092

「殺さない、あんただけは」
 執務が終わってその部屋を訪れてみれば、やけに憔悴した表情のロゼウスに迎えられた。
「……そうか」
 エルジェーベトが訪ねると言っていた通り、室内には彼女の持ってきた薔薇の花束が残されていた。手枷に繋がれたままのロゼウスの口にそれを含ませていると、シェリダンは誤って指先を鋭い棘で切った。
 滴り落ちるは紅い血潮。
 この世のどんな生き物にとっても、血は命の源だ。それを啜って生きる吸血鬼は、自国に閉じこもる慎ましやかな暮らしぶりに対する高評価と、逆に何を考えているのかわからない不気味な種族だと言う偏見の間で常に彷徨っていた。いくら世界皇帝が認めた一族とはいえ、人間とヴァンピルではあまりにも生態が違いすぎるから。
 自らの知るものと違うものを人は恐れる。知らないものの中に知っているものを見つけ出そうとし、逆に知っているものの中に知らない一面を見出すと勝手に動揺する。そういう生き物だ。それは人間だけではなく、すべての思考能力のある生物に共通の真理だ。 
 誰かと誰かを重ねて安堵する。それはありふれたことだ。それがよほど似ている相手ならば、なおさら。
 シェリダンは寝台に横たわり、その上にロゼウスが覆いかぶさっている。いつもとは逆の体勢だが、その頬を覆う白銀の髪が作り出す紗幕はそっと降りてきて視界を塞ぐ。退けと命じる暇もない。
 顔が離れて、貴族の娘というには短過ぎるが、男であるならば少しばかり長めの髪がシェリダンの頬を撫でていく。突然の、羽根のように軽く触れるだけの口づけにシェリダンが驚く間もなく、ロゼウスが身を摺り寄せてきた。
 その細い体に腕を回し、半身寝転がったまま彼を抱きしめてシェリダンは問いかける。
「答は出たのか?」
 それを聞きに来たんだ。
「――っ!」
 すでに半分紅い瞳を潤ませていたロゼウスは、ぎゅっときつく瞼を閉じる。さらに強く胸に飛び込んできた身体を包み込んで、その髪に顔を埋めた。
 本当は、彼の答など知りたくない。
 シェリダンはもう、自分自身の想いを自覚した。幾たびも自分を誤魔化し、何かの間違いだと目を瞑り、相対するのを避けてきたその心を実感した。もうなかったことにはできないそれを吐露し、ロゼウスが戸惑い拒むのを承知で無理矢理想いを遂げた。いや……最初から、無理矢理以外の穏やかな瞬間など一切なかったのだ。シェリダンはローゼンティアを侵略した王でロゼウスは侵略された国の王子。欲しいものを手に入れるためなら、シェリダンは一日百人の無辜の民さえ見せしめに殺すことまで考えた。
 人質をとって脅迫し、その心の内側まで砕くように幾度となく蔑んだ。傷つけて苦しめて貶めた。
 けれど――愛している。
 お前が私をどう想っているかなど関係ない。私が、お前を愛しているのだから……
 どうせどんなに捧げたところで、心など報われることがないのだ。父王は母を追い詰めて無理矢理手に入れた挙句に彼女の自殺を止められなかった。シェリダンは父と肌を重ねたが、ついぞ彼に愛情を感じたことはない。いや……幼い頃は感じていたのかもしれないが、そんな時期は夢のように儚く過ぎて後には憎悪と怨嗟しか残らなかった。
 求めれば求めるほど、欲しいものは遠ざかるものだ。この胸の裡を焼けつくすような想いに駆られている、自分の望みは叶わないだろうと。
 何故求めてしまったのか。こんなにも強く。始めはただの玩具だったはずだ。一人で破滅するのは寂しくて、だけれど、真の意味で自分の道連れとなる者など思い浮かばなかった。
 だから、どれだけ手荒に扱って壊して、その身も心も弄んで構わない相手が欲しかった。始めはそれだけだった。なのに。
「シェリダン」
 シェリダンの胸に頬を当てて、ロゼウスが名を呼んできた。
 彼をこの部屋に閉じ込めて外に出る事は許さず、時間の限りを尽くしてあらゆる方法で責め苛んだ日々はそう遠くはない。こうしてロゼウスが今日は何をされるのかと怯えた不安混じりでない声で呼ばれるのは久々だった。
 ただ、その声にはもう怯えも不安も忌避もないが、そんな言葉では言い尽くせないような深い悲しみと鮮やかな切なさが含まれていた。
 彼は告白する。
「俺は……あんたの言うとおり、あんたと兄様を重ねていた」
 知っていた。そんなことは。何度も何度もそう言った。
 ロゼウスの兄は、彼を虐待していたらしい。それなのにロゼウスはその長兄を愛しているなどと言うものだから、兄にしか向かない彼のどうにか関心を引きたくてさんざんに嬲った。
 愛している。
 便利な言葉だ。
 愛している。
 それさえ告げれば、何もかもが許されるわけではない。
 でも愛している。
「……そうか」
 あまりにも色々なことがありすぎた御前試合のどさくさで一度救出され、その手を振り切ってまでシェリダンの元へ戻って来たロゼウスはどこかが変わっていた。彼に何があったのかは知らないが、彼の内面で確かに何かが変わったのは確かだ。
 シェリダンはロゼウスの手枷を外し、山と積まれたクッションを背もたれに身を起こした。枷が外れて自由な身体で寝台の敷布の上にぺたりと座りこんだロゼウスは、じっとシェリダンを見ている。
 何故そんな目をする?
 シェリダンは今まで、ロゼウスからこんな眼差しを向けられたことはなかった。いや……一度だけなら、あるか。
 カミラが死んだと聞かされ、それを信じ、国葬を行ったあの日。エヴェルシード王家の墓所《焔の最果て》で妹の墓標を眺めながら彼をローゼンティアから攫った理由を告げたシェリダンに、ロゼウスが見せたのがこのような表情だった。
 シェリダンは、自分のはかじるしを求めた。荊の這う墓標へと続く道こそが、シェリダンの人生だ。それは破滅への道。
 ――母は父を呪っていた。私が生まれる前からずっと。父もこの国の王位も、この国も。全てを憎む女の腹から生まれた私の辿る道もやはり憎しみだけだ。
 憎悪と絶望から生まれたこの生に、もとより未来などあるはずがなかったのだ。だから彼は全てを壊し、殺すつもりでいた。欲しいものなどなかった。
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
 それなのにロゼウスの声は優しい。
 ――堕ちていこう、一緒に。
 あの言葉は真実だった。ロゼウスは本気でシェリダンと共に、破滅の道を選んだのだ。
 だからいっそう狂おしい。ロゼウス、私のものだ。お前を誰にも渡しはしない。お前自身がどれほど望み、あの言葉を後悔して撤回しても逃がさない。
 必要ならばその羽根をもぎ、足を折ってでも鳥籠に閉じ込めると。だから、この監禁部屋に閉じ込めて壊すつもりで嬲り続けた。どれほど憎まれ恨まれようとも構わなかった。彼の中でシェリダンの存在がどうでもよいものになるくらいなら、いっそ恨まれた方がよっぽどいい。
 それなのにロゼウスは変わらない。
 あの日の墓標の前と同じ、透明な眼差しでシェリダンを見つめ、この身体を抱きしめる。
「シェリダン……俺はあんたを、ドラクル兄様と重ねていた。俺が愛した兄様と」
 ロゼウスの口から、シェリダン以外の者へ向けて好意や愛を示す言葉が漏れるたびにその首を捻り潰したくなった。
 しかし彼の言葉は続く。
「俺は、兄様を愛していると思ってた……いや、愛されなければならないと思っていた」
「……ロゼウス?」
 いつもと体勢が逆転しているので、ものの見え方が違う。身体を起こし、シェリダンの顔を覗き込むように覆いかぶさりなおしたロゼウスの俯きがちの陰のある表情が見慣れない。
「兄様は俺を愛していると言った。大好きだって言った。そう言いながら……いつも、俺の嫌がることをした。傷つけて、苦しめて、嬲った」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ヴァートレイト城の庭で起きたできごとを思い出す。恐慌状態になって叫んだロゼウスの様子はまだ記憶に新しい。
「俺は、自分で自分に言い聞かせた。兄様が俺にこんなことをするのは、俺を愛しているからだって。兄様が俺を愛してくれるんだから、俺もその愛情の分だけ返さなくちゃいけないと思った……」
 ロゼウスが身を乗り出し、腕を伸ばして、白い指先でシェリダンの頬を包む。
「でも、違ったんだ」
 ぽろり、とロゼウスの瞳から涙が零れる。容易に目元が腫れることもないヴァンピルの流す涙は、極上の水晶玉のように美しい。
「兄様は俺を愛していない。でも俺は、兄様に愛されたかった。愛されてると思ったから愛したのか、愛しているから愛されたかったのか、最後の方にはもう何もわからなくなった。でも……あんたについてのことは、一つだけわかったよ」
 彼は懺悔する。
「シェリダン、俺にとって、兄様と同じように俺を嬲りながらそれでも血縁関係のないあんたを……兄様の身代わりに憎んでた」
 憎んでいた。
 その言葉は、思いがけず深く胸に突き刺さる。
 憎まれても恨まれても当然だと頭では考えながら、いざそれをロゼウス自身の口から聞くと、こんなにも耐えがたい。
 それでもシェリダンが泣けないのは、何故かその言葉を口にしたロゼウス自身の瞳から、後から後から枯れることのない涙が溢れているからだった。
「兄様は憎めないけれど、あんたなら憎める。俺にとって、あんたは都合が良かった。とても」
 余計な感情を挟む隙間もないくらい、ロゼウスにとってシェリダンは都合が良かったのだと。
「……そうか」
「でも、今は違う。あんたが俺を、《愛している》とか言うから……」
 ぱたぱたと、温かい雨が頬に降る。
 鉄格子の嵌められた窓から差し込む光も届かない闇の中で、その感触だけが確かな真実。
「俺が誤解をする暇もないくらい真剣に本当に、そんなことを言うから……」
 言葉が続かないロゼウスの身体を、シェリダンは身を起こして抱きしめる。二人お互いに抱き合う姿勢となり、相手の肩口に顔を埋めてその場所を濡らした。
 シェリダンを憎んでい《た》ロゼウス。では今はどうなのだと。
 ああ、妙なところで鋭いくせに、彼はシェリダンがこれまで出会った者の中で一番鈍感だ。血を流す自分の心にも気づかず痛みを忘れ果てるなんて、普通の人はそんなことできない。
 そのようなロゼウスだからシェリダンは惹かれた。自らが血まみれであることに気づいていなかったからこそ、父の血で自らの手を汚したシェリダンには、心から血を流しても戦うロゼウスはあまりにも眩しかった。
「愛している、ロゼウス」
 だからただその言葉に、万感の想いを込めた。

