077

 さあ、行っておいで。
 これはあなたのための舞台だ。

「……ちょっと、そこのあなた」
「はい?」
 彼女は自分のすぐ横を通り過ぎようとした一人の青年を呼び止めた。何かしたのだろうかと目を瞬かせて返事をした彼が不思議に思う間に、声をかける。
「少し、向こうで私とお話しませんか? 大事なお話があるのです」
「え!」
 彼女の言葉に彼は周囲の耳目まで集めるような狼狽した声をあげ、彼女はそっと唇に人差し指を当ててみせる。ハッと我に帰った彼が人々からの冷たい視線に困惑して慌てふためくところを、さぞ救い主のように手を引いて奥へと連れ込む。
 御前試合の間、シアンスレイト城の一階は一般市民や出場者に開放されている。王族の住居や会議室、客室の存在するそれより上の階と地下牢へ続く通路前は兵士によって警護されているけれど、一回部分だけなら好きに使っていいわけ。
 そしてこの城は彼女にとって庭のようなもの。人目につかない場所など簡単にわかる。青年の手を引いて、有無を言わせず中庭にまで連れ込んだ。
「あのっ!」
 芝生へと足を踏み入れたところで、彼はようやく彼女の手を振りほどく。人目から逃れたい気持ちと彼女から逃れたい気持ちの両方を考慮した結果、ここに来てから手を離せばいいという結論に至ったらしい。
「俺は……用がありますので」
 無視して去るのもなんだと思ったのか、簡単に言葉を口にして踵を返そうとする青年の横顔に彼女は愛しい人の微かな面影を重ねながら言った。
「ロゼウス様を探しに行くのですか?」
「えっ!?」
 途端、こちらが驚くほどの素早さと形相で青年が元通り振り返った。彼女の肩を強く掴んで、憚ることなく大声で問いかけた。だから人目のない場所へ行きたかったのだ。
「ロゼウスのことを知ってるのか!?」
「ええ、知ってるわよ。アンリ王子殿下」
 教えた覚えもそのはずもない名前が彼女の口から飛び出たことに驚いて、ますます彼は彼女の肩を強く掴む。
「なっ、どっ……!」
 何故。どうして。
「痛いわ。その手を離してくださらない?」
 告げれば案外にあっさりと引く人の良い王子は、彼女の顔をまじまじと見て、当惑を隠せない様子で尋ねてくる。
「あ、ああ。済まない。だけど、君は……?」
「私は、カミラ」
「カミラ……? だが、その名前、エヴェルシードではありふ―――!?」
 確かにカミラはエヴェルシードではありふれた名前だ。男子の王族の名前はその人が生まれてから死ぬまで使ってはいけないと定められているけれど、女子に関しては関係ないから、王家の姫の名を市井の人々がつけるなどよくあることだ。
 けれど、彼女のこの容姿。
 そして、この顔立ち。
「濃紫の髪と黄金の瞳を持つ姫、エヴェルシード第一王女、カミラ=ウェスト=エヴェルシード姫」
「ええ」
 不本意ながら、カミラは兄に似ている。ぱっと見ではわからなくても、雰囲気が似ているそうだ。そしてこの王子はエヴェルシードのローゼンティア侵略の際、シェリダンの顔を見ているはずだから。
 アンリ王子は幽霊でも見るような顔でカミラを見つめている。
「カミラ……姫? 本当に? だってあなたは、死んだはずでは――」
「ええ、そうよ。死んだわ。あなたと同じように」
「俺はこれでもヴァンピルだ。だが、あなたは人間……」
 いいかけて彼は気づいた。カミラの纏う異様な気配に。
「人間じゃないのか……? ノス、フェラトウ……いや、違う、ほぼ完璧な蘇生……こんな術誰、が……」
 口にしかけて彼は気づく。
 髪こそ蒼く染めているけれど彼はロゼウスの兄で、瞳は多少橙色が強いけれど赤く、耳は隠しているけれど尖っているはずで。
「まさかそれ……ロゼウスが?」
「ええ。言ったでしょう、王子殿下。私はあなたと同じだと」
 ローゼンティア王家の王息、王女たちは一度殺されてまた甦った。カミラも彼らと同じようなものだ。一度は死んだのに、ロゼウスの力のおかげで生き返る事が叶った。
「だが、何故エヴェルシードの姫君をロゼウスが……」
「隣国の誼で聞いたことはございませんでしょうか? 私はシェリダンの不倶戴天の敵です」
「ああ――そう言えば、仲が良くないようだとは聞いたことがある。もともとシェリダン王は男子でありながら正妃の血を引かない庶民を母親に持つ子ども、正妃の血を引くのは次の子ども、だがこちらはあの男尊女卑国家エヴェルシードで生まれた女。憎みあって当然だろうと」
「ええ。私はシェリダンが嫌いです。むしろ、あんな男死ねばいいと思っているわ」
「……それとロゼウスと、どういう関係が」
「おわかりになりませんか? ロゼウス様は無理矢理この国に連れてこられたお方……我が兄の外道によってあんな目に遭わされてなお、民を人質にしては逃げることも叶わぬ……私にとっては、大切な同志であり、何より大切なお方です」
 ロゼウス様。薔薇の王子様。
 あのような目に遭ってなお、私はあなたを……。
「ロゼウス様が、私を生き返らせてくださいましたの」
「なるほど……だが、実際にあなたの葬儀はあげられている」
「ええ。でもそれは、すべて兄を欺く策略……私は二度死に掛けたのです。一度目はロゼウス様が甦らせてくださいました。二度目はその時のヴァンピルの力の影響により、毒を含んだはずなのに死にきることはありませんでした。……二度目に関しては、ロゼウス様も知りません。あの方はまだ、私が死んだと思っているのかも……」
 ここまで言ったことは全て真実。他人に嘘をつくコツは、それに幾割かの真実を混ぜることだと。カミラはドラクルに言われた通りにそうして、アンリの協力を得ようとする。
 何故彼の名を直接出してはいけないのかと聞いたのだが……ドラクルは、第二王子殿下とは仲があまりよろしくないのですって。歳の近い男の兄弟などそんなものなのか。とにかくドラクルが関わっていることを知ったらアンリは逆に警戒するかも知れないから、カミラだけで行った方がいいのだと。
「それで、あなたがロゼウスと知り合いであることはわかった。だが何故、俺の名を知っている? それもロゼウスが話したのか?」
「ええ。簡単に説明を聞いたことはあります。けれど、それだけではありませんわ。ロゼウス様救出のために、もう一人動いていらっしゃる方がいるのです。その方から」
「……それは誰だ? 名前は」
「それは……」
 カミラはいかにも秘密めいて、彼の耳元にその名を囁いた。
「ええ? ……なんで、そんな人が」
「彼もまた、ロゼウス様に関わった一人ですから」
 カミラの告げた名に盛大に訝りの表情を浮かべながら、それでも大切な弟を助け出すためには手段を選んでいるわけにはいかないのか、アンリは疑わしきながらも頷いた。
 カミラは彼とまた二言三言話、計画を詰める。
 ロゼウスを救うための計画を。
「……一つだけ、聞きたい」
 計画を話し終わったところで、いまだ戸惑いながらも自らの心を宥めたらしきアンリが真っ直ぐな眼差しで問いかけてくる。
「あなたの目的が知りたい。いくらロゼウスに恩義があるとは言え、エヴェルシード王族の者がそれだけで動くとは思えない」
 人間なんて所詮私利私欲の生き物。それをわかっていて言う彼の言葉に、不思議と悪い気はしなかった。むしろ、人が良さそうな見た目よりずっと内面は周到でカミラが思っているよりもずっと彼は賢いのだと知る。
「その通りよ。私はただ、ロゼウス様に恩義を返すためだけに動いているのではないわ。もちろんそれも大きな理由だけれど、それに加えてもう一つ大きな理由があるわ」
「その理由は?」
「私は、シェリダンと不仲で、彼に殺されかかった妹姫」
 異母兄であるシェリダンが玉座にいるかぎり、カミラに未来はない。
「だから私がこの国に戻ろうとするならば――シェリダンを殺し、ロゼウス様を取り返してあなた方ローゼンティアの後ろ盾を得るぐらいしかないのです」
「……与えた分は貰うってことか」
「ええ」
 アンリは頷いた。
「わかった。ひとまずあなたの話を信じて、ロゼウスや他の兄妹の救出と打倒シェリダン王に努めよう」

