112

 夢を見る。
 夢が滑り込んでくる。
 見たくないと目を逸らそうとしても、逃げることは許されない。赦されない。
 その夢は神のお告げ。
 神によって選ばれ、その手のひらの上で転がされる私たち。持っている力は「万能」かもしれない。だけれど、決して「全能」にはなれない。
 夢を見る。
 泣きたくなるような夢を。
 その道がどれほど破滅に近く、絶望に染まろうとも諦めることはできない。あんなものは許せない。赦せない。許せないそれを塞ぐために私はどんなことだってする。
 夢を見る。
 彼方の国におわす神からすればこの脆弱にしか過ぎぬ生き物に与えられた、未来と言う名の夢を。

 絶望と後悔。
 悲哀と慟哭。
 憤怒と憎悪。
 そして殺意と――……敬愛。
 瞼の裏が朱に染まる。
「――……っ!」
 いつもの夢を見て飛び起きた。
「陛下?」
 気配を察したのか、部屋の外へ控えさせていた兵士が声をかけてくる。なんでもない、と私は返し、下着と変らない薄地の夜着を纏う肩を自分の腕で掻き抱いた。
「また、あの夢……」
 血が散った。紅い血。真っ赤な花のように飛び散ったそれは、人一人を死に追いやるには十分な量だった。私はそれを止めることもできず、ただ地に落ちる体を抱きとめるしかできない。ぬくもりを失っていく血まみれの体を抱きしめて泣くだけ。なんて滑稽なほどに無力。万能であるはずの力も、その人の前では全てが無力になるのだ。
 白い瞼に緑がかった黒い瞳は閉ざされ、漆黒の髪は血で張り付いて。
 ああ、これは悲劇。
 いつか必ず来るはずの、避けられぬ未来。
 ――黒の末裔には不可思議な力を持って生まれてくる者が多い。
 私もその一人。そうでなければ、こんな地位にはつけなかった。異大陸からやってきた異能力者である黒の末裔はいつの時代も迫害され続けてきたけれど、それ故に極たまにではあるけれど大出世する者がいる。
 私もその一人であり、そして立身出世する恵まれた黒の末裔の中でも、これ以上はないという躍進をした唯一の一人。立場が立場なのだから、まさか自覚がないなんてこればかりはありえない。
 私は多分、後世の歴史に残るでしょう。
 その名が悪名であるか、それとも意外にいいことを書いてくれるのかは今のこの時代に存在することだけでいっぱいいっぱいな私自身にはわからない。
 そしてその結果がどちらであることにも、私には興味がない。どうでもいい。
 そもそも、その私自身があとどれだけ生きられるのかもわからないのだから。
「あと、半年……」
 現在は皇歴三〇〇三年、次の年を迎える頃には、少なくとも私はこのまま今の立場ではいられない。
 夢がそれを伝えてきた。あの忌々しい夢が。それは神のお告げ、神の宣告、神の命令。
 来年には私はこの場所にはおらず、新しい存在がこの場所の主となる。
 そして夢は、その存在が私の一番大事なものまで奪うことを伝えてきた。
「許さない……」
 そんなことは許さない。赦せない。
 例えばそれが世界の崩壊程度なら、簡単にくれてやりましょう。
 例えばそれが無数の民の命程度なら、躊躇わずに差し出してあげましょう。
 だけれど、あの子に手を出す事は許さない。あの子はあげない。私だけのものよ。
 もっとも、夢は告げてくる。もっと詳細な情報を。
 あの子は私を憎んでいる。だから、そもそもあの子が近い未来あんな目に遭うのは、私のせいなのだ。私を地獄に落とすそのために、あの子は自ら堕ちていく。自分は上手くやれるだなんて勘違いして、みすみす蜘蛛の巣にかかるのだ。
 運命と言うものが張り巡らせた透明なその罠に気づかず。
「……って、……待って」
 一人寝は嫌い。人が一緒にいてほしい。でも、あの子以外は誰も要らない。
 私は寝台の上で一人、呟く。押し殺した声で叫び、祈る。
 まだ父と母がいて、そのどちらからも虐げられて泣いていたあの頃のように。その両親を殺したあの日から限りなく不老不死に近づいて体の成長は止まってしまい、鏡を見るたびにあの頃の悲憤慷慨と苦痛を思い出さねばならない。だからいつもは必要以上に派手な化粧で誤魔化すのだけれど、この場ではそれも無駄。
 眠る際に化粧をしたままの人間なんていないし、第一いつもそうであるからといって、今のこの感覚は鏡を見て思い出したわけではない。胸のうちに巣食っている絶望じみた感情は、いつも蓋を開けて私を飲み込む機会を待っている。
 全身に不安が満ちていく。
「待って……まだ、弱まらないで、私の力」
 せめて目的を達するまでは。
 せめて願いを叶えるまでは。
 せめてあの子を――あの子が死なない未来を作り出すまでは。
 そうすればもうどうなっても構わないから。元々これは神に与えられた力。神に与えられた命令。借り物であるそれを、返す時が来ただけだ。問題はそんなことではない。
 黒の末裔には異能力者が多い。それはシェスラート=ローゼンティアとサライ=ウィスタリアの末裔たる薔薇の王国の吸血鬼たちや、人狼族、かつては神狼族、と呼ばれたフラムの血筋が治めるセルヴォルファスの民のような魔族とは違って。
 黒の末裔が生まれ持つのは魔力。人によって様々な発現をするその力だけれど、最も多いのは「予知」の能力。
 そして弟にできることを、姉であるこの私ができぬわけはない。
 なぜなら私は、この世で「万能」の力を持つ者なのだから。
 そして私が知った未来は――。
「皇帝陛下」
 部屋の外から声がかけられた。
「何?」
「宰相閣下の指示を頂きたい案件が幾つか滞っておりまして、その……」
「私が後で直々にやってあげるわよ。ハデスは当分戻らないわ。下がりなさい」
「は」
 扉の外から遠ざかっていく足音を聞きながら、寝台の中で肩を抱いたまま思わず溜め息が漏れる。完璧に一人になった途端、またしても先ほどの夢の残り香がのしかかってくる。
 苛立たしげに頭を振ると、自身の長い黒髪がさらりと白いシーツに零れた。
 黒。
 夜を、闇を、そして暗黒と混沌を象徴するこの色。歪みの色。反抗の色。裏切りの色。
 ならばそれが誰よりも相応しいのはやはりハデスではなく、私のほうなのでしょう。
 神よ。
 私を皇帝に定めた全能の支配者よ。
 いまだその姿見せぬ、不可視の絶対者よ。
 私はあなたを裏切る。あなたの与えたこの力で、あなたへと反逆する。私を見放すあなたが選んだ者を躊躇いなく斬り捨てる。世界がどれほど混乱に包まれ、混沌と騒乱に見舞われようとも。
 それで私の見た未来を変えられるなら、安いもの。その後はどうなっても構わないから。
「……ハデス」
 私を憎む愛しい弟の名を呟いて、ただひっそりと目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 全ては夢のようだった。
「陛下、これは一体、どういったことなのでしょう?」
 しかし夢ではない証拠に、彼の前で父親程も歳の離れた男性がいかにも気難しげな顔で問いかけてくる。このエヴェルシード国の宰相である、バイロン=セーケイ=ワラキアス。そして先代ジョナス王の時代から宰相である彼だが、当代までも宰相と命じたのは間違いなくこの自分。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 それが自分の名。そして自分の立場。王族は普通、家名として国の名を名乗る。このエヴェルシードという国こそが、我が家。
 その家に、今尋常でない危機が訪れているのだ。
 話は先日の、皇帝陛下訪問に便乗された暗殺事件、そしてそれ以前からの問題であった隣国ローゼンティア侵略に端を発していた。
「これは何か? つまり私は隣家の主人ではないが限りなくそこに近い位置にいる息子か何かと喧嘩をして永の膠着状態に陥っていたところ、それでも毎日口論するわけではなし、今日はゆっくりするかと寛いで客人をもてなしていた時に思いがけず隣家の人間が怒鳴り込んできたようなものなのか?」
「シェリダン様、何もそこまで庶民的に例えませんでも……」
「いやぁ、でも言いたいことはあってますわねぇ」
 童顔のクルスが困ったように眉を下げ、エルジェーベトは皮肉気に笑った。
「一体、本当に何があったのです? 陛下」
「その前に報告しろ、バイロン。城内の様子は?」
 シェリダンは玉座に座し、周囲に揃った配下たちにそれぞれ報告を纏めさせる。とは言ってもユージーン侯爵クルス卿、そしてバートリ公爵エルジェーベト卿とは途中まで行動を共にしていたため、彼らが知っていることのだいたいはシェリダンも知っている。
 まずは、と城の外へ出ていたシェリダンたちではなく、留守番組だったバイロンが口を開いた。
「皇帝陛下にご用意した部屋はもぬけのカラです」
「それは聞いている。あの方は、もうこの国に用事はないからとさっさと皇帝領に帰った」
「それから、帝国宰相閣下の方もお姿が見えません」
「ハデスか。奴の身辺に関して他に何かないか?」
「それに関しましては、もとより我等にも秘密で画策していらっしゃったのは陛下でしょう」
「……そうだったな」
 あの時のハデスの突然の行動は気になったが、もともとシェリダンは父を幽閉、カミラに抹殺させるためにハデスの協力を得た。その手前今更強く言う事も出来ずある程度自由にしていたのだが……今回はそれが仇になった。
「まあ、もっともあの方に関しては、どうせどんな優秀な監視を放ったところで得意の魔術で撒かれてしまうんですから無意味でしょう。ワラキアス宰相閣下の方で他にわかることってありません?」
 エルジェーベトがフォローを入れる。
「いえ、バートリ公爵。こちらでは他には、晩餐会で既に報告したとおり、あの時間城の近辺にヴァンピルらしき怪しい影が見えたことしか」
「そう」
「それならば、私の方から伝えさせていただけませんか? シェリダン様」
「リチャード」
 バイロンと同じく城への居残り組だったリチャードが、常の彼よりもいささか気を張っているような態度で口を開く。
「セルヴォルファス王のことです」
「……いきなりロゼウスに迫った、あの王か」
 リチャードの言葉に思いがけない名前を聞いて、シェリダンの脳裏には自分よりも更に若い姿をした王の、不愉快な様子が浮かび上がる。人狼の国セルヴォルファスのあの王は、よりにもよって私のものに手を出そうとした。
 それはともかく。
「そのこととの関係は今は置いておきまして、その彼が妙な行動に出ているとの報告が見張りの兵士から幾つか寄せられました」
「妙な行動、だと?」
「はい。外出が多いのだそうです。本人は本性が狼であるだけに城に押し込められているのが我慢できないと言っているようなのですが、その割には出かける先がおかしい、と」
「して、その外出先とは?」
「尾行を途中で撒かれたため、正確な位置まではわからないのですが……方角から推測するに、国境近くの……陛下や公爵たちが赴いた森付近の街道です」
 シェリダンは頭の中に国内の地図を描く。平常の執務でイヤと言うほどに見慣れているそれはすぐに脳内で開かれた。
 そして示された場所の不自然さに、確かに眉根を寄せざるを得ない。
「……あの辺りって確か、人気少ないのよねぇ」
「王都シアンスレイトに通じる街道でありながら、回り道であるためにほとんどの人は使わない道、でしたよね」
 話を聞いて、クルスとエルジェーベトの二人も眼差しを険しくしている。
 あの辺りは確かに人気がない。何故ならその向こうには特筆すべき特徴もない小さな村が一つあるのみで、それを越えればすぐに隣国だ。王都の住人や旅人は普通賑やかな方面に向かうから、あの辺りを訪れる人間は少ない。あの街道を使うとなるとその辺境の村の住人か、もしくはその向こうの国から来る者、そして向こうの国へ向かう者。
 その向こうの国とは――ローゼンティア。
 数ヶ月前に侵略し、今は彼らの国の属国と化しているはずの吸血鬼たちの王国だ。
「……何を企んでいるのだろうな、セルヴォルファス王は」
「ええ」
「僕も、あの位置で無関係ってことはありえないと思います」
「まさかあんなちっちゃい村に名産のお酒飲むため一杯引っ掛けるために行ったってわけじゃないでしょうしねぇ」
 バイロンが纏める。
「その報告の通りなら、彼は確かにローゼンティアと何らかの繋がりがあるのでしょう」
「繋がりも何も、元王太子の友人らしいぞ?」
「ドラクル王子……いえ、ドラクル=ヴラディスラフ大公の?」
「ああ」
 ロゼウスから聞いた話を説明する。集まった面々が一斉に表情を変えて唸る。もちろん他人事ではなく、シェリダンとてそれは同じ。いや、状況を聞いているだけに尚更厄介だということをシェリダンは知っている。
 セルヴォルファス王はあのドラクルの友人。それも、かなり深い付き合いだとロゼウスは言っていた。お互い自国の代表格でありながらそれを越え、国内で重用している貴族たちと同程度の親しい関係だというのだから相当なものだろう。こちらで例えるならシェリダンとクルスのようなものか。
「まだセルヴォルファス王の行き先が街道と確定されたわけでもありませんが」
「でも、リチャード。ほとんど確定ということでいいのでしょう」
「少なくとも私はそう考えております。途中で邪魔が入ってそこまで調べることはできませんでしたが」
 エルジェーベト尋ねると、常に冷静なリチャードが珍しく困ったような顔を見せた。生真面目なリチャードが確証を持ち出さずに推論交じりの報告を持ってくるのはおかしいと感じていたのだが、どうやら理由があるらしい。
「邪魔って?」
「いえ、その……」
「言え、リチャード」
 シェリダンの促しにしぶしぶとリチャードは答える。
「……イスカリオット伯です」
 ああ、と周りの者はいっせいに溜め息をついた。イスカリオット伯爵ジュダ卿とこのリチャード=リヒベルクの因縁については身内の中では良く知られた話題だ。そのイスカリオットに絡まれたならば、リチャードが肝心な時に満足に動けなかったとしてもおかしくはない。
 だがエルジェーベトは違ったようだ。
「……あのイスカリオット伯が、何も考えずにそんな真似をするかしら」
「エルジェーベト?」
「少し気になりませんか? 陛下」
「突然呼び出したのは私だしな。何かを命じるならリチャード以上に奴に都合の良い相手も他にいないだろう」
「それはそうですが」
 まだ納得がいっていない様子で、エルジェーベトは一人顎に指を当てて考えている。領地支配の手腕も武力も王国一と言われるその実力とは裏腹に妙齢の女の姿をした彼女が行うと、やけにきまるポーズだ。
 そんなエルジェーベトの姿勢を崩したのは、控えめだがしっかりとした先触れと共に部屋に入ってきた彼女の弟だった。
「あら、ルイ」
「陛下、ご機嫌麗しゅう」
「おかげさまでな」
「姉さんも元気そうで。何か進展あった?」
 ルイ=ケルン=バートリは姉と同じ華やかな面差しで尋ねる。あの時、事態を収拾したのはその場に最初からいたしシェリダンたちではなく、このバートリ公爵の弟、ルイ卿であった。
 ローゼンティアの第五王子、ロゼウスのすぐ下の弟であるミカエラ王子と通じているというルイは、彼の依頼によりその周辺をひっそり警護していたのだという。彼がミカエラと何を条件に取引したのかなどと無粋なことは聞かないが、ともかくそのおかげでシェリダンたちはルイに助けられた。
 あの後、一方的に《力》を投げつけて森を破壊した世界皇帝デメテル陛下は、飽きたから帰ると言わんばかりの態度で、もう用事は終わったのだと身を翻した。魔術で一瞬のうちに姿を消した彼女を追えるはずもなく、呆然とするシェリダンたちはもはや森の残骸すらない、焼け爛れた焦土で顔を見合わせていた。
 ドラクルたちは、すでに姿を消していた。皇帝の放った魔力の塊がぶつかる前に、ドラクル王子が何か行う素振りを見せるとその場に一匹の竜が現れたのだ。絶滅危惧種でもあるという冥府の生き物がどうしてと思ったが、向こうにはハデスもいるしドラクル自体が得体の知れない相手だ。何ができても、出てきても不思議ではない。
 その場にいたローゼンティア関係の者の半数近くがそれに従って逃げ、半数のヴァンピルは――シェリダンたちと共にルイに連れられて、この王城へとやってきた。
「陛下。それで結局、どうなさいますか?」
 バイロンが眉をしかめたまま尋ねてくる。
 国内にヴァンピルが乗り込んできて勝手に仲たがいをする。それだけなら勝手だが、彼らの目的はあからさまにシェリダンへの復讐と自国ローゼンティアの奪還。もっともローゼンティア王家の複雑な事情はあるが、彼らエヴェルシードから見れば要はそういう言葉に集約される。その事態を、シェリダンたちはなんとしてでも打破せねばならないのだから。
「軍備を増強しろ。兵士に訓練と出征の伝達。各大臣を集めよ」
「それでは」
「ああ」
 もはや残されているのはこの道、戦い続けるという道だけだ。
「もう一度、ローゼンティアとの戦争だ」

