038

「エチエンヌ! どうした!」
 廊下の向こうから歩いてきたのは、エチエンヌを抱きかかえたリチャードだった。シェリダンが慌てて二人に駆け寄り、ぐったりとしたエチエンヌの具合を見る。一見意識を失っているように見えたエチエンヌだが、こちらが思ったよりしっかりしているようだ。
「シェリダン様、ユージーン侯爵……」
「ジュダか」
「ええ」
「あのバカ娘は何をしている!」
 リチャードが世話したのか、着衣こそ整っているものの生気がなく、明らかに憔悴した様子のエチエンヌに何かがあったことは一目瞭然だ。シェリダンの怒りはジュダよりも先に、エチエンヌと共に行動するはずのロザリーへと向かう。
「僕が……自分で言ったんです。ついてくるなって。……たいした距離でもないから、大丈夫だろうと思ったんですが……」
 エチエンヌは初めて会った時からそうなのだが、自分が誰かに守られたり、弱く見えることをとても嫌がる。特に、女性に対してはいつも強気でいたいようだ。彼は双子の姉であるローラがいつもジュダに虐待されているのを間近で眺めさせられていたそうだから、無理もないこととは思うが。
 とにかく、彼は自分の問題に人を巻き込むことを極端に嫌うのは確かだ。
「怪我は?」
 クルスはシェリダンと同じくエチエンヌの元へ行って、その全身の様子を見た。服の上からなので細かい事は言えないが、特に大きな怪我をしているようには見えない。顔に青痣や手首に縛られた痕があるわけではなく、本当に短い間のできごとだったようだ。
「だい……じょうぶです。単に、ヤってそのまま……ですから」
 リチャードがその現場を押さえて、部屋へと運ぶところだったそうだ。ではエチエンヌがこうしてぐったりとしているのは、その、単に疲れたからということだろうか?
「……本当に、大丈夫だな?」
「はい。……僕も、もう昔みたいな……小さな子どもじゃありませんから」
 身体が大きくなってきたから、昔ほどにはそうした行為も負担ではない、というのだ。けれど、そうした負担と、強姦による精神的な傷は別のはずだ。
「そんな顔しないでくださいよ。ユージーン候」
 クルスは自分でも知らぬ間に、痛いのを堪えるような顔になっていたようだ。だが、本当にそういう顔をしたいのは、クルスではなくて。
「僕なら大丈夫ですから……それより、あなたも気をつけてください」
「わかっています」
 つい先ほどもシェリダンに注意されたばかりだ。
「それより、シェリダン様、こんな格好でなんなんですが、ちょっと二人きりでお話したい事があって」
「なんだ? ではリチャードに部屋の用意をさせるから、三人で――」
「いいえ!」
 エチエンヌは何かシェリダンに話したいことがあるらしく、リチャードに抱かれたまま身を乗り出して、彼の服の袖をつかむ。リチャードもジュダには及ばないまでも相当鍛えているからそのぐらいなんでもないのだが、あまりにも大きく身を乗り出したため体勢が崩れる。
 落ちそうになったエチエンヌの両腕をとって支えてやりながら、シェリダンが怪訝な顔をした。
「エチエンヌ?」
「あの……どうか、できれば二人で……というか、リチャードさんには外してもらいたいというか……」
「私、ですか?」
 エチエンヌを抱きかかえたまま、リチャードが困惑とも小さなショックともつかないような、微妙な顔をした。この二人は義理の兄弟にあたり、普段は仲が良いのに一体どうしたのか。
 クルスにはよくわからなかったのだが、シェリダンは何か思い当たる事があるようで、その言葉に目を細めた。
「……わかった。二人で話そう。リチャード、私の部屋に先に行って用意をしておいてくれ。エチエンヌのところにはまだロザリーがいるだろうからな」
「かしこまりました」
 いろいろと思うところはあるだろうに、出来た侍従は顔色を変えずに一つ頷くと、クルスたちよりも先にシェリダンへとあてられた部屋へ行き、準備を整えるようだ。
客人用に用意された部屋に何の準備か? とは言っても、シェリダンはこの国の王である。その人にいつ何時でも不都合がないように気を配るのは侍従の役目だ。さらに今回は、エチエンヌの着替えの用意などもするようだ。
 思わず腕を伸ばしたシェリダンを遮り、クルスはリチャードからエチエンヌの華奢な身体を受け取った。しがみついてきた彼の腕をしっかりと抱えなおす傍ら、シェリダンが尋ねる。
「向こうに行ったらまず湯を使うか?」
「……はい」
 リチャードのことだから、何も言わなくとも気を利かせてそれぐらいのことはすでに準備しているだろう。
 エチエンヌは軽く頬を赤らめた後、小さな声で頷いた。見ているこちらが申し訳なるくらい、ばつの悪い様子だ。下半身を気にする様子を見せないようにはしていても、弛緩しきっていた足に多少力が込められたのがわかった。
 クルスはふと、以前ジュダに決闘で負けて、危うく暴行までされそうだったときのことを思い出した。ジュダのやり方はその気でさえなければ乱暴ということはないが、とにかく基本的な腕力が違う。クルスでさえまだ彼と純粋な腕力で渡り合う事はできない。エチエンヌも常々鍛えてはいるが、元々麻薬漬けの影響で十五歳なのに十二歳ぐらいにしか発育していないので、どうしても力では敵わない。今だって、それほど体格のよくないクルスにさえ軽々と抱きかかえることができるぐらいだ。
 それにエチエンヌは、クルスよりもよほど、ジュダ相手にはトラウマがある。
 ジュダは優しくない。
 クルスはそれを知っている、彼がどんなに微笑んでいても、クルスにはそれを信じられない。シェリダンもジュダの笑顔は胡散臭いとは言うのだが、本気で乱暴になったジュダからそのように扱われたことはないという。
 それはシェリダンがエヴェルシード王、であるからなのか?
 それともあの何も求めず何も望まない虚無伯爵イスカリオットにとって、シェリダンという少年だけが特別なのか。
 クルスにはわからない。ただ、覚えているだけだ。
 五年前、十四歳のいつかの日。
 王城の中庭でたまたま出会ったジュダに決闘を申し込んだ。クルスはとにかく強くなりたかったので、強そうとだ思える人物にはとりあえず決闘を申し込んでいたのだ。とは言ってもエヴェルシードの決闘は本気で命を懸けたものではなく、軍の遠征の最中、暇つぶしにと兵士が始めたもので、真剣な意味での決闘からはまたそれた、模擬試合のようなものを指す。だから大抵懸けるのも名誉ではなく金銭で、一種のゲームとして扱う場合もある。
『私と決闘、ね。ではユージーン侯爵子息、あなたが勝ったら、私はあなたのお好きなものをなんでも譲りましょう。その代わり私が勝ったら、あなた自身をいただくことにでもしましょうか』
 そう言ったジュダの言葉の意味などその時はまだ知らず、クルスは賭けの内容もよくわからないまま負けて、その場で、決闘をしていた中庭でそのまま押し倒された。
『な、何をするんですか? イスカリオット伯! や、やめてください!!』
『言ったでしょう。私が勝ったら、あなたをもらう、と』
 クルスの上にのしかかり、器用に服のボタンを外し上着の中へと差し入れられた手のひら。肌を撫でるその感触は蛇に這いまわられる不快感にも似ていて。ジュダの右手が上だけでは飽き足らず、ズボンを脱がすように腰へとかけられたときにはクルスは自分の立場も年齢も忘れて泣き出していた……。
『嫌だ! 助けて! 誰かぁ!!』
 あの時、駆けつけてきたのが父だったからなんとかなったようなものだ。これがジュダの私兵だったらどうなったものか。
 あの後しばらく、クルスはシェリダンのような年下で華奢な子ども相手にしか、男と顔を合わせられない時期が続いた。
 決闘の際に激しい一撃で肋骨の折れて動けないクルスの体を好きにまさぐっていたジュダの、得物を飲み込む獰猛な獣のような瞳は忘れられない。
『破るんですか? 約束を』
 助けに来てくれた兵士の言葉から事が発覚し、クロノスに責められた後ですらジュダはそう言って笑みを浮かべていた。
 クルスは、あの時の決闘の賞品をまだ払っていない。だからあの結果はまだ宙ぶらりんになっている。
 けれど、あの伯爵に対して、クルスのようなものが、一体何を支払えるというのだろう。ジュダは何を手にしたって、その身の内に飼う虚無から逃れられはしないのに。
 思わず考え込んでいたクルスの耳に、ふいにシェリダンの言葉が滑り込んだ。
「エチエンヌ。お前が話したいこととは、ローラのことだな」
「はい、そうです」
 エチエンヌは、ゆっくりと、そしてしっかりと頷いた。