 ◆◆◆◆◆

 それは馴染みのある気配だった。
「あ、王妃様!?」
 廊下で行き会った侍女の驚きも無視してロゼウスは城内を走り回る。身体的には限界だけれど、動かずにはいられなかった。
「……どこだ……?」
 疲労と痛みのせいで、感覚が鈍っている。この御前試合の間そこかしこで感じている知り合いの気配。でもあれは、あの気配だけは異質で……。
「どこ……?」
 ヴェールをつけたままでいるのは、救いなのか煩わしいだけか。走り出した体が生む風になびくそれを鬱陶しく思い、でもこれのおかげで一瞬すれ違った程度の相手からはロゼウスの表情がわからないに違いない。
 今のこんな顔、誰にも見られるわけにはいかない。
「あっ」
 階段で躓きかけ、慌てて体勢を立て直した。石壁に爪を立ててしがみつき、傾いだ身体を支える。後を追いかけてくるような自らの足音が病んで、耳障りな呼吸音だけが耳についた。
 一度足を止めてしまったらどっと疲労が来て、ロゼウスはその場に崩れ落ちる。忘れていた痛みが全身に襲ってきて、立ち上がるのも億劫だ。これからまたシェリダンたちのいる部屋に戻らなければならないというのに。
 それに、その前に、確かめなきゃ……。
「カミラ……本当に、君なのか……」
 ふと感じた、一瞬の気配。やわらかな花の香りと共に。
 でも彼女は死んだはずだ。
 自分が殺した。自分とシェリダンが。
 でも、ならばどうしてこの気配は……。
 自らの感覚と記された事実と、二つの言葉がぐるぐると頭の中を回っている。
 何か……何か自分は、カミラについて重要なことを忘れているような。
「あぁあ……」
 全身の力が抜けて、起き上がれない。城の階段の途中に座り込む。動きやすいよう膝程度の長さに調節されたスカートをぐしゃぐしゃに身体の下に敷いてしまう。この辺の不器用さが、ロゼウスが顔は女っぽいのに性格は全然そうじゃないと言われる理由なのだろう。
 本当に女の子っぽいというのは……。
 カミラ。
 ロゼウスの初めて恋した少女。シェリダンの妹。エヴェルシード王妹殿下。
 ロゼウスは、彼女の事が好きだった。あのふんわりとした笑顔と闊達な口調、きらきらと輝く金色の瞳に魅せられた。夜毎ロゼウスを犯して苛む、シェリダンの骨ばった体じゃなく、カミラの抱きしめると壊れてしまいそうなほどやわらかな体を求めた。
 しかし、だからこそ、ロゼウスは何度あの時に戻っても、あの通りの選択をするのだろう。
 シェリダンの命じるがままに、自分はカミラを犯しただろう。ローゼンティアの民の命を手に取られて、仕方なく? 違う、だって俺は、自分が彼女を手に入れるにはそれしかないから……。
「あ、ははは。あははははは……っ」
 永遠に振り向いてもらえないならぼろぼろに犯してずたずたに引き裂いて壊してしまえばいい。
「俺に怒る資格はないんだ」
 拷問部屋に閉じ込められて彼の考えつくままの責め苦を味わわされても、シェリダンを糾弾する資格なんてロゼウスにはない。
「だって俺は……あんたと同じだから」
 手に入らないのならば壊してしまえとカミラを犯す共犯者となり、ローゼンティアにいた頃だってドラクルを押し倒して一緒に死んでと詰め寄った。
 なのに今更、シェリダンのしたことを拒絶するだけの資格なんて自分にはない。
「……戻ろう。戻らなきゃ」
 笑いの発作が止まらない。それと同時に薄い黒レースのヴェールが濡れていく。
「一緒に死んでやるって言ったんだもの……」
 シェリダンにそう約束した。
 ロゼウスは彼を愛してはいないし、一生愛することはない。だけれど、たった一滴、この流れる涙ほどに彼に捧げられる穏やかな感情があるとすれば、それは、あの約束が示すものだと。
 ロゼウスは、花嫁として彼に寄り添う。病める時も健やかなる時も絶望する時も希望を知る時もあんたの側にいると……。
「大嫌い……シェリダンなんか大嫌い……」
 ドラクルに言われたとおり、ロゼウスは彼を通して自分に都合の良い夢を見ていた。
 シェリダンとドラクルは、全てが同じと言うわけではないけれどどこかがやはり似ていた。それが王族の世継ぎの王子として育てられた者に特有の感覚なのか、それとも別の共通項が二人にあるのか、そんなことまではロゼウスにはわからない。
 けれどシェリダンは、ドラクルに似ていた。彼に抱かれていれば、ドラクルを思い出した。殊更目を瞑って兄の顔ばかり思い出していた。肝心な時に兄の名を呼ばないよう、必死で声を殺していた。
 シェリダンだってそれはわかっているのだろう。だから、あんなにもひっきりなしに囁くのだ。《愛している》と。
 彼がその意味を知らなかった頃に戻りたい。シェリダン自身もそれを願っている。彼はロゼウスにとっての敵で、ローゼンティアはエヴェルシードに侵略されてロゼウスは人質と言う名のシェリダンの玩具となるべくこの国に連れてこられて、だから遠慮なく彼を憎みながら、その腕の中でドラクルのことを考えることができた。
 ロゼウスがドラクルの名を出すたびに、シェリダンが狂っていくことにも気づかずに。
「大嫌い……でも、ごめんなさい……」
 ごめん。ごめん、ごめんね。シェリダン。
 俺はあんたを愛せない。あんたを憎むことはできる。好きになることだってできる。でも愛する事はできない。
 友人のように愛せるほどには、あんたに親しくしすぎた。でも、あんたが望むほどの激情は返せないんだよ……シェリダン。
 だから殺してくれればよかったのに。
 ――何故そのまま、その刃で私を殺さない。
 ――殺しても、お前は私のものにはならない。
 ――……もういい。何をしても、殺してすら、お前は手に入らない。その命も身体も私のものなのに……永遠に私のものには、ならないのなら……。
 ああ、そうか……こんな滑稽なやりとりを、自分たちは幾度も繰り返したんだった。
 一度前に言った言葉を、ロゼウスはすぐに忘れてしまう。言葉なんて所詮何の意味もないから。
 誰だって、欲しいのはいつもただ一つだけだ。けれどそれが手に入らない。
 それを手に入れるために手を変え品を変え求め続けるのだけれど、やっぱり手が届かない。
「カミラ……!」
 もしもロゼウスの全ての中で彼女が何にも比類ない位置にいたのだとしたら、ロゼウスはこの足が折れても、彼女の気配を求めて駆け出していった。辿り着いたそこで血を吐いて力尽きても構いはしない。
 けれど、戻らなければいけないんだ。
 エヴェルシード王妃ロゼとして、自分はシェリダンの隣に戻らなければいけない。
 ふと、カミラの気配が城内から消えた。もともと以前とは微かに別の感じを纏っていたそれを、弱った今のロゼウスでは嗅ぎわけることができない。この広い城内の外に一歩出てしまえば、もう彼女の居場所はつかめない。
 その代わり、耳には足音が届く。
「……ロゼ様?」
「……イスカリオット伯?」
 長い蒼い髪を動きやすいよう一つに束ねた、ロゼウスより十歳ほど年上の伯爵の姿が階段の踊り場の下にあった。
「どうしたんです? 階段の途中で一休みしなければならない程のお歳でもないでしょうに」
 城内は基本的に立ち入り禁止だが、御前試合の間は一階部分だけ解放されているらしい。それより上は王族の住居や会議室があるから立ち入り禁止だが、イスカリオット伯爵相手なら顔パスだろう。
 ロゼウスの側まで階段を昇ってきたジュダは、ヴェール越しにロゼウスの頬を流れるものにも気づいたらしい。見る見るうちに不機嫌な顔つきになって、座り込んだロゼウスをさらに乱暴に突き飛ばす。
「こんなところで涙なんか浮かべて? 何がご不満なんです? 王妃様。あれほどの寵愛を我らが陛下から受けておられながら」
 階段の段差のせいで、ただの床に叩きつけられるよりよほど体が痛い。ジュダはさらに打ち伏したロゼウスの胸倉を掴んで顔を上げさせ、ヴェールを剥ぎ取って頬に残っていた涙の筋を舐めとり始めた。
 首が絞まって、苦しい。もう限界だと思ったところで、彼はようやく手を離した。酸素不足で朦朧とした頭は上手く受身を取れずに、またもや階段で擦りむく。
「陛下にその涙を見られたら困るでしょう。拭って差し上げましたよ、ほら」
 嘲るように笑って彼は、ロゼウスを無理矢理抱き上げる。
「ここであなたを送り届けて、少しでも陛下に恩を売っておきませんとねぇ……」
 乱暴に抱えられても、今のロゼウスにはもはや抵抗する気も、その力もなかった。


078

 御前試合――剣術大会の方は恙無く進んでいた。
 休憩の終わる直前に、ロゼウスは戻って来た。胸中では冷や汗をかきながらも顔では悠々とした表情を作り民衆の前に姿を現す。二回戦は序盤からリチャードとエルジェーベトとの激戦だった。
 結果はエルジェーベトの勝利で、辛勝とは言わないが、一回戦の時のようにあっさりというわけにもいかなかった。リチャードはシェリダンの剣の師であるから、そうそうあっさり負けてもらっても困る。しかしやはり王国最強の女将軍には敵わないらしい。
 この二人が御前試合で激突するのは初めてだったのだが、敗者にしてはやけに清々しい表情でリチャードが戻ってくる。エルジェーベトも口元の辺りが吊りあがっているので、観客には高度すぎてわけのわからない戦いも、当人たちにとっては楽しいものだったということか。
 シェリダンは相変わらずロゼウスの手を握りながら、次の試合に目を落とす。イスカリオット伯爵ジュダと、一回戦でクーパー子爵に勝って上がってきたサリー=ノースとの対戦だ。彼女は爵位こそないが高名な貴族の侍女で、この国ではエルジェーベトに次いで強い女性だ。軍事国家とはいえ男尊女卑の傾向が残るエヴェルシードでは、一人でも多くの兵士を必要とするくせに女性の軍人をあまり募らない。
 しかしノースもジュダのえげつない戦法に敗退し、準決勝一回戦目はエルジェーベトとジュダという、組み合わせだけでも恐ろしい二人に決まった。
 次の二試合は奴隷のレガ対クルス=ユージーン侯爵、平民のイーノク対クロノス=ユージーンですでに勝敗は見えている。平民と奴隷ということは小細工なしに純粋な実力で勝ちあがってきたということだが、貴族連中の中でもこの親子に当ってしまったのが運の尽きだ。
 恙無く二回戦第三試合、第四試合は終了し、誰もが予想、そして確信していた未来を裏切らずにクルスとクロノスの、ユージーン親子が勝ち残る。
「次は親子対決?」
「ああ。それも、ここから決勝までは休憩を挟まずに行われるからな」
 クロノス対イーノクが終わってすぐに、舞台にまたジュダが上がってきた。剣技というのはただ単にどんな手段を使ってでも勝てばいいというわけではない。技術の優れている者ほど、相手に怪我を負わせずに試合を終えることができる。だからこそ、エルジェーベトやジュダや出場し始めたこの数年間は特別な事故もなく、こうもあっさりと試合が進行するのだ。
「けっこう強いのね。イスカリオット伯って」
「ああ」
「ただの変態だと思ってたわ」
「それも間違ってはいない」
 ロザリーの言葉に頷いて、シェリダンは眼下の舞台を眺める。
 ジュダとエルジェーベトの戦いはさすがに接戦だった。バートリ公爵エルジェーベトの実力は一度目の当たりにすれば疑う者はないが、ジュダが強いかどうかは限られた者しか知らない事実。財力で有名なイスカリオット家は、同時に呪われた血筋としても有名だ。
 八年ほど前に狂乱の殺戮事件を起こしたジュダを、いまだ狂人だと罵る輩は多い。なまじ本人がそれを楽しみ煽るように道化のフリをするものだから、いっそう性質が悪い。
 眼下の二人の攻防は続く。
 エルジェーベトの繰り出した剣戟を、ジュダは紙一重で避ける。搦め手で獲物を奪おうとするのを察したエルジェーベトが距離をとり、体勢を整えてまた一撃を繰り出す。あっさりかわされたその攻撃から回転へと繋げ、ジュダの足元を狙う。持ち前の運動神経をいかして辛くもそれを逃れたジュダに、追い討ちをかけるエルジェーベトの連続攻撃。段々とジュダが防戦一方になる。
 ジュダ=イスカリオット伯爵。
 先程ロゼウスが元の部屋に戻って来た時は、彼に抱きかかえられていた。王妃を抱きかかえるというには無造作な抱え方だったが、ロゼウスがジュダに連れてこられたのは間違いない。
 それはつまり、休憩中にあの二人は会っていたということだ。
 しかし何を話したと聞いても、ロゼウスは単に廊下でへばっていたところを運んでもらっただけだとしか答えない。
 本当にそれだけか? 何かあったのではないか?
 あの時、急にロゼウスが部屋を飛び出して言ったのはジュダに関わることなのか?
 舞台の上では踊るようにジュダとエルジェーベトが位置を入れ替え、危機を脱したらしいジュダも今度は徐々に攻勢に出始めた。エルジェーベトの突きをかわして背後を狙い、それを受けとめられると素早く刃を引いて体勢を整える間を与えず足元を狙う。
 ドレス姿を気にもせずに片腕で地をついてエルジェーベトはそれを避け、力押しの攻防に持ち込もうと勢いよく相手の首を狙う。それを防御したジュダの剣と剣の刃が擦りあって、嫌な音を立てる。
 あの男は、ロゼウスに何をした?
 以前イスカリオット城に滞在した時にも、ロゼウスに手を出そうとしていた。その時は見事に椅子を投げられて撃退されていたが、今の、少し動いただけでも息を切らすような
ロゼウスでは抵抗もできまい。
 繋いだ手の微かな温もりを意識しながら、シェリダンは顔を歪める。
 ヴェールの下から不思議そうな顔を覗かせて、ロゼウスがこちらを気にする。
 他の者たちは気づかない。舞台の上で行われる裂帛の攻防に気をとられ過ぎていて、こんな小さな一画の出来事に気づくわけもない。それはこの同じ場にいるローゼンティアの王族兄妹や、エチエンヌとローラ、試合が全て終わって選手控え室からこちらに戻って来たリチャードも同じこと。
 エルジェーベトが剣を振るう。ジュダが避ける。ジュダが攻撃を繰り出す。あっさりとかわされる。すぐに反撃が来た。
 それをなんとか凌いだ彼は次の白刃から逃れきれず、腕に浅い傷を作る。妙にゆっくりと細い血の筋がひかれ、ジュダの剣がエルジェーベトの剣に耐え切れなくなってきたことを伝えている。
 もう何度か打ち合ったところで、エルジェーベトがジュダの得物を弾き飛ばした。
 宙を飛んだ剣は場外の地面に突き刺さり、その周囲の人々に貴族平民問わず度肝を抜かせた。幸い誰にあたるということもなかったが、下手をすれば怪我人や死人が出てもおかしくない。
 激戦の果てに、エルジェーベトが決勝進出を決めた。
 超高度な一戦が終了し、一瞬城内は水を打ったように静まりかえる。
「勝者、エルジェーベト=バートリ!」
 審判の声で一斉に、弾けたように会場中から歓声があがった。
「すごい……」
 ミカエラが感嘆の溜め息をつくのがすぐ側で聞こえる。
 だが、繋いだままのロゼウスの手は無反応だ。
 何も感じず、何も思わない人形のように。ちらりとその横顔を窺えば冷淡な眼差しで眼下の二人を見ている。会場の熱気など知らぬと言いたげな、温度の低い眼差し、自分と別の世界を見ている者の眼。
 ジュダと何かあったのならば、こんな目をできるものだろうか。
 それとも、何かあったからこその態度がこれであるのか。
 自分はそのどちらを疑い、どちらを信じているのだろう。
「ロゼウス」
「何」
「……いや」
 言いかけて、シェリダンは何を言う気なのか自分自身でもわからなくなり、発言を濁した。
 ふと眼下に再び視線を戻せば、控え室へと戻る二人のうち、こちらを見上げたジュダと視線があった。そして何故か皮肉げに唇を歪める。
「……お前のせいだ」
 今度はすんなりと出てきた言葉を聞き咎めて、ロゼウスが小首を傾げてくる。その動きを気配で察しながらも顔を見ないまま、シェリダンは告げる。
「お前のせいで、私は」
 こんなにも疑り深くなる。

