが、これはこれでジュダは怒っているらしい。橙色の瞳を細めて、彼はクルスを見下ろした。その瞳がふと、興味深そうな色を湛える。
「連絡をつけて状況を整えるまでに、少なくとも数日はかかる、か。シェリダン様がユージーン侯爵の不在に気づくのもだいたいそのぐらいだとすると」
 エルジェーベトには細かいことを連絡していない。彼女が動き始めるのがいつになるのか。国内で彼女に勝てる者がいない以上、ジュダが彼女に口封じの手を放つ事はないとしても。
 嫌な予感がする。
「別にここであなたを殺すことに益はないわけですし、そう、それに」
 彼はクルスの前髪を放し、代わりに落ちた頭を、顎に指を当てることでまた顔を上げさせる。至近距離で見つめられて、その瞳から目が離せない。
「そういえば君には、他にも何度か借りがありましたね……五年前の続きも」
 びくり、と自分の身体が震えるのをクルスは止められなかった。目覚める前に見ていた夢を思い出した。
 庭園。青空。のしかかる男の身体。
 もっと酷いことに、今日は腕を拘束され、しかもここは誰の助けも来ない地下牢。
「ユージーン侯爵クルス卿、実は私は、あなたの事が嫌いで嫌いで。その陛下に忠誠を尽くして、それを疑うことなど考えてもいないというような態度に腹が立って仕方ないんですよ。その、挫折など知らないというような態度も。だからあの時、ずたずたに引き裂いてやりたかった。本当なら王宮で強姦された侯爵の一人息子は、あまりの絶望に自ら首を括るという悲劇を演じてくれるはずだったのに」
「イスカリオット伯……」
 ジュダがクルスを見る目は、例えようもなく冷ややかだ。
 視界が揺れる。あの日に戻る。
「さぁ、しましょうか。あの日の続きを。――知ればいいんですよ、あなたも。この絶望を」

 ◆◆◆◆◆

 私はどうしてこんなところにいるのだろう。
「カミラ姫、どうかしたかえ?」
 ロゼウスの一番上の姉……アン王女がカミラの様子に気づいて声をかけてくる。
「いえ、なんでもありません」
「そうか? だが、無理をしてはならんぞ。具合が悪くなったら、すぐにでもわらわにでも誰にでも言うがいい」
「はい……」
 ローゼンティア第一王女は、どうやら随分なお人好しらしい。カミラの身体を気遣ってそんな態度をとるのは、彼女くらいのものだ。男性陣はもちろん、もう二人の王女はすっかり萎縮してしまっている。
 それは当然でしょう。だって、私はエヴェルシードの国王の妹。
 あのルースという姫はわからないけれど、メアリー姫はカミラに怯えているようだった。あの姫君はカミラだけでなく、自らの兄であるドラクルたちにも怯えているようだから仕方ないが。
「……これから、どうするのかしら」
「え?」
「アン姫。何かドラクル殿下から聞いていらっしゃいますか?」
「……いいや。わらわは、まだ何も。ルースならば何か知っておるやも知れぬが」
 彼女は今、ここにはいない。ドラクルも、それからヘンリーと呼ばれていた王子もいない。
「まあまあ、そんなに気構えないでよカミラ姫」
 彼女たちをここに押し込めている張本人ハデスは飄々としたもので、同じ部屋の隅のソファを独占して寝そべっている。
「今は情勢が不安定だからね。さすがにシェリダン王たちも動き出してきたし、ローゼンティアの方も」
 ローゼンティア、と言う言葉にアン王女が一瞬身体を震わせた。彼女は国を思っている。
 カミラとは違って。
「そうか……やはり、割れてしまうか。国民も巻き込まれて」
「今更だよ、アン殿下。国の頭が争えば尾まで巻き込まれるのは仕方ないでしょ」
「じゃが、民には何の罪もないのに……」
「人間なんてそんなものだよ。何もしないのが良いこととも限らないし」
 そこでアン王女は視線をそっと彷徨わせた。
「そう……じゃな」
 今の彼女たちの現状は、これまでの誰かの行動の結果であり、それは何も行動を起こさなかったという行動の結果でもある。あの日、あの時、もしも勇気を出して止めていれば起きなかったはずの問題の。
 気分が悪くなってきた。
「カミラ姫?」
 カミラはアンの手を振り払い、駆けた。気持ちが悪い。吐き気がする。何もかもがおぞましい。怖い。
 胃をひっくり返して中のものを吐き出して、一息ついたところで脱力感が身体を支配して、洗面所から動けなくなってしまう。どうしようもない不安と恐怖に、誰かに抱きしめて欲しいと思ったとき、やはり一番に頭の中に思い描いたのはロゼウスだった。
 愛しい愛しいあの方。
 なんで私はここにいるんだろう。できるなら昔に戻りたい。国と国の争いの話なんて、難しい事は知らないわからない考えたくない。ああ、どうして。
 私をこんな状況に追いやったシェリダンが憎い。あんな男、さっさと死んでしまえばいいのよ!
「……ま、ロゼウス様……」
 目尻に涙が浮かんでくる。それが嘔吐に伴う生理的なものか、心から流れてくるものなのかもう判別がつかない。
 どちらでも今、カミラが泣いているということには変わりがない。
 そしてそんなときに、抱きしめてくれる人も慰めてくれる人も誰もいないということも。
「ロゼウス様、ロゼウス様、ロゼウス様……」
 戻りたかった。戻れないと知っているからこそ、戻りたい。
 カミラを嘔吐させる原因は、この腹に宿った命。それはもしかしたら希望かもしれない、もしかしたら、絶望、なのかも知れない。
 無理矢理組み敷かれて足を広げさせられた恐怖と屈辱は忘れない。シェリダン。あの男は私の兄でありながら!
 だけれどそれと同時に、痛いような甘い記憶も蘇る。ロゼウス様。いくら細く見えても、女であるカミラより確かにしっかりとした体つきだった。すまなそうに触れる手。だからこそ、涙が零れる。
 あの薔薇の庭園で、ただ向かい合って話をしているだけでカミラは幸せだった。
 もう、どうやってもあの日には戻れない。