 ◆◆◆◆◆

 一つ部屋に集まって、アンリたちは沈黙していた。これだけの人数がいて誰も何も喋らないということは、さすがに息苦しい。
 エヴェルシード王はそれぞれに部屋を用意すると言ったが、不安な今この状態では、兄妹同士で集まっている方が落ち着いた。だからこそ皆が皆、こうしてアンリに与えられた一室に固まっているわけだ。
「ねぇ」
 その沈黙に一番初めに耐えられなくなったのは妹のミザリーだった。ただ耐えられないだけでなく、耐えられないと思っているだろう弟妹たちの心情も思いやった結果だ。何しろ、ドラクルもアンもルースもヘンリーもいない今この状況では、アンリの次に彼女が年長者だ。
 ミザリーは遠慮がちにアンリの方を見て、尋ねてくる。
「アンリお兄様。私たち、これからどうすればいいの?」
「どう、するべきだと思う?」
 具体的なことは、アンリも何一つ答えられなかった。逆に聞き返してしまい、ミザリーがその国一の美女だと褒め称えられていた秀麗な面差しを歪ませる。今にも泣き出しそうな妹の……本当は妹じゃなかったけれど……その様子に、アンリは慌ててしまう。
「ご、ごめんミザリー」
「ううん。ごめんなさい。お兄様。私、私がここはしっかりしなくちゃいけないのに」
「無理する事はありませんよ、姉上。こんなことになって混乱しているのは、皆一緒なのですから」
「ミカエラ……」
 先日の騒ぎで病弱な第五王子ミカエラはやはり体調を崩した。寝台に伏せながらも、彼は姉であるミザリーを慰める。ミザリーとミカエラはこんなことがあっても両親とも変らない、れっきとした兄妹だ。
「ああああ。もう」
「兄上」
「ごめん、ミカ、ミザ、ウィル、エリサ」
「アンリおにいさま」
「兄上」
「いや、もう、ちょっと俺の頭も限界きそうだわ」
 思わず天を仰いで目元に手を当てる。その意味を察したのか、ミザリーとミカエラが気まずげに肩を揺らした。ごめん、二人とも。
 泣きてぇよ。
「ドラクルの奴……一体なんだって……」
 あんなことを。
 衝撃的な告白。明かされた真実。
「とりあえず、状況を整理しようか。こんな時こそ常に筆記用具を持ち歩いているメモ魔のアンが頼りになるんだけどな」
「兄上……」
「悪い」
 第一王女アンは、偽りの王族であったアンリとは違い正真正銘の王女でありながら裏切り者のドラクルについていった。ヘンリーも、ルースも、そして。
「ジャスパー、ここにいないってことはドラクルについていったのかな」
「おそらく、そうでしょうね」
「でも、その前にドラクルに剣を向けていたよね」
「ジャスパーにいさま、どうしていないの?」
 第六王子ジャスパーの立場は、彼らの中にあってさらに微妙だった。一瞬前にはドラクルに斬りかかりそのまま敵対するかに見えた彼が何故、あの男についていったのか。だがここにいる者たちに、その答が出せるわけもない。
「とりあえず、家系図の……整理」
 シェリダン王に与えられた客用の部屋は、備え付けの机の引き出しに便箋と筆記用具がしまわれていた。普通は滞在先からどこかへ手紙を書く人のための心遣いなのだが、今はそれを遠慮なく使用して情報を整理する。
「ええと、まず……誰が王族で誰がそうでないのかをはっきりさせとくか」
「……そうね」
 沈み込んだ声でも、ミザリーは賛成した。
 アンリはドラクルの言ったことを思い出しながら紙に兄妹たちの名前を書き込んでいく。
 第一王子ロゼウス、第二王子ミカエラ、第三王子ジャスパー。第一王女アン、第二王女ミザリー、第三王女ロザリー。
 ヴラディスラフ大公爵子息・令嬢がドラクル、アンリ、ヘンリー、ウィル、ルース、メアリー、エリサ。
 実に兄妹の半分以上が、王族ではなかったというわけだ。
「なんだよ。今までと呼称が変らないの、アンだけじゃないか」
「アンリ」
 アン姫。彼女だけは今も昔も第一王女だ。
「それと、……誰と誰が兄妹かってことよね」
「ええと、それって……」
「例えばね、ウィル。私とあなたは父親も母親も同じだから、兄妹。私とエリサは、父親違いだけれどお母さまが一緒だから兄妹。そしてあなたとエリサも、父親違いだけれどお母さまが同じだから兄妹よ。私たちはみんなお母さまが一緒だから」
「ああ。なるほど。なるほど?」
 王族であるかどうかよりも、さらに状況を複雑にするのがこの問題だった。ウィルは半分ほどは納得できたようだが、エリサはどうにも理解が追いつかないようだ。
「ええと……?」
「待ってな。今図に書き出すから」
 ウィルが新しい紙を取り出して渡してくれた。それに、今現在でわかるかぎりの情報を整理する。
「ええと、ドラクルだけはまず母親も正妃殿下じゃなかったから、母親違いでルースやロゼウスとも無関係、ただ父親が同じだから俺たち大公家とは兄妹。アンは国王陛下と第三王妃の娘だから、そうか、アンとミザリー、ロザリー、ミカエラまでは両親とも同じ兄妹なんだな。それで、ロゼウスは母親だけが同じだからルースは姉。後は国王陛下の血を引く皆が兄妹で、俺は父親違いでも同じ第二王妃の息子であるジャスパーとは一緒で、メアリーとは二親同じ……」
「兄様」
「それで、ウィルたちについてはだな」
「アンリ兄様!」
「兄上!」
 ミカエラとウィルが悲鳴のような声でアンリを途中で止めた。
「お辛いなら、無理してそんな作業しなくていいです」
「え?」
「……アンリ兄上」
 ミザリーがその白い手をそっと伸ばした。アンリの頬に触れて、水滴を拭っていく。
「あれ?」
 いつの間に……俺は、泣いてたのか。
「もう、やめましょうよ兄上。誰が兄妹で誰が王族だとか、どうでもいいです。どうでもよくなりました」
「ミカエラ」
 弟は突然大人びたように、いつも体は弱くとも気が強く癇癪を起こしがちだったとは思えない様子で言った。
「だいたい、いくらドラクル兄上が何か言っていたって、そんなものどこまであてになるんですか?」
「ミカエラ、どういうこと?」
「……僕は本当に王の血を引いているのならば、何故こんなに体が弱いんでしょうね」
「ミカ」
「それに、結局そんな風に誰が兄妹だなんて突き止めたって、無駄なことですよ」
 ミカエラが沈み込んだ。
 この弟は賢い。永い間病床で人間観察や勉強ばかりしていたためか、妙に鋭いところがある。
「だって父親違いでも兄妹。母親が同じ兄妹なんて……それって、僕らの母上の浮気を公然と認めることになるんですよ」
 思わずペンを取り落とした。
 アンリはそこまで考えがいってなかった。ああ、そうか。
 まさか国王が特定の王妃と同衾しなかったということはなかろうから、三王妃は誰もが王弟大公と通じたことになる。それは紛れもなく、夫であったブラムス王への裏切り。
「……そうだな、何の意味もない、な」
 むしろこんなことはっきりさせたって、余計自分たちの傷口を抉るだけだ。
 真実を追い求めるのは、確かに気分の良いことじゃない。
「はい。だから……僕たちが押さえておかなきゃいけない大事なことは、たった一つだけです」
 推測はやめて、これだけは確定しているであろう情報だけを根拠にする。
「ああ」
 それは、能力的にも家柄的にも、間違いなく次の王に相応しいのはロゼウスであるということ。


113

 風のように軽く、その存在は地を蹴りこの場所へとやってきた。
「おや、ヴィル」
「やっほー、ドラクル。頼まれ者、お届けに来たぜ、と」
「そうか。ありがとう」
 大きな岩の上から軽く跳躍してこちらへとやってきた人狼族の彼に礼を言う。何でもない様子でやってきたヴィルヘルムだけれど、その肩には荷物でも担ぐかのように無造作に、一人の少女を抱えていた。
「メアリー!? お主、わらわたちの妹に一体何をするか!」
 少し離れた場所に立っていたアンが、慌てて駆け寄ってきてヴィルヘルムの腕から気を失っている様子のメアリーを奪う。ドラクルたちより十歳ほど若い妹は、その全身を真っ赤に染めていた。
「……メアリーの血じゃないですね。これは……」
 口元を押さえて、ヘンリーが眉根を寄せる。
「王権派とかいう連中、皆殺しちゃったけどいいよね? 別に」
「ああ、構わない。むしろあの小うるさい連中、道楽者の青年貴族の数を減らしてくれたのなら助かる」
「そう。ならよかった」
 ドラクルはヴィルヘルムと瞳を見交わした。セルヴォルファスの若き王は、その灰色の眼に得もいえぬ色を宿している。
「で、次は何をすればいい?」
「急ぎの用事は今のところないな。エヴェルシードに怪しまれすぎない程度に、あの国で網を巡らしておいてくれ」
「はぁい。ねぇ、その暁には、ちゃんと約束守ってくれるんだろうね」
「ああ。もちろん」
「なら、いいよ。従う」
 ヴィルヘルムはにっこり笑い、来た時と同じく風のように軽やかに姿を消した。
 人狼族の国、セルヴォルファス。ドラクルたちヴァンピルと同じく地上で暮らす魔族の一種である彼らは、身体能力もドラクルたちと同等か、個体によってはそれ以上のものを有している。
 敵に回すのは厄介だが、味方であるうちはあまりにも使い勝手のいい駒。
 適当な約束で釣れるのだから、もう少し様子を見てみるか、
 役に立たなくなれば……もしくはこちらを見放して敵になるのであれば、即座に切り捨てればいい。ドラクルとルースだけでは難しいが、戦力に数えないアンはともかく、そこそこの力を持つヘンリーやジャスパーがいるのならば彼一人始末するのは無理なことではないだろう。
「メアリー! しっかりせい! 目を覚ましや!」
 タルタロスから呼び出した竜に乗って辿り着いた隠れ家の一種で、ドラクルたちは身を潜めていた。エヴェルシードへの宣戦布告はなしたが、まさかすぐにも攻撃を仕掛けるわけにはいかない。物事には順序と言うものがある。
 ロゼウスがドラクルに従わなかったのは少し残念だが、それはそれで他の方法がある。残った兄妹たちについても、どこまでできるかは限られているだろう。
 計画は着々と進んでいる。
 もう少しでドラクルの願いは叶う。
「兄上」
 楽しい思考に水を差すかのように、ジャスパーが話しかけてきた。
「なんだい?」
「メアリーが目覚めませんけど、起こしていいですか?」
「何?」
 手加減は必要ないと言ったとはいえ、ヴィルヘルムはそれほど無茶をしたのだろうか。王権派……ドラクルたちのようにブラムス王の血を引く者たちに叛旗を翻すのは反王権派。そのドラクルたちにとっては対立相手である一団の貴族たちを殺したとは言っていたが、まさか彼らの妹にまで手をかけるとは。今度からやりすぎるなと言っておくべきか。
「仕方がないね。彼女を起こしてやりなさい、ジャスパー」
「わかりました」
 ごっそりと表情の抜け落ちた顔で頷いた弟は、すぐ上の姉の傍らに跪いた。血の気を失っている頬をそっと両手で挟み、ゆっくりと口づける。
「……この分ではジャスパーは意外と国王の子かな」
「ドラクル?」
「ここにいるような、私やお前のような歳の近い者は両親がわかっているが、下の子たちについては父親がはっきりしていなくてね」
「では先ほどの発言は?」
「はったりだよ。半分は。ロゼウスは王と正妃の息子であることは確かだし、ロザリーやアンのように第三王妃殿下アグネスの子は大概が王の子だよ。ロザリーにいたっては能力の高さからも窺える。それに第三王妃殿下、彼女は国王陛下に貞節を誓って、大公の誘いに乗らなかったからね」
「先ほど、確か第三王妃の娘であるエリサも王弟の子だと言ってなかったか……?」
「ああ。末っ子の彼女だけは、大公が第三王妃を強姦してできた子だからねぇ」
 ヘンリーが一瞬目を剥いた。だが、すぐに興味のないような顔になる。
「残念だったね。ヘンリー。私の名目上の母上であるあの節操なしのクローディアと、君たちの母である野心家のマチルダ=ライマ王妃は権力を握りたいばっかりに、王との間になかなか子ができなければ王弟とも躊躇いなく寝るような女で」
「……今更だよ。ドラクル兄上。もともと私たちの母上は、アンリを王太子にしたいがためにあなたを殺そうとし、間違えてロゼウスの首を絞めてもなんとも思わなかった女だ」
「そうだねヘンリー」
 これ以上の深い真実はドラクルを傷つけたように、きっと彼をも傷つけるだろう。
「この話はここでおしまいだ」
「ドラクル」
「それよりも、これからの話をしないとね」
 ジャスパーの魔力により、メアリーが目を覚ました。ドラクルの姿を認めて、絶望と恐怖に顔を歪める。そういえばもともとこの妹は、ロザリーやミカエラほど盲目的でこそないがドラクルではなくロゼウス寄りだった。
 使える物はなんでも使うまでだ。それが血を分けた肉親であろうと関係ない。
 むしろそれらを血と悲哀に染めて初めて、この復讐がなされるというのなら――。
「……と」
 視界の端で、退いて道を作ったジャスパーが何か言いたげに唇を開くが肝心の言葉は何も聞こえなかった。何にしろ、気にすることも今はないだろう。それよりももっと今は大事なことがある。
「おはよう、メアリー」
「ど、ドラクルお兄様……」
 ドラクルは自分を見て怯える妹に、殊更ゆっくりと笑いかけて見せた。

 ◆◆◆◆◆

 廊下を歩きながら思う。一日の疲れが酷く背中の辺りに溜まっている。
 まだそんな齢ではないとは言え、先日の戦いも本日の事務処理も確実にこの身に疲れを蓄積させていた。腰や肩というより、背中と横隔膜の辺りと言う妙な場所が痛む。
 それでも、まだ幾つかの課題を残しながらとはいえある程度のことの方針は決まった。後はそれに即して進めていけばいいだけだと考えれば、少しだけ気分が楽になる。
 まったく、皇帝と言いその弟である帝国宰相といい、余計な手間ばかりかけさせてくれる。
 ここにはいない人物へ胸中で罵詈を吐くが、例えば彼らの場合目の前でそれを言ったところで鼻で笑い飛ばしそうな雰囲気を持っている。自分の想像にますます不愉快になって、少々乱暴に部屋の扉を開けた。
「ロゼウス!」
 八つ当たりできそうな唯一の人物の名を呼び、部屋の中に姿を探した。いつもは寝台の上で所在なげに座り込んでいることの多い彼だが、今日の予想は外れた。
「……あ、シェリダン」
 シェリダンの声に答えたのは、呼ばれた当のロゼウスではなかった。彼に良く似た容姿の、彼の妹のロザリーだ。
 彼女はソファでロゼウスと向き合い、お互いの両手の指を絡めてそれぞれの体を支えあっていた。
 よく似た容姿の二人による、まるで鏡映しのような光景に一瞬、息を忘れる。
 似ているとはいっても厳密に言えばやはりロゼウスとロザリーは違う。口を開けば出てくる言葉と声の高さ、容姿で言うならもっとも大きな違いは髪の長さで、ロザリーの真っ直ぐな白髪が腰まで届くのに比べ、ロゼウスの白銀の髪は肩の上だ。
 そして何よりもこの二人の間には、厳然とした性別の差というものがある。ロザリーは年齢の割には豊満なスタイルの美少女だが、ロゼウスの胸は扁平だ。男なのだから当然である。
 しかしもともとロゼウスの容姿が女性的でありさらに女装までしている今では、美しい衣装を身に纏った二人は同じ表情をして並べば揃いの人形のようだ。双子でないというのが信じられないほどの、それは相似だった。もっとも、真実の彼らは双子どころか、片親違いでさえある兄と妹。
 それはともかく、その良く似た、けれど確実に違う人物である二人が何故か向かい合い手をとりあっていた。
 腕を軽く曲げ深く指を絡め、額をこつんと突き合わせて向かい合うその姿は、祈りのようにも見えた。
「……ロゼウス、ロザリー。何をしている?」
「別に何も」
「ああこれ? 特に何か意味があるってわけじゃないの。ただ、ロゼとこうしてると落ち着くんだもん」
 シェリダンの問に素っ気なく簡潔に答えたのはロゼウスで、言葉を重ねて補足したのがロザリーだ。他人が近づけばそれがよっぽど嫌いな相手でない限り柔らかな表情を浮かべるのがロザリーで、逆に自分がよほど好きな相手でもない限り無表情に返すのがロゼウス。
「……ロザリー、他のヴァンピルは客室に集まっているが、お前は行かないのか?」
「なあに。そっちに行ってほしいってわけ?」
「説明役がいないと彼らも不安になるのではないか?」
「もうなってるわよ。そんなの、みんな、とっくに」
 逆にあんたとこうして普通に話す私みたいなのが混ざる方が、皆気構えちゃうって。ロザリーは彼女らしくもなく口元を皮肉気に歪めてそう言った。
「でも、いいわよ。出て行ってあげる。あんたがこの部屋で寛ぐには、私は邪魔なんでしょ? 出て行ってあげるわよ」
「別に邪魔とまでは言わないが。私が何をしてもお前が気にしないのであれば。――そうだろう、ロゼウス」
 そこで初めて、ロゼウスはシェリダンを見た。先ほど一言いったきり、彼はずっと黙ったままだった。
 感情の読めない表情でロゼウスは微かに眉根を寄せると、ロザリーを押しのけた。
「ロゼ」
「戻った方がいいよ、ロザリー」
「でも」
「俺は、大丈夫だから」
 双子のように心を分け合った妹のために、甘く淡く微笑んでロゼウスはロザリーを部屋から出す。
「珍しいな。ロザリーがお前に引っ付いているのは知っていたが、あんな風にただじっとしているだけだなんて」
 妹がいなくなった後はすぐにいつものように、薄い衣一枚で寝台を占拠しに行ったロゼウスに声をかける。そういえば自分はこの部屋の主のはずなのだが、何故いつまでも入り口で佇んでいなければならないのだ?
「ロザリーは俺が揺れてるの、なんとなく知って慰めに来てくれたんだよ」
「どういう意味だ」
「俺とロザリーは似ているけど、時々似すぎてるってこと。好きになるものとか、大概一緒だから」
 ロゼウスにとってロザリーは、何を言わずとも自分の心をわかってくれる相手らしい。それはいいのだが。
「ロゼウス、何を考えている?」
 首もとのスカーフを、それを止めるブローチごと乱暴に外した。襟元を寛げて、同じように寝台の敷布の波に沈む。
 シェリダンは先に寝台に入っていた細い体へと手を伸ばし、気だるげな視線を向けるばかりで積極的に口を開かないロゼウスの足を封じた。
「シェリダン……」
「疲れているんだ」
「だからって、この格好は」
「なんだ? 今更だろう?」
 彼の膝の上に頭を乗せ、ちょうどいいからこのまま眠りに入ってしまおうかとも考える。背中や胸郭の辺りの不自然な凝りはまだ解消されない。これからさらに忙しくなるというのに、暢気に疲れなど溜めている暇は自分にはない。
 疲れなどという言葉とは無縁に見えるロゼウスが酷く羨ましい。
 これだからヴァンピル――吸血鬼というものは。
 これだから――ローゼンティアの者など。
 ロゼウスの膝に頭を預けたまま、シェリダンは仰向けとなって自分を覗き込むロゼウスの頬に手を伸ばした。
「シェリダン?」
 その不思議そうな表情があまりにも裏のない、いつもと同じものだからなおさら苛立った。だから。
「残しておきたい兄妹を決めておけ、ロゼウス」
「シェリダン! それって……」
「ああ、そうだ」
 美しいものは脆く壊れやすい。
 だからこそ、さんざんに踏みにじってやりたくなるものだ。
「我等エヴェルシードは、ドラクル元王太子率いるローゼンティア軍勢と戦う――始めるんだよ。二度目の戦争を」

