072

「何故そのまま、その刃で私を殺さない」
 シェリダンの剣を弾き飛ばし、喉元に刃を突きつけたロゼウスが切っ先をひくのを見て、シェリダンは思わずそう口にしていた。
 剣技ではシェリダンに敵わないなどと言っていたくせに、ロゼウスはやはり強い。あのローゼンティア王城侵略の際だって、セワードがブラムスに勝つまで、シェリダンはロゼウスの剣を持ちこたえるのにやっとだった。本来なら王子の一人程度さっさと片付けてセワードに加勢し王を討ち取るつもりだったのだが、その目論見を阻んだのは他の誰でもなく、今目の前にいる少年だ。
 華奢な身体を普段よりは多少動きやすい女衣装に代えて、剣を持つロゼウスの姿は美しい。儚げなその姿と無骨な剣の取り合わせに、何とも言いがたい迫力が漂う。
 シェリダンを見つめるその紅い瞳。極上の鳩の血色の眼差しが、不思議そうに瞬く。
「どうして?」
 直前まで夢と現を彷徨うかのような風情だったくせに、いざ試合となればしっかりとシェリダンに勝ったロゼウスは、感情の篭もらない瞳でシェリダンを、見つめる。
「今更あんたを殺して、何になるの?」
 ローゼンティア侵略の際ならば、大きな結果をもたらすことになった。華燭の典をあげる前ならば、彼がシェリダンから逃げ出す好機となった。
 だが今ここで自分がシェリダンを殺す理由はないと、ロゼウスはあっさりとそのように告げる。
「……理由なら、ある」
 シェリダンがいなくなれば、もう牢獄に監禁されて陵辱の限りを尽くされることも、兄妹を人質に脅されることもなくなるはずだ。兵の報復はあるかもしれないが、もともと自国を侵略した敵国の民に情けをかける必要などない。それならばロゼウスは、吸血鬼の実力を発揮して簡単にエヴェルシードの民を虐殺することも可能だ。
 何故、殺さない。
 何故、殺したいほどに私を憎まない。私はあんなにも、お前を傷つけているのに……
 周囲では観戦していた兵士たちがまだ度肝を抜かれた様子で呆然としている。誰もロゼウスが勝つとは思っていなかったのだろう。立ち尽くすシェリダンとロゼウスの姿に釘付けになっているが、試合のための舞台と観戦位置までは距離があるから、この声は誰にも届いてはいない。
 シェリダンと同じ舞台に今も立つ、ロゼウス以外には。
「お前は、私を憎んでいるのではないのか?」
 問いかけたその言葉に、ロゼウスが長い睫毛を瞬かせてまばたきする。
「憎、む?」
 思いもかけない言葉を言われたように、シェリダンの言葉を鸚鵡返しに呟いてそのまま沈黙した。
 そんなこと考えてみたこともないと言うような態度に、きりきりと胸が締め付けられる。
 問いに対する答を誤魔化すように、今度は彼の方から問いかけてきた。
「あんたは……そんなに死にたいのか?」
 そうだな。私も頭がおかしい。何故殺さないなどと聞いて、まるで自分が殺されたかったみたいな言い様だ。
「別に。ただ死にたいわけではない」
 お前になら殺されてもよかったと思うだけで。
「無駄死には嫌いだ」
 お前が私を憎まない理由がわからないこの今のように、意味のないものは嫌いだ。
「……俺は」
 ロゼウスが何かいいかけて、ふいに口を閉ざした。眩暈を起こしたように急にその場に蹲り、観客の兵士たちからどよめきが走る。
「どうしたんだ?」
「急に倒れちまったぞ?」
「実はさっきの陛下の攻撃が後からじわじわ利いてきて……ってパターンか?」
「演劇の見すぎだ、お前は」
 好き勝手言う兵士たちの言葉を右から左に流しながらロゼウスに駆け寄れば、自らの体を両腕で抱きしめ、白い肌をさらに血の巡りが悪いような色にしている。
「どうした?」
「日に……あたりすぎた。疲れた」
 練兵場は屋外にあり、屋根がない。今日の天気は雲ひとつない快晴、シェリダンやここにいる兵士のようなただの人間には心地よいぐらいの青空だが、ヴァンピルであるロゼウスには辛いらしい。
 ああ、そうだった。お前はいつも、曇り空にしか優しい眼差しを送らない。
 太陽などいらないのだと。
「わかった。もう今日はこれで終わりにする……エチエンヌ!」
 駆け寄ってきた小姓のエチエンヌにシェリダンの分とロゼウスの分の剣を預け、シェリダン自身はロゼウスの身体を抱きかかえる。五センチほどしか身長の変わらない相手だが、ヴァンピルはやけに華奢で、軽すぎるわけではないのに、どうしてか運ぶのが苦にならない。
ぐったりと力ない様子のロゼウスを横抱きにして、練兵場から離れ城へと戻る。寄ってきて事情を聞いてきた二人ほどの兵士に簡単に説明をしてから、いつもの牢獄ではなく、シェリダンの寝室へと向かった。長い廊下をロゼウスを抱きながら、真紅の絨毯の上を歩く。
シェリダンに抱えられたロゼウスが、呻くように彼の胸に顔を押し付けて囁いた。
「……シェリダン」
「どうした?」
 ともすれば虫の羽音よりも儚いようなその声を、シェリダンは耳を済ませて聞く。触れられた胸から音が骨を伝って脳髄に響くかのように、全身全霊でロゼウスの言葉に耳を傾けた。
「どうしてあんたこそ、優しくするの」
「……何?」
 ロゼウスは淡々と零す。
「俺を抱きたいだけなら、もう望みは叶ってるじゃないか。痛めつけて楽しむのだって、国民を人質に取れば逆らうこともできないと、知っているくせに……」
「……ロゼウス」
「俺があんたを恨んでいるかどうかなんて、どうだっていいことだろう……? だってあんたは恨まれて憎まれて当然のことをして、そのための奴隷として俺をローゼンティアから攫ってきたのだから。……だったら最初から、こんなことしなければ良かったんだ。閉じ込めて犯して傷つけてぼろぼろにしてくれれば良かったのに……」
 抱きかかえているために肌の一部は触れている。その箇所から伝わってくる、何かを深く後悔するような、過去の一部を消そうと必死にもがいているような、その苦しげな声音が余韻を残す。
「王妃なんて、妻だなんて、道連れに死ぬなんて言わなければ良かった。ただ引き裂いて切り裂いて気まぐれで殺してくれれば、楽だったのに……」
 久々に剣を握ったロゼウスの手は紅く染まり、ローラが丁寧に手入れをしていた爪の一部が割れて血を流し無惨な有様を晒していた。その血を華奢な手で掴んだシェリダンの服の襟元に移しながら、ロゼウスが呟く。
「あんたを殺したいよシェリダン。なのに、どうしても殺せない」
 殺してくれれば全てが終わったのに。
「……俺の方が聞きたいよ。あんたは、俺をどうしたいんだ……?」
 私は、お前を。
「陛下、お部屋に」
 考え込むあまりうっかり自室すら見逃す始末。後からついてくるエチエンヌの控えめな指摘により、寝室に到着していたことに気づく。
 剣の試合で汗をかいた服を放り出し、ロゼウスを抱きかかえて浴室に向かう。エチエンヌには新しい服を用意させるように命じ、もう一つを命じて、それが終わったら部屋を出て行くようにとも告げた。一瞬彼が切なげな顔をしたのを見なかったことにし、シェリダンはロゼウスと浴室に消える。
 これまでずっとローラに世話を任せきりにしていたロゼウスを、久方ぶりに自分の手で入浴させる。先程の試合で何箇所か浅い傷はつけたはずなのに、ヴァンピルの回復力でもうどこにも見当たらない。
 練兵場は屋外にあるせいで砂っぽくなってしまった白銀の髪を丁寧に洗い流す。身体も洗い、シェリダン自身の洗髪も終え、風邪を引かないよう二人とも十分に全身を拭ってから外に出る。
 まだ日は高いが、今日の分の仕事は元々終わっている。剣の稽古は、明日からはリチャードとエチエンヌに交替でさせることにする。
 浴室から出て寝台に向かい、その上にあるものを見て、一度温まったことで戻りかけたロゼウスの顔色が再び蒼白になった。
「シェリダン……」
「私がお前をどうする気かと尋ねたな」
 シェリダンはただその答を示しただけだ。
「おいで、ロゼウス」
 殊更ゆっくりと手招いて、ふらつく足取りでやってきたロゼウスの首にまたもや鎖のついた枷を嵌める。こんなものがなくても彼が自分に逆らえないのを知っているくせに、形を見て安心したいがためにシェリダンはそれを使うのだ。
「……お前は私のものだ」
 何度も繰り返すあまりに、いつしか道化の見る夢のように滑稽となったその言葉を繰り返す。
「愛している」
 だから閉じ込める。誰にも渡さない。お前は永遠に私だけのもので、私のためだけに生きればいい。
 シェリダンの言葉どおり、涙目で鎖を嵌めたロゼウスの従順なその姿に小さな満足と。
 同じだけの痛みを、胸に覚えた。