 ◆◆◆◆◆

 それまで俯き、寝台の上で膝を抱えていた少女が突如顔を上げた。
「ロザリー?」 
 エチエンヌは彼女の様子の変化に、思わずその名を呼ぶ。ロザリーはほっとしたように息を吐いた。
「ロゼウスの《気》が安定したわ。ようやく少し、落ち着いたみたい」
「そう」
 その言葉に対し、エチエンヌは一体何と答えればよかったのだろうか。よかったね、とでも言えと? ロザリーが兄であるロゼウスを大事にしていることは知っているけれど、エチエンヌは彼が嫌いだ。だからそんなことを言う義理はない。いっそ永遠に大丈夫じゃなければいいんだ。
「シェリダンが、側にいるみたいよ……」
 けれど、ロザリーがそんなことを言い出して、エチエンヌは思わずその顔をまじまじと見つめた。普段この上なく気の強い彼女の顔に、今は安堵と等しく痛苦や孤独や、寂しさと言った感情が見える。
 足音を立てずに、エチエンヌは寝台へと近付いた。どこか遠くを眺める様子のロザリーの肩口に顔を埋め、背中に腕を回す。ぎゅっと抱きついた身体からは薔薇の香りがして、柔らかな肌の感触が気持ちいい。
 けれど、その腕の中はどうしても空虚だった。どこかが埋まらない。埋められない。ロザリーは慕わしいものでも見るように遠くを見つめながら、口元で小さく苦しげにしている。
「ロザリー」
 耳元で囁いたエチエンヌの声に、ようやく反応して彼女は顔を上げた。天蓋付の寝台の上で子どものように抱き合う。その顔を見なくても済むように。
「何よ、エチエンヌ」
 一つ年上の妻は、くっついてきたエチエンヌを振り払うでもなく、優しく受けとめた。初めこそあれだけ仲が悪かったと言うのに、今ではこんなにも自然に身体を寄せ合うことができる。
 でもそれは、ロザリーにとって何もエチエンヌだけに限ったことじゃない。
 その切なげな視線の先にいるのは、兄であるロゼウスでは、ないよね……
「シェリダン様が好きなの?」
 直球で尋ねれば、目の前でロザリーの顔が歪んだ。ゆっくりと視線を逸らし、小さく否定する。
「違うわ」
「違わないでしょ? ロザリーは、シェリダン様が好きになっちゃったんだ……」
「違うって言ってるでしょ!」
 怒鳴ったロザリーに突き飛ばされ、エチエンヌは寝台から落ちかける。敷布を巻き添えに床へと落ちて、逆さまに彼女を見つめた。
 エチエンヌを見るロザリーの紅の瞳は潤んでいて、今にも泣きそうだ。
「……ロザリー」
 わかっていた。知っている。シェリダン自身が興味も関心もないからと側に女を置く事はないが、本当はあの人を愛する女性は跡を絶たない。今は絶世の美貌を誇るロゼウスが側にいるからそう派手な動きはないが、過去には何人もの女性がその寵愛を求めてシェリダンの側に侍ろうとした。けれど、その誰をもシェリダンは相手にしようとしなかった。
 シェリダンは、女を抱かない。
 子どもは両親を選べないけれど、いくらなんでも彼の境遇は酷すぎた。権力を行使して母を陵辱した父を、彼は許さなかった。シェリダンにとって、女性を孕ませることは最大の禁忌。それを貫く限り、例えあの人自身の血が途絶えたとしてもそれは変わらない。
 けれどその危うさにこそ、惹かれる人間は多い。
 軍事国家エヴェルシードの若き君主。だけれど、絶対に甘い処断はしないシェリダン。甦って来られるのだという情報を知らなかったローゼンティアの王族は殺し損ねた人々も多いが、それでも老人から年端も行かない子どもまで一度は皆殺しを命じた。
 それなのに、それでも、あの方には独裁君主にありがちな傲慢さが感じられない。
 あんなにも厳しいのに、シェリダンは自らに自惚れたりしないから。いつも自分で自分自身を責めて否定して生きるその姿は、あまりにも強く、儚いから。
 エヴェルシードの紋章は、十字に六本の刃を組み合わせたもの。その十字架を背負うには、彼の背中は一人ではあまりにも痛ましい。
 それでも、自らの道を支える伴侶など、生涯選ぶことはないと思っていたのに。
「選んで、しまったんだね」
 ヴァートレイト城から帰ってきてからのシェリダンは変だった。いや、ローゼンティアを滅ぼし、かの国から戦利品たる《花嫁》を連れ帰った頃から彼の様子はずっとおかしかった。エチエンヌは気づいても上手く言葉にできず、ローラからは本当に困ったならばその元を消せばいいだなんて簡単に言われた。
 でも違った。見過ごしてはいけなかったんだ、他の何においても、あれだけは。
「シェリダン様はロゼウスを選んだんだ」
 それまで、肌を合わせながらもどこか他人と距離をとっていたシェリダン。両親の事情が事情だけに、どんなにしたところで何をやったところで手に入らないものもあるのだと知っている彼は常にどこか冷めていた。言葉の上では激情に駆られていても、いつも心の裡は酷く凍えているようだった。しかもその氷は外からでは溶かせない。
 その胸の奥に、憎悪や破壊衝動以外の火を灯したのがロゼウス。どうやったものかは知らないけれど、シェリダンの心の中に、彼はやすやすと入っていけるようだった。
 悔しかった。
 寂しかった。
 けれど、シェリダンが望んでいるのだからそれは仕方のないことだとも思っていた。ロゼウスが来てからは一度もシェリダンに触れてもらえることがなくなったエチエンヌはその残酷さに震えながら、それでもシェリダンには幸せになってほしいから、と。
 だけど……
 エチエンヌは起き上がり、服が乱れ髪がぼさぼさになったのも気にせずまた寝台に上がった。どうせ今日の仕事は終わっていて、後はもう寝るだけなのだから構いはしない。
「……ねぇ、ロザリー」
 堪えきれずに顔を手で覆い、嗚咽を漏らし始めた妻を再び抱きしめる。彼女を責めることはできない。こんなの浮気のうちに入らない。
 焦がれてはいけない恋に、身を焦がした。誰を責めることもできるわけがない。彼女が悪いわけでもない。
 それでも、エチエンヌは思う。
「あの二人は、出会ってはいけなかったんだ」
「……え?」
 いかな再生能力の強いヴァンピルと言えども、泣いた直後は目が腫れる。瞳だけでなく、目元まで真っ赤にしたロザリーにエチエンヌは繰り返した。
「シェリダン様は……ロゼウスと出会ってはいけなかったんだ」
 それは確たる証拠もない、けれど絶対的な予感だった。


093

「鋭いね、エチエンヌ」
 抱き合う金髪の少年とヴァンピルの少女の様子を、城の中庭の木の上で覗き見しながら一人ごちる。今は嵐の前の静けさ。わかっている。もうすぐ全てが終わり、全てが始まる。
 エチエンヌの言っていることは正しい。
 ロゼウス=ローゼンティアとシェリダン=エヴェルシードは、出会ってはいけなかった。
そもそも始皇帝即位のロゼッテとシェスラートの時代から、この二つの一族の関わりは最悪の方向へ向かうと決まっているのに何故学習しないのか。
「運命なんて皮肉なもんだね。その血に何が流れているかなんて知らないけど、結局いつもエヴェルシードの者はローゼンティアを手に入れられない……もっとも、僕にとってはその方が都合がいいか」
 近い未来、必ず離別の時は訪れる。それが誰と誰のものであるのか、誰から何を奪うのかはまだ、何もわからない。
 ただハデスにわかるのは、その道は新たなる皇帝の時代へと続いているというだけ。
 そしてその皇帝の治世に関する未来だけは、まったく何も見えやしない。
「かわいそうに。シェリダン、君は、ロゼウスと出会ってはならなかったのに」
 今はまだその運命を知らない少年に、憐憫と嘲笑を向ける。彼の力が大きければ大きいほど、それを思い通りに操った時は見返りが大きい。何せ彼だけが、薔薇皇帝ロゼウスの運命を左右できる存在なのだから。
 悲劇の引き金を引くのが彼だと言うのならば、自分はせいぜい、それを利用させてもらうだけだ。

 両手を縛り、首に枷を嵌める。
「ん…………ぅう、」
 首輪から伸びた鎖を弄び、目の前に跪かせたロゼウスに奉仕させる。シェリダンのために、股間に顔を埋めて逸物に必死で舌を這わせるロゼウスを見つめながら、達する感覚に短く呻く。
 喉を鳴らして吐き出された白濁を飲み込んだロゼウスの様子は、特に変わったところは見られない。シェリダンを憎んでい《た》男は、今はもうシェリダンに対して何らの感情もないように振舞う。表情にこれまでのような絶望の翳りはないが、どこか空虚な印象が常に付きまとう。
 それが本心なのか演技なのか、シェリダンにはまだ見分けがつかない。
 シェリダンと、彼の兄であるドラクルは違う。そのことをようやく理解したというロゼウスは、それでもシェリダンが繰り返し囁く言葉に応えを返したわけではなかった。
「愛している、ロゼウス」
 首輪の鎖を強く掴み引き寄せた。多少苦しげな顔をしたロゼウスの様子を見ても、心が痛むようなことはない。
「愛して、いるんだ」
 一度だけぽろぽろと心からの涙を流したロゼウスは、それ以来シェリダンに気を許すようなことはなかった。自分の思い――兄からの虐待の事実を捻じ曲げたくて、似たようなことをするシェリダンを兄の分まで憎悪の対象としていたこと、シェリダンに常にドラクルを重ねて見ていたこと。それらを自覚してからは、シェリダンに対して逆に素っ気ない態度をとろうとしているのが丸分かりだ。
 シェリダンにとってもはやロゼウスはかけがえのない想いを向ける対象であるのに、ロゼウスにとってシェリダンはただの兄の身代わりで、その事実を認識した瞬間興味をなくして距離を置きたくなるような相手なのか。
 もし本当にそう思われているのだとしたら、苛々することこの上ない。誰がこれ以上、ただ彼の都合のよい存在でいてやるものか。
 ロゼウスにとっては、シェリダンは今でも憎い敵だろう。自分にとって都合の良い部分を削ぎ落としたシェリダンに残るのはただローゼンティア王国の仇だという間柄。
 これまでとは違った意味で、憎んでも恨んでもおかしくはない。相対している際にどこかが噛み合わない違和感こそ消えたものの、わだかまりはまだ残っている。
 そしてそのわだかまりまでは、シェリダンにはそれを消す方法がわからなかった。
「あっ!」
 ひらひらとした女衣装の裾から手を差し入れ、下穿きの中までを探る。
 自身に触れられ、刺激を与えられて先走りの雫をこぼしはじめると、彼は苦しそうに口を開いた。
「うっ……ふ、ぁ……シェリダン……」
 今ではドラクルと比較したシェリダンではなく、ただのシェリダンである彼のみを見てロゼウスが切なく喘ぐ。
 だが、その艶めいた表情すらも誰か他人の手によって作り出されたものだと思うと腹が立つ。例えどんなことがあっても、ロゼウスは私のものなのに。
「たいした淫乱な身体だな。お前は兄に一体何をされた?」
「そんな……ひっ!」
 胸中に渦巻く嫉妬としかいいようがない感情をわざと隠しもせず、先走りで僅かに濡れただけの指をいきなり後に差し入れるとロゼウスが痛苦に呻いた。
「ちょ、いたっ」
「答えろ、ロゼウス。兄に何をされた?」
「言いたくない……」
 差し入れていた指を引き抜いてこれ見よがしに舐め、仕方がないとでも言うように告げる。
「言わなければ、前に言ったことを実行するか。ローゼンティアの民を連れて来て殺す」
「! ……っやめろ!」
 異物が引き抜かれて一瞬は安堵した様子のロゼウスは案の定シェリダンの言葉に血相を変え、その意志を押し留めようと、枷に繋がれた腕を無理に動かしてシェリダンに攻め寄った。しゃらしゃらと鎖の擦れる音がする。
「いい加減にしろ。まだ怒ってるって言うのか? 俺は自分に関する事は真実を全部あんたに言ったし、これからここを出て行く気もない。それだけじゃ不満だっていうのか?」
「ああ、不満だな」
 即答すれば、ロゼウスが鼻白む。その顎を捕らえて、噛み付くように口づけた。
「ん、んんっ!」
 無理矢理舌を引きずり出して唾液を啜る乱暴な口づけに、ロゼウスが涙目になってシェリダンを突き飛ばした。荒く息をつき頬を紅潮させ、涎の垂れた口を拭う姿が何とも言えず艶っぽい。
「言ったはずだ。私はお前を愛している。お前のことなら何でも知っていないと気がすまないし、お前が私以外の人間に心を許すのは気に食わない」
「そんな……」
「私の言う事を聞け」
 くしゃりと顔を歪めるロゼウスに構わず、その額に唇を当てた。ちら、と視線を走らせれば銀の枷が嵌められた手首が擦れて赤くなっている。その手をとり、枷を外さないまま傷口をなぞるように舌で撫でた。
「あっ」
 傷口独特の敏感さに襲われているらしいロゼウスの戸惑い揺れる顔を見ながらほくそ笑む
「ん、あ……」
 微かに血の味がする傷に舌を這わせ、唾液を刷り込むようになぞる。そのたびに、腕を握られているロゼウスがどこか官能的な吐息をした。
「答えろ、兄に何をされた?」
「兄様には……」
 閉じた瞼に睫毛が震え、やがてロゼウスが語りだす。その声に耳を傾けながら、彼を犯す。
「ふん、なるほどな、それが今のお前を作った根本か」
 目隠しに手錠、玩具ぐらいなら許せるが獣姦とはな。さらには兄のためだと言い聞かせられて、幾度も別の男にも、あるいは女にも抱かれた。ロゼウスがこういう風に育つわけだ。
 ロゼウスは自らの歪みをこれまで自覚していなかったが、それは間違いもなく自分の精神を守るためだった。誰一人味方のいない状況で、そんなことを真っ直ぐに受けとめたら壊れてしまう。
 それでも今は、全てを思い出した。だから。
「憎めばいい。兄を。私を」
「……え?」
「私を憎めばいい。お前を犯した兄を。世界の終焉まで、徹底的に嫌え抜けばいい」
 私が父に対してそうしたように。
「その方が楽になる。自らを傷つけるよりも、相手を憎む方が」
「シェリダン……」
 手枷に傷つけられた皮膚に口づけし、シェリダンはロゼウスを抱きながら思い出す。
 自分自身の、あの頃の痛みを。

