087

 シェリダンは御前試合のときのことをクルスに調べさせたようだが、結局、カミラについては何一つわからなかったようだ。
「だが、あれはカミラだ」
 シェリダンは断定する。
 そしてロゼウスは。
「対外的にはカミラの名を騙る偽者だという情報を流した。しかしあれは間違いなく、私の妹のカミラだった」
「うん」
 短く頷いて、寝台の上に腰掛けたシェリダンに寄り添う。冷たい冬の雨に打たれたみなしごたちが身を寄せ合うように、ぴったりと身体をくっつけた。
「調査は続けさせている。お前の兄妹を探す捜索の手もエルジェーベトに。周辺諸国の動きが安定しているからすぐに国内外が乱れることもないだろう。問題と言えばローゼンティアのことぐらいだ」
「うん」
「だからお前は人質として必要だ」
「うん。わかってる」
「ロゼウス」
 お前は捕虜だ人質だと、繰り返しシェリダンが言い聞かせるのはロゼウスにと言うよりも、むしろ声に出して告げることで自分に言い聞かせているようだった。重ねた手に指を絡めながら、ロゼウスはその言葉を聞く。
 嘘つき。
 愛していると言ったくせに。あんなにも狂おしい瞳で。
 馬鹿だ馬鹿だ。俺も、あんたも。
「何?」
 名を呼ばれ、振り向く。彼は寝台の端に腰掛け、ロゼウスは完全に寝台の上に上がってシェリダンの右肩に体を寄せている。
「お前はあれから、何も言わないな」
「いくら人質だって言っても、俺の国が不利になるような情報を、何故あんたに与えなきゃならない?」
「そうではない。そこまでしろとは言わない。だが……」
 こうして身を寄せ合って喋っていると、余計な感傷まで湧き上がってきてしまう。シェリダンはそれが困るというように、ふいと顔をそらした。ロゼウスはその視線を追わずに、ただ彼の肩口に頭をもたせかける。
 今の距離は、最初の頃、最初と言っても侵略国の王と敗残国の捕虜の王子と言う最悪の頃ではなく、そこから少し過ぎて、それなりに二人でいることにも馴染み、ロゼウスがこの国にいることもごく自然に受け入れられるようになった頃……あの時と似ている。
 だけれどやはり、何もかもがあの頃と一緒ではない。ヴァートレイト城での一件以来シェリダンの機嫌が悪い事は変わらず、ロゼウスが彼の知らぬ場所で別の男に……ドラクルに抱かれたと言う事も、その後シェリダンを拒絶したということも消えてなくなるわけではない。
 それでもロゼウスはここに帰ってきた。
 ここに、シェリダンの側に。アンリの手を断り、ミザリーやミカエラ、ウィル、エリサに悲しい顔をさせてまでもこの場所に。ロザリーだけは結局この選択につき合わせてしまったけれど。
 そしてジャスパー。緩やかな狂気に飲まれてふわふわと夢見心地で下から二番目の弟が口走った衝撃的な言葉。
 ――兄様、兄様、会いたかった。
 ――もう離れない。ずぅっと兄様と一緒にいる!
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために……。
 彼はロゼウスのために生まれてきたのだと、ハデスは言った。
 シェリダンに教えるべきだろうか。ハデスのこと、カミラを蘇生させたのはロゼウスだということ。でも、その前に……
「ロゼウス」
 その声に意識を向ける間に、柔らかな寝台へと押し倒される。
「……ん、んぅ……」
 貪るような口づけ、服の合わせ目から滑り込んだ手に感じながら、ロゼウスは身体の力を抜く。女物衣装の裾をまくられ、恥ずかしい部位をあらわにされる。シェリダンは自らの服の前も開け、さらに身を摺り寄せた。
 性急ながら丁寧な愛撫。久々の感覚に、頬は紅潮し思わずじわりと目の端に涙が浮かぶ。
 あのヴァートレイト城での一件以来、ずっと鎖に繋がれて酷い目に合わされていた。窓硝子の奥に鉄格子が嵌められた部屋で、酷く粗雑に扱われた。不義を働いたロゼウスを責めるように、愛していると口では告げながらシェリダンはロゼウスを加虐していた。
 あの頃は、このまま耐え続ければいつかは気が済むだろうと思っていた。
 やがてその狂気、彼の胸の奥の渇望には果てがないことに気づいた。こんなものでは収まらないのだと。
 最後にはロゼウス自身が、そしてシェリダンが壊れそうになった。壊れる手前でシェリダンは正気に戻ろうと、強いてロゼウスへの関心はただ肉欲だけに絞ろうと自分に言い聞かせていた。
 でも、それじゃ駄目だ。誤魔化しきれない想いはいつか必ず溢れてしまうものだと知ったから。
 ジャスパー、俺はお前には応えられないよ。俺はお前が、俺をそんな風に見てることさえ知らなかった。お前は可愛い弟。でもそれだけ。
 そしてこの目の前の少年は。
「あっ……」
 胸元に顔を寄せたシェリダンが、口づけで濡れそぼった紅い唇に胸のものを含む。ぬらぬらとした舌に嬲られて、言いようのない痺れが背筋をかける。同時に、下のほうも彼の手の内に閉じ込められた。
「ひあっ!」
 先端を指で扱かれると、やけに甲高い声が出た。先走りで濡れた指を、シェリダンが後に沈める。
「うっ……」
 小さな異物感の後に、慣れた快楽。自らの身体を他人の手で開かされ、かき回されているという興奮。指先がある一点を突くと、自分でもどうしようもない快感が走る。
 十分に慣らしてから、シェリダン自身を受け入れる。道具も使わず、根元も縛らず自然な形で行うのは、本当に久しぶり。
 目元に浮かんだ涙を、シェリダンが舌で舐め取る。ちらりと見つめた顔立ちは朱金の瞳の目元が紅く染まり、ロゼウスを抱くシェリダンの方も何かに溺れたがるかのように、飾り気のない快楽を貪っていた。
「あっ――」
 頭の中が真っ白になる。全身から力が抜ける。内部を埋めていたものが引き抜かれ、途端に物寂しくなるなんて現金なことを考える。
 でも、こんな形で肌を重ねるのはまた当分――もしかしたら二度となくなるかも知れないようなことをロゼウスは口にした。
「シェリダン」
 こちらも事後の倦怠感に息をついているシェリダンが、けだるい視線を向けてくる。
「もう一度、俺をあの部屋に閉じ込めて。でなければ、あの銀の拘束具を」
「ロゼウス? 何を考えている?」
 あの部屋。拷問器具が並べられ、窓に鉄格子の嵌った監禁部屋。そして、ヴァンピルの力を封じる銀の枷。
「俺は……たぶんこれから、悪夢を見る。それで目覚めた時に、ちゃんと正気を保てるか自信がない」
「ロゼウス」
「だから、閉じ込めて。間違ってあんたや、周りの人を傷つけないように」
 正気を失ったヴァンピルが何をするかは、『炎の鳥と紅い花亭』で暴れたロザリーや、牢番の血を吸い殺したジャスパーを見れば明らかだ。その上、ロゼウスは二人よりもずっと能力が強い。
 でもその《夢》を乗り越えなければ、ロゼウスには明日はない。ロゼウスにもシェリダンにも。
 ――だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?
 ああ、そう。ここは涙の池。ロゼウスは自らの流した涙で溺れようとしているのなら。
 俺は……俺も向き合わなくちゃ。そこにあるものが、何であれ。そうでなければ、アンリ兄様の手を断ってここにいる意味がない。
 ロゼウスにとってのローゼンティアを、そしてエヴェルシード王シェリダンを見つけ出さないと。
「答を」
 敷布の上に投げ出されていたシェリダンの手に手を絡めた。
「俺はあんたへの、答を探している」

