017

 体が痛い。それにやけに寒い。
 視界は利かなかったが嗅覚だけはやけにはっきりしていた。五感が鋭いのはヴァンピルに限らず魔物係種族の特徴なのだが、今は何も見ることができないし、外の音を聞き取ることも困難だった。
 辺りに立ち込めるのは血のにおい。
 すぐにわかった。自分の血だ。そして家族の。
 彼は暗闇の中で気配を探る。両親と父上の他の妃の死はわかったが、兄妹たちの安否はまだ知れない。何しろ数が多く、力の強さも様々だ。だが、ここから感じられる限りでは全員の気配が揃ってはいないようだということがわかった。きりりと胸に感じるはずのない痛みが忍び寄る。
 これ以上、誰かに何かあったのか。
 彼は身動きもできずにただ焦燥だけを募らせていく。
「アンリ……アンリ」
 誰かが名を呼んでいる。綺麗な女の声。綺麗だけれど、いつもどこか寂しそうに陰を背負った声。知ってる、これは。
「ルース=ローゼンティアの名において命じるわ……吸血の王の一族よ、目覚めなさい」
 柔らかな感触。アンリの唇に触れたのは、ルースの、アンリの異母妹でありローゼンティア第二王女の唇だった。錆びた鉄にも似た血の味が染みて、心臓の内で鼓動が響く。
「……っ、!」
 彼は瞳を開けた。暗い夜空を背景に、自分を覗き込んでいるルースの顔を見る。ローゼンティア人特有の白い髪に赤い瞳。
 体中を血がめぐる感覚と共に一気に外界の情報が流れ込んでくる。音、色、匂い、気配、感触、熱、光。
「……ルース……」
「アンリ、私がわかるのね……体の調子はどう? ……何があったのか、覚えている?」
 静かな、けれどしっかりとした矢継ぎ早の質問にアンリは答えていく。
 自分はアンリ=ライマ=ローゼンティア。吸血鬼の国、ローゼンティア王国の第二王子。
 だが、彼の祖国であるローゼンティアはもう、どこにもない。あの日、隣国からの侵略者に滅ぼされてしまった。そしてアンリはその時に死んで、今、甦った。
「ここは、《風の故郷》か?」
 アンリは土の下に埋められていたのをルースの手によって掘り出され、目覚めさせられたらしい。辺りには他に誰もいない。彼女の細腕で華奢とはいえない男一人を墓穴から担ぎ出したなどというと信じられないかもしれないが、人間とは比べ物にならない怪力を持つヴァンピルであれば、造作もないことだ。
 見ればルースには傷一つない。もともと無事だったのか怪我が癒えるのを待ってアンリを呼び起こしたのかはわからないが、十分に余力のある状態なのだろう。そうでなければ死者蘇生は叶わない。ヴァンピルにも力の限界はある。
 だが、今はいったいいつなのだろう? 王が代替わりしたばかりの隣国エヴェルシードに侵略されて国は滅び、王族がことごとく殺害されてから。
「父上や母上……あなたの母上である第二王妃や、第三王妃も……・駄目だったわ」
「ああ」
 ヴァンピルには甦りの力がある。だが、完全な不死と言うわけではない。齢を重ねれば重ねるほど再生力は弱くなり、衝撃が大きくなるとその負荷に耐え切れなくなる。つまり、生き返ることができなくなる。寿命は長いが治世も永くに渡り幾多の困難を乗り越えてきた父たちは、やはり蘇生することは叶わなかったか。
「エヴェルシードの新しい王は苛烈だったな。俺は首を絞められた後に、四肢と胴を切り離され心臓を抉られて殺された」
 死の際に与えられたダメージは少なければ少ないほど甦りやすい。それに、体の部位がもとのまま残っているのも重要だ。切り離されたぐらいならその部位が残っていれば元通りすげることも可能だが、例えば腕などを斬りおとされて、その腕の先を本体から遠く離されてしまった場合はその腕はもうくっつけることはできない。
 甦ったアンリの、体中がひしひしと痛むのはそのためだ。宮殿に先陣切って攻め込んできたとき、一瞬だけ見た若い王。アンリよりも一回り近く幼かったはずだ。彼は一体アンリたちにどれだけの恨みがあるというのか、その死体を切り刻むだけ切り刻んで殺したらしい。
 あの混戦の間際、一瞬だけ見た光景を思い返してアンリは胸を痛める。あの少年王と直接剣を合わせていたのはアンリから見て二番目の弟、第四王子だった。あんな残虐な相手に真っ向から歯向かって、あの子はどうなっただろう。酷い目に合わされていないといいが。
「ルース、他のみんなは?」
「家臣のものたちも古い世代は亡くなったものが多いわ。王族も、私たち兄妹以外はほとんど……。みんなを起こすの、手伝ってくださる?」
 もともと青白い顔に疲れた色を湛えたルースがアンリに頼み込む。彼は当然頷いた。
「もちろん。そのために俺を先に起こしたんだろう?」
 一人でやるより二人でやった方が断然効率よい。それに死者の蘇生は強大な魔力を要するから、途中で力尽きて目覚めさせる者がいなくなればまた何日も兄妹たちの目覚めを待たなければいけなくなる。幼い弟妹たちから起こしては目覚めさせる者が少ないし……本当は、アンリなどよりよほど魔力が強く剣の腕から体術、内政能力まで高い長兄がいれば一番なのだが。
「なあ、ルース。ドラクルはどうした? あの人がいれば、こんなことぐらい」
 アンリがその名を出した途端、ルースの肩がびくりと大きく震える。あからさまな動揺を前に、彼は頭の上に疑問符を浮かべる。まさかあの兄までが死ぬとはとうてい考えられないんだが。
「兄上は……すでに動き出しているわ。何か考えがあるようで、私にここを任せられて……」
「考えって……兄妹の甦り以上に大切なことなんて今あるのかよ」
 能力は高いが、その性格は手放しで賞賛することはできない。アンリは嫌味なくらいに整った長兄の顔を思い浮かべて複雑な気分になる。彼によく似た二番目の弟は、ただただ可愛いだけなのに。
「とにかく、今はみんなを起こして」
「わかったよ」
 急かすルースの声に従って、アンリは手当たりしだいに墓穴を掘り返し始めた。弟妹たちの体を引き上げて、地面に横たえる。本来なら清めてやりたいところだが、それどころではない。エヴェルシードの侵略者たちは、彼らの死体を柩にも入れず適当に墓穴に放り込んだようだ。
 ん? いやちょっと待て。だったらこの腕の布はなんだろう。アンリの四肢をきつく縛っていた、土の中でぼろぼろに劣化した布。これのおかげで、彼は四肢を切断された達磨生首状態で蘇生せずにすんだ。
「手が止まっているわ……どうかしたの? アンリ」
「いや、これが……ごめん、後で聞くよ」
 第五王子ミカエラを生き返らせたルースが動きを止めたアンリを訝しげに覗き込んだので、彼は作業を再開する。
 土に汚れてぼろぼろの姿ながらも、次々と兄妹が甦っていく。すぐ下の弟、第三王子ヘンリー、数ヶ月違いの姉に当たる第一王女アン、弟の第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル、第三王女ミザリー、第五王女メアリー、第六王女エリサ……。
 これだけ、か?
「ねぇ、ルース姉様、ロゼウス兄様は?」
 第五王子ミカエラが、すぐ上の兄がいないのを見咎めて声を上げた。ミカエラは第四王子のロゼウスを慕っていて、彼のあとをどこでもついて回る傾向があった。もっともそのロゼウス自身はミカエラなど眼中にもなく、長兄であり第一王子のドラクルの後ばかりを追っていたが。
「それに、ドラクルとロザリーもおらぬ」
 一番年長の第一王女アンが、眉を潜めて辺りを見回した。ドラクルは先程ルースが言葉を濁しながら何かいいかけたから特に問題にはしていないが、ロゼウスと妹、第四王女ロザリーのことは気になる。
「……ドラクルは、もう蘇生しているわ。今は……」
 いつもどこか伏目がちで沈んだ顔立ちのルースが、一層消えそうに儚い面持ちで告げる。蘇生、ということはドラクルも無傷だったわけではなく、一度は死んだのか。
 誰にも負けない男だと思っていたのに。
「ロザリーは……一番最初に目覚めさせて協力を頼もうと思ったのだけれど、あの子憎しみに我を失っていて……」
「出て行ってしまったって?」
 ミカエラが同じロゼウス大好き同士で犬猿の仲の姉の行動を聞いて、顔をしかめる。
「ええ。そう。私の言う事も聞かず、本性を発揮して飛び出していったから、ドラクルが追っているわ」
 なるほど。そりゃああの人にしか無理だ。第四王女である妹のロザリーは、兄妹の中ではドラクルとロゼウスに次ぐ身体能力の持ち主なのだ。おそらくアンリが本気で喧嘩したら負けるだろう。瞬殺で。しかも我を失って本性を発揮と言う事は、普段は抑えているヴァンピルの能力全開ということだ。そりゃあ並大抵の相手では敵うわけがない。
「姉様、絶対無敵サディストのドラクル兄上も、猪突猛進直情径行娘のロザリーに関してもどうでもいいです。それよりも、ロゼウスは? ロゼ兄様は一体どうしているのですか?!」
 泥だらけの衣装も汚れた体も荒された墓場も冷たく照る月光も、何もかもを気に留めずミカエラはそれを尋ねる。自分より一回り年上の姉に掴みかかって、その肩を揺さぶる。
「姉様!」
「あの子、は……」
 どういう理由かは知らないが、一番先に目覚めてこの役目を受け持つこととなったルースは同腹の弟の行方について、いつも悪い顔色をさらに悪くさせながら。
「あの子は、エヴェルシードに攫われていったわ」
 最悪の報を告げた。