 ジュダのあの笑みの裏には一体何が隠されているのだろうか……。

 ◆◆◆◆◆

 準決勝二回戦目は、クルスとその父の戦いだ。
「遠慮はいらぬぞ、クルス。全力でかかって来い!」
「はい、父上!」
 クルスが国王の御前試合、この剣術大会に参加して、今日で四回目になるがその間一度も父と対戦した事はない。組み合わせは抽選なので不正があるはずもないのだが、たまたまクジ運なのだろう、バートリ公爵やイスカリオット伯爵との対戦は何度かあったのだが、父とはこれまで一度も当らなかったのだ。
 もちろん、優勝したことも皆無である。この七年間はずっとバートリ公爵エルジェーベトが優勝し続けているし、御前試合初出場の年にクルスは一回戦で彼女と対戦することになり、あっさりと負けてしまった。自分の腕に自惚れた覚えはないが、国内での壁はこんなにも厚かったのかと愕然とした覚えがある。
 さらに一昨年は二回戦目でジュダに負け、去年はなんとか決勝まで勝ち進んだがそこでエルジェーベトに敗退した。その去年も父とはブロックの関係で対戦せず、実家で手合わせをする時以外、このような公式の場で戦うのは初めてだ。
 クルスはまだ、父に勝ったことがない。いつもいいところまでいくと父は褒めてくれるが、父はいつも穏やかに笑っているので、それが本心かどうか、クルスには判別できない。
 しかし、今日、この場で父、クロノス=ユージーンとの雌雄を今まさに決しようとしている。
 シェリダンは自身のことをあまり形式ばっては呼ばない人物なのであえて剣術大会と言っているが、この大会の正式名称は「御前試合」。文字通り、国王陛下の御前で行われ、その剣技を見てもらうための大会だ。
 クルスは自分が王国最強の剣士であるエルジェーベトに勝てない事は知っているし、ジュダにもなんだかんだで負けてばかりだ。去年はなんとかジュダに勝って決勝に進んだが、それだっていつもの、安定した実力ではない。
 しかし、いくら公爵や伯爵に負けたかなど問題ではないのだ。今見なければいけない現実は、次の対戦相手がクロノス=ユージーンであること。
 そして自分は、クルス=クラーク=ユージーン侯爵だ。父から爵位を譲られたのだから、それ相応の成果は返さなければならない。
 御前試合は、見た目もかなり派手だ。貴族の出場者はやけに煌びやかな鎧を纏って出場したりする。国を守る戦士が傷一つない鎧姿で出てくることの何が誉なのかクルスにはよくわからないのだが、皆、王の前で己を立てようと必死だ。
 中には、逆に力を抜きすぎてドレス姿のために一番目立っているエルジェーベトや、何故か毎回シェリダンの従者としてのお仕着せ姿で登場するリチャードなどもいるが、それはまた別の話なのでおいておく。
 クルスと父は、鎧は普段のものを使う派だ。新しい鎧を拵えて本番で不備が明らかになってはたまらないので、使い慣れた装備で舞台にあがる。
 しかし、こうして向かい合ってみてもクルスと父では雲泥の差だ。クルスは胸部から首、腕、などの重要部位と急所の防御は鎧に頼るが、父は簡素なものだった。
 クロノスは、クルスの父とも思えないぐらい体格の良い人物だ。普通の人より頭一つ二つ背が高く、全身が筋肉と言う名の鎧に覆われていてクルスの貧弱な体とは違う。なので、防具は胸部を庇う胸当てのみ、手甲などもつけてはいない。
「クルスよ、とうとうこの時が来たな」
「ええ……今日こそ、僕は父上に勝って、正式にユージーン侯爵という名を手に入れたいと思います」
「よくぞ言った」
 審判が手をあげる。その手を勢いよく振り下ろすと同時に、試合開始の合図を告げる。
「準決勝第二試合、始め!」
 クルスとクロノスは同時に地を蹴った。相手の急所を狙った攻撃はお互いに防ぎあい、開始から刃がせめぎあう。しかし、クルスは純粋な力技だとどうやっても父には敵わないので、早々に膠着を解いて距離をとる。
 追撃をかわし、逆に反撃を行った。振り返りかけた父の肩口を狙った一撃は封じられ、すぐに今度は向こうの反撃が来る。鋭い突きは素直にかわし、できればクロノスの剛力を直接喰らわないよう、素早い動きで攪乱する道を選ぶ。
 御前試合では相手を殺すことは赦されないし、もとより父が相手ではそんなつもりはない。そうなると、勝利への手段は首や胸など相手の急所に刃を突きつけて降参を迫るか、相手の得物を弾き飛ばすかのどちらかになる。
 持久戦で疲れさせて降参させるという手もあるが、クルスより格段に体力のある父相手ではその手も使えない。長期戦を持ち込まれたら、確実にクルスの方が先に参ってしまうだろう。
 それに、一対一の決闘と違ってこれはトーナメント式の大会なので勝ち上がれば決勝でない限り次の試合が残っている。一応今は準決勝二回戦なのでこの後休憩が入るのだが、できるだけ体力を温存したいと普通の出場者なら思うわけだ。
 ただ、今クルスが戦っている相手はこれまでクルスが一度も勝てた試しのない父なので、温存などと悠長なことは言っていられない。全力を出し切らなければ、すぐに負けてしまうだろう。
 父の力をまともに食らうのはまずいと判断し、頭上から振り下ろされた一撃を横に跳んでかわした。その動きは見抜かれていたらしく、すぐに薙ぎ払うような回転斬りがくる。剣を垂直に立てるようにして横腹へ受け、何とか持ちこたえる。力の方向を逸らしてぎりぎりと攻め込んでくる刃から離れ、再び地を蹴って反撃にでた。
 あわよくば首元に切っ先を突きつける気で狙った一撃は簡単にクロノスの剣に阻まれ、力の方向によりクルスは剣を簡単に引くことも出来ず、逆にこれ以上押し込まれたらこちらが切り刻まれてしまうという膠着状態に陥った。
 しばらく、力比べのような具合になる。もとの腕力が違うので長い時間は持たない。頭の中でこのままでは勝ち目がないことを悟るが、打開策は見つけられない。
 また、今回も負けてしまうのだろうか? 父に。いつまでたってもクルスはその背中を追い抜くことはできず、そのさらに先の玉座にいる方の目の前に傅くこともできないのだろうか。
 それだけは赦せない。
「――ぁああああああ!!」
 腹の底から気合を上げ、クロノスの力の均衡を崩す一点を正確に狙って何とか剣を押し返した。
「何っ!?」
 クルスには力はない。けれど、力が全てではないと思っている。そんなことを言ってしまったならば、クルスよりもさらに腕力がないのにあれほど強いエルジェーベトはどうなるのか。
「くっ!」
 初めて父に苦鳴なるものをあげさせることに成功した。クルスは間髪入れず追撃を行い、父がその剛力を出し切れないよう翻弄する。
 持久力でも腕力でも負けている。けれど、速さと細かさはクルスの剣の方が、父より上だ。
 素早さと技術を生かした猛攻を続けていると、さすがにクルスの息も切れ始めた。けれど、ここで止まるわけにはいかない。
 父も休む暇もない連撃に防御で手一杯で、攻撃をしかけてくる隙がないようだ。右へ左へと振らせる攻撃を続けていると、段々その手元が覚束なくなるのがわかった。
 ここを突けば勝てる。
 心が決まった瞬間、迷いや躊躇いは一切消えていた。全身の力を使って振り切った剣で父の剣を下から上へと弾き飛ばした。もともと連続の攻撃で握力が弱まっていた上に剣の横腹に一撃を入れたのだ。鈍い音がして、その得物は父の手を離れた。
 永遠のような一瞬の隙に、クルスはクロノスの喉元に切っ先を突きつける。
 しん、と水を打ったように会場内が静まり返っているのがわかる。
 呆けたような沈黙の後で、審判が大きく声をあげた。
「勝者、クルス=ユージーン!」
 会場中からどっと歓声が上がり、クルスは剣を引いた。
「クルス」
「は、はい! 父上!」
 緊張と興奮のあまり心臓の鼓動が煩くなって、何も聞こえないようなクルスの耳に、目の前の父の声が飛び込んできた。
「最後のあれはなんだ。あんな飛び込み方をする奴があるか。相手が私程度の者だったから良かったものの、もっと強い人間相手だとしたら隙をつかれて逆にお前がやられているぞ」
「……はい」
 そうでした。最後の一撃は結局それで勝敗を分けましたが、十分に反撃される可能性もあったのだ。あの時一瞬何もかも見えなくなり迷いや躊躇いもなかったが、逆に言えば危機感も欠けていた。
 項垂れるクルスの耳に、再びクロノスの言葉が届く。
「だが、よくやったな」
 顔を上げて見ると父は笑顔だ。
「は……はい!」
 クルスたちは騎士の礼をして舞台から下がり、控え室に戻る間際クルスは特別観覧席のシェリダンを見上げた。
「陛下……」
 一度目が合うと、シェリダンが嬉しげに微笑むのが見えた。