 ◆◆◆◆◆

 一年ほど前、ローラは数ヶ月の間、行方不明になったことがある。
『ねぇ、ローラ』
『なぁに? エチエンヌ』
『最近太った?』
 ……こんな会話の後だったから、ただ単に拗ねてエチエンヌと顔を合わせないようにしているだけだと思っていたのだが。
『エチエンヌ、ローラを見かけませんでしたか?』
『どうしたんですか? リチャードさん』
『部屋に帰ってこないんです。もしかして、何かあったんじゃあ――』
 シェリダンの命令によって娶った割には、リチャードはローラを大事にしている。少なくとも、他者の目にはそう見えていた。そのリチャードが、数日前からローラが帰ってこないと言ってきた。元々ローラはリチャードが好きではなくて、時々ふらりとエチエンヌの部屋に逃げ込んだりしてきていたから、リチャードも二、三日は放っておいたらしいのだが。
 その時ばかりはエチエンヌのところに家出ならぬ部屋出してきているわけではなかった。念のため普段はさほど親しくしていない顔見知りにも声をかけたが、誰も知らないと言う。エチエンヌとリチャードは大慌てで、とにかくシェリダンに報告して、物凄く怒られて、シェリダンも心当たりがないらしく城内を隅々まで探させたけれど見つからなかった。挙句の果てには、シェリダンに絶対の忠誠を誓っているけれどローラとも顔見知りだから、何かあったら彼女が頼ることがあるんじゃないかと考えられる貴族、クルスにまで連絡してみたがやはり見つからなかった。
 エチエンヌは泣いたし、リチャードも目に見えて気落ちしていた。シェリダンも時々苦悩するような表情をすることを知っていた。
 それから半年近く経って、ローラはようやく城に帰って来た。
 誰にも行く先も目的も言わず神隠しのように消えてしまった彼女に対して、けれど人々の反応は暖かかった。帰って来たローラは、城を出る前と比べて少しやつれているのがわかった。ローラはリチャードを愛してはいないけれど、それを我慢して側に仕えるぐらいシェリダンのことが好きだから、誰か他の男と駆け落ちしたとか、そういう噂だけはない。
『ローラのバカバカ! 僕をおいてくなんて!』
 まだ少し顔色の悪い、双子の姉が笑う。
『……ごめんね。エチエンヌ』
 エチエンヌを抱きしめて肩に顔を埋めて、その身体が小刻みに震えていた。
『……ローラ?』
『……私も』
 私も、あんたのように、男だったらよかったのに。
 姉の涙の理由が、エチエンヌにはわからなかった。わからなかったけれど。
「あの時、ローラはこの城に……イスカリオット伯の元にいたそうです」
 お茶の用意された席で向かい合う。これだけの言葉で十分だった。すぐにエチエンヌの言わんとするところを察して、シェリダンが顔色を変える。
「何? だが、ローラが進んでこの城へ来るなどと」
「僕もそう思っていたんですけれど、でもイスカリオット伯が」
 あの伯爵は確かに言った。
『ローラは半年ほど前にここに少しいた』
 ローラが城から姿を消したのが一年前。帰って来たのが半年前。ジュダは少し、と言っていたが、もしかしてその六ヶ月間、ずっとこの城にローラはいたというのか。
 何のために?
 エチエンヌもシェリダンも押し黙って、そのことを考える。ローラがこの城にいたこと自体は、不思議だがありえないことではない。今から五年前、その時から四年前には暮らしていた城。ジュダの奴隷として生活していたし、もちろん城主は伯のまま変わっていないから、関係もさほど変わっていない。だからローラが何故ここに来られたか? というのは問題ではないのだ。問題なのは、何故、よりにもよってここに彼女が来たのか? ということだ。
 この傷しか残らない城に。
 ジュダに虐待されていた一年間は、まさに地獄だった。エチエンヌだって、ローラだってもちろん、ここに二度と来たいなどとは思わなかったはずなのに。
 それでも何故か、ローラは理由不明の家出先にこの城を選んだのだ。
 ジュダが嘘を言っているわけではないだろう。そんなすぐにバレる嘘を。何より、あの時シェリダンはジュダの余計な横槍を警戒して、クルスには教えたローラ失踪の情報を他の誰にも告げていなかったはずなのだ。どこかから情報が漏れたと言う事も考えられるが、ローラの身分は奴隷で、役職は侍女。たかだか奴隷女の動向にさほど注意を払う間諜もいないだろうと思う。
「……たぶん、本当のこと、なんだろうな」
「ええ」
「だが、何故だ? 何故ローラはよりにもよって、この城に……」
 あの頃、確かにローラの様子は少しおかしかった。けれど女の人にはよくあることだし、エチエンヌもシェリダンも、夫であるリチャードでさえ、よく考えずに見過ごしていた。その分ローラがいなくなってから一番自分を責め、恐慌状態になったのはリチャードだった。明らかに錯乱している彼を、その言葉通りローラの捜索に城下に出すわけにもいかず、エチエンヌとシェリダンは必死で止めたのだが。
 あの時、姉に何があったのだろうか。帰ってきてからエチエンヌを抱きしめて泣いたのは、どうしてか。忌まわしい記憶と傷を植えつけただけのジュダを頼ってまで、彼女は何をしたかったのか。
「……同じ女である、ロザリーにでも探らせるか?」
 シェリダンはやはり放っておけないらしく、出し抜けにそんなことを言い出した。
「無理ですよ。そんなの。ローラが自分から話すならともかく、あの時いなかったロザリーがそんな話をしたら、僕らのスパイだってすぐに疑ってますます警戒を強めちゃいますよ」
 ローラはそういった性格だ。今はいつでもにこにことしているけれど、昔は無表情で、感情のないような子どもだったローラ。続く虐待に身体は慣れてきても心のほうが耐えられず、静かに狂い始めていった。
 エチエンヌはその場にいたわけではないが、彼女はシェリダンを殺そうとしたこともあるのだという。エチエンヌが今までの生活から一変、まったく別の環境で四苦八苦しながらもシェリダンやリチャードの厚意に甘えてどことなくふわふわとした幸せを感じていた頃も、ローラはそれまでの憎しみを忘れずに募らせていたのだと。
 エチエンヌとローラはそっくりだけれど、二人はやっぱり別々の人間だから、エチエンヌにはローラの考えていることがさっぱりわからない。今も昔も。
「お前はどう考えている。エチエンヌ。ローラのこと、何があったか問いただしておくべきだと思うか?」
「僕は……」
 返答に詰まった。自分はどっちなのだろう。ローラのことを思うならそっとしておいてあげるべきなのかもしれないが、何かまずいことに関わっているならやめさせるためにも事情を知らなければいけないかもしれない。どっちがいいのだろう。わからない。わからない。
「ローラに、直接聞かないと無理な気がします」
「でも答えないだろう、あれは?」
 確かにそうだ。
「でも、イスカリオット伯に関わるのは……」
「それは私がやる。お前たちは心配するな。この訪問が終ったら、もう二度と、お前たちをあの男に会わせないようにしよう」
「シェリダン様」
「大丈夫だ、エチエンヌ」
 ジュダは何故か、シェリダンにだけは無体をしない。こんなに美しいシェリダンにあの男が手を出さないなんてことがあるわけないし、二人が身体を重ねたことがあることもエチエンヌは知っている。けれど、エチエンヌとローラがされたような乱暴なことは、されていないらしい。
 それがシェリダンがエヴェルシードの王であるからなのか、もっと別の理由があるからなのかまでは知らない。
「……僕の命も、ローラの命も、あなたのものです」
「エチエンヌ」
「ローラもそう言うと思います。例え何があったって、あなたの命令なら聞けないわけがありません。ですから」
 シェリダンは押し黙る。
「あなたの、お好きなようになさってください」


039

 嫌いだと言われて、はいそうですかと頷いたまでは良いものの、だからと言って一応今回は彼女の護衛の役目も言いつけられた自分が、さっさとローラの側から離れるわけにもいかない。
「俺のことを嫌いなのはわかるけど、とりあえず近くには、いてくれ。それが今回の俺の仕事だから」
 サディスティックな夫との夜伽の方がある意味重労働かもしれない、今回のロゼウスの仕事。ローラは彼女自身かなりの使い手だという話だが、実際にその腕前を見せてもらったことはない。それに、ロゼウスは半分以上、自分からその役目を言い出したのだから。
「わかっていますわ」
 嫌々と言った様子で、ローラが頷く。ジュダが苦手なローラ。それに、ロゼウスと行動を共にして守られると言う事がシェリダン直々に下した命令なのだから、シェリダンに心酔しているローラがそれを拒めるはずはない。
 お互い何を思っていようが関係ない。だから後は、ロゼウスがローラを守ればいいだけの話だ。
 ジュダがどれほどの実力者かは知らないが、ロゼウスは並の相手に負ける気はしない。シェリダンたちエヴェルシード軍にローゼンティアに攻め込まれた時はどうやら内部に内通者がいたらしく、ヴァンピルの弱点がことごとくバレていたけれど、その時の進軍に確かイスカリオット伯爵ジュダの名はなかったはずだ。
 とにかく、最初にシェリダンに負けた時と違って、今度は準備万端だ。
 針で指先を傷つけたローラが人差し指を差し出した。ロゼウスはその指先をゆっくりと口に含んで、馨しい鉄錆の味を堪能する。
 血。血液。
 全ての動物の生命の源であり、吸血鬼の主食にして麻薬。ヴァンピルに力を与え、その理性を狂わせる禁断の蜜。
「これでいいんですか?」
「ああ、十分」
 一滴の血で、吸血鬼の力は増す。後は理性を制御する薔薇の花びらを噛んで、ロゼウスは自らの状態を整える。
 血をもらうために含んだ指先を解放すると、間近で見た小柄な少女は、眉根を寄せて苦しげな顔をしていた。
「どうしたの?」
「……いいえ。なんでもないです」
「さっきの話? ローラが俺を嫌いだって言う?」
「……ええ」
 ふう、と小さく溜め息ついて、ローラはようやく頷いた。
「ロゼウス様、私にはあなたがわかりません。何故、そんなに落ち着いていられるんですか?」
「何故、と言われても」
「私はあなたの夫を慕っていると言っているんですよ」
 横恋慕を堂々と宣言して、ローラがくしゃりと顔を歪める。でも。
「だって俺は、シェリダンを愛しているから妻になったわけじゃ、ないから」
 ローゼンティア国民の命を守るため、仕方なくシェリダンの命令を聞いただけで。
 けれど次にローラが言ってきたのは、予想もしていなかった言葉だ。
「あなたの言う事は、全て本当に重さを伴った言葉なんですか?」
「……どういう意味?」
「ロゼ王妃、いいえ、ロゼウス王子殿下。私には……あなたが口で言うほど、ローゼンティアの民を気にかけているようには見えません」
 寝台に戻ろうとしたロゼウスは、足を止めて振り返り、子どもの姿の侍女を眺めた。
「シェリダン様もエチエンヌもまだ気づいていないけれど、あなたの言葉を聞いていると、私はわからなくなります。あなたは一体、いつも何を考えて生きていらっしゃるのか。兄妹は生き返ったらしいですけれど、ご両親は侵略の際に殺されて、それきりなのでしょう? 何故、もっとシェリダン様を憎まないの? 何故、私などに優しくするの? 何故……」
 何故、もっともっとシェリダンを、彼の治めるこのエヴェルシードの全てを憎まないのか、と。ローラがそう問いかけてくる。
「俺って、そんなに変?」
「ええ。変です」
 ああ、そうか。変なのか。
 昔から少しおかしいと言われていたけれど、自分の異常さなんて、自分ではわからないものだ。試しに聞いてみると、打てば響くような答が返ってくる。
 ロゼウスは結局、ローラのこういうところが好きなのだ。はっきり見たわけではないけれど、彼女が見た目より、普段のはつらつとした笑顔より内面はもっとどろどろとした澱のような少女だとなんとなくわかっている。
 エチエンヌのようにあからさまな敵意を向けてくるわけではない。ロゼウスに対してはいつも穏やかな態度を崩さなかったローラ。そのくせ、ロゼウスのことを嫌いだと言う。
 でも俺はそれなりにローラのことを気にいっているよ。一方通行だけど、好ましいと思っている。こういうのは変だって、言われることだけは知っているけれど。
「……わかんない」
「え?」
「わかんないんだ。自分がどうしてそんな変なのか。こういうとき、俺は一体どうすればいいのか。確かに父上も母上も、第二王妃と第三王妃もそれ以外の王族も殺されて、俺の兄妹のみんな以外は生き返れもしなかったみたいだけれど、でも仕方ないじゃないか」
 兄上に繰り返し繰り返し言い聞かせられた。
 この世は所詮弱肉強食だから、強い者が勝つ。喰われる側になりたくなければ、死に物狂いで強くなるしかないのだと。
「この世は強い者が勝つんだから、弱くて負けた者が何を言っても仕方ない」
 だから父上と母上が殺されても、仕方がなかった。
「……ロザリー様が泣きますよ」
「うん、知ってる。でも、どうしてなのかがわかんない」
 感情の起伏の激しい妹は、同じ状況だったら盛大に泣くのだろう。実際、ロザリーと女同士すぐに仲良くなったローラがたびたび報告してくれた。まだエヴェルシードに来て幾ばくも経っていないのに、毎晩のように泣いているロザリーのことを。
 だがロゼウスにはわからない。何がそんなに悲しいのか。
 確かに父も母も死んでしまってローゼンティアはエヴェルシードの属国にされてしまったけれど、国民の大半は生きているし、それに。
 ドラクル兄上だってまだ生きてる。
 それさえ確かなら、ロゼウスは何があったって構いはしない。ロゼウスがエヴェルシードに来て、こうしてシェリダンの奴隷と化してまで民の命を守るのも、いずれはドラクルが継ぐはずの国を、できるだけ元の形で残しておきたいからだ。そしてドラクルならば、今すぐとは言わずともいずれきっと、吸血鬼王国ローゼンティアの解放と再興を成すだろう。
 ロゼウスはそれまで適当にシェリダンの機嫌をとりながら、ただそれを待っていればいい。
「あなたにはまるで、人らしい感情が抜け落ちているのね」
「そう?」
「そう。だから、恋敵にあたるはずの私のことも、こうして平然と守るなんて言えるのよ」
 そうなのかも、しれない。
 だって俺は第四王子だから。第三王子までに何か不幸でもないと継承権に全く関係のない、いくらでも使い捨てのきく駒だから。ずっと兄にそう言われて育ってきたのだ。ドラクルが甦った今、その身代わり駒がたいして重要な役目を持つ必要もない。
 そして駒に、分不相応な感情などいらない。
「だって俺は……君みたいにシェリダンを本気で好きなわけじゃないから」
 俺が愛してるのは兄様だけ。
 だから彼が誰に愛されようが誰を愛そうが構わない。ロゼウスの彼との接点は、せいぜい共犯者であると言う事ぐらいだ。
 共犯者。その言葉を思い浮かべると、いつも同時に一人の少女の面影が浮かぶ。今目の前にいる冷静沈着で肉食獣のように強かなローラではなく、鮮やかな花であり、熱く燃える情熱の炎であったカミラ。
 彼女を共に傷つけたことだけが、ロゼウスとシェリダンの国を介さない唯一の絆だ。
 それ以上は必要ない。
「……愚かな人たち」
 誰と誰のことを言っているのか、ローラがまたしてもひとつ、嘆息する。
「ローラは?」
「何ですか?」
「じゃあ、ローラは愚かではないの?」
 ドラクルは、この世の生き物は、皆道化なのだと笑っていた。彼自身もロゼウスもみんな気ちがいなのだと。
 では目の前の少女はどうなのか。ロゼウスは離した距離をもう一度詰めてローラの前に立ち、その腹部へと手を伸ばす。指先をすっと下方に滑らせて、スカートの上から際どい部分に指を当てる。
「ここで人を殺したね、昔」
 ローラの深い悲しみは、彼女が絶えず弄ぶ刺繍針のチクチクとしたリズムでロゼウスを刺激する。
「……ええ」
 その通りです、と。ローラが小さく頷いて目を閉じた。

