043

 ジュダがいないのならば何も好き好んで気の合わない相手と顔を合わせていなくてもいいだろうと、早々に部屋を追い出された。ローラもたまには一人で羽を伸ばしたいのだそうだ。念のため、クルスがジュダとリチャードが帰って来たらすぐに知らせが行くようにと、城門近くの小屋に詰めているらしい。
それでロゼウスはもはや用なし。追い出されたというか出てきたというべきか……とにかく、今の彼はこんな場所にいる。
「綺麗なお城」
 エヴェルシードに来て毎回毎回そんなことを言っている気もするのだが、イスカリオット城も実に見事なものだった。王城シアンスレイトに匹敵するほどの規模と外観。エヴェルシードの城砦建築は全てこうなのか、それともイスカリオット領だけがこうなのか。
 あの伯爵の性格を考えると、後者の気もする。
 ロゼウスが生まれ育ったローゼンティアは、《薔薇の国》と呼ばれていた。それは吸血鬼の特殊な生態上、生活に必要不可欠な薔薇の花をいつでもどこでも育てているからだったが、他国の人間から見ればよっぽど薔薇好きな国民に見えるらしい。白い肌に白い髪に赤い瞳に尖った耳のヴァンピルたちは、吸血衝動を抑えるためにあえて自らの魔力を封じる薔薇の花を求めている。
「喉が、渇いた、な」
 ローゼンティアは薔薇の国とは呼ばれるけれど、その実態はいつもどこか薄暗い雰囲気の漂う国だ。薄暗い雰囲気と言うか、実際に空がある程度翳ってからでないとロゼウスたちは動けない。日光を浴びてすぐ消えてしまうということはないけれど、やはり日の光は苦手だから。
 ヴァンピルは昼間のうちは眠って力を蓄え、夜になると起きだして活動する。人間の国の使者たちは、ローゼンティアを訪れるとその昼夜逆転に驚いて、困るという。
 ローゼンティア。このエヴェルシードより東の、薔薇の国。
 我が祖国にして最愛の地。
 今はこの世界にもうない国。エヴェルシードに侵略されて、国民の多くは奴隷にされた。貴族のほとんどは侵略の際に殺されて、王家の者で所在がわかるのはロゼウスと妹のロザリーしかいない。
 今頃、他の兄妹たちはどうしているのだろうか?
 ふと、気になった。ローラとエチエンヌの二人があんまりにも仲睦まじいからかもしれない。
 それなのにローラの血を舐めて、少しだけ彼女の闇を知ってしまったからかもしれない。
「それか、もしくは……」
 この城全体に広がる腐臭。人間の嗅覚程度は到底嗅ぎわけることの出来ない、古い血の匂いが染み付いている。
 この城では何年か前、大勢の人が血を流して死んだ。自然とそう知れるような、古びて黒ずみ腐りかけた血の匂いだ。
 だが、飢えた身体にはそれですら甘い果実のように惹き付けられる。ノスフェル家は使者の蘇生を行い、生者に無限の命を与えるほど力の強いヴァンピルの家系。ロゼウスと長兄ドラクルと姉のルースの母である正妃は、そのノスフェル家の生まれだった。
 けれど力が強いということは、それだけ吸血鬼としての血が濃く、ヴァンピルの魔に強く支配されているということ。
 第三王妃の娘であるロザリーに比べて、ノスフェルの出である正妃の子どものロゼウスは、酷く渇きに敏感だ。飲んでも飲んでも、すぐに血が欲しくなってたまらない。
 それを納めるために、この薔薇園に来たのだ。
「……本当に、綺麗だな」
 イスカリオット城の庭園は素晴らしいものだった。色とりどりの花が咲き乱れ、蔦を絡ませて伸びている。
「でも、薔薇がない……」
 他の花はあるのに、薔薇園がないのだ。シアンスレイトにもあったし、ローゼンティア城にもあったからあるのが普通だと思っていた。でもよくよく考えてみればヴァンピルでもない限り、薔薇専用の庭など作りはしないのだろうか。
 ローゼンティアの城や貴族の館は、いつも薔薇に覆われていた。門扉や壁面を薔薇の蔦が絡み付いてとりまいているので、他国の人間には重苦しく不気味な魔女の城そのものに見えていたそうだ。
 シアンスレイト城やイスカリオット城を見てようやくわかったが、普通の城はそんなことないのだ。ただ豪奢で絢爛な建物だと感じる。これらを常に見ているのならば、確かにローゼンティアの建築は恐ろしげかもしれない。
 けれど、まさか薔薇がないとまでは思わなかった。今回は長期間の滞在とは言わないが、一週間と言うそれなりの長さを持つ外出だから対策を練っておきたかったのだが、新鮮な薔薇を何百本も王城から持っていくのはやはり無理がある。では血液補給機……もとい、シェリダンに血を分けてもらえるかというと、彼は彼でジュダの相手をしたりクルスが常に側にいたりで、なかなか二人きりになる機会がない。
 よって、現在のロゼウスは。
「欲求不満だ……」
 ちょっと意味が違うような気がするが、思わずぼそっとそう零してしまう。血は吸えない。大嫌い宣言をされたローラと今までにない長時間の微妙な二人きり。この城全体に漂う臭気。
「特に強いのは……あそこか」
 城の本館とは少し離れた場所に、ぽつんと塔が立っている。かなり高さのある塔で、曇りがちで霧もかかっている今日のような天候では、あの塔だけが異質で不気味だった。
 と、その不気味な塔に注目していたら、塔の足元に何かが見えた。緑色の塊から、確かに薔薇の香りが聞こえてくる。
「迷路庭園?」
 それは薔薇でつくられた迷路だった。薔薇でつくったというか、常緑樹の茂みに薔薇を纏いつかせている。暗い緑の植物の壁から時々白い薔薇が顔を覗かせているのが、何とも言えず可憐だ。
「こういうのは始めて見たな」
 少し興味を持って、迷路の中に足を踏み入れる。迷路とは言っても、所詮は庭園のお飾り。まさか本気で迷うこともないだろうし、だいたい迷路には幾つか完全な脱出方法があるはずだ。
『いいかい、ロゼウス。迷路からぬけられなくなった時はこうしてね』
『一方の壁に手をついていけば、必ず出られるよ』
 本を見ながら説明してくれたのは、次兄のアンリと三番目の兄であるヘンリーだった。基本的専門的知識はドラクルの方が上でも、二人はどちらかと言えば雑学や豆知識といった、そういったものに強かった。
 また兄妹のことを懐かしく思い出してしまって、ロゼウスは首を振って頭を冷静に戻した。感傷にひたる暇などない。……このエヴェルシードで、心休まる時などあるはずもないのだから。
 人一人通るだけでは随分と幅に余裕のある迷路を歩いて、その中ほどまで進んだ。どこか一目につかない手頃な場所で薔薇の花を失敬しようとした背後に、ふと誰かの気配を感じた。
驚いて振り返ろうとしたところを羽交い絞めにされ、動けないよう固定されてしまう。
 だけど、この感触は。
「久しぶりだね、ロゼウス――」
「兄さ……」
 正面を向いたままロゼウスはその名を呼ぼうとし、ついで目の前に現れた姿に目を剥いた。
 迷路の曲がり角から現れたのは、エヴェルシードには珍しい濃紫の髪と金の瞳を持つ少女。
「カミラ――」
 叫んだロゼウスの口元を大きな手が塞ぎ、ついで何か薬品の匂いがした。
 そしてそこで、ロゼウスの意識は途切れた。

 ◆◆◆◆◆

 たいして間をおかずに目覚めたようで、身体を起こしながら周囲の状況を確認すると、そこはまだあの迷路庭園だった。
「あれは……今のは……一体……?」
 兄の気配を感じ、カミラの姿を見た。混乱のまま首を巡らすと、迷路の長い直線の道の向こう側に、長い髪をなびかせて佇む姿がある。
「ま……待って! カミラ!」
 ロゼウスは必死で追いかけて追いかけて、けれど角を曲がったところで呆気なく彼女を見失った。彼女は足を速める素振りすら見せなかったのに、ロゼウスは情けなくも追いつけなかった。
 ただ呆然とする。
 あれは何? こんなところにいるはずのない兄様と、死んだはずのカミラがどうして。夢だとしか思えない。
 とりあえず気のすむまで迷路の中をしらみつぶしに探したけれど、やはり何もないし誰もいなかった。白昼夢を疑いながら、ようやく入り口に戻る。すると。
「ローラ? エチエンヌ?」
 中庭へ駆けてきたのは、今なんだかんだと問題の渦中にいる双子だった。

 ◆◆◆◆◆

 あなたが本当に好きだった。

「ローラ! 待って、待ってよ! ……姉さん!」
 エチエンヌとシェリダンが抱き合っているのを見て部屋から駆け出したローラを、エチエンヌは必死に追いかけている。
「待って! お願い、お願いだから!」
 目にも留まらぬ速さで城の廊下を駆け抜け、階段をほとんど一気に飛び降りる。イスカリオット城の数少ないけれど完璧な教育を施された使用人たちの度肝を抜いて城内を巡り、ローラの後を追って外に出た。
 勝手知ったる広い庭を、ひた走る。エチエンヌもローラも足の速さには自信がある。部屋を出る際にシェリダンも立ち上がり追って来る気配を感じたけれど、彼が追いつくまでまだまだかかるだろう。だから。
「ローラ! ……姉さん! お願い、止まって……」
 イスカリオット城の、シアンスレイトに勝るとも劣らない広さの庭を駆けて駆けて駆けて……無能だが酔狂だった先代公爵が作ったという白薔薇の迷路の目前の広場で、ローラはようやく立ち止まってくれた。エチエンヌはそのすぐ隣に並んで、ようやく息をつく。
「ローラ、あの……」
 口を開いた途端、視界が反転した。振り下ろされようとする刃を、首を横にのけぞらして間一髪避ける。
「ローラ!」
 驚きのあまり、その名を呼ぶことしかできない。慌てて再度振り上げられた手首を押し戻し、もう片手で上体を起こし腹筋を使って身体全体を起こし、後方に跳んでローラから距離をとる。
 ローラの手にはいまだ鋭いナイフが握られており、エチエンヌは自分も武器であるワイヤーを取り出した。
 彼女の眼は本気だった。
 向こうが地を蹴ると同時に目の前に白刃の煌きが閃き、エチエンヌはそれに頬を切り裂かれながら、構えたワイヤーを繰り出してローラの拘束を目論む。
「……っ!」
 一直線に伸びたワイヤーは容易くねじ伏せられ、逆に掴まれたそれを手繰る手にエチエンヌはバランスを崩した。仕方なくワイヤーを手放し、得物のない状態で睨み合う。
「ローラ、もうやめてよ!」
 戦場や任務先なら、得物を手放す事は死を意味することも同然だ。だけれど、ここはエヴェルシード国内親王権派のイスカリオット伯爵領で、相手は実の姉のローラだ。
「……」
「そんなに、怒ってるの? 僕が……」
「うるさい!」
 エチエンヌの言葉を悲鳴のような叫びで遮り、ローラは乱れた金髪の間から弟を睨んだ。エチエンヌは首元の濡れた感触に思い至り、そっと首に手を伸ばした。ぬるりとした感触は先程切り裂かれた頬から流れた血だ。
 ローラが僕を傷つけるなんて。
 あの眼……きつく睨み付ける眼差し。
「僕を殺すの? 姉さん」
 エチエンヌがシェリダンに口づけをねだったから。だからローラは……。
「僕が憎いの?」
「……ええ、憎いわ」
 明らかな憎しみを燃え立たせた緑の瞳で、姉は弟を見据える。ローラからこんな眼差しを向けられたことなんて今までに一度もない。
「僕は……ローラが好きだよ」
 姉さん。大好きな姉さん。
 エチエンヌは男ではシェリダンが一番好きだけれど、女ではローラが一番好き。誰よりも好き。
「そんなのは欺瞞よ」
 だけれど、愛しい姉は彼の言葉を鼻で笑った。その瞳が嘲りと憎悪の色に染まり、哄笑の一瞬前の顔は目尻に皺を寄せている。
「あんたはね、エチエンヌ。見知らぬ国で見知らぬ人たちの間で、誰一人味方がいないのが怖くて、それで姉である私を頼っているだけ。双子だから心まで通じ合ってるみたいに思い込んで、私に寄りかかっているだけなのよ!」
 激しい叱責に、エチエンヌは立ちすくむ。一拍遅れて我に帰り、必死に弁明を試みるもローラは聞く耳を持たない。その上、彼女の言う事はいちいちもっともで抗いがたい。
「ちがっ、僕は、本当に姉さんのこと!」
「違わないわ。エチエンヌ。あんたは私が好きなんじゃないの。『姉』という存在が好きなだけなのよ。ここにいるのが私じゃなくて父さんや母さんでも、同じことを言ったのよ」
「そんなことない!」
「ある」
「絶対違う! だって、だって僕はローラを」
「抱いた、から?」
 ローラの表情がスッと抜け落ちる。
「それこそが、あんたが私を《ローラ》であることを認めていない証拠でしょう?」
 場所はいつも薄暗い部屋。イスカリオット城にいるときはジュダに強要されて、シアンスレイト城についてからは、どうしても寂しくて怖くて不安で。
 エチエンヌはローラに縋った。
 姉である彼女を本当にそのように愛していたのなら、何があっても心の繋がりだけを支えに、肉体関係を持とうなんて考えるはずもなかったのに。
 エチエンヌは罪の意識で彼女を縛った。……置いていかれたくなかったから。
『ローラに捨てられたら僕は生きていけない。置いていかないでよ姉さん。僕のこと、好きだよね? ローラ。だったら……』
 姉さんと呼ばなくなったのはいつからか。血の絆に縋りながら、それを忘れようとした。
 庭園を吹く風には甘い花の香りが含まれていて、エチエンヌの頬から流れ出た血の匂いを洗う。けれど、そんなものよりもっと生臭い古き記憶は洗えない。
「ねぇ、エチエンヌ。私、一年前に子どもを産んだの」
「……え?」
 一年前と言えば、丁度ローラが行方不明になった頃だ。子ども? ……子ども!? ちょっと待て。そんなの聞いていない。でも、そういえば。
『ねぇ、ローラ』
『なぁに? エチエンヌ』
『最近太った?』
 こんな会話を交わした覚えがある。あれは、まさか――。
「ここで。イスカリオット伯に頼んでね。リチャードとの子どもよ。堕胎は母体に負担がかかるからってね。ちゃんと産んで……それから殺した」
 矢継ぎ早に告げられた事実にエチエンヌは呆然としてしまう。リチャードはローラの夫だしそういうこともしてるから、妊娠ぐらいしたって不思議ではないだろうけど。でも。
「産まれるまで、私は不安だった。産まれた子どもはね、蒼い髪に橙色の瞳をしていたの。でもね」
 細い腕で腹部を抱くようにして、ローラは狂ったように笑う。
「どうしようかと思ってたの。あの頃はリチャードとばっかりしてたからたぶん間違いはないだろうと思ったけど、でも、それでも金髪の子どもが生まれてきたりしたら」
 エヴェルシード人の蒼い髪は優性遺伝。シルヴァーニ人の金髪は劣性遺伝であるから、リチャードとローラの間にできた子どもなら、この蒼い髪を持って生まれてくる確率が極めて高い。それでもローラと同じ金髪の子どもが生まれてきたとしたら。
 それは、エチエンヌの子どもである可能性が……近親相姦で生まれた罪の子である可能性が、高い……。
「いつもいつもいつも! 苦しむのは私ばっかり! 女だからこんな思いをして、女だからシェリダン様に抱いてもらえない! どうして? 同じ顔のあんたは、あんなにも陛下のお側にいるのに……!」
 ローラがシェリダンを好きだということはとっくに知っていた。それが永遠に叶わない想いだということも。
 エチエンヌは男であるというだけで、その寵愛をほとんど無条件に獲得していた。ロゼウスに嫉妬するまでもなく、彼に触れてもらえる権利を持っていたのに。
「……ローラ……姉さん」
 ぬめる粘膜に自身を押し込んで繋がれば一つになれるような、対ではなく、本当に完璧な一個の存在になれるような気がしていた。鏡のようなその顔を見ながら、泣いてるのは自分のほうだと思っていた。
 服の一部をまくって、壁際に押さえ込んでのしかかって出し入れするだけの乱暴で単純な行為。無茶苦茶なやり方はイスカリオット城で反吐が出るほど試されたから、エチエンヌはローラと交わる時はいつもそれしかしなかった。ローラも自分を好きだから、受け入れてくれるんだと思ってた。だけど。
「大好きよ、エチエンヌ。……そして誰よりも、あんたが憎い」
 ローラが泣いている。白い頬を透明な涙が滑る。女である。ただそれだけでシェリダンに抱かれることのない彼女。同じ顔のエチエンヌがシェリダンに抱かれていても、それで彼女の心を慰めることになどならなかった。
 彼らは双子だから、半身ではあっても同じ人間などではない。エチエンヌが見た泣き顔はどんなに彼自身に似ていても、ローラのものでしかなかったのだ。
 今更、そんなことに気づく。もう、何もかもが手遅れ。
「死んで。エチエンヌ」
 それでもやっぱり大好きなローラの声を聞きながら、エチエンヌは訪れる死の瞬間を、目を閉じて待った。ワイヤーが微かに擦れる音を立ててこちらに伸びる。
 頬に生暖かい血が散るのを感じて、しかし予想した痛みはいつまでもこの身体を貫く事はない。
 強い、鮮やかなほどの薔薇の香り。
 恐る恐る目を開けると、眼前を塞ぐのは白い肌に白い髪。俯いたその面差しはこんな時まで、絵画のように秀麗で。
「ロゼウス……?」
 エチエンヌは、彼の腕の中に庇われていた。


