砂漠の星と魔術師

 1.

 さぁ、君は今日から魔術師になるための勉強をするんだよ。
 砂漠の国の辺境、日干し煉瓦の家が立ち並ぶ下町、暗い灼熱の路地裏で死を待つばかりだった薄汚い孤児の少年にそう声をかけたのは、身なりは普通なのにどうにも怪しい雰囲気が漂う男だった。
 後で知ったところによると、男は魔力を持ち、街中で魔術の才能を持ちながらそれを知らずに生きている者を魔術師の世界へと引き込む勧誘者であり、同時に貧しい家から子どもを買い取る人買いでもあったらしい。見るからに寄る辺ない孤児である少年は、男にとって金を払わずに手に入る強大な魔術師の卵ということで、とても都合が良かった。
 黄の大陸の北部はかつて創造の魔術師が渡ってきたという伝説があり魔術師が恐れられている。そして砂漠地域を含む南部では、そもそも魔力を持つ人間自体が生まれにくい。
 しかし、だからこそ魔術師を「売る」闇ブローカーたちにとっては砂漠地域は他でもない宝の山と言えた。遥か昔に白砂を血に染めて暴れ回った魔王ラウズフィールもすでに伝説と化した今、砂漠地域の魔術的勢力は変革期を迎えようとしている。国家は魔術師を重用することを政策として打ち出すが、そもそも他国からわざわざ南東の砂漠くんだりまでやって来てくれる高名な魔術師もいない。
 そこで人買いたちは魔力を持つ子どもたちを探し出し、教育を施してから貴族に売った。貴族は売られた子どもを買う。中には無理矢理両親と引き離されて売られた子どもも中にはいたはずだが、その頃の王国にそれを気に止める者はいなかった。たとえ魔力を持っていても、制御を知らなければただの子どもと同じ。人買いたちは何人もの子どもを買い、教育し、売った。少年は後にその中の一人となった。
 男は少年に名を問う。昨日から水の一口も飲んでいないからからの喉で少年は答えた。
「ザッハール」

 2.

 特に魔力が強いからお勧めですよとかなんとかいう声を聞き流しながら、ザッハールはひたすら床に頭を擦りつけていた。正確にはそうするよう隣の男に頭を押さえつけられていた。
 ベラルーダの先代国王がまだ健在の頃、彼は兼ねてからの予定通り王宮に売られた。人買いたちにとって幸運だったのは、元手タダ同然で手に入れた路上の孤児が存外に強い魔力を持っていることだった。この子は孤児で私どもが教育し云々というあながち嘘でもない言葉を王に説明しながら、ザッハールを売りつける。
 ザッハールの魔術師としての修業はそこで終わらず、鍛え上げればもっと優れた魔術師になるだろうとの話から国外に留学させられることとなった。その前に一度王宮を見せて愛着を覚えさせようだのなんだのという話になり、ザッハールは気づけばベラルーダ王の案内により王宮を見学させられていた。廊下を歩きながら王は先程買い取ったばかりの子どもであるザッハールに語りかける。
「先代の魔術師長はすでに高齢でね……遅くても十年後には辞職すると申し出られてしまったんだ。君には何としてでも、できれば十年以内に魔術師となってこの国に戻って来てもらいたい」
 難しい話はその頃の彼にはわからなかったが、とにかく自分が必要とされているらしいということはなんとなくわかった。他国からしてみれば小国と言えど、砂漠地域においてはそれなりの権力を持つベラルーダにも魔術師が少ないという弱点がある。これまではそのことが偏見や古い格式に縛られず自国の力を伸ばす利点となったが、段々とそうもいかなくなってきた。
 ベラルーダは隣国プグナと何かにつけて争っているが、数年前からついに領土をかけて国境線で小競り合いを繰り広げるようになった。この隣国プグナの王妃アラーネアは魔術師であり、五年ほど前に王との間に娘を一人生んでいる。どうやら夫婦仲が悪いらしく王妃自身が戦場に出てくるわけでもないのだが、隣国の脅威をみすみす見過ごすわけにもいかないと、ベラルーダは魔術師の育成に力を入れることにしたらしい。
 ザッハールに今すぐ優れた魔術師になれと言うことはないが、他にも次代の魔術師長候補は何人も集められていて隣国に対抗できるだけの魔術師戦力が揃えられようとしている。幸いにもベラルーダの王子ラウルフィカとプグナの王女は同い年。十年程ベラルーダが持ちこたえて勢力の均衡に努めれば、いずれはラウルフィカ王子と隣国の王女を結婚させて、自然な形で和睦に持ち込むという案もある。
 父のような年齢のベラルーダ王はそんな話をしながらザッハールを連れて、王宮の中を案内してくれた。宮殿に上がるこどなど一生ないだろうと考えていた孤児の少年にとって、小国とは言えベラルーダ王宮の中はきらびやか過ぎた。
 まず建物が当たり前だが日干し煉瓦ではない。入口はただの布でなく透かし彫りの入った樹の扉がついていたりするし、人々の衣装も豪華だ。柱には砂漠の民の信仰の元であるイシャルー神殿と同じだという精緻な紋様が彫られていて、天井にもまた古き神々の神話を元にした絵が描かれていて見る者の目を楽しませる。中庭にはこの地域では滅多に育たない花まで植えられていて、甘い香りを人々に届けていた。
 興味がないわけではないが眠たくなるような王の話に、見慣れない珍しい美しいもの、きょろきょろと辺りに視線をやっていたザッハール少年はそこで気づいた。
「……やべ、迷った」
 いつの間にか彼は、王宮の廊下に一人きりだった。

 3.