079

 クルスが実父クロノスを打ち破り、決勝戦はエルジェーベト対クルスという組み合わせとなった。
 ここで二度目の休憩が入り、シェリダンたちもまた観覧席から離れ部屋へと下がる。
「ついにクルスが父を超えたか」
「来てしまいましたね。新しい時代が」
 エルジェーベトに負けて今日の試合は全て終わったイスカリオット伯爵ジュダも休憩の最中こちらへと顔を出しに来た。
「本日の主役のご登場ですよ」
 エチエンヌの案内で当事者であるクルスとエルジェーベトがここまで上がってきた。わざわざ三階にあるこの部屋まで上がるのは面倒だろうに、真面目な臣下だ。
 ついでにエルジェーベトが来た途端ミザリーとロザリーがそそくさと部屋の隅に避難したが、気にしないことにする。さらに言えばシェリダンは、エルジェーベトを呼ぶ役目はいつもエチエンヌに任せる。同じ顔でもここはローラにさせてはいけない仕事だ。
「大健闘したな、クルス」
「陛下、父を越えまして正式にユージーン侯爵の称号を継ぎ、これからも末永く陛下の剣となるべく精進いたします」
 長椅子に座ったままのシェリダンの目前に来て跪き、手をとって彼は誓う。
 ……いつになっても、いつであってもクルスは真面目なことだ。
 だから言えない。お前には。
 シェリダンは破滅を望む。この国に災厄を持ち込む。末永く、という言葉が胸に突き刺さる。彼がその誓いどおりシェリダンの剣であろうとすればするほど、エヴェルシードの滅びは早まるだろう。
「陛下?」
「……なんでもない」
 シェリダンは首を振り、ゆっくりとクルスの手を離した。逆の手は長椅子の隣に座るロゼウスの手を握っている。先程の休憩のように駆け出されては困るので、最初からこうして捕らえていた。
 ひらひらと舞い遊ぶ移り気な蝶に紐をつけて繋ぎとめるかのように、シェリダンはロゼウスの手を握る。クルスはその意味に気づいてはいないようだが、ジュダやエルジェーベト、それにローラやエチエンヌ、リチャード、ロザリーなどはこの意味をよくわかっている。
 長椅子に座り、シェリダンの肩にもたれているロゼウス。乱暴な扱いをするようになってから、以前より口数が減った。おかげで、初めからわかりやすいようでいてどこか掴みがたかった彼がますますわからなくなる。
 それでも繋ぎとめたかった。シェリダンに彼が理解できなくとも。
「それにしても」
 椅子の一つに勝手に腰を下ろしたエルジェーベトが、クルスを眺めてにやりと笑い告げる。
「ユージーンの坊やは本当に強くなったわねぇ」
 彼女の椅子の背に腕を乗せるような形で背後に立ったジュダもその発言に乗る。
「そうですね。クルス君は幼い頃に比べて随分強くなりましたよ。今では僕でも勝てるかわかりませんね」
 この二人にタッグを組んでかかられると弱いクルスは、たじろぎながら礼を言う。
「あ、ありがとうございます」
 その様子からすでに決勝の勝敗は見えるような気もするのだが、今は突かないでおこう。
「でも、強いといえばそういえば第一試合の相手」
 丁度良く話題が切れたところで、エルジェーベトが思い出したように髪をかきあげ口を開いた。
「あんな人、今までいたかしら? 他の奴隷と平民はここ数年の常連だけど……なんだっけ? あの一回戦の私の相手」
「アウゼンリード、ですか?」
 自らの対戦相手のことすらおぼえていない様子で、エルジェーベトが口を尖らせる。この調子ではジュダ本人の目の前で、準決勝の相手は誰だったかとでも言い出しかねない。代わりにクルスがその名を出した。
「……単純に、年齢の問題ではないでしょうか? あの人、確かに初めて見る顔でしたけれど見たところ僕と同じかそれぐらいでしょう。それでしたら今回が初出場ということでもおかしくはないと思いますよ」
 しかしそのクルスの言葉に、エルジェーベトは相変わらず気だるげな表情のまま、首を横に振った。
「いいえ、そのアウゼンリードとやら、少し毛色が違ったわ」
「と、言いますと?」
 興味深そうにジュダが彼女の背後に立ったまま尋ねる。
「エヴェルシードの剣技っていうのは、だいたい荒っぽいものだし、どんなに基本に忠実に鍛えても戦場に出ればそれぞれの癖がついてしまうものでしょう、でもね、あの男の剣は綺麗だったのよ」
「綺麗?」
「そう。ちゃんとした師についてお上品に稽古を重ねればああなる感じ。そう言った剣は弱いのが通例だけど、あの子の剣はそれを正確に極めて、だからそれなりの実力を持っている、というところ。あれは自己流を決めた市井の人間の戦い方じゃないわよ」
 一回戦第二試合を思い出す。エルジェーベトの対戦相手、アウゼンリード。確かに見ない顔だった。
 そういえばあの試合の最中、何かがあったような……しかし、よく覚えていない。
「まぁ、どうせ今日はもう試合には出てこないんだけど」
「でも、腕が立つ相手とわかっているなら、今から声かけをしておくべきではないのですか?」
 エヴェルシードでは、優秀な軍人を多く募る。大抵は貴族だが、実力さえあれば稀に平民も登用する。その実力を測る主な機会がこの御前試合、剣術大会だ。
 しかしエルジェーベトはまたもや首を横に振った。
「腕が立つ、っていうのとはちょっと違うわね。……女の勘という言葉を使っても良いというのならあれは……そう、厄介という感じよ」
「厄介? どのように?」
「それがわからないから勘なんじゃないの」
 エルジェーベトとクルスのやりとりを眺めながらシェリダンはその男の顔を思い出そうとする。
 だがよくわからない。あの時は確か……別の話題をしていたのだったか。
 それが、ちくりと意識のどこかを刺した。
(まさか……)
 あの時はエルジェーベトのドレス姿の派手さというものに話題がずれていたが、その前に舞台を見て、ロザリーやミザリーが驚いた声をあげていた。それは何故だ。そしてそれを……。
 ロゼウスが誤魔化した。
「っ……」
 握った手に力を込めると、ロゼウスがはっとしたようにシェリダンを見つめてくる。だが何の話だかわからないという様子で、小首を傾げる。
 その表情はあまりにも無防備で、逆に問い詰めようという気勢を削がれた。
「シェリダン? 何か言いたいことでも……」
「いや、ない」
 シェリダンは手の力を緩め、けれどそれ以上にも増して、一本一本の指を深く絡ませる。
「くだらんことだ。気にするな」
 そうくだらないことだ。誰が何をしようと、ロゼウスが何を企んでいようと。
 この手をずっと握り締めておけば、失うものは何もないのだから。

 ◆◆◆◆◆

 エルジェーベトとクルスの戦いは予想通り、エルジェーベトの圧勝で終わった。
 クルスの剣の腕前は、国で敵う者も滅多にいない名手。しかし《殺戮の魔性》と恐れられるあのエルジェーベトの変則的な強さの前には敵わなかったようだ。
 これで御前試合の全ての対戦が終わったと、人々はそう思っている。それは、あの玉座という特別観覧席に座るシェリダンでさえ。
「さぁ、殿下―――」
 いつの間にやってきていたのか、背後の闇からハデスが声をかけた。
「ええ。わかっています」
 カミラは、舞台に向かって一歩一歩ゆっくりと歩みだす。
 エルジェーベトが優勝者の名誉を国王から受け、その後の試合の意志を確かめられているその時。
 ざわめき出した会場内にこの姿を見せつけるように。

