027

 その光景を見た瞬間、ロゼウスは咄嗟に飛び出していた。
 そして今、腕の中に気を失った妹を抱きながら、シェリダンに剣を突きつけられている。
「何故」
 低く、いつもより掠れた声。
 シェリダンの折れた首の骨はすぐにロゼウスと同行していた《冥府の王》ハデスが治療した。酒場の外で倒れていた青年も、瀕死の重傷を負ったエチエンヌも、昏倒していたリチャードも治療されて、今はこちらを一歩離れた場所から見ている。
 何かあったらすぐ動けるように。
 ロゼウスがシェリダンに刃を向けたら、すぐ攻撃に移せるように。
「何故、お前がここにいる?」
 傷を癒されたシェリダンの首筋には跡すら残らず、ロゼウスは血まみれで意識を手放したロザリーを抱きしめたため、両手が真っ赤だ。血の色。顔にも胸にも服にも血の染みがあり、彼女は酷い怪我を負っている。
「どうして、お前が私を助ける」
 どうして、だろうな。
 ハデスにシェリダンを救うよう言われるまでもなかった。体が勝手に動いていた。ロザリーがシェリダンを吊り上げて首を絞めている光景を見た瞬間、ロゼウスが飛びかかりその動きを封じた相手はシェリダンではなくロザリーだった。妹の方だった。
『ロ、ゼ?』
 床に押さえつけた相手の真っ白な顔色を見て、その気になればロゼウスにもやすやすと抵抗することができるだろう怪力を一瞬だけ感じて、気づく。
 ヴァンピルの失血症状。普通の生き物より多量の血を必要とするヴァンピルは、一定量の血を失うと飢餓状態に陥り自我が薄れて身体能力の制御を失い、吸血鬼本来の破壊と殺戮衝動に身を任せるようになる。
 目にする生き物全てに襲い掛かり、その肉体を千路に引き裂いて溢れた血を啜るようになるのだ。
 ロゼウスは一ヶ月以上前、確かにこの妹の体を埋めた。そして最近、死んだはずの兄妹たちが甦ったのを知った。一度死んでまた生き返ることは、魔族である彼らでも相当の力を必要とする。
 この妹は、甦って以来血の一滴も飲まずにここまでやってきたのだろうか。
『ロゼ……ロゼウス』
『ロー、ロザリー』
 ロゼウスを見て急に正気を取り戻したらしい瞳からぽろぽろと透明な涙が零れる。
『会い、会いたかった……・ロゼ、ロゼ、私を置いていかないで! もう二度と離れないで!!』
 ロゼウスは妹の体を抱きしめた。力を失った体は弱まり、傷を癒すこともできない。ロザリーの胸と腹部、瞼を刺し貫き眼球を穿った傷痕は無残に残るままだ。そして今こそ正気に戻っているが、このまま血を飲まねばまた我を失い、今度こそ本能のままに殺戮を繰り返す化物となるのみだろう。
 ロゼウスは妹の唇にそっと口づける。口づけで血を分ける。
 ロゼウス自身もそう余るほど力の残っているわけではないが、最近シェリダンから血をもらったばかりだ。
 ロザリーの傷が癒える。ひとまずそれを確認して安堵した。視界の端では先程から《冥府の王》《預言者》と呼ばれ不思議な力を持つ皇帝の弟が他の負傷した人々の治療に努めており、シェリダンやエチエンヌが次々と起き上がるのが見えていた。
 唇を離して顔を上げた自分の目の前に立つ気配。
 こちらを見下して睨む朱金の瞳。
「何故」
 突きつけられた剣先。ロゼウスは腕の中の妹の体をきつく抱きしめる。
「何故、お前がここにいる?」
 破壊された店内は悲惨な様子で、あちらこちらの壁に穴は開き窓は割れ、カウンターも真っ二つにされている。これを全てロザリーがやったのだとすれば、シェリダンが殺されるというハデスの言も強ち間違いではない。現にロゼウスが駆けつけたとき、妹は目の前の男を絞め殺すところだった。
「どうして、お前が私を助ける」
 いっそロザリーにシェリダンを殺させれば、ロゼウスにとっては敵が消えて妹と共に国に帰ることができ、最高の状況が生まれたに違いないのに。
「あんたは、死にたかったのか?」
「いや」
「なら、いいじゃないか」
「…………」
 珍しく言葉少なに、シェリダンが押し黙った。締め付けられた喉が治療の終った今でもまだ痛むのか、襟元を剣を持たないもう片方の手で押さえている。
「シェリダン様」
 背後に立つエチエンヌがシェリダンを呼んだ。彼はこの場で誰よりも酷い格好をしている。傷は治ったが流れた血が消えるわけでもなしに、見事な金髪は血で真っ赤に染まっていた。
 だが、シェリダンは彼の方を見ようともしない。まっすぐロゼウスに視線を向けている。
「その娘は、ロザリー=ローゼンティアと名乗った」
 ローこと第四王女ロザリーの本名は、ロザリー=テトリア=ローゼンティア。
「お前の妹、第四王女だな」
「ああ」
 ロゼウスは頷く。シェリダンの前でこの妹の名を口走ったこともあるし、過日求められて兄妹たちの話もした。
 まさか妹とこんな形で再会するとは思っていなかったが。
 あちらこちらが崩壊した酒場で、シェリダンはロゼウスに剣を突きつけたまま言う。いや、彼が実際に剣を突きつけているのはロゼウスではなく。
「その女は、国王暗殺未遂の罪人だ」
 ロザリーが。シェリダンをエヴェルシード王だと知ったからか、彼を殺そうとしていたロザリー。彼らの国を滅ぼし、父と母たちを殺し、ロゼウスたち自身も彼の手によって一度は殺された。
 憎んでも憎み足りない相手に刃を向けることは、果たして罪か。
 けれどここはエヴェルシード王国。シェリダンの治める国だ。
「陛下のお命を狙った者なんて、普通は極刑だな」
「死罪ですね」
 エチエンヌと、ロゼウスの知らないエヴェルシード人の青年、店の表で倒れていた彼もハデスの治療で目を覚ましたらしく、エチエンヌと共にロゼウスの腕の中のロザリーを敵意のこもった眼差しで睨み付けている。
「その女を渡せ、ロゼウス」
「いやだ」
 ロゼウスははっきりと答えた。シェリダンは表情を変えないまま続ける。
「その者は罪人だ。今すぐにでも死刑に処すことが必要だ」
「駄目だ、そんなこと許さない」
 いくらヴァンピルでも、そう何度も生き返ったりできるわけではない。ロゼウスの母親の生家であるノスフェル家は《死人返りの末裔》と呼ばれ特に甦りの力が強い一族だが、ロザリーはそうではない。そう何度も死んで生き返るようなことなど、させてはならない。
 何より、この妹を今更失うなんてロゼウス自身がいやだ。
「どうしても嫌だと言うか、所詮死んでも生き返る魔物のくせに死が怖いか」
「あんたこそ、臨死の苦しみも知らない脆い人間のくせに死を語るな」
 彼らヴァンピルは、一度でも死に至るあの痛み悲しみ苦しみを知っているからこそ、死を忌避する。二度と生き返ることもできない人間にヴァンピルの何がわかる。
「ロザリーは殺させない。殺すなら、俺を殺せ」
 ロゼウスならば仮にもノスフェルの血をひく以上、一度や二度の蘇生ぐらいやってのける。
 シェリダンが鼻を鳴らした。
「どうせ生き返るくせに、何が殺せ、だ。わかっていないのはどっちだ。死んでも生き返るお手軽なヴァンピル風情が。普通の人間に比べて初めから一度の人生に命を二つも三つも詰め込まれてきた魔物が」
 一袋に一つも二つも詰め込まれ叩き売られている果実のように、安上がりな命だな、と。
「っ! シェリダン!!」
「取引をしろ、ロゼ王妃」
 ロゼウスの激昂を鼻先で挫く形で、シェリダンがそう告げる。
「取引?」
 この男のこの言葉には、ろくな意味がないとすでに知っている。今も身に纏うのは女物の衣装。この女装がその実証だ。
「そうだ。お前はその女の命と引き換えに、その女を私に引き渡せ」
 ロゼウスがローゼンティアの民の命を救うために自らの人生の自由を捧げてシェリダンの王妃となったように、今度はロザリーを、命を救う代わりに奴隷にしろと言うわけか。それも本人の承諾なしに。
「でなければ、その女は殺す。もともと、私はお前以外のローゼンティア王族など生かしておく気はない」
「だから、『王族であること』をロザリーから奪うっていうのか」
 そして命の代わりに魂を売れ、と。
 ロゼウスは数瞬、息を止めて考える。そしてそれを吐き出したときに、答えは出ていた。
「……いいだろう」
 これを知ったらロザリーは怒るだろう。彼を嫌い、憎み、軽蔑するかもしれない。
 けれどそれでも、ロゼウスは妹に生きていて欲しい。こんな形で彼女を失いたくはない。
「取引成立だ。その罪人は私の所有だな。城へ運ぶぞ」
 剣を降ろし、シェリダンはリチャードに向けて顎をしゃくった。心得た青年がロゼウスの方へ歩み寄ってくると、腕の中からロザリーを引き離して横抱きにする。すでに傷は塞がっているから心配はないが。
「俺が運ぶ」
「駄目だ。お前にそんなことをさせたら帰る前に何をするかわからない」
 何もしないと言っているだろうに。
 シェリダンは無理矢理ロゼウスの手を掴み、自分のほうへと引き寄せた。力が込められすぎていて、手首が痛い。
「陛下」
 疲れきって魂が抜けたような声で、カウンターの奥からシェリダンに声をかけてきた者があった。バイロン宰相。いたのか。そう言えば彼もこの旅の随行だとは聞いていたが。
「城へと戻るぞ」
 シェリダンはバイロン宰相に告げ、さらにその隣に立つ男へと視線を移した。つられてその方向を眺めたロゼウスは、妙なことに気づく。
「シェリダンに、似てる?」
 何の変哲もないエヴェルシード人の特徴である蒼い髪に橙色の瞳だが、男の容貌はどことなく自分の手を引く国王陛下に似ていた。
「邪魔をしたな。建物の修理費は後で届けさせる……クルス=ユージーン侯爵!」
「なんでしょう、陛下」
 ロゼウスの知らない名前を呼んで、その場にいた青年に手早く指示を与える。
「この酒場の復旧を手伝え。できるかぎりに早急に。そしてこの損害の賠償を。上手くゆかなければイスカリオット伯あたりを使え」
「かしこまりました。拝命仕ります、陛下」
 そしてシェリダンは再びカウンターの向こう側の男へ声をかける。ばつが悪いというよりなお厳しく、後ろめたいような厳しい顔つきで。
「罪人は引き取っていく。店は元通りになるから心配するな。不足があったらそこのユージーン候に言え。……今日は失礼した」
「待ってくれ!」
 悲痛とも取れるほどの声で、男がシェリダンを呼びとめる。
「ローを返してくれ! あの娘は悪い子じゃないんだ! 頼む! ちゃんと話をさせてくれ!」
 驚いた。ローはロザリーの愛称。男はロザリーの知り合いなのか。
 だがシェリダンは男の訴えをにべもなく断った。
「それはできない」
「国王!……いや、甥御殿!」
 甥? つまり、この男はシェリダンの叔父? こんな下町で小さな酒場を営んでいる相手が?
「それでも、駄目だ。私は……エヴェルシードの王であるから」
 ただのシェリダン=ヴラドではない。今、ロゼウスの手を引いているこの男はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。
 この国の王。
 そのまま後は振り返らず、シェリダンはロゼウスを引きずりながら店の外へと出た。
「待ってくれ! 王! 陛下! シェリダン王!」
 男の悲痛な叫びはいつまでも追ってくる。店の表に無理矢理乗りつけるようにして馬車が運ばれていた。入り口まで駆け出してきた男は、馬車の窓に縋り付いてまで叫んだ。
「ロー!」
 御者台に座ったリチャードが、無慈悲に馬に鞭を当てる。土煙と共に、辺りの景色が動き出し、遠ざかっていく。定員オーバーの馬車の中、ロゼウスは膝の上に気を失ったままのロザリーを抱きながら。
「ロー!」
 いつまでも止まないその声を聞き続けていた。