 ◆◆◆◆◆

 室内に濡れた音が響く。
「んっ……ふっ、……ふぁ」
 女の赤い舌が、蛇のように艶かしく、ハデスのそれを這う。
「あ……ああ、姉さん……」
 わざわざ跪くようにして、ハデスの股間に顔を埋めている女のことを呼ぶ。
 本当なら陛下と呼ばなければならないところ、けれどこの寝台の中では身分も何もない二人に戻る。けれどその関係は皇帝とその補佐以上に、こういった色事には向かないものだ。
「あ……姉さん!」
 張り詰めたものを強く吸われて、姉の肩を掴み達する。びくびくと跳ねたそれは美しい女の口の中で精を放ち、先程までハデスのものを愛していた唇から、彼女は淫らな白濁を伝わせる。
「ん……ハデス」
 ハデスの名を呼んで、彼の姉であり、アケロンティス帝国の三十二代皇帝であるデメテルが口づけてくる。舌を絡ませて唾液を吸われるその行為に、ハデスは激しい嫌悪を感じて振り払うと、彼女はつまらなそうな顔をした。
 内心の憎悪を嗅ぎ取られないように、ハデスは慌てて取り繕う。
「ちょっと……酷いよ、姉さん。何も僕が出した後にキスすることないじゃんか」
「うふふ、だからでしょ、ハデス。あなたの出したものなんだから、じっくりと味わいなさい」
 ハデスの裸の胸を撫でて、熟した赤い飾りを口に含んで転がしながら、デメテルは言う。
 大地皇帝。世界の神にも等しい支配者。
 けれど彼女はその実の弟であるハデスの腕の中で、ただの女と化していた。
「ふあ……」
 唾液だの精液だの愛液だのでぐしょぐしょになった体に、指が伸びる。片方の乳首は口に含まれ、もう片方は手で弄られて、内面に反して体の中心はまた勃ちあがるのを感じる。
 気持ちいい。
 気持ち悪い。
 前者は体の問題で、後者は心の問題だ。だからハデスは行為に肌が火照っても頭の隅で感じるその嫌悪感から意識をそらそうと、殊更彼女の体に集中する。
 男なんて肉欲だけで相手を抱ける生き物なんだからと、自分で自分に言い聞かせる。いいじゃないか。別にたいしたことじゃない。それが世界の神たる皇帝であろうが、実の姉であろうが、性欲処理の肉人形ならなんだって構わない。
 そう思うことで、デメテルに触れられるたびに生じるこの不愉快さから目を逸らす。
 考えるな。没頭しろ。
 姉であると言う事を考えなければ、そして相手がデメテルという女であることを考えなければ、その身体は豊満と言うしかない。皇帝になったために十八歳で成長を止めた身体だが、長い間玉座についていたためか、十分に女としての貫禄があり、熟れきった果実のように成熟している。
 男として、抱くには申し分のない体だ。実際彼女に触れたい、本当にただ触るだけでいいのだという男は五万といる。
 ハデスは誘ってくる姉の手をそっと握り返して、すぐにそれを解き、指を彼女の中へと伸ばす。
「ん……あぁん」
 しとどに蜜を垂らすそこをかき回されて、自らに課せられた重責も何もかも頭から追い払い肉欲に没頭する女は歓喜の声をあげる。
 その体勢のまま、さんざんに中をかき回し花びらを可愛がって彼女を一回達かせると、ようやく甘噛みされていた乳首から彼女の口が離れる。
「可愛いハデス。あなたはずーっと、私だけのものよ」
 感情や意志に関係なくただひたすら行為のせいで昂ったものに手を当てて、唇をその赤い舌で舐めながら、デメテルが言う。
「そして私は、あなただけのもの」
 豪奢な天蓋付きのベッドで、狂ったように繰り返されるそれは禁じられた遊戯。
 愚かな姉さん。
 愚かで、そして醜いあなた。
 そのあなたに選ばれて選びし者の宿命を課された僕。
 世界中にすでに知れ渡っている話。ハデスは彼女の本当の選定者ではない。皇帝の選定者は身内から生まれるのが通常だが、その本当の選定者はデメテルとハデスの父だった。しかしハデスは父の顔も名前も知らない。
 自らが次代の皇帝だと知った時、デメテルは父母に懇願した。自分を補佐するための最も近い血族、弟が欲しい、と。
 彼女の望みを聞いて、その願いを叶える代わりに不老不死の皇族の一員にしてもらうという状況で高齢にも関わらず父母は、もう一人の兄妹、すなわちハデスを作った。ハデスはデメテルが皇帝に選ばれた一年後、デメテルが十九歳の時に生まれた弟だ。
 そしてハデスが生まれると、デメテルは父の身体にあった選定紋章印をハデスの腕に移植し、両親を殺害した。だからハデスは両親を知らず、乳母の手でずっと育てられてきた。
 そして十六になった時、姉の寝台に侍るようになった。
「ん……来て、ハデス」
 求めに応じるがまま、ハデスはデメテルの中に挿入する。皇帝はこの世の絶対権力者である。彼女は後のことなど何も気にせず、また何があっても問題にする気もないのだろう、避妊具も使わずに実の弟であるハデスと交わり、遠慮なく中に出させる。
 それはもしかしたら、幸せなことなのかもしれない。
「愛してるわよ、私のハデス」
 だけど僕は。
「んぁ……姉さん……」
 締め付ける女の内壁に、身体は快感を覚える。けれど、どうしても消せない、この背筋に走る悪寒。
「姉さん……デメテル」
 ひたすら腰を振って、姉を満足させ、自分も性欲に片をつける。後始末など頼まずとも周りの人間がやってくれる身分だ。ハデスはただ何も考えずに腰を振り、彼女を満足させればいい。
 そのために自分は生まれたのだから。それだけのために。政治の補佐なんて建前だ。デメテルが欲しかったのは、自分に似ていて自分を裏切らない人形。
 同じ親から生まれた兄妹だって、同じ心を持つわけじゃないのに。
「ああ、ハデス……っ!」
 恍惚とする声。昇りつめる感覚。
「はぁ……はぁ……」
 解き放たれた悦楽にぐったりと身を横たえる、艶かしい肢体の美しい女。顔立ちはハデスと似ている。でも内面は似ていない。
 可哀想な姉さん。
 可哀想で、酷いあなた。
 男が怖いあなた。
 物心ついた頃から父に虐待を受けていたデメテルは、男が怖いのだ。見ず知らずの男など怖いから、間違っても傍に寄せ付けない。たまに性欲を覚えても男娼を買うことすらできないから、だから可哀想な彼女のためにハデスは生まれた。
 僕は、皇帝の玩具。
「あら? ハデス、どうして泣いてるの?」
 言われて、ハデスは頬を滑るぬるい水の感触に気づいた。あんたのせいだよ。飛び出そうになる言葉を飲み込んで、それとは正反対の言葉を口にする。
「ああ……姉さん、僕のデメテル……もっと、もっと……」
 触れた唇に舌が這う。滑り込んでこちらの舌を絡め、熱く濃く、交じり合う。
 もっと、もっと抱かせて。抱いて。
 その方がより深く、あなたへの憎しみが育つ。
 ハデスは皇帝である姉のために生まれ、いつも彼女のために生きるのだと教えられてきた。彼女を抱いて満足させ、甘えておべっかを使い彼女を身体も心も満足させるために、そのためだけに生まれた。
 だからデメテルは、ハデスが自分を裏切る事はないと思っている。
 馬鹿な姉、愚かな姉。そんなに傷つくことが怖いなら、選定者を取り替えてはいけなかったのだ。例えそれまでがどうであろうと、選定者は皇帝を一生傷つけない者を天が指名するのに。
 豊かな胸に顔を埋め、その熟した身体を楽しむ。考えるな。何も。この憎しみと、情欲以外。
 ハデスはただ、浅ましい女を抱いているだけだ。これは、ただの肉人形。性欲を発散させるだけのくぐつが、何であろうと関係ない。
 昂ったものを再び姉の中に抜き差しする。ぐちゅぐちゅと淫猥な音が響き、それぞれの嬌声があがる。
 その傍らで、脳裏に美しい一対の男女の姿がちらつく。いや、本当は男女ではなく、男同士だ。エヴェルシード人の美しい少年と、ローゼンティア人の美しい少年。
 彼らこそ神が見出した完璧な一対。
 そして彼は。あのヴァンピルは……
(させない)
 女の腰を掴んで多少乱暴なくらいがくがくに揺さぶりながら、もはや向ける場所のわからなくなった憎悪を滾らせる。
 そんなことは、絶対にさせない。見ていろよロゼウス。僕はお前を……
 達した姉に締め付けられて自身も精を解放しながら、ハデスは快楽とは違う恍惚の笑みを浮かべた。


073

 気配だけでも、ロゼウスが日に日に弱っていくのがわかる。
「私には……何もできないの?」
 ミザリーやミカエラとは会えるが、地下に監禁されているジャスパーとも会わせてもらえない。シェリダンはロゼウスを監禁し出してから、まるで人が変わったようになってしまった。
 元から善人とは言えないローゼンティアの仇。確かにそういう意味では嫌な男だったけれど、前はそんなことなかったのに。
 バートリ公爵という人物の城で、いったい何があったのか……。
 あの時の話は結局中途半端なままで終わって、肝心なことは何も聞けていなかった。
「ロザリー」
「あ、エチエンヌ。おかえり」
 練兵場で訓練の付き添いをすると言っていたエチエンヌが部屋に戻って来た。シルヴァーニ人の少年。名目上の、ロザリーの夫。
「ねぇ、ロゼウスはどうしてる?」
 尋ねると、眉根を寄せて困った表情が返る。エチエンヌもロザリーと同じように、あのバートリ公爵領での出来事の時には、このシアンスレイト城で留守番をしていた。だから、ロゼウスとシェリダンの間に何があったのか、詳しいことは何も知らない。
 否、ロザリーとエチエンヌだけでなく、リチャードもローラもクルスも、シェリダンに親しい人々はみんなその詳しい事情を知らない。あの時シェリダンについてバートリ領に乗り込んだのは、今は皇帝への報告とかでこの国にはいない、得体の知れない帝国宰相ハデスと、あの何を考えてるかわからないイスカリオット伯爵ジュダだけ。
 こんなことなら、せめて誰か一人、ローラかエチエンヌかリチャードか、せめて一人だけでもいいからあの時のシェリダンたちについていくべきだった。
 今更後悔しても遅いと、わかってはいるが……。
「ロゼウスが勝ったよ」
 自分の考えに没頭していたロザリーは、エチエンヌの言葉にぱっと顔を上げる。
「シェリダン様と剣の試合をして、ロゼウスが勝ったんだよ。見たところふらふらなのに、凄かったよ。あいつの剣技」
 ロゼウスの事はおいておいても、豹変したシェリダンを気にかけているエチエンヌは顔を曇らせている。今のこの城では、国王と王妃のことについては触れてはならないことが暗黙の了解のようになっているが。
 でも、私はロゼウスの妹なのよ。
「その後、日光が辛いとか言って、部屋……というか、シェリダン様の部屋に戻ったんだけど」
「日光!?」
 ロザリーは慌てて窓辺に近寄り、外の景色を確認した。雲すら浮かばない快晴。
 思わず、くらりと来た。
「ロザリー!?」
 窓辺で倒れかけたロザリーの様子に気づき、エチエンヌが駆け寄ってくる。
「ちょっ、大丈夫なの!?」
「平気……あんまり最悪な天気だから、当てられただけ」
「最悪って……」
 人間である彼には、最上の気候にしか思えないのだろう。けれどヴァンピルであるローゼンティア人は、日光に弱い。人間たちが言うほど、浴びてすぐに消えてしまうほど弱いわけではないけれど、日の光は確実に彼ら吸血鬼の力を削いでいく。だから雨の日や曇りの日、それに夜の間だけ普通のヴァンピルは活動する。
 今日は特に、陽光の強い一日。こんな天気の中、ロゼウスは屋外の訓練場で剣を振るったというのか。……きっとロゼウスだからできることだ。ローゼンティアの中でも正妃の実家であるノスフェル家は特別な血統で、ロゼウスはその血を引いている。だから、か弱そうな見かけにも関わらず、ロゼウスは兄妹の中でもずっと丈夫なのだ。
 第三王妃の娘の割には身体が強いと言われるロザリーですら今日の陽光は辛いのに、こんな中を出て行ったなんて……。
「ねぇ、エチエンヌ。ロゼウスに会わせて」
「ええ?」
「シェリダンの部屋にいるんでしょ。こっそり連れて行ってよ。お願い。だって具合悪くしてるんでしょ? ジャスパーにも会えないし、どうしてるか心配なの。せめて一目顔を見るだけでもいいから」
「ロザリー……でも」
 ロザリーの頼みごとに、エチエンヌが視線を揺らす。普段なら振り払うところだろうけど、彼も心の奥底ではシェリダンのことも、ロゼウスのことも心配しているのだ。
何しろ同じヴァンピルであるはずのロザリーが硝子越しでも倒れるほどの陽光をロゼウスはしっかりと浴びてしまっている。シェリダンの最近の様子は明らかにおかしく、ロゼウスに対する態度は異常だ。
「私たちは……一体何が起こってるのかを知らなくちゃ」
 ロザリーはエチエンヌに支えられて、くらくらする頭を押さえながら立ち上がった。
「姫」
「だってそうでしょ、エチエンヌ。あなたはシェリダンの懐刀だって言ってたじゃない。なのに何も知らされず、いいように使われるだけで、私はロゼウスの妹なのに兄に会わせてもらえない。もとからシェリダンがそういう人だったのなら別だけれど、前はそんなことなかったじゃない。今の状態は、明らかにおかしいわ。そして私たちは……当事者なのよ?」
 シェリダンとロゼウスのことは二人の問題かもしれないけれど、でも、二つの国の問題や、シェリダンがロゼウスに何か取引をして強いたことがあるならば、それはロザリーたちにも十分関わりのある問題。
「今すぐロゼウスのところに連れていけないっていうなら、まずはジャスパーのところへ連れて行って。あの子は、特別にシェリダンに嫌われてる。それって、何か知ってるからじゃないの?」
「……わかった。ちょっと待って。もしもの時のために、リチャードさんにも話通してくる」
 エチエンヌも真実を知りたいのだろう、そう言って部屋を出て行った。けれど彼は実の姉であるローラではなく、その夫で同じくシェリダン付の従僕であるリチャードの名を出した。……ローラは妄信的にシェリダンを信じているから、彼女がシェリダンを裏切る事は決してないと……。
 やがてエチエンヌがリチャードを連れて戻ってきて、ロザリーたちは地下へと向かった。ジャスパーの監禁されている牢へ。
「役立たず!」
 酷い言葉を投げつけられる。
「ジャ……ジャスパー?」
 鉄格子の向こうから怒鳴り飛ばされたロザリーを気遣って、エチエンヌがジャスパーの閉じ込められた牢から彼女を引き剥がした。
「何だよ、ロザリー姉様なんて、ずっとロゼウス兄様と一緒にいたくせにみすみすシェリダン王になんて渡して、どうして兄様を守ってくれなかったんだよ!」
 ローゼンティアにいた頃の、あの大人しい弟の言葉とも思えない。ロザリーは呆然として、その場で固まってしまった。
 リチャードが鼻薬を嗅がして……いわゆる賄賂で通してもらった牢番の男が、見かねたように忠告してくれる。
「そのヴァンピルはもう正気を失いかけているそうです」
「何だと?」
「何でも、牢から脱走しようとしてもう三人くらい見張りを殺しかけて、その血を吸おうとしたんだそうで。最近ますます酷くなってるから、極力近寄るなって陛下から言われてます」
「ジャスパー……」
 ロザリーは弟の名を呼ぶけれど、彼は病んだ瞳で睨み付けてくるだけだ。
「ロザリー」
「ロザリー姫、戻りましょう。どの道これでは、まともな話など聞けそうにありません」
「……わかったわ」
 解決しなければならない問題が増えてしまった。ジャスパーをどうにか正気に戻さないと。でもどうすればいいのかわからない。
 涙が出そうになる。
 エチエンヌもリチャードも表情を硬くして、無言で歩いている。
「姉様、アン姉様……アンリ兄様」
 兄妹の中でも優しかった二人、第一王女と第二王子の名前を思わず呼ぶ。二人がいたなら、頼りない自分たちを指揮して、この場から助け出してくれただろうに。
「駄目……しっかりしなさい。ロザリー」
 自分は王女なのだから。いくら継承問題から遠い身分でも、王族であることには代わりがない。民の命を預かる王族が、弱音を吐くなど許されないことよ。
「ロザリー」
 今、この城で一番力のあるヴァンピルはロザリーだ。彼女と同じ第三王妃の娘であるミザリーの身体能力はそれほどでもないし、ましてミカエラは病弱。ジャスパーはあの様子だし、ロゼウスは囚われの身。
 自分が、第四王女ロザリーがしっかりしなければならない。
「お願い、私をロゼウスに会わせて」
 本来ならシェリダンの側に回るべき二人に懇願する。
 リチャードとエチエンヌは顔を見合わせた後、その足をシェリダンの寝室へと向けた。

