022

 仰のけば普通目に付くのは天井かも知れないが、生憎とロゼウスの眼には薄紫色の天蓋ばかりが映る。今ではもうかなり慣れてしまった。エヴェルシード王シェリダンの部屋の、寝台の天蓋。
「ひっ!」
 だが、ぼんやりと天蓋に目を向けながら思考を彷徨わせる余裕は今のロゼウスにはなかった。シェリダンの熱い指が、肌を撫でる。太腿を撫で回したかと思うと、早急に後ろへともぐりこんできた。
「は……あっ、いや、やぁ…………」
 濡れてもいない指で無理矢理探られた場所が痛みを訴える。小さな舌打ちと共に、指が抜かれた。
「きついな。まあ、私は構わないが」
「ちょっ……待て、待ってくれ。やめて、せめて慣らしてから――!」
 こちらの負担も顧みず無理矢理挿入を試みようとするシェリダンの胸に縋る。もともと菊門は排泄のための器官であって、性交に使う場所じゃない。無理に挿れられて痛い思いをするのはこちらだ。
 ロゼウスの脳裏に蘇るのは、数週間前、ローゼンティアの兄妹たちが死んでも甦るであろうことを黙っていたことを裏切りとみなされ、シェリダンの不興を買ったこと。あの時、シェリダンは部下のエチエンヌとリチャードに命じてロゼウスを犯させた。彼に何の恨みがあるのか、嬉々としてロゼウスを嬲ることに熱中したエチエンヌに、容赦の欠片もなく手酷くされた。
 慣らしてもいない後ろに無理矢理挿入されて地獄を見たのは記憶に新しい。それまでのシェリダンとのことは、雑な時も丁寧な時もあったが、いつも僅かでも慣らしをしていたから余計に。
 快楽に溺れた、だらしのない人間だと言う自覚はある。そしてわがままで身勝手だ。それでもこの苦痛には耐えられない。
「慣らして、まず、それから……」
 シェリダンとこうして肌を重ねること自体には慣れた。怪しげな玩具を使うことも、恥辱を煽るような衣装を着せられることも、けれど、痛いのは嫌だ。
「お願い、なんでもするから……」
 恥も外聞なく、シェリダンの白い胸に抱きついた。ロゼウスの頭を抱いて髪に手を差し入れたシェリダンが、しばし思案する様子で。
「では、何でもしてもらおうか」
 そう言った。見上げたロゼウスの目に、邪悪な笑みが映る。
「はっ……ふぁ、ん」
 ロゼウスは今彼の股間に顔を埋めて、奉仕させられている。両腕は細い縄できつく戒められ、足は自由に動くが逆らう気力も起きない。子どものようにシェリダンのものを咥えてしゃぶりながら、目の端に涙が溜まるのを感じる。ぽろぽろと情けなく涙を零しながら、かの王のものを舌で刺激して喜ばせる。
「はっ……」
 シェリダンの満足げな吐息。彼自身が生半な美女では太刀打ちもできないほど妖艶で色っぽい。望めば何だって手に入るだろうに、何故自分などを傍においているのか。
 何だって手に入る、と言う言葉で、一人の少女の面影が脳裏を過ぎる。ロゼウスは慌てて思考からその少女を打ち消した。その姫の名はもう口にはできない。彼らが殺した、何でも自らの力で手に入れてきたシェリダンが唯一手に入れられなかったもの。
 必死で舌を動かし続けていると、やがて前髪をつかまれ、喉の奥の方を衝かれた。反射的にえづくのを我慢して、苦い液体を飲み込む。飲みきれなかった白濁の液は口の端から零れ、顎を伝わった。
「お前、あい変わらず上手すぎだ……しかも、毎回毎回ご丁寧に良く飲むな」
「吐いていいならさっさと言ってくれ」
「吐けとは言ってない。ただ、顔射の機会がなくて残念だと言っている」
「がん……」
 思わず反復しかけてロゼウスは慌ててその言葉を飲み込む。濡れた口元からシェリダンの精液が胸元へと垂れた。それをわざわざ掬い取るようにして、シェリダンがロゼウスの胸元を弄る。
 好き好んでやっているわけではなく、ロゼウスにはそうすることがもはや習慣づけられているというだけのことだ。ローゼンティアにいる間、ロゼウスを毎晩のように抱いていた兄はこれが好きだった。その時に教えられたことを忠実に守っていると、上手いということになるらしい。
「今度は、私からしてやろう」
「え?」
 その指がロゼウスの胸元や脇腹に与える愛撫の快楽を追っているとシェリダンはそう言った。思いがけない言葉にロゼウスが呆然としていると、シェリダンはいきなりロゼウスの体を仰向けに寝台に押し付けてきた。足を開かされ、そこに彼が顔を埋める。藍色の髪がロゼウスの生白い肌に零れて、ぞくりとする刺激が背筋を走った。
「ちょっ、やめ……シェリダン!」
 悲鳴じみた叫びでロゼウスは呼んだが、シェリダンが顔を上げる気配はない。行為に専念し、時々上目遣いでこちらの顔色を窺う。
「あ、ああっ、あああああ」
 ロゼウスは縛られた両腕の不自由なのをもどかしく思いながら上半身だけで必死に悶える。男に自分自身をしゃぶられて、気持ち悪いのではない。逆だった。あのシェリダンがあの美しい顔で、自分の下腹に顔を埋めている。とても官能的で倒錯的な色気と背徳感が漂う。背筋を冷やすそれと同時に、快感が全身を駆け巡る。
 そして何故か、この状況は自分が相手に奉仕するよりずっと恥ずかしい。
「ああ……うあ、もっ、やめ」
 呆気なく限界が来て、ロゼウスはシェリダンの口の中で達してしまった。一瞬思考が弾けて視界が真っ白になる。放心状態に陥りそうなロゼウスを現実に引き戻したのは、シェリダンが咳き込む音だった。
「……お前が私にやってどうする」
 むせたせいで目元が赤くなっている彼に怒られた。母親譲りだと言う美貌が、ロゼウスの白濁で汚れている。
 ロゼウスはカァッと頬が熱くなるのを感じた。口元を手で隠す。
「ご、ごめん」
「はっ……それでもまだ、こんなに元気なくせに」
 ロゼウスのモノを強く握って、シェリダンがそう嘲った。淫乱。節操なし。与えられるだろう、幾つもの侮蔑の言葉が頭の中でぐるぐる回る。だが実際は、彼は何も言わずロゼウスに口づけた。
「んっ!」
 絡ませた舌から伝わる苦味。やたら楽しそうに唇を離したシェリダンが告げる。
「『自分』の味はどうだった? ロゼ王妃」
 シェリダンの口内にはまだロゼウスの出したものが残っていた。だから彼はそんな風に言うのだ。
「さて、そろそろ本番に移らせてもらうか」
 自らの手に残った白濁をロゼウスの後ろに塗りこめながら、シェリダン自身も自らを固くして準備する。
「ふ、う、あああ、あああああ!」
 ぐちゅぐちゅと卑猥な音をさせて交わりあいながら、快楽に弱い自分はまた流される。ロゼウスの中で達したシェリダンが自分を引き抜く頃には、体中が汗ばんでぐったりとしてしまう。寝台もすさまじく汚れている。
「どうした、ロゼウス」
 ロゼウスが言いたいことがあると察したのか、ことを終えて体こそ汚れているが少しだけ満足げな表情のシェリダンが、ロゼウスの耳の後ろを舌で優しく舐めながら尋ねる。もっとも、彼の場合は何でも叶える力がありながら、尋ねるのと叶えるのは決して同じではないのだが。
「俺、ここ最近、あんたの顔とこの寝台の天蓋しか見てないよ」
 どこか、外へと出たい。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダン王は美しい。それはこのシアンスレイト城の者なら誰でも知っていることだ。
 夜の蒼い月光を紡いだような藍色の髪。柔らかに波打つその髪にそっと彩られる輪郭は繊細で、髪の色が濃いだけに肌の白さが際立つ。僅かに物憂げな瞳は赤でも黄でも橙色でもない不思議な朱金で、炎の揺らぎを覗き込んでいるような深みがある。通った鼻梁。涼しく孤を描く眉は柳眉と呼ぶにふさわしく、睫毛はけぶるほどに長い。唇は淡い珊瑚の色をしている。
 女であれば求婚者が後を絶たず、貴婦人は手巾を噛んで悔し涙にくれるのではないかと思う容貌だが、彼は男だ。そしてその性別の差異など何ほどのこともないと思わせるほどに彼は美しい。男であれば貴婦人たちは頬を染めその眼差しの先で黄色い声をあげ、紳士たちは性別を超越した美しさの前に嫉妬を催すどころかすすんで彼の虜となる。
 母親である第二王妃ヴァージニアがいかにも下町の酒場の看板娘と言った笑顔の明るい美少女であったことを考えれば、同じ顔立ちでもシェリダンの美しさは魔性の美だ。黙ってそこに立っているだけで人の目を引き、軽く手を動かすだけの仕草でも気品が漂う。両者の顔立ちは似ているが、その印象は真逆だ。
 バイロンは、若かりし日のヴァージニアの美しさを知っているからこそなお思う。否……訂正しておこう。彼女は永遠に若いままだ。わずか十七で死んだ少女。
 今のシェリダン王は、あの頃のヴァージニアと同じ歳なのだ。
 だが、バイロンはもう彼を見てもそれほど胸が痛まない……あれほど強く暗く凝っていた憎しみは、この少年の心の傷を知って以来、嘘のように呆気なく跡形もなく、春の陽にさらされた雪のように溶けていってしまった。
 バイロンの浅慮とジョナス王の暴虐によって生まれた悲劇の王子を、彼は見守っていこうとただ今は考えるだけである。ヴァージニア、彼女の代わりに。
「バイロン」
 謹慎が解かれ、バイロンは再びシアンスレイトに登城するようになった。復帰後最初の仕事は、先王陛下と王妹殿下の葬儀の段取りであった。
「シェリダン陛下」
 それほどまでに追い詰められていたのですか、シェリダン様。
「遅くなったが、お前に我が妃を紹介しておこうと思ってな」
 実の父を殺し、異腹の妹を殺し。……元々エヴェルシードは子種の少ない家系なのか、王族はこの第一系統だけで傍系もいないというほど細々と続いている。シェリダンは家族を全て殺してようやくこの国を手に入れようとしている。
 妹姫カミラのことはともかく、ジョナス王を殺したことは……バイロンには何も言えない。許せ、友よ。許してください、主よ。私は貴方を最後の最後で裏切った。
「ローゼンティアのロゼ王女ですか? 初めのときにお会いしましたが。ご紹介もされたはずでしょう」
「表向きはな」
 そしてシェリダンはただ、侵略した国から奪った姫君と、かつてある貴族から奪い取った双子人形と、今は没落した貴族の息子だけを連れて死への行軍を開始しようというのか。
「私の部屋へ来い」
「陛下、それは」
「ロゼを余り表に出すわけにはいかぬ。例え城のなかでもな。あれを『紹介』するならなおさらだ。それとも、貴様は私の妻になど興味はないか……」
「いいえ、謹んでお受けさせて頂きます。今、これからすぐにでよろしいでしょうか。本日の執務は」
「私は自分の分はすでに終らせている。今日は……午後から出掛けようと思っていてな」
「出掛ける、とは……」
「城下に。貴様もついて来い、バイロン」
「私が?」
「ああ。……こういう言い方では違うな。そうだな……お前が案内しろ、バイロン」
「私めなどが陛下をご案内するような場所が……」
「『炎の鳥と赤い花亭』」
「……」
 バイロンは思わず廊下を歩む足を止めて立ち止まった。それは聞き覚えのある名前だった。何も言う事ができない。バイロンより数歩先で立ち止まったシェリダンが振り返って横顔だけで告げる。
「また、新たに開かれたそうだぞ。前の店主の、親戚に長い事預けられていた息子が戻ったとかで」
 息子……フリッツか!
「だから、お前が案内せよ、バイロン。その前に我が妃に会っていけ」
「は……」
 だから、バイロンでなければならないのか。例え城下でもあの場所だけは、王家の紋章入り馬車で乗り付けて行って入れる場所ではない。
 それにしても、フリッツが戻ってきたのか。そして……継いだのか。バイロンは彼の面影を思い出そうとして、上手く行かないことに胸中で歯噛みしたくなった。もう何年も会っていない昔馴染み。彼に、王都へ戻ってくるなと手紙を出したのは他の誰でもないこの自分だ。それ以来十八年間会っていない。
「ですが、何故陛下が――」
 そんなことをご存知なのか。あの土地で生まれたバイロンですら知らなかったことだ。慎重に人の手を経て相続問題を片付けたのか、最近片付けた書類の中にその名前を見たと言う事も、『炎の鳥と赤い花亭』の名を聞いたこともない。
「ジュダ=イスカリオット伯爵が知らせてよこした。奴のことだから、ただの退屈しのぎだろうな。私の身辺なぞ調べまわって」
「あのイスカリオット伯爵ですか?」
 イスカリオット家の若き伯爵。彼は反王権派ではなかったのか。バイロンと共謀してシェリダンを陥れようとしていたカミラから、その名を信用できるものとして聞いていたのだが。
 そしてバイロンは、そもそも何故自分がこの少年に敗北を悟ったのか思い出す。思いもかけないところからの裏切り。予想外の人脈。
「彼もあなたの手駒の一つだということですか」
 前を行くシェリダンの口元が微かに見えた。彼は、口元に小さく笑みを刻んでいた。
まさか反王権派の筆頭が誰よりも国王を信望しているなど誰も夢にも思うまい。
 そうこうしている内にシェリダンの部屋の前に辿り着いた。本来なら宰相とはいえ身分低いバイロンがまず扉を開かねばならぬところだが、シェリダンはなんら気にすることなく自身で取っ手に手をかけた。開け放たれた扉の向こう、部屋の中には幾つかの人影。その中に一際目を引く姿がある。
 元ローゼンティアの王女……ロゼ王妃。
「シェリダ―――」
 その唇がシェリダンの名を呼びかけ、背後のバイロンの姿を認めて急に凍りつく。応接用のテーブルで侍女と向かい合って話していたらしき王妃陛下は、今日も麗しい。その美しさは、シェリダンとはまた別の意味で圧倒的だ。
 だが、初めてその姿を目にした時とは違い、今日は何故かその姿に違和感が芽生える。何だろう。小さな違和感。何か歯車が上手く噛みあっていないような、釦を一つ掛け違えているような。ヴァンピルだと知ったからだろうか。それとも、初めの時は粗末な村娘の衣装を身につけていたから?
「入れ、バイロン。扉を閉めるぞ」
「は」
 繊細な浮き彫りを施された重い扉が硬く締め切られ、中にいた人々の視線がこちらへと集中する。金髪のシルヴァーニの双子人形に、侍従。それから王妃。
「宰相のバイロンだ。こやつには、ロゼウスのことを教えておこうと思ってな」
「ロゼウス?」
 聞いたことのない名だ。王妃陛下の名と酷似していることはしているのだが――。
 そして真実を告げられる。
 バイロンはこれまで女性的な美しさを持つ少年とはシェリダンのような人物を言うのだと思っていた。しかし、ロゼウス殿下……ロゼ王女ではなく、ローゼンティアのロゼウス第四王子殿下を見て本気で考えが変わった。
 シェリダンもかなり細身でそれでありながら均整の取れた体つきをしているのだが、ロゼウスはそれ以上だった。折れそうに華奢、というのはこの人のための言葉なのであろう。
 白銀の髪は暁の雲を透かした陽光を紡いだようで、白い肌は本当に血が通っていないように思えるほど、透けるほどに白い。女衣装を身につけたその様子はどこからどう見ても少女にしか見えず、口を開かなければ完璧だ。細い首、手首、腰。胸こそないが、全身が細いのでむしろ気にならない。浮き出た鎖骨が艶かしく覗き、顎に当てられた指の先の、爪の形まで美しい。全体的に繊細な面立ちで、唇だけが薔薇のように紅い。
 そして何より印象的なのは、血のように濃く暗い深紅の瞳。
 絶句。もはやその美しさは言葉にはできない。
「美しいだろう? なあ、バイロン」
「あっ」
 ロゼウス殿下……ここはあえてロゼ王妃と呼ばせていただくが、その腰を背後から抱いて、シェリダンが同意を求める。バイロンは子どものようにこくこくと頷くことしかできない。そして告げる。
「確かに美しいですが、その方に御子を望むことはできません」
「当たり前だ」
「って……」
 当の本人は絶句し、シェリダンは面白そうに笑って頷く。
「言っただろう、バイロン。お前には感謝していると」
 ああ、陛下。
「私は、子どもなどいらない」
 それがあなたの選択なら、何故城下になど……あなたの母上のご両親が営まれていた、『炎の鳥と赤い花亭』になど行きたがるのです。