「おやおや坊ちゃん、見ない顔だね。お困りのようならわしが何か売ってさしあげ……あ、何故逃げる?!」
 まるまると太った肉団子、もとい肉だるま系の怪しい商人から逃げたところで、ザッハールは完全に王宮の中で迷ってしまった。多忙な国王の時間をとらせておきながら、その王様を見失って迷子というこの体たらく、十三にもなって間抜けにも程があるが、なってしまったものは仕方がない。なんとか王様を見つけだすしかない。
「だからナブラ卿、フェルネ運河の河川に関しては」
「いいえ、ゾルタ。いくら宰相家の嫡男殿の仰ることとは言えこれは譲れません。あの工事に関しては例の業者に一任すべきで」
 速足で王宮の廊下を歩く貴族青年二人組は、何やら難しい話をしているらしくその形相も真剣すぎて迂闊に声をかけられなかった。まだ二十歳前後だろうに、二人ともすでに政治家の顔をしていたのだ。あの会話に割り込むのは勇気がいりそうだ。
 少し歩いて次に見つけた人影はこれはこれでまた厄介そうだった。たくましい体つきの赤毛の少年に、ザッハールより少し幼いくらいの茶髪の子どもが食い下がっている。
「ミレアス准尉、訓練を勝手に抜けだされては困ります! ジュドー将軍閣下が探していらっしゃいましたよ!」
「うるっせーぞ坊主。ああ? お前、確かジュドー親爺のところのカシムだったか。俺と対等な口聞きたきゃ、俺様に剣の腕で勝ってから言いな」
「無茶言わないでくださいよ! 今の僕……私とあなたではまるっきり大人と子どもの体格差じゃないですか! 私だって成長したら、ミレアス准尉くらい倒してみせますよ!」
「言ったなこのガキ」
 二人はぎゃーぎゃー喚くだけ喚くと、ザッハールのことなど気にも留めず歩いていった。仕方がないので彼は再び歩き出した。
「あぷっ」
 その膝に何かが当たる。
「あうー、だぁれ?」
 ぽすっと気の抜ける音と共に彼の膝にぶつかってきたのは、小さな黒髪の子どもだった。小さな……というか本当に小さい。まだ五つかそこらだろう。ぷくぷくとした頬は、そのくらいの歳の頃は食べるものにも困ってがりがりに痩せこけていたザッハールとは対照的だ。
「おにいちゃん、だれ?」
「俺は……」
 彼が答えようとしたところで、知った声が子どもの名を呼んだ。
「ラウルフィカ! どこに行った!」
「あ、ちちうえ!」
 きゃらきゃらと笑って子どもは国王のもとに駆けていく。王様の腕はしっかりと子どもを抱きかかえた。それはザッハールの知らない、家族の光景。
「ああ、なんだザッハール。君はこんなところにいたのか」
 ザッハールがやはり何も言えないでいるうちに、王様が笑顔で歩み寄ってきた。彼が子どものことについて聞く前に、子どもの方が父親の腕の中から手を伸ばして尋ねて来た。
「ちちうえ、このおにいちゃんだれ?」
「彼はザッハールだ。ラウルフィカ、お前の魔術師だよ」
「わたしの?」
 王様が言った途端、子どもはきらきらとした目でザッハールを見つめて来た。王子様のきめ細かな肌とは似ても似つかないざらざらに荒れた頬へと手を伸ばしてぺたぺたと触って来る。
「わたしのまじゅちし!」
 舌足らずな声で叫ばれて、ザッハールは心臓がどくんと跳ねるのを感じた。

 4.

 将来的に仕える相手を一目でも見ることができたというのは、ザッハールにとって良い目標となった。
 可愛らしい黒髪の王子は、ザッハールに早く国に戻って来いと言った。とはいえザッハールはラウルフィカ王子と他に何を話したというわけでもなく、国王が王子をすぐに連れていってからは、姿を見かけることすらなかったのだが。
 ザッハールにとってはそれだけで十分だった。気がつけば町の片隅で死にかけていた、誰にも必要とされない野良犬。それが今までの自分だった。小さな子どもの目の前の玩具に対する興味と同じような形でも、誰かに必要とされ、気にかけてもらえるというのは嬉しかった。
 ラウルフィカ王子に魔術師として再び会うことが当面のザッハールの目標となった。魔術師を養成する学院で、彼は見事に成績を上げていった。主席とその次席には天才と秀才と呼ばれる少年たちが常に座っていたので名前が挙がるようなことはなかったが、学年で常に五番手程度の位置を守り続けていた。
「やぁ、ザッハール」
「アリオスか。なんだよ」
「君の薬草コレクションを貸してもらおうかと思って。生物学に関しては君の右に出る者はいないからね」
「……アリオス。人を褒めてさらりと誤魔化そうとしたみたいだが、シファに惚れ薬を盛る相談には乗らねーからな」
「あ、バレた?」
 エトラ学院での生活はそれなりに楽しかった。貴族から孤児、下手をすると逃亡途中で魔力を発揮した前科者まで雑多な人間が詰め込まれている学院での経験は、ザッハールの世界を広げた。それはあくまでも彼自身がそう思っていただけに過ぎないけれど、砂漠地域以外の土地や人々のことを学ぶ機会になったのは確かだった。
 しかし同時に、ザッハールはこの学院で初めて壁というものにもぶつかった。生きるか死ぬかの問題とはまた違う、自分という存在の生き方そのものに対する壁だ。
「お主の能力はここまでじゃな」
「……って言うと」
「第五階梯の魔術師。ただの魔術師としては優秀だが、上には上がいくらでもいるというところだ」
 三分野以上で第四階梯までを修めれば魔術師を名乗れる。だが他国で宮廷魔術師を名乗る者たちは、第六階梯の魔術師と呼ばれる者たちが多い。
「俺に足りないのは努力ですか?」
「いや、むしろ才能だろう。お主はこれまでようやった」
 教官の言葉はザッハールにとっては慰めにもならなかった。ちりちりとした焦りのようなものが首筋を焼く。
 ザッハールは同じようにベラルーダの宮廷魔術師候補として連れて来られた孤児の中では、群を抜いて優秀だった。しかし友人のアリオスなどは生来の魔力容量が少ないと言われる不利をセンスで埋めて、ザッハールと同じく第五階梯の魔術師の名を得た。そして次席のアリオスの上を行く、何年も飛び級して彼らと同学年まで昇り詰めた天才と名高いシファ少年は、第七階梯を修めて遂に「界律師」の称号を得ようとしている。
 魔術師の中でも頂点に立つ能力者が「界律師」。魔術は究めれば「界律」と呼ばれるものを使えるようになるのだという。しかし界律師はなろうと思ってなれるようなものではない。ある段階を越えれば自然と到達できるというが、その段階とは「人間の限界」だとも言われている。
「ベラルーダの方ではお前を宮廷魔術師長として引き取るつもりなのだろう。心配せずとも、お前の実力なら十分にこなせる」
 だが、ベラルーダ王が――いや、ラウルフィカ王子が少しでも魔術師というものに対して興味を持ち、もっと優秀な魔術師を必要とすればそれこそ代わりはいくらでもいる。界律師はいなくとも、第七階梯の魔術師、それどころか第六階梯の魔術師にすらザッハールは敵わないのだ。彼は所詮第五階梯。学院で学ばずとも神殿の司祭が聖職者としての奉仕活動の傍らで得た治癒魔術が第四、第五階梯程度に達することを考えれば、なんとも中途半端な位置だ。
 魔術師の実力に関しては、一口で計ることはできない。術の相性というものもあるし、それこそ多岐にわたる魔術の分野のどれをどこまで伸ばしていくかという問題もある。
 ザッハールの強みはほぼすべての分野で平均的に第五階梯まで修めた秀才型の魔術師であるということだ。単発で大きな術を使うには向いていないが、その代わり二、三分野にまたがる高度な複合魔術が使える。
 火を出して大地を焼き払ったり水をうねらせて津波を作るような、これぞ魔術と言った大技にはまったく向いていない。しかし、生き物の精神を乗っ取り勝手に身体を使うような傀儡の術、遠く離れた相手と会話を交わす伝心の術など、威力は弱いが応用力が必要な術を得手とする。
 界律師の教官、及び天才シファ少年辺りに言わせれば、これらの能力はかなり「界律」に近いのだという。ザッハールは期待されていた。魔力量も決して少なくはないのだし、一線を越えれば恐らく界律師になれるだろうと――。しかし結局、ザッハールが人としての限界を突破することはなかった。
 もしも必要ないと、いらないと、言われてしまったら。
 そうしたら……どうすればいいのだろう。
 第五階梯の魔術師なら、それこそどこででも生きていけるし、出世できる。けれどザッハールは喜ぶことはできなかった。彼はベラルーダの宮廷魔術師に、ラウルフィカ王子の魔術師になりたいのだ。
 不安を抱えたまま学院を十八で卒業し、ザッハールは再びベラルーダへと戻った。

