098

「裏切ったな、クローディア」
 男はそう言って、妻の首筋に剣を突きつけた。女の優雅にして繊細な印象を与える細い喉首に、一筋の朱が走る。室内に一瞬香った鉄の香りは、えもいえぬほどに馨しい。
 そして女は嫣然と笑う。
「ええ。裏切りましたわ。それが?」
 だからどうしたと男の激昂をなんでもないように受け流して、さらりと女は言った。夕餉の時間に食卓を共にする息子に今日一日の成果はどうだったと尋ねるほど自然に、気がなく、うっすらと微笑みすら浮かべて聞き返した。
「ふざけるな。貴様はとんだ売女だったな。まさか私を裏切り、フィリップと通じていようとは」
「ヴラディスラフ大公は素晴らしい方でしたわ。さすがあなたの弟君です」
「殺されたいのか? その忌々しい口を閉じろ」
「私が何を言っても、殺す気なのでしょう? だったらせめて言葉を紡ぐことくらい自由にさせていただけません?」
「クローディア」
 名を呼ばれ、女の喉からはひくりと引きつった音が漏れる。
 あからさまな嘲笑いの響を乗せて、女は狂ったように笑い続ける。
「あははははははは! いい気味だわ! やっと、やっとあなたにそんな顔をさせることができた! これで私もこの国に、あの家に、生まれてきた甲斐があるというものよ!」
 女は笑う。
 狂ったように笑う。
 すでに狂っている。
 それを、男は憎悪の念の篭もる眼差しで見つめていた。
 裏切り者の女は、それでもなお弾劾をやめない。裏切り者の女は、自分の行為は当然だと正当化し、自分を裏切りに走らせた男を責め続ける。二人の間に愛情などと言うものはもはやなく、二人は夫婦であるのに他人だった。いや、夫婦だからこそ、他人だったのかもしれない。
「あなたは、いつも私を見ない」
「……ディア」
「いつもいつもいつも、政略結婚で嫁いで来た私に恥をかかせるほど蔑ろにして、あのアグネスだけを見ている。アグネスだけじゃないわ。マチルダだって、私以上に二人を可愛がってそうして満足なのでしょう」
「お前には十分な暮らしを約束している。望みのものがあれば、何でも与えた。屋敷も、使用人も、宝石も、美食も、衣装も、美しさを保つ薬液も、社交界の重鎮たちとの晩餐会も開いた。そこまでしてやって何が不満だ!」
 ついに、男は女を怒鳴りつけた。初めは鋭いばかりで冷たかった声音に、今は煮え滾るマグマのような感情が宿っている。
 男は嘆く。
 泣きはしない、けれど心が嘆いているようだった。どうしようもなく痛みを訴えている表情だ。その痛みすら隠して、歪な笑みを浮かべて男を罵り続ける女の首筋に剣を当てていた。
 女の白い喉からは、紅い雫がすでに鎖骨の辺りを濡らすほど零れている。けれど彼女はそれを気にした風もなく、ただ酷薄な微笑を浮かべて夫を見ていた。
 ここで殺されるのなら、それが本望だとでも言うように。
 女は間違いなく男を愛していた。そして同じくらいに憎んでいた。
 殺してやりたいくらいに、憎い。
 愛していると言えないほどに、愛している。
 だから裏切ったのだ。当然の報いだ。女はその表情で告げる。
 夫以外の男との間に子どもをもうけ、その子どもを厚顔にも堂々と、夫の子どもだと偽って育てさせた女の顔には母親としての情など全くなかった。彼女はその細胞の隅から隅まで、夫であった男への憎悪に囚われていたのだ。
「あの子、は」
 そこまで割り切ることのできなかった、愛してはいなかったが愛されているとは思っていた妻の裏切りを知った男は呆然と呟く。
「私の子では……なかったのか」
男は自室の応接用のテーブルに用意されていたワイングラスを、ふらつく体をそのテーブルに手をついて支えた拍子に倒す。毛足の長い絨毯に受けとめられてグラスは無事だったが、転がったそれは、女の足元まで届いた。
 男が買い与えた華奢な靴の爪先にあたったグラスを女は侍女を呼ばず、自らの手で拾い上げる。スプーンより重い物を持ったことがないと言われるその繊細な指先が、割れてはいないが小さく皹の入ったグラスを持ち上げ、それがまだ使えることを確かめてから絹の手巾で丁寧に拭った。
 男は気づかない。
 皹の入ったグラスを拭う女の口元には、また今までとは違った笑みが浮かんでいる。それは寂しげで切なげで、今にも消えそうな儚い幽鬼の未練だ。
 彼女の三人の子どものうち、二人は父親に似た。一番初めの息子と三番目の子どもである二番目の息子は父親に。そして二番目に生まれた一人娘は、彼女自身に似ていた。風が吹けば倒れてしまう可憐な花のような風情。それを美しいと見るか、鬱陶しいと考えるかは人それぞれの好みによるだろうと言われた容姿の、彼女と。
 女は満足だった。今更裏切りが明かされたところでなんだと言う。正妃の彼女を差し置いて夫が妾を作ってから、もう彼は彼女には必要最低限しか触れる事はなかったのだ。今回のこれで、もう完璧に触れることはなくなるだろう。だから。
 女は皹の入ったグラスを手巾で曇り一つなく丁寧に拭い終わると、それをそっと、まるで何か神聖な儀式でも行うようにテーブルの上に戻した。そして、代わりにテーブルに置いてあったワインの壜を手に取る。
「私が憎いのならば、どうぞ裁いてください。陛下」
 滾々と悲しみの泉は湧き出て、胸を溺れさせる。ああ、湖の底で、息ができない。
 男がテーブルに近付く。女がテーブルに近付く。
 男がワインボトルを持ち上げる。女がグラスを持ち上げる。
 男が壜の中身を注ぐ。壜自体の色は翡翠のような濃い緑だったが、流れ出た色は血のように紅い紅い葡萄酒だ。
 女は透明なグラスに、その紅い液体を受け取る。たぷたぷと硝子の杯の中で揺れる液体は、不自然なほどに美しい。
 そのグラスを、女は再びテーブルの上に戻した。
 そのグラスに、男が手を伸ばして、懐から取り出した何か紙包みを開き、白い粉を混ぜた。
 紅が揺れる。透明な硝子の世界のような器がその紅に染められ、水面は凪ぐこともなく揺れ続ける。
 毒杯。
 目の前で行われたそれをどう誤魔化すのか隠すのか煙に巻くのか。
 しかし、そんな必要はなかった。何故なら女は知っていた。それは男がこの女のためだけに用意したとっておきの美酒なのだ。責めるつもりも探すつもりも追求する気もないから放置し、白々しく微笑んで再び杯に指を伸ばす。
 白い指が、紅に染め抜かれるような幻視が一瞬目の前を覆った。しかしそんなことにはならない。あの紅は透明な硝子の中にあるのだ。硝子の壁で阻まれている限り、こちらが濡れることはない。当然だ。わかっていた。けれど幻視は女がその杯を煽った一瞬後に、現実となる。
 指と同じように細く白い喉を精一杯艶かしくのけぞらせるようにして、女はその酒を一息に飲み干す。致死量の毒が、その内部から焼いた。すぐさま拒絶反応が起こり、女は胃の内部から競りあがってきた大量の血液と共にその液体を吐き出した。
ガシャンとけたたましい音がしてグラスはその手から取り落とされ、ふらついた彼女がぶつかったせいでテーブルの上の、まだ半分以上中身の残っていた壜までもが倒れた。
 紅に、濡れる。
 アイボリーの絨毯も、女の薄青いドレスも、白い指先も、薔薇色の唇も、何もかもがその紅に染め抜かれている。禍々しいほどの紅に包まれて、女は数瞬、命を失う。
「……クローディア」
 男が声をかけると、女は緩慢な仕草で顔を上げて彼を見つめ、言った。
「これで一度、死にましたわ」
「ああ」
「いくらノスフェル家の者だと言っても、私にはもういくらも再生能力がありません」
「ああ」
「次に死んだ時が、この命の終焉となりましょう」
「ああ」
 哀れな吸血鬼よ。
 人に近付くためにいつの間にか退化した翼の一族よ。
 彼女は口元を緋色の凄惨に染め抜き。
「次にあなたが裏切られた時が、私の《死》となりましょう」
 あまねく憎悪と寂寞と後悔と欲望を抱えて、還らない死人。
「ああ」
 男は、凪のような声音で小さく頷いた。
 テーブルの上で倒れた葡萄酒の壜は、血のように紅い水溜りを作り、その雫をいつまでも床へと零していた。じわじわとその紅いかいなは広がっていく。獲物を絡めとる蜘蛛の巣の執拗さで、床を這う。

 それはさながら、紅涙のように。


099

「皇帝陛下がいらっしゃる?」
「ああ」
 ロゼウスはその話を、練兵場でシェリダンとの剣の稽古が終わった直後に聞いた。兵士たちの休息と同時に彼らも休憩をとり、水の入った器を片手にシェリダンの言葉に耳を傾ける。
 ロゼウスとシェリダンの距離は微妙なままだが、前のように監禁されることはなかった。その代わり、何か特別じみた言葉をかけられることもなくなった。ただ、シェリダンの求めるままに体を差し出す日々が続いていた。そしてその一方で、ロゼウスはエヴェルシードに来てから放置状態になっていた剣の稽古を再開させられた。
 それはシェリダンにとって、諸刃の剣どころでない危険な賭けだ。ロゼウスが彼を守る気があるのならば腕が鈍らないことは良いことだろう、けれどロゼウスがもしもシェリダンを害する気があるのならば、ロゼウスに剣を持たせるのは自殺行為。そしてこれまでの彼らの関係で、ロゼウスがシェリダンに好意を抱くなんて、普通に考えたらありえない。
 それでも現実は理屈で図れないということなのか、ロゼウスはシェリダンを殺さなかった。
 いつかロゼウスに斬り殺されるのではないかと思い、それを受け入れている様子のシェリダンに気づきながら、当たり障りのない会話、当たり障りのない行動をして日々を送る。
 前みたいには戻れない。だけど、今更憎むこともできない。
 そしてこれ以上、二人の間で何かを失うのは嫌だった。
 愛してほしいと期待して、愛されていると勘違いして一方通行の空回りに絶望した挙句の醜態を晒すのは、ドラクル相手だけで十分――。
 ロゼウスはもう、誰のことも想わない。ジャスパーのことも受け入れられない、自分が誰かを思ったり、思われたりするわけにはいかないんだ。だから。
「ああ、第三十二代世界皇帝、デメテル=レーテ=アケロンティス陛下だ」
「いつ来るの?」
「来週の頭だ。ハデス卿から連絡があった」
 友達とは少し違うけれど、普通の同年代の少年として当たり障りのないように……ロゼウスがシェリダンとの間に望むのは、当たり障りのないものばかりだ。
 話題はそのまま、練兵場の端の長椅子を一つ占領してこれからこの国を訪れるという世界皇帝のことを続ける。
「アケロンティスの神、世の絶対の支配者、世界皇帝か」
「今のデメテル皇帝陛下は、治世百年を越している。歴代の皇帝の中では中堅から名君に評価があがったところらしいが、これからさらに彼女の治世が長引けばその名は華々しく歴史に残るものとなるかもしれないな」
「セラ=ジーネの奇跡の灌漑政策、サジタリエンとラウザンシスカの紛争調停、それからセレナディウスの第二王子との一方的恋物語……」
 最後の一つだけ何か違うが、現皇帝はそれなりに華やかな功績を世界に残している。その即位から波乱万丈で、平民から皇帝に選定された彼女が、自らの本来の選定者を拒否して弟のハデスに譲ったという逸話はどこの国でも有名だ。
 そしてもう一つ、彼女には人々に噂されるような特徴がある。
「黒の末裔から、皇帝になった人か……」
 アケロンティス、バロック大陸の外れにある存在すら否定されている小さな大陸。もともと黒の末裔は、そこから移動してきた民族だという。それ故、歴史の当初には彼らに対する差別も少なくはなかった。
 黒の末裔は、総じて不思議な力を持つ。
 魔力。
 それは本来ロゼウスたちヴァンピルや、セルヴォルファスのワーウルフ、そして帝国に加盟していない、国を持たない幾つかの小部族のような魔族だけが持っている力だ。人間はほとんど魔力を持たない。
 しかし、黒の末裔は違った。彼らは魔族と同じように、自由に魔力を操り、不可思議なできごとを起こすことができた。それでいて姿形はその髪と瞳の色が際立って神秘的な黒髪黒い瞳であることを除けば、人間と全く同じ。それゆえ彼らは大陸にて異質な存在として恐れられていた。
 長い歴史の中で、黒の末裔と呼ばれる民族は迫害されたこともあれば、その魔力で大帝国を造り上げ逆に他民族を支配したこともある。しかし最終的には大陸の覇者の座を追われ、帝国が始まってから長い迫害の宿命を辿ることとなった。
「黒の末裔、今ではそう呼ばれている黒の民だが、もともとは何と呼ばれていたか知っているか?」
「……知ってる」
 暗黒の末裔。
 そのように呼ばれて、迫害されてきた人々がかつてこの地にはいた。
「人間とは醜い物だな、ロゼウス」
「ああ……俺は人間じゃないけど」
「しかし、魔族は黒の民を魔族とは認めなかったんだろう?」
「仕方がない。だって彼らの力は、俺たちとは別の理の中で動いているものだ」
 醜いのは人間だけではない。ヴァンピルやワーウルフ……人狼のように、極めて人間に近い姿をとれる魔族はその心の動きも人間と近しい。ロゼウスとシェリダンは全く別の生き物のはずなのに、こうしてみれば全然変わらない、同い年のただの少年同士だ。
 休憩時間が終わり、兵士たちが続々と練兵場へ訓練に戻る。それでもシェリダンが動き出さないので、ロゼウスも座ったままでいた。そもそも場内にいっぺんに全ての兵士が入ってしまえば人で溢れかえってしまうので、適当に休む人間がいるくらいでちょうどいい。
 その適当加減は優秀な指揮官が、それぞれの疲労度や模擬戦闘の組み合わせの事情、強さなどによって考慮する。しかしそれも、ロゼウスの隣にいる少年、この国の王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシードに関しては例外だった。
 ロゼウスは水を飲み干したグラスを置いて、シェリダンの反応を待つ。ロゼウスは基本的にシェリダンとしか対戦を許されていないから、彼が動かなければ動けない。
 自分は命以上に大切なものを、彼に握られている。
 他の人間と試合ができるのは、シェリダンが認めた場合だけだった。それもただの一般兵と当るのではなく、大抵が名のある将軍相手だったりするので性質が悪い。ロゼウスが勝ったり相手が勝ったり結果はまちまちだけれど、その全てをシェリダンは有効活用しているようだった。
 確かに、強さと真面目さはいつでもイコールでないとはいえ、エルジェーベトのようにエヴェルシードに対して従順な兵士ほど訓練に手を抜かないためか、強い。唯一の例外はイスカリオット伯爵くらいのものだ。彼の剣には、ロゼウスもさすがに本気を出さないと勝てないだろう。そしてヴァンピルの本気とは、通常出してはいけないものなのだ。
 ざわざわと、ロゼウスは自分の体の中で血が騒ぐ感覚を覚える。御前試合の一件以来、変わったことはとくにない。それなのに何故か、ことあるごとに落ち着かない気分になる。
 まるで幼い頃病を得た時のように、自らの身体がだんだんと作り変えられていくような不快感。なのに、ロゼウスは自分ではそれをどうすることもできない。
 それは、人の血を吸うこともなく、薔薇を食むことによって狂気の吸血欲求を抑えることもなくなった時に発現するヴァンピルの力が覚醒するときと似ている。
 けれど、違う。
 これは、違うものだ。
 その何か違うものが、今ここでシェリダンから大地皇帝と呼ばれる黒の末裔から出でた皇帝の名前を聞いた時、少しだけ疼いた。
「……何はともあれ、皇帝陛下が来るんだ。弟で帝国宰相のハデスと一緒にな」
「ハデスはいつも来てると思うんだけど」
「形式上だ。彼は帝国宰相と言うより摂政と言ったほうが正しいような位置にいる。それもどこまで仕事をしているのかは謎だが、皇帝陛下がただ一人で責務をこなすことはほとんどないというのだ」
「え? 何それ」
 皇帝なのに、世界の君主なのに政務を行わない?
「世界皇帝とは神に選ばれし者。その神がラクリシオンであろうとシレーナであろうと関係ない。皇帝とはどれだけ優れた技量を持って世を統治するのかではなく、ただそこにいることこそが重要なのだろう」
 する、ではなく、在る、ことこそが重要となる。それはまさしく存在そのものを渇望されている存在。
「そしてその皇帝陛下は、我が花嫁―――つまり、お前を見たいそうだ」
 ロゼウスは、どう返事をしていいものか、わからなかった。