 ◆◆◆◆◆

 ――やめてください父上。もう触らないで。酷いことをしないで。私が悪いところは直します。何でもしますから、だから!
 その頃は地獄だった。
『おいで、シェリダン』
 父親の大きな手は、大抵の人間にとっては子どもを安心させるものだろう。
 だがその頃のシェリダンにとっては違った。
『どうした? こちらに来なさい』
『っ……!』
 夜更けに父王の寝室に呼び出されて、シェリダンは入り口で顔を歪めて佇んでいた。寝台の上に優雅に腰掛けた彼はまさに軍事国家エヴェルシードの国主にふさわしい、堂々とした体格の持ち主だ。
 父と母の血を比べるならば、シェリダンは完璧に母親似だった。父は整った顔立ちをしていたがそれは精悍というべきもので、線の細さや優面という言葉とは無縁だった。
 彼は、ジョナス王は母――ヴァージニアを愛していた。
 母上は父上を愛していなかった。
 父は下町で見初めた母を、その両親を殺し彼女の実家を潰すことで無理矢理攫った。召し上げたなんて言葉では表現できない、それはまぎれもない略奪であり、蹂躙であり、陵辱だった。
 そしてヴァージニアは憎悪を孕む。
 シェリダンは、夫を恨み憎む女の胎から生まれた。
母はシェリダンを産んで三ヶ月で亡くなった。……自殺したのだ。
 その頃、ジョナス王には妻が一人いた。正妃ミナハーク。シェリダンの一つ年下の妹であるカミラ、彼女の母親。
 しかし父の愛情はミナハーク第一王妃には向けられず、全面的にシェリダンの母、第二王妃ヴァージニアに向けられていた。
 当然のようにして、ミナハークはヴァージニアに嫉妬し、憎悪した。高名な貴族であり正妃である彼女よりも下町生まれの最下層の平民の娘に王の愛情を独占されることに、矜持の高いミナハークは耐えられなかった。
 その状況が、決してヴァージニアが望んだどころか、彼女から両親を奪い実家を奪い不幸の底へと叩き込むほどの忌まわしきものであるなどということはミナハークには関係なかった。彼女はただ、ヴァージニアが憎かった。
 正妃の復讐は苛烈を極めた。ヴァージニアへと行われた嫌がらせの数々は酸鼻の言葉も生温いものだったと乳母は教えてくれた。
 王の忠臣であったシェリダンの乳母。彼女はすでに亡くなっているが、その彼女もミナハークから、生まれたばかりのシェリダンを殺せと言う命令を受けたのだという。それが王の耳に入ったために、赤子だったシェリダンへの護衛は強化されて事なきを得た。
 国王ジョナスはそれでもミナハークに憐れを覚えたのか、彼女に一人だけ子を産ませる。それがカミラ。
 だが彼女の子どもが息子だったのならばまだしも、生まれたのは娘。正妃の娘であるカミラと庶出の第二王妃の息子であるシェリダンの王位継承権は、複雑なものであった。
 それでもエヴェルシードは完全武力重視の軍事国家の男尊女卑思想のために、男児であるシェリダンの継承権がかろうじて上だった。ミナハークにとってこれほど目障りなこともなかったろうが、それも十年前、シェリダンが七歳、カミラが六歳で彼女が死んだ時に終わる。
 そして正妃が亡くなって間もなくして、シェリダンの悪夢が始まる。
『こちらへ来なさい、シェリダン』
『……はい、父上』
 王の寝室に呼び出され、シェリダンは寝台に腰掛ける父のもとへと歩み寄った。まだ七歳のシェリダンの身体を父は抱き上げ、頬に手を添える。
 ここで拒否すれば、余計に酷いことをされるとわかっていた。シェリダンは肌を撫でる男の不快な指の感触に耐えながら、息を詰めて父を見つめていた。
 その橙色の瞳に灯るのは、歪んだ愛情。
 ヴァージニアを失って向ける場所をなくした熱すぎる想いだった。
『美しいな、そなたは』
 父が口の端を持ち上げて微笑む。
『日に日にヴァージニアに似てくる。ああ、お前が成長する日が待ち遠しい』
 男子は母親に似ると言われる。だが俗説というにはあまりにも、まるで何かの呪いのようにシェリダンは母親ヴァージニアに生き写しの容姿をしていた。
 蒼い髪に橙色の瞳のエヴェルシード人においては、多少毛色の違うこの藍色の髪も朱金の瞳も、目や鼻のつくり唇の紅さまで全てが母親似。
『もっと美しくなれ、シェリダン。ヴァージニアのように。あの美しい女のように、私を楽しませてくれ』
『父上……』
 自分を抱き上げて恍惚とした、自分ではない人の姿を見つめる父はもう正気ではないのだと知っていた。政治や軍略に関してはこれまでと同じように王としての手腕を発揮しているけれど、それを支える精神が均衡を崩してしまっている。
 寝台に押さえつけられて、服に手をかけられる。機嫌の悪いときには盛大に破くそれを今日はゆっくりと脱がして、男は笑う。その顔は父親の顔ではない。
『父上……っ』
 露にされた肌を、きつく吸われる。首筋から鎖骨の辺りに赤い痣が散る。
 いやだ、と。やめてくれと叫ぶこともできず、シェリダンは吐き気のするほど忌まわしい行為に沈められていく。
 鞭の痕が背中に増えるたびに、心を絶望が満たした。それでも父の腕は力強く子どもの腕では振り払うこともできない。純粋な暴力、横暴な権力、そして、そんなことをされてもまだ求めていた――父の愛情。
 願うことすら愚かな願いはこの世にいくらでもあるのだと知った日。
 イスカリオット家と問題を起こして凋落したリヒベルク家の次男……新たにシェリダンの筆頭侍従となったリチャードは少年のその背を見て、この身体に残る傷を見て泣いた。
 その、包み込むような温かな腕を抱きしめる力の強さにようやく安堵を覚えた。
 ああ、私はやはり理不尽なことを強いられているのだと。
 知った。どこの父親が血の繋がった実の息子を寝台に侍らせたりするものか。それは虐待だと吐き捨てるリチャードの言葉に、じわじわと押さえつけられていた自我が目覚めていく。
 ああ、私は泣きたかったのだ。
 夜毎寝室に招かれて卑猥な奉仕を繰り返させられながら思う。水音、濡れた感触。内股を這う男の指。口腔を犯す怒張。異物感。痛み。後孔をかきまぜる感触。快感と嫌悪感。
 昇りつめて堕ちていくその行為は、堕天という言葉にもっとも相応しい頽廃。
『あっ』
 さんざん弄られて腫れ上がった乳首を無骨な指が抓む。玩具でも弄るように無造作に刺激を与えられて、堪えることもできずに唇から甘い喘ぎが漏れる。
『や、やめてください、父上……』
『何を言う? こんなに喜びおって……』
 たくましい手がシェリダンのものを握り、剣だこのできた指で丁寧にしごく。無理矢理高めさせられる感覚に不快を感じながらも覆いかぶさる相手を本気で押し返すことはできない。
 そのうちに、たまらずに濁った精を自分のものを刺激し続けた手のひらに吐き出す。無理矢理前髪を掴まれて、それを舐めるように強制させられる。指に絡んだ自らの白濁を舐め取るシェリダンの様子を、男はにやにやと笑ってみている。
 こうしてしつこく甚振り続けるのが彼のいつものやり口なのだ。身分だの権力だの立場だの面倒なことは全て考えるのを放棄して、今すぐにこの男を殴り飛ばすことができたなら。
 後孔を責められて喘ぎながらそんなことばかり考えている。幼い頃はただただ嫌で辛くて哀しいばかりでしかなかった行為は、年齢を重ねるたびに不快感と嫌悪感と憎悪に移り変わっていった。
 十五を過ぎた頃からは、むしろ夜伽を命じられている以外の自由時間は自分自身で勝手に振舞うようになった。こんな育ち方をして、まともな人間ができあがるわけはない。
 死の間際にヴァージニアが半狂人のようだったと言われるように、自分もこうやって狂っていくのかと思った。
『なぁんか、大変そうな顔してるねぇ。エヴェルシード第一王子シェリダン=ヴラド殿下』
 たまたま見つけた城下町の、特に雰囲気が良いというわけでも上手い酒を出すというわけでもない何の変哲もない酒場。身分を隠して遊び歩いていたはずなのにいきなり名前を言い当てられたことに動揺して振り返れば、そこにはシェリダンとさほど年齢の違わない黒髪に黒い瞳の少年が座って杯を傾けている。
 ……初めて見た顔ではない。数日前にも別の酒場で出くわした。ただしその時は偽名で。
『力になってあげよっか? って言うとうさんくさいか。こっちも君に協力して欲しいことがあるんだけど、どう? 何か問題事があるんだったら、お互い力を出し合って解決しない?』
 いかにも怪しげな笑みを浮かべるその少年にシェリダンは警戒を解かない声で返す。
『貴様は誰だ』
『帝国宰相ハデス=レーテ=アケロンティス』
 シェリダンは父からの解放をハデスに願った。
 そしてハデスの願いと言うのが、シェリダンにローゼンティアを滅ぼさせることだった。


