105

「さぁ、これで役者は揃った」
 始めよう、とその人は告げる。
 これは絶望に満ち、狂気に堕ち、腐敗した白骨に還るための舞台。
「ディヴァーナ・トラジェディアを」
 神聖なる悲劇。
 硝子の柩に縋る未来。薔薇の庭園で傷つけられた記憶。繰り返し繰り返し見せ付けられた悪夢。
 永い時間をかけて育まれた憎悪。
 兄は白い手のひらを自分に向かって差し伸べた。次の瞬間流れるように優美な動作で礼をとる。
 そして言った。

「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」

 そう、この物語は始めから間違っていたのだと。

 ◆◆◆◆◆

 皇帝陛下の歓迎晩餐会の日、襲撃の折に紛れて届けられた手紙に書かれていた通りの場所に、ロゼウスとロザリーはやってきていた。手紙を届けに来た、署名の宛先もドラクル。そしてあの場でロゼウスはハデスとジャスパーの姿を見たのだから、彼らが手を組んでいることは間違いない。
「ロザリー……ロゼウス」
「アンリ兄様」
 その場所には、兄妹のほとんどが揃っていた。
 エヴェルシード王都シアンスレイトの郊外にある森。鬱屈として暗く、月の明かりも禍々しい夜、ロゼウスはそこへと呼び出された。
 ドラクルの手紙に従って森へと足を踏み入れ、複数の気配が集まっている広場を目指して妹のロザリーと共に歩く。
 辿り着いた場所にいた面々は、全員がこの国には通常いるはずのない種族、ヴァンピル。それも、あの侵略の日に生き別れ死に別れ離れ離れとなった兄妹たちだった。
 第一王子ドラクル、第二王子アンリ、第三王子ヘンリー、第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル、第一王女アン、第二王女ルース、第三王女ミザリー、第六王女エリサ。
 第四王子であるロゼウスと、第四王女ロザリーに関してはここで合流するまでエヴェルシード王シェリダンのもとにいたわけだけど、いつの間にこんな、みんな集合していたのか。ローゼンティアがエヴェルシードの属国化されてからロゼウスが見たのはアンリ、ミザリー、ミカエラ、ジャスパー、ウィル、エリサだけで、第一王女のアンと第三王子ヘンリーはこれまで全くの安否不明だった。
 第二王女ルースとも一度顔を合わせたけれど、彼女が誰かと行動を共にしている様子もなかったのに。
 今のルースは極当然のように、ドラクルの隣に寄り添っている。
 兄妹の中で唯一ここにいないのは、第五王女でありロザリーのすぐ下の妹であるメアリーだけだ。
「久しぶりだな、ロゼウス。それにロザリーも」
 ドラクルがロゼウスたちを見て微笑む。
「にい……さま……」
 自分でもみっともないと思うほど、掠れた声が出た。幼子のように、兄の名を呼んだ。
 久しぶりだなんて。ヴァートレイト城で会ったときからまた少し時間が空いたから、確かに久しぶりなのかもしれないけれど。
「ドラクル」
 兄は微笑んでいる。
 あの時のことなど、まるでなかったかのように。
「どういう、こと?」
 言葉の出ないロゼウスの半歩後ろに立ったロザリーが、代わりに尋ねた。
「どうして、みんないるの? どうして、メアリーだけはいないの? なんで、ドラクルがいるの?」
 どうして、どうして、どうして。
 これまでの状況が状況だっただけに、どういう経緯でここにこうして集まることとなったのか全くわからない。
 十歳程歳の離れた兄は、頑是無い幼子に言い聞かせる調子でロゼウスとロザリーを見つめた。
「もちろん、お前たちを取り戻し、ローゼンティアの復興を目指すために決まっているだろう」
「ドラクル!?」
 その言葉に驚きの声をあげたのは、ロゼウスでもロザリーでもなかった。第二王子、ドラクルのすぐ下の王子である、兄が叫ぶ。
「アンリ、お前は私が何の策もなく、ただこの国に足を踏み入れると思うのかい?」
「いや、確かにドラクルなら……」
「すでに国内の協力者は募った。エヴェルシードの離反者も抱きこんである。そろそろ私たちが私たちの国を取り戻してもいい頃合だろう?」
「そんな簡単に……」
「簡単だよ。相手は、たかだか十七歳のシェリダン王だ」
 事も無げに言うドラクルに、ちりちりと胸が疼いた。何だろう、何か、容易には形に出来ないような、不安感と不審がある。
 ロゼウスが言葉にできなかったそれを、同じように感じて上手く説明して見せたのは第三王子であるヘンリー兄上だ。
「簡単? そのたかだか十七歳の王に、私たちの国は一度負けたんですよ、ドラクル第一王子殿下」
 彼に続けて、第一王女のアン姉上も口を開く。
「そうじゃ。父上も母上方も、大公閣下ももういらっしゃらない」
「! それってっ」
 アンの台詞から何かを得たのか、それまでミカエラの肩に縋りながら不安な面持ちで皆の様子を眺めていたミザリーが叫んだ。
「今、王位継承権の第一位にいるドラクルお兄様が、次の国王として立たねばならないってことじゃない!」
 言われてみれば当たり前のことに、全員が一瞬言葉を失う。
「じゃあ、ドラクルが国を取り戻すっていうのは……っ」
「もちろん、私がローゼンティア王になるということだね。ロザリー」
「……ぇえええええ!」
「そんなに驚くなんて兄は悲しいな」
「父上がいなくなった以上、第一王位継承者が国を継ぐのは当然のことだと思うけど……?」
 うっそりと深紅の瞳を細めたドラクルに、ルースも追従する。けれどその次のドラクルの言葉は、思考を麻痺させられていたロゼウスや他の兄妹たちを現実に戻すに十分だった。
「そのためには、まずこの国の破壊が必要だね。ローゼンティアとエヴェルシードで戦争をするんだ」
 目の前に邪魔な石があるからどけましょうという気安さで兄王子は言い放った。
 破壊する。
 ここを、この国を、エヴェルシード王国を。
 確かにエヴェルシードはローゼンティアを侵略した。滅ぼして属国化した。国民を奴隷にし、ロゼウスを人質にした。
 今更和平交渉などできようはずもない。ローゼンティアを取り戻すと言う事は、エヴェルシードと戦うということだ。
「せん、そう?」
 でも、その言葉の響には何度だっていつだって動揺する。肩を震わせてよろめいたロザリーを支えて、ロゼウスはドラクルを見つめた。他の兄妹たちの様子は目に入らず、ただ彼だけを見つめていた。
「そうだよ、ロゼウス――私の可愛い弟よ」
「っ!」
 その唇から放たれた甘い響に、ロゼウスは思わず身を震わせる。ヴァートレイト城での悪夢のような再会、そして今だってこんな何もかもわからない状況で過激な発言をしているのだというのに、それでもまだドラクルの声に引きずられる。取り込まれそうになる。
 でも。
「お前だって、いつまでもこの国で人質生活などしていたくはないだろう」
 ああ、そうだ。
 そうだった、けれど。
「エヴェルシードを滅ぼして、ローゼンティアを取り戻そう。私に協力して、くれるね?」
 じれったいほどに言葉と言葉を区切り、いちいち念を押すように尋ねてくるドラクルの話術は人を引き込む。永い間刷り込まれ続けて抗いがたい力を放つそれになんとか抵抗しながら、ロゼウスはその瞬間を待っていた。
「ねぇ、ロゼウス。わかっているよね」
 あなたの言いたい事は。
 こくりと喉を鳴らして、唾を飲み込む。緊張が辺りを満たして息苦しい。隣に立つロザリーも、他の兄妹たちも一様に不安そうな顔をしている。痛いほどの静謐。それを切り裂くのはドラクルの声。
「――シェリダン=エヴェルシード王を殺せ」
 酷薄な声音が命じたその言葉に対し、腹の底からロゼウスは叫んだ。
「嫌だっ!」

 ◆◆◆◆◆

「嫌だっ!」
 その声を合図に、疾風が駆けた。
「なっ!」
「え、ちょっと――」
 人影の一つはすらりとした、驚くほど整った容姿の少年。月影の中で目立つのはエヴェルシード人でも珍しい色合いの、濃い藍色の髪に朱金の瞳。
 そしてもう一人は、小柄ながら恐ろしいほど正確な剣を振るう、剣聖と呼ばれる青年。
「シェリダン! ユージーン候!」
「退がっていろ、ロゼウス!」
 剣を抜いて迅雷の速さでドラクルに斬りかかったシェリダンが怒鳴る。応戦のために残影を残して剣を抜き刃を受けたドラクルに、シェリダンは力負けする前に自分から離れて距離をとった。
 一方、シェリダンと同じようにドラクルへと攻撃を仕掛けようとしていたユージーン候の剣を受けとめたのは華奢な影だった。ルースは懐に隠していたらしい短剣二本で器用に彼の一撃を押さえ込んでいる。こちらは二、三撃斬り結んだ後で離れた。
「動かないでね、ヴァンピルの皆様」
「怪我をしたくないのなら、動かない方が懸命ですよ?」
 バートリ公爵エルジェーベトとイスカリオット伯爵ジュダもそれぞれ得意の得物を手にして現れる。隠れ潜んでいた茂みから立ち上がった彼らは、他の兄妹たちが妙な行動をとらないようにと見張る役目だ。
 みんなには悪いけれど、今はこうするしかない。
「これがお前の答か。ロゼウス」
 お互いにそれぞれ即座に斬りあうよりはまず事情を確認した方がいいだろうと、あっさりとシェリダンを退けたドラクル。彼はロゼウスを見て、何故か旅人を見送る人のような目をしていた。
「……ええ。兄様」
 多分ドラクルは、最初からロゼウスたちの後にシェリダンやクルスがいたことに気づいていたのだろう。もちろん最大限の努力をして彼らは気配を殺していたけれど、ヴァンピルの感覚はそれほど甘くない。そしてそれでいて、あえてドラクルはシェリダンたちがこの場に立ち会うことを黙認したのだ。
 そのことを証明するかのような彼の言葉。
「残念だよ。目の前でお前が自分でなく私を選ぶところでも見せれば、そちらの国王様は絶望してくれるかと思ったのに」
 ロゼウスが、シェリダンではなくドラクルの手をとるところを見せれば、と。
「だからせっかく、エヴェルシード王を溺れさせるために傾国の美貌を持つお前を差し出してあげたのに」
 ひとを……ロゼウスをものか何かのように扱う言葉すらあっけらかんと言い放ち、兄は美しい人形のような笑みを浮かべた。ああ、そうだ。昔からこの人はこうだった。
 こうして笑いながら、ドラクルはロゼウスを憎み続けていたのだ。
この人はどこまで知っていて、そして何を考えているのか。
「エヴェルシードを滅ぼしたいの? 兄様」
「ローゼンティアを取り戻したくはないのかい? ロゼウス」
「取り戻したいよ。帰りたいよ。あの国に、俺たちの国に。でも」
 酷く泣きたい気分になったけれど我慢した。
「俺は、兄様が何を考えているかわからない。だから――あなたには従えない」
 はっきりと言い放てば、言われた当のドラクルよりも周りの兄妹たちが息を飲んだ。
「ロゼウス? お前、何を言って……」
 アンリが顔を歪める。ロゼウスもまだ事態がよくわかっていないけれど、彼らもそうらしい。いや、むしろ彼らこそがこの事態を把握できないでいるのか。同じ兄妹であるロゼウスとドラクルが争っている。しかも、ロゼウスの方はシェリダンたちと手を組んでいる様子だ。
 その時、第二王子のアンリはふと自分に剣を向けるイスカリオット伯に視線を移した。何かを訴えるような目で彼を見る。ジュダは応えない。
(……?)
 それに違和感を覚えたけれど、追求している暇はなかった。
「やれやれ。こうなってしまっては仕方ないか。まさか土壇場でお前が裏切るなんてね、ロゼウス」
「兄様……」
「お前ならば例えどんな状況にあっても私の味方をしてくれると思ったのに、残念だよ」
 詰られるたびに、心が痛い。それが度重なる虐待による刷り込みなのだとわかった今でさえ、ロゼウスにはドラクルを憎みきることなどできない。
「ねぇ、兄様、なんで、皇帝陛下のお命を狙ったの?」
 その言葉に、ぴくりと反応したのはジャスパーだった。以前は吸血の狂気に侵されていた彼は今ではちゃんと正気に戻っているようだけれど、それでも心配をしていないわけではなかった。ジャスパーは何かを知っている。
 そしてジャスパーのような何かに確信を持っている反応でなくとも、他の兄妹たちはその言葉に酷い混乱を来たしていた。
「皇帝陛下にって―――」
「そんな、ドラクル! まさかっ!」
 ハデスと一緒にジャスパーがいたし、皇帝陛下はロゼウスたちをこの場に呼び出すあの手紙を渡したのは間違いなくドラクルだと言っていた。
 何を考えているんだ。兄様。帝国宰相ハデスと手を組んでまで、皇帝の命を狙うことに何の意味がある?
 あのヴァートレイト城の庭園で犯された時から――いや、それまで心も体も弄ぶように構い続けていた態度から急に手のひらを返して彼が自分を拒絶したあの日から、ロゼウスはドラクルを絶対的に信用などできなくなっていた。
「知らないね。それはハデス卿の方の都合だ。私はただ私の欲しいもののために、彼の協力を欲し、その見返りを返しただけ」
「ドラクル……」
 彼は、否定しなかった。
 皇帝の命を狙う。その、神に背くも等しい大罪を犯しかけながら。
「彼が何を考えているかは知らないが、私は私の目的を果たすためならば何でも使う。何だってする」
 酷い男。
 でも、それでも、今のロゼウスがあるのは。
「ドラクル、俺は――」
「王子?」
 言いかけたロゼウスを遮って、声をあげたのはロゼウスとドラクルを隔てるようにロゼウスの目の前で剣を構えていたシェリダンだった。彼はざっと周囲に視線を走らせ、その様子を確認してもう一度ドラクルへと視線を向けた。
「貴様が、第一王子ドラクル?」
「そうだよ。シェリダン=エヴェルシード陛下」
「本当に、第一王子か?」
「少なくとも国内での認識はそうだね」
 竜王子の名を持つ長兄。
 シェリダンは訝しげな、不審げな眼差しをドラクルに向けてくどいほどに念押し確認する。
「……ほう。それは初耳だな。私は貴様を知っている気がするが?」
「奇遇だね。私もあなたとは顔を合わせたことがある」
「そうだろうな」
「シェリダン?」
 シェリダンは先程より更にロゼウスを庇うような位置に立って、今にも相手を射殺さんばかりのきつい眼差しでドラクルを睨み付ける。
「知らなかったな。いつからローゼンティアは王子に爵位を兼任させるような国になった」
「え?」
「エヴェルシード王?」
「そうだろう――ローゼンティア貴族、ヴラディスラフ大公爵」
 その、名前だけは聞きなれながら、それでもドラクルとは結びつかないはずの名称に兄妹たちは一様に首を捻った。
 ロゼウスは背を滑り落ちる冷や汗の重さを感じる。
「ドラクル……?」
 彼は笑みを深くして、ロゼウスと、ロゼウスを庇う位置に立ったシェリダンを見つめた。
 そしてその恐ろしい事実は、シェリダンの口から発せられた。

