006

 白銀の髪に深紅の瞳。華奢な身体を美しいドレスに包んだその人は、庭園の四阿で今、カミラと向かい合って座っている。
 ……薔薇の花をもしゃもしゃと食みながら。
 カミラにのしかかって指を、というか指先から流れる血を舐めていたその人は、ひとしきり血を舐め終わった後、打って変わったしっかりした様子で頭を下げ始めた。彼女の話をよくよく聞いてみれば、ヴァンピルと言う種族はその名の通り、生物の血を飲まねば生命活動を維持できないということで。それを押さえる唯一の薬のようなものが薔薇の花なんだと。
「はあ……助かった。生き返る〜〜」
 なんと言うか。外見はこんなに美しい姫君なのに、言動が合っていないと言うか。
 これがローゼンティア王家最後の一人。
 シェリダンによって攫われてきた、囚われの姫。どうやら内面は可憐や繊細という言葉からは程遠いようだけれど、それでもその美しさは全てのものを魅了してとろけさせてしまう。かくいうカミラも何だか先程から頬が熱い。
 この方の美しさは、性別などと言う枠を越えている。
「本当にすみませんでした。見ず知らずの方にあんな振る舞いをしたうえに、このようなご親切まで受けて」
 その姫君が、正気を取り戻してからはひたすらカミラに頭を下げ続けている。
「そんなことありませんわ。私はただ品種改良を加えていない、在来種の薔薇をお教えしただけですもの。それよりも、身体の具合はいかがでしょうか?」
 雪のように白い肌の姫君は、柔らかそうな頬に薔薇色の血の気を取り戻している。初めて顔を合わせた瞬間には蝋人形のように顔色が悪かったものだから、カミラは少し安心した。
「はい、もう大丈夫です。ご迷惑、ご心配をおかけしました。……ところで、あなたは一体どなた様でしょうか? 見たところ良き家のご令嬢ではないかと見受けられますが」
 尋ねられてカミラはきょとんとする。あら? もしかしてこの方、私のことを知らないの? 
 さて、だとしたらどこから話始めるべきか。
 カミラの沈黙をどう勘違いしたのか、目の前の席に着いた姫は愛らしい仕草で小首を傾げると、慌てたように口を開いた。
「あっ、ごめんなさい。人に名を尋ねるにはまず自分から名乗るが礼儀ですよね。俺は……」
「俺?」
「うっ! ……いや、その、これは」
「まあ、一人称なんて些細な問題ですわね。別に女性の一人称が〈俺〉だろうと〈僕〉だろうと〈我輩〉だろうとたいしたことではありませんわ」
 姫があまりにもうろたえるので、カミラは先手を打ってそう言った。女性というものの心は複雑だ。かく言うカミラだって昔は女である自分を疎んで、なんとか男らしくなれないものかと気を配ったことがある。一人称を変えるなんてその序の口だった。最もこの外見ではあまり功を奏さないその作戦は早々と破棄されて、以後は女としての武器を最大限に使う生き方へと変えたのだが。
 カミラは目の前の女性もおおかたそのようなたぐいなのだろうと勝手に予測してそう言った。
「乱暴な言葉遣いとは自覚しているのですが、どうも直らなくて」
「気にすることはありませんわ。……それよりも、私の名はカミラですわ。カミラ=ウェスト」
「俺は……失礼、私は」
「俺でも別にかまいませんわ。それに、私、あなたのこと知っています。ローゼンティア王家の方でしょう?」
 カミラがそう口にすると目の前の人は、二、三度瞬いたあと痛みを堪えるかのような表情で。
「そう……でしたか。確かに俺の名はロゼウ―――いえ、ローゼンティアのヴァンピル。ローゼンティア王家の『ロゼ』です」
 シアンスレイト城の者は、もはや誰もがシェリダンがローゼンティア王家の姫君を妃にすると言って連れ帰ったことを知っている。それが彼女にはたまらないのだろう。そのことを知るたびに、自分が敵国に捕虜のように攫われてきた立場だと思い出さずにはいられないのだから。
「あの、お気を悪くされたならばごめんなさい。でも私……あなた様とは、できれば親しくしていただきたくて」
 嘘は別に言っていない。確かにシェリダンに拉致された姫君を利用して玉座を奪おうとは考えていたが、今のカミラは本当にこの人と近付きになりたかった。
 先程の飢え渇いた様子から立ち直った彼女は本当に美しくてけれどどこか儚げで、当人を見てしまったら道具として見ようという気が起こらなくなってしまった。もともとカミラはシェリダンのことは文字通り殺したい程に嫌いだけれど、その妃となる女性にまで恨みがあるわけではない。むしろ彼女は、故国を滅ぼされた男に無理矢理連れ去られた被害者。その胸中はいかほどのものか。おそらく今現在この城で一番つらい思いをしているのは彼女だろう。
「あの、ロゼ姫君」
「ロゼで結構ですよ。カミラ様」
「でしたら、私のこともどうぞカミラと。それに、あなたは……この国の王妃となられる方ですし」
 立場的には彼女の方が義理姉ということで上になるのだろうが、なんとも説明しようがなくてついそんなことを言ったらやはり彼女の顔は憂いに沈んでしまった。
「あ、あの! 今回のことは、まことに申し訳なく思っております。シェリダンがあんな暴挙をしでかして貴国に多大な損害を与えたことは、私どももいかんともしがたく」
「そんなにかしこまらないでください。カミラ様」
「いいえ、どうかカミラと。ロゼ姫様」
「では、カミラ。俺もどうかロゼ、と。……今回のことは……少なくともこの城に来ることについてだけは、俺が自分で決めたことです。だから、あなたがそんな風に恐縮することはないんです」
「ロゼ様」
 カミラはただその眼差しに見惚れる。
 ローゼンティア王家最後の姫君は、姿は勿論麗しく清らか。けれどこの人にはそれだけではない何かがある。毅然とした佇まい、凛とした瞳の奥に、燃える炎のような揺らめきがたゆたっている。
 国を襲った敵国の大将に拉致され、ここまで来るまでに何事もなかったはずはない。あのシェリダンのことだから、何をしたか知れたものではない。それでも彼女はまっすぐな瞳で自らを律するのだ。自国を滅ぼした敵だとエヴェルシードの全てを憎んでしまえば、それが一番楽だろうに。ヴァンピルの本能だって、あのまま押さえ込まずにカミラが干からびた死体になるまで血を吸い上げてしまえば、その方がよっぽど幸せだったろうに。
 こんな強い人は見たことがない。カミラはただ感服する。
 向かい合った姫君の、血のように紅く美しい双眸に見惚れていると、時を告げる鐘の音がこの庭園までも響いてきた。それを合図とするかのように、これまで風景を一部だけ切り取ったかのように、止まっていた時間が動き出す。葉擦れのさやかな音や、小鳥の泣き声が急に耳に入ってくるようになった。
 カミラは用事を思い出した。そういえばこの後、宰相バイロンに会いに行かなければならないの。元はといえばこちらが指定した時間ではあるけれど、今はもっとこうしてこのヴァンピルの姫君と話していたい。
 だがすっぽかすわけにはいかない。それは相手が宰相だからと言うより、他でもないその話がこのエヴェルシードの王権に関わるものだからだ。執務を一から十までこなすシェリダンよりは、玉座に座るだけ座って内政を人任せにするカミラの方が扱いやすいのだろう。彼は彼女に近付いてきた。カミラはその提案を呑んだ。こればかりは今更放り投げるわけにもいかない。
「申し訳ありません。そろそろ行かなくては」
「そうですか。お引止めしてしまったようで」
「いいえ! そんなことありません。私がここにいたのは、好きでここにいたのです!」
 カミラはローゼンティアの姫に向かい、カッと火照りやすい頬を誤魔化すようにしながら早口で告げた。カミラに釣られたのか、ロゼ姫も顔を赤くしている。
「今日はお暇します。でも、その、もし良かったら、明日も同じ時間にここに来ていただけませんか? できればお話をしたいことが……」
 一瞬嬉しそうに瞳を綻ばせた彼女は、次の瞬間ふと瞳を曇らせた。俯いて膝に置いた自分の手を見つめながら、悲しげに告げる。
「今日は……たまたま外に出ることができたけれど……明日はシェリダンがどうするかわからないので」
 カミラは胸の奥が急に凍えだすのを感じる。恐らく彼女もだろう。
「そう……でしたわね。シェリダンの意見によらないと」
 また、またあの男!
 カミラの胸の中で、この美しい人を汚し傷つける憎い男への苛立ちが急激に膨れ上がる。その怒りは衰えることなくやがて凝り、冷え塊、憎悪となって腹の底に住まう。
 そしてその相手こそが、ミナハークが憎んでやまず、ヴァージニアの哀しみの結晶であるこの国の新王。
 エヴェルシード国王シェリダン。……カミラの異母兄。世界中の誰よりも残酷で憎らしい男。
 ロゼのためにも、あの男を早く王位から遠ざけねば。カミラは深く決意する。
 近くの茂みに見事な純白の薔薇が咲いているのを見つけると、カミラはそれを、指を傷つけないよう慎重に手折った。できれば棘も切って差し上げたいのだが、生憎と今は何も道具を持っていない。無理矢理手折ったせいで切り口が無様に崩れ、青臭い匂いのする花を一輪、カミラは兄の妃の胸元へと押し付ける。
 鋭い棘がその手を傷つけぬよう注意して彼女の手にそれを移しながら。
「できれば、またお会いしましょう。これは私からの、約束の印です」
「カミラ」
「ごきげんよう、ロゼ様」
 驚いた表情のロゼ姫を置き去りに、カミラは四阿を後にする。これ以上遅れると、バイロンがうるさいだろう。せっかく進んだ話をここで打ち切られては困る。
 だってあの美しい姫君を解放するためにも、私は早くシェリダンを殺して玉座を奪わねばならないのだから。