023

 そしてシェリダンは城下へと出かけた。
 ロゼウスとローラを残し、バイロンとリチャード、エチエンヌだけを連れて。
「って、よりにもよって俺が出かけたいって言った翌日かよ! 当て付けか!?」
 ここ数週間、ロゼウスはシアンスレイト城下どころか、城内にすらろくに出ていなかった。ずっとこの部屋に引きこもり、枯れた薔薇を眺めながら日々を過ごしていた。
 まだ生きているのに屍のような生活を送っていた。食事もろくにとらなかった。起きて何かを考えるのが……彼女のことを考えるのが辛くて逃げた。覚醒した頭を無理矢理睡眠に叩き込んで現実から逃げようとした。そうすると、今度は夢で彼女を見た。
 宵闇の濃い紫の髪に、猫科の獣を思わせる金色の瞳。兄であるシェリダンに似た、けれど見様によっては全く似ていないとも言える容貌。
 そして夢の中でカミラは泣いていた。
 ロゼウスもシェリダンもカミラの遺体を見てはいない。カミラ付きの侍女が、それが唯一の遺言だったと遺体をシェリダンに任せず埋葬したのだと。当然だとわかっている。それでも寂しかった。
 ロゼウスが最後に見た彼女は泣き顔だった。裏切りに泣き崩れ、憎悪に美しい顔を歪めていた。
 カミラは、故郷で亡くしたかつての婚約者とは全く違うタイプの少女だ。あの、何が起こってもいつも毅然と佇んでいる、男顔負けの凛々しさを持った少女とは違う。それでも愛しいと思ったのは真実で、裏切ったのは事実だ。
 ロゼウスはカミラよりローゼンティアの民をとった。
 ロゼウスはカミラの言う事より、シェリダンを選んだと、その脅迫に屈したととられても仕方がない。
 だけれど、そこまで追い詰めるつもりはなかったのだ。傷つけたことはわかっていた。それでも生きてさえいればいつかは傷を癒せる日が来るのではないのかと。もう何もかも手遅れだけれど。
 ああ、また思考が一回りする。
 どうしようもない。結局はこの言葉に還る。わかっているのに考え続ける。もし、あの時こうしていたらと。過去を仮定したところで現在が変わるわけではない、足掻くべき時期はとうに過ぎ去り後は自分のしたことの報いをただ静かに受け入れねばならないだけだと知っているのに理解はしているのにロゼウスは心の底ではこの結末に納得していなかった。
 シェリダンは受け入れているのに。
 ここが彼と自分の差なのだろう。どんなに傍若無人で気狂じみた男でも、一国の王たる者である。兄や父に甘やかされ国を背負うこともなく初めから満ち足りた暮らしをし悔しいという思いをさせられること自体稀なロゼウスとは違う。
『ロゼウス、後悔するな。私がお前に教える最大の教訓はそれだよ。自分の選んだ道に……誇りを持て、とは言わない。それを信じろとも言わない。けれどお前の選択は確かにお前の心。お前の一部。もしくは全て。それが例え、正しくはなくても。お前はお前の選んだ道を貫き通さねばならない』
 ドラクル兄上。
 俺には無理です。
 やっぱり振り返ってしまいます。後悔してこんなはずじゃなかったと叫び、みっともなく泣き喚いてしまいます。
 ロゼウスは自分の選択を貫き通すことなどできない。あの時に戻れたなら、そしてこの未来を知っていたなら次は別の道を選びたいと切に願う。
 ロゼウスはドラクルやシェリダンのように強くはなれない。どこまでも情けない男だ。カミラに愛される資格なんてなかった。
 このままこうしてカミラのことを考えていると、自分は永遠に前へと進めないような気になる。見えない鎖が体中に巻き付いて四肢を絡めとりロゼウスを逃がさない。その体温は、温い女の体温をしている。
 カミラ。
 ――忘れろ。
 ローゼンティア。
 ――忘れてしまえ。
 ドラクル、アンリ兄様、ルース姉様、ロザリー、みんな……
 ――もう、忘れたい。
 全てを忘れて眠りにつけたらいいのに。体は生きて呼吸をするけれど、魂は眠って全てを忘れることができたら。
 どうせシェリダンが欲しいのも滅亡への道連れであり、姿形の整った玩具であるという価値しか持たない自分であるのだし。……心があるから苦しい。心臓を抉り出してそれごと魂を捨て去ることができたらどれほど楽になれるのだろう。
『だがロゼウス。心がなければ何も知ることができないよ』
 懐かしい声。困ったような笑い顔。ロゼウスはあの人を困らせた。たくさん困らせて一度も報いる前に彼女は死んだ。名ばかりの婚約者。
 目を閉じると闇の向こうから、ロゼウスのせいで死んだ人々が呼んでいる気がする。早くここへ堕ちてこい、と。
 そう長く待たせはしない。俺はあの朱金の瞳の王と一緒に堕ちていくから……。
「!」
 シェリダンが宰相を連れて出かけてから、寝台にひたすら突っ伏していた。ローラは他に用事があるとかで部屋を出て行ったし、今この場所にはロゼウス一人のはずだ。
突然の人の気配に、ロゼウスは素早く顔を上げる。
「ああ、気づかれちゃった」
「あんたは……」
 部屋の入り口に立っているのは初めて見る相手……ではなかった。一度だけ、見たことがあると言っていいのかどうか怪しい相手。全身黒尽くめのローブの少年。シェリダンがカミラをこの寝室へと連れてきたあの日、その傍らにいた少年だ。
 いや、出会ったのはそれが初めてではないことに、今になってようやく気づく。
 この男は。
「初めまして、ロゼ王妃」
「初めてではないはずだ」
 ロゼウスは深く被ったフードに顔を隠すその少年を睨みながら言った。寝台から降りてその正面に立つ。背の高さはロゼウスとさほど変わらない。声は涼やかに適度に低くて男だと判別がつくが、どう聞いても若い。
 だがロゼウスの勘が正しければ、この少年は一ヶ月前はもっと体格がよく、声の低い手練の剣士だったはずだ。
「あの時、薔薇園でカミラの命を狙った刺客――!」
 黒いローブの少年は、ひっそりと笑みを浮かべた。