 ◆◆◆◆◆

「やれやれ。ドラクルの人遣いの荒さにも困ったものだよね」
 客人はそう言って、わざとらしく自らの肩の辺りを叩いて見せた。
 薄茶色の髪に灰色の瞳。そして何より目立つのは、獣の耳と尾。極一般的な人間の国であるエヴェルシードでは通常見るはずのないそれに、好奇心を多少はそそられてジュダは瞳を眇める。
「つまり、今度はあなたが彼との連絡役というわけですね。ヴィルヘルム王」
 少年は頷いた。
「そう。ドラクルが帝国宰相ハデス卿と通じてるのがバレた以上、彼を使うわけにはいかないからね。それで、イスカリオット伯だっけ? あんたの眼から見てどうなんだ状況は?」
 セルヴォルファスの客人は、人の屋敷だと言うのに好き勝手に寛いでいる。だらしない姿勢でソファに寝そべり、こちらの言葉を待つようだ。
 同じ一国の王ではあっても、シェリダン陛下はこのようなことはなさらないだろうと自国の王と比較して誇ればいいのか嘆けばいいのか――なんと言ってもこの人物がこれからの主な協力者だ――複雑な気分になりながらも、憶測を交えた説明を彼は繰り広げる。
「状況は五分五分ですね」
「具体的に」
「ハデス卿のことがあって、綻びが出始めました。まだそれぞれの本当の思惑が明かされていないとはいえ、悪巧みをしている存在がいることを陛下に教えてしまった。となると、これから彼らがすることは敵味方の見極めと潜んでいる敵のいぶりだし」
「つまり、一番ヤバい位置にいるのがあんたと俺ってわけだ」
「ええ」
 困難を伝えたというのに、セルヴォルファス王は楽しげに口元を歪めた。吸血鬼の国ローゼンティアが白の王国と呼ばれることもあるならば、同じ魔族国家でもセルヴォルファスは対照的に黒の王国と呼ばれる。
 そして裏切りと反抗を示すその色彩を冠するとおり、かの国は好戦的な姿勢を常に見せていた。
 人狼の国。
 獣の本能に引きずられてシュルト大陸の他のどの国よりも血を見るのが好きな民族の住む国を治める王は、狼と言うよりはむしろ猫科の動物を思わせる瞳で剣呑に笑む。
「面白いな。面白くなってきたな。ドラクルとローゼンティアをダシにして、ついに大陸が動き出した。大地皇帝もなんか企んでるようだし、世界が争いに巻き込まれるなぁ」
「……セルヴォルファス王」
「戦いはいいぞぉ? 弱肉強食の世界は力こそが何よりの通貨。欲しい物は力尽くで奪うのが我等の最大の礼儀にして絶対の法則。抵抗する相手を無理矢理捕らえてそのはらわたを引き裂く快感はなにものにも勝る」
 ――狂っているな。
 くつくつと暗鬱に笑う、まだ十五、六歳の、下手すればシェリダンよりもロゼウスよりも幼い外見をした少年。しかしその内面は、今までの人生でジュダが見たどんな人物よりも歪んでいる。
 もっとも、人物と言っても人狼族は魔族的要素が濃い一族でどこまでが人間の感覚を基準に考えていいのかわからない。吸血鬼と名乗る割にその異常な身体能力を差し引けばいやに人間臭いヴァンピルたちを見慣れているせいか、この獣耳の少年の狂気がいやに目に付く。
「いや……そうでもないか」
「んー? 何、どうした?」
「いいえ。別に何でもありませんよ、黒き王よ」
 思わず零れた独り言に、唇を尖らせてこちらへと問いかけてくる少年王をかわす。侍女に淹れさせた後冷めるに任せていた紅茶を口に運び、薔薇の苦味に眉をしかめながら考える。
 狂的な魔族になら、もう一人心当たりがある。
 あのまだ稚ささえ残る少年。ローゼンティア第六王子ジャスパー。ドラクルとはまた別の意味で奥底を見せない不思議な雰囲気を持った少年。おそらく王族兄弟の中でも高い実力を持っているだろうに、それを隠しているようだった。
 そしてロゼウスへのあの執着心。ロザリー姫の時とはまた違う、兄を慕う心などというものではなく、もっと狂おしい感情を秘めているようだった。
 あの少年も、この目の前の王も、きっと自らが狂人であることを自覚もしないまま静かにただ狂っているのだろう。
「ねぇ」
 一瞬思考を離した隙に、目の前に人間にしては鋭すぎる銀の爪の生えた手が迫っていた。
「俺の好みではないけれど、あんたも結構人間にしては見目いいよねぇ。イスカリオット伯爵ジュダ卿?」
 ぺろりと紅い舌を伸ばして唇を舐め、セルヴォルファス王――ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファスは言う。首筋に触れた爪が、肌を撫でた。
「綺麗なものを壊すことほど、快感覚えるものはない。……ねぇ、あんたの血はどんな色をしているのかなぁ」
 争いの予感に昂る魔族を鎮めるのは難しいのだと言う。
 いくら人間と協定を結んでいるとは言っても、魔族は魔族。強大な力を持ち本来はエレボス、タルタロスに封じられているはずの彼らは、この地上に出てくるにあたって自らの力を抑制されている……らしい。
 昔話の中に伝え聞くそれらを正しく受け継いでいるらしい目の前の少年は、殺戮の期待にきらきらと瞳を輝かせながら、どちらが敵か味方かもわかっていないようにこの首に手を伸ばす。
 強すぎる力は、精神を破壊するのだと言う。だから狂戦士(バーサーカー)と言う言葉も生まれたのだろう。その闇と病みと引き換えに、人は力を手にするのだ。
 だからと言って、たかが狂人一人の興味のためにこんなところで殺されてはたまったものではない。
「どんな色も何も、私の血は普通に赤いはずですが」
「今確かめてあげようか?」
 にっこりと笑うその顔は同年代のミカエラ王子やエチエンヌたちと同じように可愛らしいのに、内容が尋常ではない。だからと言って、ジュダはジュダでここで負けてはいられないのだ。
「お断りします。っていうかあなたやる気あるんですか? ないなら帰ってくれます? 生憎と私はあなたと違って、そう遊んでいられる身分じゃないもので」
 相手の話を聞きたくないならまともな対応をしなければいい。いちいち相手をしてやるから付け上がる。
 永劫普遍のこの世の真理の通りつれない対応をすれば、狙い通り黒の王を名乗る少年は拗ねたように唇を尖らせた。
「あーあ、つまんない。あんた怯えないね。魔族、怖くないの? 脆弱な人間風情のくせに」
「同じ言葉をそっくりお返ししますよ。人間は怖くないのですか? 愚鈍な人狼の分際で」
(……やりすぎたかも)
多少言い過ぎた感は否めないが反省したところで口に言葉が戻ってくるわけでもあるまいし。素知らぬ顔でやり過ごせば、一瞬きょとんとしたヴィルヘルムは次の瞬間、弾けたように笑い出した。
「あーはははははっ! やっぱり面白いねあんた!」 
 その「やっぱり」は一体どこから来たものか。
 もうこの手の輩は放っておくのが最上の対応なのだな、とそろそろ悟りきったところでヴィルヘルム王はようやく正気に戻ってきたようだった。それでもまだ得体の知れない薄笑いを浮かべながら、言葉を味わうように口にする。
「ドラクルの紹介してくれる相手はいつも楽しくって、嬉しいよ俺は」
「……それが、あなたがドラクル閣下に協力する理由ですか?」
「他に何があるって?」
「……あなたは一国の王でしょう。国は? 民は? 諸外国との融和を図り、自国の利潤を追求する責務は」
 あのロゼウスでさえ、民の命を守るためにシェリダンに下った。
「そんなもの、俺の知ったことじゃないね」
 灰色の瞳を細めて、若すぎる王は笑う。
「いいか? イスカリオット伯。セルヴォルファスの人間にとって必要なのは強さ。強い者が一番偉い。偉い奴には、従わなきゃいけないだろう?」
「それは実に結構な理念ですね」
 一国の王と言うよりは、むしろ粗暴な山賊の理念だ。
「だから弱い奴が悪いんだよ。喉首食い千切られたくなかったら、隙なんか見せるなよ?」
「あなたみたいな人の前でそんな恐ろしいことできませんよ」
「くくくっ。そんなこと、本当は微塵も思ってないくせに――イスカリオット伯、あんた本当は、怖いものなんてないんだろう?」
 この世に狂気の種類は二種類ある。一つは、狂気を狂気とも思わず狂う狂気。もう一つは、現実の残酷さに耐えかねて自ら狂うことを望む見せ掛けの狂気。
「欲しいものなんて何もないんだろう?」
「ありますよ」
「嘘だね。欲しいものがあるフリをしてるだけだろ?」
「――」
 中々痛いところをついてくると思った。先ほどまで滑稽にしか見えなかった酷薄な笑顔は、こちらの予想より少しばかり鋭い。
 白き狂気と、黒を望む心。破滅を望むシェリダン陛下や――そして誰よりジュダ自身の狂った思考も後者なのだろう。狂いたいと願う時点で、その人は本当は冷静なのだ。
 胸の奥で写真立てを倒す。懐かしい面影を振り払う。
 考えるな、と。目の前の薄気味悪い化物をお手本にしてこの世のありとあらゆることに頓着せずに生きられたら――。
「それで」
 ジュダは目を閉じて、遠ざかる二つの後姿を思い描きながら問いかけた。いくら望んでも手に入らないものを願うのは滑稽だから、ジュダはただ自分のしたいようにするだけだ。
「ヴィルヘルム王、あなたがわざわざドラクル閣下と協力し、このエヴェルシードまで来て計画に便乗した理由は?」
 シェリダンが即位し、ローゼンティアへと侵略した時――いや、それがドラクル元王太子の差し金だとするならもっと以前から、この計画は始まっていた。
 今では彼らローゼンティアの面々だけではなく、皇帝や帝国宰相、エヴェルシードでもバートリ公爵などの実力者まで引きずり出すほどの大事となっている。そしてここにセルヴォルファス王がいるならば、きっとドラクルは他の国の権力者とも横のつながりを持っている。
 そしてその全てに今回のことに対する思惑が絡んでいるのならば、誰が何を望み何を行おうとしているのかぐらいは把握しなければお話にならない。
 皇帝は何を考えているのかまだわからないが、少なくとも宰相ハデスは皇帝の地位が欲しいという。今現在ジュダの元にいるカミラはシェリダンが憎くて、ドラクルとその反対側ロゼウス勢の王族たちはどちらの立場であれ、ローゼンティアを取り戻したいことには変わりないのだろう。
 今、シェリダンのもとにはジュダが一時期匿っていたアンリ王子たちがいるが、彼らが本当にローゼンティアを取り戻す気があるのなら、ここでシェリダンに下手に情報を与えることはするまい。むしろジュダと彼の共倒れを狙ってジュダの裏切りについては指摘しないだろう。だからこその、五分五分の状況だ。誰が味方で誰が敵か。閉じ込めているのは誰で、閉じ込められているのは誰だ。
 そしてジュダの望みとは。
 問いかけにセルヴォルファス王は、にっこりと邪気のない笑みで答える。
「俺は、ロゼウス王子が欲しいんだよ、イスカリオット伯」
 邪気はないけれど欲に濡れ、その瞳はまさしく獲物を引き裂く瞬間の獣の目をしていた。
「――……奇遇ですね、陛下」
 ジュダはシェリダンが欲しい。
 そして、あの方のすぐ近くにいるロゼウスが疎ましい。
 だからこそのこの組み合わせかと、胸中で数瞬、ドラクルを呪った。
「利害が一致していて、素晴らしいことですね」
 要は、お互い混乱に乗じて自分の意中の相手を掻っ攫えばいいと、そういうことなのだろう。