 ◆◆◆◆◆

 寝台の上で寝るのは苦手だ。余計なことを思い出す。
 そう考えて、いや、すぐに違うなと気づく。寝台の上でなんて枕詞は要らない。自分はただ、眠るのが苦手なのだ。寝台の上で柔らかな毛布を被り安らかな眠りを享受するだなんて、今の自分にはどんなに望んでも叶わない望みだから。
 けれどでは全く眠らないでいるというわけにもいかなくて、当然この脆弱な人の体は睡眠をとらねば呆気なく死ぬ。だから彼はこうして長椅子に寝そべるか、でなければ引っ張りこんだ奴隷や召し使いにさんざん腰を振らせて疲れきるまで淫らな遊興に耽るかのどちらかしかない。
「まあ、今日は久々に楽しませてもらったけど、ね」
 先程廊下で犯した金髪の美しい少年の、のけぞった白い喉と喘ぎ声を反芻する。五年前さんざん薬漬けで仕込んだおかげで、実年齢の割に外見が幼い。このエヴェルシードからは遠く離れたシルヴァーニから連れてきた双子人形の片割れ。
 興味深い性格をしているのはローラのほうだが、踏みにじってやりたくなるのはエチエンヌの方だ。数年前に一度、王宮で無理強いをしたときにはもっと慣れた体だったのに今回は少し無沙汰をしていたのか、久々と言った顔をしていた。
「陛下は僕が丹精してやったあの人形を抱いていないのか……」
 瞼裏にただ一人の面影が浮かぶ。二ヶ月ほど前、即位直後に先王を幽閉し、見事この国の玉座を勝ち取った少年王。海底の底の闇を掬い上げたような藍色の髪と、燃える炎を閉じ込めたような朱金の瞳。
 我が愛しい主君、シェリダン様。
 彼がローラに手をつけないということはわかっている。シェリダンは同性愛者だ。幼い頃から母の身代わりに実父に性的虐待を受け、さらにその母自身が父王に無理矢理連れ攫われた下町の娘であるシェリダンは、女性に乱暴する事ができない。殺すだけならできるだろうが、抱くことも犯すことも責め苛むこともできないはずだ。そして何よりも、孕ませることを酷く忌避する。
 だから当分は浮いた話など全くないだろうと高をくくっていたのに、まさかあんな《花嫁》を侵略先から手に入れて戻ってくるとは予想外だった。
 脳裏に、完璧な美貌の少年王の隣に寄り添う、完璧な美貌の少女の姿が浮かんでくる。
「ローゼンティアのロゼ王女、ね。あの国に、そんな名前の王女がいたっけ? ああ、でもロゼは単にローゼンティアの姫君という意味にもとれるから、あながちそれが本名というわけではないのか」
 そう、全く予想外だった。あの王女。
 シェリダンに吊りあうほど美しい女性などいるはずないと思っていたら、目と鼻の先にある隣国に意外な伏兵があったものだ。
「王の妻、か……確かに姿形は美しかったけれど、あれらの姫君は二人とも、良家のお嬢様という感じはしなかったのにね」
 それとも、やはり生まれはただの生まれであり、その人の人格を形成するに大きな影響を及ぼすものではないというのか?
 寄り添う国王夫妻の姿は水泡のように弾け、代わりに一人の女性の姿が浮かぶ。その人は吸血鬼の王女たちのように白髪も真紅の瞳も持っていないし、美の国と謳われるシルヴァーニの民のように晴れやかな金髪と緑の瞳もしていない。蒼い髪に橙色の典型的なエヴェルシード人で、顔立ちだってそんなに派手な美しさとは無縁だ。
 叔母上。
 父の妹であった人は、今ジュダの周りにいる尊き血筋の方々とは全く違って、とくに目立ったところのない人だった。イスカリオット公爵家という、エヴェルシードの名門貴族にたまたま生まれ、たまたま当主の妹であった人。人が見ればただそれだけ。
 イスカリオットの狂気に飲まれて散った女性。
 長椅子に寝そべり頭の後ろで手を組んでジュダは彼女のことを思い出す。開け放した窓より、薄曇の庭からは季節の花が悲しげに清い香りを届けてくる。
 先代イスカリオット公爵、ジュダの父は傲慢な人間であった。そもそも軍事国家であるエヴェルシードでは、強い者が勝つのが当然という考えがある。そして、男尊女卑思考が強い。女性より男性が優れているのなんて、一般的に体格や腕力等純粋な肉体的力の差ぐらいであろうに、異様に女性を軽視したがる傾向がこの国にはまだ、病のように蔓延している。
 ジュダの叔母は、そのような思考の犠牲となった者の一人だった。
 父は傲慢な人間であった。叔母は妹として、イスカリオット家の人間として、その当主である傲慢な兄についていかざるを得なかった。国で一、二を争う富を蓄えておきながらまだ財力と軍備の拡張に野心を燃やす父は、叔母に政略結婚をさせた。
 その相手もまた、名門イスカリオット家の爵位が目当ての、底の浅い愚鈍な貴族だった。結果的に富は増えたが、叔母の放り込まれた環境は間違っても幸せとは言いがたかった。挙句、たった二年で夫婦は破局を迎えようとした。それを止めたのが傲慢なるイスカリオット公爵、ジュダの父だ。結婚生活はそれからさらに八年を経て、けれど結局はそこで途絶えた。
 叔母は父とは歳の離れた妹だった。叔母が離縁して公爵家に帰って来た頃、ジュダはすでに十八歳。父は三十八歳だったが、叔母はまだ二十六。兄である父よりも、甥に当るジュダとの年齢の方が近かった。美しいとは言いがたいが、若く貞淑で物静かな人だった。
 十六から十年の結婚生活で彼女が得たのは、八歳になる息子一人。彼の親権については離婚先とさんざんもめた末に、結局は叔母に連れられてイスカリオット方で引き取る事が決まった。
 それからの二年間は、彼女にとっては地獄のような日々だっただろう。当主である兄、ジュダの父から毎日のようにいびられ、責められ続けていた。離婚の原因は相手先が兄の機嫌をとりながらも彼女を軽んじ、挙句の果てには暴力を振るったからであるのに、あの男ときたら。
 いくら陰湿な策謀で取り繕おうとしても、父の無能はとうてい隠しようがない。しかも自らのことは棚に上げて安月給でこき使う召し使いらを虐げ、離縁について何の責もない叔母にあたる姿を見ていて、ジュダはますます父を疎ましく思うようになった。
 あと二年。もうすぐ。
 せめて自分がこの公爵家の当主となれば。
 全ては変わると思った。自分は叔母を迫害などしない。叔母もその息子も公爵家の者として恥ずかしくないよう、立派に後見を努めてみせる。自分には二人に対する愛情があるのだから。
 思っていたジュダの幼さごと、今は粉微塵に打ち砕かれてしまったが。
 彼は自嘲する。
 どんなに手を伸ばしても届かないものを思うのは、苦しくて狂おしくて時々快感だ。
 王城シアンスレイトにはとても届かないが他の貴族の城に比べれば格段に贅を凝らしたイスカリオット城の中庭で、ジュダは来る日も来る日も孤独な母子の姿を眺めていた。時折叔母や甥が気づいて、手を振ってジュダを四阿へ迎えいれてつれづれに話をする。
 ジュダはその時間が好きだった。あの日々があれば、いつか公爵位を継いで戦へと出るときも全く恐ろしくなどないと思えるほど。父は剣が苦手で内政も無能の愚者であったから、せめて息子である彼はと幼い頃から文武の鍛錬に励んだ。
 その合間に中庭を訪れて、叔母と甥と何気ない会話をして笑い合って。
 今となってはもはや夢のような日々。
「イスカリオット伯」
 名を呼ばれて瞳を開けると、長椅子に横たわっていたジュダを一人の少女が覗き込んでいる。別段驚くことでもない。人の気配が近付いてきているのも、それが彼女であることも知っていた。
「カミラ殿下。こんなところを出歩いて、今は危険ですよ? 何しろ王宮の皆様がお着きになりましたからね」
「知っているわ。だからこそ、よ」
「揺さぶりをかけるのですね」
「ええ」
「では、存分に。健闘をお祈りいたします」
 まだ、この少女は踊る必要がある。その手はパートナーを求め、あらゆる人々を踊りの輪の中に招き入れる。ジュダは、その舞台を整える。
 愛しい人の手を今度こそ、間違わずにとるために。