007

 たかだか数週間とは言え、国を開けていたことにはかわりない。通常とは比べ物にならぬほど早く終わった隣国への侵略を終えて、日常に戻るにはすなわち執務の時間をまた持たねばならぬということである。
「シェリダン様」
 こちらの仕事があらかた片付いたのを上手く見計らって爽やかな香りの紅茶を用意した侍従のリチャードが、遠慮がちに声をかけてくる。今年で二十七歳、シェリダンよりも十歳ほど年長のその男はシェリダンの側近の一人、筆頭侍従だ。
「なんだ?」
 シェリダンは休憩用の私室には移らず、執務室で採決を終えた書類を脇に片付けて紅茶のカップを傾け、リチャードの言葉の続きを待つ。
「妹君にお会いせずともよろしいのですか? カミラ様のお加減を側付きに確かめましたが、本日はお加減がよろしいようですよ」
 何でも、宰相殿ともお会いする約束があるのだとか。
 控えめながら重要な情報を確実に伝えるリチャードに、シェリダンは陶器の器を口から離しつつ笑みを作る。
「そうか。カミラとバイロンが、な。まあいい。奴らが何をしようとも好きにさせておけ。最後に笑うのは私だ」
 エヴェルシード王シェリダン、それが今の自分の名。だが王であるところのシェリダンは、妹であるカミラとすこぶる仲が良くない。
 シェリダンとカミラは複雑な事情によって敵対関係にある。シェリダンより一つ幼い妹姫は、虎視眈々と王位を狙っているらしい。エヴェルシードは長らく女王の優遇されたことがない国で、若干男尊女卑思想が残っていることから女が王位につくのは並大抵のことではない。過去に一度女王が誕生したこともあるが、すぐに玉座から引き摺り下ろされたはずだ。
 しかしカミラにとってはそんなこと、たいしたことでもないのだろう。彼女が恨んでいるのはただシェリダンのみ。即位早々父親を幽閉し隣国への侵略を開始した、邪知暴虐の王シェリダン=ヴラドだけなのだから。シェリダンを害することに比べたら女王として立つ苦労など何ほどのこととも思っていないに違いない。
 彼女が次は何を仕掛けてくるかと考えると、シェリダンは背筋に言いようのない悦楽が走るのを感じる。事故、毒、刺客、冤罪。年々過激になるその罠にさて次は何を目論んでいるものかと心待ちにすらしているのだ。
「しかし、人の本心とは難しいものだな。なあ、リチャード」
「はい、シェリダン様」
「カミラもバイロンも、私と言う人間を勘違いしているのだ。私にとって、玉座を得ることが何になるというのであろうな」
「……シェリダン様」
 喉の奥で笑うと、リチャードが眉を顰めた。幼い頃からシェリダンに付き従っているというのに、この侍従はいまだこのような仕草に慣れない。いや、慣れないというよりも、好まないと言うべきか。
 シェリダンは裁可を下した書類を手早く片付け、茶器をリチャードに仕舞わせながら彼に問いかける。
「なあ、リチャード。カミラは何を考えているのだと思う?」
「はい。恐れ多くも王妹殿下にあらせましては、宰相と共謀して陛下の王位の簒奪を目論んでいるものと思われます。シアンスレイト周辺の貴族たちと繋がりをもつカミラ様は、この遠征の間彼らに何事か手を回していた御様子。恐らくは」
「父上を探していたのだろうな。カミラのことだ。諸侯に手を回しつつ父上がこの城におられることぐらいはすでに突き止めているだろう? バイロンの方はどうだ」
「宰相殿は、王妹殿下よりも強かな御様子。諸侯に密書を送り、協力を仰ぎながら軍に取り入ろうとしているようです」
「愚かなことを。宝玉で飾り立てた椅子に座った政治家が、剣を振るい血を流して戦う兵士の心持などわかるものか。……奴らはこのまま泳がせるぞ」
「御意」
 リチャードが頷くのを見て、シェリダンはふと窓の外へと視線を向けた。執務室の窓は中庭に向けて作られていて、その硝子を開くと馨しい香りが流れ込んでくる。
 その中に甘い薔薇の香りを嗅ぎ取りながら、シェリダンは今朝方のロゼウスとのやりとりを思い出す。薔薇の花が欲しいといった、あの。
 欲しいと言われれば言われるほど、シェリダンは与えてやりたくなくなる人間だ。それでもどうしてもというのならば、自分の足元に跪いて乞えばいい。
 無償に与えられるものなど所詮この世にはないのだから。だからシェリダンは、恐怖による服従と絶対の屈服から生まれる愛しか信じない。

