061

「いや、いやぁ……いやぁあ!」
 どうして。
 どうして、こんなことに。
「や、やめて……! やめてください! 兄上! お兄様!」
 再会した兄に無理矢理体を引き裂かれながら、ロゼウスは矜持も何もない悲鳴をあげていた。
「ひぃ!」
 久々に着た、借り物の男衣装はずたずたに裂かれ、あらわになった肌をドラクルの手に嬲られる。
 噛み千切られるかと思うくらい強く乳首を噛まれて、高い悲鳴が喉を突いた。
「いや……やだ……兄様……」
「いや? やめて? おかしいな」
 ロゼウスの体から顔を上げて、長兄は酷薄に微笑む。
「最後の時、私を求めたのはお前のほうからだろう? 自分と一緒に死んでくれとせまったのは嘘だったのかい?」
「な……で、でも……うぁ!」
 先程噛まれたのは逆の乳首をまた乱暴に抓られて、言葉が途切れる。それでも悲鳴ではなく言葉を押し出すようにと、自分の体に鞭を打ってその台詞を吐いた。
「だって、兄様は……お、れを……拒絶……憎んでるって、言った!」
 ドラクルはロゼウスを憎んでいると言った。
 愛している、そして憎いと。
「なんで、ここに……」
 兄の身体が軽く離れた隙に荒く息をついて、どうにかそれを問う。ローゼンティアが滅んでから、王家の兄妹のほとんどは散り散りになってしまったのではなかったか。何故、彼は平然とした顔でこんなところにいる?
 どうして、こんな風にいきなり、無理矢理俺を犯している?
 イスカリオット城でもその声を聞いた。その気配を感じた。だが顔までは見ていない。それに、彼がそんな場所にいるはずもないから、もしかしたら夢だったのではないかと疑っていた。
 だけど、今、彼は間違いなくここにいる。
 確かにここにいて、突然理由もなく、ロゼウスの心と身体を引き裂いている。
「兄上、どうして……?」
「どうして? 決まっている」
 優しさと勘違いしそうなほどに優美な微笑でロゼウスの唇を封じ、彼は告げた。
「お前に私を思い出させてあげるためだよ、ロゼウス」
「俺は、兄様を忘れてなんか……」
「忘れようとしただろう? シェリダン王に逃げることで」
 ロゼウスは瞠目する。
「ローゼンティアの民の命と引き換えに取引? 馬鹿だね、ロゼウス。お前がそんなに国民思いなわけはないよ。お前は王子という身分が心地良いんだ。なのに、ローゼンティアに留まるのが怖いからエヴェルシードに逃げたんだろう? 私から、逃げたかったんだね? ロゼウス」
 違う。そんなこと考えてない。
 でも、喉が動かない。言葉が、出ない。
 震えるばかりで何も言わないロゼウスを楽しそうに見下ろして、ドラクルが再びその身体に顔を埋める。引き裂かれて用を成さないズボンを無造作に放り投げ、むき出しになった股間に手を伸ばす。
「ひぎぃ!」
 強く掴まれて、たまらず潰れた悲鳴をあげる。
「あぁ! いた、痛い! 兄様! やめてやめて!」
 激痛に顔が歪む、身も世もなくドラクルに縋り、離してくれと懇願する。
「嫌なら自分で逃げればいいだろう? 私はお前の手足を動けないよう折っても縛ってもいないんだよ」
 身体はそう。でもあなたは今も、昔もずっと俺を縛り続けている。
 俺の心を。
「ああああああっ、あ、ああっ!」
 先端を擦られて無理矢理感じさせられる快感に息が詰まる。朝の屋外だということも忘れて、叫んだ。
「ひぃっ!」
 達した瞬間に感じたのは恍惚ではなく暗い絶望で、ロゼウスを組み伏せて見下ろすドラクルが笑むたびに恐れが募った。
「はっ、はぁ、はぁ……」
 気だるげに瞬きしながら荒くなった呼吸を治めようと努めるロゼウスの足を開き、ドラクルは達したばかりで萎えた股間から滴る雫を指にとって舐めた。
「薄いねぇ。昨夜もエヴェルシード王とお楽しみだったってことかい?」
「にい、さま……」
「じゃあ、今度は私を楽しませてもらおうかな」
 そう言って、ドラクルが取り出した自分のものを、ロゼウスの口へと無理矢理突っ込む。
「んぐっ!」
 この二ヶ月感じなかった味わいに、けれどすぐにロゼウスは順応する。
「ん……ふ、……んむ」
 口の中に含んだものを懸命に舐めて奉仕する。十年間、物心ついてからずっと、心と身体に教え込まれてきた仕草だった。
 ぴちゃぴちゃと、逸物をしゃぶる卑猥な水音が響く。
「ふふふ。やっぱりこれにかけては、お前に敵う者はいないね」
 自分のものを咥えさせておきながら、ドラクルは嘲笑うようにロゼウスを見ていた。
今まではずっと、ロゼウスにはドラクルのこの瞳の意味がわからなかった。エヴェルシードに来て、シェリダンやローラやエチエンヌやリチャード、ジュダやクルス、様々な人に出会ってようやくその示すものがわかった。
 ドラクルはロゼウスを、はっきりと馬鹿にしている。
「本当にいやらしい、はしたない子だね、お前は。これがローゼンティアの王子だとは、嘆かわしい……」
 口ではそう言いながらもドラクルは楽しそうだ。ロゼウスを貶めけなすことが楽しいとでも言うように、より深く彼のものをロゼウスの口に咥え込ませた。
 さんざんに尽くさせた後、ロゼウスの口からまだ達していないものをずるりと引き抜く。
「あ……兄様……」
「まだ足りないって? でもお前が欲しいのは、こっちじゃないだろう」
 ドラクルがその美しい指をロゼウスの身体の奥深くへと潜り込ませる。
「ひ、ぐ」
 痛い。痛い痛い痛い。
「兄様、いた、痛い」
 まだ指一本入れられただけだけど、濡らしてもいないので痛いのだ。
「そうだね。ヴァンピルは傷の治りが早いから、昨夜シェリダン王が広げてくれた場所も、もう元通りだろうね」
「あ、あ」
 どうして、何故こんなにも兄上はシェリダンのことを話題に出すのだろう。
 問いただす余裕は与えられなかった。
「う」
「これが欲しかったんだろう? ねぇ、淫乱なロゼウス。欲しくて欲しくてたまらなかったんだろう?」
 仰ぎ見た空には中庭の花が垂れている。でもその光景がぼやける。
「うぁああああああああ!!」
 無理矢理の挿入に、後が裂けて血が流れるのがわかった。指一本でもきつかったそこに慣らしもせず、いきなりドラクルが入ってきた。
「ひぃ、い、いた、ぁ、ああ、あ……」
 生理的な涙がぼろぼろと頬を伝い、視界を覆う。
「ぬ、抜いて、い、いた、いや、やだぁ……」
 あられもない姿で懇願するけれど、ドラクルは聞き入れない。
 痛みに顔を歪ませるロゼウスの様子など気にも留めずに動きだした。
「ひぁああああああっ!!」
 ますます傷口が裂け、血が潤滑油となる。ねちゃねちゃと嫌な音を立てて、ドラクルはロゼウスの中を荒らす。身体も。
 心も。
「ねぇ、ロゼウス。シェリダン王に求められた時、嬉しかっただろう?」
 苦痛ばかりで快感の得られない結合に涙を流すロゼウスに構わず、ドラクルは続ける。
「私に捨てられて自分の存在する意味など何もなくなったお前が、シェリダン王に望まれた。彼のものになってしまえば、お前は誰にも必要とされないという孤独から逃れられるのだから……なんて卑怯な考えなんだろうね」
 違う、俺は、俺は、ただ、ローゼンティアのために。
「嘘つきで自己中心的な王子様」
 ロゼウス自身も知らなかった闇が、ドラクルの手によって暴かれる。
「でも、そうはいかないよ。ロゼウス、私の囚人。私の薔薇の下の虜囚。お前が私を忘れるなど許さない」
 もはやドラクル自身も快楽を得るというよりはロゼウスに苦痛を与えるのが目的だとでも言うように、より深くロゼウスを抉る。
「お前の中に、私を刻み付けてあげる」
ロゼウスの中で出し、外にも自分の白濁をぶちまけてロゼウスの顔を汚し、彼は陰鬱に微笑んだ。そして再び中を抉る。飽きるほどにそれを繰り返した。
「!」
 何かに気づいた様子の彼がロゼウスの中から出て、ロゼウスを捨て置いて去って行っても、ロゼウスはその場から動けなかった。