 ◆◆◆◆◆

「……ロゼ、ロゼウス」
 死んだように横たわっていた兄がロザリーの呼びかけに応えてゆっくりと目を開ける。
「……ロザリー?」
 久方ぶりに聞いたその声の力なさに、ロザリーはロゼウスの寝台の端に突っ伏した。
 ここはエヴェルシード王シェリダンの私室。けれど部屋の主である彼は今、執務のため書斎にいる。代わりのように残されているのは、ヴァンピルの力を封じる銀の枷と鎖に繋がれたロゼウスで、ロザリーはエチエンヌやリチャードの手を借りて最近は絶対近寄らせてもらえなかったここまで来た。
 一週間ほど会わなかっただけなのに、ロゼウスの消耗が一目でわかる。もともと白いヴァンピルの肌がさらに血の気を失って蒼白で、ロザリーが近付いても反応しなかったことを考えると、人の気配に気づく力も残っていないのか、気づいても顔をあげることすらできないほど弱っているのか……どちらにしろ、彼の今の状態が危険であることに代わりはない。
「ロゼウス……大丈夫?」
「ロザリー……お前こそ。こんなところにいたら、今のシェリダンに見つかったら怒られるよ……」
 青ざめてなお美しい容貌の一つ年上の兄は、掠れた声でそう言った。
「そんなの怖くなんてないわ! それよりロゼウス、あなたどうして……」
 ロザリーはロゼウスのこの姿を見て、バートリ領についていかなかったことを本当に悔やんだ。こうなることがわかっていれば、ロゼウスとシェリダンに起こった出来事なんてどうやったって止めてみせたのに……どうして、後悔が先に立ってくれないのか。
 憔悴したロゼウス、野生の獣のような警戒心むき出しのシェリダン、戸惑うエチエンヌたち側仕えの者たち、役に立たない自分。
「……帰るんだ、ロザリー」
 ロゼウスの言葉にハッとする。
「ロゼ」
「今のシェリダンは、何をするかわからない。俺はいいけど……お前は、できればエチエンヌたちの手を借りて保護してもらえ……もしジャスパーみたいに、お前まで巻き込まれたら……」
 ロゼウスだけがこんな責め苦を甘んじて受ける謂れはない。
「そうだ、ロゼウス、ジャスパーが」
 先程、地下牢の中で見た弟の豹変ぶりを伝えようと思ったのだけれど、それを今のこの、弱っているロゼウスに教えていいものかと一瞬迷った。
 その迷っている合い間に、部屋の外で物音がした。続いて、エチエンヌの止める声と、この国の王の――。
「何をしている」
 冷たい声音。氷点下の詰問。
 扉の向こうに見えるエチエンヌの顔が、止め切れなかったことを悔やむように歪んでいる。
「シェリダン……」
「ロザリーか。まあ、貴様ならあの生意気なガキと違って、これにどうこうするわけはないか」
「え?」
「だが、私のものに近付くのは許さない。例えお前であってもな」
 ロザリーがその言葉に疑問を覚える暇もなく、つかつかと歩み寄ってきたシェリダンはロザリーの腕を引き、部屋の外へと強引に連れ出す。
「シェリダン……! 待って、やめろ、ロザリーにまで酷い事は……!」
「しないさ。少なくとも、お前や第六王子にするようなことはな」
 そう言って彼はロザリーをロゼウスから引き離し、部屋の外へと放り出した。自らの腕で動きを封じるように、ロザリーの背を壁へとつけて縫いとめる。
「エチエンヌ」
「……はい」
「もういい。お前は今日は下がれ」
「陛下、でも……っ!」
「下がれ、と言っているのがわからないのか?」
「……失礼しました」
 シェリダンに捕らわれたロザリーの様子を気にはしながらも、エチエンヌはシェリダンの言葉には逆らえない。未練がましい様子ながらも、彼は国王の前を辞した。
 離れるその背中が廊下の角を曲がって視界から消えたところで、シェリダンが腕の中のロザリーへと視線を戻した。
 彼女は挑むように、その眼差しを受けとめ返す。
「どういうことよ!」
 冷静に話し合おうと思っていたのに、ついつい怒鳴ってしまう。
「ロゼウスをどうしてあんな風に閉じ込めてるの!? 何でジャスパーだけ地下牢に閉じ込めたりなんかするの!? ねぇ、最近のあなたおかしいわよ……っ、自分でもわかってるんでしょ!」
 目の前の、ロザリーより一つ年上、ロゼウスと同い年の人間の男は無表情の上、無反応だ。
「何か言いなさいよ……答えてよ、シェリダン」
 彼はローゼンティアを滅ぼし、ロザリーたちの父であるローゼンティア王を殺し、母である王妃を殺した。ロゼウスを捕らえて女装させて妻になんかして、痛めつけた。ロザリーを物としてエチエンヌに下げ渡した。
 それでも、これまでのシェリダンは筆舌尽くしがたい下衆というわけではなかった。悔しいけれど、ロザリーにもそれくらいわかっている。ロザリーたちの国が負けたのは、シェリダンだけのせいではないと。国内の貴族の寝返りと手引き。対応の遅れた父王とシェリダンの能力差。
 ただ憎めたら楽だったのに、それだけではない人。だから、ロゼウスが例え女装なんかさせられて辱められても、本人が気にしていないんだからと、ロザリーも口出しを控えていた。それなのに。
 ……駄目、泣きたくなる。
「ロザリー」
 決して泣くまいと眉間に力を込めたロザリーを見下ろしながらシェリダンがふいに名前を呼んできた。
 思わず見上げた先で、熱い感触に唇をさらわれる。
「……ん、んぅ……!」
 ロザリーの顎を片手で掬い上げ、シェリダンが自らの唇を重ねていた。滑り込んできた舌に、口内を蹂躙される。
 ロザリーはヴァンピルであり、王家でも身体能力ならロゼウスと一、二を争う。銀で魔力を封じられているわけでもないし、素手のシェリダンの力くらい、簡単に振り払えたはずなのに。
 何故かできなかった。
 やがて彼の、濡れて艶めいた唇が離れると、全身から力が抜けてずるずると壁伝いにその場にへたりこんでしまった。腰を抜かした彼女を立たせて支えながら、シェリダンが言う。
「ロゼウスと同じ顔の妹か」
 今まではなんでもなかった、むしろ誇りだったはずのその言葉に痛みを覚え。
「……いっそ彼ではなく、お前の方を愛せたら楽だったのに」
 その台詞に、心臓が跳ねた。
「シェリダン……」
 まだ震える体は彼に支えられていて、ロザリーは自分より背の高い少年の、朱金の瞳を間近で見つめる。
 ローゼンティア国民はヴァンピルだから、人間とは交わらない。一部の王侯貴族は人間の国である他国とも外交政策のために顔を合わせるが、もとより婚姻で交友関係を結ばないローゼンティアの貴族の娘たちは、他国の者である人間と顔を合わせる機会など普通ない。
 それは王女であるロザリーも同じことで、必ず国内の貴族と結婚することが定められていた彼女は、皮肉にもこんなことでもなければ、人間の少年と会うはずなどなかった。
 シェリダンはロザリーの知っている誰とも違う。
 強いて言うなら表面はドラクルと似ているが、あの男はこんなに素直に心情を晒すことなど絶対にない。いつも何を考えているのかわからくて……そして他の兄や弟たちの誰とも、国内で会った貴族ともシェリダンは違う。
「……シェリダン、あなた」
 ああこの人は、本当にロゼウスが好きなんだ。
 その事実がすとんと胸に落ちてきた。首輪と手錠で拘束し、部屋に監禁して嬲るのが愛情かなんてロザリーにはわからないし、今まではそんなもの違うと思っていた。でも、ミカエラやロザリーがロゼウスに好きだと言うような、そんな気持ちとその感情は違う。
 ロザリーに今向けている、愛情と憎悪に引き裂かれて苦悶する切ない眼差しは、全てロゼウスのためのもの。そうなのね。
 聞こう聞かなくちゃと思っていたものの全てが、その葛藤の前に打ち砕かれる。
 ロザリーは当事者だと思っていた。二人の問題でもあるけれど、これは自分たちの問題でもあるのだと。そんな勘違いを一刀の下に切り捨てるような、その強すぎる感情。ただ一人に向けられる想い。
 こうして顔を合わせていても、彼の眼に映っているのは自分ではない。あの口づけは、ロゼウスへのものなのだ。
 堪えていた涙が一粒だけぽろりと零れる。
「……すまない。やりすぎた」
 我に帰ったシェリダンはばつの悪そうな顔をして、ロザリーを解放する。そして振り返らずに、ロゼウスの待つ部屋へと戻った。
「ど……して」
 どうして。
 あの口づけと眼差しで、今までただ嬲り者にしているだけかと思ったロゼウスのことを彼が本気で愛しているとわかったのに。
 何故こんなにも、胸が痛いんだろう……。