「我が国がローゼンティアに侵略する際、手引きをしたのは、貴様のはずだ」

 月の光が、終始口元に笑みを刻むドラクルの立ち姿に重たく貼りついた。


106

「我が国がローゼンティアに侵略する際、手引きをしたのは、貴様のはずだ」
 どういうことだ?
 どういう、ことだ!?
「ドラクル!?」
「兄上!!」
「お兄様!?」
 あちこちから悲鳴が上がった。ロゼウスは長兄の名を呼び、他の兄妹たちも口々にドラクルへと呼びかける。
 驚愕の事実を突きつける言葉を発したシェリダンは、厳しい瞳でドラクルを睨み続けている。
「ああ……そういえばそうだわ」
「エルジェーベト卿」
「男の顔なんて興味ないし、私が見てる王妃様はほとんど女装だから比べようがなかったけど、確かにローゼンティア侵略の際国内の有力貴族の手引きをしたのはこの大公閣下」
 そういえばエルジェーベト=ケルン=バートリ女公爵はローゼンティア侵略を実行した将軍の一人だったのだ。恐らくシェリダンに付き従ってローゼンティアへ繋ぎをつけようとした彼女までもが、そんなことを言う。
「ドラクルが、ローゼンティアを裏切った?」
「ドラクル兄上?」
 アンリとヘンリーが呆然とする。
「兄上……! 嘘でしょう!?」
 ミザリーが悲鳴をあげる。アンやロザリーも凍り付いている。
「おにいさま……」
「兄上、どうして!?」
 涙目のエリサを抱きしめながらウィルが問いかけた。そうだ、どうして。
 ――どうして?
 頭の中で誰かが囁く。
 決まっている。知っているだろう。お前は。
 ロゼウスの血の内側から、誰かが囁く。
 言葉の出ないロゼウスの、そしてこの場にいる全員の代わりとしてミカエラが叫んだ。
「どうして、そんなことを……っ! 第一王子であるあなたは、あのままいれば何事もなく玉座につけたはずだろう!」
 緊張状態に置かれて体調が悪化しているのか、ミカエラの顔色はすこぶる悪い。それでも今は自らの辛さよりドラクルへの不審と怒りが勝るようで、彼は声を張り上げて叫んだ。
 闇夜に風が吹く。
「――どうして?」
 ドラクルの長い白い髪が、風に巻き上げられて狂気のような月を背景に美しく夜を飾る。
 吸血鬼は夜の一族だ。その白い肌は、白い髪は、血の色をした瞳は漆黒の闇を纏ってなお映える。彼はまさしくこの夜の王者であった。
 逆らえるものなどいない。少なくとも、ローゼンティアの者たちの中には。
 恐ろしいほどの威圧感を纏ってそこに君臨するドラクルに、真っ向から対峙できたのはこの人物だけだ。
「私も聞いてみたいな、その理由を」
「シェリダン」
「貴様の話は聞いているぞ、第一王子。どのヴァンピルに聞いても次代の王の器として申し分ない人材だと太鼓判を押されている堂々たる第一王子が、何故祖国を裏切るような真似をする?」
 まあそれで我が国としては有利にことを進められたわけだが、とシェリダンは口元を歪める。
 それは嬉しいからではなく、間違いなく不愉快を覚えている嗤い。
「エヴェルシードがその思惑に乗って、ローゼンティアに攻め込むことまでその計画の内だったというわけか」
 白刃のように鋭い眼差しが闇夜を貫いてドラクルを見据えた。兄は微笑んでシェリダンに言う。
「ああ。この国は実に私の計画に役立ってくれた――感謝しているよ、親愛なるシェリダン=エヴェルシード国王陛下」
「貴様っ……!!」
「まぁ、あなたがロゼウスを殺すこともなく即座に国に連れ帰ったのはさすがに予想外だったけれどね。ロゼウスがあなたを選ぶのも」
 明らかな挑発の込められた態度に、シェリダンがますます表情を険しくする。剣を握る手に力がこもり、筋が白く浮かびあがった。
「本当の予定では、あの後王家の兄妹は全て死んで、めでたくあの国が私のものになるはずだったんだ。あれだけの数の死人が出ればいくらノスフェル……《死人返り》の一族だとて全てを甦らせることはできない。その上で、私に必要な人材だけを復活させる予定だったのに、あなたがロゼウスを連れて行ってしまったせいで少しずつ予定が狂ったよ」
「そうか。それは良かった」
 シェリダンが皮肉気に表情を歪める。ようやくじわじわと兄の裏切りが頭に事実として染みこんできたロゼウスたちは、お互いの顔を見合いながら声を出す。
「本当、なの?」
 すぐ近くのロゼウスに縋りながら、ロザリーが涙を湛えた瞳でドラクルを見つめる。兄妹一腕力が強くて気丈で、誰よりも家族思いなロザリー、だからこそ衝撃は大きかったのだろう。
「本当に……あなたはローゼンティアを……私たちの国を裏切ったの? ドラクル!!」
 彼女が叫べば、他の兄妹たちも呼応するように口々に長兄へと言葉を放った。
「そうです、おにいさま! なにかいってください!」
「嘘ですよね! 裏切っただなんて! あれが全部お兄様の計画だったなんて!」
「兄上……っ?!」
 魂を引き裂くような痛みと共に、彼ら彼女らは問いかけていた。もはやどれが誰の声、言葉なのかわからない。気持ちはみんな一緒だったからそれが誰のものであろうと構わない。
 ただ、その問を重ねることでドラクルが否定してくれるなら、それなら声が嗄れ喉が破れるほど叫んだって構わなかったのだ。
 しかしドラクルは微笑んでそれを斬り捨てる。
「本当のことだよ」
 微笑があまりにも優しいので、それは悪魔のようだった。魔力を持つ生き物としての魔族ではなく、人を堕落せしめるために作られた人間の敵である、ただしく悪魔たる存在のようだと。
「ドラクル……」
「それとも、私を庇うためにそこの彼を否定するかい? 私を反逆者だと叫んだエヴェルシード王を。ねぇ、ロゼウス?」
 ドラクルの言葉に、ロゼウスは斜め前に立つシェリダンを見た。彼は無表情でロゼウスたちローゼンティアの兄妹のやりとりを見守っていた。この場所から僅かに見えるその横顔が何を考えるかなんてわからない。でも。
 ロゼウスは下草を踏んで歩み、シェリダンの隣に立った。
「俺はシェリダンの言う事を信じる」
「ロゼウス!」
「ロゼ兄様!」
 アンと末弟のウィルがロゼウスに向かって叫ぶが、ロゼウスは言葉を続けるのをやめなかった。
「シェリダンは、こういうところで嘘を言う人間じゃない」
 今の格好が「ロゼ王妃」でなくてよかった。
 ロゼウスはいつもロゼウスで、どんな格好をしていても自分であることには変わりないけれど、それでも格好は自らの姿や立場を示す一番の手段だから。
 ここにいるのはエヴェルシード王妃ロゼではなく、ローゼンティア王子ロゼウス。間違いなく。
 俺は俺自身として告げる。
「あなたがローゼンティアを裏切ったんだ、ドラクル」
「そうだよ。ロゼウス殿下」
 はっきりと言い放てばドラクルの笑みが深まった。今が真夜中であり月明かりの逆光を背負っているという以上に、その顔には不思議な翳りが落ちている。まるでそれは彼が生まれ持っているもののように、しっくりとドラクルの表情に収まっていた。
「私は――ドラクル=ヴラディスラフはローゼンティア王家を裏切ったんだ」
 そんな名前を、彼らは知らない。