028

「約束が違う!」
 寝室に引きずり込まれながら、ロゼウスはシェリダンに対して怒鳴った。ロザリーからはすでに引き離されて、ロゼウスは血まみれのままシェリダンに腕を掴まれて帰って来た。
「陛下! 王妃様! そのお姿は!?」
 一人残されて留守を護っていたローラが、彼らの姿を見るなり仰天して針と糸を放り出す。それもそのはず、ロゼウスもシェリダンももはや誰のものとも知れぬ血にまみれ埃や木屑さえ纏い、全身が汚れきっている。
「すぐにお着替えを用意しますから、湯殿の方へ」
 王の寝室には専用の風呂がついている。ローゼンティアでは考えられないことだが、エヴェルシードでは普通らしい。そのおかげでロゼウスも今日まで女装がバレずに来ている。
 すでに湯が張り巡らされている風呂場に服のまま放り込まれて、ロゼウスはタイル貼りの床にへたり込んだ。シェリダンの胸倉に掴みかかる。
「どうして、ロザリーを」
「エチエンヌにやったことか? 別に約束を違えたわけではない。あれの身柄は私に託すとお前が承諾したんだ、ロゼウス。私が私のものを自分の部下にやって何が悪い」
 そう、この男は、ロゼウスの妹を自分の小姓に下賜、した。まるで物でも扱うように簡単に。
「ふざけるな! あんたがあの娘の身柄を管理すると言ったから俺は承諾したんだ! なのに」
「エチエンヌのどこが不満だ? 身分などとつまらぬことを言うなよ」
「そうじゃない! そうじゃない、けど……」
 思い出す。シェリダンを裏切ってローゼンティアのヴァンピルについての情報を隠していたのが発覚した際に、加えられた仕置きと言う名の拷問。嬉々としてロゼウスを嬲っていたあの顔だけは綺麗なお小姓が、妹をどんな酷い目に遭わせるかと考えればロゼウスは数時間前の自分の選択を呪いたくなる。
「ロザリー……」
「それより、ロゼ」
「なん……ぷあっ!」
 いきなり顔面に水をかけられた。いや、正確には水ではなくて、お湯だ。湯桶に張られた丁度よい暖かさの湯。全身が濡れ、ドレスに染み込んだ血がじわじわと溶け出して赤い流れを排水溝に向かって描く。
「とっととその汚れた体を洗い流せ。次に移れん」
「次? 今度は一体何をする気だよ、あんた」
「決まっている」
 シェリダンは自らも湯を被り髪を濡らし、重たい上着を脱ぎ捨てながら事も無げに告げた。
「やらせろ」
「……は?」
「私はお前たち兄妹のせいで今非常に気分が悪い。両手の指を一本ずつ斬りおとされたくなかったら大人しく抱かれろ」
 男の攻撃本能は性欲と結びついているというのは、一般の俗説だ。
「や、るって、こんな昼間から」
「昼間だろうと朝だろうと関係あるか。寝台で飽きたと言うならここでやってやるぞ」
 気だるげに、確かに普段より幾分低い声で不機嫌そうにこちらを睨んだシェリダンは苛立ちをその瞳に湛えている。
 その指がつと持ち上がり、お湯に濡れて肌へと張り付いたドレスの胸元へと触れた。透けた布地に浮かびあがった乳首を刺激する。
「あ、はぁっ……ふ」
 ロゼウスは抵抗らしい抵抗すらする気にならずシェリダンに体の節々を弄ばれながら、小さく喘ぐ。
「相変わらず感度の良い、いやらしい体だな」
 その様子に満足を覚えたのか、シェリダンがようやく口の端を吊り上げる。ロゼウスの濡れたドレスをもどかしげに脱が、自らも服を脱いだ。床に置いてあった石鹸箱からロゼウスの知らない、何かとてもいい香りのする石鹸を取り出して泡立てる。それでまずロゼウスの全身を洗う。
 石鹸の泡でぬるつくシェリダンの指に全身を撫でられて、ロゼウスはたまらなくなる。呆気なく快楽に流されて、もっととせがみそうになった。彼はロゼウスの髪を湯で流しながら、耳元で低く囁く。
「もう少し待て、後で存分に可愛がってやる」
 流れた血液を放置しておくのは感染症の元だ。だから、汚れた体はさっさと洗い流してしまい、着ていた服もできる限り血を洗い流し、それでも染みは残るだろうから捨てるのだという。
 ロゼウスは全身くまなくシェリダンの手で洗われて、湯桶から立ち上る熱気にのぼせて半ばぼんやりとした頭で自分の体に取り掛かるシェリダンを見ていた。タイルの壁に背を預け、ロゼウスの方に背を向けるシェリダンの背中を見る。
「――え?」
 傷だらけの背中。
「ああ、これか」
 一ヶ月以上、毎日のように肌を合わせその裸を見ていたにもかかわらず、全く気づかなかった。そう言えばロゼウスは服を着ている時以外では、シェリダンを後ろから見たことがないのだ。
「鞭の、痕?」
「ああ」
 傷痕からそうと知れた。しかも、一度や二度打たれただけのものではなく、その滑らかな肌を無粋に侵すように残された傷は深く穿たれてもう一生治りそうになかった。
「どうして」
「……お前は気にしなくていい」
 夜の闇の中でもヴァンピルの視界は鮮やかだ。ロゼウスはシェリダンの背中は知らないが、胸なら何度でも見ている。この年頃の少年らしく少しだけ薄い、たくましくはないが華奢でもない均整の取れた体つき。その滑らかな胸。なのにどうしてその反対側は見るも無残な傷だらけなのか。これはまるで。
 全身を洗い終えてさっぱりとしたシェリダンがロゼウスの腰を抱いて、湯船へと向かう。
「虐待」
 暖かいお湯に浸かりながら、一度だけ呟いた。シェリダンが眉を揺らし。
「お前は違うのか?」
「え?」
 ロゼウスの腕を掴む。揺れる透明なお湯には幾つもの花の花弁が散り浮かべられていた。シェリダンは裸の胸をロゼウスの背中に寄せる。舌を伸ばして、耳を軽く噛む。ヴァンピル特有の尖った耳。幼い頃は、ただの人間はどうして耳が丸いのか不思議だった。
「あん……」
「お前だってされていたのではないか、虐待?」
 兄に抱かれた弟ならば。
「俺は、兄上が好きだ。それにヴァンピルの傷は魔力さえ足りていればすぐに治るから……」
 遊びのように軽く鞭打たれたこともあるが、今では全て消えている。ロゼウスの耳から、今度は背中を舐めていたシェリダンが。

「だから、お前のような者は嫌いなんだ」
 忌々しげに、舌打ちをした。

 ◆◆◆◆◆

「聞いてよローラ!」
「きゃっ、どうしたの、エチエンヌ?」
 王の寝室に駆け込む。洋裁途中の姉に抱きつき、エチエンヌは開口一番そう言った。針を扱っている時に危ないといえば危ないのだが、何事においても器用なローラが自分の指を刺すような真似をするはずがない。
「あのローゼンティアの第四王女がね!」
「ロザリー様? どうかしたの?」
 双子の姉はエチエンヌの苦労など微塵も知らず、愛らしい様子で小首を傾げた。エチエンヌは思わず、その唇に口づける。姉の体に思い切り抱きついて憂さを晴らすために、その服を脱がせようとした。今ならローラの旦那さんであるリチャードさんもいないことだし。
「首尾はどうだったんだ、エチエンヌ」
 と、思ったらいつの間にか背後にシェリダンが来ていた。エチエンヌの行動を見て呆れたように腕を組む。ローラがあらわになった肩と肌蹴た胸を特段恥ずかしがる様子もなく冷静に仕舞った。
「首尾というと、ロザリー様とエチエンヌの?」
「当たり前だ。まがりなりにも『妻』という名目で与えたものだ。不具合があったらなんなりと言え」
「……不具合も何も」
 まだ不具合があるのかどうかもわからないような状態です。
 エチエンヌは唇を尖らせて、シェリダンに報告する。
「駄目でした。あれは。まだ何もやっていません」
「まだ? 珍しいな。お前が手をつけないなど」
 唯一にして絶対の主であるシェリダンのご命令とならば、何でもやるというのがエチエンヌの信念だ。その通りに王妃の名を冠する少年まで犯したというのに、今回は……。
 思わず溜め息が出てしまう。
「実は……」
 話は、昨日のことへと遡る。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンの母方の叔父が経営しているという王都下町の酒場に向かうというのでついていったエチエンヌたちは、それはもう大変な目にあった。
 一体どういった経緯でそうなったのか、その酒場にはロゼウスの妹がいた。第四王女ロザリー=テトリア=ローゼンティア。ロゼウスとハデスが一体どういった手段であの酒場までやって来たのかは謎だが、帰りは馬車の定員が二名ほど増えてしまったのでエチエンヌは御者台のリチャードと一緒に座っていた。だもので直接聞いたわけではないが、そちらもすし詰め状態であるところをロゼウスがロザリーを無理矢理膝の上に乗せて場所を詰めるという方法でなんとか五人乗った馬車の中で、シェリダンがロゼウスから聞いた第四王女についての基本情報を纏めると。
 第四王子ロゼウスと第四王女ロザリーは一番仲が良い。(というかあの王女の場合兄に対して異常ななつきようだ)
 ロザリーは国で上位三十人以内に入るだろう格闘の達人らしい。(あの怪力ならそれも頷ける)
 さらに、成長すれば国内で五指に入る腕前になるだろうとも言われている。(どれだけ強いお姫様だよ)
 ヴァンピルは長い間血を吸わないでいると、生命維持本能のため普段は制御している力の均衡が崩れ、とてつもなく凶暴で獰猛になり、身体能力も飛躍的に上がる。(彼らが運悪く出会った状態がこれ)
 気性が激しいのでたぶん一族の中で一番仇敵のシェリダンを恨んでいる。(ロゼウスの推測だというが多分間違ってない)
 エチエンヌたちにわかるのはこのぐらいだ。とにかく彼女の第四王女であると言う身分と、すぐ上の兄であるロゼウスと外見が双子のようにそっくりだということ。恐ろしく強いこと。ロゼウスになついていること。シェリダンを恨んでいること。
 傷はロゼウスが血を送り込んだことによってなんとか塞がったらしいが、彼らとやりあって激しい戦闘を繰り広げたロザリー王女の様子はそれはもうみすぼらしいものだった。顔立ちはロゼウスに似てるのだからさぞや美しいかと思いきや、髪はぐしゃぐしゃに乱れて鳥の巣のようだし、目はエチエンヌのナイフが刺さった時に飛び散った血で瞼が傷つき、顔面中が真っ赤である。安っぽい庶民の服とエプロンは汚れに汚れ、体中血と埃と壁を破った時の木屑にまみれている。
 とにかくその様子をなんとかしろと、命じられて彼女を風呂に入れたのはエチエンヌとリチャードだ。皇帝の弟である最大級の客人ハデスにそんなことをさせるわけにはいかないし(本人楽しんでやりそうだけど。牢獄の番人もノリノリでやってたし)、ローラは帰り着くなりさっさとロゼウスの手を引っ張って行ってしまったシェリダンの湯の世話をするのに忙しかった。
 別にエチエンヌだってリチャードだって女の裸を見慣れていないというわけでもないし、傷こそハデスに治してもらったが怪我をしたときに血に濡れてぼろぼろになった自分たちの湯浴みと身支度をするついでに預かった第四王女の湯浴みを手伝ったまでだ。
 ロザリー王女は途中で起きたようだが、まだ夢心地だったのか常にぼんやりとしていた。彼らはその体をローラとは随分違うな、なんて思いつつ洗い流しながら。
「……げ」
 汚れを全て洗い流した第四王女は確かに絶世の美少女だった。さらに付け加えるならば、兄であるロゼウス王子にそっくりだった。顔は全く同じで髪の長さが違う。ロゼウスの髪は肩に届かぬほど短いが、ロザリーの髪は腰まである。
ぐしゃぐしゃに乱れて鳥の巣のようになっていた白銀の髪は、湯ですすぐと全世界の癖毛に悩む淑女が羨むような真っ直ぐな絹糸のごとき髪へと戻った。水滴を弾く瑞々しい肌、ローラは姉ながら胸がないので比較していいのかわからないが、柔らかな適度な大きさの胸。華奢な手足と腰のくびれ。細い喉首、滑らかな鎖骨。
 瞳が閉じられているのが惜しいような絶世の美貌を持つ少女は、まさに完璧な容貌肢体をしていた。
 そんなわけで軽く磨いただけできらきらしいばかりの美貌を明らかにした第四王女だが、エチエンヌにとっては困ったことが一つある。それは。
『その娘はお前の《妻》にしろ、エチエンヌ』
『……は?』
 下賜、と言うことだ。国王からの賜り物。命を救う代わりに奴隷にするとロゼウスが認めた以上この王女の身柄はシェリダンのものだ。それをどうしようと確かにシェリダンの勝手で、しかもエチエンヌにくれるというのだが。
『要りませんよ!!』
 即行で拒否らせていただいた。
『何故だ? 気性はともかく、外見は美しいだろう?』
 シェリダンは笑いながら言った。明らかに楽しんでいる。いいえ、陛下……伴侶選びは慎重に。ご利用は計画的に。性格は大事だと思います。
 とは言うが、実はこのパターンは前にもあった。エチエンヌたちがシェリダンのものとなった五年前のことだ。シェリダンの命で、ローラは侍従のリチャードに与えられた。まだ十歳の少女を、二十二歳の男の妻にしたことを考えれば十五のエチエンヌと十六歳の王女であればさほど違和感はないのかもしれない……けれど。
『謹んでお断りしたいのですが』
『駄目だ』
 再三頼んでも聞き入れてくれなさそうなシェリダンの様子に、エチエンヌが溜め息をつきかけたその時。
 シェリダンはエチエンヌの耳元に唇を寄せて囁いた。
『妻と言うのは単なる名目だ。エチエンヌ』
『と、言うと』
『あのじゃじゃ馬をお前が調教しろ、エチエンヌ。素直で従順な人形へと。……できるだろう』
 かつてあなたが僕たちにしたように?
『……わかりました。けれど、一筋縄には行かないと思うんですが』
『時間には余裕があるだろう。ロゼウスの話では、見た目は治りきったように見える傷でも回復にはまだ時間がかかるらしい。その間にものにしろ。あの娘がいれば、それを人質にまたロゼウスを揺することが可能だ。せいぜいローゼンティアの内情を聞きだすぞ。そして私のもとにロゼウスがいる限り、あの娘も簡単には逆らえないだろう』
 ロゼウスのことは国民を人質にとっているとは言っても、いまいち確実性や視覚的なインパクトは弱い。実際に何かあったときにどこまでこちらが行動に移せるか問題もある。だが、妹を人質に取れば、こちらにもあちらにもわかりやすく脅すことができる。
『わかりました。やってみます』
 エチエンヌの受諾の声を聞いて、シェリダンは耳元に唇を寄せたまま、また小さく笑った。
『それにお前も、ローラとばかりでは目新しさがないだろう。せいぜい新しいモノで楽しめ』
 シェリダンはエチエンヌとローラのことに気づいている。
 けれど陛下、僕が最近欲求不満なのは、以前のようにあなたが構ってくださらないからですよ。
 ロゼウスが来てから、あなたはあの男ばかりを相手にして。
『…………ありがたいお言葉』
 そう答えるしかない。遊ばれているとはわかっているけれど、エチエンヌはどうやったってしがないあの人の奴隷。
 二人がかりで湯浴みを終えて、王女を着替えさせる。ドレス姿になると、一層ロゼウスを見ているようだった。しかもこちらの方が完璧だ。当たり前だがロゼウスには胸がないので、肩から胸元にかけて覆うパーツのある衣装でいつもその辺りを誤魔化している。しかしこの豊満な体を持つ少女にはその必要がない。
 エチエンヌはこの少女を好きにしていいと言われた。考えてみれば儲けものではないか。王妃であるロゼウスには直接手出しはできないが、シェリダンから下賜されたこれになら、エチエンヌは堂々と何でもすることができる。恨めしいロゼウス相手の鬱憤を、ロザリーに向けて八つ当たりできる。同じ顔の兄の代わりにこの美しい少女を思う存分踏みにじれば、少しは胸がすくだろうか。
 だがそれは妄想の段階で終ってしまった。
「ロザリー」
 名を呼びながら口づける。口づけで目覚めるなんて物語のお姫様のようだが、ヴァンピルとは謎だ。どうしてそうなるのかよくわからないがそうらしい。
『ロ、ゼ……兄様』
 最初の一言もロゼウスのことだった。エチエンヌはムっとして簡単に現状と自分の立場を彼女に説明した。そうして。
『ぶわっ!』
 枕が飛んできた。ふわふわだけど結構大きくて重さもある寝台の。両手は手錠でがっちり固定してあるから、手首の一部の力だけで投げたのか。
『冗談じゃないわよ!! どうして私があんたなんかと! 大体あんた幾つよこのガキ! 色気づくなんて百年早いのよ!!』
 思いっきり拒否られた。いや、エチエンヌも初めはそうだったのだから当然の反応と言えば当然なのだが。
 でもやっぱりムカツク。
『ガキとはなんだガキとは! 僕はもう十五歳だ!』
『十五!? 嘘つくんじゃないわよ! あんたなんかどう見ても末の弟のウィルと同じぐらいじゃない! その外見でミカエラと同じ歳なんて笑わせるんじゃないわよ!!』
 本当に十五歳だってば! エチエンヌとローラは幼い頃の奴隷生活の影響で、実際の年齢より発育が遅く、いまだに子どものような体型をしている。
『ああもううるさい! つべこべ言わずに大人しく僕に抱かれろって!』
『嫌よ! 絶対嫌! あんたなんかに触られるくらいなら犬とするほうがマシよ!』
『そこまで言うか!』
 結局その攻防は一晩中続き、エチエンヌは寝不足で疲れ切ったままローラの元へ駆け込むことになった。あの女、どこが弱ってるだって? 手錠で両手を固定されてるのに一晩中どうにか僕に抵抗したんだぞ?
「シェリダン様、僕、もう自信ないです」
「…………」
 あの王女はたぶん兄ロゼウスより百倍強い。