074

 苛立ちが募る。
 先程廊下で無理に口づけたロザリーの唇の感触を思い出す。あまりにも柔らかくて、さらさらと乾いて花の香りのする唇。
 本来ならシェリダンなどよりよほど強くこの腕を振り払うのも簡単だったろうに、驚きのあまりか彼を拒絶することも忘れていた。
 ロゼウスと同じ顔の妹姫。せめて愛したのが彼女であれば、自分はもう少しは楽だったのかもしれないのに。どうせ愛されることはなくても、手に入れる事は恐らくロゼウスより容易かったはずだ。
 つい数ヶ月前まで、自分を虐待していた父を思い出す。下町から攫った娘を無理矢理犯して子を生ませ、正妃にまでした父。母が死んでも、得た子である自分を犯して、それで父は満足していたのだろうか。
 だからシェリダンは女を抱けない。もう一生女を抱かない。あの時の……カミラとのやりとりで最後だ。これ以上、この呪われた血を繋げることなど必要ない。
 しかし今となってはこうも思う。ロゼウスが女だったら良かったのに。それならば心は手に入らなくても、犯して子を生ませることができた。その体中の全てが自分のものだと刻み付けることができたのに。
 一つ年下の妹であるロザリーはロゼウスとほとんど同じ顔だ。あの顔で女性。体つきも血筋も最高のものであり、気性の荒さに目を瞑ればまさに完璧だろう。
 だけれど、シェリダンが欲しいのは花の香りの唇を持つ姫ではなく、血の味のする口づけを幾度も交わした王子。
 ロザリーを廊下に追い出してまた部屋に戻った後、シェリダンの様子がさほど変わらないのを見てロゼウスが安堵したのが憎らしい。ロザリーが無事ならば、自分には何があろうと構わないと?
「どうしたの? シェリダン、なんだかつまらなそうな顔しちゃって」
 背後からするりと伸びてきた腕がシェリダンを捕らえ、首に抱きつく。女が男にやるならばまだ愛らしい仕草かもしれないが、男が男に背後から抱きついて何が楽しいものか。
「ハデス、皇帝領に帰っていたのでは?」
「うん。帰ってた。で、今またエヴェルシードに戻って来たところだけど?」
 大陸の端から端まで一瞬で移動することのできる能力を持っている冥府の王は、寝室とは別の私室の一つでくつろいでいたシェリダンの背後に唐突に現れ、機嫌の悪い猫をあやすように首筋を撫でてくる。
「ハデス、鬱陶しい」
「酷いなシェリダンは」
 撫でる事はやめたものの、まだ身体が離れたわけではない。長椅子の背後から正面に回ってきたハデスはシェリダンの膝の上に乗り、顔を覗きこむ。
「不機嫌全開って顔してるよ、シェリダン」
「だからどうした。私の機嫌が悪いと貴様に不都合でもあるのか?」
「別に。ただ気になるじゃないか」
 飄々とした態度で額をくっつけてくる皇帝の弟の身体を鬱陶しいと振り払おうとしたところで、シェリダンはあることを思い出す。
 目の前の男は《冥府の王》、《黒の末裔》、そして。
 預言者。
「――ハデス卿、あなたにはもしかして、私たちのこれからもわかったりするのか?」
 シェリダンの言葉に一瞬こちらの出方を窺うように瞳を細めたハデスが、一拍置いてから答える。
「全部ではないけれど。……例えば、ヴァートレイト城であんなことがあるなんてのはわからなかったよ。でも、お前が下町でロザリー姫と戦って命の危機のときは見えたし、不安定なんだよ、この能力」
 不審なものを見る顔つきで彼はシェリダンの顔に触れ、瞳を覗き込んでくる。今ではもう黒の末裔と呼ばれる民族しか持ちえない不思議な漆黒の瞳で、シェリダンを……シェリダンの瞳や顔と言うより、シェリダンの心を覗き込んでくる。
「未来が知りたいの? シェリダン」
 憐れむような眼差しで、彼は言う。
「未来なんか知ってもね、一つもいいことなんてないんだよ?」
 それは幼い子どもを嗜めるような口調で、やけに真実味を帯びていた。
「それでも知りたい」
 シェリダンの唇から勝手に言葉が零れる。
「私とロゼウスの未来は、どうなっている?」
 問いかけたその言葉を予想していたかのように、ハデスは周到にその瞬間、派手さはないが端正な顔立ちから表情を消した。
「……教えてくれ。私は、ロゼウスは――」
「……言っただろう。預言者は万能なんかじゃない」
 言葉とは裏腹に彼の態度は何かを知っている者のそれで、シェリダンは咄嗟にその襟ぐりを掴む。
「何か知っているんだな!? お前は私とロゼウスのことを――」
 ハデスは答えない。それは、未来に何があることを意味するのだろう。
 シェリダンが立てた誓いの通りならいずれはシェリダンは国を滅ぼし、世界に混乱を招き、ロゼウスを道連れに死ぬ。……それが宣言どおり実行できたのなら、どれほど喜ばしいだろう。
 ロゼウス、私のロゼウス。
 なのに永遠にシェリダンのものにはならない。ドラクル王子にしろロザリーにしろ、あの男はいつもシェリダンではない誰かを見つめている。
 何故よりにもよって、こんな気持ちを抱いたのが彼に対してなのか。エチエンヌでもクルスでもジュダでもなく、どうしてロゼウスに対してでなければならなかったのか。
「教えてくれ」
 ハデスに縋るように胸元を掴んだ手が震える。
「どうすれば、ロゼウスは私のものになる……?」
 耳元でハデスが小さく嘆息した。
「本当は最初から、それが知りたかったんでしょ、シェリダン」
 ああそうだ。知りたかった。焦がれても焦がれてもどうしても手に入らないあの王子を手に入れたかった。それを知りたかった。
「そんなの、簡単じゃないか」
 甘く低く、誘うようにハデスが囁く。耳元に吐息が触れるほど唇を近づけて、言った。
「殺してしまえばいい」
 その響に心臓が飛び跳ねる。
 魂が疼くようなもどかしさと陶酔を覚える。
「……それは、もうやった」
「ローゼンティアの王子王女が生き返ったと聞いた時、それを黙っていたロゼウスに怒ってね。でもあれは本当にヴァンピルが生き返るかどうか実験の意味もあってロゼウスを本気で殺すつもりとはまた違ったんでしょ? まあ、最初は殺すつもりだったのかも知れないけど、君は彼が生き返ることを望んだんだから同じだよね。今度は違うよ」
 シェリダンの耳に唇をつけたままくすりと喉で笑うと、ハデスはさらに続けた。
「殺してしまえばいいんだよ、シェリダン王。……本当に欲しいものはね。そうすればもう他の誰も彼に触れる事はできない」
「……だが、私も触れられない」
 あの時、前に一度ロゼウスを殺した時の、何とも言えない胸の空虚さを思い返す。血のような深紅の美しい瞳が滑らかな白い瞼に閉ざされて、もう自分を見る事がないのだと思ったときの、あの焼け付くような感情。
「そうかな? 君だって触れられない? 本当にそう思う?」
 ハデスはいつの間にかその細い腕をシェリダンの肩に回して包み込み、首筋に顔を埋めながら重ねた。
「殺してしまいなよ、シェリダン。ロゼウスを犯して、殺して、また犯して、その死体を食べてしまえばいいよ」
 あの美しい肌を引き裂いて、その血を流す赤い心臓を喰らい。
「あの美しい髪も、瞳も、肌も、骨も、内臓も、皮も、何もかも全て君だけのものにしてしまえばいい。そうすればようやく、彼は君のものになる」
 細胞の一欠けらだって残さずに。
「君と彼を一つにしてしまえばいい」
 悪魔が囁くような酷薄さで微笑むと、ハデスはシェリダンから身体を離した。
「ねぇ? どうするの?」
 シェリダンは呆然として彼を見上げる。相変わらず彼は憐れむような眼差しでシェリダンを見て、そっと唇を封じた。
「たいしたことないだろう? ロゼウスを他の誰かに奪われることに比べたら、殺すくらい」
 そうか? 本当にそうなのか? 
 でも確かに、嫌だ。あの肌に自分以外の誰かが触れることも、あの瞳が自分ではない人間を映すのも。
 噛み締めた唇が破れて血の味がする。
 その錆びた鉄の香りが、ますます狂気を誘う。自分はヴァンピルでも何でもないのに……。
「私、は」
 ハデスは脱力したシェリダンを放って、部屋から出て行った。
 シェリダンはしばらく何も考えられず、何もする事ができずにその場に蹲っていた。