 ◆◆◆◆◆

「……っ、ロゼウス?」
「は、いませんよ。残念ながら」
 夢と現をさんざんに彷徨った後で目を覚ませば、隣にあるべき人間の感触がなかった。ちょっとした肌寒さを感じながら身を起こすと、何故か部屋にジュダがいた。
「出て行け」
「……間髪入れずにそれですか? せめてどうしてここにいるのかぐらい聞いてくださいよ」
「では、何故お前がここにいる?」
「朝一番で陛下にお会いしたかったもので」
 シェリダンは布団を被りなおした。
「寝る。ロゼウスが来たら起こせ」
「無視ですか? 酷いなぁ。最近の陛下は本当に、王妃様以外に興味がないようで」
 何とでも勝手に言え。この男のからかいなどいつものことだ。まともに相手をしていては気が狂う。
 しかし、執務がないからたまにはいいだろうと二度寝を決め込んだシェリダンを、再び別の声が起こす。
「シェリダーン、あれ? まーだ寝てるの? 珍しい」
「おや、ハデス閣下。おはようございます」
「おはよう、伯。ロゼウスの忘れ物届けに来たんだけど」
「忘れ物?」
「ああ、湯殿でね。上掛けの一枚だけど」
「朝っぱらから風呂ですか。……まあ、そういえばあなたも昨夜はルイとお楽しみだったようですね」
「そ。まあそれは今はおいといて。ロゼウス、まだ戻ってきてないの? とっくに出たはずなのに。どこで油売ってるのかな。おや、シェリダンも起きた?」
 仕方なく、シェリダンは身体を起こした。部屋に備え付けの簡易な浴室に運ばせた湯で簡単に身体を流し、ジュダが用意した服に着替える。
「……ロゼウスはまだ帰ってきていないのか」
「ええ。陛下が浴室に消えている間も姿を見せませんでしたよ」
 シェリダンが昨夜の残滓を洗い流している間も、まだロゼウスは部屋に戻ってきていなかった。ハデスの言ではないが、朝っぱらからどこで油を売っているんだ、あいつは。
 その内にエルジェーベトもやってきた。
「おはようございます、陛下……王妃様は?」
「お前も行方を知らないのか? エルジェーベト」
「ええ。朝は確かに湯殿にご案内いたしましたけれど、その後は……どうかしたのでしょうか?」
 ロゼウスが男だと知ってからすっかり興味を失くしたらしいこの女公爵は、こちらが予想していたよりもずっと聞きわけがよく、できた臣下だった。朝も彼女がロゼウスに湯を使わせ、新しい服を用意したらしい。
「女物ばかり着せるのもなんだと思いましてね」
 男衣装を与えるならシェリダンが見ていない隙だと、わざわざ彼女はシェリダンが眠っている内にロゼウスに会いに来たらしい。
「余計なことを」
「あら。そうでしょうか、陛下。でもそもそもあなた様は男衣装のあの方に惹かれたんでしょう? いいじゃないですか。王宮では間違ってもそんな格好させられないでしょうし、久しぶりに男装の魅力を堪能しても」
「とか言って、お前は自分が見たかっただけだろう」
「もちろんですわよ。だって男装と女装の両方の姿を知らねば、その落差のぞくぞくするような感覚は味わえませんもの」
 ……この女の趣味は放っておこう。
「ところでさ、肝心のロゼウスって、結局まだ帰って来ないけどどこにいるんだろ?」
 人の部屋ですっかり寛いでいるハデスが軽く首を傾げた。シェリダンもそれに意識を戻し、眉をしかめる。彼が朝起きて隣にいないなどと言う事は滅多にないだけに、妙な苛立ちが募る。戻ってきたら、一言二言責めずにはいられない。
「ミザリー姫たちに会いに言っているということはないですか? すぐ隣なんでしょう?」
 ジュダの発言で彼女たちのもとへも行ったが、来ていないという。
「ったく、あの馬鹿、一体どこに行った」
「ロゼウス兄様を馬鹿呼ばわりするな!」
 こちらは朝方に少し体調を崩しているというミカエラが、具合は悪くても衰えない威勢の良さでシェリダンに反抗してくる。この調子では、明日無事王宮に出発できるかどうか。しかし体調が悪くても気力が十分なら、なんとか王宮まで馬車の道でももつかもしれない。もともと人間より生命力の強いヴァンピルだ。
 城内に姿の見えないロゼウスの行方に対して、意見を述べたのはミカエラの枕元に添い看病に明け暮れるミザリーだった。
「薔薇園は? あの子、とくに薔薇が好きだし、こんな人間の多い環境で過ごすにはその力が不可欠だから、薔薇の魔力を摂取しに行ってるのかも」
「では、私たちも中庭に降りてみましょう。陛下」
 シアンスレイトといいイスカリオット城と言い、城という言う城で庭を徘徊する癖のあるロゼウスのことだから、それはもっともな意見に聞こえた。
「仕方がないな、あのじゃじゃ馬め。何故私が目覚めるまで待つぐらいのことができない」
「起きて一番に彼を見たかったんですか? 陛下」
「黙れ、ジュダ」
「おお怖い」
 軽口を叩くジュダを追いやり、エルジェーベトを先頭にシェリダン、ハデス、ジュダと続き廊下を歩く。
 落ち着かない。苛々する。ロゼウスが側にいないだけで、こんなにも。
 昨夜は間違いなく隣で寝ていたはずなのに、気づけば一人でシーツの波に埋もれ、人肌の冷めた寝台で凍えているなんて惨めだ。この私にそんな思いをさせるなんて、あの馬鹿。お前のせいだロゼウス。
 つまらない気分を振り払おうと、ふと廊下の窓に視線をやった。換気用にとりつけられた窓は狙撃の可能性を考慮してさほど大きくはないし、数も多くはない。だが、これほどの規模の城となると、それなりに景色も見晴らせるようになっている。
 明け方の、中庭。
 大陸のどちらかと言えば北部に属するエヴェルシードの庭には、冬に咲く花が多く植えられている。この季節も可憐な花々が庭園を埋め、その様子を賑わせている。
 その、一角。
 倒れ付す影にのしかかるもう一つの影。乱れた白い髪。
 覆いかぶさる男……の顔はわからない。だがその相手に組み伏せられて無体を強いられている方の様子は見えた。
 ぐしゃぐしゃに崩れた泣き顔。
「―――ロゼウスっ!?」
 何? 何だあれは?
 シェリダンは叫び、窓硝子に割れそうなほど拳を叩きつけていた。信じられない光景が眼下で行われている。
 前を行くエルジェーベトを含め、三人がシェリダンの視線の先に気づき、驚愕の声をあげる。
 シェリダンは窓をあけて叫んだ。
「ロゼウス!!」
 ただ、名を呼ぶことしかできない。この距離。
「……くっ」
「どいてください! 陛下!」
 エルジェーベトが懐から小型のボーガンを取り出した。さしたる威力はないはずのそれに無理矢理弦を一本足し、強度を挙げてから中庭の侵入者を狙う。
 密着しているロゼウスではなくその上の男を狙った矢は見事にその肩口に命中し、男が体勢を崩し、何処かへ逃げるようだった。
 シェリダンたちはすぐさま中庭へと駆け下りた。
「ロゼウス!」
 全身を見る影もなくぼろぼろにしたロゼウスは、茫然自失の体で地面に座り込んでいる。
「あ……」
 その頬に光る、幾筋もの涙の痕。
「ロゼウ……スっ!?」
 駆け寄ったシェリダンを、白い手が突き放した。
 どんっと勢いで無様に尻餅をつくが、自らの状態よりも身に起こったそれに意識が集中していて思考が追いつかない。
「ロゼウス……?」
「あ……あ……ご、ごめ……」
 シェリダンを突き飛ばしたロゼウスは、蒼白な顔をしていた。


062

 中庭の景色などもう目に入ってはいなかった。
「ロゼウス!」
 誰だ?
 心配そうな声。知ってる声。
 いや違う、と思い直す。心配? 心配! 笑いが一人でに込み上げてくるような錯覚に襲われるけれど、心は冷たく張り詰めていて表情も喉も動かない。
 俺を心配する人間など、この世にいるわけないじゃないか。
 兄様だって俺を見捨てたのに。
 身体が痛い。内股をどろりとしたものが伝っている。気持ち悪い。動けない。
「ロゼウ……スっ!?」
 名を呼んで触れようとした誰かの手を、思わず今できる力いっぱいで突き飛ばしてしまった。
「ロゼウス……?」
 尻餅ついて地面に倒れこんだシェリダンが、呆然と名を呼んでくる。不思議そうに。何が何だかわからないというように。
「あ……あ……ご、ごめ……」
 でも、俺だって何が何だかわからない。
 ここが何処で自分が誰で、眼の前の人間が誰で今はいつなのか。
 シェリダンを突き飛ばした拍子に僅かに我に帰り、意識が戻りかけるけれどそれと同時に先程の光景も思い出してしまう。
 何があった。何をされた。この体中の鈍痛とあちこちを濡らし内股を伝う白濁のぬめり。
 さっき。
 俺、は。
 兄上に――。
「ぁ、あ、ああああああああ!」
 蹲りしゃがみ込んで叫ぶ。胸の内で荒れ狂う嵐をそうして外に吐き出さないと、心が壊れてしまいそうだった。
 もういや、いや、いやだ! 何も知りたくない見たくない。辛い思いも苦しい思いもしたくない。誰か助けて。
「ロゼウス――」
「触らないで!」
 子どもみたいに叫んで、再び、その手を振り払う。この場に誰がいるのかなんてわからない。でも昔から俺のそばにいるのなんてたった一人しかいないじゃないか。
「もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!」
 息を飲む気配を感じたような気がしたけれど、深く考える余裕がなかった。
「なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!」
 いやだいやだいやだもう傷つけないで痛い思いをさせないでだってあなたは俺を。
「私だ! ロゼウス!」
 強く、呼ばれて肩を掴まれた。びくついたところで、無理矢理顔を上げさせられる。けれど飛び込んできたのは血のような紅ではなく、炎のように眩い朱金の瞳だ。
 眼の前に入るのはロゼウスの十歳年上の兄ではなく、同い年の少年王。
「シェ……リダ……」
 ぽろりと新たに盛り上がった涙が零れ、頬を洗っていく。息を荒げたシェリダンが、次の瞬間くしゃりと顔を歪めた。
「そういう……ことか」
「シェリダン……」
 ロゼウスの身体を強く抱きしめるシェリダンの腕は震えている。彼の肩越しに、ロゼウスはようやく他にも人がいることに気づいた。
「ハデス……イスカリオット伯……エルジェーベト卿……」
「大丈夫ですか? 王妃陛下。何があったのか……言わなくていいから、とりあえずもう一度湯殿へ向かいましょうね」
 蹲ったままシェリダンに抱きしめられているロゼウスと視線を合わせるために屈みこんで、優しく声をかけてくれたのはエルジェーベトだ。こういうのはなんていうのか、昔、面倒を見てくれた乳母みたいな温かさだ。
 ロゼウスの頭を撫でるエルジェーベトに声をかけて、シェリダンが立ち上がりロゼウスのことも立たせ、ついでに抱きかかえた。
「私が連れて行く」
「陛下、場所は」
「わからん、案内しろ」
 ロゼウスを抱き上げたシェリダンの表情は硬すぎるほどに硬い。
「わかりました。こちらです」
 エルジェーベトの案内で、もう一度大浴場へと戻った。
「湯を汚すぞ?」
「構いません。ですが、陛下」
「何だ?」
 怖い顔をしたシェリダンとエルジェーベトが言葉を交わす。
「……いいえ、何でもありません」
 けれど彼女は結局何かを飲み込んで、シェリダンはそれを気にも留めずロゼウスを抱いたまま浴室へと入った。服を脱がして、頭から湯を被せる。自分も着衣を脱ぎ落として布を手に取り、ロゼウスの身体の隅々まで洗うことに集中していた。
 ドラクルの指が触れた箇所の鬱血はさすがにヴァンピルの力だけあってなかなか消えず、内股を伝う白濁と血の混合物を見て、シェリダンが忌々しげに舌打ちした。
 ロゼウスの腕も足も太腿も胸も股間も髪も顔も中も細心の注意でもって触れてくるシェリダンの指が気持ちいい。やっと与えられた甘いものが、痛めつけられた身体と心を癒していく。
 全身を洗い流された後、また抱き上げられて、湯の中へと入れられた。温かな湯に浸されて、シェリダンの肩にもたれかかって、ようやく安堵の息が漏れる。みっともないとか恥ずかしいとか見苦しいとか、そんな言葉も思い浮かばなかった。
「ロゼウス……」
 湯の中でシェリダンの胸に寄りかかり、その肌から漂う洗髪剤の甘い香りを嗅ぎながら、心地よい声に耳を傾ける。
 シェリダンの眼はちゃんと俺を見てる。誰かの代わりじゃないし、俺を通して誰かを見たりしない。
 ――ねぇ、ロゼウス。シェリダン王に求められた時、嬉しかっただろう?
 なのに耳にあの時の声が蘇り、思わずびくりと身体が震えた。
「ロゼウス? どうした?」
 気づいたシェリダンが問いかけてくるけど、一度始まった震えが収まらない。
 ――私に捨てられて自分の存在する意味など何もなくなったお前が、シェリダン王に望まれた。彼のものになってしまえば、お前は誰にも必要とされないという孤独から逃れられるのだから……。
 違う。違う。違う! 俺は、そんなつもりじゃ……。
 ――なんて卑怯な考えなんだろうね。
 幻の声はやまない。
「……あがるか」
 シェリダンに促されて再び抱き上げられ、湯殿を後にした。部屋に戻ると室内を整えていたらしきジュダと行き違いになり、二人だけになった。
 今着ているのは簡易な部屋着だ。シェリダンの方も、飾りのない上着とズボンだけの、いつもより簡素な格好だ。
「何があった?」
 恐れていたその言葉をついに聞く。
「あの男……白い髪。ヴァンピルのようだった」
 シェリダンの声は質問でも詰問でもなく、ただの確認だった。
「あれは、お前の《兄上》だろう」
 兄と言える存在は三人いる。だけどロゼウスがただ兄上と呼ぶとき、それはただ一人だけ。そのただ一人の名をシェリダンは口に乗せた。
「ローゼンティア第一王子ドラクル、奴がお前を―――」
「やめろ!」
 ロゼウスは思わずシェリダンから離れる。
「違う! 兄様はそんなことしない!」
 そうだ、するわけがない。だって兄様は。
「だが現にお前はこうしてあの男に強姦された!」
「違う!」
「泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! お前はずっと」
 なんで。
 なんでよりにもよってお前の口から、そんな言葉聞かなければならない。
「兄に虐待されていたんだ」
 違う……。
「違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる」
 でも誰かが頭の中で囁く。