 ◆◆◆◆◆

 さらさらと書類を書き綴る手をとめずに部下の報告を聞く。
「陛下、ハデス卿と連絡がとれないのですが……」
「放っておきなさい」
「ですが、帝国宰相がそのように軽々しく陛下のお側を離れるなど、本来あってはならないことです!」
 頑固な側近の一人に、デメテルは微笑みかける。彼らはあくまでも気づいていないのだから。彼らのその不満と愚痴を言う時間が、デメテルの執務にかける時間を削っている。
「ハデスは外見こそ子どもの姿をしているけれど、あれであなたたちの何倍もの時間を生きているのよ? よっぽどのことでもなければ彼自身に何かあることはないし、こちらにだって重要な議会の折にはちゃんと顔を出しに帰って来てる。それで十分よ」
「ですが、それでは陛下の執務に差しさわりが……」
「そうでもないわよ。私だってもう皇帝になって……何年だったかしら。形ばかり帝国宰相を置いてはいるけれど、ハデスがいなくても何とかなることはなるのよね。いてくれた方が勿論助かるのは確かだけれど」
「デメテル様」
「放っておきなさい」
 食い下がる侍従の一人に、忠告する。
「それに、迂闊にあの子の行動に干渉しない方がいいわよ。《冥府の王》ハデス=レーテの名は伊達ではないのだから」
 デメテルの後ろ盾があろうとなかろうと、ハデスは好き勝手にやっている。厳しい修行の果てに習得した万能に近い力、《魔術》を利用して常人には不可能な現象・結果を生み出している。
 デメテルがそれに口を挟むのは、あの子があからさまな形でデメテルの邪魔をした時だけ。自分の必要としない者には容赦がないとデメテルはよく言われるのだが、それも仕方のないことだ。この状況では。
 私は世界皇帝なのだから。
 アケロンテを治める者、アケロンティス。デメテル=レーテ。
 デメテルのどこを見て神が皇帝にと選んだのかは不明だが、とにかくやれることはやらないと。その見返りとして得られるもののためにも。
 側近くに控え、まだ不満そうな顔をしている部下の一人に言ってやる。
「そんなに、ハデスの勝手が気になる?」
「……あの方は帝国宰相です。我々如きが口を挟めるお方ではありません」
 こうして仕事の合間にデメテルに弟に対する愚痴を言いにくるくらいなのに。
「心配しなくていいわよ」
「デメテル陛下?」
 デメテルの言葉の意味をまだよくつかめていない彼に告げる。
「要らなくなった時は、私がこの手であの子を殺すから」
 デメテルは自分では微笑んだつもりだったのだけれど、そんなに怖い顔になっていたのだろうか。先程まで険のある顔つきで意見に来ていた侍従は目に見えて怯え始めた。
「いえ、そんな……我らはデメテル陛下の弟君に、不満など……」
「なら、いいじゃないこのままで。心配しなくても、あの子が出かけている先はわかっているし、皇帝領を出て他の国々の統治者と話をしているのならばそれは職務放棄じゃないわよ。……ああ、できた。はいこれ」
「は、はぁ……こちらに関しましては、確かにお預かりいたします」
 怯える男たちが、できあがったばかりの書類を持って執務室から下がる。
 デメテルは立ち上がり、窓枠へと寄った。あくまでも窓は開けず、薄布が下ろされたむこうの景色に目だけをやる。
「早く帰っていらっしゃいな、ハデス」
 愛しい愛しい、弟の顔を思い出し、デメテルはひっそりと笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろこちらにも戻らないと不都合があるだろうと思って帰ってきたのはいいのだが。
「要らなくなったら、ね」
 先程の盗み見た執務室での光景を思い出し、ハデシは眉間に皺を寄せる。相変わらず、ここの奴らは鬱陶しいのばかりだ。ハデスが空間転移の術で好き勝手に出歩けるからといって、嫉むなど。
 そんなに自由な帝国宰相の地位が羨ましいというのなら、いつだって譲ってやる。その代わりに、ハデスに相当の権利をくれるのならば。この忌々しい皇帝の寝台に侍る権利共々、押し付けてやる。
 ――要らなくなった時は、私がこの手であの子を殺すから。
 デメテルの言葉を思い出す。ハデスの姉、第三十二代世界皇帝デメテル=レーテ=アケロンティス。別名を大地皇帝。
 彼女の物言いは弟であるこのハデスを、挿げ替えのきく玩具のように見ている。価値があるから利用するだけの道具。そしてそれは実際に当っていた。
 ハデスはデメテルのために生まれた。
 世界皇帝自身には何の印もないが、その皇帝を選ぶ選定者には神に与えられた印がある。選定紋章印。ハデスの右腕に浮かび上がるこの印がそう。
 選定者は皇帝のために生まれてくる。
 それは紛うことなく、神によって定められた宿命。
 選定者は普通、皇帝に逆らえない。だが皇帝は選定者を害することができる。選定者に皇帝を殺す事はできないが、皇帝には選定者を殺すことができるのだ。
 選定者は普通、次期皇帝となる者の身内から生まれてくるのが普通だ。それが身内ならば皇帝を裏切ることはないだろうという神の配慮かは知らないが、選定者は皇帝のすぐ側に生まれてくる事が運命だ。
 そしてデメテル……三十二代皇帝の選定者は、本当はハデスではなく父親だった。
 要らなくなったら殺す? ああ、そうだろうさ。デメテルは実の父親でも殺した女だ。父を殺してその腕の皮膚を切り取り、弟である生まれたばかりだったハデスに移植して選定者の名前を与えるような怖い女なんだ。
 ハデスはデメテルの道具。そのために生まれてきた。
 ハデスはデメテルの玩具。そのために望まれた。
 皇帝は即位した時から退位の日まで不老長寿の力を得て人間の理を超えて永く生きることとなる。けれど、その家族までもが皇帝と同じように不老となるわけではない。皇帝が認めた者はまるで神のように若い姿のまま数百年も、即位が永い皇帝の側近であれば数千年も生きることになるが、誰も彼も不老長寿を与えているわけでもない。
 皇帝デメテルの愚かな両親は、自らの娘が不老の皇帝となることが明らかになった時、自分たちにも永遠の命をと望んだ。
 姉さんはその時、両親に言った。自分を補佐する最も近い血族、弟を生んでくれたら両親に不老長寿を約束すると。
 ハデスは両親の顔を覚えていない。どんな人間だったかも、話に聞いただけだ。
 何故ならハデスが生まれたと同時に、デメテルは両親を殺したのだ。
 そして死んだ父親の腕の皮をはぎ、赤ん坊だったハデスへと選定紋章印を移植した。腕に出た紋章だったからさほど大きくもなく、多少歪だが選定者の証として今もハデスの腕にあるそれ。
 これこそが、ハデスが皇帝デメテルのものであるという証。選定者は皇帝のために生まれてくる。選定者は皇帝のためのもの。だから、逆らえるはずはないと。皇帝を選ぶのは選定者だけれど、選定者の運命を決めるのは皇帝だ。
 デメテルは父親に虐待されていた。だから、本当の選定者は父親だったけれど彼を殺して……そのくせ身内の情に飢えていたから、わざわざ弟であるハデスを両親に新しく自分のために作らせて、選定紋章印という名の呪縛で一生縛り付けた。
 しかし皇帝に牙を向けない選定者と違って、皇帝は選定者を好きに扱える。
 いつかデメテルがハデスに飽きたら、ハデスはすぐにでも殺されると言う事だ。
「そんなこと、許せるものか」
 ハデスは偽りの選定者。移植された紋章では効果がなかったらしく、こうして皇帝への反逆心を抱いている。
 そのために《冥府の王》の称号を得て、エレボス、タルタロスの魔物たちと契約までしたのだ。今更あんな女の気まぐれで殺されてはたまらない。
「あなたの治世ももうすぐ終わりなんだよ姉さん、神はもう次の皇帝を選んでいる」
 段々と薄くなっていくハデスの腕の紋章印。これがその証だ。
 そしてハデスの代わりに選定者として、身体に選定紋章印を浮かび上がらせたのがローゼンティア第六王子、ジャスパー。
 タルタロスの魔物たちと契約して、その身を魔物に差し出す代わりにハデスは様々な術を使えるようになった。《預言者》という称号もその一つにちなむもの。未来を見ることのできるこの力によって、ハデスは次の選定者と、選定者に尽くされる皇帝を見つけた。
 だけれど、いらない。そんな存在はいらないんだ。デメテルを殺して、次の皇帝になるのはこのハデスなのだから。
 大地皇帝デメテルも、次の選定者も次の皇帝もいらない。
「お前なんていらないんだよ、ローゼンティア王子、第三十三代皇帝ロゼウス」
 だから僕は、姉さんを殺して、彼も殺す。
 それは神への謀反。


088

 窓枠には鉄格子。この身には手枷。そこから伸びる鎖は、寝台の端に結び付けられている。監禁部屋の寝台の上。
「これでいい」
 ロゼウスはうっそりとそれを眺めながら、絹の敷布に身を横たえ、夢の中に堕ちようとする。
 夢はヴァンピルにとって特別なものだ。今でこそ昼夜逆転と薔薇の花で吸血衝動を抑える以外は人間のような生活を送っているが、皇暦が始まる前――つまり世界皇帝が誕生し、帝政が始まるまでは魔族は人間によって迫害され、蔑まれていた。魔族も人間を襲った。
 ヴァンピルは人の血なしには生きられない。今だってヴァンピルたちは大量の薔薇を食し、それ以外に少しだけ、交流のある人間の国から血液を分けてもらって自我を保っている。
 血を吸いすぎれば魔族として……魔族が魔族と呼ばれる前、魔物と呼ばれ恐れられ蔑まれていた頃の残虐性が甦って狂気に陥り人を襲うようになるけれども、血を全く吸わなくても自我を保てない。
 シルヴァーニのような慢性的な飢饉の国に血を求めれば国民が死んでしまうから、富裕なウィスタリアやチェスアトールから血液を輸入していた。一番近い隣国エヴェルシードもその国の一つだった。ローゼンティアは国土はそれなりにあるけれど、国民の数は人間の諸国に比べて圧倒的に少ない。おまけに前記以外の国とは交流を持たない鎖国気味の国だ。だから、なんとかなっていた。それでも血液が足りない場合は、ヴァンピルたちは自らを眠りに落とした。
 血を吸わない吸血鬼は夢を見る。
 薔薇を敷き詰めた棺桶に横たわり仮死状態になるのだ。そうして自らの命を温存する。いつか魔族の夢見る世界が来るまで。ローゼンティア王城の地下には、そうして冬眠した吸血鬼たちの寝台である棺桶が無数に並んでいる。知らずに侵略したシェリダンはそれを見てかなり吃驚したと言っていた。
 そうしていつ終わるとも知れない仮死の眠りの中で、ヴァンピルは夢を見るのだ。
 自らの人生、過去を何度も何度も夢として見る。夢の中で過去を繰り返す。楽しい夢ばかりを見られればいいが、そういうわけにもいかない。人は嫌なことばかりを覚えているものだから。
 荊に閉ざされた国の民たちは、柩の中で、哀しい過去を幾度も幾度も夢見る。そうしてまた苦しまねばならない。
 それは、初代皇帝の即位の際に力を貸した、ローゼンティア王族の祖先、その時はまだ王国ではなく、ただの一種族の長の血筋であったロゼッテ=ローゼンティアの悲嘆の名残だと言われている。
 しかしロゼウスは真実を知らない。そんな大昔のことなど興味ない。どうだっていい。
 そういえば帝政を始めた最初の皇帝、アケロンティス始皇帝はエヴェルシード人らしい。古い文献に名前の残る男の名はシェスラート=エヴェルシード。ローゼンティアの祖先が本当に彼の即位に協力したのであれば、ローゼンティアとエヴェルシードの縁もかなり古いということになる。それでも関係ない。エヴェルシードなんてどうだっていい。
 シェリダン。
 ロゼウスが知っているのは、ロゼウスが一番エヴェルシードとして認識しているのは彼だけだから、他のことはどうだって構わない。
 そのシェリダンもこの部屋にはいない。頼んで、寝所を別にしてもらった。別に伽役を嫌がるわけじゃない。そうではなくて。
「俺はたぶん……悪夢を見る」
 昔のことを夢に見る。
 そうして、《自分》を取り戻す。
「兄様……」
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 ヴァートレイト城で、恐慌状態に陥った自分の叫びが耳に甦る。あの時、自分は何と言ったのだったか……
 ――泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! ……お前はずっと、兄に虐待されていたんだ。
 ロゼウスを叱咤するシェリダンの声。
 ああ、認めるよ。シェリダン。俺は逃げてた。いつも、本当は真実から逃げていた。
 そのことに気づいたのは、「炎の鳥と紅い花亭」での出来事が切っ掛けだった。
 ――兄様、兄様、会いたかった。
 ――ずっと、ずぅっと、兄様と一緒にいる。兄様大好き。だって僕は兄様といるために……。
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために。
 ロゼウスはジャスパーを拒絶した。振り払った直後の彼の、呆然とした紅い瞳が瞼裏に貼り付いて剥がれない。
 知ってる。涙に震えた声。これは俺だ。ロゼウスはジャスパーを見ながら、良く似た自分を思い返していた。
 思いの押し付け。決して報われない愛。
 自分の姿をジャスパーの手によって鏡に映すようにまざまざと見せ付けられて気づく。ロゼウスはあの時、心底ジャスパーが怖くて疎ましかった。可愛い……可哀想な弟のジャスパー。それはそのまま、自分の姿だった。
 ドラクルはロゼウスなど見ていない。それがわかったのに、ロゼウスはどうしてまだこんなに、兄に執着しているのか。あの人を忘れられないのか。
 ――ねぇ、ロゼウス。シェリダン王に求められた時、嬉しかっただろう?
 ――私に捨てられて自分の存在する意味など何もなくなったお前が、シェリダン王に望まれた。彼のものになってしまえば、お前は誰にも必要とされないという孤独から逃れられるのだから……。
 ――なんて卑怯な考えなんだろうね。
 ドラクルの哄笑は今も脳裏に反響する。
 ――違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる。
 今まではそう思っていた。でも誰かが頭の中で囁くのだ。繰り返し繰り返し。