 ◆◆◆◆◆

「ねぇ、ハデス。私の可愛い弟」
「何でしょう、姉さん」
「あなたにお願いがあるのよ。――エヴェルシードに行って来て」
「はい?」
「お願いよ」
 エヴェルシード。ここより南東の大陸の一地方を占める国の名前。確かに姉はその国の名を最近よく口にしていた。何か気になることがあるという風情で。
「王が代替わりしたの。今度の王は十七歳の少年だそうよ。先王が下町からやもたてもたまらずに攫った美しい娘から生まれた、この世で二番目に美しい王子。そしてこれからは最も美しい王と呼ばれるべき存在」
「二番目に美しい王子、ですか」
「ええ、もっとも、人が口で伝える情報ほど不確かなものもないのだけれど」
 姉は高い声で笑った。普通に話せば快い声なのかもしれないが、笑い声だけは鼓膜に引っ掛かるように聞きづらくて耳障りだ。だが本人は気にしていない。周りの人間も今更だと気にしてはいない。彼だけがそれを気にしながら過ごす。おそらくこの世で最も、この姉のつくろわない素のままの笑い声を聞く彼だけが。
「ねぇ、ハデス。エヴェルシードへの使者となって」
「公式の? 非公式の?」
「後者よ。あまり表立ってはよくないわ。私はね、どうやらエヴェルシードの新王陛下とは仲良くできそうなのよ。……一月前に一度だけ会ったけれど。好みの目をしていたわ」
 その王子の瞳は絶望と孤独と猜疑と憂鬱と憎悪とに彩られている。
「酷い人だ」
 ハデスは姉の膝をまたぐようにして、玉座の余裕に膝を乗せてその胸元まで迫った。
「僕よりも世界で一番美しい王にお心を寄せられるなんて」
「あら、まさか」
 また、甲高い笑い声。
「ハデス。あなたより気に入った人間など私にはないわ。あなた以外の誰もが、私にはただの玩具。面白そうだから手を触れて、私にあだなすようならすぐに捨ててしまえばいい。あのエヴェルシードの王子様は、とても使い勝手が良さそうよ」
 為政者たるもの、時には残酷になることが必要だ。この姉にとって、人間と言うのは盤上の駒なのだろう。思い通りに動かして世界の方針を決める。口でこそ何だかんだ言っても、いまだかつて姉が失策と言える失策を行ったところを見たことはない。
 世界は彼女を崇めているし、これからも崇め続けるだろう。
 だが、ハデスだけは、この人の素顔を知っている。
「さあ、ハデス。お返事は?」
 ハデスはにこりと笑う。つられたように姉も微笑み返す。膝の下に敷いた彼女のドレスが皺になることも気にせず体を寄せて、玉座に座る主の唇に自らのそれを寄せた。くすぐったそうに声を零す隙間に、自らの言葉を滑り込ませる。
「喜んで従います。我が皇帝陛下」

 皇帝。それは世界を統べる者の名。
 世界皇帝。
 この世界はとうの昔に統一されている。今幾つかの国々へと分かれている大陸の全てが、そもそもは皇帝の領土だ。つまり世界は一つの帝国だった。王国を併合して作られた一つの国が世界。王国は国においての街や村と同じだと思えばいい。それも一つ一つが自治都市のようなもの。
 神の化身であると言われる初代皇帝から連綿と続くその歴史の中で、皇帝と言う名はいつの世でも特別だった。
 ある時は世界を救う神として。
 またある時は、滅びをもたらす魔王として。
 皇帝。それは世界を統べる者の名。世界を意のままにできる人間の名。
 どういった基準で皇帝が選ばれるのかは誰も知らない。だが、ある種の人間には次代の皇帝が必ずわかるのだという。その者は、選定者と言われる。皇帝を選び定める宿命の者だ。
 どんな人間がその栄光の座につくのか。選定者たちは語る。その人間が善良であるか暴虐であるかすら皇帝の選定には関係がないのだと。
 ただ、その選定は全ては神の決め事。
 すなわち宿命。

「あなたの望むままに、我が皇帝、我が姉上」

 そしてハデスはこの国へと来た。
 エヴェルシードは、安定した気候と農作に適した土地と、豊富な資源があることから安定した治世さえ敷けば数年で世界的に有数の大国となることも難しくはない国だ。 
 もっとも、現在の王にその気はないようだけれど。
「あの時、薔薇園でカミラの命を狙った刺客――!」
 目の前でハデスを睨むのは白銀の髪と深紅の瞳の美しい少女。否、少年。
 この世で最も美しい王子。
「お前は、一体何者だ……?」
「初めまして、でなければ、二度目まして、かな、ロゼ王妃―――いいや、ローゼンティア王子ロゼウス殿下」
 名を呼ぶと、相手があからさまに動揺した。美しいその肢体を飾る女衣装は本当にとてもよく似合っているけれど、本人的にはその格好で本名を呼ばれるとかなり複雑らしい。女装姿のときはあくまでも彼はロゼ王妃。当初に比べれば慣れてきたものでよかったとでも言ってあげるべきだろうか。
 そろそろいいだろうとフードを外す。姿を隠す黒いローブを脱ぎ去ると、相手が驚きの声をあげる。
「そんな化物を見るような目で見ないでくれる? 君たちヴァンピルにとってはよっぽどたいしたことない人間だろう。僕はね」
 今のハデスは、というよりあの時が特別だっただけで、いつものハデスはこの格好だ。奈落の底を汲み上げたような漆黒の髪に瞳。古くから迫害されている異端の民、《黒の末裔》の一人。現在の外見年齢はおよそ十六歳。
「あの時は、確かに……」
「ああ、これね」
 戸惑うロゼウス王子のご期待に沿うように、自分の外見を変えてみせる。ぐにゃりと輪郭が歪むような感覚の一瞬間後には、ハデスの体は二十代半ばの筋骨隆々とした男になる。
「!?」
「驚いた? 驚いたでしょう……これが僕の特技なんだよ。誰でもできる技じゃない」
 そういう意味では確かに自分は特別、というより特殊だろう。この《冥府の王》ハデスは。
「改めて名乗らせてもらうよ。僕はハデス」
「……ロゼウス、だ。名乗らずとも知っているようだけど」
 警戒と不審の色を露にハデスを睨む深紅の瞳は柘榴石のように美しい。
「ハデス、と言ったな。お前は一体何者なんだ? 何故、そんなことができる。どうして、あの時カミラの命を狙った!」
「そう一時に幾つも質問するものではないよ、ロゼウス王子……まあ、最初の二つの質問に答えるならこれで十分だろうね。僕の姉は現皇帝陛下だと」
「皇帝の弟!?」
 あからさまに驚いた顔をしてくれる。
「そうだよ。つまりは、このエヴェルシードの非公式の客人だ」
「皇帝の弟……聞いたことがある。黒髪黒瞳、《黒の末裔》にして《冥府の王》。特別な力を持つ……」
「カミラ姫を何故狙ったかだったっけ?」
 その話題を振ると、一瞬でハデスの身分などロゼウスの頭からは吹き飛んだようだった。怒りと憎しみと、それ以上に哀しみが彼の胸を覆うのがわかる。
「その方が、シェリダン王のためだからさ」
「妹を殺すのが?」
「そうだよ」
「それが、シェリダンの愛している相手でも」
「それでもだ、ロゼウス」
 彼はハデスの言葉についていけないかのように、大きく首を振った。俯いて唇を噛み締め、拳を強く握る。血の通わない指先が白くなるまで。
 皇帝の弟。それは絶対の免罪符。偉大なる姉上の御威光の陰で、ハデスの評判はひっそりと悪い。しかしこの世の神にも等しい皇帝の唯一の身内であるハデスを殺すわけにも行かないから、何人も迂闊に彼に手を挙げるわけにはいかない。
 ハデスを憎む心と、それ以上に自分を憎む心の狭間で苦しむロゼウスの姿は美しくどこか官能的だ。シェリダンの気持ちもわかる。彼は甚振って跪かせ、哀願しながら許しを乞う姿を見たくなるタイプなのだ。
 けれどそうして遊んでいるわけにも行かない。
「ねぇ、取引をしない? ロゼウス王子」
「何だって?」
「あなたをここから出してあげる。外へと出たいのでしょう」
「……」
「僕は君の願いを叶えよう。だから君は僕の言う事を聞いて。シェリダン王を救ってあげてくれないかな」
 それは幾つもの謀略と思惑を孕んだ企みの一つだ。けれど彼はその取引に乗らざるをえない。
 愚かなのは君か、彼か、それとも僕か。
 しばしの沈黙の後、ローゼンティア唯一の王子は頷いた。