029

 ロゼウスはまともな意識のある妹と、一月半ぶりに向かい合う。
 ロザリーはエチエンヌに手を引かれてシェリダンの部屋へと入った途端、瞳に涙を溜めてロゼウスへと抱きついてきた。
「ロゼウス!」
 何の悪意も含まない声音で久々に名前を呼ばれた気がする。発音は変わらないのに、シェリダンたちだって人の見ていないところでは遠慮なく本名を呼ぶのに、家族に呼ばれるそれとは全く別の響を持っていた。
「ロザリー」
「ああ、ロゼ! どうして、どうしてこんな……」
 ロゼウスの背中に両腕を回し、力の限り抱きしめてくる。ロザリーはロゼウスとほとんど背が変わらない。血乏状態ではないから、非人間的な怪力は発揮されていない。締め付ける腕の力は、切ないほど優しかった。
「どうして女の服なんて着てるのよ! ロゼウス、王妃ロゼって何!? 誰!」
「ロザリー、俺は……」
 この事態を妹に、それもこの妹になんと説明したものか。
「ロザリー……他のみんなは、どうしてるだろうか」
「……わからない。私は……私が目覚めた時には、ルースお姉様だけがいたわ。お姉様が私を起こしたの。そしてロゼがエヴェルシードに攫われたって教えてくれた……」
「ルース姉上が」
 第二王女ルースはロゼウスと同母の姉だ。つまり、ロゼウスと同じ《死人返りの末裔》。性格は控えめで引っ込み思案なのだが、死者蘇生の能力は誰よりも強い。
 その姉が生き残っていたならば、他の兄妹たちの蘇生も完璧に叶っているはずだろう。死者の蘇りは一歩間違えれば死体が動くだけの亡者人形となる。けれど、ルースがそれを間違えるはずはない。
「ねぇ、ロザリー……じゃあ、兄上は」
 ロザリーの肩が揺れた。ロゼウスから体を離し、真正面から見据える。今のロゼウスは女装姿の《ロゼ王妃》状態で、目線も容貌もさほど変わらないロザリーとは双子のように見えているはずだ。
 鏡のように。
「ドラクル兄上は、どうし―――」
「あんな男っ!」
 その名を出した途端、ロザリーが眉を吊り上げ顔色を変える。
「あの男、第一王子はあの襲撃の日にもいなかったのよ! どうしていつも肝心な時に姿を消すの!? 雲隠れみたいに! あの時だって……!」
 ロザリーがあの時というのは、ロゼウスが第二王妃にドラクルと間違えられて絞め殺されそうになった時。普段はあんなにそばにいたのに、あの時だけは姿を消して、後から現れた。
 その時からロザリーはドラクルへの不信感を募らせている。
「ロザリー、ドラクルは……」
「知らないわよ! あんな奴!」
 それきり、妹はそっぽを向いてしまう。
「話は済んだか?」
 ところで、ここはいつもの通りシェリダンの私室だ。つまり、シェリダンもローラもエチエンヌもリチャードも……みんないる。身内の話は内密に、とか、久方ぶりの再会なのだから二人で話せるよう取り計らう、など、囚われの身には一切許されない。
 何でも王族御用達特製防音扉なので、何でもかんでも言いたい放題だから内密の話はここで、ということらしい。逆に言えば、ここに入れる者というのはこの国の最大重要機密を知ることができる者でもあるらしいのだが……今は単なるシェリダンの寝室でロゼウスの寝所だ。
 先日、ロゼウスのせいでシェリダンの奴隷からさらにエチエンヌの妻とまでされてしまったロザリーは、こちらの心配が杞憂で終わるぐらい元気だ。さすがのエチエンヌもロザリーには敵わなかったのか? ローゼンティア最強の女性、無敵の第四王女、白刃の女武闘家と呼ばれるロザリーなだけはある。
「そろそろ私の妻から離れてもらいたいのだが、ローゼンティア第四王女殿」
 嫌味ったらしく妻を強調したシェリダンに声をかけられて、ロザリーが先程よりさらに鋭くまなじりを吊り上げる。
「何よ! この侵略者! 一体私たちの国に何の恨みがあるっていうのよ! 即位したばかりのひよこ王なんてぴぃぴぃぴぃぴぃ自国の中で囀ってなさいよ! 勝手に人の家に入り込んで喧嘩まで売ってくるんじゃないわよ!!」
「ひよこ王?」
 初めて聞いたその呼称に、シェリダンの片眉が危険に吊り上げられる。
「待っ、シェリダン! ロザリーはまだ回復したばかりで」
 妹の性格上止めて止まるものじゃないとわかっているので、シェリダンの方を制そうと彼と妹の合間に体を挟む。すると、シェリダンは軽くロゼウスの腕を引いて素早い手際で自分の体の正面へと抱きこんだ。ロザリーに背を向けてシェリダンと向かい合う形だったのに、シェリダンに背中を抱かれてロザリーと向かい合う形になる。
「え?」
「は?」
「ロ、ロゼウスを人質に取るつもり? そっちがその気ならこっちにも考えがあるわよ!」
 それっぽい体勢にさせられたロゼウスを見て、ロザリーが部屋の隅に控えたローラの方へとちらりと視線を走らせながら言う。ロザリーの呼称を一つ忘れていた。手段を選ばない女。
 だが、シェリダンは思いもかけない方法へと出た。
「ひあっ!?」
「ロゼ! ちょ、この変態王何やってるのよ!」
 思わず変な声をあげてしまう。脇腹を撫ぜるように手を当てられ、耳をくわえられてロゼウスは顔面に朱が昇るのを感じる。
「なななっ、シェリダン、あんた何を!」
「お前は私の妻だろうが。夫が触れて何が悪い。しかもここは私の寝室だ」
「そうじゃねぇ!」
「ふざけんじゃないわよこの変態! ロゼを放しなさいよ! なんで男のくせに男を妻にするとか真顔で口走ってんのよこの変質者! アブノーマル! そんなに男が好きなのこの変態!!」
「ああそうだ」
 こともなげに頷くシェリダン。
「女などきゃんきゃんわめくばかりでうるさい。剣の腕もないのに口だけは達者だ。顔だってお前とロゼはたいして変わらんのだから私がこれを選んで何が悪い」
「あのぅ、私も女なんですけどシェリダン様……」
 成り行きを見守っていたローラが部屋の隅でぽそっと零す。
「お前は別だローラ。口は達者だが腕は立つ。胸もない」
「わぁい、ありがとうございます。最後のは余計ですけど!」
 シェリダンは貧乳好みなのか? そう考えているところに、胸をまさぐられ着衣の上から乳首をつねられる。
「ひっ、あ」
「もっとも、私は女に興味はないがな」
 だめだ。体中触られてそろそろきつい。体が火照り、息が乱れ。
「も、やめ……あん」
「わ、わかったわよ、引き下がるわよ、ここは」
 ロゼウスの様子が少しまずいのを見て取り顔色を変えたロザリーが降参の印に両手を挙げた。顔は思い切り悔しそうで、下唇をきつく噛んでいる。
「そうか。大人しく納得したのならそれはよかった」
 シェリダンは素知らぬ顔でロゼウスを抱いていた腕を放すが、ロゼウスは体中が火照って満足に息もできない。心臓がどくどくと嫌な鼓動を打ち、一人で立っていられなくてシェリダンの肩に縋り付いて顔を埋めた。
「ロゼウス……」
「ごめん」
 シェリダンの肩に顔を埋めたまま、卑怯だとは思いつつ告げた。
「俺は、この人と行くと決めたんだ」
「――あんなにドラクルが好きだったくせに」
 大好きな兄上。誰よりも、誰よりも。
 愛している、ドラクル。血のつながった実の兄を。その想いは今でも消えない。例え裏切られたとしても。
「だから、なのかも……」
 ロゼウスの言葉に、シェリダンが小さく首を揺らした。ロゼウスの顔を見て、口元をきつく引き結ぶ。
「……これで、話は終ったな」
「私」
「お前はそこにいるエチエンヌ=スピエルドルフの妻となれ。口答えは許さん。お前が余計なことをするなら、ロゼウスの身も保証はできないな」
「こ、の」
「――下がれ、薄汚い吸血鬼ふぜいが」
 暴言に、ロザリーが形相を歪める。だが、何も言えずにただロゼウスを見る気配。顔を、上げられなかった。
「――いいわ。妻にでもなんでもなってあげようじゃない。薄汚い吸血鬼に血を吸われて、せいぜい後悔しなさい! 非力な人間風情が!」
 叩きつけるように叫び、ロザリーが部屋を出て行った。エチエンヌが後を追い、ローラとリチャードも出て行った。
 二人以外に誰もいなくなった部屋で、シェリダンがロゼウスの体を寝台へと叩きつける。不意打ちを喰らって、咄嗟に動けない。起き上がろうとしたが、すぐさまシェリダンが体の上に覆いかぶさってくる。
「―――先程のことは、どういう意味だ」
 ロゼウスは兄を愛しているからこそ、この男の妻になったのだ。