 ◆◆◆◆◆

 身体が動かない。
「さっきの水……何か、薬を……」
「そうですよ。ようやく利いてきたようですね」
 奇妙な倦怠感を覚えて、クルスは目前のジュダに尋ねた。彼は嘲るような笑みを浮かべたまま、その言葉に頷く。
「これでは抵抗もできませんね」
 全身が気だるく重く、動かない。先ほど飲ませられた水に入っていたのが何かはわからないが、どうせろくなものでないことは確かだろう。
 抵抗できないならこれも必要ないだろうと、伯爵はクルスの腕の拘束も全て外す。縄が解かれる瞬間、力を振り絞って身体を動かそうとしたが、やはり駄目だった。
「ああ……綺麗に痕がつきましたね」
 手首を縛っていた縄のために、赤い模様がくっきりと残っている。それを眺めて、伯爵は恍惚と呟いた。
 腕に残った縄目を舌で舐め上げる。生暖かく濡れたその感触に、鳥肌が立つ。
「あ……あ……」
「さて、お楽しみといきましょうか」
 すらりとした長く形良い指が、シャツの胸元を掴む。力を入れて、生地を引き裂いた。悲鳴のような甲高い音が響く。
 ここは彼の屋敷の地下室。
 薄暗い石造りの牢獄。床は冷たく、かび臭い。鉄格子が無慈悲に外界へのつながりを閉ざす。
 クルスは今、ここで、裏切り者のイスカリオット伯に犯されようとしている。
 五年前の忌まわしい記憶が蘇って、恐怖に身体が震える。それを、伯は目ざとく見抜いて声をかけてきた。
 破られた胸元が肌蹴られ、晒された肌に指が這う。
「怖いんですか? ユージーン侯爵。……いいえ、ここはあえて、クルス君と呼ばせてもらいましょうか」
「あ……」
 クルスは自分で自分が青ざめていくのがわかった。
「や、やめ……ん!」
 床に押し付けられ、唇を重ねられた。口腔を蹂躙するあの日のように濃厚な口づけに、ますます恐怖が煽られる。
「ん……っ、ぐ、……はぁ」
 絡められる舌に、意識が奪われる。口の端から唾液が零れて顎を伝った。息が、苦しい。
「はっ……はぁ、はぁ」
 口づけをやめて、伯はクルスの下唇をぺろりと嘗めてから顔を離した。
「どうです?」
 猫のように細められた瞳が、こちらを覗き込む。
「何、が……」
「まだ、駄目ですか。じゃあ、今度はもうちょっと……」
 クルスの返答がつまらなかったのか、ジュダはまた何か手を動かし始めた。
「何を……ひっ!」
 その手が、クルスの下肢に触れてくる。
「ああ、その前にこっちから慰めてあげるべきでしたかね。処女でしょうし」
「なっ……やめ、イスカリオット伯! ん!」
 下肢に伸びた手はそのままに、胸元に伸びたもう片方の手が破いたシャツをのけて敏感な場所へと触れる。
「痛っ」
 乳首を抓んだジュダは、それを執拗なまでに弄び始めた。力の入らない身体はいつの間にか、ジュダの膝に抱えあげられている。
「あ……いや、やめ、てくださ……い……」
 大人の男の、優美だけれど戦いを知らぬものではない武骨な指に弄り回されて、そこが赤く尖り始める。
 それと共に、何ともいいようのない感覚が背筋を這い上がってきた。
「痛いだけじゃないでしょう?」
「……っ!」
 くすくすと耳元で笑われて、思わず頬が紅潮する。それに気をとられていると、ふいに身体の中心に刺激が加えられた。
「あっ……!」
「そろそろこちらも可愛がってあげましょうか。ああ、気にしなくていいですよ。後でたっぷりこちらも楽しませてもらいますから」
 服の上から乱暴に握りこまれて、思わず悲鳴が上がる。強くすりあげる手の動きに、腰が逃出そうとするがそれを許してくれる相手でもない。
他人の手に自分のものを触られているという羞恥に、どうしようもなく顔が熱くなる。
「もう、やめてください……っ!」
「まさか」
 クルスの懇願を薄笑いで一蹴し、ジュダはさらに大胆な行動に出る。服を剥ぎ取られ、裸身を目の前に晒された。刺激を加えられて緩々と熱をもちかけた場所を見せ付けられて、いたたまれなくなるクルスの様子には構わずに、不躾なくらいまじまじと観察してくる。
「へぇ……」
「やめ、やめてください……あっ」
 生暖かい舌の感触を覚えると同時に、濡れた粘膜に包み込まれる。
「な、何をして……ああっ!」
 先ほど手で弄ばれた部位を、今度は口でしゃぶられる。異なる刺激に、もう言葉も出ない。
「ふ……うぁ、うう……」
 ぴちゃぴちゃと卑猥な水音が響いて、耳からクルスの行動を束縛する。認めたくはないけれど確かな快感に、動けない。
 頭が真っ白になる。
 息があがって、思わず呼吸を荒げて酸素を求めた。
「信じ、られない……!」
「そうですか? よくやってるでしょう? シェリダン様とか」
 怒気を込めて呟けば、飄々とした言葉が返される。だけれど、主君のことを持ち出されては黙っていられない。
「ふさけないでください! あの方とあなたのような人を一緒にするなんて!」
「私とシェリダン様と、どこがそんなに違うって?」
 イスカリオット伯はクルスの両腕を掴むと、身体の上にのしかかってきた。
「あなたはあの人を神聖視しすぎていませんか? ご幼少の砌より父王陛下に強姦されて、いけない遊びをいろいろと教え込まれているあの方がそんなに初心なわけはないでしょう。そんなんだったら、どうして男を花嫁になんかするもんですか」
「ですが、あの方は……っ!」
「諦めなさい、クルス君」
 彼はいっそ酷薄なほどに優しく微笑んで。
「あなたもあの方も、これから堕ちるところまで堕ちていくんですよ」
 絶望を突きつけた。
「ぐっ!」
「さぁ、今度はあなたが僕を楽しませてください」
 いきなり口内に彼のものを突っ込まれて、涙が出そうになる。いっそ噛み切ってやろうかと思ったのに、顎に力が入らない。
「う、むっ、ん――っ!?」
「薬がいいように利いているみたいですね。今のあなたでは、大人しく僕のものをしゃぶるくらいしかできない」
 熱く硬いものに口腔内をかき回されて、吐き気が込み上げる。
 しばらくして出された白濁を、残らず床に零した。ごほごほと噎せるクルスを、ジュダは無理矢理ひっくり返す。
 固い床に押し付けられて、あちこちが軋んだ。冷たい石床に胸の先端が直接触れて、妙な感覚を伝えてくる。
 ジュダに腰だけを抱えあげられて、みっともなく犬のように顔を床につける羽目になった。
「な、にを……」
 自分でも触れた事のない場所を男の指がいきなり暴く。
「ひいっ!!」
「やっぱりきついですね」
「あっ、痛、痛い! やだ! いやぁ!!」
 しばらく自分の指を舐めていた伯が、その指をクルスの後ろへと伸ばしてきたのだ。肛門に無理矢理侵入しようとした指の質量に、激痛が走る。
「痛! や、やめて! やだぁああ!! ああっ!」
 構うこともなく、ジュダの指がクルスの中をかき回す。その奥の腸ごと引きずり出されそうな感覚に、言葉にならない恐怖を覚える。
 けれど、中のある一点をジュダの指がついた時、確かに痛みだけでない感覚が背筋を走った。
「ここ、ですね」
「な……あ、ああっ! ひっ、ふぁあ!」
 もうたまらなくなってぽろぽろと涙を零せば、くすくすと笑う声が降ってきた。段々と数を増やし、先ほど感じた場所を集中的に攻める指先に、何も考えられなくなる。
 やがて、指先が抜かれるとようやく圧迫感が消えてほっとした。
 けれどそれも一瞬のことで。
「あ……あ――っ!!」
 指とは比べ物にならない質量が、さんざん解きほぐされて、けれど間違ってもこんな風に受け入れるためではない場所へと侵入してきた。
すさまじい痛みが神経を焼ききる。
「あなたが悪いんですよ、クルス君」
 執拗に中を突き、内壁を擦るそれの感触に気をとられて、その言葉が何を意味するのかもわからずに。
 クルスは意識を失った。