 だってお前は現に今、こうして自分の《涙》で溺れかけているじゃないか?

「違う。虐待なんかされてない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘に決まっている!」
「何故そんなことが言える!?」
 今日のシェリダンの様子はおかしい。昨日はあんなに、嘘みたいに優しかったくせに。
「愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!」
「そんなことない! それが兄様の愛なんだ!」
 ――ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。
 ――こんなことされても、まだドラクルが好きなの?
 好き。好きだよ。ドラクルが。俺は兄様を愛してる。俺が好きなのはドラクルだけだ。だから。
 だから、痛いことをされても平気。
 だから、酷いことをされても傷ついたりしない。
 俺は兄上を愛しているんだから。だから……何をされても平気。
 本当に?
「俺は兄様を愛してる!」
 だってそうでなかったら、俺は、俺は何のために……
「……っ、この馬鹿! そんなの、身内の虐待被害者の勘違いの常套句じゃないか」
 シェリダンが無理矢理ロゼウスを寝台に押し倒した。
「認めろ、ロゼウス。お前はあの兄に虐待されていたんだ」
「違う、絶対に違う……だって、兄様は俺を愛してるって」
 拭いたはずの涙がまた零れる。
 どうして。言葉を重ねるたびに胸が苦しくなるのは。涙の海に溺れ溺れて、息ができない。
「あれが、愛だと? あんなものが?」
 ロゼウスを組み伏せて見下ろすシェリダンの顔に不吉な陰影がかかり、彼は酷薄に笑む。
「だったら、私だってお前を愛している」
「え……」
 《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。
 笑っているのに泣きそうな顔でシェリダンが言う。
「そんなに自分を誤魔化したいならば、そうし続ければいい。私の向こうにドラクル王子を見るお前など、私はもういらない」
 だから、と彼は消えそうに微かな声で囁いた。
「私はただ……お前を犯したいだけだ。お前に私を刻みつけ、……お前は私だけを見ていればいい」
 俺たちはただもつれあって、地獄に堕ちる。

 ◆◆◆◆◆

『お前は私のものだ』
『ああ、そうだ』

 あの頃の会話が、どうしてか今は酷く遠い。

 私の捕虜、私の奴隷、私の妻。
 私のロゼウス。
 お前は永遠に、私だけのものだ。

 そのはずだったのに。

『ロゼウス――』
『触らないで!』
 はっきりとした拒絶。
『もういや、もうやめて、やめて兄様助けて!』
 シェリダンは思わず息を飲んでその悲鳴に聞き入り、滑らかに紡がれた言葉に歪な既視感を覚えた。
『なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!』
 漂う冬の花の香りが軋む。

 ――何でも言って。
 ――何でもしてあげるから。
 ――望む事は何でも。

 ああ、そうか。
 あれはそういう意味だったのか。

 誰のものとも知れぬ精液で全身をどろどろに汚されたロゼウスを抱きかかえ、湯殿に連れて行った。どこもかしこも、事務的を心がけて丁寧に念入りに洗う。
 この肌に自分以外の誰かが触れるなど赦せない、その相手が眼の前にいれば、たとえどんな相手だとしても千路に引き裂いてやるのに。
「何があった?」
 浴室から戻り、この城に滞在する間与えられた客室に戻り寝台に並んで腰掛けながら尋ねた。
 馬鹿だ、私は。何があったかなんて聞くまでもないのに。この状況を見れば嫌でもわかるものを。
「あの男……白い髪。ヴァンピルのようだった」
 窓から薄暗い朝方の中庭を眺めただけだが、その白銀髪は白く目立っていた。それにヴァンピルの中でもかなりの実力者であるはずのロゼウスが抵抗すらできずに身体を許すなど、普通ならありえない。
「あれは、お前の《兄上》だろう」
 男も女も兄妹が多いローゼンティア王家で、ただしロゼウスがそう呼ぶのはたった一人。彼の心の最奥に巣食う、その忌々しい男。
「ローゼンティア第一王子ドラクル、奴がお前を―――」
「やめろ!」
 名前を出せば、ようやっと正気の戻って来た瞳に強烈な抗議を受ける。
「違う! 兄様はそんなことしない!」
 お前は馬鹿だ。
「だが現にお前はこうしてあの男に強姦された!」
「違う!」
「泣きながら、いやだと喚きながら無理矢理身体を奪うのが合意の上だと言うのか! いい加減にしろ、ロゼウス! お前はずっと」
 何故。
 何故よりにもよってお前の口から、あんな言葉を聞かなければならない。
 ――もういや、もうやめて、やめて兄様助けて! なんでもするから! あなたの望む事はなんでもするから、ちゃんと言う事聞くからもう殴らないで!
 私は何故こんなことを言わねばならない。
「兄に虐待されていたんだ」
 ――やめてください父上。もう触らないで。酷いことをしないで。私が悪いところは直します。何でもしますから、だから!
 シェリダンも同じだった。十年前から今年になって即位するまで、ずっと父に虐待されていた。母によく似たこの面影のために犯される、性的虐待を。八年前に従者となったリチャードが泣きながらシェリダンの置かれた状況を説明してくれなければ、シェリダンもきっと今のロゼウスのように。
「違う。違う違う違う。俺は虐待なんかされていない。だって兄様は俺を愛しているんだから、俺だって兄様を愛してる」
 私は何故お前に惹かれていたのかようやくわかった。
 私たちは同じものでできている。この底の知れない悲しみと、それを埋めるための欺瞞と、でも本当はからっぽの自分。
 血を求めることでしか渇きを癒せない堕天の吸血鬼。
「違う。虐待なんかされてない」
「嘘だ」
「嘘じゃない」
「嘘に決まっている!」
「何故そんなことが言える!?」
 でもロゼウスはまだ気づいていない。
 いや、気づいていて、自分を誤魔化しているのか。
 ――あんたは、俺を置いていったりしないよな。
 ――ずっと一緒にいてよシェリダン。独りは寂しいから。死ぬ時も側にいてよ。
 ロゼウスを裏切ったという兄。第一王子ドラクル。
 本当はわかっているのだろう。
 お前は、兄から愛されてなどいない。……私が父から愛されてはいなかったように。
「愛している人間が、相手をこんな目に遭わせるはずないだろう!」
「そんなことない! それが兄様の愛なんだ!」
 そうでなければ辛いんだろう?
「俺は兄様を愛してる!」
 そうでなければ、お前は家族に嫌われた上に、理不尽に暴力を振るわれて可哀想な子になってしまうから。
「……っ、この馬鹿! そんなの、身内の虐待被害者の勘違いの常套句じゃないか」
 シェリダンは無理矢理ロゼウスを寝台に縫い付ける。
「認めろ、ロゼウス。お前はあの兄に虐待されていたんだ」
「違う、絶対に違う……だって、兄様は俺を愛してるって」
 ロゼウスの瞳からまたもや涙が溢れて頬を濡らした。
 いつだって彼の言葉も態度も一定していない。いちいち状況によって変わるし、まったく安定がない。だがそれが自己保身と精神安定のための作用なのだと、ようやく気づく。
 虐待されているのだという事実を受け止められず、性的虐待をそれは嗜虐趣味の愛情故だと歪めて飲み込んでいるロゼウス。
「あれが、愛だと? あんなものが?」
 シェリダンに真実を教えてくれたリチャードやシェリダンのために泣いたクルスのような人間が周りにいなかったのか加害者である兄の立ち回りが上手かったのか、誰にも助けてもらえずに一人で身体的精神的な暴力に耐え続けた。
 その心が捩じれてしまうのは仕方がないのかもしれない。誰にも救われずいつも一人で泣くことしかできず、心を守るために自分を誤魔化した。
 だが頑なに愛を主張するその姿に、憐れよりもまず怒りが、苛立ちが、憎しみが芽生える。
 心を守るために自ら狂気に陥ったその姿は儚く脆く、美しい。
 壊したくなるほどに。
 自分でもそうとわかるほど、シェリダンは組み敷いたロゼウスの上で酷薄な笑みを浮かべた。
「だったら、私だってお前を愛している」
「え……」
 今までずっと、何かの拍子に口にしかけては、今のこの心地よい距離が壊れてしまうのではないかと飲み込み続けた言葉。
なのに、いざ口にしてしまえば、それは想像していた甘さとは正反対の苦い感慨を与える。
 《愛している》という言葉が、こんなにも悲しく寂しく切ないものだとは思わなかった。
 口元は笑っているはずだ。けれど、私は……泣きたかった。
「そんなに自分を誤魔化したいならば、そうし続ければいい。私の向こうにドラクル王子を見るお前など、私はもういらない」
「シェリダン……」
 いらない。そんなものはいらない。
 ロゼウスがシェリダンの中にどこか慕っている長兄を重ねて見ているのは知っていた。王族の世継ぎの王子として、似たところがあるのも仕方がないと思っていた。
 だが彼が、自分に兄を重ねるどころではなく、自分に都合よくドラクル王子の幻影を押し付けるだけならば。
 そんなものはいらない。
 だったらもう、私もお前の心などいらない。
 どんなに望んでも、身体を手に入れても、お前の心は永遠に手に入らないと言うのなら。
「だから」
 搾り出した言葉は掠れ。
「私はただ……お前を犯したいだけだ。お前に私を刻みつけ、……お前は私だけを見ていればいい」
 私たちはただもつれあって、地獄に堕ちる。