044

『お前が愛しいよ、ロゼウス。そして大嫌いだ、我が弟よ』
『大好きよ、エチエンヌ。……そして誰よりも、あんたが憎い』

 ああ、そうか。
 エチエンヌを見つめるローラの眼は、兄上に似ているんだ。
 俺を憎んで憎んで、弄んで捨てようとした兄様に。

 脇腹と首と左肩に突き刺さったワイヤーの鋭い先端を、筋肉を引き締めることによってなんとか止める。ロゼウスの身体自体は貫通したけれど、それ以上は飛び出ないように。
「ロゼウス……?」
 目の前には呆然と放心したようなエチエンヌの顔がある。体勢を崩して尻餅をついた彼を放って、ロゼウスは身体から針金状の凶器を引き抜いた。力の抜けたワイヤーを地面に放り出すロゼウスの身体から流れた血が、下生えの緑をぽつぽつと紅く染めた。
脇腹と肩はともかく、首筋は普通だったら致命傷だ。普通の、人間ならば。けれど吸血鬼はこの程度の怪我、怪我の内にも入らない。
「ロゼ様」
 恨みがましい声にゆっくりと振り返ると、ローラが切ない眼でロゼウスを、そして彼の向こうのエチエンヌを見ている。
「よくも、邪魔をしてくださいましたね」
「そうだな……でも」
 純白のドレスが血に染まって紅くなる。模様のないその布地に大輪の紅い薔薇を咲かせたような格好となる。
 そのドレスの裾を、庭園を吹く風が揺らす。
 花咲く庭園で風に吹かれて白い髪をなびかせ、白いドレスと白い肌に紅い花を散らす。ロゼウスの目の前の少女は濃い黒のメイド服に金髪、鮮やかな緑の瞳なので、ロゼウスがもつ色彩とは対照的だ。
 十五歳でありながら十二歳程度の子どもにしか見えないその外見を眺めながら、ロゼウスは彼女の、湖底の緑に潜むものを見る。
 愛している。
 憎い。
 大嫌い。
 大好き。
 だから。
「止めて良かったんだろう?」
「……」
 ローラは答えず、俯いて目を閉じた。その四肢から力が抜け、とうに武器としての役割を果さずしなびていたワイヤーもその手から零れ落ち、彼女は地面に膝を突いた。
 ロゼウスは血を拭うこともしないままその傍らに歩み寄り、華奢な身体を抱きしめる。震える頭を抱き寄せて、金色の髪に頬を寄せた。
「辛かったね」
 この子はシェリダンが好きで。好きで好きでだからどうしようもなくて俺が嫌いで。
「みんな嫌いなんだよね」
 ローラはリチャードとは夫婦だけれど、その夫を愛しているわけではないという。政略結婚に愛がないなんてよくある話で、政略ですらない主君の気まぐれで決められたような結婚ならなおさらだ。
 けれど。
「嫌いきれれば、よかったのにね」
 リチャードを嫌いきれていたのなら、堕胎に罪悪感など抱かなかったはずなのに。エチエンヌを本当に憎みきれていたのなら、彼を殺そうと思うどころか、最初から拒みきれていたはずだ。
 姿の見えた二人の険悪な空気を感じ、庭園から駆け寄る最中、距離が近付くにつれてロゼウスにはローラとエチエンヌの会話が聞こえてきていた。聞いてしまった。何もかも全て。
「誰も愛さなければ幸せになれたのに」
 愛しいという気持ちがあったから、エチエンヌのこともリチャードのことも受け入れたのだろう。もっとも、最初は確かに無理矢理だったかもしれないけれど。
 彼女は強い。リチャードよりもエチエンヌよりも。先程の戦いだってエチエンヌの動揺を差し引いてもローラの方が実力は上だった。ロゼウスはそう見ている。人間より肉体的に頑丈で魔力が強く、戦闘能力の高いヴァンピルは他者の力もある程度は測れる。
 彼女が本気を出せば、リチャードを跳ね除けることもエチエンヌを殺すことも、いつだって簡単にできたのだ。
 それをしなかったということは。
「そうよ……私は卑怯者よ」
 ローラの可憐な唇が開き、濡れた頬が薄曇に差し込んだ陽光に光る。
「寂しかった。寂しくて苦しかった。誰も彼もみんな殺そうとしたけど、そうするには寂しすぎた。私は強い。夜盗にだって傭兵にだってなれる。なんだって一人でできる。一人で生きて行ける。その気になればこんなところいつだって出て行けるはずなのに、そうしなかった。名目だけの夫でもリチャードがいることにどこか安心していて、エチエンヌがいつまでも変わらず私を慕ってくれることが嬉しかった……」
「……けれど身体を重ねるうちに、まるでそれだけが目的のような気がしてきた?」
 腕の中でローラが震える。それまでなすがままロゼウスに抱きしめられているだけだった彼女の方から、ロゼウスの背中に腕を回してきた。しがみつき縋りつくように。
「そう、よ。私、私は卑怯だから……二人も卑怯だと、思い込んだ」
 自分が疑っているように、相手も疑り深いのだと。
 自分が与えられている痛みを、相手は感じていないのではないかと。
 与えられた痛みに見合うものを、自分は受け取っていないのではないかと。
「望んでいたのは何なのか……もう、わからなくなっちゃった……」
「うん」
 ロゼウスは頷いて、少女の華奢な肩を抱く腕に力を込める。
「わからないんだ。自分が何を望んでいたのか。これは俺の望みだったはずなのに、相手の差し出した要求を、無理矢理呑まされているような気がして」
 それでも、身体でしか相手を繋ぎとめられないから、自らの苦痛を我慢して相手を受け入れる。
 これは自分の意志。これは自分の考え。これは自分の……望み。
「ロゼウス様」
 しゃくりあげていたローラの嗚咽は収まってきたけれど、瞳からはまたぽろぽろと水晶のように透明な涙が零れる。
「私は男に生まれたかった。男に生まれて、シェリダン様に愛されたかった」
 美しさも若さも、役に立たないなら何の意味もない。
 そして新しい命を紡ぐ胎などいらないのだと。ロゼウスはその言葉にこそ痛みを覚える。
「俺はできれば女に生まれたかった」
 ローラの肩がぴくりと反応し、バッと驚いたように顔を上げてロゼウスを見る。泣いて多少腫れた赤い目元で、まじまじとロゼウスを見上げてくる。
「身体でしか繋ぎとめられない心なら、せめてその《証》が欲しかった。俺は兄様を愛してる。でも、兄様は俺が嫌い……傷つけるために抱いたなら、せめて」
 ドラクル兄上にはどことも縁談や婚約に関する話はなかったけれども、それでもロゼウスはいつも不安だった。彼に見初められた女がその子を孕むというのなら、生まれる前に母親もろとも殺そうなんて、邪悪なことも考えた。
「願いって、誰も叶わないものなんだな」
「ロゼウス様……!」
 一層強くしがみついて、彼女の金髪に頬を寄せたロゼウスの頭を、さらにローラの細い腕が包み込む。
 ロゼウスもローラもシェリダンも、エチエンヌやリチャードやジュダも、ドラクルも。
 誰もが叶わぬ願いを抱いて、それを追い求める姿は悲しいくらい似ている。
 ざくざくと芝生を踏む足音を聞く。ロゼウスは先程から庭園の端で、成り行きを見守って立ち並ぶ人影があることを知っていた。
「……ロゼ様……ローラ」
 リチャードがロゼウスの腕の中からローラを抱き上げ、引き離す。遠くで見守っていたシェリダンとジュダ、クルスも動き出し、呆然として動けなかったエチエンヌを助け起こした。ワイヤーに射抜かれて傍目には重傷に見えるロゼウスのもとへも、シェリダンが駆け寄ってくる。
「大丈夫か?」
「こんなもん、怪我の内にも入らない」
 既に塞がりかけている首と肩の傷を軽く確かめて、ロゼウスは吐息した。脇腹だけは、まだじくじくと痛むけれどこれも間もなく塞がるだろう。
「ああ、でも……喉が渇いた」
 ヴァンピルは血を流すと、その分だけ血が欲しくなる。
「わかった。今日は部屋割を戻すという話だから、その時にな」
「うん」
 これでようやく、全てが終わったように思えた。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスの血に濡れた服を脱がし、浴室へとローラを抱えて入った。華奢な身体をゆっくりと下ろし、桶に汲んだぬるま湯でその身体を流す。
 リチャード自身もお仕着せを脱ぎ、イスカリオット城の忠実な使用人から渡された布を何枚か手に取る。品良く厳しく躾られた彼らは、主が招待したこの国の王付きの侍従と侍女が二人で浴室に入って行っても何も言わない。眉一つしかめない。
 布を湯に浸し、緩く絞る。用意されていた石鹸を泡立てると、ラベンダーの香りが強く漂った。まずは簡単に埃だけでも流そうと頭から湯を被り、ローラの髪も軽く流したところで、熱気によって拾い浴室に薄い湯気が湧いた。
 エヴェルシードは一年を通して過ごしやすい気候と言うが、それも人によるのだろうなと考える。この国の気候は一年を通して「涼しい」。夜ともなれば、肌寒い。だから食事には甘いものが多くエネルギーとなりやすい糖分をよく摂取し、一日の終わりに入る風呂は人々の楽しみだ。
 けれど、それでもやはり寒さは確実に人々の心を蝕む。石造りの城の地下牢は、どれほど冷たかったことだろう、と。
 世界でも比較的穏やかな気候と呼ばれる国で、その恩恵に預かれぬ者もいた。
「……怒らないの?」
 リチャードは石鹸を含ませた布で、浴椅子に座ったローラの身体の隅々までを洗っている。シルヴァーニ人の淡い色の肌を傷つけないよう繊細に、それでいて汚れをしっかりと洗い落とす絶妙な力加減が要る。ローラの肌に傷をつける事は出来ない。シェリダンが気にするであろうし、何よりリチャード自身がそんなことは許せない。
「何を?」
 愛しい人よ。
 君が好きなんだ。
「さっきのこと……」
誰よりも……好きなんだ。
「どこまで聞いてたの? いいえ。イスカリオット伯からどこまで聞いたの?」
 リチャードは言うべきか言わぬべきか迷った。けれど結局は年下の幼な妻の視線に根負けして口を割る羽目になる。これはいつものこと。
 パシャン、とローラの身体についた泡を桶の湯で流して、答える。
「全部」
 墓参の帰りの馬車で向かい合いながら、リチャードはイスカリオット伯爵ジュダ卿から、彼が知っている限り全てのことを聞いていた。
「一年前、私たちがシアンスレイトの城で君を探していた時、君はこの城にいたこと。イスカリオット伯の勧めに従って、堕胎……産まれた子を、その瞬間に殺したこと」
 代わりにやろうか? と極自然にジュダは聞いたそうだ。
 ローラはその申し出に首を横に振って、自ら自分の産んだ子の首を絞めたらしい。
 イスカリオット城にいた頃麻薬漬けにされてぼろぼろのローラとエチエンヌの身体。十二歳ほどまで成長してようやく月経が始まったとはいえ、まだ子どもでしかないこの身体での妊娠・出産はどれほどの負担だったのだろうか。
「怒らないの?」
 それを考えれば、彼女を責められるはずがない。ローラを逸らせたのは、リチャードの未熟なのだ。
「怒らない」
 気づいて、やれなかった。
 いくらローラが体質的にあまりお腹が大きくならないタイプだとしても、いなくなった頃すでに六ヶ月。十分気づいてやれるはずだったのに。
 ローラが自分を嫌い、憎んでいることは知っている。だから理由もなく遠ざけられたり、鬱陶しいからと部屋を追い出されたり、体調が悪いと看病どころか近づくことも許されないなんてことは日常茶飯事だ。リチャードたちのやりとりを熟知しているシェリダンは彼が部屋の前で途方に暮れていると何も言わずに別の部屋を与えてくれるし、ローラにもリチャードにも奴隷の身分には過ぎた待遇だ。
 自分は今まで、周りの全てに甘えてきただけだ。二十七歳にもなって情けない。これでは兄がヴィオレット=イスカリオットに暴力を振るった返礼にジュダに殺され、リヒベルク家が没落した時となんら変わらないではないか。
 ローラの全身を流してリチャードも簡単に自分を洗い、彼女の身体を抱いて浴槽へと身を浸した。ローラが細い腕をリチャードの首に回してしがみついてくる。彼の身体にローラのほとんど平らな裸の胸が触れる。幼い身体が全身でしがみついてきた。
「すまない」
 気がつけばリチャードの唇から言葉が零れていた。
「すまなかった」
「……どうして、リチャードが謝るの?」
 彼の首筋に顔を埋め、くぐもった声でローラが訪ねる。二人とも肩まで湯につかり、疲れきったその身を暖かい安穏に浸す。
「私はいつも、君を傷つけてばかりだ」
 あの時、ジュダの乱行を諫める策をシェリダンが弄してこの城に乗り込んだとき、彼らが見たものは地下の小部屋でジュダに虐げられるローラとエチエンヌの姿だった。
 気候穏やかなエヴェルシードで唯一その恩恵たる陽光届かない地下牢で、ジュダの気まぐれから今にも手足を切り落とされようとしていた双子。ジュダの手の中で暴れもがき、彼らが助けだしてからもなお反抗し続けたエチエンヌとは対照的に、虚ろな目をして人形のようにギロチンに片腕を差し出していたローラと。
 人形のように美しく、人間と言うにはあまりにも寂しいその姿。
 だからこそリチャードは、彼女が笑えばさぞかし美しいだろうと。
 反射的にそう思った。あの時もうすでに、彼はローラに囚われていたのだ。
「ローラ。……笑って欲しい。君に喜んでほしい。私は君が好きなんだ」
 手に入れたくて、自らの年齢も相手の幼さもわかっていながら抱いた。身体を繋げてしまえばまるでその存在ごと手に入れられるかのように思って無理矢理傷つけて、永遠にリチャードはローラを手に入れられなくなった。
 あの頃、人間から人形へと化していたローラを救ったのはローラにあわよくば愛されたいと下心を抱いたリチャードではなくて、彼女たちのために厳しいこともきついことも平気な顔で課したシェリダンだった。
「愛している」
 言葉の上で幾千でも繰り返し、心の中で幾奥も唱えたその言葉。
 呪いのように彼女を縛る。
「私は」
 たゆたう湯水に裸の身を預けながら、泡沫越しに想いを絡ませる。
「私は……あんたを愛してなんか、いない」
 そこにいるだけで顔を背けるほど憎いわけではない。何かと気を配ってくれるのが嬉しくもあった、それでもダメだと。
 ローラはゆるりとリチャードを拒絶する。湯の中に、もっとも熱い涙を零しながら。
「ロゼウス様と、何を話していたんだ?」
「あんたを、憎みきれれば楽だったのにと」
「……そうか」
 望んだものとは裏腹に、返ってくるのは一欠けらの愛。
 自分たちはこのままだろう。何年経っても、何があっても。
 ローラはずっとシェリダンが好きで、エチエンヌと近すぎて遠い微妙な姉弟関係を続けて、ロゼウスはよくわからないふわふわとしたひとで。
 リチャードは、そんなローラを好きでい続ける。それ以外の未来など考え付かない。もはや暗示や思い込みでないかと考えるほどに、強く、終わりのない想い。
「愛している。……私の全てで。君を、君だけを愛している」
「私は……あんたを愛してなんかいない」
 でも、と泣き濡れた顔をまっすぐに上げてローラはしっかりと告げた。
「あんたを、嫌ってもいないわ」
 君がシェリダン様を好きだと言う事は知っている。ロゼウス様のことを、口で言うほど嫌っていないのも、弟のエチエンヌを、憎みながら愛しているのも。
 それでもリチャードにはただ、その言葉だけで十分だった。