 ◆◆◆◆◆

 ドラクル=ヴラディスラフ。
 誰のことだそれは? 
 あなたは一体誰なんだ?
 ドラクル。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
 あなたは俺たちの兄上では、なかったのですか?
「何故……何故、なのですかドラクル」
 ヘンリー兄上が震える声で尋ねた。
「どうして、祖国に牙を向くような真似をしたのです。他の誰でもない、あなたが」
 ドラクルはまだシェリダンの問に答えていない。そしてその問はここにいるロゼウスたち全員の疑問だ。
「ドラクル……ヴラディスラフ大公、だと? ……何故、その名を名乗るのじゃ」
 アンが硬い声音でさらに尋ねる。そう、それも知りたい。何故、ヴラディスラフ大公などと。
 ヘンリーもアンも、ドラクルと身近だった。第一王女であるアンはアンリと同じ二十六歳、ヘンリーは二十歳。二十代の兄妹たちは、それぞれ仲が良かった。二十一のミザリーだけはミカエラやエリサみたいな小さい子にも構っていてくれたけれど、年長組は彼らだけで集まるといつも独特の空気の中にいるようだった。
 その彼らでさえ知らなかったという話。裏切り者、反逆者、そして、《ヴラディスラフ大公》という鍵となる言葉。
 それは。
「何故、お兄様は叔父様の名を名乗るのです?」
 ロゼウスたちが知るヴラディスラフ大公は、その名をフィリップ=ヴィシュテ=ヴラディスラフと言う。
 彼はロゼウスたち王家の兄妹の父親、つまりローゼンティア国王であるブラムス=ローゼンティアの弟にあたる。
 その、ロゼウスたちにとっては叔父にあたる人の名を、爵位を、何故ドラクルが名乗るのだ?
 それは彼がローゼンティアを裏切ったことと何か関係があるのだろうか。
「っ、ドラクル」
「さっき」
 けれどドラクルはそのことを問い詰めようとするロゼウスたちを先回りして、全く別の人物に話しかけた。
「あなたは言ったね、シェリダン王」
「ああ、言った。いろいろとな。具体的なことを言え。どの辺りだ」
 彼の視線は渦巻く疑問と不審と驚愕を吐き出したいロゼウスたちローゼンティア王族ではなく、シェリダンへと向けられた。
「私が次の玉座に座るに不足のない立場だと」
 ――貴様の話は聞いているぞ、第一王子。どのヴァンピルに聞いても次代の王の器として申し分ない人材だと太鼓判を押されている堂々たる第一王子が、何故祖国を裏切るような真似をする?
「ああ。言ったな。単なる事実だ、第一王子殿下。しかも正妃の息子で男児ならば、その即位は確約されているものではないか。一体何が不満で謀反など仕出かしたものだ?」
 不機嫌そうな顔つきのシェリダンが返す。だからどうしたと言わんばかりの彼に、ドラクルは意地悪げな笑みを向ける。
「それはどこかの誰かにも言えることだと思うけどね? 国を継ぐと決まっていた、それもローゼンティアとは違ってたった二人の兄妹、それぞれ唯一しか競争相手のいない立場の第一王子が何故わざわざ父親を幽閉してまで即位を急ぐ必要があったのかな?」
「っ!」
 ドラクルの言葉に、シェリダンがさっと顔色を変えた。纏う空気が針のように尖る。
「貴様……っ」
「単なる事実だよ、シェリダン王」
 先程のシェリダンと同じ言葉を返して、ドラクルがあからさまに彼を煽る。
「挑発ですよ、陛下。そんな簡単に乗らないでくださいね」
「……っ、わかっている!」
 シェリダンを鎮めるために、これまで何も言わず背後に控えていたイスカリオット伯ジュダが言葉を発した。ローゼンティアの兄妹は皆明かされたドラクルの裏切りに動揺していて彼らをどうにかしようとする考えもなく、ジュダとエルジェーベトは少々手隙のようだ。
 そんな暇もないと、常に目の前の相手と睨み合っているのは……。
「くっ!」
「クルス!」
 ユージーン侯爵クルス卿が呻いて、その場を退いた。ルースの手元の短剣が僅かに血に濡れている。
「……ごめんなさい。仕留めそこなったわ」
「いいよルース。お前はそろそろこっちにおいで」
 短剣を手にしたまま、ルースはいそいそとドラクルの隣へと戻った。ロゼウスたちが右往左往する間もずっと彼女と睨み合っていたクルスは、どこか消耗が激しい。その腕が浅く切り裂かれている。大きな怪我ではないようだ。
「ユージーン候……」
「あの御仁、中々の使い手のようです」
 いかにも楚々としたお姫様然としたルースだが、彼女の実力は兄妹の中でも飛びぬけている。何故なら彼女もロゼウスとドラクルと同じくノスフェル家の出身。《死人返り》の一族として名高いかの家の人間は突出した実力を持って生まれてくる。
 思えば、そのルースも謎だ。彼女は以前、ロゼウスに会いにシアンスレイト城を訪れた。ミザリーとミカエラの居場所をロゼウスたちに教えたのは彼女だ。そしてその後、シェリダンと何か話していた。ロゼウスはその内容を聞かされてはいないが、ルースを見て、シェリダンは険しい顔をした。きっと、二人の間でも何かがあった。
 ああ、誰が敵で誰が味方なのか。
 もうわからない。
 自分自身がどうしたいのかさえ。
 シェリダンをこのままあっさり殺してドラクルの望むまま彼についていくことなど到底できるわけがない。
 でもどうしても、ロゼウスは兄を嫌いきることができないのだ。憎んで憎んで憎しみに染まりただその死だけを願うことなど、できるはずがないのだ。
 だからどうしていいのかわからない。戦いたくない。どちらとも。
しかし彼の立場上、何もしないわけにはいかないだろう。
「ドラクル……」
 話を続けるために兄の名を呼んだ。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。何故彼が先程からヴラディスラフ大公を名乗るかはわからない。俺たちの兄。ドラクル兄様。
 あなたは一体何者で、何を考えているのか。
 そんなロゼウスたちの疑問と声に出せない慟哭を知ってか知らずか……恐らくドラクルのことだから知っていてあえて無視し続けているのだろうが、彼は微笑む。
 その微笑はあまりにも美しく、あまりにも儚い。ルースを横に侍らせて彼は漆黒の闇に浮かび上がる王だった。
 傍らに付き従うルースは、まるで奴隷のように大人しくドラクルの背後に控えている。確かにこれまでもこの第一王子と第二王女の関係はそのようなものだったけれど、今夜はそれが殊更に強調されている。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。ルース=ノスフェル=ローゼンティア。
 そしてロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 同じノスフェル家の兄妹だ。同じ、クローディア=ノスフェルを母に持つ二親血の繋がった実の兄妹。
 なのにどうしてだろう?
 今はこんなにも遠く感じる。
 ドラクルとルースの二人は、その眼前に透明な硝子の壁を立てているようだった。ロゼウスや他の兄妹たちはそれに必死に拳を押し当てて叩いているのに、二人は返事もしない。
「さぁ、これで役者は揃った」
 哀しげにドラクルが言った。その視線はロゼウスに向けられていたが、その瞳はロゼウスを見てはいなかった。
 今になって気づく。
 いつも切ないような眼差しでロゼウスを見ていたドラクルは、実際はロゼウスを見ていたわけではなかったのだ。
 では、誰を見ていたのか。
「始めよう」
 深紅の瞳。俺と同じ色の瞳。でも、違う目。俺を見ないその眼差し。
 ――さぁ、終焉が動き出す。
 胸のうちで誰かが囁く。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 胸のうちで、自分が囁く。
「ディヴァーナ・トラジェディアを」
 そうだ、俺は本当は全ての答を知っていたのかもしれない。
 この世に比類なき、《――》の力によって。
そしてここから。
「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
 神聖なる悲劇の幕が上がる。


107

「行かせないわよ?」
 優雅な微笑にハデスは舌打ちを返す。
 忌々しい。
 全くもって、忌々しいといったらない。
「どうしてですか? 姉さん」
「あら、わかっているのでしょう?」
 本当に忌々しい。
 ――早く死んでくれればいいのに。
「言われなくても、すぐにそうなるでしょう?」
 ハデスは声に出して言ったわけではなかったのに返ってきた答に驚いて目を瞠れば、先程よりさらに優雅に微笑む気配。
 ここはエヴェルシード王国の王城、シアンスレイト城。その一室。
 あるいは華美に装いながらも実際は簡素を好むこの国の君主の部屋よりも飾りつけられているのではないかと思うほどに豪奢なこの部屋は、今現在最高の身分と権力を持つ客人のために誂えられた部屋だった。
訪れると予告して間もなくこの環境を整えたシェリダン王の手腕には実際感服するしかない。彼は有能な国王だ。
 だからせいぜい、役に立ってもらわねばならないのだ。
 シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 あなたにはまだまだ舞台の上で踊ってもらわねばならない。ハデスはその舞台を整えるだけ。
 けれど、それを目の前の存在が邪魔をする。
「私、もうすぐ死ぬのね。そう、長くても今年中、つまり後半年以内ということかしら」
「知っていたんですか? 姉さん」
「ええ。だって皇帝だもの」
 こともなげに告げるその顔は幼い。幼いというよりは、その外見の年相応と言うべきか。普段は化粧と振る舞いで多少誤魔化されている姉の年齢だが、実際、その肉体はまだ十八歳の少女のものだった。
 その年齢の時、デメテル……デメテル=レーテは体の成長を止めた。皇帝になることによって。
 世界皇帝となったものは不老不死の肉体を手に入れる。永遠に老いる事はない。
 そして世界皇帝が死ぬのは、次代皇帝が生まれる時のみだ。その死がどういった形で訪れるかはまだ定かではないけれど、次代皇帝が生まれる事はその皇帝の死が差し迫っていると考えていい。
 ハデスはそれを、暗黒魔術と呼ばれる冥府の術を覚えた時に知った。偽りの選定紋章印を授けられたこの身には、歴代の選定者のような超人的な力は有されていなかった。それでもハデスの生まれ自体が魔術に明るい《黒の末裔》のものだったから、必死で強力な術を片っ端から覚えていった。時間は気が遠くなるほど与えられていた。ハデスは始めから永遠の命を授けられるために生まれた、デメテルの唯一の血縁だから。
 エレボス、タルタロスに降りてまで術を覚え、やがては《冥府の王》という称号まで得るに至った。力をつけた。そうせざるを得なかった。
 今この目の前の女を殺すために。
 ハデスに永遠の命と、それに見合う分だけの苦痛と恥辱を与えた姉。
 あなたなど死んでしまえばいい。
「世界皇帝の代替わりは、全て神の意志によって行われる。そのための言葉は、選定者を通じてアケロンテ中に伝えられる」
「ええ。そうですよ」
「でも、なんと今回は偶然にも、去り逝く古き選定者も、新しき次代を担う次の選定者も己の役目を放棄する気満々で」
「だから、次代皇帝についての情報は長い間明かされることはなかった」
 もしも彼が、次の選定者が我欲のためにその事実を隠匿することがなければ運命は変わっていただろうか?
 次の皇帝になるべき兄のことを、さっさと周囲に話して持ち上げていれば世界はこんな時代を迎えずにすんだのだろうか。
 いいや、とハデスは内心で首を振って否定する。
 そんなことはない。そんなことにはさせない。
 他の誰でもなく、ハデスがそのような事態にはさせないのだ。絶対に防いでみせる。彼を新しい皇帝に据えて、自分は目の前の忌まわしい女と共に世界から消え逝くなんてまっぴらだ。
「……たい」
 僕は――生きたい。
「ハデス?」
 姉が笑う。美しく笑う。
 それは棚の上に飾った硝子箱の中の人形を見る笑み。
 彼女にとって、ハデスは始めから道具だった。
 彼女のためだけに、ハデスはこの命を与えられた。
 デメテルの即位直後の話はすでに伝説と化している。皇族に加わって永遠の命を得たいと娘に対し懇願した両親に彼女はある約束をした。永遠を与える代わりに、新しい家族を、兄妹を作って欲しいと。その子が生まれたら両親に永遠の命を与えると。
 両親はその約束を守った。そのためにハデスを作った。ハデスはそのために生まれた。人として幸せになるために生んでもらったのではなかった。彼らにとって二番目の子どもは、息子であるハデスは皇帝となる姉に捧ぐ貢物だったのだ。
 その見返りは、永遠の命。
 けれどデメテルが彼らに実際与えたものは《死》であった。
 両親を殺して血染めの玉座についた姉。
 その姉のために生まれた自分。
「……たい、……きたい、生きたい」
 思いが溢れて、自分さえも飲み込んで押しつぶしそうになる。
 僕は生きたいのだ。
 道具ではなく、人間になりたかった。一人の人間として誰かに見て欲しかった。けれど自分を見る人間は誰もいない。誰もがハデスを皇帝の弟として見る。帝国宰相なんていう肩書きは、ハデスにとって何の価値もないものなのに。
 ふかふかの絨毯の上に立ちながら、針の山を歩いている気がする。
 選定者は、皇帝がその役目を終えると共に命を終える。何故ならそれが運命だから。ただ皇帝のためだけに生まれてくる存在、それが選定者。
 ハデスはもともと選定者であったわけではない。本当の選定者は彼女の……つまりハデスの父親でもある男だった。ハデスは父を知らない。母を知らない。ハデスが生まれてすぐに姉は彼らを殺した。皇帝に仕える乳母に育てられたハデスは実の両親の顔を知らない。
 それを不満に思ったことはないけれど、右腕の紋章だけはどうしても嫌だった。偽りの選定者。偽物の選定印。父親の腕から抉り取られハデスの腕に移植されたその紋章。
そんなもののために、何故自分が死ななければならないのだろう。
 それでせめて、いつ命が失われても後悔しないだけの人生が送れているならば構わなかった。
 しかしハデスは、どこまでいっても姉のためだけに生まれた存在で。
 ただの玩具だった。人間じゃなかった。生かせてもらったことなど、一度もなかった。
 ――もうたくさんだ。
「姉さん、僕は」
「ハデス」
「あなたが、嫌いだ」
 泣き声のように吐き出した言葉に、涼やかな微笑が返る。
「ええ――知ってるわ。ずっと、知っていたわ」
 ぎり、と唇を食い破るほどきつく噛み締めた。血の味が口内に広がる。何もかもが忌々しかった。
 一度でいいから生きてみたかった。確かな生をこの手で掴みたかった。
 けれど、デメテルがいる限りハデスに未来はない。彼女はこの世の絶対権力者たる世界皇帝。彼女がいる限り、ハデスには自分の命を生きる権利などない。あっても簡単に奪われるのだ、皇帝の手によって。
 だったら。
「僕は、皇帝になる」
 三十三代皇帝になるのはこの僕だ。今現在玉座についている皇帝を直接手にかけることは難しい。けれど、幸か不幸か今は次代皇帝の存在が確認されている時期。
 新しい皇帝の候補である存在が確認されるということは、今の皇帝の力が弱まっているということだ。
 そして新しい皇帝候補は、あくまでも皇帝の候補であって皇帝ではない。皇帝になるだけの力と資格をその身に有してはいても、皇帝ではないただの人間であるなら倒す隙はあるはずだ。
 だからハデスは、この時代に、この年に、そしてこのエヴェルシード王国の王に賭けた。シェリダン=エヴェルシード。鍵を握るのは彼の存在だ。
「邪魔しないでくれる、姉さん」
 ああ、だから今はその計画を進めるために彼らのもとへ駆けつけねばならないのだ。ハデスの大事な駒と、大事な舞台女優と、大事な協力者のために。
 この姉相手では、隙を衝いてこの場から抜け出すのにも命懸けだろう。本気を出すことにした。外見年齢十五、六のこの体では剣を振るうにも魔術を使うにも負担がかかりすぎて効率が悪いのだ。
 だから、いつかこの城の庭園でカミラを襲った時のように、そして先日の晩餐会でロゼウスと斬り結んだ時のように姿を成長させる。二十代半ば頃の男の格好だ。
 変化を悠然と見守っていたデメテルが、そうして現れた男の顔に眉をしかめた。極めて不愉快そうに告げる。
「その顔、父さんに似ているのよね。嫌いだわ。いつもの格好が可愛いのに」
 自分を虐待していた父親が選定者になることを拒んだデメテル。
 なのに彼女は、自分があれだけ忌避していた父親と同じことを今ハデスにしているのだということに気づいていない。
 なんて滑稽でなんて愚かで、なんて哀れなのだろう。人間と言う者は。
 それでもハデスは人間になりたかった。だから。
「――消えて、姉さん」
「お断りするわ」
 黒の末裔同士の、全魔力を注ぐ死闘が始まった。

 ◆◆◆◆◆

 溺れているのは誰だ?