063

「……どういうこと?」
 ミカエラに胡乱な目で睨まれる。
「だからっ、どうしてロゼウス兄様がシェリダン王に苛められなきゃなんないわけ!?」
「どうして、と言われても。陛下のお心なんぞ一公爵の私程度が知るはずもないわ」
「ふざけるなっ! いくら捕虜とは言っても、この扱いはないだろう! 何故僕たちは兄様に会わせてもらえない!」
「そういうのは陛下に直接仰ってもらわないと……それより二人とも、そろそろ支度してくれる?」
「支度? って……」
 ミザリーが顔色を曇らせる。
「予定を変えて、今日中に発つそうよ。途中、市場の方も見て回るって。陛下が」
 誘ったのはまあ、あのジュダとルイなわけだが。
 エルジェーベトは傍らに立つ弟の名を呼ぶ。
「ルイ」
「なんだい? 姉さん」
「私が出た後、この城の管理はあなたに任せるわ」
「姉さん?」
 そう、エルジェーベトにはこの二人をシェリダンに見せる以外にも、かねてから温めていた計画があった。
「ああ、それって噂の、ルカリツォ侯爵があなたに城の一つを謙譲して、シアンスレイト近くにバートリ領を広げるってアレですか」
「何であなたが知ってるの? イスカリオット伯」
「いえ、あるルートから。エルジェーベト卿、あなたの趣味を知らないいたいけな男性をたぶらかして貢がせるなんてあくどいことはやめた方がいいんじゃないですかね」
「別に私はたぶらかしてなんかないんだけど。だって、色仕掛けなんて面倒だもの」
「……そうですか」
「でも、姉さんは貰う物はちゃっかり貰うんだよね」
「そうよ。だから、ヴァートレイトはあんたにあげる」
「わぁい。でも、ミカエラ王子は陛下についてシアンスレイトに行っちゃうんだよね。はあ、姉さんまでいなくなったら寂しくなるなぁ」
「我慢しなさい。これまで買った奴隷をいっぱい置いてってあげるから。また読み書きでも教えて暇を潰せばいいでしょ?」
「はぁい」
「読み書き? ……奴隷に教育を行っているのですか?」
 ジュダが多少驚いたような顔で、エルジェーベトの方を見てくる。
「ええ。そうよ。いざ手紙を書くとき、誰も代筆してくれないのは面倒だもの」
「……それだけですか?」
「ええ、それだけよ。だってどうせ勉強を教えるって言っても、それは私じゃなくてルイや他のヤツラの仕事だもの」
 エルジェーベトが何を考えて何をするかなんて、この男には関係ない。
「そういえば」
 これ以上話しても埒が明かないと諦めたのか、ジュダは話題を変えてくる。
「今日も奴隷市に行くのでしたよね」
 その言葉を口にした途端、ミカエラとミザリーからさも嫌そうな反応が返ってきた。
「奴隷市?」
「これだから人間は……」
 ローゼンティアは吸血鬼であるローゼンティア人の単一民族国家だから、奴隷という考えは他のどこの国よりも薄いという。世界でも数少ない自分と同じ種族をわざわざ好き好んで奴隷にするという考え方が信じられないらしい。人狼や人魚、アケロンティス全土を見回しても数少なくなってきた魔族に共通する思考だ。
「別に。人間以外の奴隷だって出てるわよ。きっと今頃ローゼンティアとの戦争で不当に捕虜を手に入れた者たちが、はりきってヴァンピルを競りにかけているのでしょうね」
 二人の王族がキッと眦を吊り上げてエルジェーベトを睨んでくる。別にエルジェーベトとしてはただ真実を口にしただけで、何も悪い事は言っていないと思うが。
 シェリダンと、それからロゼウスからヴァンピルについての生態を聞いた。ミザリーたちからもさんざんに聞きだした。エルジェーベトとシェリダンの統一意見は、あの種族を野放しにするのは危険だということ。
 朝方のことで沈み込んではいても、その辺の判断力が鈍らないところはさすが十七歳で国王になったことはあるだけのシェリダン王。素晴らしい。
 面白そうだから、エルジェーベトもこれからはシアンスレイトの近くで、王宮で何かあったらすぐ動けるようにしておこう。それにシェリダンも、ここまで内部の事情をバラしてしまったエルジェーベトに遠くで勝手にされると困るだろう。
 せっかく城を一つ増やすのだし、その機会は有効に使わないと。
「私と陛下と……それからロゼ様は陛下に連れられて市に行くけど、あなたたちはイスカリオット伯とハデス卿と待っていればいいわ。見たいっていうなら話は別だけど」
「誰があなたたちみたいな悪趣味に付き合うもんですか」
「どうして、ロゼ兄様も返してくれないんだよ!」
 予想通りの反応が返ってきたので、エルジェーベトも淡々と返事をする。
「だったら、二人は伯たちと馬車で待っててね。何故ロゼ王妃を連れて行くのかって? それはシェリダン様が市場に行くからなのよ」
「だから、なんで」
「王妃様は陛下の所有物なんだって。言わば、奴隷ね」
「バートリ公爵、お前……っ!」
 ミカエラが思わずのように腰に手を置きかける。今はとりあげているけれど、彼も剣の腕ならそこそこのものを持っている。もっとも、その技術に身体の弱さのせいでついていけてないみたいではあるが。
「そういえばルイ、この二人に朝のこと言った?」
「王妃暴行事件? それだけなら言ったけど」
 普段図太い図太い言われているルイも、さすがにこれに関しては困った顔をする。あの事は伝えてないようだ。では自分が言うしかないのだろう。
「あのねぇ。ロゼ様を襲ったのってどうやら、ヴァンピルらしいのよね」
「え?」
「なっ……!」
 さすがに二人も顔色を変える。
「おかしいわよねぇ。私とかエヴェルシード人ならヴァンピルに何をしてもおかしくないけどね。王妃様を襲ったのは同族。だから陛下はもう片時も王妃様をお側から離したくないんですって。どう、わかった?」
 ミザリーとミカエラが沈黙する。
「だから、わざわざ馬車の中でも奴隷市でも陛下は王妃様を連れ歩くの」
 それでたとえロゼウス自身が何を感じたとしても。
 残念ながらエルジェーベトは朝方二人を湯殿まで送った後のことは知らない。その後シェリダンには会ったが、ロゼウスには結局会えずじまいだ。
 そしてシェリダンは壊れた微笑を湛えていた。
「……一体何があったのだか気になっちゃうじゃない」
 気づかれないように一人ごちるけど、すぐ隣のルイが聞いていた。弟の能力は信用しているしエルジェーベトの歴史の全てを知っているものだから気は楽だが、昔のことを思い出すのは辛いから、普段彼とはあまりそういうことを話さない。
 しかし今日のルイは、それを言ってきた。
「ねぇ、エルジェーベト」
「なぁに、ルイ?」
「ロゼウス王子はあの子に少し似ているね」
 その指摘はちりちりとエルジェーベトの胸を焼いた。
「姉さんがシアンスレイト近郊に移るのはそのため? あの王子を、あの子の代わりに見たいから、今度は同じ間違いを繰り返したくないから、だから」
「黙りなさい、ルイ」
「……はい」
 エルジェーベトは言葉で弟の口を塞ぐ。しかし別の声が聞こえても、一度耳にした言葉が脳裏を離れない。
「……私は、面倒なことは嫌いよ」
 シェリダンが本当にあの王子をどうにかするつもりなら、一公爵である自分にはどうしようもないだろう。それに。
「私にはあの子どころか、陛下すら助けることができなかったんだもの」
 その私に、何を言う資格があるのかしら。