024

 舗装された石畳の道を馬車が走っていく。
「我々が目指す場所は、この界隈の奥まった場所になります。馬車は途中で降りることになりますが……」
「ああ、わかっている。行ったことはないだけで、報告書は読んで場所は知っている。狭い下町の小さな店だったな」
 シェリダンはバイロンの言葉に頷く。二頭立ての馬車と言う、普段、国王として使うには小さすぎる乗り物の中には、今四人の人間がいる。エヴェルシード王であるシェリダンと、侍従のリチャード、小姓のエチエンヌ。そして同行を命じた宰相のバイロンだ。王と宰相が揃って王城を空けるなどあってはならないことかもしれないが、本日の責務はシェリダンもバイロンもとうに終えている。それに一度赴けば数ヶ月は帰ってこられない旅と言うわけでもなく、今日シェリダンたちが向かうのはシアンスレイト城下の下町、王城から目と鼻の先にある小さな酒場だ。
 そしてそこは、シェリダンの母である先代エヴェルシード第二王妃、ヴァージニア=ヴラドの生家でもある。とは言っても実際の生家は十八年前、国王であった父が無理矢理両親の元からヴァージニアを攫った際に跡形もなくなるよう壊され焼かれていた。今シェリダンたちが向かうのは、その後、つい先日この王都に戻ってきたばかりだと言う母の弟が経営する新たな酒場だ。
「シェリダン様、僕たち、外に出ていなくていいのですか?」
「ああ、エチエンヌ、お前の容姿はこの国では酷く目立つ。中にいろ」
「はあい」
 普通小姓などは御者と共に馬車の外の台に乗っているものかも知れないが、移民をあまり受け入れないエヴェルシード国内で、シルヴァーニの容貌を持つエチエンヌの姿を人目に晒すのは目立ちすぎる。体格の関係でシェリダンの隣にリチャード、正面にバイロン、その隣にエチエンヌと並ぶようになっている。斜め前にいる小姓に向けてそう指示した。
「立ち入ったお話を聞いてしまいそうですが」
「今更お前たちと私の間で、立ち入るも何もないだろうが」
「はあ……」
 良い子の返事であっさりと頷いたエチエンヌとは対照的に、戸惑ったような顔をするのは侍従であるリチャードだ。元々は良い家の出だが、騒動に巻き込まれて本来の爵位を失った貴族の息子。控えめで主に忠を尽くす性格の彼は余計な気を回して、こちらが求めてもいないことで勝手に困っている。
「いいんだ。リチャードにエチエンヌ。とにかくお前たちも馬車の中にいろ」
「はい」
「陛下の仰るとおりに」
 二人の様子が落ち着いてようやく馬車の中が静かになった。規則的な振動と共に石畳を滑る車輪の音だけが耳につく。
 シェリダンの正面に座ったバイロンはリチャードとは別の意味で終始困った顔をしている。下町育ちでシェリダンの母とも彼女が王妃になる前から面識があったと言う宰相は、突然のシェリダンの行動に今度は何を企んでいるのかと首を捻るのだろう。バイロンとは元々は因縁のあった仲、先日のことで改めて臣下には下ったものの、この宰相がリチャードやエチエンヌ、ジュダのように良心を捨ててまで自分に忠義を尽くすとはシェリダンも当然思っていない。それを望むわけでもない。ただ、手駒は多いに越したことはないと考える。
 交通の便と言うものは常にその国の経済を左右するもので、エヴェルシードも街道の整備には力を入れている。荷運びから旅人まで馬車の行き交う道は平らにならされ、蜘蛛の巣のように分岐・連結して王都内、ひいては全国内に広がっている。ただし不祥事は起こらないよう、それぞれの街と街の間に関と呼ばれる検問と街門をしいて、交通が整備されているが故に賊に街の中を荒らされるなどと言う事が容易には起きないようにしている。シェリダンはこれまで王城の外に出たことはそれこそ数えるほどしかないのだが、そのたびに街と道の様子には気を配っていた。先月のローゼンティア侵略の際にもこの辺りには異変は見受けられなかったはずだ。
 馬車の旅は平穏無事、快適に続いてあっという間に王都の暗がり、下町と呼ばれる地域に辿り着く。ここは一応、表向きは反王権派でありながら真実はシェリダンに与するクルス=ユージーン候の領土と境界を接している。有事の際には王の所領である王都シアンスレイトから兵を派遣するより、ユージーン侯爵から派遣された方が遥かに早く辿り着くような距離だ。
 そして、街の様子は当然のことながら、シアンスレイトの中心地よりも寂れている。人々の生活臭ばかりが漂い、陰湿な空気はないのだが華美で豪奢な王城附近の活気とは無縁の街だ。
「ここからは馬車が使えませんので、どうぞ歩きで」
 バイロンの案内にしたがい、シェリダンたちは道を歩く。両側の建物の隙間の路地から、薄汚い格好をした子どもたちがこちらを興味深そうに眺めてくる。シェリダンはフード付きの外套を纏って顔を隠し、バイロンを先頭に飲食店の並ぶ界隈へと足を進めた。まだ昼間であるからか、それらの店は予想したほどの活気ではなかった。夜になれば酒が入り、もっと混沌とした愉楽の気配が漂うであろう店々も今は看板を飾って並べるだけとなっている。
「もう少しですよ」
 気ぜわしげに幾度も後ろを振り返り振り返り、ゆっくりとした歩みでシェリダンを案内していたバイロンが通りの向こうに屋根の望めるある建物へと目を留めて、そう告げた。一つ道を曲がり、路地の中へと入る。建物の隙間を潜り抜けるようにして、先程よりさらに細い道へと出た。
「ちょっとバイロンさん! こんな汚い道、陛下がお通りになるなんて……」
「あそこです」
 泥と埃まみれになってぼやくエチエンヌの抗議は無視して、バイロンは一つの建物を指差して声をあげた。
 赤い屋根。茶と見紛うような濃い臙脂色に白い文字の看板。夜になれば橙色の炎が灯るのだろう、入り口脇に釣り下げられた、小さな細かい細工の洋燈。入り口までの短い階段は広く、脇には小さな鉢植えが置かれて名も知らぬ可憐な花が飾られている。鉢は酔っ払いの足にでも蹴られたことがあるようで、ところどころが欠けていた。
 炎の鳥と赤い花亭。
 その名の通り、壁に取り付けられ店名を示す大きな看板の横には橙色の鳥が、道に立てる分の看板には赤い花が描かれている。
「新しい建物ですね」
 エチエンヌが言った。バイロンは感慨深げにその建物の概観を眺める。焼けた木材、瓦礫の残骸はとうに片付けられてもその店が一度破壊されたという事実は変わらない。古くくすんだ街並みの中で、不自然に新しい建物。それもやがては古くくすみ街の様子に違和なく馴染むようになっていくのだろうが、だが。
 シェリダンは懐に入れてきたあるものを意識する。このために今日はここに来た。
 バイロンが店の扉に手をかけ、ゆっくりと力を込めて開く。昼間であるからか、店内は薄暗く一つの明かりもついてはいない。窓から差し込む陽光だけが頼りで、窓枠の部分だけ暗い、四角く切り取った白い陰が焦げ茶色の床に落ちている。
「いらっしゃい。まだ酒は始められないが」
 店の一番奥、カウンターの中にいる男が言った。こちらには目もくれず、俯いてグラスを磨いている。昼間でも二、三人の客が入っていて、中の一人が扉に手をかけた宰相の姿に気づいた。
「バイロン!」
「何だって?」
 その声に続々と人々が集まり始める。シェリダンたちは中へと足を踏み入れ、窓の外から顔を出した男は外へと叫ぶ。
「おい! みんな来てみろよ! バイロンだぞ! 俺たちの宰相殿が来たぜ!」
 騒ぎに反応してカウンターの中にいる男も顔を上げた。エヴェルシード人特有の、蒼い髪と橙色の瞳。
 シェリダンはフードを脱ぐ。男の顔が驚きに染まる。
 叔父であるその男は、シェリダンに似ていた。