018

 頼りない燭台の炎だけが明かりを灯す寝室。
 エヴェルシードの夜は深く、一年を通して涼しげな気候のこの国では夜になると生ぬるい中に肌を刺すような冷たさの入り混じる、なんともいえない空となる。夜は月が朧になることもないほど透き通った空気が、朝方にはしんしんと積もるような霧となって舞い降りてくる。
 そんな時、まだ眠りについていない人々の心の内は室内を照らす炎の揺らめきよりさらに頼りなくなるのだ。庶民にとって油は安いものではないからそうそう真夜中に起きている者もいないが、贅沢を許された貴族階級ともなれば別。その頂点に立つ王ともなれば、香りよい蜜蝋を灯して、人々が寝静まる頃に、淫らな遊びに耽ることもまま、ある。
 人肌が恋しいのはこの冷たく温い夜のせいか。
 それとも、犯した罪が胸のうちを締め付け、爪の先で肺をひっかくような、言葉にもできぬもどかしさを与えるからか。
 どちらでもいい。
 どちらも真実だろうから。
「……シェリダン?」
 動きを止めた彼の下で、組み敷かれた者が弱々しくその名を呼ぶ。
 闇夜に浮かぶ真白い肌は、燭台の光にほんのりと染め上げられて薄桃色をしている。褥に乱れた髪は雪よりも煌めく白銀。重たげに、億劫そうに半ば閉じられた大きな瞳は血の色の深紅。硝子の鈴を鳴らしたような美しい声。
 瞳と同じく紅い唇は艶めいて、むしゃぶりつきたくなる。欲望のままに口づけて貪り、熱い吐息を交わす。
「ん……んんっ!」
 息が苦しくなる頃にようやく解放すれば、相手は涙目で新しい酸素を貪った。
「ロゼウス」
 病ならぬ熱にうかされて上気した肌を撫で上げながら、シェリダンは彼の名を呼ぶ。シェリダンの妻。妻ではあるが、今は乱れた呼吸に合わせて上下する胸は平らであり、その身は華奢だが引き締まっている、男の体だ。
 今、シェリダンの手によってこの寝室の寝台の上に縫いとめられている少年はロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。エヴェルシードの隣国ローゼンティアの第四王子であり、シェリダンの妻、エヴェルシード王妃。
 彼自身の名はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。このエヴェルシード王国の、王。
 二ヶ月と少し前、シェリダンは即位してすぐに先王である実父を幽閉し、隣国を一つ侵略した。侵略した国の名はローゼンティア。ロゼウスの故郷だ。シェリダンは己の目的のために隣国を滅ぼし、その王子を攫った。国民と言う人質をとって脅し、女装をさせ、あたかも女のように取り扱い正妃の座にこの少年を収めた。ロゼウスとのことは、それが始まり。
 始めこそ親兄弟を残らず殺し天涯孤独とした最後の王子をいいように扱っていたが、彼にもまだ切り札が残っていたと知ったのはつい半月ほど前。吸血鬼の王国であるローゼンティア、その王族たちは殺されても生き返る。ローゼンティアとのことは、これから荒れるであろう。国を継ぐ者がいなくなったからいいように蹂躙していたものが、その王族たちが甦り反撃の狼煙を上げるとなれば。
 だが、本来誰よりも早く祖国に帰りたいはずのロゼウスはまだここにいる。
「その格好、いいじゃないか。似合っている、すごく……とても、そそる」
 その体に覆いかぶさりながら耳元で囁いたシェリダンの声に、ロゼウスが屈辱だと言わんばかりに顔をしかめた。けれど何も言う事はせず、眉間に皺を寄せたまま目を閉じる。
 今の彼は女物の下着とコルセットを身につけて横たえられている。もちろん、彼が好んで着ているわけではない。どちらかといえばシェリダンの趣味だ。平生から女装姿が違和感ないほどに美しく少女顔のロゼウスだが、このような格好もまた扇情的で、劣情を煽る。
 露にされた白い胸板と、腰を締めるコルセットにガーター。
「せっかくだし、つけたままするか」
「なっ……」
 ようやく反論しかけた口を封じるように、シェリダンは薄い絹の下着の隙間から指を差し入れて彼自身に触れた。もったいぶった愛撫で昂ったそれを刺激して、獲物を嬲るように美しい少年を喘がせる。堪えきれずシェリダンの掌に精を放った彼自身のもので、後ろを解し始めた。直腸をかき回す異物感は悦楽に慣れた体ではすぐに快感へと変わり、ロゼウスの瞳がとろける。
「う……あ、ああ……やめ……」
「やめていいのか、辛いのはお前だぞ?」
 意味をなさない喘ぎにわざと真面目に取りあい、肛門から指を抜く。いきなり快感を止められたロゼウスが、もどかしげな、恨みがましい顔をしてシェリダンを見る。
「……なんで」
「やめろ、と言ったのはお前だ」
 恥辱に歪みつつも本能に流され欲を止められない、乱れきった雄の顔でシェリダンを睨むロゼウスをあしらいながら、新しい玩具を取り出す。
「そ、れは」
「知っているか? 知っているだろうな。これだけ経験豊富なら」
 見せ付けるように張型を咥え、唾液で濡らす。我ながら今ほど淫猥な仕草をしていることもないだろう。こちらを見ながら唾を飲み込むロゼウスに、艶やかに微笑んでやる。
「お前は私が嫌いなのだろう? 私に抱かれるのなんてまっぴらだと」
「それは、でも、これとは」
「だから望みどおりにしてやると言っているのだ。大人しくしていろよ」
 腰が逃げるロゼウスを押さえつけて、シェリダンは濡らしたそれを彼の体に押し当てる。ガーターは穿かせたまま下着だけをずらし、ゆっくりと貫いた。
「ふ、ぐっ……うあ、あああ!」
 卑猥な水音と、美しい少年の軋む喘ぎと。
 疲れを知らない玩具で表向きは「隣国の王女」と偽った王子を嬲り続ける。達して脱力しきった体を気だるげに抱き上げながら。
「この……性悪っ!」
 切れ切れの息にそんな他愛もない罵りを聞く。
「今更だ。知っているだろう」
「そうだけど」
 ロゼウスは言いよどむ。
「そう、だけど……」
 消えた語尾に閉じられる瞼。透き通るように白い肌だが、実際に透き通ってその瞳が見えると言う事はない。
 あまりにも美しくて、どこまでもはまる麻薬のようなこの少年が今もシェリダンの傍にいるのにはわけがある。
「あんたは、本当に酷い男だ」
「お前もだろう? 淫乱でマゾヒストで最低だ」
 どれだけ酷いことを、人には言えないような行為を強要してもロゼウスが本気で抵抗せず、口では嫌がりながらも受け入れるのにはわけがあるのだ。
 シェリダンは半月前、血のつながった異母妹を罠にはめた。その時に、無理矢理協力させた相手がこのロゼウス。
 結果的に、妹は……カミラは死んだ。シェリダンはロゼウスに手伝わせて妹を犯し、自殺へと追い込んだ。
 共犯者。
 その言葉がロゼウスを縛る。そして罪悪感と。
 ロゼウスはカミラに好意を持っていたらしい。そしてカミラもこの男が好きだった。シェリダンは最も非道なやり方で二人の仲を引き裂いた。
 後悔はしない。今もしていない。それでも。
 カミラへの罪悪感から逃れたくて、自らが酷い目に合うことで償いでもするかのように、ロゼウスはシェリダンの気狂じみた要求を受け入れる。シェリダンは逃避と怒りと苛立ちと、自らに沸きあがり抑えきれない暴力の衝動をひたすらにロゼウスにぶつける。
 二人して肌を合わせるたびに、自分たちの中で何かが音をたてて崩れていくのがわかる。
 それでも、エヴェルシードの夜は、この国の闇は深く寂しいから。
「続きをしようか、王妃殿」
 心を通わせあうことのない自分たちは、ただお互いの体の熱だけでも貪るように、その肌に溺れた。けれど抱いている相手は、愛した相手ではない。好意の欠片すら持ってはいない。
 どんなに肌を合わせても、唇を重ねても、そのために余計寂しくなるのだとわかっていても。
 ただ溺れ、闇に飲まれ。
 何処までも深く堕ちていく。