 ◆◆◆◆◆

「かわいいもんだねぇ」
 エヴェルシード王付きの侍従に給仕をさせながら、ハデスは午後のお茶を楽しむ。客人の身分でありながら城の主に放って置かれているんだから、このくらいしてもいいだろう。
「そう思わない?」
「何が、でしょうか?」
 蒼い髪に橙色の瞳と言う典型的なエヴェルシード人の容姿を持つ青年が、困ったように僅かに眉をしかめた。
「シェリダンが、だよ。王妃陛下のことに、あんなに夢中になっちゃって、ね」
 わざわざ彼を下町まで送り、ここにいるリチャードや小姓のエチエンヌ、その場にいたユージーン侯爵クルスの怪我まで治して差し上げたというのにハデスが昨日から放置プレイなのはそのせいだ。シェリダンは新妻が可愛くて仕方ないらしく、皇帝領からの客人のことなど忘れているに違いない。まあ、正式な使者ではなく、ハデスはこういう性格だ。そういう意味では気にはしないが。
「ねぇ、可愛らしいと思うでしょう?」
 別の意味では気になるのだ。実の父親を幽閉し、妹にその父を殺させて罪を着せ、自殺へと追いやったほどの男が隣国から向かえた姫君に夢中だなんて。
 しかもすでに華燭の典は挙げているから正式な夫婦であり、さらに驚くべきことには、花嫁は実は王女ではなくて王子、正真正銘の男だ。
 実に面白いことになっている。
「可愛らしい、と申しますか、我らが主は、一たび手に入れたものについては完璧に全てを管理せねば気がすまない御気性でして」
 つまり、シェリダンはもともとの性格が仕切り屋で神経質なんだね。あの麗しい眉をしかめてわざわざ自分のもの以外の仕事まで完璧にこなそうと頑張るのだから、全く持ってお可愛らしいとしか言いようのない王様だ。
「そうなんだ。ふーん」
 勝手に問いかけて勝手に納得するハデスに、リチャードは薄気味悪そうに目の光を強くした。顔の筋肉がわずかに緊張しているようだ。
 ハデスがよく言われるのは、何を考えているのかわからないということ。
 いつも笑顔で、薄気味悪いということ。
 たぶんいろいろな事情を抱えた人間が集まるシェリダンの周りでも、一番不可解な存在に違いない。他の人々のハデスの扱いに狼狽する様子が手に取るようにわかり、彼はこっそりほくそ笑む。
「ハデス卿にかかれば、シェリダン様も可愛らしいの一言ですみますのね」
 リチャードの妻であるローラが、眉間に皺を寄せながらそう言った。彼女とそっくりな双子の弟であるエチエンヌは、今は昨日即行で決められた妻、ローゼンティアこちらは正真正銘の第四王女ロザリー殿下の手を引っ張って、自分の部屋へと駆け込んでしまった。そちらもそちらで何やかやと大変なようだ。
「もちろん君も可愛らしいよ、ローラ。そうだね、今晩の夜伽役に借り受けたいぐらいだ」
「ハデス卿! それは……っ」
 悪ふざけをしたハデスの言葉に血相を変えたのは、口説かれたローラ本人ではなく、その夫であるリチャードの方だった。ローラ本人は。
「それはどうも」
 眉間に寄せた皺を一層深くしながら、そう答えた。彼女は謙遜とは無縁のタイプだ。しかも実際に美人が多いと言われるシルヴァーニ人の中でも際立った容貌で、人目を引く少女である。男からの世辞など言われなれているだろうし、愛してる等の言葉は傍らで土気色の顔をしている旦那から毎晩でも囁かれているに違いない。
「冗談だよ。こんなところで女遊びしてたなんて言ったら、姉さんになんて言われるか」
「で、ハデス卿。そろそろ本題に移りたいのですが」
「いいよ。まずはそちらからどうぞ」
 ハデスがここにいるのは、何も彼らに紅茶を淹れさせるためだけではない。シェリダンがお取り込み中で仕方がないから、忘れない内にこの二人にも事情を話して、ハデスの見たものを覚えておいてもらおうと思ったのだ。
 《預言者》。
 《黒の末裔》、《冥府の王》とも呼ばれるハデスを有名にしたのがその名。
 ハデスが見るのは、今とは別の時間。これからの運命を左右する過去。これからを紡ぐことで導かれる未来。その幾つかを垣間見て、ハデスはその道筋を言葉にする。
 だけど、まずは彼らの話したいと言ったことにも耳を傾けないとね。
「何故、ロゼ王妃を下町へと連れて行ったのですか? その際にあなたは何を取引したのですか? そして、あなたはシェリダン陛下が危険に遭うのを知ってらしたのですか?」
 ローラが立て続けに問う。現皇帝の弟は気まぐれだと有名で、だからこそ誰もがハデスの表面上の動きに関しては気にするけれど、その内面について深く問うことはない。
さて、この場合はどう誤魔化したものか。
「せっかくみんなで城を空けていたようだから、これを機に美貌の王妃様とお近づきになろうと思ってね。聞けば、外へとなんとか出たいという話。僕もシアンスレイト城下を見たかったし、美人と二人旅も悪くないかと思って」
 リチャードは無表情だが、ローラは全く信じていない様子で口元を引き結ぶ。
「真面目に答えてください」
「やだなぁ、これでも真面目のなのに」
 嘘は言っていない。ただ、順番と重要度が逆なだけだ。あらかじめ目的があってそのついでにロゼウス王子と取引し、城下町見物へと繰り出しただけだ。
 その目的をまだ、この国の人々に……いや、この世界の誰にも知られるわけにはいかない。
「シェリダンが危険な目に遭うのはわかっていたよ。ただ、諸々の事情あって、その運命がよほどでなければ覆らないこともわかっていたし、彼を止めても無駄だってことも僕は知ってる。だから止められそうな人を連れて行こうと思っただけだよ。幸い、あの王妃様は随分外に出てみたかったみたいで、それと引き換えにしたらあっさりシェリダンを助けることを了承してくれちゃった」
 きっと取引などしなくても、あの王子ならばシェリダンを助けただろうとは思うけれど。
 ローラがハデスをじっと睨み、嘘をついていないかどうか見極めようとする。負けじとハデスはにっこり微笑む。周囲からは得たいが知れないと、薄気味悪いと言われるこの笑顔。
「…………わかりましたわ」
 何とか誤魔化せたようだ。
「とりあえずそういうことにしておきます。けれど、これからはあの王妃について勝手な行動は、いくら貴方様でも謹んで頂きたいのです。もしも正妃の正体がローゼンティアの王女ならぬ王子だなんて知れたら、シェリダン様は身の破滅ですもの」
「わかってるよ、ローラ。いくらなんでもそんなへまはしない」
 そう、そんなへまはしない。
 何故ならロゼウスの宿命を歪めるためには、彼とシェリダンを貶めるのではなく、共にいさせることこそが破滅への一歩だとハデスは予言したのだから。あの二人はゆっくりと惹かれあいながらも、その道を共に行くことで滅亡する魂なのだから。
 ハデスは口元を歪める。
 いつも笑みを浮かべているから、その種類が変わったことになど誰も気づかない。鋭いといわれるこの目の前の二人でさえ。