 ◆◆◆◆◆

 クルスの剣の腕前は誰もが認めるところだが、さすがにあのエルジェーベトには勝てないだろうと誰もが予想するところの通りに、決勝戦はエルジェーベトが決めた。
 クルスは少し悔しそうな顔をしていたが、舞台から去り際、エルジェーベトが何か声をかけていたようだ。ここまで聞こえる事はないが、それによってクルスの方もどこか自分を宥めるような雰囲気があって、全ての試合はその幕を閉じた。
 閉会する前に、シェリダンは優勝者、今回の場合はエルジェーベトに声をかける。観覧席から思いきり見下ろしての会話だが、これが騎士と王との距離と祖先の誰かが決めたのだから仕方がない。
 大会の優勝者には、国王と戦う権利が与えられる。そして王に勝てば、玉座を得る権利すらこの国では与えられる。だが実際にそうして玉座を奪った者はいない。これはただ王への忠誠や王の威光、そう言ったものを見せつけるだけの慣例だ。これまではそうだった。今回もそうだと思っていた。
 シェリダンはバルコニーの端に立ち、今大会の優勝者であるエルジェーベトに声をかける。
 眼下の舞台の中央で片膝をつく騎士の礼の姿勢をとっていたエルジェーベトは、この玉座を望むかと言うシェリダンの問に、緩く首を振って否定する。否定しようとするところだった。
 ここで何もかも恙無く、全てが終了するのだと思っていた。
 しかし会場から湧き上がったのは勝者に送られる祝福と興奮の歓声ではなく、不穏なざわめきだった。
「……何だ? いったい何が……」
 エルジェーベトの背後から誰かが歩いて来る。纏う衣装こそ戦装束だが、体格からして女のようだ。緩く波打つ長い髪――。
 バルコニーの端に立ったシェリダンの背後で、ロゼウスが重い樫の椅子をも驚きのあまり蹴倒して立ち上がる。
「……カミラっ!」
 濃紫の長い髪。
「……嘘だ」
 エルジェーベトから少し離れた隣に立って、シェリダンを見上げるその姿。
 こちらに真っ直ぐに向けられた黄金の瞳に滾る、見慣れた憎悪。
 だが、彼女は死んだはずだ。
 自分が殺した。追い詰めて罠にかけ、心をずたずたに引き裂くようにして犯し、自殺に――。
 そこで気づく。シェリダンはカミラが死にたくなるようなことをした。彼女が死を選んでもおかしくないほどのことをした。だから死んだと報告を聞かされた時も何ら不思議なこととは思わなかったし、事情を聞かされたらしき侍女がシェリダンにだけはカミラに触れてほしくないと拒絶した時も、それを受け入れた。
 シェリダンはカミラの死体を見ていない。
 国葬を上げ、喪に服しはしたがそれだけだ。
 死んだとは言葉だけで伝えられたこと。
 シェリダンを睨む妹の瞳にある憎悪は本物だ。霊魂など信じない。あれは生身の人間が持つ、息苦しいほどの憎悪。
 偽者や何かでないことは、誰よりもシェリダンが知っている。
 そしてシェリダンの背後で、半ば放心状態ながらどこか合点がいく部分があったらしいロゼウスの取り乱した声を聞く。
「カミラ……そうかっ、あの時」
 お前が何かしたのか、カミラに。
 もともとシェリダンの知らないところで、カミラとロゼウスは繋がっていた。二人の間に何があったのか、シェリダンはほとんど知らない。ただ彼の知らないところで心を通わせる素振りを見せた二人が気にいらず、一番残酷な形で引き裂いた。……よりにもよって、他の誰でもない二人が寄り添う光景は見たくなかった。許せなかった。
 舞台上ではさすがのエルジェーベトも固まり、誰も動き出すことができない。当のカミラは衆目の前でも平然とした様子で、優雅に膝を折って一礼する。
 そして口を開く。
「お久しぶりです。親愛なる兄上――エヴェルシード国王シェリダン陛下」
 その声も記憶にあるものと違わない。
「カミラ……お前は、死んだはずだ」
 告げてみたそれに妹は歪に笑う。口の端を酷薄に吊り上げて、シェリダンが今まで見たことのない壮絶な笑みを浮かべた。
「その通りです。そして私は冥府の国より戻ってまいりました、陛下。私の手にあるべきものをいただくために」
 王城で生活していた時は華やかなドレスしか身に纏うことのなかったカミラが、今は何故かその体にぴったりとした騎士の装束を着ている。腰には剣を佩き、長靴を履いていた。
 それではまるで、今から戦いに赴くようではないか。
 折しもここは御前試合、王の前で剣を披露する大会の会場。
 優勝者は王と、その剣で玉座を争うことができる。
「バートリ公爵エルジェーベト卿」
 隣に呆然と立つ女に向けて、カミラは声をあげた。
「私と戦ってください。そうして私が勝ったら、あなたの権利を譲ってください」
「……何の」
 息をすることも忘れた様子で、エルジェーベトがそれだけを問い返す。本来王族に対するべき礼を失しているが、辺りはそれどころではない。
 この国の頂点に立つシェリダンが動けないのだから、他の人々も動けるわけがない。けれど彼らに指示をすることすら忘れ、シェリダンはただ眼下のやりとりを見つめて立ち尽くしていた。
「王に挑戦する権利」
 カミラの声に、強く記憶が呼び覚まされる。あれは自分が言ったのだ、ロゼウスに。
 ――大会の優勝者が国王との試合を望み、王に勝った場合、その者には玉座が与えられるという慣わしだ。
 ――だって、そしたら挑戦者に負けたらあんたは……。
 ――だが、実際にそうして王位を剥奪された王など数えるほどしかいない。その慣習で本気で玉座を引き摺り下ろされた王もいるにはいるが、それは兄弟から継承権を奪うために直系の王族などがしかけるそうだ。
 直系の王族。
 正妃の娘、カミラ=ウェスト。
 ああ、そうだ。彼女ならシェリダンから玉座を奪う資格がある。資格だけならば……。
「バートリ公爵!」
 カミラに何を聞くにしても、まずはこの場を収めねばならない。シェリダンはこの国の王なのだから。
 この茶番を終わらせなければ。
「はい! 陛下!」
 我に帰ったエルジェーベトがカミラではなくシェリダンの方を見て返事をする。
「戦ってやるがいい」
「陛下!?」
 辺りからいっそうのざわめきと驚愕が漏れる。
 剣を握れもしないあのカミラが、エルジェーベトに勝てるわけはない。こんなくだらん茶番は早く終わらせるべきだ。大会を閉じ、カミラの身柄を押さえ、事情を聞きだす。しかしそれに至るまで、段階を踏まねばならない。どうせ今この場ですぐさま兵を動かすわけにはいかない。
「シェリダン陛下!」
「バイロンか」
 バルコニーの奥から、ようやく事態を聞きつけたらしい宰相バイロンがやってきた。シェリダンはエルジェーベトに試合を始めるよう合図をしてから、部屋を飛び出して階下へと降りる。兵の指揮をするならば、現場にいなくては話にならない。
「シェリダン!」
 制止するようなロゼウスの声を振り切った。
 あれが本物のカミラであることを、シェリダンは心のどこかでまだ疑いたいのだ。こんな距離ではその顔を見る事はできない。シェリダンに向けられたその憎しみが本物だとしても。
 だから、それを確かめるだけのつもりだった。
 まさかカミラがエルジェーベトに勝つはずがないと、高を括っていたから。
 もう一つの誤算。
 会場へと降り立ったシェリダンが見たのは、カミラの一撃によってエルジェーベトの剣が宙を舞うその瞬間だった。


