001

 この道はただ、いばらの這う、墓標へと繋がって。

 父を母を兄を姉を弟を妹を埋めた墓標に、今にも咲き綻びそうな鮮やかな野の花を、剣を持つ資格を失った手のひらを掻き傷だらけにして摘んだ花で作った花冠をかけたとき。
 自分はきっと死んだのだ。できるならば死んでしまいたかった。本当は今すぐにでも、家族のあとを追いたかった。
 魂はここにはない。けれど、肉体は生きて貪欲な呼吸と絶え間なく煩わしい脈動を繰り返す。どうして自分の肺はこんなになってまで空気を欲し、心臓は血液を送るのだろう。もう誰もいないのに、今自分のすぐ後ろにいる男の他には。家族を殺した憎い仇の他にはもう誰も何もいない。
 腰にはいていた剣は彼に奪われて、返り血で汚れた上着は剥ぎ取られ薄いシャツ一枚。≪風の故郷≫と呼ばれる王家の墓所で、生き残ったこの身を責めるかのようにこの年最初の冬の風が吹いている。
「その辺にしておけ、いいかげんにしないと病を得るぞ」
 例えるなら残酷な愉悦が形をとったような人間が、背後で囁いた。高くもなく低くもない、怒鳴ったわけでもないのに通りよい声は吹く風に負けじと届き、彼はゆっくりとその方向を振り返る。美しいが冷たい印象を与える青年とも少年ともつかない年齢の男が、こちらを見ながら薄く笑んでいた。自分が殺した相手の墓を見下すように。
 カッと頭に血が上った。思わず反抗的な言葉が口をついて出る。
「誰のせいだと思っている」
 次の瞬間、左頬に衝撃が来て、錆びた鉄の味が口内に染みた。
「貴様こそ誰にものを言っている? お前の立場などもうないに等しいのだ。その生殺与奪は全て私が握っている」
「だったら、殺せばいいだろう! 俺も父である国王や王太子であった兄たちと同じように!」
 そうしてくれた方がどれだけ楽だったか。しかし目の前の残酷な男は楽しそうに首を振る。
「それが望みか。だから言っているだろう。生殺与奪、と。私が許さなければ貴様には死すら許さん」
 こちらの肩に泥のついた長靴を履いた足をかけ、轟然と見下ろしながら彼は言う。
「さあ、さっさと行くぞ。いつまでも貴様の感傷に付き合ってやる気などない。妃は妃らしく、私の機嫌だけをとればいいのだ」
 そうして、無理矢理家族の墓所から引き離すようにして、彼は自分を鳥籠の中へと連れて行ったのだ。

 ◆◆◆◆◆

 彼が生まれ育った、今はこの世にない国の名はローゼンティアと言った。
 そして彼の名はロゼウス。ローゼンティア国王ブラムスの第七子にして、第四王子だ。今年で十七になる。
 ブラムス王の十三人の子どもの中でロゼウスは真ん中辺りに位置し、十三人中七人が王子、六人が王女であった。温厚で子煩悩だといわれたブラムス王の覚えはめでたかったから、ロゼウスはこの年齢までなに不自由なく王城で生活していた。
 寝ている者が多い昼間は国中が静まり返り、夜になってからがロゼウスたちローゼンティア国民、ローゼンティアのヴァンピルの活動時間帯本番だった。太陽の光はどうも眩しくていけない。月もない闇夜にこそ彼らの瞳は開く。そして闇の翼持つ王の治世と共に、ローゼンティアは今年で建国千五百年を迎えるはずだった。
 ローゼンティアはヴァンピル――吸血鬼の住まう国、だった。
 だから住民の体調は昼よりも夜に健やかであり、銀製のものを嫌った。吸血鬼とは言っても近隣諸国の人間を攫ってだれかれ構わず殺すなどということはもちろんなく、特別な薬によって吸血の衝動を抑えると、あとは昼夜が逆転しているだけでほとんど人間と変わらぬ暮らしを送っていた。
 平和で幸福なヴァンピルたちの楽園が、無粋な侵入者の手により破られ砕かれたのはつい三日ほど前。
 隣国である人間の国に襲われたのだ。
 その国――エヴェルシードの王権は一月ほど前に、先代王ジョナスから彼の息子へと継承されたばかりだった。ジョナス王の時代にはお互いに友好国として季節ごとに使節を送りあう仲であった二つの国が争うことになったのは、偏に彼の息子のせいだ。
 ジョナス王の第一子であるシェリダン王子が即位してエヴェルシード王となったとき、彼がまず行ったのは父親の幽閉と有力貴族の武力財力の削ぎ落としだった。いや、ただ削ぐというだけでは正しくない。彼は国内の貴族たちをありとあらゆる手段でもって、その兵力と資金を戦争につぎ込ませたのだ。
 ヴァンピル王国ローゼンティアとの戦争に。
 新しいエヴェルシード王の急激な国内改革と実父の幽閉という暴挙に底知れない畏怖と危機感を覚えたローゼンティア側は、幾度か若い国主に面会しその非道を改めさせようと尽くしたのだが、友好国であるはずのローゼンティアの意見をシェリダン王は聞き入れなかった。業を煮やしたローゼンティアは国王の全権特使として領民からも他の貴族からも信任の厚い公爵を送ったのだが、その公爵は見るも無残な姿となって帰って来た。
 どれほどの恐怖と苦痛に責め苛まれたのかカッと目を見開いた生首がローゼンティアに送りつけられ、ローゼンティアは慌てて国内の武装を整えようにも時すでに遅く、シェリダン王の手によって僅か一週間ほどでエヴェルシードに敗北を喫した。
 争いを好まない温厚なローゼンティアの民は、国民の人気が高かったブラムス王――ロゼウスの父がエヴェルシードの将軍に討ち取られたと知ったときに、戦意を失い降伏の道を選んだという。
 そしてヴァンピル王国ローゼンティアはこの世から消えた。
 エヴェルシードはローゼンティアの国土と国民を諸外国が口を挟む隙もないほどさっさと自分たちの領土にしてしまい、ローゼンティアはエヴェルシードの一部となり国民は老人から赤子まで例外なく奴隷にされてしまったというのがその理由の一つ目。そして……王位を継ぐ者が全て死に絶えたから、と言うのが二つ目の理由。けれどそれは表向きだ。

 ◆◆◆◆◆

「服を脱げ」
「何?」
「聞こえなかったか? 着ている物を脱げと言っている」
 シェリダンの言葉にしぶしぶと従い、ロゼウスは上着のボタンに手をかけた。血と泥で汚れた服を着替えさせられ、身体の隅々まで丹念に侍従たちの手で洗われて、ロゼウスは今敵国の主将、親兄弟の仇である少年の前に立っている。
 少年の名はシェリダン=ヴラド=エヴェルシード。憎んでも憎み足りない、エヴェルシードの国王。残虐非道な王と呼ばれていたからどれほど陰険な中年かと思っていたのに、初めて相対したとき顎が外れそうなほど驚いた。
 海底の底から闇を攫ってきたように濃い藍色の髪に、猫科の獣を思わせる朱金の瞳。細身だが鍛えられた四肢はしなやかでたくましく、その一挙手一動が人々の眼を捕らえて放さない優雅さだ。
 年齢はロゼウスとさほど変わらないように見える。まだ十代後半と言ったところで、高すぎず低すぎない通りのよい声をしていた。
 その声で、彼はロゼウスたち王族の拘束を命じ、ロゼウス以外全ての王族を殺した。
「……脱いだ」
「では、こちらに来い」
 寝台で瓶に直接口をつけて果実酒を煽っていたシェリダンが、全裸となったロゼウスを上から下まで眺め回し、にやりとしか形容する言葉のない歪な笑みを浮かべてそう言った。
 ロゼウスは言われたことに素直に従い、酒瓶を手放したシェリダンの膝に乗る。腹を這う男の手に鳥肌を立てたい気持ちでいっぱいになりながら。
「約束は守れ」
「約束?」
「俺があんたのものになるんだったら、ローゼンティアの民には手を出さないと」
 掠れ声だったが距離が近いおかげで、十分相手には聞こえていた。相変わらず笑みを浮かべたまま首筋に吸い付く相手の熱い吐息を感じながら、必死の思いでそれだけをただ考える。
 ローゼンティア王族の中で何故ただ一人、ロゼウスだけが残されたのか。何故、自分でなければならなかったのか。
 そんなことは知らないし、今更知っても詮無いことで虚しいだけだ。だがロゼウスだけを残して親兄弟親戚一同を皆殺しにしたあと、この男、シェリダンは言ったのだ。
 ロゼウスが彼の言うとおりにすれば、ローゼンティア国民を虐殺することはないと。
 敗国の行末などどこも同じようなもので、エヴェルシードに限らず戦勝国は負けた国の領土を好きに奪い、民は殺すか奴隷にするのが普通だった。昼日中に精力的に動けないローゼンティア人は奴隷としても役に立たないだろうと半ば虐殺で決まりかけていたところを、シェリダンの気まぐれが救った。
 代償は自分の自由。
 ローゼンティア第四王子ロゼウスはこの先一生をエヴェルシード王シェリダンに捧げる、と誓わされた。
『民を救いたいか? ローゼンティア王子ロゼウス殿』
 血塗られた広間。一族の死体の積み重なる部屋で下肢を濡らす血だまりを感じながらの対面。後手に縛られたロゼウスの背中を兵士が押さえこんでいた。武器は取り上げられ、薄地のシャツ一枚。
『救いたい』
 それでも迷いはなかった。
 目の前にいるのは、父母を、そして兄妹を殺した憎い仇。四肢をもがれても一矢報いたいのは当然で、けれど自分一人の憎しみとローゼンティア全国民の命を天秤にかけるわけにはいかなかった。
 自分は例え継承権から遠くても、もうこの国がこの世界から消えたとしても。
 ヴァンピル王国ローゼンティアは永遠に我が祖国なのだから。
『ならば私の言う事を聞け。私の望みのままにその身を差し出し、命を捧げよ。我が奴隷に、そして』
 憤りを押さえ込むために歯を食いしばり床ばかりを見つめていたロゼウスの髪を掴んで顔を上げさせ、苦痛に呻くロゼウスにその秀麗だが残酷な笑みを見せつけながら、シェリダンは言った。