114

「あら? どうしたのユージーン侯爵」
「……どうしたもこうしたも……」
 むしろこちらが聞きたいくらいだ。人選を間違えたような気が、今からひしひしとしている。
 その部屋に入った瞬間、クルスは反射的に回れ右で帰りたくなった。膝の上に細身の少女を乗せて戯れていたバートリ公爵エルジェーベトの姿に、用件も告げる前からさよならをするところだった。
「失礼しました」
「ちょっとは落ち着きなさいよ坊や。別に私だって最近大変だったのだし、少しぐらい息抜きしたっていいじゃない?」
 ふう、とわざとらしく気だるげな溜め息をついて、この国一の剣の使い手、バートリ公爵エルジェーベトが身を起こす。半裸の奴隷少女を下がらせて、呼び鈴を鳴らすとまともな給仕がようやくやってきた。
 ここはシアンスレイトに近い、リステルアリア城の一室だ。エルジェーベトがその美貌で結果的にたぶらかした貴族から譲り受けた城の一室で、クルスは彼女と向かい合う。
「イスカリオット伯がおかしい?」
 あまりにも薄着だったエルジェーベトは上着を一枚羽織り、目の毒だったその肌を隠した。ようやくお互いの話し合う体勢が整ったと思えるところで、クルスはその問題を切り出す。
「あの男がおかしいのは、いつものことじゃなぁい?」
「いえ、あの、そういうことではなくて」
 あんまりな言葉と言えばあんまりな言葉だが、対象がイスカリオット伯なだけにこれまた反射的に頷きそうになってしまったクルスは慌てて首を横に振ると、自らが気になった部分を率直に告げることにした。
「先日、森でローゼンティア王族の……人たちと戦ったでしょう。その時に、どこか彼が手を抜いていたような気がして」
「そう……かしら?」
「はい」
「ユージーン候、剣聖と言われるあなたがそう言うのなら、そうなのでしょうね。私は特に何も感じなかったけれど……」
 バートリ公爵が考え込む様子になります。とはいえその実力があるだけに常に強敵を引きうけることの多い彼女に、そこに気づくだけの余裕を持てというのも酷な話であるとはクルスも重々承知している。
「イスカリオット伯のことは、今の時点では僕と、一部の人だけが気づいていることだと思います」
「その一部っていうのは?」
「……ロゼ王妃です」
 その名を口に乗せると、瞼の裏に、彼の紅い眼差しがすっと浮かび上がった。
 ――話があるんだ。ユージーン候。
 ――なんでしょう? 王妃様。
 ――この前のことなんだけど、イスカリオット伯について、何か感じなかったか? 俺は、彼について違和感を覚えたんだけれど。
 そもそも、クルスが今日ここ、バートリ公爵の元を訪れた理由はロゼウス王子のその言葉にある。あの時、彼の言葉を聞くまでクルスはまだ伯爵の異変に気づいてはいなかった。
「言われてみれば、確かにって思うんです。伯は八年前のリヒベルク絡みの事件から人格が変ったともともと言われている人ですけど、ここ最近特に様子がおかしいと思うんです。それで」
「それで?」
「……身辺調査をしてみようと、思うのですが」
「誰が?」
「僕が、です」
「誰の?」
「イスカリオット伯爵ジュダ卿の」
「ちょっと待ちなさいよユージーン候。一体どうしたらそんな大胆な行動を考え付くわけ?」
 エルジェーベトは柳眉を歪めて問いかけてきた。クルスは自分でも性急に過ぎる結論を出そうと焦っていることは自覚しているが、それでも逸る気持ちを抑えられない。
「確かにイスカリオット伯は信用のならない人間よ? だけど、彼の陛下への執着は本物でしょう? 何しろあなたと彼とで協力して、先代国王陛下――ジョナス王を謀殺するように仕向けたのだから」
「……はい」 
 エルジェーベトの言う事はもっともだ。他の誰でもないクルスと彼の二人でシェリダンをこのエヴェルシードの玉座につけたのだ。それを今更、裏切りだなんて。
 だけど。
「もしもその疑いが本物であれば、シェリダン様の憂いは誰よりも、この僕が取り除かなければ」
「ユージーン候?」
 確かにロゼウスの力が凄い事は認める。先日の騒ぎでは高貴な方々を前にしてクルスに発言権こそなかった。しかし隣国王家の家庭事情に口を挟むわけでもないが、居合わせてしまった成り行き上、ロゼウスこそが本当のローゼンティアの王太子であったことも知ってしまった。魔族であるヴァンピルの国家体制における認識は彼ら人間とは違い、吸血鬼たちが彼らより遥かに血筋と言うものを重んじるのだということもわかっている。
 だからロゼウスの能力が他の誰よりも優れていることも頭では理解できているのだ。だけれど。
「ユージーン侯爵クルス卿、もしかしてあなた、王妃様に嫉妬してる?」
「……そう、なのかも知れません」
 彼を見ていると、胸の奥が言葉にできない焦燥でぐらつくのを感じる。ロゼウス自身はほとんど何もしていないのに、どうしてこんなにも追い立てられるように居心地が悪くなるのか。
「……僕は、シェリダン様の臣下です。あの方の役に立つことだけが存在意義。存在理由。けれど、ロゼウス様といると、それが奪われるような気がして」
 それも、こちらは絶望しながら手を伸ばしているのに向こうは軽々とそんなクルスたちをくぐり抜けていってしまうような気がして。
「あー……まあ、この前の話はね。私もいろいろ考えたんだけどぉ」
 エルジェーベトはそんなクルスの内面を見透かしたように、わかりやすく言葉でまとめてくれた。
「要するにロゼ王妃は、エリート中のエリート、天才、なのよ。しかもそれを鼻にかけない、無自覚の天才ってやつ? ローゼンティアの元第一王子が嫉んでいたのも、要はそういうことでしょう」
 いい意味でも悪い意味でも彼は人を惹きつける。
 そしてそれがクルスは怖い。
「バートリ公爵は、感じませんか?」
「何が?」
「あの方は――ロゼウス様は、いつかシェリダン様を連れて行ってしまうのではないかと」
「え?」
 彼女はきょとんとしていた。クルスも、自分が何を言っているのかわからない。わからないけれど。
「とにかく、僕は、シェリダン様のお役に立ちたいのです。ロゼウス王子だけでなく、僕だって、僕らだってあの方の臣下、あの方を支える事ができるのですから」
「……そうね」
「ですから、イスカリオット伯の動向を探ります」
 クルスは宣言した。それが例え、ロゼウスから指摘されたという事実に基づいていても、実際にイスカリオット伯爵の行動を探れるのは王城に缶詰めのロゼウスではなく、クルスの方だと思うのだ。
 ――陛下、イスカリオット伯のことなのですが。
 ――奴が勝手をしているのはいつものことだろう。良い。放っておけ。
 ――しかし。
 ――ロゼウスからも同じことを聞かされた。だが証拠があるわけでもない上に、動機がまったくもって不明だろう。今は身内で争っている場合でもない。
 実はここに来る前に、すでにシェリダンに話は通してある。けれど、シェリダンの中には、それをさして重要ではないと思う意識があるようで、何も言わせてもらえなかった。
 ロゼウスのことだけでなく、何かが心の琴線に引っかかる。
「一つだけ忠告しておくわ。ユージーン候。焦りすぎないのよ。いい?」
 引かないクルスに、バートリ公爵エルジェーベト卿は呆れたように溜め息をついた。そして母のように姉のように、彼女は言う。
「はい。バートリ公爵、僕に何かあったらその時はよろしくお願いします」

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス王子! 久しぶり!」
「久しぶりって、まだ十日しか……」
 シアンスレイト城の中、一つ前の曲がり角を曲がった時にロゼウスは何故か嫌な予感を覚えたのだった。そういうときの自分の勘は、信用しなくてはならないのだと思い知る。それを裏付けるかのように、現れたのは薄茶色の髪と灰色の瞳を持った黒の国の少年王。
 ロゼウスは彼が苦手だ。
 やけに陽気な声で彼はロゼウスに飛びかかってきた。しかも、うっかり本名を叫んでいる。周囲に人がいないことを確認してほっと息をついた。
「わー! 奇遇だねぇ! ずっと外に出てるのを見なかったから、どうしてるのかなーとは思ったんだけど」
 ……いやちょっと待て。ここは安心していいところじゃない。
「ここで会ったのも何かの縁ということで。俺の部屋行こっか」
 ヴィルヘルムは、その手をさりげなくロゼウスの腰に回す。行く行かないの前に、これは問答無用で連れていこうと言う動きだろう。
誰も人がいないということは、当然何かあったときに見かねて助けてくれる相手もいないというわけで……。
「どうしたの? ロゼウス王子」
 びたんと必死で壁に張り付いたロゼウスを怪訝そうな顔で見て、無理矢理引きずっていこうとしていたヴィルヘルムは唇を尖らせる。
「お、王子とか、本名とか、呼ぶの、やめてください」
 皇帝にバレているのはもう仕方ないとして、国王と言う立場の割りにやけに口が軽そうなこの人に知れているのは問題かもしれない。そのことを話題に出すと、ヴィルヘルムはあからさまにどうでもいいという顔をした。
「えー? 別にエヴェルシードの事情なんて俺の知ったこっちゃねぇし」
「だったらなんであんたまだこの城にいるんだよ!?」
 しまった。思わずツッコんでしまった。
 ロゼウスの今現在の立場は元ローゼンティア王子にしてエヴェルシードの捕虜。ヴィルヘルムはセルヴォルファスの王。しかもドラクルの友人だ。彼自身とその国がどういった立場でロゼウスたちローゼンティアの問題に関わってくるのかはともかく、ここでヴィルヘルムを敵に回すのはマズい。
 シェリダンならいざ知らず、相手はまがりなりにも一国の王。年齢的にはかろうじてこちらの方が一、二歳年上だろうが、立場としては圧倒的にヴィルヘルムが上だ。
 エヴェルシード内でも複雑な立場のロゼウスが彼に何か無礼を働くわけにもいかず、他に誰もいないこの場では……耐えるしか、ないのだろうか。
 細かいことは知らされておらず、ただドラクルの友人の『ヴィル』とだけ聞いていた時とは違い、今のロゼウスにこの王の言葉を拒否する権利はない。だからこそ上手く言葉でかわしてよけて煙に巻いて、口八丁手八丁ならぬ口八丁そのまた口八丁でなんとかしなきゃいけない。のに!
「し、失礼しました」
「んー。別にいいけど」
「セルヴォルファス国王陛下」
「ヴィルでいいよ」
 にっこりと笑う少年の、人懐こい犬のような顔には隙がない。というか犬じゃなくて狼だが、彼らはただの狼ではない。
 人狼族。
 ロゼウスたちローゼンティアの吸血鬼と同じく、この地上で生活する魔族の一種。ワーウルフ。
 もともと戦闘な種族ではないヴァンピルとは違って、彼らは戦いの専門家だ。それは人間のような戦術や連携というものではなく、ただ個々人の身体能力の高さを示している。彼らは人間よりも獣に近い。
 不自然にならない程度に体に回された彼の手をやんわりと押しのけようとしたロゼウスは、その腕に込められた力の強さに愕然とする。外れない。
 ロゼウスだってローゼンティア王族だ。それも、不本意ながら知ってしまった真実の中では、もっとも王の血筋に近い……直系の嫡子にして長男。純粋な腕力で人に負けることなんてながくあり得なかったのに、軽く力を込めた程度ではヴィルヘルムはびくともしない。
「無駄だよ」
 ヴィルヘルムはまだあどけなさの残る端正な顔を近づけて、くすくすとロゼウスの耳元で笑いかける。
「ひょっとして落ち込んじゃった? でも、俺はワーウルフだから。元が夢を介する淫魔の眷属の一種であるヴァンピルと、牙と爪で竜族とも渡り合えたワーウルフとじゃ根本的な体のつくりが違う……ほら、だから」
 壁際に逃げたつもりで、いつの間にか追い詰められていた。体を押し付けて虫の標本のように貼り付ける腕に、さらに力が込められる。シェリダンやエチエンヌ相手にはよほど強く掴まれてももっと直接的に皮膚を切りつけるようなことをされなければ痛まない手首が、はっきりとした苦痛を伴って軋んだ。
「あっ……」
「あの時も思ったけど」
 耳に熱い吐息がかかる。
「ロゼウス王子って、痛みに顔を歪めてる時が一番色っぽいよね」
 思わずのけぞって晒すことになった首に、楽しげな彼の唇が迫る。軽く吸い上げてから、首筋に舌を這わされた。背筋が震える、ぞくりとした感触。
「ひっ……」
「んー……」
 砂糖菓子をゆっくりと含むように、じわじわと口づけて責め立てていく。
「や……めろ」
 もう、丁寧な対応など心がけていられない。
「やめろ……っ!」
 この男は自分の敵だ。
「やめる? どうして? 俺は俺がやめたいと思った時にしかやめないよ」
「だったら力尽くでどいてもらう!」
「へぇ? できるの? 細くて可愛いロゼウス王子、あなたに。俺はワーウルフで、お前はただの――」
 ただ見た目が美しいだけのヴァンピルだろう、と、言いかけたセルヴォルファス王の瞳がすっと細まる。
 ロゼウスは彼が掴んでいる両腕に力を込めた。
「それは、戦闘状態に身を置いていない時のヴァンピル、だろう」
 いくらワーウルフとヴァンピルで基本的な身体能力に差があるとは言え、自分だって、本気を出せばこのくらい――。
 だけれど、やはり今一歩のところで戸惑ってしまう。ロゼウスがここでセルヴォルファス王と争いになれば、不利になるのはシェリダンだ。
 しかも、彼の方はロゼウスのその躊躇いを知ってとって、だからこそ余裕の態度なのだ。
「できるの? 本当に? やってみればいいさ。俺は戦いも好きだよ? 見た目の綺麗さについつい目が行っちゃうけど、ロゼウス王子って本当は相当強いんだよね? ドラクルから聞いた事がある。そう……だからじゃあ、殺しあってみる?」
 そんなことできないと知っていながら、この少年はそうして笑うのだ。
 ロゼウスは唇を噛んだ。強さじゃない、腕力じゃない、戦闘能力じゃない、この場を純粋に支配する、この世の柵という力の差が憎い。
 けれど、救いの主は現れた。
「誰だっ!」
 ロゼウスと睨み合っていた時とは比較にならない鋭さで、セルヴォルファス王は廊下の奥を振り返った。カツカツと立つ規則正しい足音は女物の靴でなければ出ない音。
「ごきげんよう、セルヴォルファス国王陛下。それにロゼ。シェリダンが呼んでたから来たんだけど」
「ロザリー」
 常人なら思わずひれ伏してしまいそうになるほどの気迫を湛えて、やってきたのは妹のロザリーだった。ロゼウスは思わず顔を輝かせる。
「いい度胸じゃないか、ローゼンティアの姫君。この俺に、あんな殺気を向けるなんてね」
 ロザリーはにっこりと優雅に、普段は使わないとっておきの王族スマイルで笑った。
「まぁ。おかしなことを仰りますのね。黒の王陛下。殺気なんて、目に見えますの?」
 それが剣を直接向けられたとでも言うのならともかく、さっきのは向けられた害意になまじ実力があるものだから鋭すぎるセルヴォルファス王が勝手に反応しただけ。ロザリーはそう言いたいのだ。
 セルヴォルファス王ヴィルヘルムは舌打ちする。
「ほんっとうに、いい度胸だな」
「お褒め頂いて光栄です。それでは、あに……姉を返していただきますね」
 ロザリーはつかつかとロゼウスの元に歩み寄ると、有無を言わせず腕を引いて連れて行く。
「ろ、ロザリー」
「来てよ、ロゼウス。別にあの王から助け出す口実ってだけじゃなくて、シェリダンが呼んでるのも本当だから」
「シェリダンが?」
 その頃にはロゼウスの意識は、背後で恨みがましい視線を送ってくるセルヴォルファス王からシェリダンへと移っていた。