 さあ、宴の始まりだ。
 思う存分、その胸の暗黒に狂うがいい。


030

「それで、ハデス卿のお話とは?」
「ああ、それは……」

 ◆◆◆◆◆

 固まっていて一網打尽にされるよりは散開して一人でも多くが逃げ延びようと。
 先行の兵士を退け小屋を飛び出した彼らは、走りながらも打ち合わせた。
 アンリがエリサとウィル、一番小さな二人を逃がすためにその護衛を引き受ける形となった。アンやミザリーは、自分たちが留まり少しでも足止めをする気だったのだろう。一番後ろを走っていた。
 普通なら逆だろうと思う。まだ十歳を超えたばかりのウィルやエリサを生かしてもどうなるものでもない。確実性を狙うならば弟妹を犠牲にしても姉や兄が生き残るべきだと、みんな頭ではわかっていた。でも、それでも兄妹の若い方から生き延びさせたやりたくなるのが家族の心なのだ。
 この中で一番強く、王位継承に最も近いアンリも国にとっての重要性は高い。だからこそ彼に末の弟と妹を任せた。アンは他の兄妹を庇って死ぬ気だったのだろう。
 ヴァンピルの寿命は長い。だからこそ余計に人々は体を鍛え、身を守る力をつける。修行時代が長いから歳が上であればあるほど、もちろん個人差はあれど一般的に強い。
「ヘンリー、そなたもさっさと逃げい」
「嫌です。でしたら姉さんこそお先にどうぞ」
 兄姉たちの心を察して、末っ子の二人は涙を堪えながらアンリに先導されて逃げた。一番年長のアンリも、自分の立場をわかっているからこそ妹弟たちを見捨てて逃げるという決意をした。
 もはやエヴェルシードの兵士の姿までも明らかだ。残っているのは第三王子であるヘンリーと、第一王女アン、第三王女ミザリー、第五王子ミカエラ、第五王女メアリー、第六王子ジャスパー。
「ジャスパー、メアリー、ミカエラ、お前たちも逃げろ」
「メアリー!」
「でも……でも」
「お前たちがいても役に立たない! いや、それよりミカエラを連れて行け」
「兄上!?」
「当然だ。お前は体が弱いのだから」
「だからです! こんな僕が生き残っても仕方がない! それよりも兄上たちが逃げた方が」
 国のために。
 だけれど。
「弟を殺してまで生き延びたくなんてない。ロゼウスだってきっとそう言うよ」
 それでも救いたかった。
 ヴァンピルの再生能力はもうすでに知られている。今度こそ彼らは殺されるだろう。二度と生き返ることすらできない永劫の闇に葬られるだろう。
「……わかりました、兄上、姉上、御武運を」
「どうか……どうか、お元気で」
「ジャスパー! メアリー!」
 頷いたのはミカエラではなく、第六王子ジャスパーと第五王女メアリーだった。ジャスパーがミカエラの腕を引く。
弟の腕を振り払うこともできず、ミカエラが唇を噛む。
「この先でも兵が待ち受けていることはあるんだ! 一人が捕まったら、その一人を見捨ててでも逃げる決断をしろ!」
「ヘンリー!」
「兄としての命令だよ、ミカエラ」
 だが言い争っている時間はなかったようだ。
「!?」
「きゃぁああ!」
 目も眩むような閃光が炸裂した。辺りの土が吹っ飛ぶ。
 魔術!? だがどこから、誰、が……
「カルデール?」
 少し先の地面に馴染んだ面影を見つけてヘンリーは絶句する。
 アウグスト=ミスティス=カルデール公爵。ローゼンティア国民でありながら、国を裏切った男。
 ヘンリーの最も親しい友人であったはずの男だ。
「お久しぶりです、第三王子殿下」
 言って、彼はその手元を振るう。
「うあっ!」
「ぐっ」
「アン姉様! ミカエラ!」
 二人の首元に鞭が巻きつく。そして、カルデールともう一人、エヴェルシード人らしい女の下へ引きずられていった。
「何をする! 二人を放せ!」
 ヘンリーが叫ぶのも構わずに、アンが声を張り上げた。
「ジャスパー! メアリー! ヘンリー! ミザリー!」
 ジャスパーとメアリーがハッとする。次の瞬間、二人別々の方向へと走り出した。
『一人が捕まったら、その一人を見捨ててでも逃げる決断をしろ!』
 つい先ほど、ヘンリー自身が叫んだ言葉だ。アンが促し、ジャスパーとメアリーの二人はそれを忠実に守った。本気を出したヴァンピルの身体能力にただの人間が敵うわけはない。みるみる内に二人の後姿が遠ざかる。
「バートリ公爵! あの二人は」
「追って辿り着けるの? あなたたちの足で。放っておきなさい」
 ジャスパーとメアリーを追おうと走り出しかけていた兵士の言葉に、ミカエラを鞭で締め上げたまま、けだるげな美女が答えた。どうやらエヴェルシードの大貴族らしく、真紅と紺の鎧が眩しい。
「ミザリー」
「私は……」
 ヘンリーは同じようにこの場に残ったすぐ上の姉に声をかけるが、彼女は動かない。
「その方が身のためですよ、お二方」
 カルデールが告げる。ヘンリーはその方向を睨む。
「お姉様をこのまま絞め殺されたくなければ、投降してくださいヘンリー。我が親愛なる殿下」
「お前などにそう呼ばれる筋合いはない! この裏切り者が!」
 ヘンリーの罵りにもカルデールはどこ吹く風と言った様子で飄々としている。
「ふぅん。面白い趣向よね」
 一方、鞭で捕らえたままのミカエラを手元まで引きずって、エヴェルシードの女公爵がこちらを眺めながら指を伸ばす。ぐったりとした彼の体に手を添えて撫で回し、残念そうな顔をする。
「なんだ、こんなに可愛いのに男の子なのね。だったら、ルイにでもあげましょう。そうね」
 ぺろりと、艶かしい赤い唇を舐め。
「あなたがいいわ。そう、そこのとっても綺麗なお姫様。弟を殺されたくなかったら、私のものになりなさい」
 ミザリーを指して、女は言う。その気狂いじみた様相に恐れをなして震えるが、ミザリーは女の言葉に従った。
 兄弟の仲では最もミカエラの体のことを気にかけている姉だ。ミカエラ自身はロゼウスに夢中でそれを知りもしないようだが、ドラクルについていってばかりいるロゼウスより、本当は彼女の方がよほどミカエラを思いやっている。
 だからこそミザリーは女公爵の言葉に従い、素直にその人質となった。意識を失った弟の元へ行くと、その体を抱きしめて顔を埋める。嗚咽を堪えて。
「さあ、ヘンリー、あなたはどうするのです?」
 アンの首から鞭こそ外しつつ、すぐ側まで引き寄せた彼女を後手に拘束しつつ、カルデールがヘンリーに問う。
「……っ」
「まだ決心してくださらないのですか? もうこの周囲は我らの兵が囲んでいます。今から逃げられるわけもありませんし、さっさと投降したらどうです? 逃げたあなたの妹弟方もすぐにラナ子爵が捕まえてくださるはずですし」
 それでも、彼は動けなかった。嫌だ、この男に投降するなど。こんな、自分の信頼を裏切った男などに、いっそこのまま殺してくれた方がどんなに楽か。
 だがカルデールはそれを許さなかった。
「ああっ!」
「姉上!」
 カルデールは抱き寄せたアンの乳房を服の上から思い切りわしづかんだ。羞恥よりも苦痛にアンの顔が歪む。そのまま柔らかい胸の感触をしばし弄んでいたカルデールが、ふいに胸元から手を離し、襟へと指を添える。喉元をさらけ出させ、口を寄せた。ヴァンピル特有の鋭い牙が覗く。
 血を吸う気だ。
「やめろ!! わかった! 投降する! だからもうやめてくれ!」
 カルデール公爵家はノスフェラトゥ―――自我を失った死体人形作りに長けた一族だ。血を吸えば相手はノスフェラトゥになる。
「もう、やめてくれ」
 体から力が抜け、地に膝をついた。
 彼ら四人は囚われた。
「カルデール、何故こんなことを?」
 エヴェルシードの軍勢とカルデールの私兵に辺りを囲われる中、ヘンリーはかつての友人に尋ねた。放心状態で立ち上がることもできないヘンリーに、彼は囁いた。
「あなたが欲しかったのですよ」
 彼はただ愕然とした。

 ◆◆◆◆◆

 しなやかな指が腹を撫でる。ロゼウスは兄の腕に身を預け。
『あ、あっ、あああああああ』
 いつもくたくたに疲れて襤褸布のようになるまで抱かれた。その時間だけが、日々の甘い蜜。もちろん明るみに出てはただではすまない、究極の秘め事。
『兄上』
『名を呼べ、ロゼウス』
『兄上……ドラクル兄様ぁ!』
 涙ながらに叫ぶと、長兄が口元を歪める。ロゼウスの中に自身を埋めたまま、褒美のように口付ける。
 ロゼウスは恍惚としながら、また兄の名を呼ぶ。
 ドラクル、その意味は竜。
 蝙蝠の翼と蛇の鱗を持ちながらそのどちらにも似つかない優美にして残酷な生き物の名。
『ロゼウス』
 ロゼウスはドラクルに自分の名を呼ばれるたびに、背筋にぞくぞくと快感が走るのを感じる。
 ロゼウス。その意味は、薔薇色。
 だが、ドラクルは違うと言う。ロゼウスの上で笑みを浮かべながら、囁くように告げる。
 ロゼウスは薔薇の下の虜囚だと。
 ロゼウスの名前は兄がつけた。長兄であるドラクルがどうしてもと父母に願ってつけた名だと言う。ロゼウス。薔薇の虜。だが、例えどんな意味だとしても、彼がつけたものだと思えば、この名すら愛しい。
『もっと呼んで、触って、犯して!』
 気が狂うくらいに。いや、もうすでに狂っている。ロゼウスはドラクルが欲しくて欲しくてたまらない。父も母も同じこの実兄だけをただ望んで生きてきた。父よりも母よりも他の兄妹たちよりもかつての婚約者よりも、ただこの兄が愛しい。
 女だったら良かったと思ったこともある。そうすれば、同父母の兄妹ではもちろん結婚することなどできはしないがそれでもドラクルの子を孕むことはできる。そうすればどれだけ幸せだろうかと。
 肛門を満たし体温で温み、どろりと流れ出してくる欲望を感じながら考えた。
『もっと、して、もっと』
『淫乱だな』
 辛辣な言葉を投げられるたびに一層熱が高まった。
 もっと、もっと責めて。
 責めて、攻めて、身体の奥の奥、腹を突き破り心臓すら侵すくらいの勢いで犯して欲しい。
 ロゼウスは兄の白い胸と、汗を滴らせる綺麗な輪郭をよく覚えている。
 背中はあまり見ていなかった。だが、忘れられないできごともある。
『兄上?』
 ある日の昼、ロゼウスはドラクルの部屋にいた。課題の歴史をやりながら、部屋の主である兄の帰りを待っていた。しばらくしてドラクルは戻ってきたが、上着を脱いだその背に、ロゼウスは信じられないものを見た。
『ドラクル!』
 鞭打たれたような傷だらけの背中。
『これ、一体どうして!』
『騒ぐ必要はないよ。ロゼ。どうせすぐに塞がるのだから』
 破れたシャツを脱ぎながら、ドラクルはこともなげに告げる。
『でも』
 いくらヴァンピルの傷の治りがただの人間とは比べ物にならないほど速いとは言え、それでも傷ついたら血を流すことには変わりないのだ。痛みを感じる事は、普通の人間と全く変わらない。
『誰がこんなことを!』
 転んで怪我をしたという傷ではもちろんない。これは人為的なものだ。だがこの国で一、二を争う重要人物、第一王子にこれだけの傷を負わせられる相手など思いもつかない。そんなことをする者がいれば、即刻極刑は確実だ。だがドラクルがわざわざ人に見られぬよう上着を被って帰って来たということは、それはドラクルが告発できないような相手なのだ。
 そんな相手は思いつかない。いや、一人だけ思い当たるには思い当たる相手がいる。だが、その人がそんなことをするわけがない。
『心配してくれるの? ロゼウス』
『当たり前だろ! ドラクル、どうして……』
 兄上はまるでそれが日課でもあるように傷が消えるのを待ちながら、淡々と服を着た。
 そしてロゼウスを抱き寄せると言った。
『そんなに私が可哀想だと思ってくれるなら、お前が慰めてくれる? いつものように』
 ロゼウスは兄の言葉に従い、その足元に跪いた。顔を兄の股間に近づけ、彼のものに手を伸ばし、ゆっくりと口に含む。ぴちゃぴちゃと卑猥な水音をさせて、丹念に舐める。奉仕する。
『ふ、ふふふ』
 ドラクル?
『ふふふ。あははははははは!』
 何がそんなに楽しいのか、ロゼウスに奉仕をさせながら長兄は天を仰いで笑い出した。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンの傷だらけの背中を見て、ロゼウスは真っ先にこのことを思い出した。
『ヴァンピルの傷は魔力さえ足りていればすぐに治るから……』
『だから、お前のような者は嫌いなんだ』
 ヴァンピルの傷はすぐ治る。だから、よっぽどの大怪我で弱っている時でなくては、すぐにその痕まで消えてしまう。
 あの時、ドラクルの背にあったのは鞭の痕らしき傷。あれはその場限りのものに見えたけれど、もしかしたら毎日同じように鞭打たれていたのではないか。すぐに消えて跡形も残らずとも、その傷は確かに存在したのではないか。
 ローゼンティアは歪みの一族なのだと、かつて姉が言っていた。同母の姉第二王女ルースではなく、長女、第一王女のアン姉上だ。
 彼らは誰しも、何かの歪みを抱えている。その狂気を後生大事に抱えて生きて行く。
『……ねぇ、ロゼウス。お前はずっと私の傍にいるんだよ。そうすれば、今にこの国を全て、お前にあげる』
 かつてそう言った兄上。
『決して裏切るな』
 では何故、あなたは俺を裏切ったのか。
 その日ロゼウスは城内を駆け回り、ドラクルの部屋へと飛び込んだ。兄は寝台に腰掛け気だるげな表情でロゼウスを一瞥して、すぐに興味が尽きたように窓の外を見た。
『ドラクル!』
『どうした、ロゼウス』
 どこか陰のある眼差しでドラクルが尋ねる。
『あれは一体何なんですか!』
 ロゼウスはその日、怒っていた。原因はドラクルが王城を離れ、地方に移るという宣言だった。第一王子でありながら王都を離れる? しかも父上もそれを認めている。何故、一体どうして。王子が国の領地の一部をそれぞれ任されるのはよくあることだが、王位を継ぐべき第一王子がそんなことをするなんてありえない。しかも、その放棄された王都の統治権はロゼウスに譲ると。ロゼウスはそれを父王から聞かされた。
『どうしてあんなことしたんだ! 答えろよ!』
 ロゼウスは初めて兄に乱暴な言葉を使った。
 王都の統治権など自分はいらない。それよりも、ドラクルがこの城を離れることが嫌だ。ロゼウスを見捨てて遠くに行くことなど許せない。
 ロゼウスは兄を寝台に押し倒し、その身体の上に馬乗りになって短刀を突きつけていた。
『俺と死んでください、兄上』
 今になって思う。あの時の自分は異常だった。鏡を見る事は無かったから自分ではわからなかったが、きっと目は血走り、歯噛みし、悪魔のような形相をしていたことだろう。
『お願いです、俺を見捨てないで、愛して……』
 あなたに見放されたら生きていけない。
 けれど。
『はぐう!!』
 ドラクルはやすやすとロゼウスを振り払うと、体勢を入れ替えてその首に手をかけた。
『お前に何がわかる、ロゼウス』
 ロゼウスの首を絞める兄の顔は酷薄で、底の知れない哀しみに満ちている。
『生まれながらに全てを持っているお前に、私の何が……っ!』
 首を絞める手ははずされたが、ドラクルはロゼウスをなおも押し倒したまま、服に手をかけた。咳き込むロゼウスは抵抗すらできず、兄に全身を探られる。服を破かれ、肌を晒され、鎖骨の辺りを乱暴に噛まれた。
『嫌だ!』
 初めて、ドラクルに本気で抵抗した。だが、敵わない。この兄に本気で勝てるわけがない。
『いやっ、いやだ! やめてぇ!!』
 初めて、本気で泣いた。気がふれたように抵抗し続け、それでもドラクルは止めなかった。無理矢理肛門に指をねじ込む。乳首を噛み切るような強さで噛む。そして――。
『うああああああああ――!!』
 それは忘れもしない、ローゼンティアにエヴェルシードが侵略を始める三日前。ロゼウスとドラクルの最後の会話。
『お前が愛しいよ、ロゼウス』
 さんざん嬲り甚振り、気に入らない玩具を壊して捨てようとでもするように抱いておいて何を今更。でも、声が出なかった。鞭や蝋燭やナイフや張型、あらゆる道具が床に転がっている。両手は初めの頃に、きつく縛られていた。
『兄、上』
『そして大嫌いだ、我が弟よ』
 心が砕けそうだった。
『きら、い?』
『そうだよ、ロゼウス。私はお前を愛しているけれど、それ以上にお前が憎い。お前の腹をそのままナイフで裂いて内臓をかき回しながらその中で射精できたら、どれだけ気分がすっきりするだろうかと思うくらいに』
 そして彼は凄絶な笑みを浮かべる。
『さよならだ、第四王子ロゼウス。私の愛しい、秘密の囚人』
 薔薇の下には秘密と言う意味がある。
 薔薇の下の虜囚。ロゼウスはドラクルの秘密の囚われ人。
 そして貴方は俺を捨てた。
『あ、あ、あああああああああああああ!!』
 後のことはもう覚えていない。気がついたら、自室の寝台に寝ていた。そしてあの滅亡の日までロゼウスは、ドラクルと顔を合わせていない。エヴェルシードに征服されたあの日、ドラクルは王宮にいなかった。死体を埋めた覚えもない。
 どこかで生きているのですか、我が最愛の兄上。
 俺はあなたを愛しています。今でも。
 檻の鍵はまだ開かない。秘密の囚人はその牢獄から抜け出す事ができない、まだ。