『我が永遠の花嫁となれ――』

 ◆◆◆◆◆

 寝台の上に引きずり倒され、両肩を強く押さえ込まれる。苦痛に喘ぐ間もなくシャツを破られ、生白い胸板が露になった。
 ローゼンティア人の特徴は白い肌に白い髪、そして血のように紅い瞳。ロゼウスの瞳は特に色が濃いらしく、血のような、というより濁り溜まった血の色そのものだった。日に当たることが出来ないとは言わないが、陽光が苦手なヴァンピルの肌は白く、黄色かったり浅黒かったりする他国の人間たちの肌とは比べ物にならない。線の細いローゼンティア王族の中でもさらに女性的だと言われる顔立ち。鍛えても傍目には筋肉がついているように見えない四肢と、小柄と呼ばれた身長。
 屈強とは程遠い外見だが、剣の腕前にはそれなりに自信があった。けれどそれも結局は、シェリダンに、たかが人間の少年に敵わなかった。ローゼンティアが滅びた戦争の終わり、国内では最大にして唯一の砦である王城に兵は集まり、最終決戦が行われていた。王女たちや召使たちを逃がす暇もエヴェルシードの電光石火の猛攻の前には与えられず、城内でローゼンティア軍はエヴェルシード軍を王城で迎え撃ったのだ。先頭を切って剣を仕掛けてきた相手がまさか向こうの国主だとは思いもせずに、ロゼウスはシェリダン王と剣を合わせた。
 倒すことはできなかった。
 ロゼウスがシェリダンと刃を交えている間に、父王はエヴェルシードの将軍に討たれた。
 だが。
「悔しいだろう? ロゼウス王子」
 国が滅びて家族が殺され、自分だけが生き残り心も身体も疲れきって指一本すら動かせない。自分を貫く男のものを感じながら、吐き気と、胸の中に溜まる黒い靄のような嫌悪感を無理矢理押さえつけていた。
「な……にが……」
 黙ったままでいたら前を強く握られ、激痛が身体を走った。涙目になりながら、ようやく口を開く。
 悔しい? 今更何を。悔しいに決まっているだろう。何もかもが。国が滅びたことも家族を殺されたことも国民を人質にこの無礼で非道な男の『妃』になれなどと言われたことも。
 シェリダンは中に入ったものの圧迫感で息も絶え絶えなロゼウスの顔を捕らえ無理矢理自分の方へと向けさせると、耳元で囁いた。甘さのない情事に掠れた声が耳朶を叩く。
「セワード将軍がお前の父を殺すよりも早く、お前が私を殺していれば戦況は変わったかも知れぬのに……」
 心の中で、何かが切れる。最後の一線が硬質な音を立てて崩れ、ロゼウスは自分にのしかかる敵国の王を突き放そうと、その鍛えられた胸を両手で押す。だが、震える手には力が入らない。
 シェリダンは追い詰めた鼠をいたぶる猫のように残酷な笑みを浮かべ、ロゼウスに口づけた。その秀麗な唇が触れ、無理矢理口をこじ開け舌を噛むことすらできないようにさせ、呼吸を奪う。
 涙が溢れた。
「――放せ!! 放せ――っ!! お前など、お前など大嫌いだ――っ!!」
 クソ馬鹿外道畜生と、思いつく限りの悪口雑言を投げて抵抗する。暴言のレパートリーはそんなに多くない。こんなことなら育ちの割に自分と同じく口の悪かった二番目の兄に、もっと悪口を習っておくのだったと思う。そうしてすぐに、彼はもういないのだと気づいた。
 もういない。尊敬していた父母も誇らしかった兄も優しい姉も、可愛い妹も、生意気盛りの弟も、忠実な家臣も。
 もう誰もいない。
 この少年がみんな殺した。
「―――――っ!!」
 声にならない叫びと、功を奏さない抵抗を楽しむかのように封じて、シェリダンが腰を使う。乱暴な行為には快楽の欠片もなく、痛みと苦しみだけの行為にぼろぼろと涙を流しながら、亡くした人を想ってまた闇へと突き落とされる。
 後に残るのは、ただ虚無。

 ◆◆◆◆◆

 途中で気を失ったらしく気づけば朝だった。
 全身が鈍痛と倦怠感に侵され、起き上がれない。酷く喉が渇き、肌寒さを感じた。隣に、あの王の姿はない。
 明確に意識する間もなく、気づけば頬を涙が滑っている。
 ああ、これは極彩色の悪夢だ。
 なんて鮮やかで目に悪い、毒々しい闇の夢。逃げようとしても逃げられない。絶えず追いかけてくる魔の御使い。
 そうして目を覚まして。荒れた寝台の冷えたシーツの上で、軋むように痛む身体を自らの腕で抱えながら。
 悪夢よりも一層残酷な現実を知る。


002

 剣を合わせた時にわかった。
 ああ、これこそが自分の求めていたものだったのだ、と。

 うるさい家臣の反対を押しのけて隣国ローゼンティアに侵略し、二週間ほどになる。吸血鬼が治めるかの国は魔族の土地とは名ばかりだったようだ。口ほどにもない容易さで王を殺し、ローゼンティアをエヴェルシードの支配下に置いたのは四日ほど前。
 シェリダンの手元には“戦利品”が一つ。
 ローゼンティア第四王子ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。ヴァンピル特有の白い肌に白い髪と血のように紅い瞳。正直に告げるならば、初めて出会った時、つまりかの国に攻め込んで剣を合わせた時は、てっきり女だとばかり思っていた。線が細く、体つきは華奢で、面差しは美術品の如く整っている。シェリダンと同じ十七歳の少年のはずだが、口を開けばお世辞にも上品とは言えない言葉遣い。だがその威勢の良さこそが気に入った。
 このエヴェルシード国王、シェリダン=ヴラド=エヴェルシード、自分の気に。
 戦後処理を譲位の際にシェリダンに味方した忠実でかつ有能な臣下たちの専門と適正と状況によって割り振る。会議室と化していた天幕はその後畳まれ、陣内の不要なものから次々に片付けられていく。
 戦は終わったのだからあとは現地に残って処理をする者たちに任せて、シェリダンは自らに割り当てられた小屋へと戻る。戦時下だが仮にも王である人物に天幕で寝ろとは恐れ多い。口を歪めながら告げれば、蒼白になった兵士が周囲の民家を住民から奪い取り明け渡させた。
 粗末ながらも民家であれば一通りの家具は揃っている。中へ入れば、低い寝台の上で未を丸めるようにして横たわっている者が一人。
 事情を知っている者こそまだ少なく、その素性を知っている者はさらに少ないが、これからシェリダンの妃となるべき存在だ。だが彼――ロゼウスはシェリダンが入ってきても身を起こさない。どうやら相当体が辛いようだ。戦の勝利に酔いしれるあまりに、昨夜は手荒にしすぎたか。
 シェリダンは寝台に近付き、気休め程度の薄い毛布を剥ぎ取った。辛うじて腰だけをそこらにあったらしい布で隠したロゼウスが、あからさまに顔色を変えてこちらを睨む。その眼光を微風を受けたようにでも流し、横たわる彼の側に腰を下ろした。
「さっさと着替えろ。そろそろ出発するぞ」
「しゅっぱつ……?」
 昨夜さんざんシェリダンを罵倒し、彼の下で喘いだ声は掠れていた。半ば虚ろな瞳が胡乱げにこちらを見る。
「そうだ。エヴェルシードに帰る。伝令に告げて、お前の部屋も用意させよう」
 ロゼウスの顔が凍りつく。エヴェルシードの名が出て、自分がようやくこれからどうなるかの映像が鮮明になったらしい。脅迫と言う名の取引に応じたとはいえ、エヴェルシード王の花嫁になると頷いたのならばもはやローゼンティアにはいられない。いや、彼の故郷であるその国はシェリダンが滅ぼしたのだから、ロゼウスの故郷などそもそも、もうどにもないのだが。
「あ……本当に?」
「嘘を言ってどうする。それとも、今から私の申し出を拒んでみるか? この土地に残されたヴァンピルたちがこぞって阿鼻叫喚の地獄を見ることになるだろうよ」
 挑発すれば、わかりやすいほどに鋭い敵意の視線を向けてくる。
「まさか……俺はもうあんたの取引に応じたんだ。今更取りやめるわけないだろ」
 昨晩シェリダンの下で泣き叫びながら抵抗した少年と同じとは思えない言葉がその可憐な赤い唇をついて出る。瞳と同じく、血のように紅い唇。熟した果実のように、むしゃぶりつきたくなるような。
 口づける代わりに人差し指を伸ばし、昨晩さんざん貪ったその場所に触れた。ゆっくりと唇の輪郭をなぞり、下唇を軽く押して開かせる。
 ロゼウスは微動だにしない。また昨夜のようなことをされるのかと戦きながら、民のためを思えば動くことが出来ないらしい。
可愛らしいものだ。幼稚な抵抗ごときで自分が彼に飽きるものなら、昨夜の罵詈雑言でとっくに捨てている。
 王子といえば最高権力者である王の下でぬくぬくと甘やかされた能無しの愚図か、身分ゆえに権謀術数渦巻く王宮で獣のように生存本能を磨いた切れ者とにだいたい大きく分類されるが、一月前まで王子だったシェリダンは後者であった。そしてこの者も後者だ。
 ローゼンティア王家がとくに後継者問題で揉めたという話も、第四王子の身辺がきな臭いという話も聞かなかったが、一皮向けばどこの王家も同じだろう。地獄の釜の底を開いてもこうは暗くないだろうという闇ばかり。
 ロゼウスがきつく掴んだシーツに皺がより、握り締めた拳は骨が浮いて震えている。
「さて、着替えろ、と言ったはずだが」
「何を着ればいい」
 粗末な小屋の中には寝台と空の箪笥だけ、追い出された住民が衣服は持ち去ったらしい。寝台の脇に散らばる昨日の服はシェリダンが半ば破いたものもあるし、到底着られたものではない。
「仕方がないな。少し待っていろ」
 シェリダンは小屋を出て、手近な者を呼びつける。王の指令にたまたまそこを通りがかった馬番らしき兵士がひたすらかしこまりながらひれ伏す上から、服を持って来いと簡単に告げる。兵士は馬をその場に置き去りにして、慌てて天幕の一つへと駆けていった。
 しばらくして戻ってきた男の手から衣類を受け取り、王であるシェリダンは礼も言わずに中へと戻る。
 近隣の村から略奪したらしい衣服を目の前で広げて見て、シェリダンはほくそ笑み、ロゼウスは僅かに青ざめた。まだ結婚もしていないシェリダンが妃に着せるというのをあの男はどう受け取ったものか、渡された衣服は女ものだった。この辺りの村では上等な部類であろう、村娘の服だ。
「これを着ろって?」
 震える声に、意地悪い笑みで返す。
「当然だろう。花嫁殿」
 わざとらしく彼をそう呼ぶと、昨晩の赤い痣が残る体を引き寄せて背中から抱きしめ、無防備な裸の胸に手を当てながら耳元で囁く。
「楽しみにしていろ……城に帰ったらもっと美しいものを、もっと着飾らせてやる」
 明らかに嫌そうな顔をしながらも、ロゼウスはシェリダンの差し出した服を身につけた。寝ている間に乱れた白髪を、シェリダンは軽く手で梳いてやる。さらさらとして指どおりがよく、やわらかな髪。一通り整えると、その姿の美しさにシェリダンは気分をよくして頷いた。まだ動くのは辛いようでしきりに顔をしかめているロゼウスの手をとり、小屋の外へ出た。出発の準備はすでに整って、諸将が馬と共に控えていた。
「陛下、出立の準備が整いました」
「よくやった。それではエヴェルシードに帰るか」
 侍従のリチャードが引いてきた馬の手綱と鞍の具合を確かめ、ロゼウスの手を引いた。数少ない事情を知っている者の一人であるリチャードはそのことについて何も言わず、シェリダンの荷物を預かり、手際よく馬の背に結びつけた。万が一と言う事もある、王であるとは言え、食料や飲み水の多少は自らで運ばねばならない。さらにロゼウスを馬の背に乗せ、一頭に二人乗りと馬には無理をさせることになるかもしれないが、シェリダンもそう大柄ではないしロゼウスも年齢の割にやたらと軽いので大丈夫だろう。
「では、出発する」
 シェリダンたちは拍子抜けするほど簡単に終わった戦の戦場から、自国へ戻るための道を安堵と歓喜を持って歩いていく。只一人、震える腕でシェリダンの腰に手を回して運ばれる、ローゼンティア最後の王子を除いて。

