082

 これは十年以上前のこと。
 場所は故郷であるローゼンティア王城で、警護の兵を捕まえて、アンリは兄の居場所を聞いた。ドラクルに用事があったのだ。小難しいことの相談相手はやはり長兄に限る。
 長兄も何も、アンリからしてみれば兄は彼一人だけだ。ローゼンティアの兄妹は十三人。アンリは第二王子。第一王子であるドラクルだけが兄で、第一王女であるアンが同い年の姉。生まれたのは向こうの方が早いらしいが、新年と同時に皆一つ年齢があがるこの帝国では意味がない。そしてあとはみんな、アンリにとっては弟と妹。
 ローゼンティア王国第二王子、アンリ=ライマ=ローゼンティア。それが彼の名前。彼の肩書き。第二王子と言うと第一王子との継承権争いが壮絶かと思われるが、実際にはそんなこともない。何しろアンリより一つ年上の兄である第一王子ドラクルは、その能力と言い血筋と言い健康と言い、おまけに顔まで最高の男だ。彼を差し置いてアンリがローゼンティア王になるなんて、どう逆立ちしたって考えられない。
 十四、五歳ぐらいまで、アンリは確かにそう思っていた。ドラクルには敵わない。兄は完璧なヴァンピルだと。
 あの現場を見るまでは。
『なあ、ドラクル、ここなんだけど――』
 母親違いとはいえ年子の男兄弟の気安さから、アンリはノックもなしにドラクルの寝室を開けた。そこにいるとは聞いていたけれど、いなかったらかなりマヌケな図だし、何よりノックもなしに相手の部屋に入るなんて王侯貴族は普通やらない。その辺の神経の細やかさがアンリは足りないのだと普段から怒られていたが、そのせいでこの日も、彼はとんでもないものを見る羽目になった。
『アンリ?!』
 扉を開け放ったアンリの目に入ったのは、薄暗い室内に二つの人影。吸血鬼の王国ローゼンティアでは、夜が昼のようなものだ。どんなに明かりを灯してもどこか薄暗い室内に、部屋の主である第一王子と、何故か弟である第四王子がいた。
 ドラクルは同母の弟であるロゼウスを溺愛している。父王直々に弟の教育を任されて、剣術、武術は勿論学問に関しても様々なことを教えていた。二人でドラクルの部屋に篭ってよく何かをしていることもある。まだ年端もいかないロゼウスだが、何をやらせても筋はいいと、この頃から褒められていた。
 それはただの、二親血の繋がった弟への多少強すぎる愛情故だと考えていたアンリは、だからそれまで、ドラクルのロゼウスへの可愛がりようについて深く考えることなどなかった。
 その時、珍しく慌てた声をあげたドラクルと視線が合い、アンリは何の気なしに彼らの様子を見て……愕然とした。
手に抱えた書類についての相談事が頭の中から吹っ飛ぶ。
『なっ……何やってんだよ!』
 持っていた書類を取り落として、アンリは慌てて寝台に駆け寄った。その端にちょこんと腰掛けていたロゼウスを慌てて抱きあげ、ドラクルを睨む。
『ドラクル! お前、一体何をやってたんだよ!』
 アンリは見てしまった。
 何も知らないロゼウス。まだ五歳ほどの無邪気な弟に、彼と十歳も違う兄が何をしていたかを。
 ドラクルは寝台にロゼウスを腰掛けさせ、その可憐な唇を大きく開かせて自分の服の前を開き――。
 何がなんだかわからなかった。
 どう考えたっておかしいじゃないか。なんで兄が、血の繋がった弟にそんなことをさせる。それも、こんなまだ年端も行かない第四王子に。
 あれは十年も前のこと。アンリが知ってしまった、第一王子である兄と、第四王子である弟の秘め事。
 とにかくその時、アンリはその場からロゼウスを連れ出した。重要書類をドラクルの部屋の入り口に落としたまま、自分と十ほども違う弟を守るように抱きしめて、部屋へと戻った。
 腕が震えた。声が出なかった。
『アンリにいさま?』
 自分が何をされていたかも知らず、無邪気に小首を傾げて問いかけてくるロゼウスの様子が痛い。
『ロゼウス……』
 確かにこの弟は可愛らしい。成長すれば、きっと兄弟の誰も敵わないくらい美しくなるだろう。生まれもノスフェル家の出だけあって、何をやらせてもできないということがない。継承順位だって兄である第三王子ヘンリーを抜いて三位につけている。
 だけれど、その、血筋だけで言えばアンリよりもよっぽど恵まれているはずの弟が、アンリはむしょうに可哀想で仕方なかった。
 可哀想。可哀想なロゼウス。
『……もう、ドラクル兄上に近付いちゃ駄目だよ』
『どうして?』
 何度も言い聞かせたけれど、ロゼウスは聞く耳を持たなかった。あれから歳月が過ぎ、大方の予想を裏切らず愛らしさを絶世の美貌に変えて成長し、自分があの時ドラクルに何をさせられていたのかわかるようになっても、ロゼウスはドラクルに懐いていた。
 アンリにとっては不可解極まりないその様子。自分が兄の玩具にされていると知っても側を離れようとはしない、その献身とすら呼べる一途さ。
 だいたい、ロゼウスにとって兄はドラクルだけではないし、ドラクルにとっても弟はロゼウスだけではない。なのに何故、互いの存在にあんなに固執するのか。確かにドラクルはロゼウスの同母の兄で、ロゼウスは彼にとって弟だけれど、それだけでは説明できないような気がする。
 アンリは当然、あの日のことについてドラクルに詰め寄った。しかし、長兄は酷薄に笑うばかりで何も答えようとはしなかった。十六だったアンリに、十七の兄がしようとしていたことはわかったけれど、それがどんな感情の動きから来るものかはさっぱりわからなかった。
 ドラクルは何を思い、何を考えてあの時ロゼウスを弄んでいたのか。
 その答えを知ったのは、もう少し後のことだ。
 アンリの母であるマチルダ=ライマ王妃が起こした事件。王位継承権第二位のアンリを次の国王にするために、あの母は第一王子であるドラクルを亡き者にしようとした。
 けれど、その思惑の危うく犠牲となりかけたのはロゼウスだった。母が殺そうとしていたのはドラクルだったが、実際に殺されかけたのはロゼウスだったのだ。
 あの日、ドラクルは自分の部屋にロゼウスを招き寄せていた。二人には十歳の年齢差があるけれと、顔立ちだけ見ればそっくりだ。なまじヴァンピルは十代も半ばを過ぎると容姿の成長が止まって顔立ちが変わらなくなるから、外見上二人の年齢は五、六歳しか離れていない。薄暗い室内で見れば……間違えるのも無理はない。
 アンリは母が起こしたその事件で頭が痺れるように痛んでいたが、それでも見た。
 傷つけられたロゼウスを見て、ドラクルが酷薄に微笑むのを。
 ……ロゼウスが可哀想だ。
 ロゼウスがドラクルへ向ける愛は、博愛も兄弟愛も通り越してむしろ自己犠牲とすら呼べるほど強いもの。自分を甚振る兄をどうしてそこまで愛せるのか。自分を憎んでいる兄を……。
 アンリはロゼウスが可哀想で仕方ない。母親違いだとしても、あの子も自分の大事な弟だ。アンリにとってはロゼウスだけでなく、ヘンリーもミカエラもジャスパーもウィルも、みんな可愛い。
 なのに、ロゼウスはどこか違うのだ。他の彼らとは。
 幸せにしてやりたいのに、できない。だってあの子は自ら火の中に飛び込もうとする。
 ドラクルをどんなに愛したって無駄なんだよ。それは兄弟だとか男同士だとかそういうものではなくて、もっと根本的な……あの男があの男である限り、永遠に報われないものだ。
 あの現場を見てしまったあの時から、アンリにとってドラクルはただ無邪気な尊敬の対象ではなくなった。確かに彼の有能さは認める。彼の能力は自分よりよっぽど優れている。でも。
 一度汚い面を見てしまえば、ドラクルの悪い噂なんて耳に入ってくるのはすぐだった。貴族平民男女問わず、火遊びに余念がないと言われていた第一王子。
 誰よりも完璧な存在でありながら、彼は誰よりも病んでいた。そしてその痛みを、実の弟に向けていた兄。
「ロゼウス……」
 アンリは今、あの頃よりずっと成長してそれでもまだ羽根のように軽い弟を抱きしめながら、その名を呼ぶ。
「アンリ兄様」
 エヴェルシードの王に囚われの身となっていた弟は、虚ろな目でアンリを見上げた。
 あの頃よりさらに艶を増したような、いっそ凄まじいまでの美貌。だけれど、こんな風にぽろっと不安な声音を零すところは相変わらずだ。
「迎えに来たんだよ、お前を」
 ああ、どうか、お前もドラクルも、他の皆も。
 それでもどうか、幸せになってほしいんだ。