 ◆◆◆◆◆

 身体に力が入らない。
 あの拷問部屋からは出されたのに、最近余計に体調が悪くなっているようだ。
 銀の首輪は相変わらず嵌められたままだった。横になるたびにその冷たい金属が触れて、これが体力を削る原因の一つにもなっているのだろう。
 だけれど、それだけではないような気もする。
「……シェリダン?」
 いつものように、執務から戻ってすぐロゼウスに触れてきた少年王の名を呼ぶ。二人分の体重を受けて、寝台が軋んだ。
 あの監禁部屋からは出されたから、寝るときはいつもここだ。薄暗い牢獄とは違って、目覚める時はいつもシェリダンが側にいる。
 けれどやはりヴァートレイト城での出来事が起こる前とは違って、彼はいつ見ても、どこか苦しげな表情をしている。笑っているときでさえ、どこか悲しげだ。
 ロゼウスの頬に触れる指。
「ロゼウス……」
 片手をそのまま握りこまれ、今更抵抗なんてする気もおきないでシェリダンの好きなようにさせる。この部屋に戻ってからも拷問部屋の時と同じように、彼は様々な手段でもってロゼウスを抱いてくる。
 今宵はどんな責め苦を与える気かと一瞬身構えて、思ったよりも優しい口づけに驚き、そっと目を閉じた。
 ゆっくりと寝台に押し倒され、上にのしかかられる。
 だけれど、今日のシェリダンはそれから先にいっこうに進もうとしない。
「……シェリダン? どうしたの?」
 最近の乱暴な行為を考えれば、優しく抱いてくれるならそれはもちろん嬉しい。けれど、何かを考え込むようにロゼウスを見下ろしている彼の顔にあるのは、そんな生易しいことじゃないような気がする。
「何か、あった……?」
 体力が落ちているので、ろくに体勢を変えることもできない。そう言えばここのところ血を飲んでもいないな、と思ったら、シェリダンが傷ついた指先を差し出してきた。
 ロゼウスは白い指先を口に含み。甘く馨しいその血の味を堪能した。ふわふわと吸血の恍惚が訪れ、ふっと身体が楽になる。
 その視界に、先程シェリダンが自らの指先を傷つけるのに使った刃物の輝きが目に入った。
 彼はそれを、ロゼウスの心臓の真上で掲げている。
 朱金の瞳に、言葉で表すことの出来ないような、苦悩と葛藤が宿っていた。
「……あんたは……」
「――くっ!」
 永遠にも思える一瞬の躊躇いの後、シェリダンは刃物を寝台下の床に投捨てる。
 ロゼウスはまだふわふわとした心地のまま、それを見る。
「シェリダン」
「……も、……ない」
 短刀を投捨てた彼が、呻くように呟いた。
「殺しても、お前は私のものにはならない」
 憎んでいるかのような表情で、彼はロゼウスの首の枷を外す。
 首を絞めるなら、枷に守られていない箇所を締め上げればいいのに、今までのように。
 ふわふわとした頭でそう考えて、身を起こし、手枷も外されて自由になった腕でシェリダンを抱きしめた。
「……何故」
 彼の呟きは小さくか細く、ロゼウスにはその意味がわからない。
「なんでって……」
「何故お前は逃げない。私を殺さない。お前の力なら、いくら弱っていても私一人殺すくらい簡単だろう。殺してこの血を飲み、復讐を叶えればいい」
 どこかで聞いた台詞だ。
 ――何故そのまま、その刃で私を殺さない。
 ああ、そうだ。練兵場の闘技舞台で、ロゼウスはシェリダンに剣で勝ってその言葉を耳にした。
 そして彼に、シェリダンこそどうして自分を殺さないのかと尋ねた。でもあの時と今では、どこかシェリダンの様子が違う。
 彼は苦しげな表情のままで、ロゼウスの首筋に唇を近づけた。いつものように肌を吸うのではなく、そのまま歯に力を込める。
「うっ、あ、ああああああ!!」
 肉を食い破る感触と、激痛。肩口の皮膚を噛み千切られて、ロゼウスは久方ぶりに本当の意味で悶絶する。
 ひ弱な人間の歯で生きた肉を食い破ろうなんて、所詮は無理な相談だ。すぐに治るとはいえ、痛いものは痛い。
「痛ぅ……あ、あが」
 脂汗を浮かべて苦しむロゼウスを、口元をヴァンピルのように血で染めたシェリダンが無感動に見下ろす。その喉が上下して、わずかばかりとは言え齧り取った肉片を飲み込むのがわかった。
 殺して、しまえば。
 その相手は、本当に自分のものになるのだろうか?
 わからないけれど、シェリダンが今何をしようとしたのかぐらい、ロゼウスにもおぼろげに理解できた。
「シェリダン……今、あんた……」
 この人は自分を喰おうとした。文字通り、骨まで砕いて獣のように食い殺す気だった。
「うっ……ごほっ!」
 しかし元々食人の習慣がない人間が、正気でそんなことできるわけがない。ロゼウスの上からどいて、シェリダンは駆け出し、浴室に繋がる扉を開いた。慌ただしいその様子を、ロゼウスは動けないまま見送る。今頃は真っ青な顔をして、飲み込んでしまった血と肉片を嘔吐でもしているのか。
「……そんなに」
 そんなに、もはや言葉では表せない程度の執着を俺に抱いているのか、彼は。
 ただ殺すだけじゃ飽き足らず、その身体を喰おうなんて、まともな人間の考えることじゃない。ロゼウスたちヴァンピルや一部の魔族には人間を食べる種族もいるけれど、少なくとも人間がヴァンピルを喰らおうとするなんて話、聞いた事がない。
「……シェリダン」
 彼が消えた方向を眺めながら、ロゼウスは涙を流していた。
 身体の傷はもう治りかけている。痛みも治まって、傷口を新しい肉芽が覆い始めている。明日には傷痕も残らず完治しているだろう。
 だけど、けして癒えることがないのは心の傷。
 さんざん吐いたせいか、戻って来たシェリダンは明らかに顔色が悪かった。
 そう言えば確か明日は、彼の言っていたエヴェルシードの剣術大会ではなかったのか? 優勝者が望めば王と戦うこともあるのだという。味方が多いとは言えないシェリダンにとっては、油断の出来ない行事ではないのか?
「……っ!」
 塞がりかけたロゼウスの傷を見つめて、何も言わないまま、彼は寝台に突っ伏した。
 ロゼウスは身を屈め、その頭を抱きしめる。シーツに強く押し付けられた顔を、彼があげる様子はない。でも声は届いているはずだから、そっと耳元で囁く。
「……そんなことしなくても、俺はもう、あんたのものなのに」
 その言葉に、ぴくりとシェリダンが肩を揺らす。
「約束しただろう。俺はあんたのものになると……」
 ローゼンティア国民の命を引き換えであるその取引、契約はまだ生きているはずだ。それに最初から、ロゼウスはシェリダンを本気で拒んだことはない。できる限りの抵抗はしたことがあるけれど、ヴァンピルの本気を発揮して彼に指一本触れさせないなんて事態にはならなかったはずだ。
 兄様を愛している。
 ロザリーやミカエラにジャスパー、家族を愛している。
 だけれど、彼らの元に帰せと言った覚えはない。一番初めのときに、まだあの頃は兄妹たちが甦るという確証もなくてあまりにも辛くて苦しくて、彼らの命を返せと叫んだことはあるけれど。
 もうずっと前から、自分は……ロゼウス=ローゼンティアはシェリダン=エヴェルシードの元に。それが偽りの花嫁でも。
 ああ、俺たちはどこから狂い始めたのだろう。今となっては、その始まりが定かではない。
「……違う」
 くぐもった声で、シェリダンは俺の言葉を否定した。
「お前は一時だって、私のものになどならなかった」
 ――俺はあんたを愛したりしない。一生、好きにはならない。
「え?」
 こうして今だって毎日抱かれているけれど、それでも。
「身体だけ手に入れたところで……」
 初めはロゼウスの顔を見て、性別が男であるからとそれだけを確認して、破滅への道連れにロゼウスを見出したはずの男は言う。
「……シェリダン」
「……もういい。何をしても、殺してすら、お前は手に入らない。その命も身体も私のものなのに……永遠に私のものには、ならないのなら……」
 だから、もういい。
 震える手でロゼウスに縋り付く彼は、迷子になって泣き出す子どものように頼りない。
 やがて顔を上げた時には、多少の疲労こそあるものの、いつものエヴェルシード王シェリダンだった。
「明日は先日話した剣術大会だ。今から疲労していてはかなわないからな、今日はもう寝るぞ」
 彼は無理矢理ロゼウスを寝台に押し込み、自分も部屋着へと着替えて寝台に滑り込んだ。
「おやすみ――私の愛しい、可愛い花嫁」
 それは、まだ出会ったばかりの頃、シェリダンがこの顔でしかロゼウスを見ていなかった頃によくしていた仕草だった。


075

「そういえばロザリー、何かおかしくない?」
「え?」
「僕、この前の牢屋で、第六王子の声、初めて聞いたよ。あの王子は、何かの理由があって口が利けなかったはずじゃあ」
「そういえば」
「ねえ」
「……一体、何があったのかしら、ジャスパー」