 5.

 例え実力が伴わずとも、みすみすその座を誰かに渡すのは許せない。
 期待されていたよりは実力がないと言われて一度は落ち込んだザッハールだが、そのまま諦めるわけにはいかなかった。ベラルーダに戻り遠目に成長したラウルフィカ王子の姿を見ると、もはやたまらなくなった。ラウルフィカが成人するまでになんとか宮廷魔術師長の座につくことを考える。
 ザッハールが選んだのは、自分以外の人間の力を借りることだった。エトラ学院で某国大臣の息子であるアリオスと出会って知ったことだが、世の中には恐ろしいくらい巧みに相手の才能を見抜き利用することができる人間がいる。そういった人間に認められれば、ザッハールの中途半端な力も使い道があるに違いない。
 そして彼が手を組んだのは、将来の宰相と呼ばれているゾルタだった。
「ふん……なるほどな」
 実力を示さなくてはならないザッハールとは違い、将来ほぼ確実にラウルフィカの宰相となることが決まっている世襲宰相家の子息は、ザッハールの話を興味深そうに聞いていた。
「面白いぞ。ザッハールと言ったか。魔術師なんぞ書物を恋人にして俗世の欲など無縁の顔をした生き物だと思っていたが……そういうことなら、協力してやろう」
 この頃からすでに腹黒い企みの数々を行っていたゾルタにとって、ザッハールの能力は有用だった。ザッハールとしても、貴族の後ろ盾は見つけねばならなかった。王国に売られた魔術師の子どもたちは、国が人身売買を公然と行うわけにもいかないので皆表向きどこかの貴族の養子となる。
 そしてザッハールはゾルタに協力する見返りに、宮廷魔術師長になれるようゾルタに口を添えてもらった。そういった関係がザッハールとゾルタの間にはすでにできあがっていた。
 宮廷に出入りするようになれば、またこれまでとは違った人間関係ができる。ゾルタの他にも、ザッハールは様々な人間と交流した。ゾルタとは古い付き合いだというナブラの企みにも協力させられたし、時折国一番の商人だというパルシャなども顔を出した。
 魔術師と戦士は相容れない生き物だなどと言われることもあるが、ミレアスとは貴族的な気取った態度をとらない者同士ということで気があった。もっとも単に元から孤児であって宮廷の礼儀作法が身についていないだけのザッハールと、それなりにいい家柄の出でありながら粗野で知られる変わり者のミレアスとは少しばかり事情が違ったが。
 ついでに言えば気が合うからといって常に仲良しこよしだったわけではなく、やはり随分喧嘩などもしたのだが。
「で、お前の憧れの王子様はどうだったって?」
「ああ……忘れられてた」
「だろうな」
 ゾルタについて宮廷を歩くうち、何度かラウルフィカ王子と顔を合わせる機会も合った。しかし五年前にたどたどしくザッハールを呼んだ少年は、ものの見事に彼のことを忘れ去っていた。ザッハールはまたしばらく落ち込んだ。
「五歳児の記憶に、んな大層な期待をしてんじゃねぇよ」
「そういえば俺、陛下に連れられて王宮を歩いた時にお前らしい赤毛を見た気がするんだが」
「ああ? んなの覚えてねぇよ」
 ザッハールが十三歳のその頃十六歳だったはずのミレアスはあっさりとそう言い放った。
「で、いけそうなのかよ。宮廷魔術師長は」
「ああ、なんとかな」
 ゾルタの見事な手腕と言うべきか、たまたま両者の能力がかみ合ったのか、ザッハールは自分で考えていたよりも随分早く、宮廷の魔術師たちの中で頭角を現した。ラウルフィカの成人にも余裕で間に合うどころか、その頃には盤石の地位を築けるだろう勢いだ。
 しかしその予想は彼にとってはいい意味で、そしてラウルフィカにとっては人生最大の不幸により外れることとなった。
 ザッハールが宮廷魔術師長の地位を得て間もなくの頃、不慮の「事故」により国王が亡くなり、ラウルフィカ王子は成人までまだ五年もある僅か十三歳での即位を余儀なくされたのだ。

 6.