083

「ロゼウス……」
「アンリ兄様」
「迎えに来たんだよ、お前を」
 ロゼウスはぼんやりと兄である第二王子を見上げた。
「ここって……」
「炎の鳥と紅い花亭!?」
 どこか見覚えのある風景を見回そうとしたロゼウスが気づくより早く、ロザリーが声をあげた。二階に繋がる階段から人が降りてくる。
「意外に早かったな。誰にも見られなかったか?」
「途中で着替えたし、ばらばらに裏口から入ったから多分大丈夫」
 アンリ兄上と平然と言葉を交わす男性の顔にも見覚えがある。ロザリーが悲鳴とも歓声ともつかぬ声をあげ、その人に抱きついた。
「マスター!」
「ロー、元気だったか?」
 柔らかに両腕を広げて彼女を抱きとめる様子を見て、ロゼウスは思い出す。その面差しがどこかシェリダンに似たこの男性は、以前ロザリーがこの国に入り込んだとき世話になった酒場の店主で、シェリダンの叔父でもあるという話だった。
「ロー、いや、ロザリー姫と呼ぶべきか? 手紙ありがとうな。おかげでだいたいの事情はわかったよ」
「マスター、これはどういうことなんですか? どうしてアンリ兄上と……」
「拾った。まあ、つまりそういうことだ」
 どういうことなのかロゼウスやミカエラ、ミザリーにはさっぱりだが、この店主とそれなりに付き合いのあるロザリーにはそれで十分伝わったらしい。
 アンリが補足を入れる。
「俺たちはローゼンティアの王家の墓所で甦った後、エヴェルシードとローゼンティア国内の追っ手に追われて散り散りになった。そこまでは知ってるな? 俺とウィルとエリサは三人で国境付近をうろうろしてたんだけど、そのうち警備兵に見つかって俺が深手を負ってな。ぎりぎり王都の範囲内の街道で行き倒れてたら、フリッツさんに助けられたんだ」
 ロゼウスを椅子の一つに座らせ、その隣の席に座りながら兄上は言った。
 第二王子、アンリ=ライマ=ローゼンティア。何を考えているのかよくわからないと言われるドラクルとは違って、ある意味最も兄らしい兄。
 優しい兄上。ロゼウスにとっては、ドラクルとはまた別の意味で、大好きな兄様だ。
 彼はロゼウスを迎えに来たのだと言った……。
「おい、そっちの多分……王妃様、あんた具合が悪いのか?」
 ロゼウスはまだ頭がぼんやりとしているし、相変わらず身体が辛い。その様子を見咎めたのか、フリッツと呼ばれた店主が声をかけてくる。
 だけど、シェリダンに似たその顔で気遣われるのは、今のロゼウスには痛すぎた。
「なんでも……ありません」
「そうか。アンリ王子……って言うとマズいんだったか? アンリ、俺は外した方がいいか?」
「いや、不足の事態になった時対応してもらいたいし、できればここにいてくれるとありがたい。客が来たときここに人の気配がしてたのにあんたが上にいたとかになったら不自然だろ?」
「はいはい。わかったよ、人使いの荒い王子様」
「ありがとう、店主殿」
 フリッツ氏はカウンター内の椅子を引いて、その中でグラスを磨き始めた。御前試合での混乱からすぐにここまで来たけれど、時刻はまだ昼間と言っていい時間帯だ。酒場であるこの店の営業時間までは、まだ十分あるらしい。
「アンリ、状況を整理してもいい?」
 この現状を理解するだけでいっぱいいっぱいのロゼウスやミカエラと違い、比較的冷静なミザリーが言った。
「このシェリダン王に似た店主があの人の親戚だってことまではいいわ。その人にあなたたちが何となく拾われたってのも話の流れからわかった。だけど、シェリダン王の親戚なら何故わざわざ私たちローゼンティアに手を貸すの? それと、さっきのあの事態はどこまでがあなたたちの計画で、どこまでが予想外?」
「あ、そうだ! そういえば俺もロゼウスに一個確認しなきゃいけないことがあったんだ!」
「もう! 細かい事は後にして! とりあえず私たちにも現状を把握させてくれないといざというときすぐに動けないじゃない!」
「ご、ごめんミザリー」
 アンリはミザリーより四つほど年上だが、このやりとりを見ればどちらの方が押しが強いかは推して知れる。
「とにかく、皆で情報を出し合って現状把握に努めましょう。それによって、すぐにここから移動するのか、二、三日匿ってもらってから逃げるのかも決まるでしょ!」
 ミザリーの言葉により、とりあえずはそういう話の流れになった。これだけの人数がいると逆に話辛いということで、口を開くのはロゼウスとアンリ、ミザリーの三人になった。その合い間に、絶妙なタイミングでフリッツが先を促すような言葉を挟んでくれる。
「まずは最初から行きましょう。ロゼウス以外の王族、つまり私たちはエヴェルシードによって国が滅ぼされた時に一度死んだ。それをルースの手によって生き返らせてもらった」
「……その間、俺はシェリダンと取引をした。俺が人質となる代わりに、ローゼンティアの民には手を出さない、と。なんだかんだあって、ロザリーとも合流した」
 ロゼウスはフリッツを見る。
「確かあなたはシェリダンの母方の叔父上で、姉君をシェリダンの父である先代王に略奪されて……」
「ああ、そうだ。俺の姉であるヴァージニアは先代ジョナス王に無理矢理城へと連れて行かれたし、それに逆らった両親は殺された。今のシェリダン王に直接どうのこうのされたわけじゃないが、それでも俺にとって王族は敵だ」
 だからローゼンティア国民……エヴェルシード人にとっては敵であるロゼウスたちを助けたのだという説明にミザリーとミカエラも納得という顔をした。もともとシェリダンは即位後すぐに父王を幽閉した王であるし、エヴェルシード王家の確執に関しては多少予備知識があった。
 そしてさらに話は続く。
「俺たちは甦り、でも追っ手……エヴェルシードの女公爵」
「バートリ公爵よ……そういえば、兄上、戦ったのによくバレなかったわね。まあ、あのレズ公爵は男には興味がないから……」
「そ、そうなのか? とにかくその公爵と……うちの国のカルデール公爵により、追われて散り散りになった」
「私の知るかぎりではアン姉上とヘンリーが今もカルデールの元にいるのではないかしら? 最後に見たとき、私とミカエラはバートリ公爵に、あの二人はカルデールに捕まっていて……」
「俺はエリサとウィルを連れて逃げ、いったん国境付近にまで落ち延びた。けど、途中で警備兵に見つかり、そこで深手を負ってさらに逃げたここで店主殿に助けられた」
「シェリダンのところにいた俺たちの元には……ルース姉上が来た。そしてミザリー姉様とミカエラがバートリ公爵のところにいることを教えられて、二人を迎えにバートリ領に行った」
「ちょっと待って、ルースについて、私たちも詳しいことは聞いてないわよ?」
「そういえば……ここからは話してないんだっけ」
「最近はそれどころじゃなかったし」
「でも俺たちも詳しいことは知らない。ルース姉上はシェリダンと話して……その後普通に帰ったみたい」
「帰るってどこに? ローゼンティアはもうないのよ?」
「それは……わからないけど」
 ルースとシェリダンの間には、何らかの密約が交わされたと考えていいだろう。だけれど、その内容はわからない。
 考えてみれば、ロゼウスたちは何も、自分たちのことなのに知らないことばかりだ。
「……とりあえず、ルースは無事ということはわかった。ドラクルは?」
「っ……」
 ロゼウスはヴァートレイト城でのことを思い出す。あれは確かにドラクル兄様で……
「無事……なんだな?」
 ロゼウスの顔色からどう読み取ったか、アンリはそう言った。
「そうね。あのドラクルが死ぬとは思えないわ」
「ドラクルお兄様なら、世界が滅びてもきっとぴんぴんしてます」
 ミザリーに加え、口を開かないはずのエリサまでもが声を揃えて長兄のことを横に流した。しかし次のアンリの言葉に、ロゼウスとミザリーだけでなくミカエラとロザリーまでもがいっせいに叫んだ。
「じゃあ後は、メアリーとジャスパーか」
「「「「あ!」」」」
 特にロザリーが頭をかきむしり、顔色を悪くして言う。
「あの子回収するの忘れてた!!」
「え?」
 今度はアンリとウィル、エリサの三人が目を丸くする番だった。