121

 生臭いようなかおり、血の匂い。
 目元を涙でぐしゃぐしゃにしたまま意識を失った青年の身体を抱きかかえる。愛らしいとさえ言える容貌が今は苦痛に多少歪み、明るい橙色の瞳は瞼の奥に隠されている。
 そのまま数分、クルスの寝顔を見ながらぼんやりとしていた。
「あーあ、やっちゃったね」
 気配をさせずに地下へと降りてきた少年が、情事の名残も濃い牢獄の中を見てにやにやと笑いながら言う。
「ヴィルヘルム王……」
「かわいそうに。初めてなのにそんな乱暴にしちゃって」
 床の上の血の痕を眺めながら同情の眼差しをクルスに向けるセルヴァルファス王。普段は気配に聡いクルスは、不躾な眼差しを受けてもぴくりとも動かない。
 ぐったりと気を失っている青年の頬を撫で、苦しげに眉根を寄せたその額に口づける。
 頬にかかった蒼い髪を払いのけてやり、苦しくないよう体勢を変える。
 ヴィルヘルムは牢獄のこちらと向こうを隔てる鉄格子に指をかけ、中を覗き込んでいた。
「満足かい? イスカリオット伯」
「満足?」
 腕の中のぼろぼろの少年を見下ろす。
「満足そうに、見えますか?」
「さぁ? 人間は見かけじゃわからないものなんだろ?」
「ワーウルフやヴァンピルは違うんですか?」
「ヴァンピルはよくわからないけれど、ワーウルフはどうだろうなぁ。顔に出やすいヤツラばっかだからな」
「その割にあなたは策謀に長けているようですが」
「えへへへへ」
 鉄格子を開けてヴィルヘルムが中に入ってきた。そのまま何をするのかと思えば、彼はこちらに触れてくる。
 先ほどジュダがクルスにしたように頬に手をあてられて、瞳を覗き込まれる。
 ワーウルフ、セルヴォルファス王国の民の瞳は灰色だ。髪の色も薄い茶色と、彼らは淡い色彩を身に纏う。蒼い髪に橙色の瞳と、強い色彩を持つエヴェルシード人とは大違いだ。
 なのに、その瞳に宿る力は強い。なまなかなことでは逸らされない肉食の獣の瞳が、心の奥底を見透かすように視線と毒を注ぎ込んでくる。
「君の心は虚ろだねぇ、伯爵」
 虚ろ。空っぽの。
 我が貧しき心。
「知っていますよ。そんなことくらい」
 あの日からジュダの心はからっぽだ。この胸に住まう人々はとうに早桶の下に眠っている。
 それをどうにか埋めたくて、様々なことに手を出したけれど、やはりまだ。
「私は満たされない」
 けっして満たされる事はない。
「そうだね。伯爵」
 何が嬉しいのか、セルヴォルファス王は穏やかに笑う。
「一度傷ついた心ってのは、そう簡単に満たされるものではないよね」
 意味深な口調は、彼もそのような経験をしたことがあるような物言いだった。
 だけれど、その目は笑っている。
「傷ついて失って手に入らなくて。――可哀想に。君もシェリダン王も、あのドラクルでさえ、本当に欲しい物は手に入らない」
「……あなたは? では、あなたはどうなのです? ヴィルヘルム王」
「俺? 俺はそんな辛い思いなんてしたことないよ。得たものはあったけど、失ったものなんてないし」
 だからそんなものは知らない。周りを見て勝手にそう思ってるだけだと、若くして全てを手に入れ、なお欲しいものを手にするための画策を辞さない少年王は一段上からものを見ているような顔をする。
「なぁ、伯爵。俺は思うんだけれど、きっと傷ついた人間ってのは二種類に大別されると思うんだ」
「……二種類、ですか?」
「ああ」
「そうですか。ほう」
「あれ? 続き聞きたくないの?」
「ええ。別に聞きたくありません」
 彼の見解など知りたくもない。自分は自分が今感じているものの処理だけでいっぱいなのだから、他人の高尚ぶった意見などいらない。
 ましてやそれが、堂々とジュダとは立場が違うと、失ったものなど何もないと言い切る者の言葉なら尚更だ。
「ま、別にいいけど。あんたが聞きたくなくても俺は勝手に俺の言いたいことをいうだけ」
 だったら初めから聞くなと言いたくなる気軽さで彼は先ほどもったいぶったことを口にした。
「傷ついた人間は二種類に大別にされる。一つは、自らが与えられた痛みに学び、その傷を外へ広げないよう優しくなる人間。そしてもう一つは」 
 彼はジュダの腕の中で気を失っているクルスを見下ろした。とても哀れなものを見る眼差しで。
「自らがつけられた傷を他者に跳ね返し、自分が失ったものを世界から、別の人間から奪い去ってその空洞を埋めようと言うもの」
 ああ、それを言うなら私は間違いなく後者であると。
「そう言いたいのですか、あなたは」
「そういうことにしておいてやってもいいけど?」
 断定はせずに彼は卑怯にも最後の一歩を踏み込まずにそう告げた。
「可哀想に。心に傷を持つ者は。奪われた心の虚ろを埋めようとして、さらに虚ろを広げていく。可哀想に」
 笑い交じりのヴィルヘルムの声が呪うように耳に届く。遅効性の毒のようにじわじわとこの身に染み渡る不愉快なその感触。
「可哀想に。虚ろな者に、自らを奪われる者は。それはそいつ自身が悪いのではなく、別の誰かのせいなのに、とばっちりで傷ついて。その人がまた誰かに傷を植え付けるなら、共食いの連鎖は終わらない。可哀想に」
 どこか自身の考えに陶酔するようなとろけた響を持って、彼の言葉は続く。
「可哀想に。人は。生き物は。この世界は。いくら二種類に大別されるからって、俺は傷つけられた分だけ傷つけて、奪われた分だけ他人から奪う人間しか見たことない。自らがつけられた傷を糧に癒しと咲き誇る、そんな聖人見たことないよ―――」
 傷つけられた分だけ傷つける。それを言うなら、シェリダンがその筆頭ではないか。彼は母親の自殺と父の虐待によって自らの存在そのものを否定され、自分を繋ぎとめる確たるものを持たないが故に、この国と共に心中しようとしている。
 また、そのシェリダンを利用してジュダたちと協力しているドラクルだってそうだ。彼が不義の子であり王位を奪われたことは、ロゼウスの意志ではどうにならなかったことだし、彼がドラクルの出生の責任まで負えるわけはない。けれど父王ブラムスを殺害した今、ドラクルの憎悪ははっきりとロゼウスに向かっている。
 カミラだってそうだ。シェリダン自身にはどうにもならなかったその出生と男子優先継承の問題でシェリダンを憎んだ。
 そしてきっと、私も……。
 私たちはどうしようもない、自らの力では変えようのないことゆえに人に傷つけられ痛みを知り、その痛みから逃れたくて更に人を傷つける。
 腕の中の青年を見下ろす。五年前未遂に終わった悪夢の続きを今回このような形で彼に見せた。これはジュダの八つ当たり。
 あの日の庭園で、晴れた空の下まっすぐな眼差しで決闘を仕掛けてきた少年。明らかに年上であるジュダの前でも辞さないその態度は高潔であったが、だからこそ妬ましかった。
 挫折を知らないその瞳を苦痛と憎悪に歪ませてやりたかった。
 ありったけの理不尽を世界に撒き散らして黒く染める。
 自分の手がどれほど汚れても、他の者の手も汚れているなら何も気にする事はない。だから。
「可哀想に」
 自分たちは確かに可哀想なのかも知れない。そしてその裏側に極悪非道と言う名の闇を飼っている。
 可哀想な人間であれば周りを不幸にしていいわけではない。どんな理由があったところでそれが許されるはずもない。わかっている。
 わかっていて望んだ。
 だからやはりこの道の行き着く先は破滅しかないのだ。そう、シェリダンがそう望むように。
「ヴィルヘルム王」
「んー?」
「あなたは……」
 そんなジュダたちをただ可哀想だと告げるこの少年王に何かを言ってやりたいような気もしたが、上手い言葉が思いつかなかった。彼は、たぶん。
「いいえ。失礼しました……あなたにそれを突きつけるのは、きっと私ではないのでしょうね」
 それはたぶん、この少年王が執着する薔薇の王子の役目なのだろう。
「何? 何の話」
「なんでもありませんよ」
 相手が突っ込んでこないことをわかっていて、私は否定の方向に緩く首を振る。
 腕の中の温もりに意識を戻す。ユージーン侯爵クルス卿、彼はまだ目覚めない。
 そして目を覚ましたとき、彼はジュダをさぞや憎んでいることだろう。未遂の五年前ですらあれなのだから、今回はどのようなことになるのか。
 だけれど。
「ヴィルヘルム王」
「ん?」
「もしも、あなたが先に言ったような、傷つけられてなおその痛みを糧に優しさとし、相手を赦すことができるような人が現れた、その時には……」
 果たして世界は、どう変わるのでしょうか。

 ◆◆◆◆◆

 誰かが呼ぶ声を聞いた気がした。
「ん?」
「おい、葡萄酒もう一杯……って、どうしたんだ? フリッツ」
「いいや」
 馴染みの客が空になったグラスを手に怪訝そうにこちらを眺めている。酒場の店主が明後日の方向を見遣り、突然動きを止めてしまえばそうもなるだろう。
 フリッツが経営している店は今日も変らぬ客の入りようだった。『炎の鳥と赤い花亭』は普段と同じく平和だ。
 なのに、何故か胸騒ぎがする。
「なぁ、何か最近、変わったことってなかったか?」
「変わったこと?」
 目の前に座っている客に話しかける。顔を赤らめた中年の男は、首を傾げた。
「変わったことってどんなことだ?」
「なんか、国が関わるようなことでさ」
「ああ、シェリダン王かい? あんたの甥っ子だもんなぁ、フリッツ」
「……そうだよ」
 男のこういった言葉を、受け入れられるようになるまで何ヶ月を要しただろうか。フリッツと、この国の現国王である甥っ子のことは今になってようやく下町の人々にも納得されたらしく、以前にあったごたごたも今では落ち着いている。
「王宮周辺で変わったことねぇ、何かあったか?」
 話しかけた客が隣の客に声をかける。一人で飲んでいても、ここで見かける顔は八割がたが知り合い、残りの二割程度が旅人や外の人間と言うぐらいでほとんど顔見知りだ。
「変わったこと? ああ、この前、なんか偉い人が来たんだろ?」
「皇帝陛下? だっけ」
「そうそう、皇帝陛下の歓迎会があったんだろ? お城で」
「……それは知ってるんだが」
 男たちが話してくれたのは、国内で知らない者はいないだろうという、皇帝陛下訪問の情報だった。さすがにそのぐらいはフリッツだって知っている。
「そうじゃなくて、他に何かないか?」
「他にぃ?」
「おい、フリッツが王宮のこと知りたいんだってよ。何かないか?」
「いや、そこまで大事にしてくれなくてもいいんだが……」
 一人が店の他の客に向けて尋ね始めると、あっという間にその質問は店中を駆け巡った。軽く情報を知る程度でよかったのに、いつの間にか訪れた客の全てを巻き込んでしまっている。ここまでして知りたいわけでもなかったんだが。
 どうせここで聞いたところで、ロー、ロザリーがどうしてるかなんてわかるはずもない。
「ああ、今、王様はまた兵士を集めてるって噂なら聞いたことあるぜ」
「え?」
「何……?」
「近いうちに、またどこかの国と戦争するんじゃねぇか?」
「それにしては、遠征の情報なんて――まさか」
 エヴェルシードは確かに年がら年中戦争をしている国と言えるが、それでもさほどの話として広まっていないと言う事は、準備に比べて出発の心構えが少なくていい距離にある国と言う事だ。
 今のところエヴェルシードにとって、戦を仕掛けるのにそれだけ都合の良い国は一つしかない。だが、その戦いはすでに決着がついたはずだろう。
「何でまた」
「知らねぇよ。偉い人の考えることなんてさ。俺たちはただ王様の言うとおり戦争に行ってくるだけさ」
「……」
 一体、自分たち市井の者が知らないだけで、この国で今何が起こっているのだろうか。
 フリッツは視線を上げた。窓の外を眺める。
 そこからは、いかにも頑強そうなエヴェルシード王国の王城、シアンスレイトが見えていた。