「ってなわけで、俺は孤児から魔術師になったんです」
「そう」
 これまでの経緯と言おうか、ザッハールの半生を事後の睦言代わりに聞いたラウルフィカの反応は薄い。
「そう、て。それだけですか? 俺がこんなにも陛下への深い愛を示しているのにー」
「私が物心もつく前の子どもだった頃に顔を合わせて、その頃から勝手に人を目標にしていたことが?」
 取引を持ちかけた当初からラウルフィカを好きと公言してはばからないザッハールに、ラウルフィカはどこか冷めた目を向ける。常識的とは間違っても言えない関係の始め方をしたラウルフィカにとっては、ザッハールはこちらが可愛がってもいないのに一方的に懐いて来る大型犬のようなものなのだろう。完全に無碍にはしないが、基本的に鬱陶しいというような。
 そんな予想にたがわず、次のラウルフィカの一言は大層辛辣だった。
「はっきり言って、気色悪い」
 はっきり言い過ぎです陛下。
「陛下、繊細な我が心が血を流しているんですが……」
 ザッハールは胸を押さえてよよと泣き崩れる真似をした。実際泣きたい気分であるが、ここで泣いてもどうにもならないので代わりに腕の中のラウルフィカをぎゅっと抱きしめた。
 案の定鬱陶しいだの暑苦しいだの文句が出るが、ラウルフィカが無理にザッハールから離れようとすることはない。単純に面倒くさいのでそのまま枕代わりにされているだけかもしれないが。
 ザッハールにとって今のこの状況は夢のようだ。小国とはいえ、仮にも一国の主であるベラルーダ王が彼の腕の中にいるのだから。ラウルフィカが王になるということを、昔のザッハールは特に深く考えていなかった。ただ、ラウルフィカが大きくなる頃には自分がその傍にいたいと思っただけで。
 彼があの時見た可愛らしい子どもはあどけない少年時代を過ぎて、類稀なる美しさを誇る青年へと成長しようとしている。
 野心の始まりは本当にあの時だったのだろうか。ラウルフィカ王子の傍に行きたいと思ったことは事実。しかしあの頃はまだ、それがこんな形で果たされるようになるとは夢にも思っていなかった。ただ傍で――ラウルフィカを見ていられれば幸せだったのだ。
 それが触れたい、口付けて、その華奢な身体を抱きたいと思う欲望に変質していったのは本当に自然な流れだったのだろうか?
 ゾルタから企みを聞かされた時、他四人の行動を自分一人では抑止できないと考えたザッハールはゾルタに取り入ることにした。そこには確かに、そうしてラウルフィカにもっと近付けるという黒い計算が存在した。
 現状でラウルフィカの唯一の味方と言っていいザッハールだが、誰よりも大事な相手に信用されていないのは仕方のないことだった。好きだ好きだと口にしながら、そこにあるものはラウルフィカが求め、理解できるような純粋な想いではなく、もっとどろどろとした醜いものなのだから。
 だから――その結末は当然のことだったのかもしれない。

 7.

 美しい花に棘があるように、燃え盛る炎に触れれば手が焼けるように、近付いてはならないものに近付き過ぎた者には当然の罰が下される。
 ラウルフィカがアラーネアを連れ帰ってきた時、ザッハールはもう潮時なのだろうなと感じていた。プグナの王妃が優秀な魔術師だと大昔に聞かされたことをザッハールはこれまですっかり忘れていたが、今回の戦いで自分の術を彼女に破られた時に、その実力は彼には太刀打ちできないものなのだと充分に痛感した。
 そんな優秀な魔術師を手に入れて、ラウルフィカが決して好きで傍に置くようになったわけでもないザッハールをそのままにしておくわけがない。
 腹に埋まる刃の冷たい感触と共にザッハールはそれを実感した。
「は……はは」
 視界がかすみがかるのを感じながら力なく笑う。
「やっぱり……赦してはくれないんですね。ミレアスもナブラ卿も死んだんだから……当然かぁ」
 ラウルフィカは凍りついたように無表情なままこちらを見つめてくる。こんな時だというのに、返り血で頬を濡らしたその姿でさえ美しいなと彼は思った。
「でも……仕方ないな……離れりゃ良かったのに……俺が、傍にいたかったから……」
 これは当然の罰なのだ。ラウルフィカを見ているだけで幸せだったのに、近付き過ぎたザッハール自身への。出会いとは言わないが、この関係の始まりがもっと違うものであったなら、永遠に肌を重ねることはなかったろうが、少なくともこんな終わり方を迎えることだけはなかったに違いない。
「私はお前を憎んでいた」
 ラウルフィカは静かに口を開いた。
「私はあの時に死んでしまいたかったのに、お前が私をこの世界に引きとめた。お前が私の一番近くで私を支え続けた。汚濁に塗れてでも生きていろと、私を縛った」
 何故か泣きそうな声だとザッハールは感じた。だけどそれはおかしい。ラウルフィカが自分を殺すのに、彼の方が悲しそうだなんて、そんな話はない。それでも。
「お前は永遠に、私のものにはならないんだ」
「は……そりゃ逆でしょ……陛下こそ……俺の物には……」
 なってくれないくせに、と。恨みがましく囁いた。
「ラウルフィカ……」
 それでも、愛していた。愛してた。
 彼が自分を受け入れながらも心の奥底でまだ赦していないことも知っていた。求めながらも拒絶され、本音の裏には後ろ暗い想いがあり、けれどラウルフィカにとって、自分といる時間がほんの少しでも安らぎになればザッハールはそれでよかった。
 傷つくほど近付きすぎてでも、傍に行きたかったのだ。
 だが今、彼は離れていく。白い踵が踵を返して、血溜まりの中に倒れ伏す彼から離れ行くのをザッハールは黙って見ているしかなかった。
 否、もう見ているとも言えない。視界は半分以上黒く霞がかっている。
 行かないで、と一言言えればどんなに幸せか。
 行かないで。もうそれ以上は何も望まないから。
「……面白いね」
 急に、耳に聞こえるというより直接頭の中に響いたその声は、ラウルフィカよりもっと歳若い少年のもののようだった。
 刺された腹部の痛みを感じない。しかし、傷が癒えたわけではなさそうだ。生と死の狭間、罪深い人間が死後赴くという永遠の夜の国で、ザッハールはその声を聞いた。
「君は、面白いよ」
 皮肉なことだ。その存在の目に触れるのをあれだけ望んだ学院時代には見向きもされなかったのに、今、こうして人生が終わるはずのほんの隙間にその姿を現すなんて。
「辰砂、創造の魔術師……」
「当たり」
 見た目は白に近い銀髪の、十四、五の少年だ。ザッハールには馴染みがなければ理解もできない西国の奇抜な衣装を身にまとっている。
 かつてこの世界を創り上げた創造神に反逆したという最強にして最悪の魔術師は、その永い不死の生命を、いかに退屈を紛らわすかに懸けているらしい。それは魔術を学んだ者たちの間でまことしやかに伝わる伝説だ。創造の魔術師の目に留まれば、全てが手に入ると。
 どうやらザッハールは、その彼の目に留まったようだ。――退屈しのぎとして。
「君はどうやら“界律”に近しい存在のようだ。だから、少し手を貸してあげる」
 一方的にそうやって助力を貸し付けてきた相手は、ザッハールの傷を癒してベラルーダ宮廷から連れ去る。
 経緯はどうであれ、結局ザッハールはその手を取った。あのままラウルフィカに殺されるならそれでも良かったけれど、できるならもう一度生きて言葉を交わしたかったから。