080

 ああ、そうか。
 これは俺の間違いだ。

「……カミラっ!」
 濃紫の長い髪。黄金色の瞳。華奢な体つきを騎士の装束に包み、細剣を腰に佩いて舞台に歩いて来るその姿。
「……嘘だ」
 エルジェーベトから少し離れた場所に立ち、こちらを見上げる。シェリダンが放心したように呟いた。
 カミラ……カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 だが、彼女は死んだはずだ。
 ロゼウスが殺した。ロゼウスとシェリダンは共犯者だ。彼女の心を引き裂いて、死に向かわせた――。
 ああ、でも。
 一瞬だけシェリダンからロゼウスの方へと向けられた、その切なげな眼差し。
 思い出せばイスカリオット伯の城でも彼女を見かけた。あれは見間違いでも幻でも幽霊でもなく、本当に彼女自身だったのか。
 生きていたのか、カミラ。
 あの時と同じように彼女は美しい。長い髪を靡かせて佇むその姿は可憐な地獄の使者のように。
 ロゼウスが憎くて、ロゼウスとシェリダンが憎くて、だから甦ってきたのだろうか。
「だ、誰? ……シェリダンに似てる」
 彼女に会ったことのないロザリーは、驚きながらその姿を見ている。ミカエラやミザリーも同様だ。だけれど、彼女が死んだことを知っているロゼウスやシェリダン、それにエヴェルシードの人々はそうもいかない。
「何故、カミラ様が……」
「だって、葬儀はあげられたはずでしょう?!」
 エチエンヌとローラも驚愕を隠せない様子だ。二月ほど前の出来事がじわじわと甦る。
 薔薇園での邂逅。他愛のないやりとりを交わすだけの逢瀬。
 カミラの命を狙った刺客……あれは一体何の目的があったのか、ハデスが変化したもので――。
 そこまで考えてロゼウスは気づいた。自分が彼女に何をしたのか。
 ――古のヴァンピルの血よ、ロゼウス=ローゼンティアの言葉に従い、目を覚ませ。
 ――この者に、新たな命を――。
 吸血鬼の力を使って彼女に新たな命を与えた。
「カミラ……そうかっ、あの時」
 ロゼウスはカミラを甦らせた。死の淵から呼び戻した。
 だが、どんなに上手くやろうとも死者を呼び戻すのにはリスクが伴う。術の効力が強いほど生前の人格は保たれるが、術者の力が足りなければ、《死人返り》……意志も理性もなくしただ殺戮によって血の渇きを癒すだけの化物となる。
 あの時、全身全霊を込めたロゼウスの術でカミラは甦った。見た目は、彼女にそれまでと変わったところなどなかった。
 けれど、間違いなく黄泉の府から舞い戻った影響は彼女にもあったのだ。
 死ねなかったのか、カミラ。
 彼女が死を思うほどに追い込んだのは自分、自分とシェリダンだ。あの流れですんなり彼女がこの復讐劇を思いつくとは思えない。一度臨死の体験をして次から自分の体が吸血鬼並みの頑丈さを誇るようになったなど、普通は考え付かないだろう。
 どんな思いであなたはそこに立っているのか。その細い腕に剣など似合わないのに。
「カミラ……」
 かつて確かに愛し、今も好ましく想っている少女。
 その彼女は、憎悪と愛情の入り混じった瞳でロゼウスを見る。そして視線をそらし、シェリダンへと目を向けた。
 舞台上ではさすがのエルジェーベトも固まり、誰も動き出すことができない。当のカミラは衆目の前で堂々とした様子で優雅に膝を折って一礼する。
 そして頭上のシェリダンに向けて口を開いた。
「お久しぶりです。親愛なる兄上――エヴェルシード国王シェリダン陛下」
 その声も、ロゼウスの記憶にあるものと寸分違わない。鈴を転がすような可愛らしい声。
「カミラ……お前は、死んだはずだ」
シェリダンの言葉にその妹は歪に笑う。口の端を酷薄に吊り上げて、ロゼウスが今まで見たことのない凄絶な笑みを浮かべる。
「戻ってまいりました、陛下。私の手にあるべきものをいただくために」
 正妃の娘であるカミラの手にあるべきもの――この国の、王冠。
 折しもここは御前試合、王の前で剣を披露する大会の会場。
 優勝者は王と、その剣で玉座を争うことができる。聞いたばかりじゃないか、その言葉を。
 直系の王族。
 正妃の娘、カミラ=ウェスト。
「バートリ公爵エルジェーベト卿」
 突然出てきたカミラの言動に思考が働かない様子のエルジェーベトに、その混乱の元凶たる少女は言った
「私と戦ってください。そうして私が勝ったら、あなたの権利を譲ってください」
「……何の」
 息をすることも忘れた様子で、エルジェーベトはそれだけを問い返した。公式の場、公衆の面前だというのに口調が素に戻りかけている。表向きは冷静な様子に見えても、彼女も十分混乱している証だ。
今戦ったらまずい。
「王に挑戦する権利」
 今のエルジェーベトでは、カミラには勝てない。何故なら《死人返り》の者は、普通の人間よりも強靭な身体能力を得るのだ。剣技で及ばなくても、その身体能力と周囲が混乱したこの状況でなら、カミラだってエルジェーベトに勝ててしまう。
そういう意味では、一番相性の悪い相手だ。ヴァンピルの血によって素早さも腕力も上がった彼女に、元々技術こそ優れても女性であり力で劣るエルジェーベトは……。
「バートリ公爵!」
 だけれど、シェリダンは鋭く眼下へ声を投げる。
「はい! 陛下!」
 我に帰ったエルジェーベトがカミラから視線を外し、シェリダンの方を見上げた。
「戦ってやるがいい」
「陛下!?」
 辺りからいっそうのざわめきと驚愕が漏れる。
 駆け込んできたバイロン宰相と共に一言二言話した後、シェリダンは舞台の二人に合図を出してバルコニーを駆け出す。
「シェリダン!」
 制止のための声をあげるが、シェリダンは振り返らない。傍目には落ち着いているように見えても、見せても、彼だって十分に動揺しているのだ。……他の誰よりも。
「待て! シェリダ――」
「駄目だよ」
 軋む身体をおして慌てて後を追いかけようとしたロゼウスを、背後から羽交い絞めにするように誰かの腕が伸びる。
「駄目だよ、君は動いちゃ……ロゼウス王子。今日の舞台の主役は君じゃなくて、カミラ姫なんだから」
「ハデス――」
 耳元に聞こえてきた声に、身動きを封じられる。
 おかしいじゃないか、自分はだって今。椅子から立ち上がったところで、背後には誰もいなかったはずなのに。
 ロザリーもミカエラもミザリーも、一様に驚いた表情で固まっている。
「駄目だよ、君たちも動いちゃ。いい子で待っていれば、君たちに悪いようにはならないからさ」
「ハデス卿! 一体何を……っ!」
「エチエンヌ、陛下に報告を――」
「君たちも動いてはダメ」
 ハデスの指の一振りで、異常事態に動こうとした双子の動きが止まった。エチエンヌとローラは、糸でも、切れたようにその場に崩れ落ちた。
「エチエンヌ!」
 ロザリーが悲鳴をあげる。だけれど、これだけバルコニーで騒いでいるというのに誰も駆けつけて来ないし、誰も注目なんかしない。こちらに気づかない。
「いいから黙って、大人しくしててよ」
 ハデスは悠然とした表情でロゼウスたちを正面に、舞台の方へと顔を向かせる。
 彼がロゼウスの身体から腕を離すと、その代わりのように黒い糸が全身に巻きついた。髪の毛のように細く、鉄のように頑丈なそれはヴァンピルであるロゼウスの力でも振り切れない。
「何……っ? ハデス、何をする気だ!?」
「まあ見てなって、すぐにわかるよ。別に君たちにとっては悪い話でもないだろうし」
 ハデスの言葉に大いに不安を覚えながらも試合に目をやれば、死人返りとして超人的な力を得たカミラの剛力によって、エルジェーベトの手からその得物が弾き飛ばされたところだった。さらに彼女は、武器を失ったエルジェーベトの腹部に細剣を刺す。
 舞台に朱が散った。
「バートリ公爵!?」
「エルジェーベト!」
 控え室にいたクルスが名を呼んで駆けつける。ちょうどシェリダンも階下のその場所へと辿り着いたところのようだった。
クルスとジュダの二人が飛び出して、エルジェーベトの救護に駆けつける。
 それを横目に、カミラは血塗られた剣を、真っ直ぐに舞台の外のシェリダンに向けた。
「さあ、殺し合いましょう。お兄様」
 嬉しそうなそれはもはや疑いようもなく、禍々しい狂気の笑みだった。

 ◆◆◆◆◆

「さぁ、殺し合いましょう、お兄様」
 その剣から滴る酷薄な紅とは裏腹に優しいとすら言える笑顔で、カミラは言った。
「カミラ……本当に」
 エルジェーベトを刺した彼女は容赦も躊躇もない様子で、シェリダンに剣を向ける。
 表向き向けられたのは剣でも、その奥底に潜むのは白刃よりも眩く煌めく殺意だ。
 ロゼウスを愛し、シェリダンを憎む少女は今まさに己の手でその二つの願いを成就させようとしている。
 階下を目指して一気に駆け下りてきたのは失敗だったか、シェリダンはエルジェーベトがどうやって負けたか見ていない。ただ、舞台に辿り着いた時には彼女の手からその得物が弾き飛ばされていた。
 カミラによって流血の負傷をさせられたエルジェーベトはクルスとジュダによって手当てを受けている。細剣での攻撃だからさほど致命傷でもなさそうだ。
 だが、人の心配をしている場合ではない。
 カミラは自分を殺そうとしているのだから。
「……ああ、わかった」
 一つ息を吸ってシェリダンは覚悟を決め、答えると共に腰の剣を抜いた。舞台の上に上がり、エルジェーベトの身体から流れた血もそのままの赤い床に立つカミラと相対する。
 避けられない。逃げられない。
 予想はまったくしていなかったが、一度事情を理解してしまえば、いつかは必ず来る瞬間だったのだ。
「……カミラ」
「……お前に名など呼ばれたくない!」
 憎悪の眼差しで睨み付けられる。記憶にあるよりもずっと強いそれに、どうしてこの瞳を忘れられていられたのかと自分を呪う。
「シェリダン、お前など死んでしまえばいい。卑怯な手段で玉座を得た、汚らわしい男。私はお前を殺してこの国の玉座を、そしてロゼウス様を取り戻す!」
 ひやり、と。
 ロゼウスの名が出たところでシェリダンの首筋にもはっきりと何が突きつけられているかわかった。この冷たい刃が。カミラが自分から奪おうとしている物が何なのか。
「渡さない」
「何ですって」
「渡さない。お前にロゼウスも、この国も」
 それが例えお前であっても、渡すわけにはいかない。カミラが望むのが玉座だけであれば、その資格は十分だと認めることもできたが、出てきた答がそれならば私は絶対に許す事はない。
 カミラはロゼウスを愛している。ヴァンピルでなく人間ではあるが、女である彼女は間違いなく「ローゼンティア第四王子ロゼウス」に相応しい相手だ。
 だけれど、今観覧席と言う名のバルコニーでこの様子を見ているはずの少年はもう、「エヴェルシード王妃ロゼ」。 
 あえて振り向かない。振り返りロゼウスの中に自分を拒み、カミラと共に行くことを望む光など見つけてしまっては、もう立ち上がれないから。
 わかっていても見たくないものはある。今だけは目をそらし耳を塞いでそれを拒絶する。
「あれは私のものだ」
 ロゼウス自身が私をどう思っていようと―――憎み嫌おうとも、あの男は私のものだ。
 例え側にいることでお互いを喰らいあい壊すことしかできなくても、それでもシェリダンにはロゼウスが必要だ。
「いいだろう。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。全力でかかってくるがいい。私も全力でお前を殺す。今度は骨となるところまで見届ける」
 何故だろう。昔は確かにシェリダンはこの妹を愛していた。閉じた白黒の世界で唯一黄金の輝きを放つ彼女が眩しかった。
 だがカミラ、もう私の世界にお前はいらないんだ。白と黒を越えた果てに、紡がれる深い紅を知ってしまったから。
 醜い黒と人を狂わせる白の奥から流れる紅い血。それだけだ。欲しいのは、ただそれだけ。
 それを奪われないためならなんだってできる。――かつて愛したお前を殺すことさえ。
「そう来なくてはね」
 妹であった女は美しく、そして禍々しく笑う。
「私はあなたを殺す、殺してロゼウス様をいただく」
 舞台の外で凍り付いている審判をせっついて、試合を始めさせた。
「死んで! シェリダン!」
「断る!」
 一撃目を受け止めてシェリダンはそのあまりの重さに驚いた。何だこれは、手が痺れる。なるほど、エルジェーベトではこれを受けとめきれないわけだ。
 先程のロゼウスの驚きようからすると、カミラがここにこうしているのは何か彼の介入の結果らしい。つまり、カミラはシェリダンもその全貌を知らないヴァンピルの秘術によって何事かの力を得たのだ。それがこれか。
 腕力も速さもそれまでのカミラとは大違いだ。剣術としては洗練されたものではないが、そもそもシェリダンはこれまでカミラが剣を振るうところなど見たことがなかった。そしてその技量を補ってあまりある程に、身体能力が違う。
「ぐっ……!」
 連続でただ斬りつけるだけの無茶な攻撃に圧倒される。一撃一撃が重く素早いその剣は、ついていき防ぐのがやっとというただそれだけでシェリダンを苦戦させる。
「どうしましたの? 兄上。あなたらしくもない。私ごときにそんな顔をするなんて」
 爛々と黄金の瞳に殺意と悪意を光らせて、復讐姫は王を嘲笑う。シェリダンを殺すためにその手を血に染めることも厭わなくなったカミラ。相手を殺す必要はない御前試合で、得物を失ったエルジェーベトを躊躇いなく刺し貫いた。
 お前に負けるわけには行かない。
「くっ!」
 防戦一方の状況を回避するために足払いを仕掛けた。カミラは軽々とかわすが、その瞳に剣呑な光を湛えている。
「王ともあろう者が落ちぶれましたわね。ここは剣術大会の舞台でしょう? シェリダン」
「出場申請なしに優勝者からその権利を奪って挑んできたお前に言われたくはないな」
 カミラの言う事は正論だが、やっていることの無茶さについてはお互い様だ。一度体勢を立て直し、一気に攻勢に転じる。
「ちぃっ!」
 今度はカミラが苦鳴をあげる番だった。腕力を封じるなら一撃に力を込めさせなければいい。その前に、相手に反撃する隙を作らせなければいいのだ。
 クルスと戦った後のエルジェーベトと違い、シェリダンはまだ体力がある。絶好調とまでは行かないが、やり方を間違えなければカミラには負けない。負けるはずがない。負けたりしてはいけない。
 そのはずだった。
 しかし何とか息継ぐ間もない攻撃で先手を打とうとしたシェリダンの足を、投げられた爆竹が止める。会場中で悲鳴が上がり、耳を突き刺す爆音と煙が上がった。
 続いて、声が。
「ロザリー! ミカエラ! ミザリー!」
 ローゼンティア王家の兄妹を呼ぶ声だ。若い男の声。その聞こえてきた方向に嫌な予感を感じて振り返れば、観覧席に人影が見える。
「っ! ロゼウス――」
 薄汚れた襤褸を身に纏う、蒼い髪の青年が今まさにロゼウスの身体を抱きかかえてバルコニーから飛び立つところだった。あれは確か、一回戦でエルジェーベトと戦ったアウゼンリード。
 他にも幼い顔立ちの白い髪の少年がミカエラを抱え、さらに幼い同じく白髪の少女がミザリーとロザリーの手を引いていた。そして彼らヴァンピルたちは、飛び降りて人込みに紛れ、それも抜けて一気に姿を眩ます。
 エチエンヌとローラの姿が見えないことが不自然だ。
「なっ――っ!?」
 何をやってる、誰か追え! あげようとしたその言葉は込み上げてきた鉄錆の味に封じられた。
「余所見も油断も禁物ですわ、シェリダン」
 すぐ近くで声がする。甘い少女の声が囁く。
 シェリダンの身体の中央を差す細剣の感触。灼熱感。
 ずるり、と刃が引き抜かれる。
「陛下!」
 クルスが悲鳴をあげた。
 口元から紅い滴りが零れた。腹が熱い。
 しかし、それよりも。
「クルス!」
「シェリダン様!」
「何をやってる! さっさとヴァンピルを追え!!」
「っ――!」
 喉も裂けよと絶叫して指示するシェリダンの言葉に一瞬迷う姿を見せた彼は、すぐにシェリダンとエルジェーベトのことをジュダに任せて会場を抜け出した。その後姿が逃げた吸血鬼たちの跡を追うのを見て、ようやく気が抜けた。
 その途端にまた襲ってくる痛み。叫んだ拍子にさらに傷口を痛めたらしく、もう立ってはいられない。白い石で作られた床を紅く汚しながら、その場に膝を突く。
「無様ね、兄上」
 カミラが頭上で剣を振り上げるのがわかったが、動けない。
「そこまでにしていただきましょうか、カミラ姫」
 目の前に影が差して、誰かがシェリダンとカミラの間に割り込む。その声がジュダのものだと思った瞬間、意識がふっと遠ざかった。
「どうして――」
 カミラのそんな言葉を聞いたと思ったが、薄れ行く意識の中では定かではない。