 ――お前に何がわかる、ロゼウス。
 俺の首を絞める兄の顔は酷薄で、底の知れない哀しみに満ちている。
 ――生まれながらに全てを持っているお前に、私の何が……っ!
この狂気は俺が生み出したものなのだと言う。
 ――お前が愛しいよ、ロゼウス。
 ――兄、上。
 ――そして大嫌いだ、我が弟よ。
 ――きら、い?
 ――そうだよ、ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 ――さよならだ、第四王子ロゼウス。私の愛しい、秘密の囚人。
 薔薇の下の虜囚。
 俺は兄様の囚人。
 ねぇ、愛しい愛しい、最愛なる兄様。
 どうしてあなたは、そんな瞳で俺を見るの……?
 
「ローゼンティア第一王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア」
 ――神聖なる悲劇の幕開けだ。

「な、に……?」
 始めに声をあげたのはロザリーだった。
「何を言ってるの? ドラクル」
 普段は明朗で躊躇ったりお茶を濁したりすることなど滅多にない彼女の声が、余人にもわかるほどはっきりと震えている。
 ロゼウスは凍り付いて動けない。
 他の兄妹たちも、みんな固まってしまっている。今聞いた言葉の意味が理解できない。兄は何を言いたいのだ?
「ロゼウスは……」
 俺は。
「第四王子、でしょ?」
 確認の声はどこか白々しく響いた。勘のよい者は先程のやりとりと今のこれで、ある事実に行き当たった。――だけどそれを、認めたくはなかったのだ。
 そしてロゼウスは。

 ――裏切ったな、クローディア。
 ――ええ。裏切りましたわ。それが?
 ――ふざけるな。貴様はとんだ売女だったな。まさか私を裏切り、フィリップと通じていようとは。
 ――ヴラディスラフ大公は素晴らしい方でしたわ。さすがあなたの弟君です。

 いつだ? この会話を聞いたのは。
 知りたくない。思い出したくない。耳を塞ぐ代わりに繋がれた手に縋ったのだけを覚えている。
 父様と母様が怖い顔で声で言い争っていた。その光景から目を逸らして繋いだ手の暖かさだけを感じていた。
 兄様。
 あの日までは優しかった。
「――……あっ、ぁあああああ!!」
 脳が飽和しそうになる。突然叫んだロゼウスの様子に隣にいたシェリダンや周りの兄妹たちも驚いて口々に名を呼んでくる。
「ロゼウス!?」
「ロゼ!」
「兄様!」
「――ロゼウスっ!」
 一際強く名を呼んで、蹲ったロゼウスの腕を誰かが引き上げる。紅い軍服の胸元に抱き寄せられると、藍色の髪が視界に映った。シェリダンだ。
「思い出したかい? ロゼウス」
 ドラクルはまたあの哀しい、切ない眼差しでロゼウスを見つめてくる。シェリダンの腕の中に抱かれながらロゼウスはその兄の方を見て言った。
「……思い、出した」
 あの時は全くわからなかった言葉の羅列が、今、ドラクルの言葉の意味と重ね合わさり一つに解け合う。
 そして何よりも残酷な事実を浮き彫りにした。
「ドラクル、あなたは……あなたたちは」
 そう、これはドラクル一人だけの問題ではない。
 何故、第四王子であるはずのロゼウスが第一王子と今呼ばれるのか、その訳は。
「アンリ」
「ドラクル?」
 ドラクルはすぐ下の弟であるアンリの名を呼んだ。続いて、他の兄妹の名も。
「ヘンリー」
「ドラクル兄上?」
「ジャスパー、エリサ、それにルース、そしてメアリー」
 ロゼウスには決して向けられる事のない愛おしげな瞳でドラクルは名を呼んだ彼らを見る。
「私とお前たちはね」
 慈しみの眼差しで微笑みながら絶望を突きつける。
「ブラムス王の子では、ないのだよ」

「――っ!?」

 一瞬、世界から音が消えた。夜の闇も風に揺られた木々の葉擦れも、何もかもが遠かった。
「な……」
「え……」
 自らと言う存在の根底を覆す、そのあまりの衝撃に言葉もろくに出てきやしない。
「どういう、ことじゃ」
 厳しい顔つきでドラクルに攻め寄るのは名を呼ばれなかったアンだ。
「ドラクル、何を言っておる。お前たちが王の子ではないなどと」
「本当のことだよ、アン殿下。私はブラムス=ローゼンティアの子どもではない」
「では誰の子じゃというのだ!」
「フィリップ=ヴラディスラフ」
「!」
 全ての物事が一つの糸で繋がった。アンリが、ヘンリーが、ミザリーとミカエラが息を飲む。
 そういう、ことだったのだ。
「叔父様がお父様を裏切っていたの!?」
 悲鳴のようなミザリーの声。
「そういうことだよ、ミザリー姫」
 ドラクルはもう、王族だと確約された兄妹を親しげには呼ばない。先程名を呼ばれなかった、つまり王の子である彼らは自分の弟妹ではないと。
 誰もが青褪めてその言葉を聞いている。
「我が父はフィリップ=ヴラディスラフ大公爵。私は、ブラムス王の子ではない。だから、王の血を引く者、アン、ミザリー、ロザリー、ミカエラ、ウィル、そしてロゼウス。お前たちの兄などではないのだよ」
 そして第一王子ドラクル、第二王子アンリ、第三王子ヘンリーというロゼウスの兄だと思っていた人々は軒並みその立場から外れるなら、それでは第四王子だと思われていたロゼウスが実際は第一王子であるのか。
 でも。
「それでも、ロゼウス兄様はあなたの弟でしょう!」
 ロゼウスの代わりにミカエラが叫んだ。
 彼もちゃんと王の血を引く子どものうちの一人だ。ただ、ロゼウスより年下だから第一王子と呼ばれなかっただけで、実際はでは彼が第二王子になるのか。そんなどうでもいいことを考えた。
 ミカエラが言う。
「だって父親は違っても、ドラクル兄様とロゼウス兄様は同じノスフェル家のクローディア王妃の子どもでしょう!?」
 そうなのだ。例え父方が違ってもロゼウスとドラクルは同母の兄弟。だから、片親が違ったところで実の兄弟であることに変わりはない。
けれど悲鳴のようなその声を受けて、ドラクルは……これまでずっと、兄だと思い続けてきた人は凄絶に笑う。
「残念なことに、私は母親もクローディア王妃ではないんだよ」
「えっ!?」
「私の母は、貴族の称号すら持たないただの王妃仕えの侍女。あの頃、ブラムス王との間に子が出来ず、逆に自分と後宮内の権力を争っていたライマ家の第二王妃よりもどうしても早く子どもを生みたかった彼女は、無理な計画を立てた。ヴラディスラフ大公と侍女の間にできた子どもを、自らの生んだ第一王子だということにした」
 それがドラクル。つまり。
「私はノスフェル家の出ですらない。……ああ、安心していいよロゼウス。ルースはちゃんと、クローディア母上の子だから片親だけでもお前の姉だ」
 ドラクルの隣にいたルースがそっと顔を伏せる。
 誰も、何も言えなかった。
 では、ではここにいる元第一王子は。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。否、ドラクル=ヴラディスラフという人は。
「そうだ」
 絶望に彩られた酷薄な声。わかったよ、ドラクル。何故あなたが俺をいつもあんな目で見ていたのか。あんな、墓石を見るような目で。
「私は、この場の誰よりも下賎で能力の低いヴァンピルだ」
 俺こそが、あなたに絡む荊の墓標だったのですね。


108

 真実がこれほどに残酷なものなら、いっそ夢に溺れていたかった。
 でも、それならきっと、俺よりもあなたの方が。
「兄様……」
 ロゼウスはドラクルを見上げる。ロゼウスとよく似た顔立ちの青年は、酷薄に笑んで返す。
 おそらくロゼウスも彼も父親似だということなのだろう。ローゼンティア国王ブラムス陛下と、その弟であるヴラディスラフ大公フィリップ閣下はよく似ていた。
 その二人とも、もういない。
 ドラクルの策略によって、エヴェルシードに殺されたことは確定情報とされている。フィリップ大公がどのような最期を迎えられたかは不明だが、ロゼウスは父の最期を知っている。
 ロゼウスと剣を合わせていたシェリダン、その肩越しに、エヴェルシードの将軍が父を殺した瞬間をこの眼で見た。足元の地面が崩れていくように感じて、もう戦えなかった。
 あの惨劇は全て、ドラクルが仕組んだものだったのだと言う。
「兄ではないと言ったはずだ」
「それでも、兄様です。ドラクル。あなたは俺の、兄様です。……十七年間、そう思って生きてきました」
 兄上、兄上、兄上。
 誰よりも大好きな兄上。
 どんな目に遭わされてもそれに不満を覚える自分の方がおかしいのだと痛みを押し殺し、精神防衛を歪な愛情にすり替えてまで側にいて欲しかった兄上。
 愛していると錯覚し、愛して欲しいと切望したのは父上でも母上でもない、ただあなたに、だ。
 けれど。
「私はお前を弟だと思ったことはない」
 あまりにも穏やかにそんなことを言う。
「兄上」
「違う、ロゼウス。私はお前の兄などではない。そしてお前は私にとって」
 墓標。
 はかじるし。
 どれだけ兄妹の数が多くとも、玉座を継ぐべきはたった一人だ。ロゼウスたちはみんなずっと、それはドラクルなのだと思っていた。
 けれど、そう思われていた当の本人、ドラクルにとっては違ったのだ。
 正妃の息子であり、本当のブラムス王の子。ロゼウスが生まれた瞬間からドラクルには存在意義が亡くなったというのなら。
 紛れもなく、ロゼウス=ローゼンティアはドラクル=ヴラディスラフの墓標。
 自らの墓石を見る目ならば、彼がロゼウスを見るたびにどこか切なく憎悪の入り混じった目をしていたのにも頷ける。
 さぞや忌々しかったでしょう。
 ドラクルはロゼウスから視線を少しずらし、いまだロゼウスを抱きしめている腕の主に告げる。
「何故、私が国を滅ぼそうとしたか、これで納得がいったかい? シェリダン王」
「……ああ」
 煌々と燃える炎のような瞳でシェリダンはドラクルの笑みを睨み付けた。
「最初は父上が私にくれると言っていたものを、くれないとわかった。だから自分で貰いに行ったんだよ」
「なるほどな」
「あなたにはわからないかな? シェリダン王。軍事国家にして男尊女卑の傾向が強いエヴェルシード王国では、正妃の血筋など男児であることの二の次――カミラ姫もお可哀想に」
 正妃の血筋を厚遇するローゼンティアとは違って、エヴェルシードではまず第一に男児である事が王位継承の決め手になる。庶民の王妃から生まれた息子であるシェリダンが王になるなど、これがローゼンティアだったら考えられないことだ。正妃の子どもであるカミラを差し置いてなんて。
 ドラクルの口から出たその名に、ロゼウスとシェリダンはハッと同時に顔を上げた。そういえばあの御前試合の折、カミラはアンリたちと共謀するように登場したのだった。だったら彼女までもが、ドラクルと……。
「カミラも貴様と手を組んでいるというわけか」
 答えるように、ドラクルがその笑みを深くした。ドラクルとその他の兄妹、ハデスにカミラ。一体どれほどの人間が、吸血鬼が、それぞれの思惑で手を組んだのか。
 ローゼンティアの王位を奪う事が目的だと言い放ったドラクルと、皇帝陛下を害することを企んだハデス。それにシェリダンとロゼウスに恨みを持っているカミラが加わって、一体何を成そうとしているのか。
「その通り。何せ私と彼女とは、目的が同じものだからね」
「目的?」
「ああ」
 シェリダンがロゼウスを抱く腕に力を込める。彼の怒りや動揺や、そんな様々な感情の揺れがロゼウスにも直接伝わってくる。
 当たり前だ。今までの話から言えば、ドラクルは自らがローゼンティアの玉座につくために隣国であるエヴェルシードを、その王たるシェリダンを、上手く利用したことになる。シェリダンはその彼の手のひらの上で躍らされていただけに過ぎないなどと、恐ろしく矜持の高いシェリダンに認められるわけがない。
 歯噛みするのを堪えるシェリダンに向けて、ドラクルは言った。
「そう。私と彼女の共通の目的」
 彼は優雅に、嫣然と笑む。
 笑って笑って笑いすぎて、この世と自分を嘲り笑いすぎてそれ以外の表情を忘れてしまったかのような笑み。
 そして禍々しく青い薔薇のような満月の闇夜に浮かぶ白い手を、すっとこちらに向けて差し出した。