 それは、昨日の朝方のこと。
「ご機嫌麗しゅう、宝石王子」
 地下牢に監禁されているジャスパーの元へやってきた人影には見覚えがあった。黒い髪、黒い瞳、特徴的なその容姿の持ち主とは、人買いたちのアジトでも顔を合わせている。
「……っ!」
「ああ、そういえば、まだ声封じたままだったっけ?」
 彼が鉄格子の向こうから腕を一振りすると、ジャスパーの喉が急に楽になった。
「あ……あなた、は」
「何者かって? 帝国宰相」
 帝国とはすなわち、この世界のことだ。アケロンティス帝国。その宰相ということ、それにこの容姿。
「皇帝陛下の、弟……」
「久しぶりに声が出るようになったにしては、よく喋れるね」
「! どうして……っ!」
 何故、そんな人がここに、エヴェルシード王国にいるのか。ジャスパーのような、ローゼンティアというさほど大きくもない、吸血鬼の国という以外に特筆するところのない国の第六王子などの存在を知っているのか。
 何故彼はジャスパーが人買いに捕まったアジトでも姿を現し、ジャスパーの声をその不思議な力で封じたり解放したりするのか。彼はロゼウスとどんな関係にあるのか。何故……。
「はいはい、その辺にしてね。いくら僕でもいっぺんに答えられないから」
「心が……」
「多少は読めるけど、まあ、表面上の感情だけだよ」
 年齢はジャスパーとさほど変わらないように見えるのに、その外見を裏切る老獪な笑顔を浮かべて腕を組み、彼は口を開く。
「君の身体にある痣」
 腰の左にあるその赤い紋様をジャスパーは反射的に手で押さえた。いつの頃からかわからないけれど、ジャスパーの身体に突然現れたこの不思議な痣。彼はこの痣のことも、最初から知っているようだった。
「それはね、君がただ一人の人間のために生まれてきたという証」
 彼は鉄格子の隙間から、ジャスパーの頬へと手を伸ばす。頬に触れようとするそれを拒むために、ジャスパーは背後の壁に背中がつくまであとじさった。
「おやおや」
 しかし彼は苦笑するように小さく笑うと、あろうことか鉄格子を気にすることもなくこちらへと真っ直ぐに進んできた。鉄格子を幻のようにすり抜ける。
「!?」
「冥府の王に不可能はないんだよ。さて、これで話がしやすくなったね」
 まさしく魔術としか言いようのないもので鍵のかけられた牢の中へ入り込んできた少年は、呆然として動けないジャスパーの身体を抱き寄せる。
 背中を抱くようにしてジャスパーを膝の上に座らせ、表情を見せないまま耳元で低く囁く。
「ねぇ、ジャスパー王子。僕は君の全てを知ってるんだよ」
「何を、馬鹿なことを……」
 なまじ表情が見えないだけに見透かしたようなその含み笑いに悪寒めいたものを覚えながらも、ジャスパーは最後の矜持で強がる。
「エヴェルシードの牢番から血を吸ったんだって?」
 またすぐに変わった話題に、けれど先程の不気味な物言いを続けられるよりはマシかとのってみせる。
「ああ。牢を脱出するには必要だから」
 憎いエヴェルシード人がそれで死んだって構わない。あの忌々しいシェリダン王を殺すためなら、どれ程の犠牲を出そうとも構わない。
「ふうん。健気だねぇ……それもこれもみんな、ロゼウスに会うために」
 けれどロゼウスの名を出されて、ジャスパーの心臓がどくんと跳ねた。
「何、を……」
 カラカラに乾いた喉で呻くように言うけれど、滑らかな声で囁く帝国宰相と名乗った少年には通じない。
「言っただろう? 君の全てを知ってるって。ねぇ、ジャスパー王子。僕は君の心の中に、誰が住んでいるかも知っている」
「……っ!」
 そう言って彼は、あろうことか膝の上に抱き寄せたジャスパーの股間に手を伸ばす。
「や、やめ」
「あの時もこうやって自分で自分を慰めたんでしょう、ジャスパー王子」
 やわやわと服の上からまさぐられて、下肢に震えが走る。
「あの時って……」
「君がはじめて、尊敬していた兄の真の姿を知ってしまった日」
「……――っ」
 この人は一体どこまで知っているのか。
「思い出すよね。ローゼンティアの王城でのできごと……君は、異母兄であるロゼウスを尊敬していた」
 そう……それは、薔薇の下の秘密。
 ジャスパーはロゼウスを兄妹の中で一番尊敬していた。有能だと知れている第一王子よりも、彼と競っている第二王子よりも、その他の兄姉、弟妹たちよりも。
 第四王子と言う身分のせいでそれほど持ち上げられてもいなかったが、ロゼウスは凄かった。剣技は兄妹の中で一、二を争う実力だったし、容姿も美しい。勉強だってできたし、いざと言うときの物腰に先天的な気品があった。ジャスパーはロゼウスを尊敬していて、ロゼウスのようになりたかった。
 社交的で個性的なアンリやヘンリーのようになるのは無理だし、ミカエラやミザリーのように特に気が強いわけでもない。アンのような芸術の才能もなければ、ロザリーのような戦闘力もない。そんなジャスパーにとって、さして目立ったことをするわけでもないのにどこか人目を引かずにはいられないロゼウスは、憧れだった。憧れだと思っていた。
「でも君は、見てしまったんだよねぇ」
 あの日、一年位前のあの花曇の朝方。昼間に眠るヴァンピルにとっては、それは夜を意味する。
 ジャスパーはどうしても寝付けなくて城内を歩き回っていた。警護の兵士に見咎められない範囲と言えば兄妹たちの部屋が並ぶ同じ一角くらいで、その一室から妙な声が漏れ聞こえていた。
 音の出所はドラクルの部屋で、ジャスパーは気づかれないように薄く扉を開いて、こっそりと中の様子を窺った。長兄が起きているかどうか、その時はただそれだけを確認するつもりだった。けれど。
「ドラクル王子に抱かれるロゼウスを」
 長兄の部屋に、何故か四番目の兄もいた。当時十六歳だった第四王子ロゼウス。何故、彼が。
 ロゼウス兄様の上でドラクル兄様が……
二人のしている事がわからないほど、ジャスパーも子どもではなかった。混乱した頭でもどうにか扉を元通りそっと閉めて、一目散に自分の部屋へと逃げ帰った。
 けれど重なり合う二人の姿はなかなか脳裏から消えなかった。ロゼウスの華奢な身体をドラクルが抱いて、ロゼウスはその首に縋り付いて、白い喉をのけぞらせて、喘ぐようにドラクルの名を呼んで、綺麗な肌に汗をかいて綺麗な瞳に薄っすらと涙を浮かべながら恍惚に表情をとろけさせて、唾液で濡れた唇がつやつやと輝いていて。
 その姿を思い出して、自分は。
「感じちゃったんだよね、君は。ドラクル王子に抱かれていたロゼウスの媚態を思い出して、部屋で一人で自分を慰めたんだ。こんな風に」
 ジャスパーを膝の上に乗せたハデスが、意地悪気に手の中にジャスパーのものを握りこむ。その、痛みと快感との境目にあたるギリギリの感覚。しかし涙が出てくるのは、そのためじゃない。
「うう……」
「ロゼウスは夢にも思っていないだろうね。弟が自分に欲情してるだなんて。自分のヤってるところを見て、弟がヌいてるなんて! 君は大好きな兄上をオカズにしたんだ」
「……!」
 彼の酷い言葉にも、ジャスパーは反論できない。
 ……あの時の、ドラクルの腕の中でよがるロゼウスは、何よりも妖しく美しかった。
 憐れむように、ハデスは囁く。
「君は気づいてしまったんだね……尊敬していたはずの兄を、第四王子ロゼウスを、兄と弟としてではなく、一人の男として愛してしまっていることに」
 大好きな兄様。
 その身体も心も、自分だけのものにできたら、その笑顔も艶かしい様子も全てを自分だけのものにできたら、と……。
「絶対に手が届かないのにね」
 ハデスの言葉が、すとんと胸の中に落ちた。
「ねえ、ジャスパー王子。君がロゼウスを好きなことに、シェリダン王も気づいてるよ。だから、君をロゼウスには会わせないんだ。そのくせ、君の目の前でロゼウスを犯した」
 彼の言葉に誘導されて、胸の奥で燻っていた怒りが甦る。エヴェルシード王シェリダンは、ジャスパーにとって誰よりも憎い男だ。ロゼウスが喜んで抱かれているわけじゃないから、かつて彼との情事を繰り広げていたドラクルよりなお憎い。
「このままでは、ロゼウスは完璧に彼のものになってしまうよ? それでもいいの? 関係ない人間に遠慮なんかしてる場合じゃないんじゃない?」
 彼が言っているのは、先日ジャスパーがこの牢の見張りの兵士から血を奪ったことだろう。その気になれば食い殺すこともできたけれど、それは避けた。ある程度の量を吸血して力は順調に蓄えているけれど、ここを脱出するにはまだ後一歩届かない。……今度こそ、相手の人間を殺す気で血を奪うのでなければ。
「僕は忠告したよ」
 ハデスがジャスパーの身体を離し、もと来た時のように格子をすり抜けて外へと出る。
「じゃあね。ジャスパー王子。せいぜい頑張ることだね。大好きな兄上様をシェリダン王にとられないように」
「言われなくても」
 あんな男に、兄様を渡したりしない。僕にとって大切なのは兄様だけだ。兄様さえいれば、僕には他に何もいらない。兄様を守るのは僕の役目だ。
 彼が去ってしばらくして、今度は見知った顔が地下牢に降りてきた。大好きなロゼウスと同じ顔だけれど違う人物である彼女に、ジャスパーは復活した喉で八つ当たり気味に言葉を投げる。
「役立たず!」

 ◆◆◆◆◆

 剣術大会が始まる。
「おい、あれ、王妃様だろ?」
「それに、ヴァンピルの姫様とか王子とか」
「いつの間にあんなに増えたんだ?」
 ロゼウスは日除けのヴェールで顔を隠し、シェリダンに手を引かれるようにして国王の特別席の横へと納まった。相変わらず身体が辛く、動くのが酷く億劫だ。
 特別席と言うのは、練兵場に面した城のバルコニーだった。即席の階段が設けられ眼下が見渡しやすいように高さの作られたそこから見事な正方形に作られた闘技場を眺める事ができる。
 ミザリー、ミカエラ、ロザリー、それにエチエンヌとローラもこの場にいた。大会の間は準備に使用人たちが走り回っているから城内の警備が手薄になるという。これを機に脱出なんかさせないようにというシェリダンの配慮らしい。エチエンヌとローラは小姓と侍女の役割の他に、それを見張る意味もあるそうだ。
 バルコニーは広いので、これだけの人数が入ってもまだまだ余裕で空間があった。ロゼウスとシェリダンの席が並べられ、その両脇、シェリダンの隣にロザリー、ミカエラ、ロゼウスの隣にはミザリーがいる。こんな時でも、牢から出す方が危険だとジャスパーは呼ばれていなかった。
 幾人もの人々が慌ただしく周りを通り過ぎ、シェリダンに耳打ちをしていく。実際のところ、聴覚の鋭いロゼウスたちヴァンピルには筒抜けなのだが、侍従たちの報告は全てこの剣術大会に関することで、特に彼らに聞かせたくない話と言うわけでもなさそうだった。
「ロゼ様? お辛そうですが、具合の方は大丈夫ですか?」
 ローラが小さく尋ねてくるが、ロゼウスは薄いヴェールの向こうで苦笑を返す。日除けの黒いドレスに、顔を覆う黒いヴェールだがその布地は薄い。今にも破れそうなレースで出来ているので周りの景色も見えるし、相手からもちゃんとロゼウスの表情がわかるはずだ。
「辛いって言っても、城の中に戻してくれるわけじゃないんだろ? ならいいよ」
 ローラは困ったように眉を下げて、失礼しましたと背後に控える。
 その後、しばらくして闘技場を設置する使用人たちの行き来がなくなったと思った頃に、鐘が鳴った。
 シェリダンが立ち上がり開会の口上を述べ、大会が幕を開ける。
「始まるぞ」
 身体を支えるのが辛いロゼウスは、シェリダンにもたれるようにして席についた。
 舞台の上では審判と、一試合目の出場選手が姿を現した。
「リチャード……?」
「ああ、そうだ」
 見知った顔が選手として現れたのを見て、ロゼウスは思わず声をあげる。体がだるいのでぼんやりとした様子に見えるらしいが、そのくらいはわかる。
「王の御前試合だからな、大抵の出場者は貴族だが、それでは面白味がないし、貴族に手練がいない場合、無能な者たちばかりを集めて試合をさせても意味がない。そこで、貴族は様々な牽制の中で出場者を決め、平民と奴隷には予選を設けて勝ち残った者を試合に出すようにしている」
 そして厳選された出場者だけが舞台に上がるのだと言う。貴族でも一応の予選はあるらしく、金と権力に物を言わせて出場しようとした者は、金と権力とさらに強さを兼ね備えた者に落とされるのがオチだという。
「とは言ってもリチャードの奴はリヒベルク家を再興させる気はないらしく、毎回平民と奴隷に交じって予選を勝ち抜いて出場する」
 見慣れた青年が、いつもの従僕の格好に剣を持って立っている。対戦相手は貴族らしくぴかぴかの鎧をつけているだけに、落差が激しい。
「エヴェルシードに、無能の大貴族などいらない。この大会の成績如何で爵位が一つ上がることもあるから、出場者は必死だ。大貴族に腕利きの剣士がいない場合は、他の候補に抜かれる場合もあるからな。だが」
 シェリダンは顔を舞台の隅に描かれた対戦表へと移す。そこにはエヴェルシードに来て日が浅いロゼウスにもわかる名前がずらずらと並んでいた。
 腕さえ立てば平民だろうが奴隷だろうが、働きによって爵位を授けるエヴェルシード王国。
 しかし今回の剣術大会の対戦表にしっかりと記された名前の人物が、平民が優勝するのを阻止しているのだと言う。
「バートリ公爵があのエルジェーベトである限り、それ以外の貴族が勝ちあがってくることはないからな」
「あの人……そんなに強いのか」
「ああ、強い。ここ七年、初めて出場してからエルジェーベトはずっと負けなしだ。準優勝や三位は組み合わせの悪さによって左右されるが、決勝だけはそうも行かない。例えそれまでにどんな相手と当ったところで、最後に勝てばそこで優勝なのだから」
 大会の対戦表は厳正なる抽選……つまり籤で決まるのだと言う。
「五年ほど前だかに、二年連続で優勝を掻っ攫ったエルジェーベトを潰そうというバカ貴族たちの目論見があったらしい」
「そんなことまかり通るものなの?」
「全員で示し合わせたという。一人でも反対する者がいればそんなことにはならなかったのだろうが……十四ではクルスはまだ出場していないし、イスカリオットは悪ノリしてな、貴族たちに協力したらしい」
「それで?」
「エルジェーベトは雑魚を倒す時となんら変わらない余裕の表情で優勝台に昇った」
「……だろうな」
 姑息な手段で勝ちを攫えると思っているような貴族に、バートリ公爵エルジェーベト卿は負けてやるほど親切ではない。
「この七年、最高の武闘家の称号はエルジェーベトのものだな。セワードも三年前に一度出場したが、エルジェーベトに負けた。あの時は白熱したな」
「そうか」
 ロゼウスは気のない相槌を打つに留めた。そのセワード将軍が何故今回の大会に出てこないか、その理由はわかっているからだ、彼はローゼンティア侵攻の最高責任者であるから、まだ向こうの支配に時間をとられてこんな大会に出場している余裕がないのだ。
「勝者! リチャード=リヒベルク!」
 雑談を交わしている間に、あっさりと第一試合は終わってしまった。リチャードの圧勝だったらしい。闘技場周囲の観客たちから歓声が上がる。
 従僕のお仕着せに染み一つ、ほつれひとつ残さずにリチャードは悠々とした足取りで控え室に帰還する。一度、こちらへと視線を向けた。ロゼウスの背後に控えるローラを見たのだろう。
「それでは、第二試合の出場者前へ!」
 そして次こそ、その最強と名高いエルジェーベト卿の出番だった。