094

 視界を黒い布で塞がれる。絹の幅広のリボンなんて彼はどこから用意したのか、それでロゼウスの目元を覆った。
「シェ、リダ……」
「怖いか? 昔を思い出すか? 確か人は視界が利かなくなると恐怖で口も利けなくなるらしいが、夜闇を好むヴァンピルでもそれは同じなのか?」
 思わずびくりと震えたロゼウスを嘲笑うように、シェリダンは耳朶に唇を寄せて囁く。その吐息の熱さに背筋にぞくぞくとした感覚が走り、今の自分がどんな状態になっているのかわからないロゼウスはひたすら耐えるしかない。
 いつもはさほど気にしない寝台の軋みすら、今の状態だとやけに大きく感じられる。敷布の滑らかな感触の上に押し倒され、太腿に手の感触を覚えたと思った瞬間足を開かされる。
「シェリダン……」
「そう怖がるな」
 ロゼウスの額に一つ口づけを落として、シェリダンが子どもを宥めるように告げる。身動き取れないかと身体を捻った拍子に頭上でしゃらりと音がした。ロゼウスの両手は手錠で繋がれ、頭の上の位置に来るようシェリダンに押さえつけられていた。
「慣れているのだろう?」
 意地の悪い言葉を吐いて、首筋にまた口づけを落す。手錠やこの拘束くらいその気になれば身体能力的にはいつでも外せるが、ロゼウスとシェリダンの立場の違いがそれを許さない。
 一度は近付いたはずの距離は、あのヴァートレイト城での出来事を境にまた離れていった。ロゼウスがシェリダンに感じた微かな慕わしさとそれと相反する憎しみは、シェリダンをドラクルに重ねていたからのものだった。
 それを思い知った今では、ロゼウスがシェリダンに何らの感情を向けるいわれもない。愛情など感じる関係にはなく、だからといって、憎むのも疲れた。自分ですら気づかないうちにドラクルを心の奥底で恨んでいたロゼウスは、もう誰かを恨むのに疲れきっていた。
 今の自分は元通り、この国の捕虜に、人質に、名目上のエヴェルシード王妃、実態は侵略者の王の奴隷へと戻っただけ。
 シェリダンはロゼウスが彼の言葉に従わねば、ローゼンティアから国民を攫ってきて殺すと脅しをかけてきた。これまでの彼だったならば、それはただ単に言葉の上での簡単な脅迫、ロゼウスに対するただの脅しでしかなかっただろう。
 しかし、今のシェリダンならば、どう出るかわからない。ロゼウスが彼を拒絶すれば、本当に何だってやりかねない。
「あっ」
 服の隙間から手を差し入れられて乳首を捏ねられる。見えない状態ではどこから何をされるかわからない。
 突然走った刺激の意味をつかみがたくてはじめこそ悲鳴をあげたものの、徐々に身体は快感に流されていく。
「ん……っ、ふぁ……ぁあ、」
 熱く尖った息が漏れ、嬲られ続ける胸だけじゃなく、下半身の方にも熱が集まっていく。無意識に内股を摺り寄せるようにすると、その足を強く掴まれた。
「なっ……」
「勝手に楽しもうとするな。お前は私の奴隷だ。主人の許可なしに楽しむ事は許されない」
 顔に人肌の熱を感じたと思った瞬間、柔らかな唇が重ねられ、舌が滑り込んできた。接吻はいつでも目を閉じているのが普通だと思うけれど、予告なしの動作には頭がついていかず、いつもよりどこか近い場所で、口腔を貪りつくす感触と快感が響く。舌を絡め、唾液を零してお互いを啜りつくそうとでもいうその口づけは、身体の奥の方で高まる欲情を煽る。
 唇を離しても、まだシェリダンはロゼウスの顎を手で持ち上げていた。
「相変わらず、熟した果実のようないやらしい唇だな」
 どんな唇だよ、と突っ込みたいのだが声が出ない。シェリダンがロゼウスの唇に指を当て、ゆっくりと指で開かせようとしたからだ。意図を察してロゼウスが口を開けると、熱い塊が滑り込んでくる。
「ん、ぐっ」
 理不尽な奉仕に慣らされた身体は抵抗などという言葉すら思いつかず、素直にそれに舌を這わせる。口の中のものの素直な反応で、シェリダンが今どんな状態かはわかった。けれど、目隠しをされたこの状態では彼がどんな表情をしているのかまではわからない。
 嬉しそうな顔など見せることもないロゼウスに対して怒っているのか、無理矢理口淫を強要する嗜虐の快楽に耽っているのか、それとも。
 彼は俺が好きなのだと言っていた。
「あっ……くっ!」
 ぴちゃぴちゃと卑猥な水音が続いた後、少し苦しげな艶かしい呻きと共に、シェリダンが達する。体勢が悪くて全部は飲みきれなかった白濁が口の端を伝うのを感じながら、口の中から引き出されるものの感触にほっとするような、名残惜しいような感覚を覚える。
 自分は多分蔑みの言葉を受けるに当然の淫乱で、しゃぶっていた肉の塊が離れると途端に寂しさを覚えた。寝台の枕元に手錠は固定されて、シェリダンは今どこにも触れていない。
 と、思っていたらその腕が再び太腿を開いて自らの膝を滑り込ませた。僅かに腰を上げられる体勢になって、少しだけ怯えを抱く。
「人の身体で、一番敏感なのは指先だ。足も含めてな。先端には神経が集中するらしい」
 いきなり何を言い出すのかという暇も与えず、彼の指がロゼウスのものに触れた。それも、ほとんど指先を当てるだけと言った状態で。
「あ……」
「逆に背中や肩などは鈍感だ。二の腕や足も指先ほどではない。盲目の人々は指先で凹凸を辿って文字を読むという」
 指先で確かにその形を確かめるかのように、シェリダンはロゼウスのものをツツーッとただ辿っていく。肉の塊の形を指先で覚えようとでもするように、丁寧に凹凸をなぞる。
「試してみるか?」
「あ、あんっ!」
 先端の窪みにまで指を当てられると、どうしようもなくなって声が出た。もどかしい。離して。もっと強く触れて。楽にして。相反する感情は行為の先を促す方に振り切れて、もがいた足を余計強くがっしりと掴まれる。
「動くな」
 命じられて、足に込めた力を抜いた。シェリダンが膝裏に肩を入れて足を持ち上げる。思い切りその場所を広げさせられて、羞恥に顔が火照る。見えないからこそ、見えないはずの視線を足を広げられたことで開いた穴に注がれているような気がして落ち着かない。
「ひぁっ!」
 きゅっ、と何かの栓を捻るような音がした。思っていると、ぬるりとした感触の冷たい液体が身体の中心にかかった。熱を持って疼く自身に、とろりとした油のようなものがかけられる。
「香油だ」
「こうゆ……」
「潤滑剤。香り付き。……気持ちよいだろう?」
「ひゃう!」
 一体どこにそんなものを用意していたのか、シェリダンは香油をロゼウス自身に振り掛けて再びそれを掴んだ。先程のもどかしく輪郭をなぞるような愛撫と違って十分な力の込められたそれに、ぞくぞくと快感への期待が高まる。
「あっ……あっ……う、ああっ!」
 ぬるぬるとした香油をたっぷりと摺りこむように、先程のもどかしい愛撫は嘘だったかのような手付きでシェリダンはロゼウスのものに触れてくる。指が絡みつき、手のひらが擦るように押し付けられて香油を肌に染みこませようとする。
 そのシェリダンの手に、自分自身の出した先走りの雫が快感に負けてぽたぽたと零れ堕ちていくのがわかった。先端に再び手をやって、シェリダンは自らそれを掬い取る。
 そしてその指を、これまで触れていなかった後の孔へと差し入れた。
「ああっ!」
 待ち望んだ刺激にあげた歓喜の声はすぐに失望へと変わる。男同士で後を使う快楽に慣らされきった身体は、指なんかではもう満足できない。
「や……もっと……」
 顔が見えないからか、するりと出てきた懇願の声にシェリダンがほくそ笑む気配がする。
「欲しいのか? 私が」
 ほぐれた入り口に、熱をあてがう気配。香油でぬるつく内部を勢いよく突かれて、待ちに待った荒々しさに、短くひっきりなしの嬌声をあげる。
「あっ、あっ」
「ロゼウス――」
 視覚が封じられた分敏感になっている聴覚が捕らえたシェリダンの声は甘く、どこか切ない。
 彼は俺のことが好きだと言った。
 けれど、俺は彼のことをどう想っているのか。
 愛情なんてなくても身体を繋げることはできる。行為に感情を伴わせる必要はない、所詮は男同士なのだからこれはただの性欲処理だと。
 割り切れるなら、誰だって傷つかない。
「愛している、ロゼウス。たとえ、お前が、私を想わなくても、憎んでいたとしても」
 抑えられない熱とそれを冷ますかのような諦観が揺らす声。
「ああっ――シェリダン」
 閉じた瞼の奥が真っ白になり、そしてロゼウスの世界からは全てが消えた。

 ◆◆◆◆◆

 その人々は彼女に言った。
「どうか、真実をお聞きください、姫君」
 彼らによって明かされたそれに、メアリーは驚いた。驚いて声も出ず、幾日も閉じこもった。
 メアリーをかくまったのはローゼンティア国内の貴族で、王権派と名乗っていた。彼らがつけてくれた世話係にメアリーは頼りきりになり、閉じこもっている間、ずっと考え続けていた。
「アンリ兄様、ヘンリー兄様、ロゼウス兄様、ミカエラ、ジャスパー、ウィル……」
 大事な兄妹たちの名前を呟く。
「アン姉様、ルース姉様、ミザリー姉様、ロザリー姉様、エリサ……」
 父と母の復活はもう絶望的だと教えられた。ヴァンピルの能力は普通、年を経るごとに弱くなる。メアリーたちよりも経験があるということは、父母たちはもう何度もこんな目に遭っているということ……死者の蘇生にも限界はあるのだ。
 ローゼンティアの王族は、彼女たち兄妹のみが残ったそうだ。国王である父の弟、ヴラディスラフ大公も亡くなったらしい。
 自分はこれからどうすればいいのか。誰か教えてほしい。
 お兄様。アンリ兄様やヘンリー兄様、他のみんなの行方もわからない。ただロゼウス兄様に関してだけは、ローゼンティアを侵略した元凶、エヴェルシードの王宮に囚われていると聞いたのだが。
「お加減はいかがですか? メアリー姫」
「あ、はい……もう、大分」
 いつもメアリーの様子を見に来てくれる貴族の青年の一人が今日もやってきた。彼らに保護された時メアリーは相当の傷を負っていたが、すでに癒えた。
 けれど、心の傷はそう簡単には癒えあい。もちろん彼女だけの問題ではない上、君主を失って敵国の奴隷となった国民たちの動揺はもっと激しいものだろうが、少なからず父と母が殺されたことはメアリーにとっては衝撃的だった。
「それよりも、国内の状況を教えて下さい」
「我等の話を受けとめる覚悟が……」
「はい。初めは信じがたいことでしたが……もはや、そうも言っておられません」
「姫、お辛いでしょうが」
「はい。けれど、わたくしだってローゼンティア王族の一員ですもの。あなた方の話を無条件に信じ込むわけではありませんが、多方面から情報を収集することは必要ですもの」
「ええ。ご立派です。第五王女メアリー姫」
「こんな時にお世辞はいりません。それよりも、教えて下さい。我が国の状況。国内のどれほどの貴族が裏切ったのか、そして」
 幾度聞かされても信じがたいそのことを、メアリーはようやく声に出して確認する。
「今度のエヴェルシードとの戦争を引き起こしたのは、本当に我が兄、第一王子ドラクルなのですね――?」
 貴族の青年は、重々しい表情で頷いた。
 ああ、神様――。