 ◆◆◆◆◆

「……なんだこれは」
 さらに数刻、仕事をしてから寝室に戻ると、部屋中が薔薇に埋もれていた。
「あ、シェリダン様」
 シェリダンの声に振り返ったローラが、大きな花瓶を両手で抱えながら振り返る。その花瓶の中にも幾輪もの薔薇が生けられていて、さながら部屋は薔薇の展覧会のようになっていた。主であるシェリダンの許可も得ず。
「ロゼウス!」
「……ああ、あんたか」
 シェリダンは寝台に座り込んでじっと手の中の一輪の花を眺めている妃の姿を見つけた。名前を呼ぶが、ロゼウスはどこかぼんやりとしていて、彼が帰って来たことにも気づかなかった様子だ。シェリダンの前では怒りと憎しみと絶望以外には光を示さない血の色の瞳が、今は一途に手の中の白薔薇を見つめている。
「ローラ」
「ええと……なんかロゼ様へのお届けものだそうです」
「これに?」
 王の妃となる者へ早速どこかの貴族のおべっかか? そう考えたシェリダンの予想は外れた。
「カミラ様から」
「……カミラが?」
 今しがた聞いたことが俄かには信じられず、シェリダンは侍女へと尋ね返した。カミラ。この王城でカミラと言えばたった一人のことを指す。
「おい、ロゼ」
 困惑するローラから離れ、シェリダンは寝台に近付いてロゼウスの手から薔薇を奪った。ぼんやりとしていた瞳に活力が戻り、怒りの眼差しで彼はシェリダンを睨み付ける。
「返せよ! いきなり何するんだ!?」
「お前、これはカミラからもらったものだそうだな」
 部屋に溢れているのは、紅に橙色、桃色の薔薇。だがロゼウスが手にしているたった一輪だけは、この世の汚れの何をも知らないような純白の花だ。
「あ、ああ。そうだけど」
「お前が何故カミラから薔薇などもらう」
「今日、薔薇園で会った……あんたがくれないから自分で漁りに行ったんだよ。悪いか!」
 朝のことを根に持っていたのか、ロゼウスは挑戦するような眼差しでそう言った。別に薔薇など一株だろうが二株だろうが持っていっても構わないが、どうも彼の様子を見ていると純粋に花が欲しい淑女のような気分から言っているのではないらしい。
 しかしそれを追求するのは後回しだ。こちらから声をかけようと唇を開きかけたが、シェリダンが返した白薔薇に再び視線を落としたロゼウスが先に口を開く。
「なあ。シェリダン」
「……何だ」
「カミラ……カミラ=ウェストと名乗っていたんだけど、あの子結局どういう理由でこの城にいるんだ。どこか名家の娘らしいってことは見てわかったけど」
「カミラは私の妹だ」
「――え?」
 シェリダンの言葉を理解するのに何秒か費やしたロゼウスが、ようやく顔を上げる。呆然と彼を仰ぎ、まじまじと見つめてくる紅い瞳には今までになかった色がある。
「あんたの妹!?」
「そうだ。カミラ=ウェスト=エヴェルシード。私の一つ年下の異母妹だ」
 母親が違うからか、シェリダンとカミラはぱっと見ではさほど似ていない。だが、確かに同じジョナス王の子どもである。
「妹……そうか。そう……言われて、見れば」
「そんなことを言ったらローゼンティア人は皆白髪に赤眼だろうが」
 なかなか本題に辿り着かない会話に苛立ち、シェリダンは一つ舌打ちしてから再び問いかけた。
「カミラに会ったんだな。ロゼウス、一体あやつと何を話した」
「何って……この城で品種改良されていない薔薇の種類を教えてもらっただけだけど?」
 何故そんなことを聞かれるのかわからない、と言った様子でロゼウスは素直に答える。カミラの存在すら知らなかった彼は、もちろん彼女がシェリダンの命を常に狙っていることも知らないのだろう。
 いつかはロゼウスに来ると思っていたが、まさかこんなに早いとは。
 せめてあと数日は猶予があるものと思っていたのだが、この自分としたことがぬかったか。カミラはシェリダンとは違い、望まれれば相手がそれに溺れきるほど与えて懐柔する人間だ。
「カミラ=ウェスト=エヴェルシード……か」
 そしてロゼウスのこの態度が、シェリダンをさらに苛立たせる。これまでぴりぴりと張り詰めた様子が、今日は柔らかくとろけている。一体カミラとの間に何があったのか。
「リチャード」
「はい。シェリダン様」
「エチエンヌを呼べ」
「かしこまりました」
 これからはもう、野放しにしておくわけにはいかないだろう。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンの正妃となる少女ならぬ少年は、次の日、その次の日も同じように薔薇園へと出かけた。王宮の中でならさほどの強敵に出会うこともなく、あの剣の腕前なら難に会うこともないだろうと考えたシェリダンの目論見が早くも崩れ去っている。まさかカミラと接触されるとは。
 エチエンヌは前を歩くロゼウスに気づかれないよう彼を尾行する。相変わらず外見だけは人形のように美しい少年は、外見に反してなかなかの使い手だった。時折、訝りの眼差しで辺りを見回し何かを探す様子から見ると、尾行には半分気づきかけているようだが、それでも相手がエチエンヌで、何処にいるのかまではわからないのだろう。
 このエチエンヌ=スピエルドルフを甘く見てもらっちゃ困る。今頃、寝室の方ではローラが何か新たに持ち込まれた不審物がないかと探していることだろう。
 ローゼンティアの王子がカミラに会ったと口にした翌日から、エチエンヌはこの役目をシェリダンより言いつけられている。監視であり、護衛。ロゼウスとカミラの同行を逐一報告せよ、それがエチエンヌに与えられた使命だ。
 二人はいつも王宮の中庭にある薔薇園で会っていた。会話の内容は特に気に留めることもない、つれづれの世間話などだった。どうやらカミラはロゼウスが女であることを疑いもしないようで、あくまでも女同士として話をしているのだろう。会話の行方が若い娘らしくドレスや宝飾品のことになると、ロゼウスは少し困っているように見える。
 カミラはロゼウス……ロゼ王妃のことをロゼ様、と呼んでいた。対して、ロゼウスはカミラ、と随分親しげに王妹殿下に対して振舞っている。口調も特に女言葉というわけでもなく、平生のままなのだが、気づかれないでいるようだ。まあ、あの美しさなら仕方ないと傍観者であるエチエンヌも思う。外見だけは、美しいものが多いと言うヴァンピルの中でさえ目を引くような面差しだから。
 だが彼の美しさは、どこか恐ろしい。
 ロゼウスとカミラは四阿で向かい合って座り、エチエンヌは二人ともの表情が見えるよう、向かい合う彼らを横から眺めるような位置に潜んでいた。時折ロゼウスがこちらを気にするような素振りは見せるが、場所まではわからないようだ。カミラが話しかけると、笑顔で彼女の方へと顔を戻す。その顔はとても楽しそうだった。シェリダンの前では見せたことがないくらい。きっと彼は故国の王宮ではこんな顔をしていたのだろうと思わせるぐらい、自然な笑顔。
「ねぇ、ロゼ様。シェリダン……兄上のことなのですが」
 ふいに、それまでの話の切れ間を狙ったように、カミラが声を上げる。エチエンヌは茂みの奥でその内容に耳を澄ます。
「……陛下、の、ことですか」
 ロゼウスは人前ではシェリダンのことを陛下と呼んでいた。名前とはその本人の本質を現す名札のようなものだから、名前で呼ぶと言う事は、自分が相手に向ける感情までもさらすこと。ロゼウスは自分の故国を滅ぼし、家族を殺したシェリダンを恨んでいる。名前を呼んでしまえばそれがあからさまに表に出てしまうから、わざと陛下などと呼んでいるのだ。陛下。国内で最大の権力者。王である人。だがロゼウスにとってシェリダンは、エヴェルシード王であるよりも前に憎い「シェリダン」なのだろう。
 カミラが眉を顰める。
「やはり、あなた様はあの兄に酷いことを……」
「それは」
 俯いて唇を噛み締めるカミラに、否定することができないロゼウス。
「ねぇ、ロゼ様。あなたは、あの兄が憎くはないのですか?」
「俺は……」
「死んでしまえばいいと、あなたの故郷を滅ぼした酷い男など滅べばいいとは思いませんか?」
 甘い囁きがロゼウスの耳朶をくすぐる。カミラにとっては声を潜めて同性に話しかけているつもりなのだろうが、実際男にとってあの声音は殺人的だ。カミラの愛らしさは、シェリダンの美しさとはまた別の意味で力を持っている。正妃の娘であるという事実も大きく、彼女に従う諸侯や文官も少なくはない。
 薔薇の花の甘い香りに包まれた庭園で、呪詛に満ちた秘め事をカミラが口にする。
「故郷を取り戻すために、あの男を殺してしまった方がよいとは思いませんか?」
「なっ……―――」
 ロゼウスが絶句する。ローゼンティア王家の不和と言う話は、エチエンヌは特に聞いたことがない。仲の良いきょうだいだったのか。妹が兄を殺すなど信じられないという顔をしている。なんて甘いのだろうと腹のそこでエチエンヌはロゼウスを嘲り笑う。
「……カミラ、今のお話は、聞かなかったことにする」
 カミラから目を逸らして、ロゼウスはそう言った。
「ロゼ様! どうしてですか! 私のことが信用できないとでも!」
 シェリダンを追い落とすため手を組まないかと持ちかけたらしい、カミラが大理石の机に手をついて、ロゼウスに詰め寄る。だが声は潜めていた。薔薇は先王ジョナスが最も忌み嫌った花だから、その名残でこの庭園に立ち寄る者は少ない。それでもどこで誰が聞いているかわからないから声を潜める。正しい判断だ。相手がエチエンヌでなければの話だが。
 エチエンヌは視力も聴覚も常人以上に優れている。優れるようにシェリダンによって躾けられた。辛い奴隷生活から逃れようと磨き上げた技術が、その立場から救ってくれた彼の下でこそ役立っている。シェリダンはエチエンヌの大切な主人だ。彼の邪魔をする人間は誰であろうと許さない。それがこの国を支える宰相であろうとも、この後正妃と呼ばれることになるだろう隣国の王子でも、シェリダン自身の妹でさえ。
 四阿の中で動きがあった。ロゼウスがカミラの手をやんわりと振り払い、外へと出る。薄曇の灰色の陽光が白い肌に降りかかる。
「……今日はもう、このぐらいにしよう。カミラ。あなたは冷静になって」
「ロゼ様!」
「あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ」
 ロゼウスが苦渋を飲むかのような顔で言う。恐らく彼は家族を殺され故国を奪われた以上に、彼の本質を本能的にわかっているのだろう。そう、シェリダンは恐ろしい。
 それは誰よりもエチエンヌがよく知っている。それなのに彼はシェリダンから離れられない。
 ロゼウスがどう出るのか、彼らにはまだわからない。カミラに冷静になれと言う一方、ロゼウスは何か自分の中で考え込んでいるように見えた。何か、足りない一歩を埋めれば喉首に迫れるのに後一歩何か足りないと言うような、微妙な表情。
 ロゼウスにはシェリダンを恨む理由がある。
 だからこそ、エチエンヌは彼を警戒する。バイロンもカミラも、本当の意味でシェリダンの敵にはならないだろう。なるとしたら、この男だけだ。
 ロゼウスが四阿を離れ、薔薇園から出て行った。一人残されたカミラは切なげに唇を噛み、四阿の椅子に頼りなげな風情で腰を下ろしたまま。
 エチエンヌはまたひっそりと、ロゼウスの後を追う。彼は廊下を歩き出すが、その先は彼が戻るべきシェリダンの寝室に繋がっていはいない。今度はどこに行くのかと考えたところで、急に彼は立ち止まり声を上げた。廊下の突き当たりで行き止まりだった。
「エチエンヌ、ついて来ているんだろう?」
 驚いた。
「……よくわかったね」
 しきりに追跡者を気にしていた様子だから尾行していることぐらいは気づかれても仕方ないと思っていたが、まさか相手がエチエンヌであることまで見破られるとは、観念して姿を現すと、彼は小さく溜め息をついた。
「さっきの話は本気?」
「カミラとのことか。それを言うなら、俺が聞くのが先だ。お前たちはこのことを知っていたのか?」
 このこと。シェリダンとカミラが敵対していることを。
「知ってるよ」
「だったらどうして」
「仲直りしないのかって? そんな簡単にできたら苦労しないね。エヴェルシードの王権はお前らローゼンティアみたいにあっさり決まったものでもないんだ」
「俺たちだって……」
 エチエンヌの皮肉に、ロゼウスは何か言いかけた。だがばつが悪そうに口を閉じると、それきりエチエンヌを見ようともしない。
 エチエンヌは彼の美しい容貌を眺めていると、酷く残酷な気持ちになる。敵国の王に国を滅ぼされ家族を殺され、無理矢理攫われた挙句に妃になれなどと無茶なことを言われ、男であるという権利さえ奪われた。この哀れな王子様を、もっともっと踏みにじってやりたくなる。
「で、本気なのか? ロゼ王妃様。お前はシェリダン様に味方する気があると?」
「さあ……どうだろうな。お前がいたから本音なんて話せなかったしな」
 いなくても本音を話すことなどなかったろうに、わざとらしく。だからエチエンヌも、嫌味ったらしく言ってやる。
「あなたがどういう考えをお持ちであろうと、これだけはお忘れなく、王妃様」
 ローゼンティア第四王子ロゼウス。お前は所詮どう足掻いても、シェリダンの所有物の一つに過ぎないのだということを。