 ◆◆◆◆◆

 朝靄の中、石畳を走る車輪の音だけがやけに響く。
 ガタゴトと音を立てて、フリッツは一台の馬車でエヴェルシードの王都近い街道を走っている。国内の主要な都市と都市を結ぶ道は整備されて、これまでのぬかるんだ地面よりよほど走りやすい。
 後ろに荷台には雑多な荷を無造作に詰め込んでいて、気を抜くと何かが零れ落ちそうになった。しかし荷物をぽろぽろと落すわけにもいかず、霧や靄の深いエヴェルシードの明け方に慎重に馬車をただ走らせる。言葉もなく、歌もない。蹄が石畳を穿ち不安定な荷が打ち合う規則的な音だけが響く。
 唇は無意識の内に引き結んでいたし、顔も固い自覚があった。きっと今の自分は、とても三十代半ばには見えない顔をしているだろう。最後に鏡の中で見た自分だって表情は硬く、陰鬱な陰を落としていた。そこに映っていたのが年齢の割には疲れた顔をして眉間に皺を寄せたくたびれたエヴェルシーンで、多少がっかりしたのを自分で覚えている。
 力仕事で鍛えたために、適度な筋肉のついた体だけはたくましく、体格だけは人にも誇れる。だがそれをいかにも陰湿そうな印象に裏切るのは、この顔全体に溜まった疲れだった。それはただの肉体的疲労ではなく、精神の。何事かを堪えるような、これから出会う何事かに対して強い決意を固めるかのような、引き締められた表情。我ながら怖い顔をしている、と思いながら長く世話になった親戚の家を引き取った。
 やがて、王都の入り口が見えてきた。国の要である王城を擁すシアンスレイトの警備は硬く、その出入りはきつく制限されている。街の門が開くまでその関を通過することはできず、このように霧も深い朝方からそれが開いているわけでもなかった。
 見えてきた関所にフリッツは苦味のある笑みを浮かべて、その入り口の様子を見た。門には夜間であろうと朝方であろうと警備員が常駐している。とくにここは大きな街道のある街の要所とも言える道だ。
 けれど、入り口の警備室の中の兵に男は見覚えがあった。深い朝靄に目眩まされた視界も確かになる頃、フリッツと警備兵はそれぞれ驚きの声を上げた。
「フリッツ!」
「久しぶりだな。まさかお前が警備兵だなんてなぁ」
「俺のことよりお前の話だろうが! ……帰って来たのか。この街に」
 フリッツと呼ばれた彼は、疲れ、眉間に寄った皺を緩めながら警備兵を見る。警備兵も、どこか皮肉に歪むのに慣れた口元と垂れた目でフリッツを見る。二人は同じ年頃で、顔見知りであった。
「お前、だってこの街は」
「まあな。でもいつまでも逃げ続けているわけにもいかないだろ。親父たちの店、そのままなんだってな。建物こそ取り壊されたっていうけど、あの土地を買う奴もいなくてさ」
「ああ、お前が戻ってくるとは……戻って来れるなんて誰も思ってなかったし」
「まあな。……俺も、あの時は二度と帰れないだろうと思っていたよ」
 フリッツは元々、この王都の住人だった。十八年前、あの悲劇が起こった時、唯一親戚の家に預けられていて難を逃れたただ一人だった。
「王が代替わりしたからか? ジョナス陛下はもういない」
「それもあるな。一つのけじめだろうよ。あの王様とのことは。今のこの国を治めているのは、あの人の息子だろうが……」
 フリッツと警備兵はお互いに複雑な視線を交わす。言葉が上手く出てこない。わかるのは、これから王都へと、自分が一人帰還するということだけ。
「ところで、ここを通りたいんだが」
「ああ、すまない。今門を開けるよ」
「言っておいてなんだが、開けちまっていいのか? 俺は今から王宮に突っ込んで言って、王の首を狙うのかもしれない人間だぞ?」
「しないだろ、お前は」
 鎖を巻く音がして、重たい鉄の門がゆっくりと開いていく。門、とは言うがその実態は巨大な鉄格子だ。そして警備兵が一人でも楽に開閉できるよう工夫された、エヴェルシード王都の守りの要らしい。
「やっぱり、店を再興して親父さんたちの仕事を再開するのか?」
「ああ、そうするよ。たまには飲みに来てくれ」
「ああ……頑張れよ」
「お前も」
 短い言葉を交わして、時間外にもかかわらず自分のためにと門を開けてくれた警備兵と別れ王都内部へ入る。とは言ってもしばらくはまだ石畳の道が続き、街並みが見えてくるのはまだ先だが。
 しばらく今までどおり馬を走らせていると、急に視界を何かがよぎった。
「うわっ!!」
 フリッツは慌てて手綱を引いて馬車を急停止した。いくらそれほどの速度ではないとはいえ、馬の足蹴にされたら人間などひとたまりもない。飛び出してきた人物に怒鳴りつける。
「何してやがんだ! 危ねぇだろうが!!」
 馬に蹴られてはいないようだが、地面に跪いた人影は起き上がることも声を発することもしなかった。心配になり御者台から降りて駆け寄ると、飛び出してきた相手が少女だと知れた。
 やけにくたびれた衣装の、白髪の少女。
 しかもその両目には目隠しでもするように布が巻かれている。
「盲目、なのか……?」
「あなた、は……?」
 小鳥のような愛らしい声で、フリッツの声だけを頼りに顔を上げた少女が方向をなんとか定めて尋ねてくる。
「俺はこれから王都に戻るところのエヴェルシード人で、しがない酒屋のせがれだ。わけありか? お前さん?」
 フリッツが尋ねると、少女は途端に唇を引き結んで押し黙った。幾度か迷うように顔を上げ下げしたのち、心を決めたように顔を上げてフリッツのいる方向へと向ける。
「人を捜しているの。とても綺麗な男の子、知らない?」
「知らねぇっていうか、そんな説明じゃわからねぇんだが」
 盲目の少女は普通とは言いがたく、わけのわからないことばかりを紡ぎ続ける。言っていることはよくわからないが、困っているのだけはよくわかってしまった。フリッツは彼女に手を差し伸べかけて、慌てて目隠しをした少女には見えていないことに気づいて言葉をかけなおした。
「……一緒に行くか?」