 後悔はしていない。だが時折複雑な気分になる。
「あのリューシャ王子ってのは、そんなに重要な人物なのか?」
「ああ。何せかつてこの僕と引きわけたくらいだからね」
 創造の魔術師に三年ほど雑用係として引きずりまわされたザッハールは、そうして二度目の運命と出会う。
 彼の愛するラウルフィカ王と、ラウルフィカを利用するレネシャとスワド。ナブラとミレアス、そしてパルシャは死に、ザッハールはこうして姿を消したが、ラウルフィカの人生にはまだまだ苦難が付き物のようだ。プグナ王女を共犯にラウルフィカを再び引きずり落とそうとするゾルタの企みはレネシャとスワドの暗躍で事なきを得たようだが、ゾルタより彼らがマシだとは間違っても言いきれない。
 そんな中、ラウルフィカが出向いているシャルカント南東帝国で起きたごたごたの渦中で、彼は一人の少年と出会った。
 薄紅色の髪に空色の瞳の、妖精のように可憐な少年だ。なんでも黄の大陸に存在するベラルーダとはおよそ世界の反対側と言ってもいい青の大陸アレスヴァルド王国からやってきたという、世継ぎの王子らしい。
 詳しいことは知らないが、創造の魔術師・辰砂はそのリューシャ王子とやらを大層気にしている。そして王子の傍には今、ラウルフィカがいるのだ。スワド帝がリューシャ王子に対して何事かを企むようであれば、自然とラウルフィカも巻き込まれることになるだろう。
 そんな事情を知れば、ザッハールとしては手を出さないわけには行かなくなる。
「ラウルフィカ」
 かつて愛した人――今でも愛している遠い人の名を呟いて、ザッハールは月と星の天蓋に身をさらす。魔術師の里は常に快適だけれど、今は砂漠の熱い風が懐かしい。
 早くラウルフィカに会いたい。この次こそ、刺し殺されても構わないから。
「馬鹿は死んでも治らないというけど、君のベラルーダ王好きも結局治らなかったよね」
 最強魔術師の呆れ声も微笑んで聞く。馬鹿で結構。愛する者に殺されるなら本望だ。
 彼の眼はすでに遠い砂漠の地を向いていた。


 了.もしくは「Fastnacht」に続く


孤独な玉座、王者の夢想

 話で聞いている分には、砂漠地域の小国の一つなど何の興味も感じなかった。黒い肌を持つ金砂漠の民ならばともかく、より内陸に近い銀の砂漠の民は肌の色も他地域と同じように白く、見た目には帝国の人間となんら変わりないという。
 砂漠地域で特に注意を払わねばならない国は二つ、プグナ王国とベラルーダ王国。注意とは言っても、それなりの注意ですむ。砂漠の中では強国に位置するとは言っても、その二国と南東帝国の国力は比べ物にならない。
 プグナは帝国に敵対的で、ベラルーダは友好的。シャルカント南東帝国皇帝であるスワドにとって、この二国にはそのくらいの違いしかなかった。
 その印象がまったく変わったのは、領土問題でもめる二国に発破をかけるべく友好国であるベラルーダを訪れた時のことである。
 宰相の傀儡であると噂される美しき少年王は、その前評判に違わぬ美貌の持ち主であった。
 艶やかな黒髪に、深いオアシスを思わせる碧い瞳。けれど、その中には仄かな憂いと、底知れない深い渇望を抱えている。
 その瞬間、スワドにはわかったのだ。
 この少年は自分と同類だと。

 ◆◆◆◆◆

「――で、お前はそこまでして何が欲しいんだ? 己が欲望のために身体を売り、自国の安寧まで我が帝国に預けて、それで何がしたい?」
「復讐ですよ」
 事後の心地よい気だるさの中、スワドの胸に頬を寄せてラウルフィカは囁いた。毎日皇帝の本気とも悪ふざけともつかぬ口説き文句を鮮やかにかわす少年王は、その実、初日の宴の後からすでにスワドの寝所に侍っていたのだ。
 衆目の前での振る舞いとは逆に、スワドに積極的に自分を売り込んだのはラウルフィカの方だった。潔癖な美しさを持つラウルフィカの、見た目とは裏腹に慣れた媚びる眼差しを面白いと感じ、スワドは彼が友好国の少年王だということを意にも介さずその身を抱いた。
 穢れを知らぬ純真な花のような風情の少年は、いざ肌を合わせてみれば男に慣れた毒婦の振る舞い。その落差に、スワドはたちまち魅了された。
 だがその魅了と言う言葉は、同じくラウルフィカに入れ込んでいるこの国の貴族、ナブラなどとは全く違った意味だ。ナブラにとっては全身全霊で熱を上げているラウルフィカへの恋情は、スワドにとっては「今現在興味のある、自分を満足させる水準を満たした玩具」の意でしかない。
 そしてそれはラウルフィカにとっても同じことであろう。体は深く繋げても、彼は決して本心は晒さない。
 晒さないからと言って、自分がそれを見破れないとなるとまた別の話となるが。スワドは誰に教えられることなくとも、ラウルフィカの瞳の奥の渇望が、銀髪の魔術師に向けられていることを知っている。
 ラウルフィカがそれをひた隠しにするのが虚勢かどうかはともかく、少なくともこの少年王と皇帝である自分は、そのように薄皮一枚で己の本心をさらさず振る舞うところがとてもよく似ていた。
 薄皮一枚というと違うか、そう、例えて言うなら……胸の内側に穴が空いているような感覚。
 スワドはそのような己を自覚している。ラウルフィカも。だからスワドはその穴を埋めるべく煌びやかな宝玉や趣の違う異国の美姫の数々、歴戦の猛者との戦いや貴族をやり込める駆け引きなどで満たすべく生きている。
 だが、ラウルフィカは。
「私の復讐のためには、この国自体を揺らがすことも躊躇いません」
 麗しき少年王の笑みは不思議な儚さと鮮やかな毒を湛えていた。その可憐な唇が物騒な言葉を吐き、白い手が瞼に触れて血の色の夢を見せる。
 ラウルフィカはスワドとは正反対に胸の奥の穴を、まるで自ら広げるために生きているように思えた。
「そうか」
 スワドは胸にもたれるラウルフィカの腕を引いた。バランスを崩して倒れかかったところを抱き留めると、顎を持ち上げて深く口付けする。
 迷う素振りもなく接吻を受け入れるラウルフィカの冷めた睫毛。
 それを見下ろす自分の冷めた瞳。
 身体は熱く燃えていても、薄皮一枚その下は酷く冷めている。まるで氷のように。
 その氷の下に、スワドは何も持っていない。ラウルフィカはその薄氷の奥に、更に炎を抱えている。
 その炎はいつか氷を溶かし、彼自身を燃やし尽くしてしまうだろう。
 冷めた口付けを交わしながらスワドは思う。自分が見たいのは、それなのだろうかと一瞬考える。だが、何かが違う。
 唇を離して僅かに距離が離れると、近すぎて見えなかったその美しい顔が良く見える。
 底知れぬ虚無を抱えた碧い瞳がスワドを映す。彼の瞳の中には自分が映っている。その自分の瞳の中にはやはり彼が映っている。冷めた眼差しは無限に連鎖する。
「穢れた王の坐す穢れた玉座しか存在しない国ならば、いっそ滅んでしまえばいい」
 そして誰よりも、お前自身が滅びたいのだろう。