 ◆◆◆◆◆

「どうしようロゼ、ジャスパー、シアンスレイトに置いてきちゃった……」
 ロザリーとミザリー、ミカエラにロゼウスの四人は御前試合の観覧にもつき合わされたが、その頃ジャスパーは牢の中。
「ちょっと待て! ジャスパー!? いたのか、あの城に!」
 エヴェルシード王の捕虜となっていたローゼンティア王族は、今日の御前試合、なんでも死んだはずのシェリダンの妹が生き返ってしかもシェリダンに試合を申し込んだとかで混乱が生じた隙に、ここにいる全員にとって兄である第二王子アンリと、末っ子のエリサとウィルによって王城から助け出された。
 そこまでは良かったのだ。しかし。
「あ、兄上。ジャスパーはシェリダン王の手によって地下牢に監禁されていて……」
「何だか理由はよくわからないんだけど、御前試合の前までシェリダン王凄く機嫌悪くて、ジャスパーはその王に特に嫌われてて……」
 顔色の悪いミカエラとミザリーが事態を説明しようとするも、ちゃんとした説明になってない。説明しようにも、そもそも彼らにもわからないことだらけだ。
 ロゼウス。シェリダン。
 ロザリーはあの時、シアンスレイト城に留め置かれていたから、今でもその詳細を知らない。二人にバートリ公爵の城で何かあったのはわかったが、肝心のその「何か」がわからない。
 それまではまだ、王妃らしい体面をロゼウスに守らせていたシェリダン。なのに、あの後帰ってきてから様子がおかしくなってしまった。
 本当に大事で重要なやりとりはロザリーの耳には入って来ない。……ロゼウスとシェリダンの間には、彼女は入れないから。
「監禁? どうして? いや、おかしくはないけど、でも、お前たちはああして捕虜でも賓客待遇なのになんでジャスパーだけ……」
 さすがのアンリも呆然としてしまっている。首尾よく人質となっていた兄妹全員を助け出せたと思ったら、まさか一人残っていたなんて……
「兄上」
 それぞれが動揺しているためにぼろぼろになりそうな場を鎮めるほど凛とした声で、ロゼウスが口を開いた。
「俺は、あの城に戻るよ」
「ロゼウス!? お前何を言って……」
 アンリが血相を変える。椅子に座ったロゼウスの前に跪くような感じで、その膝に縋る。
「正気になれロゼウス! あんなところに戻ってどうするんだ!?」
「俺がいる限りは、シェリダンはジャスパーに酷いことをしないと思う」
 あの王は約束は守るだろうと。
「それに俺は……シェリダンと約束をしてしまったから」
「約束?」
 思わず鸚鵡返しに繰り返し尋ねてしまったロザリーに、ロゼウスが淡い微笑を浮かべて告げる。
 その笑みは儚いのに、それが訴えるものは誰にも変えられない強い覚悟。
「内容は秘密」
「ロゼ」
 ロザリーは今までこの世で最も美しいのは、ロゼウスのその笑みだと思っていた。でももう、あなたがそれを向ける相手は私では……私たちではないのね。
「じゃあ私もこの国に残る」
「ロザリー! あなたまで何を言い出すの!?」
「ねえさま」
 ミザリーとエリサが両脇からロザリーの腕に抱きつく。
 それでもロザリーは真っ直ぐ正面を……アンリの背中の向こう、背筋を正して座っているロゼウスだけを見ていた。
「だってロゼだけ王城に残すなんて心配だもの」
 半分は本当。でも残りの半分は……。
「ロザリー、お前……」
 何かに気づいたようにロゼウスが軽く目を瞠る。ロザリーは疚しいことをしたような、そんな気持ちで彼を見つめていた。
 兄妹の中では、ロザリーが一番ロゼウスに似ている。顔だけを言うなら、それこそドラクルよりずっとロゼウスに似ているのだ。そして似ているからなのか、自分たちはいつも、お互いの気持ちがよくわかった。まるで二人で一人みたいに。
 でももう、違うのね。あなたはあなたの片羽を見つけてしまった。そしてそれは……。
「ごめんね、ロザリー」
 そんな切ないような顔つきで言わないで、ロゼ。私、悲しくなってしまうじゃない。
 彼らを二人きりにしておきたくはない。ロザリーは理由こそ知らないけれど、ロゼウスの魂が傷ついている事は知っていた。そしてそれはシェリダンも……彼も同じ。だから二人を二人だけで放っておくのは嫌だ。目を離した途端ふっと霧のように消えてしまうんじゃないかと、そんな不安に駆られるから。
 ロゼウス、シェリダン。大好きなの。
 あなたたちの世界が二人で完結していても、そこに入る隙がなくても、それでも側にいたい。その深い絶望と望む破滅への、少しでも歯止めになりたいから。
 おかしいとはわかってる。本当は何を犠牲にしてもシェリダンを殺してローゼンティアを再興しなきゃいけないはずなのに、でも、それでも。
「アンリ兄様」
 ロゼウスが決意の瞳で、顔を兄に戻す。
「兄様たちは、ミザ姉様とミカエラ、ロザリーを連れてこのまま逃げて。……ローゼンティアを復興するも、このまま国を捨ててどこかへ潜伏するのも、兄様たちに任せるよ」
「ロゼウス!」
「俺は、この国に留まる。もしもそれによってローゼンティアに何らかの不利益が起こるなら、その時はどうぞ見捨ててください、第二王子殿下」
 兄である人を殿下と呼ぶ。敬称でその名を呼ぶと言う事は、自らは同等である立場を捨てるつもりだということ。ここにいるのはローゼンティア第四王子ロゼウス殿下ではなく、ただのロゼウスだと。
「駄目だロゼウス、そんなの許さない」
 アンリ兄上は青ざめて、必死でロゼウスを説得しようとする。
「ロゼウス兄様、何故そんなことを仰るのですか?」
 ミカエラとミザリーもなんとかロゼウスの意志を翻そうと、彼に加勢する。
「ジャスパーの事があるから、心配なのはわかるわ。でも、一度身を隠して後からあの子を奪還しに行ってもいいと思うのだけど」
「そうですよ、兄様がわざわざこの国に残る必要なんて――」
「ミザリー姉様、ミカエラ、ウィル、エリサ、アンリ兄様」
 一人一人の名を呼んで、ロゼウスは笑みを浮かべる。
「ロザリー」
 ロザリーはその表情を見て、もう本当に駄目なのだと知る。今の彼は神ですら止められない。
「元気で」
 離別を予告するそれはロザリーの気分を重たくし、他の皆から言葉を奪った。耐え切れなくなって俯いたロザリーの耳に、マスターの声が届く。
「……さっきから聞いてれば、一つどうしようもなく気になることがあるんだが」
 シェリダンの叔父に当たるマスターは、ロゼウスに目を向けて尋ねる。
「王妃様、本当の名はロゼウスか。あんた、男なんだな」
「はい」
「それで、今ここの王族兄妹を捨てて、うちの甥のところに戻ろうとしてる」
「そうです」
「やめておけ」
「何故?」
「あれは、共に生きるということができない人間だ」
 この場の誰よりもシェリダンに近く、それでいて遠い人の言葉は簡単には無視できない重みがある。それでもロゼウスは三度、首を振った。
「だから、です」
 ロゼウスがシェリダンに望んでいるのは共に生きることではない。
「俺は王城に戻る。ジャスパーを解放してもらう。そしてシェリダンと……」
「駄目だ!」
 もはや誤魔化すとか身を隠すとかそういう意志もなく、アンリはロゼウスの言葉を遮る勢いで叫んだ。
「俺はそんなの許さない。絶対に認めない。なあ、ロゼウス。お前、俺が一言も今のお前の格好について言わないからって、それについて気にしてないとでも思ってるのか? 俺だってこれでも王族だ。汚いことだって色々知ってるから、この様子を見ればお前があの王に何をされて、どんな目に遭わされてるかもだいたい想像がつく。あんな男のもとに、もう一秒だっていさせることはできない!」
 立ち上がり彼はロゼウスを抱きしめる。アンリはとっくに気づいていたのだろう。エヴェルシードにいたローゼンティア王族の中で、ロゼウスが一番傷ついて弱っている。それが誰のせいなのかも。
「ロゼウス、俺はお前の兄で、お前は俺の弟なんだ。弟の幸せを願わない兄なんかいるもんか。あんなお前を幸せに出来ないような奴にお前を渡すなんてできない。お前は俺たちと、ローゼンティアに戻るんだ」
「アンリ兄上」
 第二王子である兄の愛情は温かく、それはロゼウスにとってはいっそ痛いほどで。
 その時、一陣の風と共に勢いよく扉が開いた。
「あなた方が何と言おうと、この方は返していただきます」
「エリサ!」
「ユージーン候……!」
 ヴァンピルであるロザリーたちにもさほど劣らない素早さで店内に飛び込んで来たのは知った顔だった。彼は一番輪の外にいたエリサを抱え込んで、その首元に剣をつきつける。
「投降してもらいましょう、ローゼンティア王族の方々。……王妃様を返してください」