 ◆◆◆◆◆

 嫌な予感が、するんだ。
「どうするの? ロゼウス王子」
 目の前にいる少年は気味が悪くなるくらい優しい声で尋ねてくる。
 ここから外に出してあげる。
 その代わり、シェリダン王を助けて。
 彼が提示したその条件に何の意味があるのか。何故、シェリダンを助けねばならないのか。助けねばならないようなことが、起こるのか……?
「うん、そう」
 声に出してもいない問いかけに世界皇帝の弟だと自称する少年、ハデスは答えた。額に落ちる黒髪をかきあげながら笑う。
「酷いなぁ、自称だなんて。僕は正真正銘、世界皇帝の弟だよ?」
「なっ、どうして……っ」
「君の考えがわかったのかって? 僕、多少人の心の中が読めるんだよね。だから、それで」
「そんな力が……」
 心を読み取る。
 そんな力を本当に使える人間などいるものか。いくら皇帝の弟だとは言っても。それとも、そういうことができるからこそ皇帝の弟を名乗れるのか。
 世界皇帝。
 それはこの世界を統べる神の名。
 かつて、一人の人間が混乱と争いに満ちたこの世界を治めたのだという。その一人は後に初代皇帝となり、神の代行者とも呼ばれるようになった。不老長寿にして強大な力を持つ、その他のことは何もかもが謎に包まれている最初の一人。
 皇帝は血筋によって選ばれるものではない。それは天が、いるとも知れぬ神だけが決めることだ、と言われている。世界の人々が知っているのはこれだけだ。
 皇帝は神の力を持つ。
 その存在は希望にして絶望。皇帝には選定者という従者がおり、その皇帝を選ぶ者は、体のどこかにその徴が現れるというが、定かではない。
 世界は一つの帝国だ。それぞれの領地が世界中の王国で、皇帝はその王たちを纏める長でもある。
 あのシェリダンですら、皇帝の前では頭を垂れるのだろうか。何故、彼が皇帝の弟などと知り合いなのだろうか。
「ああ、僕とシェリダンはもともと知り合いなんだよね。だから今回も姉さんが僕に様子を見てこいってさ。それで、どうするのロゼウス王子?」
 ハデスに促されて、ロゼウスは思考を元へと戻す。外に出る代わりにシェリダンを助ける。
「シェリダンが、どんな目に遭うって言うんだ?」
「まあ、一言で言うとあと一歩で死にそうな目だね」
 そして皇帝の弟だと名乗った少年は告げる。
「君も王子であったのなら、僕についての噂の、有名なものくらいは聞いているだろう? 僕には、未来を見る力がある」
 そう、その話はロゼウスも知っていた。今代の皇帝は見目若く麗しい女帝。その皇帝には、よく似た弟がいる、と。
 《冥府の王》ハデス。
 皇帝の弟の存在を有名にしたのは、その名だ。《黒の末裔》である彼は、不思議な力を持つ。その一つが、此岸と彼岸を結びつける力だ。ハデスには、黄泉の国から死者や数多の化物を連れてくる力があるのだという。ロゼウスがカミラを一度生き返らせたように本人の精神を元のままに甦らせるのではなく、魂のない死体だけを思い通りに操るという、グールと呼ばれるものに近いらしい。似たようなことは一部のヴァンピルにもできるが、そもそもヴァンピルの術は相手を自らと同じヴァンピルに変えるための術である。黄泉の国の人間以外の魔物まで連れてくるハデスの術とは違う。
「…………?」
「どうしたの? 心象が疑問に変わったね」
 僕は相手の心を文章のように読むんじゃなくて、相手と同じように感じることでその心の動きの大体のところを知るんだ、と事も無げに言い放つハデスのことばを聞きながら、ロゼウスはふいに訪れたその感覚について考え込む。
 なんだろう、俺は何かを忘れている。そして今、その大切な何かを思い出しかけたような。
 だがその違和感とも疑問ともつかぬ、喉の奥に何かが支えたようなもどかしい感覚を解く糸口も見つからない。
 自分は今何を考えていた……?
「まあ、思考に耽るのは後にしてさ、さっさと質問に答えてよ。僕の予言が正しいならシェリダン王は今日、間違いなく命の危険に瀕するはずなんだからさ」
 言われて、ロゼウスはつかみかけた謎の欠片を手放し、返答しようと口を開きかける。だがどう言っていいのかわからない。自分が何を言いたいのかわからない。
 《冥府の王》ハデスには、もう一つの異名がある。
 《預言者》
 未来を見通すその力が、まず貴族たちの間で知れわたった。ハデスの予言はよく当たり、皇帝もその予言を安定した治世を敷くための助けとしているとか。
 だから、彼が「シェリダンが危機を迎える」と言えば、それは確かなことなのだろう。
 そしてそれは。
「その、シェリダンの危険は、俺が行けば回避できることなのか?」
 皇帝の弟―――役職で言えば、帝国宰相。彼は薄く酷薄に笑う。
「率直に言うなら、君が行ったところで彼が襲われるという運命自体は変わらない。だが、その命を救えるのはたぶん、この世に君一人だけだよ」
「襲われる?」
 暴漢に? 反王権派だという貴族に?
 そして何故、それを止められるのがロゼウスだけなのか。わからない。ロゼウスには未来なんて見えない。つい数ヶ月前まで、まさか故国が滅びるなんて考え付きもしなかった。今こうして女物のドレスを纏い、それまで顔も知らなかった同い年の隣国の王の花嫁として夜毎寝台に侍る羽目になるなんて、思いつきもしなかった。今だって夢のように思っている。
 けれど、確かにこれは現実である。目覚めるたびに慣れない空に昇る朝日と、肌を合わせたシェリダンの熱がそれを鮮やかに伝えてくる。
 シェリダン……。
 普通の人間にしては白い肌、温いような、熱い体温、けぶる長い睫毛は少し憂いがちに伏せられていて、上気した頬が薔薇色に染まる。この体を組み敷く細いのに力強い腕と、長く繊細な指先、夜色の髪、炎の瞳。
 この身に口づけるその唇。
 彼と共に堕ちていくと決めた。自分たちは共犯者だから。共に同じ罪を犯し、同じ人を傷つけた。そして彼の瞳が湛える孤独と絶望の色は、いつかの自分によく似ていた。
 手に入らないのなら壊してしまえと一生叶わないのならば永遠を紡ぐ世界こそ滅んでしまえばいいと。
 けれどもしも、その彼が死んだら。
 彼が死んだら、ロゼウスは自由になれる。ローゼンティアに帰ることだってできるだろう。シェリダンがいなければカミラも死んでしまった今この国の王位は途絶え、エヴェルシードは混乱に陥りその隙であれば甦った諸侯たちと協力して国を奪い返すのもそう難しいことではない。
 こんな女装をさせられて屈辱的な扱いをされることも、自分の部屋すら与えられずこの部屋に閉じ込められる必要もない。話す相手もローラの他にはろくになく、エチエンヌからは冷たい目を向けられ、リチャードからはいっそ憎んでいるのではないかというくらい無関心な目を向けられる必要もない。
 血を飲めずに渇きに苦しんで、薔薇を求めて彷徨うこともなくなる。ロゼウスは第四王子としての以前の満ち足りて優雅で何も不満などない生活に戻れる。兄妹に会える。家臣に傅かれる。
 シェリダンさえ死ねば。
 毎日のように寝台に侍り、あの熱い肌と交わることも、…………ない。
「――――っ!」
 ロゼウスたまらなくなる。
 憎んで、いたはずだったのに。
「心は決まったようだね」
 見透かしたように……ではない、まさしくこちらの心を見透かして、ハデスが微笑む。シェリダンもよく冷笑や苦笑を浮かべるが、その彼とはまた違った意味でよく笑う少年だ。子どもの無邪気な笑顔とは違って、一概に明るいからと言って油断はできないのが難点だが。
「俺は、行く」
「シェリダン王を助けるんだね」
 そう言われると、何か違う気がする。ロゼウスはシェリダンを助けたいとか、そういう気持ちを持っているのとは少し違う。守りたいではもっと違う。そんな感情ロザリーやミカエラやカミラに向けたことはあっても、間違ってもあの男に向けるようなものではない。
 ただ。
 ただ、俺は。
「シェリダンを殺すのはこの俺だ」
 そうなんだ。俺は、俺が全く知らない、手の届かない場所でシェリダンに死なれるのが嫌なのだ。
 だってあんたを憎んでいるのは誰よりもこの俺なのだから、その心臓を永久に止めるのは俺でないと。
 彼を殺せる人間なんて世界にはいくらでもいるだろう。彼を殺したいと思っている人間はさらに多く、彼を怨んでいる人間などはとうてい数え切れはしないだろう。
 それでも、どんなにその人々がシェリダンを憎み、殺したいと願っていても、最後にとどめを刺すのはこの自分だ。
 それが共犯者であり仇でもあり、それ以外の何か、言葉にならないような感情を共有する相手であるシェリダンに対する、ロゼウスのたった一つの決意だ。
 それまでは彼を誰にも殺させはしない。
「まあ、思考の方向性については今はまだ突っ込まないでおくよ。それよりも、じゃあさっさと出ようか。シェリダン王たちに追いつかなくちゃいけないし」
「ああ」
 ハデスは再びローブを着込み、どこからか怪しい杖のようなものを取り出した。黒い金属で作られ、幾つにも別れた先端が再び絡まりあう不思議な杖。
 そして彼はロゼウスに向かって右手を差し出す。ロゼウスは同じく右の腕を伸ばし。
「連れて行ってくれ」
 しっかりと彼の腕をとった。