 ◆◆◆◆◆

 世界とは移ろうものだ。
 わかっている。嫌と言うほど。だけれど、心のどこかで納得できない。
 いつも引き篭もっているシェリダンの部屋ではなく、中庭の薔薇園に足を運んでロゼウスは景色を眺めていた。
 ここへ来ると、カミラを思い出す。だから食料として必要な薔薇を採りに来る時以外は、極力近寄らないようにしていた。
 ここより北に位置するローゼンティアはもちろん、エヴェルシードも常は薄曇の日が多い。今日は珍しく晴れた空から注ぐ陽光を浴びないように気をつけながら、ロゼウスは四阿の卓に突っ伏している。
 こんなことをしている場合じゃない。思えば思うほどに、結果を出すことを阻害するもどかしい焦りだけが募っていく。あれ以来何度も何度も、シェリダンの言葉の一つ一つが頭の中をぐるぐると回っている。
「俺は……」
 ふと閉じた瞼の裏には、白き冬の薔薇の国の光景。
「俺は……どうしたら……」
 ローゼンティアを本当に取り戻すつもりならば、シェリダンの提案に乗るのが得策だ。彼の後ろ盾を得て、次代の正当な王だと名乗りを挙げてしまえばいい。王権派、反王権派などという勢力ができあがっているくらいだから、良い意味でも悪い意味でもそのことはもうすでに国の上層部には知れ渡っているのだろう。
 それが一番丸く収まる方法だと、言われたら反論できない。国家のためにその身を捧げろと言われて、それを断るのはただの我侭だ。
 じゃあ、なんで俺はそうまでして我侭を言いたいんだ?
 ローゼンティアのため。その言葉に、どこか納得のできていない自分を知っている。この国へ来た時だって、自分はローゼンティアのためというよりもむしろ、ドラクルとの確執や、家族と別れた不安を誤魔化したい気持ちの方が大きかったのではないか?
 今までは認めたくなくて目を逸らしていた己の心と向き合う。
 自分は臆病で卑怯者だ。知っている。わかっている。わかっているだけで向き合う努力をしないことが尚更卑怯なのだと、その事実からすら自分は今まで目を背けていて。
 だけれど、今度ばかりはそういうわけにはいかない。
 ロゼウスの浅はかな目論見は、ドラクルのお気に召さなかったようだ。王位を譲るといってもそれを簡単に受け取ることなど彼がしないのは、きっとロゼウスの中にある打算に気づいているから。
 彼は知っているのだろう。ロゼウスの本当の想いを。そして。
「俺は――わかってる。本当は。でも」
 わかっているのだ。
 もうとっくに、わかっていたのだ。
 そのことに。その気持ちに。
 だけれど、それを認めてしまえば、もう後戻りはできない。
「怖いんだ」
 前に進むのが。
 ずっとここに留まっていたいのだ。暖かくも冷たくもないこの場所で、永遠に足踏みし続けていたい。前へ進むことで何かが壊れるのなら、永劫にこのままの姿勢で立ち尽くしていたい。
 なのに、いつも、その臆病さを彼は咎めて目の前に鮮やかに浮かび上がらせる。
 ぐるぐると埒の明かない行き来を繰り返すばかりの思考に、火照りかけた頬を冷ますように、庭園に風が吹く。
 そうすると、そこかしこに咲き誇る花が一斉にその存在を浮かび上がらせ主張するように、さわさわと揺れ乱れては芳醇な香りを放った。甘い香りに誘われて、思わず目を上げてまだ風の名残に揺れる薔薇たちを見つめる。
 この庭園の薔薇の色は赤、緋色、黒薔薇の濃き蘇芳。
 どれも血の色であり、炎の色と呼ばれる同じ赤の仲間だ。
 けれどロゼウスにとって、もうそれは炎を示したりなんかしない。ロゼウスの瞳の色に近いようなそれは血の色ではあるけれど、決して炎の色なんかではない。
 本当の炎とはああいうのを言うのだと、もうロゼウスは知ってしまった。
 燃え上がる朱金の瞳。
 まさしく炎の国の王。
 破壊を示すという炎の特性そのままに、苛烈で、時に氷よりも酷薄なその気性。
「シェリダン……」
 ここにいない人の顔を思い浮かべて思わずその名が唇を突いて出る。その程度には、馴染んでしまった名前。敵だったはずなのに。
 本来は憎むべき相手であるのに。
 ――あんたはこんな風に、傷を負って、傷を重ねて。それでも。
人間の身は脆い。身体能力などヴァンピルやワーウルフの足元にも及ばない。ヴァンピルは好戦的とは縁遠い種族だから先の侵略の際にも抵抗する前に負けてしまっただけで、本気で戦争する気なら戦いにすらならない。
 呆気なく簡単に、指先で弾くだけで死んでしまいそうなほど脆弱なくせに、どうしてあの炎の瞳はそんなにも真っ直ぐで強いのか。
 ――向かうのか。自分の目的のためならば。
 ――当然だろう。
 問いかけるロゼウスに薄く微笑んで躊躇いなく告げる声音。
 ――では、お前はどうなんだ。不死の化物、魔族よ。どんな傷もあっさりと癒えてしまう便利な身体を持っているくせに、何に怯えている。どうしていつも、そんなにも踏み出すのを躊躇い戸惑う?
 あんたは強いよ。
 ロゼウスはそれを認めざるを得ない。
 そういえば、カミラも強かった。
 初めてこの庭園で会ったとき、ロゼウスがあんまりにも非常識な振る舞いに出たんで目を白黒させていた一つ年下の美しい少女。思えば彼女との出会いが、ロゼウスとこの国の、そしてシェリダンとの関係を変える契機だったのかもしれない。
『ロゼウス様』
 兄妹の少女たちとは違う、ただの、普通の、女の子らしさ。ロゼウスの周りの女性陣はロザリーを筆頭に変わり者ばっかりだと思うが、ああいうタイプはかつていない。
 だから新鮮で鮮烈で。
 好きだった。カミラ。好き、だっ《た》。
 けれどこの恋は、他でもないロゼウス自身が彼女に手をかけたその瞬間に終わった。今ではもうわからない。ロゼウスはカミラ自身が好きだったのか、それとも彼女が自分に向けてくれる純粋な感情に縋っていたのか。ドラクルからの執拗な執着と同じだけ粘着質な愛情で応えていたロゼウスに、淡い憧れの眼差しだけを向けるカミラは、何かとても可愛らしい生き物に見えた。
 たぶんロゼウスは、彼女といれば自分もこのどろどろとした暗い物思いから解放されて、綺麗な生き物になれるような気がしていた。あまりにも勝手で滑稽だ。
 自分で彼女をその闇に引き摺り下ろしたくせに。
 わかっている。知っている。たぶん、自分は。
「誰かを本当に好きになったことなんて、ないんだ」
 いつも自分ばかりが可愛くて人のことなど考えていなかった。だからドラクルのことを考えてやることもしなかった。恨まれることも憎まれることも、当然の報いだったのだ。
 こうして、一つの玉座を巡って争おうとすることも。
「兄様、カミラ……シェリダン」
 シェリダンは言った。
 ローゼンティアの王になる気はないのか、と。
 そうすれば全てが収まる。今回の争いはもともとドラクルがエヴェルシードにおけるシェリダンと先代の王ジョナスとの確執を利用し、またローゼンティア自体も父とドラクルに確執があって、それらが重なり合って仕組まれた戦争だ。
 二つの国があるべき正しき状態へと戻れば、もう簡単に侵略だの何だのと言う言葉は出なくなるだろう。
 そして彼はローゼンティア内の混乱を治める継承権争いに際して、ロゼウスの味方をしてくれるのだという。
 さわさわと葉を揺らして庭園に風が吹きまた薔薇の香りが聞こえる。
 故郷とは違う薔薇。ローゼンティアの薔薇は死神の血に咲く花だから、もっと深く暗い。
 その薔薇を取り戻すことを、彼は手伝ってくれるという。
だけれどその時こそが、まちがいなくロゼウスとシェリダンの決別の時だ。