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

 段々と強くなるその声を、ロゼウスはずっと無視し続けていた。でも気づいたんだ。
 あの声を発しているの自分自身。
 ――愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!
シェリダンの必死な叫びはロゼウスの胸を衝いた。
 ドラクル兄様、あなたの言うとおりだ。そう、俺は嬉しかった。シェリダンは俺を必要としてくれるから、俺だけを見てくれるから。
 シェリダンはドラクルとは違う。
 第一王位継承者として、同じ世継ぎの王子として教育を受けていた二人はどこか似ている。これが王となる者の威厳なのだろうかと思うくらい、二人の共通点は多い。それでもシェリダンはドラクルとは違うのだ。
 ――ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 ローゼンティアが侵略される直前の、最後の逢瀬でドラクルはロゼウスに言った。その言葉の意味を、ロゼウスは永く受け止められずにいた。考えたくなかった。
 ドラクルの《愛している》は、紛い物だ。
 それを認めたくなかった。
 ――こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
 自分の中で、もう一人の自分が囁いてくる。過去に置き去りにしてきた自分。自分が自分として存在するために、お前は不都合だったんだよ、もう一人のロゼウス。
 でも今なら向かい合える。本当のお前を拾い上げることが、できる。
 好きだと思ってたよ、ドラクルを。
 だから、痛いことをされても平気。
 だから、酷いことをされても傷ついたりしないと。
俺は兄上を愛しているんだから、何をされても平気なのだと。
 そう思っていたけれど。
 ――あれが、愛だと? あんなものが? ……だったら、私だってお前を愛している。
 シェリダン、俺は《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。お前に出会うまで知らなかった。
 お前の言葉はこんなにも深く、鮮やかに俺の胸を射るんだ。

 ◆◆◆◆◆

 はじまりの記憶は、もうかなり朧げだった。
『にいさま?』
 ロゼウスは寝台の縁に腰掛けるように言われ、足をぷらぷらと揺らしながら兄を見ていた。十歳ほど年上の兄、第一王子ドラクルは、いつだってロゼウスの憧れだった。
 最初の時は、十年前? 八年前? もう覚えていない。けれど、ドラクルの腰ほどにも満たない幼い頃のロゼウスは退屈しきって、ドラクルの手元を見ていた。優雅な手付きで彼は何か書き物をしていて、それが終わるまでそこでロゼウスに待つようにと言いつけていた。
 大人しく兄の言いつけに従いながらも、やはり子どもだ。どうしても黙っている事ができず、しきりにドラクルの後姿へと話しかける。
『どうしたの? ロゼウス』
『これから何をするの? どうして明かりをつけないの?』
 それは明け方だったが、ヴァンピルにとっては夜にも等しい時間帯。ロゼウスはドラクルの寝室で、これから日が昇りどんどん明るくなるはずだとはいえまだかなり暗い室内で、ドラクルの用事が終わるのを待った。
『さぁ、これでいい――』
 ようやく手紙を書き終えたドラクルは、ロゼウスの方を振り返り微笑む。
『待たせたね。ロゼウス』
 ドラクルの言葉に、ロゼウスは喜んで彼の足に抱きつく。今の自分よりもう少し幼いくらいのドラクルがロゼウスを抱き上げて、幼いロゼウスの額に唇を落すのを、にこにこと受けとめた。
 ドラクル兄様。大好きな兄様。
 ドラクルはロゼウスにとって兄であり、教育官でもあった。普通王族の教育にはそれなりの教師を雇うものだが、何故だかロゼウスの面倒に関しては、国王である父はほぼ全てをドラクルに任命していた。それに従って、ドラクルは四六時中ロゼウスの側にいて面倒を見ていた。
 物心つくまで、ロゼウスは彼にべたべたに甘やかされて育った。それはきっと、周囲から見たら異常なほどの溺愛ぶりだっただろう。とはいえ、ドラクルはもともと妹弟には優しかった。ロゼウスを特に可愛がってはいたが、他の弟たちのこともちゃんと面倒見ていた。
 けれどその行動が、ロゼウスが物心つく頃になって変わる。
『さあ、ロゼウス』
 足に飛びついたロゼウスを優しく引き剥がし、彼は再びこの身体を寝台に腰掛けさせた。暇をもてあましてまたぷらぷらと揺らしそうになる足をそっと手で押さえ込んで、ロゼウスの唇に軽く指を当てて開かせる。
『にいさま? なぁに? なに、するの?』
 何もわからず、尋ねるロゼウスに彼は薄く笑みを見せた。世界は暁闇が最も暗く、その闇の中でも浮き上がるように白い肌の兄を、ロゼウスはきょとんとして見ていた。
 ロゼウスが見ている前で、ドラクルが自分の服の前を開ける。自らのものを取り出して、ロゼウスの眼前に差し出した。
『にいさま?』
 自分よりもよっぽど大きな男の体……それも性器を目の前に突きつけられて、いくらもののわからない子どもだったロゼウスでも不安を覚え始めた。
『これをその口で優しく咥えてしゃぶるんだよ、ロゼウス』
『にいさま、なに……いやっ!』
 首を振ろうとするロゼウスの頭を、ドラクルが無理矢理に押さえつける。
『やだ……やだよぉ……』
『駄目だよ、ロゼウス。拒む事は許さない。ああ、いいのかな、別にそうしたら私は。ロゼウスを嫌いになってしまうけれど』 
 嫌いになる。その一言に、ロゼウスの身体は凍りついた。
『やだ……やだやだやだ! にいさま、おれのこと、きらいにならないで!』
 その頃のロゼウスにとって、ドラクルは絶対だった。ロゼウスの世界は彼でできていた。
 勉強も剣も、全てを彼が見てくれる。今日何を着るのかということさえ、ドラクルがやってくれる。食事もドラクルが食べさせてくれる。みんなやってくれる。そうして、彼はロゼウスの耳元で囁く。
『大好きだよ、ロゼウス』
 俺も、俺もドラクルが好き。
 何度も何度もたどたどしい言葉で、兄が自分に向けるようにその言葉を繰り返した。ロゼウスの世界は彼に始まり彼に終わっていた。そこに付け入る隙なんかなかった。
『にいさま、ロゼウスのこときらいにならないで……』
 五歳のロゼウスは涙ながらに懇願し、その様子に気を良くしたドラクルが、冷たい眼差しから一転して優しい表情に戻る。
『可愛いロゼウス。……なら、わかっているね』
 うん、わかってる。
 ロゼウスはおずおずと目の前に差し出されたものに唇をつけ、うまくもないそれをしゃぶり出した。初めて口にするそれ自身と、その行為の異様さに思わず目の端に涙は浮かんだが、ドラクルはロゼウスに奉仕を止めさせなかった。
『そう……それでいい。ロゼウス。私の可愛い、薔薇の下の虜囚』
『にいさま……』
 だんだんと硬くなっていたものから出された苦い液体。べとつくそれで顔中を汚して、涙ながらにドラクルに訴えようとするが、その時の彼は何を言っても聞く耳は持たないようだった。そして。
『さぁ……ロゼウス。次はお前の番だよ』
 ドラクルの指が今度はロゼウスの身体へと伸びてくる。普通は触らないような変なところにばかり触れられて、思わず悲鳴をあげて泣きじゃくった。
 そのロゼウスの様子にいらついたドラクルが、ついに癇癪を起こす。
 パシン、と乾いた音が頬で鳴る。ロゼウスはじんじんと痛む頬に手をやり、火がついたように泣き出した。
『……ちっ』
 いったん泣き出すととまらなかったロゼウスに、これ以上の無理強いは無理だと悟ったドラクルが仕方なしにロゼウスを抱き上げて、あやすように背中を叩く。いや、ようにではなく、本当にあやしているのだ、手のかかる子どもだったロゼウスを。
 幾度かそんな夜明けを繰り返すうちに、やがてロゼウスは学習した。
 ドラクルが何かを言ってきたら、ロゼウスは逆らわず、黙ってそれを聞けばいいんだ。始めこそ変な感じがした怪しい行為は、繰り返すうちにだんだんと、言葉にしがたい快感を伝えてくるようになった。
 恥ずかしくて苦しくて痛くて気持ち悪いけれど、でもどこか気持ちがいい。ドラクルはその感覚と、時折思い切り叩く頬の痛みとでロゼウスを翻弄し、征服していった。
『わかっているね。ロゼウス。私に逆らったらどうなるか――』
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 それでもロゼウスはドラクルに逆らえない。父親よりも他の兄妹よりも、あの頃はいつも彼が一番自分の側にいてくれたのだから。
『なあ、ドラクル、ここなんだけど――』
 その秘め事も、完全には隠し通せない。
 ドラクルに用があったらしくいきなり部屋にやってきた第二王子、二番目の兄であるアンリに、現場を見られたのだ。
『アンリ?!』
『なっ……何やってんだよ!』
 持っていた書類を取り落として、アンリがロゼウスに駆け寄ってくる。いつものように寝台の端に腰掛けてドラクルへと奉仕していたロゼウスを、慌てて抱き上げたアンリがドラクルを睨む。
『ドラクル! お前、一体何をやってたんだよ!』
 用事だった書類も床に落としたままで、アンリはロゼウスを抱きかかえたまま彼の部屋へと戻る。
 ロゼウスは状況がよくわからず、アンリの震える腕の中でただ首を傾げていた。
『アンリにいさま?』
『ロゼウス……』
 二番目の兄は何か痛々しいものを見るような眼でロゼウスを見つめて、言った。
『……もう、ドラクル兄上に近付いちゃ駄目だよ』
『どうして?』
 ロゼウスはその忠告を聞かなかった。
 それでもドラクルは大好きな兄上で、それに「嫌いになる」と脅されればロゼウスはいくら心のどこかが嫌がっていても、また身体を望まぬ快感で満たすような行為のために兄の部屋を訪れないわけにはいかなかった。
 ドラクル。始まりはただそうだったんだ。
 俺はただ、あなたに嫌われたくなかった。