 ◆◆◆◆◆

「もう帰ってくるのですって?」
 朗報を聞いて彼女は舌打ちした。国内の者にとっては朗報でも、カミラ個人に関して言えば訃報だ。あの一筋縄では行かない兄が出かけている間に、自分の王位継承への足固めをしようと思っていたのに。
 ローゼンティアとはそんなに弱い国だったのか。……いいや。争いを好むことさえなくとも、不死の魔物ヴァンピルがそれほど弱くあってたまるものか。きっとあのシェリダンのことだから、銀の十字架や白木の杭など及びも着かないえげつない方法を用いたのだ。
 とにかく、隣国ローゼンティア侵略のためにエヴェルシード王城を留守にした兄王が帰ってくるのが時間の問題だということはわかった。エヴェルシードもローゼンティアも大陸ではありふれた大きくも広くもない国の一つで、国土の広さもさほど変わらない。もちろんこれからは奪い取ったローゼンティアの領地までエヴェルシードのものとして考えることになるのだろうけれど、どちらにしろ馬で三日四日もあれば帰ってこれる距離だというのは確かだ。
 あの兄が帰ってくる。
 彼女の名はカミラ=ウェスト=エヴェルシード。先月からエヴェルシードの国王となったシェリダンの、腹違いの妹。父である先代王ジョナスはシェリダンの母親であり十七年前に亡くなった妻の面影を濃く宿す兄に惚れ込んで、重臣たちの反対を押し切ってシェリダンを王位につけた。二人の間に何があったかなんて知らないし、カミラは憎い兄がどうなろうと知ったことではないと無視し続けてきたのだが、シェリダンはどうやらジョナス王に恨み骨髄だったようだ。王位についてすぐシェリダンが行ったことは、譲位した先代王の幽閉というものだった。
 そしてカミラは、幽閉されたその父を見つけ出そうと目論んでいる。どうやらすぐに兄が帰って来てしまうようで、間に合いそうもないが。
「本当に父上はまだ見つからないのね」
「はい、城内をくまなく探しているのですが……カミラ殿下、差し出がましいのですが、もう少し捜索範囲を広げてはいかがでしょう? ここまで探しても見つからないのでは、先代陛下はもはや城内にはおられないのではないでしょうか」
「いいえ」
 先代王捜索に狩り出している兵士の言葉をカミラは一笑に付す。
 シェリダンは気に食わない兄だが、考えぐらいはわかる。不愉快なことに、血は争えないというべきか、カミラとシェリダンの性格は似ている。二人は異母兄妹なのだから、この性格は父親ジョナス王の遺伝ということか。
「シェリダンは自分しか信用しない人間だわ。即位したばかりでそれほど手駒が多いわけでも王であるという理由だけで無用心に他の貴族に幽閉した父王の身柄を押し付けるほど浅はかでもないわ。だとしたら、必ず自分の眼の届く範囲……この王宮内に父上はいる。いいからあなたたちは城内で父上を探しなさい」
「は……かしこまりました。捜索を続けます」
 兵士の男が出て行ったあと、彼女はつい苛々として爪を噛んだ。また侍女が嘆くかもしれないが、カミラにとってはささいなことだ。
 早く王を見つけて、シェリダンの横暴を暴き王位を奪い取らないと。
 でなければ今度危ないのは自分だ。実の父親を容赦なく幽閉するあの兄が、正妃の娘であり異母妹のカミラを放っておくわけがない。彼女が自分の身を守る唯一の手段は、王位に着くこと。
 そもそもエヴェルシード王ジョナスの妻はカミラの母ミナハーク一人だった。それは私情の入る隙間もない完全な政略結婚で父と母の間に愛などなく、夫婦仲は当然冷え切ったものだった。ところが禁欲的で知られたジョナス王が一人の女性と出会ったことで、エヴェルシードの王権は大きく揺らぐことになる。
 カミラの母ミナハークとの愛情のない夫婦間に疲れきっていたジョナス王の眼に留まった女性の名はヴァージニア。場末の酒場の娘で給仕として勤め、ジョナス王が国内視察をしていたその日にたまたま買い物先で彼に見初められてしまった、運がいいのか悪いのかわからない女性。
 何しろカミラの父上であるところのジョナス王は、娘を差し出すのを嫌がった愛情深い彼女の両親を殺して彼女を生家から奪い取ったのだから。賢明な王であったといわれるジョナス王にケチがつきはじめた発端とも言っていいのがこの事件で、ヴァージニア第二王妃の生家の酒場の跡地は未だに閉鎖されたままらしい。
 街娘の美貌に狂ったジョナス王は正妃であるミナハークに目もくれず、すぐさまヴァージニア第二王妃を孕ませてシェリダン王子……今のシェリダン王を産ませた。けれど無理矢理攫われたあげくに両親を殺され、一国の王とはいえ好きでもない男に嫁がされたヴァージニアとしてはたまったものではない。シェリダンを産んで一年も経たないうちに彼女は亡くなり、必死で王の寝台に侍ったミナハーク正妃……母が死に物狂いでカミラを生んだ。その母も十年年ほど前に亡くなったのだが。
 ミナハーク正妃はヴァージニア第二王妃を恨み、その息子であるシェリダン王子を恨み、何よりも一度として自分を愛することのなかったジョナス王を恨んで恨んで、心の底から恨みぬきながら死んでいった。でもカミラはそんな死に方まっぴらだ。ただでさえ人より複雑な家庭に生まれてしまって、自分の責任でもないことで殺されるなんてまっぴら御免。
 だから、カミラはシェリダンから王位を奪うのだ。当然だろう。妹で年下とはいえ、自分こそがエヴェルシード王の正妃の子どもなのだから。
 とにかく王位にさえつければそこからは何とでもできる。伊達にこの十五年間王宮生活で王族の嗜みを身につけてはいない。国内の有力貴族との繋がりだってあるし、夫婦間は冷めていたとは言えどもそこそこ美しいジョナス王とそこそこ美しいミナハーク第一王妃の娘であるカミラは、これだけは幸運なことにそこそこ美人だ。ジョナス王に見初められたヴァージニア第二王妃の息子であるシェリダンの方が綺麗という意見もあるにはあるが。
 まあそれはともかくとして、交流のある国々の王や王子を陥落させて嫁ぐなり婿を採るなりも、カミラならできる。やって見せる。後ろ盾さえ得てしまえば、シェリダンなんて目ではない。この世で最も重要なのは人間関係だというのに、それをおろそかにしていたシェリダンなどに卑怯とは言わせない。
 あとの問題は、とにかくシェリダンが行動に移すまでに、可能な限り早く先代王ジョナス陛下を見つけ出すこと。まさかすでに殺されてたりはしませんよね。ここまで来て呆気なく殺されるのなら、せめて私を王位につけてからにしてくださいな、父上。