122

 世界なんて変わらない。
「陛下、お手が止まっております」
「あ……すまない、バイロン」
「いいえ。それより、ご気分でも優れませんか? なんでしたら、今日の執務はこれで終わりにしましょうか」
「いや、構わない。続けてくれ」
 執務中だと言うのに、うっかりとぼんやりしすぎていたようだ。傍らで彼自身の仕事を片付けていた宰相のバイロンにそれを指摘されて、シェリダンは我に帰る。
 ここで悠長なことをしている場合ではない。ローゼンティアのヴラディスラフ大公ドラクルと一戦構えるために、通常の政務はさっさと終わらせておくべきだ。理性はそう言い聞かせているのだが、どうしても気が逸れてしまう。
「まだまだ未熟だな、私は」
 わかっていることをあえて再認識しようと、シェリダンは自分に言葉を突きつけた。
「そんなことは……陛下はまだ御歳十七歳であられるのですから、何も一足飛びに全てのことをこなせるようにならなくても良いのですよ」
 その分軍事的な才能には優れておられるではありませんか。バイロンの慰めに、苦笑を返す。
 未熟だと自分で自分を貶めてはみたものの、そもそもシェリダン自身、もとより熟達した人間になる気などなかったのだから当たり前だ。
 この国の玉座を手に入れる前からシェリダンが欲しいのはただこの身とこの世の破滅。国を良く治め民を正しく導く気などなかったのだから、未熟も何もそれを論じる以前の問題だ。
 ペンを走らせながらまたもや思考が沈んでいく。
「……か」
「え?」
「いや、なんでもいい」
 答えは出たのだろうか。
 ロゼウス。
 そう呼べるのも、もうあと少し。彼がローゼンティア奪還と復興のためにドラクルと対立する道を選べば、シェリダンはそれを擁立という形で支援する。
 ならば奴を立てなければならないだろう。ローゼンティア王太子、ロゼウス殿下、と。
 あのように何の垣根も……とは言わないが、気安く話せるのももう少しだ。
 わかっている。今のこれが茶番だと言う事は。もともと、シェリダンはロゼウスと長く共にいるつもりはなかった。ロゼウスと、長く「この世に」共にいるつもりはなかった。
 破滅への道連れ。
 ローゼンティアを滅ぼし、この国を滅ぼし、そうして死ぬための道連れならば、その寿命が我々人間と違うことも何も、関係がなかった。
 一緒に死んでしまえばもう置いていかれることもない。
 それだけしか考えていなかったから、何も気にする事はなかったのだ。いくらロゼウスが女顔だからと言っていつまでも周囲を誤魔化しておけるわけでもないが、元々短い間しか共にいる気がなかったからどうでもよかった。あの頃は。
 では、今は?
 自分で自分に問いかける。白銀と紅の残光が瞼の裏に舞う。
 二つの国を滅ぼし、民を虐殺し、そうしてロゼウスを殺して自分も死ぬ気だった。
 だが。
「お茶をお持ちいたしました」
 ノックの音が聞こえて、リチャードが執務室に入ってきた。入れ替わりに立ち上がったバイロンが外へと出て行こうとする。
「陛下、それでは私はこちらの書類を届けてまいります」
「ああ。頼む」
 シェリダンは机からそれを見送り、リチャードがワゴンを押したまま一礼した。規則正しい足音をさせてバイロンが出て行くと、リチャードは部屋の隅に設置された、休憩用を兼ねた応接テーブルにお茶の用意を始める。
「すぐにお茶になさいますか?」
「いや、この束を片付けてからにする」
 目の前に積まれた書類の山の、一つがもうすぐ終わろうとしている。これを片付けてからの方がきりがいい。
 あと二つほど山は残っているが……。
「そういえばシェリダン陛下」
「何だ? リチャード」
「ロゼウ……王妃様とのことは、どうなりましたか? ローゼンティアと再び戦うことは……」
 書類にサインする手が思わず止まる。すぐに何事もないような顔をして仕事へと戻るが、会話に意識は持っていかれている。
「……ロゼウスの返答待ちだ」
「そう……ですか」
「他の王族の世話、まだしばらく任せる」
「かしこまりました。それは良いのですが」
 リチャードが意味ありげに言葉を区切る。顔を上げると、心配そうな瞳があった。
「陛下」
「何だ?」
「陛下は、どうなさるおつもりなのですか?」
「どうするも何も、ロゼウスがローゼンティアの復興を選ぶつもりならば支援するが?」
「ですがそうしたら、あなた方は」
「リチャード」
 シェリダンは気を回しすぎる侍従の言葉を遮る。
「確かにロゼウスを薔薇の国の王に立てるならば、私たちは必然的に離れ離れになるな」
 仕方がない。一国の王がそう簡単にいつも一緒にいるというわけにはいかないし、何よりそんな友好は不自然だ。
 それに何より。
「その方がいいんだ」
「シェリダン様」
「私の側にいたら、ロゼウスはいつか破滅するぞ。いや、別の意味ではもうしているか」
「シェリダン様……それは」
「だから、その方がいいんだ」
 自分たちの関係はけして穏やかなものではない。
 それは死に逝く道の道連れだ。だから。
「殺したくないんだ」
 一度はその心臓に刃を刺したくせに何を言うのかと思われても、今はそう思うのだから仕方ない。眠り続ける彼の人形のような寝顔を眺めながら絶望的な気分で目覚めを待った、あんな想いをするのはもうたくさんだ。
 だが自分と共にあれば、ロゼウスにはまたその道がつきまとうだろう。
「生きていて、欲しいんだ」
 一度は殺し、初めから殺すつもりだったにも関わらずシェリダンはロゼウスの生を願った。
 生きて欲しいんだ。
 本来ならシェリダンたち人間よりよほど頑丈で長命な種族だ。放っておけば当然シェリダンより長生きする。
 だけれどシェリダンの道は、荊のような破滅の十字架を立てたはかじるしにしか繋がらないから、生きていてほしいと願うなら、離れるしかないのだ。
「だから、これでいいんだ」
 後は、ロゼウス自身がシェリダンにその答を突きつけるのを待つだけだ。

 ◆◆◆◆◆

「あら? ロザリー、珍しいわね。あなたがこっちに来るなんて」
「ああ、うん、ちょっと……」
 みんなが集まっている部屋に顔を出すと、ミザリーがそう言ってロザリーに話しかけてきた。
「最近はずっと、あの王に絡んでたじゃない。今日はもういいの?」
 ミザリーの言葉に一瞬どきりとする。
「う、うん。今日はなんか、忙しいみたいだし。あんまりシェリダンの仕事の邪魔しても――」
「ちっ!」
「……姉様?」
「あんな男、私たちの国を侵略した野蛮人じゃない。エヴェルシードの人間の暮らしなんて知ったことじゃないわ。せいぜい邪魔してやればいいじゃないのよ」
 ミザリーの言葉に、困ったような引きつり顔でアンリが嗜め冷静な口調でミカエラが補足する。
「……ミザリー、俺たちが今この城に世話になっている以上、衣食住全部そのエヴェルシードの血税から賄われているんだけど……」
「だいたい、シェリダン王はこれから僕たちがドラクルと戦うのに必要なパトロンだしね」
「それはそうだけど」
「……まあ、それもロゼウス兄様のお心次第ではあるけれど」
 ロゼウス。
 出てきたのは大事な名前で、ロザリーはまたもや心臓が跳ねるのを感じる。
 アンリの隣に腰を降ろして、ロザリーは物思いに沈む。
「……ロザリー、どうした?」
 彼女の様子が普段と違うのをどう受け取ったのか、アンリが心配そうに顔を覗き込んでくる。
「ロザ姉様?」
「おねえさま、元気ない?」
 ウィルとエリサまで、ロザリーの両脇から擦り寄ってきた。
「何でもないの。ちょっと考え事してただけ。ウィル、エリサ。今日は剣の稽古しないの?」
 この二人が時々剣を持って、外で稽古をしていることは知っている。知っているというか、だってその監視役は名目上自分の夫であるエチエンヌがしているわけだし。
 エチエンヌは最近ずっと忙しそうだ。いきなり客人であり、もしかしたら敵に回るかもしれない可能性のある人間が増えて、信頼できる手駒の少ないシェリダンの周辺は小姓から貴族までみんなが忙しそうにしている。つまり、ロザリーたちローゼンティアのせいなのだが。
 ロザリーはロザリーで、ここ数日は先ほどミザリーにも指摘されたとおりシェリダンの元で彼と話し合いをするために押しかけていた。
 全っ然相手にしてくれないけどね! あの男!
「……ろ、ロザリー?」
「姉上。顔が険しいです」
「あ? え? な、なんでもないわよ! 気にしなくていいわ!」
「そうか?」
「ええ!」
 シェリダンのせいだわ。全部あの男がいけないのよ。
 ロザリーは八つ当たり気味にそう考える。元はと言えばあの済ました様子のシェリダンがドラクルに乗せられて私たちのローゼンティアに戦争なんか仕掛けるから悪いんじゃないのよ!!
 それなのになんで脳裏を、あの素っ気ない横顔が浮かぶのか。
 何故、柔らかく俯くと藍色の髪が頬に落ちる様子とか、さりげなくこちらが困っている時に手を貸す素振りなんかを思い出すのだろうか。
 何故自分は、あの朱金の瞳がロゼウスのことばかりを追いかけているのを、遠くから眺めているのか。
「……ああもう!」
「ロザリー? やっぱり今日のあなた、変よ?」
「わかってるわよ姉様。気にしないで!」
「って言われても……」
 ミザリーはアンリと顔を見合わせて眉を寄せた。しばらく二言三言言葉を交わすと、急に二人は立ち上がる。
「兄上? 姉上?」
「ごめん、ミカエラ。みんなも。俺たち、またちょっと出かけてくるな」
 最近、何故かアンリとミザリーが二人で出かけることが多くなった。兄妹の中では特に仲が良い場面を見たわけでもないけれど、その分仲の悪いわけでもない二人が連れ立って出かける様子は、どことなく違和感がある。
「いってらっしゃーい」
「うん。行ってくる」
「じゃあ、僕たちもそろそろ中庭で修行してきます」
「おねえさま、おにいさま、いってきまーす」
 アンリとミザリーに加え、ウィルとエリサも各々の得物を携えて部屋を出て行った。
 気づけば、今この部屋にはロザリーとミカエラしかいない。
 賑やかさを求めてこの部屋に来たはずなのに、なんだか期待はずれと言うか。
「みんな行っちゃった……」
「ロザリーのせいだよ」
「なによミカエラ」
「ロザリーが難しい顔と言うか、一人で百面相してるから皆気まずくて出て行っちゃったんじゃないか」
「私のせい!?」
「そうだよ」
 私のせい? そうなの?!
「ねぇ、ロザリー……姉上」
 また少し体調が悪くなったらしく、小さく咳き込みながらミカエラが言った。
「珍しいじゃない。あんたが私を姉上だなんて呼ぶのは」
 ロザリーとミカエラは同じ両親から生まれているし、歳も一つしか違わない。だからミカエラは、いつも姉であるロザリーを遠慮なく名前で呼び捨てていた。というか、兄弟のだいたいはそうなのだが。ドラクルのことは皆平然とドラクルって呼んでいるし。
「まぜっかえさないでくれる? それより、一度聞きたいと思ってたんだよね。ちょうどいいから、今聞くけど」
「何よ」
 いつもロザリーと、ロゼウスを取り合って喧嘩ばかりしていた弟はふいに大人びた目を。
 憐れむような苛立たしいような、そんな感情全てを孕みながら押さえ込んだ目をしてロザリーに言った。
「ロザリーは、シェリダン王が好きなの?」
「なっ……!」
 あまりの言葉に、ロザリーは唖然としてしまう。
「何を言ってんのよ!」
「違うっていうの?」
「決まってるじゃない! 何を根拠にそんなこと!」
「根拠。根拠ねぇ」
 一度視線を彷徨わせてから、ミカエラはロザリーを半眼で見つめて告げる。
「そんなもの、ちょっと様子を見ていればわかるよ」
「あんたねぇ!」
「で、どうするの?」
「……どうって?」
 弟の質問の意味が掴めず、ロザリーはミカエラの顔を見返した。
 ミカエラは国王と第三王妃の間に生まれた王子。ロザリーとちゃんと二親血の繋がった兄妹。だからこそ遠慮も何もないけれど、異母兄のロゼウスとはまた違った意味で、大好きで大事なのにどこか掴めない。
 けほけほと小さな咳をして、ミカエラはロザリーを詰るように見つめながら言葉を吐いた。
「シェリダン王は、敵だよ」
「ミカエラ」
「一時的に手を組んだとしても、あの人が何の下心もなしに協力してくれるなんてありえない。一度友好関係を崩した事実は消えないんだから、あくまでも僕たちは敵同士。今はちょっと協定を結ぶだけ――心を許せる相手じゃ、ないんだよ」
 ちくん、とその指摘はロザリーの胸を刺す。
「……わかってるわよ」
「そう? それならいいけど。ロザリー=テトリア=ローゼンティア殿下。あなたは王女だ。それも、今回の騒ぎでもその継承権が正統であることを証明された正真正銘の王女。そのあなたがシェリダン王に恋なんかした日にはどうなるか、ちゃんとわかってるよね?」
「――わかっているわ」
「エヴェルシード国王にローゼンティアの王女が嫁いだりしたら、それこそ奪還を果した後のローゼンティアはエヴェルシードに実質的に支配権を握られてしまう。姉上、それが今回のことで王族の数が減って、継承順位が上がったあなたであれば尚更のこと」
「わかって、いるわよ」
「本当だね」
「本当よ」
「ならよかった」
 本当にそう思っているわけではなく、そうなるように仕向ける強制力を持った笑みで、ミカエラはロザリーに言い含める。
「ロザリー、あなたはローゼンティアの正統なる王族だ。どうかその自覚を持って、最期まで王族らしくいて」
「……ミカエラ?」
「僕も、頑張るから。最期まで、王子として存在するから」
 何故か、その笑みはその瞬間儚く見えた。
「でも」
 気づけば言葉が口をついていた。
「でも、ロゼウスは」
「ロゼウス兄様は――……あれは、」
 ミカエラが言いよどむ。ロザリーはここに来る前に、たまたま通りがかった国王の執務室前……嘘だ。シェリダンに会うために足を向けたその部屋の前でヴァンピル特有の聴覚の強さでもって図らずも聞いてしまった言葉を思い出した。