「ロゼウスを返してもらおうか? シェリダン=エヴェルシード王」

 ロゼウスは咄嗟にシェリダンの胸にしがみついた。ドラクルはそんなロゼウスの様子でさえ笑ったまま見つめている。
「いきなり何を言い出す? ローゼンティアの王位が欲しいだけならば、もはやお前にとってロゼウスは不要どころか邪魔なだけの存在だろう?」
 抱きしめたロゼウスの体を離さないまま、一度は収めた剣をシェリダンが再び抜いてドラクルへとその切っ先を向けた。多少距離があるため威嚇程度にしかならないが、攻撃の意志を伝える分には十分だ。
「そんなこともないよ。シェリダン王。そこまでしなければ、私の復讐は完成しない」
「復讐」
 鸚鵡返しに呟いたロゼウスへと、ドラクルが視線を向ける。
「そう、復讐だ。私があの方に奪われたものを、あの方のれっきとした息子であるロゼウス――お前から返してもらう」
「奪われたもの、って……?」
 ロゼウスは思い出していた。
 白い背中に穿たれた蚯蚓腫れ。明らかに鞭で打たれた傷。彼の部屋で待っている時に何度か見たその光景。
「私があの方の息子でないことは、あの方自身をも追い詰めたようだ。だからって、こんなのは理不尽だろう?」
 私だけが辛い思いをするなんて。だから与えられた痛みを世界に返してやろうと思って。
 そしてこの十七年、ロゼウスにとっての世界がドラクルであったのなら。
「私の親愛なる他人殿――ブラムス国王陛下に」
 ドラクルの世界は父上だったのだ。
「ドラクル」
「おいでロゼウス」
 差し出された白い手をロゼウスは凝視してしまう。狂的な澱んだ光をその血の色の瞳に湛えて、ドラクルは甘い声で誘う。
「本当の第一王子、王位継承者であるお前が私のものとなるならば、ブラムス王にとってこれ以上の皮肉はない」
 一歩踏み出そうとしたロゼウスの体を、シェリダンが引きとめる。
「シェリダン!」
「どこへ行く気だ! お前はまたあの男に虐待されて偽りの愛に縋りながら生きていくつもりなのか!?」
「……っ!」
 言葉が胸を裂いた。
「で、も」
「でももだってもない。お前はすでに私のものだ。離れることなど許さない」
 朱金に輝く、炎そのものの瞳がロゼウスを睨む。
「でも、シェリダン……ドラクルが……」
 堪えていた涙が、とうとう堰を切って零れ落ちる。その雫は透明な雨粒となってぽつぽつと下生えを濡らす。長靴についた泥を洗う。
「駄目だ」
 復讐だと兄は……否、兄だと思っていた人は言った。ロゼウスの父親、ローゼンティア王への復讐だと。彼はもういないのに。
 相手が死してなおその憎しみに囚われているあの人を、どうしたら。
「俺の……俺が……」
 どうしたら、自分に彼の傷を癒す事ができるんだ。

 あなたの涙の湖に沈む王家。
 涙の湖の底の王家。
 どれだけ泣けば、救われるのでしょうか。
 そんな日は、永久に来ないのでしょうか。

「ドラクル、幾つか質問に答えてもらおうぞ」
 その時、割り込んだのは女の声だった。

 ◆◆◆◆◆

「なんだい、アン。君も親愛なる他人殿よ」
ロゼウスに差し出していた腕を戻して、ドラクルは唐突に声をあげたアンに顔を向けた。ドラクルより一つ年下の姉上は、大公ではなく王の娘。すなわち確実にロゼウスの姉である人だ。
 そしてドラクルからすれば従姉妹姫にあたる。
「そなたはロゼウスを手に入れることが父上への復讐になると言ったんじゃな。手に入れる、とは、具体的にどうする?」
「アン?」
「姉上?」
「アン姉様!?」
 これまでの会話の流れをぶった切る、突拍子もない問に他の兄妹たちも素っ頓狂な声をあげた。
「具体的に、か。そこの王様と同じことだよ?」
「同じこと?」
 指差されたシェリダンが、眉根を寄せる。同じこと、の意味が彼もロゼウスたちも咄嗟には理解できない。
 何かに思い当たったらしいアンリが、半信半疑と言った様子で口を開く。
「それってつまり……女装させて妻にするとか、そういう」
「そういうこと、だよ」
 こともなげに頷いたドラクルに、驚愕の視線が集まる。
「薔薇の王国にとって、ロザリア=ローゼンティアの血は絶対。王の血筋は維持しないと、ね」
 皮肉気に笑む彼がそれをさらさら尊重する気などないと丸分かりの態度で告げると、アンは臆する様子もなく彼にと歩み寄っていった。
「そうか。つまり、王の血の証明が欲しいのじゃな?」
「ああ。全くの無から始めるには、我等が祖国は信心深過ぎる」
「王家の姫を娶ってその子を生ませれば、王の血を存続したままそなたの生の意味を、その血を混ぜることができる。それが例え見せ掛けだけでも」
「ああ」
 狂ったとしか思えないことを言うドラクルと、同じような表情で微笑んでアンは言った。

「ならばこの胎、貸してやろうか? ドラクル」

「姉上っ!」
「アン!?」
 ドラクルがパチリと瞬いた。
「正気かい? もと妹殿……第一王女アン殿下」
「もちろん正気だとも。何、わらわはただ、これからも王族に戻りたいだけよ。名目だけの第二夫人であろうと、市井にあるよりはそなたの妾として反乱後の王家に収まったほうがいい暮らしができるであろうからな」
 何故か嘘だと、その目を見ていればわかってしまった。
 ああ、そうかアン姉様、あなたはドラクルのことが……。
「アンお姉様!?」
「ちょっと! 何よそれ!」
 ミザリーとロザリーが憤慨したように叫ぶ。その二人とはまた違った様子で、ルースが密やかに顔を顰めるのも目に入った。
「アン……」
 男兄弟の反応も様々で、ヘンリーは蒼白になっている。アンリはただただ呆然とし、まだ幼いウィルやエリサにはその言葉の意味すらわからなかったようだ。
「良い提案じゃろう? ドラクル兄上よ。単にロゼウスに女の召し物を着せて人形のように妻とするだけでは埋められない部分を、このわらわが埋めてやると言うのじゃ」
 そうすればローゼンティアの血筋は、名だけでなく実も共にドラクルのものになる、と。
 男であるロゼウスがドラクルの妻になる代わりにその子として子どもを生んでやると言った第一王女アンは、第三王女ミザリー程ではないもののその美貌で知られた顔に笑みを浮かべる。
 ドラクルが身を折った。先程の冷笑とはまた別の意味で笑っている。
「くくく、はははははっ! 面白いよ、アン。まさか君がそれほど愉快な性格だったとはね」
「何とでも言えばよかろう。わらわはただ王家の暮らしに戻りたいだけよ。いつまでも逃げ隠れるようなことも、粗末な日常にも耐えられぬ。それに、どうせわらわはそなたからすれば従姉妹なのであろう? 関係を持ったところで、問題はないはずじゃろ?」
「確かにそうだね。私はヴラディスラフ大公と侍女の子どもで、君はブラムス王とテトリア家の王妃の娘。何も問題はない」
「だったら」
「待ちなさいよ!」
 さくさくと話を進めようとする二人に水を差すために、ロザリーが声を張り上げる。制止の意味を力強く叫んだ。
「第一王女アン殿下! お姉様、あなた本当にローゼンティアを、お父様たちを裏切ってドラクルにつくつもりなの!?」
「ロ、ロザリー」
「止めないでよミザリー姉様! だって、ドラクルにつくってのはそういうことでしょう!?」
 辺りの兄妹一同を見回して、ロザリーがそう確認する。
「ねぇ、みんな冷静になってよ! あたしたちはローゼンティア王族なのよ! ずっとそう信じて、そうであるために生きてきたんでしょ!?」
 王家の者として国民の血税で生かされる代わりに、その分だけの利益を国に還すために。本来王族とはそうあるべきだと。
「別にその王家が、何もかもブラムス王のものでなければならないという規則もないと思うがな。民にとってはその指導者が優秀ならばそれで問題はない」
「アン姉様!」
「言いたいことをはっきりさせるか? ロザリー=ローゼンティア。そなたはこう聞きたいのであろう? ロゼウスとドラクル、どちらにつくのか、と」
「!」
 アンリの、ヘンリーの、ミザリーとミカエラの、ウィルとエリサの、そしてロザリーとアンの視線が一斉にロゼウスの方へと集まる。ついでドラクルを見て、最終的にはその間で迷うように揺れる。
「確かにローゼンティア家の血統を維持するのならば、本当の第一王子であるロゼウスが国を継ぐべきじゃな。だが、本当にその実力が、ロゼウスにあるのか?」
「姉様……」
「悪いがわらわには、幾ら誰とも知れぬ母を持つとはいえドラクルにその能力があることは認めてもロゼウスのことは血統だけで、後は認められない。わらわはロゼウスが帝王学のどこまでを実践できるかなどさっぱり知らぬからな」
「……一理、ありますね」
「ヘンリー兄様! ロゼウスは!」
「わかっているよロザリー。確かにロゼウスは優秀かもしれない。けれど、私たちは幼い頃からドラクルが次期王になる、それだけを信じてここまで来てしまったんだ」
「でも、そんな……っ、だってロゼウスは……!」
 自分よりかなり年上で優秀な兄姉の意見に押されかけ、ロザリーが泣きそうになる。
「ロザリー、大丈夫だ。別に俺は構わない」
「ロゼウス!」
 すぐ下の妹の顔がくしゃりと歪む。今にも泣き出しそうなその顔に、ロゼウスは微笑みかけた。
 ああ、大丈夫。まだやっていける。
 彼女だけはいつも、ロゼウスの味方でいてくれる。助けられてばかりで、ロゼウスの方が不思議になるほど献身的にロザリーはロゼウスを守ってくれた。兄妹の幾人かが本当の兄姉ではないのだと知れても、ロザリーに関しては同じ父を持つ妹だった。……ロゼウスはそれだけで、もう十分だ。
 また何事か言いかけたロザリーが、ふとロゼウスの手元を見て口を閉じる。
「ドラクル。俺はローゼンティアはいらない」
 空いていた右手に、するりと滑り込んできた手のひらの感触が挫けそうになる意志を支えてくれる。
「そして、あなたと共に行くこともできない」
 親愛なる兄上よ。
 できれば、他の誰でもない自分の手であなたを救いたかったけれど。
「俺はもう、選んでしまったから」
 この手を。今、震えそうになる体を支えて立つこの手。先ほど、光に寄せられる蛾のように何も考えずドラクルの元へ下ろうとした自分を引き戻した、冷たく熱く強く、その上で脆く切ないこの指先。
 繋いだ手の先でシェリダンは小さく頷く。
 それに背中を押されるように、ロゼウスは宣言した。
「ドラクル=ヴラディスラフ大公爵。私、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティアはその王位継承権を放棄します」