115

 王城からさほど離れているわけではない、物静かな風の吹く屋外。冴え冴えとした石が敷かれている道を通って、哀しげな色をした花の咲くその広場へと出る。
 どこか寂しげな顔でロザリーが去って行った後、ロゼウスは言われたとおりその場所に辿り着いた。
「来たか、ロゼウス」
 その場所には一度しか来ていないけれど、覚えがあった。
「シェリダン……どうして……」
 《焔の最果て》
 それは、墓所。エヴェルシード王家の墓が整然と立ち並んでいる。
「お前とここにこうして来るのは二度目だな」
 今日の彼は喪服ではない。いつも通りエヴェルシードの色である深紅の軍服を着て、並ぶ墓石を嘲笑うような眼差しで睥睨している。彼が正面に立つその一際新しい早桶の墓碑銘は、確かに今思い返せば眩暈がするようなもので。
 カミラ=ウェスト=エヴェルシード
 死んだと思っていた、シェリダンの妹姫。ロゼウスが初めて愛した少女。
 ロゼウスが不用意に与えた血は彼女に予想以上の効果をもたらした。ただ生き返らせるだけのつもりだったカミラに、不死と吸血鬼の身体能力まで与えてしまったのだ。
 今思えばそれも、ロゼウスが国王の直系の第一王子だったからなのだろう。一般的に、ヴァンピルの能力は先に生まれた子どもの方が高い。幾つか例外はあるけれど、親から子どもへと受け継がれる魔力の《もと》には限りがあるのだ。
 先に生まれた子どもほどその力は多く受け継がれ後に生まれた子どもは力が弱い。だから王族の継承順位争いは、いつの時代も年長者であればある程悲惨だった。
 それならば親は一人の子どもに全ての魔力を注ぎ込むつもりで一人の強い子を作ればいいのではないかと思われるが、そうしたところで生き物はいつ何時、どんな理由で亡くなるかわからない。王族ともなればある程度子どもの人数は必要で、しかし子どもが多すぎれば一人ひとりの力は弱くなる。受け継がれる力の調整などできるはずもない。
 いくつタルタロスの理を諳んじたところで、彼らもしょせんは生き物の一種であるという枠組みの中からは逃れられない。
 しかしそのロゼウスたち吸血鬼が地上に在って一種異常な生き物とされるのは、彼らにとっては通常でも他の生き物にとっては信じ得ないできごとを引き起こしてしまうと言う事。
 ロゼウスはあの薔薇園で、カミラを死なせたくはなかった。だけれど、彼女に人に過ぎた能力を与えるつもりはなかった。
 人の命は儚いからこそ美しいのだ。その領分を越えた生を手にした途端、醜くなる。少なくともロゼウスはそう思う。昔絵物語か何かで読んだのだろうか、理由はよくわからないのに、何故かロゼウスの中にはそういう考えがずっとある。
 永遠に何の意味があるのだろうか。ロゼウスはそれを知らない。知らないからこそ、欲しいとは思わない。知らないものは怖い。今まで知らなかった新しいこと、それも今度のことのように、まったく自分が予期していなかった残酷な真実を突きつけられるのは怖い。
 だから、ロゼウスはいらない。俺は俺のわかる、俺が知っている、俺の手に入るものしかいらない。
 カミラを狂気に突き落としたのは間違いなく自分だろう。
「滑稽だな」
 十字の墓標を見ながらシェリダンが口元を歪めた。紅を引いたような唇は、皮肉な笑みを刻む。
「誰が」
「カミラも、そして私とお前もだ」
 これまでロゼウスと目を合わせていなかったシェリダンは、ようやく虚ろな墓石から視線を外してロゼウスの方を振り返った。
 二人は向き合う。
 シェリダンはロゼウスを見ている。ロゼウスもシェリダンを見ている。
 だけれど、彼らが纏うのは死者の安らかな眠りを祈るための喪服ではなく、シェリダンは緋色の軍服でロゼウスは白いドレス。それは多分、今生きている自分たちが一番自分らしくいる時の色だ。
「かつてお前は言ったな」
 思えばここが始まりだった。
「私と共に破滅の道を行く、と」
 カミラを殺して、その命を踏みにじって生きるロゼウスたちはあまりにも愚かしく醜く、その関係を一言でくくるならば共犯者じみていると皮肉に自分と相手を嘲った。
 なのに、カミラは死んでいなかった。ロゼウスとシェリダンが彼女にした事は消えないけれど、それでも。
 この墓の中に眠る者がいるのといないのとではまったく意味合いが異なる。あれから状況は大きく移り変わって、今では予想と全然違った展開が繰り広げられている。
 それを、自分は喜べばいいのか。
 悲しめばいいのか。
「ああ、言った。約束したよ、シェリダン。他の誰でもないお前に」
 ――私が欲したのは、子を成し、日々を紡ぎ、未来を望むための妻ではない。孤独に慣れ憎悪に親しみ、絶望を孕んで破滅を望む――だから、お前がいい。
 その決意はあまりにも固く、宣言は切なかった。確かに同じ孤独をもっていることを、その寂しい背中を後から抱きしめながら感じた。顔を見なければ涙も流せた。
 ――あんたたち人間の方が、俺たちヴァンピルよりよっぽど吸血鬼みたいだ。
 あの頃のロゼウスたちが欲しかったものは、手足を浸す毒にも似た、蜜よりも甘い破滅。
 だから言った。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 その狂おしい破滅願望の行き着く先を見届ける、と。一番近くでその絶望を見て、共に果てるところまでつきあってやる、と。
 ロゼウスも絶望していたから。兄に捨てられて自棄になっていて、だけれど首を括るには重過ぎるこの王族という身分のために、死ぬための理由付けを求め続けていた。
 でもふと気づけば、今この肩に乗っているものは、もっと重い。あの時はただ単にロゼウスしか王族が残っていなかったからという理由で背負わねばならなかった民の命と生活が、次代の第一王位継承者であると判明した今この時には、本当の意味でロゼウスにのしかかっている。
 予感がある。それは漠然とした絶対的予感。何故わかるのかはわからないのに、その予感が当たっていることだけは確信が持てるというそんな予感。
 ロゼウスは、ローゼンティア王にはならない。なれない。
 けっして、あの愛しき祖国の王になることはないだろうと。ではどうなるとまではまだ、言えないのだけど。
「あの時の……」
 空の墓標を眺めながらふと気を抜けば沈みがちになりそうな意識を、シェリダンの声が引き上げる。引き止める。この場所に。
 彼は真摯な眼差しでロゼウスを見ていた。あの頃、初めて出会った頃の、たまたまそこにいて縋り付くのにちょうど良い相手がロゼウスだったみたいな様子ではなくて、心臓の奥の魂まで見透かしているかのような、深い感情を宿した瞳で自分を……ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアという存在を彼は見つめている。
「あの時の誓いは、まだお前の中で生きているか?」
 共に堕ちていってやると告げた言葉は、それを放った心はまだここにあるのかと。
 問いかけながら燃える朱金の瞳でロゼウスを射抜き、シェリダン……シェリダン=ヴラド=エヴェルシードは言った。
「もしもお前があの言葉を撤回すると言うのなら、私はお前を我が妻ではなく、一人の人間と……正式なローゼンティア第一王子、ロゼウス殿下として扱おう」
 どくん、と心臓が跳ねる。
 それは、遠回しな決別の勧めだった。

 ◆◆◆◆◆

 白の国、薔薇の国、吸血鬼の王国。
 ローゼンティア。
 それは国の名であり、土地の名であり、そしてその土地を支配する一族の名でもある。
 アケロンティスという、この世界を纏め上げる神の使者《皇帝》の名の下に統治された世界と言う名の一つの帝国。その所領の一つであるローゼンティア地方を治める公爵の一人が、ローゼンティアを名乗る歴代の王だ。
 帝国においては公爵の一人でも、自らの支配する所領ではれっきとした王であるその立場。
 帝国に仕え、自らの民を治めるその役職。そう……役職。王という仕事は、やめることができるのだ。何故ならこの世は世界の観察者であり、万象の審判者たる《皇帝》が最高権力者であるのだから。
 昔はこうではなかったらしい。
 王というのはその国の最高権力者で、国の中にそれ以上の権力を持つ者はおらず、国の外の他の国家には表向きには干渉されない独自の権力を持つ。つまり、諫める者がいないので場合によっては王の独裁により一つの国がまるまる苦しむこととなるのだ。
 そしていずれは自らの国を越えて他の国々とも争い、世界に混乱を引き起こすだけ引き起こしていずれ滅ぶ。滅んだところで全てが元通りになるわけはなく、その尻拭いは誰がするのか? それが問題。いや、その前に無用な争いが生まれることがすでに無駄であって、ならば王という役職にも監視機構は必要だろうと、そのために《帝国》は建国された。
最高権力者は王でなく、王ですら頭を垂れてひれ伏さねばならないのは《皇帝》という存在。では世界に不利益だけをもたらすだけの暴君が皇帝として立った場合はどうすればいいのか。世界まるごとすべてが一つの国で王が皇帝であるならば、愚王を諫めることは誰にもかなわない。けれど、その心配だけはいらなかった。
 《皇帝》とは《神》の手によって、選定されるものだからだ。
 神が選んだ神の使者。それが傍目にどんな暴君に見えようと決して帝国の不利益になるようなことはできないのが皇帝だ。そんな人物が地上の最高権力者として皇位につくからこそ、アケロンティスの歪な平穏と均衡は今日も保たれている。
 創始者、最初の皇帝の名はシェスラート=エヴェルシードという人間だった。彼は人間でありながら五百年の時を生きたという伝説のある人物で、その頃に何があったのか人々は知らない。
 知らないけれど、名前を見ればわかるとおり、彼は始皇帝であると同時に、エヴェルシードの始祖王でもある。
 世界はもともと神々のものであった。原初の神、創世神は世界を小さな国々にわけてそれぞれの神に与えた。その国はやがて、神々から人間や他の種族へと下げ渡された。
 けれど、乱立する小国家はそのうちに争い、奪い合うようになった。幾つもの国が存在していると、自国の危機を理由に余所から奪うことをいつまでたっても人々はやめない。世界は疲弊した。国の権力者たちが勝手にとりつけた戦争に駆り出され、巻き込まれ、住む場所をなくした人々は嘆き悲しみ世界には混迷と慟哭が満ちていた。その状況を打破し、当時一つの大陸をほぼまるごと支配していた暴虐の大国を打ち倒そうと立ち上がったのが解放軍と呼ばれる面々。その党首こそが、後の皇帝シェスラート=エヴェルシードらしい。
 ラ・ディヴァーナ・トラジェディア――神聖なる悲劇。
 人と魔族が手を取り合って、神が創りたもうた原初の小国国家乱立制度を廃止し、新たなる支配制度、世界《帝国》を確立したその動乱の事変を神聖悲劇と言う。
 神聖悲劇の中には、ローゼンティアの祖先も登場する。ロゼッテ=ローゼンティアという人物がシェスラート=エヴェルシードに力を貸していた。けれどそれは、今はどうでもいいことだ。
 神聖悲劇によって、世界は神に選ばれた《皇帝》によって統治される《帝国》となった。この世の誰よりも権力を持っている皇帝は各国の王の動向を監視する役目を持っている。行動の一から十まで全てを制限するわけではないが、それが世界の均衡を乱すものだと判断される行動をとった場合には粛清がくだされる。そして、王を任命するのも皇帝の仕事。
 けれど、何も四六時中その問題に目を光らせるわけにはいかない多忙な皇帝にとっては、そんなもん自分らでちゃんと決めろというのが本音。らしい。
王の任命は皇帝の仕事だが、何もわざわざ相応しい人物を世界の端から探し出してくるわけじゃない。立候補者がいるならばそれに越したことはない。
 だからこそ。
「ドラクルの狙いがローゼンティアの玉座を簒奪することにあるならば、その目的を封じるにはお前が王として立つしかない」
「俺が?」
「そうだ。ローゼンティア王家、正式な第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
 現皇帝デメテル陛下にとって、ローゼンティアとエヴェルシードの問題がたいした重みを持たないものであれば、彼女がこれを止めてくれることはないだろう。そして両国は、戦争になる。
 それは果たして、誰が望んだことであったのか。確かにシェリダンはローゼンティアに戦争を仕掛けた。しかしそれは少なからず、ドラクルやハデスに踊らされた面がなかったとは言わない。
 でも原因を突き詰める前にまず、やらねばならないことがあるのだ。簒奪を防ぐには、相応しい人物が玉座につくことだと、シェリダンは言う。ドラクルがローゼンティア王になることは、エヴェルシードにも甚大な不利益をもたらす。彼はこの国の王としてそれを防がねばならない。以前、世界の破滅を願う言葉を口にしたこととは矛盾しているようだが、他人の手のひらの上で踊らされる事がゆるせないというシェリダンの感覚はまあ、ロゼウスにもわかる。
 世界はとても繊細な均衡でもって平穏を保ち続けている。エヴェルシードのローゼンティア侵略はその均衡に一石を投じて乱した。それを目論んだドラクルが揺れる水面に付け込んでローゼンティア皇位を簒奪すれば、真っ先にエヴェルシードが報復されるのは必至。
 なんとしてでもそれを避けたいシェリダンにとって最も有効な策が、次の王の擁立なのだという。すなわち、ロゼウスが七代目ローゼンティア王になること。
 そうすれば、エヴェルシードの先の侵略を帳消しにして余りある効果が得られるのだと。隣国の王位継承問題に口を出すこと自体が褒められたものではないが、それでも、正当なる王の擁立を促したとすれば言い訳としては立つ。
 だけど、その道を選べば、シェリダンの望みは永遠に叶わない。道化のように、国家のための王を演じ続けることは、果たして誰の望みなのだろうか。
「……シェリダン、お前、何がしたいんだ?」
「さぁな」
 ロゼウスをカミラの、空ろな墓標の前に連れて行ったシェリダンは、口ではその取引を持ちかけながら本当何を考えていたのだろう。答えてはくれなかった彼の言葉の続きを、ロゼウスはシアンスレイト王城に戻ってきてからもずっと考え続けている。
 ローゼンティアの再興。
 ドラクルの玉座簒奪の阻止。
 ロザリーたち、他の王族の解放。
 ハデスの皇位簒奪の妨害。皇帝への恭順。
 エヴェルシードの統治と安寧。
 そして――破滅。
 全てを成り立たせるのは不可能だ。幾つかは並立しても最後の一つが全てをぶち壊す。だから、選ばねばならない。
 望みは、どこにある? シェリダンの望みは。そして自分の望みは。
 何がしたいのかと相手には問いかけたけれど、その質問は自分にも跳ね返る。
 考えろ。ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。お前は何がしたい。
 本当はドラクルがローゼンティアの王位について、きちんと国を再興してくれればそれが一番なのだと思っている。エヴェルシードと事など構えずにただヴァンピルはヴァンピルの国だけで大人しくしていてくれれば、それでいい。勝手なことだとは思うけれど、それでもできる限り争わずにいてくれれば。
 俺は――俺はたぶん、王には向いていないと思う……。
 各国の王たちと渡り合いお互いの動向を探り合って駆け引きするなんて無理だ。そのための術はすべて他でもないドラクルから学んだけれど、実際にロゼウスがローゼンティア王になっても、何一つ良い事はないだろう。何故かロゼウスの中にはそう言った確信がある。
 ロゼウスは、皇帝陛下をまず敬えない。その者の王としての自覚が高ければ高いほど皇帝には畏怖を覚えるものだという。連綿と続く、神聖悲劇の幕開けから皇帝に仕えた者たちの血に流れる本能がそうさせるのだという。王は、皇帝には逆らってはならない。呪詛のように、それは例えばローゼンティアやエヴェルシード、他の国々の王族の血に細胞に刻み込まれている。
 呪い。
 ロゼウスが皇帝を……デメテル陛下を敬えないのは、ロゼウスに王の資質がないという何よりの証拠ではないのか。
 たぶん自分には、争いのない世界を作る事はできないだろう。もしも権力を一手に握る事があったなら、嬉々として奈落に落ち、全てを巻き込んで破滅するだろう。胸の奥底に秘めた焔のような狂気がそう叫んでいる。この声に耳を傾けてはいけない。世界は自分の思い通りになどならないのだから。ドラクルとカミラのことで、それを嫌と言うほど思い知ったのにまた繰り返すわけにはいかない。ああ、本当に自分には王としての、統治者としての才能なんてない。
 だって。
 だって、俺の望みは――。
「父上……」
 いつもとは違う部屋。答が出るまで距離を置いた方がいいのではないかと、シェリダンがわざわざ用意した別室。一人きりのその部屋の寝台の上で、膝を抱えてロゼウスは考え続ける。思い出す。小さい頃の王宮での記憶。
 父は王としては高い能力の持ち主だったと思う。そして、息子であるロゼウスにとっては。
「あの方は、優しい人だった」