045

 ある部屋の前で立ち止まり、入ろうかやめようか、やめようか入ろうか深く深く悩んでいたエチエンヌは。
「ああもう鬱陶しいわね。男ならさっさと覚悟決めなさいよこの鶏」
 普通に考えれば男に対する偏見で逆セクハラだが男尊女卑軍事国家のエヴェルシードではもっともだと言えないこともない静かな暴言とともに蹴り飛ばされた。もっともだからと言って、エチエンヌも彼女も別にエヴェルシード人ではないのに。
「でっ!」
「エチエンヌ?」
 突然ノックもなしに扉をぶち破って部屋の中に突入(転んだんだから転入でしょbyロザリー)したエチエンヌを、これはまっとうなエヴェルシード人のリチャードが驚いた顔で出迎えてくれる。
「どうしたんだ? いきなりドアなんか蹴破って」
「好きで破ったわけじゃなくて……僕を蹴り飛ばしたのはロザリーで……」
 夫の背中に靴痕をつけておきながらなんとも思わないらしいロザリーが堂々と実に男前(女だけど)な様子で部屋の中に押し入り、エチエンヌを起こした(倒したのはそもそも彼女だけど)。
 そしてぐるりと部屋の中を見回し、目標を見つけたらしく部屋の一点で視線を固定する。
「ローラ!」
「……ロザリー姫」
 風呂上りと言った様子のローラが、突如やってきた弟とその妻を微妙な表情で迎えた。無理もない。だって彼女はさっき弟であるエチエンヌに戦闘をしかけ、殺しかけたのだから。
 エチエンヌだって正直言えば、さっきの今で彼女と顔を合わせるのは微妙だと思う。だけど。
 ローラは何か言いたげに顔をあげ、躊躇う様子を見せて伏せ、また顔を上げを繰り返す。
 その様子を見ていたロザリーが、見せ付けるように盛大に溜め息をついた。
「ローラ、エチエンヌと喧嘩したの?」
 そう、部屋に帰って来たエチエンヌの、先日とはまた別の意味でぼろぼろな格好を見て血相を変えたロザリーは、事情を聞いて即座にエチエンヌを引きずって部屋を出た。そしてこうして、これまでロゼウスとローラという微妙なコンビに与えられていたものから姉夫婦用にと変更された部屋を訪れ、ローラに詰め寄っている。
「喧嘩、ですませていいのか」
 ロザリーの言い様に戸惑った風に、長椅子に腰掛けたローラは顔を伏せた。彼女は部屋に入ってきて以来一度もエチエンヌのほうを見ようとはせず、普段は異様に仲の良いロザリーともまっすぐ目を合わせられない様子だ。
 同じことをしたら、エチエンヌも同じ態度をとるだろうとは思う。一度殺しかけた実の、それも双子の弟を目の前にして、ローラがどういう態度をとればいいのかわからなくなるのも、わかる。ややこしい言い方だけれど。
 だけれど、気まずいからと言ってふいと目をそらされたとき、エチエンヌの胸は痛んだ。ローラが彼を憎んでも嫌っても、エチエンヌはやはりローラが、姉が好きだから。
 リチャードも口を挟みがたいらしく、眉を八の字に下げてしまっている。エチエンヌはエチエンヌで声もなく、ローラが語尾を濁した後は誰も言葉が続かない。
 その空気をすぱっと打ち破るように、ロザリーの簡潔にして明瞭な声が響く。
「兄妹は、仲良くしなきゃ駄目!」
「……ロザリー姫様?」
 呆気に取られてぽかんと口を開けているローラの代わり、というわけでもないが、人差し指を彼女に突きつけて仁王立ちしているロザリーの真意を測りかねて名を呼んだのはリチャードだった。
 それはそうだろう。エチエンヌだって部屋に戻って身支度を整えて事情を説明してその場ですぱんとこれを言われたときには、思わず思考が停止したものだ。その直後に、考える暇もなく連れ出されてここに来てしまったぐらいなのだし。
 彼ら三人の困惑を余所に、というより全く気にしていない様子で、ロザリーはとにかく一方的に告げる。
「聞いてるの! ローラ! エチエンヌ! あんたたちが詳しくは何を考えているかなんて知らないけど、とにかく仲直りしなさい!」
「ひ、姫様」
 ようやっと治まった事態をまたかき回すようなロザリーの言葉に、リチャードが顔色を変えてそれを止めようとする。が、止めて止まるようなロザリーではない。それは夫であるエチエンヌが一番よく知っている。
 腰に手を当ててもう片方の手でローラに指をつきつけたロザリー、ローゼンティア第四王女が言う。
「ローラ!」
「は、はい」
 思わず返事をしたローラに、ロザリーの鋭い声が飛んだ。
「あなたは、エチエンヌのお姉さんでしょ!」
 双子だけどね。しかし固まったローラの様子を思わず他人事のように眺めてしまったエチエンヌにこそ、ロザリーの次の声が飛ぶ。
「エチエンヌ! あんたはローラの弟でしょ! だったらちゃんと、お姉さんを守りなさいよ!」
 ぎょっと目を瞠ったエチエンヌと、どう反応していいのかわからず呆然としてしまったローラと彼らの間で青ざめるリチャードの態度を意にも介さず、天下無敵のお姫様は告げる。
「兄妹ってのは、それだけで貴重なのよ! いるだけでありがたいの! 今喧嘩して仲直りしなかったら、いつか絶対後悔することになるんだからね!」
「ロザリー」
 エチエンヌは彼女の名を呼んだ。
 国を失ったお姫様。ロゼウス以外の兄妹の行方は知れず、両親とはもう二度と会えない。
「何よ。あんたたちなんて、仲良くするのに誰が邪魔をするっていうの? 私なんて、ロゼウスと話してれば正妃の息子と親しいなんて信じられないって陰口叩かれ、母親が同じミカエラやエリサといればどうせ異母兄妹なんて家族とも思っていないんでしょうよと陰口叩かれで、兄姉妹弟と親しくするだけでどれだけ大変だったか! あんたたちなんて、お互いに仲良くするのに必要なのは自分の気持ち一つでしょうが!」
 叱咤する言葉こそ僻みに聞こえるが、ロザリーが言いたいのはそこではない。彼女は案じているのだ。エチエンヌとローラのことを。
「こういうことは、すぐに終らせちゃったほうがいいのよ。怒らせちゃったならすぐにその場で謝って、また明日から仲良くすればいいじゃない。それで、全部綺麗に収まるんじゃない。時間を置くと変にこじれるだけよ」
 言いたいだけいうと、彼女は腕を組んで部屋の隅の応接用椅子にどっかりと腰を落ち着けた。リチャードを指の一振りで招いて、後は傍観の姿勢だ。
 彼女はエチエンヌがどう動くかを見ようというのだ。だからエチエンヌもたまには、夫としてその期待に答えようと思う。
「ローラ」
 呼びかけると姉の細い肩が戸惑うように震えた。
「ごめんね」
「エチエンヌ?」
「ずっと、傷つけてた。僕、自分がローラに甘えて、ローラを傷つけてることに気づいてなかった。ごめんね」
 ごめんね、姉さん。
「エチエンヌ……わ、私は、あんたを……」
「いいんだ」
 エチエンヌは首を横に振って、ローラの言葉を声になる前に封じる。
あの時、彼女が口走った本音は少しずつ歪んではいたけれど、決して間違ってはいなかった。またここで悪いのはローラだと全て責任を彼女一人に押し付けることなんてしたくない。
悪かったのは僕だ。姉さんを傷つけたのは僕だ。
 双子人形。同じ歳、同じ顔、同じ痛みを抱いて同じ日に生まれたそっくりな僕ら。
 だけれど、本当の彼らは人形ではなく生きた人間で、二人は違う人間だ。同じ顔をしていても違う人間なのだから、すれ違って傷つけることも……まま、あるだろう。
 けれど大事なのはロザリーの言うとおり、そこから仲直りできるかどうかだ。
 そしてきっと彼女の言うとおり、こういうことは早いほうがいいのだろう。
「だけどさ、本当に悪いと思うならローラ。一緒にロゼウスのとこ行ってよ。僕、あいつに借り作るのいやだし、一人でお礼言いに行くのもヤダもん」
 いつも通りに甘えたエチエンヌに、ローラが一瞬きょとんとした後、笑顔で頷いた。
「ええ。もちろん」
 ゆっくりと近付いてきていつものようにエチエンヌの手をとり、離れているロザリーとリチャードに聞こえないよう、小さな声で囁いた。
「あんたを嫌いって言った、あの時の言葉は本当」
 繋いだ手に一瞬だけ力が篭もる。小さな氷の針が胸を刺した。
「でもあんたが好きなのも本当よ。エチエンヌ」
 エチエンヌは微笑んで頷いた。
「うん、知ってる」
 刺さった氷針はもうすでに溶け始めている。