031

 華奢な肩を押さえつける。きつく掴んで爪痕を残す。
 ロゼウスは歯を食いしばって耐えていた。それが義務だとでも言うように。
「いい度胸だな」
 ヴァンピル特有の尖った耳を甘噛みしながら、低く囁く。
「つまりお前は、私をその兄上とやらの身代わりにしたわけか」
 ドレスのスカートの裾から手を居れ、太腿を撫で上げる。そのまま指を滑らし、肛門へと向かう。
「ふ、あ」
 窄まりを探り当て、ぎりりと第一関節ほどまで指を捻じ込んだ。ロゼウスが何とも言えない様子で喘ぐ。
 シェリダンはそうして指を入れたまま、それ以上進めることも引き抜くこともしない状態のままで、話を続ける。苦痛と悦楽の狭間で揺れている状態で止められているロゼウスが、恨めしげな顔をする。
「そんなに、私とお前の兄は似ているのか? そやつへのあてつけに私と寝るのなど容易いと?」
 ロゼウスのしている事は、要は、フラレた腹いせだ。そのドラクルとやらが何を考えていたのかまではシェリダンにもわからないが、とにかくその男に彼は捨てられた。だからその寂しさや苛立ちを紛らわせたくて、よく似たシェリダンに抱かれているわけか。そうすればまた兄の心を取り戻せるとでも、刺激できるとでも思っているのだろうか。それとも。
「誰でもよかったわけか、要は」
 ドラクル相手でなければ誰だって一緒だと?
 代理で手を打つと、そういうわけか。兄を愛しているからこそ、しかもその愛が潔癖なものではなく肉欲の生々しさと穢れを多分に含んだものだからこそ、似た相手と身体を繋げる悦楽に溺れるのだと。
 シェリダンはぐっと指を進め、ロゼウスの中をかき回してほぐす。
「あ、ああ……・ん、シェリダン」
「今更名を呼ばれてもな」
 密着させた肌の下、腹の下で彼のものが硬くなるのがわかる。だがシェリダンは放っておいた。ただ後だけをしつこく、丹念に解す。
「あっ!」
 爪の先が彼のよい部分を捉えたらしく、ロゼウスの顔色が変わる。集中してその部分を弄ると、頬の上気と、喘ぎ声が一層強くなった。
「シェリダン」
 前戯ばかりで本題に入ろうとしないシェリダンに焦れて、ロゼウスが名を呼んでくる。シェリダンはその情欲に濡れた顔を見つめながら。
「え?」
 ふいにその身体から離れた。
「ちょ、ちょっと」
「私はもう寝る。お前も勝手にしろ」
 さんざん昂らせるだけ昂らせておいて、中途で放り出す。燻った熱を吐き出すことができないロゼウスが、慌ててシェリダンに縋る。
「な! ま、待って」
「どうした? 別にいいのだぞ、今日はもう寝ようが、何をしていようが。好きでもない相手に抱かれて苦痛を堪える必要もなくて楽だろう? 早く横になれ」
 時刻はまだようやく夕暮れを迎える頃だが、普段が夜遅いのだから今から寝て、それでもまだ釣りがくるくらいだ。
「そんな!」
 一人でやるという経験はないのか、そんなこと考え付きもしないのか、ロゼウスは火照り濡れた顔でシェリダンの腕に両腕で抱きつく。自らの股間を片足立てて寝台に座ったシェリダンの足に擦り付けるようにして、欲望を訴える。
「最後まで……」
「嫌だ。今日は気分が乗らない」
「でも」
「嫌だと言ったら嫌だ。やりたいなら一人でやれ」
「……」
 ロゼウスは途端に眉を八の字に歪め、唇を尖らせる。
「だったら」
 シェリダンをその気にさせようとでも言うのか、無理矢理肩をつかんで口づけようとする。その胸を遠慮会釈のない力で突き飛ばして、寝台の下へと落とした。
「痛ってぇ!」
 およそ王妃らしからぬ言葉が漏れる。ドレスが思い切り乱れて、それだけでは男とも女とも判断つけられない中性的だが艶かしい手足が覗く。が、今はそれも忌々しいばかりだ。
「私は誰かの身代わりに抱かれるなどごめんだ」
 かつて、自分を抱きながら母の名を呼んでいた父。
「シェリダン?」
 ロゼウスが訝しげにシェリダンを見つめる。シェリダンは無表情のまま。
「どうしてもしたいなら、私をまずその気にさせろ」
 床に膝を突いて起き上がろうとしたロゼウスの顔を、寝台の端に腰掛けた足の間に髪を引っ張って持ってくる。痛みに眉をしかめた彼は一点を凝視し、そのままシェリダンの股間に手を伸ばす。ズボンを下げ、ものを取り出すと口に含んだ。
「は……はぁ……ん」
 ぴちゃぴちゃと舌でそれを舐める卑猥な音が響く。口いっぱいに頬張らせ、ロゼウスが涙を流すのを見てようやく心が静まっていく。
「服従しろ」
 頬に一筋二筋と涙の筋を流したまま、夢中になってしゃぶり続けるロゼウスの髪を掴み、上体を折り曲げ耳元に顔を寄せて告げる。
「兄ではなく、この私に服従しろ。望みどおりのものが欲しくば、跪いて哀願してみろ。許しを請え。私に服従し、私の機嫌だけをとれ。私を」
 私だけを愛せ。……それだけは言葉が続かなかった。
「……っ、ごほっ、う」
 白濁を飲み下せず、珍しくロゼウスがむせた。顔に飛び散った白い雫がシェリダンの熱を煽る。咳き込む彼を無理矢理寝台に引き上げ、押し倒す。肌蹴た胸の赤い飾りを口に含んで転がす。鎖骨の辺りに口づけ、幾つも痣を残す。
荒い息を継がせる間もなく、先程十分すぎるほどに解した場所へと挿入した。
「ふあ! ああっ」
 鼻にかかった甘い声でロゼウスが鳴く。シェリダンはその細い肢体を思う存分蹂躙し、陵辱する。
「はっ……ああ、シェリダン」
 きつく手を絡め、深紅の瞳を覗き込む。赤く充血し涙で潤む瞳。冷めない熱はその目に宿り、シェリダンはその瞳に移っているのが自分であることを確認する。今ロゼウスが確かに見ているのは藍色の髪に朱金の瞳のエヴェルシード人で、彼自身にそっくりな彼の兄ではない。
「お前は私だけを見ていればいい」
「――――っ!」
 しなやかな身体をのけぞらせ、ロゼウスが達する。シェリダンはその中にどろりとした濁りを吐き出しながら、汗ばむ彼の首筋に手を添えて支えた。瞳だけを動かしてロゼウスがシェリダンを見る。
「シェリダン…………」
 その掠れ声が間違いなくシェリダンの名を呼ぶことに安堵する。シェリダンは瞳を閉じ、ロゼウスの中に自身を埋めたままシーツの波に突っ伏す。
 何故か。
 どうしようもなく泣きたくなった。行為の後だから興奮状態にあるのだろうか。
 ロゼウスがふと身じろぎするとシェリダンを受け入れたまま、下から横へともがき出る。
 そして醜い傷痕が忌々しいほどに残っている、この背中に口づけた。ロゼウスのように滑らかでも美しくもない背中。
 温かい雫が幾つも降ってくるのを感じる。
「ごめん」
「……何を」
「ごめん……本当に」
 傷痕に口づけながらロゼウスが泣いた。シェリダンの頬までをいつの間にか熱を持った雫が濡らしていた。
 跪き服従し許しを請え。哀願して私に奉仕しろ。
 それでも、薔薇の下の虜囚は決してシェリダンのものにはならない。降ろされたままの鉄格子が阻む。
 お互いに泣きながら、ただ唇を合わせた。