008

 どうして、いつも叶わない想いばかり。

 国に居た頃は、ドラクルに愛されたかった。そして自分をドラクルと間違えて殺そうとした第二王妃にも、できれば好かれたかった。ロゼウスの母は子どもたちに興味などまるでない存在だったから、母親の温もりが恋しかった。
 エヴェルシードに来た時、ロゼウスの胸の中には億の闇と、針の先ほどの希望があった。シェリダンの玩具扱いになる屈辱に耐えたのは、目的があったから。それ以外はこの国に用などない、そう思っていたのに。
「ロゼ様」
 何故、彼女はそんなにも美しく笑う。
 自分は今は女物の衣装を纏い、エヴェルシード王シェリダンの妃となるロゼ姫を名乗っている。そして濃い紫の髪に、猫のような金色の瞳をもつこの姫の名前はカミラ。シェリダンの妹であるこの少女は、ロゼウスを女だと信じて疑わないらしい。シェリダンより一つ年下の妹は、出会ったその日から何故かロゼウスに好意的だった。
 ロゼウスはシェリダンが執務にかかりきりで昼の間は自分を放置するのをいいことに、薔薇園を足しげく訪れてはカミラとの逢瀬に酔いしれていた。いや、逢瀬などという艶めいたものではない。カミラはロゼウスを女だと想っているのだから。王族にしては気さくで、ヴァンピルであるローゼンティア人のロゼウスともすぐに親しくなったカミラは、毎日毎日、薔薇の花を手折りながらどこか楽しそうに笑っている。ロゼウスは、と言うと、それを見ているのこそが楽しい。
 彼はカミラに惹かれていた。
 ふわふわとした春宵の花のような容貌に、苛烈な猫のような気性。数多い女兄弟を持つロゼウスにも、カミラのこの性格はとても新鮮なものに見えた。
カミラのしなやかな気性は、ロゼウスの心を酷く打つ。たおやかで、それでいて凛とした気性。若い娘特有のあどけなさと、女の色気、王族の気品。それらが絶妙に組み合わされてカミラ=ウェスト=エヴェルシードという人間を成す。彼女の眼差しはどこまでも真っ直ぐで、胸には剣を抱いている。
 しかし、そう感じるのは今ロゼウスが女装をして、彼女の義理姉となるロゼ姫として話をしているからなのだろうか。彼女がロゼウスを女だと思っているから。だからこそそんな顔をカミラは彼に見せるのだろうか。
 カミラはパッと見はわからないがそれでも良く見れば、シェリダンに似ているかもしれない。兄妹だけあって、顔のパーツは微妙に似ている。だがそれらを総合してできる人間は全くの別物だった。ロゼウスはシェリダンといると絶えず胸を鋼の針金で締め付けられているように感じるが、カミラといると柔らかい綿で頬を撫でられているような気分になる。
 ついつい毎日、薔薇園に足を運んでしまう。そこに波打つ長い紫の髪を見つけて、唇が綻ぶ。氷の城だと思っていたエヴェルシードで、彼女といる時間だけが陽だまりに足を踏み入れたようだった。
 彼女を騙しているのが辛い。
 彼女に想いを打ち明けられないのが辛い。
 だが、どうしようもない。シェリダンを裏切ればどんな制裁が待っているか知れない。
 そんな時に、カミラはとんでもないことを言い出した。
「ねぇ、ロゼ様。シェリダン……兄上のことなのですが」
「……陛下、の、ことですか」
 声が引きつるのは仕方がない。
「やはり、あなた様はあの兄に酷いことを……」
「それは」
 否定、できない。シェリダンが毎晩ロゼウスに強いるのは、間違いなく無体な仕打ち。そして彼がローゼンティアにしたことは、残酷極まりない行為だ。
「ねぇ、ロゼ様。あなたは、あの兄が憎くはないのですか?」
「俺は……」
 憎い。――憎い憎い憎い。
「死んでしまえばいいと、あなたの故郷を滅ぼした酷い男など滅べばいいとは思いませんか?」
 死ねばいい。シェリダンなど。死んでしまえばいい。決して許すことはない。心を許すことはない。叶うものならば今すぐにでも屠ってやりたい。
 心の奥底に無理矢理押し込めた醜い気持ちが、カミラの言葉によってゆっくりと表層近く浮かび上がる。だが次の言葉には、さすがに度肝を抜かれた。
「故郷を取り戻すために、あの男を殺してしまった方がよいとは思いませんか?」
「なっ……――」
 ロゼウスは真正面にある彼女の金色の瞳を見た。
 その瞳には、まぎれもなく自身の兄へと対する恨みと殺意が浮かんでいた。
 ぞくり、とさせられる。仄暗い女の憎悪の念。だがそれはロゼウスにも覚えのある感情。粘着質な恨み。彼女はまるで。
「……カミラ、今のお話は、聞かなかったことにする」
 カミラから目を逸らして、ロゼウスはそう言った。
「ロゼ様! どうしてですか! 私のことが信用できないとでも!」
 信用している。シェリダンなどよりよっぽど。だが今、その言葉に頷くわけには行かない。まだ、機は熟していない。もう少し、もう少しであれが……。
 ロゼウスは誰にも言えない秘密を胸に抱え、カミラの言葉を今はやんわりと振り払う。
「……今日はもう、このぐらいにしよう。カミラ。あなたは冷静になって」
「ロゼ様!」
「あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ」
 この言葉は本心だ。カミラはシェリダンの本当の恐ろしさを知らない。夜毎自分を苛むあの男の、魂に根付いた闇を彼女は知らない。
 迂闊に手を出せば必ず痛い目を見るのは自分だ。だからこそ、ロゼウスは待たなければならない。
 カミラと別れ、廊下を歩いた。ようやく三分の一ほどを把握できるようになったシアンスレイト城内の地図を信用すると、この先は行き止まりで人気がない。内緒話にはもってこいだ。
「エチエンヌ、ついて来ているんだろう?」
 ロゼウスはどうも相性のよくない、シェリダンの腹心の名を呼んだ。小姓に身をやつしながらその実裏方仕事はなんでもこなすというエチエンヌが、音もなく姿を見せた。この国では珍しい金髪の美少年なのに、彼はいとも容易く気配を消してみせる。ロゼウスが彼の尾行に気づいたのはつい昨日の話だ。確信を持ったのにいたっては先ほど。
 薔薇園でカミラとこの国の玉座に関わる物騒な話をしていた時、一瞬だが怒りのような気配を感じた。だからエチエンヌだと思ったのだ。ローラやリチャードは本当の意味ではロゼウスをなんとも思っていない。ロゼウスを憎んでいるのは彼だけだ。
「……よくわかりましたね」
「やっぱりお前か」
「って気づいてなかったんですか?」
「微妙なところだな。リチャードかローラかとも思ったんだが。昨日まではどこにいるのかすらもよくわからなかった」
「先ほどの話は本気ですか?」
「カミラとのことか。それを言うなら、俺が聞くのが先だ。お前たちはこのことを知っていたのか?」
「知っていましたよ」
「だったらどうして」
「仲直りしないのかって? そんな簡単にできたら苦労しませんよ。エヴェルシードの王権はあなた方ローゼンティアみたいにあっさり決まったものでもないんですから」
「俺たちだって……」
 ローゼンティアにだって、問題がないわけではなかった。兄妹の数が多くてドラクルの権力が絶対だったため、エヴェルシードよりは問題が少なく見えるだけで。
 現にロゼウスは第二王妃に、人違いで殺されかけたことがある。
 けれどそんなことを、今更ここで彼に言っても詮無いだけだ。
(兄上……)
 ロゼウスは心の中で、カミラという少女に惹かれてもいまだ自分の中では最愛の人の名を呼ぶ。
 ああ、兄上。いつになったら、俺はこの苦しみから解放されるのですか。