 ◆◆◆◆◆

「あなたは酷い」
 呪詛のように低く囁いた。
 体が重い。あちこちが痛い。弄ばれた四肢が凍りつき、自由に動いてはくれないようだ。
 こちらのそんな様子とは対照的に滑らかで美しい白い背中を晒す女の後姿を睨み付けた。
「あなたは酷い」
 掠れた声で繰り返せば、気だるげな表情で女は少年を振り返る。
「あらあら、心外ね。楽しかったでしょう? ハデス」
 楽しかったのはお前だけだろう。飛び出そうになるその言葉を飲み込んだ。今の彼女には何を言っても通用しない。わかっている。それでも怨嗟の言葉は、うちに閉じ込めているには重すぎた。暗すぎた。
 紅い蚯蚓腫れが走る肌、寝台の敷布に零れた血。
 帝国宰相なんて名ばかり。ハデスはこうして、皇帝であり姉である女の癇癪を受けとめるため、だけに存在する。
 帝国の皇位継承は血筋ではなくただ選定者の託宣のみによって決められるものだから、ハデスはただそこにいるだけでは、姉さんの臣下にあたる者たちから敬われることすらない。周囲の眼がようやく彼……ハデス=レーテ=アケロンティスという存在を認め始めたのは、ハデスが皇帝の執務に口を挟めるような実力をつけてからだった。
 それまでは、ハデスはただの玩具だったデメテルは機嫌が悪いからと言って、臣下に当るようなことは滅多にしない。彼女が部下の首を斬る時は、その相手が本当に帝国に不利益をもたらした無能である場合だけだ。
 その代わりに、ハデスにあたるのだ。それはただの暴力であったり、性的暴行だったり精神的なものだったりと様々だが、ハデスを傷つけることで楽しんでいるのは間違いない。
 この世で唯一絶対の存在、それ故に孤独な皇帝の、怒りの受け皿。
 ハデスは物心つくまでに、何度死に掛けたことか。皇族となれば体の成長が止まるから、それまでは簡単に皇帝の身内として登録もできないのだ。世界を無限のときをもって支配するべき皇帝に寄り添って生きるために、皇族となった者は皇帝と同じように、その体の成長を止める。
 この腕の、選定紋章印と共に。
 ハデスは偽りの選定者。本当の選定者は父親だったのに、デメテルはその父親を殺し、腕の皮膚を弟に移植してまで父親から選定者の資格を奪った。
「どうしたの? ハデス。泣かないでよ」
 細い指が伸びる。まだ無惨な痕が残っている頬に触れる。ぴりりとした痛みが傷口に走り、ハデスは顔をしかめた。
「そんなに嫌だった? じゃあ、今度はもっと優しくしてあげるから……」
 白い肌が降りて、額に口づけられる。柔らかな唇の濡れた感触も、今は不快なだけだった。
 薄暗い部屋の裸の男女。だけれど、自分たちはきょうだいだ。姉と、弟だ。許されるはずもない行為に溺れて、反吐が出そうになる。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い!
 ハデスは父も母も知らない。ハデスが生まれてすぐにデメテルは両親を殺害してしまったから。ハデスはデメテルが皇帝になった後、どうしても兄妹が欲しいと両親に頼み込んで生ませた子。最初から、ただデメテルのためだけに生まれてきた子。
 ハデスが生まれた時、両親はさぞや喜んだことだろう。デメテルは父と母に約束していた。もう一人兄妹を作る代わりに、両親を皇族に入れると。そうすれば二人はデメテルの治世が終わるまで不老不死として、しかも皇帝の身内として贅沢な暮らしができる。こんな幸運は簡単に手に入るものではない。
 もともと黒の末裔は、虐げられていた民だ。両親はさぞかし、生きるだけで苦労しただろう。それが降って湧いたような皇帝宣言。嬉しくて涙も出るはずだ。
 もっとも、結局その期待は叶わなかったわけだけれど。
 いつかデメテルはハデスに語った。自分は両親に虐待されていたのだと。特に父親からは性的虐待と言われるようなことまでされた。
 その憎しみと折り合いをつけ、馴れ合うだけではなくいつか牙を向くためにと磨かれた力が姉を……デメテル=レーテを皇帝の座にまで引き上げた。
 デメテルが生涯でついたたった一つの嘘は、両親に不老不死を約束したことだけだ。今では大地皇帝デメテルは、嘘をつかないことで有名だった。
「ハデス」
 だからこの言葉は真実。
「愛しているわ」
 うっそりと微笑むその顔の下で、彼女はハデスを通して一体誰を見ているのか。
 デメテルは忌み嫌われた黒の末裔ではあるが、美人だ。そしてなんと言ったって皇帝だ。皇帝が伴侶を持ってはいけないと言う法はないので、彼女の求婚者はいつの時代でもひっきりなしに訪れている。
 けれど、その全てにデメテルは良い返事を返さない。その理由がハデスだ。
 ハデスはデメテルのために生まれた。そしてデメテルのためだけに生きねばならない。そのために生まれてきた自分だから、姉さんは僕だけを愛している。
 彼女のために生まれ、彼女の手のひらで転がされるためだけに生きる自分を。
 結局デメテルは、ハデス以外の男が怖いのだ。男だけでない、女も、全ての人間が怖い臆病者なのだ。
 虐待されて育った子どもは、将来自分の子どもをも同じように虐待してしまうのだと言う。
 ハデスはデメテルの子どもではないが、彼女が十九の時に生まれて以来、両親の手もなく育てさせられたんだから似たようなものと言えなくもない。
 もちろん、そうして虐待を受けて育った子どもが誰もがみんなそんな風に育つなんて思ってはいないが、デメテルに関しては明らかにそういう生き方しかできない人だった。
「あなたは酷いよ、姉さん」
 細い指が伸びてきて、萎えかけたハデスのものを掴む。
「あっ、あっ……」
 やわやわと丁寧ながらじれったい愛撫に、意識を持っていかれそうになる。
「私はそんなに酷い?」
「あ、ああ」
 きゅっと力を込めて握られ、もどかしさに目の端に涙が浮かぶ。さんざん傷つけられた肌をなおも甚振るように、デメテルは胸についた紅い血の流れる場所を舐めた。
「い、痛……」
「可愛いわよ、ハデス。私の、私だけの大事な……」
 あなたのこれは、姉が弟にする扱いじゃない。
 始めの頃はもっと抵抗していた。いくら皇帝と言えど、こんなことは許されないはずだ。けれど、無駄だった。彼女の不興を被るのが嫌な召し使いたちも、率先してハデスを売り払った。
 デメテルの指が男根を弄んで、熱を昂らせていった。無理矢理絶頂に押し上げられて、身体的にも精神的にも限界が来る。
「あっ、ふ、はぁあ!」
 言葉にならない声が漏れて、同時に姉の白い手を濁った汁が濡らした。顔を紅くし、肌は汗で濡れ、達した直後の気だるい恍惚に呆然と気を抜いているハデスの様子を見て、デメテルは酷薄に笑った。
 情事の名残にぽろぽろと、生理的な意味とそうではない意味で涙が浮かぶ。
 熱い雫は頬を滑り落ちて、それをまた顔を近づけてきたデメテルの舌が拭った。
 ああ、なんて強固な透明の牢獄。
 実際に手錠を使われたり、鎖で戒められたり、檻に入れられたりしているわけじゃない。だけれど、ここは間違いもなく牢獄だった。この世界は全て。
 アケロンティスにデメテルの手の届かない場所などない。どこへ行ったところで、デメテルの命令であれば逆らえる者もなく、いずれハデスは引き渡されるだろう。何故そんなに確信を持って言えるかといえば、ハデスはもうすでにそうやって脱走を試み、失敗したことがあるからだ。
 デメテルが皇帝である限り、ハデスは彼女のもとから逃げ出すのは無理だ。憎んでいたとはいえ両親を殺した事はやはり彼女に大きな影響を与えたらしく、唯一の家族であるハデスへのデメテルの執着は半端ではない。
 では、デメテルが皇帝でなくなればどうだろうか?
「あっ!」
 ぼんやりといつもの場所に思考が辿り着いたところで、何度も達するよう強制されてもはや力を失っていた場所に、再び指と、今度は唇も添えられる。
「や、やめて」
 また強制的に追い上げられたところで、今度はデメテルが動く。
「っ…………!」
 生温く、しとどに濡れた粘膜に受け入れられる。悦楽と嫌悪はない交ぜになり、身体を喜ばして精神を絶望させた。
「姉さっ……!」
 思わず喘げば、秀麗な面差しが暗く笑った。
「一緒に堕ちていきましょう、ハデス。可愛い、私の弟」
 いつか、殺してやる。
 その座から引きずり降ろしてやる。
 肌を重ね体を絡ませながら、ずっとそう思っていた。皇族の不死身の力は、《冥府の王》としての力をつけることには役立った。何をやっても死なないのだから。
 姉さん、あんたの未来はとっくに潰えているんだ。
 瞼の裏に、白い髪と紅い瞳を持った美しい少年が像を結ぶ。次の皇帝は、彼だ。
 愛していると囁けるほど大事なものも持たないハデスは、いつものように姉の責め苦を受けながら、そう考えていた。