 ならば、それをさせまいと私は策を弄する。

 騎士の手で引きちぎられた服から覗く白い肩に、商人の息子がつけた赤い花が鮮やかに咲いている。淡い色の花を思わせる少女のような可憐な容貌のあの少年は、その実ラウルフィカ以上に裏表の激しい毒花だった。
 けれど、彼に対してはスワドはラウルフィカに感じるような熱は覚えない。あれは少年の成りをしていても、その中身はスワドにも引けをとらない雄々しい男だ。危うげもなく罠を張り巡らせる蜘蛛であり、そこに囚われもがく蝶にはなりえない。
 商人の息子の嗜虐的な独占欲の果てにラウルフィカはついに彼自身のものでさえなくなった。レネシャが上機嫌で、カシムが歓喜と罪悪感の入り混じった表情でその部屋を去った後も、スワドだけは空ろな瞳を空に彷徨わせるラウルフィカの傍らに残った。
 項垂れた顎を掴んで持ち上げれば、その拍子に瞳の縁に溜まった涙が滑り落ちた。
 今の彼の目は何も見ていない。
 ただひたすらに虚ろだ。
「どうした? これが望みだったのだろう?」
 お前自身が壊れてしまえば、この国が滅びるのと同じこと。
 復讐が全て終わったと信じ切っていたラウルフィカには完全に不意打ちだったのだろう。この五年間で培った感情の盾も何もかも自分たちは踏み潰して、その柔らかな心を引き裂いた。
 そして流れ出す血の熱さと甘さにスワドは酩酊する。
「全てを壊して、自分自身も壊れてしまいたかったのだろう……?」
 自分とラウルフィカが似ていると最初は考えていたが、もっと自分と似ているレネシャと会ってわかった。それはただの勘違いだと。だってほら、ラウルフィカ相手には、レネシャに対して感じる、あの鏡を見るような嫌悪感を覚えない。
 虚ろな瞳のままのラウルフィカをスワドは優しく抱きしめる。
 ようやく手に入れた。こうまでしなければ手に入れられない。お前はきっとここまでしなければ、私の手の中には堕ちて来ないだろう。
 美しい蝶を手に入れたくてその脚を毟り、翅をピンで留めて標本にしなければ自分のものにできない。そういったところが、スワドとレネシャはよく似ていた。それ故に胸の穴がいつまでも埋まらないとわかっていても、そうした自分を変えることができないところも。
 腕の中に納まる華奢な体を抱き、もつれた髪を手櫛で簡単に梳いてやる。ラウルフィカの唇が何かを呟いたのに気付き、スワドは耳を近づけた。
「――」
 ああ、わかっていたさ。お前が誰を愛しているかなんて。
 小刻みに震えだす体をそっと包んでやる。胸に熱い滴が染みた。
 どんなものでも手に入るのに、本当に欲しいものを欲しいと言えない。それだけは私とお前、本当に良く似ていた。
「それでもいいんだ。私は」
 腕だけは優しく少年を抱きながら、いつもの通りに冷えた胸でスワドは微笑みを浮かべる。
 餓えることには慣れている。渇望こそ我が人生。
 決して満たされることはない。満たされることを望みもしない。
 この世界に『王』は私一人でいいのだから。

 了.


彷徨う剣

 ベラルーダ国王の寝室で明かりが落とされる。ラウルフィカは寝台に浅く腰かけながら、ここまで自分を護衛してきた騎士にやわらかく声をかけた。
「御苦労だったな。今日はもうこのくらいで休む」
「おやすみなさいませ、陛下」
 寝台の横に跪き、ラウルフィカが瞼を閉じるまで見守っていた騎士の名はカシム・レガイン。つい三日ほど前に、国王付きの護衛騎士になったばかりの青年だ。
 彼は主の就寝を見届けると、そっと気配を殺して部屋の外に出た。
 カシムの知る限り、今日これからのラウルフィカの予定は何もない。複雑な立場にいる国王は真夜中であっても宰相やとある貴族の呼び出しで部屋を抜け出すことが多いのだが、今夜においてはその限りではないらしい。寝台に入る時も身構えることなく、落ち着いて眠りに入った様子からわかる。
 騎士としてカシムがラウルフィカの傍近くに侍るようになったのは、その準備期間も含めてここ数日だ。その短い間ですら、ラウルフィカは真夜中の宰相からの呼び出しに、顔を顰めながらも部屋を抜け出したり、自室に彼を迎え入れたりしていた。今日はその様子がなく、カシムは一安心した。
 いくらなんでもそう連日では、ラウルフィカの体力がもたない。カシムは主を守るのには短すぎる己の手の無力さを思いながら、その足を王宮内のとある一角へと向けた。