084

「王妃様を返してください」
 クルスははっきり言って辛い。あの方に、彼を再び引き合わせるのは。
 こんな突然、誰が見ても明らかに攫われたのがわかるような形ではなく、人知れずいなくなってくれたのならどれだけ安堵することか。思いながらもこの手を止めることはできない。
 シェリダンが望んでいるのならクルスはそれを叶えねばならない。初めてお会いしたあの頃に誓ったのだから。
「ロゼウス殿下」
 クルスの呼びかけに応え、ロゼウスが立ち上がる。膝に縋るような形だったアウゼンリード……いいや、彼の恐らく染めであろう蒼い髪から覗く瞳は朱色で、耳は尖ったヴァンピルの耳です。恐らくローゼンティア王族の誰かであろう、その人を突き放して、酒場の入り口へと歩み寄ってくる。
「ロゼウス!」
 ロザリーがロゼウスに呼びかけるが、彼は真っ直ぐにクルスを見つめたままだ。それを見て、クルスも小さな少女を抱え込む腕を緩め、彼女を解放した。
 その、至高の鳩の血色の紅玉にも似た紅い瞳で射抜かれる……ロゼウスは本当に美しい人だ。けれどだからこそ、クルスは彼が怖い。
「王城に戻ってください、ロゼウス様。シェリダン様がお待ちです」
「一つだけ約束して欲しい」
「何でしょう?」
「ここにいる他の六人……それに、まだ城の地下牢にいるはずのジャスパーは解放してくれ」
「ロゼウス兄様!」
「お兄様、何を!?」
 クルスだけではなく、ロゼウスの兄弟である皆も驚いている。よくよく見れば、室内にいた二人の子どもも尖った耳と紅い目をしていて、蒼い髪で誤魔化しているとはいえヴァンピルだとわかった。この場所でエヴェルシード人は酒場の店主であるシェリダンの叔父のフリッツと、クルスだけのようだ。
「俺は、シェリダンの元に戻る。継承権上位の第四王子だ。人質扱いを考えても、俺さえいれば、満足だろう?」
「ええ。多分……」
 シェリダンに話を諮る時間はなく、継承権や人質問題はクルスはこれまで関わってこなかったので軽はずみなことは言えないが、それでもシェリダンの気持ちを考えれば……
 彼は、ロゼウスさえ側にいればいいのではないかと思う。
「ユージーン候? 約束してくれるか? ここにいる六人には……それに店主殿にも手は出さないと。それと、俺がシアンスレイト城に戻ったら弟のジャスパーを解放してほしい」
「……僕の一存では決められませんが、善処しましょう。陛下に打診してみます」
 クルスがそう答えると、ロゼウスはほっとしたような顔をした。今のシェリダンがクルスの言う事を聞いてその弟王子とやらを簡単に解放してくれるかはわからないが、ヴァンピルをあまり増やしたくないのはクルスの望みでもある。できる限りのことはしよう。
「さぁ、こちらへ、王妃様」
「うん」
 クルスは手を伸ばし、ロゼウスは頷いた。どこか怪我でもしているのか身体が辛い様子だが、外には城門を出る際警備兵から無理矢理借りてきた馬を待たせてあるので、少しの辛抱で済むだろう。伝令を走らせて後はゆっくり城へ戻ればいいのだし、この様子では彼は逃げられない上に、逃げる気もないだろう。
 けれど彼自身の意志とは関係なく、その他の人々が彼を引き止める。
「ちょっと待て! ロゼウス! お前をあそこに戻すのは許さないぞ!」
「……アンリ兄様、まだそんなことを――」
「そんなこととはなんだ! 大事なことだろ! ……ロゼウス、お前、正気なのか……ッ?!」
 アンリと呼ばれた青年がロゼウスの肩を掴んで引きとめ、二人の言い合いが始まった。ロゼウスは声を荒げるでもなく、ただ痛いような顔つきで兄王子の言う事を受けとめている。
 彼はシェリダンが、ローゼンティアから無理矢理攫ってきた王子だ。しかもいくら美しいとはいえ女装までさせて奉仕させ……人間より身体能力で優れるヴァンピルがシェリダンに勝てないはずはないのに、奇妙なほどロゼウスは従順で。
 クルスはそれが怖くて、でも嬉しくもあった。父王に虐待を受けていたシェリダンの心の中にあったのは常に憎しみで、父である先王を憎むことでしか自分を繋ぎとめられなかった彼の、新たな楔になってくれると思ったから。
 けれどクルスの最初の考えとは裏腹に、いまやロゼウスの存在はシェリダンにとってかけがえのないものになりすぎた。もう……シェリダンは、ロゼウスがいないと生きてはいけない。
 それも、愛し合っているとかお互い好きあっているとか、そういうことではないのだ。傍から見ていれば異常としか思えないほどに強い執着。傷つけて痛めつけて、そういうことでしか相手の存在を得る事ができないシェリダンを、縛り付ける頚木。
 本当は怖い。人間よりさらに強い力を持つヴァンピル。こちらの奇襲が成功したとはいえ、彼らが本性を現せばすぐにエヴェルシードなど滅ぼし返されてしまうと思う。女性であるロザリー姫にさえクルスは太刀打ちできなかった。本気になったロゼウスにも、クルスは指一本触れられないだろう。
「ロゼウス様」
 兄王子の手を振り払い、とうとう正面にやってきたロゼウスにクルスは言葉を向ける。
「どうしたんだ? ユージーン侯爵」
「……あなたは、一体何を考えておられるのですか?」
 わからない。他の誰でもない、彼の考えが。シェリダンをあまり憎んでいる様子もなく、かといって仲が良いというわけでもなさそうで……。
 ふわふわと掴みどころのない霞や霧のようで、触れれば切れてしまいそうな刃の如きシェリダンより、クルスはずっと、この外見だけはたおやかな王子が本当は恐ろしかった。
「……ヴァンピルであるあなた方をこの国に入れることに、最初僕は反対でした。だから、ローゼンティア侵攻の際も召集をかけられませんでした。実際にあなたにあって、魔族がそれほどの恐ろしい化物ではないと知っても、それでもやはり……あなたの存在は異質だ」
 あの方の腕に抱かれながら、熱く冷めた目をした王子。
 一度殺されかけたロザリー姫より、僕はあなたの方が怖い。
「あなたはシェリダン様をどう想っているのです?」
 自分は何を聞きたいのだろうか。我に帰ってももう遅く、問と言う矢は放たれた。意表を衝かれたように目を丸くしたロゼウスが、次の瞬間妖しく口の端を吊り上げる。
「どうって……あなたはそれにどう答えてほしいわけ?」
 質問に質問で返されてクルスは戸惑い、その戸惑いを見透かしたようにロゼウスは笑う。
「俺がシェリダンをどう想っていると答えたら、あなたは満足する? ユージーン侯爵クルス卿。もともとはこんな間柄で、俺と彼の間にどんな感情もあるはずないのに」
「え……」
 それでは何故、兄妹と別れてまで陛下のもとへ戻るなどと……。
「俺は……」
 けれどその答えを聞く事は叶わなかった。
「ぐっ!」
 突然、油断していた鳩尾に衝撃が来て、クルスは床に倒れこんだ。首の皮に何かが当る感覚。それが鋭い爪だと気づいた時には、もう手遅れだ。
「ジャスパー!」
 その両腕を真っ赤な血に染めた少年が、クルスの首に刃物よりも鋭い爪を突きつけていました。

 ◆◆◆◆◆

「やっと見つけた」
 すぐ下の弟はその手を血に染めていた。
「ジャスパー……お前!」
 ロゼウスが叫ぶ。ミカエラもアンリもミザリーもロザリーも、ウィルやエリサはもちろん酒場の店主も、そしてジャスパーが押さえ込んでいるエヴェルシードの貴族クルスも。
 動くことが出来ない。
「血……」
 ジャスパーの両腕を染めているのは紅い血だ。みすぼらしい格好なのにやけに派手なのは、彼の腕を中心として体中いたるところに飛び散ったその鮮烈な赤のせい。
 ジャスパーの血ではない。
 この甘く馨しい香りは……人間の。
「ジャスパー、あなた、まさか人間を殺して血を吸ったの!?」
 ミザリーが口元を押さえて叫び、ただの人間であるエヴェルシード人の二人、フリッツとクルスが顔色を失っていた。
 ジャスパーはきょとんとした顔でミザリーを見つめた。けれどふいと視線をすぐに逸らして、クルスのことも放り出した。首の後ろに思い切り手刀を叩き込まれた少年貴族が昏倒する。
「ぐっ……」
「ユージーン候!?」
 先程の言葉のせいで血を吸われると思ったのか、青い顔をしたフリッツがカウンターから駆け出して彼を支えた。ぐったりと力を失った彼とそれを支えるフリッツには見向きもせず、ジャスパーはこちらへと歩み寄ってくる。
 牢に入れられていたという通りに、まともな格好などしていない。けれどそんなことどうでもよくなるぐらい紅く紅く、第六王子は血に濡れていた。
 そして普段の大人しい態度からは及びもつかない彼の態度に首を傾げていると、その瞳に白痴じみた狂気の光が浮かんでいるのが見えた。
「ロゼウス兄様」
 甘ったるい、あまえるような声でジャスパーは呆然としていたロゼウスに駆け寄った。アンリも思わず動けず、ジャスパーを通してしまう。
「ジャスパー……どうして」
 ロゼウスは自分も血に汚れるのに構わず弟の身体を受けとめて、放心状態で呟く。
 ミカエラは喉が渇くのを感じた。吸血鬼の本能が、ジャスパーの纏いつかせる血の匂いに反応して疼き出す。
 ここに来るまでにこの弟は、一体何人殺したのか。
「おい! どういうことだ!? ロー、王子、これは……」
 フリッツが手頃な位置にいたミカエラの腕を掴み、ロザリーの名前を呼んで問いただす。しかし、彼らとて全然事情がわからないのは同じだった。
 あの大人しくて聡明で、兄妹の中で一番穏やかな性格をしていたジャスパーが何故。
「狂い始めてる」
「え?」
「あの子、必要以上に大量に人間の血を啜ったんだわ」
 人の血は彼ら吸血鬼にとって、生きるために必要な食事であり、身体を生かす糧であり、そして麻薬でもある。
 あまりにも多くの人を殺しその血を吸いすぎると、ヴァンピルの理性は狂いだすのだ。
 だからこそ彼らローゼンティア家の祖先はヴァンピルだけの国を作って、人間から離れた。ヴァンピルが《帝国》制度の確立に参加した一族でありながら、数百年前まで建国をしなかった理由がそれだ。
 そして今のジャスパーの様子は……。
「理性を手放していると……?」
「ええ。そうでなければ、あの子があんな態度とるはずないでしょ!?」
 後半は悲鳴のように、ロザリーが叫ぶ。
「兄様、兄様、会いたかった」
 当のジャスパーはと言えば、狂っているというロザリーの指摘も強ち間違いではない様子で、あれだけの返り血で身を染めながらなお幸せそうに兄王子であるロゼウスに抱きついて喋りかけている。
「もう離れない。ずぅっと兄様と一緒にいる!」
「ジャ、スパー?」
 血の匂いのする弟に抱きつかれたロゼウスは戸惑うばかりだ。当然だろう。
 これまでジャスパーがロゼウスを好きな素振りなんて、表に出す事はなかった。ミカエラやロザリーとは違って、始終ロゼウスにくっついてロゼウスと手を繋ぐ権利をとりあったりなんてすることなかったはずだ。
 恐らく誰も、ジャスパーのそんな気持ちを知らなかっただろう。これは吸血の副作用なのか? 末っ子のエリサよりも稚い仕草でロゼウスに縋りつくジャスパーは、わけのわからない言葉を連ねる。
「ずっと、ずぅっと、兄様と一緒にいる。兄様大好き。だって僕は兄様といるために……」
「やめろ!」
 突然態度が豹変したジャスパーに本能的な危機感を覚えたのか、ロゼウスが彼を突き飛ばす。
 酒場の床に尻もちついたジャスパーはまん丸く目を見開いて、ロゼウスを見上げた。ロゼウスだけを。
「どうして?」
 同じ場所にいるアンリもミカエラも、ミザリーにロザリーとウィルとエリサも目に入っていない。
「どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために」
「やめろ! 俺のためにとか言うな!」
 ロゼウスが鬼気迫った様子でジャスパーの言葉の続きを拒む。頭を抱えて床に蹲った。
「だって、だって本当に……」
 兄様に突き放されたジャスパーはぽろぽろと涙を流しながらロゼウスを責める。
「やめろ、ジャスパー」
 ミカエラは背後からジャスパーの肩を掴んで振り向かせようとする。
「もう何もロゼウス兄様に言うな。一方的な愛情の押し付けなんて意味がない……」
 相手から返る愛情を当然だと思うことも、逆に全く愛情が返らなくて良いと思うことも相手を本当に想ってはいないということだ。一方通行の思いや勝手な期待と憶測がどれだけ苦しいかミカエラは知ってる。
 説得しようとしたミカエラの言葉を遮る勢いで、後からミカエラを突き飛ばす手があった。
「ミカエラ!」
「うわっ」
 押されて倒れこんだミカエラは、その手の主に文句をつけようと口を開きかける。しかしそこで、それまでミカエラがいた場所に鋭く尖らせた爪を繰り出して短く舌打ちするジャスパーの姿を見た。
「な……」
「今のあの子に何言っても駄目よ。正気を失ってるんだから、聞く耳持たないわ」
 ミカエラを突き飛ばしその腕の中に庇ったロザリーの言うとおり、ジャスパーは常の彼とは比べ物にならない低く暗い呟きをその唇に乗せた。
「僕の邪魔をする者は……僕から兄様を奪う相手は誰だろうと許さない」
「ジャスパー……」
 その深紅の瞳が爛々と澱んだ狂気の光を浮かべる。
 誰か。
 誰かあの子を止めてくれ。誰か――。
 心で祈った言葉に答えるかのように、ロゼウスが立ちあがった。腕を伸ばして一度は突き放したジャスパーを引き寄せると、口づけながら囁く。
「ロゼウス=ローゼンティアの名によって命じる。暗き狂気の血よ、眠れ――」
 一瞬、その言葉に抵抗するようにジャスパーが呟いた。
「いや……。僕は、このままで――」
 普段大人しすぎるジャスパーは、本当はずっと自分の気持ちを言えない自分が嫌いだと以前言っていた。
 だがこんなのは、本当の彼ではない。
「眠れ。《――》の名の下に」
 ロゼウスの腕の中で、かくんとジャスパーの首が揺れる。意識を失ったようだ。
「これで……」
「これで終わったというわけだねぇ」
 慌てて全員が振り返ったそこには、また新たな人影が姿を見せていた。次から次へとよく現れる。
「ハデス」
「はぁい。迎えに来たよ、ロゼウス」
 黒髪黒い瞳の少年がそう言った。