040

 また、あの夢か。
 眠りに堕ちてすぐさま、見慣れた男の姿を目にしてロゼウスは正直、溜め息をつきたい気持ちになった。ここが夢の中でなかったら間違いなくそうしているところだ。いや、もうすでに心情としてはしっかり溜め息をついているところだった。
 あれ以来時々見る夢。
 地下室に納められた薄青い硝子の柩の夢。
 そこに出てくるのは、白銀の髪を長くのばした青年と、柩に眠る、どうやらシェリダンらしき少年。
 繰り返し繰り返しその光景を夢に見る。その夢に出てくる青年は自分ではないか、という疑惑は今も晴れない。だけれど、だからこそ夢の光景は信じがたい。
 それでもその夢はもはやこうして生活の一部となるほどにすんなりとロゼウスの中に納まってしまった。ああ、またか。そう思えるくらいには、あの光景に慣れた。
 あの美しく幻想的な、そして物悲しい光景に。
 けれど今日は、いつものその夢とは景色が違った。
 薄暗い地下室ではなく、眼下に広がるのは拾い謁見の間だ。何十人もの人間が跪いて頭を垂れて並んでいる。眼下、と言ったのは言葉通りそれが、自分よりも低い位置にある光景だったからだ。つまり、その視点は彼らが仰ぎ奉る先の玉座からのものだった。
 まるで王のようだと考えて、すぐに違う、とどこかが叫ぶ。
 違う。いくら謁見の間だって、こんなに広いはずはない。
 ロゼウスは謁見の間を二つ知っている。城と名のつく建物は幾つもあるが、その中でも謁見室をそれとして使用しているのは、国王の住まう王城だけのはずだ。国内に城砦が王城だけしかないローゼンティアはもちろん、エヴェルシードでもそうであると、確かリチャード辺りが教えてくれたのだった。
 しかし、ロゼウスの知っている謁見の間はどこもこんなに広くはない。ローゼンティア城もシアンスレイト城もそうだ。こんな、小さな通り一つ丸々納められそうなほど広い謁見の間など、ロゼウスは知らない。
 だからこの視点は王のものじゃない。そう考えて、では誰のものだろうとロゼウスは首を傾げる。
『陛下』
 だけれど答を得る前に、涼やかな声をかけられた。涼やかでそれでいてどこか甘い、砂糖菓子のような声だと思う。
 そしてロゼウスは、それに良く似た声を知っていた。
(ローラ?)
 声を頼りに顔を向ければ、そこに立っているのは金髪の美しい少女だった。そう、正しく少女だ。それはロゼウスが知るローラではなく、現実の彼女より幾つか年上のようだった。十五歳ほどの少女の姿で、ちゃんと身長もそのぐらいに追いついている。
 ロゼウスの知っている現実のローラ、そして双子の弟のエチエンヌは、薬物中毒の後遺症が酷くて、もう身長は伸びないだろうなんて言われているらしいのに。
 だが、この顔立ちは間違いなくローラのものだ。そしてそれを証明するかのように、彼女の隣に、よく似た顔立ちの弟が寄り添う。あれはエチエンヌだ。彼以外であるはずがない。
けれどもう、ローラと全く同じ顔というわけにもいかない。十五、六歳の少年少女の姿をした二人はそれぞれの性別ごとに特徴がはっきりしてきて、よく似てはいるが、別人だということは一目見ただけでわかる程度になっている。
『首尾はどうだ?』
『順調だ』
 ああ、だけど変わっていないものもあるな、と不機嫌な声音を聞いて、ロゼウスは少しだけ安堵する。玉座から問いかける声に答えたエチエンヌの口調は苦々しく、それはいつも、彼がロゼウスに向けてくるものの、特に機嫌が悪いときと同じだ。
 一方、普段は滅多に明るい表情を崩さないローラは、人形のような無表情で弟の隣に立っている。感情をどこかに置き忘れてきてしまったようなその様子を、ロゼウスは一度だけ見た。それもつい最近。
 これは、彼女がロゼウスを嫌いだと言い捨てた、あの時と同じ顔ではないか。
 そして彼女はその完璧な無表情で、腕に何か抱えている。実はさっきから気になっていたのだが、ローラがあまりにも無表情で無感動なもので、それに注目する事がどうしてか躊躇われた。
 程なくしてその正体は知れた。
 ローラが抱いた布の塊から、小さな腕が伸びたのだ。ぬいぐるみのように小さくて丸っこくていかにも柔らかそうなその手は、赤ん坊のもの。彼女はおくるみに包まれた赤子を抱いていたのだ。
 そして囁くように小さく、もう一度唇を動かした。
『陛下』
 表情はやはり変わらず、湖底の色をした深い緑の瞳には、何も浮かんではいない。歓喜も悲哀も憎悪も絶望も狂気も享楽も、何一つ。
 夢の中の十五歳標準の外見をしたローラは、美少女と言われる今よりもさらに美しい容姿をしている。さらに服装もメイド服ではなく、絹をふんだんに用いて繊細なデザインのドレスを身に纏い、でしゃばり過ぎない程度に品良く宝石を髪や耳に飾っていた。
年頃の娘らしく腕も腰も首も細く顎は緩やかに尖り、肩は折れそうな程に華奢だ。白い肌はますます白く、頬は淡い紅色で少しだけ血色が悪いようにも見える。唇は濡れたように紅く艶やかで、瞼は重たげに伏せられていた。
 その人形のような面差しが告げる。
『あなたの子です』
 そこで目が覚めた。

 寝台の上に上半身を起こして、ロゼウスは荒く息をついた。
「な、なんだ今の夢は?」
「お目覚めですか?」
「!?」
 声を掛けられて、思わず飛び上がった。今まさに夢の中で見ていた人間の声だったから。
「そ、そっか……今はローラと一緒の部屋なんだっけ」
「はい。イスカリオット伯の居城にいる間はそうするようにと、シェリダン様のご命令で……というかそもそも、最初にそれを提案したのはロゼ様じゃありませんでしたっけ?」
 昨日はあれだけ微妙な言い合いをしたにも関わらず、さすがにローラはそれを引きずらない。素知らぬ顔で身支度を整えて、さらにはロゼウスの身支度も手際よく終えてしまう。
「……どうしましたか?」
「あ、い、いや。何でもない」
 じろじろと見ていたのがバレて、勢いあまってぷるぷると首を振りすぎたけれど、ローラはさして訝る様子もなかった。彼女も昨日の事があるから、きっとそれだと思っているのだろう。
 生憎、ロゼウスの関心は別のところ、先程まで見た夢のことだったのだけれど。
(おかしいな。なんであんな夢を見たんだ?)
 まったくもって謎な夢だった。あんなものを見る理由がさっぱりとわからない。
 夢の中でローラが捧げ持った赤ん坊は、白い金髪に、血のような紅と緑が交じった瞳を持っていたのだった。