089

 ローゼンティアは薔薇の王国。
 この世界《アケロンテ》は主に、三つの大陸から成る。北の大陸シュトゥルム大陸と、南の大陸バロック大陸、そしてバロック大陸の西にある《完全なる大地》、皇帝領だ。細長い土地が中心部に向かって螺旋を描く薔薇のような形から、薔薇大陸とも呼ばれている。
 ローゼンティアやエヴェルシード、シルヴァーニにウィスタリア、セルヴォルファスなどの国々がある北の大陸……ここは別名虹の大陸とも呼ばれている。吸血鬼の国ローゼンティアと、人狼の国セルヴォルファスを除く七つの人間の国が、それぞれが戴く《色》を持っている。他の二国も色を戴いてはいるのだが、ローゼンティアは風の王国と呼ばれ白を抱き、セルヴォルファスは大地の王国と呼ばれ黒を抱いているので、虹の七色とは関係がない。
 ロゼウスたちヴァンピルの国ローゼンティアは、別名を《薔薇の王国》と言った。開祖はロザリア=ローゼンティアという女性だが、それよりもっと前の時代に、皇暦開始に携わったロゼッテ=ローゼンティアを先祖に持つ古い血の一族だ。それもそのはずで、ヴァンピルの寿命は平均四百年であり、一定の年齢になると体の成長が遅くなる。従って人間なら兄妹に見えるほどの外見年齢の親子も存在する。
 国の要たるローゼンティア王城、そして国自体が、薔薇に包まれていた。ヴァンピルたちの生活に吸血の衝動と狂気を押さえ込む薔薇の秘薬は欠かせず、国中で薔薇を育てていた。ローゼンティアの土地に咲く薔薇は他の国にない大輪で色濃く、芳醇な香りを常に放っていた。それは自然から手を加えていないがどこかで吸血鬼の魔力と連動しているのか、一年中枯れることのない薔薇だった。
 紅い、紅い、血のような薔薇。荊。
 その荊に閉ざされた国、ローゼンティア。魔族と人間はただでさえ種族の違いがあるのに、国の外観がそれではさぞかし他の人間の国々は付き合いづらかっただろう。
 黒い石造りの王城の外壁一面を銀の荊が覆い、紅い花たちは誰が望まずともまるで吸血鬼の街を飾るようにそこに咲いていた。昼夜逆転の生活を送るヴァンピルの国では、昼間はほとんどの吸血鬼が眠りについている。
荊に閉ざされ、茂った木々が空を閉ざした秘密の国、ローゼンティア。ロゼウスの故郷。昼間に訪れた人間の客からは、きっと何もかもが息絶えているような状態に見えただろう。かの国の王城はそういった外観だった。
 けれども、吸血鬼たちの国は夜になると息を吹き返す。
 夜になると、途端に蝋燭の明かりを灯して吸血鬼たちは活動を開始する。人間より圧倒的に視力が良いので、多少薄暗い程度は問題にならない。それに吸血鬼の白皙の肌と白い紙は、闇夜の中でよく目立つから問題もなかった。
 それでもロゼウスがよく思い出すのは、明け方。
 紫の国ウィスタリアの人々の瞳の色のように薄く、それでいて鮮やかなアメジストの空が広がる夜明け。昼に眠るヴァンピルにとって、夜明けは人間たちにとって夜中と同じ意味を持っていた。人間と違って少しだけ日光に弱いヴァンピルにとっては、陽の光はできることなら浴びたくない。だから明け方になると、もうどこの家でもローゼンティア人は眠っている時間帯だった。
 けれどロゼウスは、人間の生活に例えるならば夜更かしにあたるような不健康な生活をしていて、明け方はいつも兄上の部屋に行っていた。
 第一王子ドラクル。ロゼウスが七歳の頃にはもう完全にロゼウスの身体で肉欲処理を行っていた兄の命じるがままに、その寝台に侍る。
 窓枠に絡んで軽く覗いていた薔薇の花を隠すように、これから来る朝の光を部屋に入れまいとドラクルが窓の紗幕を下ろす。ロゼウスは彼の寝台の上で、ドラクルのその時々の気分のままに、兄の要求を受け入れていた。
 断ればまた、どこかを殴られる。ヴァンピルの身体能力は人間よりも遥かに優れていてそれは再生能力だって例外じゃない。傷ついても数時間程度、それこそ骨折程度の傷なら一晩で治せるヴァンピル相手なら、どんなに殴ったところで周囲の人々が起きはじめる頃には痕も残らない。
 だからか、ドラクルは体の他の箇所より、むしろ殴る時ははっきりと顔を打つのが好きだった。腫れて熱を持った頬に手を当てて涙目で見上げるロゼウスを、冷めた目で見下ろしていた。
 剣の稽古や体術の訓練で、怪我などいくらでもする。対戦相手が誤って、目論見以上の怪我を負わせられることだってままある。
 それでも、ロゼウスはそんな予測不可能の大怪我より、小さい頃ドラクルに殴られた記憶がある、そちらの方がよっぽど怖かった。
 七歳頃、初めて後ろにドラクルのものを受け入れた時は、それまでの口での奉仕など比べ物にならない苦しさと痛みと恥ずかしさと気持ち悪さに、思わず泣き叫んで拒否しようとした。するとその時は、いつもよりよっぽど乱暴に兄から扱われた。次の日はさすがに動けず、ロザリーやミカエラに多大な心配をさせたものだ。
 もう、ドラクルには逆らえないのだと知った。
『私の言う事をきけないなんて、悪い子だね』
『俺、悪い子なの……?』
『ああ、そうだね。……ふーん、その口調、アンリの悪い癖が移ったな……まあ、それはおいておくにしても、悪い子は私だけじゃなく、父上にもルースたちにも、お前を大好きなロザリーやミカエラにも嫌われてしまうよ?』
 だからこのことは、誰にも言ってはいけないよ……。ドラクルの声が、言葉が、ロゼウスを呪縛する。
 歳を重ねるごとに、兄の遊戯は酷薄さを増していくようになると感じた。そしてその感覚は、気のせいではない。
『兄様……』
 命じられた通りに寝室の扉を開ける。中で手招きする兄に従って、部屋の中へと足を踏み入れる。
『服を脱ぎなさい、ロゼウス。下着も、ブーツも全部だ』
 命じられるがまま、服を脱ぐ。その間ドラクルはずっと値踏みするようにロゼウスを見ていて、居心地が悪い。ただぼんやりとしているだけならともかく、明らかに卑猥な意味の込められた視線で見つめられて、羞恥で頬が熱い。
 裸になったロゼウスを、ドラクルは楽しそうな顔で見ている。
『こっちへおいで』
『……うん』
『いい子だ、ロゼウス』
 ロゼウスがきちんとドラクルの言うとおりにすれば、ドラクルはロゼウスを褒めてくれる。いい子だと言ってくれる。
 椅子に座ったドラクルの眼前に立つと、彼は口元に薄っすらと笑みをはいたまま、寝台横のチェストから怪しげな道具を取り出した。
『兄様……それ……』
『ふふふ。ある筋の知り合いがくれたものだよ。せっかくだから、お前に使ってあげようかと思ってね』
 ドラクルが出す道具は無数で、ロゼウスはそれの使い道をこの身体で覚えさせられた。うっとりと目を細めて言う兄の様子に怯えて後退りしようにも、逃げ出せばまた激しいお仕置きが待っている。毎晩のように鞭で背中を叩かれ、首を軽く絞められて痛みに気を失いそうになるとたたき起こされる。寝台に縛り付けられて、背中や胸の上に溶けた蝋燭を垂らされたこともあった。
『硝子製の細身の張型……力を入れると割れちゃうから、あんまり締め付けすぎては駄目だよ、ロゼウス』
『それ……まさか……』
『そ、いつも私を咥えこんでいるように、お前のあそこに挿れるんだよ』
『イヤだ!』
 服を着ていないことも忘れ、ロゼウスは身を翻して逃げ出そうとした。素早く寝台から腰を浮かして手を伸ばしたドラクルが、ロゼウスの腕を掴む。年齢差による体格の差は誤魔化せず、子どもだったロゼウスの短い歩幅など彼には一歩で追いつける距離だ。
『私の言う事をきけないと言うのかい? ロゼウス』
 捕まえて引き寄せたロゼウスの耳を甘く噛みながら、ドラクルは囁く。
『悪い子だね』
 悪い子は、嫌いになるよ。
 悪い子には、お仕置きだよ。
 体の力を抜いたロゼウスを優しく抱きとめ、ドラクルはその玩具をロゼウスの前に突き出した。口の中に無理矢理押し込む。
『さぁ、丁寧に舐めるんだよ。これをしないと、辛いのはお前だからね』
 ロゼウスは突き出された硝子の玩具をしゃぶり、自らの唾液で懸命に濡らした。その間にドラクルはもう片方の手で自分の指を舐め、濡れた指を無防備なロゼウスの後ろに突っ込む。
『!』
『どうした? 私のすることは気にせず、続けるといいよ』
 内部をかき回す指の感触を感じながら、ロゼウスは懸命に硝子の筒をしゃぶった。ぴちゃぴちゃと自らのたてる音が生々しく耳元に響き、恥ずかしさに泣きたくなる。
『そろそろいいかな』
 ドラクルはロゼウスの口からそれを出させると、ゆっくりと後の穴に挿入し始めた。
『あっ……あ、ああっ……あああああ!』
 壊れやすい硝子が、彼の前に立ったままのロゼウスの体の中に埋められていく。その手をドラクルが動かし、ぐちゅぐちゅといやらしい音が室内に響き始めてドラクルに弄ばれるロゼウスの羞恥を煽る。
『さぁ、存分に楽しみなよ、ロゼウス』
 単純でそれ故に威力のある玩具でロゼウスを苛みながら、ドラクルが言う。
 そしてロゼウスは知っていた。この兄の、一番の玩具は自分なのだと。