025

 先日道で拾った少女をそのまま店員の一人にした。街に戻ってきたばかりで店を開く。建物の手配だけは別の街にいる間にしていたから問題はないが、わからないのは雇い入れる人間と、その人数だった。
 フリッツの記憶にあるあの店は、広かった。今、全く同じ大きさで建ててもらったはずの店内がやけに狭くなったように感じる。いきなり土地が広くなったわけでも、業者が大きさを間違えたわけでもない。両隣の建物はあの頃から変わっていないというのだから、いきなりこの場所が広くなったりそういう間違いがあるわけはない。
 フリッツは十八年ぶりにこの街に帰ってきたんだ、とようやく感じる。木材とニスの匂いは新しく、看板はやけに色が明るかった。以前その場所にあった建物と全く同じように作ろうとして、自分が細部を覚えていないことに愕然とした。うろ覚えの記憶を頼りに再現した『炎の鳥と赤い花亭』は、十八年前この土地にあったものとは全く別物だ。
「変わってしまったね。まあ、仕方ないことだが……」
 店に来た客の一人がそう言った。父親が生きていた頃、店主だった頃の馴染み。今は老人となった彼の言葉がフリッツの胸をつく。
 失くしたものは取り戻せない、永久に。
 仕方がない。本当にそうだ。だってどんなに外側を取りつくり完璧な店を建てたって、そこにいる人間は違うのだ。父も母も姉も、あの頃、この店にいた人間はもういない。だったら拘るだけ無駄なのに、それでもこうして面影と呼べるものにだけでも縋り付きたくなるのは人の性か、己の弱さか。
「お前も変わったな、フリッツ」
 男がしみじみと言った。二件隣で小間物屋を開いている老人だ。自分を眺めて、感慨深そうに言う。
「立派になったな……と言ってやりたいところだし、立派になったとも思うんだが……正直、わしは驚いたよ。お前、やつれてないか?」
 そうかもしれない。
 だが頷きはしない。
「そんなことねぇよ」
 あの頃は使いもしなかった乱暴な口調が板についた。男なんて成長すればみんなそんなものだとは知っているが、自分だけがあんな特別な体験をしたからだと思えてならない。
 それを振り払うようにフリッツは首を払い、給仕にと雇った少女の名を呼ぶ。
「ロー」
「はい、マスター」
 目隠しをした白髪の少女が、見えていないはずなのに何処に何があるのかすぐにわかるようで、グラスをトレイの上に乗せてお客へと渡しに行った。
 カウンターで顔を合わせている男たちは彼女を見て、感嘆の声を上げる。
「凄いな、あの子。全く見えてないんだろ?」
「ああ、だが、気配やら風の動きやらで、物の形と大体の動きはわかるとか言ってたな」
「おいおい、そんなことの出来る人間がいるのかよ」
「しかも、あの……」
「白髪か……なんでも、相当苦労したって話だが……」
 実は、それは疑わしい話だと思っている。
 フリッツがこの、ローと名乗る少女を拾ったのは一週間にもまだならない数日前のことだ。店はシアンスレイトについたらすぐ開店できるように整えてもらっていたから今日で二日目の開店だが、ローとはこの街へ入った街道の脇で出会った。霧の中、幽鬼のように突然馬車の前に飛び出してきた、薄汚れた格好の少女。
 彼女は故郷で酷い目に遭い、目が見えなくなったのだと言う。だから目元は目隠し用の布を巻いているのだと。そして白髪もその時に色が抜け落ちてしまったというが。
 本当にそうか? フリッツはローの白髪を見るたびに思う。
「なあ、なんであの子目元に布なんか巻いてるんだ? いくら目が見えないったって、あれじゃ怪しい上に不都合じゃないか?」
「ああ、あれは目に薬草を塗って治療しているんだそうだ」
「でも、惜しいよなぁ。輪郭とか鼻とか唇だけ見ててもさ、あれで目隠しを外したら結構な美人じゃないのか、あの子」
「ああ、そうなんだろうな」
 そうなんだろうが。……生憎とフリッツは美人に興味はない。
 彼の姉は美人だった。彼女は十八年前に亡くなった。全てと引き換えに欲しくもない国一番の美女の称号を得て、まもなくして亡くなった。
 だからフリッツは美人など見たくはない。
 その人が不幸になるのを見たくはない。
 だからと言って、フリッツの姉が何らかの偶然によって不幸にも死んだのに、他の姉に勝るとも劣らない美人が幸せに生きているのも見たくはない。だからどちらかと言えば、フリッツは美人が嫌いなのかもしれない。
 フリッツの今まで知った女の中で一番美しかったのは姉だった。幼心に、自慢だった。それが絶望に変わったときの虚しさは言いようがない。
 だから、フリッツは別に道で拾った少女が美人であろうがあるまいがどうでもいい。いっそ二目と見られない醜女であればいいとさえ思う。目元以外のあの顔立ちからしてそれは決してないだろうが。
 それ以上に気になるのは、ローの髪の白いことと、白い手だ。白髪や手先は出会った時は確かに薄汚れていて、今は少し荒れているし傷も多いが、その髪の艶やかさも、手のひらの柔らかさも下町の娘ではありえないことだった。もっと裕福な街の……金持ちの娘? あるいは貴族かもしれない。
 そんな少女が何故こんな場所でこんなことをしているのか。白い髪はさらさらと美しい。それは貴族の娘であるという可能性と共に、もう一つのことを示している。
 ローのあの白髪は、生まれつきのものではないのか?
 色が抜けたにしては、見事な白髪。ところどころ銀が混じっているようにすら見える。言うならば白銀の髪。しかし、白銀の髪を持つ人間などいるものか、いるとするならば。
 つい先月、この国が侵略した隣国ローゼンティアの――ヴァンピル。
「いや、まさか……な」
「どうしたんだい? フリッツ」
「なんでもありません。すみませんね。……ロー、それが終ったら部屋に戻っていいぞ」
「いいえ、マスター。私、まだ働けます。ここにいてはいけませんでしょうか?」
「いや……そうか。それなら、いいんだが」
 ローはカウンターの中へと戻り、フリッツの隣に静に佇んでいる。
 いい子なのは知っている。大人しくて、か弱げで、目が見えないから感情の動きが知りがたく一見無愛想にも思えるが、始めこそ警戒心の強い様子も見せていたが……笑い顔がとても愛らしい、いい娘だ。
 今はローがこの店の唯一の店員だ。だから大事にしてやらねばならないだろうと思う。間違いなど起こしそうにない娘だ。何か不幸にでも遭ったのだろう。フリッツの姉のように。
 日が暮れて人が増えてきた。この辺りは酒場が少ないし、あの事件のあとは酒場を経営するのも敬遠されていたらしい。続々と店に入ってくる、懐かしい顔と新しい顔。
「この辺も少しは変わっただろう」
「ええ。とは言っても、あの頃はまだ子どもだったものでそんなに詳しく覚えているわけではないんですが」
 先日、フリッツのために街門を開けてくれた警備員もやってきた。
「よぅ」
「この建物、誰が建ててたのかと思っていたんだが、お前だったんだな。知らなかったよ。一度も経営者が見に来てなかったし」
「悪いな。驚かせたくってよ」
 あの頃のことは、この下町の者全員に共通する悪夢だ。だからこそそれを払拭するために、同じ店で、同じ名前で……いや、他人をダシに使ってはいけないな。誰よりも自分自身が、あの辛い記憶を忘れたかった。辛くて幸せな記憶を……。
「バイロン!」
 突然、誰かが叫んだ。
「何だって?」
 その声に続々と人々が集まり始める。バイロンとはこの下町出身の男で、今は四十になるという年齢の、この国の宰相閣下だ。
「おい! みんな来てみろよ! バイロンだぞ! 俺たちの宰相殿が来たぜ!」
 宰相となった今も時々はこの街に帰って来ているという彼は今も人々の馴染みだ。扉に手をかけて店内に入ってきたのは、確かにあの懐かしいバイロンだった。幾度か手紙のやり取りはしたが、会うのは実に十八年ぶりだ。
 彼がもしも先王にこの町近くを通ることを進言しなければ……。
 一時期はそんな話も出た。長ったらしい謝罪の手紙。
 あんたのせいじゃ、ないのにな。フリッツは宰相を見ようとして……その隣にいる人影へと視線を留めた。フード付きのローブを着ている、細身の陰。
そのフードを外した顔を見て、フリッツは瞠目した。
「ヴァージニア……!」
 思わず叫ぶと、店内が静まり返った。全員が入り口に注目して、フリッツ同様その顔を見て度肝を抜かれる。
 藍色の髪、朱金の瞳、白い肌、赤い唇、通った鼻梁、孤をかく柳眉。
「違う」
 出てきた声は、高く澄んだ姉の声とは違った。少し低いが通りよい、少年の声。
「それは十七年前に死んだ、我が母の名だ」
「あんたは……」
 フリッツの姉は死んだ。十八年前に当時の王に攫われ、十七年前にその子どもを産んで三ヶ月で果てた。
 そしてその時の王子は、今はこの国の王となっているはずだ。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンは懐に抱えていたものを意識した。店内は静まり返り、彼の前には自然と道ができている。バイロンが恭しく頭を下げて脇に退き、シェリダンはカウンターまでの短い道を歩く。
「あんたは……この国の王か?」
 カウンター内の男、この店の店主が直球で尋ねて来た。シェリダンは頷く。
「そうだ」
 店内の緊張感がさらに増し、そこかしこで酒を楽しんでいた男たちは息を潜めている。まだ時間帯が早いせいか、泥酔している者はいない。元々今は酒場として開店してはいけない時間帯だ。早々と集まった者たちは店主の顔馴染みであるようで、その縁で軽くグラスを傾ける程度の酒精を味わっていたのだろう。
 シェリダンが現れたことに素面の人々は動揺を隠せないでいるようだ。ただ彼が来ただけならばここまで動揺もしないのであろうが、傍にはバイロンがいる。この界隈では馴染みの男がかしこまった態度で控えている様子。それが一種の威圧となる。
 シェリダンはカウンターの前に立った。叔父である男はシェリダンより背が高い。僅かに目線の高いその男の顔を見上げる。
「一国の王様がこんなちっぽけな酒場に何の用だ?」
「酒場に用があるわけではない。あなたに用が会って来た」
「俺はエヴェルシード王と知り合いになどなりたくない」
「知り合いにはならなくても血縁にはなれるということだ」
 叔父である男が不審げに片眉を上げた。確かジュダ=イスカリオットの報告に寄ればこの男の名はフリッツ。
 シェリダンの母の弟だ。
「王としてここに来たわけではない、と言う事か。では何をしに来た。甥御殿」
 こちらの意図を察して言葉遣いを改めることなく自然体――もっとも完全な自然体というわけではあるまいが――で話しかける男の様子に、数少ない客たちはすでに度肝を抜かれている。バイロンは背後に佇み厳しい顔を崩さぬままであるし、エチエンヌとリチャードもシェリダンがよいと合図するまで発言は差し控えている。
 シェリダンは懐から、城から馬車でここに来るまでずっと抱えていたものを取り出す。
 叔父が訝しげに眉を顰めた。
 シェリダンが取り出したのは、一冊の古い本だ。いや、本というには正確ではない。白い頁が続き、突然疎らに文章の綴られているあまりにも適当で不可思議な……日記。その中を開いて背表紙の裏側に書かれた名前を見せると、フリッツ=ヴラドは初めて大きな感情の揺れを表に出した。シェリダンの手から日記を奪い去る。普通なら不敬罪に当る行為だが誰も彼を咎めない、何よりも自分がそれを許す。
 彼の行動は当然だ。シェリダンはそれを眺めすぎて、今では僅かに癖のある女文字を映像として脳裏に焼き付けるほど眺めた署名を反芻する。
 ヴァージニア。
「それは、私の母であり、あなたの姉であった人の日記だ」
 シェリダンの差し出したそれを、フリッツが受けとる。
「読めるか」
「ああ。読むだけなら俺にもできる」
 平民は文字を読めない人間が多い。他国では義務教育と言う名で国民全てに教育を施すということもなされているようだが、生憎とエヴェルシードにはまだそんな機能もそれを達成する施設もない。だが、どうやら叔父が文字を読めないのではないかというのはシェリダンの杞憂だったようだ。明らかに内容を理解している目で、フリッツは視線をそれなりの厚さ持つ日記帳の紙面へと走らせている。
 彼はしばらく日記の頁を繰っていたが、やがてある箇所で手を止めた。
 亡き母の持ち物は城に全て残されていて、シェリダンは埃を被ったそれらの中からある日これを発見した。その時から数年間、機会があるごとに幾度もその文章を目で追い指でなぞったものだから内容は全て頭に入っている。当然、叔父がどの箇所で手を止めたかもわかった。
 この日記には王宮に連れてこられてからのヴァージニアの全てが書き込まれている。字などろくに書けない庶民の娘が、好きでもない男に無理矢理攫われ嫁がされた不満を、どこで覚えたものか習いたての文字で必死に書き綴った日記。日記と言うものの使い方自体を知らなかったのか、怒りに任せて筆を走らせたためか、その頁はばらばらで、手当たりしだいに白い面を見つけては書き綴ったという感じだ。そして順不同の最後の日付は、それは彼女が死した前日まで続けられている。
 この日記にはヴァージニアの死の真実が書かれていた。
 シェリダンはそれを知り、その処分に困り、誰にも言わずに今日まで来た。だが。
「……なんてことだ」
 叔父は目元を手で押さえ、もう片方の手では日記のある頁を開いたまま項垂れた。重い空気に耐え切れなくなった客たちは次々に席を立ち店を後にして、あとには数人の客だけが残される。
 そして叔父は目元を押さえたまま、絶望の呻きを漏らした。
 それはシェリダンがこの日記を初めて読んだ時と同じ反応。
「ヴァージニアは自殺したのか……! それも、第一王妃の迫害に耐え切れずに」
 先王の正妃ミナハーク。カミラの母親。
 シェリダンがずっと、妹に対して複雑な感情を抱き続けたのはこのためかもしれない。