081

 俺は、その手を振りほどけなかった。

「シェリダン……カミラ……」
 ハデスの術によってその場に縫いとめられたロゼウスは、一歩も動く事ができずにその戦いを見ていた。特別観覧席、シアンスレイト城の見晴らしの良いバルコニーは御前試合を王が観覧するために最上の場所として選ばれ整えられている。
 眼下ではまさに高度な試合が行われていて、この場所はそれを眺めるに相応しい席だった。
 けれど、それはロゼウスの望みではない。できるなら今すぐここから飛び降りて、二人の争いを止めさせたい。
 かつて愛した少女と、ロゼウスを「愛している」と言った少年が戦っている。
 二人が望むのは一つの冠で、今はシェリダンの頭上にあることが正しいそれを、カミラが勝てば彼女のものにできるのだと。エヴェルシード王になりたいカミラは、シェリダンを殺して玉座を手に入れるつもりだ。
「ハデス……っ! 俺を離せ! 二人の戦いを止めさせるんだ!」
 彼の紡ぎ出した黒い糸に縛り付けられながら、ロゼウスは必死にハデスに呼びかける。
「このままじゃ、シェリダンもカミラも……」
 不用意にロゼウスが血を与えてしまったせいで、カミラの身体能力はもはやヴァンピル並だ。ただの人間であるシェリダンが持ち堪えられるのもそう長くは続かないだろう。そして彼には、退路など与えられてない。負ければカミラがエヴェルシード王の座に着く。そしてこれまでの確執を考えれば、その後彼女がするだろうことは一つ。
 それはシェリダンの抹殺だ。
 負けるという選択肢はシェリダンには与えられていない。それは彼の死を意味する。
「止めなきゃ――」
 だから、止めなければならない。誰かが――俺が。
 今、名目上この国でシェリダンについで身分があるのはロゼウスなのだ。エヴェルシード王妃。妃殿下ではなく、妃陛下という敬称がその権力を現している。王とほぼ同等の地位を持つということを。
 なのに、身体が動かない。ロゼウスよりもシェリダンよりも本当は途轍もない権力を有しているはずのハデスは何故かロゼウスを足止めするように、この場に魔術によって縫いとめている。
「止める? どうして?」
 王家の兄妹の玉座を争っての殺し合いを止めさせようと、動かない体でもがいて足掻くロゼウスを気だるげに見つめ、憐れむような微笑さえ浮かべてハデスは言い放った。
「止める必要なんてないじゃない。このままじゃ、どちらかは死ぬ。あるいは両方が。そのどんな結果になっても、君が困ることはないだろう、ロゼウス」
「な、に」
「シェリダン王が死ねばローゼンティアに有利に働く。二人が共倒れになってくれればなお有利だ。カミラ姫はヴァンピルの力の影響でこれ以上死ぬ事は無いから負けたところで失うものはないし。彼女は君が好きなんだから君を害するわけはないし。ね、君が特に介入しなきゃならない事態でもないでしょ?」
「ね、って……」
「それでも止めたいの? 言ったよね、カミラ姫は死なないって。だから本当は姫が死んだり共倒れの選択肢なんてない。結果は一つに決まっているんだ。その最初で最後にして最大の一つを、君は止めたいの?」
 カミラは死なない。不死身と言うわけでもないが、人間が通常受ける傷くらいで死んだりはしない。だから彼女がシェリダンに殺されることはない。
 ならば、あの舞台の上で死を可能性として持っているのは誰だ。
 何かを失う事がある者は。
「君は馬鹿だね、ロゼウス。こんなにされても、まだシェリダン王を助けたいの?」
「ハデス――」
「僕が知らないことなんてこの世にないんだよ、ロゼウス」
 彼は指を伸ばし、ロゼウスの胸に指を突きつける。心臓の真上に置いたその指で、見えない棘を植え込んでいく。
 黒レースのヴェールはまだ被っていたけれど、それをハデスが突きつけている指とは逆の腕でするりとはいだ。途端に、今まで鈍かった視界がはっきりとし始める。ヴァンピルの視力ではほとんど不都合もなかったが、やはりこの薄布一枚で世界がこんなにも違う。
 エチエンヌとローラはハデスによって昏倒させられている。ロザリーやミカエラ、ミザリーも動けないようだ。
 シェリダンが死ねば、この状況から解放される可能性が高い。何故ならローゼンティア侵略を行ったのはエヴェルシードでもシェリダンについていた一派だから、その逆派閥を味方につける必要のあるカミラは自然、シェリダンとは逆にローゼンティアと親政をとるはずだ。
 その第一手としてまず考えられるのは捕らえた人質、つまり王族であるロゼウスたちの解放。そしてシェリダン派であるローゼンティア残留のエヴェルシード貴族を粛清し、シェリダンとは全く違う方向で政策を進めるだろう。
 ならば、ロゼウスたちはこのまま動かない方が得策だ。わかっているから姉たちは動かない。
 シェリダンが死ねば解放される。何もかも解放されて、これまで持っていたものの一部は取り戻すことができる。
 シェリダンが死ねば――。
 改めて突きつけられたその事実に、ロゼウスは我知らず打ちのめされた。ハデスはロゼウスを愚かしい子どもでも見下ろすように見て、胸の上の指を離す代わりに手でその顎を捕らえた。彼の目を真っ直ぐに見つめさせた。
「可哀想に、ロゼウス王子。そんな格好させられて、あなたはシェリダン王の体の良い玩具にされたにすぎない」
 ロゼウスを見据える黒い瞳の酷薄なひたむきさに、ぞくりと背筋が総毛立つ。
 誰だ? 
 これは一体誰だ?
 見慣れたはずの面影が、急に掴みがたいものになる。
「ねぇ、彼を憎まないの? ロゼウス王子。無理矢理犯されて辛かったでしょ? 国民を人質に取られて何度も脅されて揺さぶられていいように弄ばれた。君には彼を憎む権利がある」
 そう。ロゼウスはシェリダンに無理矢理奪われた。踏みにじられて引き裂かれた。
 でも、どうして。
 何故今更、押さえ込んだはずのそれをよりにもよって彼に思い出させられる羽目になるのか。
「ハデス」
「なんだい? ロゼウス王子」
 自分をただのロゼウスではなく、王子と呼ぶこの少年姿の帝国宰相の声。
「あなたは誰だ」
 その瞳に確かに潜む、暗い憎悪。
「っ!」
 問を突きつけた途端彼は鼻白み、その瞬間他の人々の精神にかけられた呪縛も解かれたようだった。一早く我に帰ったロザリーが声をあげる。
「惑わされないで、ロゼウス!」
 苛立った様子のハデスが凄い剣幕で彼女を振り返り、乱暴にその髪を掴む。
「黙れっ!」
「きゃあ!」
 不意打ちにロザリーが悲鳴を上げ、ロゼウスは止めようとして自分の身体が動かないことを思い出した。この黒い戒めの糸が忌々しい。なんとか断ち切れないかと再びもがく耳に、唐突な爆竹の音が飛び込んできた。
「ああ、ようやくか――」
 ハデスがロザリーから手を離し、エチエンヌとローラを抱えて観覧席の奥へと消えた。
 会場中には、爆竹の煙で薄い煙幕が張られる。その煙を掻き分けるようにして人影が飛び込んできた。
「ロザリー! ミカエラ! ミザリー!」
 蒼い髪のアウゼンリード。いいや。
「アンリ兄上!」
 兄の声に叱咤されて、ロゼウス以外の三人は我に帰った。バルコニーに降り立ったのはアンリだけではなく、兄妹の末の二人であるウィルとエリサも一緒だった。
 ウィルはさして体格の変わらないミカエラを軽々と抱え、エリサは戸惑う二人の姉の手を引いた。最後の一人、アンリは思い切りロゼウスに抱きつき、ロゼウスを抱えあげる。不思議なことにハデスの魔力によってロゼウスを拘束していた黒い糸は、アンリに触れられた途端、すうっと溶けるように消えていった。
 そしてロゼウスの身体からは力が抜ける。これまでも限界だったのに、あの拘束から抜け出そうと随分力を使ってしまったから。
「ロゼウス! 無事だったか!」
「あ、兄上……」
 温かい腕。何の下心もない、穏やかな家族の抱擁。
「すぐに逃げるぞ! こんなところにいちゃ駄目だ!」
 九つほど年上だが外見はロゼウスとそう変わらない年齢に見える兄、アンリ。彼の手は守るように強くロゼウスを抱きしめて。
 振り解けない。
 涙が出るほどに餓えていた、この、ぬくもり。
 でも。
「に、兄様、待って、待ってくださ……」
 眼下ではまだシェリダンとカミラの戦いが続いているのだ。それを止めないと――。
「駄目だ。すぐに脱出するぞ!」
 冷静な兄はロゼウスの言う事を聞かず、すぐさまバルコニーからロゼウスを抱えて飛び降りた。他の兄妹たちも続々とその後を追ってくる。一度駆け出してしまえば、人間の足では容易に後を追えないはずだ。
「シェリダン――」
 口から零れた言葉は風に攫われて、誰の耳元にも届かず儚くなる。
 アンリの手引きにより、ロゼウスたちローゼンティアの兄妹は無事にエヴェルシード王城を脱出した。