116

「あの方は、酷い人だった」
 息子であるドラクルが思うのはまずそういうことだ。
「ドラクル?」
 仮宿の一室。隣に座ったアンが怪訝な顔でドラクルを見上げてくる。第一王女、正当なる王の血を引く娘。だからこそ使い勝手も良いし、実弟でありながらドラクルを裏切ってロゼウスについたアンリたちに比べれば可愛くもあるが彼女の全てを信用しきることはできない。
 いや……もともと、ドラクルに信用のできる相手などいなかった。
 ドラクルが人を従わせられるのは、その者にとって最も利益となる物を目の前にちらつかせてやるからだ。ドラクル自身への忠誠ではなく、これは取引だと、要求を果せば望みのものをくれてやろうと相手に突きつける。または、もともとの利害が一致した相手とだけ手を組む。
 今、ハデスとルースはこの場にはいない。用事があるとのことで、座を空けている。残っているのはここにいるドラクルとアン、元第三王子ヘンリー、元第六王子ジャスパー、そしていまだドラクルに対して警戒を解こうとしない第五王女メアリーだけだ。
「メアリー」
 声をかけると、彼女の細い肩はびくりと震えた。メアリーの称号は器用王女。威厳の欠片もない呼称だが、ローゼンティア王族に与えられる称号は基本的にその人物の本質を表すのだから仕方がない。不器用でないだけよしとしよう。
 そう、称号は本質を表す。ローゼンティア王族の背負う称号は、城が雇う、今では絶滅危惧種に等しい貴重な存在、《魔術師》によって宣告される。ドラクルたちのときも、もちろんそれはあった。誰が王になるのか、その予言まではできないが少なくともその人物の本質はわかるのだと。城の魔術師たちは告げた。
 第一王子ドラクルは竜王子、
 第二王子アンリは知略王子
 第三王子ヘンリーは奇人王子
 第四王子ロゼウスは……薔薇王子
 第五王子ミカエラ、幽玄王子
 第六王子ジャスパー、宝石王子
 第七王子ウィルは快活王子……そして彼にはもう一つ称号があるらしいのだが、それは私も知らない。
 王女たちにももちろん、名は与えられる。与えられるというより、それは当人の本質をあくまでも言葉と言う形にしただけのものに過ぎない。本来は誰もが持っていて、ただそれをこうして言葉にして峻厳と突きつけられることがないものを、王族だから自らの本質は知っておくべきだと教えられるだけだった。
 第一王女アンは覇気王女
 第二王女ルースは繊細王女
 第三王女ミザリー、美麗王女
 第四王女ロザリー、薔薇王女
 第五王女メアリーは前途の通り器用王女で、
 第六王女エリサが快活王女
 哀れだと思うのは、ミザリーか。彼女の特筆箇所はただ容姿の美しさのみに集約されていて、内面については触れられない。何故なら彼女の性格を知れば、心根が綺麗と評するものは少ないだろう。あれで結構自分の中での優先順位を確立し、いらないものは容赦なく切り捨てる性格なのだ。
 ドラクルとしては、第二王女のルースにしても異論がある。いいようにこき使っている人間の言う事ではないが、あれのどこが繊細だ?
 それでも、王女たちの称号についてはどんなものであろうとも、王子に比べればまだましだ。それよりもドラクルが気にするのは、王子たちの称号。中でも……
 薔薇の王子、ロゼウス。
 ロゼウスに与えられたその名は『薔薇』。他の国ではともかく、ローゼンティアにとっては幾つもの意味を持ち、深い運命を表すその言葉。
 彼らのローゼンティアは、「薔薇の王国」と呼ばれることもある。ローゼンティア王国の建国者、初代国王ロザリア=ローゼンティアが作り出したという《魔の薔薇》が国内を覆い、王城までもつたう、他国の者に言わせればいっそ異様な光景のドラクルたちの祖国。つまり、薔薇はローゼンティア国の象徴。
 その象徴の名を冠するということは、ロゼウスの運命が薔薇の王国に深くまつわるものだということを意味する。双子ではないが、彼と対の存在として生まれてきた妹のロザリーも、薔薇の名を冠するがこれはロゼウスに引きずられてのことだと、ドラクルは考える。
 運命は知っていたのだ。
 ドラクルの称号は《竜》。今はタルタロスの奥深くにひっそりと住まう、かつて強大な力で地上を支配していた一族。暗黒に封じ込められた、獰猛な種族。
 ドラクルの《称号》は、確かに役に立った。言霊の持つ契約力で、秘密裏に冥府の竜と契約することもできた。だからこそデメテル皇帝が力を放ったあの瞬間、竜との契約を解放したために脱出することもできたのだ。
 だが、ドラクルの名が《竜》であることは、運命までもそうであることを生まれたその瞬間から決定づけられていたことにもなる。竜。獰猛で残酷な前世界の支配者。強大な力を持ちながらも、その座を後から台頭してきた野蛮な種族――そう、
 人間の手によって、その座を追われたもの。
 ドラクルはその座を奪われる事が始めから決定していた。
「おいで、メアリー」
 ドラクルが呼びかけると、妹はなおさら身を固くした。ドラクルがロゼウスと敵対したことに一番の衝撃を受けたのは、この、王族としては平凡で地味だがその分誰よりも穏やかで飾らない、平和な気性の妹なのかもしれない。
 だがメアリー、お前はロゼウスを選んだのだろう?
 ならばお前は、こうしてこの場所にいても、潜在的なドラクルの敵。敵は排除しておかねば。
「お兄様、どうして……」
「どうして?」
「どうして、こんなことをなさったのです? 国を滅ぼしただけでは飽き足らず、国を乗っ取るために今度はロゼウスお兄様を狙うなんて……」
 面白いことを言う。
「わたくしたちみんなを平等に愛してくださったお父さまも、天国で悲しみます」
「ああ――そうか」
 知らなかったのだね。お前は。お前たちは。
 確かにお前たちに対しては、あの男はそれなりに優しい顔を見せていたのだろう。だけれど。
「あの方は酷い人だった」
「え?」
「義父上が私たちを平等に愛してくれたなんて、本当にそう思っているのかい? メアリー」
 嘘だよ、それは。ただの演技だ。あの男は自分の子どもしか愛していなかった。特に。
「贔屓があったとは思わないのかい?」
「ひいき?」
「そう。義父上の態度は、ある一人にだけ明らかに違っただろう。誰にもかけないほどの愛情をたった一人にかけた」
「それは……」
 言いよどんだメアリーに代わり、ヘンリーが口にした。
「それがロゼウス、か。あの方の本当の息子にして真の第一王子」
「そうだよヘンリー」
 ロゼウス。私の荊の墓標。お前が生まれた瞬間、私の存在意義はなくなった。
「でも、その、心の中でどう思っていたかはともかくとしても、お父様はわたくしたちを虐げるおつもりなどありませんでしたわ! わたくしたち実子ではない子どもたちが、王女王子を名乗っていられたことがその証拠でしょう! ドラクルお兄様、あなたがそれでも第一王子であったことが、その証明でしょう! お父様にはわたくしたちを冷遇するつもりなんて――」
「あったよ。メアリー。今の私の爵位がその証拠」
「ドラクルお兄様?」
 メアリーは理解ができないというように瞳を瞬かせ、アンとヘンリーの二人は納得したように顔を歪ませる。
「ドラクル……それはもしや……」
「やはり、そういうことなのですか」
「ああ。今の私が王子ではなく、ヴラディスラフ大公爵である――」
 それこそが、何よりの証拠だと。
「ロゼウスが十七歳になった今年から来年に向けて私たちの身分を整理し、まだ二親が明確にわからない子どもたちについてもフィリップ大公とどちらが父親なのかつきとめ、そうして十八歳になったロゼウスに王位を譲ると共に、あの方は私たちを追い出すおつもりだった」
 真っ先に排斥されたのがこの自分。あの男はドラクルにロゼウスに帝王学を叩き込ませ完成させ、そうしてできあがったところでドラクルを突き落とすことこそ、裏切った妻と弟への最大の復讐であると考えた。彼の中ではドラクルはクローディア第一王妃とフィリップ大公の息子だ。本当は名もなき召し使いが母親なのだが。
「当然くれるはずのものをもらえないとわかったから、私は自分でもらいに行くんだよ」
 薔薇の国に生まれ、薔薇の国を継ぐために生かされ育てられた自分。国のために国に縛られ、国のせいで捨てられる。
 そんなことが許されると思っているのか?
 ドラクルに国に対する愛着よりまず先に憎悪を育てたのは二人の父上、間違いなくあなたたち。
 ロゼウスに対してはさぞや良い父親であっただろう、ブラムス王は。実の息子ではないドラクルを夜毎組み強いて責め苛んだあの男は、何も知らぬままでドラクルにかけ続けた愛情の分だけドラクルを傷つけた。知ってからはそれを本当の息子であるロゼウスにのみ傾け、そして最大の時期に、ドラクルから全てを奪う。ドラクルの座を奪うロゼウスをドラクルの手によって育てさせるという、皮肉さえ込めながら。
 馬鹿な父上。
 ここまであなたが私を刺激しなければ、私はあなたを殺そうとまでは思わなかったのに。実子ではなくなった時点で全てを明らかにし、せめて実父である大公の下に戻すなりなんなり、すればよかったのだ。
 復讐する者は復讐されても仕方ないだろう?
 ドラクルは父親の罪を、ドラクルに復讐する者に復讐しただけに過ぎない。
 だから。
「あの国は……私のものだ」
 そして薔薇の国の象徴、薔薇の王子ロゼウス。
 お前も、この私のものなんだよ。

 ◆◆◆◆◆

「簡潔に答えてもらおう」
「ええ」
「貴様は、私の敵か味方か」
「どちらでもないわ」
 ルースは答える。目の前の少年の眉が剣呑に歪められる。ゆっくりと、けれど鋭く細まる鮮やかな朱金の瞳。
「どういう意味だ?」
「そのままよ、エヴェルシード国王、シェリダン=ヴラド陛下。私はあなたの味方ではないけれど、敵にもならない。協力しましょう。お互いの利害の一致のために」
「同盟を組むと言う事か」
「ええ」
「私が貴様を信用するとでも思うのか?」
「信用はしてくださらないでしょう。だけど、そのまま放り出すというのが得策でないこともわかるでしょう。だから、あなたは私を利用すればいい。その代わり、私もあなたを利用させていただくわ」
「……確かロゼウスが言っていたな、ローゼンティア王族の称号はその人物の本質を示していると。で、どこが《繊細》な王女なんだ? ルース=ノスフェル=ローゼンティア」
 ルースは口元に笑みをはく。
「あら? 繊細だとは思わない?」
「どこがだどこが。貴様のような強かな女は見たことがない。貴様に比べたらあのじゃじゃ馬ロザリーも、口ばかり五月蝿いミザリーも、うちの重鎮バートリ公爵も可愛らしいものだ」
「それは光栄だわ」
「褒めてなどいない」 
 目の前の女嫌いの少年王の、さらに何かを刺激するらしい自分。そういえば確か彼の母は……。
「策略深い女はお嫌い? シェリダン陛下」
 エヴェルシード国王シェリダンの母親、第二王妃ヴァージニアは正妃ミナハークに追い詰められて自殺に走った。彼女への数々の嫌がらせは酸鼻を極めたものだったという。
 嫉妬深く、夫の浮気相手に対して情け容赦のない女が使う、なりふり構わない策略や適当な相手に見せる偽りの仮面がこの少年王は大層お嫌い、というところでしょう。
「ああ。嫌いだ。特に、貴様は自らの胸のうちを欠片たりとて明かさない」
「まあ。先日申し上げたでしょう、私の目的は、ローゼンティアの王になること……あなたたちとこうして正面きって繋がっていると晒すよりは、ドラクルたち反王権派の獅子身中の虫として、一生懸命働こうと思いましたのに……」
「では何故あの時、ドラクルを真剣に庇った」
 内心で舌打ちしながら、ルースはそらとぼけてみせる。
「何のことでしょう」
 次の瞬間、首のすぐ横に鋭い刃が突き立てられた。ソファの布地が破れ、羽毛が飛び出る。
 シェリダン王に剣を突きつけられている。それは薄皮一枚という距離で、一歩でも動けばたちまち首の落ちる絶妙な力加減。
「私の目を誤魔化せると思うなよ。ルース=ローゼンティア」
「滑稽だとは思いませんか? シェリダン王陛下。私はこれでもロゼウスと同じノスフェル家の人間。殺しても何度でも生き返りますよ」
「ああ。そうだな。しかし首を落とされた瞬間即座に蘇生するわけでもあるまい。幾つかの手順を踏まねばならないとロゼウスから聞いたぞ」
「ではどうぞ殺してみればよいでしょう。それでは情報も聞けますまい」
「どうかな? ここにはお前以外のヴァンピルだっているのだぞ。お前の兄と弟妹が。その誰かにお前を生き返させることはできるだろう。そして蘇生が完了したところで、どんな拷問にかけても文句は言えまい」
「元より強靭な肉体を持つ吸血鬼を苦痛で自白させられるとお思いになる、そのお考えが滑稽だと思いますが?」
「拷問と言う言葉は、何も苦痛を与えるだけとは限らないだろう」
 その言葉と共に、彼は膝でルースの足を封じ、空いた片手でルースの顎を軽く持ち上げる。視線が強制的に合わせられる。吸い込まれそうに強く輝く朱金の炎の瞳。
 ルースは嘲笑う。
「――女を抱けもしないくせに? 男色の王様」
 そして彼は、その美しい面差しをさらに引き立てるような、凄絶で残酷な笑みを浮かべた。
「ああ、確かに私は女を抱けないし、抱かない。だがな」
 片手は顎から離れ、一度切られた言葉の続きを聞く前に、胸にかけられた手が一気に布地を破く。
 絹を引き裂く高い音がして、胸元から下腹部までの布地が裂ける。みっともないほど露になった肌をゆっくりと手で隠すと、見た目はうら若い女性の姿をしたルースの半裸にもまったく動じずむしろその炎の色とは対照的に冷ややかな光を湛えた瞳のまま、彼は剣を突きつけた耳元に吐息で囁く。
「私は女を抱かないが、しかし、犯すことはできるんだ」
「……まぁ」
 睦言を囁く甘さで言うが、瞳は笑わず、このたびばかりは彼女も敗北を悟らざるを得ない。
「あの時、貴様はドラクルを真剣に庇ったな。王位が欲しいのならばその敵になるドラクルは邪魔なはずだ。貴様が、最初から本当にそう思っていたのならば。だが森で邂逅したとき、ドラクルが真実を語る間も貴様はただ一人動揺のそぶりを見せなかった。知っていたのだろう。最初から、総て」
「総てというのは買いかぶりだわ。最初に言った事がまったくの嘘だと言うのは酷い疑いだわ。私は王になって、それで何をしたいのか言わなかっただけ」
 思い出す。昔。
 あの絶望に満ちた仄暗い夜。どこかに出かけていたドラクルが戻って来たとき、顔色が悪かった。そうして――
「私の称号は繊細王女」
 繊細でしょう。この私。目的のために手段など選ばないけれど、それもこれも全ては、昔に受けたたった一つの傷、あの夜が忘れられないため。ただ一つの望みに傷つけられてそのために破滅を目論むことは――……そう、繊細と言う言葉がお気に召さないなら神経質とでも言えばいい。
 所詮私はドラクルの妹。自らの受けた痛みを晴らすために、その傷を何倍にもして周囲に叩き付け返さねば気が済まないあの人の。
「私は王になることそのものよりも、それによって付随する結果が欲しい」
「付随する……」
「私はドラクルに復讐したいの。あの人を手に入れて、一生私の奴隷にすることが私の復讐」
 よほどルースの返答が意外だったのか、目の前の少年王が絶句した。
「そういうことよ。シェリダン王。あの人が欲しい私はあの人を殺さないけれど、だからって全てあの人の言う事に従うわけじゃない。だって私は―――……あの人が、欲しいんだもの」
 シェリダンは、ルースの本音に眉をしかめた。しばし考えるそぶりを見せた後、首の横に突きつけていた剣を引く。
「聞こう。貴様の話」
 ルースはうっそりと微笑んだ。
「ええ」
 そう、こう来なくてはね。


117

 まったく、あの一族のほとんどの人物が、得たいが知れない。
「あれ? シェリダン。しばらく顔合わせないんじゃなかったの?」
 ローゼンティア元第二王女ルースと話をした後、シェリダンは耐え切れずにロゼウスの元へと向かった。どうしようもなく苛々する、あの女の話を聞いていると、頭がおかしくなりそうだった。
「気が変わった」
「はぁ」
 シェリダンの突然の訪問に、以前まで使っていたシェリダンの私室とは違って寝台が中央にくる部屋の、そのまさしく寝台の中央で膝を抱えて縮こまっていたロゼウスが小首を傾げた。生まれも育ちも高貴なくせに、何故この男はそんな風に部屋の中央で縮こまっていたのだろうか。隅でないだけマシなのだろうか。
「あ……えっと……」
 ロゼウスの返事も聞かず、部屋に足を踏み入れたシェリダンはずかずかと乱暴な足音を立てて寝台へと向かう。膝で乗り上げ、ロゼウスの手をとる。
「ヤるぞ」
「ちょ、ちょっと待てそんな直球で!」
「これが最後になるかも知れないしな」
 シェリダンがそう口にすると、寝台の上で後退しようとしたロゼウスの動きがぴたりと止まった。
「……シェリダン?」
「当然だろう。まさか幾ら私と言えど、一国の王太子に手を出すわけには行かない」
 ロゼウスを王太子として立てるというのは、そういうことだ。今は偽りの妻の称号で縛り付けているその身を、自分の手から離すことに。
それを、ロゼウスが拒む理由などもとよりない。問いかけるまでもなく答えは決まっていたはずのそれにわざわざ返答までの猶予など与えたのは、ロゼウスではなく、シェリダンの弱さ。
「ロゼウス」
 シェリダンは彼の肩に両手を乗せ、そのまま背後へとゆっくり押し倒す。白銀の髪が、艶っぽく敷布に散らばった。
「シェリダン……」
 理由はよくわからないが、不安な、痛そうな、どこか悲痛な顔でシェリダンを見上げるロゼウスにそのままの姿勢で言った。
「お前の姉は本っ当に腹立たしいな!!」
「……はい?」
 突然のシェリダンの言葉に、ロゼウスがフリーズした。どこか清冽な色香のある表情は消え、非情に微妙な表情で自分を組み敷くシェリダンを見上げる。
「何? いきなり何の話だっけ? あれ? っていうかまだ何も話自体始まってないよな? しかも姉って、どれだよ?」
 何この状況、とぶつぶつ呟くロゼウスにシェリダンは先ほどの出来事を説明する。
「ルース姉様、が?」
 アンでもなく、ミザリーでもなく。元第二王女のルースは、ロゼウスにとって複雑な相手だ。彼女はドラクルとは父親が同じ兄妹であり、そして、このロゼウスとも母親であるローゼンティア正妃クローディアの子どもという姉弟だ。
「姉様、ドラクルのこと、好きだったんだ……」
「ああ、らしいな。知らなかったのか?」
「アン姉様はそうっぽいなって思ってたけど。でも、ルース姉様は誰よりも感情を隠すのが上手いから」
「だろうな」
 繊細と言われては納得できないが、確かにあの女は神経質という分には納得できる。異母兄であるドラクルに対する執着は、普段表に出さない分、秘められたものはすさまじいらしい。
 ……別に、それは構わない。シェリダンはルースなどどうでもいい。彼女が実の兄に禁じられた想いを抱いていようが。そのために屈折した方法で兄を手に入れたがっていようが、そんなことはどうでもいい。知ったことではない。勝手にしてくれ。できれば人を巻き込まないでほしいくらいだが、さすがにそうもいかないらしい。だからと言って。
「その想いを切実に私に語るな」
「か、語られたの?」
 ロゼウスが引きつった。俺良かったその場にいなくて、と思っているのが丸分かりの表情だった。自分だって似たような者のくせに、姉が兄に恋慕している様子をまじまじと見るのは嫌らしい。
 腹立たしい。
 本当に、腹立たしい。
 押さえつけて動けないようにした、ロゼウスの態度に憮然としたものを覚える。何を平然とした顔をしているのか。いや、彼の方からすればそれが当然だということはわかっている。
 おかしいのはシェリダンの方。シェリダンが勝手に苛立っているだけだ。しかし。
「シェリダ……ン……」
 白く尖った顎に指を伸ばす。軽く仰のけて、しっかりと視線が合うようにする。
 紅い瞳。血のように。極上の鳩の血色の紅玉でさえもこれほど美しくはないだろうと断言できるほどに、この世のどんな宝玉も比べるべくもない美しい瞳。
 その色は、ロザリーや第六王子のジャスパーとも一緒だったが、シェリダンを苛立たせるのはそれがルースとも同じであるということ。
「何故、お前たちは似ている」
「え?」
 確かに容姿だけ見ればロゼウスはすぐ下の妹であるロザリーと一番似ているのだろう。他人とはいえ厳密に血筋を辿れば従兄弟関係に当たるドラクルとも、何の因果か、基本的な顔立ちは似ている。
 だけれど、ロゼウスとルースには単純な容姿の相似だけでは語れぬ点が共通していた。何とか言葉で言い表そうと思うなら、纏う雰囲気や浮かべる表情の傾向、そんなものが。
「私はお前とロザリーを見比べても、確かに顔は同じだがそれほど似ている、とは感じない。少なくともお前たちはただ顔が似ているだけの別人で、一人一人がそれぞれの人格を持った別の人間なのだと言える」
「…………」
 だがロゼウスとルースの相似は、そんな程度のものではない。
「お前たちは、その、血よりもなお暗い深紅の瞳に湛え澱む光が、同じだ」
 そう、同じなのだ。ロゼウスとルースが持っているもの。根底にあるものが同じ。だから、似ていると感じてしまう。ついついあの時、目の前の女の顔に、ロゼウスの面影を探してしまった。
 しかもその女は、やたらと情熱的な兄への告白、ロゼウスがつい先日まで愛しているのだと勘違いしていたあの男、ドラクルへの恋慕の告白を繰り広げるものだから――。
 腹が立ったのだ。
「……仕方がない、んだ」
「え?」
 シェリダンの胸中の苛立ちを読み取ったわけではないだろうが、ロゼウスはまたもどこか悲痛な表情を浮かべて私を見上げた。
「俺と姉様は、同じだから。同じ、ドラクルの妹弟として、あの人に育てられたから」
 同父母の兄妹として扱われていた三人。ドラクルは自らの母親が正妃ではないことを最初から知っていたわけではないだろうから、一時期は確かにルースのことも、二親血の繋がった妹だと信じきっていたわけで。
 ああ、そうか。
 ロゼウスとルース。二人の根底の相似。同じ一人の男に育てられ、その存在に魂の緒を握られているということ。
 二人に共通するのは、どこまで言っても仄暗い感情だ。それは、あの兄妹たちの中でも一種独特なものだった。アンリやミカエラ、ミザリー、ウィルにエリサなどと言った者たちとはどこか違う。あのジャスパーにも他の面々と違う黒いものを感じたが、それとも様子が違った。
 そう、あれはただの執着と独占欲。だがロゼウスとルースに共通するその感情は、言葉にならないような切なさ。
 同じ顔のロゼウスとロザリーを比べるとき、男女の違いと言うよりもまず、目に付くのはその魂の差。それは美しさの種類として、自然と外側に滲み出る。だからシェリダンはロザリーとロゼウスに関しては、あまり似ているとは思わない。
 ロザリーの美しさは、例えるなら真昼の苛烈だが健康的な陽光。眩くて熱くて、だけど不快ではない。
 ロゼウスは対照的に、真夜中から明け方にかけての儚い月光。酷薄で、冷徹で、どこか病んでいるのに惹き付けられる。
 単純な強さではなく、そのような独特の印象を二人は与えるのだ。最近はロゼウスだけでなくロザリーとも話すことが増えたから、なおさらそのように感じるのかもしれない。
「姉様も、ドラクルに――でも、あの人は俺ともまた違って」
 言葉を探しあぐねるような間を置いて、ロゼウスは意を決したように口を開いた。
「……元々ドラクルに、母上と大公が怪しい会話をしてるって言ったの、姉様なんだ。それさえなければドラクルは真実を知らずにいられたからって、一時期随分と責められてた……」
「それでもまだあの男が好きだとは、随分物好きな女だな。ああ、そうか。お前の姉だものな」
「酷い……」
「それで、お前の方は、答は出たか?」
「――え?」
 一瞬。
 ロゼウスが、微かに、ほんの微かに。
 言葉にしがたい色をその深紅の瞳に宿した。
 しかしそれは瞬き一つで消え、次の瞬間にはいつも通りの彼に戻っている。
「まだ……待っていてほしい」
「そうか」
 先ほど見たものは勘違いだったのだろうかとシェリダンは瞳を眇めてロゼウスを見下ろしながら、だが、と宣告した。
「お前がこの先結局どんな答を出すにしろ、今はまだ私のもの」
 掴んだ華奢な肩が小さく震える。
「久々に付き合ってもらうぞ」