 ◆◆◆◆◆

 それでもまだ良かった。
 ドラクルが自分の手でロゼウスに触れてくれているうちは。
『兄様、それ、何?』
 ある日ドラクルが彼の寝室に連れ込んでいたのは、一匹の狼だった。淡い茶色の体毛に、灰色の瞳。見事な毛並みの、美しい獣。
 だけれど、まだ十を幾つか越した頃だったロゼウスの腰の辺りまでくる獣は、どこか怖かった。ぎらつく灰色の瞳に見据えられて、思わずロゼウスはドラクルの後ろに隠れる。
『おやおや、どうしたんだロゼウス? 彼は私の友人だよ。お前もちゃんと仲良くしてくれないと』
『彼って……』
 その声で目の前の狼は雄なのだと知れたが、その時のロゼウスにとっては、そんなことはどうでもいいことだと思えた。雄だろうが雌だろうが、目の前の狼が怖いことには変わりない。
 ロゼウスが後退されば後退さるほど、優美な体つきの狼は、灰色の瞳に好奇の光を浮かべてロゼウスの方へとやってきた。
 盾にしていた兄のドラクルは、彼自身の手でロゼウスを引き離して無理矢理狼の方へと押しやる。
『兄様!』
『大丈夫だってロゼウス。言っただろう、彼は私の友人だ。危険はないよ』
 感情の分からない獣の瞳が、何を思っているのかはわからないけれど確かにロゼウスの方へと向けられているのがわかる。
『……あ、あ、……』
 それでもまだロゼウスが怯えた様子を見せていると、狼は急にロゼウスの方へと飛びかかってきた。
『わぁあああ!』
 ロゼウスは床に押し倒され、狼に押さえ込まれる。ドラクルの部屋の床はそのまま寝転がっても平気なくらいふかふかの絨毯が敷かれていて怪我をする事はなかったが、それでも鋭い爪だけは一応隠した巨大な狼が自分の胸にのしかかっている状況は、ロゼウスを恐慌状態に追いやるには十分だった。
『いや! やだ! 放して!』
 吸血してしまえば一瞬なのだが、全身を体毛で覆われている動物に対してはそれが困難だった。だいたい、こちらが喉首に口を寄せる前にロゼウスの方が咬み殺されてしまうかもしれない。
 けれどその心配は杞憂で、ロゼウスの胸にのしかかってじっと様子を見つめていた狼は、首筋や頬に顔を寄せて鼻を突っ込むようにしてロゼウスの身体をまさぐった。
『うっ……うっ……』
 もうすでに泣きが入っているロゼウスを見限ったのか、狼は半身振り返るようにして、背後でこの様子をじっと見ていたドラクルに短く吼える。
『へぇ、そう、気にいったんだ?』
 ドラクルは楽しそうに笑うと、狼と何かやりとりを交わす。ロゼウスからしてみれば狼の吼え声は吼え声にしか聞こえず、兄は狼と会話ができるように見えるけれど、何か仕組みがあるのか、一人と一匹の間ではちゃんと意志の疎通ができているようだった。
『ふぅん。君にしては意外だったな……いいよ。やれば』
 ドラクルが何を言ったのかはわからないが、その直後、狼が嬉しそうにキャンと吼えた。そして。
『え?』
 前足を折ってロゼウスの胸に顔を寄せた狼が、服の間から覗いた肌を舐め始める。
『ちょっ、や、やだ。何……?』
 それだけでない、狼は先程はそれでも気を遣っていたのか前足の中に引っ込めていた爪をあらわにして、ロゼウスの服を引き裂いた。
『っ!?』
 服の上半身は切り裂かれ、胸が露になる。途端、空気に触れた乳首を、狼の口が含んだ。長い舌に絡めとられ、言葉に従い感覚が背筋を走る。
『ふぇ!』
『本当に気にいってるねぇ……』
 ここは彼自身の部屋だと言うのにのほほんと事態を傍観していたドラクルが、感心するように言った。ロゼウスはまだ狼に押し倒されたまま、必死に彼の方へ視線を向ける。
『兄上! これは一体……!』
『ああ、彼がお前を気にいったんだってさ』
 事も無げにドラクルは告げた。
『非公式だけれど彼は大事な客人だ。ロゼウス、相手をしてやってくれる?』
『な、何、を……』
『もちろん』
 うっそりとした笑みを浮かべながら、彼はロゼウスに命じる。
『閨の相手を。お前はそうして、彼に抱かれていればいいんだよ』
『―――っ!!』
 ロゼウスは言葉も出ず、呆然とドラクルのその言葉を聞いた。しかし次の瞬間、のしかかってロゼウスの頬や首筋、胸の上を舐めていた狼が前足を動かして足の間に入れた時は、咄嗟に悲鳴をあげていた。
『いやっ! やだぁああああ!』
 ヴァンピルは普通の人間に比べてあらゆる身体能力でまさる一族だ。獣に犯されようとしている現状がわかって、ロゼウスは全力を込めて身体の上から狼を引き剥がす。
『ぎゃんっ!』
 壁際へと吹っ飛ばして、破られた胸元を庇う。長くざらつく舌で舐めつくされた感触はまだ不快に残っている。
 弾き飛ばされた狼は、たいして負傷した様子もないが不服そうに喉の奥で唸った。ロゼウスではなく、ドラクルの方を見てまた二、三度吼える。
『仕方がないな』
 やれやれと言った様子で長椅子から腰を上げたドラクルがロゼウスの側へと歩み寄ってきた。何をするのかと訝るロゼウスの腕を掴み、四つん這いのような格好にして押さえつける。
『兄様!?』
『言っただろう、ロゼウス。彼は大事な客だと。大人しくしていなさい』
『でも、兄様、相手は動物で……こんなこと!』
『おや、酷いな。人間だの動物だの、お前は不当な差別をするようなヴァンピルだったのかい。人間にして見れば我等魔族だって十分異種族だよ?』
 だからと言って、人型の種族とそうでない生き物には大きな差があることは明白だ。
 ドラクルは有無を言わせずロゼウスを押さえつけ、兄の力にはさすがに敵わないロゼウスのもとへ狼が再び寄ってくる。うつ伏せたロゼウスの頬をぺろりと一舐めして、身体の後ろの方に回った。
『まあ、挿れてしまえばこちらのものか……』
 ドラクルのぼそりとした呟きと共にズボンをもずり下ろされた。冷やりとした外気に触れた体の奥に、狼が舌を這わせる。
『――っ!! いや、いやぁああああ!!』
 後を弄られ、先程の比ではない恐慌状態に陥る。だって、これは、こんなことって……
 この後狼が何をしようと考えているか。答えは一つしかない。よりにもよって、獣に犯されるなんて。
『兄様! やめて! 許して!』
 もういやだ。何で俺がこんな目に!
『許す? 私が何を? ……ロゼウス、私はただお前に、客のもてなしを頼んだだけだよ?』
 残酷なほどに優しく言い聞かせるドラクルの声に気をとられていたロゼウスの後ろに、獣の荒い呼吸が聞こえる。背中に爪を引っ込めた前足が置かれ、狼が身体を密着させてくる。
『待った。ヴィル、そのままじゃロゼウスが辛い』 
 ドラクルの言葉に、ヴィルと呼ばれた狼が一度は身体を離す。ほっとしたのも束の間、慣れた指の感触が後に入り込んでくる。
『うあっ!』
『ちゃんと慣らしておかないと、ねぇ?』
 狼の舌に舐られ続けた穴を、ドラクルが指を突っ込んでかき回す。望むと望まざるとに関わらず、長い指の先が一点を掠めるたびに無理矢理昂らされていく。
『やめ、お願……兄様ぁ……』
 それでもこの後に行われることを考えれば、たまらず泣き喚くロゼウスをドラクルはいつものように口づけであやす。けれどすぐに離れた。
『いいよ、ヴィル』
 無情な許可を与えて、狼にロゼウスを明け渡す。興奮した獣の荒い息を聞いたと思った瞬間、背中に重みがかかり、後から貫かれた。
『うぁあああああああ!!』
 喚くロゼウスの様子も意に介さず、狼は自らのものをロゼウスの中に出し入れする。
『ひっ……いや……あ、ああ……!』
身体の反応には逆らえず、ロゼウスは獣の手で何度も何度もイかされ、喘がされた。
『ああっ……あん……』
ぐちゅぐちゅと卑猥な音がし、内壁にこすりつけられる。直腸を擦られるたびに、何ともいえない感覚がぞくぞくと身を震わす。
『ふぁ……もう、駄目ぇ……』
 一度達してもまだ狼はロゼウスを離さず、何度も何度も、狼が飽きるまでロゼウスは犯され続けた。
 獣はドラクルの言葉どおりロゼウスを気にいったのか何なのか、しつこいほどに何度も何度もものを出し入れし、ロゼウスの中で精を放ち続けた。この身体に出したところで、何も宿ることのない種を。
 ずるりとようやく獣がロゼウスの中から自身を抜いて、支えを失ってロゼウスはぐったりと床に倒れこむ。四肢に破れた衣装だけが纏わりついて惨めな有様。
 それを、満足気な様子の灰色狼の毛並みを撫でながら、ドラクルが見下ろしていた。