 ◆◆◆◆◆

『これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様』
 少年は美しく笑って。
『愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています』
 そして逝った。

 血に濡れた剣をひっさげて城中を歩いた。
『誰か! 誰か王宮へ使いを! 若様が乱心された! シアンスレイトから救援を呼んで……!』
『馬鹿を言うな! そんな醜聞をみすみす国に知らせる者があるか! 誰か! 兵を集めろ! ジュダ様を止めろぉおお!!』
 騒がしい周囲の声など耳に入る端から通り抜けて行く。今のジュダの心に留まるものは何もない。
 ヴィオレット
 ダレル
 あなたたち以外は。
 そして最初の一人は、もうこの世にはいない。
『ジュダ様』
 ノックもせずに扉を開けた彼を見て、長椅子に腰掛けた少年は一瞬だけ驚いた顔をした。けれどすぐに血まみれの剣にも、血まみれの青年にも慣れたように、いつものように穏やかに笑う。
 それはあの、談笑を重ねた四阿での一時と何一つ変わることがなく、だからこそ痛い。
 そして表向きの笑みは常と変わらず無邪気で無垢な彼の上にも、やはりその狂乱は襲いかかっていたのだ。ダレルの左頬は、無残にも青黒く腫れてしまっている。
『この頬はどうした?』
 ジュダは自らの頬に散った返り血にも構わず、また紅に染まったままの指先も拭わずに少年の頬に触れた。わずか十歳の少年は、全てを悟りきった者の揺らぎない表情で淡々と告げる。
『父様……いえ、リヒベルク伯爵に叩かれました。母様につかみかかるのを止めようとしたのですが……』
 先程のやりとりを思い返して胸が悪くなる。そしてジュダは先程のやりとりがどういう経過をたどり、今自分がこの場所を訪れたのかを思い出した。
 あの人はもういない。
 この少年の母親であるヴィオレットは……叔母はすでに死んでしまったのだ。
『今までのあなた様とも思えない、派手な行動を起こしているようですね』
 部屋の外の騒ぎ声に耳を傾けて、ダレル少年は不自然なほどに穏やかにそんなことを言ってくる。ああ、確かに派手だろうな。これまで確かに悪知恵が回ると言われたこともないとは言わないけれど、概ね健康的で健全で、誰もが認める完璧な公爵子息として努めていた男が、いきなり父と母を斬り殺し、城の使用人たちも幾人か手にかけて城内を血の海に沈めているのだから。
 血だまりを踏んで歩いたジュダの血色の足跡を辿れば、ここにいるのはすぐに明らかになるだろう。それまでにもう少し、どんなことでもいいからダレルと話をしておきたかった。もう二度と会えない少年と。
 だが、そう長くは望めないこともまたわかっていた。
『ダレル。私の話を聞いてくれ。この城の西の厩舎に馬車を一台停めてある。紋章のない一般市民用のもので、誰が乗っているかなどわからないだろう。それに必要な物資は全て詰めてあるから――』
『行きませんよ、僕は』
 ダレルは微笑んだまま、優しく残酷にジュダの言葉を遮る。ジュダが予期していた、しかし最も聞きたくなかった決意に満ちた声音で。
『ダレル』
『母様は死んだのでしょう?』
 首を横に振る事はできなかった。そんなことをしても、この聡い少年にはすぐにわかってしまうのだから。そんなことでもなければ、ジュダがこうして血塗れた刃を掲げて城内を阿鼻叫喚に突き落とす必要などないと。
『でしたら、僕だけ残るわけにもいきません。僕も、母様と……それに父上と、共に』
『ダレル!』
 たまらずにその名を繰り返す。ダレル。《愛しい人》という意味の名。叔母が苦心に苦心を重ねながらつけたその名前。
 ねぇ、ヴィオレット。あなたはどんな気持ちでこの名前をこの子につけたのですか?
 母親譲りの甘い顔立ちの少年に、今はもう亡き女性の面影を重ねながら、ジュダはこの世の絶望を思う。
『お前だけでも逃がしてやりたい。いや、生き延びて欲しいんだ』
『母も父も義父ももはやこの世にいないのに僕だけを残して、それでどうなさるおつもりですか? イスカリオット公爵。いっそ何も誰にも悟られぬくらい全てを消し去って、隠滅しておしまいなさい』
 叔母と同じ瞳をしながら、彼は言う。
 さあ、ジュダ様。いくのよ。
 あなたはあなたの道に。
 私は一足先に、あなたが来るのを地獄でゆっくりとお待ちしております。
 ゆっくりなんて嫌だ。今、共に逝きたいんだと言ったら泣かれた。あなたのいない世界になど生き残っても仕方がないというのに、あなたはそれを許さない。
 本来血縁上では目上にあたるヴィオレットなら、いくら時期公爵の身とはいえ甥であるジュダにもっと何もかも命じることができたというのに、最後の最期でようやく命じたのは彼が最も忌避したことだった。
 だから彼女のもはや忘れ形見となってしまったダレルだけでも救いたかったのに、彼は母親と同じことを言う。ジュダを置き去りにして、自分だけ母の……ヴィオレットのところへいこうとしている。
 あの日々の四阿が、今は酷く遠すぎて見えない。それは胸の中に溜まるばかりで流れない涙にいまだかすんで。
『ジュダ様』
 ダレルが呼ぶ。それは彼が呼びなれた、そしてジュダも聞きなれた名前。
『イスカリオット公爵』
 このような狂態を見せてまさか爵位までもがそのままというわけにはいかないだろうが、父亡き今では確かにジュダが継ぐべき称号。
『……お兄様』
 胸が軋むその関係。
 知らなかった。知らなかった。私はお前が自分の弟だなんて。それだけは知りたくなかった。
 それさえ知らなければ、今もきっと、これまでどおりに少しだけ窮屈で退屈なくらいに穏やかで、誰も何も変わらずに過ごすことができたのに。
 ――あなたの子ではないのよ。
 ――あの子は、あなたの子ではなく――。
 それさえ聞かずにおれば、ずっとずっと、あのままでいられたのに!
『ダレル……頼む。後生だ。生きてくれ。頼む』
 身も世もなく自分の半分しか生きていない少年の足元に取り縋り、ジュダはただ震えていた。ダレルの細い膝を抱きながら、少年の手が髪を撫でるのを感じた。
『僕も、あなたといたかった。あなたと一緒に生きたかった。あと十年、いや、五年、その時にあなたを支えるのは絶対に僕だと決めて、信じていたんです』
『今からでも遅くない。私はきっとただではすまないだろう。最悪極刑に処せられる可能性もある。けれど、もしそうでなく生き延びられたなら、お前がどうか私を支えてくれ! 私が貴族でなくなっても、お前が貴族でなくなっても、それでも生きてさえいれば、変わらず側にいてくれるのだろう?』
 たまらず見上げたジュダの視線の先で、ダレルはこれまでより一層深く優しく微笑んだ。
 それは彼の母親である、ジュダの叔母にあまりにも良く似た笑み。それが内包するしめやかな決意さえも。
 その微笑が一瞬のうちに崩れて、彼は歳相応の子どもの顔で、堰が切れたように泣き出す。
『どうせ禁じられた生まれなら、あなたを父と呼びたかった!』
 叫ぶダレルにつられて、ジュダも膝を立てた。けれど何か言おうとした一瞬が隙で、ジュダの傍らに落ちていた血まみれの剣をダレルの指が掴む。
 そのまま、少年は朱に染まった銀色の刃を自らの胸に呑み込んだ。
『……ダレル――――!!』
 叫ぶ声を、ジュダは自分のものではないかのように聞いた。
 胸に剣を収めたままの苦しい格好と痛みの中で、最期の力を振り絞って少年がジュダの頬に手を伸ばす。元々返り血で汚れていた頬を、血まみれの少年の指が文字通り血で洗った。
『これでいいのです……叔父、様……いいえ、兄様……』
 この世で最も残酷で汚れていてその上何よりも清らかで尊いその血。
 自分と父親を同じくする血。
『愛しています……僕も、母も……誰、よりも、何よりも……あなたを……愛しています……』
 少年は美しく笑って、
そして逝った。
 だからこそジュダの胸には、今も美しい少年の微笑が傷痕として残っている。