026

 あの日、全てが失われた日。
 ロザリーは見ていた。危険だから隠れていろと、大好きな兄は私をあの広間から追い出した。自分は最後までいやだと駄々をこね……彼は笑った。わがままを言わないで。きっとまた会える。
 ロザリーはそれを信じた。大好きな兄上。彼女が自分より更に幼い妹を連れて出て行ったのは本当に戦闘が始まる直前で、大勢の隣国の兵士たちが城へと押し寄せてきた。荒々しい音を立てて広間に敵が入ってきたところで兄に閉め出された。
入ってきた敵は一面赤い徽章をつけていて、その中で特に大柄と言うわけでもないけれど、一際目立つ人が一人いた。
 その姿は眼に焼きついている。今思えば、あれはきっと敵の大将――エヴェルシード王だったのね。
 そしてその後、彼女は死んだ。

 ◆◆◆◆◆

「ヴァージニアは自殺したのか……! それも、第一王妃の迫害に耐え切れずに」
 フリッツが呻く。悲壮な声だった。悲しい思いをした人はいつも同じような響の声をあげる。
「宮中での第二王妃への嫌がらせは苛烈を極めたのだろう。もともとが市井の人間であると言う事は、それだけ宮中の貴族たちの反感を買うことになる」
「この近郊を治める反王権派の成り上がり者、ユージーン候のようにか?」
「……まあ、そのようなものだ。さらに、彼女は私を、第一王子を産んだ」
 フリッツは先程やってきた客と話し込んでいる。
 顔を合わせるなり二人がしたやりとりが、彼女は気になって仕方がない。
『一国の王様がこんなちっぽけな酒場に何の用だ?』
『酒場に用があるわけではない。あなたに用が会って来た』
『俺はエヴェルシード王と知り合いになどなりたくない』
『知り合いにはならなくても血縁にはなれるということだ』
 エヴェルシード、王?
 それは敵の名だ。ロザリーたちの国を攻めた。父上を殺した。私を殺した。
 そして私の、世界で一番大好きな兄上を奪った。
 それが、その暴虐の王が何故こんな下町の酒場に? マスターと知り合い? 血縁? どういうこと?
 ロザリーはエヴェルシード王国のことについてよく知らない。ただ、二ヶ月ほど前に王が若い王子へと代替わりしたということを兄たちが取りざたしていたことぐらいしか知らない。彼女自身は、これまで隣国のことになど興味はなかった。他国と縁戚を結ばないローゼンティアでは国外の王侯貴族の話などしても意味はなかったし、まさか攻め込まれて破れるとも思っていなかった。
 あの日のことは、まだ夢を見ているよう。それも比類するもののない悪夢で、彼女はまだ暗い闇を彷徨っている。
「……あんたが生まれたことが、ヴァージニアの死の原因だと言っているように聞こえるが」
 フリッツと客の話は続いていた。ロザリーの知らない名前が飛び交う。
「ああ。そうだろうな。エヴェルシードの王権は男子継承の慣例だ。第二王妃ヴァージニアは正妃ミナハークよりも先に王の子どもを産んだ。それも、継承権を持つ男子の第一子を。王の寵愛を独り占めする第二王妃に腹が立ったのではあろうが……」
 客の言う事はよくわからない。自分のことを話しているのならもう少し感情が入るものではないのか、淡々としていて。文脈から行けばそうであろうということも本当にそれでいいのか自信がなくなる。
 ただ、会話の流れを聞いていると、どうも。
 この声……どこかで聞いたような声だ。気のせいかもしれない。兄弟が七人もいるから男の声なんて聞きなれていると思ったけれど、年頃の少年の声なんてどれも同じものかもしれない。でも、それでも、やはりに似ている。
 心臓が締め付けられるように痛み、早鐘を打ち出した。
「さして顔を合わせたこともない相手だが、あれも愚かな女だ、正妃ミナハーク。第二王妃だけを先に殺してどうなると言う。どうせなら王子を殺さねば、自分の子に王位が継承されないだろうに」
 他人のことのように告げる声は乾いて熱を持たずひたすらに冷めている。だが、冷めているからこそそこにはある種の皮肉が混ざっている。
 これはもしや、千載一隅の機会ではないだろうか。
 ロザリーは静かにカウンターから抜け出た。目が見えなくても物の気配と、動いた時に跳ね返る小さな音と風の流れでおおよその位置はつかめる。この店の作りにも一日経てば慣れた。マスター・フリッツはとてもいい人。こんな怪しい自分を何も言わずに泊めて、雇ってまでくれたのだから。
 感謝はしている。誰彼構わず八つ当たりたいわけではないし、民が王の言葉に逆らえるわけがないということも知っている。
 驚いたのは、彼と、この新しい客との関係だった。下町にどうして一国の王が来るの?
 マスターと、血縁関係だからなの?
 この人が死んだら、マスターは悲しむかしら? ……悲しむでしょうね。家族は遠い昔にみんな亡くしてしまったと言っていたから。
 けれど駄目だった。ロザリーももう、これ以上自分を抑えきれない。
 ロザリーの家族が死んだのはつい一月ほど前。ほとんどの兄妹はともかく、父と母にはもう二度と会えない。そして、兄妹の最後の一人の行方がわからない。エヴェルシードに攫われたと、彼女を甦らせ姉が教えてくれた。だからロザリーは彼を捜しに出て……。
 彼女たちの国の民の瞳の色は酷く目立つから、国境を超えた辺りでは目に布を巻いた。動きにくいけれど仕方がない。検問を避けて聳え立つ外壁をよじ登り首都へと入ったところで、フリッツに拾われた。
 着の身着のまま、何も持たず、もうロザリーの手のひらには何も残っていない。
 あるのは、ただまたあの人に会いたいというその気持ちだけ。それだけで、彼女は千の山も億の海も越えて見せる。だから。
 そして疑惑を確信へと裏付ける、運命の言葉が口にされる。
「それで、当代エヴェルシード王シェリダン陛下、あんたの用はこれだけか?」
「ああ」
 呼んだ。はっきりと。そして答えた。王と呼ばれて。エヴェルシード王シェリダン。政治に疎いロザリーでもその名前は知っている。二ヶ月前にエヴェルシードで代替わりし、新しく玉座についた少年王。
 ――私たちの国を滅ぼした敵!
 あの日、兄の肩越しに見た広間の光景、一段と目立っていた若く美しい少年の―――。
 ごめんなさい、マスター。
「シェリダン様!」
 いち早く気づいたのはそれまで気配はしていたけれど行儀よく一言も喋らないでいた、たぶん、王族の連れる小姓の一人だろう、王よりもまだ若い少年。その彼が咄嗟に庇ったらしく、ロザリーの攻撃はエヴェルシード王に当らなかった。
 行儀悪く舌打ちする。
「ロー!?」
 フリッツが呼んでいるけれど、もうその声に答えるわけにはいかない。ロザリーは、ローであってローではないから。その名は嘘ではないけれど、兄や他の兄妹たちに呼ばれるための愛称だ。
 ロザリーの攻撃と同時に小姓の少年が放っていたらしい刃がこめかみをかすり、彼女の目元に撒いた布を切った。輪になったそれが切られたことにより足元へと落ちて、視界が鮮明になる。
 露になっただろう、ヴァンピルの赤い瞳。
 相手はロザリーを見て驚いていた。彼女の視界にはフリッツは入っていないし、酒場の他の客もどうだっていいが多分驚いている。けれどそれ以上に、攻撃された少年王とその小姓、侍従らしき青年と確か、バイロンと呼ばれていた客の一人が驚愕に目を瞠っていた。
 この顔だ。
 ロザリーは少年王を睨みながら、あの日のことを思い出す。広間に侵入してきた敵、その総大将と、目の前の顔は同じ。華やかな悪夢のように美しくて、彼女にとっては忌まわしい以外の何者でもない。
 ロザリーは先ほどエヴェルシード王を攻撃した刃――鋭く尖らせた自らの爪を構える。そうして敵意を露にしながら、瞼の内側に焼きついたあの日の光景を、正面を睨みながらぐっと思い返す。
「ロゼウス」
 ふと、少年王のその口元から求めていた名前が零れた。
 ロザリーは逆上する。もしも姉が伝えたことが真実なら、兄を攫ったエヴェルシードとはこの人に他ならない。
「私はロザリー=ローゼンティア」
 そしてそんなことは絶対に許さない。許せないから。
「暴虐の王よ! 死して我が父我が民の痛みを思い知れ!!」
 私はこの王を、殺す。