109

 つまりは、俺が全てを捨てればいいんだ。
 いらない。本当に欲しいもの以外、何も。
 右手を包む温もりを強く意識し、それに支えながらゆっくりとその言葉を口にした。
「放棄……?」
 ドラクルの顔が歪む。
「ああ。俺は、ローゼンティア国王の地位などいらない」
 もともとそんな野心はなかった。他の兄妹だけでなく、ロゼウスだってドラクルがローゼンティア王になることを信じ、またそう望んできた。彼以外の王など考えられないほどに。
「俺はローゼンティア王にはならない。あの国にも……戻らない」
 懐かしさや慕わしさは今でももちろんこの胸にある。けれど、ロゼウスにとって一番は国でも、民でもなかった。ロゼウスの領分で守れる分には守りたかったけれど、ドラクルが父王への恨み憎しみを捨てて国を統治する気があるのならば、彼はロゼウスなどよりよほどいい王になるだろう。
 もともと誰もがそれを信じて疑っていなかったのだ。だからロゼウスが国に戻らずドラクルを王にするのは、今回の出来事をあるべき姿へと戻すだけだ。
「ちょっと待て、ロゼウス」
 しかしそんなロゼウスに待ったをかけたのは、傍で聞いていたアンリだった。
「ドラクルは大逆人だぞ」
「ここにいるみんなが黙っていれば、知られない」
「確かに、エヴェルシードが侵略してきたのが全て悪い、ということにすればな」
 アンリはロゼウスの隣にいるシェリダンにちらりと視線を走らせてから、険しい顔つきのまま続けた。
「けれど、彼が極めて利己的な理由のために国民を巻き込んで戦を起こしたのは事実だ。あの戦いで、何人が死んだと思ってるんだ?」
 彼はあまりドラクルと似ていない顔立ちを兄に向けて。
「ドラクル、俺たちは、あんたをローゼンティア王と認めるわけにはいかない」
「ではどうする? アンリ。我が弟よ」
 ロゼウスの事は弟ではないと言い切ったドラクルは、アンリには穏やかな声音で弟だと呼びかけた。その穏やかさに、元第二王子アンリは顔を歪めた。ドラクルの弟であるということは、彼もまたブラムス王の息子ではなく、ヴラディスラフ大公フィリップ閣下の息子だと思い知らされることなのだから。
「もう……やめてくれ、兄上。こんなことはやめて、国へ帰って罪を償おう。俺も手伝うから。父親も身分も関係ない。俺は、あなたの弟だから」
 たぶんドラクルがヴラディスラフ大公の息子だとしても、母親の身分を考えればアンリの方が身分が上だろう。
 ヴラディスラフ大公爵。ドラクルが今名乗っているその地位すらも、彼にとってはあやふやなもの。
 それでも彼はドラクルについていくつもりだ。
「ロゼウス。俺は、お前のように簡単には割り切れない。自分がブラムス王の息子じゃなかったなんて天地がひっくり返るほど驚いたし、ドラクルのことについても吃驚だ。でも、だからこそ、俺たちは考えなきゃいけないんだよ」
 王族だから。
 国を治める者として、実際はその血筋ではなくてもそのつもりでそのために育てられたのだから、彼らはそれに報いねばならないと兄は言う。
いや……もう、アンリもヘンリーも「兄」じゃないんだ。
「アンリ兄様」
 彼は緩々と首を横に振った。
「ドラクル、俺も一緒に行くから、だからどうかローゼンティアの国と民に償ってくれ!」
「私は反対だ」
「ヘンリー!?」
 エヴェルシードと通じて王位簒奪のために祖国を滅ぼしたドラクルに、アンリは罪を償えと言った。しかし元第三王子であるヘンリーの意見は違うようで、落ち着いていながらも強い口調でアンリの言葉に反論を示す。
「やはり、ローゼンティアの王は兄上しかいない。ロゼウスが国に戻る気がないなら尚更だ。私は、ドラクルが王になることを支持する」
「ヘンリー兄様」
「この場合、それが一番穏便じゃろうなぁ」
「アン姉様」
 年長組はアンリ以外、皆揃ってドラクルを支持する。ルースに至っては、今更その意を示す必要もないという風情だ。彼女は盲目的にドラクルを支える顔の裏で、一体何を考えているのだろう。
「起こってしまったことはなかったことにはできまい。我らにとれる責任と言えば、今からでも犠牲を減らし国を再興するのみよ」
「でも、アンお姉様。ドラクルは……」
「王族の血がそれほど重要なものかえ? ミザリー」
「持っているに越したことはないと考えます」
「それに関しては先程も言ったが、わらわやそなたのようにブラムス王の血を引く者がドラクルの子を産んで次代の王権から戻せばすむ話じゃな」
「なっ! わ、私は絶対お断りですからね!」
「それ以前に二人とも! ロゼウスを裏切るつもりなんですか!?」
 ロザリーが悲鳴じみた叫びをあげてアンとミザリーのやりとりを遮る。
「ミカエラ! あんたは!?」
「え? ぼ、僕はロゼウス兄様を信じるけど、でも、誰がローゼンティアの王位につけばいいかなんて、そんなの……」
 わからない、とミカエラが眉を下げる。まだ十五歳の病弱な王子には酷な決断だ。ミカエラにとっては、ロゼウスもドラクルもこれまでほとんど立場の変わらない兄だったはずなのだ。ロゼウスとドラクルは同じ正妃の王子だったはずなのだから。
 ましてやウィルやエリサなど、もう話にもついていけないようだ。
「……なの?」
「エリサ」
「もう、みんなでいっしょにいるっていうのは、ダメなの?」
 末の王女の言葉に、その場にいた面々が一斉に彼女に注目する。
「エリサ、今までの話、どこまで……」
「わたし、やだよ。みんなの話、むずかしくてよくわからないけど、でも、……ドラクルおにいさまもロゼウスおにいさまも好きだもん! みんなでいっしょにいたい!」
 絡まりあった血の行方。それが分かつ、それぞれの運命。
「ねぇ! なにがダメなの!? どうしてみんなでなかよくできないみたいなの!?」
「エリサ、エリサ、僕らは……」
 彼女の側にいた末の弟のウィルが歳の近い妹をきつく抱きしめる。
 ドラクルが、ルースが。
 アンが、アンリが、ヘンリーが、ミザリーが。
 ロザリーとミカエラ、それにジャスパーが。
 この場で自分はどう言えば良かったのだろう。
 たぶん何を言っても、決着などつかない。誰もが納得する答えなんてきっと誰にも出せない。
「アンリ、妥協する気はないか? 今からでも遅くない。わらわたちと共にドラクルについてローゼンティアを復興するのじゃ」
「アン!」
「ふざけないでアン姉様! ロゼウスが、何のためにこの国に来たと思っているのよ!」
「黙りゃロザリー。ならば、そなたがローゼンティアを復興してみるか?」
「え?!」
 突然思っても見なかった方向に話を振られて、ロザリーが一歩その場から足を引いた。第一王女アンはそれまで突出した政治能力のある者とも思われてなかったが、こういった気迫はやはりブラムス王の血を直接引く者だと感じさせる。それはロザリーも同じだけれど、迫力だけで言うならば、この場では彼女は姉のアンには勝てない。
「そなたにその力と覚悟があるのならば何も言わんよ。そうでなければ、ドラクルの他に玉座にふさわしい人間がおるのか?」
「わ、私……私は――」
 戦慄く唇をきゅっと噛み締めて、ロザリーが決意の面持ちで顔を上げる。
 しかし、その言葉を遮るようにヴァンピルではない者の声があがった。
「――くだらん」
「シェリダン?」
 ロゼウスの手を掴んだままのシェリダンがその一言の元にこれまでのやりとりを一刀で切り捨てる。たちまち、辺りの空気が刺々しいものになった。
「なっ」
「エヴェルシード王! 貴様っ……!」
 気色ばむヘンリーたちを冷めた酷薄な眼差しで睥睨して、彼は口を開く。
「次代の王など関係ない。ローゼンティアは我がエヴェルシードの手によって滅び――そして復興することなどないのだから」
「エヴェルシード王、お前っ!」
「私はロゼウスを手放すつもりはないし、そう、それに」
 シェリダンが意味深に言葉を切ると同時に、ルースの悲鳴が上がった。
「ドラクル!!」
 それまで一切会話に交じらなかったジャスパーが、ドラクルに向けて剣を振り上げていた。
「我らだけでなく、ドラクル王子の死を願う者はいるようだしな」
 複数の影が同時に動いた。

 ◆◆◆◆◆

「そこをどいてはいただけないでしょうか?」
「お断りいたします。ローゼンティア第五王女、メアリー殿下。ああ、本当はローゼンティア貴族、王弟ヴラディスラフ大公の娘君でしたかしら?」
 目の前にいるのはエヴェルシード人の美しい少女。
 背後に控える王権派の青年貴族たちにすれば、その容姿はかの国の少年王と似ているのだと言う。エヴェルシード国王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードに。
 けれど今、彼女たちの道を塞ぐこの者は間違いなく女性。華奢な肢体と波打つ長い髪。宵の濃紫をしたその髪が白い肌を引き立て、その中で一際眩しい黄金色の瞳が輝く。
 美しい少女。
 美しくて、そしておぞましい女性だとメアリーの眼には映る。折れそうに細いその身体に何を秘めているのか、どこか禍々しい印象を与える少女。
 しかも、その気配はどこか、吸血鬼と似ているように感じる。
「わたくしたちは貴国に危害を加えるつもりはございません。どうかここを通してください」
「お断りします。今、向こうの森では大切な御用が行われているはずですから」
 皇帝陛下の訪問にあわせて宴を開いたエヴェルシードに潜入したメアリーと王権派の貴族たちだが、問題が生じた。晩餐会では混乱に次ぐ混乱でロゼウスを奪還できなかったということもあるが、それ以上に大変なのはその場でドラクルの姿を見た者がいるということだ。
 エヴェルシードの将軍と国内の裏切り者の貴族から追われたメアリーが王権派と名乗る者たちに助けられ、その彼らから聞かされたこと。それは彼女の兄、ヴァンピル王国ローゼンティア第一王子だとこれまで目されていたドラクルが、国王ブラムスではなく王弟フィリップ=ヴラディスラフの息子であるという衝撃の事実だった。
 そして、彼は彼に味方する国内の貴族、ブラムス王を裏切ってドラクルの企みに加担したカルデール公爵やカラーシュ伯爵を手駒にして、ローゼンティアの転覆と王位を狙っていると言う。
 メアリーたちはそれを、本当の、正当なる第一王位継承者ロゼウス=ローゼンティア王子殿下に伝えるためにこのエヴェルシードに潜入したのだが。
「ここは通すわけにはいきません」
 宵闇色の髪をした少女が、彼女たちを足止めしている。王都から少しばかり離れたあの森の満月の下で、今、ドラクルがロゼウスに接触しているという情報を得たのに、それを裏付けながらも彼女たちを巧みに足止めするこの少女たちのせいでメアリーたちはロゼウスのもとへ赴く事ができない。
「諦めなよ、メアリー姫。君一人ならまだともかく、今はその背後の王権派の人たちをロゼウス王子に会わせるわけにはいかない」
 そう言って少女に味方するのは、淡い茶色の髪に灰色の瞳の少年だった。少女と同じような年頃なのに、この少年もどこか普通の人間とは違うように感じる。
それもそのはずで、メアリーは初めて会うがこの茶髪に灰色瞳という色彩を持つ人々は、ヴァンピルと同じく魔族の一種であるワーウルフだ。人狼の国セルヴォルファスの者だということだ。そして彼は人間の耳がある位置には何もなく、頭の上に獣の耳があるのが見える。
「ロゼウス兄様の名を呼び、わたくしの名を知るあなた、あなたは一体、どちら様です?
お隣のセルヴォルファス人のあなたも」
 何故、彼らが彼女たちの足止めなど行うのか。まず相手の素性を知らねば何も対策できない。少女の方はエヴェルシード人なので敵対した国家の者であるメアリーたちローゼンティア人を通すわけにはいかないというのがまだわかるが、何故ここにセルヴォルファスの人間が出てくるのだろう。
 考えられるのは一つだけ。
 目の前の二人は、今回のメアリーたちの国ローゼンティアで起きた事件、そしてそこから端を発する戦争に関わっているのだ。
「ご明察、偽りの王女殿下。確かに俺はセルヴォルファス人だ。名は……ヴィル、と言えばわかるかな?」
「――ドラクルのご友人の方、でしたかしら……」
 ヴィル、と言う名に聞き覚えがあった。もともと交友関係の広いドラクルだったが、それでもセルヴォルファス人はそうはいない。
 あの兄の、一筋縄ではいかない人々を味方にしてしまう力は王としての才能なのだと今まで思っていたが――それが全て、このためだと言うのなら……
 そしてもう一人の少女の方は。
「ドラクル殿下の命令により、ここは足止めさせていただきます。メアリー王女」
「……そういうあなたは、どなたです?」
「私はカミラ=ウェスト=エヴェルシード」
「なっ……!」
「エヴェルシード王の!」
 メアリーの背後にいる王権派の青年貴族たちがいっせいに動揺の声をあげる。
「エヴェルシード王の妹姫、ですか」
「そういうことになりますね」
 王の妹だと名乗ったのに真実忌々しそうな顔をして、カミラと名乗った姫君はなおメアリーたちの前に立ちふさがる。
「何故です? あなたがこの国の王妹殿下ならば、わたくしたちを邪魔する理由などないはずです。それともわたくしたちが、必要以上にことを荒立てるとでも思っていらっしゃるのですか!?」
「いいえ」
 明るい色の瞳なのに、凍えた眼差しで彼女は言いました。
「私は、シェリダンが憎い。だからあの男に復讐をするの。そして――」
 それまで整った人形のように酷薄な顔をしていた姫君は、ふと顔を綻ばせた。
 大輪の花のように、匂やかに美しく。
 そして毒のある――。
「ロゼウス様は返しませんよ」
 それはぞっとするような微笑。
「な、ぜ」
「あの方を愛しているから」
 この姫はロゼウスにどうやら恋心を抱いているようだ。エヴェルシードに連れてこられてからの兄と、この彼女の間に何があったのかメアリーには知るよしもない。
 ここに兄がいたら彼女の言葉に何を思ったのだろう。
「あなたはエヴェルシードの者なのに?」
「そういうあなたたちだって、ローゼンティア王族同士で争おうとしているのでしょう?」
 彼女は一歩、前へと足を踏み出した。
「ドラクル様の邪魔はさせませんよ? シェリダンを殺してエヴェルシードの介入こそ退ければ、ローゼンティアはあの方のものになりましょう」
「あなたはローゼンティアの王権をドラクルに渡す手助けをし、その見返りとして実の兄を殺してでもエヴェルシードを我が物とする気ですか」
「何か文句でも?」
「いいえ。あなたがエヴェルシードをどうしようとわたくしには関係がありません。ただ、ローゼンティアへの手出しは、このわたくしが許しません!」
「……おかしいですわね、ドラクル王子から聞いた話では、あなたは相当気弱な人ということでしたが」
「そういう人もいるってことだろ?」
 カミラ姫とセルヴォルファス人のヴィル様、二人に向けてメアリーは告げる。
「王族として生まれ育ち、そのために生きてきたわたくしから、今更民への愛情がなくなるとでもお思いですか?」
 侮るのもいい加減にしていただきましょう。
「そこをお退きなさい!」
 ハッとカミラ姫がようやく顔色を変えてメアリーを睨んだ。背後の王権派の貴族たちが戦闘へと動き始め、セルヴォルファスの少年が応戦しようと眼差しを険しくする。
 その時だった。
「きゃあ!?」
「っ!?」
「!!」
 ドラクルとロゼウスたちがいるはずの森のほうから、凄まじい轟音が響き渡った―――。