 ◆◆◆◆◆

 侮っていたことは認めよう。まさかこの私がこんな若僧にしてやられることはないと。
 だが、よもやここまでとは思っていなかった。まさか、この私が、エヴェルシードの重職について二十年近く経つ自分が、自らの半分も生きていない子どもに負けるなどと。
 玉座では少年が笑っている。腹を抱えて大笑しているというわけではない。小さな笑みだ。口の端をほんの少し持ち上げて、穏やかに目を細めた、清らでやわらかな微笑。彼を良く知らないものが見れば、あまりの美しさに見惚れて、ずっとそんな表情をしていてほしいと願うような、健気とも見える笑みだ。
だからこそ恐ろしい。
 彼の面差しはあまりにも彼女に似すぎている。
 親衛隊に強打された右のこめかみが絶えず苦痛を訴え、バイロンの視界の一部は緋に染められていた。地に這い蹲る虫けらのように、玉座へと続く紅い絨毯の上に両手をついて崩れかけた体を支え、顎だけを何とか上げて数段高いところにいる少年を見上げる彼の姿は、さぞや滑稽だろう。
「無様だな、バイロン」
 シェリダンはわざわざそれを口に出す。這い蹲ったバイロンを見下ろし、見下しながら相変わらずやわらかな笑みを浮かべている。
 彼の傍らには二つほど骸が転がっていた。先程までは普通に喋り、動き、談笑していたはずの彼ら。この国の重臣を手の一振りで殺させたシェリダン自身は顔色ひとつ変えない。
 バイロンは殴られてふらつく頭を持ち上げ、挑むように玉座を凝視していた。馬鹿な、即位したばかりの苛烈だが未熟な少年王と二十年近くこの国の内政に携わり知り尽くした自分と、挑むのは目の前の相手のはずだ。国王とはいえ、何もかも好きにできると思ったら大間違いだ。
 だが現実は、バイロンに加担した顕示欲だけは強い無能の重臣が二人殺され、その二人の骸から流れる血と自らのこめかみから流れた血でぬめる床にバイロンは両手をついている。
「お前に協力したものたちの大半は縄目を受けるか、私に寝返るかしたぞ。……さあ、お前はどうするんだ? 宰相殿よ」
 膝を組み頬杖ついてくつろいだ様子で玉座から尋ねるシェリダンの姿は、何もバイロンへの挑発を示すだけではない。これだけ惨憺たる状況の中にいてくつろぐ彼は、自身が危険に見舞われることなど絶対にないことを確信している。
 それは突然のできごとだった。
 恐らくいまだ捕まっていない協力者の中の、最たる重要人物はカミラ殿下。眼前に優雅に坐したエヴェルシード王シェリダンの異母妹。バイロンは彼女や諸侯と画策し、シェリダンを王位から引き摺り下ろす計画を立てていた。それは一見上手く行っているように見えた。今日までは。
 バイロンは自らの腹心である部下たちと計画の最後を詰めていた。館ではくつろぐことから内情を漏らしはしないかと盗聴器具がしかけられていることが多い。バイロンや王妹カミラ殿下は、だからこそわざわざシェリダン王の膝元であるこのシアンスレイト城で密談を重ねていたのだ。だが、自宅に盗聴器具を仕掛けるほど周到な少年王が、王城に……いや、この国中において手を抜く場所などなかったのだ。
 バイロンの行動は筒抜けだった。彼が最も信頼する部下さえも実態はシェリダンの手駒だった。
 まるで悪夢のようだった。時計の針が午後を告げると同時に、彼らは手のひらを返したように態度を改めた。
『さあ、宰相殿。陛下にご報告に行きましょう』
 優雅な茶器で茶の用意をした青年が顔色も変えずに自然な動作で懐から短刀を取り出してバイロンの首に突きつけた。彼は陶器のカップを取り落として部屋の絨毯にじわじわと茶色の染みが広がりだし、それを踏みつけるようにしてこの謁見室へと連行された。バイロンより先に玉座の目前へ引きずり出されていた重臣二人は、気休めにもならない自己保身のための言葉を無駄に連ねたところで、もう良いとばかりに手を振ったシェリダンの部下に首を斬られた。
 転がった生首の虚ろな眼球が私を見ている。ああ、そうか。もう私の番なのか。
「バイロン」
 通りよい声が自分の名を呼ぶ。嘲笑うように、憐れむように。その響は彼が覚えている彼女のものとよく似て、なのに微妙に違う。
「殺すなら殺せ」
 考えるより先に言葉が口をついて出る。
「王家の鬼子よ。エヴェルシードに災いをもたらす悪魔よ。さあ、お前の本能のままに我が首を刎ねるがいい! そうしたところで、お前の前に敷かれた奈落への道は決して消えはしない!」
 シェリダンは内政や軍事の才能こそあるかもしれないが、決して良き王にはならないだろう。バイロンにはそれがわかっていた。だからその首を狙った。才で多少劣る妹姫を王位につけ、それを支える方が有能でありながら残酷な君主を頂くよりよっぽど穏当な判断に思えた。
 だが周囲は違ったらしい。バイロンに剣を向ける元々彼の部下であり今はシェリダンの下僕となった者たちは、やけに冷めた目でバイロンを見ている。
「言いたいことはそれだけか? バイロン」
 そしてこの場の誰よりも冷たいその声が。
 バイロンはようやく立ち上がり、血を流しすぎて眩み始めた両目を玉座の方向に向けた。視界は半ば以上が闇に飲まれながら、僅かな部分でシェリダンを見つめていた。
 藍色の髪、朱金の瞳。赤い唇と細い顎。滑らかな頬。僅かに吊り気味の、気の強そうな視線。
 華麗な容貌のエヴェルシード王。シェリダンの顔立ちは父親である先王ジョナスより、母親であるヴァージニアに似ている。似ているからこそバイロンの眼は痛みを増すだけだと知りながらその姿を追いかけ、彼女と違うことに気づいて失望する。
 ああ、そうなのかもしれない。
 彼を殺そうとしたのは、本当は彼が彼女と離れていくことで、彼女の面影が消えていくことに耐えられなかったからなのかもしれない。彼が本性を明らかにするに連れて、彼女と似た部分が削られていくから。
 彼女の顔をしながら彼女には似ていない、それでいてバイロンの子どもでもない彼をこれ以上見ていたくなかったから。
 ひょっとしたら、バイロンはそんな身勝手で小さな理由で王の命を奪おうと思い立ったのかもしれなかった。いや、たぶんそうなのだろう。エヴェルシードの繁栄など二の次で。
 彼はヴァージニアを愛していた。
 今でも悔やんでいる。あの日、何故ジョナスを止めなかったのかと。力尽くでも命懸けでも止めるべきだったのだ、自分は。彼女とジョナス王がなんとしてでも顔を合わせないよう気を配るべきだった。まさか平民上がりのバイロンの顔馴染みであったヴァージニアを、視察に出ていたジョナス王が一目見た瞬間に気に入るとは。
 彼女が望まぬ子を身ごもり、世界の全てを呪いながら死んでいった時彼はようやく自分の愛に気づいた。何もかもが手遅れだった。
 幸せとは対極にある環境で、彼女の子どもは歪んだ愛憎に縛られて自らも歪な魂を育てていく。生前の彼女を知っているからこそ、バイロンはシェリダンを見ていて思った。ああ、彼は駄目だ、と。
 彼は決して賢王にはならない。この国を奈落へと連れて行くばかりだ。
 だから殺そうと思った。
 バイロンはただ笑う。眩暈に揺れる視界と、ガンガン耳鳴りが響くうるさい頭と、指先に痺れるような痛みと冷たさを感じながら哄笑する。これが滅亡への餞だ。
 もはや悔いはない。シェリダンを殺そうとしたのは、政権を奪い返したり、エヴェルシードの繁栄に尽くすためではないから、破れた計画に固執したりはしない。ただ虚無が残るばかりだ。その虚空に一人の女性の面影が浮かぶ。
 ヴァージニア。
 すまない。本当に。私が悪かった。あなたを救えなかった。
 いくら謝っても足りない。なのにジョナス王を憎めなかった。若いときから仕えていた王にも親愛を感じていた。だから余計に二人の間にできた子が厭わしかった。
 組んだ足を元に戻し、シェリダンが玉座から腰を上げる。低い階段を降り血塗れた絨毯を歩いて、バイロンへと近寄ってくる。
「お前は死なせはせぬ」
 彼はその美しいかんばせを酷薄に歪め。
「バイロン。貴様はヴァージニアの知己であったな。お前が指示したことの関係で、ジョナス王が街娘であったヴァージニアに目を付けた……後悔しているか?」
「している」
 即座に答えた。国政に携わる以上、後悔などは禁物だ。たとえ思っても口に出してはいけない。バイロンの一言で何十人もの生活が左右され、命が失われることもある。それを後悔しているなどと言ってしまえば、彼を信じた部下や国民はどうすればいいのか。
 だがこれだけは別だった。何度思い返してもバイロンは後悔しかできない。彼は彼を恨む。彼は過去の彼を憎む。もしもあの日、あの時に戻れたのなら、バイロンはなんとしてでも未来を捻じ曲げる。
 シェリダンが笑う。今までの暗い虚無に満ちて穏やかな微笑ではなく、頬が引きつるほど口の端を吊り上げた歪な笑顔。
「勘違いするな。私はこれでもお前にとても感謝しているのだ、宰相殿。お前が父上と母上を娶わせたおかげで、私はこの世に生まれることができたのだから」
 バイロンにはシェリダンの言っていることが全て逆に聞こえる。
 この少年は私を憎んでいる。彼があの二人を引き合わせたせいで、自分が生まれてきてしまったと。
 途方もない遠回りの後で、彼はようやくヴァージニアの息子の本心を知る。
「あなたは」
「貴様を死なせはせぬ、バイロン」
 安らかな死など与えはしない、と。私の犯した罪の分だけ生涯苦しみぬいて生きろと。
 ああ、そうか。あなたは。
 本当は玉座など。王位など。
 ふいに、額の髪を穏やかに掴まれて唇が柔らかなものでふさがれる。
 こんな妄執と過去への後悔に老いた四十男に接吻して何が楽しいものか。シェリダンはバイロンの唇に自らの唇をそっと触れ合わせた。ヴァージニアに似たその顔で。
 こんな残酷な口づけをされたのは、四十年生きていて初めてだ。こめかみから流れる血が口の端を伝っていて、彼のさらさらと乾いて熱い唇はバイロンの血の味がした。
 その感触もやがては離れ、痛みと虚無だけを分かち合うような吐息が零れ、今度こそ彼は広間の床に崩れ落ちる。バイロンたちの周りを緊張の面持ちで取り囲んでいた近衛兵に、シェリダンが軽く命じた。
「地下牢にでも一ヶ月ほど放り込んでおけ。それが済んだ暁には、我が下で存分に働いてもらおう」


009

 新王の結婚の式典は恙無く終了した。だがその場に王国の中枢を担う宰相の姿は、ない。
「一体どういうことなのよ!!」
 カミラは自室に戻り、侍女が整えた爪を盛大に噛みながら今日の式典を思い出していた。これまでぐずついていた空が嘘のように晴れ渡り、白々しいくらいに盛大な挙式によって、兄シェリダンはローゼンティアの姫君を正式な王妃へと迎えた。
 カミラはヴェールの下のロゼの様子に常に眼を走らせていたけれど、いつも薔薇園で会う彼女の様子とは思えないほど、その表情は硬く仕草はぎこちなかった。紅を塗ってもいないのに赤い唇は強く引き結ばれ、一切の感情を表に出すことを拒んでいた。
「バイロンはどうしたの!」
 カミラは控えた兵に苛立ちをぶつけながら尋ねる。本来なら今日この日、宰相であるバイロンがシェリダンを罠へと嵌めるはずだった。その計画さえ行われれば、シェリダンは王位を追われこの結婚もなかったことになるはずだったのに。
「殿下、そのことなのですが」
 そしてカミラは思いがけない話を耳にする。
「捕らえられた? あのバイロンが?」
 その話は俄かには信じがたい。彼は彼女たちが生まれる前からこの王宮で重職についている、エヴェルシードの政治を知り尽くした権謀術数の猛者だ。それを即位してまだ二月程度にしかならないシェリダンが凌ぐなど。
「どうやら、宰相の近習が裏切ったようで」
「なんですって」
「我々の予測以上に、陛下は人員を抱きこんでいる御様子」
「……」
 私兵の報告を聞いてカミラは考え込む。何故、あの兄にそれほどの計画が実行できたのか。宰相の近習に裏切らせた。彼は一体どれだけの人数を自らの陣営に抱きこんでいるのか。
「お前たち、もう一度調べて欲しいことがあるわ」
「は」
「諸侯の内部に潜り込み、その身の回りの者たちを調べなさい」
「は……貴族本人ではなく、召使を」
「そうよ。奴隷から侍女まで全員をよ」
 指示を与えると、優秀な部下は足音も立てずに部屋を出て行った。カミラは椅子の背もたれに身体を預け、目を閉じて考える。
 自分やバイロンが気をつけた限りでは、シェリダンが親交を結んでいる貴族はさほど多くない。けれど、それが貴族レベルではなく、その下の奴隷や使用人たちであったら?
 あの兄は良い意味でも悪い意味でも相手の身分に拘らない人間だ。母親がしがない場末の酒場の娘だったということが関係あるのだと揶揄する者も多い。だが、貴族側がそうして揶揄する人物と言うのは、使いどころを間違えなければ別の世界においては大きな力を発揮する。
 諸侯の忠誠がなくとも、国民レベルではどうか。シェリダンの即位を声高に批判する民などいようはずもない。身分さえ気にしなければ貴族の中でさえシェリダンを賢君だと誉めそやす輩までいる始末。一見不道徳な父王の幽閉も、シェリダンの母親であるヴァージニアの末路を考えれば当然だと頷く人間は多くいるし、無茶だと思えたローゼンティア侵略もさしたる苦労なしにやってのけた。それにはセワード将軍と言う軍部の最高権力者を抱きこんだということが大きな意味を持つのだが、シェリダンはそれをこなした。淡々と、と言ってもいいぐらい。
 さらにシェリダンの私生活にも奴隷や平民上がりの者を多く重用している。あのシルヴァーニ人らしき金髪の双子がいい例だ。年若く見目麗しき、玩具奴隷を手足のように動かして彼は表沙汰にはできないことまでさせている。
 そしてロゼ。ローゼンティアの王女を人質に娶ることで、これからはローゼンティア人まで意のままに動かせるということか。
 カミラにはその理由がわからない。彼女のように色仕掛けと相手の権力欲を刺激することで貴族を誘惑するのなら話はわかる。だがシェリダンのように、相手を捕らえて離さない蜘蛛のような魔性は持っていない。何故彼に力添えをする者たちは、あんなにもシェリダンへと心酔するのか。
 そしてとうとう、その魔の手は宰相にまで伸びた。反新王派筆頭であるバイロンを監禁し、同派の重臣を二名ばかり殺しても誰も逆らえない。これでバイロンがシェリダンの味方につけば、この国に彼に敵う者などいなくなる。
「カミラ殿下……」
 強く噛みすぎた爪はへこんで形が歪になった。カミラは側仕えの侍女にやんわりと咎められて慌てて唇から指を離す。形の悪くなった親指に舌打ちしながら、改めて人を呼んだ。
「カミラ様」
「そちらはどうなっているの?」
「申し訳ございません。ですが、まだ……」
「できる限り急ぎなさい。宰相殿の拘留が解ける前に」
 バイロンにシェリダンの陣営に加わられたらもはやカミラに勝ち目はなくなる。その前になんとしてでもカミラは鍵を握りたい。
「一刻も早く父上を探し出すのです」
 先代エヴェルシード国王ジョナス。シェリダンが即位してまもなく幽閉された父王を見つけ出せば、形勢は僅かにでも変わるだろう。一般には父は病気の療養のために静かな場所で静養しているとあるが、本当はどこにいるのやら。貴族諸侯の間では、もちろんそんな下手な嘘は信じられていない。そしてその嘘を暴きシェリダンの非道を国内に見せ付けることさえできれば、世論は傾きシェリダンの情勢は危うくなるはず。
 バイロンが使えなくなった今、カミラに残された道はこれしかない。今から新しい罠をしかけるには、今回バイロンを失った痛手が大きすぎる。監禁の間に心変わりした彼がカミラのしたことを全て白状すれば、彼女は問答無用で死刑台に送られるだろう。そして名実ともにエヴェルシードはシェリダンのものになる。
「そんなの駄目よ……許さないわ」
 あの男の本性は周りの者たちが考えているよりずっと残虐で冷酷なのだ。ローゼンティアへの侵略がいい例ではないか。そのせいで、ロゼの故国は滅ぼされた。
「そんなこと、許されるはずがないでしょう……!」
 冗談ではない。あんな狂人に全てを握らせておくわけにはいかない。ここはカミラの育った国。本来彼女が継ぐはずだった国。それに何より、カミラはただ単純にシェリダンが憎い。
 父の愛を独り占めにしたあの兄が。
「だから」
 彼女は彼女のために。そしてこの国のためにも。
 兄を、この手で玉座から追い落とす。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見る。
 悪夢を見る。
 夜毎に、それは訪れる。
 シェリダンは安らかな夜など知らない。身体は疲弊しきって泥のような眠りを欲しても、悪夢は必ず訪れる。それがただ脳の作り出した忌まわしい心象ならば構わない。起きればあんなものはただの夢だ幻覚だと切って捨てられる。だがどれだけ振り払っても繰り返し袖を引くように訪れる夢は、脳が作り出した幻影ではなく、自身の過去の記憶だった。
 夢を見る。泣きたくなるような、夢を。
 それを見ないためには、夢も見ない眠りにつくしかない。世間で言われるあらゆる方法を試してみたが、一番効果があったのは誰かと臥所を共にすることだった。否、より正確に言うのならば、誰かを組み敷き泣き叫ぶほど責め苛んで悦楽を貪ることだった。
 それでも夢は彼を追ってくる。
 消えない過去として、いつもこの心臓に巣食っている。