019

「シェリダン様、イスカリオット伯爵がいらっしゃいましたけど」
 新王の即位から二ヶ月以上、隣国への侵略から一ヶ月以上が経って、ようやくこの体勢も落ち着いてきたらしい。最近は極安定した執務しかしていなかったシェリダンは、ローラのその言葉に頭を抱えた。
「ああ、奴か」
 イスカリオット伯爵、ジュダ=キュルテン=イスカリオット。彼とは表面上はさほど友好的な様子も見せずにいて、実は間諜を任せるような相手ではあるが……あまり、会いたくない相手といえば、そんな相手でもある。
「イスカリオット?」
 午前中に執務が早々と終ったシェリダンは、いつも通り自室で寛いでいるところであった。椅子に座って本を読んでいたロゼウスが、人名に反応して首を傾げる。
「その名前、なんだか最近聞いたような……」
 本を半ば閉じかけながら、思い出すように小首を傾げるロゼウスの口元へと視線を走らせる。添えられた指が艶かしい。
「……聞くも何も、奴は我が国の知られざる重鎮だ。私が口走ったのを聞いたのだろう」
 一瞬だけさらりと告げた名前を、ロゼウスは思い出せないようだ。しかしシェリダンは、自分がそれをどこで彼に聞かせたのかを覚えている。
 あの日、あの悪夢のように甘美な退廃の夜。
 シェリダンとロゼウスが罪を分け合った運命の日。
『まだよ、まだ私は負けてはいないわ! あなたが父上にしたことを全部公表してやる! そうすれば』
『本当にできると思っているのか? そんなことが。知らないなら教えておいてやろう。イスカリオットとユージーンは私の間諜だ』
 異母妹であるカミラを無理矢理組み伏せたあの時、シェリダンはつい彼らの名を口走った。ロゼウスがイスカリオットの名を聞いたのは恐らくその時だけだろう。
 思い出さなくてもいいことまで思い出して胸を抉る。あの時、確かに熱い肌をしていた少女はもうこの世にはいない。シェリダンは彼の妹であり、そしていくら憎まれようとも愛した女を、この手で死に追いやった。その責を一生背負ってゆかねばならない。
 だが今は、わざわざこちらを尋ねてきた
 ジュダのことを考えなければ。用件は先日の、カミラを罠にはめるための姦計への協力のことだろう。そして、何を報酬として求められるかもわかっている。
「気が進まないな」
 紅茶のカップを傾けて残りを飲み干して言えば、ロゼウスにも茶を淹れようとしていたローラが手を止めて困った顔をする。
「あら、どうしましょう。帰っていただきますか?」
「追い返したくらいで帰る輩であればな。そうなったらたぶんあの男はその原因をこの目で見るまで帰らないとか言い出すような奴だぞ」
「じゃあ、お会いになるんですか?」
「……仕方がないな」
 断ったら逆に後が怖い、というわけでもないが……とりあえず困る相手ではある。
 シェリダンはカップを置いて席を立ち、リチャードとエチエンヌを呼ばせた。こちらのことはローラに任せておけば心配はいらないだろうし、向こうでの計らいもリチャードとエチエンヌを動かせば間違いはないだろう。
「シェリダン、出かけるのか?」
 本を置いたロゼウスがシェリダンのほうへと視線を向けて言う。今日も麗しいドレス姿なのに、せっかくの瞳は曇っている。それは今日ばかりではなく、ここのところいつものことだ。
 カミラが亡くなってから、ロゼウスはそれならこんな場所に用はないとばかりにこの部屋から外へと出なくなった。一日中部屋の中に引きこもり、傍に控えているローラや、時々やってくるエチエンヌにリチャードなどを相手にして暮らしている。カミラが居た頃は薔薇園に向かう道すがら侍女や侍従の目を引き少しずつでもエヴェルシードに慣れそうであった「王妃」が、今では、事情を知る者以外とは口を利くどころか顔を合わせもしない。抜け殻のように生きている。
 それもシェリダンのせいだ。何もかも全て。
「臣下の一人に会ってくるだけだ。ああ、だが……夜はきっと相手をできないだろうな、今夜は」
「え?」
「行ってくる」
 訝るロゼウスの顔を見て、シェリダンは部屋を後に知る。やってきたエチエンヌが、来客の様子を告げる。正面を向いたまま唇をほとんど動かさず極小さな囁きだけで告げる。器用な奴だ。
 シェリダンが即位前に手に入れたもののなかで一番使えるのは姉のローラも含め、この二人の部下だ。双子人形と呼ばれるシルヴァーニの奴隷たち。見目麗しく才に優れた彼らのおかげでかなり助かっている面もある。
「イスカリオット伯爵はいつもの通りのらりくらりと周囲をかわしています。反王権派の大臣が接触を試みていましたが」
「捨て置け。そちらはバイロンに任せておけば大丈夫だろう。あの伯爵は簡単に篭絡される輩でもあるまいし」
「ええ。そつなく相手なさっていましたよ。何を聞いたのか詳細は本人の口からどうぞ」
 伯爵を待たせておいた客間へと入る。謁見の間ではなく、わざと客間にした。本来ならばそれなりの立場ある伯爵が改まって国王に目通りを願うのだから、格式を持って謁見の間で重臣たちを並べて迎えるのが当然なのだが、シェリダンとこのジュダは表面的にはすこぶる険悪な仲の主従ということになっているので、それらの堅苦しい儀式関係はいかにも面倒くさいといった様子で常に省かせている。いや、面倒くさいという部分までなら本音なのだが。
 ともかくも、エヴェルシード王たるシェリダンの間諜であるジュダ=イスカリオットは客間にいた。こちらも緊張感などは欠片もなく、侍女が淹れた茶を口に運びながら持ってきた書類に目を通している。行儀が悪い。
「おや、陛下」
「久しぶりだな、イスカリオット」
 二十代半ばにもなるこの伯爵は、とにかく物怖じしないので有名だった。若者相手にならまだともかく、旧家の大貴族相手にも堂々と対等のように接するというので、諸侯からはそれほど好かれてもいない人物だ。エヴェルシード人らしい青い髪に橙色の瞳は整っていて爽やかな二枚目だが、内面は爽やかなどという言葉からは程遠い。その顔で流した浮名は数知れずともなれば、年のいった貴族から敬遠されてもしかたのない人間ではある。
 国王であるシェリダンに対しても普段どおりの、気遣いの欠片もない粗悪な態度をとる、と周囲には思われている。思われているも何も、砕けた口調などは実際に王に対するにしては不敬だが、シェリダンがそれを許してやるという形を見せて諸侯の目を眩ませている。エヴェルシード王とイスカリオット伯爵は不仲、対外的にはそれでよい。
「で、用件は?」
「すでにお気づきでしょうに。先日の妹殿下の件―――……私はまだ褒美を全く頂いていないということに気づきまして」
 伯爵が立ち上がり、シェリダンの元へと歩み寄る。シェリダンは目配せでリチャードに続きの間を整えて置くようにつげ、頬へと伸ばされた青年伯爵の腕を取る。
「頂けますか。今回の働きに関して。私の望むものを」
「ああ」
 シェリダンはこれまで、間諜であるイスカリオット伯爵が何か働いたからと言って、金銭的なもので報酬を支払った事は一度もない。

 ◆◆◆◆◆

 客間の続きの部屋には寝台があり、掃除が行き届いてどこもかしこも整えられていた。シェリダンが寝台へと腰掛けると、青年の手が襟元を寛がせようと伸びてくる。
「イスカリオット」
「二人きりのときはぜひジュダとお呼びください、シェリダン様」
 晒された喉元に、ジュダの唇が触れてくる。上着の隙間から手が差し入れられ、胸を撫で上げる。手早く自らの服を脱いだ男は、シェリダンの着衣までも剥ぎ取って床へと落としていく。二人分の体重で寝台が軋んだ。
「ん……ふ、ぅん……」
 唇を寄せると、すぐに舌が絡んできた。息苦しさに思い切りジュダの胸を突き飛ばして体を離した。
「はぁ……」
 口元を濡らす唾液。
「接吻はお嫌いでしたっけ?」
「お前とはな。長すぎる。殺す気か?」
「いやいや、まさか」
 言って、懲りることなく男はまたシェリダンの体を抱き寄せる。下腹部へと伸ばされた指に刺激され、体が熱を持て余す。
「うあっ」
 ぬるぬると濡れた指が体の内側に入ってくる。直腸をすりあげられる感覚にたまらず声を上げると、ジュダの顔が満足げに歪む。
「いいですか、陛下」
 指の数を増やし、しつこいぐらいに中をかき回して慣らした後で、ジュダが尋ねる。
「…………ああ」
 シェリダンは頷いて、男のものを受け入れた。

「あなたは美しい」
 行為の後、寝台に横たわるシェリダンの髪を梳いて時折口づけながら、ジュダが言う。
「そんなことは知っている。私の顔はヴァージニア王妃に生き写しなのだから」
 藍色の髪と朱金の瞳。凛々しさの中にどこか甘さを含んだ面立ち。これは全て母親から受け継いだものだ。
「ええ、それもあるでしょうね。この容貌。この美しさ。それでいて、あなたには人をひきつける才能がある」
「才能?」
 事後にわざとらしくシェリダンを誉めそやすイスカリオット伯爵ジュダは、皮肉に笑ったシェリダンの背中を抱くようにして覆いかぶさってくる。裸の胸がシェリダンの背中に触れて彼の体温を感じる。だが、男の熱い体は今の彼には馴染まなかった。
「抱かれるのは久しぶりだ」
「おやおや、あなた様がまさかそんなに禁欲的だとも、相手に不自由するとも思えませぬが」
「違う。そうではなく、今はロゼがいるから」
「ロゼ……王妃。ああ……そういえば、結婚なさったのでしたね」
 ジュダの声が唐突に冷えて翳りを帯びた。忘れてましたよ、ともう一度寝台に零れる髪を掬い上げて口づけながら、彼は耳元で囁いた。
「フリッツ=トラン=ヴラドが王都へ戻ってまいりました」
「ヴラド?」
 シェリダンの名はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。ヴラドというのは、母方の姓だ。
「ええ、そうです。あなたの母上様、ヴァージニア第二王妃の血縁です」
「だが、両親ともジョナス王に殺されたのではなかったか?」
「弟がいたのですよ。彼女には四つか五つほど齢の離れた、ね。その弟であるフリッツはあの事件の時、親戚の家に預けられていて難を逃れたそうです。……陛下」
 上に覆いかぶさる男の胸は熱く、シェリダンよりたくましい。ああ、そうかとシェリダンは気づく。こうして人に抱かれるのは久しぶり……というのも微妙だが、二ヶ月以上なかったことなのだ。抱くことはあっても……。
 そしてヴァンピルのロゼウスはシェリダンより体温がかなり低い。その肌は、人よりも冷たい。熱を持ってもまだ温い。その冷たさにシェリダンは慣れていた。
「バイロン宰相は第二王妃の下町時代の知己であったと聞きます。あの方を通じれば、詳細が手に入るでしょう」
 バイロン。そういえばあれ以来シェリダンに従属することとなったバイロンは母の宮中に来る以前の友人だったとは聞いたことがある。だが、それはシェリダンが母の弟だという人物に会いに行く、ということではないか。シェリダンにはわからない。自分が母方の血族に会いたいのかどうか。
 言いたいことだけ言って、ジュダが寝台を離れる。
「それでは御機嫌よう、私の陛下」
 見かけだけは立派に服を着込んだ伯爵は、ひらひらと手を振って客間を後にする。相変わらず、何を考えているのかわからない男だ。