090

 両目を布で塞がれる。
 両手を手錠で繋がれる。
 足だけは自由に動くようにと解放されたままだが、視覚と腕を封じられた状態では、身動きも出来ない。
 それ以前に、ロゼウスの身体は複数の人々に押さえ込まれていた。
『に、い、さま……』
 その複数の中に必ずいるはずの兄の名を呼ぶと、楽しげな声が返る。
『ここにいるよ。何? ロゼウス』
 目隠しのせいで視界のきかないロゼウスの頬に触れた手の感触は確かにドラクルのもの。けれど、彼のほかにも三人か四人か、彼らが入ってくる直前に目を塞がれてしまったので正確な人数はわからないが、ロゼウス以外に四、五人のヴァンピルがこの部屋にいる。
『これは……』
『カラーシュのせいで奴だけを厚遇したことがバレてね。ここにいる彼らも、お前を抱きたいんだと』
 優しい声で、兄は残酷なことを告げる。
 カラーシュ伯爵フォレット卿は、ドラクルの一の臣下を名乗って憚らない。けれど、彼とドラクルの行いはいつも悪巧みばかりだと誰かが……アンリが言っていた。
『兄様!』
『お前にはここにいる彼らの相手をしてもらおうと思ってね』
『兄様! やだ、俺はそんなの……!』
『断れると思っているのかい? ロゼウス』
 拒否の言葉をドラクルの口づけで封じられると同時に、見えない身体へと無数の手が伸びてきた。三人、四人、ドラクルを入れて、これで最低でも五人程。
 誰かが足を開かせ、別の腕は前をよく開けるようにと手錠で繋がれた腕を無理矢理上げさせた。布地を引き裂く音と共に、肌が外気に触れる。
 ロゼウスの言葉はドラクルの執拗な口づけに封じられていて、悲鳴も拒絶も何一つ口に出せない。
 兄の接吻はいつになく濃厚なものだった。お決まりのように舌を差し込み、口腔の内部をまさぐり唾液を啜る。歯列をなぞり、逃げた舌を無理矢理引っ張り出す。
『うっ……んんっ……んむぅ……』
 息苦しくて逃げ出そうとしても離れず、ロゼウスは彼の胸の辺りを叩いてようやく解放してもらう。生理的な涙は目隠しに吸い取られ、零れた唾液が口の端を伝うのが感触でわかる。
 その零れた液も、ドラクルが舌で舐め取って言った。
『ああ、いいよロゼウス。口元をべとべとにして赤く熟れた唇を無防備に開いて、最高にいやらしい感じだ』
『酷いお人だよな、竜王子殿下も』
 誰かが言った。いや、誰かじゃない。この声は。
『ラセム=ソルト=ゾディア男爵!』
『っ!』
 背中で息を飲む気配がした。正面で舌打ちの気配がする。
『だから黙っていろと言ったのに。ラセム』
『へいへい。申し訳ありやせんでしたよ、第一王子殿下。まさか第四王子殿下がここまでお耳がいいとは……というか、そもそも俺みたいな末端貴族の名を知っていただいているとはね。光栄ですよ、ロゼウス王子』
 その言葉と共に、右の首筋をきつく吸われた。
『あっ……!』
『じゃあ、仕方がないですね。知らなければそう酷いこともされなかったのに、ここまで来たらうっかりと俺の名前を口になんて出せないぐらい、この身体に教え込んであげませんとね。いいでしょう? ドラクル様』
『好きにしろ、ラセム』
『兄、上……っ!』
 酷薄に笑う気配がして、首筋を甘噛みしていたゾディア男爵ラセム卿が、ロゼウスの身体を撫で回した。どこにいるのかわかれば、大体どの腕が彼のものなのかはわかる。
 その腕とはまた別の腕が、ロゼウスの胸元を這って乳首を抓った。
『いっ!』
 痛い。悲鳴をあげたロゼウスの耳に、艶やかな女性の声が届いた。
『あらごめんなさい。ちょっと意地悪しすぎちゃったかしら』
 そう言いながらも、両の手で引きちぎるように強く乳首を捏ね回すこの滑らかな指の主には心当たりがない。
『だ、誰』
『私はあなたとお会いした事はないわ。ロゼウス王子。お初にお目にかかりますとは言えず、残念だわ』
『ひっ!』
 そう言いながらも、彼女はロゼウスの胸元を弄ることをやめない。滑らかな指先で押しつぶすように乱暴に弄り回し甚振られた箇所はじんじんと痺れてくる。この目で見る事はできないが、そろそろ腫れてきているに違いない。
『ダリア。そろそろその手を離せよ。俺にも第四王子の可愛い身体を触らせろ』
『何よラセム。あんたは近くで首吸ってるからいいじゃない』
『全然ちがうだろうが。乳首なんてお前にもあるんだからそれでも弄ってろよ』
『あんたにだってあるでしょうが』
 ゾディア男爵と、そのダリアと呼ばれた女性が言い争う。ダリア……確かどこかで、聞いた覚えが……。
『カルデール公爵配下の、ダリア・ラナ子爵』
『そうよ王子』
 細い指先がロゼウスの顎を捕らえ、身を引いたらしきドラクルに代わって口づけを始める。上唇と下唇を順番に啄ばむように彼女の唇で挟まれた。
 甘い、花のような女の人の唇。だけれどそれは、すぐに消え去った。
『邪魔だ、ダリア』
『ああん、もう』
 ゾディア男爵の声がすると同時に、ロゼウスの口に青臭い精液の味がする肉の塊が突き入れられた。
『あーあ、ラセムってばずるーい』
 無理矢理口淫を強制されて苦しむロゼウスの様子は構わずに、他の人々の手も次々に、身体の至る場所を撫でさすり弄ぶ。
『いいわ。じゃあ私はあんたたちが用のないこっちを貰うから』
 ラナ子爵の言葉と同時に、それまで無骨な手で弄ばれていた下肢の熱が、生暖かい粘膜に包まれた。ロゼウスはゾディア男爵のものに奉仕させられながら、同時にラナ子爵に自身を慰められていた。
 自分の熱を刺激するあまりにも直接的な快感と、逆に口の中を犯す怒張にどうしていいかわからなくなる。
 でも、ここで逆らえば、またドラクルに……今度は、鞭打たれる程度じゃすまないかもしれない。
 抵抗を諦めて、おとなしくゾディア男爵のものに舌を這わせてしゃぶり始めた。
『そうだ。それでいいんだよ、ロゼウス』
 人の絡みからさっさと距離をとったらしく、少し離れた場所からドラクルの声が聞こえた。ロゼウスは目隠しされ手錠で繋がれ、四人の男女の手によって不自然な体勢にさせられながら、快楽を与えられると同時に奉仕を強要される。
『ん、……ぐっ!』
 視界がきかないから、相手の様子を見ることもできないしそもそもそんなもの見たくもない。達した男爵の出したものを吐き出すと、悲鳴が上がった。
『ちょっとっ! 何するのよラセム!』
『ああ、わりぃわりぃ』
 ロゼウスが男爵のものを咥えている間ロゼウス自身を口に含んでいたラナ子爵に、ちょうど吐き出した精液がかかったらしい。また二人が言い争う気配がする。
 声は出さずに笑う気配だけをさせながら、名前もどこの誰ともわからないもう二人の人々が争う二人の手が離れた隙にと、今までの愛撫よりよりいっそう執拗な責めを仕掛けてきた。
『ひあっ!』
 一人がロゼウスの尻を浮かせて、唇を当てた。後の穴を解きほぐすように、舌を差し込んで内部を抉り始める。もう一人は先程ラナ子爵にさんざん弄られて腫れ上がった敏感な乳首に手を伸ばしてきた。
『い、痛……』
『あ、ずるいぞお前ら!』
『ちょっと! 下の方は私が貰うんだからね!』
 再び誰かのものが口に突っ込まれる。ロゼウス自身のものが、口とは違う粘膜に包み込まれてこれまでとは比べ物にならない快感を味わう。
『どう、王子。ああ、可愛らしい顔をしてる割には、それなりのものを持ってるのねぇ……』
 ラナ子爵の恍惚とした声の後に、後に指が差し込まれた。中をかき混ぜる指の感触に声をあげたいが、喉を塞ぐ逸物のせいで呼吸すらろくにできない。
 そのうち、中を慣らし終えてまた新たな男のものが後ろの穴に挿入された。
『―――っ!』
 肉をぶつけあう音と、粘膜の立てる水音。出し入れするものの動きと、自身を包み込む女の粘膜の感じ。
 声をあげずに絶叫するロゼウスの様子に、くすくすと周りから声があがる。複数の声は入り混じり、もはや、誰が誰なのかわからない。
 その中でただ一人だけ、ロゼウスの耳にもわかった声がある。
『ああ。美しいよロゼウス! お前にはやはり、背徳的な悲劇がよく似合う!』
 高らかに声をあげて、狂ったように兄はロゼウスを嘲笑していた。