 ◆◆◆◆◆

 奴隷市に向かう。
 もう一つの馬車にはジュダ、ハデス、さらにミザリーとミカエラを乗せて、エルジェーベトはシェリダンとロゼウスと一緒の馬車で。
 この方が何かあった場合……例えば身体の弱いミカエラが体調を崩した場合などでもハデスの魔術ですぐに治療ができるからいいのだと。ジュダの警護の腕に関しては誰も口を差し挟めないものであるし。
 しかしこの場合、治療が必要なのはミカエラではなく、むしろエルジェーベトの目の前で、シェリダン王の膝に抱かれてぐったりしているロゼウス王子ではないのか? 外に出るからと王妃の格好に戻ったロゼウスは、朝方会った時よりさらに血の気が失せた白い顔をし、どこか苦しそうに眉根を寄せている。
「陛下、王妃様に何をなさったんです?」
 抱き上げたロゼウスの見事な白銀の髪をうっとりともうっそりともつかない顔つきで梳いていたシェリダンは、エルジェーベトがロゼウスのことに触れた途端、目つきを険しくして睨んできた。
「私がこれに何をしようと、お前に関係あるのか? エルジェーベト。ロゼウスは私のものだ。私の奴隷だ。お前が気にかける必要はない」
「そうですか。でも陛下。私はそろそろシアンスレイト近郊のリステルアリア城に移りますし、今までよりは陛下のお側に侍る回数も、王妃陛下にお目通りを願う回数も増えると思うのですけれど」
「……好きにしろ」
 無愛想に彼女との会話を終えて、シェリダンはまたロゼウスの髪に指を絡め始める。その表情は本当に嬉しそうで、なのにどこか悲しげで……・・この二人の間には、何があったのだろう。
 女は恋人が浮気している現場を見つけたとき、浮気相手の女に怒るのだと言う。逆に男は、浮気をした恋人の女を責めるのだと言う。恋人の性別が異性だろうと同性だろうと、たぶんこの思考は変わらないはず。
 シェリダンがロゼウスに酷い扱いをするのは……たぶん、そういうことなのだ。なんてわかりやすい……
 しかし行き過ぎた愛情は凶器になるだけ。
 その時、馬車が止まった。
「何があったのでしょう?」
「私が見てくる。お前はここにいろ」
「陛下。あなたにそんなことは……」
「いいから。ロゼウスを頼む。エルジェーベト」
 エルジェーベトは女にしか興味のない女だから安心しているのか、シェリダンもロゼウスを預けてさっさと行ってしまった。どうやら馬車に何らかの不調が起きたらしい。普通ここは、馬車の持ち主であり臣下であるエルジェーベトが様子を見に行かねばならないところなのだろうが。
 しかしシェリダンの膝から下されて、エルジェーベトの隣に移ってきたロゼウスはようやく安堵の表情を見せた。
「……助かった」
「殿下?」
「もう……これ以上……シェリダンの側にいるのは限界だったから」
 本当に二人に何があったのか。
 側にいればいるほど、相手を傷つけてしまう絆もある。
「殿下? 具合が悪い様子ですけれど、大丈夫ですか?」
「うん……ちょっと、辛いけど大丈夫」
「……本当に?」
 苦しげに眉根を寄せるその態度が疑わしくて、エルジェーベトは念を押す。ロゼウスはくすっと、小さく笑った。
「本当に。ヴァンピルの肉体は、滅多なことでは傷つかないし傷もすぐ癒えるから……具合が悪く見えたら、それはきっと、精神的なことで……」
 紅玉のような瞳に、白銀の睫毛が伏せられて煙る。その造形はまさに美の極致。性別を超越した美しさで、この美しさに惹かれたシェリダンの気持ちもわかる。
 それでもエルジェーベトの胸に浮かぶのは、やはり一つの面影だ。
「……嫌なことをされたら、きちんと嫌と言いなさい」
「エルジェーベト卿?」
「それから、ちゃんと周りの誰かに助けを求めなさい」
 こんなことをこの少年に言っても仕方ないのはわかっている。
 これは本来なら、エルジェーベトが自分の本当の息子に言わなければならなかった言葉だ。
 どうしてだろう? この王子を見ていると、亡くなった息子を思い出す。エルジェーベトが十六のときに産んだ子だから、生きていれば今のシェリダンや彼ぐらいの歳だというのもあるだろうが。
 それでもエルジェーベトが面影を重ねるのはシェリダンではなく、この王子なのだ。生粋のエヴェルシード人である息子と、ローゼンティア人の王子は、似ても似つかないのだが。
 ロゼウスが、少し身体をふらふらさせている。やはり身体は大丈夫と言っていたけれど、シェリダン王に何かされたのではないか?
「辛いなら、横になればいいわ。どうせすぐに陛下が戻ってくるだろうけれど」
 エルジェーベトは端によって膝の上を示し、きょとんと目を丸くしたロゼウスはおずおずと言った動作ながらも、エルジェーベトの言ったとおりに頭をこちらの膝に預け、馬車の座席に横になった。少し窮屈だろうけれど、それは馬車の中であるから仕方がない。少し我慢してもらわないと。
「ありがとう、公爵。本当は少し、疲れてた」
「何があったの?」
「朝……ので、三回。その後シェリダンと、二回」
「それでよく動けるわね」
 朝方に強姦された人を夕方には奴隷市場に連れて行くというシェリダン王の考えも凄いけれど、それに耐えているこの少年も凄い。そんな丈夫さ、ない方がロゼウスにとっては幸せなのだろう。
「あなた、私の息子に似てるわ」
 聞き流してくれていいと前置きした上で、エルジェーベトはそう切り出した。膝の上に頭を乗せて横になったロゼウスに広げた腰掛けを羽織らせ、その肩をぽんぽんと軽く叩いてやる。
「私は十五で先代のバートリ公爵に嫁いだの。その次の年には子どもを産んだわ。一人息子だった」
「あなたは、女の人が好きなんじゃ……」
「そうね。でも命令があったら誰とでも寝るわよ。貴族ってそういうものだから。まあ、それはいいとして……夫の事は政略結婚だったけれど、それなりに好きだったわよ。優秀な軍人だったし。でもね、それが同時にあの人の欠点でもあったの。自分が優秀だから息子はそれ以上に優秀にしようとして、傍目から見ても厳しい教育をしていたわ。そう、それこそ虐待と言われてもおかしくないほどの」
 ロゼウスの身体がぴくりと震える。
「私も一応エヴェルシード貴族の端くれだから軍人だけれど、息子にそんなに最初から期待はかけてなかった。というのでもないのだけれど、成長して体ができあがってから鍛えればいいと考えていたわ。子どもが熱を出しやすいのは当然だし、怪我も治りやすいと言ったって、治している最中に無理をさせれば変な風に身体が作られてしまう場合もある。だから、軍人教育はある程度時機を見てからにしましょうと言ったのに、あの人は聞いてくれなかった」
 男尊女卑思考の残るエヴェルシード王国。そこでは亭主関白が基本的で女は男に逆らえないのが一般的。
 でも、あの時だけは、エルジェーベトは母親として夫に息子の教育方針に対して意見しなければいけなかったのだと、今になって思い知る。
「夫が息子を殺した時ね、私、真っ白になってしまったの。気がついたら辺りは血まみれで私は血まみれの剣を持っていて。夫は死んでいた」
「……」
 夫に応戦した跡はあった。二人とも得物を持っていた。軍人としてなら、その時からエルジェーベトの方が優秀だった。
 だが、もう、彼女の手の中には何一つ残ってはいない。
「だから私は、からっぽの公爵なの。あなたの言う通りよ。事件を起こしたすぐ後に起きた戦争で戦功をあげて女公爵に取り立てられたけれど、何をしても虚しいばかり」
 ロゼウスは膝の上で、大人しくその話を聞いていた。
 彼が何を考えているのかはわからない。エルジェーベトには本来知る必要もない。
「余計なことを話したわね」
 すぐ外でシェリダンの声がした。もうすぐに馬車に戻ってくるのだろう。案の定扉が開かれて、車内の様子を見たシェリダンは一瞬硬直した。
「……眠る暇はないぞ。もうすぐ目的地だ」
 けれどロゼウスを自分の手元に戻したりせず、再び動き始めた馬車の揺れに三人は身体を任せた。


064

 奴隷市場についた。
 さすがに身体がつらい。馬車の中で少し休んだけれど、もうもたない。ロゼウスはシェリダンにしがみつくようにして歩く。
 真昼間からさんざん人の身体を犯してくれたシェリダンは、何も言わずにロゼウスの歩みを支えている。
 こめかみを脂汗が伝う。そうまでして、ロゼウスは別に奴隷市を見たいわけではない。
「お前は私のものだ」
 ロゼウスの胸中を見透かしたようにシェリダンが振り返り、告げてくる。
「だから、どこに行くにもついていくのは当たり前だ」
「……はい」
 今のロゼウスに、彼の声に逆らう術はない。何がシェリダンの心の琴線に触れたのかはわからないが自分は彼を怒らせた。
 でも別にいい。自分はシェリダンなんかどうでもいいんだから。一緒に死んでやるとは言ったし、ローゼンティアを守る取引のためなら、抱かれてもやる。
 でも決して愛することはない。
 ロゼウスはシェリダンを好きにはならない。
 たとえ彼のくれる言葉が、どんなに心地よくても。
 ローゼンティア人がエヴェルシードの街中、しかもこんな場所を平然と歩いているのはおかしいと言うことで、今のロゼウスは頭からフード付きの外套を着せられている。先を行くシェリダンに痛いほどきつく腕を掴まれて、雑多な街並みを歩く。
 奴隷市場などと言うだけあって、街中は饐えた匂いのする汚い貧民街だ。華やかな繁栄の国に見えたのに、エヴェルシードにもこんな場所があったのか。
「エルジェーベト、場所は?」
「向こうですよ。話はつけてありますから」
 外套の胸元を手で押さえながら、ロゼウスはシェリダンとエルジェーベトについていく。
 先程馬車の中で意外な過去を口にしたエルジェーベトは、それ以来でも態度を変えない。不思議な女の人。
 全然似ていないのに、ロゼウスは彼女を見ていると、母親という存在を思い出す。それも実母のローゼンティア正妃ではなく、よく面倒を見てくれた乳母の方だ。もう記憶は朧気だけれど、優しくて美しくて、大好きだった。ロゼウスが物心ついてすぐに乳母を辞めさせられてしまったけれど、今頃どうしているだろうか……。
 そういえばドラクルは、あの乳母を嫌っていた。落ち度なんか全然見つからなかったのに、どうしてだろう。……ドラクルのことを思うと、まだこんなに胸が疼く。傍目から見れば酷いことをされたのに、まだ嫌えない。
 エルジェーベトの案内で、競売の支配人に引き合わされた。ロゼウスではなく、シェリダンがだ。ただ彼に手を引かれたロゼウスも、すぐ側で話を聞くことになるのだけれど。
「おやおやこれは、競売を見るよりも、その舞台にあがる方がふさわしいようなお方ではないですか」
 ロゼウスの顔はフードで隠れて見えないだろうけど、支配人は露になっているシェリダンの美貌に目を付けたようだった。エルジェーベトが、溜め息とともに告げる。
「下手な事は言わない方がいいわよ。その方は、私よりもずっと偉い人なんだから」
「は? バートリ公爵より偉い? そんなまさか、あなたより偉い貴族がそうそういるわけが……」
「だって貴族じゃないもの。それの上よ」
 貴族の上、がすぐに思いつかなかったらしい支配人は、シェリダンの顔をにやついた目つきで眺めながら、ようやく十七歳で即位した王の存在に気づいたようだ。段々と顔色が悪くなる。
「ですが、その、まさか、そんなお方がこんな場所にいるわけは……」
 シェリダンが意地悪く喉で笑い、脅すように男に告げる。
「楽しみにしているぞ。つまらないものを見せたら、代わりにお前の首を貰っていく」
 可哀想なくらい青ざめてがたがたと震える支配人が、破れかぶれのように、すでに彼を無視して競売の席につこうとしているシェリダンに叫んだ。
「だ、大丈夫です! 今回の目玉はなんと、あのローゼンティアの王子なのですから!」
 ――ローゼンティアの王子!
 その言葉に、ロゼウスもシェリダンもエルジェーベトも反応する。
 ローゼンティアの王子は、ロゼウスを含めて七人。ロゼウスはここにいるし、ミカエラもミザリーやジュダと一緒に公爵の馬車で待っているはずだ。今朝姿を見せたドラクルがそんな簡単に捕まるはずはないし、だとすれば考えられる候補は四人。
しかし、兄であるアンリやヘンリーがいくら不利な状況とは言え、敵国の捕虜になった姿など想像できない。あの二人は有能故に誇り高く、そんな状況になったら真っ先に舌を噛んで自害しそうだ。
 となると残りは。
「ジャスパーかウィルが……」
「心当たりがあるのか?」
「顔を見なければわからない」
 そう、まだその二人だと決まったわけじゃない。
「そうか。ならば仕方がない。フードを外せロゼ。お前も一緒に競売を眺めて確かめろ」
 残酷な命令だ。
 でも従わないわけにはいかない。それに、もし本当に王家の関係者だとしたら、どこの誰ともわからない輩に買われるよりは、まだシェリダンに引き取られて近くにいた方が対策も立てやすい。
 ロゼウスはフードを脱ぐ。露になった白銀の髪と尖った耳。ヴァンピルの容貌に、会場中の注目が競売品でもない二人に向けられる。
「ヴァンピルだ……」
「おい、あれローゼンティア人だろ?」
「今日の品にローゼンティアの王子がいるって情報は本当だったのか」
「見ろよあれ、ここの裏の顔役のレズ公爵バートリ公だろ。その連れって、あいつら何者だ……?」
 妙な輩のちょっかいを受けないようにとロゼウスを真ん中に座らせ、その頭越しにシェリダンとエルジェーベトが会話をする。
「エルジェーベト、貴様この状況を知っていただろう?」
「確証はありませんでしたわ。噂だけです」
「まあいい。お前に謀反の気がないのはよくわかった」
「当然でしょう。謀反だなんて、面倒だもの」
「ああ。そのお前に面倒を一つ頼む」
「なんですか?」
「侵略国の捕虜を奴隷市にかけるのは禁止されている。この競売の責任者とあの支配人、並びに出展者をこの後捕らえ、拘束せよ。なんなら殺しても構わん」
「かしこまりました。陛下」
 先程シェリダンを舐めるような目で見つめていた支配人の末路は決まった。今この会場で同じような目をしてる奴らも、同じ制裁を向けられる。
 それよりもロゼウスの意識は、これから始まる奴隷の競売に集中していた。周りの視線ももう気にしてはいられない。
 競りにかけられるのが本当に自分の兄弟なのか、この眼で確かめなければ。
 シェリダンが手を伸ばし、膝の上に置いたロゼウスの手を握る。
「奴隷が本物の王子だったら、手を強く握れ。わかったな」
「うん」
「私が欲しいのはお前だけだ。お前の兄弟などに興味はない。政治的な利用はともかく、手足を斬りおとして壁に飾る趣味はない。ここにいる他の奴らと違ってな」
「……うん」
 競売には男も女も参加していた。エヴェルシード人が圧倒的に多いのは当然だが、売り物の中には他国の人間もいた。それを見るたびに、シェリダンが顔をしかめる。きっとシアンスレイトに残してきたローラとエチエンヌのことでも考えているのだろう。
 性奴隷、俗に言う玩具奴隷の競売であるから、次々と舞台に上げられる奴隷たちは皆見目が良かった。まだ幼いとさえ言える少年少女が、次々に値をつけられて下がっていく。
 その間も他の客たちの興味がこちらに集中していたが、シェリダンもエルジェーベトもいっこうに気にしない。彼らは座席の真ん中辺りに座っていたので、客の半数近くがこちらをちらちら振り返って反応を窺っているのが見える。
 ある意味当然だろう。ここにいるシェリダンも、常連とは言え彼と一緒にいるバートリ公爵エルジェーベト卿も、舞台の上に上がってきたどの奴隷たちよりも美しいのだから。
 けれどついに、その二人に匹敵する美しさの奴隷が舞台に引き上げられた。
 硝子の檻に閉じ込められ、吸血鬼の力を奪う銀の拘束具があちこちにつけられて項垂れている。興味なさそうにちらりとこちらを一瞥しかけて、ハッとこちらに気づく。
 その顔を見て、ロゼウスは強くシェリダンの手を握った。
 ジャスパー――!! 第六王子。俺の弟。
「当たりか」
 自らを包む硝子の檻に手を当てて、聞こえない声でジャスパーが叫ぶ。
 その唇が、ロゼウス兄様、と懸命に自分を呼んでいた。