 ◆◆◆◆◆

「予定がなさすぎるというのも困りものだな」
 単調な生活に早くも飽きてそう零すと、頷く声が返る。
「そうですね……普段はなんていうか、もっとこう」
「忙しいけれど充実している、ですか?」
「そう、それですよリチャード!」
 クルスの言葉にできなかった部分を補ったリチャードが、困ったように控えめな仕草で微笑んだ。シェリダンが見る限りでも、それはここを訪れた者全員に共通する思いのようだった。
 着替えて朝食をとり、一度割り当てられた客室へと戻って来た。今現在シェリダンにあてられた部屋には侍従のリチャードと、ユージーン侯爵クルス卿がいる。ロゼウスとローラ、エチエンヌとロザリーの四人はまだ顔を出さない。朝の食卓はシェリダンとクルス、そしてこの城の城主であるイスカリオットの三人だけが席に着いた。客人全員を招くのは、晩餐の時だけだ。
 いくらイスカリオット領に招待されている身とはいえ、普通ならここでまた何か仕事があるところだ。国王が貴族の城を訪れるといったら、招いた側か訪れた側か、どちらかには何か思惑があるほうが普通だ。
しかし、今回のイスカリオット伯爵ジュダ卿の招待はただ単純に養生目的……と言ってしまうのは微妙だが、それに近いものがある。ここにいる間ぐらいは煩わしい政務を預けて休息をおとりくださいと言われては、シェリダンは何をするべきなのか。
 どうせそんなことを言ったからとて、ジュダが本気でそう考えているわけはない。予定を立てることでお互いの行動が読み易くなることを、あえて避けているのだ。何を企んでいるのかは知らないが、結構なことだ。
「リチャード、ローラの様子はどうだ?」
「はい。先程会いましたが、特に変わったところはありませんでした。ロゼ王妃様からも、特に問題ないと伺っております」
 この城の主であるジュダは、ローラとエチエンヌの双子に執着している。放っておけば何をしでかすかわからない男対策に、身体能力なら世界で一、二を争う種族、吸血鬼の二人をそれぞれにつけた。だが早くも昨日のうちにイスカリオットはエチエンヌに手を出してきたというし、その際耳に入った、姉ローラに関する言葉に彼は動揺している。
 まったく、あの娘はあてにならない。寝台の上に腰掛けながら、ロザリーの、ロゼウスに良く似た美しい顔立ちと似ても似つかないじゃじゃ馬ぶりを思い出して、シェリダンは目を眇める。
「エチエンヌなら元気でしたよ」
 考え事が顔に出ていた、と言わんばかりに、リチャードがこちらの言う事を先回りして教えてきた。今回の同行者の中で、最も付き合いが古いのは彼だ。八年前からシェリダンの従僕となった男は、頼みもしない情報をすらすらとわかりやすく伝えてくる。
「ロザリー姫が側にいることが良い安定剤となっているのでしょう。特に気落ちした様子や苛立っている様子はありませんでした。イスカリオット伯とはまだ顔を合わせてはいませんが、あの分なら大丈夫そうです」
「……そうか」
 シェリダンとしてはあのじゃじゃ馬娘が本当にエチエンヌの精神安定剤となっているのか疑わしいところだが、そもそもまだ十五歳の小姓に十六歳の隣国の王女を娶わせたのは自分だ。ここでそんなことを言うわけにはいかない。
「クルス、今日は何かしたいことはないのか?」
「え? いえ、その……ええっと……」
 話を振っては見たが、クルスもシェリダンと同じように困ってしまった。領地では精力的に書類仕事から私兵の訓練まで励む彼にとって、イスカリオット城でのだれきった生活は耐え難いのだろう。かといって、では時間があるからこれがしたい、と言えるほどクルスは積極的というわけでもない。心の底から下僕体質と言ったのは誰だったか。
 やることがなくて、困るのはお互い様だ。城主のジュダを交えて何かの遊戯に興じるにも、提案も持たずにあの男の元へ行くのは都合が悪い。向こうの計略にわざわざはまってやる必要はない。それが政治的に重大な配慮ならともかく、彼の企みはほとんどがその悪行の根幹となる、淫蕩への傾斜。一緒に滑り落ちてやる気はない。
 しかし、やっぱり、どうも、暇だ。
「ローラとエチエンヌの様子を見たいというのもあるが」
 しかし城主であるジュダから正式に招かれた立場のシェリダンの側にいれば、もっとも彼に目を付けられやすくなる。シェリダンが今回あの双子を手元から離し、ロゼウスとロザリーに預けたのもそのためなのだ。もっとも身分が高く彼の主君にあたるシェリダンがジュダに接待をさせている間は、彼も二人に手出しはできないだろうし。
「シェリダン様、それに関して少し提案があるのですが」
「どうした、リチャード」
「私に少し、伯と話す機会をくださいませんでしょうか?」
「お前が?」
 普段は影のように一歩下がって背後に仕え、あくまでも控えめな侍従のその思いがけない言葉にシェリダンは目を瞠る。
「はい。少し……個人的な話が」
 リチャードはジュダに絡まれたエチエンヌを助け出した当人であり、ジュダが一年前のローラの失踪に関して何か知っているらしいとはその場で聞いたらしい。ローラの夫である彼にとっては、いくら昔の話で、非合意だとはいえ、ローラを好き勝手にしていたジュダにいい顔はしたくないのだろう。シェリダンは勝手にその程度に思っていたのだが。
「身内の話をしたいと思いまして」
 その言葉に、思わず眉をしかめた。
「そういうことか」
「ええ。あの伯爵ではそれほど時間稼ぎができるとも思わないのですが、できれば郊外へと誘いたいと思います」
 リチャードの立場は複雑だ。彼は八年以上前、兄の犯した不祥事を着せられて投獄されそうになったことがある。元の爵位は今のイスカリオットと同じだが、その家は経済に優れた元は商人の家系で、金で爵位を買ったと有名なリヒベルク家。
 今はとっくに没落し、取り潰し寸前のその家系。長男があんなことになり、最後の頼みの綱であるリチャードがわざわざ爵位を返上して奴隷にまで身を落とし、シェリダン仕えの侍従に納まってはもうあの家は終るしかないのだろう。
「私と伯はすでに他人ですが、彼にとってもあの事件を起こしたと言う事は、簡単に無視できる問題ではなかったのでしょう。私は伯の本心というものを知りたいと思います」
「……わかった。何かあったら、私の名前を使うことを許可する」
 それは、王の名でもって伯爵を脅せ、ということだ。元の身分はイスカリオット公爵家とリヒベルク伯爵家の二人。今では伯爵と、ただの奴隷。どちらであってもジュダが優位なのは変わらないし、あの男のことだ、何をするかわからない。一応抑止力として、背後にシェリダンがいることを突きつけるくらい構わないだろう。実際、シェリダンはまだリチャードに伯爵の気まぐれごときで死なれては困るのだ。
 もともと、ローラのことで二人の関係を余計ややこしくさせた一因はシェリダンが担うべきものでもある。
「ありがとうございます」
 深々と腰を折り頭を下げて、リチャードはジュダに話をつけるために部屋を出て行った。本来なら奴隷が伯爵へ頼みごとをするなど許されず、シェリダンがついていってとりなすべきなのだろうが、あの二人の関係は一種特殊なものだった。余計な口出しをして事態をややこしくさせるよりも、リチャード本人の手腕に任せるほうが良いだろう。
目立つことを控える男だが、シェリダンはリチャードの腕を買っている。だからローラを預けたのだ。
 エチエンヌとローラの二人。出会った頃、表立って牙を向いてきたのは弟のエチエンヌのほうだった。傍から見れば感情がないように無表情なローラよりも、エチエンヌのほうがよほど反抗的に見えただろう。しかし真にシェリダンへの敵意を持っていたのは姉のローラの方だ。
 《双子人形》などとはよく言ったものだ。ローラとエチエンヌは、顔こそ似ていてもまるで違う二人の人間だ。
 その二人をいいようにしていたジュダは、ある意味エヴェルシード中でもっとも厄介な貴族だった。その有能さ故にあの事件の後も二爵位降格された程度で国に仕え続けているが、いつ手のひらを返すかわからない。最も使いやすく、最も使いがたい男。それが、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。
「リチャードがイスカリオット伯をひきつけておいてくれるなら、僕たちは今日一日……とは言わずとも、数時間は平和に過ごせるわけですね」
 ここは一応ジュダの城であり彼が城主なのだが、表面上は平気なように振舞っていてもやはりクルスのジュダに対する警戒も抜けきっていないようだった。無理もないとシェリダンは小さく吐息し、部屋を出るために腰をあげる。
「陛下、どちらへ?」
「ロゼウ――ロゼのところだ。少し、報告をしてくる。ロゼと言うよりも、ローラへということになるが。ついでにエチエンヌの様子も見てくる。お前はリチャードが無事、伯に申し出を受諾されたと知らせてくるのを待っていてくれ」
 ジュダの性格なら、リチャードの誘いを断ることはしないだろう。招いて真っ先に自分へと向かってきた相手が一番オマケのようだったリチャードということに不服を感じるかもしれないが、そんなことはシェリダンの知ったことではない。
 何より、リチャードとジュダ自身に関する因縁を作ったのは、イスカリオット伯ジュダ卿本人だ。
「お一人で大丈夫でしょうか?」
「問題の伯のところには今リチャードが行っているんだ。それに、私は大丈夫に決まっている」
 眉の辺りを曇らせるクルスに軽く手を振って、シェリダンは部屋を出た。