 ◆◆◆◆◆

 ぱっと見美しいが、鍛えられたそれは間違いなく武人の手。人に女装だなんだをさせているが、シェリダンだって間違いなく女顔なのだ。それでも彼が女性に間違われることがないのは、そのしっかりとした体つきのせいだった。細身だが綺麗に筋肉のついた優美な肢体が女性的という感じをまったく与えず、かといってむさくるしいような男らしさとも無縁で、どこか中性的な印象を醸し出している。
 それに対して、ロゼウスの方はどうも軟弱で貧弱な印象を与える体つき。もともとヴァンピルは淫魔と呼ばれる夢魔の一種から派生した存在で、戦いに赴くような武骨さよりも、男女問わず相手を誘惑して自らに溺れさせるための容姿を持って生まれつく。つまり、やや女性的に比重が傾いた中性的外見が多いのだ。
 女性にとって、「女よりも美しい」というのは男性に送る最上の褒め言葉だとどこかで聞いた事がある。
 もっともそれも昔の話で、蝙蝠の翼も退化してしまった今のヴァンピルは外見的には人間と大差ない。ただ、そういう外見の者が生まれる割合は普通の人間より高く、えてしてそう言った容姿のものは、特性までも先祖に従って筋肉がつきにくい。体の構成要素に《魔力》という条件が関わるヴァンピルの体は、単純にして複雑だ。
 ロゼウスは見事にこの条件に当てはまり、手足にも胴にも筋肉がつきにくく体の線は常に崩れない。それでも剣を扱うのだから体は鍛えられているのだが、それが表面には現れないのだ。幾ら鍛えても肉体美のむくつけき大男にはなれなさそうだ。
 同じ年頃で身長だって頭半分も変らないシェリダンに比べて、どことなく柔らかい体つきをしているのがいい例だ。
 そして、その身体構造の違いにはもう一つ意味がある。
「ロゼウス」
 耳元で囁かれると、ぞくりと背筋が震えた。高くもなく低くもない彼の声は通りよく、ただ自分のためだけに向けられたそれを聞くと、どうにも魂が震えるような心地がする。
 身に纏う、これから鬱陶しくなるのは服。それを、珍しく破かずにそのまま剥がれた。一糸纏わぬ姿はロゼウスの方はともかく、むしろ気にしているのはシェリダンのほうだったはずだ。
「それ……」
「なんだ?」
「背中の傷……」
 シェリダンの背には、紅く刻印された無惨な傷がある。幼少期に虐待された痕だと言うそれ。たぶんロゼウスたちヴァンピルだったら、きっと次の日には消えて跡形も残らない。
「ああ。これか。――今更だろうが。見苦しくても我慢しろ」
 そういうつもりで言ったのではなかったが、シェリダンは誤解したようだ。このまま口で何事か言葉を重ねたところで、どうせ根本的なところでシェリダンはロゼウスの言う事を信用しないのだろうなと思ったら先ほどの彼の台詞じゃないが、腹が立った。
 その白い背中に紅く映えた傷に唇を寄せる。
「ロゼウス?」
 時を経た今では、癒す事はできない。そもそもそんなことを、まずシェリダンが望んでいるわけでもないだろう。
「あんた、は」
 脆弱な、つまんだだけで壊れそうな人間のくせに。
「こんな風に、傷を負って、傷を重ねて」
 癒されることのない傷を抱えて。
「それでも、向かうのか。自分の目的のためならば」
 痛くて苦しくて辛くても、立ち止まったりしないのか。
「当然だろう」
 優雅に返す。
「では、お前はどうなんだ。不死の化物、魔族よ。どんな傷もあっさりと癒えてしまう便利な身体を持っているくせに、何に怯えている。どうしていつも、そんなにも踏み出すのを躊躇い戸惑う?」
 首筋に唇が降りてくる。きり、と肌が痛む。触れ合った箇所から伝わる熱。ヴァンピルの少し低い体温からすれば、儚い一瞬の命を生きる人間の体温は燃えるように熱くて焼け付きそうになる。
 胸に伸ばされた手。耳朶を甘く噛まれる。過去の傷が刻まれた背中に腕を回して抱きしめた。
「あっ……」
 生温い舌が、肌を這う。鎖骨をきつく吸って紅い痕を残したあとは、胸元の飾りを口に含む。そうして、あまった彼の手は下肢の方へと伸びた。
「ひっ……や、ぁ……」
 指先が試すようにそれをなぞりあげれば、得もいえぬ快楽が襲う。もっと強い刺激が欲しくて、大きく身体を震わせた。
 くす、と笑う気配を感じたと同時に、中心を強く握られる。強く握りこまれて、痛みとすれすれの悦楽が走った。
「お前ばかりいい思いをするなよ」
 ぐりぐりと絶妙な力加減で弄ばれ、疲労とは別の意味で息を切らし始めるロゼウスの耳元に、そんな囁き。そうして、突きつけられたもの。
「ん……」
 目の前に差し出されたそれを大人しく口に含めば、声なき声で、彼は微かに喘いだ。何度も何度も繰り返して慣れた奉仕に精を出せば、次第に余裕を無くしていくシェリダンに髪を掴まれる。
 荒い息遣い、滴る汗、目の前が熱でぼやけ、何も見えなくなる。
「っ……!」
 舌の上に出されたものを平然と飲み込んで見せれば、さすがに息を切らした唇から零れたその滴を、綺麗なのにしっかりとしたその指に掬われた。体勢を少しだけ変える。
 奥へと押し入る際の潤滑油代わりに、絡めたそれで濡れた指があてがわれる。
「あ……ああっ」
 中をかき混ぜられる感触に目を瞑って耐えていると、唇に一つの口づけが送られた。
「シェリダン……」
 名を呼ぶと、蠢いていた指が引き抜かれる。特に言いたい事があるわけでもなく、ただ単純に名前を読んでみたかっただけなのだと悟ると、遊びの時間は終わりとばかりに、指とは比べ物にならない質量が、ほぐれたその場所に挿入り込んできた。
「あっ……」
「ふ……」
 繋がった箇所から浅ましく快楽を追う。手のひらを合わせきつく指を絡め。
 今だけは何も考えたくない。考えられない。
 昇天にも似ているという、頭の中が真っ白になるその一瞬。本当に身体から魂が離れていかないよう繋ぎとめるかのように、ロゼウスは彼にしがみついた。
 そうして、またその背に傷を残す。鋭い爪痕を。
 傷を受けてもそれがなかったかのように癒えてしまうヴァンピルはその痛みを誰にも知られずに耐える。与えられた衝撃が累積し、痛みが消えてもまだ痕が残る人間はその傷痕を一生背負っていく。
 そのことの、どちらが苦しいのかロゼウスにはまだわからない。
 だけれど、きっと多分、ロゼウスは自分よりもシェリダンの身体の方が脆弱であることを知っていて、それでもまた彼の背にこうして傷を刻み続けていく。彼がロゼウスに与える痛みがあっさりと消えた頃になっても、まだ癒えないような傷を残し続けていく。
 そのことだけが、この時にロゼウスがわかっている真実の全てだった。
 シェリダンはただの人間だ。ロゼウスはヴァンピルだ。不死身の吸血鬼だ。
 だからこそ、ロゼウスがシェリダンに癒えない傷を残す事はあっても、ロゼウスがシェリダンの手によって、取り返しのつかない傷を受けることはないはずだと。
 
 あの頃の自分は、愚かにも信じていた。


118

 そもそもあの人は、完全に信用するにはその言動の全てに含みがありすぎる。
 年齢が離れているからとか、それだけではない。クルスにとって、あの人は確かに異質だった。理解できなかった。薄気味悪くて近寄りたくない。これでも貴族の一員として、社交の一環として表面上笑顔を浮かべていても、それでも胸中では怯えていた。
 いつも、疑っていた。信用するべき場面でさえ、心のどこかであの人を避けていた。
 あの日、決闘に負けたその後。
 剣を合わせている間は実感しなかったその体格差。真実の強さの前に大人も子どももないとはいえ、あまりにも無慈悲に、彼はクルスを組み伏せた。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵。
 彼は、クルスにとって限りなく敵に近い仲間。そういう距離だった。それでもどんな思惑でも、彼がシェリダンのために動くと言うのならば、まだ我慢ができた。だけれど。
「やれやれ。ドラクルの人遣いの荒さにも困ったものだよね」
 薄茶色の髪に灰色の瞳。そして何より目立つのは、獣の耳と尾。極一般的な人間の国であるエヴェルシードでは通常見るはずのないその姿。だけれど、クルスは彼を知っている。
「つまり、今度はあなたが彼との連絡役というわけですね。ヴィルヘルム王」
 イスカリオット伯の問いかけに、少年が頷いた。
「そう。ドラクルが帝国宰相ハデス卿と通じてるのがバレた以上、彼を使うわけにはいかないからね。それで、イスカリオット伯だっけ? あんたの眼から見てどうなんだ状況は?」
 この会話はなんだ。
 二人の話はまだ続いている。こんなにも無防備でいいのかというくらい、あっさりと、本来繋がるはずのない二人が繋がっていた事実に、クルスの思考は停止する。
 そして何よりも、彼らの言葉の中に出てくるドラクルという名前。それこそが、あのロゼ王妃の兄であり、今回の騒乱を引き起こした原因たる人物ではなかったのか?
 駄目だ。これ以上ここにいてはまずい。
 本能が警告を発している。好奇心めいた興味が、二人の会話が他に何か重要な情報を落としはしないかとこの身を引き留めようとする。でも。
 ここにいてはいけない。
 これ以上長く留まれば、イスカリオット伯に気づかれる可能性がある。あの日の大敗を忘れはしない。ワーウルフの国セルヴォルファスの王を名乗るあの少年の実力がどれほどのものかは知らないけれど、少なくともイスカリオット伯は自分より強い。
 あの日、いやというほど、それを思い知ったのだ。同じ過ちを繰り返したくはない。
 今日、この屋敷に忍び込んだのだってぎりぎりの選択で賭けだった。誰かに見つかる危険はもちろん、本来は味方であるはずの人を疑って疑って、それでも何も出なかったらどうしようと。
 その結果がこれならば、後は無事に帰るだけ。早く足を動かせばいいのに、ついつい握った拳に力がこもる。悔しさに唇を噛んだ。
 予想なのか予感なのか、彼を疑った自分は正しいとクルスは今この場で知った。だけれど、本当は知りたくなどなかったのだ。あんな風に、我らが主への叛意を苛烈ではなくとも、確かにはっきりと表明する彼を。
 どうしようもなくそれが辛かった。
 それほど好きな相手ではない。シェリダンに仕える上で、必要だから協力しているだけだ。彼の持っている力や情報網とクルスの持つそれは違う。お互いを有効利用すれば、できないことなどないはずだった。
 それすらも勘違いだったと今はわかって、それでこの胸が、少しだけきりきりと刻まれたように痛いのは何故なのか。
「戻らなきゃ……」
 戻って、陛下に――シェリダン様に報告せねばならない。あなたの部下の一人、イスカリオット伯爵ジュダ卿は裏切り者なのです、と。
 全ての事情を聞いたわけではないが、シェリダンの手足としてあの場に一緒にいたクルスには、ローゼンティア王家の複雑な事情も、その中で翻弄されているロゼウスの立場も、それを受けてなお彼を側に置きたいシェリダンの気持ちもわかっている。
 先日の御前試合の折、死んだと思われていたカミラが姿を見せたことを考えれば、あのローゼンティアの元第一王子の下には他にも数々の有力者が集っているのだろう。その証拠の一つがここで繰り広げられている会話。人狼の国セルヴォルファスの王。ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス。一体何故、彼がこんなところで、イスカリオット伯とドラクル王子と手を結んでなどいるのか。その理由までは、まだ聞けていない。何となくわかるようなわからないような、そんな感じの会話を二人は繰り広げている。
「俺は、ロゼウス王子が欲しいんだよ、イスカリオット伯」
 彼はどこまで本気なのだろうか。セルヴォルファス王の瞳には、事態をひたすら面白がるような光が浮かんでいる。口にする言葉の全てが道化のそれで、彼は本音など何一つ語っていないかのように見える。
 そしてそんなヴィルヘルム王の思惑こそいまだ曖昧なままだが……イスカリオット伯の想いは……。
「――……奇遇ですね、陛下」
 私はシェリダン様が欲しい。
 そして、あの方のすぐ近くにいるロゼウスが疎ましい。
 語られる伯爵の声は、言葉は、狂おしいまでに真剣だった。
 クルスは早くここから去るべきだったのだ。彼の、こんな声を、言葉を、聞く前に。イスカリオット伯がセルヴォルファス王と、ひいてはドラクル王子と繋がっていることだけを確認して、さっさとこの屋敷を誰にも見咎められないうちに脱出するべきだった。
 そうすれば、こんな事態にはならずともすんだのに。
「で? さっきからそこで聞き耳立てている奴はだぁれ?」
 一体何が悪くて気づかれたのか、それとももしかしたら、この人物ははじめからわかっていたのかも知れない。
 捕らえた獲物を引き裂く獣の残酷さで、セルヴォルファス王の視線が潜んでいたクルスの方へと向いた。その視線を追って気づいたイスカリオット伯も、もともときりりとしていた表情を引き締める。
「クルス=ユージーン侯爵!」
「っ……!」
 例え見つかったとしても、捕らわれなければ大丈夫なのだ。このエヴェルシードでまずいことを目論んでいるのは二人であって、クルスではない。彼らがシェリダンに仇なす前にそのことを彼に伝えることができれば、こちらのもの――。
 しかし、クルスのその思惑は封じられた。
「おや? 顔の割にはいい筋肉ついてるね。一見柔らかそうなのに、食べてみたら硬くてまずそうだ」
 身体が動かない。全身を地に伏せさせられ、見下ろされる。
 ワーウルフは人間などよりよほど獣に近く、身体能力が発達し戦闘に特化した一族。魔族。
 いっそ呆気ないほど簡単に、クルスはセルヴォルファス王の一撃を受けて、地面に倒れふしたのだ。
 ざくざくと足音をさせて近づいてくる人影も見える。イスカリオット伯が、複雑な表情でこちらを見ている。
「……残念ですね。クルス君」
 それは一体、どういった意味なのか。
 彼は明かさないままにクルスの処遇を決めた。
「あなたをシェリダン様の元へ返すわけにはいきません。しばらく、この屋敷の地下牢で大人しくしてて頂きましょう」
 そのイスカリオット伯の瞳にどうしてか憐憫にも似た情が湛えられているのが不思議だったが、クルスの中ではすぐさま憎悪に置き換えられた。
 二対一。しかも、それぞれが相当の武芸者。クルス一人ではイスカリオット伯にすら勝てないのに、この能力未知数の異国人を相手に闘うこともできない。
 シェリダン様――。
 唯一と心に誓った主の、朱金の瞳が脳裏をよぎる――。