100

 そして、彼女はやってきた。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。我が国にお越しいただき、光栄の至り……」
「ええ。はじめまして。エヴェルシード国王シェリダン」
 挨拶はその人の性格が性格だけに、全く堅苦しいところもなく終わった。妻であるローゼンティアの姫君はシェリダンの隣で、彼に寄り添うようにして礼を取る妻の役目を厳重に言いつけられた。
 一国の王であるシェリダンですら平伏して向き合わねばならない相手。目の前に堂々と立つのは、黒髪に黒い瞳の美しい女性だった。
 世界《アケロンテ》、別名アケロンティス帝国。
 その帝国を治める神にも等しき立場の女性。
 第三十二代皇帝。デメテル=レーテ=アケロンティス。
 大地皇帝と呼ばれる彼女は、黒の末裔の一人だ。艶やかで豊かな体つきは違うが、その顔立ちは弟であり、彼らとは顔なじみである帝国宰相ハデスに似ている。実の姉弟なのだから当然だ。
 謁見の間で普段は玉座について相手を迎えるシェリダンが、今日は広間の中央にて、皇帝デメテル陛下の眼前に跪いている。黒がかった深い緑の、体の線を強調するような際どいドレスを細い身に纏った皇帝は微笑んで彼の臣下の礼を受けた。
 陛下の白い手をとり、シェリダンがその指先に口づける。
 帝国とは幾つもの王国や部族を併合して作られた国のこと。一国の王は、帝国の皇帝にとっては臣下の一人にあたる。だから、普段エヴェルシードで一番偉い上に、植民地化したローゼンティアに対しても優位なシェリダンもここでは一臣下、この広大なるアケロンティス帝国の領地の一つを任されただけの公爵という立場に戻り、頭をたれなければならないと言う。
「顔をお上げなさい」
 皇帝陛下の促しにより、シェリダンは彼女の手を離し、立ち上がってその人に向き直った。
 弟のハデスとよく似ている皇帝陛下は、それも弟と同じように、翳りとも悦楽ともつかない不思議な淡い笑みをいつも深紅の口元に刻んでいる。
「エヴェルシード王、結婚されたと聞いたけれど?」
「はい。こちらがこの度迎えることとなった我が妻です」
 シェリダンが振り返り、後方に控えていたロゼウスと一瞬だけ視線を合わせる。
 そして彼は、名を呼んだ。
「ロザリー」
 頭を垂れて跪いた姿勢のまま控えるロゼウスの傍らから、名を呼ばれた妹が進みでる。
「お初にお目にかかります、皇帝陛下。わたくしはロザリー=ローゼンティアと申します」
 白と薄紅を基調とした可憐なドレスを身につけたロザリーが、優雅な礼をとる。
「ええ。知っているわ。今は亡きローゼンティア王国の、第四王女殿下」
 亡国の王女は、慎ましやかだが硬い表情で頷いた。決して出すぎず、敵意を向けず。それでいて完全に服従する様子を見せないようにというのだから、無茶な注文だ。
 本来ロゼウスがやるべき役目を全て受け持っているのは、ロゼウスの妹のロザリーだった。皇帝の前で醜態を晒す事は、王国そのものが権威を失うことに直結する。国王の迎えた花嫁が男だったなんてバレた日には……考えたくもないので、今回ばかりは替え玉を使うことにしたのだ。
 ロゼウスとロザリーは異母兄妹にしては顔が似ている。体格もほとんど変わらないし、年齢だって一つ違いで、それぞれ第四王子と第四王女。こっそりと入れ替えるのにこれだけ適した替え玉もいないだろうと。
 だから今、シェリダンの隣にはロゼウスではなく、ロザリーがいる。彼女は正真正銘の女の子だし、シェリダンがローゼンティアの王女を妻に迎えたことは有名だけれど、その王女の名前までは知られていない。もともとロゼという偽名には《ローゼンティアの王族》という意味があって、そんな曖昧な言葉で誤魔化していた、国内に限った問題ならば。
 ロゼウスは今、本来の男の格好に戻り、ただの捕虜の一人として、ロザリーの兄として部屋の隅に小姓のエチエンヌ、侍女ローラ、侍従のリチャードと一緒に控えている。
「それで、エヴェルシードの今年の……」
 一通り挨拶を受けたあとは、もうそんなことはどうでもいいと、デメテル皇帝陛下はシェリダンと政治の話に入ろうとしていた。いや、小難しい話の合い間によくわからない世間話が気まぐれに差し挟まれるらしく、ロザリーは二人の間で困ったような顔をしている。
 そして俺は。
 俺は、どうすればいいんだろう。
「では、いつまでもこの場所で立ち話はなんですから、部屋を移りましょう。何か御要望がありましたら、このバイロンにお申し付けください」
「ええ」
 とりあえず現在この国の最高待遇で迎えられることになった皇帝陛下に、シェリダンは慇懃に腰を折りながら礼をする。すぐに歓待の晩餐会が開かれる予定らしいが、それにはエヴェルシード国内の貴族だけでなく、各国の代表者も参加するのだという。
 シェリダンはいつになくきちんと着飾らされたロザリーを連れて、皇帝陛下をきちんとした客室にエスコートする。バイロン宰相も一緒だ。
 三人の姿が消えてようやく、室内の端に控えていた侍女や小姓たちが動いてよいということになる。ロゼウスやエチエンヌたちも立ち上がり、ずっと跪いた姿勢で凝った全身を解した。
「あーあ、やっと一息つける」
「さすがに我々も、皇帝陛下とご対面するのは初めてだからな」
「ご対面っていうか、蚊帳の外っていうか置物の扱いだけどね」
 仮にも元貴族の端くれだったリチャードはともかく、奴隷上がりの小姓であるエチエンヌは深い溜息をついている。皇帝陛下自身が気さくな態度を取っているとはいえ、この世で最も高貴なお方と同じ空間にいるのは彼に取っては耐え難いことらしい。
 確かに大地皇帝デメテルの存在感は圧倒的だった。肌は色白で美しいのに、むき出しの肩に雪崩かかる緑なす黒髪の印象が強くて鮮烈だ。ミザリーのような可憐な花のような美貌と言うよりは、毒と棘のあるきつめの顔立ちをしていた。そのきつい眼差しが浮かべられた笑みで、何とも言えずにやわらげられて人の背筋を凍らせるような迫力があった。
 あれが皇帝。
 あれが、ハデスの姉上。
 この世界で一番偉い、全てを決めることのできる人。
 彼女がそれを認めたこともあって、ロゼウスたちヴァンピルの国ローゼンティアはエヴェルシードの属国扱いにされた。
 枯れるだけの花なら容赦なく踏みにじればよいという、微笑みながら残酷な決断を下せる、有能にして冷徹、温厚にして酷薄な皇帝。
 不思議な能力を持つ者が多く生まれるという黒の末裔の中でも、とびっきり魔術の資質があると言われた彼女の力の恐ろしさは、直に味わったものしかわからないと言う。
 先程、実は一度だけ目があった。ロゼウスを見て、何故か嘲るような微笑を浮かべた人。
 もしかしてバレたのだろうか。いろいろと。何もかもを見通すような瞳で、確かに彼女はロゼウスを見た。皇帝には不可能はないのかもしれない。でも、これでは何のための替え玉なのか。
『ロゼウス、お前は今回は……』
 数日前のやりとりを思い出す。何か思いつめたような顔で、シェリダンは俺に言った。
『お前は、第四王子に戻れ』
 そして彼は第四王女を妻に迎えると言った。
 第四王女ロザリー、ロザリー=ローゼンティア。ロゼウスの大事な妹の存在はたぶん、全てにおいて都合が良かった。ロゼウスとロザリー、薔薇王子と薔薇王女。名前も似ているし、四番目の王子と王女であるという立場も似ている。何より顔がそっくりだ。
 シェリダンの隣に寄りそうように立つロザリーの姿は美しかった。ヴァンピルの髪は白銀と薄く、エヴェルシード人の髪色は蒼と濃い。その中でもシェリダンの髪は夜空の藍色で、並べて立たせるに分にはこれ以上相応しい一対もなかった。
 だったら、何で。
 最初からそうでなかったのだろう。
「……ロゼウス様」
 この国に来てからは珍しく男装のロゼウスを、ローラが呼んだ。
「私たちも行きましょう。今日からのお部屋へご案内します」
「ああ」
 生返事をして、ロゼウスはローラについて歩く。この姿のロゼウスを見て、彼女は幾度となく顔をしかめていた。似合わない、と。
 どうして? 俺にとってはこれが普通だ。もともと、俺は男なんだからドレスなんか着てシェリダンの隣に立つ方が異常なんだよ。
 それでも、シェリダンとロザリーが並んでいる一幅の絵のような光景を見て、何故か胸の奥がひっかかれるような不快感を覚えるのは止められなかった。

 ◆◆◆◆◆

「エヴェルシードに何か動きはありましたか?」
 わたくしは世話係の青年の一人に尋ねました。今日の彼は部屋に入ってきたときから強張った顔をしていて、その表情だけで何事かあったのだと教えていました。
「メアリー姫」
「教えて下さい。何があったのですか?」
 王権派と呼ばれる人々にわたくしは保護されましたが、いまだ自由に動く許可は与えられていません。そもそも、他の兄妹がいるならばまだしも、わたくし一人ではできることもありません。
 自分の無力さが恨めしい。けれど、一朝一夕に強くなれるものならば世話はないのです。
 わたくしはせめて王権派と名乗る人々の力を借りて、どうにか祖国復興に費やさねば。
 わたくしたちの敵である、エヴェルシード王シェリダンを倒さねば。
 本来人間より身体能力で優れるはずのわたくしたちヴァンピルがエヴェルシードに負けたのは、友好関係にある隣国であるはずだという油断と、ジョナス王の跡を継いだシェリダン王の実力を見誤ったため。同じような過ちを、二度と繰り返すわけにはいきません。
「……今、あの国に皇帝陛下がいらっしゃっているのです」
「世界皇帝ですか!?」
 皇帝陛下が? 驚いて、思わずそんな叫びを漏らしてしまった私に目の前の青年が苛立たしげに眉を上げました。それ以外に何がある、と言いたげな表情です。確かに、皇歴が始まって以来世界皇帝陛下以外に、アケロンテに皇帝はいません。
「……はい、第三十二代世界皇帝デメテル陛下が、エヴェルシードにお越しになりました。諸国からも、この機会に皇帝陛下にお目通りを願おうと、要人が集まっております」
 不機嫌な表情のまま、彼は続けます。わたくしの能力の低さに怒っているのでしょう。あの時、王家の兄妹の中で唯一彼らに救い出されたのがわたくししかいなかったので仕方がないとはいえ、本当なら彼らもわたくしのような不出来な第五王女ではなく、もっと年上の、継承順位も高く、有能な、他の王族を旗印として助け出したかったのでしょう。
「それで、エヴェルシードの対応と、皇帝陛下の訪問目的、あなた方とわたくしが成すべき事は?」
 青年は慎重を装って答えました。
「私たち王権派は、これを機にエヴェルシードに囚われているロゼウス殿下を救出し、ローゼンティアを取り戻すべく動き出します。襲撃をかけるべきは、明日の晩餐会」
「明日!? そんなに急なのですか!?」
「はい。今回は私軍を動かすのではなく、極少数でかの国に潜入いたします。乱戦になれば数でこちらが負ける可能性もあります。いくら相手は脆弱な人間とは言え、軍事国家エヴェルシード。侮る事はできません」
「では」
「少数精鋭でロゼウス殿下の奪還を目指します」
 お兄様をまず救出し、それからローゼンティアの生き残りを指揮して体勢を立て直すのだと。
 わたくしは――。
「連れて行きなさい」
「え?」
「連れて行きなさい。わたくしを、かの国へ。お兄様の下へ」
「で、ですがメアリー姫!」
「わたくしはローゼンティア王女です!」
「たかだかライマ家出の第五王女のくせに、我侭を……っ!」
 これまでの優しげな仮面の裏に隠されていた侮蔑の眼差しが今更明らかになったところでわたくしはもう惑いません。
 ああ、それに我が母である第二王妃マチルダ=ライマを侮辱すると言う事は、彼らはもとよりわたくしの味方ではなかったということですね。では、第一王妃様の手の者なのか……。
 何故でしょう。どこかに違和感があります。けれど、そもそも彼らが明かした真実こそ我が耳を疑うものですから――。
 今、すべての真実を得られるとしたらそれはやはり、エヴェルシードに行くしかないのでしょう。
「皇帝陛下のエヴェルシード訪問の話は民衆レベルで流布している情報ですか」
「それなり、と言ったところでしょうか。他国の市井の者にとっては偉い人が来る程度の認識ですが。エヴェルシードと各国の要人たちには十分伝わっています」
「どこからでも情報は得られるというわけですね。でしたら、皆も同じことを考えるでしょう」
「え?」
「他の兄妹です。あなた方が考え付いた程度のこと、我が兄や姉たちが、考えぬと思いますか」
 王権派の青年が顔を歪めました。
「引き続き人をやってください。第二隊には、ロゼウス王子ではなく、彼とシェリダン王の周囲を探っている別の人物……他の王族がいないかを探らせてください。居場所のわかっている者を見張ることより、難易度はあがりますが」
 わたくしも参ります。
 あの国に。
 この騒乱の全ての始まりの場所。
 わたくしたちの王家の、隠されなければならなかった秘密を暴いた、あの忌まわしき王国。
 ローゼンティアを滅ぼした憎らしい人間とはいえ、シェリダン王の見る目は確かだったということでしょう。王権派と名乗ったこの人々の言う事が、全て本当ならばの話として。
 ロゼウスお兄様。
 あなたこそが、全ての物語の渦中にいるのです。わたくしはもはや弾きだされそうなこの問題の輪に、今は必死でしがみつきます。王女と言うこの肩書きが例えお飾りを通り越した偽りのものであったとしても、今ここで全てを忘れ放棄して脱落するわけにはいきません。
「上手くすれば」
 わたくしだけでなく、今はまだこの事実を知らない他の兄妹たちだって同じように思うはずでしょう。もう何ヶ月も顔を合わせていない、彼らは無事なのでしょうか。そうだとしたら。
「あの国で、ロゼウスお兄様のために、全ての兄妹が集まることになりましょう」
 王権派の青年は、ここに来て恭しく平伏しました。
「……ご命令を承りました、第五王女殿下」
 名前だけでもわたくしが王女である限りは、今のこの国にわたくしより上の立場のものはおりません。宰相や重役についた貴族は皆殺され、王家の兄妹も散り散りになっています。
 ですが、忘れる事は許しません。
「ローゼンティアは、王の治める国。ローゼンティア王家の言葉に、あなたがたは従うほかないのです」
 青年がかしこまりました。慇懃に礼をしてわたくしの命令を伝えるために部屋を出て行きます。
 わたくしはどっと、肩の力を抜きました。そうすると、涙が出てきそうになるのです。わたくしはもともと、王位継承権から遠く、兄や姉たちのように豊かな才能も持たず、長じれば政略結婚の道具ぐらいの価値しかない王女として消えるさだめの者でした。こんな非常時に、人を指揮するだけの力はありません。強がって強がって我侭だと言われても、恐れずに意見を言う事しかできないのです。
 ああ、ロゼウスお兄様……。
 第四王子ではありますが正妃の息子であるロゼウス王子は、その立場に比べてずっと優れた方でした。王位に執着がないため継承権は年上のヘンリーお兄様に譲ってしまいましたけれど、きっとロゼウスお兄様が玉座についた暁には、この国は安泰だったのでしょうね。
 最初から歯車がずれていた、今では叶わない夢物語。
 わたくしたち家族は、揃うのにこんなにも遠回りをしなければならないのですね。