041

「あ、シェリダン。おはよ」
「おはようございます、陛下」
 やってきたシェリダンに、まずは朝の挨拶を投げかける。ロゼウスは応接用のテーブルでローラの刺繍作業を見ていた体を入り口に向けて、部屋へと入ってきた「夫」を迎えた。
「ロゼウス、ローラ、調子はどうだ?」
「特に変わったところはありません」
「俺も。結局昨日はその、イスカリオット伯って人とあまり顔合わせなかったし」
「そうか。なら、いい」
 シェリダンはローラの様子を見に来たのだ。もともと遠国シルヴァーニからジュダに買われてエヴェルシードに来た双子の姉弟は、エヴェルシード王シェリダンの奴隷となった今でも彼に目をつけられていて、何かにつけてちょっかいを出されるらしい。ちょっかいという程度ですめばいいのだが、ジュダのすることはいちいち二人の心の傷を抉るようなことだというので、今回はロゼウスとロザリーがローラとエチエンヌそれぞれについて、その身を守ることになった。
 奴隷と、名目上は捕虜とはいえ、元隣国の王女。護衛する側とされる側の身分が逆の気はするが、たまにはこんなこともあるだろう。何しろ、シェリダンは自分の懐刀である二人を本当に大事にしているから。
 シェリダンは寝台へと座り、ロゼウスもその隣に腰掛けさせられた。ローラは行儀良くシェリダンの前に立っている。
「二人とも、昨日のことは誰かから聞いたか?」
「昨日?」
 ロゼウスとローラは揃って顔を見合わせた。昨日の出来事と言えば、ここに到着してこうして部屋を与えられて、その後ロゼウスとローラの間ではちょっと傍目から見れば一触即発のように思えるだろう微妙なやりとりがあったくらいで。それだって表面上は落ち着いている。
「エチエンヌのことだ」
 ロゼウスたちの間で何があったかなど知らないシェリダンが告げた名は、ローラの双子の弟であるエチエンヌのものだった。ロゼウスは毎日、何かにつけてつっかかってくるエチエンヌはそれほど好きでもないのだが、彼の実力はそれなりに知っている。その彼が早速ジュダに襲われたということを聞いて、思わず目を瞠る。ローラの顔も強張っていた。
「いくら奴隷でも着いたばかりの客人の従者襲うなんて、なんつうクソ度胸」
「ロゼウス、言葉遣いが下品だ」
 シェリダンに口調を咎められる。
「だが、まあそういうことで間違いはないだろう。……エチエンヌも咄嗟のことで、対応する事ができなかったらしい。ローラ、お前は何があっても、ロゼウスの側を離れるなよ」
「はい」
 ローラが小さく頷いて、胸の辺りにきつく拳を押し当てる。その姿は不安というのとは違い、弟を心配しているという風でもなく、何かを考え込んでいるように見えた。
「ああ……だが、今日一日はたぶん、それほど警戒する必要もないだろう」
「どうして?」
 注意しろと言ったその場で気の緩んだことを言い出したシェリダンが思いがけないことを言う。
「リチャードがイスカリオットを連れ出している」
「リチャード?」
 それはシェリダンの最も親しい侍従の名前で、陰日向となく彼に仕える青年のことだ。ただし、ロゼウスが聞いた話ではリチャードの身分は奴隷のはずだ。
「いくら国王の侍従とはいえ、ただの奴隷が伯爵を呼び出すなんてできるものなのか? ……あ、それとも、イスカリオット伯の趣味はまさかリチャードまで」
「いや、違う。奴の趣味はいかにも儚げな風情の美人で……って、そうじゃない。リチャードとイスカリオットの関係はそういうことではない」
 一瞬脳裏に浮かんだ恐ろしい考えをシェリダンは否定してくれた。いや、確かにどちらもいい男なのだが、しいて言うならジュダの方が優男で、そんな彼が奴隷とは言え貴公子然としたリチャードにまで手を出すとなると……まあ、人の趣味はそれぞれだ。だいたいロゼウスだって兄やシェリダンとのことがある、何も言えない。
「じゃあ、なんで?」
「それは……」
 重ねて尋ねると、シェリダンが片眉を上げてロゼウスを睨んだ。余計なことを言わず黙っていろ、という仕草だが、この状況下では誰かに聞かれて困るというよりはむしろ単に説明がめんどくさいと言った様子だ。
 寝台の隣で長い足を組んで座っているシェリダンに、だからロゼウスはもう一つ言葉を投げる。
「じゃあ、リチャードがローラの夫だから何か文句でもつけにいったとか?」
 ぴくっとシェリダンが反応した。一瞬だけ目を泳がせて、結局は否定する。
「……いや、そうではない」
 二ヶ月の付き合いを経て、ロゼウスも大分彼のことがわかるようになってきた。シェリダンの顔色で考えている事が大体わかる。今のは。
「それが本題ってわけじゃないけれど、あんたはリチャードがそうするんじゃないかと疑っているって感じだな」
「……あやつはローラのことになると、目の色を変えて怒るからな」
「……申し訳ございません」
「いや、別にお前のせいというわけではない」
 軽く俯いて目を伏せたローラの謝罪に、罰が悪そうにシェリダンが再度否定した。
 ロゼウスは良く知らないが、どうやらローラとリチャードは夫婦らしい。何かの拍子に聞こえたことを繋ぎ合わせるとそうなる。となるとエチエンヌはリチャードの義弟となるわけで、道理で彼ら二人は仲が良いはずだ。
 けれど、実際にローラとリチャード自身を見ていると、その姿に夫婦という言葉が思い浮かばない。何しろローラの見かけは十二歳ぐらいの子どもであるし、実年齢だってまだ十五歳だ。それに比べるとリチャードは二十七歳で、ローラの十二歳上。どんな夫婦なのだろうと不思議になる。
 ずれた話題を、シェリダンが軌道修正する。隣に座るロゼウスは傍観者の体勢で、見つめあうシェリダンとローラのやりとりを見守る。シェリダンはローラの瞳を真っ直ぐに見つめて言った。
「リチャードが何を考えているかまでは知らないが、表向きの名目は『身内の話がしたい』ということらしい」
「では、イスカリオット西方領へ?」
「だろうな」
 二人の会話を聞いているだけでは、何の半紙をしているかさっぱりだ。身内? 誰と誰が?
 一人だけ仲間はずれにする意味もないと思ったのか、話を聞かせることで協力させようというのか、シェリダンは簡単に説明した。
「お前にはまだ言ってなかったな。リチャードはあれでも元は貴族だ」
「え?」
「リヒベルク伯爵家。不祥事を起こして没落し、取り潰しになったがな。その事件にイスカリオットは関わりがある。いや、むしろイスカリオットのほうにリヒベルクが被害を与えたというか」
「貴族? でも、奴隷って」
「不祥事ゆえに、奴隷の身分に落とされたのだ。その後、紆余曲折を経て私の侍従に引き立てることにはなったが」
「どうりで、単なる召し使いにしては品があるなぁって……」
 常日頃はシェリダンの背後に控えて目立たない青年に対する違和感の一端が、これで解けた。
「本当なら不祥事はリチャードの責ではないのだし、兄を追放して奴が家を継げばよかったのだがな」
 それでもリチャードは、王家に仕えることを、シェリダンを選んだ。
「なんか、あんたの周りも思っていたより複雑なんだな」
「お前だってそうだろうが。王族なんてどこも似たようなものだ」
「ううん。そう……かな」
 華やかなドレスを身に纏い、見た目は少女らしくすることを命じられても、ロゼウスの実際の身分はローゼンティア王子。祖国にいた頃の貴族の勢力図を思い返そうとして……失敗した。
「特に覚えてないや」
 シェリダンが大仰に溜め息をつく。ロゼウスは興味のないものは記憶に留めておかない性質だ。
 ふと、視線を感じて僅かに首を曲げれば、ローラが感情の剥がれ落ちたような無表情でロゼウスを睨んでいた。
 ――私はあの方をお慕いしております。
 昨日の彼女の言葉を別に忘れたわけではない。
「ロゼウス?」
「……っあ、ああ。何?」
 ローラの方に注意を向けていたため、返事が遅れた。シェリダンはロゼウスの顔を見て何故か表情を険しくし、恐らくこれまでの会話の流れとは関係ない話題を口にする。
「お前、今日、どこかおかしくないか?」
 言われて、ロゼウスは内心ぎくりとしていた。確かに、今日はいつもの自分がどのように振舞っていたかがよくわからなくなってしまっている。原因はあの夢だと思うのだが。
「そんなことないよ」
 それをわざわざ、この男に告げる必要などない。だから否定した。シェリダンがついにロゼウスの腕を掴み、さらに眉根を寄せる。と。
「今日のロゼウス様は、朝方夢にうなされているようでした」
「ローラ!」
 別に告げる必要もないことをわざわざ口にした侍女に、思わず批難の声をあげた。そしてこれが、彼女のささやかな意趣返しだということも気づく。
「夢? どんな? 何を見た、ロゼウス」
「……あんたには、関係ない」
 突き放すように告げれば、シェリダンの動きが一瞬止まった。そしてロゼウスの腕を放すと、明らかに不機嫌な顔でこう言ってきた。
「そうか。なら、勝手にするが良い。私はローラとエチエンヌに気を配るのに精一杯で、お前のことまでは気が回らないからな」
 なんだよソレ。
「いいよ、別に」
 反射的に反抗的な言葉が口をついて出ていた。自分たちは二人して、自分の言った言葉で自分の行動を縛られているみたいだ。
(いいよ。別に。だって俺はシェリダンの妻ではあるけれど、この男を愛しているわけじゃない)
 だから気など遣われる必要もない。
 けれど何となく、雰囲気がピリピリとして気に障る。それはシェリダンも一緒のようで、ローラへ二、三忠告をおくと部屋の外へ出ていった。後には元通りロゼウスとローラだけが残された。
 そして不機嫌なやりとりをしたロゼウスだけではなく、間接的にそういう状態へロゼウスを陥らせたローラまでもが、何故か悔しげに唇を噛み締めていた。

 ◆◆◆◆◆

 それは初めから、いいや、初めから終わりまで、決して許されることのない《想い》だった。
 口に出すのはもってのほか、胸に抱いただけで禁忌とされる邪恋だった。
『あなたの子ではないのよ』
 宿した暗い情念ごと、耳の奥に甦るのはあの日の愛しい人の声。
『あの子は、あなたの子ではなく――』
 耳を塞いで通り過ぎることも出来ずに立ち尽くして聞いてしまったその告白。
 部屋の中には、彼女の元の夫がいた。暴力ばかり振るう彼から逃げるために叔母は離婚をしたものの、一度治まったはずの親権問題を元夫がむしかえしてきたのだ。ジュダはその下級貴族の恥知らずな傲慢さに腹が立つ。あの程度の男が、我が叔母につり合うなどと本気で思っているのか。
 だが、胸の内に義憤を宿したところで動けなかったジュダは、正しいどころか、そこに存在しないも同然だった。
 あの時、聞き耳を立てるのではなく何故その場で部屋の内に駆け込んでいって叔母の元夫を取り押さえなかったのか。
 そして愛しい人は、永遠に失われた。