 ◆◆◆◆◆

「よぉ、カシム卿。どうした、こんな時間に?」
 相変わらず怪しいものに埋もれた部屋で、ザッハールが気さくな調子でカシムを出迎えた。彼の手元にはすでに栓を開けられた瓶があり、一人で酒盛りの最中だったことがわかる。すでに何杯か開けているようだが、ザッハールの顔色に変わった様子はないのが恐ろしい。
「あんたもどうだ?」
「いや、遠慮しておく。仕事の付き合いでもないのに、騎士が宿酔いなど洒落にならない」
「これも仕事の付き合いだと思うがねぇ……ま、いいさ。それなら茶でも出すよ」
 怪しいものに埋もれている割に水回りは清潔感の漂う様子に若干ほっとしながら、カシムはありがたく杯を受け取った。
 宮廷魔術師長ザッハールの住む一角は特別で、城中の魔術師たちが集うその建物は王宮の他の区画とは何もかもが違っている。
 国内の魔術師の頂点という大層な肩書きとは裏腹に、ザッハール自身は気さくな青年だ。カシムより二歳ほど年上で、宮廷魔術師長の地位についたのももう何年も前。有能なはずだが、それらしい威厳はあまり感じさせない。
 それは彼自身の性格でもあるし、彼がその地位についたのが後ろ暗いツテとコネのためだという事情もある。
 孤児であったザッハールは、もともとこの国では珍しい魔術の才を見込まれて貴族に教育された。そこから国内の中枢に入り込み現宰相ゾルタと繋がりを持ち、とある計画に手を貸した。決して実力に不足があるわけではないが、並み居る競争相手を押しのけて宮廷魔術師長という地位を手に入れたのは、そうした策略のおかげもある。
 とはいえ、カシム自身人の地位にどうのこうの言える立場ではない。決して譲れないもののためと言えば聞こえはいいが、国王の騎士という地位を手に入れるために他でもないザッハールに不正を依頼したのはカシム自身だ。
「先日のこと、感謝する」
「改めて口に出すなよ。誰かに聞かれたら困るぜ」
「ああ。だが、もともと最初からあなたのおかげだ。あの時私があの場所を通りがかった――それが仕組まれたものであっても」
 ぴくり、と一瞬ザッハールの手が止まった。しかし次の瞬間には何事もなかったかのように、酒の入った杯を傾ける。
 カシムは尋ねた。
「ザッハール卿。あなたは陛下の味方なのか?」
「宮廷魔術師長は国王陛下の味方さ。それがお役目だからね」
「では、“ザッハール”としてはどうなのだ。あなた自身として、“ラウルフィカ”様にどういった想いを抱いている」
「おいおい、そんな直截な聞き方はやめてくれよ。照れるぜ」
「真面目な話だ」
「それで? 俺があんたの意に沿わない答を口にしたら斬り捨てるのかい? 国王の騎士」
 硝子の杯が涼やかな音を立てる。ザッハールが盃を卓の上に置いたのだ。
「……私にはわからない。どうしてあなたは、あんな今にも壊れそうな陛下を黙って見ていることができるのか、これまでそうしていられたのか」
 それはカシムがラウルフィカの隠された秘密に触れてしまってから、ずっと考え続けてきたことだった。表立って彼を守る護衛騎士は確かにこれまで不在だったが、その代わりカシムが知る限り、いつもラウルフィカの傍にはザッハールが控えていた。
「陛下から全ては聞かなかったのか? 俺は、最初から裏切り者なんだよ。陛下を裏切り、今はゾルタたちも裏切ってる。ただそれだけの、卑怯な男さ」
「それだけではないだろう」
 断言するカシムの強い口調に、視線をどこか遠くに彷徨わせていたザッハールが顔を上げる。
「あなたは陛下を愛している。……なのに何故、あの方を守って差し上げなかった」
 カシムの問いに、ザッハールは皮肉げな、それでいて今にも消えてしまいそうな儚い笑みを返した。
「守るって、どうやって?」
「だから、宰相たちから」
「ゾルタたちの存在を退けて、そうして一人で玉座に取り残されてまた別の貴族に傀儡にされるあの人を見ていることか? それとも、あの人を追い落として自分が王になろうという不届き者を放置することか? それとも――」
「ザッハール卿」
「俺は俺自身の力では、何一つあの人の役に立ってやれない。だいたい、五年前は陛下と俺に面識はほとんどなかったよ。わからないんだ。カシム。俺には、わからないんだよ」
 守るってことが――。
 自らを嘲笑うように告げられた言葉に、そういえばこの人は孤児だったのだとカシムは思い出した。

 ◆◆◆◆◆

 無垢な愛情は、どうしてこうも簡単に下賤な欲望に変わってしまうのだろう。
 穢れのないものを、自らの手で穢すことに喜びを感じてしまうのはどうしてなのだろう。
「陛下」
 触れたくて触れたくて、けれど自分に、そんな資格があるはずもないと否定して。
 しかしその否定の裏で、理性の裏で抑圧されてきたものを、あの美しい金髪の少年が鮮やかに暴き出した。
 そうしてカシムの手元には、罪が残った。
 はじめはただ純粋な忠誠と敬意だったのに、いつの間に自分の心はこんなにも穢れてしまったのだろう。その捩じれ、歪んだ欲望に、ついには誰よりも大切な人まで巻き込んだ。
 人形のように表情を失った青年の唇に、自らのそれを重ね合わせる。柔らかな感触はカシムを恍惚へと誘うが、甘い夢想は彼の胸を弱々しく押し返す腕によって、すぐに打ち破られた。
「陛下……」
 背を向ける彼の首筋にさらりと音を立てて流れた黒髪。カシムはその細い身体を背後から抱きしめた。ぎくりと一瞬強張った肩から、やがて諦めたように力が抜けていく。
 ラウルフィカはカシムにその身を委ねることは許したが、恋人のように振る舞うことは許さなかった。明らかな非難を口に出されたわけではない。しかし、青ざめたその顔を見れば言葉よりも雄弁だ。
 かつて彼の高潔な仮面に騙されて、明らかに嘘をつかれていた時の半分も、今のラウルフィカはカシムに本心を見せてくれない。
 かつて神々しいとさえ感じた美貌にも力はなく、人の退廃的な欲望ばかりを煽る。
 それほどまでに二度目の「裏切り」が彼にもたらしたものが大きかったのか?
 否、それは違うということぐらいは、カシムにもわかっていた。
 かつてのラウルフィカにとっては、レネシャもカシムもスワド帝すらも道具に過ぎなかった。出し抜かれたことを屈辱と感じても、それだけで折れてしまうはずがない。
 ラウルフィカの心を真に打ち砕いたのは、今ここにいない銀髪の青年の存在だ。
 彼がラウルフィカ自身の手で王宮から姿を消した時点で、ラウルフィカの精神はすでにぎりぎりだったのだ。その機会を逃すことなく行動したレネシャの狡猾さにカシムは便乗し、ラウルフィカは抵抗する気力さえなくした。そういう状況だ。
 腕の中の美しい人の温もりに胸が高鳴ると同時に痛めながら、かつて自分があの銀髪の青年に問いかけた言葉を思う。
 何故、あの方を守って差し上げなかった。
 違う、彼はすでに守っていたのだ。ただラウルフィカの傍にいるだけで、あの青年は若き王の支えとなっていた。
 たとえ同じように裏切りから始まった関係であっても、自分にその代わりは務まらない。そのことをカシムは思い知った。
「ラウルフィカ陛下」
 虚ろな碧い瞳を伏せる主君の足元に跪き、カシムは深く首を垂れる。
「お慕いしております」
 愛している。愛している。だけれど、どう愛していいのかわからない。どうすればその身も心も守れるのかすらわからない。
 かつて自分が魔術師を責めた問いが、今は全て自身に跳ねかえる。この世の全てから傷つけぬよう守るやり方なんて、カシム自身にだってわからない。
 わかっているのは、いずれ自分のこの位置も誰かにとって代わられるだろうというそれだけ。不当な手段で得た立場はやはり、いつか必ず他の者に同じ不当な手段で奪われることだろう。
 あるいは今度こそ正しくラウルフィカを守り、導く者が現れて、彼をこの銀の月もない闇から救ってくれるだろうか。
 ならばせめてそれまでは、心が無理でも肉体だけは自分が守ろう。
 向ける先を迷い続ける剣は、それでも彼の生涯ただ一人の主へ、永遠の忠誠を誓うのだった。

 了.