 ◆◆◆◆◆

 硝子の柩が置かれている。
 豪奢だけど薄暗い部屋。
 その中央に、透明な氷のような硝子の柩が置かれている。
 中には人が横たわっていた。
 ……シェリダン?
 ロゼウスはその顔を見て驚く。
 夜空のように濃い藍色の髪に、女性顔負けの整った容貌。白く滑らかな肌、体型は細身だがしっかりとしていて、優れた体つきと言うのは服の上から見てもわかる。赤い唇は柔らかに閉じられていて。
 その顔は微かに笑みを湛えている。
 ロゼウスが今まで一度も見たことのない表情だ。初夏の木陰に小さく落ちる木漏れ日のように。それとも春宵にひっそりと咲く花のように?
 なんて穏やかな顔をしているのか。彼の表情と言えば嫣然と意地の悪い笑みを浮かべているか、無表情で真剣な目をしているか、それとも何かに怒っていて眉根を寄せているか、そんなものばかり見ていて、こんな顔、自分は知らない。
 けれどその朱金の瞳は閉じられている。
 燃え立つ炎のように激しくも熱いあの瞳。エヴェルシードは炎の国と呼ばれる。髪の色は冷たそうな蒼なのにどうしてそう呼ばれるのかと初めは思っていたが、彼の瞳を見ているうちにわかった。シェリダンの瞳は、熱く燃え立つ炎そのもの。
 その瞳を、硝子の柩の中に横たわる少年は閉じていた。まるで眠ってでもいるように。極自然に閉じられた瞼は優雅な曲線を描き、柳眉は穏やかに孤を描いている。小さな子どもが寝ている合間に嬉しい夢でも見たかのように、小さな笑顔を浮かべながら。
 ああ、こんな表情もするのか。信じられないけれど、それでも柩の中の少年の顔は間違いもなくシェリダンだ。ロゼウスが知っている彼の顔だ。
 そしてロゼウスはようやく、柩が死者のための寝床だと思い出す。
 じゃあ、このシェリダンは死んでいるのか? 
 ロゼウスには信じられない。だってこんなに綺麗に、まるで眠ってでもいるように。思わずその滑らかな頬に触れて肌の暖かさを確かめたくなるくらいなのに、それでも生きていないなんて。
 思わず手を伸ばした。
 どうしようもなく彼に触れたかった。
 触れて、抱きついて、その唇に口づけたいと灼けつく程に願いながら、ロゼウスはその手が届かないのを感じる。
 どうして! 
 透明な檻に手をつきながら叫ぶけれど届かない。
 柩の中のシェリダンは相変わらず穏やかな笑みで横たわっている。
 そしてどこからか足音が聞こえてきた。
 ロゼウスは部屋の様子を見ていた。まるで透明人間にでもなったかのように部屋中どこへでも移動できるのに、ものには触れられないし、何の味もにおいもしない。
 新しく入ってきた人物に注目する。その人にはロゼウスは見えてはいないようだった。
 だがロゼウスをまたしても驚かせたのはそんなことではない。
 ドラクル? 
 新たに部屋に入ってきた人物は、ロゼウスの愛する長兄に似ていた。だが、違う。ドラクルではない。
 白銀の髪は腰に届くほど長く、結い上げていて、瞳は血を凝らせたかのような深紅だ。長兄に似ているということは妹のロザリーにも似ているということなのだが……顔立ちの繊細さはともかく、この体つきは男だろう。
 誰だ? ロゼウスは身内でこの人物に似ている人間がいなかったかと、必死で記憶を手繰り寄せる。だってこんなにもドラクルに似ているのに他人だなんてことはないだろう。だが思いつかない。いや、一人だけ思いついたけれど。
 ドラクルに似ているということは、すなわちこの自分、ロゼウス自身に似ているということ。でも、ロゼウスはこんな姿はしていない。見た目は確かに少年らしいが、纏う雰囲気は段違いだ。長命種のロゼウスがこの姿に達するにはあと百年ぐらいは最低でも必要だろう。ヴァンピルはだいたい力の最も強まる若い時期が一番長く続く。個人差は多少あるが、みな大体そんなものだ。
 そして、この状況であるならこの男がロゼウスであることはありえない。何故ならロゼウスは、シェリダンの死の道連れになると決めたのだから。
 彼が硝子の柩に横たわって永遠に眠り続けているのに、ロゼウスが何百年ものらりくらりと生きて歳をとり続けるなんてことありえない。だって、誓ったのだから。あの日、カミラの葬儀の日。
『堕ちていこう、一緒に』
 あの言葉に嘘はない。違える気など毛頭ない。なのに何故。
 やはり、これは別人か。
 だが、エヴェルシードに侵略されたはずのローゼンティアの民でこれほど熱心にシェリダンを見つめる相手がいるとも考えにくい。
 その男はやはりロゼウスに全く気づかないまま、曇り一つないその硝子へと手をかける。男が手をかけると、硝子はまるで存在していなかのように男の手を通した。一瞬氷かと見紛えたが、やはり硝子だ。氷なら溶けて出るはずの水がないし、硝子の表面に異変は見られない。ただ男の存在はまるで当然のように硝子の板を通過したのだ。
 男の唇が動く。柩に横たわる少年の名を呼ぶ。
『シェリダン』
 ああ、やはりそうなのだ。眠るように横たわるこの少年はシェリダンだ。よく似た他人などではない。
 男はさらに顔を近づけて、少年の亡骸に口づけた。硝子板は彼の存在を透過し、硝子に顔を埋めた男は亡骸とそっと触れるだけの口づけを交わす。
 そして顔を上げるとシェリダンの頬を両手で優しく挟み、切なげな様子で言った。
『どうして、お前は目覚めない。どうして、永遠に俺を拒む』
 これは自分だという気がした。その頬に触れることも口づけることも他人だったら絶対許さないのに、ロゼウスはこの男がシェリダンに触れることを取り乱しもせず眺めていた。取り乱してもどうせ伝わらないのだろうが、それでもこの反応こそが何よりの証明だと思えた。
 男の嘆きはあまりにも深い。
 ロゼウスは胸が締め付けられるような気がする。
『俺が欲しいのはお前だけだ。そのためなら幾つの国を滅ぼしても構わない。そのためなら幾億の人の命だってお前のために捧げてやる。だから、だからっ……』
 そんなことをしても無駄なのに。
『俺を置いて逝くなよ!』
 悲痛な叫び。ああ、これは俺だ。
 大人の姿をしたロゼウスが、シェリダンを失って泣いている。終わりない永劫の慟哭。
 だが変だ。何かがおかしい。これは一体どういうことなのだろう。
 だってロゼウスが一番愛しているのはドラクル兄上だ。その次はカミラだ。シェリダンに全てを捧げる気になんて今のロゼウスはならない。第一、おかしいだろう? ロゼウスは死ぬならきっと彼と共に逝くだろうに。それに幾つもの国を滅ぼす力も幾億の人々の命を捧げる権力もロゼウスは持っていない。
 これは一体なんだろう。
 夢だ。悪い夢だ。
 そう認識したとたん、どこかで誰かが囁く。
『―――……陛下』
 陛下って誰だよ。
『それは全て、ただ、貴方の見た夢なのです』

 ◆◆◆◆◆

 ロゼウスは目を覚ました。
 寝台の隣には眠る前と同じように、シェリダンが横たわっている。こちらに顔を向けた彼の体は温かく、ロゼウスはその胸に顔を寄せて頬に触れた。聞こえるのは心臓の鼓動。手のひらに伝わるのは確かな熱。
 先ほどの事は夢だとわかっているのに、ロゼウスはわけもなく安堵する。
 眠るシェリダンを起こさないようにそっと、掠めるように唇に触れた。


032

「ローゼンティアの王族の一部に逃げられた、と?」
 客室の一つで、シェリダンはハデスから報告を受けていた。先日の下町の件での礼を遅ればせながら伝えなければと気づいたのだが、意外にも入ってきたのは新しい情報だ。《預言者》として名高い皇帝の弟は、ローラをまるで自分の妾のように膝の上に抱きながら言った。
「そ。一部は捕らえたみたいだけど、大部分には逃げられたようだよ。さすが人間の何倍もの身体能力を持つ吸血鬼だけあって、速さでは敵わないね」
「なるほど」
 ロゼウスから聞き出したところと、部下からの報告を総合して考えれば、ローゼンティアの王族で生き残った者はロゼウスを含めて十三人。まだ若く生命力に溢れた王の子どもたちだけだった。そのうちの十一人がまだローゼンティア国内に残っていたはずで、詳しく何人を捕らえたかはまだ伝わっていない。しかし、一人でも捕まえれば残りの者たちの状況をも聞きだせるだろう。
「話はそれだけだよ、シェリダン」
「ああ……ところで、そろそろ彼女を放していただきたいのだが」
 部屋の片隅に控えたリチャードが今にも死にそうな顔色をしている。エヴェルシード国内で間違いなく一番の愛妻家である男は妻の身体に他の男が触れているということが耐えられないらしい。こちらが見ていて気の毒になるほど動揺していた。
 そんなリチャードの気を知ってか知らずか……この男の性格から考慮するに前者であろう。ハデスは膝の上に跨がせたローラの肩を抱き、頬に唇を寄せ、髪を撫でている。変幻自在の外見を持つ少年は今は十五、六のローラに似合いの姿をしていて、なおさらタチが悪い。
「えー、もう少しいいじゃん。皇帝領では姉上様のご機嫌ばっかりとって暮らさなきゃいけないからこの歳になって女遊びの一つもできやしない。たまには羽目はずしたっていいじゃんよー」
「羽目をはずすのは構わないが、できれば余所の国でやっていただきたい」
 シェリダンの言葉にハデスはしぶしぶとローラを放した。普段はリチャードの顔も見たくないような素振りを見せているローラが、珍しく夫の下へと駆け寄る。その背に隠れるようにして、ハデスを睨む。
 疎まれていると知りながらにこにこと笑顔で手を振って見せたハデスが、急に改まった顔つきで話し出す。
「ああ。そうそう。そう言えば今日は君の奥方は?」
「ロゼウスなら寝室だ」
「そう。それは仲がおよろしくて結構なことで。今の話、伝えるの? 伝えないの?」
「ローゼンティアの王族に関して、か」
 伝えた方が良いのか。
 伝えない方が良いのか。
「詳しい話は、捕らえた王族についての情報が入ってからになる」
 ローゼンティアから離反したヴァンピルの貴族と組ませて残党狩りに出したのは、確か王権派でも反王権派でもない中立の女公爵、エルジェーベト=バートリ。本人の態度こそ有能とは思いがたいが、その実力は国内でも随一のものだ。ただ、性格には難があるので御しにくい。
「ふうん……まあ、いいや。好きにしなよ。僕はもうすぐ皇帝領にいったん帰還して姉さんに報告に上がるけど」
「皇帝陛下によろしくお願いいたします」
「うん、わかった。伝えとく〜」
 普段から何を考えているのかわからない男、《冥府の王》は自らに与えられた部屋へと戻った。その背を見送ってシェリダンは、深く溜め息をつく。
「陛下」
「相変わらず、何を考えているのか全くわからない方だ」
 彼には聞きたい事があった。何故、この城からロゼウスを連れ出すような真似をしたのか。その際に、ロゼウスとどんな言葉を交わし、取引したのか。結果的にはそのおかげでシェリダンもエチエンヌやクルスも助かったわけだが、どうも腑に落ちない点もある。こちらが何か問いただしても「預言者に不可能はない」などともっともらしいことを言って、いつものらりくらりとかわされているのだが。
「今回の事は、一体どういう風の吹き回しだろうな」
 シェリダンが尋ねる前にローラとリチャードもそれを問いただしたというが、彼の思惑がはっきりとわかるような答えではなかったという。
 シェリダンはあの手の人間が一番苦手だ。真面目で融通の利かないバイロンのようなタイプや、餌を与えればすぐに媚び諂って擦り寄ってくるような輩の方が扱いやすい。同じ手駒であっても何を考えているのか微妙につかめないジュダより、年若く感情の激しいクルスの方が御しやすいように。自ら道化の仮面を被るものは、仮面の笑みで人々を誤魔化す内側で何を企んでいるかわかったものではない。
「シェリダン様、お部屋にお戻りになりますか?」
「ああ」
 片付けはローラたちに任せて、シェリダンは客間を後にする。ロゼウスの妹でありローゼンティアの王女であるロザリーの調教を任せたエチエンヌは珍しくも梃子摺っているようで、今日はまだ朝から顔を出さない。
 シェリダンは寝室へと戻った。中にはロゼウスが一人ぽつんと寝台に座っている。本日は目の醒めるような青いドレスで、瞳の深紅と相反する色ではあるがそれもまた普段と違った趣があって良い。だが、そのドレスを着ている肝心の本人がまだ夢の中にでもいるようにぼんやりとしている。朝目覚めた時に二、三わけのわからないことを呟いていたのだが、その後から午後を迎えた今になっても、変わる様子はないようだ。
 昨夜と言えば、ロゼウスの長兄への歪んだ思慕を聞き出して怒り、ついつい手ひどく当った……という自覚があるシェリダンにとっては、そのように普段と違う態度をとられると戸惑う。怒っているのか、あれは。それとも何か企んでいるのか?
 やはり感情の読みにくい相手は苦手だ。ロゼウスは普段がわかりやすいだけに、こんな時はとくにそう思う。
 いや、しかし今のこの状態こそが、本当の彼なのだろうとも思う。一見はまともな王子に見えるロゼウスも、その本音を暴いていけば、シェリダンに勝るとも劣らず……過激で狂的だ。世界の破滅を望むシェリダンとは方向性が違うだけで、彼の内面は酷く歪んでいる。そのくせ魂は獣のように純粋で本能に忠実だ。実の兄に恋するなど通常やありえない想いを当然のように受けとめている姿には、一種異様なものさえ感じる。
 それでも、その危うい美しさにシェリダンは魅了されてならない。
「ロゼウス」
 シェリダンは寝台に腰掛け、その名を呼んだ。周囲に余人のいないこの瞬間にしか呼べない名前。薄青い衣装に隠した本当の彼。
 いつもは呼ばれるたびに今度は何を企んでいるんだと言わんばかりに警戒心を露にするロゼウスが、今日ばかりは名を呼ばれるとすぐに寄ってきた。シェリダンの腕に抱きついて、膝に擦り寄る。懐きやすい猫のように、シェリダンにひっついて離れない。
「……お前、何があった?」
「別に何も」
 さらっと返された答えはそれ故に疑惑の霧を孕む。
「なあ、シェリダン」
「なんだ?」
「あんたはさ、俺を死出の道連れにしたいんだよな」
「……ああ、それがどうした」
 自分は破滅の道を行く。親兄妹を殺し身内さえも傷つけ纏い付く者を服従させ、死体の山を築きながら血で描かれた道を行く。
「だったら、俺はあんたが死ぬ時に一緒に死ぬはずだよな」
「お前がそれを了承すると言うのならな」
 ロゼウスは二、三度その長い睫毛で瞬いて。
「……うん、誓う。誓うよ。でも……」
 何事か気がかりでもあるようにきつく目を閉じる。シェリダンの膝にしなだれかかり上半身を預けた少年の身は軽く、その肌は冷たい。
 ふと、ロゼウスが身を起こした。
 感情の読めない瞳でシェリダンの顔を覗き込んでいたかと思えば、次の瞬間シェリダンの視線は天井にあった。彼に押し倒されたのだと気づくまでに、情けない話だが数秒を要した。
「ロゼウス?」
「……いかないよな」
 上から覗き込み、窓から差し込む斜めの陽光で顔に影を落としながら、行かないよな、と。まるでそれは「逝かないよな」とでも問うているように聞こえた。
「あんたは、俺を置いていったりしないよな」
 お前を裏切ったという兄のように? どの口でそれを言うのか、シェリダンを裏切ったのはお前だろう。
「ずっと一緒にいてよシェリダン。独りは寂しいから。死ぬ時も側にいてよ」
 この世で最も悪意なき微笑み。
「――っ」
 その血のように濃く美しい深紅の瞳に、瞬間、シェリダンは総毛立つのを感じる。
「……ああ」
「本当? 約束してくれる?」
 差し出された小指に、自らの小指を絡める。ロゼウスの表情は無邪気で、何の悪意もない。
 それでも何故か、彼のそんな顔は今までシェリダンが見たどんなものよりもシェリダンを恐怖させた。先日の下町、『炎の鳥と赤い花亭』で鬼の形相で血濡れて立ったロザリーよりもなお一層、シェリダンはロゼウスに恐れを感じる。
「約束する」
 今更恐れたところで何になる。シェリダンもお前も、共に地獄へと堕ちるしかないのだから。
「約束する。置いてはいかない」
「うん」
 薔薇の下の虜囚。秘密の囚人。
 だが、本当に囚われたのは私の方かもしれない。
 仰向けになったシェリダンの胸にぽすんと顔を落とし、ロゼウスが満足げな笑みを浮かべて頷く。
 それはとても幸せそうで、けれどどこか切なかった。