046

 それは初めから、いいや、初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》だった。
 口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋だった。
 触れたいと、思うことすらなかった。ただ、見つめているだけで幸せだった。叶うはずのない想いだと……叶えることの許されない想いだと知っていたから、耐えられた。耐えていた。この命が絶えるまで、そうするはずだったのに。
 叔母は美しくはなかったが、貞淑で聡明な女性だった。
 ジュダが八歳の頃に十六で結婚してその二年後に一人息子のダレルを産み、さらに八年後、ジュダが十八の時に八歳のダレルを連れて夫と離婚し、イスカリオット家に帰って来た二十六歳のヴィオレット。
 彼女のもとに、一年後、元夫がやってきた。
『なあ、頼む。やりなおしたいんだ』
 彼女が輿入れしたリヒベルク家の長男は、どうしようもない愚物だった。叔母は彼の行動に心底から迷惑していた。
 戸籍にこそ十年と残っている結婚生活は、本当は二年のうちにすでに瓦解していたのだ。成金貴族でありながら気位だけが無駄に高く、イスカリオット家の当主であるジュダの父の前ではひたすら卑屈でありながらその妹である叔母には彼女の兄に向ける分の鬱憤まで晴らすように暴力を振るったあの男に、温情など必要ない。
 初めこそいい加減に鬱陶しいその男の申し出にも哀れを感じて二人きりにさせたものの、いつまで経っても堂々巡りで終らない言い争いに嫌気が差し、また叔母の身も案じて、ジュダは二人が話し合いを続ける部屋へと足を向けた。
『そんなこと言うなよ! なあ、いい加減にしないか! 俺たちの間には、子どもだっているんだしさ! ……そんなに戻って来たくないならいい! 俺はダレルだけでももらっていく! あいつはこの俺、リヒベルク伯爵の子なんだからな!』
 ノックをしようと扉の前で一度立ち止まり、次の瞬間中から聞こえてきた女性の怒鳴り声に動きを止める。
『あなたの子ではないのよ』
 宿した暗い情念ごと、耳の奥に刺さったのは信じられないことに叔母の声だった。
『……ヴィオレット。お前、何を……』
『あの子は、あなたの子ではなく――』
 耳を塞いで通り過ぎることも出来ずに立ち尽くして聞いてしまったその告白。
 そこで踵を返し立ち去るだけの器用さがあれば、ジュダはせめて、あんな惨劇を引き起こすことはなかったのかも知れない。だけれど。
『あの子は……ダレルはね、私とダミアン=イスカリオット公爵の……お兄様の子なのよ!』
 どういう、ことだ。
 ……どういうことだ!?
 思ったのはジュダだけではなく、部屋の中のリヒベルク伯爵も同じだったらしい。激しすぎて言語に聞こえない罵り声の後に、淡々とした声で説明する叔母の声が流れてきた。
『十年前、あなたとの離婚が決まりかけてた時、お兄様は反対したわ。それでもどうしてもという私に業を煮やして、こう言ったのよ。いくらお前でも、夫との間に子どもでもいれば軽々しく離婚などとは言えないだろうと。そんなものいないと言ったら、じゃあ作ればいいと……』
 終わりに向かうに連れてか細くなる声を聞き逃さないようにするので精一杯で、ジュダはもう何も考えられなかった。
 一瞬の放心状態ののちに、ジュダを引き戻したのは、これまでの言い争いの激しさとは打って変わってくぐもった低い、それ故に切羽詰った悲鳴だった。
『叔母上!』
 飛び込んだジュダの姿に驚いてリヒベルク伯爵が部屋を出ようとした。その通り過ぎる姿のやけに赤いのすら見過ごして、ジュダは腹部を押さえて倒れた叔母のもとへと駆け寄る。
『……叔母上!』
『……ジュダ様』
『酷い傷だ……誰か! 誰か、医者を呼べ!』
 あらん限りの声を振り絞って、人を呼んだ。駆けつけた小姓が大慌てで医師を呼びに走りまわる足音を遠く聞いて、ジュダは叔母の血に濡れた手をとる。その指にかすかに力が込められた。
『私は、駄目よ。この傷では助からないわ』
 自分の死を語るとも思えない酷く冷静な声音で彼女は言った。だがジュダにもそれはわかっていた。絨毯を濡らす血だまりは留まるところを知らず広がって、彼女の白い頬を飲み込んでいく。
『馬鹿なことを言わないでください! 叔母上、どうか』
 叫びかけたジュダの頬に、血に濡れた白い指が伸びて言葉を堰き止める。唇を塞がれたわけでもないのに、縫い付けられたように一言も発せない。身動きも出来ない。
『先ほどの話……聞いていらしたの?』
 ここで嘘をつけば何かが変わるというのならどんなことでも口をついて出たのに、叔母の目にあったのは誤魔化しの利かない真摯な痛みだけだった。
『は……い』
『そう、ついに知られてしまったわね。ジュダ様にも』
 腹部を刺されたというのにそこに力を無理矢理入れて、死に向かう吐息でけれど言葉を切らずに叔母はこれまで隠し続けていた真実を口にする。
『ダレルはね、私と、あなたのお父さまである私の兄、ダミアンの子』
 兄と妹の間に生まれた、禁断の子。
 母親似のダレルであるから、誰も気づきはしなかった。もし父に似ていたとしても、血縁だからの一言で済ませられただろう。
『兄はね、私があの人と別れるのを許さなかった……子どもでもできれば離婚などできないだろうと、それで……』
『もう、喋らないでください、叔母上』
 二重の意味でジュダは叔母の口を閉じたかった。彼女の言葉の流れからも、父の性格から考えても、ジュダには九年前の真実がわかってしまった。
 父は無理矢理叔母を孕ませたのだ。
 あまつさえ、その子をリヒベルク伯爵の実子だと偽らせて。
 そんなことがあったのならば、なおさら叔母が彼との結婚生活に耐えられずとも無理はない。
 抱き起こした腕の中で、彼女の細い体から見る見る命が滑り落ちていく。一息ごとに、その温もりが失われていく。
『ジュダ』
 彼の名を呼ぶ声にも力がない。だが死の間際に瀕して、その瞳はなおも輝いていた。いや……このような時だからこそ、そんな瞳をしていられたのか。
『最期だから……本当のことを言わせて。私……あなたが、好きだった』
 それは初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》。口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋。
 触れたいと思うことすらなく、ただ、見つめているだけ幸せだった。叶うはずのない想いだと……叶えることの許されない想いだと知っていたから、耐えた。
 たとえ想う相手もまた、自分のことを想っていると知っていても。
『知っています』
 兄と妹である父と叔母の関係も許されるものではない。そして叔母と甥であるジュダと彼女の恋も。
『私も、あなたを愛しています。叔母上。……いいえ、ヴィオレット』
 名を呼ぶと彼女は、本当に嬉しそうに笑った。けれど、その瞳の焦点はぼやけ、やがて、瞼が閉じられる。荒い息の下で、ヴィオレットは告げる。
 叔母から甥へ。
 死に逝く者から生き続ける者へ。
『ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと……縛りつけておかなければ駄目よ?』
『ヴィオレット』
『二度と、離れないように……今度から、そうしてね……あなたは、どうかあなただけは……幸せに』
 ああ、あなたもこの邪知暴虐のイスカリオット家の人間だ。
 私に幸せになれなどと仰る。
 世界中の人間全てを不幸にしてでも、幸せになれと。
 あなたがいなければ幸せになどなれるはずもないのに。
 ヴィオレットの怪我は助からない傷ではあったけれどもすぐに死ねるほどの場所でもなかった。楽にしてと言われて、静かに頚動脈を切った。そうして、愛しい人はジュダの腕の中で事切れ、永遠に失われた。
血に汚れながらも微笑みながら逝ったあの人が幸せだったのかどうか……今でもわからない。
 
 叔母の亡骸を使用人の手に預け、リヒベルク家の連絡を受けて処刑場へと向かった。
 息子の不祥事に困り果てた両親はけれどここで最大の愚を犯す。兄の身代わりに弟を突き出したところで、ジュダが容赦するとでも思ったのだろうか。同じ年の青年リチャードを、ジュダは見知っていた。知りながらそれで殺そうと刃を振り上げた手に、細い指と小さな重みがかかる。
『もうやめろ。イスカリオット』
 真実の狂気も、その奥底に潜む壊れかけの痛みも貫いてまっすぐとジュダを見据える朱金の瞳。顔だけは知っているこの国の王子、シェリダン=エヴェルシード殿下だ。だけれど彼が何故ここへ。
 疑問を持ちながらも頭は冷静に事態を判断し、王子の命で止められたならばもはやリチャードの命を奪う事は叶わないだろうと知った。リヒベルクの思惑はともかく、その後あっさりと逃亡中の伯爵本人を捕らえ、今度こそ殺した。
 血塗れの姿も気にせず、父の元へ向かって真偽を問いただし、さらにこれを殺す。止めようとした父の忠臣も叩き斬り、ジュダが乱心したと城中が騒ぎ出した。
 けれどざわめくその全てが、ジュダの世界から遠かった。
 ヴィオレット
 ダレル
 欲しかったのは、その幸せを願ったのは、あなたたちだけだ。私はあなたたちさえいれば、それでよかったのに!
 もはや、この世に生きていたところで何の意味もない。
 心の赴くまま十年前のことに加担していたと目される一族の人間を殺しつくし、全てを終えた時、ジュダは決意を固めていた。

 ◆◆◆◆◆

 ――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
 ――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
 ――これでいいのです。叔父様。いいえ、兄様。
 ――愛しています。僕も、母も。誰よりも何よりも……あなたを愛しています。

 本当ならあの後、あなたたちの後を追って私も死ぬつもりだった。
 だが、それを止めた人がいた。
『死ぬのか?』
 無邪気と言うにはあまりにも冷たく強く、そして無垢すぎる声がジュダをこの現世に引き止める。
『ジュダ様』
 振り返った視界に二つの人影。ああ……そうだ。忘れていた。エヴェルシードでは同じ領地内の墓所は統一されているから、ジュダが殺した父や一族の者はもちろん、リヒベルク伯爵もここに眠っているのか。
 律儀にも自分を陥れた兄の墓参りに花を持ってやって来たリチャードと、彼が連れた……いや、立場的にはリチャードが連れられる形となっている、その主君。藍色の髪に朱金の瞳の少年の姿を認めてジュダは振り返る。
『酷い格好だな』
 ジュダの姿を一瞥して、少年はそう述べる。大変正直な感想だ。
 だが今のジュダは惨殺事件を起こして爵位こそ降格されたとはいえ、もうとっくに返り血も洗い流し傷も癒え、見た目はいつも通りのはずなのだが。
『絶望が表情に表れている』
 ああ、そういうことか。彼が指して言ったのは、ジュダの格好ではなく様相。何もかもに膿み疲れきって死に焦がれるこの暗い虚無。
『……だったら、何だというのです?』
 自分の半分も生きていない少年相手に何をムキになることがあろうか。その時のジュダは酷く苛々とした気持ちでその少年を……エヴェルシード王子を傷つけたいという気持ちでただ反抗的にそう言った。別に彼でなくても良かったのだ。自分より幸せに見える人間なら誰でも良かった。誰でも傷つけるに値した。自分こそが世界で一番不幸だと思っていたから。
 それを、あまりにもあっさりと言い当てられた。
『お前、まさか自分が世界で一番不幸だとでも思っているのではないだろうな』
 まさにその通りだったので、何も言い返せない。絶句したジュダを鼻で笑って、少年は持っていた花束を乱暴に目の前の墓に叩き付けた。
 そのあまりの暴挙にさしものジュダも仰天したが、止める余裕すら持ち得ない。そして誰よりもこの場で所在ない様子のリチャードが一瞬目を瞠り、ついで納得したように小さく口元を緩めるのだけ見ていた。
『馬鹿な奴らだ。お前もあの男も』
 あの男、というのが誰を指すのか。心当たりが多すぎてわからない。とりあえずここではリチャードの兄であるところのリヒベルク伯爵か。
 彼の行動の責任によって、リヒベルク家は取り潰しとなった。だから実質的に彼が最後の伯爵だ。本来なら生き残った弟のリチャードが何か手を回して家を再興させるべきなのかもしれないが、少なくとも彼にその意志はないようだった。
 その答が今、誰よりもエヴェルシード王子の側にありながら、彼に縋ることもなくただ仕え、兄の墓参りになど来ているその姿だ。
 兄を殺した男を……この自分を責めることもしないその姿だ。
『馬鹿だ。馬鹿だ。お前もあの男もリチャードも皆、馬鹿だ』
『ええ』
 その通りです、と殊勝に頷いたのはリチャード。呆気にとられたジュダの目の前で、少年は……シェリダン王子はさらに告げる。
『幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい』
 それで何もかもが終る。もう何にも苦しむことも、苦しめられることもない。
 だから幸せになることは簡単なのだ。
 自分一人だけが幸せになることは。
『そうしなかったのはただのお前のエゴだろう? 何を悲劇の役者ぶることがある』
 この世の全ては、自らの望みの結果。人はどうあったって、自分の望む未来以外のために行動などしないのだから。だから全て自分の責任なのだと。
 ジュダや彼が、その日の食事にも事欠く程貧しく恵まれない民ならあるいは自分が不幸だと嘆くこともできたのかもしれない。だけれど、衣食住に恵まれて命と願望とそれを遂行できるまでの能力まであってそれをしない者に、何を言う資格があるのだと。
『ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい』
 私はそれを、嘲笑ってやる。傲岸不遜にそう言い残し、彼はリチャードを連れて踵を返した。
 遠ざかる小さくて華奢な背中を見ながら、ジュダは呆然と足元の墓標を見下した。
 ヴィオレット。ダレル。二人のはかじるしが柔らかに微笑みかける、生前のまま穏やかに。イスカリオット一族のものでありながら今回の事件の発端ともみなされている二人の墓は、悲しいぐらいに慎ましやかだ。
 真実を知る者は消えた。皆死んだ。ジュダが殺した。これで全てを知る者はただ、自分一人。けれど。

 幸せになることは簡単だ。世界中の人間を殺して、最後に自分の息の根を止めればいい。
 そうしなかったのはただのお前のエゴだろう? 

 自分だけを幸せにすることは何よりも簡単だ。ああ確かに彼の言うとおり、自分はそれをしなかった。
『抱いてしまえば良かったというのですか。叔母上、ヴィオレット。あなたを犯し傷つけ、ダレルと共に攫って閉じ込めて二度と人目に触れさせないようにして私のものにしてしまえば。罪を犯してしまえばよかったというのですか!?』
 ――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
 ――二度と離れないように。今度からそうしてね。あなたは、どうかあなただけは幸せに。
 自分だけが幸せになるために、あなたさえも不幸にしてしまえば、良かったのだと……。
 心は泣いてしまいたいのに、こんな時に喉の奥に込み上げるのは歪な笑ばかりだ。
 なんだ、結局今のこの状態は全て私のせいなのか。だったら。
 愛シイモノハ、チャント縛リツケテオカナケレバ駄目ヨ?
『ええ。叔母上。忠告をどうもありがとうございます』
 気づけば墓石の表面にぽつぽつと雫が垂れて濡れていた。何故? 空はいっそ憎いほどに晴れて、雨など降ってはいないのに。
 ――ここで死ぬのならそれもいいだろう。それがお前の、お前だけの幸福だ。勝手に幸せになるがいい。
 ジュダはヴィオレットを本気で幸せにしたかった。幸福になってもらいたかった。だから、ここでは死なない。
 だけれど彼女は言った。
 ――どうかあなただけは幸せに。
 ならば自分以外全ての者を、破滅へと導こう。数多の嘆きの上に、この身の幸福を築こう。
 ヴィオレット。全てはあなたの望みの上に。
 ダレル。お前までもがこれでいいというのなら。

 そして三年の月日が流れた。
『神妙にしろ! イスカリオット伯!』
 近親相姦の子を見てみたい。元はと言えばそんな動機で買い取った美しい双子人形の調教が思い通りにいかず、気まぐれにその手足でも切り落として楽しむかと地下牢でギロチンに手をかけたところだった。
 見知った顔ぶれが並んでいる。そのうちの一人はリチャード。さらに先日手をかけ損ねたユージーン侯爵子息。そして。
『貴様の所業もここまでだ』
 燃えるように強い朱金の瞳で睨んできたのは、あの頃よりさらに成長して、でもまだまだ子どもとしか言いようのない王子殿下。
『お久しぶりですね。シェリダン王子』
 呼びかけると一瞬、呆けたような表情になった。なんだ私のことは覚えていないのか。無理もない、まだあの頃は十にも満たないほど幼かったのだし、記憶が多少混乱したり抜け落ちたりしても。
『とにかく、その二人を放せ』
『はいはい』
 身分相応に居丈高な命令に従って、コレクションのギロチンから身体を離した。放心状態の少女を刃の下から引きずり出して解放する。
 ジュダを見据えるシェリダンの瞳はきつく、刺すように鋭い。あまりにも美しく、それでいて儚い印象をもつ王子。
 ああ、欲しいな。
 その時は単純にそう思った。だが今思えば、それはすでに八年前から始まっていたのかもしれない。
 勝手に幸せになるがいい。そう言われたあの日から。
 ええ、殿下。私はあなたの言うとおり、あなたの魂の骸を踏み越えて。
 勝手に幸せにならせていただきます。