 ◆◆◆◆◆

「どうしてほしい? ロゼウス」
 今更になって、シェリダンが意味ありげに囁く。
「買って欲しいか? あの奴隷」
「な、何を言って……」
 だって、あんたが本物だったら教えろって。
「あれは、俺の弟だ、第六王子のジャスパーなんだ」
 硝子の檻の中から、ジャスパーは必死にこちらを見つめている。可憐な唇を動かして懸命にロゼウスの名を呼んでいる。
 でも声が聞こえない。このままじゃ近づけない。
「そうか。だが、私はあんな子どもに興味はないな」
「だって、あんたが教えろって」
「ああ、だが私が欲しいのはお前だけだとも言ったはずだ」
 競売が始まる。
 硝子の檻の中に閉じ込められたジャスパーの容貌を見て、観客たちの間にどよめきが走る。
「さぁ、こちらの奴隷はなんと、あのヴァンピル王国ローゼンティアの王子です。まずは百万からどうぞ!」
 男も女も目を輝かせ、下卑た欲望をその目に浮かべながら舞台上を凝視している。
 売り物として飾られ、けれど性奴隷と言う用途に合わせてあられもない格好をさせられたジャスパーが、檻の中で震えている。
 半透明の布と、手首足首を戒める銀の拘束具が、その頼りない身体を飾っている。
「シェ、シェリダン、だって、このままじゃジャスパーが」
 客たちが次々に、ジャスパーに値をつける。その金額は、これまで出てきたどの奴隷よりも高く、高く上がっていく。
「結構な人気だな」
「ローゼンティアの王子という触れ込みですからね。触れ込みと言うか、事実ですけど」
 彼を買いに来た客も多いはずですよ、とエルジェーベトの淡々とした声が、ロゼウスの焦りを煽る。
 買われてしまう。このままではジャスパーが。そんなことになったら、どんな酷い目に遭わせられるかもわからない。ただでさえこんなところにいるということは、どれだけ酷い目に遭ってきたかわからないのに。
「シェリダン、おねが、お願い。ジャスパーを……」
 悔しいことに、今この場で彼を助けられる力を持っているのは自分ではない。ロゼウスの両隣に座る二人だ。財力も権力も、このエヴェルシードで二人に敵う者はいない。
 ジャスパーにつけられた値が次々に上がっていく。会場のざわめきが大きくなり、一人、二人と手を引いていく。
「ならば、取引をするか、ロゼウス」
 ロゼウスの耳元でシェリダンが囁いた。
「弟を救いたければ、私の提案を受け入れろ」
 あの、おぞましい提案を。
「いやだ」
 反射的に呟く。
「ではこのまま、弟を見捨てるか? 仮にもローゼンティアの王子が、我が身可愛さに身内を見捨てるか。それでも私は構わないぞ。お前の汚れた部分が見られるなら、それで十分楽しめる」
「なっ……で、でも」
「別に構わないだろう、今更。お前はもともと私の奴隷なのだから」
 今にも耳に触れそうな近さで、シェリダンが囁く。まさしく悪魔の囁きだ。
 昼間は無理矢理抱かれながらもなんとか突っぱねたその要求を、彼はもう一度突きつけてくる。
 ジャスパーのことは助けてあげたい。この会場のどこの誰とも知らない客に買われるよりは、まだシェリダンに買われて近くにいる方がマシだとも思う。
 だからって、そんなの。
「さあ、選べ。あの台上の弟王子の運命は、お前にかかっている」
 値が釣りあがる。すでに参加しているのは余程金のあるらしい二人だけになっている。どちらも男だ。
 ロゼウスは唇をきつく噛み締めた。錆びた鉄の味が口内に広がるのを感じながら、言葉を搾り出す。
「わかった。あんたの要求を呑む」
 シェリダンが、とろけるような笑みを浮かべた。
「買うぞ、その奴隷」
 そして彼は大きく声をあげる。
「エルジェーベト」
「はい、陛下」
 シェリダンの代わりにエルジェーベトが代表として競売に参加し始めた。
「六百万!」
「六百二十万!」
 競り合っていた男たちに混ざって、彼女の凛とした声が会場に響く。
「七百万!」
 いきなりのジャンピングに、会場中が沸いた。
「おい、見ろよあれ、バートリ公爵だぞ!」
「それに、隣の女はヴァンピルじゃねぇか? その隣のガキも、凄く綺麗なツラしてやがる。あれも奴隷じゃねぇのか?」
 周囲の客の視線も意に介さず、競売は続く。向きになった先程の男たちが、エルジェーベトに負けじと値を吊り上げる。
「七百十万!」
「七百三十万!」
「八百万!」
「おいおい、奴隷一人にどこまで値をつける気だよ」
「だが、相手はあのバートリ公と、ゼウナンセル、奴隷娼館のベルアートだぞ」
「面白くなってきたな」
 全くもって面白くない人間がここにいる。
「ちぃっ、面倒だな。競売と言うものは。一体どれだけやったら諦めるんだ?」
「とにかく終了までに一番高い値をつけた者勝ちですから……九百五十万!」
 ロゼウスはかたかたと震えながら、シェリダンの腕を握る。笑い事じゃない。手に汗握るなんてものじゃない。もしもエルジェーベトが負けたら、ジャスパーは。
「……まだるっこしい」
 痺れを切らしたのは、ロゼウスにしがみつかれているシェリダンだ。競売が千万を超えないところで争っていたところに、一石を投じる。
「二千万!」
「陛下、それは」
 エルジェーベトが驚いた声をあげる。
 会場中が、しん、と静まりかえった。
「二千万……?」
「おい、たかだか奴隷の一人に、二千万だと……」
「いくらローゼンティアの王子だからって……」
「あの綺麗な兄ちゃん、そもそも一体何者だ……?」
 辺りがひそひそとざわめき始めた中、司会の声が響く。
「に……二千万! 他にありませんね!」
 それではこちらの奴隷はそちらのお客様のモノです、と決定の声に従い、シェリダンはロゼウスとエルジェーベトを連れて席を立った。彼らが何か言う前に、辺りが勝手に潮が引くように道を開ける。
「エルジェーベト、この金は立て替えておけ」
「陛下。潰すつもりの組織に金を払ってやるつもりですか?」
「冥土の土産だ」
「まあ、太っ腹だこと」
 そして三人は破格の値段をつけられた奴隷……ジャスパーの元へと向かう。
「おお。お客さんたちですか。この王子様を落札したというのは」
 ロゼウスは奴隷商人の脇をすり抜けて、ジャスパーのもとへ駆け寄る。
「おいっ! ちょっと待てあんた! まだ金の支払いが済んでない!」
「後で用意させるわよ。私が信用できないの?」
「い、いや。あの大貴族バートリ公爵様がそういうのであれば……」
 背後のやりとりを無視して、硝子の檻を開けた。弟の今にも泣きそうに潤んだ瞳を見る。
「ジャスパー!」
 その華奢な身体を力いっぱい抱きしめた。