 ◆◆◆◆◆

「陛下、それはいくらなんでも……」
「あら? 私に逆らうというの?」
 美しい女は殊更ゆっくりと首を傾げてみせる。
「いいえ! 滅相もございません!」
 彼女の眼前で意見を奏上していた初老の執務官は、可哀想なほど滑稽に謝り倒す。彼女の機嫌を損ねれば、その場で首がとぶどころではない。皇帝に不愉快だと思われた者はその存在だけで罪。
 皇帝こそアケロンティスの神。
 便宜上宗教と帝政は全く別のものとされているが、実体としては皇帝と神の繋がりは紛うことなく強い。何しろ、《アケロンティス帝国》の皇帝は神による選定紋章印によって指示される。印を持って生まれた選定者の示した者こそが、次代の皇帝となる。
 すなわち皇帝とは《現人神》。人であって人でなき者、神でありながら、神でなき者。
 《神》は目に見えないが、《皇帝》はこの場にいる。そして選定紋章印と言う超常の《皇帝》の存在こそが、神の存在を証明する。
 難儀な……そして忌まわしいことだ。
「そのくらいにしてあげたら? 姉さん」
「ハデス」
 ハデスはその皇帝たる人に呼びかける。たまに戻ってくるとこれだ。この姉はいつも、部下を苛めて遊んでいるのだ。
「こっちへいらっしゃい」
 呼ばれて、ハデスは彼女の眼前へ跪く。帝国宰相として臣下の礼をとったハデスに、デメテルは口を尖らせた。周りに残っていた臣下たちをみんな、その手の一振りで部屋の外に追いやってしまう。
「ただいま、姉さん」
 ハデスは礼を崩し、デメテルへと歩み寄る。玉座に座る彼女の膝へとしなだれかかる。普通は男女逆転の構図だが、姉の方が権力のあるこの場合、これで正しい。
「おかえり、ハデス。どう、収穫は?」
 女帝の白い指先に髪を撫でられながら、ハデスは表向きの報告を済ませる。
「シェリダン王の信頼はそこそことりつけたと思うけど?」
 何せ、あれでも「友達」だからね。
「まあ、そこそこ、なの?」
「うん。だってそもそもあっさりと人を信用して簡単に背中を見せちゃうような相手だったら、もともと姉さんは僕を遣わせたりしないでしょ?」
「その通りよ。賢い子ね」
 白い肌と黒髪、黒い瞳の黒の末裔。彼らの一族以外にそんな色彩を持つ種族はいない。だからこそ彼らの一族はこれまで国など持たず、王と言うほどの権力者もいなかった。
 黒の末裔から皇帝になった姉……デメテルは一族にとっては英雄にも等しき存在だ。蒼い髪のエヴェルシードの民や暗緑髪のセラ=ジーネの民なら、黒に近い髪色の者もいるだろう。けれど、黒い瞳はいない。
 蔑まれてきた一族、《黒の末裔》。
 かの一族は特殊な能力を持って生まれる人間が多いのだと言う。古代からの呪術や邪術を多く伝え、異端の称号と引き換えに強大な力を手にしてきた。
「それで、今度は何を悪巧みしていたの? 姉さん」
 ハデスはデメテルの道具となるべく生まれた。執務の補佐から閨の内側まで彼女の面倒を見るために作られた彼女の弟。帝国宰相。皇帝を支える者。
 しかしハデスはその立場に甘んじるつもりはない。
 僕は、僕こそが、皇帝になるんだ。
「聞きたい? ハデス」
 白い指が伸びる。デメテルはそこそこの美貌を持っているけれどその顔はハデスに瓜二つ、順番的にはハデスがデメテルに似ているのだけれど、だからハデスは彼女を見てもなんとも思わない。
 ハデスが生まれたときから、彼女は皇帝だった。彼女が皇帝になってから、ハデスは生まれた。彼女のために。
 選定者は皇帝のために生まれてくる。ただ、そのためだけに生まれてくる……。
 その中でも特にハデスは例外的な存在だ。
「教えてよ、姉さん。僕は姉さんの弟でしょ?」
「ええ、そうよ」
 額に軽く口づけが降りてくる。小鳥のように肌を啄ばみ、こめかみや鼻の頭に移る。
「そうね……可愛いハデス。私の弟。あなたになら教えてあげてもいいかもね」
 悪戯な指は喉元を滑り、襟に入り込んで鎖骨をなぞる。ハデスは自分から胸元の釦とリボンを解いて、彼女の指を招く。
「それで? さっきの大臣に何を注文していたの?」
「エヴェルシードに行くことよ」
 睦言と甘いやりとりを交わす合い間に思考は冷静に保っているつもりだったけれど、返ってきたその言葉には思わず頭がついていかなかった。
「姉さん!?」
「あら? いけないの? この世界は私が治めているのだもの。その領地の一つを訪れるのくらい、なんでもないでしょ?」
 真意の見えない笑みでデメテルは薄暗く笑う。
「エヴェルシードに、って……」
「あなたが今ちょうど訪れている国だもの。シェリダン王にして見れば私を無碍にすることもできないでしょうし、定期的に領地の視察をするのは為政者の役目でしょう」
「だからって……姉さん、何企んでるの?」
「うふふ。あのねぇ――」
 派手な紅がはかれた口元を歪めて、姉はそれを告げてきた。
 ハデスは瞳を見開く。同時に、脳の中心が急速に冷えていくのを感じた。
(あの野郎)
 一人の男の面影を思い浮かべて、口汚く内心で罵る。
「ねぇ、いい考えでしょう? そのために、エヴェルシード王と遭う事は必要なのよ」
「うん、そうだね……とにかく行かないと話にならない……」
 姉、デメテルは女でもハデスの姉でもなく、皇帝の顔で笑う。
「私はそして、この世界をふるいにかけましょう」


095

 二つの影が走る。
 青年の影と女性の影。
 夜の中にあってさえ、この白色の髪と紅い瞳は目立ってしまう。なんとか変装したいところだが、まだローゼンティア国内にいるうちは、あまりおかしなこともできない。追っ手に見つからないことは大前提だが、他の何も事情を知らない民に見られても困る。
「アン」
「どうした、ヘンリー。疲れたかえ?」
 自分の方が慣れない全力疾走で疲れているくせに、アンはそんなことを言う。いつも気丈な顔立ちにも疲労の影は色濃く、きっちりと纏められた髪がほつれ乱れ、第三王女である美麗王女ミザリーとも張り合う美貌がだいなしだ。
 もっとも、この自分も似たような状況ではある。
「いいや。私は大丈夫です。姉上こそ」
「だい、じょうぶじゃ。このくらい、他の妹弟たちがどのような目に遭っているかを考えれば、なんてことは……」
 言いながらも、アンはその場に倒れこみそうになる。
「姉上!」
 ヘンリーはその身体を支え、太い木々の足元にこんもりと生えている茂みに二人して身を隠した。
「少しここで休みましょう。追っ手が来ているのならばやり過ごせるかもしれませんし、そうでないのならこのままこの道を行きましょう」
「すまぬ、ヘンリー。わらわが不甲斐ないばかりに」
「そんなことは仰らないでください。お互い様ですよ。私は自分の友だと思っていたアウグストの本性を見抜けなかったのですから」
「ヘンリー……」
 青年の名はヘンリー。ヘンリー=ライマ=ローゼンティア。そして女性はアン=テトリア=ローゼンティア。
 彼らは三ヶ月ほど前、隣国エヴェルシードによって侵略された吸血鬼の王国、ローゼンティア王族の生き残りだった。王や王妃たちはエヴェルシードに殺しつくされ、王家の人間は彼ら二人に加え、十一人の兄妹が残っているのみとなっている。
 しかし、その兄妹たちも今は側にいない。一度は十人程で集合したのだが、その後追っ手に捕まったり逃げたりしてばらばらになってしまった。
 ヘンリーと姉のアンは、捕まった方だった。それも、ヘンリーのせいでアンを巻き込んでしまった。
 カルデール公爵……これまでヘンリーにとって友人だと思っていた男、アウグスト=ミスティス=カルデール公爵は祖国を裏切ってエヴェルシードについたのだ。そのアウグストの屋敷に、ヘンリーとアンはこれまで囚われていた。
 そして彼はエヴェルシードに与してローゼンティアを裏切ったばかりか、よりにもよってヘンリーに国王に即位しろとまで言ってきたのだ。アウグストが何を考えているのか、ヘンリーには全くわからない。
 ヘンリーはローゼンティアの第三王子だが、王位継承権は五位。正妃の立場が強いローゼンティアでは、どの子よりも正妃の血筋が優先される。だから、第二王子の息子であるヘンリーよりも年下で正妃の血を継ぐ王子王女がいれば、その者の方が立場は上だった。
 ヘンリーにとっては、ロゼウスがそう言った立場だった。正妃の第二子である、すぐ下の弟王子はヘンリーよりも継承権が上だ。それでも国が落ち着いている場合は無用な争いにならないようにと、年長の王子を尊重して継承権を譲渡するのはよくあること。
権力に執着する様子のないロゼウスは実際ヘンリーに継承権第三位を譲渡しており、けれど同じく正妃の子である完璧な第一王子ドラクルが健在している限り、下位に王子たちが何をやったとて関係ない。
 そのはずだった。
「やれやれ。城の外に出ることなど滅多にないのに、その一つがこんな体験だとはな」
「姉上」
「まあ、いくら待遇が良くともあの公爵の屋敷にずっといるのは遠慮したいからの」
 確かに、アウグストの屋敷での待遇は良かった。ヘンリーに関して言えば。王になれなどと言ってきた彼の言葉は本気なのか、彼ははじめに二人を捕らえて以来、ヘンリーに乱暴な振る舞いをすることはなかった。
だがそれは、ヘンリーに関してだけだ。彼は姉のアン王女に対しては違った。アンはあくまでも、ヘンリーに対する人質なのだと言った。
 だから逃げ出してきたのだ。
「すみません、姉上」
「よいよい、ヘンリー。そなたのせいではないとわらわも知っておる。それに、こうして無事抜け出せたのだ。細かいことは気にし――」
「隠れてください! 姉上!」
 アンの言葉を遮り、ヘンリーは彼女の身体を抱いて木々の茂みへとよりいっそう深く、そして静に身を隠した。
「……屋敷の方角から人の足音が」
 逃げた彼らを探すために追っ手がやってきたのだ。この気配からすると、四人、五人。ヘンリーもアンも、王族ではあるが特に武勇に優れた人間ではない。ロゼウスやロザリーではあるまいし、その人数差で襲い掛かられたら成すすべもなく抵抗を封じられてカルデールの屋敷に直帰することになるだろう。それだけは避けねばならない。
 彼の言葉にアンは緊張し身を硬くした。あの屋敷では、ヘンリーなどより彼女の方が余程酷い目に遭ったのだ。
 腕の中の姉の、細い身体を意識しながらヘンリーは胸中で歯噛みする。この事態を呼んだのは自分の無力さのせいだというのに。何もできない自分がもどかしい。
 大勢の足音が近付いてくる。
「いたか!?」
「いや、どこに消えたんだ?」
「探せ! まだ近くにいるはずだ」
「もう森を抜けて、街道へと出たのではないか?」
「俺はあっちを見てくる」
 深い森の中だから、馬は使わずに彼らは徒歩だった。いっそ騎乗してさっさと通りすぎてくれればいいものを、すぐそこで話し声がするのに、ヘンリーとアンの身体が緊張する。
 息を潜める。鼓動さえも弱まるように。自然と同化して自身の存在感を希釈する。
 ヴァンピルは人間よりあらゆる身体能力と感覚に優れているから生半可なことでは無駄だろうが、発見する能力が高いということは、同時に身を隠す能力にも優れているということ。
 ヘンリーとアンは息を殺して、カルデール公爵の追っ手の兵士が行き過ぎるのを待った。彼らはしつこく、獣道の周辺を探っている。
 彼の腕の中では、五歳ほど年上の姉が身を震わせている。彼女だけはなんとしてでも守らねば。最悪の場合、自分だけでも飛び出せばいいのだ。カルデール公爵アウグストの狙いはヘンリーなのだから。
 アンを犠牲にするぐらいなら、私は喜んでこの身を差し出そう。
 アウグストはいつもヘンリーの言葉を聞いて笑っていた。異母とはいえ実の姉に恋心を抱くヘンリーに、虚しいだけだと、どうせ報われないと諫めるように笑っていた。ヘンリーは彼を信用していたからこのことを、決して報われることなき恋でさえ打ち明けたというのに、あの男はそれを利用した。
 私はアンが好きだ。その私の目の前で、あの男は……
 ヘンリーは腕の中の姉の細い体を強く抱きしめる。もう誰にも傷つけさせない。
 屋敷にいる間、アウグストはこれ見よがしにアンに触れてきた。
大きく柔らかな乳房を乱暴に揉みしだき、白い肌に赤い痣を幾つも散らした。嫌がる彼女の抵抗を封じてドレスの中に手を入れ、女の敏感な部位を弄った。羞恥と快楽の狭間で乱れるその彼女の姿を、ヘンリーに見せつけた。湿った音と小さな喘ぎ、痙攣する身体。それだけでも十分ヘンリーを耐えがたくするというのに、アウグストはさらに後日、タチの悪い嘘をつく。
『姉君を抱いたぞ、ヘンリー』
 その言葉を聞いた瞬間、ヘンリーは彼の顔面に全力の拳を叩きつけていた。すぐにヘンリーはアウグストの配下の兵士に取り押さえられたが、彼は高らかに冗談だと笑っていた。
 もう駄目なのだ。あの男は狂っている。彼の歪んだ眼差しには一体何が移っているのか。
 ヘンリーは見張りの兵士を薙ぎ倒し、引き離されて閉じ込められていたアンを連れて屋敷を抜け出した。
 逃げなくては。行かなくては。とにかくこの国から離れて、そうして――。
「……ヘンリー?」
 蚊の鳴くようなアンの不安な声に応え、身体を起こす。追っ手の気配はすでに消えている。
「どうやら、行ったようじゃな……」
「ええ。近くには誰の気配もありません」
 ヘンリーはアンの手を引いて立ち上がらせた。茂みの中に潜んでいたために、彼女の格好は余計惨めになっているが仕方ない。それは自分も同じ。
「行きましょう、姉上。エヴェルシードに」
「ああ」
 今現在の敵国の名を口にする。本来なら真っ先に距離をとらねばならない場所かもしれないが、国内に裏切り者がいるのでは、いつまでもローゼンティアにいるわけにはいかない。ヘンリーたち王族は顔を知られてしまっているのであるし、エヴェルシードは良い意味でも悪い意味でもやはり、彼らにとっては隣国なのだ。
「とにかく、ロゼウスにロザリー、それにできたら他の皆の情報も集めないと」
「ああ」
 最後に会ったとき、弟のロゼウスがかの国に囚われているのだとルースから聞いていた。ロザリーがそれを助けに行ったのだとも、アウグストも似たようなことを仄めかせていた。全く情報がない今では、何もわからない場所に行くより僅かでも情報がある方がいいだろう。
 だからまず、危険だとはわかっているがエヴェルシードへと向かう。
 決意を新たにして、彼らは歩き出した。