020

「どうして、すぐにロゼ兄様を迎えに行っちゃいけないわけ!?」
「ミカエラ、落ち着いて……」
 眼前で繰り広げられるやり取りに飽き飽きする。エヴェルシードに攫われた第四王子ロゼウスをすぐにも救出に行こうと主張する第五王子ミカエラを、第二王女ルースが宥めている。
 王族の墓所である《風の故郷》から離れ、彼らはひとまず身を隠した。悠長に身なりを整えている場合でもないといえばないが、泥だらけの墓穴から甦ってきたばかりですと言わんばかりの格好で動き回るわけにもいかない。それまで泥と埃と木屑と衣服の残骸にまみれて薄汚く貧相な浮浪者にしか見えなかった集団は、土地の者しか知らぬ泉で泥を落とし、ルースがどこから調達したものかかき集めてきた衣服を着てようやくそれなりに見られるものとなった。ルースはこれをどこで手に入れたものか、下級貴族の衣装のよう。あの妹は、ある意味兄妹で一番の謎である。
「いいかげんにおし、ミカエラ」
「ですが、アン姉様!」
「黙りや! ……そなたは焦りすぎじゃ。今我らがエヴェルシードに乗り込んでどうなると思う? あのシェリダン王に軽く捻られて終わりじゃろうが。それどころか、ローゼンティアの兵は皆エヴェルシードの監視下に置かれており、我らだけでは王城の奪還もままならん。そのような状態で飛び出してどうなる? しかもそなたは自らが何を失っても敵の懐に飛びいるのではなく、わらわたちの協力を欲しているじゃろう。ルースの言う事に不満があるのなら、そなた一人で死にに行くなり勝手にせい!」
 四番目の弟は唇を噛んで黙り込む。ミカエラはきゃんきゃんと吼える子犬のように威勢はいいが、それに実力が伴っていない上に、上に兄姉が八人もいるためにどうも甘えがあるようだ。幼い頃は病弱で何度か生死の境を彷徨ったこともあるものだし、仕方ないといえば仕方ないのかも知れないが。
「アン姉様」
「なんじゃ」
 今、彼らは汚れを落とした秘境の泉のほとりにある小屋の中に身を隠しているところ。ここにいるのは、ローゼンティア王家のうち九人。先程から話題になっている第四王子ロゼウスと、それを追っていち早く国を出た第四王女ロザリー、ロザリーを止めるべく後を追った長兄ドラクルは、いない。他の兄妹たちを甦らせたのは第二王女ルースと、手伝い要員として真っ先に目覚めさせられた第二王子アンリ。一番の年長は第一王女のアンである。もっとも、第一王女アンと第二王子アンリは同い年でどちらが兄とも姉とも言えないのだが。
「紙と携帯用のペンありませんか。ちょっと状況整理しようかと思って」
 兄妹一の変わり者だと有名な第三王子ヘンリーが言ってきた。アンは服に入れっぱなしにしておいた懐紙とペンの存在を思い出す。死した時そのままの格好で埋められていたために、多少くたびれてはいるがその二つは目覚めた時の服に残っていた。
「持っておるが、何故わらわに聞く?」
「あなたなら常に書く物を携帯しているでしょうか」
「人をメモ魔みたいに言うなや」
「あなたがことあるごとにどこからともなくペンを取り出してメモをとっていることは有名でしょう。で、貸してください」
「……これが城から持ち出してこれた唯一の品じゃというに」
 だが貸し渋ったところで仕方ない。アンは弟に懐紙とペンを差し出した。小屋の中にはさほど椅子がなく、ヘンリーはそれまで立って皆の話を聞いていた。アンはヘンリーと場所を交換し、入り口の近くに立つ。末っ子のエリサといきり立つミカエラを宥めるルースは、誰に遠慮したわけでもなく自ら立っていることを選んでいた。
 誰もが不安、怒り、苛立ちと疲労によって心細いような顔をしている中、常と変わらぬ顔色のヘンリーはアンのペンを持ちながら現在の状況を一つずつ整理していく。
「まず、状況確認しましょう。我らが祖国ローゼンティアは隣国エヴェルシードに侵略されました、と」
「そうじゃな、王城も占拠されておる」
「……みんなを蘇生させる前にドラクルが手の者を使って調べさせたところ、国内の貴族の九割は皆殺されているわ。今では生き返っている者もいると思うけれど……」
「九割? ってことは一割は生きてるんだな! それに生き返ってるんだろう? よかったぁ、生き残った奴がいて」
 楽観的に言い放つ第二王子アンリに、全員の視線が集まる。ルースは困って眉を八の字にし、ヘンリーは常と変わらぬ無表情。ミカエラはいったん自分を抑えて周りの話に全力で耳を傾けようとする風情で、第三王女ミザリーと第六王子ジャスパーは硬い顔をしている。第七王子ウィル、第五王女メアリー、第六王女エリサは兄であるアンリの明るい声に表情を和らげた。が、しかし。
「違うよ、アンリ兄様」
 強張った顔のジャスパーが水を差す。今年で十四歳の下から二番目の弟は、年齢の割に聡明だと知れている。
 第二王子に、そしてこの場の全員に向けて、ジャスパーが口を開く。
「この状況で生き返ったのではなく、最初から生き残った者がいるならそれは裏切り者だ」
 シン、と部屋の中が静まり返り、空気が冷えた。
「ジャスパー」
「だってそうでしょう? 市井の者ならともかく、貴族は王に忠誠を尽くし、そのために命を尽くすのが普通だ。そうして最後まで戦いきった者は、一度ぐらいなら死んでも甦るローゼンティア人の性質上まず生き残ることはありえない。それでも生き残ったというなら、それはエヴェルシードに寝返った裏切り者に他ならない。ローゼンティアの劣勢を見て寝返りを決めたか、家族や民を人質にとられてやむを得ず投降したか、最初からエヴェルシードに尾を振り間諜の役割を果たしていたのか。理由はさまざまだろうけれど、どちらにしてもそうして一度王家を裏切った者がこれから再び僕たち王族に従うわけはない。それに」
「それに、そうして裏切った者たちの手によって生き返らせられた者も、元の人格を奪われてただの死人返り《ノスフェラトゥ》にされている可能性が高い、というのね」
 ジャスパーの言葉の後を、第三王女ミザリーが引き取った。賢い二人にはすでに自国の状況がここにいながらにして手にとるようにわかるのだろう。
「わらわも、そう思う」
「私もです」
 アンとヘンリーもジャスパーたちの意見に同意した。そして兄妹の視線はルースに向けられる。皆の注目を一身に集めたいつも伏し目がちの妹は。
「……その通りよ」
 頷いた。
「アウグスト=カルデール公爵、ジェイド=クレイヴァ女公爵、ダリア=ラナ子爵、フォレット=カラーシュ伯爵……他にも。皆、エヴェルシードに従ったそうよ。シェリダン王ではなく、セワード将軍と言う人の交渉によるものらしいけれど」
「そんな! カルデール卿やダリア殿までが裏切るなんて!!」
 信じられないと言った顔でミカエラが叫ぶ。先程は怒り狂い、興奮して紅くなっていたその顔色が今は蒼白になっている。
「ルース、本当なのかえ? それは」
「ええ。アン。これはドラクルが調べた情報ですもの」
 ドラクルが調べたというならそこに間違いはないのだろう。アンも他の兄妹同様、連ねられた名前に動揺を抑えきれない。それはよりにもよって、誰よりもこの国に忠誠心厚いと謳われた者たちばかりであった。
「地理がまずいですね」
 そんな中、ヘンリーが一人、何か書き散らした懐紙の上に目を向けたまま呟いた。
「どういうことじゃ、ヘンリー?」
「王都の守備はダチェス・クレイヴァの仕事。ここは王族しか知らない隠れ家とはいえ、裏切り者のジェイド=クレイヴァ女公爵の警備範囲内だとすれば、すぐに見つかる。だからと言って逃げようとしても、エヴェルシードに向かう西はラナ子爵の領地、南はカラーシュ伯爵の領地、東は……カルデールの奴、よくも裏切ってくれたな……」
 滅多なことでは動揺をあらわにしないヘンリーが、苦い顔をした。アウグスト=ミスティス=カルデール公爵は、ヘンリーの友人だ。
「北はどうじゃ? ローゼンティアとセルヴォルファス王国は同じ魔族同士の国交がある」
「謀反者の領地を避けて行くとなると、天険クエマドロを通らねばなりません。途中で資金を得ることもろくにかなわないこの状況で、あの山を越えることができると思いますか」
「無理じゃな。それができる化物など、ドラクルとロザリーぐらいのものよ」
 ここにいない二人の名を上げてわらわは溜め息をつく。どうにもならない。
「ねぇ、お姉さまたち、わたしたち、どうなるの?」
 不安そうに震える声で問いかける末っ子のエリサに、誰も答を返すことはできなかった。