076

 舞台脇に備え付けられた対戦表を見る。

 1、リチャード VS アート=キャラハン
 2、エルジェーベト=バートリVS アウゼンリード
 3、ボニフェース=クーパー VS サリー=ノース
 4、ジュダ=イスカリオット VS ハニー=リンチ
 5、レガ VS ケネス=クィンシー
 6、クルス=ユージーン VS クレメント
 7、クロノス=ユージーン VS トニー=リー
 8、コンスタンティン=ガーディナ VS イーノク

 どうにかここまでは潜り込めた。それはひとえにフリッツ店長の協力と、アンリやウィル、エリサの外見があんまりヴァンピルっぽくないおかげだ。
 御前試合、通称剣術大会はエヴェルシード王国では結構な注目行事らしく、建前上平民も奴隷も参加可能とか、純粋に実力勝負とか言っているのだがやはり貴族が多いのが現状らしい。対戦表で=の後に家名が来ている輩は皆、貴族だ。そしてアウゼンリード、クレメント、イーノクが平民、レガが奴隷から出場している。ちなみに奴隷はその持ち主が登録をしなければならないとかで、いろいろ大変らしい。
 やたら「らしい」が多いのは、これが全部フリッツ店長からの入れ知恵だからだ。
ちなみに貴族式に家名が入らず、しかし平民というわけでもないという人間に、リチャードがいる。なんでも、結構前に不祥事起こして取り潰された貴族なのだとか。
 そのリチャード氏、第一試合の出場者で、今ちょうど戦っているのだが……従僕のお仕着せだ! 何故鎧とか甲冑とかとにかくそう言った、これから試合しますって格好にしないのか……いや、それを言うなら控え室にもっとすごい格好してる人いるんだが。
 しかし強い。強すぎではないか? お仕着せなのに圧勝だ。
 アンリたちを拾ってくれたフリッツはシェリダン王の叔父であり、だからといって王家と友好関係というわけでもなく、いろいろと複雑な事情があるらしい。
 しかし貴族などぼんくらばっかりを想像して御前試合なんてどうせ生温いちゃんばらごっこなんだろうと思っていたアンリとフリッツの予想はここでしっかり外れた。ぼんくらどころか猛者揃いの、結構高度な大会だ。元貴族のリチャードの剣術が見事すぎて圧勝は圧勝だが、だからと言ってもう一人、これも貴族が弱いかというと、そうでもない。むしろ、ローゼンティア国内にいたら間違いなく強い部類だろう。
 しかしそのリチャード、実際に実力はどのくらいのものかと聞いたら、フリッツからはそこそこと返ってきた。今は貴族じゃないからそこまで名を売ったりできないのももちろんあるだろうが、その彼より強い人間がごろごろいるのだと。フリッツも実際に見たわけではなく歴代優勝者に関する噂話を聞いただけだからなんとも言えないらしいが……ここ七年くらいは、優勝者はいつも同じだそうだ。
 まだ第一試合しか始まっていないが、それでも試合のレベルの高さがわかる。アンリたちの国には、あんなに剣が使える奴はそうそういない。
「ロゼウスとドラクルくらいだよなぁ……」
 誰が見ても完璧な王位継承者と呼ばれるだけの能力がある兄ドラクルと、そのドラクルに直接教えを受けて、もともとの才能もあり国では一、二を争う使い手になった弟王子ロゼウスぐらいのものだ。
「まあ、仕方がないよなぁ……」
 ヴァンピルは魔族だが基本的に平和主義だ。
 だからといって、やられっぱなしで黙っているわけにもいかない。
 アンリとウィルとエリサは、フリッツの提案に従ってこの御前試合に潜り込むことにした。大会準備のために平民の作業員も多数雇われているから、潜り込むこと事態はそう難しくない。
 準備の方は恙無く済み、平民も出場しているとはいえ、貴族との扱いの差ははっきりしたまま第一試合が終わる。
 お仕着せを汚さずに悠々と戻って来たリチャードに、疎らな拍手が起こる。ここは讃えられてもいいところだと思うが、周囲の反応は冷たい。それもやはり、昔の不祥事というのが関係しているのだろうか。
 どよめきが冷めやらぬところで、アンリは再び対戦表を見た。
 第二試合 エルジェーベト=バートリ対アウゼンリード
 ここ七年連続の優勝者が、そのバートリ公爵エルジェーベトだ。公爵っていうくらいだから大貴族の上に、剣の実力もあるなんて天は二物を与えないってのは嘘だな。
 しかもこのバートリ公爵は女性なのだ。それも、物凄い美女だ。シェリダン王といい、本当に、天は一人の人間に二物も三物も与えすぎだ。アンリとウィルとエリサなんて容姿が王族にしては地味だから、髪の色染めて耳を隠せば即席エヴェルシード平民になれるくらいなのに。
 バートリ公爵の話に戻るが、エヴェルシードはいまだ珍しいことに堂々とした男尊女卑国家だ。その国で女性であるバートリ公爵が最強の地位を手にしているというのは、もの凄いことだろう。
 そんなことを考えていたら、背後で暢気な会話が聞こえた。
「あの……ところでバートリ公爵」
「なぁにぃ? ユージーンの坊や。私の事はエルジェーベトでいいわよって言ったじゃない」
「ぼ、坊や!?」
「だってユージーン姓が二人で紛らわししいんだもの。あんたとクロノスと、どちらか一人にすればいいのに」
「え、あ、すいません」
「まーいいけどね、あんたたち強いし。それで、何?」
「はい……では、ええと、エルジェーベト卿、昔から気にはなっていたんですが……どうしてあなたは、この大会ではいつもドレスなんですか?」
 アンリも含めて周りの人間が貴族から平民からみんなその会話に注目する。
 そう、誰もがツッコミたくてツッコめなかったエルジェーベトのドレス姿。そりゃあ美人だが、ここは夜会の大広間ではなく屋外に設置された御前試合用控え室です。
「えー、だって戦時中でもないのに鎧なんかつけるの面倒だもの」
 周囲で幾人かがのめった。小姓の一人はうっかりグラスを倒した。
 ああ、エヴェルシード王国……やはり恐ろしい。いろんな意味で。
「第二試合の出場者、前へ」
 とにかく、次の試合が始まる。