065

 兄様。兄様。ロゼウス兄様!
 その会場で愛しい人の姿を見かけたとき、ジャスパーは不覚にも泣きそうになった。女物の衣服を身につけていたから一瞬ロザリーかと思ったけれど、違う。
 あれはロゼウス兄様だ、僕にはわかる。
『ロゼウス兄様!』
 硝子の檻の中で叫んでも届かない。ロゼウスは、ジャスパーの方を叫んで名を呼ぶ。
 奴隷市場の競売。ジャスパーは、そこにかけられた商品だった。さんざん人買いたちの嬲り者にされた挙句、売り飛ばされるこの会場で、よりにもよってロゼウスと再会するなんて。
「さぁ、こちらの奴隷はなんと、あのヴァンピル王国ローゼンティアの王子です。まずは百万からどうぞ!」
 競売が始まってしまった。会場中からジャスパーに値がつけられる。
 ロゼウスはその隣に座った綺麗なエヴェルシード人の少年と何か話している。誰だろう、あの顔、見覚えがある。
 それは鮮血の記憶と共に浮かび上がってきた。
 シェリダン王――!
 あのとき、ローゼンティア城に攻め込んできた敵の総大将だ。ロゼウスはエヴェルシードの捕虜となったとは聞いたけれど、何故こんなところにそのシェリダン王と一緒にいるのか。
 わからない。何もかもジャスパーの想像の範疇を超えることばかりだ。でも。
「六百万!」
「六百二十万!」
 競り合っていた男たちに混ざって、女性の凛とした声が会場に響く。
「七百万!」
 ロゼウスの左隣にいる女性が、ジャスパーにそう値をつけた。一対一から、三つ巴の戦いとなる。
 その戦いの隙間で、ジャスパーは会場の最後尾に佇む人影を見つけた。
 全身黒い衣装に覆われている不思議な少年。
 あの時、人買いのアジトに捕らわれていたジャスパーに、奴隷市から逃げ出すなと、まるでこのことを見越したかのような忠告を置いて去って行ったあの少年だ。
 ジャスパーは思わず叫ぼうとし、途端に喉に引き攣れるような痛みを感じた。
 少年が遠くから、ジャスパーに向けて手を伸ばしている。その次の瞬間、失語状態の時と同じく、再び声が出なくなった。
 彼が、また何かしたのか。呆然とするジャスパーの耳に、辺りに一石を投ずるような声が響いた。
「二千万!」
 会場が静まり返り、彼の買い手が決まった。いったん裏に下げられたジャスパーのもとに、エヴェルシード王に連れられてロゼウスがやってきた。
「ジャスパー!」
 硝子の檻を開けて、ジャスパーの体を思い切り抱き締める。
「ジャスパー、ジャスパー、ジャスパー」
 兄様、兄様、ロゼウスお兄様。自分も兄の名を呼びたいのに、声が出ない。そのジャスパーの様子に、すぐにロゼウスは気づいた。
「どうした、ジャスパー……お前、まさか声が」
 ロゼウスはすぐにジャスパーの体を戒める銀の拘束具を外してくれた。銀に触れている間は力が落ちるから無理矢理捻じ切るわけにもいかなかったけれど、鍵を使わなくてもその部分を力尽くで切ることぐらいはできた。人買いたちが目を剥いている。
「声が……出ないのか。なんて……」
 ロゼウスはジャスパーの状態を確認して震え出す。でも違う、違うんだ兄様。僕の声を奪ったのはあいつらじゃない。始めは確かにそうだったけれど、一度返された声をまた奪われたんだ。あの黒髪の少年に。
 声が出ないジャスパーには何も言う事はできず、ただロゼウスが抱き締めてくれるのに任せてその身体にしがみついた。相手の劣情を誘うようにと身につけられた恥ずかしい衣装とも言えない衣装のままで、ロゼウスの首筋に顔を埋める。
 そのジャスパーを牽制するように、冷たい声が降って来た。
「約束は守れ、ロゼウス」
「……シェリダン」
 ロゼウスが彼を振り返り、その名を呼ぶ。藍色の髪に朱金の瞳をした美しい少年は、やはりエヴェルシード王その人。
「お前の望みどおり、私はお前にこれを買ってやった。二千万もの大金を払ってな。今度はお前が私との約束を守る番だ。シアンスレイトに戻ったら、楽しみにしていろ」
「……わかっている」
 シェリダンはジャスパーの眼の前で見せ付けるようにロゼウスの顎を持ち上げ、その唇を奪った。
 ジャスパーの頭が真っ白になる。
 キィイイイイイイ!
 思わず、側にある今まで自分を閉じ込めていた硝子の檻の壁を爪で引っかいた。
「きゃあ!」
「うわっ! 何しやがんだっ!」
 後であの競売に参加していた女の人と人買いが何か言っているけれど、ジャスパーはシェリダンだけをずっと睨みつけていた。
 お互い耳を塞ぐために思わずロゼウスを離したシェリダンも、殺気だった目でジャスパーを睨んでくる。
「お前……不愉快だな」
 歪んだ笑みを浮かべながら、彼はその長い足で、ジャスパーのすぐ横の壁を蹴飛ばした。
「シェリダン?! やめろ! ジャスパーに乱暴しないでくれ!」
「ふん。目障りなガキだ」
 ロゼウスが背後から抱きついて、シェリダンを止める。ジャスパーはエルジェーベトの腕で檻から出されて歩かされ、会場近くに停められていた馬車へと向かう。
 そこには人影があった。
「やぁ」
 あの時の黒髪の少年!
 ジャスパーは声をあげたいけれど、どうしても出ない。彼以外の三人は、平然とその少年に話しかけている。
「ハデス卿」
「人の気配がしたからね。んー、ロゼもそっちのヴァンピル君も疲れてるみたいだし、二人纏めて治療の術をかけようか。エルジェーベト卿、馬車変わってくんない?」
「ええ。それでは、私が閣下の代わりに向こうに乗りますから。そのままシアンスレイトへ向かいましょう」
 ハデス、と呼ばれた少年が意味ありげにジャスパーを見る。馬車に連れ込まれて。極自然な振る舞いで彼が隣に来た。
「はいはい。じゃあまずは重傷のロゼウスの方から。無茶しちゃ駄目だよシェリダン王。いくら相手が男だからって、乱暴はよくないよ?」
「余計な口出しはやめていただきたい。これは私とロゼウスの問題だ」
 ロゼウスは見た目からはどこも怪我をしているようには見えなかったが、でもどこか調子が悪いらしい。それも、この王のせいで。ジャスパーはシェリダンを睨む。
「ハデス、ジャスパーの声をなんとかしてやってくれないか?」
「んー? 声?」
「そう、声が出ないみたいなんだ。怪我でもしてるのかも」
「そう? じゃあちょっと見てみようか」
 いけしゃあしゃあと頷いて、ハデスはわざとらしくジャスパーの口を開けさせて喉を見た。そんなに力が強いわけでもないのに、何故か逆らえない。
「どこも異常ないし、心因性の失語症じゃない? ほら、温室育ちの王子様がいきなり大変な環境に置かれたわけだしさ」
「そっか……」
 沈み込むロゼウスになんとか伝えたくて腕を伸ばす。だけれど、シェリダンに振り払われる。
「触るな。お前のような者は」
「シェリダン、ジャスパーはミカエラと同じ俺の弟だ!」
「いいや、違うな。あの王子とこれは違う。ミザリーでも、ロザリーでも、ルースでもミカエラでも良いが、これがお前に触れる事は許さない」
「どうして!」
「いいから、触るな」
 シェリダンに両手を塞がれて、ロゼウスが悔しそうな顔をする。ジャスパーが人買いにされたように拘束具をつけられているわけでもないのに、ロゼウスはシェリダンを振り払わない。
「ごめん。ジャスパー。事情は、向こうに着いたらゆっくり説明するから、たぶん、ロザリー辺りが」
「約束は守れよ、ロゼウス」
「わかっているってば」
 脅しつけるように低く、彼はロゼウスの耳元で囁いた。ロゼウスは疲れきったような苦悩の表情で。
「俺は……あんたの奴隷だよ」
 その言葉に打ちひしがれて目を見開くジャスパーのことなど構わずに、シェリダン王が嬉しそうに歪な笑みを浮かべる。
「それでいい」
 そしてジャスパーとハデスが同じ狭い馬車の中にいるのにも関わらず、再び濃厚な口づけを交わし始めた。
「あーらら」
 ジャスパーの隣で、その様子を楽しそうに眺めやっていたハデスが気楽そうに呟く。愕然とするジャスパーを見て、にやりと笑って一言告げる。
「何だか、大変なことになっているようだねぇ?」