 ◆◆◆◆◆

 お世辞にも綺麗とは言いがたい泉のほとりの小さな小屋に身を寄せた彼らは、隣国エヴェルシードに侵略されたローゼンティアを取り戻すために王城の奪還、そしてエヴェルシード王シェリダンに連れ攫われたという第四王子ロゼウスの捜索のために計画を練っていた。
 王城が占拠されエヴェルシード兵による虐殺が行われた際、王族のほとんどがその犠牲となって死んだ。けれどヴァンピルには蘇生能力がある。死んでも、その身に魔力が残されている限り甦ることができるという、神秘の力だ。彼らヴァンピルは世界皇帝より王国を興す許可を与えられた選ばれた魔族なのである。
 けれど、それは人界の王には通用しなかった。エヴェルシードで一月前……彼らは一月以上も眠ったままであったと言うから、もう二月以上前になる。隣国で王の代替わりがあった。新たに即位した若き王、まだ十七歳の少年王シェリダンは譲位後すぐに父王を幽閉したという苛烈な性情の持ち主だとの噂がこの国にまで流れてきた。その時はまだ、彼らは自分たちの身に危機が迫っているなどとは、考えにも及ばなかった。父王を幽閉して軍での発言力を強めたシェリダン王が、自国に攻め入ってくるまで。
 性情苛烈な王の大胆不敵な攻撃の前にローゼンティアは容易く敗れ、王城にまで敵兵が侵入した。王城の者は皆力を尽くして戦ったが、大多数が襲われて犠牲になったようだ。
 彼らも、その時に一度死んだ。王族はほとんどの者が殺され、生き残ったのは第二王女であるルースと、連れ攫われたと聞く第四王子のロゼウスだけのようだ。けれどこの国に死者の蘇生をする者としてルースが残されたのはまだ幸運だったのだろう。ルース、それからロゼウスと長兄のドラクルも、ノスフェル家の血を継ぐ者だ。
 ヴァンピルの能力が血筋に偏ったものだというのはローゼンティアでは公然の事実である。つまり、個人差が大きいのだ。それは生まれや環境によって左右される。ほとんどただの人間と変わらないようなヴァンピルもいれば、まさに魔物としかいいようがない者もいる。
 その中でもさらに特殊能力を発揮するのは第一王妃の生家であるノスフェル家だった。と、言うのも、ノスフェル家の血脈は《死人返りの末裔》と呼ばれ、使者蘇生の能力が強い一族なのだ。ローゼンティアの吸血鬼はその祖先がそもそも死人返りだったといういわくつきの一族でもある。
 ルースは多少気の弱いところがあるが、死者蘇生の腕にかけては確かだ。でなければ、国王夫妻、第二王妃、第三王妃までは叶わなかったとはいえ、これだけの人数を無事に甦らせるのは無理だっただろう。特に第五王子のミカエラは、その気の強さとは裏腹に体が弱くそれほど魔力も強くない。彼は幼い頃からなんどもその病で死に掛けている。
 アンから受け取った紙とペンで、ヘンリーが簡単な地図と現在の状況を事細かに書き記す。一人だけ生き残り、一番早く蘇生したドラクルの指示で国内の反逆者を浚っていたというルースの言に寄れば、ローゼンティア国内の重鎮がすでに何人も祖国を裏切りエヴェルシードに与しているとのことだった。その情報は彼らに衝撃をもたらした。
 これから一体、どこに行けばいいのだろうか。どこにも逃げ場はない上に、国を取り戻すとなればさらに見込みがない。しかも、初めはローゼンティアに殉じて死を選んだ者でさえ、死から甦って後まで彼らとその国に忠誠を誓っているという保証はないのだ。もはやこの国の中にいても、安全な場所はなく、誰が敵か味方かもはっきりわからない。
「ねぇ、お姉さまたち、わたしたち、どうなるの?」
 末っ子の第六王女エリサが大きな瞳に涙を溜め、彼らはどうすることもできずにただ小屋の中で沈黙を聞いていた。誰も彼も顔色が悪く、見かけは冷静に見える者も胸中は嵐が吹き荒れている様子だ。いつも飄々としていて掴みどころがなく、逆に言えば周囲に惑わされず冷静でいられるはずのヘンリーまでもが、親友であるアウグスト=カルデール公爵の裏切りに衝撃を受けている。ルースが名を挙げた反逆者の中には、彼ら王族に特に親しい者たちも何人かいた。それは全てこの時の裏切りのための偽りの親愛だったのだろうか。今となっては判断できない。
「とにかく、これからどうするかを考えるのじゃ」
 アンが言った。第二王子であるアンリと数ヶ月しか違わないとはいえ、ここでは彼女が一番の年長だ。不安に揺れる彼らの心を叱咤するように、アン王女は言葉を連ねた。
「いつまでもここにいるわけにはいくまい。すぐに力尽きるであろうし、《食料》やその他の備品も足りぬ。さらに、一箇所に留まれば足がつきやすい。国内に留まればさらに敵に見つかる可能性は高くなり、国内の謀反の貴族たちがわらわたちを逃がさぬよう包囲する時間を与えてしまうことにもなろう。なれば、できるだけ早くここを離れることじゃ」
「けれど、姉上、わたくしたちはどうすれば……」
「どうするかなんて、どうしたいかによるだろ」
 周りの者たちを押しのける勢いでミカエラが声を出した。確かにその通りだ。けれど、この緊迫した状況下でそんなことがいつまで続けられるか、彼は言葉を重ねる。
「僕たちの前に今示された状況は二つ、一つ目は国内に留まるのは危険であり、この国の人間は誰も信用できないということ」
 そうなのだ。見張りこそ撒いたとはいえ、国内に裏切り者がいる以上死者蘇生のことはすぐにエヴェルシードにも伝わるだろう。王族の墓地を掘り返して死体の数が足りなければ、さすがに彼らにもこの復活が知れてしまう。そうなれば、終わりだ。
「そしてもう一つは、ロゼウス兄様がエヴェルシードに連れ浚われ、それをロザリーと、ドラクルが追っていること」
 ここにいない人々の名を挙げてミカエラが言う。さらにジャスパーが付け加えた。
「もう一つ、大事なことがあります」
「言うてみよ、ジャスパー」
「ブラムス王はもういない。となると、この国の王位はどうなりますか」
 全員がはっと息を飲んだ。そうだ、彼らの父王はもうすでに……亡くなっているのだ。そうなれば次の後継者は。
「つまり、今はドラクルお兄様がローゼンティアの王ってこと?」
 第七王子ウィルの素直な言葉に、皆は一様に困惑を示した。いつかは来る未来と言えども、あまりにも急すぎる。
 だが彼らが兄妹で話ができたのはそこまでだった。
「いたぞ! 小屋の中だ!」
「馬鹿! 聞こえたら逃げられるだろうが!」
 全員が扉の外から聞こえてきた声に体を緊張させた。あれは、追っ手の声。まさかもう気づかれるなんて!
 彼らは息を潜めましたが、この人数では気配を消すこともままならない。しばしの、胃を引きちぎられるような緊張の後、小屋の扉が勢いよく開け放たれた。
 胸に紅い軍章――エヴェルシードの兵隊!
 素早く動いた第二王子アンリが、兵士の脇腹に一撃を食らわせる。そして叫んだ。
「逃げろ!」
 それが、彼らそれぞれが無事である兄妹の姿を見た最後となった。