101

 落ち着かない。
 苛々する。
 酷く――喉が渇く。
「くそっ……!」
 毒づきながら廊下を歩く。こんなことも、男の格好に戻ったからこそできることだ。前を歩いていたローラが、ちらりと気遣わしげに振り返る。もしかしたら鬱陶しいと思っているのかも知れないけれど。
 エヴェルシードの者たちは今まで見たことのなかった「王子」の存在を少しくらい不思議に思っているかもしれないが、それでも先日まで他の兄妹たちが捕まっていたことや、ロゼウスとロザリーが髪の長さと体型を除けば瓜二つであることからいろいろと細かい疑問は誤魔化そうと思えば誤魔化せる範囲。
 ならいっそ、ロゼウスは最初から女装なんてしなければよかったようなものだが……ここ最近シェリダンが何を考えているかわからない。いや、もともとか……。
 もともと、俺とシェリダンは噛み合うことなんかなかったんだよ。
 ロザリーが替え玉をしている間、とりあえずロゼウスはあまり姿を見せないということに決まった。肝心の皇帝陛下の顔を知らないと困るから先程の謁見には引っ張り出されたが、これで後はお役御免。今日の晩餐会を含め、与えられた部屋でじっとしていればいいだけの話だ。
 もっとも与えられた部屋と言っても。
「あ、来た来た」
「……エチエンヌ」
 名目上この小姓の少年に下賜されたことになっているロザリーが普段いるのは彼との部屋だった。
「では、私は仕事に戻ります」
 今まで訪れたことのなかった妹夫婦の部屋にロゼウスを案内してくれたローラが、それだけ告げてさっさと部屋を出て行った。ロゼウスはあんまり馬の合わないエチエンヌと二人きりで取り残される。
「えーと……お世話になります」
 なんと言えばいいものか。
「はいはい」
 エチエンヌが呆れたようにおざなりな返事をする。かと思えば、ローラと同じくちらりとロゼウスの方へ視線を向けて。
「まいってるみたいだね」
「何?」
「気づいてないならいいよ」
 素っ気ない、一方的なやりとりをしてエチエンヌはロゼウスから視線を外す。
 一介の小姓とはいえシェリダンから重用されているエチエンヌの部屋は寝台の他に長椅子や机が置かれた快適空間だった。けれど、そのどこに居場所を見つけるということもなく、ロゼウスは所在なげにその場に蹲った。
「エチエンヌ、仕事は?」
「お前がここにいるせいでその世話がローラから僕に代わったんだよ。だから、普段はお前と一緒にシェリダン様の部屋にいるローラがあちこち走り回ってるんだろ」
 ああ、そういうことなのか。そういえばいつもこの時間は裁縫に励んでいるローラが珍しく忙しそうに働いていると思ったら、そういう理由だったのか。しかし彼女の代わりと言うには、エチエンヌはすることもなさそうに寝台の端に腰掛けて不機嫌な顔をしている。
 とはいえ彼が上機嫌だろうと不機嫌だろうといっこうに構わないロゼウスも似たようなもので、この部屋で落ち着く気分にはなれず、膝を抱えてしゃがみ込んだまま考えた。
 世界皇帝デメテル陛下。彼女はエヴェルシード王シェリダンの妃となったローゼンティアの王女を見に来た。いくら真実とはいえ見に来たと言うから印象がおかしくなるが、要は結婚祝いに駆けつけたということだ。
 それはつまり、エヴェルシードは絶対的に皇帝の庇護を受けているということ。この世は皇帝の権力が全てだから彼女に認められると言う事は世界でそれなりの地位にあることを意味するが、しかしシェリダン自身はデメテル陛下との面識はなく、会ったのは今回が初めて。
 ではどういう気まぐれかと言っても、そもそも皇帝陛下はこの国に弟であり帝国宰相と呼ばれる絶対権力者ハデスを訪問させていたのだから、まったくの気まぐれということも考えにくい。では何かの思惑があると考えるのが当然だが……はじめから、当代皇帝陛下がああいう性格でなければ何か思惑があると考えるのが普通なのであって、でもその思惑がわからない。
 エヴェルシードはロゼウスの敵だ。
 祖国ローゼンティアを滅ぼし、両親を殺した。国民を人質にロゼウスを脅した。
 そのエヴェルシードの行為を全て黙認したのは世界皇帝。
 皇帝は普段、アケロンティス諸外国の外交には口を挟まない。よほど大陸全土、世界全土に混乱を来たすものでない限り静観するのが普通だ。
 昔はどうだったか知らないが、とりあえず何代か前の皇帝は各国の外交に口を挟み悪戯に世界の治安を乱したことを理由に、僅か五年で退位している。これは平均統治期間が百年という中では異例の短さだ。もちろん、優れた皇帝は数百年にも渡る長い治世をしいた例もあるが、皇帝に選定されるのはだいたい人間が多いので、その寿命から考えて無理のない範囲で治世を終えていることが多い。
 そして退位というのはまだ緩やかな言い方で、実際にはその皇帝は廃帝と呼ばれている。
 各国の統治はその国の国王に任せる。これが帝国の一般的な政治状況。皇帝は絶対権力者にして中立者であり、審判者である。やたらと何もかもに口出しをするのではなく、一番重要なところを纏める。それが皇帝の役目、らしい……。
 一応国を治める者の常識としてドラクルに習ったが、自信がない。シェリダンだけではなく、皇帝陛下にお会いするのは自分も初めてなのだから。そして皇帝という存在は、下々の民には掴めるようなものではないのだと。
 第三十二代皇帝デメテル。大地皇帝。黒の末裔。
 不思議な黒い髪。黒い瞳。血のように紅い唇。謎めいた微笑み。
 彼女は何故エヴェルシードに来たのだろう。そうまでして、この国に味方するのだろう。
 エヴェルシードはシュルト大陸にとって、全てを吹き飛ばす爆弾のようなものだ。この国はロゼウスたちのローゼンティアだけでなく、世界そのものを破滅させるなんて、シェリダンは考えている。
 もちろんそうなればさすがに皇帝陛下がとめに入るだろうけれど……アケロンティスにどこまで打撃を与えられるかはシェリダンの力量次第で、それ以上にロゼウスの働きが大きいのだろう。
 三千年前、帝政成立のためにかつてのザリューク人であり後のエヴェルシード王国建国の祖、シェスラート=エヴェルシードに今のローゼンティア王家の先祖であるロゼッテ=ローゼンティアが協力したように。
 だけれど、何かがおかしいと感じる。まるでエヴェルシードの破壊行動を助長するかのような皇帝の動き。ただでさえ魔族の国であるローゼンティアを侵略したことは世界の均衡を揺らがせることになるはずなのに、何故何も言わないのか。
 俺たちは。
「……見捨てられたのか?」
「んー?」
 離れた場所にいたエチエンヌが独り言に反応して首を傾げるのを、手を振って何でもないと示す。
 世界皇帝の思惑は知らないし、それはやすやすと明かされるものでもないだろう。だけれど、これだけ一国と皇帝の距離が近しい事が不自然であるということだけはロゼウスにも何となくわかる。皇帝陛下は各国の王たる帝国公爵たちにその領地の支配を任せ、原則的にはその国の政治に口を出さない。
 今のデメテル陛下の行動はエヴェルシードの支配体制に口を出すものではないが、他の国の場合であればわざわざ結婚祝いなんかに駆けつけもしないことを考えれば十分異例だ。確か三年位前にビリジオラートとルミエスタの両王家がそれまでの対立関係を改め婚姻による和平を結んだ時なんかは、全く見向きもしなかったはずだ。
 では今回は何故エヴェルシードに訪れたのだろうか。まるで、この国がローゼンティアを侵略したことを褒めるように。
 考えても考えても答が出ない。
 何だろう? 自分は、何か重大なことを見落としている気がする。その何かを見つけ出さない限り、この問題は堂々巡りで永遠に決着がつかないだろう。それに。
「あの皇帝陛下、本当にただお前を見に来ただけなのかなぁ……?」
 手持ち無沙汰にシルヴァーニ文学の本を一冊弄んでいたエチエンヌが何ともタイミングよくそんなことを呟いた。そう、その可能性も否定できない。何しろ当代皇帝陛下の弟への溺愛ぶりと気まぐれ具合は、世界各国に知れ渡っている。
「さぁ……どうなんだろう?」
「まあ、どっちにしろ、今その役目を課せられてるのはロザリーであってお前じゃないけれど」
 冷やりと、首筋に刃物をつきつけるような冷たさでエチエンヌがそう言う。
「エチエンヌ」
「あーあ、可哀想なロザリー。お前なんかとそっくりなばっかりに、こんな時だけ都合よく駆り出されるんだ」
 皮肉げなその言葉に、エチエンヌが今回のことを快く思っていないことが知れる。でも。
「それを決めたのは、俺じゃない。シェリダンだ」
「そうだよ。シェリダン様のお決めになったことならば僕に否やを唱える権利なんてない。その気もない。だけど」
 睨んでくるエチエンヌの眼が訴えてくる。
 だからこそロゼウスが、このロゼウス=ローゼンティアが憎いのだと。ロゼウスがいなければ、こんなことにはならなかった。ロゼウスとロザリーがこんなにも似ているのでなければ、こんな不自由をしなくて済んだのだと。
 その恨みの眼差しにロゼウスはふと何かを思い出しかける。何だ? 今、何かがひっかかって……
 それを思い出す時間は与えられなかった。
「ロゼウス王子――!!」
「うわぁっ!?」
 ばたんと激しく扉が開け放たれたかと思うと、ロゼウスのもとに何かが飛び込んできた。