 ◆◆◆◆◆

「……それは本当なのか?」
「うん。残念ながら」
慎重に確認を取るシェリダンに、ハデスが頷く。
「大変なことになりますね」
「光栄な大迷惑ですよ」
 シェリダンの腹心の貴族であるユージーン侯爵クルスにイスカリオット伯爵ジュダ、そして帝国宰相たるハデスの四人が、珍しく顔を合わせたここは執務室。
いつもは適当に国王の私室のどれかに案内しろと言われているが、今日の話はそういうわけにも行かなかった。お茶だけ用意して立ち去ろうとしたエチエンヌを、シェリダンが引き止める。
「お前もここにいろ、エチエンヌ」
「御意」
 執務室で、山ほどのまだ決裁されていない書類を積み上げたシェリダンは席を立ち、方々との話し合いのために応接用のテーブルについた。
 エチエンヌはそのシェリダンの背後に控える。シェリダンの正面にハデスが座り、両側にイスカリオット伯とユージーン侯がいる。
「姉さんの気まぐれには僕も逆らえないしね」
 紅茶のカップに手をつけながらあっさりとそんなことを言うハデスに、シェリダンとその右隣に座るクルスが眉をしかめた。
「皇帝の意志を気まぐれで済ませるのか? 陛下は一体何を考えてそんなことを言い出したんだ?」
「さぁ? 君の花嫁でも見てみたかったとか? 臣下の結婚祝いに出席」
「臣下と呼ばれるのは形式上で私は皇帝陛下に面識すらない。しかも結婚などと、もう何ヶ月前の話だと思っている」
「だから、僕には姉さんの意志は読めないんだってば」
「閣下にもできないことってあるんですね」
 皮肉の欠片もなく心から感心した様子で、クルスが言った。そのこの場にそぐわないような裏のない台詞に毒気を抜かれて、それまで静かに言い争っていたシェリダンとハデスは溜め息ついて一時休戦を決めたようだ。
 話は、つい数分前に遡る。王城の執務室で今日の仕事をこなしていたシェリダンのもとに、偶然城内で鉢合わせたというジュダとクルスが姿を見せにきた。先日の御前試合乱入事件の調査報告をしていたところだったのだが、そこにもう一人、今現在はこの場にいないはずの人間が加わってきた。
 現皇帝陛下の弟閣下であり、《冥府の王》という称号を頂く魔術師でもあるハデスは神出鬼没だ。姉陛下の住まう皇帝領に戻っていたらしい彼が、珍しく不機嫌極まりないと言った顔でシェリダンの前に姿を見せたのだ。
 そうしてとんでもない発言をした。
「姉さんがこの国に来ることになった」
「……は?」
 エチエンヌを含め部屋にいた全ての人々の反応はそんなものだった。彼にとっての姉さんという言葉と、彼らにとってのその人物が何を意味するのかに行き当たった瞬間、驚愕が執務室と言う空間をいっぺんに支配してしまった。
「真面目に答えてくれ、ハデス卿。何故この時、皇帝陛下が我が国にお出でになる必要があるのか」 
 朱金の瞳を眇めて帝国宰相閣下を睨み付けたシェリダンに会話の主導を任せ、ジュダとクルスはその様子を見守っている。
「だから、僕も詳しいことは聞かされてないんだって。ただ、今はエヴェルシードもそうだしローゼンティアの方でも不穏な動きがあるでしょ? そういうのの様子を見には来るみたいだけど」
 尋ねられたハデスもやや困ったような顔で、自らの推測交じりの情報をシェリダンに告げた。
「エヴェルシードの憂いは先日の御前試合の事件でしょうが、ローゼンティアの方とは?」
 エチエンヌが聞きたかったことを、代わりのようにクルスが尋ねてくれた。シェリダンはそれどころではないのか、顎に指をかけたまま目も遭わせずに答える。
「王権派と反王権派の争いだ」
「反王権派?」
「ああ。ローゼンティアの勢力図が二分されている。一方は王権派、もう一方は詳細はよくわからないが、王権に与しないものの派閥。要するに一方はローゼンティア王の血筋を認める一団で、もう一方はそれ以外の勢力を押すことを決めている一団だ」
「派閥って……ローゼンティアは現在エヴェルシードの占領下ですけど、派閥とかそういうの気にするものなのでしょうか?」
 素直なクルスはシェリダンの説明では完全に理解がいかなかったらしく、小首を傾げている。
「エチエンヌ、お前はわかったか?」
「ええ。陛下」
「では代わりにクルスに説明してやれ」
 シェリダンの椅子の斜め後ろに立って控えていたエチエンヌはクルスの隣の席に座らせられ、シェリダン自身はジュダと席を交換して、ジュダとハデスの間に挟まれるような位置に移動した。向こうは向こうで皇帝陛下のお宅ならぬお国訪問に備えての話をするらしい。
 そちらの様子を一応気にしながらも、命ぜられた仕事を果すためにエチエンヌはユージーン侯爵クルス卿の隣に座って説明を始めた。
「いいですか、侯爵。まず、この世に絶対の権力なんていうものはありません」
「ええ、それは……」
 いきなりの断定的な切り出しに多少戸惑いを見せながらも、クルスが頷いたのを見てエチエンヌは話を始める。使用人であるエチエンヌは自分のためにはお茶を淹れていない。喉が渇く仕事は避けたいのだけれど。
「エヴェルシードの隣国であったローゼンティアは、ローゼンティア王家がこれまでずっと権力を握り国を支配していました。ヴァンピルたちの生活は僕ら人間とは違い、堂々と開国されている一国家でありながらどうしても吸血鬼の王国は他の人間の国に比べて閉鎖的にもなります。他にも王家に他国の民の血を混ぜてはいけないとありますし。そうなると、やがて権力を握る人間はいつも同じになるんですよ。歴史と血筋がものを言うのがローゼンティアという国だったのです。でも、それだけで誰も彼もがはいはいと命令を聞くと思ったら大間違いです。エヴェルシードが侵攻する前からローゼンティアには実は内乱の気配があったんです。ただ、それは国の性質上表立ったものではなく、もしかしたら何事もなく終わる可能性の方が高かったものかも知れません。その可能性を、このエヴェルシードがひっくり返した」
 クルスの不安そうに八の字に下げられていた眉が、だんだんと厳しくなってくるのがわかる。
「ローゼンティアの大貴族の一部の勢力には、ローゼンティア家が国を統治するのを快く思っていない一派がいました。それが《反王権派》。彼らは表向き王族への恭順を示しながら、実際は玉座を奪い取る機会を虎視眈々と待っていたのです」
「それはまさか」
「はい、そのまさかでしょう。エヴェルシードの手引きを請け負った裏切り者の貴族たちのことですよ、あのヴラディスラフ大公とか言う人と同じように」
「あの、ロゼウス様に似た御仁ですね」
 ロゼウスの名が出た瞬間、違う話をしていたシェリダンが一瞬身体を揺らした。けれど、エチエンヌは気がつかない振りでクルスと話を続ける。
「ええ、そうです。聞けばヴラディスラフ家は王の傍系だそうですから、どこかで似た容姿も生まれるでしょうね。その反王権派のヴラディスラフ大公は、エヴェルシードがローゼンティアに踏み込むことを実は歓迎していたのです」
「え?」
「自らが国内で反乱を起こすと民衆の評価が分かれたり面倒なことになる。ですから彼は、エヴェルシードの手を借りて反対派……つまり、こちらが今もローゼンティア家に服従を誓う《王権派》ですね。を、倒すためにこの国を利用しました。もともと王権派を消すのが目的ですから、その相手が消えねばローゼンティア王国の再興などしないでしょう。そして、生き残った王権派と反王権派で今、ローゼンティア国内でのいがみ合いが広がっているのです。事実はともかく、今なら勝った方が負けた方を裏切り者として処刑できる絶好の機会ですからね」
「……そんな」
「一口に吸血鬼の王国、とローゼンティアを纏めたとしても、あの国も大概一枚岩じゃなかったってことです」
 言いながら、エチエンヌは自室にいるはずのロザリーのことを思い出した。多少行動は乱暴だったり兄のロゼウスが大好き過ぎたりするけれど、基本的に人のよいロザリー。それに第六王子のジャスパーという少年はよく知らないけれど、第五王子ミカエラや第三王女ミザリーと言ったあれらのヴァンピルたちも、権謀術数の凌ぎ合いが通常と言えるような真っ暗な世界に生きている者とは思えなかった。個々の性格の方向性は、間違っても陰謀や謀反に結び付けられるものではない。彼女たちを見ていれば、確かにローゼンティアは歪みを知らない国に見えるかもしれない。
 けれど、こたびの戦争は何も一から十までエヴェルシードのせいというわけでもない。誘いをかけてきたのはヴラディスラフ大公……ローゼンティア国内の大貴族が、エヴェルシードを手引きしたくらいなのだから。
「まあ、それはともかく、ローゼンティアの勢力図が王権派から反王権派に書き換えられるなんてことがあればローゼンティアはまた息を吹き返しそうですね。今、シェリダン様が全力でそれを阻止というか……双方に決定打を出さないように見張っているんですが」
 王様って大変だ。シェリダンを見ているとエチエンヌは常々そう思う。なのに、ローゼンティアでは本来王様でない人々が王の座を狙って争っている。何故? 国王なんて、そんなに魅力ある職業だろうか?
 王様でさえそれなのだから、皇帝となった日にはどうなのだろう?
「皇帝陛下は我が国とローゼンティアが表面上は穏やかでありながら水面下で危険を抱えているのを知っておられたか」
「うん、で、そろそろやばいなーってところまで来たんじゃないかな。まあ、一応姉さんはエヴェルシードを推すからその牽制の意味もあって今回この国に来ることにしたんじゃないかな?」
「かな? では説得力がないぞハデス卿」
「仕方ないじゃん、全部推測だもん」
「だが、私もそう思う……この世界の全ての土地は皇帝のもの。それを一地方の領主たる私がどう統治するのかが、陛下に関心をひくことになったというわけか」
「そういうこと。姉さんはローゼンティアを無理に復活させるくらいならこのままエヴェルシードの領土拡張を選ばせたいんだろう?」
「本気か?」
「たぶんね」
 シェリダンが溜め息ついたのと同時に、エチエンヌとクルスもそちらへと視線を向けた。
「……表向きはただの視察。ならば歓待の宴の準備をせねばな」
「陛下」
「エチエンヌ」
「はい」
 ふいに、シェリダンがエチエンヌの名を呼んだ。
「もしもの時は、お前の妻を借りるぞ」
「――へ?」
「ロゼウスを大勢の人目に触れさせて男だとばれたら厄介だからな。上手く取り繕えない状況ならば、ロザリーを代理として出す。いいか?」
「あ、はい。お好きになさってください」
 言いながらエチエンヌは、内心面白くないものを感じる。それはシェリダンに関してと言うより、もっと複雑で行き場のない思いだ。
 突然気まぐれのようにこの国を訪れる皇帝のせいで、エチエンヌの機嫌は休息に落下していった。