 ◆◆◆◆◆

「お逃げください、陛下!」
「クルス!?」
 かけられた声は、本来この場にいないはずの人間のものだ。
 シェリダンは母の日記を渡すために赴いた叔父の経営する酒場で、血走ったような赤い瞳に、鋭く尖った爪を刃物のように振り回して攻撃を仕掛けてくるヴァンピルの少女に襲われた。
 酒場の入り口の方から新たに現れた気配が細剣でそれを弾く。その青年に庇われ、シェリダンはヴァンピルの少女から距離をとった。文官であるバイロンは役に立たないが、エチエンヌやリチャードはただの兵士以上の実力は持っているし、シェリダンだとて腕に覚えがないわけではない。マントでできるだけ隠しながら腰に佩いていた剣を抜く。
「ユージーン侯? 何故ここに!?」
「説明は後で。宰相殿」
 後でとは言うが、この近隣を治めているクルス=ユージーン侯爵がここに来た理由はわかっている。どうせジュダからシェリダンがここへ来ることでも聞いて、警備のために潜入していたのだろう。バイロンは驚いているようだが、エチエンヌとリチャードは尾行の気配に気づいていたようだ。
 エヴェルシード国内有数の剣の使い手と名高い彼が来てくれて、助かったというべきか。
「やめるんだ、ロー!」
 カウンターを回ってきた叔父が叫ぶ。先程まで目隠しをして瞳の色を隠していた白髪の少女は、フリッツが雇ったであろうこの酒場の店員であった。
 こんな偶然があるとはな。
 皮肉なものだ。今日、ここで人死にが出る。誰もが無傷で帰れるとは思っていない。白髪の少女は恐ろしく強く、刃物のように鍛え抜かれた鋭利な爪の斬撃にあのクルスが苦戦を強いられている。
 フリッツの言葉にも耳を貸さず、少女はまず邪魔者から片付けようと、クルスに攻撃を仕掛ける。両者とも一撃一撃が致命傷を狙った必死の攻防で、他者には手が出せない状況だ。
 客たちは机の下に潜るか、窓から建物の外へと逃げ出て、とうに避難している。ただ一人残って、フリッツは先程までよくできた店員であった少女と突然乱入してきた青年の乱闘に手も出せず右往左往するばかりだ。
「下がっていろ」
「しかし、ローは」
「あなたにはどうにもできまい」
 エヴェルシード王と『炎の鳥と赤い花亭』はつくづく相性が悪いとでもいうのか、すでに流血の惨劇となっている。
 特殊な得物を使うエチエンヌが攻防の隙を見極めてクルスに加勢する。彼が使う特殊なワイヤーが少女の体をからめとり、その動きを封じた。できた隙と動きが止まって無防備な急所にクルスが剣を刺す。ずぶり、と肉に刃の埋まる鈍い音がして、少女の体が一瞬弾かれたように揺れた。
「ロー!!」
 フリッツが絶叫する。すでに彼女の腹部は流れた血で赤く染め上げられている。これで終わりだと誰もが思った。
 だが
「ッ!」
「!?」
 人間であれば致命傷であるはずの深手だろう少女は、敵意と殺意をむき出しにした紅玉の瞳で剣の柄を握るクルスをきつく睨んだ。その眼光は瀕死と言うにはあまりにも力強く、震えもせず動いたか細い腕が、手のひらを傷つけることも構わずに刀身を握った。新たに血が流れる。
「っ、抜けな」
「クルス!」
 少女の手が押さえた剣先がびくともせず、得物を手放すことを躊躇ったクルスの、それが隙となった。
「――っ!!」
 エチエンヌのワイヤーをも無理矢理引きちぎった少女が先程とは逆に自分が動けなくなったクルスの脇腹に強烈な蹴りを見舞う。
 決して華奢ではない青年の体が軽々と吹っ飛び、酒場の扉を突き破って店の表へと投げ出された。
「クルス!」
 こちらからでははっきりとした様子は見えないが、仰向けに倒れた彼の口元で赤が散るのが見えた。血を吐いたのだ。肋骨が折れて肺に刺さったのかもしれない。
「くそっ!」
 邪魔者を一人片付けた少女が今度はこちらへと狙いを定める。そうはさせじとエチエンヌとリチャードが一斉にその華奢な体へと飛びかかる。しかし少女は今度はエチエンヌのワイヤーに動じることもなく力押しでリチャードの剣を弾き飛ばすと、その顎を下から蹴り上げた。リチャードがその場に昏倒し、エチエンヌが目を瞠る。素早く懐から取り出したナイフをその目に向かって投げ、見事に命中させる。
「きゃぁあああああああ!!」
 左目を射られた少女が絶叫する。だが、貫いた刃を自らの手で引き抜くと、残った右目でエチエンヌを激しく睨んだ。血とも瞳の色ともつかぬ濃い紅でその顔面が染め抜かれ悪鬼の如き形相になる。
 少女は一度地を蹴っただけの一瞬の跳躍でその距離を詰める。左腕にまきつきたるんだワイヤーを気にもせず。さすがのエチエンヌも反応できず、少女は彼の胸倉を掴んで、逆の壁際へと片手で投げ飛ばした。
「エチエンヌ!?」
 華奢な体を思い切り壁に激突させられたエチエンヌが意識を失う。壁の一部は衝撃で破れ、物凄い音を立てた。少年の金髪が乱れ、後頭部からじわじわと血が流れ出す。まずい。間違いなく頭を打っているだろうし、下手をすれば頭蓋が陥没している。そうなれば手の施しようがない。彼よりは軽傷だろうとは言え、クルスとリチャードも危険な容態だ。
「お逃げください! 陛下!!」
 バイロンは今にも飛び出しそうな顔をしているフリッツをカウンターの奥へと引きずりこみ、庇っていた。
 シェリダンは片手に剣を提げ、ヴァンピルの少女と睨み合う。自らの肉体に傷を負うことをものともせず暴れまわった少女の体は血に濡れ、服は破れ、長い髪は乱れてまるで幽鬼だ。クルスの剣に腹部を貫かれ、リチャードには胸の辺りを袈裟懸けに斬られていたにも関わらず、幽鬼のような少女はしっかりとした足取りでそこに立っている。
 そして少女がシェリダンとの距離を詰める。シェリダンは剣を構えた。しかしその次の瞬間には、何の意味もなさなかったと思い知る。
「っ……ぐっ!」
 素早く距離を詰めた少女は、こちらがいつ触れたのかもわからぬ間にシェリダンの喉首を両手で掴んで締め上げていた。咄嗟に剣から手を離し両手の指先を滑り込ませていたが、そんなものでは足りない。人間にはありえない強い力で首を締め上げられ、シェリダンは声もあげることができない。
 シェリダンより背の低いはずの少女の細腕が彼の体を持ち上げ、宙吊りにされた形になる。自らの体重で余計首が絞まる羽目になる。
「がっ……あ!!」
 視界が赤に青に黒の砂嵐に入り混じり、酸素のいかない脳が痺れ、少女の手を拒むために滑り込ませた指先が万力で締め付けられたように痛んだ。痛みと苦しみが同時に襲い、このまま行けば確実に首の骨を折られるどころか握りつぶされ、首自体を引きちぎられそうだという背筋の震える想像が頭を過ぎる。
 視界は鬱陶しいくらいにチカチカと点滅し、もはや何もはっきりとは見えない。その中で、シェリダンの首を絞める少女の顔が笑っていたのは見間違いではないはずだ。
 ロザリー=ローゼンティア。
 自分の首を絞める少女はそう名乗った。
 白い肌に白い髪、血のような赤い瞳はヴァンピルであるローゼンティア人の特徴だ。そしてこの驚異的な身体能力と、致命傷を負っても軽々と動ける不思議も、人間ではありえない。
 そして何より、シェリダンはその名に聴き覚えがある。
『ドラクル、ロザリー』
 まだ出会って間もない頃、ロゼウスが口走ったその名。確か一番仲の良い妹だと言っていなかっただろうか。
 では、この憎悪に身を焼き、殺意をむき出しにし、なりふり構わずシェリダンを殺そうとするこの少女こそがローゼンティア第四王女か。
 その顔は髪の長さを除けば、気味が悪くなるほど女装したロゼウスにそっくりだ。
「…………!!」
 口内に唾ではなく泡が溜まり、意識が遠くなる。首に激痛が走り強力に押さえ込まれた指の下で骨の折れる感触を確かに知った。
 死ぬ。
 そう思った。これはもう覆らないことだと。けれど。
「だめだ、ロザリー!」
 その瞬間聞いたのは、とても耳に馴染んだあの甘い声の、悲痛で必死な響きだった。