 ◆◆◆◆◆

「ロゼウス王子――!!」
「うわぁっ!?」
 床に思い切り押し倒される。エチエンヌの部屋が小姓の物とは思えない絨毯まで敷かれた豪勢な部屋だったから良かったものの、これを廊下でなんてやられた日には後頭部にたんこぶができる! 
 そのくらい激しく、もはやこれは体当たりという勢いでそれはロゼウスに飛びついてきた。
「久しぶり! 久しぶり! 久しぶり―――!!」
 まさしく狂喜乱舞と言った体で、何かがロゼウスにのしかかってくっついている。さっぱり意味のわからない「久しぶり」を連呼しながら。
 いや、ちょっと待って何これ?
 なんだか事態がよくわからないんですけど!
「何だよっ!?」
 思わず叫んで、のしかかってきた相手を突き飛ばす。きゅう、と獣が呻くような声をあげて、それは離れた。しかしすぐに体勢を立て直して、にこにことこちらの顔を覗き込んでくる。
「ちょっ、どうしたんだよ? ダレ、それ」
 エチエンヌの呼びかけにようやく冷静になって、ロゼウスも目の前にいる相手が、ほとんど自分たちと歳の変わらない少年であることに気づく。気づいたところで、何故その少年が自分に飛びついてきたのか? ということまでわかるはずもなく。
「ロゼウス王子! 久しぶり!」
「だから久しぶりって何!?」
 ガバっと音がしそうなほど再び強く抱きしめられて卒倒しそうになる。彼は見た目こそロゼウスやエチエンヌと同じく細身なのだが、その外見からは予想もできないほど腕の力が強かった。うっかり潰れないようにロゼウスは思わず胸から腹筋にかけて力を込めた。このまま背骨折られたらどうしようかというような腕力だ。
 と、言うか。
「だから、ダレ?」
「誰だよ!?」
 戸口で繰り広げられるいきなりの抱擁に呆れた声音で尋ねてくるエチエンヌに被せて、彼よりなお強く叫んだ。
「ロゼウス?」
「知らないよ! 会ったこともない相手だ!」
 知り合いじゃないのかとそろそろ戸惑った表情を向けてくるエチエンヌに向けても、そう叫び返す。
 ダレ!? 本当にダレ!?
 多少癖のある淡い茶髪に灰色の瞳の、十五、六歳ほどの少年。着ているものは華美とは程遠いが、それなりに整えられている。こちらを抱きしめてくる体からは、深い森の奥の木々と土のような匂いがした。それは多分ロゼウスがヴァンピルだからわかる程度の気配だろうけれど。
 ちなみにシェリダンはよく、稽古で怪我でもするのか微かな血の匂いと、庭園の花の香りの混ざったような匂いをさせている。ヴァンピル的にはとても美味しそうな匂いだ。
 けれど目の前の少年はそんなシェリダンとは違い、むしろ気を抜くとこちらが喰われそうな、肉食獣の匂い、大自然を闊歩する力強い生き物の匂いがした。それに。
「あ」
 飛びついた勢いで被っていた帽子が吹っ飛んだらしく、淡い茶髪の下から徐々に現れたのは獣の耳だった。一度伸びきると、ぴん、と音でも立ちそうにその頭の上に立つ。
「魔族……?」
「よく見れば尻尾もある。え? 犬?」
 それまで手に持っていた本を置いてこちらへと歩み寄ってきたエチエンヌが、少年を背後から見てそう言った。その瞬間、それまでの人懐こい動物のような仕草をしてロゼウスに擦り寄っていた少年が剣呑な光を瞳に宿して彼を睨む。
「犬じゃない! あれと一緒にするな!」
 その勢いがあまりに激しいので、あの豪胆なエチエンヌでもさえも一瞬身を竦ませる。しかしすぐに生来の強気が頭をもたげ、闖入者たる彼を睨み返した。
「じゃあ何なんだよ! 人の部屋にいきなり入って来やがって!」
 そういえばここはエチエンヌの部屋だった。この少年がロゼウスを探して来たのだとすれば、この騒ぎはもしかしなくても。
「ロゼウス? これ、どーいうこと!?」
 やっぱりエチエンヌの怒りの矛先がこちらに向いてきた。でも俺にもよくわかってないんだけど。だって。
「知らないよ! 俺だって会ったことない相手だもん!」
「え?」
 茶髪の少年はそれを聞いて、眉根を寄せた。落ち込んだように、口元をへの字に曲げる。
「ねぇ、ロゼウス王子。本当に俺のこと覚えてないの!?」
「う、うん」
 彼には悪いが、覚えていないものは覚えていない。
 いくら第四王子とはいえ、ロゼウスも王族の端くれ。社交は欠かせないもので、一度会った人間の名前(フルネーム)はまだしも、顔は絶対に忘れない。
 だけど、この少年には全く見覚えがない。幼い頃に会って多少造作が変わって見分けがつかないとか、そういうレベルでもない。そもそも茶髪の知り合いがまずいない。多分、一度も会った事はないはずだ。
 ところで、会ったことはないのだけれど、この少年の素性と言うものには大体推測が及ぶ。
 それだけ見ては何の種類かはわからないがこの獣耳、獣の尾。そして淡い茶髪と灰色の瞳。この特徴はあの国の――
「セルヴォルファス王!」
 そう、大地の王国セルヴォルファスの――あれ?
「シェリダン?」
「シェリダン様!」
 開け放たれた扉の向こうから、血相を変えたシェリダンとロザリーがこちらへと向かって来る。ロゼウスに抱きついている少年を見て、ロザリーが顔色を変えた。
「ちょっと! ロゼウスから離れなさいよ!」
「うわあっ!!」
「ちっ!」
 愛する妹の好意は嬉しいのだけれど、その位置で蹴りを出されると俺にも当りそうだったよロザリー。何はともあれ、茶髪の少年をロゼウスから引き離すことには成功した。ロザリーの蹴りを簡単に避けて、少年は身軽に部屋の隅へと着地した。
「いくら貴方が一国の主とはいえ、我がエヴェルシードで勝手な真似は慎んでいただきたい!」
 入り口の壁に手をつきながら、シェリダンが少年に向かってそう怒鳴る。怒鳴られた少年は涼しい顔だが、シェリダンは頬は紅潮し息は上がりこめかみに汗をかいて……ヴァンピルのロザリーはぴんぴんしているけれど、二人は一体どこから全力疾走してきたのだろうか……。
「セルヴォルファス王?」
 エチエンヌが首を傾げている。言葉の意味とかそう呼ばれた相手の態度だとかが脳に追いつかないらしい。
 一方ロゼウスは推測をシェリダンの言葉に裏付けられて多少は落ち着いた。茶髪に灰色の瞳は大地の王国セルヴォルファスの民の特徴。目の前の相手は民ではなくシェリダンと同じように若くして国を治める少年王のようだが。
 そしてセルヴォルファスは《人狼の国》。
 獣の耳と尾を持つこの少年は人狼――ワーウルフだということだ。
 しかし肝心の謎がまだ残っている。
「それで……素性はわかったけれど……」
 ロゼウスはセルヴォルファス王になんて会ったことない。もしかしたら最近まで王子だったのかも知れないけれど、それでもやっぱり会ったことはないはずだ。
 混乱するロゼウスの様子にも構わず、少年はシェリダンとロザリーの二人を拗ねたように睨み付けながら言った。
「何するのさ。せっかく人が初恋の人との感動の再会をしているところに水を差して」
「は」「い?」「え? はつこ……」
 シェリダン以下、部屋中の人々の言葉が消えた。
 初恋!? 何の話!?
 エチエンヌもロザリーもシェリダンもセルヴォルファス王と判明した少年も全員の視線がロゼウスに集まるが、ロゼウスは勢いよく首を横に、否定の方向に振ることしかできない。
「ちょっと待って! 知らないぞオイ!」
 なんで見ず知らずの人間から、っていうか正確には魔族だけどそんな相手から衝撃の宣告を受けねばならないんだ!?
 身に覚えはないが当事者扱いされて困惑するロゼウスの様子を見て取ったのか、ふとセルヴォルファス王は何かに気づいたかのように、ようやく得心がいったという顔でさらなる問題発言をした。
「ああ、もしかしてこの姿を見るのは初めてか」
 彼の灰色の瞳は真っ直ぐにロゼウスへと向けられる。
 灰色の、瞳。
 会った事はないはずだけれど、何故かその色に既視感を覚えた。この瞳、は確かに知っているような。でも思い出したくないような……。
「何……?」
 じっとりと背中に嫌な汗をかいたロゼウスを微笑んで見つめたまま、彼はその輪郭を緩やかに崩す。そうして。
『この姿なら、覚えてる?』
 脳に直接伝わる魔力の声とともに、現れたのは薄茶の毛並みと灰色の瞳を持つ一匹の狼の姿。
 それを見て一気に記憶が刺激される――思い出した。あの時の!
「―――――――っ!!」
 声なき声でロゼウスは思いっきり叫んだ。


102

 あまりのことに腰が抜けた。
『ねぇねぇロゼウス王子、覚えているでしょ? 俺のこと』
 目の前の狼が口を開いて喋っているわけではない。脳に直接響く魔力の声は弾んでいて嬉しそうだ。狼は千切れんばかりに尾を振っていて、その喜びようは傍目にもわかる。
 しかしロゼウスはそれどころじゃなかった。
「近寄るな!」
 擦り寄って来ようとするその獣を、全力で振り払った。ヴァンピルの全力で弾き飛ばされた狼が、キャインと短く悲鳴をあげて壁際まで飛ばされる。
「ロゼウス?」
「どうしたのロゼ?」
 シェリダンとロザリーが気遣わしげな声をかけてくるが答えられない。全身に嫌な汗が吹き出て、体が震える。両腕で自分の体を抱きしめて蹲る。
 狼、あの時の。あの時の!
 思い出すのは今よりも数年前の出来事。
「ロゼウス? っ! まさか……」
 先日の話によってロゼウスの様子の変化に気づいたらしきシェリダンが、顔色を変えて駆け寄ってくる。
 壁に激突させたにも関わらずほとんどダメージを受けていない狼がそろそろと怪訝な顔をして近寄って来ようとするのを、無言で押し留める。庇うようにその腕の中にロゼウスを庇って、人肌の温もりに涙が出そうになる。
「こいつなのか?」
「っ……!」
 ロゼウスは声を出すこともできずに、ただコクコクと首を振って頷いた。
 シェリダンは他国の王に対し、建前上の礼儀もかなぐり捨ててセルヴォルファス王を睥睨する。
 俯いたロゼウスの視界に映る影の形が変わり、狼が再び獣耳の少年の姿に戻ったことを示した。
「ロゼウス王子」
 通りよい声に名を呼ばれて、ギクリとする。聞いたことのない声。見たことのない姿。
 でもその灰色の瞳は知っている。
『兄様、それ、何?』
 ロゼウスはずっとドラクルに弄ばれていた。虐待を受けていた。その中の悪夢の一つに、彼はいたのだ。
 ある日ドラクルが彼の寝室に連れ込んでいたのは、一匹の狼だった。淡い茶色の体毛に、灰色の瞳。見事な毛並みの、美しい獣。
『彼がお前を気にいったんだってさ』
『非公式だけれど彼は大事な客人だ。ロゼウス、相手をしてやってくれる?』
『やめ、お願……兄様ぁ……』
 目の前のセルヴォルファス人の少年は、あの時の狼だ。まさか人狼だとは思いもよらなかった。
「なんだよ、俺、何か――」
「ヴィルヘルム=ローア=セルヴォルファス王」
 口を尖らせて不満を示す彼を遮るように、シェリダンがその名を呼んだ。
『ヴィル』
 そうだ、確かシェリダンはあの時の狼をそんな風に呼んでいた。ヴィル、ヴィルヘルム。
 あの時刷り込まれた恐怖が甦って、まともに顔を上げることができない。シェリダンに縋り付いたまま、体を震わせる。
 あれ以来ずっと、ロゼウスは犬などの獣が怖かった。猫や鳥はいい。でも、犬や、まして狼なんて見たくもなかった。なのに。
「すまないが、出て行ってもらえぬか? 貴殿の話はまた明日聞こう」
 ロゼウスを強く抱きしめながら、シェリダンがヴィルヘルム王に射殺すような眼差しで、声で告げる。
「……何? シェリダン王。あなたになんで俺の行動を邪魔されなくちゃならないわけ?」
「ここは私の国だ。勝手な真似は慎んでいただこう」
「だからって」
「いいから、さっさとこの部屋から出て行け」
 口調こそ荒げるわけではないがいつになく強い調子で、シェリダンが命じる。立場こそ対等であるはずの両王だが、ここはエヴェルシード。鼻を鳴らしたヴィルヘルム王が冷ややかな声で。
「嫌だと言ったら?」
 宣戦布告する。ロゼウスはようやく顔を上げて、彼の様子を見る。
 灰色の瞳はまだ熱心に、ロゼウスのことを見ている。……先程、彼はなんと言ったのだった?
「ねぇ、ロゼウス王子」
「セルヴォルファス王陛下」
「ヴィルでいいよ。ねぇ、どこかで、ちゃんと話しない? どうやら色々と誤解もあるようだし」
 誤解? 誤解なんてない。
「俺は……」
「彼は私の人質だ。私の許可なく近づく事はやめてもらおうか」
「シェリダン」
「我が国がローゼンティアを支配下に置いたことはそちらも当然知っているはず。他国の捕虜に勝手に声をかけるなんて許されない。それに、そちらは魔族のようだしな」
「同類同士だから俺がローゼンティアを解放するために人質を逃がすかもって?」
「そうだ」
「呆れた」
 やれやれとヴィルヘルム王が肩を竦める。
 シェリダンの言い分は正しくても、普通友好国相手にそんなことを言いはしない。今の会話は、わざとそれとない理由を明かすことで、近づくなと言う牽制。
「だいたい、何でシェリダン王がそこまでロゼウス王子を庇うわけ?」
「それは――」
 ふと、言葉が出なくなったシェリダンにヴィルヘルム王が言い募る。
「ねぇ、君の大事な花嫁は、本当に後ろの彼女? それとも――」
 背後でエチエンヌと共に成り行きを見守っていたロザリーが息を飲む。見破られた? こんなところで。
 しかし救いの手は意外なところから現れた。
「あら」
「おや」
 暢気な声に振り返れば、開けっ放しの扉から似たような二つの顔が覗く。
「何だか大変なことになっているようだけれど」
 世界皇帝デメテル陛下は言った。
「僕たち、なんかマズイところに来たって感じ?」
 ハデスが尋ねる間に、シェリダンはロゼウスを支えつつ立ち上がった。体の震えもそろそろ収まっている。
 だが、この現場を見られた。皇帝陛下に。
「セルヴォルファス王ヴィルヘルム」
 彼女は流暢な発音で、人狼の国の若き王の名を呼んだ。
「どーも、皇帝陛下」
 ヴィルヘルムの反応を見てみるだに、二人はすでに面識があるようだった。それまで飄々としていたヴィルヘルムは、途端に不機嫌な顔つきになる。
「訪れた他国に面倒をかけるなんて、一国の主として自覚がなってないのではないの?」
「俺が何しようと、俺の勝手だ」
「あなたがただのワーウルフの長ならそれでもいいけどね。セルヴォルファス地区はもう立派な一国なの。その王に、責任知らずの勝手な振る舞いをされては困るわねぇ」
 手に持った黒い羽を使った扇をぱちりと音を立てて閉じて、皇帝陛下が微笑んだままヴィルヘルム王を嗜める。深淵のような黒い瞳には、生半な者には直視できないような鋭い光が宿っていた。
「ちっ」
 ヴィルヘルムは舌打ちして、部屋を出て行く。
「仕方がない。今日のところは、これで退散しますよ。またね、ロゼウス王子」
 最後にひらひらと手を振って、彼は消えた。ロゼウスは体から力が抜けて、その場にもう一度崩れ落ちる。
「ロゼウス!」
 シェリダンに預けた片腕だけが、上に引っ張られる情けない形になる。色々なものが頭を巡って、上手く物事が考えられない。
 そんなふやけた頭に、涼やかな声が降って来る。
「なんだかお疲れのようだし、話は明日にしようかしら」
 皇帝陛下は口元に例の謎めいた笑みを浮かべながら言った。そのままくるりと、呆気ないほどあっさりと踵を返す。
「デメテル陛下、こちらへは一体何をなさりに――?」
 そして彼女は尋ねるシェリダンの声に軽く振り返り。
「言ったでしょ? 私は、あなたの《本当》の花嫁を見に来たの」
 ロザリーではなく、間違いなくロゼウスの方を見ながら告げた。
 その微笑みは美しく酷薄で、先程のヴィルヘルムとは比べ物にならない恐ろしさだった。