 ◆◆◆◆◆

 そして、あなたに溺れる。
「あっ……ふぁ……はぁん……」
 長い指は中を容赦なくかき回してくる。ロゼウスはドラクルの手に下肢を弄ばれながら、さんざんに乱れた。
「兄様……もっと、もっとちょうだい……」
 浅ましく懇願しろと言いつけたのはドラクルだった。ロゼウスの両手は横たわった寝台の身体の上のほうで拘束され、身動きが取れない。とろうと思えばとれるけれど、もはやそんな必要もなかった。
 俺は、あなたに溺れる。
「ドラクル……あああ、あ!」
 それまで奥とも手前とも言わず中途半端な位置の内壁を擦っていた指が、突然もう一関節分奥へと突きこまれる。更なる快楽に、ロゼウスはよりはっきりとドラクルを感じようと自然と腰を動かそうとする。
「いやらしい子だね、ロゼウス……前の方も、こんなにして」
 先走りで濡れたものを空いた指で突かれると、背筋をしならせる強い快感が襲った。ドラクルはロゼウスのものを握りこむと、先走りの液を手のひらに刷り込むようにして拭いた。
 それでもまだぽたぽたと切ない雫を垂らすそれを、やがて彼は口に含む。
「ああっ! 兄様ぁ!」
 身も世もなく悶えるロゼウスの耳に、ロゼウスのものを口で咥えて舐めるドラクルが、殊更卑猥に立てた音が届く。
両足を彼に掴まれて、動く事ができない。ロゼウスの股間に顔を埋めたドラクルは、丹念な舌遣いでロゼウスを絶頂へと追いやった。我慢できずに、ドラクルの口の中で放つ。
「ロゼウス」
 呼吸を荒げて熱を冷まそうとしていたロゼウスの耳にドラクルの声が届くと、彼はそのまま舌を捻じ込むような口づけを仕掛けてきた。何ともいえない青臭い苦味に、ロゼウスは思わず眉をしかめる。
「そんな顔をするものじゃないよ。自分の味だろう?」
「だから、です……」
 両手は手錠に、足はドラクルに拘束されて動けないすでに後の蕾への愛撫は止められていて、もどかしい熱が身体の奥で燻っていた。
「ああ、兄様……」
 ロゼウスはドラクルが言った通り、醜く浅ましく彼に懇願する。
「抱いて。どうか犯して。ぼろぼろにして。あなたの好きにして、愛して……!」
 良い子にはご褒美を。
 悪い子にはお仕置きを。
 そのどちらにしても、ロゼウスにとってドラクルを繋ぎとめるものはこの身体だけだった。
 誰よりも大好きな兄様。彼はロゼウスの教育係だった。そして二親とも血の繋がった実の兄だ。小さい頃から彼がロゼウスの勉強を見て、剣を教えていた。全てをドラクルから教わり、そして与えられていた。
 今更失うなんてできない。
「『愛して』か……言うようになったじゃないか、ロゼウス」
 ドラクルは優しげに微笑むと、身体を起こしてロゼウスの口元に自分のものを押し付ける。いつものことにロゼウスは口を開けて、ドラクルのものを口内の粘膜で包み込んだ。凶悪な肉棒を、夢中でしゃぶる。
「いい子だロゼウス……本当に」
 ドラクルが達すると、ロゼウスは出されたものを飲み込んだ。いくらか零れたものが口の端を伝ったが、それはドラクルが自らの舌で舐め取った。
「では、そろそろお前を満足させてあげようか」
 その言葉に、ロゼウスは嬉々とした目をドラクルに向けた。ふっと微笑んだ兄はふわりと軽く、羽根のように額へと口づけると、熱く硬いものを、ロゼウスの後ろの穴へと挿入した。
「ふぁ……!」
「どうした? まだイクのは早いよ」
 耳朶を甘く噛みながら、くすくすとロゼウスの耳元でドラクルは笑う。ロゼウスの身体に覆い被さる彼の背に、ロゼウスは腕を回した。
 もっと、もっと。
 悦楽、快楽、享楽、愉楽。
 乱れて溺れて、真っ白にして。
 何も考えず、何も思わず、痛みさえも気持ちよくしてくれるこの行為だけにのめりこませて。
 我を忘れさせて。
 考えさせないで。何も。
「ああ、兄様、どうか……!」
 内部を深く穿つ兄の熱を感じながら、ロゼウスは自分が何を言っているかわからなくなる。
 ただドラクルの言葉にだけ、耳を傾けていた。
「愛しているよ、私のロゼウス」
 それは麻薬。それは魔法。
 この心を縛る鎖。
 行為の前後に、最中にいつも彼は呟くのだ。
 愛している。
 ロゼウスを、愛しているからそうするのだと。
 獣にロゼウスを犯させたときも、怪しげな道具で責め苛んでいるときも、友人であり部下たる貴族の人々に輪姦させた時でさえ、酷薄に狂的に笑いながら告げる。
「愛している」
 一段と深く、中を貫いて言われた。
「兄様、俺も……」
 快楽とそれだけじゃない別の感情でロゼウスも言葉を返しながら、また意識を押し流す恍惚に身を沈める。
 愛しています、俺も、あなたを。だって、あなたは俺を愛してくれるのだから。
 寝台が軋む。喘ぎ声が止められない。ドラクルの部屋は何故か城の中央部から離れた一角にあり、滅多なことでは近寄る人もないけれど。
「あっ……あ、ああ……ふ……うぁ、ああん」
 抜き差しが激しくなって、意識を持っていかれそうになる。ドラクルの手に掴まれた太腿には痛みが走り、手形の痣ができているだろうが気にならない。
 愛している。あなたが愛してくれるのだから愛している。
 この痛みは全て、その愛の代償。
 獣姦も輪姦も、手錠も首輪も張型もフェラも全部、あなたが俺を愛してくれているから。
 何かを得るためには何かを差し出さねばならない。
 ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。長兄。第一王子。世継ぎの王子。十歳年上の実の兄上。俺はあなたの愛が欲しくて、欲しくて……
 苦しくて恥ずかしく寂しくて痛くて切なくてもどかしいことは何度もあった。
 やめて、と、怯え交じりの叫びではなく、やめろ、と毅然とした態度で一言言えば解放されただろうそれをいつまでも享受していたのは。
 失いたくないから、この愛を。
 本気でドラクルを拒絶しようと思うならばいつだってできたはずなのに、ロゼウスはそれをしなかった。力で敵わない? 兄には逆らえない? 表向きどんなことを言ったって、ドラクル以上の権力者はいくらだってこの国にはいた。父に事情を話せばいつだって解放されたはずだけれど、ロゼウスはそれをしなかった。
 欲しかった。それがずっとずっと欲しかった。ドラクルの愛が。だって一番近くにいたのはドラクルだ。ロゼウスの兄であり、教育官でもあったドラクルはロゼウスにとって一番近い存在だった。母より父より、他の兄弟より誰よりも。
 身近な家族の愛が欲しくて、ロゼウスは全てを擲った。
 そのために全力で、自らの感情を奥へ奥へと押し込めて封印した。初めて奉仕させられたときも、抱かれたときも、本当は嫌だったのに、最後の最後で拒絶できなかった。父の下へ駆け込むこともせずに、ロゼウスはドラクルを受け入れた。いつだって逃げ出せたはずなのに。
 やがてロゼウスは、自分がそうして傷ついていたことすらも忘れた。
 ドラクルは俺を愛してくれているんだから、だから俺も愛している。
 どくり、と絶頂に昇りつめる。ロゼウスは向かい合うドラクルの腹に自分の精を飛び散らせ、ドラクルはロゼウスの中に白濁を放出した。
 ずるり、と中からものが引き抜かれる。自身を引き抜いたドラクルはロゼウスから顔を背けて寝台の端にと腰掛けた。
 手錠で繋がれたまま放置されたロゼウスは、太腿へと流れ出すその精液の感触を、呆然と味わっていた。どろりとした液体もぬるりとした液体も気持ち悪い。汚い。この自分自身も。世界も何もかも。神様なんて見えずに空が堕ちてくる。
 ああ、気が狂いそうになる。
 でも大丈夫。だって俺は好きでこうしているんだから。好きでドラクルに抱かれて、ドラクルを求めて。兄上だって俺を求めてくれてるから、痛いことや苦しいこともさせるんでしょう?
 なのに、耳の奥で誰かが囁くのだ。
 ――こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
 好きだと思ってた、ドラクルを……。
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!
 言えなかった。言いたかった。
 ――なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 最初の日、目の前に醜悪な男の証を突きつけられて奉仕しろと強要されて、泣いて拒んだロゼウスはドラクルに酷く叩かれた。自分より十歳も年上の兄が振るう単純な暴力は怖かった。
 けれどその夜は幾度も繰り返されて、やがてロゼウスは自らの恐怖を胸の奥に仕舞いこんだ。
 俺は虐待なんかされてない。だって、虐待って愛されてない子どもの受ける暴力のことだろう? 俺は兄様に愛されてるからこれは虐待なんかじゃない。それに、俺も兄様を愛してるんだから、苦しくない。
 愛している。
 愛していた。ドラクルを。兄上を。
 だから、痛いことをされても平気。
 だから、酷いことをされても傷ついたりしない。
 ――ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 心は脆い硝子で呆気なく打ち砕かれて自分は粉々になって散らばり。それでも、俺は兄上を愛しているんだから、何をされても平気。
 そう……思っていた。けれど。

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

 涙を流している自分すらもロゼウスは忘れていた。


091

「あら、ユージーンの坊や。あなたも陛下に用事?」
「あ、いえ、その……」
「じゃあ、王妃様に用事?」
 にっこりとバートリ公爵エルジェーベト卿は笑う。クルスはまずい人にみつかってしまった。
「一応、そうです……」
「そう。じゃあ一緒に行きましょうか」
 どうにも誤魔化せずクルスが頷くと、有無を言わせずバートリ公爵は隣を歩き出した。
 エヴェルシード王城シアンスレイト城内だ。クルスはこっそりロゼウスに会うためにここに馳せ参じたのだが。
「王妃様、また牢獄のあの部屋にいるそうよ」
「え?」
 思いがけないことを聞かされた。エルジェーベトはその腕に見事な大輪の薔薇の花束を抱えている。エヴェルシードきっての美女である彼女がそんな様子で、服装もシンプルだけれど彼女の艶かしい体つきをひきたてるようなドレスで歩いていると、ここが煌びやかな王城内であっても人目をひく。
「牢獄って……あの……」
「そう。つい先日、あの御前試合別名剣術大会前までずっと陛下が王妃様を監禁していたあの部屋。なんでも今回は、王妃様が自分から入りたいって」
「ええ?」
 何がなんだかわからなくなってきた。そもそもクルスはここ最近の動きはずっと蚊帳の外で、重大なことは何一つ知らされていなかった。
「あの方は、あの方なりに陛下のことを想ってるのよ。でもそれは、陛下が望むものとは微妙に違うの」
 寂しげに言うエルジェーベトは、こうしてみればとても美しい女性だ。
 腕に抱えた、いっそ毒々しいくらいに紅いその薔薇はロゼウスに捧げるためのものなのだろうか?
「……バートリ公爵は、僕よりも今のこの状況に詳しいのでしょうね」
「ユージーン候?」
「何故、あの方に貢物をするのです? あなたが特別王妃様に優しく見えるのは、あなたがあの方に何があったのか知っているからですか?」
 クルスは立ち止まり、半歩ほど前を歩いていたエルジェーベトも足を止めた。クルスと同じエヴェルシード人一般的な、橙色の瞳がクルスを見下ろす。彼女の方が身長が高いのだ。
「私もたいしたことは知らないのよ、ユージーン侯爵クルス卿」
「ですが! あなたは僕よりは詳しいでしょう! 陛下が王妃様への態度を変えたのは、あなたの城に滞在してからのことです!」 
 思わず瞬間的に湧き上がった激情に流されてクルスはエルジェーベトに強い口調で言い放った。
 一瞬遅く我に帰るが、一度出た言葉はもとには戻らない。
「す、すいません」
「別にいいわよ。あなたはこのエヴェルシードでただしく武家の名門たるユージーン家の侯爵閣下なのだし。私程度にそんな口きいたところで誰も責めやしないわ……ねぇ」
 彼女自身がそうは言っても、やはり彼女はバートリ公爵……このエヴェルシードで最も強く、権力もある貴族であって。
「あなた、何をそんなに不安がってるの?」
「――っ!」
 クルスの心の裡がざわめいて混沌としていることを、彼女はすぐに見抜いた。
 廊下の途中で立ち止まったクルスたちに使用人たちは困ったような顔をして通り過ぎますが、クルスは動くことができなかった。
「だって……だって陛下は……あの人のせいで」
 あの方の……ロゼウス様のせいで、シェリダン様は変わってしまわれた。
 昔は穏やかだけれどいつもどこか寂しそうで、父王への恨みに時々冷たい憎悪の瞳をして、クルスへの態度は変わらないが、それでもシェリダンが変わってしまったことはわかるのだ。それまでは父王に代わってこのエヴェルシード国王に即位してから周りの状況を正しく彼自身の力とその威光によって改革しようとしていたものが、表面上は変わらないけれど、その内面は確かに変わった。
「確かに。シェリダン様はロゼ様が来てから変わられたわね」
 エルジェーベトは何事もないように言って、再び歩き出した。クルスも彼女の後をついて、ロゼウスのいる監禁部屋へとむかう。
「ねぇ、変わることって、悪いことかしら?」
「公爵?」
「あなたはシェリダン陛下がそれまでとどこか変わったことを不安に思うようだけれど、私はそうは思わない。今までの陛下は、見ていて痛々しかったわ。だから、あんまりお側によって、あの人を知りたくなかった。今もそれは変わらないけれど、けれど前よりは、その痛々しさの種類が違うわね。だから、こうして王城近くに今回移ろうと思ったわけ」
「……バートリ公爵?」
 クルスにはエルジェーベトの言っていることがよくわからない。シェリダンが痛々しい? 確かに不幸な境遇の人ではあるけれど、彼はそれを自身の力によって変えようと努力していた。その姿が痛々しい?
「たぶん、あなたにはわからないのでしょうね」
「……ではあなたは、わかるのですか?」
「わからないわよ? わかるわけないじゃない。私はシェリダン陛下じゃないもの。でもたぶん、あなたよりは陛下に近い。それは心の距離じゃなく、精神の近似値が」
「似ていると?」
「理不尽な理由で突然家族を失ったことはないでしょう? ユージーン候」
 唐突に、彼女は話題を変えた。家族、と言う言葉にクルスは尊敬する父と、厳しくも優しい大好きな母の顔を思い浮かべた。
 けれどエルジェーベトは、切なげにその瞼を伏せる。そして声を潜め。
「……そして家族を、手にかけたこともないでしょう」
「何故、それをあなたが……」
「知っているのかって? 聞いたからよ、シェリダン様に。おかしい?」
 薔薇の花を一輪、花束から引き抜いて彼女はクルスに渡した。
 その花の芳香は馨しく、けれどどこか甘い痛みを伴う。花束にされていたというのに鋭利な棘は切られておらず、クルスは指先を傷つけないようにそっと緑の茎を握った。
「ロゼウス様は不思議ね。あの方は、相対する人間の忘れ果てた痛みを……強いて封じ込めようとしていた傷を鮮やかに浮かび上がらせる」
 その力は尊く、気高い。彼の前では、誰もその心の裏側に秘めた欲望をさらけ出さずにはいられなくなる。真実の支配者。絶対の王の資質。この世に歪んだものがあることなどまるで許さないような断罪者の顔をして。
 だからなのか、ロゼウスに惹かれるのは純粋な心持ちの人が多い気がする。誰から見ても不純であるイスカリオット伯爵ジュダはさほどロゼウスには興味がないなんて軽口を叩いていた。ロゼウス自身の兄妹でも、居丈高なミザリーよりも、気さくなロザリーや口調は偉そうだけれどどこか憎めない純粋なミカエラがロゼウスに惹かれていた。あの二人は、ロゼウスと向き合っても引きずり出されて苦悩する暗い自我などないから。
 では僕はどうなのだろう?
 視線を手の中の花へと落すと、エルジェーベトが言った。
「薔薇の花は美しいけれど、手に入れるためにはその棘に指を傷つけられなければならない。目で見て愛でるだけなら誰にでもできるけれど、本当にその花が欲しいならば、その者は自らも血を流して花と向き合わねばならない」
 いつもふざけた態度の女公爵が、予想外に真面目な顔つきでそう言った。
「あなたは、シェリダン様に血を流させるのが嫌なのね。ユージーン候」
「だって」
「でもそれじゃあ、あの方は本当に望むものを手に入れることはできないわ。真綿にくるんで守っているだけではね」
 エルジェーベトの言う事は正論だ。でも知ったような言い振りに少しだけ腹が立つ。
「さぁ、我らがエヴェルシードの大切な王妃様に、お会いにいきましょう」
 そのわだかまりも消せないまま、クルスは監禁部屋の扉を開けた。