047

 ノックに応じて扉を開ければ、そこにいたのはこの城の主その人だった。
「イスカリオット伯爵?」
「ええ。ご機嫌麗しゅう王妃陛下」
 端正な顔立ちで微笑むジュダを部屋の中に通し、ロゼウスはお茶の用意に人を呼ぼうかどうしようか、束の間迷った。シアンスレイト城ではそのあたりの事はローラが全てやってくれるし、ローゼンティアにいた時も侍女が常に身の回りにいた。だけれど、今この部屋にいるのはロゼウス一人で、シェリダンも出かけている。自分で飲む際にはわざわざ人にさせるのが面倒だからと自分で淹れたりもするが、普通は良家の子女がお茶汲みなんかしない。
 席についたジュダは、何か指図するでもなく、ロゼウスの一挙手一投足に注目している様子だ。ロゼウスは数瞬躊躇った挙句、自分でポットを手に取った。
「無作法で申し訳ないのですが」
「かまいませんよ。王妃陛下手ずからのお茶をいただけるなど、光栄の至りです」
 陶器に茶葉を入れ、備え付けられている魔法瓶から湯を汲んだ。温めたカップに紅い液体を注ぎ、つい習慣で薔薇の香料を砂糖と一緒に淹れる。
「お茶を淹れるのがお上手ですね」
「ありがとうございます」
 何の気なしに一口飲んだジュダにそう褒められる。さあこれでロゼウスの方の第一手は終わり。今度は向こうが仕掛けてくる番だと、席について身構える。
 エヴェルシード王国イスカリオット地方の領主を勤めるこの伯爵が、どういう人物であるかはだいたいのところを周りの人々から聞いている。彼が、これまで隣国でありながらこの人間の国とは一線を画していたローゼンティア、今は植民地化されてローゼン地方とされた吸血鬼の国の王族であり、今はエヴェルシード王の妃として連れてこられたロゼウスと、まっとうなティータイムをしに来たわけがない。
「それで、わざわざこの……私に何の御用でしょうか?」
 正面に相手を見据えて、ロゼウスはまずそう問いかけた。ジュダはにっこりと笑って。
「先日のお礼とお詫びに……というのは口実で、一度、陛下とゆっくりお話してみたかったのですよ」
 のたもうた。
「光栄です」
 シェリダンは今いない。彼に一日中ついているクルスもシェリダンと共にいるのだろう。エチエンヌとローラ、リチャードにロザリーはどうしているのだろうか。
 薄曇の昼下がりは特に出かける気分にもなれず、城主であり招待主であるジュダが特に予定を作らなかったものだから、暇を持て余しながらみんな散り散りに時を過ごしているはずだ。せっかくの薄曇だけれどロゼウスはどこかに出かける気分にはなれず、一人で考え事をするために与えられた部屋に残っていたのだが、どうやら失敗したようだ。素直に庭の散策でもしとけばよかった。
 こちらの思惑を正確に読み取り、その上でいっそ小気味よいほどに無視をしたジュダが話を仕掛けてくる。
「先日は失礼いたしました。元はと言えば私の躾けた奴隷風情めが、王妃陛下にご無礼を」
 ローラの攻撃からエチエンヌを庇って、ロゼウスが怪我をした時の話だ。シェリダンやリチャードはいつものことだから気にしていないが、クルスは酷く慌てふためいていた。ロゼウスにとってはあんなもの怪我の内にも入らないし、シェリダンもそのぐらいは慣れたものだが、普通の人間にとっては、正確に急所を貫いたあれは大怪我に当たる。
「いいえ。どうか、お気になさらないでくださいますよう。吸血鬼にとって、あのぐらいの怪我は怪我の内にも入りませぬ」
「ですが、痛みは感じるのでしょう? ヴァンピルという種族について、多少ながら調べさせていただきました。その身の魔力によって、冥府からの甦りも可能な最強の魔族。それでも痛覚や五感は人と同等以上にあると聞きましたが」
「ええ。そうです。ですが、痛覚とはあくまでも死に際しての身体が発する危険信号。その危険が少なければ、当然痛みも鈍くなるというもの。私は多少も苦しい思いをしておりませぬ。伯爵が気になさる事はございません」
 そもそも、ローラとエチエンヌはもともとジュダに買われた奴隷とはいえ、今はシェリダンに雇われた侍女と小姓。
 わざわざこの伯爵が謝罪になど来る事がおかしい。
 ジュダは薔薇の香料を落とした紅茶をまた一口、口に運んで、優雅な手付きで茶器を置いた。
「……この国はいかがです? ローゼンティアの姫君。正直なところ、我が国に攻め込まれて攫われてきたも同然のあなた様にとって、エヴェルシードは居心地が悪いのではありませんか?」
 誘導だ。どこに向けての誘導なのかは知らないが。
「いいえ。そんなことはございません。一つ間違えば斬りおとされていたかも知れないこの首、国民の役に立ち、こうしてお国に招かれ王妃の座まで頂いて、シェリダン王にはよくしていただいております」
 目をそらすような事はせずにすらすらと言ってのけたつもりだったが、ジュダがこれまでの貴公子然とした様子とは打って変わった、口元を歪めるような笑みを浮かべたのでどこか間違えたのだな、と。それだけはわかった。
「目が、嘘だと言っていますよ、妃陛下」
 だからこういうタイプは嫌いなんだ。嘘をつくことに関しては多少の自信があったのに。
「あなたは嘘が上手すぎる。あまりにも自然すぎて、逆に心が篭もっていないのがわかってしまう」
「……そうですか」
「お互いに猫かぶりはやめませんか? 陛下とのやりとりを遠目に拝見するかぎりでは、あなたはそんなおとなしやかなお方ではないようですが」
 かなり失礼な台詞を、ジュダはその端正な顔立ちと甘い声音を武器にいけしゃあしゃあと言ってのける。普通の女の子だったらここで、ころりと騙されてしまいそうな魅惑的な仕草。上品過ぎないところが売りだと、老若男女をたやすく虜にできそうな。
もっとも、普通でも女の子でもないロゼウスをそうやって常人と同じように扱えると思ったら大間違いだ。
「では、お言葉に甘えて」
「ええ」
 曖昧な態度と上辺を覆うには最適な理由を持ち上げてわざわざ多忙であるはずのジュダがこの部屋を、シェリダンでもローラたちでもなくロゼウスを訪ねてきた理由。それに予測はついている。
 それを話したい……いや、違う。それが理由で、邪魔なロゼウスを何とかしたくて彼はこんなところに来たのだ。遠回しな駆け引きで彼が狙っていた事はただ一つ。ロゼウスを王妃の座から引き摺り下ろし、可能ならば処刑すること。そしてその理由は。
「あなたはシェリダンが好きなんだな」
 ジュダが僅かに目を瞠った。
 そう、知っていた。ローラもエチエンヌもリチャードもクルスもシェリダン自身も、近くにいるはずの人たちは誰も気づいていなかったその事実。
 彼はシェリダンが好きなのだ。
 軽い口調に紛らせながら、いつだって強くシェリダンを見ていた。決して外には出すことのできない、狂おしいほどの切なさを湛えた瞳で。
 そして、敵意を抱いてロゼウスを睨む。ロゼウスの嘘をこの人が目を見て気づいたように、ロゼウスも彼の瞳を見て気づいた。気づいてしまった。
「彼が好きだから、俺を側から引き離したいんだ。俺だけじゃない、ローラも、エチエンヌも。あんたがあの二人に執着するのは、二人がまだあんたの興味をひくからじゃない。自分の手を離れた玩具が、自分の好きな相手に可愛がられていることが気にいらないんだ。ユージーン候だって」
「黙れ!」
 叫ぶと同時に、ジュダの手が伸びた。椅子を蹴倒して立ち上がった彼に胸倉をつかまれ、一瞬息が詰まる。抵抗をする前にそのまま引きずられて、寝台の上に放り出された。
「あなたに何がわかる」
 ロゼウスの手首をぎりぎりと締め上げ、寝台に押し倒してのしかかる。
「この国が気にいらないのだと一言言えば、陛下にとりなして優しく追い出して差し上げたものを。王妃様。いいえローゼンティアの姫君。もうこうなれば、あなたに自分で舌でも噛んでいただきましょうか」
 暗い愉悦を浮かべて、俯いただけではできない翳りをその目元に落としてジュダは低くロゼウスを脅しつける。
「いくら侵略者の王の慰み者とされた姫君でも、夫でもない男に無理矢理抱かれるのはお辛いでしょう? 死んでいいのですよ? あなたが死んだところで誰も困らないし、悲しむ人も、もういない。滅びた国と共に、死んでしまえばよかったのに!」
 手首を締め上げる腕にさらに力が込められ、骨を砕かんばかりになる。ジュダの長い髪がロゼウスの身体にまで垂れて、さらさらと音を立てた。
 歪む顔つきのその下で、しかし彼はその魂をも軋ませている。
「すみませんね。姫君。でもあなたが悪いのですよ。あなたがあまりにも美しくて……あの人に愛されているから」
 愛されている? 俺が? シェリダンに?
 そんなわけはない。彼は何もわかってなんかいない。
 繊細なドレスの胸元に伯の手が伸びる。享楽に耽っているように言われてはいるが、ジュダの手は本物の武人の手だ。文字通り絹を裂く音を響かせて、布地を破く。
「……え?」
 あーあ、絶対あとでシェリダンに怒られるじゃないか。
 ロゼウスは驚きに力を抜いたジュダの隙をついて、その身体を思い切り吹っ飛ばした。