085

「あーあ、可哀想に」
 歩み寄ってきたハデスがジャスパーの首を抱き寄せ、労わるように囁き、嬲るように呟く。
「拒絶しちゃったんだね。この子を。酷いお兄さん。彼は君だけを追ってきたのに。君だけを」
 ロゼウスの術により気を失ったジャスパーの身体はぐったりと弛緩し、なすがままハデスに抱かれている。
 ――どうして、拒絶するの? ひどい。だって僕は兄様のために……
 ――僕の邪魔をする者は……僕から兄様を奪う相手は誰だろうと許さない。
 ――いや……。僕は、このままで――。
 先程の狂乱した弟の様子を思い出す。ヴァンピルの血と魔力を押さえ込んで正気に戻したつもりだけれど、またあんな風に詰め寄られたらと思うとぞっとする。
 ジャスパーはロゼウスの弟だ。それ以外の何者でもない。
 しかし先程、彼がロゼウスを見てきた瞳は家族のものではなかった。あれは……。
「酷い男だね、ロゼウス」
「ハデス……」
 ジャスパーの身体を抱いたまま、彼の視線はロゼウスへと向けられていた。
「彼は君のために生まれてきたのに」
 ジャスパーはロゼウスのために生まれてきた。
「何を言ってる? ジャスパーがって……そんなこと……」
「ありえないって? 彼が君の異母弟だから? 甘いね。それを決めるのは人じゃなくて神だ」
 ハデスの言葉は意味深で、ロゼウスには欠片も理解できない。
 ジャスパーは第二王妃の子どもで、ロゼウスの母である正妃とは何の関係もないどころかむしろ敵対関係だ。王族にとって兄弟が増える事は利点もあるかもしれないが、継承権争いの相手が増えるのは一般的には良くないことだろう。
 なのに、ジャスパーがロゼウスのために生まれてきただって?
 兄様のために生まれてきた。
 ジャスパーはそれが言いたかったのだろうか。ロゼウスのために生まれてきたのだと。
「本当はお前だってもうわかっているのだろ? さっきこの子の力を封じるとき、なんて言ったか覚えてる?」
「俺、俺は……」
 普通ヴァンピルが血を介した魔力を使うときには誓約の言葉を述べる。
 ロゼウスの異称は《薔薇の王子》。だからロゼウス=ローゼンティアの他に、薔薇王子の名の下に……と唱えることもある。しかし。
 ――狂気の血よ眠れ。《――》の名の下に。
 ハデスに指摘されて気づく。ロゼウスはあの時いつもの名を使っていなかった。ヴァンピルが力を振るう際に鍵となるもう一つの名前。ロゼウスにとって、その名は――。
「まあ、御託はいいや」
 ロゼウスに混乱と疑惑を与えておきながら、ハデスはその言葉で続く思考を遮った。
「とにかくさぁ、シアンスレイトに戻らないと。君がいないとシェリダンがかんかんだし」
 相変わらず全身黒ずくめの得体の知れない格好をした彼は、床にジャスパーの身体を横たえるとロゼウスに向かって手を差し伸べた。
「僕の魔術だとこれだけの人数をいっぺんに運ぶのは無理だし? できれば僕か弱いからこんな大勢の吸血鬼と喧嘩なんてしたくないし? 君が大人しく戻ってくれれば一番なんだけど」
 踏み出しかけたロゼウスを、横から細い手が掴む。
 ミザリーが首を横に振り、エリサが今にも泣き出しそうな顔でロゼウスの腕に縋っていた。
 血まみれのジャスパーを抱きとめたロゼウスの腕は血に染まっている。そんな場所を掴んだら、美しい彼女たちの白い手だって汚れてしまうのに。
「ロゼウスおにいさま……」
「行っては駄目よ、ロゼウス」
 アンリも立ち上がり、ロゼウスの目を真っ直ぐに見つめた。
「ローゼンティアのことなら、これだけ王家の人間がいればなんとかすることもできる。お前一人人身御供に保身を図ったって、ちっとも嬉しくない」
「ロゼウス兄様がこちらにいるかぎり、むしろ僕たちも他のローゼンティア人も動けません。多少の犠牲はやむなしと言っても継承順位の高いあなたがその役目を果すわけには行きません」
 本来激情家であるミカエラが冷静に事実を述べる。
「ロゼウス」
 ロザリーはただ一途に彼の名を呼ぶ。最後に末の王子であるウィルが、アンリの腰から剣を抜いた。
「そこを退いてください」
 ハデスに向けて言い放つ。ウィルはこう見えても王国内でも上位の実力者だ。年齢の都合で御前試合に選手として潜り込むことはなかったようだが、アンリより本来なら彼の方が強い。
 でも彼は優しすぎるから、本当は剣など振るいたくないはずだ。
「ウィル、お前……」
「兄様が僕たちと来れないというのなら、無理矢理でも連れて帰るだけです。そのための障害は全て、排除させてもらいます」
 朱色に近い赤の瞳に決意を滾らせて、ローゼンティア第七王子ウィル=テトリア=ローゼンティアが言い放つ。
 しかし相手は、まだ幼いウィルにとってだけでなく、ここにいる全員にとっても一筋縄ではいかない相手だった。
「へぇ? 僕に剣を向けるんだ。この帝国宰相ハデス=アケロンティスに」
「帝国宰相……!?」
 その言葉に、すでに事情を知っているロゼウス以外全員が息を飲む。フリッツ店主もハデスの顔こそ見た事はあるがそこまでの事情は聞いてなかったらしく、驚きをその顔に浮かべた。
「勝てると思ってる? 《冥府の王》に」
 余裕の漂う表情を浮かべて、ハデスは腕を組む。見かけこそ少年でも皇帝の身内である彼はその何倍もの歳月を実際は生きている。たかだか十数年から二十数年生きただけのロゼウスたちが簡単に勝てる相手ではない。
 そして。
「ハデス。その必要はない」
「ロゼウス!」
「兄様!?」
 ロゼウスはジャスパーの剣を押しとどめ、ハデスの元へと歩み寄った。本当ならまだ昨夜までの被虐の影響で歩くだけで辛いのだけれど、それでも歩かねばならなかった。だって。
 シェリダンが待っているのだから。
「……いい子だ。ロゼウス」
 ロゼウスは耳元で声を潜め、他の兄妹はともかく、フリッツの耳に入らないよう囁いた。
「初めからこうして捕まえに来るなら、何故あの時俺たちを足止めし、兄上たちに逃がさせた」
「カミラ姫のために決まっているじゃないか。ああ、安心していいよ。戻るのは君だけだロゼウス。君さえいればまだもう少し時間が稼げる」
 これは演出の一環だと彼は薄く笑う。
「カミラ殿下が国王になった暁には、ちゃんと君のことも助け出してくれるだろうさ。どうせだったらそれを待てば?」
「……あんたはシェリダンの側じゃなかったのか?」
「僕はいつだって僕の味方だよ?」
 おどけた道化の振りで笑うハデスを睨みつけて、ロゼウスは酒場を後にしようとする。ハデスは意識を失って倒れているクルスを介抱に向かい、ロゼウスは先に外に出ようとした。
 けれどその腕を、もう一度だけ掴まれる。振り返れば鏡で見る自分とよく似ていて、それでもやはりどこかロゼウスよりは線が細く甘い顔立ちの妹がいた。
「私も行く!」
「ロザリー……」
「ロゼウスだけ行かせるなんて、そんなのできない! 兄上たちの方はミザリー姉様だってミカエラやウィルだっているけど、ロゼウスは一人になっちゃうじゃない!」
 妹の紅い瞳にあるのは、真摯な心配と恐れだった。そのないまぜになった複雑な感情の根源にあるものをも読み取りながら、それでもこの手を離せない。
「……わかった。一緒に行こうロザリー」
 ロゼウスは妹の背中に手を回して抱きすくめ、そのまま兄に告げる。
「兄上、他の皆をお願いします」
「ロゼウス!」
「ジャスパーのことも」
 気絶したまま床に放り出されている弟に視線を移して、アンリがはっとする。
「今の俺は……あの子と一緒にはいないほうがいいと思うから。でもジャスパーを一人で放り出すことも出来ない。カミラのことも……」
 カミラの名前が出て、アンリはさらに顔色を変える。彼らがロゼウスたちを助けに飛び出してきたのは彼女とシェリダンが刃を交し合っていた場面だったが、やはり何か関係があるのだろうか。それともアンリたちは混乱に乗じただけで何の繋がりもないのか。
 今はまだ、大事なことは何一つ話せないまま。
「それでも俺は……」
 選んでしまった。ロゼウスは兄や姉、弟妹たちではなく彼を。
「ごめんなさい、兄様。どうか、幸せに」
「ロゼウス……!」
 回復したクルスを伴ってやってきたハデスが姫君にするようにロゼウスの腕を取る。傍らのロザリーに視線を移し、仕方ないとでもいうように溜め息つきながらも頷いた。
 魔術による移動の瞬間ロゼウスは目を閉じて、再び開けたときそこは先程の『炎の鳥と紅い花亭』からさほど離れていない場所だった。
 そして、彼がいた。