003

 エヴェルシードは豊かな国だ。
 頭では知っていたが、今眼前に壮大な王城を見せられて、ロゼウスは馬上で目を瞠った。目的地への距離はあと数刻程度で辿り着けるほどに迫っている。
「あれがエヴェルシード城か……」
 思わずそう声を上げると、前に座っているシェリダンから声が飛んだ。
「違う」
「え? だって」
「確かにあれはエヴェルシード王城ではあるが、城がエヴェルシードの名前を冠することはない。確かローゼンティアは王都に城が日一つあるだけだったか。エヴェルシードは各地の貴族も一つないし幾つかの城を所有しているから、王城がそのままエヴェルシードの名前で呼ばれることはない。あれはエヴェルシード王城である、シアンスレイト城だ」
 シェリダンの丁寧な説明に納得する。
 そんなことを話している間にも城への距離は縮まり、一行はついにシアンスレイト城へ辿り着いた。シアンスレイト城の周囲には堀が巡らされていて、外部からの入場には正門から橋を降ろしてもらう必要があるらしい。
 王の帰還の伝令を受けてまもなく、きりきりと鎖を鳴らして巨大な橋が降ろされた。馬に乗ったままでシェリダンはそこを駆け抜け、シアンスレイト城へと辿り着く。
 確かリチャードと言った侍従に馬を預けると、ロゼウスの手を引いてさっさと中へ入った。広間に足を踏み入れると、大勢の家臣が出迎える。その様子は今は亡きローゼンティア国王ブラムスと臣下との暖かく気さくなやり取りとは違って、どこかピリピリと張り詰めた空気を感じた。
 獲物を狙う獣同士がお互いの動向を探っているような、そんな緊張感。そういえばシェリダンは即位したばかりの王で、即位するなり先王、つまり自分の父親を幽閉したという凄まじき経歴の持ち主だ。
 この王宮は、ローゼンティアとは違った意味で戦場らしい。
 新しく見るものをいちいち故国と比べて、ロゼウスは微かに痛みを覚える。あの国はもうないというのに、ロゼウスの目の前で父王は殺され家族はみな死に絶え、ヴァンピルが栄える時代はもう終わったというのに。
 そんなことを考えていたせいか、ロゼウスは自分にかけられた声に気づくのに遅れた。
「そちらの方は?」
 身なりからして偉いだろう人物、後でこの国の宰相でありシェリダンと不仲である重臣筆頭のバイロンだと教えられた男が、シェリダンの斜め後ろに控えたロゼウスを見て怪訝そうに眉を潜めている。
 白い髪と肌に紅い瞳のロゼウスの容姿は一目でローゼンティア人のものだとわかる。攻め込んだ国の王家の者を何故こんなところに連れているのかと宰相はロゼウスを値踏みするような目で見ながら、無言でシェリダンに訴えていた。
 シェリダンはロゼウスが何かを言う隙も与えずに、ロゼウスを引き寄せて肩を抱いた。僅かにのけぞるようにして、瞳を細めてさも幸福に酔っているような振りをしながら、広間に控えた皆に聞こえるようはっきりと告げた。
「この女性は私の妃となるべき者だ」
 ――は?
 そんなカンジで一瞬完全に辺りが静まり返った。
「妃、ですか? ……それはつまり側室と言う事で」
「いや、正妃とする。彼女はローゼンティア王家の最後の姫君だ。失礼があってはいかんだろう」
 若すぎる王の思っても見なかった言動に、一瞬静まった辺りがざわめきを取り戻し、普段なら無礼とされるだろう王の目前でのひそひそ話、噂話が行われる。
「正妃に!? ですが、それでは他の婚約者候補の皆様方は」
「捨て置け」
「と言いましても、そもそも陛下はローゼンティアを侵略するためにかの地に赴かれたのでしょう。何ゆえ滅ぼした王家の王女を妃になど……」
 バイロン宰相は不服そうだ。この男はシェリダンを適当な国の王女やもしくは国内の貴族の娘と結婚させて傀儡としようとか考えていた腹だろうか。 
 難しくて腹黒い駆け引きは面倒だが、ロゼウスだって王族の一員としてそのぐらいのことは見抜ける。
 だが、どういうわけかこの男だけは理解できない。
「理由ならちゃんとある。我らが勝利したとはいえ、かの地は不老不死の魔物ヴァンピルの国。いつ牙を向くともわからない相手を上手く操るには、それなりの理由が必要だろう」
「だから、ヴァンピルの姫を娶る代わりに、ローゼンティア人を奴隷としては厚遇し姫を人質に暴動を起こさせないようにすると?」
「まあ、言ってしまえばそういうことだな。下手に全滅させてしまえばそれこそ荒れた地を治めるのに無駄な骨折りだ。さらには王族全てを滅してしまえば、かの民は民の中から新しく王を立てようとするだろう。それに」
 ロゼウスに説明したこととは逆だ。シェリダンは国民を人質にしてロゼウスを脅した。そして今度は、ロゼウスを人質にして国民を脅すのか。
 シェリダンはロゼウスを強く引き寄せて、唇で頬を掠めながら吐息のやわらかさで囁く。ロゼウスは微動だにすることができず、シェリダンは彼を抱き寄せながら、瞳で宰相を挑発する。
「この美しさなら、諸侯も反対できまい」
 バイロンは悔しげに息を飲み、形だけは優雅に挨拶を交わしてその場を辞退した。王と宰相の緊張関係は部下にも伝わっているらしく、バイロンが広間を立ち去ってようやく周りの小姓たちが一息つけた様子だった。
「陛下、荷物を運びましょう。兵士たちを動かす許可をください」
 侍従のリチャードが進み出て、王の代わりに兵士の指揮権を預かる。これまで働きづめだった兵士は休ませ、まだ体力の残っている者には戦の後始末をさせる。
「陛下、妃殿下のお部屋はどういたしましょう。連絡をしていなかったので、後宮は手付かずとなっておりますが」
 シェリダンはしばし考えるようなそぶりを見せた後。
「―――いや、今はまだいい。私の部屋で起居させる」
 事も無げにそう告げた。
「は? いえ、でも陛下、その」
「ローラとエチエンヌを私の部屋へと呼べ。とりあえずはその二人を妃付きにする」
「そうですか。ああ、ところで陛下、今更なんですが、お聞きしてもよろしいでしょうか?」
 リチャードが戸惑うというより、微妙とか困ったとかいうような表情でロゼウスを見た。シェリダンに腰を抱かれたままのロゼウスは自分へと向けられた視線を訝りながらも、リチャードの言葉の続きを待つ。
「なんだ?」
「その……お妃様のお名前を、私どもはまだ窺っておりません」
「ああ、そういえば言っていなかったな」
 シェリダンは腕を組み、口元に手を当てて愉快そうに告げた。
「この姫君の名は、『ロゼ』だ」
「ロゼ様、ですか?」
「そうだ。ローゼンティアの姫君であるから、ロゼでいいだろう」
「ということは、本名は違うと?」
「覚える必要などあるまい。どうせこの国でローゼンティア王家の者の名を親しく呼ぶ者などいないのだから」
 ――こうやってローゼンティア王子ロゼウスは殺されて行くんだな。
 ロゼウスは無表情に王と侍従のやりとりを見守った。
 リチャードはシェリダンの悪ふざけに慣れているのか、この少年王に逆らわないのが利口だと知っているのか、微かに渋い顔をしたものの特に諫めることもなくそれで納得した。
「ではな。行くぞ、『ロゼ』」
 ロゼウスはシェリダンに淑女よろしく手を引かれて城内を歩く。借り物の女衣装はくたびれてみすぼらしいのに、何故か誰もお前男だろうと看破してはくれない。いっそそうなってくれればどれほど楽か。ロゼウスが女装をして妃に納まるなど無理だとわかれば、この男も無理な取引をしようなどと考えずにおくかもしれないのに。
 だがシェリダンが怖いのかこの城のヤツラの眼は節穴なのか、今のところ誰もそれを指摘しては来ない。
 長い回廊を抜けて別棟に入る。シアンスレイト城は幾つもの建物から構成された大きな城で、王の住まいは表に見える城の裏側にあるらしい。そのさらに奥に見えた建物がでは後宮だろうか。そして王の住居の両側には、それぞれ警護のためか兵舎があるらしい。つまり、エヴェルシードの王城では国王の住居が他の全ての建物の中心にある。
 その最も奥深く最も華美で壮大な建築物の中にロゼウスは足を踏み入れた。シェリダンの真っ直ぐな背中を見つめながら歩く、ふいに彼が立ち止まったと思ったら、それはこれまで見たどの扉よりも豪奢な浮き彫りのされた両開きの扉の前で、そこが彼の寝室なのだろうと思った。
 案の定シェリダンは扉を開いて中へと入り込む。ロゼウスは入り口付近で足を止め、部屋の様子を見回した。こんなに広いのに窓は意外と小さく、寝台は外から見えないような場所に置かれているのは狙撃の危険を減らすためであろう。
 寝室ではあるが、衣装棚も応接用のテーブルと椅子も書き物机も、そして本棚まで置いてある。ローゼンティアのロゼウスの自室とは比べ物にならない立派さで、確かにここならロゼウス一人ぐらい寝泊りさせることはなんでもないのだろう。
「何をしている。こちらへ来い」
 入り口で部屋の中を見回していたロゼウスに気づいて、シェリダンが寝台の上で手招きする。旅装のマントを自分の手で外したシェリダンは、ロゼウスの分も自ら脱がせた。
 他の国では恐れ多いことだが、この国の国王は何でも一人でやるらしい。ロゼウスも気ままな第四王子だったから身の回りのことはそれなりに自分でできるようになっている。だがそのロゼウス以上に、シェリダンは器用だ。
 普通だったら侍女が飛んできて身支度を手伝うのに、シェリダンはさっさと一人で着替えた。終わった頃になってタイミングよく、部屋の扉が叩かれる。
「シェリダン陛下、ローラとエチエンヌです」
「入れ」
 そうして、先程シェリダンが呼んだ二人の人物がやってきた。

 ◆◆◆◆◆

 シェリダンの部屋に入ってきた二人を見て、ロゼウスは驚いた。
その二人は金髪に青みがかった緑の瞳という典型的なシルヴァーニ人の容姿を持ち、髪の長さは肩を過ぎるほどまでとおそろい。そして男女で衣装こそ違えど、二人同じ顔をしていた。その気になれば丸一日衣装を取りかえっこして過ごしても疑われない見た目だ。
ロゼウスは力なく腰掛けた寝台で呆然と眼を瞠る。同じ顔が同じ表情で並んで立っているのだ、これで驚かないはずがない。
「陛下、こちらの方は?」
 同じ顔の二人のうち、小姓らしき衣装を身に纏う少年が尋ねる。
「私の妃となる者だ」
「……は?」
 五秒ぐらい固まってから、少年が声を上げた。
 それを素通りして、シェリダンは少女のものらしき名を呼ぶ。
「ローラ、この者の世話はお前に一任する」
「はぁい」
 上機嫌で答えるローラと呼ばれた少女を余所に、不機嫌な少年、エチエンヌが険しい眼差しでさらに王に問いを重ねた。
「何者なんです、そのヴァンピルは? それにローラに世話を一任ということは、他に侍女をつけないという意味ですか?」
 彼らの王であるシェリダンは隣国であるローゼンティアに戦争をしに行った。それが何故その国の民を妃に迎えるなどという話になるのか。エチエンヌという少年は自分の知らないところでとんでもない決め事がされていたのが気に入らないらしい。十七歳で即位したばかりの新王がいきなり先王幽閉、隣国侵略、正室まで娶ったなどと言われても確かに普通の人間なら寝耳に水だろう。
 しかしこの二人、双子らしき姉弟は普通とは少し違うらしい。 
「ローラ=スピエルドルフです。よろしくお願いします。王妃様」
 少女がロゼウスの方に近寄り、握手を求めてきた。彼女の勢いにつられ思わずのように手を差し出すと、ローラはロゼウスの手を握ってうん? と首を傾げる。
「剣だこ……? 陛下、この方は何者なんですの?」
 一発で見抜かれたそれに驚き、ロゼウスは思わず、険しさと怪訝さの交じる声をシェリダンに向けてしまう。
「この国では女まで兵士として採用しているのか?」
「してはならぬのか? もっとも、ローラは兵士ではないがな」
 ローラがぱちくりと瞬き、エチエンヌがあ、と声をあげる。
「男の方?」
 ローラが緑の眼を真ん円に見開いて不思議そうに尋ねてくる。ロゼウスは居心地の悪い思いを感じた。 
先程もそうだった。彼女が近付いてきた時、思わずどう対応するべきかわからなかった。見知らぬ国の王の寝室で同性の侍女が近付いてきたら、普通の囚われの姫君は落ち着くか怯えるかどちらかだろう。しかしロゼウスは戸惑いが勝った。
「……」
「ローゼンティア第四王子、ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア殿下、だ」
 シェリダンによって、ロゼウスが口を開く間もなく彼の素性が勝手に明かされていく。自分で滅ぼしておいていけしゃあしゃあと。ロゼウスの顔色はシェリダンの一言ごとに悪くなるが、その説明で双子は大体の事情を掴んだらしい。
「陛下! 男を側室に据えるなんて!」
 つかつかとこちらまで歩んできたエチエンヌがシェリダンに詰め寄る。だがシェリダンはどこ吹く風という調子で、もっと凄いことを言い出した。
「側室? 誰が側室にすると言った?」
 室内全員の背筋をいやな予感が伝う。
「これは私の正室に据える」
 ロゼウスの白銀の美しい髪を無造作に掴んで無理にのけぞらせながら、シェリダンは事も無げに告げた。ここで抵抗しても意味がないと諦めきった表情で、ロゼウスは白いうなじを晒し、その苦痛を受け入れる。
「でも陛下、この国では同性との結婚は認められてませんが?」
 誰も突っ込まない中、ローラは現実的なことを問いかける。エヴェルシードでは同性との結婚は認められていない。宗教上の問題とかそういうのが普通はあるのだろうが、とりあえず王族に関してはもっと単純な話だ。
 同姓同士で婚姻を結んでも、子どもはできない。男と結婚して子どもができずに家系が途絶えたらどこの王家だって困る。同性愛は非生産的だ。王族でもなければ単なる変な人で終っただろうが……そちらの方が問題かもしれない。
「男だと知らせなければいい。ローラ。だからお前に一任すると言った」
「ははあ。なるほど」
 傍目から見れば荒唐無稽な計画に聞こえるが、シェリダンは何故か自信満々だ。確かにロゼウスなら化粧どころか着飾りすらしなくたって、多少男勝りな女性で通るだろう。常人以上の鋭さを誇るローラとエチエンヌでさえ、一瞬男だと気づかなかったくらいだ。
「じゃあ、私はひとまずこの方……ロゼウス様? なんと呼べばよろしいのかしら?」
「『ロゼ』だ。バイロンにもそう告げた」
「そう、ロゼ様ですか。ロゼ様の身の回りを整えればよろしいんですね? まずは衣服をそろえましょうか? 適当にツテを辿って今はそれなりのものを集めますから、あとは並の仕立て屋を呼ぶわけにも行きませんし、どうにか適当な方法で服をあつらえなければなりませんね。お部屋の方はどうします?」
「ここで起居させる。落ち着いたら適当に準備させてくれ。間に合わせで構わない。どうせ飾りだ」
「ああらま、おあついことで」
 部屋が飾りになると言う事は、つまりたいていここに居座ると言う事だ。つまり、シェリダンの側を片時も離れない、ということだ。
 敗国の王子に対して、これが適切な扱いかなどと勿論ロゼウスにはわからない。だが一日中、逃げる場所もなくこの少年王と顔を合わせ続けなければいけないのは辛い。 
「せっかくの“戦利品”だ。楽しまなければ損であろう」
 シェリダンが寝台の上から手を伸ばしロゼウスを自らの傍らへと抱き寄せる。
 この国において、ロゼウスは人間でも、王子でもない。ただのシェリダンの所有物。彼の戦利品だ。
「それでは私はロゼ様の服を集めに行ってまいります」
 主君の無法ぶりに眉を潜めることもなく、ローラが眩しいばかりににっこりと笑顔を向けると、さっさと部屋を出た。