「墓参りに行きましょう、イスカリオット伯爵。いいえ、ジュダ様」

 シェリダンの従者であるリチャードからそう言われたとき、ジュダは反射的に首を動かして頷いていた。あの日から癖になった狂気の微笑は口元に貼り付いていたが、内心ではちっとも笑ってなどいなかった。平静を装って馬車の支度を整えさえ、同い年の青年と共に乗り込む。
 現在のジュダの身分は伯爵。八年前の事件により凋落したとはいえエヴェルシードでも名門のイスカリオット家当主。対して、今目の前に座る青年は同い年でありながら、今ではその存在さえ忘れ去られようとしているただの奴隷。
 堕ちた貴公子、リチャード=リヒベルク。
 クルスとはまた別の意味で、シェリダンを支える懐刀の一人。
 もともと公爵家であったイスカリオットから見れば、金で爵位を買った成金貴族のリヒベルクなど、貴族のうちにも入らない。だがしかし、無能の前当主がともすれば赤字どころか借金までこしらえそうになっていた以前は、この成金貴族にもそれなりの価値はあった。
 今では、かつての栄光の見る影もない一族。その最後の当主に、ならなかった青年。
 そんな人間と伯爵であるジュダが向かい合わせで同じ馬車に乗り合わせるなど普通ならありえない。普通なら。だが、彼らの間にはとても普通という言葉で収まらない因縁があった。
「時間の流れとは、無情なものですね」
 リチャードが穏やかに話しかけてくる。その声は重さのない羽根のように、ふわりふわりとジュダの胸に落ちては降り積もる。
 そのたびに彼の胸を去来するのは、かつて二度だけ見た、彼に良く似た男の面影だ。あの男とリチャードは似ているが、似ているからこそ全然違う。あの男はこんな穏やかな喋り方はしなかった。いつでも、いっそ裏返って卑屈なほどに自分の正しさだけを主張しようと、癇に障る耳障りな響で。
「ええ。あれからもう、七年? いや、八年が経ってしまった」
 かつて伯爵になる可能性のあった男と、公爵から降格されて伯爵になった男。そんな私たちが、どうやって会話に花を咲かせろというのか。咲かせる必要もないが。
「あなたが私を殺そうとしてから、八年」
 血まみれの剣で一族のほとんどを斬り殺し、自分を狂人と罵った使用人たちの首を刎ね、なお治まらぬこの怒りと決して癒せぬ胸の痛みを軽くするために、かの男と相似の青年の血を求めた。
 振り上げた剣。
 ジュダの腕を止めた白い手のひら。
『もうやめろ。イスカリオット』
 真実の狂気も、その奥底に潜む壊れかけの痛みも貫いてまっすぐとジュダを見据えたあの朱金の瞳。
 がくん、と最後に小さく揺れて馬車がとまり、水泡のように回想が弾ける。
「旦那様。馬車がお着きになりました」
「ご苦労だったな。私たちが戻るまで待て」
 忠実な御者に待機指令をくだして、ジュダは奴隷青年を伴って馬車を降りる。辿り着いたのは墓地だった。イスカリオット領にある一番大きな墓地。
 ここには領地の民で、とくに身分の高い主に貴族が眠っている。
 ジュダの父も、叔母も、その息子も、彼ら以外の一族の者たちも。
 そしてイスカリオット領の一部を与えられていたリヒベルク家の、最後の当主であるリチャードの兄も。
「もう八年になるのですね。時の流れは本当に無情だ。日々シェリダン様のお側に仕え、あの方の成長を間近に見る私にはもうそんなに長い時間が過ぎ去ってしまったのかと、些か驚く気持ちが強いです」
 通いなれた道に案内などいらないだろうに余計な気を回した墓守をそのまま番小屋に捨て置き、リチャード一人を伴ってジュダは家族の墓標の前に行く。
 墓守が用意した花を古びた墓標に捧げたリチャードはまた、あの羽根とも雪ともつかぬ穏やかな声音で言った。
「伯爵、あなたが私の兄を惨殺してから。そして、その弟である私を殺そうとしてから」
 あの双子人形は知らない。もしも今の陛下の周囲にいる人間で最もジュダの被害にあっている人間を考えたら、あるいは彼らよりもこの青年のほうがそう呼ぶにふさわしいのだと。
「君の兄が、私の伯母上に重傷を負わせて死の淵に落としてから八年だ」
「止めを刺したのはあなたです」
「ああ、そうだな」
 リヒベルク家は大層な金持ちであり、公爵家の財産を食いつぶす浪費家だった当時の当主、ジュダの父にとってはいい縁談相手だった。リチャードの兄は彼らより十歳年上で、十八歳のその男と十六歳の、ジュダの叔母が結婚して両家に縁戚関係が結ばれた。
 リチャードとその兄は、姿形こそ似ているが性格はまるっきり反対だ。
「リチャード」
 早桶の十字に斜めにかけられた花輪は軽く、それが風に吹かれてかすかに揺れるさまを見ながらジュダは口を開く。辺りには、ほんの微かな花の香りが広がった。
「もしもあの時、叔母上と結婚したのが君の兄ではなく、君自身であればことは全て上手くいったのかもしれない」
「もしくは、私とあなたのどちらかが女性に生まれていれば」
 そういう話もあったのだ。二人は同い年。これで男女であれば問題なかったのだが。生憎とジュダとリチャードは二人ともが同性で生まれてきた。なんとか裕福な商人上がりの貴族と縁戚を結びたかった父は、最終手段として実の妹を差し出した。
 それが互いの破滅への引き金となることも知らず。
「あなたのお気持ちは察します。伯爵。我が兄はお世辞にも人格者とは言えなかったし、彼のあなたの叔母君への行動は人間として最低のものでした」
 八年前、リチャードの兄を殺しジュダ自身の身内を殺し、さらにはイスカリオット家の者へ重傷を負わせた咎を兄に背負わせられて刑場へと引き出されたリチャードを、別人だと理解しながら感情に任せて叩ききろうとした。順番的にはそちらが先で、リヒベルクがそういった手段に出るのならこちらも容赦はしないと、刑場から引き上げたその足でリチャードの兄を殺しに行ったわけだが。
 もしもシェリダンに止められなかったら、ジュダは今隣にいるこの青年まで殺していたことだろう。それを悔いる心など当然ありはしない。
 だが、彼にしてみればジュダは因縁深い相手。そしてジュダにとっても、奇妙な縁によって、また複雑な繋がりを持つことになった相手だ。
「あなたの境遇に、同情はしましょう。けれど、その痛みを誰かに振り撒くことは感心しません」
 リチャードの瞳が細められ、彼の眼にはすでに死んだ者たちの眠る墓標など路傍の石程度にも興味のないものとなる。もとからそれが言いたかったのだろう。彼は低い声で尋ねた。
 温厚で知られたリヒベルク家の次男の、それがもう一つの顔だ。ジュダは話題を察する。墓参りなど、ただ自分を連れ出す口実に過ぎない。
「半年から一年ほど前、あなたはローラに、我が妻に何をしたのですか?」
 くると思っていた。だから、正直に答えてやる。
「私がローラを誘拐したとでも思っているのか? それは誤解だよ、リチャード。彼女の方が、他に行く場所もないと私を頼ってきたんだ」
 リチャードの顔が歪む。それは八年前振り落とそうとした刃の下にはなかったもので、それを見るのなら彼を生かしておいたのも、あの双子を買ったのも間違いではない。
 まだだ。まだ私の復讐は終らない。
「一年前、君の子を身篭ったローラは、堕胎のために私に縋ったんだ」
 リチャードが瞠目して驚愕する。
 真実は時として、虚実よりも鋭い刃となると、ジュダはとうに知っていた。


042

『ここで人を殺したね、昔』
 ええ、そうよ、その通り。
 ロゼウスの声も瞳も、ローラの胎に触れる指先も何もかも、責める声音はなかった。ただ薄っすらと微笑んで、聖母のような慈愛に満ちた表情で彼女の罪を暴いた。
 ローラは一年前を思い出す。
『ねぇ、ローラ。最近太った?』
 気づかれるのが怖くて、一人で逃げた。
 でもどこにも行くあてはなかった。途方に暮れたけれど、こんな状態じゃシアンスレイトには戻れない。
 どうしよう。どうしたらいい。考えて考えて結局はそれしか思いつけなかった。有り金もなくただひたすら歩き続けて領地に現れたローラを、あの男は少しだけ驚いたような目で見つめて、そうして自らの城に招きいれた。
 久々に足を踏み入れたその部屋は血のように紅い絨毯が敷かれ、優美な曲線と直線を掛け合わせた高尚なデザインの家具で占められ、暗緑色のワインボトルが無造作にあけられて濃い紫色の液体をグラスに注ぐ、典型的な下品で金持ちの貴族の私室だった。
 毛皮を敷いた椅子に座り、ローラに応接用の長椅子を示した男は彼女の説明を聞いてまず尋ねた。
『ふぅん。ついに孕んだか。で、誰の子だい?』
『……リチャード』
『お前の正式な夫じゃないか。喜べば良いものを。まるで死人のような顔色をしているよ、ローラ』
 産みたくないと思うローラの気持ちを知っているだろうに、ぬけぬけとジュダはそう言った。
 ローラはこの男のもとにいるときから、実の弟であるエチエンヌとだって何度もさせられていたから、それを皮肉っての言葉なのだろうが。
『他の者たちには?』
『言ってないわ。バレてもないと思う』
『シェリダン様には相談しないのかい?』
 ローラたちの主であるシェリダンは、下町の娘であった母を父である国王が無理矢理攫って作られた子ども。そのトラウマで女性を孕ませることができなくて男に手を出すあの人に、そんなことが言えるものか。
『言えない』
『言ったら、お前の望みどおりにしてくれるだろうと思うけどね』
 シェリダンならそうだろう。女の産みたくないという気持ちを無視して出産なんてさせる人ではない。けれど、せっかくできた子どもを目の前で否定するようなことをすれば、それが自分の子どもでなくたって、きっと彼は傷つく。だから。
 誰にも頼れなかった。
 よりにもよって、四年ほど前まで自分にあらゆる虐待をしていた男を頼った。
『で、どうしたい? 堕ろすの? それとも、産んでからどこか里子に出すかい』
『……堕ろしたい』
 嫌、嫌、嫌。自分の中に自分から作られた、自分でない生き物がいるというこの感覚が死ぬほどイヤだ。自分だってそうして母親の胎から生まれてきたはずなのに、そんなの受け入れられない。絶対に認められない。気持ち悪い。……気持ち悪い!
『嫌なの! 私は母親になんてなりたくない! 愛せない子どもなんて絶対にいらない! 私は自分の子どもなんて愛せないそんなのいらない気持ち悪い! ……この子は生まれてきちゃいけないの!』
 自分が母親になるなんて考えられない。それはローラがまだ十五歳で自分も子どものようなものだとか、この身体が十二歳程度にしか見えないとかそういうことではなくて。
 シルヴァーニで売られてこの城に来て、目の前の男に組み敷かれている間中ずっと考えていた。ねぇお母さんどうして私を産んだの。何のために産んだの。何のためにここまで育てて、そうして捨てたの。いらないなら最初から産まなければよかったじゃない。
 私は生まれてきたくなんて、なかったのに。
 肌を合わせる事は子を成すための神聖な行為だなんて幻想はもう跡形もなく打ち砕かれているし、それを知る前にまず肉欲を教えられた。どうしてこんな醜悪な快楽の先に人は人を成すのか。そればかりが頭を巡る。人間が生まれるということ、それこそがまず醜い。
 そうして、醜さの先に生まれてきた自分は、自分自身を愛せない。自分の生を愛せない。
 生まれて来なければよかったのに。生まれて、きたくなんて、なかった……。
『生まれてきてはいけない子ども、か』
 そこで、ジュダが一瞬だけ冷めたような眼差しをした。ローラには理由など皆目見当もつかなかったが、もとよりこの伯爵の感情の機微に細かくなりたいわけでもない。
 生まれて来なければシェリダンにも会えなかった。だがその嬉しさの代わりに痛みも苦しみも辛いのも何もないのならそっちの方が良かったのではないか。ローラはそう考える。
 人間は生まれて来ることが一番不幸。ならば、自分は絶対に子など生まない。
『おいでローラ』
 見透かしたような顔で笑いながら、ジュダが手を差し伸べた。ローラは素直に長椅子を降りて、ジュダの膝に乗る。長旅で疲れきった身体に人肌のぬくもりは心地よいけれど、その相手がこの男だと思えば、心臓が凍った。
『中絶、ね。でも教えておいてあげるよ。堕胎は母体への危険が大きい。そうすると、君が死ぬかもよ?』
『それは、いや……』
 お腹の子の父親はたぶんリチャードだろう。愛する男の子どもを殺すのなら自分も共に滅びる道を選ぶかもしれないけど、生憎ローラは、そこまでリチャードを愛しているわけではなかった。
『あの男の子どものために死ぬなんて御免だわ』
 本心だった。間髪いれずに、ジュダがこう返してくることも知らず。
『では、産むだけ産んでその場で殺そうか』
 まるで小鳥の首をもぐように簡単に。陽だまりのような微笑さえ浮かべながらジュダはそう言った。
 そしてローラは。
『…………わかった』
 ここで。このお胎で。
 人を殺したの。忘れたいと願う意志が忘却の彼方に追いやった昔。まだたったの九ヶ月前。生まれる三ヶ月前にジュダの元へと身を寄せて、生まれて三ヶ月でシアンスレイト城へ戻った。その時になっても誰にも何も言えず。
 罪だなどと思わない。リチャードがローラを無理矢理抱くように彼女が自分の都合を優先して何が悪いのだろうか? だから、生まれてきた子を殺したことなど何とも思っていない。中絶をすればローラの方が危険なのだし、産んで育てる気などまったくありえなかった。だから。
 けれど、胸の中のどこかが痛い。
 その痛みが、自分のせいだけではないとわかっているから、なおさら痛い。
 自分は生まれてきたくなかった。それでもどうしても生まれてくるなら、せめて男として生まれてきたかった。
 自分と同じ顔のエチエンヌはあんなに自然にシェリダンに触れられ、相手をしているのにどうして自分だけ。男同士なら孕むこともない。ローラはエチエンヌが酷く羨ましい。
 ロゼウスは嫌いだけど、少しだけ安心もしていた。あんなにも美しく儚げな美貌をもつお妃様のせいで、エチエンヌも今はろくにシェリダンに近寄れない。そしてロゼウスはシェリダンを愛していないのだという。シェリダンに見惚れないことは少しむっとするけれど、彼がシェリダンを愛さないことにも、ローラはほんの少し、安堵していた。
 誰も、誰も近付かないで。一国の王であるのに破滅を願う方。ローラはシェリダンがもしも誰か別の女性を愛して結婚するなどということになったら発狂してしまうかもしれない。叶わない恋情と禁断の情欲に溺れるあの人だから愛おしくて恨めしい。
 私を愛してくれないなら、いっそ他の誰も愛さないで。
「陛下、お話が――」
 足を踏み入れた部屋の中で見た光景。
 それはローラとよく似た弟を、エチエンヌを抱いて口づけるシェリダンの姿だった。