 ◆◆◆◆◆

 これでようやく全てが終わったと思っていた。
「やれやれ。さんざんな休暇だな」
「まったくですね」
 シェリダンの言葉に、顔色の悪いクルスが頷く。ジュダの方はリチャードが釘を刺したおかげでもう双子に手は出さないだろうし、ようやくこの城に来て落ち着けるようになったところだ。
「ローラとエチエンヌ、ちゃんと仲直りしたでしょうか?」
「したのではないか? リチャードか……そうだな、あのじゃじゃ馬娘あたりがせっついで」
 普段から仲の悪い兄妹ならともかく、ローラとエチエンヌはいつも不自然なほどにべたべたとしている。それがいきなり顔を見るのも嫌だと言わんばかりにお互いを避けるそぶりなどとられては、傍で見ている彼らの方が気になってしまう。
「僕は兄妹っていませんから、あの二人が仲良くしてるのを見てると、なんとなく微笑ましい気分になるんです」
「ああ、そういえばそうだったな」
 クルスはユージーン侯爵家秘蔵の一人っ子で、上にも下にも兄妹はいない。シェリダンとカミラは王族、それも異母兄妹ゆえにさほど親しくしたことはなかったし、リチャードと兄の関係は先述したようなものだ。身近で兄妹の話題と言うと、どうしてもあの双子のことを考えてしまう。
「ま、それも含めてロザリーがなんとかするだろう。ローゼンティア王家には、子どもが多いからな」
「ローゼンティアと言えば、そういえば……ローラの攻撃を浴びた王妃様のお加減はどうなんですか? 陛下」
「ロゼゥ……ロゼなら何でもない。大丈夫だ。あれはヴァンピルだから」
 正直、あのロゼウスがエチエンヌを庇うなど意外だった。ロゼウスは双子の内、姉であるローラの方に肩入れをしているように見えていた。もともとエチエンヌと彼との不和の原因の一つは間違いなくシェリダンが一月前に仕向けたあの陵辱があるのであろうし、それに対してどうこう言える立場でもないのだが。
「……って、何故私がそんなことを気にしなければならないんだ」
「陛下?」
「クルス、お前もロゼのことなど聞くな。あれは急所を刺されても死なないような化物だぞ? それに、我等に負けた国の王族の者など、奴隷以下の扱いで十分だ」
「シェリダン様、そんな言い方って」
「何か間違ったことを言っているか? 私は」
 滅ぼした国の王家の者を連れてくる。捕虜として、国民の命の保証と引き換えにロゼウスに自身を差し出させた。その目的はただ一つ。弄ぶためだ。シェリダンは他に妻を持たないことを対外的に遠回しに示すためにロゼウスを娶った。そして自らが征服した王国の民だから、好きなだけ責め苛むことができる。
 もともと、肉体的にも精神的にも傷つけるために連れてきた「花嫁」だ。
 何故今更になって、自分が彼のことなど気にかけねばならない。死んでないのだからそれでいいではないか。奴隷の分際で主人に心配をかけさせるなど、いい度胸……
 そこでシェリダンはふと気づいた。自身の中にありえない感情らしきものに。
 心配? 私がロゼウスを? 馬鹿な、そんな必要はない。そんなもの、あの男にはするだけ無駄なのに。
 だが、あの庭園でローラの放ったワイヤーに首筋や脇腹と言った急所を刺し貫かれたロゼウスを見たとき、心臓が止まりそうだった。
 ……違う。私は。
「……クルスお前、ローゼンティアを滅ぼしたことに罪悪感を持っているな」
「陛下……いいえ、そんな」
「誤魔化しても無駄だ。お前の性格などとうに知り尽くしている。だが、いくら隣国を滅ぼした罪悪感に追われているからと言って、ロゼやロザリーを気にかけることでそれから逃れようとすることはやめろ。お前のそれは、ただの偽善だ」
 偽善、と言い切られてクルスの顔が曇る。
シェリダンは自分の言っている事が間違っているとは思わない。だが、今ここで言うほどのことでもなかったはずだ。それでクルスの心情が楽になるというのなら、放っておいたところで何の問題もないはずの。
……わかっている。これはただの八つ当たりだ。シェリダンは自分の胸の内に潜む苛立ちを形を変えてクルスにぶつけることで、溜飲を下げようとしている。
 情けない。自分らしくない。
「すまない。言葉が過ぎた。先程のことは忘れろ……私も、今は調子が悪いんだ」
 ロゼウス、こんなことになるのも全てお前のせいだ。朝は平然としている様子を見たのに、彼は嘘が得意だからあの姿でさえ演技でないのかと今になっては思えてくる。
「調子が? 陛下? どこかお体の具合でも悪いのですか?」
「いや、そうではなく……」
 何故いきなりそっちに行くのか。多少天然入ったクルスの言葉に小さな脱力感を覚えながらも、シェリダンは長椅子の足元に跪いて熱を測ろうとする彼をそのままにしておく。
 と、控えめなノックと共に、正面の扉が開かれた。どこかこちらの様子を窺うような、少し躊躇うような間を置いて、金髪の双子が顔を覗かせる。
「陛下」
「シェリダン様」
「ローラ、エチエンヌ」
 目に見えてクルスが安堵した表情を見せる。シェリダンも同じ気分だった。どうやら、無事和解できたようだ。
 二人の背後から、リチャードとロザリーも顔を出した。
「どうやら落ち着いたようだな、ローラ」
「はい、その節はご迷惑をおかけしました……あの、陛下、王妃様はこちらではないのですか?」
「ロゼ? いや、元の部屋にいるはずだが、どうかしたのか?」
「お詫びを」
「それと僕からも一応……お礼を」
 ローラが小さく苦笑して、そっぽを向いた弟の顔を見遣る。なるほど、エチエンヌはロゼウスとの仲が良くないし、ローラはしたことがことだけに、一人で面と向かっては顔を合わせづらい。それで、二人揃って彼に会いにいくところらしい。
「私も部屋に戻るか」
「え?」
「陛下、やはり具合が」
「違う。……そうではなくてだな―――私も、あれに話があるんだ」
 実際は、話すことなどない。ロゼウスはどうやっても世間話以上のローゼンティアや王家の情報を話さないだろうし、いくら国民やロザリーを人質にとってもできることとできないことはあるだろう。シェリダンはただ慰み者として玩具として人形としてあれを抱く。それだけの関係であるはずだ。
 肌を重ねるだけでよかった。初めの目的はただそれだけだったはずなのに、今のこの虚しさは一体何なんだ。
 まるで硝子越しに手の届かない、綺麗な花を見ているように。
 透明な壁に阻まれる、この感覚がもどかしい。
「では、皆様行きましょうか」
 結局ぞろぞろと連れ立って部屋を出て、シェリダンとロゼウスに割り当てられた客室へと向かう。絨毯の敷かれた廊下を話すこともなく歩きながら、数部屋先でロザリーが顔色を変えた。
「何? なんか、もめてる?」
「ロザリー?」
 目的の部屋から争うような物音がするという彼女の言葉に全員が血相を変えて走り出した。扉を開こうとした直前、当のロザリーがシェリダンの腕を引いて背後に移動させた。エチエンヌがローラの頭を抱きかかえるようにして伏せる。
「どわぁっ!!」
 いまだかつて聞いたこともないような間抜けな悲鳴と破壊音と共に、部屋の扉が中から吹っ飛ばされた。より正確に言うなら、中から吹っ飛んできたものの衝撃で扉までが破壊されたのだ。
「イスカリオット伯?!」
 なんで城の主が客室の扉をぶち破って出てくるのか? 驚きに固まるシェリダンたちを尻目に、ずたぼろとなった彼は部屋の中へとどうにか視線を向けた。シェリダンたちも室内を覗きこんでその惨状を目撃する。
「このっ……、馬鹿伯爵!」
 暴言と共に、ティーポットがジュダの背後の壁に激突して割れた。誰にも当たりはしなかったものの、陶器が激突した端から欠片を通り越して、砂粒となるような勢いの良さだ。
「ロゼウス?」
 そこには、服の胸元が破られほとんど上半身裸となったロゼウスが鬼の形相で仁王立ちしていた。その手には椅子が握られている。
「ちょっ、待っ、さすがにそれは死にますって!」
 ぶつかった衝撃でどこか痛めたのか、身動きできないジュダが引きつった声を上げる。その彼にロゼウスが冷たく言い放つ。
「問答無用」
 お前ら一体何があった。
 あまりの事態にシェリダンもローラもエチエンヌもリチャードも呆然としてしまって声が出ない。ロザリーは愛する兄が夫の天敵である伯爵を撲殺しようと一向に構わないのだろう、平然としている。
 幸か不幸か、ロゼウスの動きを止めたのは呆然としたクルスの呟きだった。
「王妃様……男?」
 裸の胸の真っ平らなのを見つめて、彼はそう言った。ぴた、とロゼウスが動きを止める。シェリダンと双子、リチャードが頬を引きつらせる羽目になった。
 そういえば、ロゼウスが実はローゼンティアの王子、つまりは王妃という身分でありながら男であるということは、現在この国のトップシークレットだったのだ。シェリダンたちにとってはあまりにも当然のことだったので、すっかり忘れていたが。
「陛下?」
 クルスの氷点下の声が怖い。
「これは、一体どういうことですか?」


048

 これこれこういうことです、と説明されても、クルスは言葉が出ない様子だった。
「あー、まあ、ある意味物凄く納得しました」
 代わり、というわけでもないのだろうが、言葉を返したのは彼の隣に座ったジュダだった。あれから一体何があったのかをまず彼とロゼウス二人の口から説明させ、それから主にシェリダンとリチャードによってロゼウスの方の事情も説明した。それを聞き終えての第一声がそれである。
「いくらお飾りの王妃とはいえ、陛下が女性を求めるなんて青天の霹靂だと思っていましたが……これで、納得ですよ。よくもそんな小細工が弄せましたね」
「……ローゼンティアはエヴェルシードと違って、王の血をひく兄妹が多く、そのほとんどは国外には詳細を知られていないからな。誤魔化してもバレないと思ったんだ」
 エチエンヌの隣でシェリダンの身勝手な言葉を聞くロザリーの肩が怒りとか怒りとか怒りとかそういうものによって小刻みに震えているのだが、……気づかないふりをしよう。
「で、王妃様。いえ」
「ロゼウス、だ」
「そう、ロゼウス王子でしたね。あなたはこの状況に納得してるんですか? 本当に?」
「……まだ生きている国民が俺の意地なんかで虐殺されるのは困るし、自害もガラじゃないから」
 ロゼウスの答えは微妙なものだった。シェリダンについては何も言わず、ただ自分が彼を拒絶することでローゼンティアの生き残って今は植民地奴隷とされている国民までもが皆殺しにされるのは困るから、と。そして自分は、男に抱かれる、それも自国を滅ぼした侵略者の王の慰み者にされる程度で自殺を選ぶほど高潔でも初々しくもないのだと。
「ふん」
 ジュダがどこか不満げに鼻をならす。その横で説明が始まった辺りからずっと青い顔をしたクルスが、重ねて問いかけた。
「でも……伯の言葉じゃないんですけど、本当にいいのですか? ロゼ王妃、いえ、ロゼウス王子殿下。だって、女装して妃って……そんなことしなくても、捕虜としての扱いなら別に……」
 言っているうちに自分でも嫌になってきたのか、婉曲な表現を用いる内にわけがわからなくなってきたのかその両方か、クルスは中途半端なところで語尾を濁した。
 たぶん彼はこう言いたいのだと思う。敗残国の人質としての扱いなら、わざわざ女の振りをしてまで正妃につけなくたって、ただの捕虜でいいじゃないか。取引がある以上、シェリダンがロゼウスを抱くこと自体は、それが王妃であろうと捕虜であろうと変わらないのだろう、と。
 なのに何故、よりによって《王妃》なのか。
 なにしろこれでエヴェルシードは外交の駒を一つ失ったも同然だ。国王その人の結婚、それも若くて美しく文武に優れ、ローゼンティアを呆気ないほどたやすく攻め滅ぼしたその手腕からも有能さが窺えるシェリダンの花嫁候補なら、どんな遠方の権力者の娘だってどんな富に恵まれなおかつ艶麗な美姫だって望み放題だろうに。
 シェリダンはさっさと侵略した国の、どうでもいいような姫(実際は王子だけど)を妻にしてしまった。しかも正妃だ。身分的にはふさわしいのかもしれないしこれから新たな妻を迎える際側室に格下げすると言うこともできるが、彼がロゼウス以外の相手を全く側におかなくなったことを、彼らは知っている。
「それは」
 言いよどんだシェリダンが、次の瞬間厳しい顔つきで突き放す。
「……お前たちには、関係ない」
 クルスが傷ついた顔をした。拒絶されたように感じたのだろう。だが本当は違うのだと、ロゼウスはシェリダンの苦渋の顔つきから知った。
 それはクルスを傷つけさせまいとする気遣いなのだろうが、その距離の遠さこそが彼を傷つける。
クルスはどこまで知っているのだろうか。さきほどの説明を聞いただけで、シェリダンとロゼウスの関係をどこまで正しく理解したのだろうか。そしてジュダは、どこまでを。
 エチエンヌは、自分はなんとなくシェリダンの気持ちをわかっているつもりでいた。日常のふとした瞬間に彼が見せる孤独と虚無感から、その追い求めているものが何なのか、知っているような気がしていた。しかしそれを正確にシェリダン本人の口から聞いたことはないし、ロゼウスを王妃にしたのだって、ただ単純に女避けでさらには彼をいたく気にいったから、だと思っていた。
ここまで女装の似合う男で、ちょっと誤魔化すだけでその身分が変わらず高いままの相手もそういないだろう。全てにおいてロゼウスはきっと都合が良かったのだろうな、と。
 しかし本当は何かそれ以上の意味があるみたいで。
 エチエンヌはそれを知らない。ローラもクルスも。ジュダとリチャードは気づいているかもしれないが、この二人にシェリダンが自分から言うとは思えない。
 彼の口からそれについてはっきり聞いただろう相手は、たぶんロゼウスだけ。その考えに辿り着いた途端、焼け付くような嫉妬が胸を焦がす。
「エチエンヌ?」
「え? あ、はい!」
 自分の思考に没頭している間に、話が一段落したらしい。ぼーっとしていたエチエンヌに、シェリダンの怪訝な声がかけられた。
「……もう部屋の準備も整っているだろうし、ロゼウスと共に一度部屋に戻れ」
「はい。かしこまりました」
 どこをどういう運びでそうなったのかうっかり聞き逃してしまったが、とりあえずはそういう話になったらしい。エチエンヌはロゼウスの前に立ち、指示された部屋へと案内するのだ。ちなみに今まで使っていたのは広いイスカリオット城の数ある応接室のうちの一つで、部屋の準備が整うとは、先程ジュダと大喧嘩をしてロゼウスが破壊しまくった部屋の代わりを用意したということ。
 そういえば、という調子で扉に手をかけながらロゼウスが部屋の中に言葉を残していく。
「確かに俺はローゼンティアの人質で、取引によってエヴェルシード王の慰み者となることも承諾したけれど」
 それを向ける相手は、夫に当るシェリダンではなく、この城の城主であるジュダ。
 先程の出来事は、吸血鬼の王妃に興味を持った伯爵がロゼウスにちょっかいをかけに来て押し倒すところまではいったのだけれど、そのあと本性を発揮したロゼウスの返り討ちにあってああいう状態になった、と聞いている。ジュダの性格からしても間違いないだろう。
 ロゼウスは自分を無理矢理犯そうとした男に対し、動じた様子もなく平然と目を合わせながら、吐き捨てる。
「わざわざ契約外の男の相手まで、ご丁寧にしてやる気はない。それが、自分以外の相手を想ってることが確実な相手ならなおさら」
 何かのあてこすりなのか、いっそ酷薄なくらい嫣然と笑ってロゼウスが告げた瞬間、ジュダが表情を歪める。
 笑みとも怒面とも見えないようなその顔は、今までにエチエンヌが見たことのない表情だ。シェリダンとクルスも微かに驚いているような素振りを見せる。ただ、リチャードだけは何かに気づいたように、多少口元を震わせた。
「じゃ、いこっかエチエンヌ」
「え、ああ……はい」
 ロゼウスに促されて、エチエンヌも廊下に出て扉を閉めた。嬉しくもないことに知り尽くした城内だから、使用人から軽く聞いただけで新しい部屋の場所がわかる。そのまましばし無言で廊下を歩き、部屋の扉を開けて、エチエンヌはロゼウスの背中を見送る。
 彼は破られた服も、とっくに新しいものに着替えている。それは今までのようにドレスではなくて、どうにも紛らわしいからと、あとは主にクルスの精神衛生のために、体格の似ている彼の服を借りて男物を着ている。王子なのに王妃。王子だけど王妃。今日一番不幸なのは、間違いなく性倒錯の世界という未知の扉を開いてしまった若き侯爵だ。
 約二ヶ月ぶりにまともに王子様らしい格好をしたロゼウスは、部屋まで送ったのだからもういいだろうと下がろうとしたエチエンヌを、指でちょいちょいと手招きした。不審に思いながらもそれに従って部屋の中へ足を踏み入れ、彼の正面の長椅子に腰を下ろした。そうしろ、と言外に言われているのがわかったので。
「何の用?」
「単に、話がしたかっただけ」
 シェリダンや人目のないところでまで、エチエンヌはロゼウスに気を遣ってやる気はない。長椅子に座った途端態度を変えた彼のことを気にもとめず、ロゼウスはろくでもないことを言った。この道楽者の第四王子め。
 ……まあ、いいや。エチエンヌもこいつに、ちょっと聞きたいことがあったし。
「話って何?」
「イスカリオット伯はシェリダンが好きなんだ」
 気を遣う気がないのは向こうも同じことで、前置きもなくいきなり本題に入ってきた。それも驚くべき話に。
「は?」
 思わず間抜けな声を上げてしまった。ロゼウスは無表情よりもタチ悪く、何を考えているのかわからないいつもの表情で淡々と告げる。
「シェリダンが好きだから、俺を殺したかったんだよ。お前に辛く当るのも、お前に執着があるわけじゃない。お前がシェリダンの寵愛を受けているからだ」
 今現在その主の寵愛を受けているはずの相手からそう言われて、エチエンヌの思考は停止した。
 確かにジュダはシェリダンに執着している。でも、それは美しいものが好きなあの青年にはありがちなことで、協力と引き換えにジュダがシェリダンと体を重ねていることも知っていた。
 だがそこに、そんな感情が介在するなんて考えたこともなかった。いや、エチエンヌの中では、ジュダ=イスカリオット伯爵というのは誰をも愛さないような人間だったから。でも。
「だから俺は、あの男にだけは抱かれてやらない」
 薄氷を割るようなロゼウスの声に我に帰る。
「俺を抱くことで、本当に愛しているはずのシェリダンに嫉妬させたいなんて奴に、抱かれてなんかやるもんか」
 その、全てを凍えさせるような冷たい眼差し。
「……一つ、聞きたいことがある」
 ヴァンピルとはえたいの知れない生き物だと今まで思っていた。魔族のことなんてよくわからない。だけれど、その考えはロザリーを知って氷解した。
 わからないのは、吸血鬼じゃない。魔物なんかじゃない。こいつだ。
 ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。
 お前こそが、全ての謎なんだ。
「あの時、ローラのワイヤーは確実に急所を貫いていたはずだ。何故死なない? シェリダン様に一ヶ月前に刺されたときは死んだだろう?」
 目の前で見ていたのだからわかる。そしてずっと疑問だった。それに。
「シェリダン様以外の男の相手をする気がないなら、どうして、あの時、僕とリチャードさんには抱かれたんだ? あの時だってイスカリオット伯の時だって……本当は、シェリダン様とのことだって、嫌なら跳ね除けるだけの力が、いつだってお前にはあったんじゃないか?」
「質問、一つじゃないじゃないか」
「いいから、答えてよ」
 軽く睨むと、向こうが軽く肩をすくめた。
「最初の質問は、要は心構えが肝心、ってこと。ある程度受ける衝撃を予測していればその箇所に力を集中して耐える事ができる。予想もつかない不慮の衝撃には弱く、一時的に生命機能が停止する、これがヴァンピルの死」
 不意に受ける痛みにこそ、弱い。耐えられない。それは人間も同じだけれど、吸血鬼はさらにそのことに弱いらしい。そういえばローゼンティアは、目の前のロゼウスのように本来人間の何倍も丈夫な体と強い魔力を持っているくせにエヴェルシードの電光石火の猛攻に呆気なく負けたのだったと思い出す。
「後の方の質問は……まあ、イスカリオット伯はちょっと許容範囲外だけど、お前とかシェリダンに関してはそう……仕方がないかなっていう感じで」
「仕方がない?」
「お前は、俺が憎くて、痛めつけるためにシェリダンの命令に乗って俺を抱いたんだろう。イスカリオット伯は違う。俺を通して、シェリダンを、さらにシェリダンを通して、何かを見てるんだよあの男は。そんなのは御免だ」
 自分を見てもらえないならなんの意味もない、そう言い放つ。もしかしてこれが彼の傷なのか。
 眼前を何かが過ぎったと思う暇すらなく、鋭い爪が喉元に突きつけられている。
「お前を殺すのなんか、お前だろうとシェリダンだろうと、殺すのは本当は簡単なんだ」
 淡々とした、何の感情もこもっていない声音。だからこそ恐ろしい。
「でも、やらない。そんなことをしても何かの解決になるわけじゃないし、準備を十分にしない反乱は混乱を招くだけだと知っているから。だから、捕まっててやる」
 それは、いつかは逃げるという宣告なのか? 腕を引いたロゼウスの顔を見ながら、問いかけた。
「シェリダン様の事は?」
「ん?」
「陛下のことは、好きじゃないの?」
「……俺は、あいつを愛してなんか、ない。一生、好きにはならない」
「そんな」
 自分は何を言いたいのだろう。
 ロゼウスの言葉に、何を知りたいのだろう。
「そろそろ話すことも終わりだな」
 あっさりと言って、ロゼウスはエチエンヌを部屋から追い出そうとする。その服の裾を掴んで、一瞬だけ縋った。だけど続けられた言葉に、背筋が凍った。
「今日はもう、さよなら、可愛らしいお人形」
 あまりにも強い思いで、エチエンヌは自分自身をあの人に縛り付けて欲しかった。人形になりたがっていたのはエチエンヌの方で、ジュダやリチャードはそれに気づいていた。そしてこの男も。
 双子人形。エチエンヌもローラも、決してその呼称から逃れられない。だけど。
「心を持たないヴァンピルよりは、服従に徹した人形のほうがマシ」
 ロゼウスの眼が冷ややかになり、エチエンヌの手をやんわりと、けれど強い力で引き剥がした。扉の中と外で睨み合う。
「俺はたぶん、本当はお前もローラもリチャードもイスカリオット伯もユージーン候も、みんなみんな嫌いなんだと思う」
 そうか。それが、お前の、本当の本音なのか。
 嫌いだという相手にも平然と抱かれるこいつの真意なんて、これ以上一生知りたくない。あるいは本当に、ただの淫乱なのかもしれない。
「僕はやっぱり、お前なんか大嫌いだ」
 だからエチエンヌもこの男をずっとずっと、未来永劫嫌い続ける。