004

「完璧だな、ローラ。よくやった。褒めてつかわす」
「ありがとうございます、陛下」
 腹心よりもさらに近い位置にいる双子の片割れのうち、姉のほうへとシェリダンは声をかけた。視線だけは、彼女の努力の集大成であるそれに向けながら。
「やっぱり素材がいいからですわ。王妃様ってば、何を着てもお美しいのですもの」
 自らの作品と化したものを眺めて、侍女はうっとりと溜め息をつく。
「それでは、私は失礼しますわ。明日からもこのような調子でよござんしょうか?」
「ああ。頼む」
「かしこまりましたわ」
 ローラがその足音も軽やかにシェリダンの部屋を出て行くと、室内には彼とそれ、ただ二人だけが残された。
「『ロゼ』姫」
 シェリダンは寝台に気だるげに腰掛ける〈姫君〉へと声をかけた。少女と呼ぶにはきつい眼差しが鋭く睨み据えてくる。
「似合うぞ。美しいではないか」
「女装を褒められて喜ぶ男がどこにいるものか」
 声こそ鈴を転がすような調子なのに、台詞の中身はすこぶる可愛らしくない。シェリダンの命令でローラによって着飾らされたロゼウスは、誰が見ても優美な姫君だった。
 有り合わせがないという割にさっさと白いシルクのドレスを調達してきたローラの美意識は確かなものだ。白い肌に白い髪のロゼウスに、さらにこれでもかと純白のフリルとレースとリボンで飾られたそのドレスが良く似合った。宝石を着けなくても艶やかに見せるそのデザインは、同じ白でも布の使い方によって一層華やかな様子を見せるというもの。そして全身が白い中で、彼の血のように紅い瞳と、同じく紅い唇が目立っている。
「まるで花嫁衣装だな」
 純白に包まれた死の花嫁。
「誰が花嫁だよ。イカレ王様」
 私の花嫁。
「あっ――……」
 さらに憎まれ口を叩こうとしたロゼウスの唇を自分の唇で塞ぎ、シェリダンは“花嫁”の華奢な体を寝台に押し倒す。
「明日はもっと美しいものをローラが着せ付ける。それ以降は、一流の職人にお前のための衣装を誂えさせよう」
「余計なお世話だ。俺のことなど襤褸でも着せてその辺に放り出しておけばいいだろうが」
「困るな。ローゼンティア第四王子? あなたの肩には、ローゼンティア国民の命がかかっているはずだが」
「……っ!」
 シェリダンの下で、ロゼウスの顔が悲壮に歪む。国民のことを持ち出せば、彼は強くは出られない。シェリダンの指示一つで、自国の民が老若男女問わず土の下に葬られることを知っている。
「……今から言っておくが、俺はとうてい女の真似などできないからな。女言葉も内股もしずしずとした仕草とやらも全然だ」
「構わない。別にお前にそれができるなど、こちらも端から期待していない。お前はただ、その美しさで相手を睨み据えればいい。どうしても困った時は、ただ黙っていれば相手のほうで好きに解釈してくれるだろう」
 何故ならエヴェルシード王シェリダンの妻は、侵略した国ローゼンティアから無理矢理攫ってきた人質にも等しい花嫁。会う相手全てに怯え、恐れのあまり言葉が出なくても態度が荒んでいてもおかしくはない。もっとも、そんな風に策略を巡らさずともこのヴァンピルの王子のこの美貌ならば、一言も話さないうちに相手のほうで誤解するだろうが。
 シェリダンは母のことを思い出す。哀れで愚かで残酷な母。可哀想なヴァージニア。いくら権力と財力があっても好きでもない男に連れ攫われ、おまけにその男に両親を殺害され無理矢理妻とされたのだから。
 シェリダンはロゼウスに同じことをしようとしている。彼の家族を殺し、故郷を奪い、連れ攫って犯した。
 だが彼は母ではない。
 シェリダンの腕によって寝台に縫い付けられていた体を解放しようと足掻いていたロゼウスが、ぱったりと力を抜く。顔を横に向けて視線を逸らし、蚊が鳴くような声で告げる。
「……あんたの、好きにしろ」
「では、遠慮なく」
 その美しい横顔に口づけを落す。

 ◆◆◆◆◆

 白い肌を汚すように、紅い口づけの痣を散らす。
 ドレスを脱がさないままその裾から手を差し入れて、もがく彼の中心を無理矢理握り締めた。
「ああっ」
 短い悲鳴を聞いて、のけぞったうなじにまた口づける。鎖骨へと唇を落とし、胸元の紐を解いて露にした白い胸の、赤い飾りを口に含んで刺激してやれば切なく啼く。
「ひっ……あ……や……」
 ドレスのリボンを一つ外して、それで両手を拘束すれば、もう彼は自分で手を使うことはできない。美しい人形のような少女の姿をした少年をシェリダンは好き勝手に弄り回しながら。
「お前、私が初めてというわけではないな」
 気づいたことを口にした。
「はっ、ぐ……何、の……」
「とぼけるなよ。深窓の令嬢かと期待したのに、いやに手馴れている風情ではないか」
 最初はあまりにも無理矢理だった上に相手の抵抗も強固だったもので、あっさりとは気づかなかった。だが、今、自室で落ち着いて肌を重ねてみれば、相手が同性の経験は初めてでないと気づく。シェリダンがどう触れれば自分が快感を得られるか知っている人間の動き。
 さんざん唾液まみれにした薄い胸から顔を上げ、深紅の瞳を覗き込む。片手はまだロゼウスの腿に置いたままで、もう片手を頬を上気させた少年の顔の横に置く。
「お前の反応は、明らかに同性との楽しみ方を知っている人間のそれなんだ。女と寝たことがあるかどうかまでは知らないが、男と寝たことがあるだろう?」
 ロゼウスは目を逸らす。初めての者にとっては恐怖と苦痛だけでしかないまぐわいに、艶めいて啼くほどの余裕は、ある。
 外見こそ穢れを知らない花のような風情でありながら、内面は割と荒波を経験しているというか、なんというか。
「お綺麗な顔をして、とんだ売女だ。今まで何人の男と寝た……?」
「な……っ!」
 ロゼウスの顔に、怒りの朱が走る。眼差しに敵意を込める相手を組み敷き、その肌に影を落としながら言った。
「まあいい。お前がこれまでに誰と寝ていようと、その者の手の届かない場所でこれからは私にだけ抱かれるのだから」
 だが、初物だと思っていたモノにすでに傷がついていたと知るのはあまり愉快な気分ではない。新雪に一番初めに足跡をつけるのは自分だと決めていたのに、誰かに先を越されてどろどろになった庭を見たような気分だ。
 雪のように青白い肌。シェリダンはロゼウスの内股に指を滑らせた。足の付け根に向かうに連れて、段々と彼の顔色が変わる。尖りきった胸の突起を口に含み転がして、幾つもの口づけの痕が散った肌は酷く淫らだ。シェリダンはわざと彼のモノには触れず、柔らかな内股に唇を落す。
「あ、ああ……!」
 ドレスの裾をはしたなく捲り上げて白い脚を露にし、細い肩からはしどけなく肩の布が垂れ下がる。女物の下着を脱がさないまま裾から手を伸ばし、その尻をわしづかみにする。割れ目に沿って指を滑らせると、寝台の上の顔が遠まわしな接触の刺激に溺れるように、熱い吐息を漏らした。
 鬱陶しいぐらいに丁寧な愛撫の後で、ようやく張り詰めた彼自身に触れる。口を使うまでもなく軽く扱くだけで、呆気なく達した。
 脱力した様子のドレス姿の美少年のあられもない姿を横目に、彼の白濁液で濡れた手をそのまま菊座に当てた。
「あっ……や、やだ」
 濡れた指はまず一本目がすんなりとはいかないまでも、順調に入り込む。異物感に、ロゼウスは途端に顔を苦しげに歪める。
「あ、……あ、あ」
 みっともなく足を広げさせ、折れそうな腰をきつく抱いて指を動かすと、グチュグチュと卑猥な音が室内に響いた。
 そして、瞳を潤ませたロゼウスが涙声で。
「いやだ……やだ……ドラクル、ロザリー……」
 助けて、と言いたかったのだろうか。国民を人質に取られていればどうせ下手な抵抗はできない。初めてでもなく、シェリダンに抱かれるのももう二回目で、足掻くのが無駄なことはよくわかっているのだろう。ならば言葉だけでもと?
 室内に小気味良い乾いた音が響く。
「……私の寝台に上がりながら、他の人間の名を呼ぶとはいい度胸だな」
 頬を張られたロゼウスが、突然のことに呆然と眼を瞠っている。
 硬直した彼に構わずにシェリダンは無理矢理二本目の指をねじ込んだ。
「ひぃ!」
 きつい。顔を歪めたロゼウスを眺めながら、それでも指で中をかき回すと、やがては艶めいた喘ぎ声が漏れ聞こえる。頬を赤く腫らして泣きながらも快楽に喘ぐロゼウスの姿を見続けていた、自分もそろそろ限界だ。
 寝台の軋む音がやみ、どろりとした液体が結合部から零れ落ちてくる。ロゼウスが意識を失い、その体から力が抜けた。
 シェリダンは気絶したロゼウスを抱きしめる。
 純白の花嫁を紅い血と白い濁りで穢しながら、言いようのない虚無を感じていた。