 ◆◆◆◆◆

 晩餐会が始まる。
『言ったでしょ? 私は、あなたの《本当》の花嫁を見に来たの』
 デメテル陛下の言葉が頭から離れない。男で、そしてシェリダンの王妃だとバレた以上これ以上の芝居は無意味だと、ロゼウスは再び女装をしてシェリダンの隣に立つことになった。
 晩餐会が始まる。
 各国の客人を集め、皇帝陛下の訪問を祝うために行われる華やかなパーティー。デメテル皇帝陛下はさほど各国との友好や協力関係に力を置くタイプではないし、シュルト大陸の王族とはあまり顔を合わせないことで有名だ。彼女に取り入ろうと、要人たちが着飾ってこの晩餐会に参加する。
 エヴェルシード王であるシェリダンの結婚祝いなどというのは名目でついでで、彼らにとって肝心なのはデメテルに顔を覚えてもらうことだった。主催であるシェリダンは広間の一段高い場所から開催の言葉を述べ、その後は、皇帝陛下ほどではなくとも今現在この大陸で大きな影響力を持つ軍事国家の君主、シェリダンに取り入ろうとやってきた輩の対応に追われていた。
 ロゼウスは、そんなシェリダンの様子を眺めながら、することもなく立ち尽くしていた。万一にも正体を知られるわけにはいかないので、極力口を開くなとも命令されている。いつもの皮肉げな表情が嘘のようににこやかな顔で要人たちをあしらうシェリダンを見ながら、ぼうっとその場に佇んでいた。
 そのロゼウスに、声をかけてきた相手がいる。
「殿下」
 ロゼウス、と名を呼ぶのはまずいと判断したものか、昼間の体当たりよりはよっぽど落ち着いた、これが普通だと言う様子でセルヴォルファス王ヴィルヘルムが話しかけてきた。人狼族である彼も、獣耳や尾はそのままだがきちんと着飾ってこの場に出席していた。
「セルヴォルファス王……」
 昼間のことを思い出して思わず一歩引くロゼウスに、彼は苦笑する。
「ヴィルでいいよ。ヴィルヘルムでも。せっかく地上には少ない魔族仲間じゃん」
 確かに現在アケロンティス帝国世界の地上に存在する魔族は少ない。吸血鬼、人狼、人魚の三種族だけだ。残りの種族は地下世界エレボスとタルタロスに留まっている。その扉を開き、自由に行き来できるのは今のところ《冥府の王》であるハデスだけだ。
「……」
 しかしだからと言って、あんなことがあってロゼウスがこの少年を信用したり気を許したりなどできるはずもない。
 もう一歩距離をとると、セルヴォルファス王は拗ねたように唇を尖らせた。彼らの様子に気づいたシェリダンがヴィルヘルムをきつく睨み付けるが、気にしている様子はない。
「さっきはごめんなー。嬉しくて、思わず舞い上がっちゃった」
「嬉しい?」
「そう。昼間も言ったけど、あなたは俺の初恋相手だからね」
「……」
 どう返せばいいんだ。駄目だ。この人とは会話が続かない。
 戸惑うロゼウスの様子を気にもせず……むしろ、意図的に無視をしながらセルヴォルファス王は詰め寄ってくる。
「ドラクルとは最近顔を合わせないけど、まさかこんなところで君と遭えるとはね」
 思いがけず彼の口から出た名前に、ロゼウスは動きを止めた。
 ドラクル。ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
 ロゼウスの兄。ローゼンティア第一王子。
 ロゼウスがヴィルヘルム王と知り合ったのも、そもそもはドラクルが発端だ。
 けれど、今は聞きたくない名前だった。
 何も考えたくない。思い出したくない。それでも消えることのない過去がついてくる。
「……どうしたの?」
 セルヴォルファス王が、小首を傾げて尋ねてくる。どう答えればいいのかわからない。俺は……兄様は――。
 思わず口元を押さえて俯くと、バロック大陸のチェスアトール王国宰相と話しこんでいたシェリダンが気にかけるような視線を送って来た。しかし異大陸の要人とは滅多に話す機会もなく、ここで無理矢理座を辞すわけにはいかない。もどかしげな気配もそのまま、彼の視線はロゼウスから離れた。
「ねぇちょっと」
 そこで、女性の声が挟まれた。
 様々な趣向を凝らして黒地でありながらこれ以上ないほど派手なドレスを身に纏った皇帝デメテルが話しかけてきた。
 それに救われたような、今度は何を言われるのかと戦々恐々としながら彼女の言葉の続きを待つ。
 化粧で少し年上に見せているが、もともと彼女は十八歳の時に皇帝に即位して体の成長を止めた。至近距離で向き合えば予想よりも若い美貌を見ながら、ロゼウスは言葉もなく立ち尽くす。
「ヴィルヘルム王、なんで毎度毎度私の邪魔をするのかしら? ねぇ、これって私の歓迎会なのよね? それで、そこにいる王妃様のお披露目晩餐会」
 これはこれで厄介な状況だ。白魚の指先が伸びて、ロゼウスの腕をとった。
「あ、あの……」
 大きな声を出して他の招待客に勘づかれるわけにもいかず、蚊の鳴くような囁きで尋ねれば悪戯っぽい笑みが返された。
「主催者の妻ならば、主賓の接待は当然の勤めでしょう?」
 血のように紅い唇を吊り上げて彼女はロゼウスの手を引いて広間の中央へと連れて行く。並べられる料理にも酒精の類にも目をくれず、二人で向き合った。踊るわけでもない。何故ならロゼウスは今女性の装束を身に纏っているから。
 周囲の視線が、二人に集中する。
 世界皇帝が対外的には侵略された国の吸血鬼の王女とどんなやりとりを交わすのかに人々の薄暗い興味が集中している。エヴェルシードはシェリダンとハデスが知己であるためそれなりに皇族とも縁が深いが、一般的にはそのことは知られていない。これまで世界皇帝となんら関係のなかったはずの国の王妃が皇帝と話す。これだけで、注目を集めてしまうのは仕方ないと言えるだろうけれど、でも。
 シェリダンがチェスアトールの宰相そっちのけでこちらの様子に気をとられている。でも問題はない。何故なら宰相の方もこちらに気をとられているから。
 部屋の中、小姓や侍女の姿で給仕をしながらさりげなく警護にも気を配るローラやエチエンヌ、リチャードも険しい顔つきでこちらに注目しているのがわかった。ロゼウスの替え玉をする必要がなくなったロザリーも広間の中にいて、何人かの淑女と適当に話を合わせていたのを切り上げて、こちらに向かおうとしている。
 椿の花のように紅い唇が、白い歯を零すように開かれた――と。
 部屋中の明かりが消えた。
「え!?」
「きゃあっ!!」
「何が起こったんだ!?」
「早く明かりを!」
あちらこちらで動揺した客たちの悲鳴があがる。突然広間の照明が全て消えたのだ、これだけの人々がひしめきあっている空間で混乱に陥らないはずがない。
「ローラ! リチャード! エチエンヌ!」
 シェリダンが叫んだ。ただの給仕に交じって働いていた彼らはすぐに反応し、広間の中を駆ける気配がした。急いで明かりをつけようとする彼らと、不安に慄く客たちの息を潜める気配と、対照的に一部の派手な悲鳴。
 けれどその中に、異質な何かが混じっているような――。
「ロザリー!」
 ロゼウスは思わず叫んだ。すぐに答えが返る。
「わかってる! そっち――」
 彼女の言葉が終わらぬうちに、こちらへ迫る気配を察した。しかし狙いはロゼウスではない。咄嗟に腕を突き出す。
焼け付くような痛みと共に、左腕が白刃に貫かれる。だけれど、ヴァンピルにとってはたいした傷ではない。それよりも。
「誰だ!」
 誰何に答えない闖入者が、再び刃を振り上げた――。


103

 この感覚は、知ってる。
 暗闇の中で剣を合わせながら思った。相手はかなりの剣の上手だ。こちらに肉薄する白刃の威力が並ではない。避け損ねたらすぐに腕なり足なりを持って行かれるだろう。
 そして、覚えがある。剣の太刀筋、重さ、攻撃の形態。ちりちりと、首の裏に焦げ付くような嫌な感覚が走った。
 後方に一度跳んで素早く構えなおしたところで、剣戟を受けとめる。相手が接近したその際には即座に間合いを詰めると、反撃に転じる。だが相手は闇に同化する濃紺の衣装を身につけていて、うっかりすると見失いそうになる。
 そもそもヴァンピルであるロゼウスは闇の中で戦うのに向いていない。今この時のように、相手の目的が暗殺であるならば。肌も髪も白で嫌が応にも目立ってしまうのでは、囮としては動きやすいが、誰かを守ることには向いていない。
 そして、そんな役立たずのロゼウスに守られた女性はただ底冷えのする瞳で相手を睨んでいる。まだ救いであるのは、ロゼウスの姿は闇の中で見つけ出しやすいが敵の狙いである彼女は見つけにくいことだろう。黒い髪と黒い瞳に黒いドレスを纏う皇帝陛下は、室内に落ちた漆黒の帳に上手く溶け込んでいた。
 気配と息遣いを頼りに、ロゼウスは相手の体に剣を振り下ろす。全てがかわされるか受けとめられるかで、状況は一進も一退もしない。一応周囲の人影には最大限きを配っているのだが、料理の並べられた食卓にまでは意識を向けられずテーブルクロスを踏みつける感触と、皿の割れた音がした。
 不安にさざめく人々の声と、押し殺された悲鳴。
「陛下!」
「シェリダン様!」
 聞き覚えのある声が響いた途端、広間に少しだけ明かりが戻った。シェリダンの指示によって照明を復興することを最優先とされていたエチエンヌたちが、明かりを取り戻したのだ。壁際の燭台に火をともしただけとはいえ、さすがに先程の闇とは違う。
 短い舌打ちが、剣を合わせているのとは別の相手から聞こえた。しかもそれは遠く、ロゼウスの見知った気配のすぐ近くにあるのだ。
「――シェリダン!!」
 思わず名を呼んでしまった。自分の口から出た悲鳴は遠く、中途でひきつれる。
「ロゼ! 退いてっ!!」
「ちょっと待て! ロザリー!! それはやめっ」
 そしてこちらの名も呼ばれ、ついで何か重量のある塊が勢いよく飛んでくる。直前で何事か喚いていたシェリダンの言葉も終わらぬうちに、広間に破壊音が響いた。
 どんがらがっしゃん!
 ロザリーが、人間の大の大人が十人がかりで運ぶような広間の机の一つを投げたらしい。
……もう滅茶苦茶だ。
 だけどそれで一応は、事態は収束を見る。さすがにこんな混乱状況では標的を仕留めることもかなわないと悟ったのか、敵が退いていく。
 けれど、その敵とは――。
「あーあー、やっぱり邪魔しちゃったんだ」
 広間を埋め尽くすこれだけの人数がいるにも関わらず、刺客はすでに姿を消している。ロザリーに今にも掴みかからんばかりに攻め寄っていたシェリダンも応急処置ではないちゃんとした明かりが改めて灯されだすと、この騒ぎを治めるために口を開いた。凛と通る彼の声は人々の声を鎮める響を持っていたけれど、その彼よりもすぐ近くから話かけてきた人物のせいで、満足にその言葉を聞き取る事はできなくなった。
「セルヴォルファス王……」
「ヴィルでいいってば。ロゼ……姫」
 ドレス姿に多少戸惑ったように言葉を濁しながらも、セルヴォルファス王ヴィルヘルムはロゼウスの名を呼んだ。
 何となく顔を合わせるのがいたたまれなくて、ロゼウスは視線を逸らす。その顎にさりげなく指を伸ばされ、無理矢理彼の頬を向かされた。
「そこまで避けるのは酷くないか? 何なんだよー」
「何でもない、酷くない」
 視線を固定されて不機嫌が増したロゼウスをセルヴォルファス王は楽しげに見つめた。そして、促す。扉の外を見るようにと。
 暗い闇に溶け込まない色彩で、一人の少年が悲しげに佇んでいた。
「……ジャスパーっ!」
 紆余曲折を経て離れ離れになった弟の名をロゼウスは呼ぶ。
 そして彼の隣にいる人影にも気づく。
「ハデス」
「そう、ハデス卿だな」
 ここから広間の出口までかなり距離があるが、吸血鬼の視力の前には関係なかった。人狼であるセルヴォルファス王もそれは同じだ。漆黒の髪と瞳、そして剣を引っさげる。
 何故ハデスとジャスパーが一緒にいるのか。
 ロゼウスが動けないまま、広間は動き出す。人々が動き出す。ロザリーの勇敢な暴挙のせいで惨状と言い表すのがふさわしくなってしまった場所で、晩餐会など続けていられない。
「ねぇ、気づいてる?」
「ああ。まだいるんだろう?」
 詳しい事はよくわからないが、広間の周囲をうろついている鋭い気配を感じていた。セルヴォルファス王ヴィルヘルムは口に笑みをはいて、ロゼウスへと囁きかける。
「あれは、君の味方だよ?」
 それは甘い甘い悪魔の囁き。
 知ってた。
 気づいてた。
 わかっていた。
 これは同胞の気配。同胞の力。同じ魔力を感じる。ロザリーも何かを察したのか、ロゼウスの方へと駆けてくる。
 晩餐会はここで終了、お開きにしてまた明日やり直すとシェリダンが一段高いところから告げて人々を退出させた。残されたのはロゼウスとロザリー、ヴィルヘルムとローラ、エチエンヌ、リチャード、シェリダン。そして世界皇帝陛下。
「バイロン、では後の事は」
「はい。お任せください、陛下」
 有能な宰相に後始末を言いつけ、シェリダンがロゼウスの方へと歩み寄ってきた。
「この馬鹿」
「え?」
「怪我してるじゃないか。見せてみろ」
 触れられた頬に、ピリ、と刺激が走った。いつの間に切れていたのか、そのことにもロゼウスは気づかなかった。どうでも良かった。
 それよりも、今はこの積み重なった謎をどうにかしたかった。
「シェリダン……この、状況は」
「とりあえず、今すぐに襲われるということはないだろう。今城内と周辺地域を調べさせている。ああ、陛下。歓迎会の準備の手直しもさせています」
「別に気にしてないわよ? あなたのナイト兼お姫様が、私を守ってくれたようだし?」
 皇帝陛下は意味ありげにロゼウスを見る。反射的にロゼウスを腕の中に囲い込むシェリダンの様子をくすくすと笑いながら、じゃあ、と彼女は白い手を差し出した。
 黒い封筒が握られた白い指。
 世界の運命を掴む指先。
「皇帝陛下? なんですか、それ」
 怖いもの知らずのエチエンヌが、恐れ多くも直接皇帝に話しかける。デメテル陛下は意味ありげな薄笑いを浮かべて、その封筒をシェリダンに押し付けた。
 中身を見る前にまず署名を確認したシェリダンが、ハッと息を飲む。
 その封筒が、ロゼウスへと回された。銀字で記された署名を見たとき、ロゼウスにも嫌な予感はした。ぱっと見でさえ、その字は自分の良く知る誰かと似ている。
「皇帝陛下、これ」
「あなたがハデスと戦っている間、ヴァンピルのおにーさんが届けに来たのよ?」
 その言葉に、ロゼウスもシェリダンも驚いた。ヴィルヘルムはどうだか知らないが、ロゼウスにとっては二重の意味での驚きだ、まさか先程の戦い、相手がハデスであることに皇帝陛下が気づいていられるなんて。
「皇帝を舐めちゃ駄目よ? 私はね、私が関わる世界の出来事はなんでもわかるの」
 嘘か真か、皇帝以外には知りようもない言葉を吐いて彼女はロゼウスを追い立てる。
 ロゼウスがハデスと戦っている間、彼女に近づく人間なんて誰もいないように見えた。ましてや、それが同族である吸血鬼のものならすぐに気づけるはず。けれどロゼウスは気づかなかった。ロゼウスにさえ気配を悟らせないほど優れたヴァンピルなんて滅多に知らない。
 そしてその滅多にいない一人の名が、手紙には記されている。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。
 兄上。
 あなた、なのですか……?
「で、どうするの? ロゼウス王子」
 不自然なほどに凪いだ口調で尋ねる皇帝陛下に誘導されるように、ロゼウスは答えていた。
「行きます」
 手紙の中に記されていたのは、今夜、王城があるシアンスレイトに近いある森で待つという短い文面。
「ロゼウス」
 シェリダンが張り詰めた面持ちでロゼウスを見つめてくる。彼にだって予想できない事態は多い。これまで一つずつは別々だった物事が、どうやらもう少しで一本の糸で繋がりそうで、自分も彼も途方に暮れた。
 それでも。
「俺は……ドラクルに会って、全てを知らなければならないから」