 ◆◆◆◆◆

 ガチャリと鎖が耳障りな音を立て、シェリダンは眉を顰めた。また眉間にローラやエチエンヌを嘆かせる盛大な皺が寄っているだろう。部屋には悪臭が漂っている。
 血液の錆びた鉄の匂いと、膿み爛れた皮膚の腐臭。シェリダンは部屋の奥へと歩み、壁際に繋がれたその男を見下ろす。項垂れてぴくりとも動かない壮年の男は、二ヶ月ほど前までこの国の王を名乗っていた。
「いいザマだな、ジョナス……父上」
 首を戒める皮の輪に繋がった鎖を乱暴に引き寄せる。痩せ衰えた首はそれだけで皮膚が破れて新たな傷口が血を流す。壁際に繋がれ無数の鎖で戒められた男は苦しそうに喘ぐばかりで、もう声も出せないようだった。彼の手は太い釘で貫かれ石壁に縫い付けられていて、手当てをされない傷口は腐り虫が這いずっている。服はとうの昔に襤褸へと変わり、代わりの衣服はもちろん与えさせたりしていない。鞭打たれ変色した傷口を晒す布の残骸としか言いようのないものがなんとか彼の身体に纏わりついている。
 だが、足りない。この程度の苦しみ。シェリダンの中に巣食うこの憎悪に比べたら。自分を夜毎おとなうあの悪夢に比べたら。七歳のときから即位する十七まで、十年の恨みに比べてはまだ、足りない。
 父の口からは今にも絶えそうな息がひゅうひゅうと、気の抜けたような音を立てるばかりだった。濁った目はシェリダンを正しく映しているのかどうか、これだけ手荒にしても虚ろに病んだ双眸は怒りも憎しみも浮かべない。もはやそんなことを考える気力もないのか。
 この二ヶ月で、あらかたの拷問はやりつくした。それ専用の器具を使うのではなく、釘で身体を壁に固定し、ひたすら鞭で打つという原始的な痛苦を与えた。ギロチンも悲しみの聖母も、貴様には使ってなどやらぬ。最も古典的な方法で長く長く長く、苦しめばいい。それでもこの十年の自分の恥辱には足りない。
「もっと苦しめ。私を憎め。そして何もできず苦痛から逃れる術もなく、緩慢で残酷な死に飲み込まれることを厭い恐怖しろ」
 すでに死人のような表情を見せる実の父の姿に、シェリダンはようやく安穏とした心持になる。これで今日は安らかに眠れるだろう。
 気が済んで、部屋を出ようとする間際、酷くしゃがれた声に呼ばれた。
「シェ……リ……・・ダ……」
 彼はぎりりと唇を噛む。強く噛みすぎて歯が唇を食い破り錆びた鉄の味と共に血が流れる。
「うるさい! 貴様などがいまさら私を呼ぶな!」
 荒々しく扉を閉めて秘密の拷問部屋を後にする。見張りの兵に簡単に指示を与えると、私室へと足を速めた。
 少々乱暴に扉を開くと、中の者たちが振り返った。ロゼウスとローラの二人だ。ローラが手伝って、ロゼウスの衣装を脱がそうというところだったらしい。
「シェリダン?」
 眩しい、純白の花嫁衣裳。
 本日は婚礼の式典を行った。小首を傾げてシェリダンの名を呼ぶロゼウスに近付き、強く手首を掴んで寝台へと押し倒す。
「出て行け、ローラ」
「かしこまりました」
 腕の下でもがく、まだ式典の婚礼装束のままのロゼウスを無理矢理押さえつけその唇を貪った。背後で扉の閉まる音がし、物分りの良い侍女は早々に出て行ったようだ。
 始めは抵抗していたロゼウスが、何故か唇に触れた途端大人しくなった。差し入れた舌に素直に応じ、唾液を絡める淫猥な口づけを堪能して恍惚とした表情になる。しばらくして唇を離すと、互いの口から淫らな糸が伝わった。
 それでもまだ、今度は自分からシェリダンの喉首を引き寄せたロゼウスが口の端を舌で舐めてくる。走るのは小さな痛み。先程食い破った唇の傷を抉るような舌の動きに顔を離すと、ようやくロゼウスが正気に帰る様子だ。
「あ……ごめん」
 謝られた。ローゼンティア人は吸血の民だ。これは先日のカミラの薔薇事件の後から聞いた話だが、一定の期間血を吸わないでいるとヴァンピルはその精神と身体の調和を保てないという。甘い蜜よりも、生臭い鉄錆の血を好む一族。それがヴァンピル。彼らにとって吸血行為は、まるで麻薬のように理性を保ちつつ気分を高揚させる秘薬なのだという。
 意図的ではないとはいえ、シェリダンが与えた一滴の血によってまだぼんやりととろけた視線を彷徨わせるロゼウスの頬に手を添え、シェリダンは語りかける。
「これでお前は名実共に私のものになったな。『ロゼ』」
 婚礼の式典は恙無く終わり、シェリダンは晴れてこの少年を妃にすることに成功した。もっとも、リチャードやローラとエチエンヌ、腹心の者たち以外は彼がローゼンティアの王子ではなく、王女であると信じて疑っていない。誰も王妃となったこの美しき者が男だとは思っていない。
 肌も髪も白いロゼウスに、純白の婚礼衣装は似合いすぎるほど似合っている。ヴェールだけを外した花嫁に、シェリダンはのしかかり荒々しく組み敷いた。そろそろ正気を取り戻したらしいロゼウスが、微かな抵抗をして悲鳴を上げる。だがいずれは歪んだ悦楽に流されて、シェリダンの求めに応じ始める。
 誰が知っているのだろう。高潔で貞淑そうな真白の花嫁が、寝台の上でこんなにも乱れきった姿を晒すなど。
 誰が考えつくのだろう。エヴェルシード王となった自分が、このシェリダンが、これまでに一度も女を抱いたことがないと。男しか抱いたことも抱かれたこともないのだと。
 素肌をまさぐりところかまわず口づけ、敏感な箇所を刺激して後ろを解してやれば、ロゼウスは呆気なく彼を受け入れた。艶っぽく啼く少年を思いのままに貫いて、シェリダンはその中で果てる。荒い息。乱れた褥。互いの身体を汚す体液。
 それらを整えることもせずに、突っ伏したロゼウスの背中に口づけてシェリダンも彼の隣に横になる。今日はもう、このまま寝てしまえばいい。
 無防備な寝顔を晒す花嫁の、脱力しきった身体を引き寄せながら。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見る。
 悪夢を見る。
 泣きたくなるような夢が訪れる。
 今の自分ではない。あれは子どもの頃。天蓋付きの豪奢な寝台も、今のシェリダンのものではなく。
『父上……』
 先代王ジョナスがまだその玉座に座っていた頃。彼の寝室にシェリダンは押し込められた。七歳の時に初めて、父のその狂気を知った。
『やめて』
 届かない声。
『いやだ』
 聞いてもらえない願い。
『父様、やめて!』
 啜り泣きがやがては悲鳴に変わり、それすら最後には諦めて啜り泣きに戻る。
 シェリダンは父の手によって無理矢理足を開かされ、体中をまさぐられ、引き裂かれた肛門から血を流しながらも無理矢理彼のものを受け入れさせられた。信じられないほどの苦痛に抑えることのできない、獣じみた悲鳴が漏れる。涙と涎で顔中をぼろぼろにし、実父に犯されながらシェリダンは父の絶望を聞く。
『ヴァージニア』
 それは彼が愛して止まない女性の名。シェリダンを産んで一年も経たない内に亡くなった、母の名前。
 だけど彼はヴァージニアではない。女ですらない。
『俺は母上じゃない』
 言っても聞き届けられず、その後も何度も寝室に連れ込まれては犯された。蹂躙された。彼は父に踏みにじられた。
 ある時はただ後ろを貫かれ、またある時は彼のものを咥えさせられて奉仕するよう命じられ。時には背中を鞭打たれ暴力を振るわれた。抵抗が鬱陶しいと腕の骨を折られたことも、泣き声が耳障りだと窒息しそうにきつく猿轡をされたこともある。
 だが彼は顔だけは決して傷つけない。気味が悪いくらい母に似た、この顔だけは。シェリダンの背中にはまだ長年鞭打たれた痣が残っているというのに。
 シェリダンが王として即位するまで、その忌まわしい行為は続けられた。彼が即位してまず行ったことは、彼をこれまで踏みにじり続けてきた父への復讐だった。
『シェリダン!?』
 ――シェ……リ……ダ……
 衛兵に囲まれた血相を変えた父が発した言葉と、昼間の牢獄で聞いた声が重なる。
 うるさい。呼ぶな。お前などが私を呼ぶな。
 今までずっと、母にそっくりな私を慰み者として扱い、一度も息子としての名など呼んだことのなかった貴様が、今更「シェリダン」の名を呼ぶな。
 後継者としてエヴェルシード王に即位はしたが、シェリダンはジョナス王に息子として愛されたことはなかった。ただひたすら、亡くなった母の代わりに弄ぶ玩具扱いされていただけだった。
 母妃が違うという理由でさして交流もなかったきょうだいだが、シェリダンは一度だけ父が異母妹であるカミラに接していたのを見たことがある。王妃であった母たちはすぐに亡くなっても、親子三人で顔を合わせたことはない家族だった。シェリダンはその光景をたまたま目撃しただけだ。
 幼いカミラの頭に、父はどう扱っていいのかよくわからないというような、ぎこちなくも優しい仕草で手を置く。妹の頭を撫で、たくましい肩に抱き上げてあやす。十にも満たないカミラが、そうして父の肩で楽しげに笑う。
 シェリダンには酷い振る舞いしかしない父が、カミラには優しくしている。彼と妹と、先にお互いを嫌ったのはどちらだと問われれば、それはやはり自分の方なのだろう。異母兄で王位継承者である彼を、元々カミラが嫌っていたのも事実ではあるが。
 国民や貴族、兵の大半、誰もがシェリダンは父王に愛されていたのだと見る。だから母親の身分が低くても国を継がされたのだと思っているのだろう。だがそれは違う。シェリダンは父に愛されていたわけではない。
 妬ましいのはいつも自分の方だ。カミラ。ただ一人の妹よ。本当に愛されていたのはお前の方だ。お前が私を妬むよりもずっと、私の方がお前を妬んでいるんだ。
 どうしても悪夢は追ってくる。シェリダンは父の下で泣きながら喘ぐ。消したくても消せない過去が脳裏に貼り付いて剥がれない。このままではシェリダンは父に踏みにじられるだけの被害者だ。それは嫌だった。
 だから、他者を踏みにじる。シェリダンは眠りなどいらない。眠れば悪夢が追ってくる。その代わりに他者を傷つけて傷つけて、心の安定を保とうとする。被害者になるくらいなら加害者でいい。私は全てを踏みにじり叩き壊す、そのためにここにいる。