 ――生きていて、欲しいんだ。

 胸を衝く切ない祈り。それはロザリーではなく、ロザリーの兄に――唯一ロゼウスに向けられたもの。
 あんな切ない響で彼はロゼウスに祈る。その生を願う。
 彼は間違いなくロゼウスを想っている。それが酷く、寂しいことのようにロザリーには思えた。
 入れない。混ざれない。二人の間には。
 ロゼウスにももう手が届かない。ロゼウスはいつも、どこか哀しげな瞳で世界を見ていた。なのに、この国に来てからは。
「ねぇ、ミカエラ、ロゼウスは……」
 彼女たちのこれからはロゼウスの一存によって決まる。
「ロゼウスは……私は……」
 私たちは。
 ミカエラがそっと瞳を伏せた。吐息と共に囁く。
「どこへ……行くんだろうね」


123

 いつまでもこんなところにいるわけにはいかない。
「シェリダン様に、お伝えしないと……」
 地獄より酷い目を見たことで逆に決意が固まった。なんとしてでもこの屋敷から脱出し、王城へ向かわなければ。シェリダンにイスカリオット伯の裏切りを報告し、彼を排斥して、この国に平和を……
 イスカリオット伯爵本人でなければ、見張りなど取るにたらない相手だ。素手で、片腕でも何とか倒すことができた。
 鉄格子を抜けるために、一時的に肩の関節を外した。いつもは少し複雑な気持ちになる小柄な体格はこんな時に役に立つ。関節をはめなおして、尋常でなく痛む下半身に力を入れて立ち上がる。
 早く、早く、戻らないと。
 クルスは重たい身体を引きずりながら、何とか歩き出す。
 早く……あの方に……。
 報告をしなければという意識の他に、あの方に会いたいという感情が強かった。
 全身が軋む。一度はずした肩も硬い床に転がされていた背中も。
 陵辱された部位は特に酷く苦痛を訴える。日頃鍛えているおかげで何とか走れはするが、脂汗が止まらない。
 シェリダン様。
 一刻も早くこの事を伝えて、そして。
 とにかく顔が見たかった。
 誰よりも、何よりも大切な主君。自分が命を懸けるに足る存在。あの方を貶めることなど許せるはずがない。
 だからシェリダンを手に入れたいなどと、イスカリオット伯の傲慢な物言いが耳についた。
 赦せない。そんなことは許されない。
 一階は見張りの数が多かった。しかしさすがにこの身体で二階の窓から飛び降りるのは無理だろう。地下から脱出するための出口付近で状況を把握したクルスは、そのまま警備の手薄な箇所を狙って屋敷の外に出ることにする。無茶な移動と警備との戦闘を秤にかけて後者を選択する。
 地下牢の見張りは呆れたことに武器を持っていなかったので、ちょうどいいからそれもこちらで拝借しよう。足音に咄嗟に身を隠す。
「お前……うわっ!」
 二人組で見回っている男たちの片方に狙いを定めて、物陰から飛び出して鳩尾に膝を叩き込んだ。
「どうした! なにが―――ぐ!」
 もう一人の見張りも首筋に手刀を落として昏倒させる。帯剣している彼らの得物を奪い、もう一度念入りにその脇腹に一撃を見舞ってからその場を離れる。
「ぐ……」
 激しく動いたことで、クルス自身の身体にも先ほどとは比べ物にならない負担がかかった。
 眩暈がし、その場に膝を着く。どこもかしこも鈍く痛み、吐き気がする。冷や汗と脂汗がじっとりと背中や脇の下を流れる。
 だけどこれで剣が手に入った。命を奪うのは本意でないが、この場合は緊急事態だ。昏倒させるために全力で体技を繰り出すより、相手の柔らかな喉首に刃を突き立てるほうが力はいらない。奪った剣も安物かどうかはともかく、普段クルスが使っている侯爵家縁のものより断然軽かった。
 これなら、いける。楽な道のりではないが、なんとか王城に戻れる。
 馬に乗るのは辛いけれど、まさか徒歩と言うわけにもいかないし馬車を借りることもできない。だから、馬も剣と同じく奪うことにした。
 早くしないと先ほど倒した見張りの姿がないことに気づかれて追っ手をかけられるだろう。厩舎によって、のんびりと草を食んでいる馬の首を軽く撫でて反応を見る。すぐにこの手に馴染んでくれた一頭を選び、厩舎から出そうとした。
 その瞬間、軽い足音と視界を過ぎった人影にぎくりとする。反射的に振り返って、動きを止める。
 瞬間に覚えた違和感の正体はすぐにはっきりした。足音が軽いのはそれが体格のがっしりとした男性のものではなく、華奢で可憐な風情の少女のものだったからだ。
 だけれどその花の顔は、どんなむくつけき大男よりもクルスを動揺させる。
「カミラ殿下!?」
「お久しぶりね、ユージーン侯爵」
 命より大切な主君の妹にして王位を争う敵。カミラ姫はかつてのクルスが知る彼女には見なかった妖艶な笑みを浮かべてそこに立っていた。
「何故……」
「何故? だってあなたは知ってしまったのでしょう? イスカリオット伯がシェリダンを裏切るつもりだって。だったら私がここにいてもおかしくはないわ」
 イスカリオット伯爵ジュダはシェリダンの敵。カミラもシェリダンの敵。だけれど、そもそもこの二人に接点は――。
「まさか」
「そのまさかよ」
 くすくすと笑いながら告げられた言葉にクルスの思考は一時的に凍結し、瞼の裏でちかちかと光が瞬いた。
 一瞬の動揺が去ると、これまでばらばらだったパズルのピースがぴたりと上手く合わさって一枚の絵を描く。
「あなたたちは、全員が繋がっていたのか!」
「今更ね。ユージーン侯爵」
 これまでの状況から、例えばイスカリオット伯がセルヴォルファス王と協力していることがわかった。彼らの会話から、それぞれがまたドラクル王子とも手を組んでいる事が知れた。そしてそれでいて各々の利害のために少しずつ相手を裏切っていることを。
 だけれど、結局のところは変らない。
 シェリダンの敵であるところの彼らは、それぞれが手を組み合っていたのだ。結局倒すべき勢力はドラクル王子に繋がるただ一つ。
 ジュダも、セルヴォルファス王も、アンリ王子たち以外のローゼンティア王族も、帝国宰相ハデスも、このカミラも。
 全てはドラクル王子の協力者であり、倒すべき敵であることに変わりはない。
 事態はクルスたちが思っているより複雑で、けれど蓋を開けてみればよっぽど簡単なことだったのだ。
「そういえばあなたには、最初に裏切られた恨みがあったわね」
「っ――っ!!」
 そうだ、カミラ姫はあの御前試合のときにバートリ公爵を倒すほどの力を見せて……。
 それがどのような経緯で得たものかはわからないが、今の彼女を以前のようなかよわい少女だと侮ってはいけなかったのだ。
 情けないことに自らの身に何が起こったのかもよく理解しないまま、クルスの視界は暗転する。
 確かにクルスは彼女に恨みを買っていた。こんなことが起こる前から異母兄であるシェリダンを敵視しその玉座を狙っていた彼女を排斥するために、クルスはシェリダンから命じられたとおりに彼女のもとへ潜入し間諜を務めた。
 カミラにとって、彼女を直接罠にかけたと言えるクルスはさぞや憎い相手だろう。
 シェリダンは清廉潔白な人間でも完璧な人間でもないことを知っている。だから、こうして人の恨みを買い憎しみを受ける。その王に従うクルスもまた、数多の憎悪と殺意を向けられて当然なのだ。
 よもやこんな最悪の場面で、こんな形でそれをつきつけられるとは思っていなかったけれど。
「がはっ」
 痛みに意識が途切れ、大切な主君の名を呼ぶ暇もなくクルスの意識は闇に落ちた。