 ◆◆◆◆◆

 彼には十二人の兄妹がいる。兄も姉も弟も妹も、たくさんだ。
 彼の名はロゼウス。ロゼウス=ノスフェル=ローゼンティア。ヴァンピル王国ローゼンティアの第四王子。
 ローゼンティア……今はもう亡き、最愛の祖国。昼よりも夜に活気が満ち、薔薇の香りに包まれた吸血鬼の王国。その国で、ロゼウスは十七歳になるまで暮らしていた。愛しい家族と共に。
 そこに痛みがなかったとは言わないけれど。

 ヴァンピルは人間に比べて、かなり長命の種族だ。だから王一人の治世も数百年程と長く、だいたいの者は十五を境に身体の成長がだんだんと遅くなる。ロゼウスもそうだ。同い年であるはずのシェリダンに比べて一つ二つ若く見えるのは、全てヴァンピルの長命のなせる業だ。
 そんな風に身体の成長が遅く寿命が長いから、たいていのローゼンティア人は子沢山で家族が多かった。成長が遅くても、生まれてくるまでの時間は変わらない。その他諸々も。ロゼウスの父であるブラムスはそれでも正妃一人に妾である第二夫人、第三夫人と側室は少ない方なのだが、それでも三人の妻を娶っていたことになる。
 そして、三人の妃たちはそれぞれ王の子を産んだ。子どもの数は十三人。そのうち、正妃の子であるのは第一王子と第二王女、そして第四王子のロゼウスだけ。残りの兄妹は全て第二王妃と第三王妃の子どもだった。
 第一王子ドラクル、第二王子アンリ、第三王子ヘンリー、そして第四王子のロゼウスと、第五王子ミカエラ、第六王子ジャスパー、第七王子ウィル。王女の方はと言うと、第一王女アン、第二王女、ルース、第三王女ミザリー、ここまでがロゼウスにとっては姉となり、後は妹たちだ。第四王女ロザリー、第五王女メアリー、第六王女エリサ。
 それぞれ水面下では深い思惑を携えていたのかもしれないが、それでもロゼウスの眼には兄妹は仲睦まじく映っていた。問題があるとすれば、第一王子と第二王子の小競り合いだろうか。ローゼンティアの王子たちは仲睦まじかったが、王妃たちは国王の寵を争って、かなり衝突したらしい。つまり、第一王子と第二王子を争わせていたのはそれぞれの母親である王妃たちだった。それでも王権に関係のない王女たちはみな気楽なものだったし、第一、第二王子とも健康に優れていたローゼンティア王家ではよっぽどのことがない限り第一王位継承者である長兄ドラクルが父の跡を継ぐだろうと、誰も波乱を予測したものはいなかったが。
 ドラクル……。
 ロゼウスの兄。ローゼンティア王国第一王位継承者。第一王子にして長子であり長兄。母親が同じ兄弟だから、顔立ちもロゼウスと良く似ていた。完璧に女顔だと言われるロゼウスより、ドラクルの方が少しばかりたくましくて男らしかったが。彼はロゼウスより十歳年上だが、成長の遅くなるヴァンピルの常として、ドラクルは二十歳前後の姿をしていた。
 他にロゼウスと顔立ちが似ていたのは第四王女であるすぐ下の妹、十六歳になるロザリーだった。彼女は第三王妃の子どもなのだが、何故かロゼウスと双子のようによく似ていた。
 数多い兄妹たちの中で、ロゼウスがとくに仲の良かった相手はドラクルとロザリーの二人。第二王子のアンリやすぐ下の弟王子ミカエラとも仲がよかったが、特にロゼウスに懐いてくれたのはロゼウスと双子のようだと言われていた妹、ロザリー。
 そして。
『いいこだね、さあ、おいで。私のロゼウス』
 薄暗い室内の入り口で足をもたつかせて様子を窺っていると、ドラクルの声が自分を呼ぶ。大好きな長兄に駆け寄ると、抱き寄せられて膝の上に座らせられた。これは十歳ごろの記憶。
 よくはわからないながらも、ロゼウスはドラクルの手によって服を脱がされ、肌蹴た箇所に口づけを落とされる。その時は意味もよくわからなかった行為に、ドラクルはよくロゼウスを駆り出した。
『そう、そうやって丁寧に……いいこだね。私のロゼウス』
 しどけなく半裸となった兄の膝に手をつき、その股間に顔を埋めて彼のものをしゃぶらされる。始めは苦手だった行為にも、回数を重ねていく内に慣れた。次第に荒々しくなる手つきに、声を出さないよう猿轡をかませて、背中を軽く鞭打つようなことを繰り返す。ドラクルの綺麗な指が、ロゼウスの肌をまさぐって敏感な場所を探っていく。ロゼウスはわけもわからない快楽に泣きながら、これは愛情故の行為なのだと信じ込んでいた。
 ヴァンピルは夜の方が行動が活発だ。だからみな昼間は眠りに入る。ロゼウスと兄の逢瀬は、常に明け方の光が差し込む薄暗く薄明るい時間に行われていた。ある夜、ドラクルに用があって彼の部屋を訪ねてきた第二王女である姉のルースが、全身を汗と体液でぐっしょりと濡らし、疲れきって放心状態になっているロゼウスを見て悲鳴をあげた。すぐに我に帰って人払いをしたが、彼女はそのままロゼウスを抱きしめると、長兄に詰め寄った。
 それから後のことは覚えていないが、どうやらルースの説得は無駄だったらしい。
 そしてロゼウスは、痛みを快楽として感じるように、兄の手で躾けられていった。
 毎朝毎朝、彼との行為に溺れた。最初から逆らえるはずがなかった。ドラクルはローゼンティアの第一王位継承者。同母弟といえど第四王子が、その言葉を蔑ろにできるはずなどなかったのだ。子どもの頃は泣きながら、長じるに連れて自分でもその行為に快感を得ながら、ロゼウスは兄に抱かれ続けた。
『お前、私が初めてというわけではないな』
『お前の反応は、明らかに同性との楽しみ方を知っている人間のそれなんだ。女と寝たことがあるかどうかまでは知らないが、男と寝たことがあるだろう?』
『お綺麗な顔をして、とんだ売女だ。今まで何人の男と寝た……』
 シェリダンの冷ややかで意地悪い声が蘇る。そうだよ、俺はあんたの望む深窓の令嬢なんかじゃない。
 シェリダンと肌を合わせながら、ロゼウスは兄のことを考え続けていた。まだ何週間も経っていないのに、すでに懐かしいローゼンティアを。
『大人しく言う事を聞くんだよ、私のロゼウス……』
 その声は麻薬のように、地の底から湧き、天井より降ってくる。
 まるで鎖。まるで呪縛。
 ドラクルはロゼウスを犯すことで至上の悦楽を得ているようだった。それでありながら、一番大事なときには彼を身代わりにしようとした。
 ふいに、息が苦しくなる。暗闇の奥底で惑いの水に飲まれて浮かび上がって来れない。苦しくて喉を押さえ、必死で抵抗したら自分の首に手をかけていた人物の顔近くに当たったらしく、甲高い悲鳴が上がる。相手を確かめてロゼウスは驚きに目を瞠った。
 第二王妃が、何故俺を。
『消えておしまいなさい! 第一王子! あなたさえいなくなれば、私のアンリがこの国の王になれるのよ!』
 誰が知らせたものか、駆けつけた衛兵に引きずられながら、第二王妃は美しい髪を振り乱し、そう叫んでいた。ロゼウスは言葉もなく凍りつく。
 俺は第四王子ロゼウスだ。
 兄妹の中でもっともドラクルに似ている自分。アンリとは第二王子の名で、彼とドラクルが母親の闘争に引きずられる形で争っていることは知っていた。だがアンリはドラクルと同母の弟の俺にも十分優しくしてくれた。ドラクルとアンリは母親同士が競っているだけで本人同士は何も気にしていないのに。
 ああ、こうして第四王子ロゼウスの存在は忘れ去られていく。
 ロゼウスの首を絞めた第二王妃の目に映っていたのは、継承問題から程遠い第四王子ロゼウスではなく、自分の息子のライバルである第一王子ドラクルだったのだ。
 ドラクルはいつものようにロゼウスを自分の部屋に泊めていた。入ってきた者がロゼウスとドラクルを間違える可能性がないわけではない。だけれど。
 顔面蒼白になって自分に謝るアンリと、姉や妹たちの心配顔。その中でドラクルは一人、人の輪から外れて笑っていた。ロゼウスの怪我が大したことないと知れたその夜もロゼウスを自室に招いて、いつものように自分のモノを加えさせ。
『いい子だね。ロゼウス。お前は本当にいい子だ。痛苦に濡れるマゾヒストで、いたぶられるのが大好きな、淫らな王子』
『ちが……う』
 口を離したロゼウスを軽く睨んで、ドラクルが手を伸ばす。ロゼウスの髪をつかんで、無理矢理再び自分のモノをしゃぶらせ始めた。
 そう、抗いは無駄な行為。ロゼウスがひとたび口答えをすれば、ドラクルは酷く痛めつけた。
 のどを突くモノの苦しさと、濁った白い液体の苦さにロゼウスは涙を流し。長兄の前にだらしなく崩れ落ちた。ドラクルは息も絶え絶えなロゼウスの頭を、今度は優しく撫でながら言う。
『可愛いロゼウス。―――お前は永遠に、私のものなんだよ』
 飴と鞭を使い分ける調教師のように。
 ロゼウスは結局最後にはその声を聞いて、何もかもを彼に許してしまう。
 愛している、兄上。

 泣きながら目覚めた朝は、あの日と違う空を広げていた。


005

 あのシェリダンが、妃を連れて帰って来た、ですって?