 明け方に目覚めれば、空はまだ薄暗かった。
 隣ではまだロゼウスが眠っている。体中に痛々しい痣を散らしながら、その顔は何故か酷く穏やかだ。
そしてその痣をつけた自分は、きっと酷い顔をしている。


010

 昨夜のシェリダンはどこかおかしかった。
 回廊を歩きながらロゼウスは考える。昨日の婚礼の式典を終えて、これからは言い逃れできるはずもなくエヴェルシード王妃として過ごさねばならない。仕立て屋に幾つか作らせ、ローラが見立てて着せてくれたドレス姿で、シアンスレイト城を闊歩する。裾は長いが引きずるほどではなく、足が隠れるから大またで歩いてもそれほど違和感がない。そういう意味ではドレス姿は便利といえるだろうか、ただちょっと早足だと思われているだろうが。
 衣装の上から、昨晩の行為でシェリダンにつけられた痣が残る鎖骨の辺りをさすってみた。赤い痣のついた肌は、軽く触るだけなら痛みはない。そうして傷痕にそっと触れながら、ロゼウスはその時のシェリダンの顔を思い出す。
 どこか思いつめたような、余裕のない、憔悴の一歩手前のような。
 普段なら卑猥な言葉を並べ立てて言葉攻めに饒舌な彼が、昨日は不自然なくらい大人しかった。そういえば、その直前に彼はどこかへ出かけていたようだった。式典が終わったすぐ後で、ロゼウスは婚礼衣装も脱ぐ暇もないぐらいの時間だったが、シェリダンはどこへ出かけていたのだろうか。破られ、汚れた花嫁衣裳を見て今朝方ローラが嘆いていた。これじゃとうてい処分するしかないと。残しておいてどうするのかは知らないが。貴族とか王族と言った人々にはものを大切にする精神が足りないのだと何故かロゼウスが説教された。
 そのローラの説教も半ば無視して、いつも通りシェリダンは執務へと向かった。昨夜のことがあったとはいえ、その顔色が心持ち青ざめて、目元に軽い隈ができていたような気がする。もともとやわらかな肌色をしているエヴェルシード人の中でもあまり健康的な顔色とはいえない彼が、今日はいつにも増して不機嫌そうだった。
 だが、一体何があったのだろうか。考えられる原因としては、せいぜいロゼウスとの結婚ぐらいしか思い浮かばない。だって宰相との腹の探りあいは先日決着がついたはずだし、向こうから言い出した無茶とは言え、普通男を花嫁、それも王国の正妃として迎えるなどと言う人間はいない。実はその裏に壮大な策謀があって、嫌々婚礼まで漕ぎ付けたもののロゼウスのことが嫌いになった、とか。
 それだったらむしろ自分は嬉しい。諸手を挙げて万々歳なのだが。
 だがシェリダンはロゼウスに対してはとくに何も言ってこない。ただ王城内で飼われている動物のように過ごせ、と。放置もいいところだ。しかしそれはそれで楽でもある。シェリダンが一日の執務を終えて戻ってくる夕方までには、寝室へと戻っていればいいのだから。
 普通王城内には王妃専用の部屋が用意されるものだが、ロゼウスがこのシアンスレイト城に来て一月近く経った今も、彼の部屋は用意されないままだった。夜は必ずシェリダンの部屋で過ごすようにと命じられている。同じ部屋で起居するよう決められているので、こうして廊下を歩きながら使用人たちの口から漏れ聞こえる会話を拾う限りでは、エヴェルシード王陛下はさぞやローゼンティアから攫ってきた王女に執心なのだろうと、事実からはかけ離れた噂が広まっている。
 シェリダンがロゼウスに、実際は王女「ロゼ」ではなく、第四王子「ロゼウス」である彼に執心しているなんて事実はない。あの男は、拾った玩具をしばしの間楽しむ子どものように、ロゼウスを痛めつけて遊んでいるだけだ。
 最近ではそれも慣れた。元々故国では実の兄と人には言えないような歪んだ関係を持っていたロゼウスには、シェリダンのすることなど今更驚くほどのことでもない。このまま飽きてそっとしておいてくれれば、それに越したことはない。存在自体が面倒だと殺される可能性もあるが、その時はその時だ。最悪の事態を回避する手札は幾つでもある。
 でも、いまだに「シェリダン」という人物がわからないロゼウスには、ここで歩きながら考えていてもどうしようもない話でもある。
 十七歳で即位した少年王とはいえ、シェリダンはどこか普通の王族とは違う。第一、ロゼウスを正妃として女装させてまで強引に娶ったのは何故なのか。ローゼンティアには王女が六人もいたのに、人質をとるにしても何故わざわざ男であるロゼウスを選んだのか。それがそもそもわからない。
『第四王子よ、民を救いたければ、私のものとなれ』
 そう言われた、初めの時。ロゼウスはてっきり、同性との火遊びの楽しみ方を知っている彼が気まぐれを起こして、自分をひっそりと妾のように囲っていたぶるためにそんなことを言ったのだと思った。早い話が、人間の世界では珍しくもないという玩具奴隷だ。性奴隷と同義語である。
 けれど、いざエヴェルシードに連れてこられてみれば、彼の思惑はロゼウスが想像するよりももっと深いようだった。シェリダンは、ロゼウスを、女装させた王子を正妃にするなどと言い出した。それは一体何を意味するのだろうか。王族にしては珍しく、彼は十七歳にもなって婚約者の一人もいない。たいていは幼い頃にどこかの国の貴族や王族、国内の有力者と婚約を決められるから、それは非常に珍しい。第四王子であるロゼウスにも、一応は婚約者がいた。
 ローゼンティア人は基本的に同族としか結婚しないので、相手は国内の貴族だ。将来は有能な女公爵として名を馳せるだろうと言われていた五つほど年上の才媛だったが……事故ですでに亡くなっている。
 それ以来ロゼウスに婚約話が持ち込まれたことはない。王位継承から程遠い第四王子だったのでそれほど困ることもなかったが、そのロゼウスに比べたらシェリダンは違うはずだ。ただでさえ血族の異様に少ないエヴェルシード王家の、たった二人の異母兄妹。シェリダン、そして妹のカミラ。よっぽどのことがない限り王位はシェリダンの子どもへと渡される。正妃候補どころか妾だって何人いても構わないはずだ。それなのに彼が女を囲っているという噂は聞いたことがない。
 一応シェリダンの妻、それも正妃扱いとなるロゼウスに外の女の噂を聞かせないのも当然なのかもしれないが、念のため侍女のローラに確認したところ、彼は本当に誰も相手にしたことがないのだと言う。昨夜をはじめ今までのことから考えれば誰とも夜を共にしたことがないということだけは絶対にありえないので、どこかで誰かと関係を持ってはいるのだろうが……それでも「恋仲である女性」はただの一人もいないらしい。
 そして、興味深い言葉を聞いた。
『シェリダン陛下は、女性をお相手なさることは決してありませんよ』
 それは一体どういう意味なのだろう。
 ロゼウスは中庭の底辺へと辿り着いた。馨しい花々の香りを聞きながら、薔薇園の四阿へと向かう。
 ローラの言った事を本当に単純にストレートに考えれば、シェリダンは生粋の同性愛者であるということ。その手の道は奥が深いらしく、同性愛者の中には、異性を全く受け付けない者や、全然平気な者、時には同性も異性も気にしない両刀使いといろいろいるらしい。性的対象の特徴ごとに分類できる異常性愛嗜好者の道は複雑に入り組んでいる、のだと思う。
よくよく考えれば多分、ロゼウスの長兄であるドラクル兄上などは両刀、だったのだと思う。あの人はロゼウスのことも相手にしていたが、別に女性も抱いていたらしい。兄上いわく、貴族の嗜みの一つらしいが。
 シェリダンはどうなのだろう。普通にローラといきすぎなくらいじゃれあっているのだから、まさか女性を受け付けないということもないだろう。男でもいける口だというのは何よりもロゼウス自身が証明済みだ。だが、ロゼウスはあの男に抱かれながらいつも考えるのだ。
 彼は一体何を望んでいるのか。
 ただの変態嗜好の延長だけとは考えにくい。肌を合わせ熱を分け合いながら、何を貪ろうとしているのか。いつもいつも、満たされないような顔をして。
 今更になって、ロゼウスはシェリダンのことが気になり始める。上辺だけの夫。ロゼウスから搾取し続ける彼が、何故自分を抱きながらそんな眼をする。
 考え事をしていたら、いつの間にか薔薇園に辿り着いていた。先に訪れていたカミラが、こちらに気づいてぱっとかおを輝かせる。つられて、ロゼウスの口元も綻んだ。
「ロゼ様!」
 この少女と過ごせる時間があるのなら、人質暮らしもそれほど悪くはない。今はそう思ってしまうのだ。