 ◆◆◆◆◆

「通せない? どうして?」
 エルジェーベトは先ほどから埒の明かない押し問答をシアンスレイトの衛兵と繰り広げていた。
「あなたの眼は節穴なわけ? 私は、バートリ公爵エルジェーベトよ。わかったらさっさとそこをどきなさい」
 なんでこんなくだらない争いをしなければならないのか。エヴェルシードでも有数の貴族であるこのエルジェーベト卿を王城に入れない上に国王陛下と謁見させないなんて、たかだか一介の兵士に許されることではないわよ。
 けれど今日はどういうわけか、周囲がどうあってもエルジェーベトをこの先に通そうとしない。
 どうやら後手に回ってしまったようだ。こんなことならクルスともう少し綿密な話をして、早めに動き出せばよかった。
 その場にいた全ての衛兵がエルジェーベトを取り囲み、持っていた武器を一斉に向けた。
「残念ですがバートリ女公爵。貴殿には、ここで死んでいただきます」
 衛兵の一人が言い放つ。嘲笑を隠そうともしない態度。
「――やれるものならやってごらんなさい」
 そして、彼女は剣を抜いた。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスはシェリダンを探していた。
「あ、ロザリー、ミカエラ。シェリダン見なかった?」
「今日は見てないけど……ロゼウス? また女装?」
 廊下でばったり出会ったロザリーがロゼウスのこの服装を見て、首を傾げた。ここ数日は男装に戻していいと言われていたにも関わらず、今のロゼウスがしっかりと姫君の扮装をしていることに違和感を覚えたらしい。まあ、当然だろう。
「うん、まあ」
 適当に頷いて、見てないならいいと二人に手を振ってその場を離れる。エチエンヌやリチャードにも会ったけれど、誰もが知らないと首を振った。
「シェリダン様の居場所、ですか? 執務室の方は?」
「今日の政務は休みだってバイロン宰相が」
 最後の頼みの綱、ローラにも尋ねてみるが芳しい返答は得られない。
「おかしいですねぇ。どこに行ってしまわれたのでしょうか……ところでロゼ王妃? といいますかロゼウス王子? なんで今日はその格好なんですか?」
 またもや問いかけられたその言葉に、ロゼウスは笑って返す。
「ああ、最後だから」
「え?」
 ローラが翡翠の瞳を零れ落ちそうなほど大きく瞠った。
「そ……ですか。ローゼンティア再興のこと、答を、決めたんですね」
「ああ。だから、その返答をしにシェリダンのところに行こうと思って」
 ローラは僅かに肩を震わせた。複雑な顔でロゼウスを見上げる。
「す……すみません。私には、シェリダン様がどこにいらっしゃるのかまでは、ちょっと……」
「そう。ありがとうローラ。もう少し探してみるよ」
 とはいえ、王城内の心当たりはこれでもう全て回った。ローラと別れて、足を階下へと向ける。城門へと向かい、城を出る。
 残る心当たりはあの場所だけだ。
「シェリダン」
 こちらが黒いドレスを纏うなら向こうもお誂え向きに何故か今日は黒い服を着て、彼は果たしてその場所に立っていた。《焔の最果て》と呼ばれるエヴェルシード王家の墓所の前に、黒薔薇の花束を持って静かに佇んでいる。
「ロゼウス?」
 振り返りロゼウスの姿を認めて、シェリダンは今までの人々と同じように軽く目を瞠った。けれどローラたちと違うところは、彼がそれについて何も言わなかったところだ。
 だからロゼウスの方から切り出した。
「最後だから、もう一度だけこの格好で」
「……そうか。そんなところだろうと思ったが」
 シェリダンは薄く笑みを浮かべると、墓標の前に花束を置いた。中身のないその墓石にはカミラの名が刻まれている。様々に交錯する運命に翻弄されて、死ぬはずだったのに死ななかった少女。
 そしてそれゆえ歪んでしまった――ロゼウスが初めて愛した少女。
 彼女の偽りの死、そしてこの場所からロゼウスとシェリダンの物語は始まったのだ。
「答が出たよ、シェリダン」
「ああ」
 ロゼウスは彼から三歩ほど離れた場所で立ち止まる。ドレスの動き辛い長い裾が絡む。こんな場所に来るのにロングドレスはないだろうと自分でも思うが、着て来てしまったものはしょうがない。
 墓所の景色はだいたい、どこも寂しい。この国に来る前、ロゼウスは蘇生の祈りと期待をこめて家族の亡骸をローゼンティアの王家の墓所に埋めた。その時には、シェリダンがロゼウスの背後に立ってそれを眺めていた。
 なんて皮肉な関係か、自分たちには墓所や葬列や喪服と言ったものが、よほど縁が深いらしい。
 今日だってロゼウスもシェリダンも、示し合わせたわけでもないのに同じように黒い服を着ている。
 言葉はなく、ロゼウスはこの場所で立ち止まる。後一歩踏み出せば触れる、そんな絶妙な距離感を置いて、まっすぐに顔を上げ自分より僅かに背の高いシェリダンを見つめた。
 夜空か深海の闇を凝らせたような藍色の髪。白い肌。
 そして燃える朱金の焔の瞳。
 お前はいつだって、いっそ愚直なまでに一途だ。
 ロゼウスが何よりも恐れ警戒し、嫌悪していたのはもしかしたらそれかも知れない。悲しみから這い上がり復讐をよすがに父を殺し妹まで殺し隣国へと侵略する。その全てが自らの破滅に帰結するためのものだと平然と口にするような信念は、狭い世界に自ら閉じこもり快いものだけを耳にして目を塞ぎ続けたロゼウスには眩しすぎた。
 地獄の業火はとても綺麗な色をしているのかもしれないが、触れれば罪人を一瞬で焼き尽くす。絵に描かれた炎を見つめても熱さは感じないけれど、それが目の前にあるのなら、どんなに美しくても触れてはいけない。この身まで燃えてしまうから。
 ロゼウスにとって、シェリダンはそれだった。
焔の王よ。
「聞かせてもらおう、ロゼウス。お前の答を」
 目と目が合う。炎はそこにある。
 触れれば間違いなくこの身を焦がす炎。やわらかな鳥籠のいつもすぐ隣にあったそれから、今なら逃げることができる。
 選択権はロゼウスにある。
 愛しているとその口では言いながら、シェリダンはもう手を離した。今ならばロゼウスは、ローゼンティアの王子に戻れる。戻りたいのかどうかは自分でもよくわからないけれど、少なくともこのままエヴェルシードでこの男の玩具として燻っている謂れはない。
 逃げることができる。
 開かれた扉。解かれた鎖。壊れた手錠。放たれる空。
 永遠に追っては来ない、眼差しだけの支配者。
 霞のような絆も共に過ごした日々も、確かに心が通い合った一瞬も今ならばなかったことにできる。永遠に見て見ぬ振りができる。
 考えてもみろ。この国に脅迫されて無理矢理連れてこられ蹂躙された日々と、実体は虐待だったかもしれないけれど確かに愛しい兄と兄妹たちと暮らしていたローゼンティアの日々と。
 どちらの方が平和で愛しくて大切だったかなんて決まっている。
 シェリダンは潔いほどに嘘を言わない。ロゼウスがローゼンティアの王子に戻ることを選んでも、王権の奪還と再興支援という約束を裏切ることはないだろう。
 答は、決まっていたのだ。
「シェリダン、俺は――」

 一歩前へと足を踏み出した。
「俺は《逝く》よ」
 その分だけ距離が近づき、伸ばした手は向かい合った彼の頬に届く。確かに触れる。
「お前と共に」
 ゆっくりとシェリダンが目を瞠った。