 ◆◆◆◆◆

「ま、とりあえず気が向いた時にでもまたいらしてくださいよ、陛下」
「もう二度と御免だ。ついでにお前はもう二度とロゼウスに近付くな」
「おや、嫉妬ですか? 可愛らしいですね。さすが思春期真っ最中の若者」
 からかうつもりでジュダが投げた言葉に、シェリダンは本気で顔を赤らめて言葉が出ない様子だった。ようやく自分を取り戻して何か否定の言葉を口にしようとしたようだが、もう遅い。
「はいはい。惚気はそこまでにして、そろそろ王城に戻らないと、バイロン宰相閣下が過保護のあまり軍隊引き連れてやってきてしまいますよ」
「…………お前が招待してきたんだろうが」
 何か言いたい事がいろいろあるのに飲み込んだような顔で、シェリダンはジュダを睨み付けてくる。
 帰城が決まった国王陛下御一行様を城主として送り出し、ジュダは城の離れの塔へと昇った。高い高い塔、そのうんざりするほど長い階段を上りながら、なんとか心を落ち着けようとする。
 しかし全て見抜かれていたようだ。
「彼らは帰ったんだね。イスカリオット伯爵」
「ええ。ドラクル殿下」
 白い肌、白い髪、紅い瞳。弟によく似た容貌の青年が窓際に設置された長椅子に座り、窓枠に頬杖をついてこちらへと視線を向けてくる。まるで囚われの美姫のような風情だが、真実囚われているのは彼ではなく、ジュダの方だ。
「帰ったの? ロゼ様も……」
「ええ。そうですよカミラ殿下」
 その彼の隣に座っていた少女も、ジュダのほうへと顔を向けてすぐに俯いた。エヴェルシード国王妹殿下、カミラ=ウェスト=エヴェルシード。
 彼女のことについて、あの王子は何かいいたげにしていたが、結局は何も聞いてこなかった。あれ以来ジュダの行動を警戒してシェリダンが彼をあの少年王妃に一歩も近付かせなかったということもある。それにロゼウスの方でも、状況が状況だから白昼夢だとでも思っていたのか、あるいは……
「それで、我が弟はどのような様子だった?」
「それなんですけどね、王子殿下」
 シェリダンたちがイスカリオット城を訪れている間は、念のためにとこの塔は封鎖していたし、ジュダもここに関してはなんら特別である素振りを見せなかった。だから彼らの誰も、今回この塔にいた、もう一組の客人たちには気づいていないはずだ。
「弟ってこと、わかってたんならちゃんと教えておいてくださいよ」
「ロゼウスのこと? でも普通そんなこと言わないものだろう?」
「この場合は言うものです」
「そうか。それはすまなかったね」
 まったくすまないと思っていなさそうな口調で、滅んだはずの隣国の第一王子は告げる。その人の良い笑みは、むしろわざとらしくて恐ろしい。
「ところでおふた方、私に隠れてこそこそと王妃様にお会いになられたようですが、一体何のおつもりですか? 返答如何によっては、私も身の振り方を考えねばなりませんが」
「別に、兄として弟の顔を見たいと思っちゃいけないのかい?」
「時と場合と手段を考えてください。どうしてカミラ殿下まで」
「彼女が行きたいって言ったからね。ロゼウスにどうしても会いたかったんだってさ」
 ちらりとドラクルに流し目で見られて、カミラが頬を染める。
「……私はただ、ロゼ様の元気なお姿を一目拝見できれば嬉しいと言っただけです」
 この少女はあの男が好きなのだ。
 彼女の兄の妻であり、ジュダが憎んでやまない王妃ロゼウスのことを。
 もともとは、彼女の望みが達成されればジュダはシェリダンを手に入れられると、そうすればお互いに好都合程度に思っていた。だけれど今、実際にあの王妃と……ローゼンティア第四王子ロゼウスと言葉を交わして以来、胸の奥に抜けない棘を打ち込まれたような気がしている。
 ――あなたはシェリダンが好きなんだな。
 ――彼が好きだから、俺を側から引き離したいんだ。俺だけじゃない、ローラも、エチエンヌも。あんたがあの二人に執着するのは、二人がまだあんたの興味をひくからじゃない。自分の手を離れた玩具が、自分の好きな相手に可愛がられていることが気にいらないんだ。ユージーン候だって……
 黙れ。
 誰も気づかなかった、今まで万全に隠し通してきた気持ちを言い当てた。あれほど、理由をつけては肌を合わせたシェリダン自身にだって、知られていなかったのに。
 ――ねぇ、ジュダ。愛しいものは……ちゃんと縛りつけておかなければ駄目よ?
 そうしたいですよ、叔母上。私はあの日、あなたの墓の前で勝手に死んで幸せになれと言った王子をこの手に入れたい。そのためならどんなことでもすると決めた。
 どんなことでも。誰を踏みつけにしても。
「……王子殿下、それで、首尾は?」
「皇帝領との連絡なら、ちゃんととりあっているよ? ハデス卿が上手くやってくれている。こちらの国のバートリ公爵も、うちのところのカラーシュ伯も頑張っているようだ」
「計画は順調、ということですか」
「うん。それに、そろそろルースを動かそうと思ってね」
「妹君を?」
「ああ」
 ローゼンティアを侵略したエヴェルシード。滅ぼされた国と滅ぼした国。なのに、彼らはこうして向かい合い、誰にも知られてはいけない話を続けている。
 全てを知り尽くしているかのような王子の紅い瞳が一瞬脳裏を過ぎった。
 だがロゼウスが何もかもを知っているわけではない。その証拠に、彼は誰よりも自分に近しいはずの、兄の思惑を全く知らないではないか。
「ローゼンティアはもうすぐ我が手中に入る。次は、カミラ姫のためにエヴェルシードをもらおうか」
 弟王子とよく似た顔で、彼はその弟よりもいっそう邪悪に笑う。
 エヴェルシードを自分のために、と言われて、カミラが陰惨に微笑んだ。この姫君のロゼウスへの淡い恋心は、シェリダンへの憎しみと表裏一体となって高められている。エヴェルシードを奪う事は、王になるということは、彼女にとっては兄を追い落としロゼウスを奪うことにも繋がるのだ。
 そのためなら、一度は彼女を追い落とす手伝いをしたはずのジュダと再び手を組むこともできる。そのためなら、兄が滅ぼした国の王子と結ぶことだってできるのだろう。
「さあ、そろそろ始めよう。地獄の遊戯を。暗黒の宴を。拒否権はないんだよ。私にも、ロゼウスにも、シェリダン王にも。この世に生れ落ちたその瞬間から、私たちは咎人なのだから」
 一体何が彼をそんなに駆り立てるのか、その、暗い憎しみ。小国ではあるが一国の第一王子、それも正妃の息子であり、紛うことなく王太子として生を受けた彼の、人生の一体何処に不満があるというのか。
 だけれど、そんなことジュダにとってはどうでもいい。情報としては入手しておくべきだが、この王子の感情までジュダが辿る必要はない。
 ジュダもドラクルも、カミラも。
 ただ、自分の望むものを追い求めるだけだ。この足元にどれだけの屍の山を築き、幾億の人々を不幸に突き落とそうとも、自分だけは幸せになる。
 その先にあの美しい王妃がいるのなら、排除するだけだ。
「始めましょう。両殿下。私の名はジュダ。――裏切り」
 成長期を過ぎると老化が止まるヴァンピルの常によって、実年齢は自分と同い年でありながら幼い容姿の隣国の王子を見つめながら、ジュダは口元で微笑む。
 
 さあ、はじめましょう、陛下。そして、第四王子殿下。
 これは裏切り者たちの、世界と真実へ挑む反逆――


 《続く》