 ◆◆◆◆◆

 ロゼ姫の姿が見えて、カミラは思わず四阿の椅子から腰を上げた。
「ロゼ様!」
 先日をもってカミラの義理の姉上となられた方は、今日も麗しい。彼女の呼ぶ声に気づいて、花が綻ぶように微笑んでくれる。
「カミラ」
 バイロンと共謀した企ては失敗し、あらゆる計画が頓挫している今、カミラの心の慰めはロゼとこうして過ごす時間だけ。薔薇の茂みにドレスの裾を取られないようゆっくりとこちらに歩み寄るその姿に見惚れながら、カミラはこっそりと溜め息をつく。
 昨日の婚礼の式典を持って、彼女は正式にエヴェルシードの王妃、つまりはシェリダン王の妃となった。シェリダンはカミラの兄。だからロゼは兄嫁にあたるのだが、どうもそんな感じがしない。
 いや、カミラがそう感じたくないだけなのだ。確かにロゼは女性にしては豪快でどこか男っぽいところのある人物だが、その仕草の優雅さ、立ち姿に溢れる気品と、王族としての振る舞いに慣れた余裕は確かに王家の姫君のもの。そして何よりこの美しさ。それでもカミラが彼女をシェリダンの妻だと認めたくないのは、カミラがシェリダンを嫌っているからだ。
 この美しく、どこか儚げな風情すら漂う人を、カミラは救うことができない。バイロンに何があったのかまではまだわかっていないけれど、とにかく彼の裏切りによって、婚礼の式典をぶち壊すという計画は始まる前に終ってしまった。
 にこやかに微笑んだロゼが椅子に腰を下ろす。ぎこちなくドレスの裾を治す仕草にも、そこはかとなく上品な感じがする。
 父王にあまり好かれていなかったカミラと違って、一族同士の仲が良好だと有名なローゼンティアで今まで蝶よ花よと育てられたであろうロゼは、それでも文句の一つもなくシェリダンの正妃として収まっている。異国の城で、衣食住こそ足りないものはないが、決して心安くはいられない仇の側で。
 あの男がいくら儚げな美少女だからと言って、他人に優しくするとは思えない。憎いシェリダン。恨めしい兄。城の者たちから聞いた噂では、シェリダンはローゼンティア国民の命を人質にロゼに妻になれと言い出したらしい。心優しい彼女は、その条件を飲んでシアンスレイト城にやってきたというのだ。
 ロゼはその美しさもさることながら、ヴァンピルという人間には理解しがたい異種族だということで常に城の者たちから注目されているし、その中にはシェリダンの行為を忌避して、彼女に同情する声も少なくはない。しかし、シェリダンが自分の懐刀であるシルヴァーニ人の侍女しか彼女に寄せ付けないせいで、誰もこの哀れな姫君に同情の意を示すことができないでいる。
 ロゼは、この城の中で、いや、エヴェルシードにおいて孤独だ。だからこそ、こんな自分とも親しくしてくれるのだ。
 それでも、先日のカミラの誘いを断ってシェリダンの恐ろしさを切々と訴えたことを思えば、彼女に王位簒奪の協力を要請することは難しい。
 カミラはロゼが好きだ。エヴェルシード王家は閉鎖的な家柄だし、国内の貴族はシェリダンの暴挙と幽閉された父上の間でどちらにつこうか人の顔色を窺う狸ばかり。いくら年齢が若くても例外はない。城内の使用人たちもその影響を受けてどこの間諜であるかわからない。そんな有象無象の輩と渡り合うためには、カミラ自身も相手の思惑を正確に読み取ってさらにその上を行くために権謀術数を学ばねばならなかった……。
 生きるために。
 もちろん友人などいない。信じられる人間もいない。カミラはこれまで一人で戦ってきた。だからこれからも一人で戦って行く。周りの人間は全て戦いを有利に進めるための手駒。あらゆる手段で自分の陣営を増やし、戦略を練り、誰にも脅かされない生活を得るための。
 でもいつも不安だった。穏やかな日々、そんなものが本当に得られるのかと。王であったのに位を退いた途端シェリダンに幽閉された父。王に即位したのにこうして自分に簒奪を目論まれているシェリダン。じゃあ、私はどうなるのかしら。シェリダンを殺して王位についても、きっと安らかな日々など訪れることはないのだろう。また国内は幾つかの派閥に分かれて水面下で不穏な緊張を続けることになる。
 誰も信じてはいけない。自分さえも。気を抜けばすぐに奪われるのだから、一瞬でも油断しては駄目。
 そう考えてずっと生きてきた。平民や奴隷は日々の糧を得るためにそれこそ辛い作業に身を入れて働いているのだと言う。王族で生活は完璧に保証されたカミラでも、こうして臆病とすら言えるほど周囲を警戒し、疑いながら生きて行く。カミラは父に愛されていない子どもだったから、安らげる場所などなかった。
 人は誰しも、何かと戦いながら生きて行かねばならないのだろう。そして戦う限り人は孤独なのだ。それでも、戦いを辞められない。
 あの日、この薔薇園でカミラに掴みかかってきたロゼの表情は、追い詰められて張り詰められていた。見えない敵に追い回されてでもいるように、不安と孤独と自嘲と憤怒がひしめいていたわ
 自分と、同じだと思った。
「カミラ?」
 黙りこんだ彼女を不思議に思った様子で、ロゼが少女の名を呼ぶ。カミラは慌てて、手ずから彼女のためにお茶を淹れながら答える。
「すみません。ちょっと考え事をしていて。あの……何のお話でしたっけ?」
 ロゼはカミラの言うことを信じていないようで、銀色の柳眉を顰めて彼女の瞳を覗き込む。柘榴石のように深く、暗い紅の瞳にカミラは自分の胸が高鳴るのを感じた。
 彼女と話していると、いつもこうだ。カミラは熱に浮かされたように、彼女の瞳に囚われてしまう。同性相手にこんな感情を覚えるなんて変だと理性は告げているのに、どうしても振り切れない。願わくは、ロゼがどうかこんな自分を不快に思わないでくれるように。
「カミラ……大丈夫?」
「え?」
「この頃のあなたはどこかおかしいような気がして。どことなく、焦燥しているような。それに……先日もあんなことを言い出して」
「あれは……気の迷いなどではありませんよ。私の本心です」
 カミラはどうあってもシェリダンを殺したい。あんな男、兄だなんて思わない。死んでしまえばそれが一番いいのだ。
「あなたが……シェリダンと不仲であるというお話は聞きました。けれど――」
 ロゼが言いよどむ。この前のように、カミラを諫めるつもりだろう。殺しても殺したりないほど憎い相手だろうにそうまでしてカミラに王位簒奪を諦めさせようというのは、どういうことだろう。
『あなたは、あなたの兄上の恐ろしさを本当には知らないんだ』
 カミラはシェリダンが彼女をどう扱っているのか、詳しくは知らない。彼女以外のローゼンティア王族を皆殺しにしたとは聞いたけれど、それがどんな状況であったかまではわからない。それでも、ロゼの口ぶりから彼女はそれほどまでにシェリダンの暴虐を知っているのだとはわかる。そして、そんな凶悪な男に牙を向こうとするカミラを、説得しようとするのは。
「ロゼ様……」
 あなたは、私のことを庇ってくださっているのですか?
 声には出せない。それでもやわらかな想いが届く。美しい王妃は目を伏せて、カミラはゆっくりと瞬く。
 愛おしさが込み上げる。
 自分はやっぱり、この人を救いたい。
「カミラ、俺は――」
 ロゼが紅唇を小さく開いて何か言いかけて、カミラはそれを聴き取ろうと耳を凝らした。けれどその言葉を聞こうとする寸前になって、ロゼの紅い瞳が剣呑に瞠られた。
「――伏せてっ」
 叫ぶと同時に彼女は立ち上がり、カミラの身体を巻き込んで素早く自分ごと地面に転がる。倒れた彼女たちの頭上を何かが駆け抜け、仰向けになったカミラはロゼの肩越しに幾つもの人影を見る。彼らは一様に顔を隠していたが、その体格から約十人全員が男性だと知れた。
 その中の一人、末端の兵士が使うような無骨な剣を持った男が、覆面越しにくぐもった声で言う。
「この国の安寧のために、死んでいただきましょう。王妹カミラ殿下」