 ◆◆◆◆◆

 エルジェーベトを伴い、傷はハデスに塞がれてすっかりよくなったのを幸いとシェリダンは門衛から馬を奪って城門を出た。クルスは細かく目印となる何かを残していったために、追いつくのは簡単ではなかったが難しいわけでもなかった。ユージーン侯爵兵たちはシェリダンたちが行くまで、所在なげに指示された位置で馬と共に立っていたようだ。
「この先の酒場へ向かうそうです」
「わかった」
 途中、最後の一人から聞いたその言葉に不穏な予感を覚える。城下町シアンスレイトの酒場。さほど数が少ないというわけでもないが、酒場と言われるとあの店を思い出す。
 そしてそこの店主――フリッツ=トラン=ヴラドであればシェリダンに恨みを抱いてヴァンピルと共謀したとて何ら不思議はないのだ。
「陛下、いかがいたしました?」
「何でもない。気にするな。それより――」
 足の速いヴァンピルたちを追うのに必死だったらしいクルスは、ゆっくりとした手がかりを残す余裕もなかったようで、自らが率いていた兵を途中途中の持ち場に留まらせた。それほど多くの人数を連れて行ったわけでもなかったので、途中で目印役にする人間もつきたのだろう。最後の一人だと名乗った兵が告げた言葉から推測できる酒場は二箇所ほどある。この辺りはあの時の事件の折に調べたからわかるのだ。叔父であるフリッツに会いに行き、思いがけずロザリーと出会った。
 そのどちらに向かうべきか、エルジェーベトをもう一方に向かわせる方が良いだろうと声をあげかけたところで、馬の前に突然飛び出してきた人影に気づく。
「きゃあっ!」
 よりにもよって女!? 声に動揺したシェリダンは、翻る白髪に相手を知って胸を撫で下ろす。
「ちょっと! なんてところに放り出すのよ!!」
「ごめんごめん。ちょっとした手違いってやつ?」
「危うく死ぬところだったじゃないのよ!」
 威勢よくハデスを怒鳴りつけている女はロザリーだった。彼女と、責められているハデス、そして困った顔のクルスの影に隠れた、ロザリーとよく似た顔立ちだが髪の長さが違う少年を見つめて名を呼ぶ。
「ロゼウス!」
 紅い瞳がシェリダンを捕らえて無感動に返す。
「シェリダン」
 シェリダンは馬を降り、四人に駆け寄った。何か言いたげな様子のロザリーだが結局は口を閉じて、シェリダンをロゼウスの前まで通す。
 響く、乾いた音。
「シェリダン!?」
「シェリダン様!」
 ロザリーの驚きの声と、クルスの叫び、目を丸くしたハデスの顔。そして、シェリダンに頬を打たれて横向きに俯いたロゼウスの静寂。
「陛下」
 同じように馬から下りてきたエルジェーベトが諫めるようにシェリダンを呼んだが、視線を向けなかった。ただ一人だけを見ていた。
「この期に及んで私に逆らおうとはいい度胸だ。ローゼンティアの民がどうなってもいいのならば話は別だが」
 古い、そもそもの取引を持ち出す。
 違う。そうじゃない。ただ私は……
 だが言えない。口に上りかけた言葉を飲み込む。私が欲しいのは……だがローゼンティアの人質という立場でなければ、彼を繋ぎとめておくことはできない。それさえなくなれば、ロゼウスがこの国に生きる理由も留まる理由もないのだから……私が何を言ったところで……
「ちょっとシェリダン! ロゼウスは……」
 兄に駆け寄ったロザリーがロゼウスを庇ってシェリダンを睨む。続いていつものように怒鳴りつけるのだろうと思われたロザリーの様子が変だった。
「あんたって男は……、それだからロゼウスは……」
 何だ? 調子の違いに面食らいながら言葉の続きを待つが、彼女は悔しげに唇を噛んで押し黙った。ロザリーらしくない行動に戸惑うが、それよりも顔を上げたロゼウスの態度が気になった。
「シェリダン」
 シェリダン程度の力で打った頬など、すぐに癒えてしまう。いつも通りの顔色で、ロゼウスは短く言った。
「今回の事は、取引を知らなかった他の兄妹が起こした事。俺の意志じゃない」
「ならば」
「俺は、あんたのもとを離れる気はない」
 その深紅の瞳は、やけに冷静な眼差しで告げた。思わずこちらの姿勢が崩される。勢い任せに頬を叩いたはいいものの、その後の行動が出てこない。本当なら取引を破棄したとも言えるロゼウスの行動に対して、自分はもっと責めるはずだった。責めなければならないはずだった。
 シェリダンを厭わしく思い、泣いて拒絶するロゼウスを腕が抜けるようにでも無理矢理引き戻して責め苛まなければならないはずだったのに。
「……他のヴァンピルは?」
「アンリ兄上……アウゼンリードが連れて行った。残ったのは俺とロザリーだけ。これじゃ不満?」
「……ああ。不満だな。本来なら甦った王族は片端から捕らえて処刑するものだ。お前らはどうせ甦るのだから監禁という形にしているが、本来ならあの逃げた二人と、試合に潜り込んでいた三人ともども捕らえねばならないんだ」
「逃げたのは三人。ジャスパーがいるから」
「ああ、そういえばそうだね」
「!?」
 第六王子? 地下牢に監禁したはずのあのガキまで脱出したのか? あっさりと頷くハデスに怒りの方向を転換し、シェリダンは少年姿の帝国宰相を睨む。
「ハデス。これはどういうことだ? あっさりと逃がしたくせに、何故今ここにいる?」
「やだなぁ、シェリダン。君がこうしてちゃんとロゼウスを迎えに来れるよう向こうさんを足止めしに行って、首尾上場で攫われたお姫様を連れて帰ってきたところじゃないか」
「何故、先回りができた? 私が城を出たときにはあの場にいたはずだろ」
「瞬間移動術があるもん」
「だったら何故……!」
「僕が言い出す前に君が行ってしまったんでしょうが」
 飄々とこちらの問いをふざけてかわすハデスにこれ以上つきあっていたら日が暮れる。どうせこの男は、元からロゼウスを逃がす気などなかったのだろう。シェリダンが負傷し、隣国の人質であり王妃たる人物を奪われる失態を見過ごすくらい、冥府の王にとっては娯楽の一つに過ぎないのだろう。
「あ、あの……シェリダン陛下。申し訳ありません。自分は役に立たず、宰相閣下が全てを成し遂げてくださった次第です」
「クルス……お前、怪我は?」
「いいえ。これは……ジャスパー王子の身体についていた血です。何人か殺したという話が本当なら、城で被害が出ているのやも……」
 犠牲者は牢番か警護兵かその他の使用人か。シェリダンは舌打ちし、クルスは押し黙る。ロザリーは口を開くのを躊躇う様子で、ハデスは得体の知れない笑みを浮かべて成り行きを見守っている。
 シェリダンはロゼウスを見つめた。こんなことがあったのに、やけに冷静なロゼウスを。
「元はと言えば、人質であるお前がその役目を放棄して拉致されるのが悪い」
 おかしいことを言っていると頭ではわかる。だが、今はきちんとした言い回しが出てこない。ロゼウスを連れ去ったアウゼンリード。先程のロゼウスの口ぶりとあの様子からするとローゼンティアのアンリ王子であるらしい彼がロゼウスたち観覧席にいたヴァンピルを攫ったのは周到でいて、救出される本人たちには知らせていない秘密の計画だった。ロゼウスが素直に頷いて彼について行ったようでは、この様子ではないようであるし。
 もしもそうであったとしてもなかったとしても。
 何故、戻ってくる必要がある。お前は私を憎んでいるはずなのに。
逃げたいと常に思っていても、本当に逃げても責められるいわれなど彼にはない。取引など一方的なものであり、シェリダンが約束を守る保証もない。民の安全などには無責任な国主だって大勢いる。
 このやりとりは何もかもが滑稽で不合理で理不尽。
 それを彼だってわかっているだろうに……。
「陛下……とりあえずは王城に戻りませんか?」
 エルジェーベトの言葉で、シェリダンたちは自らが往来で立ち尽くしていることに気づいた。シェリダンはロゼウスを抱き上げ、ロザリーがそれを支える。
「ちょっと待ったシェリダン王。僕が送るよ」
「では馬はクルス、お前が連れて帰れ」
「はい、かしこまりました。僕が乗ってきた馬は閣下が帰してくれましたので」
 ハデスの瞬間移動という便利な術を最大限活用して、王城に戻る。クルスとエルジェーベトはこれまで道標に立っていた兵たちに声をかけて城に戻るという。
 抱き上げたシェリダンの腕の中で、ロゼウスは身じろぎもしなかった。