021

「お前の兄妹のことを教えろ」
 ロゼウスはシェリダンから唐突にそう言われた。
 昨日のシェリダンは来客があると言って部屋を出て、数時間後には戻ってきた。戻ってはきたが、その日はそれ以降ロゼウスに対して何もしてこなかった。
 今、つまり次の日の夜、目の前に晒された彼の上半身には、幾つかの赤い痣がある。
 息が止まりそうだった。ロゼウスが驚く理由なんてないのに。一国の王ならば、愛人の数人ぐらいいて当たり前だ。ロゼウスの父親など妻が三人もいたのだから(しかも本気で愛していたのは第三王妃だけだったらしい、ロゼウスの母上である正妃は無視して)。
 だからシェリダンにそういう関係の恋人がいてもおかしくない。なのに、実際そうやって他者との情交の痕をまざまざと見せ付けられると……何故だろう。胸が締め付けられる。
 鎖骨を飾る赤い痣。しなやかな肌に散る花のようで。
 目が離せなくなるのはどうしてだろう。ロゼウスは、シェリダンの裸体を声もなく見つめる。
 ここはエヴェルシード王城シアンスレイト。その中にある、国王の寝室。そして決まった部屋のないロゼウス……ローゼンティアの第四王子でありながら性別を偽ってシェリダンの妻になった『ロゼ王妃』の起居する部屋でもある。
 広い寝台の上、侍女が整えた褥をまた乱す目的でシェリダンが服を脱ぐ。露になった肌は白く瑞々しい。
 性格を無視して顔だけを見れば、シェリダンは美形だ。それも、とびっきりの。美形が多いと言われるローゼンティア王族の一員であり、見目麗しい兄妹に囲まれて目が肥えているはずのロゼウスの眼から見ても、シェリダンは綺麗。
 夜の空を切り取ったかのような藍色の髪、暁の光を閉じ込めた朱金の瞳。エヴェルシードという涼しい国の生まれであり肌は白く、程よい背の高さに体格。けれど体つきは華奢とは言わないが細身で、顔つきも母親似であるという彼は女性と間違えられることは決してないが、女性的な容貌の美形であることに間違いはない。それでも凛々しいくらいに凛々しい目つきが、彼の印象を刃のように研ぎ澄ましている。
 何となくロゼウスの兄……長兄である第一王子に印象が似ている。ドラクルもどこか油断ならない空気を纏った美しい人だった。ロゼウスはその兄に兄妹のなかでは誰よりも似ていると言われたけれど、できるならこんな女装をしても誰も正体に気付いてくれないような完全な女顔ではなく、もう少し凛々しく人を惹きつける魅力のある、兄やシェリダンのような顔立ちが良かった。
「どうした? 早く脱げ」
「あ、うん」
 寝台に座り込んだまま、服を脱ぐシェリダンの様子を何をするでもなく眺めていたロゼウスはそう催促されて自分の衣服にようやく手をかける。ドレスの勝手もそろそろわかってきた。もっともこれは普段着だから着やすいだけで、舞踏会用の要コルセットの本格的なドレスは侍女の力を借りねばとても一人では着られないものらしい。
 絹の衣服を無造作に床に落として、寝台へと上がる。先に上がっていたシェリダンに腕を引かれ、勢い余った挙句その胸に飛び込んだ。
 ロゼウスは目の前にある肌へ口づける。きつく噛んで痣を残すと、頭の上でシェリダンが小さく唸った。痛かったらしい。当然だろう。血が出てどす黒い痣になるほど噛んだのだから。
「……いきなり何をする」
「あんたに接吻しただけだけど」
 ロゼウスはシェリダンの傷口から流れる、と言うよりもじわりじわりと染み出る血を舐める。独特の錆びた鉄の味。普段は薔薇の花で吸血衝動による渇きを凌いでいるが、それだけではやはり不足だ。時々はこうして血を吸わないと。
 渇きが止まらなくなる。
 カミラが亡くなってからしばらく、ロゼウスは誰かの血を吸う気にも、薔薇の花を食べる気にもなれなくなっていた。近頃ようやく食欲は回復して、血が飲みたくなった。だからといって通りがかる人間を襲うわけにもいかないので薔薇の花びらで飢えを凌いでいたが。
 目が眩む。恍惚となる。甘い、甘い血の味。
 もっと寄越せと体が叫んでいる。もっと新鮮な、若くて美味しい血液。シェリダンの人としては白い喉首に噛み付きたくなる。ヴァンピル、吸血鬼と言う言葉はただ血を吸うだけではなく、もともとは死体を喰らう甦りの死者のことを指していたらしい。その習慣はロゼウスのようなローゼンティア人にはまだ残っている。男の肉は硬くてあまり美味しくないと言われているけれど、それでも目の前のこの少年の肌は綺麗で、内臓なども汚れてはおらずきっと綺麗ですっきりとした味わいだろう。
 思わず首の根に唇を寄せる。
 どん、と思い切り肩を突き飛ばされる。
「…………ロゼウス、お前、今何をしようとした」
「あ……」
 うっかりあんたを喰い殺そうとしてました。言ったら間違いなく怒られそうだ。
「……血が足りないんだよ。吸血衝動を抑えるには、もっと、もっと、人の血が欲しい」
「……具体的にどのくらいなんだそれは。牛一頭分の体液などと言われたらいくら私でもそれだけ人を殺して血液を集めるなどできんぞ」
 これだけは、と言った感じでシェリダンがげんなりとする。ロゼウスたちヴァンピルにとっては普通のことなのだが、どうも人間には理解できないらしい。
「牛? 牛の血はあんまり美味しくない。飲んでたけど」
「飲んでいたのか。私たちが牛乳は滋養満点とか言っているところをお前たちは牛の血で喉の渇きを癒すというのだな……」
 それ、普通ではないのだろうか。牛の乳などただ白いだけの液体だ。血液に比べればさらさらしすぎて味もそんなにしない。
「で、どれぐらい血が必要だ」
「七日ごとに一滴程度、指先でも、怪我をした傷口からでも、どこでもいいから」
 人の血はどの生き物よりも力が強い。他の動物なら殺して体中の血を干からびるまで吸い上げねばならないが、人間の血は一滴でも吸血鬼に大いなる力を与える。
「仕方がないか……」
 苦悩の表情で頭をかいたシェリダンが、寝台横のチェストの引き出しから小さなナイフを取り出す。それを左手の人差し指に押し当て、小さく切り傷を作った。たちまち彼の指先に柘榴石のような紅い血の珠が膨れあがる。
「あ……」
 ロゼウスはその色に魅入られるようにして、血の雫が零れないよう慎重に顔を近づけてシェリダンの血を啜った。舌の上に広がる鉄錆の味。背筋を快感が走り、体から力が抜ける。指先の血が止まるまで、しつこくその指を舐め続けた。間違っても限界以上に吸い上げて彼を殺してはならないと、今度は自分に言い聞かせる。今ここでシェリダンを殺したりしたら大変なことになるから。
 それでも、こうして王の寝台にすら潜り込めるということは、ロゼウスにはシェリダンを殺す機会がいくらでもあるということだ。……けれど、今のロゼウスにはシェリダンを殺すつもりはなかった。ローゼンティアの民のためということもある。けれど一番の理由は。
 ――お前は、我が墓標。
 そう言った彼を、見捨てられないからかも知れない。俺の共犯者。俺はあなたと共に地獄へと堕ちていくと決めた。
 けれどそうして心を決めたロゼウスの脳裏に浮かぶのは、決まって一つの面影だった。
「――何を考えている、ロゼウス」
「あ……いや、別に」
「別にということはないだろう。思考が飛んでいたぞ……当ててやろうか? お前の考え」
 シェリダンが優雅に口の端を吊り上げる。
「兄妹、それも長兄のことだろう」
 ロゼウスはぴたりと動きを止め、シェリダンの指から口を離す。
 体温の低いロゼウスたちヴァンピルとは違って、暖かい熱を持つ指が伸びてきて頬に触れる。その指先に撫でられることは、初めこそ苦痛だったのに今では心地よささえ覚えている。
「丁度いい機会だ、話せ」
「え?」
 すっかり服を脱ぎ寝台も整えられているこの状況で、シェリダンはそんなことを言い出した。
「話せ、ロゼウス。お前の兄妹のことを」
 そしてロゼウスは、今ではこんなにも懐かしい、過去のこととなってしまったローゼンティアの日々を思い返す。