 ◆◆◆◆◆

 まず、状況を整理しよう、と誰かが言った。
「この襲撃の目的は?」
「私の暗殺。ついでにその手紙を薔薇の王子に届けること」
 シェリダンの声に答えて、大地皇帝はいとも簡単に言ってのけた。暗殺されかけた張本人しては、あまりにも余裕のありすぎる態度だ。
「襲撃者は」
「ハデスよ」
「ロゼウス、本当なのか?」
「あ……ああ」
 シェリダンの言葉に、ロゼウスはぎこちなく頷く。けれどそんな気遣いも空しく、実の弟に命を狙われた当人はまたしても余裕綽々で言ってのける。
「ハデスは私を嫌っているからねぇ。隙あらば皇位を狙って刺客を送ってきているもの。バレてないって、思うあたりあの子もまだまだ詰めが甘いわよねぇ」
 くすくすと、いとけない子どもの悪意なき悪戯を笑うように皇帝デメテルは弟の動向をそう評する。もちろん現実にはそんな可愛らしいものではない。先程、剣を合わせたハデスの殺気は本物だった。相手がロゼウスであることに舌打ちしていた。
「というかそもそも、皇位って奪えるものなんですか? この世で皇帝だけは、神による選定がなければ、つけない玉座でしょう?」
 世襲制は大原則として適用されないはず。陛下の言葉に疑問を感じたロザリーがそう尋ねた。
「まあ、基本はそうなるわけだけど、自分は皇帝だって名乗るだけなら勝手じゃない? そして、自分が皇帝に相応しいって、他の人間に勝手に認めさせるのもね」
 帝政は原始の時代からあったものではなく、神去暦という小国乱立の時代に暴国の圧制に耐えかねた革命軍が新たに起こした制度だ。その時に皇帝の全世界統治を確立したシェスラート=エヴェルシードのように、新たな世界支配制度を勝手に確立してしまうのなら。そしてそれを一から始めるのではなく、まずは自らが最も近くにいる最高権力者の寝首を掻くことから始めるのなら。
「つまり、ハデスの狙いは、神の神託そのものを潰すこと」
 シェリダンが重苦しい表情で言った。
 ハデスの狙いは、姉であるデメテルを弑して自らが玉座に着き、そして神の選択による皇帝制度を廃止することだと。
「まあ、現実には単に自分が皇帝になりたいだけなのでしょうけどね。あの子は小難しい政治に関わりたい願望なんてないし」
「皇帝陛下」
「やっぱり、偽りの選定者は駄目ね。神に選ばれていない偽者だから、忠誠心がないわ。こういった苦労をしたくないのなら薔薇王子、あなたはどんなに馬が合わなくても選定者はちゃんと天命を受けた人間を選んだ方がいいわよ?」
「え?」
 何故、そんなことを彼に言うのだろうか。大地皇帝デメテル陛下は花のような笑みを浮かべて、ロゼウスの方へと視線を向けている。それでは、まるで――。
「っ!」
 いつかの幻の声が蘇りそうになり、ロゼウスは咄嗟に目を逸らした。突然の無礼だったが、皇帝陛下は気にした様子もなく笑った。代わりにいきなり顔を向けられて一瞬驚いた表情をしたのがシェリダンだ。それを誤魔化すかのように、彼は尋ねた。
「ところでロゼウス、お前その剣はいったいどこから?」
 そもそも王妃が帯剣して晩餐会に出席するのはおかしいので、ロゼウスは剣を佩いていなかった。そのことに気づいたシェリダンが眉をしかめる。
「その辺の人の持ち物を勝手に拝借しちゃった……」
「お前……」
「いいんじゃない。そっちについては、私が後で適当に誤魔化しておいてあげるわよ」
 簡単に言い切って、皇帝陛下は話を先に進めた。
「それよりも、私の方の情報はこれでいい? なら、さっさと薔薇の殿下の話に入ったほうがいいんじゃない?」
 白魚の指先が、ロゼウスの手の中の封筒へと向けられた。
「それ、なんて書いてあるのかしら? ぜひ聞きたいわ」
 無邪気な笑顔を向けられて、ロゼウスははっとした。先程手紙を渡されてから、一枚目は読んだけれど、実はもう一枚便箋が入っていたのをしっかり彼女に見られていたのだ。シェリダンやローラたちの視線も、ロゼウスのその手元に注目される。
 意を決して、黒い封筒をもう一度開いた。中には先程と同じ普通の、とは言ってももちろん市井の人々が使うのよりずっと上等な白い便箋が入っていて、たった一言だけ書かれていた。
 ロゼウスは、言葉を失った。
 隣まで歩み寄ってきたシェリダンがロゼウスの指先から手紙を奪う。便箋だけ持って行って、用を果たした封筒は床に落ちた。食卓が壊されて大惨事を起こした広間の中、零れた紅き血のようなワインの中にそれは沈み、兄の名前が滲んで溶け出していく。泣いているみたいだと一瞬思った。
 あまりのことに声が出ないロゼウスの代わりに、シェリダンがそれを読み上げる。
 便箋と同じく上等なインクで、しかし見慣れた、優美だけどどこか神経質な印象を与える文字で書かれていたたった一言。
「『迎えに行く』」
 部屋に沈黙が降りた。
 一枚目には、森で待て。
 二枚目には、迎えに行く。
 酷い矛盾だ。
「迎えに、って……」
 ローラが、エチエンヌが、リチャードが、ロザリーがロゼウスを見る。ロゼウスはどう返していいかわからない。シェリダンは便箋を睨みつけたまま厳しい目をし、皇帝陛下はいまさら微笑を隠すために、黒い羽でできた扇を開いた。ぱらりと微かな音がした。
「ロゼウス」
 名を呼んだのはロザリーだ。のろのろと顔を上げたロゼウスに、蒼白な顔で彼女は告げた。ああ、自分もきっと妹と似たような顔をしているだろう。
「さっき、皇帝陛下をハデスが狙ってたっていった時、こっちでも一悶着あったのわかった?」
「ああ。わかってるよ。でも何があったのかまでは、詳しくは知らない」
 ヴァンピルは夜闇には強いけれど、ロゼウスと剣を打ち合わせていたのは何しろあのハデスだ。一瞬たりとも気が抜けなかった。
「シェリダンも狙われたの」
「えっ!」
「ロザリーに庇われたが」
 便箋を適当に床に放り捨てる。シェリダンはようやく顔を上げてロゼウスを見た。琥珀の中に炎を閉じ込めたような朱金の瞳に、でかでかと不機嫌と書いてある。
「何が……あったの?」
 ロゼウスが聞くと、これまで気丈な顔をしていたロザリーの表情が見る見るうちにくしゃりと歪んだ。悲鳴のような高さで答えが紡がれる。
「ジャスパーだったの」
「え?」
「ジャスパーとウィルだったの、襲撃者。だから、咄嗟に机投げて」
 確かにロゼウスは、最後にジャスパーの姿を見た。それも、ハデスと一緒に。そしてウィルもいたということは。
 相手が吸血鬼であるということは、明るい場所で見ればすぐにわかってしまう。だからあの時、顔を見せられない彼らを撃退するためにシェリダンは照明を付け直すことを最優先にし、ロザリーはわざと相手と直接対峙しないであんな暴挙に出たのか。
「これだけの大掛かりな仕掛け、あの子たちだけでできるわけない。だから多分、アンリやミザ姉様も絡んでると思う。それに、ドラクルも……」
「今回の襲撃者は、皆手を組んでいると考える方が普通だな」
 ハデスも、アンリやジャスパーたちの一団も、そしてドラクルも。
「大変ねぇ。ってことは、つまり私とハデスのことと、あなたたち全体に関わることってのは何かつながりがあるわけね」
 それまで彼らのやりとりを聞いていた皇帝がそう言った。
「繋がり……」
 まだだ、まだパズルのピースが足りない。ドラクルと、アンリたちローゼンティアの兄妹が揃ってハデスと協力している、でもそれだけではないような気が、まだする。
「シェリダン様、ロゼウス様」
 硬い声音でリチャードがそのピースの一端を示した。
「確か剣術大会御前試合の時に、ローゼンティアの第二王子殿下たちは、カミラ殿下と手を結ばれていましたね」
「!」
 皇帝を除く全員がはっとした。
「それに、ここ最近王城の周辺を不審な影が徘徊しているという情報も、今日になってようやく出てきました」
「本当か? リチャード」
「ええ。先程警備のモリス隊長が報告してきました。そしてそれはどうやら……」
「ヴァンピルだった、と」
「はい」
 王城内ではないが、外に同胞の気配を感じた。ある程度の規模の集団が出てこないと、そんなことには気づけなかっただろう。
『あれは、君の味方だよ?』
 あの混乱の最中にセルヴォルファス王は囁いた。
 そう言えば、今ここにいない彼は事態と一体何の関係があるのだろうか。注意をしておくに越したことはない。
「ローゼンティアの軍勢が動く、ということでしょうね」
「ってことは、エヴェルシードとローゼンティアの間でまた戦争ですか」
 双子人形は事も無げに言った。
「なっ、ローラ、エチエンヌ」
「「本当のことでしょう」」
「まだ決まったわけではないぞ」
「そうねぇ。でも、限りなくその思惑は当たってると思うわよ」
 シェリダンが窘め、デメテルが持ち上げる。デメテル皇帝陛下はさらに、意味深な言葉を吐いた。
「でも、敵って……ややこしいからエヴェルシード王にとっての敵としておくけど……本当にローゼンティアなのかしら? この戦いは、エヴェルシードとローゼンティアの争い、そんな単純なもので表せるのかしら?」
「……皇帝陛下」
「ねーぇ、薔薇王子。世界っていうのは、誰を中心に回っていると思う?」
 彼女はうっそりと微笑んだ。
「単純にローゼンティア王家が、国内の迎撃体制を整えてエヴェルシードに反撃をしかけるためにロゼウスとロザリーを取り戻しにきただけではないっていうことですね」
「そうでなきゃ、私のハデスがわざわざ力を貸す理由ないもの」
 真実はどこだ?
 敵は、味方は、戦うべきは。
 そして自分は何者なんだ。
 世界は誰を中心に回っている?
「知りたければ、その誘いに応じなさい。ロゼウス=ローゼンティア」
 零れた残飯の中に打ち捨てられて読めなくなった手紙だけれど、署名も内容も忘れるわけがない。赤ワイン染めの文字が脳裏に浮かんだ。
 迎えに行く。
「地獄からのお誘いね」
 そのためには、ロゼウスに来いと。なんて笑えない、浪漫のない逢引約束。
「……わかり、ました」
 その言葉は手紙の差出人であるドラクルに向けたものか、命令だと言った目の前の皇帝に向けたものか、ロゼウス自身にもわからなかった。