 ◆◆◆◆◆

「殿下、殿下」
 優しい声。
 優しい指先。
「眠っておられるなら、また別の日に伺います。ご所望の、ローゼンティアの土地に咲いていた薔薇の花、ここに置いていきますね」
 昨夜の悪夢が後を引いて、起き上がれない。銀製の手枷もヴァンピルの能力を奪うからまずかったのだろう。この上なく優しい春の雨のように降るエルジェーベトの声に、目を開けることもできない。
 声音こそは優しいが、その手は剣を握る武人らしく皮膚が硬く、あちこちにたこができている。けれど女性らしく細く整った指先で頬を撫でられると、その心地よさにふと泣きたくなった。
 ――……お母さま。
 彼女の柔らかい声音に、思い出すのはそういう存在だった。けれど、ロゼウスの母親は、真実を言うならこんなに優しくはなかった。ローゼンティア第一王妃クローディアは野心家で、夫である国王ブラムスの寵愛を得て次代の王を生み育てることに必死だった。そしてドラクルがいるから、ロゼウスは用なしだった。構ってもらえなかった。
 愛されなかった。
 だからロゼウスはあんなにも、ドラクルの偽りの愛情に縋ったのだろうか。国王であり政務に勤しむ父とは滅多に会えないし、母はロゼウスのことなどどうでもいいようだったから、ロゼウスをあまやかして目をかけてくれたドラクルだけが、ロゼウスにとって唯一の、実の家族だった。
 家族の愛情が欲しかった。
 本当はただ、それだけだったのに。
「おやすみなさい、ロゼウス様。失礼しました」
 待って。行かないで。世の中で言う、母親のように優しい声をしたエルジェーベト卿に追いすがりたいけれど身体が動かない。身分とか立場とか敵同士だとかそんなこと全て忘れて、幼子のようにその膝に縋り付いて眠りたかった。
 ようやくの努力で、最後にうっすらと目を開ける。
 だけれど、そこではたりとロゼウスは動きを止める。
(……ユージーン侯爵?)
 相変わらず身体は動かないし声は出ずに起き上がれない。けれど、何とか薄目だけは開けることができた。エルジェーベトはすでに部屋を出たようで、寝台に横たわったロゼウスを、退室間際に振り返ったユージーン侯爵クルス卿が見ている。けれどどこか、彼はいつもと様子が違う。
 どうしてそんな目をするんだ?
 そんな哀しい目を。
 まるで――でも見るような目を。
 思わずその表情に釘付けになるが、体は動かず候を引き止めることもできず、虚しく扉が閉ざされたのを見送った。
 後には静寂が残され、ふわりと枕元に置かれた花束から懐かしいローゼンティアの大地に咲く薔薇の香りが漂ってきた。敷布の波に横たわったまま、ロゼウスはその香りを嗅ぐ。
 涙が出てきた。
 懐かしい、あまりにも懐かしいその花。
 吸血鬼の王国にして薔薇の王国ローゼンティアに咲く花は、北の大地にしては見事な大輪の薔薇の花が咲いた。特に王城の庭に蔓延る荊は、毒々しいほどに紅く深い、見事な薔薇を幾つも幾つも咲かせていた。
 今となってはもはや、あまりにも懐かしいあの国の記憶。
 もう帰ることはできない昔。
 どうしてあの国がなくならなければならなかったのだろう? 皇歴が始まるより昔から、ヴァンピルは魔族ではあるけれど、どうにか人間たちと対等の世界で生きて行こうと必死だった。だから、人間の血を飲まずともほとんどは薔薇の花で飢えを凌げるようになった。だから、人との違いを際立たせる蝙蝠の翼は退化して、背に現れることはなくなった。だから、弱い陽光なら昼間でも生活できるようになった。だから……。
 けれどローゼンティアが滅びなければ、ロゼウスはシェリダンと会うことも、エルジェーベトやローラにエチエンヌたちとも会う事はなかった。
 そして、カミラにも。
 ロゼウスが運命を変えてしまった愛しい少女。ごめんねカミラ。でも俺は、君とはいけない。
 この道は、荊這う墓標にしか繋がってはいないから。
 後から後から涙が溢れてくる。
 後から後から溢れてきて頬を濡らす。
 その涙はロゼウスが気づかぬ内に硝子の檻に溜まって、やがては広い湖となる。
 その中で、ロゼウスは溺れる。
「兄様……兄様」
 ごめんなさい。
 ごめんなさい。
 ようやくわかった。ロゼウスは自分が何を求めていたのかを知った。
 俺は、兄様に……
「ロゼウス?」
 思考を遮るかのように扉が開いて、シェリダンが顔を出した。かき集めた想いが霧散し、ようやく開いた瞼の視線が彼に釘付けになる。
「シェリダン」
「……何を泣いている」
 ロゼウスの様子を見咎めた途端、彼は不機嫌になったようだ。つかつかと靴音も高く近寄ってくると、寝台に寝そべっていたロゼウスを無理矢理起き上がらせた。
 そしてゆっくりと、その唇をロゼウスの顔へと近づけてくる。溢れて頬を濡らす涙を、唇で丁寧に吸いとった。ふわっとした唇が柔らかく押し当てられる心地よさに、ロゼウスは自然と瞳を閉じていた。
「ロゼウス?」
「……シェリダン、それ、とって」
 挨拶はもちろんその他の言葉すら掛け合うこともなく、ロゼウスはいきなり用件を告げた。手枷に動きを封じられているロゼウスの視線に気づいたシェリダンが、薔薇の花束を拾い上げてその一輪を引き抜く。
 馨しい芳香を一瞬だけ深く吸い込んだ後、彼はその花びらをちぎり始めた。
 毟った花弁を一枚ずつ、ロゼウスの口元に運ぶ。餌を与えられる雛鳥のように、ロゼウスはそれを待った。
 今更かける言葉などない。かけられる言葉なんて。
 優しいほどに丁寧な手付きでシェリダンはロゼウスが薔薇を食するのを手伝ってくれるけれど。
 大輪の紅い薔薇も一輪全てが丸裸の緑の茎だけになると、ロゼウスはもういい、と首を横に振った。
 とりあえずは満足した様子のロゼウスを見て、シェリダンは薔薇の茎を放り出そうとする。
 と―――誤って、その指先が傷ついた。白い指先から、薔薇の花にも負けない紅い、紅く美しい血が滴った。
 その薔薇よりもなお馨しい香りに、ロゼウスの理性が蕩ける。シェリダンの短い舌打ちが、どこか遠い。
「舐めるか、ロゼウ―――うわっ!」
 考えてみれば、もういつから人の血を吸っていないのか、目の前の血液の香りに一瞬我を忘れて、ロゼウスは手枷に繋がれた手のままでシェリダンを寝台に押し倒していた。
 傷ついた指先もさることながら、その白い喉首が綺麗だ。男の肉は硬くて不味いのは常識だけど、それでもシェリダンの首筋は白くて欲しくて滑らかで、どうしようもなくおいしそうだった。
 このまま、その柔らかな首に牙をつきたててしまえば。
 全ては終わる。祖国の復讐を、両親の仇をとれる。
 それでも。
 ロゼウスはシェリダンの首筋から目を逸らし、その傷ついた指先をそっと口に含んだ。今にも零れそうだった紅い雫を舐め取る。唾液が染みるのか、シェリダンが少しだけ眉をしかめた。
 その表情のまま、彼は尋ねる。
「……吸わないのか、この血を」
 指先の傷ではなく、彼もロゼウスがずっとその首筋に視線を釘付けにされていたことに気づいていたのだ。
「吸わない」
 ロゼウスは答える。
「吸わない。殺さない。あんただけは」
 それを望んでいる自分に、俺は気づいてしまったから。