 ◆◆◆◆◆

「いいのかい、あれ」 
 ハデスは闇の中の人に話しかけた。見惚れるほど美しい美貌の青年は長い足を組んで、ゆったりとした姿勢で椅子に座っている。
「弟君、シェリダンにとられちゃうよ?」
 秘密の隠れ家にて、ハデスは秘め事の共犯者と逢瀬を重ねる。暗い部屋の中に白い肌と白い髪が映えて、まるで幽鬼のように美しい。
 その血のように紅い瞳。
「ねぇ、いいの? ―――ドラクル王子」
 外見年齢は二十歳にも満たない。しかし不思議に大人びた空気を漂わせる青年が、しなだれかかるハデスの体を受け止めながら答える。
「大丈夫ですよ、ハデス卿」
 余裕ある笑みで、彼は答える。
「例え寂しさゆえに他者に甘える事はあろうとも、ロゼウスは必ず私の元に戻ってきます……必ず、ね」
 艶やかな朱唇を綻ばせるその笑顔は、彼の弟とよく似ている。けれど、その弟王子よりも数段禍々しい。
「ロゼウスが私から離れて生きていけるわけないですから」
「余裕だねぇ」
 まだ二十七年しか生きていないはずの王子。その確信に満ちた目を見ると、むらむらと嗜虐心が芽生えた。
「君が義理の父上からどんなに酷いことされても、忘れられないように?」
 笑みながら告げれば、思わぬ反撃に出会う。
「そしてあなたがどんなに姉上に弄ばれても、皇帝陛下から離れられないようにね、皇帝の玩具殿」
「…………っ!」
「お気づきでなかったのですか? ご自身に関する噂を」
「……お前」
「御気分を害したのなら失礼いたしました」
 言葉の上では慇懃を装いながら、ドラクルの口元は愉悦に歪んでいる。
「いい度胸だね……この僕を怒らせようなんて」
「その言葉、そのままそっくりあなたにお返ししますよ。閣下」
 ドラクルの長い指がハデスの輪郭を辿る。場面に応じて使い分けているハデスの現在の姿は、十五、六歳ほどの少年のもの。
 まさしく、彼に呼ばれた皇帝の玩具となっているときの姿だ。
 ハデスの姉は、十八の時に世界皇帝へと選ばれ、その成長を止めた。ただ、平民出であった彼女は皇帝領に代々集い皇帝に忠誠を誓う貴族たちとの関わりが薄く、誰の手も借りられない時期が長く続いた。そのため姉は一計を講じ、自らの最も近い肉親を皇族として迎えることを目論んだ。すなわち、父母に不老不死を与えることを条件に弟であるハデスを作らせたのだ。そしてハデスが生まれた途端、両親を殺した。
 ハデスは最初から彼女のためだけに生まれてきた。あの人に傅き謙り側近く侍る。そのためだけに。
 目的あって与えられた生。姉がいなければハデスは生まれてくることはなかった。だからハデスは姉の言う事にはなんでも従わなければならない。
「ねえ、ドラクル王子。あなたはシェリダン王がロゼウス王子に触れる事は嫌ではないの?」
「嫌?」
 《冥府の王》としてのハデスの力は地上においても発揮される。ハデスはシェリダンが夜毎に彼の弟と何をしているか知っている。
「あなたが知りたいなら、何ならその光景を見せてあげるけど?」
 要は覗き見だ。いい趣味とは言えないが、他人の弱味を掴むにはもってこいの能力だ。
 だが弟を使って吸血鬼王国の王太子を揺さぶろうとするハデスの思惑はことごとく失敗に終る。
「閣下。私は万人に認められる悪趣味でして」
「うん、それは知ってるけど?」
「もしも私の愛しい弟が、私好みの美しい少年と睦みあっているところなど見たら至福のあまり仕事になりませんが」
 一瞬、こちらをかわすための冗談かと思ったが目がどうやら本気のようだ。
「悪趣味」
「だからそう言っているでしょうが」
「んもう」
 この王子に対するのは疲れる。無駄な駆け引きは諦めて、ハデスはその膝に手を置いた。
「ところで、悪趣味の殿下、せっかく此処まで来てあげたんだし、ちょっと僕とも遊んでくれない? 君の弟とその旦那の熱愛ぶりを間近で見てる上に女遊びも姉上から止められてて、正直たまってるんだよね」
 唇を啄ばみながら告げると、低い笑いとともに腰に手が伸びてきた。
「いいですよ。それではたっぷりと、あなたが望むのなら何でも楽しませてあげましょう。ああ、もちろん」
 着衣を乱しながら囁く。ハデスは彼の胸元に顔を埋める。
「あなたの皇位に関するお話もしないと、ね」

 ◆◆◆◆◆

「それでは、これで建物の修理は終りましたので」
「ああ。……いや、感謝いたします、閣下」
「そんなにかしこまらないで下さい。私はただシェリダン陛下の命に従ったまでですから」
 こんな下町の酒場には似合わない、お上品な服装の少年が言った。この王都の隣の土地を治めているクルス=ユージーン侯爵。まだ若干十六歳の侯爵だが、その剣の腕は国内でも随一と有名だ。
 表向きは反王権派を名乗っていたが、今回のシェリダン王の即位に際してはっきりと王権派の名乗りを上げた「反逆の侯爵」とも呼ばれている。新王への心酔ぶりはよほどのようで、先日お忍びで現れた国王の警護を自ら勤めるほどだ。務まっちゃいなかったが。
 フリッツは店を閉じている間、ずっと考えていた。姉のこと、両親のこと、甥のこと、そして。
 ロー。道端で拾った少女がまさか、ヴァンピルであったなんて。
 それだけではなく、あの時の様子をよくよく思い返して見れば、ローにそっくりな後から駆けつけてきた少女がローを庇うようにしていた。しかもその少女は王と関わりがあるようだった。
 エヴェルシードの新王シェリダンは、ヴァンピルの少女を妻に娶ったのだという。侵略した隣国の姫を。あまりにもローと似ていたあの少女。彼女がその妻だというのならば、彼女に売り二つのローは。
『私はロザリー=ローゼンティア』
 あの時、そう言った彼女は。
『暴虐の王よ! 死して我が父我が民の痛みを思い知れ!!』
 見えないと言っていた目を塞ぐ眼帯をもぎ取り、憎悪の視線で持ってフリッツの甥である少年を、この国の王を射抜いた少女は。
「ロー」 
 開店までにはまだ時間がある。破壊された建物の修復を終えたユージーン侯爵が帰った後、フリッツはグラスを磨いていた。硝子のグラスの水滴を拭き取りながら、目が見えないためあまり動く仕事はしたくないと、カウンターの中で一心に食器を拭っていた彼女のことをまた思い出してしまう。嘆息。
「フリッツ」
 開店にはまだ早く、あんなことの後だからすぐには客も入るとは思っていなかったのに、呼び鈴がなって扉が開いた。こちらの顔を見て声をあげた相手の顔は、申し訳なさそうに眉が下がっている。
「バイロン! ……いや、今は宰相殿か」
「バイロンで構わない。お前に届け物があって来た」
「俺に?」
 一国の宰相が何ゆえ郵便配達などするものか。いくら平民の出だとはいえ、この男にそんなことをさせることができるのはこの国には一人しかいない。
 フリッツはカウンターの端の棚にしまった、ヴァージニアの日記を意識する。あの凄まじい大破壊の最中ずっと抱えていたおかげで、傷一つまだついていない。
 案の定、二通の手紙の差出人のうち一人は甥と言うにはあまりにも高貴なお方の名前であった。そしてもう一つは。
 フリッツは目頭を押さえて机に付す。バイロンが痛ましいものでも見るような顔でフリッツを見下している。
「……から」
「フリッツ」
「これだから、俺はエヴェルシードの王族なんか嫌いなんだ」
 それが例え実の甥であっても。

 フリッツ=トラン=ヴラド様。
 マスター、先日は大変なご迷惑をあなたにまでおかけしてしまい、申し訳ありませんでした。ごめんなさい。私は怒ると周りが見えなくなる性質なので、どこかお怪我などなさっていませんでしょうか? お元気であることをお祈りしています。……今、私は訳あって兄妹と共にエヴェルシードの王城にいます。マスターと王が血縁だなんて、夢にも思いませんでした。私のせいで、マスターの肩身が狭くなることだけはないように、シェリダン王とはこちらで話もしています。
今まで、あなたには言っていないことも多くありました。目が見えないなどと嘘もつきました。それでも、みすぼらしい乞食のようだった私を拾い上げて世話してくださったあなたへの感謝は本物です。あなたにどうか神様と皇帝陛下のご加護がありますように。私はもうただ、祈ることしかできませんけれど。
 今まで、短い間でしたが本当にお世話になりました。手紙など書きなれていないもので、乱筆乱文失礼します。
 ロー。こと、ヴァンピル王国ローゼンティア第四王女、ロザリー=テトリア=ローゼンティア。

 涙が出てくるんだ。
「ロー」
 彼女は帰ってこない。この国の新しい王が連れて行ってしまった。手紙の感じではそう酷い扱いを受けているわけでもなさそうだが、事実上人質には代わらないだろう。侵略した国の姫君を生かしておくなど、それ以外にない。
 彼女はもう戻らない。フリッツの店の可愛い店員ローには。長い白髪を揺らして目隠ししたまま危なげもなくグラスを運ぶこの店の給仕には、戻らない。
「だから、王なんて嫌いだ」
 フリッツはあの甥っ子と、一生和解などはできないだろう……。


 《続く》