 ◆◆◆◆◆

 そろそろいいかな。
 魔術でぱっとその場に作り出した拡声器を持って、重傷のシェリダン王に代わりこの場はハデスが収めてあげることにした。
「静まれ! 皆のもの!」
 だてに何十年も帝国宰相なんて御大層な地位についていたわけではない。このぐらいの混乱を治められない自分でもない。
「我が名はハデス=レーテ=アケロンティス! アケロンティア帝国宰相なり!」
 この世界《アケロンティス》、またの名をアケロンティス帝国を統べる皇帝デメテルの弟。
 ハデスの価値がただその一片にしかないものだとしても、その威力は絶大だ。
「こたびの最終試合、優勝者であるバートリ公爵から奪い取ったカミラ殿下を名乗る逆賊の所業によるため、王権の移行は無効となる! 会場の臣民は迅速な場の撤収に勤め、これまでよりシェリダン陛下への忠誠を一層のものとせよ!」
 都合のいいときだけ宰相の名を持ち出し、要約すれば「今回の事は忘れてさっさと帰れ」と会場中の人間に言いつけてハデスはバルコニーから降り立った。
 舞台横にいた傷を負ったシェリダンとすでに手当てのされたエルジェーベトのもとへ駆け寄り、気楽に話しかける。
「あーあ、大変そうだねシェリダン」
「ハデス……」
 腹部からどくどくと血を流しながら彼はハデスを睨み付けて来る。
「何故、ヴァンピルを止めなかった……」
「僕は別にずっとあの場にいたわけじゃないけど? シェリダン」
 傷を治しながらもさらりと嘘をついて、まだ疑う様子のシェリダンから離れてエルジェーベトの傷を癒す。エルジェーベトは礼を言って立ち上がったが、ハデスのことを不審そうに見る。
「それにもしも僕があの場にいたとして、止められると思う? 吸血鬼七人相手に」
「七人……?」
 襲撃者は三人だ。アウゼンリードの名で試合に潜り込んでいたアンリ王子、小姓や給仕として雇われていた末っ子二人のウィル王子とエリサ姫。
 しかしシェリダンは大事なことを忘れている。
「あのねぇ、シェリダン王」
 ハデスはわざと、出血のせいで思考が働かない彼が無防備に晒した心の柔らかい部分に棘を刺すように言葉を刺す。
「今までさんざん君に苛められていたロゼウス王子、それに妹姫のロザリーだってそうだよね、後の二人は来たばかりでよくわからないけれど……その彼らが、いくら国民を人質にって前提があるとは言え、君と、危険をおして助けに来てくれた他の兄妹とだったら、どちらを選ぶと思う?」
「――っ!」
 愕然とした顔でシェリダンはハデスを見つめる。いくら頭で言い聞かせても、実際に現場を見れば胸が痛いのだろう。
「ロゼウスが……私を裏切った?」
「もともと彼は君の味方じゃないしね。この機会にこれ幸いと逃げ出しても、彼を責めるのはお門違いじゃない? 逃げてほしくなかったのなら、逃げ出さないよう厳重に、鳥籠に閉じ込めておかなければいけなかったんだよ」
 傷ついた心と身体に染み込ませる言葉と言う名の毒。
「ねぇ、シェリダン、僕言ったよね」
 血の気を失ってさらに真っ白になった頬に指を伸ばし、悪意を注ぎ込む。
「誰にも渡したくないなら殺せって」
 ――どうすれば、ロゼウスは私のものになる……?
 ――そんなの、簡単じゃないか。
 ――殺してしまえばいい。
 ――殺してしまえばいいんだよ、シェリダン。……本当に欲しいものはね。そうすればもう他の誰も彼に触れる事はできない。
 あの時のやりとりを思い出し、シェリダンが震えながら目を見開く。
「諦めなよ。君の詰めが甘かったんだもん」
「……諦められるものかっ!」
 悲痛な叫びに、ハデスは気づかれないようほくそ笑む。誘導成功。
「エルジェーベト!」
「なんでしょう、陛下」
「まだ走る気力はあるか?」
「ええ。ありますとも」
 エルジェーベトは頷き、高価なドレスの布地を景気良く裂いて裾を短くする。
「クルスなら何らかの目印を残しているはずだ。それを追う」
「了解いたしました」
 二人とも腹部を刺し貫かれる重傷を負って、傷が癒えたばかりだと言うのに元気が良いことだ。
 それまでエルジェーベトの傷の手当をしてからは何をするでもなくこの現場に佇んでいたイスカリオット伯爵ジュダがハデスの方へ歩み寄りこっそり話しかけてくる。
「ああ、イスカリオット伯。カミラ姫の方は?」
「ドラクル王子が回収しました……が、どういうことですか? ハデス閣下」
「どういうことって?」
「このまま、カミラ殿下に王位を奪わせれば良かったのでは? その方が早く僕らの計画の達成になる」
 いくら年齢の割に老獪で底の読めない狂気の男だと恐れられているとはいえ、彼はまだ二十七歳だ……ドラクル王子も二十七歳だけど。
 彼らの計画は二人には十分理解できないものらしい。
「わかってないね、イスカリオット伯。こういうのは焦らしに焦らさないと駄目なんだよ。それとも君はシェリダン王を舐めてる?」
「いえ、そういうわけでは……」
「シェリダン王にも言ったけれどね、今の君も同じことだよ。今、無理に相手を手に入れたところで、本当に相手は自分のものにはならない」
 ドラクルに会ったことでロゼウスの心を揺さぶり、シェリダンはそれによって自分を見失いかけるほど激昂して、今回のカミラのことでまた二人に亀裂をもたらし、ロゼウスをシェリダンから引き離す。
「ここで終わりだなんて、まだ甘い」
 一度ならず二度までも他人がロゼウスに触れることを許してしまったシェリダンは、もう他の人間にロゼウスを渡すなんて耐えられないだろう。見事彼がロゼウスを取り戻した暁には、今度こそ誰の手にも渡らないようロゼウスを監禁するか、もしくは……。

 誰にも渡したくないのなら。
 殺せばいい。

 注ぎこんだ毒は、鮮やかにその身体を巡る。
 もともとがドラクルを愛し、ローゼンティアから無理矢理攫われてきたロゼウスのことだからシェリダンにどんな敵意を持っても不思議じゃない。その事実と、派生しうる現実がさらに二人を引き裂く。けれど人間は、逃げられれば追いたくなる。
 手に入らないものほど欲しくなる。
「これがあるからこそ、計画の達成度が高くなるんだよ、伯。シェリダン王は馬鹿じゃない。とんとん拍子だと逆に作為的なものを感じて警戒するタイプだ」
「しかし、伯」
「焦らない焦らない。まだカミラ姫の出番は終わったわけではないんだよ。シェリダン王とロゼウスが焦りのあまり自分から足を踏み外すくらい、追い詰めて追い詰めないと」
 そこまで追い詰めたのなら、後はちょっとその肩を奈落へ向けて押すだけ。
 話し合っていた彼らのもとへ、伝令の兵が駆け込んでくる。
「帝国宰相閣下」
「何だ?」
「陛下はどちらへ?」
「今は御前試合に潜り込んだヴァンピルの行方を追っている。用件は私が聞くが?」
 一瞬の躊躇いを見せた後、その兵はハデスに告げた。
「実は――……」
 ああ、ついに。
 もう一つの運命も動き出そうとしている。
 ハデスの役目は今に始まっていて、まだまだ先まで終わらないというわけか。
「わかった。そちらは私に任せてもらおうか。シェリダン王に代わって対処しよう。城の鎮静化に対してはバイロン宰相を頼むように」
「はっ……かしこまりました」
 また二、三の指示をそこいらに出して、シアンスレイトの混乱を治めるのに協力する。伝令の兵士が持ち場に戻りその姿が見えなくなってきた頃、隣に立つジュダが声を潜めて尋ねてきた。
「どうしたのですか?」
 バイロン宰相の号令によって御前試合の会場の片付けは着々と進んでいて辺りは駆け回る召し使いの姿でいっぱいだ。まだ爆竹で張られた煙幕が晴れきらず作業しにくいその中で作業する彼らは、彼らの話になど注目する暇もない。
 だから先程と同じように、なんでもないことのように告げた。
「第六王子が動き出したよ。これでさらにロゼウスを足止めできるね」
「逃がしたくせに、最初から捕まえさせる気なんだから意地が悪い」
「君もね」
 ハデスはジュダを伴って、先回りをする。アンリたちがロゼウスを連れて行く先の検討は、彼とカミラとの会話でついている。
 このために彼女には何も知らせずにいたのだ。せっかくシェリダンを刺して、今にもトドメを刺すところを止められたカミラは悔しそうだったけれど。
 しかし今のところはまだ、ハデスとドラクルの計画の範囲内。
「さぁ、舞台は整えた。役者たちも出揃った。そろそろ踊ってもらうよ」
 ロゼウス、お前にこの《世界》は渡さない。
 ジュダやドラクルの思惑は都合がいいから利用しただけ。カミラでさえも、舞台を盛りたてるための装置。哀れなヒロイン、復讐姫。
 そうして僕は、彼らを美しく、悲劇的に躍らせる――。
 それはなにもかも、ロゼウスを追い落とすための演出。
 
 さぁ、終焉への宴を始めよう。

 《続く》