110

「なっ、結局何なの!?」
 事態は大混乱だった。ミザリーの疑問にロゼウスとロザリーと二人して答える。
「ジャスパーがドラクルに斬りかかったのと同時にユージーン候がそれを止めようとするルース姉上に斬りかかった」
「で、乱戦になったのを見かねて手を出そうとしたヘンリー兄様をイスカリオット伯が止めて、同じく動こうとしたウィルをバートリ公爵が止めたの」
「そ、そうですか……」
 そういうミザリーは咄嗟の反応だったらしく、その腕の中にミカエラとエリサを庇っていた。
 アンはこの大混戦に一瞬で参加できるほどの身体能力はない。一人、固まってしまっている。アンリは動こうとしたようだけれど、さすがに他の兄妹が迷いなく飛び出したのに比べれば反応が出遅れてしまい、やはりその場でたたらを踏んでいる。
 ロゼウスとロザリーの腕を掴んで止めているのはシェリダンだ。
「動くな。お前たちは一体どういった立場に立とうとしている?」
「シェリダン! だって……」
「私を敵に回すのか? それならそれで構わないぞ。ロザリー」
 見据えられたロザリーがきゅっと唇を噛む。ロゼウスのようにはっきりと寝返りじみた姿勢を見せるわけではないが、根が優しいロザリーはシェリダンたちエヴェルシードの面々と正面きって敵対することも、ドラクルたちローゼンティアの兄妹を冷酷に切り捨てることもできないようだ。
「全く、こんなところで登場だとはな」
 ドラクルがジャスパーに斬り伏せられることはなかった。
 シェリダンがその光景を睨む。ロゼウスも、他の皆も、彼の発言に釣られたように、一時的に目の前の相手との対戦をやめてそちらへと視線を集中させる。
「世話をかけてくれるね。ドラクル王子」
「ああ、すまないな。ハデス卿」
 ハデスの手に押さえ込まれているジャスパーを酷薄な目で見下ろしながら、ドラクルが言った。
 あの一瞬、剣を振り上げたジャスパーの元に一瞬でハデスが現れた。
 大預言者、冥府の王と呼ばれる彼は暗黒魔導の達人だ。ロゼウスたち魔族とはまた別の理で使われるその術なら、遠く離れた場所から様子を窺うことも、空間を移動して一瞬で姿を現すことも簡単だろう。
 だが、そのハデスの姿は血に濡れていた。
「ハデス卿? その姿は」
「ちょっと姉弟喧嘩」
「皇帝陛下と?」
 ハデスがデメテル皇帝と争った? 返り血ではなく、彼自身の血で濡れているハデスは平然とした顔でいるが、いつもの黒衣の下は怪我でもしているのだろうか。
「それはともかく、駄目じゃないか大公閣下。ここでこの子にあっさり殺されたりしたら、これまでの計画はどこにいっちゃうわけ?」
「まさか。いくら私が本当の王子ではなく、このジャスパーが国王の血を引く王子だとしてもさすがに負けはしない」
「そう? 君たちヴァンピルは血統によって大きく能力が左右されるんじゃなかったの?」
「それはあなた方人間だって同じことでしょう? 黒の末裔の方。家系による力の強さは確かにあるが、直系ではないとはいえ私の父は王弟フィリップ。ジャスパーの母はライマ家程度の生まれ」
「ふーん、じゃあやっぱり君の最大の敵は確かに王の子であり、母方の血筋も申し分のないロゼウスってわけ」
 ジャスパーの前髪を掴むようにして、ハデスがその頭を上げさせた。武器を奪われ、目に見えた怪我はないが何か痛めつけられた様子のジャスパーの顔が苦痛に歪む。
「ああっ!」
「ジャスパー!」
「にいさま!」
「ふん、さすがにまだ僕の方が強いか」
 捕まれているのは髪なのに、ジャスパーは喉の辺りを掻き毟っている。何かの魔術だ。
「――選定者の能力は、主の力の満ち方に関係する。ならば次代皇帝の覚醒は、まだもう少し先。デメテルの力も、衰えるのはもう少し先か……」
 その様を薄笑いを浮かべながら見て、意味のわからないことをハデスは呟いた。もがき苦しむジャスパーの頬に手を当て、耳元で小さく囁くのが聞こえた。それはロゼウスや兄妹の皆みたいなヴァンピルにだからこそ聞こえる囁きで、きっとシェリダンやクルスたちのような、人間には聞こえなかっただろう。
「言いなよ、宝石王子。どうしてドラクル王子を狙ったの? 君の立場ならドラクルとロゼウス、どちらを選ぶのかは明白。でも、それだったらドラクルを殺す意味、ないよね?」
「あ……僕、は……」
「ロゼウスには別の役目があるんだから、けしてローゼンティアの王にはならないし、なれない。君も同じだしミカエラ王子は病弱で話にならない……逆にここでローゼンティアの後継者を奪ったら大変」
 薄っすらと開かれたジャスパーの紅い瞳に、逡巡と後悔と寂寞と、それよりも強く澱んだ哀しい感情が見える。
「だって…………に、なったら、ロゼ兄様は……いられ、な、だから!」
 ジャスパーの途切れ途切れの言葉はロゼウスには理解不能だったけれど、ハデスには伝わったようだ。
「だからロゼウスを、……にさせるくらいなら国王として繋ぎ止めたくてドラクルを殺そうと? 君って考えが極端だねぇ」
 憐れむような眼差しでジャスパーを見て、ハデスは囁いた。その指先がジャスパーの首にかけられようと――。
「君の役目はここで終わりだ」
「ジャスパー!」
「ロゼウス!?」
 ロゼウスは飛び出して、ハデスに攻撃を仕掛けた。解放された途端、ジャスパーは気を失ってその場に崩れ落ちる。
 魔力を行渡らせて鋭く尖らせた爪をハデスに向かって突き出す。
「ぐっ!」
 いくら彼が無敵の魔力を持っていても、術を発動する暇さえ与えなければ――。
 ヴァンピルの身体能力に人間は勝てるはずがないのだから。
「がはっ!」
 男物の服で助かった。これなら自由に動ける。鳩尾に見舞った一撃で鈍い感触と共に骨の折れる音、何か――内臓の潰れる音がして、彼はごぼりと血を吐いた。
 そうだ。素手でも負けるはずがない。人間相手に、――人間如きに。
「くっ」
 呻く声に反応すれば、シェリダンがドラクルと剣を合わせていた。
「殺すなよロゼウス! 皇帝に貸しを作るわけには行かない!」
「わかってる!」
 叫び返す隙に反撃をしようとしたハデスの手をかわし、魔術で空気中に氷の刃を作り出したその一撃も避ける。
「ドラクル!」
「ロゼ!」
 それぞれの陣営が入り混じって戦局は混乱を見せる。誰が敵で誰が味方なのかももうわからない。
 アンとヘンリーは完全にドラクルにつくことを決めたらしくエルジェーベトを相手にしている。ルースを押さえる役目には、クルスとジュダだ。
 まだ迷っているのはアンリとエリサを守ろうとするウィル、ミカエラを抱いたミザリーは泣いている。
 横合いから援護の手が入った。
「ロゼウス! 大丈夫!?」
「ロザリー! 上だ!」
 ロザリーという援軍を得て、ロゼウスも先程より動きやすくなった。さらなる追撃に、さすがの帝国宰相ハデスの顔にも焦りが生まれる。流れた血が飛び散って視界を遮る。繰り出した蹴りを受けとめた腕ごと折った。ハデスが苦痛の声をあげる。
 その時だった。
「はいはい。そこまでにしてね」
 女性の声がした。
「っ! 姉さ……っ!」
 ハデスが顔色を変えて空を見上げると、月を背景に黒の女が微笑んで眼下の混戦状況を眺めていた。登場した時からハデスが血まみれだったのに比べて、こちらは掠り傷一つ負っていない。
「この私の目を一瞬でもくらますなんて、腕を上げたものねぇ、ハデス」
 これが世界皇帝の力と言うものなのか。
「でも悪戯は駄目よ。ハデス、ヴラディスラフ大公、シェリダン王。そして――」
 最後に、彼女はロゼウスの方を見た。その手に黒い光球を浮かべて。
「っ、全員伏せろォ――!!」
 彼女はその強大な力の塊をロゼウスたちに向かって投げつける。