 ◆◆◆◆◆

 帰ってこない。
「マズイわね……」
「どうなさったのですか?」
「公爵閣下?」
 両脇に侍らせた少女たちが怪訝な顔をする。
 エルジェーベトは今、領地であるヴァートレイトから移動したリステルアリア城にいる。ここの方が王都シアンスレイト、つまりはシェリダン陛下のお膝元に近いから何かと都合が良いかと思ったのだが。
「困ったわ」
「バートリ公爵?」
「ユージーン侯爵、いるでしょう。あのクルスくん……出かけてったっきり、帰って来ないのよ〜〜」
「ユージーン侯爵?」
「ああ、あのお顔の可愛らしい方……」
 ついついバートリ領にいるときのくせで毛足の長い絨毯など敷いて居心地をよくしたソファの上、お気に入りの奴隷少女たちを構いながら、エルジェーベトは脳裏に一人の青年を思い浮かべる。
 ここでこの状況を見たとき、固まっていたクルス。何故あのシェリダンやイスカリオット伯と親しげなのかわからないほど、今どき珍しいくらい純粋で潔癖な青年侯爵。青年と言う呼称ですら世間一般的にはようやくそういう年頃に入っただろうという程度で、エルジェーベトから見ればまだお子様、少年の域だ。
 そして汚れなき侯爵は、この王国において最も王に対する忠誠心が厚い。
 シェリダン陛下のためなら火の中水の中、を当然の如く行う青年は、今回火の中水の中など比べ物にならない魔境へと足を運んでいる。
「…………ね」
「バートリ公爵?」
 白い腕をエルジェーベトに預けていた少女の一人が、独り言を聞き咎めて怪訝そうに首を傾げる。
「なんでもないわ」
「わかりました」
 さすがにそこまで彼女たちに言えるわけもなく、エルジェーベトはその先の問を封じた。声に出さず胸のうちで、あらためて先ほどの言葉を呟く。
 イスカリオット伯が裏切るなんてね。
 ありえないとは言わない。思わない。だけれど、どうしてもそれはないと思ってしまうのはエルジェーベトの勝手だろうか。
 クルス=クラーク=ユージーン侯爵は今年十九歳で、シェリダン王は十七歳。まだまだお若い二人にはあの男は飄々とした道化、得体の知れない役者に思えるのだろうが、幸か不幸かエルジェーベトは彼の昔を知っている。
 それはエルジェーベトだけではなく、もう一人……シェリダンの筆頭侍従であるあの青年、ユージーン侯爵とは違ってこちらは本当に青年と言うべき年頃のリヒベルク家の次男坊もそうだ。リチャードと言う名の彼はイスカリオット伯と同い年で、八年前の問題に直接関わった人間のうちの一人だった。
 八年前、あの事件があるまで、イスカリオット伯爵ジュダ卿は本当に普通の青年だった。いいや、普通どころか、今のユージーン侯爵に負けず劣らず純粋で高潔で、理想に溢れていた。
 エルジェーベトは彼の想い人であったヴィオレットと知り合いだった。だから、なおさらそう思うのかもしれない。彼女を失って、彼は変ってしまった。彼女と彼女の息子の死は、イスカリオット伯を絶望に突き落とし、その心に限りない悲しみと狂気を植えつけてしまった。
 今の彼を見たら天国の彼女がどう思うのか……なんて、馬鹿なことは言わない。死んだ人間は帰ってこないし、彼らに今生きているエルジェーベトたちができることはない。けれど、だけれども。
 あまりにも酷いその変化。
 そもそもジュダは高潔な人柄で、自らの叔母に当るヴィオレットに恋したことを除けば後は本当に普通の青年だった。胸に秘めるだけの禁じられた恋を大事にその胸に抱え、彼は触れられないならなおのこと彼女とその息子を別の方法で愛そうと、彼女たちの支えになることを密に誓うような青年だった。その頃の彼の年齢は今のユージーン侯爵クルスと同じく二十歳前。
 エルジェーベトはあの二人が皮肉な、強固な警戒心を挟んだようなやりとりをするのを見るたびに不思議な気持ちになる。今でこそ国内でも特に対極の位置に立つとはいえ、もともと彼らの性格は似通っているはずだ。それが、あんなことになって。
 ジュダがクルスに何かしたという話も聞いたことがあるが、そちらに関してはエルジェーベトにも真偽はわからない。これが何の因縁もなければ、また気遣う必要もないただの貴族なら皮肉交じりにわざわざ持ち出してやるところだけれど、シェリダンのお気に入りで、あのクロノス=ユージーンの息子であり現ユージーン侯爵家を継ぐクルスに下手な手出しはできない。何より本人があの性格なのだ。下手につついて過去の傷を刺激してやるのも可哀想だな、なんて思ったのだが。
「聞いておけばよかったかしらねぇ……」
「バートリ公爵?」
 何故彼はあんなにも、イスカリオット伯爵を恨んでいるのか。
「……そりゃあ、あの子の性格からすれば今のジュダ卿は生理的に受け付けないとか言われても仕方のない相手かもしれないけど、でも、それでも信用の一片すら見せないで躊躇うことなく疑うってのは、妙ね。いつもよりはやり過ぎている気がするわ。と言っても、クルス卿のいつもなんて、厳密には私も知らないわけだし……」
 奴隷少女たちが脇からするりと抜けだした。ソファの正面に直立して身構える。
 彼女たちはエルジェーベトの言葉を真に理解し、その命令を実行する大事な大事なお人形。下手に身分が低いものだからなまじ裏町を歩いていても誰も気にしない。奴隷なんかと嘲笑う奴らを幾人、彼女たちの手によって葬ってきたことか。
 まあそれはともかくとして、今回もそろそろ、彼女たちも含め自分もどうやら動き出さなければいけないようだ。
「先触れを、シェリダン陛下へ」
「かしこまりました」
「それと、イスカリオット伯を……いえ、屋敷に出入りする者の姿がないかどうかだけ確認してくれればいいわ。無茶をしない程度にあの屋敷を見張って」
「お屋敷ですか? 伯爵本人ではなく」
「ええ。たぶん、今の時点でイスカリオット伯に手を出すのはまずい」
 過去を知っているのだから、彼がかつてどのような才能を培っていたのかも知っている、自分は。だからこそ惜しいものだと思う。彼はあのまま道を間違えなければ、さぞや素晴らしき王国の忠臣となっただろうに……。
 奴隷少女たちが各々に与えられた任務をこなすために部屋を出て行った。
 人気のなくなった部屋で思考の波紋を広げながら、エルジェーベトはソファに横たわって一人ごちる。
「……私も、そういえば同じか」
 過去がある。それは望もうと望まざると今の自分たちを間違いなく形づくる素養。過去が今を形づくり、過去の歪みは現在に影響する。
 彼には癒えない傷があった。
 そして彼だけでなく、クルスにも、シェリダンにも、先日衝撃の事実を突きつけられたロゼウスにも、このエルジェーベト自身にすら。
 誰だって重苦しい、息苦しい、思い出したくもない思いの一つや二つ抱えているもの。平民ならまだしも、自分たちは貴族なのだからなおさらだ。
 だからそれを言い訳に王国を……国王陛下シェリダン様に仇なすつもりがジュダ卿にあるのならば、いくら相手が彼でも私は容赦しない。
「……さぁ、何が待っていることやら」
 エルジェーベトは起き上がり、王城へ行ってシェリダンへこの事を報告するために身支度を整え始める。

 ◆◆◆◆◆

 華奢でたおやかで可憐で儚げで。
 そういう、花のような子だと思っていた。
 はっきり言おう。自分は彼を侮っていた。
 何もできない子どもだと。ただ、優れた兄姉たちの足手まといになるしかできない病弱な王子だと。
 今も熱で赤い顔をしながら、しかし彼は言う。
「……の、……伯と、取引を……それから、リザァドの街の富豪に、話をつけ……」
「ミカエラ王子」
 ルイは彼の手を握った。苦しい息の中、儚げな風貌をさらに消えそうに淡いものにしたミカエラは、ルイの手を握るというより爪をかけて無理矢理指をとどめようとするような弱い力加減で縋り、熱に潤む深紅の瞳で見上げてきた。
「頼む……ルイ、これを……」
 震える指が枕元を指差して、丁寧に蝋で封じられた幾つもの手紙の存在を示す。ルイはそれを見つめた。貴人らしい流麗な書体は、初めて見るミカエラの字だ。
「届けて……兄上様たちに、許可はとっている……シェリダン王にも……だから……」
「どうして君は……」
 可愛いだけの、ただの子どもだと思っていた。ローゼンティアを侵略したのは確かにエヴェルシードだけれど、彼らの平穏に慣れきったやわらかな様子は見ていて微笑ましいものと共に、この国に住む者たちの心を抉った。
 エヴェルシードは争乱に生きる国。他国との交流をさほどせず自国の中だけで穏やかに完結して緩やかに時を刻むローゼンティアは、すぐ近くで手が届きそうだが絶対不可侵の領域という神秘性を誰もが感じていて。
 羨ましくて憎らしかったのだろう。シェリダン陛下が即位後真っ先にローゼンティアを侵略したのは、向こうのドラクル元王太子に唆されたり、手近な隣国だったというよりも他に理由があったのだろう。
「ミカエラ王子……ミカちゃん」
 彼の嫌う愛称を呼んだのに今はルイを睨み返す気力もないようで、ミカエラは儚げな瞳を潤ませたまま、ルイを見上げる。
「人を観察するのは……得意、なんだ……いつも、寝台の中で……世界、を……ただ、眺めてたから……」
 森でドラクル王子たちと相対した後、彼はまた具合を悪くした。
 もともと体が弱く、ルイたちがヴァートレイトに拘束していた時もほとんど動けなかったミカエラだ。元気があるときには相手をしてもらうこともあったけれど、姉であるエルジェーベトから彼の監視をしろと言いつけられルイの役目は、ほとんどその寝顔を眺めているだけだった。
 兄妹だと信じていた人々が実はそうではなかった。それも、自分たちの父母の薄暗い思惑の上で全てが回っていた。一番仲が良いというわけでも同母の兄妹というわけでもなかったけれど、兄の一人が他国(この場合ルイたちのエヴェルシード)を使ってまで、自分たちの祖国を滅ぼした……。
 精神的な負荷がかからない方がどうかしている。ローゼンティアの他の面々も顔色を悪くしていたが、ここまで酷くはない。
「可哀想な子だね、君は」
 ルイの言葉に反応して、ミカエラが瞳を瞬かせた。
 不謹慎な言い方だけれど、こういうときの彼の姿は酷く色っぽい。二十五にもなって十五歳の少年にそういう気分になるのはやっぱり犯罪だよなぁとは思うけど、気になるものは気になるんだから仕方ない。
 白い敷布の上に横たえられた、淡く上気した桜色の身体。瞳は濡れた深紅で、唇も乾いて禍々しいほどに紅い。汗ばんで皮膚に張り付く白い髪は、エヴェルシードにはない色彩だから余計目を引く。触りたくなる。
 乱れて頬にかかる髪を払いのけてやった。
「可哀想な子だね、君は」
 再び告げると、ミカエラは嫌がるどころかにこりと笑った。いつもの、吼える子犬のような彼らしくもなく。
 その笑みは不吉なほどに、儚い。
「知ってる」
「って……」
「僕は、宮廷の役立たずだ」
「……」
 ローゼンティアがどのような国なのか、はっきり言ってルイは知らない。だから推測するしかない。彼の他の兄妹たちを見ていればわかることを、改めて確認するだけ。
 ヴァンピルはワーウルフほどではないが、身体能力に優れた種族だ。一度や二度死んだところで生き返るという彼らの中で、病弱だというのはなんとした異端で矛盾だろう。
 いかにも儚げな美女であるミザリー姫でさえ、現実は女将軍であるエルジェーベトと張り合うほどのタフさだ。第四王女のロザリー姫に関しては、一人でシェリダン、リチャード、エチエンヌ、クルスを瀕死に追いやったこともあるという。
 その異常な強靭さのなかで、ただ一人本当に弱い王子。剣術の能力自体は平均的らしいが、何しろ剣を持つほどの体力もない日が多いのでは仕方がない。
 もしかしてこの子は、自国で相当肩身の狭い思いをしていたのではないだろうか。ふとそんな考えが頭を過ぎる。病弱な王族の政略的な使い勝手の悪さは、人間の国でもよく言われることだ。
 口さがない人々の悪意の込められた噂だって、さぞや聞いてきたことだろう。だから、可哀想だというのだ。幾つもの矛盾の中で、無力さに歯噛みしながら無為な生を繋ぎとめ続ける。彼らがとても哀れに思えた。
 ミカエラは、寝台に寄せていたルイの指をそっと握る。
「知ってるよ……自分が、どれだけ無力かなんて……」
 ルイは彼の枕元の手紙の束に手を伸ばし、宛先を確認した。そこには、エヴェルシードと他国の一部だけだが、ルイが知る限りでも信用に足る人物だと言える人々の名がかかれている。人を見る目だけはあると豪語していたのは伊達じゃない。
「僕に、できるのはここまでだ」
「ミカ」
「本当はもう少し……ロゼウス兄様のお役に立ちたかったけれど」
 ルイ、と。
 名を呼ばれた。
 顔を上げる。彼の方を向く。二人の視線が絡む。彼の唇が動く。

「僕は、きっと近いうちに死ぬ」

 美しく微笑んで告げられた絶望的なその言葉。
「―――ミカエラっ!?」
「事実だ……自分の身体のことだから、わかるんだ……でも、今すぐじゃないよ」
「そんなこと……」
 ない、と言ってやりたいがどうなのだろう。ルイはローゼンティアについてあまりにも知らない。
「でも、君たちヴァンピルは生き返れるんだろう!?」
「うん……死んだ人間の中にまだ命……魔力が十分に残っていれば……天命の途中で死んでも、誰かに生き返らせてもらえれば……生き返る」
 だが。
「僕にはもう、それが残ってない……寿命を終えた生き物を復活させたとき……ノスフェラトゥ……死人人形となるように、僕をもう一度生き返らせようとしたら……そうなるだろう……」
 絶句した。言葉が出てこない。
「それまではどうか……兄様のお役に……」
 握る指先から力が抜ける。すぅ、と彼は唐突に眠りに落ちた。喋る力が尽きたのだろう。
 その最後まで喋っていたのは、ずっとロゼウス王子のこと。ああ、君は本当に、あの兄上が好きだね。
 とくまでもなく離れた彼の指を毛布の中に戻してやってから、ルイはその寝台を離れる。彼がしたためた手紙を協力者の貴族たちに届けるために。自分は自分ができることを、このエヴェルシードのために、そして彼のためにしよう。
 それだけが、死に逝く者への唯一の餞だと。

 この頃のルイは、そう思っていた。
 あの言葉に込められたミカエラの真意まで深く考えず。
 もしもこの時に、彼の壮絶な決意を一つでもわかっていたなら。
 未来は、変えられただろうか。