 ◆◆◆◆◆

 エチエンヌが自分で断ったというのに、やはり昨日のことでロザリーは責任を感じているようだった。感覚の鋭い吸血鬼には、表面上は平静に見えても、その裏でエチエンヌに何があったかなんてすぐにわかってしまうのだろう。部屋に帰って来た彼を出迎えた彼女が真っ先にしたことは、エチエンヌを思い切り抱きしめることだった。
「エチエンヌ!」
 ああ、僕は君の国を滅ぼした国に使える奴隷の一人なのに。なんで。
 自分より背の高い女性の柔らかな胸に抱きすくめられて、思わずほんのりと、泣きたくなった。
 妻とか恋人とかそんなものより、エチエンヌがロザリーに感じるのは、「姉」。実の姉であるローラにも感じたことのない、穏やかな母性だった。そういえばローゼンティア王家は子沢山で兄妹も多くて、第四王女であるロザリーにはその下にさらに弟妹がいるのだったか。実際に年齢もエチエンヌのほうが一つ年下だし、きっと弟のように思われてるのだろう。
 貴族の寝台は無駄に面積が広いので一人用のベッドに二人で寝ても、みっともなく手足がはみだすなんてことはない。エチエンヌはロザリーにひっついて、ふかふかの毛布に守られるようにして手足を丸めて眠った。繋いだ腕から伝わる、少しだけ体温の低い手のぬくもりに癒されて、もう悪夢は見なかった。
 そして次の日が来た。
「伯が出かけてる?」
「ああ。リチャードが連れ出した」
「墓参りですか?」
「そんなところだろう」
 朝方からシェリダンが訪ねて来た。ヴァンピルは朝に弱いと聞いたが全然平気な顔で起きて身支度もしっかり整えていたロザリーが用心のために少しだけ扉を開くと、外に立っていたエヴェルシード人はエヴェルシード人でも、ジュダではなく、彼女ですら見慣れたシェリダンの姿だった。
 そう長い時間を期待するわけにもいかないけれど、リチャードがジュダを連れ出して彼らの親戚の墓参りに行ったのなら、少なくともこの午前中は帰って来ないだろう。エチエンヌはほっとしたような、拍子抜けしたような気持ちでその報を聞いた。
「……少し、二人きりで話すか」
「はい」
 ロザリーはこの件に関しては部外者も同然だ。彼女はあの五年前のことを何一つ知らない。エチエンヌとローラがイスカリオット伯に「酷い目に遭わされた」ということを、漠然と感じているだけ。それに彼女は、ローゼンティアの王妃の中でも政略とはほぼ無縁で王の寵愛を受けた第三王妃の娘だという。きっと彼女にはエチエンヌたちの気持ちはわからない。
 虐待された子ども。
 エチエンヌの場合はそれがえんもゆかりもない他人で、シェリダンは実の父親だった。ただそれだけのこと。
 エチエンヌはローラという痛みを分け合える相手がいたけれど、シェリダンにはそれすらいなかった。クルスはシェリダンの友人のような相手ではあるが、その彼だって全てを知って、なおかつ、とめられたわけでもない。
 このどうしようもない苦しさを分け合えるのはあなただけ……
 だからエチエンヌはシェリダンが好きなのだ。
 ロザリーをもとの部屋に置き去りに、そのままふらりと外へ出た。彼らは勝手に使っていいと言い渡された客室の一つに入り込んで、シェリダンがソファに身を投げ出した。
エチエンヌはその正面の席について、久々にじっくりと主君の顔を眺める。本当はとても失礼にあたることだが、それをいちいち咎めだてするような人でもない。
「どうした? エチエンヌ」
 けれどやっぱり気にはなるようで、視線に気づいたシェリダンはエチエンヌと目を合わせた。苦笑気味のその表情は見慣れたはずのもので、シェリダンはいつでも笑っている事が多い。けれdpそれは苦笑だったり微笑だったり、決して翳りのない笑みは見せない。たいてい意地悪い笑みを浮かべているように城の者や諸侯には思われているけれど、私生活でも人といる時は、大抵穏やかに笑っているものだ。エチエンヌやローラには優しい笑顔を見せてくれる。
 だがそこまで思い出すと、同時に余計な記憶も表面へと浮かび上がってきた。
『笑う? シェリダンが?』
 それに異を唱えた相手はただ一人だけ。
『嘘だろう。だって、あいつ……』
 いつもどこか思いつめたような、切なげな顔をしていると。
 エチエンヌに教えたのは――ロゼウス。
「エチエンヌ?」
 知らず、唇を噛み締めていた。鉄錆の味がじわりと口の中に広がる。切れた箇所はピリピリと痛み、その痛みが彼を我に帰す。
「なんでも……ありません」
「そうか? なら……よいが」
 シェリダンは昨日エチエンヌの身に何が起こったかすでに知っているから、大方そのことだとでも思ったのだろう。あまり突っ込んで訪ねるのも躊躇われるといった様子で、何も聞かないうちに追求の手を緩める。
 これがロゼウス相手だったら、遠慮なくなんでもズケズケと聞いたのだろうか。
 あの悪夢のように美しい少年が来てから、シェリダンの注意はすっかりそちらに移ってしまっている。初めこそ新しい玩具を手に入れたような気分なのだろうと、エチエンヌもローラも見過ごしていたが、どうもロゼウスに対するシェリダンの態度は、エチエンヌやローラやリチャードやクルスに対するものとは違うようだ。それにはっきり気づいたのは、死んだはずのヴァンピルの王族が甦ったことを知ったシェリダンが、それを隠していたロゼウスに怒り、彼を刺し殺した時。
 すぐに生き返るヴァンピルを、自らの手で一度はその心臓を止めた相手の手をきつく握りながら、再びその瞳が開くのを待っていたシェリダン。
 あの時ほど辛いことはなかった。彼の心は、すでにあの王子に囚われてしまっていた。
 ロゼウスが美しく強く品行方正で完璧な王子……ならばきっと、シェリダンはこんなにもその魂に惹かれることはなかったはずだ。エチエンヌは並ぶ二人を見ながら思った。身の内に破滅を飼う、二人は同じ痛みを抱いていた。あの王子は、完璧な外面を裏切るほど粗暴で口が悪くて、なのにどこか危うげで儚げだ。だから目が離せないのだと。
 おかげでシェリダンはもう、エチエンヌを見ない。
 昨日、行為の最中、ジュダに言われた言葉が次々に脳裏に蘇る。
 ――だが、後ろの方はご無沙汰だったようだな。
 ――物欲しそうにヒクついて。そんなに男のものが欲しかったのか?
 ――可哀想に、エチエンヌ。まだこんなに若くて美しいお前が、もう相手にされていないなんて。あの可愛らしい奥方ともろくにしていないんだね。陛下にお払い箱にされたのが、そんなにショックかい?
 心のどこかが飢えている。
 シェリダンにまた元通り、触れてほしいと。この五年間ずっと、彼の孤独な欲望を慰めるのは自分の役割だったのに。
「陛下」
「何だ?」
「抱いてください」
 唐突な言葉にシェリダンが押し黙った。やがて、脳内に幾つか言葉を並べてさんざん迷った末に選んだかのような顔で。
「どうした? いきなり」
「いきなりじゃありません。それは、陛下の方でしょう。あいつが……ロゼウスが来るまでは、ずっと僕だけを抱いてたくせに!」
「エチエンヌ」
 あの日から五年間ずっと、胸に秘めていた言葉だ。最初の時は、シェリダンの方がエチエンヌに無理強いして、エチエンヌは泣く泣くそれを受け入れて。
 いつの間にか追う者と追われる者は逆転していた。
「あなたが、好きなんです」
「……私もお前の事は大切に想っている」
 恐らくシェリダン自身も、彼らを拾ったときに考えた以上に。けれど、エチエンヌはそれだけでは嫌なのだ。
「お願いです。抱いてください。玩具でいいんです。他の誰にもぶつけられない欲望を、ぶつけてくださるだけでいいんです。あなたの忠実な下僕であるためだけに、僕はここにいるのに!」
 愛されたいだなんて大それたことは思わない。でも、このまま、ロゼウスという代わりがいるからもうエチエンヌはいらないと言わんばかりに手を離されるのは嫌だ。
 そしてそれが代わりなんかじゃなくて――シェリダンがロゼウスのことしか見えていないというのなら、彼しかいらないというのはなおさら許せない。
 ふと、エチエンヌの肩に優しく手がおかれ、唇に柔らかな感触が触れてきた。
「……陛下」
「今は……これからは、それで我慢しろ。我慢してくれ。エチエンヌ。私は――」
 エチエンヌを膝に抱き上げて、シェリダンは優しく告げる。その声が、中途で途切れた。
「陛下? ……エチエンヌ?」
 扉の外に立っていたのは、ローラだった。