096

「大人しくしていてくださいよ?」
 イスカリオット伯とかいう男のそんな言葉に、まさか従うわけもなかった。
「で、わざわざあんな回りくどい手段まで使って僕を呼んだのかい?」
「文句あるのか? 約束は守るって言ってるだろ?」
「それは嬉しいけどねぇ。困ったなぁ。姉さんに怒られちゃうよ」
「勝手に怒られていろ」
「酷いなぁミカちゃんは」
「その呼び方やめろ!」
 ヴァートレイト城で出会ったルイ=ケルン=バートリは相変わらずだった。末弟のウィルを連れたミカエラは、イスカリオット伯爵ジュダの屋敷を抜け出てこっそりとこの男に会いに来た。
 シアンスレイト郊外、ユージーン侯爵領に近いこの街の裏路地。ミカエラはウィルの手を握り、フードを注意深く被って彼と相対する。
「ミカエラ王子? でも、そんな呼び方をしたらすぐにバレちゃうよ? だいたいエヴェルシードではミカエラとかミカエルとかついでに君のお兄さんたちの名前なんかもあんまり一般的じゃないんでね」
「じゃあ、どうしろと?」
「ミカでいいじゃないか。平民なら二文字から三文字くらいの名前が普通だからね」
「……わかった」
 ルイの言葉にミカエラは渋々と納得する。
 ロゼウスを助け出すのには、兄妹以外にも、外部の協力者が必要不可欠だ。けれど、あのイスカリオット伯という男は信用できない。誰よりもエヴェルシード国王に近い位置にいながら、平然と王を裏切る事ができるあの神経は信じがたい。
 この国の奴らはみんな頭がおかしい。
「僕は、兄様を助け出す。そのために力を貸せ」
「はいはい、僕のミカ。君のために力尽くしましょう」
 歩き出しながら言って、バートリ公爵エルジェーベトの弟であり、彼女からバートリ領の統治を任されているルイは目を鋭く細める。
「それに、君の話が本当ならば、この国にとっての一大事でもある。エヴェルシードの民としては、王への反逆を見過ごすわけにはいかないな」
「ルイ」
「残念だけど、カミラ殿下は王の器ではないよ。自ら動き始めたということはこれまでの何もできないお姫様からは進歩したみたいだけど、あの方に国を任せるわけにはいかないね」
「……お前」
 ミカエラは使い魔の蝙蝠を使って、伝書鳩ならぬ伝書蝙蝠にしてルイに連絡を取った。
 ジュダがシェリダン王を裏切り、王の妹であるカミラ姫と共謀していること、ローゼンティアとエヴェルシードの間には何らかのやりとりがあること。
 建前上ミカエラたちはジュダに匿われているが、あの男は信用できない。ロゼウスとロザリーを助け出すのに、ジュダを信用してはいけない気が、ミカエラの中で強く警告を発する。
 だから手段を講じたのだ。一種の賭けだが、ルイの姉であるバートリ公爵はシェリダン王に反する様子は見えない。ロゼウスがシェリダンの側にいることは、いくらシェリダンの意思だといっても彼のためにもならないはずだ。
 シェリダンを害するためにロゼウスを利用しそうなジュダやカミラと手を結ぶくらいなら、シェリダンに与するため邪魔なロゼウスを遠ざけたいルイたちに協力した方が……たぶん、マシだ。
「この辺でいいんじゃない?」
 うらぶれた酒場の一つに、ミカエラたちはルイと共に入った。ミカエラが抜け出す前に見咎めて、護衛のためだと剣をローブの内側に下げてついてきたウィルが眉を下げる。まだ十二歳の弟のために、いかがわしい店を兼ねていないことだけが救いだ。
 店の奥にある薄暗い席の一つについて、酒精のない飲み物を酒場でわざわざ頼んだルイと改めて顔を合わせる。
「そっちの子は? 弟の一人だね。見たところ相当腕が立つようだけど」
「……末弟のウィルだ。ウィル、こっちがバートリ公爵の弟、ルイ」
「……はじめまして」
「はじめまして、第七王子殿下。君は兄上の護衛ってわけだね」
「あなたが誰であろうと、兄様に手を出したら、殺します」
「あっはっは。多分君の手を出すと僕が考えているものはチガウだろうけど、今はどちらもしないと約束しよう」
 ウィルもミカエラも、ルイに対して信用など全くしていない。けれど、その他に頼れそうな人間もいないし、シェリダンに近すぎる人間に関わるのも危険だ。これ以上の相手は望めない。
 ひとまず、本題に入ることにした。
「王家の兄妹は他に誰がいる?」
「ロゼウス兄様はまだ王のもとに。第四王女のロザリーもそこに。第二王子アンリ、第三王女ミザリー、第六王女エリサ、僕とウィル、それと第六王子ジャスパーがイスカリオット伯の屋敷にいる。後の第一王女アン、第三王子ヘンリー、第五王女メアリー、第一王子ドラクルと第二王女ルースに関しては全く消息がつかめない」
「うーん、芳しい状態とはとても言えないね。半分弱が行方不明か」
 ルイは首を捻った。
「とりあえず、いまイスカリオット伯のところにいる手勢だけで彼に歯向かうのは控えておいた方がいいね。君はもちろん、ミザリー姫も無力な姫。末っ子のお姫様だってまだ十歳だろう? 第二王子と第六王子がどれほどのものかは知らないけど、立場上シェリダン王もユージーン候も、イスカリオット伯もカミラ姫もみんな敵に回さなきゃいけないこちらとしては、動くのは機を見てからじゃないとね」
「……協力してくれるのか?」
「さぁ。まだ姉さんと相談してないからなぁ? でもまぁ、今はどことも事を構える必要はないみたいだから、多少の余裕はあるし、協力してあげてもいいかなー、とは思うんだけど」
「はっきりした返事が欲しい」
「今は無理だ。僕の権力は僕のものじゃない。姉さんのものだからね。近いうちに返事する」
「……」
「まあまあ、そんな顔をしないでよ。表立って協力はできなくても、助言ぐらいはしてあげられるから」
「助言だと?」
「うん。まあ、手駒を増やせってことと、機会に乗じろってことだけど」
「……どうやって」
「前者については、ばらばらになった王家の兄妹を集めたり、とにかく信頼できるヴァンピルの協力者を作れってこと。こっちの方が難しいかな。もう一つは、これはまだ確定情報ではないんだけど、姉さんから聞かされた話がある。それを利用しよう」
「……それはどんな話だ?」
「近々、この国に皇帝陛下が来る」
「え?」
「世界皇帝がですか!?」
 それまで黙っていたウィルでさえも声をあげた。うっかり大きな声をあげかけてしまって、慌てて自分の口を塞いでいる。酒場の客たちの視線が集まるのを、ルイがごめんね早速酔っちゃって〜などと言って誤魔化している。
「……気をつけてよね」
「……ごめんなさい」
 気を取り直して、ルイは先程の言葉を続けた。
「皇帝陛下が来るとなれば、その準備に王城は慌ただしくなるはずだ。その隙を狙おう。決行日は、ずばり歓待晩餐会の当日」
「そ、そんなこと……」
「いや、そのぐらいじゃないと。陛下が来るまでは警戒が厳しいし、来た後は緊張状態になる。準備と警戒の狭間でちょうど緊張が緩む一瞬の隙を狙わないと」
 ミカエラは息を飲んだ。
 ルイが言ったのは途方もない計画だ。今の状態では、いくらアンリとウィルがいるといったって、到底実現できそうもない。
「……難しい、ですね」
 彼らにはまだ、何枚もの駒が足りない。