 ◆◆◆◆◆

『おいで、ロゼウス』
 差し伸べられるのは大きな手のひら。兄の優しい手。
 ローゼンティア王国王太子、ドラクル=ノスフェル=ローゼンティア。彼はロゼウスより十歳年上の同母の兄だ。ロゼウスが物心つく頃にはすでに凛とした雰囲気を漂わせるしっかり者の第一王子で、優秀で有能だった。彼が跡を継ぐのなら国は安泰だろうと誰もが口々にドラクルを誉めそやした。
ロゼウスはそんな兄が大好きで誇らしくて、いつでも彼の後をついて回った。覚えているのは四歳ぐらいからの記憶で、その頃から……ドラクルは他のどの弟よりも、自分を溺愛していたというのは自惚れだろうか。
だが目をかけていたのは確かだった。第二王子で一番目の弟であるアンリより、第三王子のヘンリーよりも、誰よりも。弟ができてからもそれは変わらなかった。第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル。それでもドラクルが一番多くの時間を過ごしたのは第四王子であり同母の弟であるロゼウス、だった。
 あれはいつの頃だっただろうか。確か七、八歳頃から。
 夜、と言っても昼間は眠り夜に活動するヴァンピルの基準では夜は人間たちの明け方から夕暮れに値するのだが……明け方に寝室へと呼ばれるようになった。呼び出されて、最初は自分がしていることも、兄が要求しているのが何なのかもわからなかった。
 その頃、ドラクルは十七、八歳だ。ロゼウスはずっと、彼に「奉仕」させられていた。
『いいこだね……私のロゼウス』
 兄の股間に顔を埋めて、そのモノを口いっぱいに含み、ぺろぺろと舐め続ける。絶対に歯を立てるなと教えられた。苦い液は吐き出さずに飲み込めと、そう、言いつけられて、ロゼウスはその通りに従った。
『ふふ……よくできたね、いいこだ……』
 喉の奥で笑う兄の笑みに応えたくて、ロゼウスはさして面白くもない行為を続けた。それが単なる前戯に過ぎないと知ったのは、それからしばらく後。こちらの体も差し出すように求められた。女より早く男を知った。
『兄上、兄上……!』
 泣き叫ぶロゼウスを抱きしめて、ドラクルが笑う。終わり頃にはいつも意識を失いそうになって朦朧としているロゼウスの額や首筋に口づけて、いいこだと褒めてくれるその声を待った。
 彼の機嫌が悪い時は猿轡を噛まされて、鞭で背中を打たれることもあった。ドラクルはロゼウスを抱きながら、どこかそうして苛立ちをぶつけるようなところが、ないでもなかった。様々なことをさせられた。様々なことを、された。
 それでも、ロゼウスは兄との行為に溺れた。十三になる頃、王女の中ではただ一人正妃の産んだ娘、ロゼウスとドラクルと同母の姉であるルースにばれた。けれど兄はどう妹を言い含めたものか、ルースによってロゼウスたちの関係が世間に知れて咎められるというようなことはなかった。ドラクルは王太子であるから、知られれば絶対に只ではすまない。第一王位継承者であるからには、男色家であるなど許されない。もっとも、あの兄は弟であるロゼウスだけでは満足せず、かなりの人数同性とも異性とも楽しんでいたようだが。
 完璧な王太子と言われたドラクルの、それだけが唯一の欠点だろう。人に好かれるという意味では美徳かもしれないが、一体彼はどれだけの相手を泣かせてきたのだろうか。父王も母である王妃も国の重臣たちも、誰も知らないこの事実。
 それでもロゼウスはドラクルを嫌えない。いいや……言ってしまえば、愛している。誰よりも。
 そう、ロゼウスは一国の王子でありながら、兄を愛していたのだ。今も、愛しているのだ。
 エヴェルシードに、このシアンスレイト城に来てカミラを愛し、異性へと向ける恋を知った。けれどそれと同じくらいの強さで、ロゼウスはドラクルを愛している。そして男同士、兄弟、七歳から十年間の年月と、年季が深い分カミラへ向けるものよりもそれはどろどろとしていて複雑だ。
『大人しく言う事を聞くんだよ、私のロゼウス……』
 足を開かされ、彼のものを受け入れさせられる。最後にはロゼウスのほうから喜んで彼自身を咥えこんでいたのかもしれない。ドラクル。大好きだった。あなたが、誰よりも。
 けれどドラクルはどうだったのだろう。ロゼウスは数多い遊び相手の一人、男同士では絶対に孕むことがないから楽だと、それだけの理由で弟を抱いたのだろうか。六人もいる弟たちの中から、ロゼウスを選んだのはたまたま? 
 ある日ローゼンティアで、国民には知らされなかった事件が起きた。第二王妃による第四王子殺害未遂。ロゼウスはアンリを始めとしたほかの兄妹たちの母である第二王妃に首を絞められて殺されかけた。それも、ドラクルと間違えられて。第一王子が消えれば彼女の息子である第二王子アンリが王太子となれる。そしてロゼウスとドラクルは顔が似ているのだ。彼女は二人を間違えたらしい。
 けれどあの事件の時、ドラクルは自分の身代わりに死に掛けたロゼウスを本気で心配してくれただろうか? 
 いつものように、薄く笑みをはいてはいなかっただろうか?
 それでもロゼウスはただあの人に溺れた。命の危機? その程度のことで覆りはしないほど、ロゼウスは長兄に魅せられていた。たとえ彼の謀略によって死に瀕しようとも。
『ロゼウス――私の、ロゼウス』
 もっと名を呼んでほしい。縛り付けて雁字搦めにしてほしい。彼の声は、言葉は、肌は麻薬のよう。
『兄上ぇ……』
 ロゼウスは快楽に泣きながら彼のものを受け入れて、ただその名を呼ぶ。ドラクルの指が直腸をすりあげて後ろを解す。その度に狂喜ともいえる感覚が背筋を走り、彼のものを咥えるたびに意識が恍惚とした。
『ああ、兄様、兄様……!』
『可愛いロゼウス。―――お前は永遠に、私のものなんだよ』
 俺はただあなたに溺れ。
『……ねぇ、ロゼウス。お前はずっと私の傍にいるんだよ。そうすれば、今にこの国を全て、お前にあげる』
 あれは一体どういう意味だったのだろう。
『決して裏切るな』
『はい、兄上』
 あの時は今のような状況は予想もしていなかった。兄の言葉の意味を深く考えてみることもなかった。
 ドラクル。
 誰よりも大切で大好きな兄。
 初めは嫌だった。数々の淫戯の名称も知らず、意味もわからずにやっていた。知ってからは、嫌悪感が増した。ドラクルの言葉に逆らい、離れようと努力したこともある。けれど結局は、駄目だった。
 愛している、どうしても。
「話せ、ロゼウス。お前の兄妹のことを」
 シェリダンは言った。かつて自分の前で別の人間の名を呼ぶなと言いつけたその口で。だからロゼウスは遠慮なく話す。とは言っても、大した情報ではないが。
 第一王子のドラクル、第二王子のアンリ兄上は気さくな青年で俺の言葉遣いはこの人から学んだものだ。第三王子のヘンリー兄様はちょっと変わった不思議な人。第一王女アン姉上はアンリ兄上と数ヶ月違いの生まれで同い年、いかにも悠然としたお姉さまだが、口調が少し変だ。第二王女ルース姉上はロゼウスとドラクルと同じく正妃の子どもだけれどいつも自信がなさそうに伏目がちで、大人しい。第三王女ミザリー姉上は美しかった。その美しさに国内の求婚者が殺到したけれど、本人はどうでもいいようだった。彼女は兄妹で唯一体の弱い弟の第五王子ミカエラを気にしていた。ミカエラはすぐ下の妹である第四王女ロザリーとなぜかそりが合わないらしくて、いつも喧嘩ばかりしていた。でも密に一番仲がいいのもこの二人だとロゼウスは思う。第五王女メアリーは、兄妹の中では目立たないタイプだった。毒舌家のミカエラに言わせれば、性格が庶民、らしい。第六王子ジャスパーは、年齢の割にとても冷静で聡明で、物静かな子だった。第七王子ウィルは……王子の中では最年少、まだ十二歳だ。この子も随分のんびり屋だと思った。第六王女エリサは末っ子で、誰からも可愛がられていた……。
 思い出すと、どうしようもなく懐かしくなってしまった。
 会いたい。会えない。愛しい兄妹。家族。
「ロゼウス」
 シェリダンが裸の胸を押し当ててロゼウスを抱きしめる。
 あんたが、俺から家族を奪った。ローゼンティアでの平和な暮らしを奪った。男であり王子であり、兄であり弟であることを奪った。そして俺はそれに乗った。
 だから、これまでの日々など絶対に取り戻せるはずがないのに。……それでもロゼウスは、自分の兄妹が生きているとわかっただけ幸せだ。シェリダンの妹であるカミラは死んでしまったのだから。シェリダンの家族はもう誰もこの世にいない。
 こんなにも懐かしくて胸を締め付ける。
 けれど、会えない。もう誰にも、会えない……。
 涙を啜るようにシェリダンが目元に唇で触れた。さらりとした唇がロゼウスのせいで濡れる。柔らかな熱。
 そして寝台に押し倒され、いつもの通りに、きつく両の手を絡めた。