086

「どうしてちゃんと引き止めておかなかったのよ! あなたあの人の兄でしょう!?」
 怒られた。
「ああああ。こんなことならシェリダン抹殺なんて後にしてさっさと私がこちらに回ればよかったわ! ロゼウス様――!!」
 というか、何故自分がこの人に怒られているんだろう……。
「ねぇちょっと、あんた誰ですか?」
「見てわかりませんか? さっきの御前試合でシェリダンと戦った相手ですけど?」
 不機嫌なカミラは、同じく不機嫌なミカエラを睨み付ける。あの後、人が集まり始めた『炎の鳥と紅い花亭』からアンリたちを連れ出したのはこの王女殿下だった。正確には王妹殿下か。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 明らかにエヴェルシード人であり、さらに困ったことにはフリッツ店長とは別の意味でシェリダン王に良く似たこの姫が現れて、他の兄妹たちは度肝を抜かれていた。他の兄妹というよりもまずアンリ自身が驚いた。
 彼女が連れであるもう一人のエヴェルシード人の青年と共にアンリたちに用意した隠れ家は破格の待遇だった。隠れ家というか、貴族の屋敷の一つだろう。それを裏付けるかのように、カミラ姫の隣にいる男は御前試合で見た顔だ。
 ジュダ=キュルテン=イスカリオット伯爵。
「一つ聞いていいか? あんたはシェリダン王側の人間じゃなかったのか?」
「さぁ? 私はいつだって私の利益のためにしか動きませんよ」
 この青年はエヴェルシード貴族の中でも、特に国王の側近だったはずだ。国内で一、二を争う財力と領地を持つイスカリオット家。不祥事によって公爵から伯爵に降格されたらしいが、それでも普通の貴族の何倍もの権力を握っている。落ち目などと言う言葉も出ない。
「イスカリオット伯、ここの屋敷は自由に使えるの?」
「ヴォルテス子爵とは話がついています。どうせ私もこうなったからには何だかんだと王城に呼ばれるでしょうし、その際にクルス君……ユージーン侯爵との連携を求められるでしょう。彼の領地に近いここを別荘の一つとして利用する事はすでに申請してありますし、ちょうどよくバートリ公爵もリステルアリアに移動したところですから、さほど目立たなくてすみました」
「そう。では、ローゼンティア王族の皆様にはここを使っていただけばよいのね」
「ええ。というか皆様だけでなく私たちもしばらくはこちらに留まりましょう」
「あえてイスカリオット領より王都に近い土地を選ぶなんてね」
「灯台下暗しというやつですよ」
 彼らは簡単に言ってくれるが、この屋敷は相当なものであるし、アンリたちの人数も相当なものだ。
 ローゼンティアの王族、第二王子であるアンリと、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラ、第七王子ウィルに、第六王女エリサ。
 そして吸血の狂気から毒気を抜かれてまだ昏々と眠り続ける第六王子ジャスパーの六人がカミラとイスカリオット伯爵ジュダ卿の案内でエヴェルシード王都シアンスレイトに隣接した街、リステルアリアに留まっている。
「バートリ公爵はわざわざ領地内の他の貴族の屋敷なんか訪ねないでしょうし、ひとまずは安心でしょう」
「安心も何も、あそこでさっさとシェリダンを殺してしまえば話は早かったではないですか。どうして私を止めたのですか?」
「文句はあの人とハデス卿に言ってくださいよ。あなたを一度止めてもう一度ロゼウス王子を返すよう指示したのはあの二人ですから。ですが、カミラ姫。シェリダン王を殺すことに関しては、私との契約違反ですよ」
「どうでもいいじゃないあんな男」
「あなたにとってはまあ殺したいほどにどうでもいい相手でしょうが、私にとっては違うのですよ」
 ……カミラとジュダのやりとりは、アンリたちにはついていけないものだった。駄目だ。貴族なんてのは皆多かれ少なかれ建前と本音を使い分けて権謀術数のやりとりをするものだけれど、この国は酷すぎる。王もその死んだはずの妹も一番の財力を持つ伯爵家も、彼らに関わる帝国宰相もみんな私利私欲で動いているではないか。
 彼らの辞書には「国のため」や「国民のため」なんて言葉はないのか。
「アンリ兄様……」
 隣に座ったミカエラが不安そうにアンリの服の袖を握る。別の長椅子にはミザリーとウィル、エリサの三人が座っていて。ジャスパーは別室に寝かされていた。あの子には後で話をしよう。
 それよりも今は、この二人とのやりとりだ。
「……本題に入りたい」
「ええ。いいですよ。まずはどのお話からいきましょうかね」
 ジュダの隙のない身のこなしに戦慄しつつ、アンリは言葉を紡ぐ。戦ったら勝てない相手。しかし、ドラクルはもちろんロゼウスにだってウィルにだって敵わないアンリの武器は剣じゃない。
 知略王子の名の下に。考えるんだ。アンリの思考は人に指摘されるとおり、腹の探りあいには向いていない。それでも他者の心を読み取ることには長けている方だ。ずっと何を考えているのかわからない人もいたけれど。
「あなたたちは何を求めている? 何故シェリダン王から離反して俺たちを助ける? あなたたちにとって、この国は何で、俺たちの国は何だ?」
 何が目的なんだ? 教えてくれと頼む。頭を使うと決意した瞬間これかと自分が情けなくもなるが、それでもアンリたちには情報が少なすぎる。
 そして、少ない情報がただそれだけだと合点するには早すぎる。
 ここにいるのがエヴェルシード人であるカミラとジュダだけなら、あるいは納得できるのかもしれない。アンリたちローゼンティアの吸血鬼は隣国の揉め事に巻き込まれて、全ては領土と国力を巡る駆け引きの一つに過ぎないと。しかし、それだけでは終わらない何かを今回のできごとは秘めているのだ。
 その可能性を示すのは――帝国宰相。
 アケロンティス全土の治安を維持し、皇帝を補佐するのが勤めである彼が何故こんな、皇帝領薔薇大陸から最も遠い場所に位置するローゼンティアとエヴェルシードの諍いなどに顔を出す。ローゼンティアはエヴェルシードよりも弱いから負けた。よくある戦争の勝利国と敗残国との力関係。それだけならば、帝国宰相が顔を見せる理由などない。
 何かが。
 アンリたちがまだ誰も知らない、もっと重要な何かが隠されているはずだ。
 それを、目の前の二人に問う。姿勢を正して長椅子に腰掛け、真っ直ぐに相手の顔を見る。
「あなたたちは何を知っている?」
 ぴくり、とジュダが眉を揺らした。カミラはそちらも訝しげに瞳を眇めるだけでたいした反応はない。辺りは男の方か。
「私たちはただ――んぐっ!」
「殿下?」
 ただ自分たちの欲のために動いてるとでも言おうとしたのか、アンリの質問をあっさり切り捨てようとしたカミラが突然口元を覆って立ち上がった。
「も……申し訳ありません。ちょっと、気分がわる……ぐっ」
 かなり具合が悪そうな彼女の顔色は真っ青だった。
「洗面所は部屋を出て右です。この部屋の隣についています」
 ジュダの指示に礼を言う余裕すらなく、彼女は駆け出して行った。
 慌ただしいその後姿を眺めながら、ジュダが何事か考え込む様子だ。
「まさか……」
 だが彼はすぐにそちらから思考を切り離した様子で、アンリへと向き直った。
「さて、姫がいない間にこちらはこちらで話を進めておきますか」
「ってことはやっぱり、あんたはあのお姫様よりは何かを知ってるわけだ?」
「そうでもありませんよ。僕が知ってるのはただ一つだけ。それ以外はただ単にあの二人の尻馬に乗っていると言われても仕方のない、ただのついでなんですよ。自分たちのそれぞれ欲しいものを手に入れるために、利害の異なる人々がそれぞれ手を組んだというわけです」
 そう言うと彼は、憐れむような、蔑むような眼差しをアンリたちローゼンティア王家の兄妹に向けた。
「あなた方は何も知らないのですね」
「どういう意味だ?」
「そのままの意味ですよ」
 得体の知れない笑みを浮かべて、ジュダは口を開く。
「ローゼンティアを滅ぼしたのは、シェリダン様の望みだと思っているでしょう?」
「当然だ」
「違いますよ。確かにあの方は戦争がしたかった。何かを破壊して搾取・略奪して血を求めた。でもそれが別にローゼンティアである必要性など、この国にはどこにもないのですよ。むしろ吸血鬼なんて扱いに困るだけで植民地化してもろくな利益もない」
 鼻白むアンリたちに、彼は言った。
「あの国を本当に滅ぼしたかったのは、あなた方の兄上――ローゼンティア第一王子、ドラクル殿下ですよ」