 私室で報告を受けたとき、情けない話だがカミラはその場で固まった。ちょっと待って。何よ、何なのよそれは。長椅子の上で体勢を立て直しながら、報告係へと向き直る。
「で、その相手は誰なの?」
 カミラは部下に尋ねる。帰って来た答は。
「ローゼンティア王家の、生き残りの姫君!?」
 カミラは思わず頓狂な声を上げてしまった。信じられない! あの男、自らがその一族全員を屠った相手を強引に妻にしたというの? 生き残りと言うよりは、シェリダンがわざと残しておいたというわけだ。
 顔も知らないけれどその姫に同情する。心の底から。カミラが同じ立場になったら、間違いなく自分で舌を噛んで死んでいる。家族を愛しているかどうかは別として、王族としての矜持を奪った相手の妻になるくらいなら潔く死を選ぶ。
「一体どうしてそんなことに」
「どうやら、陛下はローゼンティア人の命を彼女の身柄と引き換えにしたらしいのです」
 ローゼンティア人、ヴァンピルは白髪に紅い目と尖った耳が特徴の、夜に活動する種族。エヴェルシード人はただの人間で、青や紺の髪に金や茶系、橙色の瞳を持つのが特徴だ。ちなみにシェリダンは夜空の如き藍色の髪に朱金の瞳で、カミラは、濃い紫の髪に金の瞳をしている。このように人種によって容姿の色彩は違うが、個人差も大きい。
 それはともかく、民を助けたくば自分に従えって? シェリダンらしいことだ。シェリダンらしい、えげつないやり方だ。
「シェリダンは間違いなく、その姫を正妃に迎えると宣言しているのね?」
「その通りでございます。宰相に対しても強引に押し切ったそうで。何しろ大層美しい姫君らしく、誰も反対の意を唱えられなかったとか」
 シェリダンやカミラ、そしてヴァージニア王妃の美貌に見慣れたこの城の者たちでさえ圧倒される美貌。一度見てみたいものだ。どんな姫なのか。
不死身の魔物と恐れられるヴァンピル……もしかしてその姫君を味方につけるというのも良いのではないか? ローゼンティアの返還と、シェリダンの暗殺を引き換えに、取引できないだろうかとカミラは画策する。
 どちらにしても、さして侵略する必要もない国を侵略してあっさり勝利しておきながら無理矢理攫ってきた姫君を妻に、それも正室である第一王妃に迎えるなんてシェリダンは愚かだ。そうしてしまえば、もっと他の強国とこれ以上縁戚関係を結ぶことができない。何しろ十三人も子どもがいたというローゼンティア王と違って、二人の父であるジョナス王にはカミラとシェリダンの二人の子どもしかいなかったのだ。しかもエヴェルシード王家は子宝に恵まれない血筋なのか、親戚中を当たっても子どもが少ない。現在未婚であるのは、それこそシェリダン以外ではカミラくらいのものだ。
 そこでふとカミラは考える。ということは、もしかしてシェリダン自身が他国との国交の足がかりに自分自身で妃を迎えることができないとなれば、人身御供として差し出されるのは自分ということではないだろうか? 冗談ではない。
 何とかしなければ。だがいい方法が思い浮かばない。
 カミラは部下に引き続き兄王の動向の調査と先王である父親の捜索を命じて、部屋から出た。少し外の風に当たりながらよくよく考えたかった。しかしこうなると、いずれはシェリダンに挨拶に行かなければならない。数日前にシアンスレイト王城に帰って来たときは、気分が悪いことを理由に上手く会わずに済んだのに。
 カミラと兄であるシェリダンの関係はいつだってこのようなものだ。お互いを避けてそれでいて敵視して。会えば皮肉の応酬となる。
 薔薇の香りに誘われるようにして、中庭へと足を向けた。品種改良された花々は四季の景色を絶え間なく彩っている。これは父の趣味だったのだが、カミラはあまり気に入らない。自然を歪めて自分の思い通りにして喜ぶなんて悪趣味だ。自らが命懸けで崖際の珍しい花を採取して持ち帰り枯れないよう世話するのではなく、お抱えの職人と科学者を協力させて人工的に作り出した造化の美は美しいがどこか薄っぺらい絵のようなもので。あの人は常に何事をも自分の支配下に置かなければ気がすまない人だった。
 だからシェリダンの母親であるヴァージニア王妃の拉致などもできたのだ。特に好きでも嫌いでもないけれど、父上は有能だけれど酷い人間だ。そしてそれはシェリダンも同じ。あの兄だって、父親を心の底から呪いながら、結局は父親と同じことをしている。
 男ってどうしてこんなにも馬鹿なのかしら。女はものじゃないのよ。他人は自分の玩具ではないの。カミラは心の中で父と兄に対し悪態をつく。はじめから全てを与えられていた人間には、カミラのように何も持たずに生まれた人間の血を流すような努力は理解できないのだろう。
 エヴェルシード王妹、カミラ=ウェスト=エヴェルシードは先王の正妃の子どもでありながら、何も持たずに生まれた。
 エヴェルシードは男子の王位継承が普通だ。さすがにシェリダンとカミラしかいないという今この状況で兄であるシェリダンが夭折でもしようものならばカミラを女王として立てるしかなくなるだろうが、それでもシェリダンがいるかぎり彼女が王になることはない。
 隣国であったローゼンティアは、長子、及び正妃の子どもが王位を継ぐのが普通らしい。最悪でも正妃の息子という条件を求めるから、正妃はそれこそ何が何でも男の子を産まなければならない。男でなくても、女児しか生まれなかった場合は正妃の長子が玉座を継ぐ。正妃の子どもが長子でも男子でもなかった場合、その娘と、他の王妃の王子とは決闘になり、買ったほうが玉座に座ると言う。つまりとことん正妃の血を優遇するというわけだ。ローゼンティアは世界唯一のヴァンピルの王国であり、妃も常に国内で募ってヴァンピルの血統を保っていると言うから、それも関係あるのかもしれない。
 だが、エヴェルシードの王位は男子継承が普通だ。男子の長子が王位を継ぐ。この場合妃の血筋は関係なく、男であることと長子であることが重要となる。つまり、第二夫人の息子でも、正妃に息子が生まれない限り王になれる。側室の長子の男児と正室の長子以外の男児ではさすがに正室の子が王位を継ぐが、側室の長子以外の男子と正室の女子では側室の長子以外の男子が玉座に着く。だからどうしても正妃の子に王位を継がせるには、継承者となる王子が生まれるまで王は他の女性とは関係を断つのが一番である。
 カミラとシェリダンは、ある意味一番最悪なパターンだった。
 シェリダンは第二王妃ヴァージニアの一人息子で長子。ヴァージニアはシェリダンを産んで数ヶ月も経たずに亡くなった。カミラは正妃の子どもだが、女で、しかもシェリダンの妹。男子継承、かつ長子継承が普通のエヴェルシードではどうあってもシェリダンが有利だ。
 男である。ただそれだけのことで。
 カミラは女に生まれただけで母に恨まれた。何故男ではなかったのかと。
 母は、あれでも父を愛していたのだろうか。第一王妃ミナハークも、ヴァージニアに負けず劣らずカミラとシェリダンが十になる前に病で早死にしたからもうわからない。カミラは母の顔など思い出せないし忘れてしまいたい。
 彼女の呪いは今もカミラを縛る。ヴァージニアに王の寵愛を奪われ、その息子に王位まで奪われた女の執念。カミラは、シェリダンはともかくヴァージニアは被害者だと思うのだが、母にとっては違ったらしい。
 カミラはどうあってもシェリダンから王位を奪いたい。自分はそのために生まれたのだから。女だけれど、長子ではないけれど、それでも玉座を手にしてみせる。
 そんなことを考えながら歩いていたら、中庭に辿り着いた。品種改良された艶やかで煌びやかな花たちが一斉頭をたれて出迎えるように見えるアーチ。それは父の趣味。奥に行くほど華美とはかけ離れた一角が広がり、カミラが目指すのはそこだった。
 けれど、薔薇園には先客がいた。
「誰?」
 カミラは思わずそう声を上げた。その人は、薔薇園の中心に建てられた四阿で顔を伏せて寝ているように見えた。しかし格好はそれなりに整っていて、貴族の子女かお姫様のように思える。影の中にいるから、髪の色はごくごく薄い色だとしかわからない。ということは、外国人なのか。エヴェルシード人は皆蒼系の濃い髪色をしているから。
 彼女の気配に気づいて、その人がゆっくりと顔を上げる。貴族の女性には珍しく肩までもない短い髪がさらりと流れて、濃い色の瞳が開いた。
 カミラは息を飲む。
 ふらふらとした様子で四阿から出てきたのは、とても美しい女性だった。いや、美しいなんてものじゃない。神が気まぐれに絵筆をとって描いたとしてもこのような美貌は生まれないだろうというほどの、完璧な美。
 新雪の如き白銀の髪、血のように深い紅の瞳。白皙の肌と尖った耳。
 ヴァンピル……ローゼンティア人。
 この人がシェリダンの〈妃〉になる女性なのだわ!
「痛っ」
 動揺のあまり後じさると、薔薇の茂みに手を触れてしまった。品種改良されていない種類はまだ薔薇本来の鋭い棘を持っていて、カミラは指先を深く傷つける。鋭い痛みが一瞬走り、見る見るうちに左手人差し指に血の玉が膨れ上がった。
 仕方がないからそれを地面に振り払おうと指を動かそうとした時だった。
「?!」
 ガシリと腕をつかまれ、彼女は動けなくなる。目の前には、カミラの身体を押さえ込むあの美しい女性がいた。カミラは理由もわからず、本能的な恐怖を覚える。彼女はカミラよりほんの僅かに背が高い。
 そしてその女性は、ゆっくりと慎重にカミラの腕を引っ張り、同時に自らの唇を開いた。
 艶めく深紅の唇が、カミラの傷ついた指先を飲み込む。
「――!?」
 何なの? この人。