 ◆◆◆◆◆

 ミカエラとウィルがジュダの目を盗んでどこかへ出かけたようだ。
「ちょっと! アンリまでどこか行くの!? やめてよ! 私一人になっちゃうじゃない!」
「仕方がないだろう、ミザリー。いくらあの二人に協力するって返事したとはいえ、何もかも任せるのは危険だ。俺たちは俺たちで、ヤツラの弱味を掴むか、俺たちを有利にする何かを作っておかないと」
「だからって、アンリ……」
「一人じゃないだろ、ミザリー。エリサがいるし、それに」
「ジャスパー……でも、あの子は」
 ミザリーが悲しげに目を伏せ、祈るように手を組んだ。
「……お前が面倒を見てやってくれ。なんとか、するから。エヴェルシード王の弱味か何か掴んで、ローゼンティアを取り戻せれば……そうすれば元通りとは言えないけれど、きっと良くなるから!」
 アンリが言葉を連ねると、ミザリーはその、王家の中でも最も美しいと言われる顔をくしゃりと歪めた。
「わかりました、第二王子殿下。アンリお兄様。……私は、エリサとジャスパーと共に、皆様のお帰りを待ちます」
「すまない、ミザリー。だが、お前くらいには残ってもらわないと」
 さすがに美貌を謳われるだけあって、第三王女ミザリーの存在感は圧倒的だ。彼女一人でローゼンティア王族のオーラを放っているので、一人二人いなくなっていても少々の嘘で誤魔化せてしまうだろう。
 それに、ジャスパーの面倒を見る人間はやっぱり必要だ。
「……アンリ兄様」
「ジャスパーを頼むよ、ミザリー」
「身体の方は、大丈夫なのよね」
「ああ、どこも悪いところはない。ロゼウスのおかげで、狂気も抜けている」
 彼女が言っているのはジャスパーのことだ。基本的にロゼウス以外の弟に対しては面倒見のいい彼女だから、下から二番目の弟が大騒動を起こした際も心を痛めていた。吸血の副作用であるヴァンピルの狂気に陥ってしまったジャスパーは、ロゼウスの魔力から目覚めて正気を取り戻したが、それ以来自らのやったことを省みて落ち込みやすい日が続いていた。
 今では体調は完全に戻っているが、与えられた部屋に閉じこもって出ようともしない。
 重ねて彼女に弟の面倒を言いつけると、ミザリーは潤んだ眼差しで請け負った。
 それを見届けてアンリは窓から屋敷を抜け出そうとしたが、ふいに訪れた人の気配に足を止める。コンコンとノックの音がして、こちらの返事を待たずにするりと身を滑り込ませる影があった。
「アンリおにいさま〜」
「エリサ」
 彼らが自由に使ってよいとジュダから与えられた部屋に、どこかへ行っていたエリサが戻ってきたところだった。外套を着たアンリの姿に目を丸くする。
「おにいさま、どっか行くの?」
「ああ。内緒にしておいてくれよ、エリサ」
「うん、わかった」
 元気よく返事した末の妹の笑顔と、控えめに微笑んだ美しい三番目の妹に見送られて今度こそアンリは屋敷を抜け出す。
 エヴェルシード王都シアンスレイトにほど近い、この屋敷。シェリダン王の要請にすぐに赴けるようにとの理由は表向きで、ここはジュダがシェリダンの動きを見張るために手に入れた館らしい。
 王都に近い事は、便利であると共に諸刃の剣だ。情報収集はしやすいが見つかって王城に捕まる可能性も高い。それでも、王都を離れてしまえば城の噂などまったく聞こえては来ないから、ここは確かに内乱を企む者が玉座を監視するにはうってつけの位置なのだろう。自らの行動はぎりぎり伝わらない範囲、自分が情報を得たいときは少しだけ遠出すればいい。
 そしてヴァンピルであるアンリにとっては、数時間で行って帰って来れる距離だ。馬車も馬もないが、自分の足で屋敷を抜け出し、王都へと戻る。こういうとき、アンリは力こそ弱いが吸血鬼王家の人間でよかったと思う。
 今回は髪を染めるほどの時間はなかった。もともとアンリの瞳の色は朱色っぽくて、エヴェルシード人とも近い。彼らの瞳の色は本来夕焼けのような橙色でもっと明るい色だが、何しろ国王であるシェリダン=ヴラド陛下は朱色がかった金という変わった色合いの目をしていたのだから、誰かに見咎められると言う事もないだろう。
 外套を着込みフードを深く被って、アンリは用心深く街中を歩く。王都の大通りに出てしまえば、出店の鮮やかさがふと目を引いた。
 市井の人々の暮らしは、どこの国でも変わらない。アンリたち吸血鬼の国ローゼンティアでは昼夜が逆転しているから、顔を隠す意味だけではなく日差しをも防いでくれるこの外套がなければ街中を歩くなんてことはなかったが、それでも星の綺麗な夜、ドラクルに連れられて城下町を歩いたことなどを思い出す。
 ああ、懐かしい。あれはもう、十……何年前だろう。アンリがすぐ上の兄である第一王子を無邪気に信じきっていた頃。ドラクルがロゼウスにしていることの実態を知る前。
 才能溢れる第一王子として厳格に育てられた割には、ドラクルの生活は自由だった。しょっちゅう仲間の貴族と街に出ては、身分を隠して遊んだり、危険な賭け事に手を出したりしていたのだという。おかげであの兄は王子の癖に、よくわからない様々なコネが城の内外にあった。
『一緒に来るかい? アンリ』
 手を、ひかれて歩いた。真夜中こそヴァンピルたちの時間。建物の間に張り巡らされた糸へ吊るされた明かりに道は照らし出され、幻想的な空気と庶民の暮らしの活気が広く狭い大通りに混ざり流れている。ドラクルは懐から財布を取り出して、アンリがあちらこちらで王城では見ることのないような珍しいものに視線を奪われている隙に、小さな菓子の詰め合わせを買ってくれた。
 安物の装身具を売る出店。おいしそうな食べ物の匂い。人込み。はぐれないようにと、繋がれた手。ぬくもり。ふいにこんなところまで来てしまっていいのだろうかと不安になって隣を見上げれば、『なんだい?』と穏やかに聞き返す笑顔。
 兄さん。
 ドラクル。
 あんたは確かに優しかった。優しい人だと思ってた。優しくしてくれたんだよ、俺には。
 なのになんで、ロゼウスにはそうしないんだ? 俺みたいな異母兄弟じゃなくて、二親血の繋がった実の弟なのに、なんで。
 今、ここにドラクルがいたらどうなっただろう。いや、そもそもドラクルがいれば、こんな事態に初めからならなかったに違いない。ローゼンティアが侵略されたのはシェリダン王の軍略が優れていたからかもしれないが、国内に裏切り者をいくらも出して、追っ手に追われて兄妹散り散りになるなんてことはなかったはずだ。
 そういえばアンリはドラクルが殺されたところは見ていないし、墓を暴いて甦りを確認したわけでもない。ルースが言っていたことを簡単に聞いただけだが、ドラクルは今どこにいるのだろう。
 甦ったのは間違いないとはいえ、そういえば彼は、《死人返り》のノスフェル家にしては、再生能力が低かった。弟のロゼウスが一度や二度くらい殺されかけてもぴんぴんしているのに比べたら(比べる方が悪いかもしれないが)繊細だとも言える。だから、あの時も兄妹で揃うことはできなかったのだろうか。ドラクルが死なずに指揮を取り続けていれば、結果は何か変わっただろうか。
「……駄目だな」
いつの間にか埒の明かない結果について考え込んでいたことに気づき、アンリは自嘲を浮かべながら顔を上げた。
 過ぎ去ったことを言っても仕方がない。考えなければならないのは常にこれからのことだ。自分がしなければいけないこと、した方がいいこと。どんなに考え込んだって今現実にここにドラクルがいないのだから、他の兄妹の安全に関しては一番年長であるアンリが全ての責任を負う。
 彼にできることはそのくらいしかない。アンリは奇人王子のヘンリーほど策謀に富むわけではないし、ロゼウスやロザリーほど身体能力的に強いわけでもない。何か、ローゼンティアの再興と人質の身柄と引き換えになりそうな価値あるものを持っているわけでもない。
 考えることだけが、アンリの武器。
 しっかりしろ、知略王子アンリ。ローゼンティアそのものを奪還するとまで大きくは出られないが、それでも今ロゼウスとロザリーを救えるのは俺たちだけだ。
 アンリの剣の腕は人並み程度だし、ウィルは兄妹の中ではドラクル、ロゼウスに次ぐ実力を誇るがそれでも病弱なミカエラや無力なミザリー、エリサを守らねばならないことを考えるとリスクの方が大きい。腕ずくで行動は無理だ。かといって、今いる兄妹では連携をとって作戦を行うのも難しいだろう。
「せめて、もう少し情報と人が揃えば……」
 道を行き交う人々の様子は平穏そのもので、時折いかめしい顔立ちのごろつきが通るのをついつい眺めてしまう。身につけていた装身具の幾つかはまだ処分せずに残してあって、それを売れば相当な金になるはずだとは昔ドラクルに夜遊びに連れて行かれたせいでわかっている。その金で、彼らのようなごろつき連中を雇うのはどうだろうか? 考えて自分で駄目出しする。危険が大きすぎるし、エヴェルシード人がヴァンピルに協力してくれるとは思えない。シェリダンはアンリたちを一応懸賞金付きで、体裁だけかも知れないが探しているのだと言う。どう考えてもそちらにアンリたちを売った方が得だと普通は考えるだろう。
 ああ、八方塞り。
 いかにも粗暴な一人のごろつきを眺めながら、どうにか丸めこめたらなぁ……などと考えて歩いていたせいでアンリは道を行く誰かとぶつかった。女性の小さな悲鳴があがり、ついで慌てた男性の声がする。
「きゃわっ!」
「姉上!?」
「あ、申し訳な……い?」
 自分と同じようにフードを目深に被っていた二人組に軽く謝罪の言葉を述べようとしたアンリは、その彼らの顔を見て思わず動きを止めてしまう。
「ヘンリー!? アン!?」
「アンリ!?」
「兄上!」
 吸血鬼も歩けば弟妹に当る。
 顔を隠しながら連れだって歩いていたのは、アンリ同い年の妹である第一王女アンと、六つほど年下の弟である第三王子ヘンリーだった。
 最後の駒が、この手に揃う。


097

 そんなことがあったことすら、本当は忘れていたかったのに。

 胃の奥に溜まるような吐き気が消えない。
「うっ……うぇ、ごほっ……」
 酷く体調が悪く、洗面所から離れられない。こめかみや首筋に汗をかいてしまって、長い髪はこういうとき鬱陶しくなる。頬に垂れかかった一房まで汚さないよう指で押さえてから、カミラはもう何度目になるかもわからない嘔吐を繰り返した。
「うっ…………気持ち、悪い……」
 整理的な涙は浮かび、すでに頬を伝っている。それでも胃の中のものを吐ききってようやく納まったのか、少しだけ体中の嘔吐感は軽くなった。気づけば首だけでなく、肘の内側や脇の下、様々な場所に汗をかいている。鬱陶しい。気持ち悪い。どうにかさっぱりしたい。
 口の中を丁寧に水で漱いで、顔を洗ってようやく人心地つく。嫌なにおいを早く追い出したくて、部屋の窓を思い切り開け放つ。  
 ここ数日、ずっとこんな風に身体が辛かった。シェリダンを殺すために御前試合に乗り込み、結局ロゼウスを取り戻すこと叶わずローゼンティア王家の数人の人々だけを連れてイスカリオット伯が王都郊外に手に入れた屋敷であるここに、移ってから。
「カミラ姫、私ですが、入ってもよろしいでしょうか?」
 寝室に戻ると、丁寧で優雅なノックの後に、そんな言葉が聞こえた。カミラは長椅子に横たわりながら、どうぞ、とだけ答える。
「あれま、相当お辛そうですね」
 屋敷の主人であり、共犯者であるとはいえ来客のイスカリオット伯爵ジュダ卿。彼がわざわざ部屋まで足を運んだにも関わらず横たわった状態で出迎えたカミラを見て、ジュダはぱちぱちと長い睫毛を瞬かせた。
「気分が……全然よくならなくて」
 だるい、まだ吐き気がする。起き上がるのが辛くて、椅子に座ってさえいられない。けれどこの時間から寝台に寝転がるなんてことも抵抗があって、しかたなくカミラは長椅子に軽く身を横たえていた。
 彼女の様子をじっと見ていたジュダは、その手に何かを持っている。
「お食事の方は」
「無理。食べ物の匂いを嗅ぐと、気持ちが悪くて……」
「……ああ、そうでしょうね。そうだろうと思って、こちらを用意しました。どうぞ殿下」
 彼は本来自らの手で荷物を運ぶなどせずとも良いような身分ではあるが、カミラと二人きり、もしくはハデスやここには今いないドラクルなどを交えて三、四人で話す時にはこうして自ら給仕の役を買って出ることもある。
 ジュダがカミラの目の前に置いたのは、よく冷やされて水滴の浮いた硝子の器に入れられた飲み物、どうやら水らしかった。
 薄水色の硝子細工が涼しげで何とも心地良さそう。その風情に惹かれるようにカミラはふらふらと手を伸ばし、その飲み物を手に取った。
 冷たい器に唇を触れて液体を口に含むと、爽快な酸味と共に心洗うような潤いが弾けた。
「おいしいわ……」
「単なる檸檬水なんですがね。ただの水よりはこちらの方がお気に召すのではないかと思いまして」
 思ったよりも渇いていたようで、一度口に入れると後は止まらなかった。ごくごくとその器を飲み干してしまう。
「まだおかわりはありますから、そう焦らずに」
 気遣いとは裏腹にどこか冷めたような眼差しをしたジュダがそう言う。
 気のせいか、彼の視線は椅子の上で身を起こしたカミラの身体の下のほうに向けられている気がする。
「どうしたんですの?」
「いえいえ。別に。ただ、男である私にはわからない感覚でしょうからね」
「何を言っているの?」
 彼の言っている事がわからない。相変わらず伯爵の視線は、カミラの下腹部辺りに向けられている気がする。これが普通の男性なら好色な意味合いを危惧するのだろうが、生憎とこの伯爵はカミラに関してそういう興味は全くないと常から言い放っている。
 その彼の次の言葉に、だから彼女は息を飲んだ。
「話にしか聞いていませんけど、悪阻って相当辛いらしいですね」
 息が、止まる。思考も。
 手の中から力が抜けて、檸檬水の入った器を取り落とす。床に落ちた硝子が無惨に砕け、きらきらと凶悪なまでに光り輝きを反射する。
「な、今――」
 この男は、一体なんて言ったの?

 私はあの方を愛している。心の底から、あの方を手に入れて閉じ込めて二人で生きられたらどんなに幸せだろうかと想っている、ロゼウス様。
 けれど彼は、私にとっては殺すなどと生温い、未来永劫の地獄に突き落として絶望させたいほど憎いシェリダンの手の中。
 
 そしてこのお腹の子は、世界一愛しい男と世界一憎い男、そのどちらの子なのかわからない。


 《続く》