104

 囁く声がする。
 ――……か、……陛下。
 自分を呼ぶ切ない声。でもその声自体に何らかの感慨があるわけじゃない。彼が切ないと思うのは、その声が自分に囁く響が、まるで墓石を前にした人間のそれだからだ。
 ――それは全て、あなたの……。
 言わないで。聞かせないで、見せ付けないで、突きつけないで。
 こぽこぽ、こぽりと胸の奥に水音が。
 決して浮かび上がっては来れない、地上に顔を出す前に弾けて霧散する泡沫のような。
 縋り付いて引き寄せて低く、その耳元で囁く。触れ合わせた冷たい頬に、雨のように透明な雫が降った。
 この頬を滑り落ちて顎先から滴るしずく。
 もう泣くことの出来ないその身に、せめて涙の雨を。
 拭う指先は存在せず、ぬくもりは失われてしまっても。
 意識が混濁する。
 これは「いつ」だ? 過去にこんな記憶はない。では未来か? そんなもの、実際にその未来が来て見なければわからないじゃないか。明日の出来事を誰にも照明する術はないのだ。
 だからこんなのは嘘だ。
 地下室へと降りていった。階段は薄暗いのに手入れが行き届いていて埃一つ落ちていない。当然だ、あの場所は《完全なる大地》なのだから。その居城の壁の、石畳の一つだとて、支配者の意に沿わぬ場所はないのだと。それは神に選ばれた土地。
 通路は薄暗かった。その場所に燭台などいらなかった。壁自体が薄く蛍のように発光して足元を照らす。長く歩き続ければ気が滅入るを通り越して狂いそうになるその道を歩いた。風も通らず、閉塞の通路に冷気が篭もっている。
 やがて一つの部屋へと辿り着く。地下に作らせたそこは墓所であって墓所にあらず。横たわる屍を、自分は屍と認めたくないのだ。まるで美しい人形のように、硝子の柩に永久に閉じ込めておきたい。
 その現実と相反するように、彼がすぐにでも目覚めることを望んだ。
 叶わないとわかっていた。
 わかっていて、望んだ。
 あまりにも当然のように、見逃してきた日々の何もかもが尊く眩しい。取り戻したくて懐かしくてそんなことは神にさえできるわけはないと、知りながらそれでも過ぎ去った日々に恋い焦れた。
 物言わぬ骸に取り縋り、今にも動き出しそうなその屍が刻んだ淡い微笑に胸を抉られる。何故そんなに満ち足りた顔をしているのか。だってお前は、俺に――。
 白い瞼が永遠に閉ざした、その至高の朱金。
 琥珀の中で、真昼の陽光の中で炎が燃えているようなその瞳が好きだった。
 もう二度と、その目を見る事はできない。いや、見つめるだけならできる。屍の瞳を抉り出すなど簡単だ。けれどそれでは満足できない。その閉ざされた瞼が開き、自分を見つめてくれるのでなくては意味がない。
 指どおりのよい藍色の髪。緩く、優美な癖のついた宵闇の帳にも似た。鬱陶しいとそれをかきあげる嫌に気取った仕草も、何もかも覚えているのに酷く遠い。
 好きだった。好きだった。好きだった。お前が。
 愛していたよ。――本当は憎まなければならなかったのに。
 どんなに告白しても、もう答は返らない。言葉だけは残り、声音の記憶は薄れそうになる。その存在を失って以来何度も夢の中で同じ声を繰り返し聞いた。どんな罵りも侮蔑の言葉も嘲笑の響も、お前の声を忘れないために、幾度も夢の中で繰り返し繰り返し再生して、それが遠ざかる目覚めに泣いた。
 夢はいつも甘く、目覚めがその分苦かった。
 良薬口に苦しと言うのならば、甘美な妄想をいずれ忘れ去るべき記憶に変える夜明けは素晴らしき薬だったのだろう。哀しい記憶を永く抱えては生きられないと言うのならば、心についた傷は癒されねばならないのだろう。
 そしてそれが成就した暁に、自分は本当に彼を失うのだ。
 だから癒されたくなかった。忘れるものかと拳を握り締めた。忘れる事が救いだというのなら、俺は救いなどいらない。救われたくなどない。
 一度ついた傷口を、自らの爪で何度も抉る。心が血を流すたびに、これでまたお前を忘れずにいられるのだとようやく安堵の息がつけた。
 忘れない。忘れたくない。忘れられるはずもない。
 ――だって。
 何度も夢でその姿を見た。何度も夢でその声を聞いた。なのに、笑顔が思い出せない。硝子の柩に横たわる屍の古拙の笑み以外には、笑った顔が思い出せない。
 ――だってお前を殺したのは。
 これは自分の見た夢ではない。では、どうして。閉ざされた地下室の、硝子の柩に横たわる美しい人形のような屍。朽ちることもなく老いることもなく。満足かと誰かが問いかける。
 ――お前を殺すのは俺なのだから。
 それで「彼」は手に入ったのかと。
 緩く首を振って否定した。両手から甘い夢が零れおちていく。色鮮やかな虹の欠片だと思っていたものたちが、あっと言う間に透明な涙の雫となる。
 ぱたぱたと、その雫が眠る屍の頬に落ちる。
 ねぇ、なんでそんなに安らかに笑っていられるんだ。お前を殺したのは俺なのに。
 何度も同じ問を繰り返す。答えなど返らないとわかっている問を繰り返す。
 救われたくないならもう狂うしかない。
 こぽこぽ、こぽり。
 水音が世界に谺した。世界が水で満たされていた。自分が流した涙で溺れそうになる。
 涙の湖。
 ――皇帝陛下。
 世界が透明な液体の中にたゆたってその輪郭を朧にした。硝子の棺も地下室の光景も何もかもがやがて真っ白く、それでいて透明になる。湖の底に心ごと沈んだ。
 ――これは全て、貴方の見た夢。
 涙に溺れて息が出来ない。馬鹿だな。こんなに泣かなければよかったのに。自業自得でしかない。
 それでも何とか水面目指して浮上しようとする体に、何かが巻きついた。腰の辺りを掴むのは、白い腕。覚えのある感触。
 水草のように揺らめき、たゆたうは白銀の髪。
 振り返った目に映る、歪な笑みを刻んだ紅い唇。
 囁く。目を覚ませ、現実を見ろ、逃げる事は許さないと誰かが。自分の中で、その誰かが必死に扉を叩いている。鍵がかけられているならその鋼鉄ごと突き破ればいいのだと乱暴に、内壁を爪で削っている。
 その努力はいつか身を結んで、俺は「彼」にこの身を明け渡すのだろう。
 自分が砕かれる。俺が俺で無くなる。
 いつか、飲み込まれてしまう。
 そしてその鍵となるのは、まるでこの涙の湖の底の世界のように透明な硝子の柩で眠る彼。
 わかっている。わかっていた。
 彼を殺して、自分は狂うのだ。その命を奪って、『彼』が芽吹くのだ。それはもう自分ではない。けれど、彼がいない世界で、自分が自分であることに何の意味もないから。
 今の皇帝の治世は残り半年。
 そして湖の中、ロゼウスを引きずりこもうとする、その腕の主は。
『――っ!』
 紛れもない、自分自身だった。

 ぽたぽたと。
 まだ温かい頬に落ちる涙の雫。
「ロゼウス」
 掠れたその声はたいして優しくないのに、慈しみ深い。
 白い喉に紅い痕が残るほどに締め付けていた指を外した。シェリダンが咳き込む。目の端に涙が浮かんでいる。寝台がそれによって弾んだ。ロゼウスの手は力なく敷布の上に落ちた。呆然とした。声が出ない。
 ロゼウスは震えたまま動けない。真夜中の寝台で、いつものように身を寄せ合って眠っただけなのに、なんでこうなるんだ。
 ざわざわと血が騒ぐ。
 止められない。変質が始まる。もう一人の自分が嬉しげに笑った。
 その瞬間をロゼウスは忌避し、もう一人のロゼウスは待ち望んでいる。
 それでようやく《永遠》を手に入れられるのだと。
「シェリダン……」
 とっくに明かりを消した部屋で自分が今どんな顔をしているのかはわからない。ただ、夜目の利く瞳が、シェリダンの辛そうな様子を見つめているだけ。
 ごめん、と。
 今は言ってはいけないのだとわかっていた。
「どうした?」
 答える代わりにその膝に縋り付いた。
「ロゼウス?」
 溢れた雫で彼の夜着が濡れるのも構わずに泣き続けた。突然縋りつかれたシェリダンが怪訝な眼差しを向けてくるのに、何も言えない。
 だって俺はいつか、あんたを殺すんだ。
 そのためだけに自分は、そしてあんたは生まれたのだと――神様が囁いたのだ。

 ◆◆◆◆◆

 迎えに行くよ、地獄から。

「ねぇ、本当に来るの?」
 誰が言い出した言葉だったのか。
「おや、私の言う事が信用できないかい?」
「お兄様を疑うわけではありませんけれど」
 エヴェルシード王に囚われている二人を除く、ほとんどの兄妹が勢ぞろいしていた。いつの間にか現れた長兄と、次女。ドラクルとルース。
 いないのはいまだシェリダン王に捕まっているロゼウスとロザリー、そして唯一行方の知れない第五王女メアリーだけだ。そのメアリーに関しても、ドラクルに言わせれば心配はいらないとのことだった。半信半疑なれど、他に情報がないのも事実だ。
『元気そうで何よりだね――アンリ』
 その声を聞いた時、アンリは心臓が口から飛び出るのではないかと思った。これまで全くの行方知れずだったドラクルが、何故。
 いや、全くのと言ってしまうのは語弊があるのかもしれない。ミザリーとミカエラは、姿は見ていないけれどもドラクルとロゼウスが顔を合わせたという話を聞いたと言っていた。
 ローゼンティアを追われてから、ただエヴェルシードの目をかいくぐって生き延びるのに精一杯だったアンリたちには圧倒的に情報が足りない。集まった兄妹で顔を突き合わせて、情報を照合し真偽を判断し有益なものを拾っていく。その作業は後から後から謎や疑念や困惑を生んで、きりがなかった。
 ここはいまだエヴェルシード国内。その、とある森の中。
 最初からこの国にいたのは第二王子アンリと、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラと第六王子ジャスパー、第七王子ウィルに第六王女エリサ。そしてローゼンティア内の反逆者に捕まっていたという第一王女アンと第三王子ヘンリーが後から加わり、残るは五人だけとなった。そのうち二人、第四王子ロゼウスと第四王女ロザリーがエヴェルシード王城シアンスレイトにいるということまでもわかっていたから、実質的にその時点で行方が知れなかったのは第一王子ドラクル、第二王女ルース、第五王女メアリーの三人だけだった。
 その行方知れずの三人のうち二人までもが、今日になって突然姿を現したのだ。
「ドラクル、ルース」
「久しぶりだね。元気そうで何よりだ、アンリ」
「……おかげさまで」
 いくら久々の再会だからって、なんであんな惨劇の後初めて顔を合わせた兄妹の前でこの兄はこんな穏やかな態度でいられるのか。アンリは薄ら寒くなって、思わず自分の右腕で左肩を抱いた。
「二人とも、今までどこにいたんだ?」
「ちょっと昔のツテを辿って、いろいろなところを転々としていたよ。この国に留まらず、ルミエスタやセルヴォルファスの方にも手を回したかな」
「私は、ドラクルの交友関係の記憶を頼りに彼を捜していて、何とか途中で落ち合うことができたの」
 まるで当然の、簡単なことのように言う二人に眩暈を覚える。それが一体どんな労力を伴う難問なのか。多分、アンリにはできないことだ。
「アンリ、お前たちこそ今までどうしていたんだ?」
 やわらかに尋ねられて、アンリは咄嗟に何を言っていいのかわからなかった。……だって何から話せばいいんだ? 自分たちのこと、フリッツ店長のこと、ロゼウスのこと、エヴェルシード王のこと、イスカリオット伯とカミラ姫のこと、そして。
 ――ドラクルは一体どこまで知っているのか。
 イスカリオット伯は言っていなかったか? 全ては彼の手のひらの上なのだと。
 何故、ドラクルが。
「アンリ」
 思わず考え込んでいると、名を呼ばれて顎に手をかけられた。美形の兄は、逞しいとは間違っても言えない体つきなのに背が高い。アンリはドラクルの指によって、彼の方を見るよう僅かに仰のかされる。
「何を考えている?」
「あんたに……何から言えばいいのかと」
「ふうん。いろいろあったみたいだね」
 ドラクルはその秀麗な面差しに浮かぶ笑みを深くした。彼の顔を見て、アンリはロゼウスを思い出す。同じヴァンピルの兄妹でも腹違いの自分たちは皆それぞれに特徴があるけれど、それでも長兄ドラクルと第四王子ロゼウスの相似は目に付いた。もっともロゼウスとロザリーの性別を超えたそっくり具合に比べたら、まだ実の兄弟ならよくある範囲なのだが。
 ――駄目だ。思考が上手く纏まらない。
 ロゼウスは、ロザリーは、メアリーは。ここにいない兄妹たちのことが頭の中をぐるぐる巡っている。そのうちの一人、もしくは二人、ロゼウスとロザリーに向けては今日この夜、この場所に来るようにドラクルが指示を出したとは言っていた。そして彼は昨日、弟の一人であるジャスパーを伴ってどこかに出かけていたようだった。
 そしてその同じ時間に、シアンスレイト王城で騒ぎが起きたのだとアンリは後になって聞いた。
 ドラクルのやることだから、きっとアンリが御前試合を攪乱しようとした時とは比べ物にならないことを仕出かした……あるいは仕出かす下準備をしてきたのだろう。笑顔を浮かべているのに、いつもどこかこの長兄は得たいが知れなくて恐ろしいのだ。
「ドラクル」
 それでもここは年長者であるアンリとこの兄で場を収めるのが適当だと思ったから、アンリはぎこちなさを払拭しきれていなくても何とか会話を紡ぎ出そうと口を開いた。
「聞いてくれ、俺は――」
 だけれど、肩に重みが、背中に腕の感触が回った。え? と音にならずに呟く。
 抱きしめられていた。何の前触れもなく。
「もうすぐだよ、アンリ」
 アンリの耳元で、何故か切なげにドラクルは囁いた。
「もうすぐ、私の憂鬱が払われる。すでに邪魔な方はあの座から退いて頂いた。大公爵の位はありがたく使わせていただいたが、もとからもらえるはずだったものを目前でとりあげられるのはやはり気分が悪い」
「え? えっ?」
 何を言っているんだろうか彼は。邪魔な方? あの座? そして大公の位? 一体ドラクルは何の話をしようとしている?
 アンリの困惑を気にした様子もなくドラクルが満足げに微笑んで彼を放すと、月明かりが差し込む森の広場の入り口へと視線を向けた。
 つられて同じ方向に視線を向けた他の兄妹たちも一斉に同じ事に気づく。特に強く反応したのはジャスパーで、今にも飛び出していきそうな彼を、ミザリーとミカエラが二人がかりで押さえ込んでいる。それでもまだ暴れようとするジャスパーの耳元で、近寄ったルースが何かを囁くのが見えた。顰められた声はヴァンピルの耳にも聞こえなかった。
 そして、見つめる先からもはや間違えようもなく足音が聞こえてくれる。
 それは二人分だった。人間には区別がつかないだろう些細な変化から、彼らにはそれが同じくらいの年頃と体格をした、少年と少女のものだと言う事がわかる。
 月明かりが、その姿を照らし出した。
「ロザリー……ロゼウス」
 彼らと同じ白銀の髪に紅い瞳。よく似た顔立ちの二人。ロゼウスは今度はちゃんと男の格好をしていた。
 エヴェルシード王に囚われているはずの二人が、間違えようもなくしっかりとした足取りで、そこに姿を現したのだ。