 答は決まっていたのだ。何が一番良いかなんてわかっていた。
 それでもロゼウスは、この道を選ぶ。
 愛しているなんて言えない。そんな言葉では言い表せないし、この感情をどうやって表現すればいいのかわからない。
 だけど約束しただろう。
「お前と地獄に堕ちてやる」
 どこまでも、どこまでも、どこまでも。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない……。
 それでも。
 ――堕ちていこう、一緒に。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 いっそ憎らしいほどにあんたが嘘をつかないから、俺もその約束を守ろうと思う。
 ふと、視界がじわりと滲んだ。
「ローゼンティアは」
 掠れた声音で問いかけてくるのに答える。
 考えて考えて、これがロゼウスの出した結論だ。
「取り戻す、勿論。あんたはそれに力を貸してくれるんだろう。ドラクルのことはやっぱり……憎めないけれど、あの人を歪ませたのが俺ならば、あの人を止めるのもやっぱり俺の役目だと思う」
 言いながら、ロゼウスは霞む視界でシェリダンを見つめる。いつも凛とした顔つきの彼が、今にも泣き出しそうな迷子の子どもの顔をしている。
 出口はあるのだろうか。
 いつか目的地に辿り着けるのだろうか。
 そこは、果たして自分たちが望んだ場所なのだろうか。
 今はわからない。でも。
「ローゼンティアを取り戻して、全部ごたごたを解決して、俺よりもっと相応しい人物を王位に着けて」
 そして全てが終わったら。
「一緒に逝ってあげるから」
 ぽろり、と。シェリダンの炎色の瞳から一滴だけ涙が零れた。
「国の滅亡なんていらないだろう? いくらお前の民だって、顔も知らないどうでもいい有象無象を何百万人って道連れにしたって、何も面白くないだろ? ……だから俺が一緒に逝ってあげる。お前と地獄に堕ちてやるから」
 妻なのだ。
 ロゼウスはこのシェリダンという一つの《破滅》の形代に嫁した。
 こうして女物の衣装を纏うのも最後だ。自分はロゼ王妃から王子ロゼウスに戻り、ローゼンティアを必ずドラクルの手から取り戻す。
 そして略奪された姫君ではなく、ただの《ロゼウス》として、ただの《シェリダン》と共に逝く道を選ぶ。
 また一歩距離を縮め、頬から離した手で彼の手をとる。両手でそれを包み込んで、祈るように俯いた。
 何に祈るかも今はわからない。自分は人を本当の意味で好きになったことなどないから、たぶん真剣に神に祈ることもないだろう。
 それでも共にありたいという、この想いだけは真実だから。
「ロゼウス……私は……」
 痛みを堪えるような顔つきで何か口にしかけたシェリダンの言葉を、軽く首を横に振ることで封じる。
いつかこの身を納めるはずの、今は虚ろな墓の前喪服で向かい合いロゼウスは誓う。
「最期は必ず、お前と共に」
 後はもう言葉にならなかった。
 墓標に捧げられた薔薇の花弁が甘い香りと共に舞う中手をとり、二人して涙を流し続けた。


124

 そして、運命の歯車は回り出した。
 皇歴三〇〇三年、アケロンティス帝国はデメテル=レーテ帝の御世、エヴェルシード王国はシェリダン王の治世下であった。
 薔薇の王子はその言葉どおり破滅の花嫁となり、絶望と慟哭に嫁すこととなる。
二人がようやく心を通わせ、決して明るくはない未来を誓い、お互いの存在をただ一途に求めたその瞬間から、第二の神聖なる悲劇――《ラ・ディヴァーナ・トラジェディア》は始まっていたのだ。
 何故、彼は――彼らはそんな末路を辿らねばならなかったのか。
 年若き王について彼を慕っていた忠臣たちがいくら叫んだところで、亡くした人が還ってくるわけでもなく、時は戻りはしない。けっしてやりなおしなどできないのに人は未来を見ることなど叶わないから、いつだってそれこそが自壊への第一歩だと気づかずにこんなにも容易く道を踏み外す。
 いや、それとも――その破滅すら気づかせないからこそ、あらがえない大いなる道標のままに誘導されることを人は宿命だと言うのかもしれない。そうでなければ、能力の程度はともかく多少は未来を見ることのかなった預言者の姉弟までもが、その愚行をなすわけはなかったのだから。
 ああ、しかし。例えどんな言葉で取り繕いその時の状況に逐一原因付けを行ったところで、結局はこれも無意味なことなのだろう。過去に改変を加えることなどできず、今の私たちに突きつけられたのはただのその残酷な結果のみである。
 それでもまだ、過去の悲劇に関して言葉を用いることが許されるのならば一つだけ、言わせてもらおう。

 出会ってはいけなかった。

 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。

 この二人は、決して出会ってはいけなかったのだ。
 どんなに強く惹きあおうとも、その想いのために互いが互い以外の全てを捨てようとも、それでも彼らは、出会ってはいけなかったのだ。

 悲劇の舞台は、ゆっくりと、優雅に、しかし確実に幕を開けていく。舞台を整えた者の意図を知らぬまま、役者たちはただ踊るのみだ。一番手の歌い手が、すでに主役たちの後方に控えている。そして。

 ――ここから、狂気の演目は始まったのだ。

「薔薇皇帝記」 第一章 焔の王国
 皇歴七〇〇九年 ――ルルティス・ランシェット

 ◆◆◆◆◆

 時は来た。
「機が熟したとは言いがたく、まあ、向こうに際どいところを押さえかけられたという意味では私たちの不利と言うのでしょうが」
 そう言ってジュダは少し離れた場所を見た。血塗れの少女が、その右手に何かを引きずっている。
「カミラ姫がここまで私に協力してくださるとはね」
 彼女の手に無造作に髪を掴まれて地面を引きずられている青年――ユージーン侯爵クルス卿は、その身を血に染めたままぴくりとも動かない。
 手ひどく痛めつけたはずなのに、牢から抜け出すとは。あの身体ではどうせ王城までは辿り着けなかっただろうが、それでもこれは自分の失態。尻拭いをしてくれたカミラには借りができてしまった。
 王城の方にも、これまでに少しずつ買収した兵士を動かして手を回した。それだけの手勢であのバートリ公爵エルジェーベトを止められるとは思わないが、時間稼ぎくらいにはなるだろう。
「私にだって、ドラクル王子が私を上手く利用しようとしていることぐらいわかるわ。それに、あの人の妹であるルース姫も何事か企んでいるようですし? 皇帝に帝国宰相、イスカリオット伯、あなたとセルヴォルファス王……シェリダンだけならまだしも、ロゼウス様も、敵が多くて大変ね」
「けれどだからこそ、その隙を見てあなたは欲しいものを掻っ攫うおつもりなんでしょう? ねぇ、簒奪者の姫君。ちょうど良かった。あなたがいてくだされば話は早く済む」
「でもロゼウス様をくれるわけではないのでしょう?」
「まあ。今の時点では。セルヴォルファス王の協力は必要です。やはり我々脆弱な人間とヴァンピルが正面きって戦うのはまずいですしねぇ。陛下がローゼンティアに戦争を仕掛けたあの時とは、状況が違う。だからこそ――彼の力を利用して、そこからどう自分たちにとって有利に運ぶかはあなた次第ですよ、カミラ殿下」
「あなたは協力してくれないわけね」
「私はロゼウス王子などどうでもいいですから」
 そう、私が欲しいのはあの方だけ。
「ここが終われば手を引かせてもらいますよ」
「その後は私とドラクル王子方の問題、か……わかったわ。セルヴォルファス王には、いつご退場願おうかしら」
「まだ入場もしていませんよ。カミラ殿下」
「ええ。そうね……彼はどうしましょう?」
 そこでカミラは、それまで引きずっていたクルスに目をやる。
「……その辺の兵士にでも、くれてやればどうですか。慰み者にするなり、侯爵としての地位を奪うために脅すなり、貴族に恨みを持つ者が殴りつけて気晴らしにするなりなんでもすればいい」
「冷たいことね。イスカリオット伯」
「あなたほどではありませんよ。カミラ姫」
 血を流して気絶しているクルスにはもちろんこの言葉は届いてはいないだろう。彼の意識がなくてよかったと思う。
 あのいつだって真っ直ぐな瞳で見つめられたら、私は。
 たぶん自分と彼はこの国の貴族で最も相性が悪い者同士なのだ。いつかお互いの身を滅ぼしあうことになるのは明白だった。それが今来ただけ。この時に乗じただけ。
 頭を振って気持ちを切り替える。視界の端でカミラがクルスを放り出すのが見えた。
 遠くに視線をやると、人の群れがこちらに来ていた。
「兵士が到着しましたよ」
 傍らのカミラに言葉をかけた。王城の中からセルヴォルファス王がやってくる。
「こっちの準備は万端。でも、そろそろエヴェルシード王たちも気づき始めたよ」
「そりゃあまずいですね。では――」
 カミラが最終確認とばかりににやりと……口角を吊り上げる。彼女が今まで浮かべたことのない種類の笑み。
「私はあなた方ともドラクル王子とも違って頭が良くありませんから。イスカリオット伯が動くのは早計とはいえ、まさかここにセルヴォルファス王がいてロゼウス様をシェリダンから引き離す手はずだったとはまったく、知りませんでしたわ」
「ええ。そりゃあそうですよ。何しろ私はカミラ姫に簒奪を促しただけで、そのようなことを一切お伝えしていないのだから」
 だから、ドラクル王子も出し抜ける。
 
 時は来た。

「陛下! 敵襲です!」
 城内に伝令の兵が駆け込んでくる。それは恐ろしく、ある者たちにとっては信じられない一報だった。
「敵だと? 一体――」
「イスカリオット伯が領地から兵を向けたようです!」
 裏切り。
 窓硝子を割って室内に投下されたのは、ヴァンピルの動きを封じる銀粉。
 背後から伸ばされた手が、最も近くにいたはずの二人を容易く引き剥がす。
「シェリダン!」
「ロゼウス!?」
 他のヴァンピルたちが彼らにとっては毒にも等しい銀に意識を奪われていく中、必死で伸ばしたお互いの手は届かずに。
 少女の通った声が響く。
「エヴェルシード国王シェリダン! その王冠は、私がいただくわ」
「カミラ!?」
 王城内が混乱に見舞われる。
 軍事国家エヴェルシードには、全ては力で奪えという暗黙の了解があった。

 皇歴三〇〇三年。永い冬の終わり、まだ春の始まらぬその月。

 エヴェルシード国王シェリダン=ヴラド=エヴェルシード追放。
 カミラ=ウェスト=エヴェルシード女王、即位。


 《続く》