066

 石塔の高い一室には、薔薇の馨しい芳香が広まっている。
「おやおや。向こうにも随分人が集まったみたいだね」
「第三王女、第五王子に加え、奴隷市場で第六王子が合流したとハデス卿から報告が入りました」
 ドラクルは手元で薔薇の花を弄びながら、その報告を受ける。
「ドラクル王子、ロゼウス様に一体何をしたのですか? ハデス卿からは、王子の目論見どおりロゼウス様に多大な動揺を与えられた模様と伝えられましたが……」
「ふふふ。ハデス閣下もお茶目だからね。私はそんなたいしたことはしていないよ。可愛い弟を、いつものように可愛がってあげただけさ」
 そう。ロゼウスが物心ついてから毎日、寝台の上で覚えさせた、とっておきの遊びをしてやっただけで。
 その証拠にロゼウスは、いつものように泣いて喜んでいたじゃないか。
「でも、この肩の傷はなかなか深かったな。ヴァンピルである私だからこの程度ですんだものの、人間だったら立派に大怪我だ」
 顔を見せるわけにはいかなかったので振り返る事はしなかったが……エヴェルシード貴族、バートリ公爵エルジェーベト卿。男尊女卑国家で女公爵としてのし上ってきただけあって、結構な強敵である。
 あの女がシェリダン王側に、ひいてはロゼウスの側につくというのなら、面倒なことになる。からっぽの公爵の割に、いい腕をしている。
 まあ、こちらにはまだイスカリオット伯爵ジュダがいるし、戦力にはならないとはいえ、眼の前の少女の血筋はそれだけで最上の武器となりえるが。
「ドラクル」
「ルースか。首尾は?」
 石階段に靴の音を鳴らして、妹が上がってきた。
「ローゼンティアの状況なら、変わりなしよ。王権派はメアリーを保護したようだけれど、あの娘には所詮何もできないでしょう。せいぜいロゼウス……というよりも、シェリダン王に余計なことを吹き込まれたら厄介というだけで」
「そうだな。メアリー、あれも気の毒な娘だ。王家などより、どこか別の下級貴族にでも生まれていれば、こんなことに巻き込まれずにすんだのにな」
「まあ。今更だわ。それならもっと可哀想な、私たちはどうなるの?」
「私たちは別にいいだろう? お前も私も、メアリーのように弱くない。欲しいものは自分で奪い取るのだからね」
 あのローゼンティアの、愛しくて憎い薔薇の王位を。
「一つ気になる事があるわ。ドラクル」
「どうした?」
「ヘンリーとアンに関してはカルデール公爵が抑えているけれど、アンリの所在も状況も掴めないわ。ついでにウィルとエリサもね」
「三人は確か一緒に逃げたのだったよね?」
「ええ。でも、その方角にはヴァンピルが隠れられそうな場所はないのよ。まさかエヴェルシードの一般民家で、ローゼンティア人を匿ってくれる家もないでしょう?」
「となると、死んだかな?」
「あのアンリが? 一見抜けているようでいて、あの男は意外としぶといわよ?」
「知っているよ、何せアンリは、私の可愛い弟だからね」
「まぁ」
 ルースが頬に手を当てて溜め息をついた。この嫌味ったらしい姿の、どこが気弱で控えめな姫君なのだろう。これほど憎たらしい性格の王女は、ローゼンティアには他にいない。
「では、可愛い妹のルース。ここまで頑張ったお前にご褒美をあげよう」
 ドラクルが言うと、途端にルースは顔色を変えた。
 性格は憎たらしいが、ドラクルにこうして擦り寄ってくるところは可愛らしい妹だ。何しろ彼のためなら彼女は、エヴェルシード王城シアンスレイトにすら乗り込んで、シェリダンと直接対峙できるくらいなのだから。
「ああ、ドラクルお兄様……」
 ドラクルの膝に縋り付いて、うっとりと目を細める。その顎を掴んで、優しく口づけてやった。舌を絡めて唾液を交換し、唇の端から零れた分を舐め取る。
「もっと……」
「これ以上は駄目だよルース。カミラ姫が見ているからね」
 エヴェルシード唯一の王女は、射殺しそうな目でドラクルたちのことを見ていた。
 異母兄とは言え実の兄に強姦された彼女にとって、兄妹が交わる光景は激しく嫌悪感を煽る禁忌のようだ。
 そんな彼女がローゼンティアの内情を知ったなら、きっと憤死するだろう。
「次の仕事に行きなさい、ルース。今度はカミラ姫のために、ちゃんと舞台を整えてあげるんだよ?」
「はい、お兄様……」
 そう、次こそ、彼女の出番だ。
 死んだはずのエヴェルシード王妹、カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 あなたにもそろそろ役に立ってもらわないとね。
 ルースがまた、階段を降りていく足音が聞こえた。
 ドラクルは椅子の肘掛に頬杖をついて外の景色を眺めながら、カミラに話しかける。
「ねぇ、カミラ姫」
「はい?」
「荊姫は愚かだと思わない?」
「……は? はぁ」
 眼下の庭園には、荊で編まれた迷宮がある。先日ロゼウスが迷い込んだ、イスカリオット城の迷路庭園だ。
「荊姫、別名は眠り姫。わかるかな」
「ええ。まあ。話は知っております。ある国でお姫様の誕生を祝う宴を開いたけれど、城には金のお皿が十二枚しかなかったので、国王は十二人しか魔女を招けなかった。招かれた魔女たちは生まれたお姫様に祝福を与えたけれど、招かれなかった最後の一人の魔女が、怒ってお姫様に呪いをかけた。十五年後に糸巻きの錘に触れて死に至るその呪いを、まだ祝福をしていなかった一人の魔女が、お姫様は糸巻きの錘に触れても死なず、勇気ある若者が城を訪れて彼女に口づけを与えるまで眠り続けるという内容にすりかえた……」
「そして予言どおり姫君は十五の歳に糸巻きの錘に指を刺して、永い眠りに陥った。姫が眠りにつくと城中が荊に閉ざされ、やがてその国のことは忘れ去られていった。百年後に王子様がやってきて、荊をものともせず城に足を踏み入れ、眠るお姫様のあまりの美しさに口づけるとお姫様は目を覚まし、二人はいつまでも幸せに暮らしましたとさ」
「めでたしめでたし?」
「だと良かったんだけどね」
 ドラクルは薄く笑い、怪訝な顔をしているカミラに尋ねる。
「ねえ、姫。眠り姫という人間はどうもずるいと思わないかい?」
「え?」
「だって、彼女は魔女たちの祝福によって、何の努力もせずに富や才気を手に入れたんだよ。百年後に眠りから覚めるときだって、王子任せの他力本願だよね。しかも、眠りに陥った理由も馬鹿げているじゃないか。うっかり糸巻きの錘に触れて、なんてね」
「はぁ」
 眠り姫。荊姫。
 その美しさは人を惹きつけるけれど、噂を聞きつけて荊の城に向かった男たちは何人もその荊の餌食になった。
 この世で最も罪深いその薔薇。荊のような美しさの姫。
 しかも彼女は、自らにかけられた呪いのことを、何一つ知らないのだ。
 ああ、なんて滑稽な話。
「王や周りの者たちは、姫が糸巻きに触れないよう国中からそれを焼き払ったけれど、そんなことをするのがそもそもの間違いだったんだよ。彼らは糸巻きの錘が何なのかも呪いのこともちゃんと告げて、その上で姫に忠告するべきだった。だってこの世で最も罪深いのは、無知による傲慢の罪なのだから」
「……ドラクル王子?」
 手の中で弄んでいた薔薇の花を握りつぶす。
 馨しい香りが、血の芳香のように部屋中に広まった。
「そして私は、招かれなかった十三番目の魔女なんだよ」
 だから、十七年をかけて眠り姫に呪いをかけた。
 知らないということが最も愚かで、最も罪深い。
「例え知らずに犯したとしても、罪は贖わなければね」
 その目覚めのために、何人もの男たちが犠牲になった。その犠牲を、知らないでは済まされない。
 だからこそ、眠り姫よ、その無知と傲慢の罪を贖いたまえ。

 ◆◆◆◆◆

 ようやく彼らは王城に戻って来た。
 でもジャスパーとちゃんと話をする暇もなく、ロザリーやローラの留守番組、まだ詳しい事情を知らないミカエラたちと会うこともなく、ロゼウスはシェリダンに引きずられて無理矢理シアンスレイトの一室に監禁された。
「シェリダン……っ!」
「言っただろう。なんでもする、と。そして弟のためになら、この条件を飲むと」
 そこは罪人を閉じ込めて責め苛む拷問部屋で、恐ろしげな器具が幾つも揃っていた。シェリダンは問答無用でロゼウスをそこへ押し込むと、早速寝台へと押し倒す。
 ロゼウスたちがシアンスレイトへ戻って来たのは、馬車の中で一泊して次の日の朝だった。ヴァンピルの彼らですらきつい行程なのに、シェリダンは平気な顔で、ロゼウスとこうして向かい合っている。いや、平気などではない。限界のはずだ。少なくとも身体の方は。
 彼の精神を支えるのは、その大きな怒りだ。
 途中のリステルアリア城という場所でエルジェーベトとは別れ、城までつき従ったジュダに支えられて彼らは王城へと戻って来た。
 シェリダンの怒りはまだ解けない。ヴァートレイトでロゼウスの言葉の何かに怒ったシェリダンは、もはや絶対にロゼウスを許す気はないようだった。
 ガチャンガチャンと派手な音を立てて、銀の拘束具が放られる。それらにはそれぞれ鎖がついていて、身動きを封じて寝台に縛り付けるためのものだ。
 鎖の長さはさほど長くはなく、せいぜいこの部屋の中しか移動できない。
 それを、シェリダンは無造作に顎をしゃくってロゼウスに示した。
「嵌めろ。自分の手でな」
「シェリダン、俺は……っ」
「わかっているのだろう? ロゼウス。これ以上私を怒らせたらどうなるか」
 いっそ優しいとすら言える笑みで、シェリダンが言う。
 憤怒の形相を浮かべていればまだ対抗もできるのに、彼がこうして薄ら笑いを浮かべているからこそ、背筋が戦慄する。
 怖い。
 今のシェリダンは何をするかわからない。
 ロゼウスの一体何がそんなにも彼を刺激したのかが、わからなくて怖い。
 理由さえわかれば対策の立てようもあるし機嫌のとりようもあるのに、今のシェリダンがロゼウスの何に対して怒っているのかロゼウスにはさっぱりわからない。だから、今のロゼウスにはシェリダンに従うしかできない。
「言ってみろ。ロゼウス、お前は私のなんだ?」
 甘く耳元で囁く声に、力なく答える。
「……です」
「聞こえない」
「俺は、あなたの奴隷です」
「そうだ」
 悔しさに涙が滲むが、シェリダンは嬉しそうだった。ロゼウスの耳の横に落ちる髪を撫でながら、さらに強要する。
「さぁ、早くその枷を嵌めるんだ。でないと、その美しい手足を斬りおとしてでも、お前を無理矢理この部屋に閉じ込めてやる」
 ロゼウスは言われた通り、首と両手足の枷を自分の手で嵌めた。
 銀の持つ魔力によって、急速にヴァンピルの力が奪われる。これでは、か弱い普通の人間並みの腕力しか発揮できない。
「あ……」
「苦しそうだな。イイ顔だ」
 くすりと笑って、シェリダンがロゼウスの首筋に顔を埋める。襟ぐりから覗く肌を、熱い舌先で舐め始める。
「あっ、いや……」
 儚い抵抗は全て封じられ、拷問器具だけが見守る部屋の中で、シェリダンはやけに嬉しそうにロゼウスの身体を弄ぶ。
 ふと身体を離して、彼は微笑みながら優しく告げた。
「勘違いするなよ、ロゼウス」
「なに、が……」
 優しい声。でもその瞳に浮かぶのは間違えようのない狂気。
「私はお前を愛している」
 やめてくれ。その言葉は。
 そんな寂しい響を持った言葉はいらない。
「ぐっ」
 シェリダンの手がロゼウスの首へと伸びて、きつく締め上げる。呼吸が阻害され、銀の手枷に阻まれた腕ではそれを払いのけることもできず、息を詰まらせる。
 しばらくしてシェリダンが手を離すと同時に、ロゼウスは身体をくの字に折り曲げて激しく咳き込んだ。それが落ち着くのを待って、シェリダンがまた、冷めた目で言った。
「愛している」
「シェリダン……」
 彼をこんな瞳になるまで、追い詰めたのはきっと俺の罪だ。
 こんな部屋に閉じ込められるのは、だから、その罰なんだ。
「愛しているから、お前を傷つけたい。お前の望みどおり、なんでもしてやる。なんでもして壊して、お前を私だけのものにしてやる。お前のその紅玉の瞳が、私しか見つめられないように……っ!」
 歪む彼の口元は笑みを浮かべているのに、零れたのは何故か涙だった。
 人間の熱い体温。それと同じ温もりの涙が、冷たいヴァンピルの肌をしたロゼウスの頬にぽたぽたと落ちてくる。
「シェリダン……」
 出そうとした言葉は、切ない口づけに封じられた。

 罪を犯したのは、どちらだったのか。
 招かれないことに腹を立てた、のけものの魔女か。それとも。
 何も知らずにその荊の棘で一番近くにいた人間を傷つけていた、眠り姫の方だったのだろうか。
 自ら罪を犯す者たちよ、贖いたまえ。


 《続く》