 ◆◆◆◆◆

 話は数時間前に遡る。

 シェリダンに抱かれて目覚めた朝はとにかく腰が痛い。というか身体のあちこちが痛い。それはともかく、そろそろ本格的に女装生活に入らねばならないようだ。
「王妃様! 本日のお召し物はこちらです!」
 相変わらずうきうきと誰がどこからどう見ても上機嫌な侍女のローラが、一着のドレスと装身具を持って王の部屋に現れた。目の前で広げられたそれに、ロゼウスは眩暈を覚える。ちょうど寝台にいるので、このまま突っ伏してしまいたい気分だった。昨日の白いドレスも十分華やかなものに見えたのに、本日の衣装はまた一段と凄い。凄いという言葉はもともと恐ろしいという意味があったというが、その本来の意味間違いなく凄い衣装だった。
 肩を出すデザインのドレスは、淡い紅色をしていた。腰は緋色のコルセット状で、ふんだんに使われているレースとフリルもだいたいが緋色。靴は艶めいた漆黒の……なんと言うかわからないのだが、てかてかとした素材だ。妹が昔はいていたものに良く似ている。髪につける飾りも黒のレースに緋色のリボンと薔薇の造花を合わせた物で、確かに美しい。ちゃんとした女性の髪に正しく飾られるのならば。
 ロゼウスがローラの手によってそれらを着付けさせられている間に、シェリダンはさっさと身支度を整えさせていた。すっかり終った頃に、侍従のリチャードが仕事の予定を説明し始め、それを聞きながらロゼウスとシェリダンは小姓のエチエンヌが運んできた朝食をとる。そのメニューを見て、ついでに髪飾りの造花でロゼウスは大事なことを思い出した。
「シェリダン王」
「何だ、妃よ」
「欲しいものがある」
 紅茶を口に運んでいたシェリダンが意外そうな顔をした。エチエンヌが何か言いかけたのをリチャードが横から手を伸ばして封じ、ロゼウスはそちらをちらりと一瞥し、再びシェリダンに視線を戻した。
「俺たちヴァンピルは、言うまでもないがあんたたちとは違う」
「具体的に言え」
「薔薇の花が欲しい」
「薔薇?」
 シェリダンが訝りに眉を潜めた。当然だ。大の男が朝っぱらから突然何の脈絡もなく花が欲しいと言い出すなど。だが人間たちの国でどう思われているのかは知らないが、ヴァンピルは人間と同じ食事だけでは生活を維持できない。生命ではなく、生活を。
「……必要なんだ」
 重ねて頼めば、シェリダンがうろんな目でロゼウスを見る。そうして。
「理由は?」
 何故薔薇など欲しいと言い出すのか。
 ロゼウスは胸中で舌打ちしたい気分だ。できれば答えたくない問だ。
「何でもいいだろう。とにかく必要なんだ」
「言う気はないか」
「なんで俺が自分のことをなんでもかんでもあんたに話さなければならないんだ。俺は確かにあんたとの取引でこの国へとやってきた。だが全てをあんたに売り渡すつもりはない」
「ちょっと王妃様、陛下に対して口の聞き方がなってないんじゃない」
 エチエンヌが自分を睨んでくる。だがそんなことには構っていられない。シェリダンの人質となってはや一週間以上。その間、ロゼウスは全くアレを摂取していない。そろそろ限界が近付いている。
「……理由も説明できないものを渡せと言われても、困るな」
 シェリダンは薄く笑う。
「ではお前は私生活の言葉を持って何もかもを私に要求できる気でいるのか。お前が剣を貸せと言えば私はお前に剣を貸し、お前が私を害するのを喜んで受け入れろと言うのか?」
「な……」
「忘れるな。主人は私。お前の持つべきものは全て私のものだ。それもわからないような者に、わざわざ与えてやるような飴はない」
「鞭だけは遠慮なくくれるくせに!」
「当然だろう。もともとそういう契約なのだから」
 ロゼウスはぎりりと歯噛みする。まずい、このままではシェリダンはロゼウスの頼みを聞いて薔薇を集めてくれることはないようだ。
「どうなっても知らないぞ! 俺に薔薇を渡さないと言う事は、剣を差し出すよりよっぽど危険なことなんだからな!」
「ほう。それは楽しみだ」
 それ以上ロゼウスを相手にするのは時間の無駄とでもいうように、シェリダンは紅茶の最後の一口を流し込むと、優雅な動作で席を立った。エチエンヌとリチャードがつき従う。
「陛下、宰相との会議がすぐに」
「ああ、わかっている。すぐに行く」
「シェリダン!」
 さっさと部屋を出て行こうとする後姿にロゼウスは声をぶつけた。シェリダンはじれったいぐらいにゆっくり振り返るとロゼウスを見つめて口の端を三日月に歪め、こう告げた。
「それを得て、お前は私に何を差し出す? ロゼ」
「あんたな!」
「当然のことだろう。でなければ、今度は何をしてくれるのかな? 我が妃よ。それができないのならばもう黙れ。気が向いたら薔薇と言わずこの国中の花々をいずれはお前のために集めてやる」
「そういうことじゃない! 俺が言っているのは……!」
「薔薇を与えずにお前を野放しにしておくとどうなるか? か。いいだろう。どうにかなってもらおうじゃないか。その姿を私に見せろ。跪いて乞え。泣き喚いて頼み込め」
 もちろんそんなことができようはずもない。
「お前がどうなるか、楽しみに待っているぞ、ロゼウス」
 廊下の向こうへとシェリダンの姿が消える。

 ◆◆◆◆◆

 頭がぐらぐらする。歩みは千鳥足のようによろけていて、壁にもたれなければまっすぐに進むこともできない。
 侍女としてついて行くというローラの申し出を何とか断って、ロゼウスは城の中を散策していた。いや、実際は散策などという優雅なものではない。ロゼウスは薔薇を求めて城中を彷徨っていた。
 これは血を求めて彷徨う吸血鬼の習性。
 これ以上体力を消耗するのも辛いが、部屋で針仕事や内職をしながらロゼウスの世話をするローラを見ていると、いっそう落ち着かない。体中が飢餓を訴え、気づけば指先を彼女の方へと伸ばしている。
「どうしたのですか? ロゼ様」
 やわらかなその肌に気づけば触れていて、きょとんとした目を向けられた。手元の針を置いて、彼女はロゼウスへと向き直る。女装を手伝ったのは彼女だからロゼウスが男であるということをよもや忘れると言う事はないが、そう言った類の危険は彼女も感じていなかったらしい。当然だ。ロゼウスが今抱えているのはもっと切羽詰った感覚。
 金髪の美しい侍女の、ローゼンティア人ほどではないが白く透き通るような肌。触れた頬のやわらかな感触。細い指先。つぶらな緑の瞳。
 いいや。そんなことじゃない、自分が囚われているのは。言い直そう。若く美しい少女の噛み付きたくなるような首筋。引き裂きやすそうなやわらかな頬。切り取って咥えるのに丁度良さそうな華奢な指。抉り取って口の中で転がしたくなるような目玉。
 ロゼウスはどうしようもない飢えと渇きに襲われている。
 思ったよりも空腹は差し迫っていたようで、長くこの部屋にいれば彼は真っ先にローラの首筋へと噛み付くだろう。何とか彼女を誤魔化し説き伏せ言い置いて、ロゼウスはシェリダンの部屋を出、城の中央へと向かった。何処の城にも庭園はあるし、シアンスレイトのこれだけ立派な城の庭に薔薇の花がないということもあるまい。
 だが、庭園への道行きは思ったよりもきつかった。シェリダン王の花嫁がローゼンティア人のヴァンピルであるということがすでに城中に伝わっているらしく、通りがかりの使用人から驚きや訝りの視線こそ向けられても呼び止められることはなく、城の中を歩けた。だが行動範囲の広さに、体力が追いつかない。一歩歩くごとに深まる飢餓感が頭から爪先まで痺れさせ、視界を暗くしていく。やっと庭園に辿り着き薔薇の花を見つけたときには、もう息も絶え絶えと言った状況だった。
 なのにこの庭の薔薇は。
「食べられない……」
 ロゼウスは四阿にへたりこんで、絶望の呻きをもらす。先程傍らの茂みからちぎり取った花をよくよく眺めれば、ローゼンティアでは見たこともない種類だ。確かに薔薇ではあるがその色、香りともに珍しく、どこかで品種改良された種類なのかと思う。
 やっとここまで来れたのに。こんなことはあんまりだ。そう考えるが、刻一刻と滑り落ちる砂のように力が抜けていくのを感じると、もはやどうでも良くなってくるのも本当だ。このまま本性を晒し城中を地獄に陥れてもかまわないのかもしれない。ローゼンティアの民には可哀想なことをするかも知れないが、彼らだとていつまでも自分を抑えてはおけないだろう。いっそこのまま全てのヴァンピルが欲望に忠実になればいいのかもしれない。
 世界なんて壊れてしまえばいい。
 暗い感情に泥沼のように浸りながら瞳を閉じる。身体に力が入らない。ぐったりと四阿の台座に身を預ける。いよいよ意識が遠くなる。だが。
「誰?」
 鈴を転がすような声が聞こえた。
 ロゼウスはのろのろと顔を上げ、そちらへと視線を向ける。若い女性の声。
 視界に映った人を見て驚いた。
 なんて愛らしいのか。いかにも貴族らしく長い宵の濃紫の髪に、猫科の獣を思わせるような黄金の瞳。髪と対になるようにしたのか、纏うドレスは薄い紫、腰には濃い紫のリボンで宝石が留められている。両耳のピアスは小さな金色の雫だ。
 けれどそれよりも今は。
 やわらかそうな白い肌の、美しい若い娘。
 ああ、なんて。
 なんて美味しそうな。
「痛っ」
 ふらふらと夢見心地で四阿から出て、弱った身体を刺すような陽光に身を晒す。ロゼウスの姿に驚いたその娘は後退り、近くの薔薇の茂みに指を指して傷つけた。
「?!」
 ああ、もう駄目だ。甘い香りの誘惑に抗えずにロゼウスは彼女へと掴みかかる。驚く少女は抵抗もできず、彼はその細い指に無理矢理喰らいつく。
「――!?」
 少女は音を立てずに悲鳴をあげ、ロゼウスはその細い体にのしかかり指先から流れる血を舐めとった。舌の上に広がる鉄錆の香りに初めて安堵する。あらかた血を嘗め尽くし、もう何の味もしない指を離して、ようやくまともに息が継げるようになる。
 そして気づいた。自分がただいまとんでもないことをしたことに。相手は驚きすぎて口をぱくぱくと開いては閉じている。その格好を見れば、どう見ても侍女ではない。貴族らしき整った身なりの美しい娘。
 この女の子、誰?