 ◆◆◆◆◆

「陛下!」
「陛下! 首尾はどうなりましたか!?」
「あのヴァンピルたちは!?」
「カミラ殿下のことは!!」
「シェリダン陛下……」
「どうかお答えを……」
 城に戻ると、廊下ですれ違うたびに言葉をかけてくる臣下の兵や大臣たちの声が鬱陶しい。湯殿に直行しようとしたところを、先程の騒ぎの収束を求めた人々に捕まった。事後処理に追われているうちにクルスとエルジェーベトも城の方へと戻り、中途で終了してしまった御前試合会場の片付けが終わったと思ったら城内で成り行きを見守っていた輩からの質問攻めだ。ああ、苛々する。
「煩い!」
 遂にその感情が爆発した時、シェリダンの叱責を浴びたのは牢番だった。地下牢から例の第六王子が逃げ出したらしい。それはそれで問題だが、今は他のヴァンピルだって逃げ出してここにはいないのだ。どうせ彼らの元へ向かったのだろう。だからそれがどうしたという。
「陛下。どうかお気を鎮めて。苛立つのはわかりますがここで踏みとどまれなくては臣下の信用を失いますよ」
「シェリダン様……」
 エルジェーベトに諫められ、クルスに気遣いの込められた瞳で見つめられて多少冷静になった。
「ああ……」
 そうだ。思い出せ。
 私は王だ。この国の主。私がしっかりせねばエヴェルシードは成り立たない。
 先程怒鳴りつけた兵士に改めて言葉をかけ、指示を与える。
「すまなかったな。今のはただの八つ当たりだ。気にしないでくれ」
「陛下」
「牢から逃げたヴァンピルに関しては、追う必要はない。目的はわかっているから、すぐに害になるわけではないとわかっている。それよりも地下牢の処理と、殺された兵の遺族たちへの救済措置を頼む……ユージーン侯爵」
 牢番の兵を下がらせてユージーン侯爵クルスの名を呼ぶ。
「はい」
「バイロンと共に、今日のできごとを調査し、明日の朝までに報告書を纏めて提出しろ。カミラのことも、これまでの潜伏先や現在の居所、それに協力者をできる限り探り出せ」
「御意」
「陛下、わたくしは手伝わずともよろしいのでしょうか?」
「バートリ公爵、お前も本日は私と同じように傷を負った身。帝国宰相の厚意で怪我こそ癒してもらったとはいえ、無理はするな。十分に休養をとった後は逃げたヴァンピルたちの捜索を依頼する」
「かしこまりました。お気遣い感謝いたします」
 二人を下がらせてロゼウスと共に浴室へ向かう。シェリダンもエルジェーベトと同じく怪我をした身で、着替えることもなかった服はその時の血に汚れたままだった。そして怪我こそないものの、ロゼウスの服も何故か血に濡れている。詳しいことを聞き出すのは後にして、とにかく身を清めようと湯殿に足を踏み入れた。
「陛下、お手伝いしましょうか?」
「ローラか」
「はい、ロザリー姫の方にはエチエンヌが。……まぁ。ロゼウス様、お怪我を?」
「いや、これはロゼウスの血ではないそうだ。細かい事情は後回しにして、今は身を清める。お前は替えの服と寝台の準備を」
 ローラは何かを察した様子で、行儀よく一礼すると姿を消した。シェリダンは何も言わずについてきたロゼウスの服を脱がせる。自分も衣装を脱ぎ捨てて湯殿に踏み込んだ。
「ロゼウス」
 名を呼んだ声に反応して振り返った彼の唇を奪う。
「ん……!」
 滑り込ませた舌を引き抜き、口づけから解放すると薄く涙を浮かべた紅い瞳がこちらを見つめていた。戻ってきてからようやく、彼がこちらを向いたことにようやく安堵を覚える。
「……」
 乱れた息を整えた後はまた何も言わなくなるロゼウスの肩を抱いて、浴槽の縁へと連れて行った。
 白銀の頭に桶で汲んだ湯を被せる。洗髪料を手にとって、まずはさほど汚れていない髪から洗ってしまう。ロゼウスのものも、自分のものも。
 身体を洗う番になり、傷がないか確かめるように慎重に、白い肌をなぞった。シェリダンの傷はハデスの得体の知れない術によって完璧に塞がれており、痕も残らない。
 ハデスか。そう言えば、彼の行動も不審と言えば不審だった。だが彼については行動を調べようにも、権力的にも能力的にも向こうの方が上等すぎて嗅ぎまわる手段がない。
 それについてはとにかくまた、今回のことが収まってからだと思考を切り替える。突如御前試合に乱入した、死んだはずのカミラのこと。ロゼウスたちを攫っていったヴァンピル。そして。
 一度は兄妹に救出されながら、何故かこうして戻って来たロゼウス。
 お前は一体、何を考えている? ぼんやりと夢うつつのような眼差しでシェリダンの手に身を預けるロゼウスを見る。
 その表情はあのヴァートレイト城での一件以来癖になったような、憂いの色を宿している。
 湯の中で長居してはのぼせるだけだと、身体を温めた後はローラが持ってきた着替えに袖を通してさっさと湯殿を後にした。
「ロゼウス……」
 既に夕刻と言える時間帯も過ぎ、しっかり夜となっている。晩餐の時刻はとうに過ぎているがこれから何かを食する気にもなれない。シェリダンは部屋の入り口に立ち尽くしているロゼウスを寝台の上に手招いた。
 彼は痛みを堪えるように眉を顰めて歩み寄ってきた。
「まだ身体の調子でも悪いか」
 尋ねるシェリダンに、ロゼウスは首を横に振る。城に戻ってから彼はシェリダンのやりとりをぼんやりと眺めるばかりで、何も言わない。思わず、強くその腕を引いて寝台の上に引き倒した。
「あっ!」
「ふん。声は出るようだな。何故何も言わない」
「俺は……」
 覇気のないロゼウスの口調を耳にして、浴室で清めたばかりのその身体を寝台に押し倒す。
「シェリダン……」
「どうやら、仕置きが必要らしいな」
 襟を引き摺り下ろし、あらわになった鎖骨に赤い痣をつけるようにきつく吸う。小さな痛みに顔をしかめるロゼウスを見下ろしながら、シェリダンは問いかけた。
「答えろ、何があった」
「兄上……第二王子が、第七王子のウィルと、第六王女のエリサを連れて御前試合に潜り込んでた。俺たちを助けに来たって……」
「カミラのことは?」
「兄上は……何も……」
「何故戻って来た?」
 シェリダンにとってはこれが一番……カミラのことよりも、重要な問いを向けるが、ロゼウスはそこで躊躇うように押し黙った。
「答えろ、ロゼウス」
「それは……」
「それは?」
 馬鹿なことを。こんなことを問いただして何になるのか。国民の命を人質にとって脅している彼がシェリダンの元へ戻ってくる理由などそれに限られているだろうに。それでも都合の良い言葉を期待している。
 けれどロゼウスは答えず、シェリダンは自らの苛立ちを抑えられずに彼の頬をまたはたく。下町で合流した時も合わせてこれで二回目。
「理由はどうであれ、お前が私を裏切ったのは確かだな……その代償は、支払ってもらうぞ、ロゼウス」
「……」
 頬を紅くしたロゼウスは動じず、彼の身体に馬乗りになったシェリダンを見ている。その深淵のような紅の瞳を見ていると、眠っていたはずの嗜虐心が湧いてくる。
 もう駄目なのだ。今までのようなやり方では。だから。
「今度はローゼンティアから民を一人ずつ連れてくるか」
「……え?」
「お前が私を裏切るならば、目の前で一人ずつ切り刻んで殺していく」
「なっ……!」
 さすがのロゼウスもこれには驚いて言葉をなくし、勢いよくシェリダンの胸倉を掴んだ。体勢としてはシェリダンが彼の上に乗っているのだからさほど脅しの効果もないが、見下ろす先の紅い目は怒りに燃えている。
「ふざけるな。民は関係ないだろう。俺はあんたとの約束どおり、ここに戻って来た。それで十分なはずだ!」
 ああ、やはり民のためか。
「お前こそ思い上がるな」
 それならば別にそれで構わない。当初の目的を思い出せばいいのだ、私もお前も。
「お前は妃と言う名の奴隷で、人質で、ただの敗戦国の肉人形だ。目の前で無辜の民が死ぬのを見たくなければ、二度と私を裏切るな。私を怒らせるな」
「シェリダン……俺は……」
 どこか苦しげで切なげな様子の彼を封じて、シェリダンは言った。
「お前に感情などいらない。ただ絶望して私のそばにいろ」
 告げて、言葉の続きは奪うように荒々しく口づけた。着替えたばかりの衣装を引き裂いて、その身を犯す。
 溺れる。もはや一瞬たりとて離れることは耐えられない。その瞳が自分の方を向く事はなくとも、せめてこの身体だけは掌中に収めておかなければ気がすまない。
 私のロゼウス。
 他には何もいらない。以前はあれほど滅ぼしたかった世界にも、今は手を伸ばすのが億劫だ。考える事が面倒で、王という地位も破滅と言う名の野望も全てを投げ出したくなる。
 この瞬間を永遠にするためならば、世界の何もかもが消えてしまえばいい。