 世界を揺るがす爆音が轟いた。

 ◆◆◆◆◆

 轟音は死を覚悟させるほどのものだったが、ロゼウスたちに実質的な被害はさほどなかった。
「まあ、こんなものかしら」
 デメテル陛下のそんな言葉と共に、彼らは皆して一斉に顔をあげる。
 森は焼け野原と化し、緑が消滅していた。地面は黒く焦げ付いて、服も手も、正面に見える相手の頬にも煤がついて黒い。
 一体どういう風に術を使うとこうなるのか、小さな怪我と汚れ程度なのに、大きな傷は誰も負っていない。結界と言うよりは、全員に守護の術でもかけたのだろうか。皇帝陛下の実力について、ロゼウスはよく知らない。
「う……」
「シェリダン、無事か?」
 ロゼウスは咄嗟に腕の中に庇った相手の無事を確かめる。
「……お前に庇われるなんて屈辱だ」
「ヴァンピルの方が丈夫だから……それより」
 見知った顔は幾つか減っていた。
「皇帝陛下、これはどういうことですか?」
「悪戯っ子たちにちょっとお仕置きしようと思ったんだけどね。逃げられちゃったみたい」
「逃げられた……って」
「シェリダン様、ロゼ様、私はあのドラクルという青年が、何か生き物を呼び出してこの場から脱出したのを見ました」
 ロゼウスの疑問に答えたのは、ミザリーを庇った格好のエルジェーベトだった。ミザリーの腕の中にはさらにミカエラがいる。
 それぞれジュダはエリサとウィルを庇い、アンリとロザリーはお互いに身を寄せ合っていた。
 そしてドラクル、ハデス、ルース、ヘンリー、アン、そしてジャスパーの姿は消えていた。
「後の奴らは、お前ではなくドラクルについていったようだな」
「……うん」
 ドラクルの衝撃的な告白により、ローゼンティアは二極化した。もともとそれぞれの王位に対する熱は弱かったから、兄妹たちは皆、すぐに自分がどちらの陣営につくのか決めたようだ。
 もっともそれは主にドラクル側の兄妹たちで、ロゼウスと共にここに残った妹弟たちと兄姉は、まだ迷っているようだけど。
 焼き尽くされた森の残骸に立って、月を眺める。
 誰も、何も声をかけてくる者はいなかった。口を開きかけたロザリーを、アンリが止める気配がした。振り返らなかった。
 けれど、すぐ側に近寄ってくる足音、体温の低いヴァンピルではない、温かな人間の気配。
「ロゼウス」
 手に触れるように、そっと滑り込まされたその指を握りこんだ。言葉が出ないのは彼も同じで、ロゼウスは吸血鬼の体温からすれば熱があるのではないかと感じるほどに熱いそのぬくもりに縋った。
 ドラクルの去っていった方角を眺め続ける。
魔術の爆発により一度は乾いたはずの頬が、また濡れる。
 はらはらと零れるのは、零したのは涙。
「……そんなに泣くと、涙の池で溺れるぞ」
 嗜めるように言って、シェリダンのロゼウスの手に握られていないもう片方の手が頬に伸びた。白い指先が涙を拭う。
 兄様。
 去って行った人のことを考えると、涙で溺れそう。
 俺は泣いていました。今までなんのために泣いていたのですか。俺は誰のために泣いていたのですか?
 それはあなたのためだと思っていた。でも。
 夢の中で自分が囁くのだ。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 流しても流しても枯れることのない涙が湖となって、溺れかけていた。苦しくてもがいて、必死で伸ばした手を《誰か》が掴んでくれた。
「兄様」
 幼子のように漏らすと、腕の中の指にきゅっと力が込められた。触れた手から、苛立ちとも切なさともつかない感情が伝わってくる。哀しい心地よさを共有したまま、ロゼウスは瞼の裏の湖に潜る。
 透明な湖の底に深く沈みこんで、ようやくそこに誰かがいることに気づいたんだ。救われたくてあがけばあがくほど、尚更水の中奥深く、俺は溺れていったんだ。
 そこにあなたはいた。そこにあなたがいた。
 兄様だけでなく、父上も母上も兄妹たちも皆。
 ああ、そうか。
 俺たちローゼンティアの王族はとっくに狂っていたんだ。誰も彼もが涙を流して、その涙が湖となって、湖の底で溺れていた。
 涙の湖底で溺れる王家。
 きっとエヴェルシードの侵略など一つのきっかけにすぎない。シェリダンですら、ドラクルに利用されていた。兄だと思っていた人の欲望は実の父親すら殺させ、それまで実父だと信じていたはずの義父すらも手にかけさせ、母親もそれ以外の大勢の民も殺させるほどのものだった。隣国を巻き込んでまで謀反を起こしたドラクルの狙いは――復讐。
 帝国宰相をも味方につけてのそれはきっと、復讐相手であるロゼウスを徹底的に破滅させるまでは終わらない。
 焼け付いた森の匂いが届く。
 祖国を亡くしたあの日は、もっと酷い匂いだった。焼かれた死体があげた最後の悲鳴のようだった。
 あの惨劇を生み出したのは自分なのだ。
 俺は――俺が生まれてきたからこそドラクルを狂わせた。
 兄様。
 俺はあなたを追い詰める気など、なかったのに。
 ごめんなさい。ごめんなさい。
 謝っても謝りきれないけれど、それでも。
「ごめんなさい……」
 蚊の鳴くような声で呟いた。
 この世に生まれたこと、あなたを追い詰めたこと、あなたにローゼンティアを滅ぼさせたこと、あなたの手をとらなかったこと。
 そして何よりも、あなたと共に生きることを選べないことを。
 いつの間にか東の空が白み始めて夜明けが近い。月は白く消え行こうとしている。
「ロゼウス」
「……シェリダン?」
 キュッと、爪の先が当たってちりりと皮膚が痛むくらいに強く、シェリダンはロゼウスの手を握った。
「―――殺してもいい兄妹を選べ」
 あたりから動揺の声があがった。
「シェリダン!?」
「何を言ってるの!」
「シェリダン様!」
「エヴェルシード王!?」
 彼は冷静に答えた。
「ここにいない奴らは皆、ドラクルの味方でありお前の敵となった。ここにいる奴らはまだお前につくともわからない相手が多い。さぁ、どれほどの兄妹なら、お前は殺し、そして生かす?」
「……戦えと言うのか。俺に、兄妹たちと」
「ああ、そうだ」
 もう、それ以外の道はないのだと。
「事態はもうお前と兄だけの問題ではなくなった。お前が真実ローゼンティアの第一王子だと言うのなら、そしてあの男が王位簒奪者だと言うのなら」
 エヴェルシード王であるシェリダンはローゼンティアを滅ぼした。そのはずだった。だから現在はローゼンティアはエヴェルシードの占領下に置かれており、ドラクルがローゼンティアの王位を狙うと言う事は、彼がエヴェルシードを打倒してローゼンティアを取り戻すということ。
「ドラクル=ヴラディスラフは、我らエヴェルシードにとっても敵だ」
 王位を奪おうとする敵、そしてエヴェルシードを滅ぼそうとする敵。
「皇帝陛下、あなたとハデスは……」
「んー、私は好き勝手に動くわ。ハデスのことも好きにして頂戴。こちらの不利益は止めるけど、そうでないならねぇ。あの子も自分のやったことの責任は自分でとらなくちゃ」
 ハデスも敵に回った。そして。
「ロゼウス兄様、あの――」
「カミラ殿下もあの大公と繋がっていますよ」
 ミカエラが何か言いかけたところで、ジュダが言葉を挟む。
「ジュダ?」
「接触されたんですよ。自分の復讐に協力しろって」
「あんた、彼女とグルだったんじゃ!」
「そうよ! 思いっきり匿ってたじゃない!」
 アンリとミザリーが驚きの声をあげる。残りの面々、ミカエラやウィルもイスカリオット伯の涼しげな笑みを凝視していた。
「二重スパイって奴ですよ。ちなみにその通り、これまでこの王家の方々を匿っていたのは僕です。彼女と協力して、ね」
「イスカリオット伯!」
 咎めるようなクルスの声に彼は肩を竦める。
 本音を見せない道化じみた仕草をする、彼は果たして敵か味方か……
「お返ししますよ、ですから。まあ、ここにいるのは最初の時の三分の二になっちゃいましたけど」
「…………わかった」
 この場で彼の言葉の真偽を図ろうにも全員が疲労しすぎている。とりあえずは王城に戻らねばならないとシェリダンはその話題を一度納めた。
 煤を払って全員が立ち上がる。
 皇帝陛下が一足先に魔術で姿を消した。
 朝日が昇ろうとしている。陽光に当たると力の弱まるヴァンピルにそれはきつい。一刻も早く戻らないと。
 だけど、シェリダンがロゼウスの服の袖を掴んで止めた。
「戦争を起こすぞ、ローゼンティアと、再び」
「あ――」
 ドラクルがローゼンティアの玉座を狙い、その国土と民を手に入れるためにエヴェルシードの崩壊を狙うならば確実にその道を選ぶのだろう。
「だが、それでもお前は私のものだ」
「シェリダン」
「次の国王が私のものなのだから、やはりあの国も私のもの。あんな男になどやるものか」
 言って、彼はロゼウスの頬に手を伸ばす。
「絶対に、誰にも渡しはしない」
 それはローゼンティアという国について言っているのか、それとも――。

 皇帝が破壊の力を向けたあの瞬間、ロゼウスはロザリーでも他の兄妹でもなく、ドラクルでもなく、この少年の手を取っていた。
 その理由はきっと、ただ単に一番近くにいたのが彼だったからなんて理由ではなくて。


111

 召喚した移動用の竜の背で、一つの幕間劇。
「まさかお前がこちらの陣営に入るとは意外だったよ、ジャスパー」
 下から二番目の弟は、四方から剣と敵意を向けられながらも平然とした顔でそのそれを受け流した。だいたいドラクルたち程度の力のものなら、本気を出した彼には勝てないだろうという計算があるのかどうかまではわからない。
 眼下で皇帝の力に晒された森が無惨な姿を晒しまだ燻る煙をあげていたが、そんなこと知らぬげに飛竜はドラクルの命令どおり北へと向かう。潜伏先を新たに確保せねばならない。こうなってはもうイスカリオット伯の協力も表立っては得られないだろうし。
「ドラクル兄上こそ、あなたに剣を向けた僕を殺さなくて良いのですか?」
「今になって協力するくらいなら、最初からあの時剣など向けて来なければ良かったんだよ」
「仕方がありません。あの時はあの時で本気だったのですから。今こうして僕があなたに対して協力を申し出るのは、あの一件であなたには勝てないと悟ったため。帝国宰相殿まで味方につけたあなたが、容易く死んでくださるはずもない。ですから敵の敵は味方、僕と協力しませんか? 兄上」
 この弟……だと思っていた少年は初めからこんな性格だっただろうか。
「冷静に狂ってるねぇ」
 ハデスが傍観者の表情でそう評する。
「いいよ、ジャスパー。けれどそれは、お前の望み次第だ」
 女性であるアンとはまた別の意味で、ローゼンティア王の血を引く者の力は必要だ。ジャスパーがそれを差し出すというのであれば、自分は何でも利用して見せよう。
「望みは?」
「ロゼウス兄様をローゼンティアに繋ぎとめること」
「それだけ?」
「そうです。あの方はあの国にいなければならない。――になど、なってはならない」
 肝心な部分を吐息のような囁きに変えて呟いたジャスパーの言葉は聞き取れなかった。しかし真剣な声音から、それが彼の本心であることがわかる。
 宝石王子の望みは、ドラクルの愛しくて憎いロゼウスを薔薇の国に繋ぎとめること。それにどんな意味があるのかはまだはっきりとさせなくとも良いが、やることだけははっきりとしている。
「私たちが勝てば、必然的にそうなる。あれは私のものだ。シェリダン王になどやらない」
 私のもの、と言った瞬間にジャスパーの顔が歪んだが、彼はそれに蓋をし、ドラクルも見ないフリをすることにした。
 今はそれよりも急を要することがあるのだ。
「ハデス卿、カミラ姫とヴィルの方は?」
「上手くいったって。王権派の連中皆殺しにして、メアリー姫を攫ったらしいけど?」
「ではヴィルにはまたシアンスレイトに戻ってもらおうか。彼にはまだやってもらわねばならないことがある」
「イスカリオット伯はそろそろ退陣かな。向こうにいる君のご兄弟たちから、今回のことに伯が噛んでいるのはバレバレだろうし」
「後は彼がどれほどの手腕の持ち主かによるね。ここでまだシェリダン王を信用させることができれば、あるいは……」
 彼が成功すれば、ドラクルの目的も段違いにはかどるだろう。王権奪取の証としてロゼウスを手に入れるためには、シェリダン王が邪魔だ。もともと都合よく使って後は消えてもらうはずの駒だった。そろそろ彼も舞台の上から消していいだろう。
 暗鬱とした想像だけがドラクルを癒す。気を抜けば過去へと、記憶だけが浮遊して還る。

 ――何故、お前は……ではないのだ。
 ドラクルの首を絞めながら叫ばれるその声。
 ――何故、どうしてお前は……っ、お前が私の息子ではないのだ! ドラクル!
 そんなこと、私が知りたい。
 
 ロゼウスが生まれて、用なしとなったドラクル。父は偽者の王子であるドラクルへのあてつけのために、ロゼウスの養育を兄とされているドラクルへと任せたのだ。
 馬鹿な義父上。あなたを敬ってもいない私がそうやって、ロゼウスをどういう風に、あなたに不利益をもたらすように教育をする可能性などすぐに考え付いたでしょうに。
 それともあの男は、ドラクルの謀反ぐらいなら簡単に収められると見くびってくれたものか。
 真実は闇の底の底。ドラクル自身が湖の底に埋めて、今更拾い上げる気もない。
 ドラクルが知っていたのは一つだけだ。その存在こそがドラクルの存在意義の全てを奪った、ロゼウスはドラクルのはかじるし。
 その墓を覆すためには、自分こそが彼を手中に収めなければならないということ。
「私は決して……誰かに私の墓を勝手に立てられたくはない」
 願いはいつも遠かった。
 例え道具としての生しか望まれず、母上から義父上へのあてつけのために生まれても。
 私はただ――。
「兄上?」
「……なんでもないよ、ヘンリー」

 生きたかった。ただそれだけだった。
 この生まれが何を得るものではなくとも、祝福などされなくとも構わない。
 それでもいいから求めた。それ以外はもういらない。
 愛情も幸福も望まない。
私は私に未来永劫与えられることはない、その薔薇の玉座を望む。
「ロゼウス……本当の第一王子よ、義父上の血を引く、本物の王の後継者よ。――お前を手に入れれば、ローゼンティアが手に入る」
 あの日、王位はロゼウスに継がせるのだと当然のように奪われた権利を取り戻す。
 そうでなければいずれはドラクルの存在ごと奪われてしまうものだから。だから。
 薔薇の王子を踏みにじる復讐の果てに、それだけをただ、求めた。


 《続く》