 ◆◆◆◆◆

「あ」
「あれ」
「どうした?」
 ロゼウスとシェリダンの両脇で、ロザリーとミザリーから声があがった。声には出さないけれどミカエラも驚いていて、ロゼウスもその理由がわかっていた。
(……アンリ兄様)
 眼下の青年は髪はエヴェルシード人のように蒼く染められているし、耳も隠している。もともとアンリは瞳の色がロゼウスやロザリーに比べて橙色がかったような明るい朱色だった。けれど、あれは間違いなく。
「あれ、エルジェーベト卿だよな」
 動くのが億劫で、喋る気にならない。しかしミザリーやロザリーの動揺にここで気づかれても困るので、ロゼウスはそう言って誤魔化すことにした。
「ああ、派手だろう、奴は」
「この前の女の人よね」
「あの人ってば、どうしてあんな格好してるのよ」 
 ロザリーとミザリーもすぐに察して、先程の驚きの声の理由をすり変える。舞台上のエルジェーベトは、そう言われても仕方がない格好だったので。
「ドレス……?」
「私も一度聞いてみたのだがな、着替えるのが面倒なんだと」
 とても深く納得した。
「しかし、挑発という意味合いはばっちりだ。エルジェーベトは初登場の時からあの格好だったからな。それまでの常連たちから一体何を考えているんだ、そんな格好で戦えるものか、馬鹿にしているのかとさんざん叩かれた」
「動じてなかったんだろ?」
「まあな。特に不満を持った数人の貴族が国王……我が父に訴えたのだが、父は実力があるならばそれで構わないとそれを相手にしなかった。エルジェーベトに、それで戦えるか? と聞いたら、もちろんとの言葉が返ってきた。その言葉どおり、初めて出場した大会で彼女は優勝した。以後七年間、まったく負けなしだ」
「そういえば……これは武術大会じゃなくて剣術大会なのよね」
 ロザリーが今思い出したと言うように、隣というよりは右斜め前に座っているシェリダンに問いかける。
「ユージーン侯爵……って、あれ? 二人? まあいいや、あのクルス卿の方だけど、《反逆の剣聖》って呼ばれてるのよね。剣の大会で公爵がいつも一番なら、クルス卿は負けているわけでしょ? あれだけ強い人が剣聖なら、バートリ公爵っていったい何なの?」
「殺戮の魔性、エルジェーベト=バートリ」
 二つ名まで恐ろしい。
「クルスは武人として実力者の域だがエルジェーベトはもう人間じゃない、というのが周囲の意見だ。まあ、対外的にはレズ公爵の方が通っているが」
 ついでに言えば、イスカリオット伯爵ジュダ卿は狂気伯爵だそうだ。
 シェリダンの周りにはろくな人間がいない。
「どっちにしろ凄いあだ名……」
「お前らの国も似たようなものだろうが、病弱王子」
「誰が病弱王子だ! 僕は第五王子ミカエラ!」
「別名は幽玄王子」
「名前からして儚いな」
「放っとけ!」
 エルジェーベトと平民出場者アウゼンリードの試合を見つつ、特別観覧席ではなんとも暢気なやりとりが開催されている。まあ、どうせ御前試合、別名剣術大会なんて娯楽だが。これで死ぬ人間なんていないし、殺したら反則負けだそうだ。
 しかし、あのアンリがこの会場に交じっているなんて。これでは、ただ単純に試合を見物しているというわけにもいかなそうだ。
「ユージーン姓が二人いるのは?」
「クルスと、その父クロノスだ。貴族連中の出場者は様々な兼ね合いで決められるが、あの二人は本当に強いからな。試合に出させてください。いや、駄目だ。じゃあ剣で勝負しましょう、という流れに持っていけば断られることもないからな」
「………………というか、似てないのね」
 当の二人を見比べて、ミザリーが呆然とそう言った。ミカエラと同じように可愛い系の顔立ちをした美少年……ロゼウスより二つも年上の人に言う言葉ではないが、彼には青年と言う呼称よりも少年の方がしっくり来る気がする。その美少年侯爵に比べて、彼の父であるというクロノス卿は……熊? 一言で言えばそんな感じの大男である。
「ああ、まあ、な……クルスは母親似だ。美人だぞ」
「でしょうね」
「っていうかあの可愛い侯爵に半分もあの男の血が流れているのが信じられないわ」
 自分が美人で面食いのミザリーはひたすら呆然としている。
「ところで、試合はどうでもいいんですか、皆さん」
 エチエンヌに促されて、舞台へと視線を戻す。けれど、エルジェーベトに圧倒されてアウゼンリードは手も足も出ない。早くも勝負が決まった。
「やはり今回もエルジェーベトか」
「というか、この組み合わせだと、第九試合はエルジェーベト卿とリチャードじゃないの?」
 ロザリーの何気ない言葉を聞いて、ローラが小さく溜め息をついた。
「それに、クルスとクロノスは親子で激突するだろうな。いつもはクルスかジュダのどちらかがエルジェーベトと決勝を争っているからな」
「なんか、大変なのね」
「当人たちが楽しんでいるのだからいいんじゃないか?」
 御前試合とは言うものの、シェリダンはそれほど興味もないようだ。
 やはり昨日の負担が尾を引いているのかとちらりと様子を窺えば、すぐに気づかれる。
「どうした、ロゼ」
「……別に、なんでもない……」
 ロゼウスはまた、シェリダンの肩にもたれかかる。アンリのことは気になるが、だからと言ってシェリダンの隣にいる今、彼と接触することもできないだろう。
 布の陰に隠れて見えない場所に滑り込まされた手は、シェリダンにしっかりと握られている。だから今のように、小さく身じろぎしただけでも反応が伝わってしまうのだ。
 逃げられない。それに、もうここから逃げる気も……。
 だけれど、ヴェール越しの視線が、眼下の兄と合ってしまった。
 兄様……。
 一見親しみやすいような振りをして、実は他者を愛でつつ突き放すような空気をもつドラクルとは違う。兄妹の中では、最も兄らしかった兄。ロゼウスは見ての通り、ミカエラやジャスパーやウィルにとってしっかりした兄ではなかったろうし、ヘンリーも親しみやすいけれどどこかつかみどころのない雰囲気を持っていた。わかりやすくて人好きがして誰にでも優しいアンリは皆に好かれていた。
 そんな風に思い返しながら、それまでアンリのいたあたりを見つめていると。
「痛っ!」
「何を見ている?」
 握られていた手に鋭く爪が立てられた。思わず声をあげると、シェリダンが冷ややかな眼差しで睨み付けてくる。
「ちょっとシェリダン! 何だかよくわからないけどロゼに乱暴しないでよ!」
 咄嗟にシェリダンの腕にしがみついて、ロザリーが彼を止める。しかし鬱陶しげとも、もしかしたら無関心とも言えるような瞳で射すくめられて、ロザリーの動きが止まった。
「……なんでもない。ぼんやりしてただけ」
「本当か?」
 間髪いれずに尋ねてくる彼の勘の鋭さに内心舌を巻きながら俺は答える。
「……嘘だったらどうだっていうんだ? どう言ったって、あんたは信じないだろうが」
「当然だ」
 だが一応はその答で納得したらしく、シェリダンはロゼウスの手を握る力を緩めた。
 舞台の上では第三試合の出場者が向かい合い、試合を始めようとしている。どちらもロゼウスの知らない相手で。知り合いが出るのは次の第四試合を待たねばならなかった。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスの様子がおかしい。
「痛っ!」
「何を見ている?」
 御前試合の最中だと言うのに、意識が別の方へと向いたようだ。繋いだ手から微かな身じろぎを感じ取り、シェリダンは尋ねた。
 握り締めていた手に力を込め、爪を立てる。柔らかい手の甲が傷ついて、赤い痕を残す。
「ちょっとシェリダン! 何だかよくわからないけどロゼに乱暴しないでよ!」
 きゃんきゃん噛み付いてくるロザリーを一睨みで黙らせ、ロゼウスへと視線を戻す。
「……なんでもない。ぼんやりしてただけ」
「本当か?」
「……嘘だったらどうだっていうんだ? どう言ったって、あんたは信じないだろうが」
「当然だ」
 とは言え、これ以上ロゼウスから聞き出せる情報もないだろう。シェリダンは黙り、視線を舞台の上へとまた戻す。第三試合の準備が始まっているが、どちらが勝ってもその次にはジュダに負ける事が決まっている輩の勝敗などどうでもいい。
「第三試合、始め!」
 彼の手をきつく握り締めながら、シェリダンは隣に座るロゼウスの反応のみに意識を集中していた。ここ数週間、これまでのやりとりで自分も疲弊したが、暴力を直接ぶつけられたロゼウスの疲弊も尋常ではない。常人なら足腰立たないところをふらつきながらでも自分の足で移動できるだけ、やはりヴァンピルとは異常なほどに打たれ強い種族だと思う。
 だからあんなにも、それこそ異常なほど、深く何度も何度も傷つけずにはおれなかった。
 そこまで考えてふとシェリダンは気づく。気づけばまた、ロゼウスのことを考えている。
 もう、考えないようにしようと決めたのに。
 この美しい少年は肉の器持つ人形であってそれ以上でも以下でもない。
 至高の美しさを持つ陶器人形と同じく永遠に枯れないが、その表面を撫でても還るのは冷たい感触だけ。
 ――……そんなことしなくても、俺はもう、あんたのものなのに。約束しただろう。俺はあんたのものになると……
 ――……違う。お前は一時だって、私のものになどならなかった。
 ――……シェリダン。
 ――……もういい。何をしても、殺してすら、お前は手に入らない。その命も身体も私のものなのに……永遠に私のものには、ならないのなら……。
 手に入らないものを望むなんて滑稽だ。わかっているのだろう、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード。それは虚しいだけだと。
 シェリダンはこの国を滅ぼすために、破滅をもたらすためだけに生まれた王なのだ。今更ままごとのような愛を叫んだって届くはずなどないのに。
 ――わかっている。本当は何もかも。
 どんなに望んでも、彼は自分のものにはならない。
 祖国を侵略して父母と兄妹を殺した男を、愛せるわけがないだろう。王子と言う身分すら奪われ、女装をさせられて男の矜持も何もかも奪い取られ弟の目の前で犯され、奴隷以下の扱いをした相手に好意を向けるなんて、その方が異常だ。
 だからシェリダンはロゼウスを壊すことを願った。
 壊れてしまえば、その美しい深紅の瞳が映す者は今目の前にいる自分だけになるだろうに。
 そして、本当に欲しいなら殺してしまえとハデスは言った。
 そうすれば誰も彼を手に入れられないと。シェリダンもロゼウスに触れる事はできないが、他の男に触れられることもない。
 そうできれば楽だったのに。
「勝者、サリー=ノース!」
 眼下では試合が恙無く進んでいる。圧勝だったリチャードとエルジェーベトの時とは違い、今度は勝者も敗者も軽い傷を負ってはいるがその程度のものだ。
 ロゼウスはまだ体が辛いのか、シェリダンの肩にもたれている。姉姫のミザリーはともかく、ロザリーやミカエラにローラなどは、ちらちらとその様子を気にしている。
 黒いレースのヴェールの下では、かろうじて表情はわかるが顔色は全くわからない。無表情でシェリダンに寄りかかり、何を言うでもなくどこか一点を見つめているロゼウスに周囲は何を思うのか。
(……考えないはずじゃなかったのか?)
 気を抜けばまたそこへと戻ってしまう思考を嘲るように、シェリダンは口元に歪んだ笑みを浮かべる。ロゼウスの肩を抱き寄せ、急に引き寄せられたために崩れかけた体勢を支える。
「シェリダン……」
「次はイスカリオット伯の試合だ」
「うん……」
 それを気にしているのかいないのか、シェリダンの腕に引き寄せられたロゼウスの細い肩は何も言わずシェリダンに縋った。視線は相変わらず舞台の方をぼんやりと眺めている。
 先程、ロゼウスと共に何事かに反応したヴァンピルの兄妹たちも今は落ち着いていて、舞台は何事もないように進んでいるように見えていた。表面上は。
 いずれは、何かが起こるのだろうが。とにかく第一回戦の半分までは無事に終了した。ジュダの剣は圧倒的で、しかし彼を讃える歓声や拍手が少ないのは、その戦い方があまりにもえげつないためだ。
 ここで一度目の小休止を挟み、大会は長閑な昼休みとなった。一回戦が八試合、二回戦が四試合、準決勝が二試合、そして決勝と、計十五試合が行われる。
 休憩は一回戦が全て終了したこの時間と、二回戦及び準決勝が決定した三回戦終了後に挟まれる。
 ローラとエチエンヌに声をかけられて、城内へと戻り昼食をとった。特別観覧席であるバルコニーは広いので十分そこに食事の用意をさせることはできるが、試合もないのにあんなところで食事をとっても仕方ない。だいたい屋外で暢気に食事をしている光景を見せるなど、暗殺者に狙ってくれというようなものだ。
 シェリダンは午後、優勝者に求められたら試合をしなくてはならない。そのため、食事は軽いものを用意させた。この対戦表の組み合わせでは、勝ちあがってくるのはエルジェーベトかクルスか。準決勝がエルジェーベトとジュダの戦いになるだろうから、番狂わせが起きてジュダが彼女をかなり疲弊させるということも考えられる。その隙を上手くつければ、クルスにだって勝機はあるだろう。
 どちらにしろ決勝まで残りそうな面々を見るに、わざわざシェリダンに歯向かったり、からかい半分で試合を申し込む人間はいないだろう。ならばシェリダンは剣を掲げる機会はなさそうなものだが、何故だか胸騒ぎがした。
「シェリダン様、どうしました? お気に召しませんでしたか?」
「いや、そうではないんだ。気にするんだ」
 この感覚をどう伝えればいいのかわからない。だが確かに、胸騒ぎとしか言いようのない感覚に支配される。
 以前も感じた事があるような、このピリピリとした感覚。壁一枚隔てた向こうから心当たりのない殺気を向けられている、そのむず痒さ。
「……誰か、この城に訪れた者でもいるか?」
「え?」
「特にお客人があるとか、そういう報告は受けていませんけれど」
 シェリダンの言葉に双子は不思議そうな顔をして首を傾げた。
 その代わり、不安げにきょろきょろと周りを見回し始めたのはロゼウスだ。
「ロゼウス?」
「この、この気配……」
 食事はすでに終えているが、休憩時間のまだ半分ほどしか過ぎていない。
「ごめん……、ちょっと出かけてくる!」
「待て! ロゼウス!」
 誰に声をかけると言う事もなく、それまで少しの距離を歩くにもふらふらで足元が覚束なかったロゼウスが唐突に走り出して部屋を出て行った。慌ててシェリダンも後を追って走るが、角を何回か曲がったところでついにその背を見失った。
 体調の悪いこの状態で動きにくい服はまずかろうと、剣を合わせたときのような活動的な服と靴にしたのが悪かったのか。足の速いロゼウスに追いつけず、シェリダンは部屋へと戻った。
「シェリダン王、ロゼ兄様は?」
 尋ねてくるミカエラにシェリダンは不機嫌に首を振って見せた。
「……見失った」
「ええ! 大変だ、早く探さないと!」
 慌てて駆け出そうとするミカエラを、ロザリーとミザリーが二人がかりで止めた。
「あんたは駄目よミカ!」
「そうよ、また倒れたりしたらどうするの!?」
「姉様たち、でも兄様が……」
「私が行ってくる」
 不甲斐ないシェリダンとミカエラに痺れを切らしたのか、弟王子を姉姫に任せてロザリーが出て行った。ミカエラはミザリーに言われて、渋々と元の席へ戻る。もともと病弱な彼は加虐されつづけたロゼウス以上に、立っているのもやっとの状態なのだ。
「何だ?」
「……別に!」
 そのミカエラが睨んでくる。きっとシェリダンとミカエラはお互い相手のことを同じように思っているのだろう。
 情けない男だ、と。