夢のまにまに

 夢を見た。空を飛ぶ、夢を。

 ◆◆◆◆◆

「あんな人、もう知りませんわ」
 屋敷の中で女は呟いた。着き従う従者はそれを聞き、この方がそもそも夫を気にしたことなどあっただろうかと内心で首を傾げた。

 ◆◆◆◆◆

 ベラルーダ貴族ナブラは、牢獄の中で狂気に蝕まれながら半生を回想する。
 名門貴族の嫡子として誕生した彼は、生まれながらに栄誉を約束されたも同然だった。ただでさえ高い素養を持ち、英才教育を受け、周囲の期待に違わぬ有能さを発揮した。恵まれた美貌で社交界きっての美女と結婚し、若き王や側近の宰相からも信頼を受ける。
 けれどそれは、全て表向きの上っ面だ。
 脆い砂の城は崩れ、これまで築き上げた栄光が消え去った今、冷たく錆の臭いを放つ鉄格子を握りしめ、彼はきつく歯噛みする。
「何故だ。何故なんだ……ラウルフィカ!」
 王の名を口にする彼の半狂乱の醜態に外の看守が顔を顰めた。王に会わせろというナブラの要求はこれまで無視され続けている。看守たちには罪人にして狂人の戯言など聞く必要はないと、宰相ゾルタ直々の達しがあったらしい。
 何故、一体どうしてこんなことになってしまったのか。
 自分は一体どこで道を間違えたのか。
 生まれながらに栄誉を約束された存在だった。優れた能力を持ち至高の座にやすやすと近づけるほどの権力を手に入れ、周囲の羨望を集める結婚をし。
 暗雲の影もなかった人生は、いつの間にか歪に捩じれた。
 きっかけはなんだったのだろうか。
 刻一刻と削れいく正気の狭間で、彼は夢を見る。

 ◆◆◆◆◆

 昔、というほどでもない何年か前。
 その頃はまだ国王夫妻が健在で、この王国が揺らぐことなど、まだ若いナブラには想像もできなかった。
 理想に燃える青年貴族であったナブラは、社交界でこそ浮名を流していたものの、政治家としては真面目な部類であった。同じ青年貴族としてすでに未来の宰相として王宮で実績を積んでいたゾルタとよく顔を合わせてはこの国の未来について熱い議論を交わしていた。
 王宮の中庭を通りがかると、子どもの笑い声がする。
 国王の腕に抱かれ、愛らしい少年が笑顔を浮かべていた。それを横目に見つつ、またもゾルタと言葉を交わしながら廊下を過ぎる。新兵たちが騒ぎ、魔術師見習いがうろうろしている横を過ぎる自らの歩みに迷いはない。
 そうだ、あの頃は自分の行動に、迷いなどなかった。
 自分の力の全てを、国のために使うことに異論などあろうはずもない。
 恵まれた容姿に優れた能力。順風満帆の人生に陰りが差したのはいつ頃だったか。
 これほど国に対して尽くしたのだから、その分の報酬をもらってもいいだろうと、傲慢にも思い始めたのは。
 ミレアスやパルシャ、ザッハールはいくら力をつけたとは言っても、彼ら単体ではこの国を掌握するには足らない。それができるのは宰相であるゾルタか、彼に近しい大貴族の自分ぐらいのものだと思いあがった。
 ナブラは自分の立場にそれなりの満足感を得ていたが、宰相補佐のゾルタはそうではなかったようだ。野心に燃える男は、国王夫妻の悲劇を踏み台に若すぎる国王へと近づくことを他の四人に提案した。
 ラウルフィカ個人に対してしたことはともかく、それは当時の王国としては必要なことでもあった。いくら世継ぎの王子として教育を受けてはいてもまだ十三歳の少年が突然父王を亡くしていきなり完璧な国王になれるはずもない。王太子のラウルフィカが一人前となるまでは、それぞの分野で彼を支える人間が必要だった。
 しかしゾルタは王太子の心に付け込むぐらいでは生温いとラウルフィカの弱味を握り脅迫する手段を選んだ。
 そしてナブラも、それを面白いと感じた。一時的な国王の不在と華奢で美しい少年王の不安定さに、自分がその上の立場になる欲を植え付けられた。
 本人とって不幸なことに、ラウルフィカは彼らの助け手なしに一人で国を運営できると思いあがるような愚か者ではなかった。それがより一層少年王の苦悩を深くすると理解してはいても、ナブラはその弱味に付け込むことを選んだ。
 後は、罪に溺れて堕ちていくだけだ。

 ◆◆◆◆◆

 何もかもが上手くいっていないと感じられるようになったのは、その数年後だった。
 まず、破綻をきたしたのは結婚生活だった。
 社交界でナブラと同じく浮名を流していた美女は、恋人としては良くても妻としてナブラが迎えるには相応しくない女性だった。彼女は王宮に勤める貴族の中でも有数の立場になった夫を喜ぶこともなく、仕事に忙殺される彼が自分を見てくれないと不満ばかりを口にする。
 王国の最高権力者を手中にした代償に、ナブラはこれまで自分が見ることのなかった世界まで知り尽くす羽目になった。それが無理とも不可能とも言わないが、結果的に心身にかかる負担が増したのは確かだ。同じように執務の増えたゾルタが、何故あんな平然としていられるのかわからない。
 泣き言を言うのは彼の趣味ではなく、また、今更裏切ればあとの四人に殺される。ナブラ自身一度手に入れた栄光を手放すつもりもなく、黙々と仕事を消化する日々が続く。
 屋敷に戻るたびにうるさい妻の顔を見るのが煩わしく、ナブラは連日王宮で政務に没頭した。負担は大きくとも、仕事自体は嫌いではない。若い頃は自らの手でこの国をよりよくしようと意気込んでいたくらいだ。公私の生活のバランスが取れていれば、今の立場に何ら不満はないはずだった。
 しかし現実はそうではなく、一時の癒しを求めようにも屋敷では妻のせいでくつろぐことはできない。かといって結婚のときにあれほど騒がれた相手と離婚するにも体裁が悪く、夫婦の中は険悪なまま書類上の関係を続けていた。
 本来大貴族の当主であれば、妻を相手にせずとも愛人の一人二人囲うのは容易い。だが彼の妻は嫉妬深く、自分がナブラに歩み寄る気配も見せないくせに、夫の女関係にはこれでもかと口を出す。妻の立場から言えば当然かも知れないが、ナブラは自分にまるで自由を許さない妻の行動に疲れ切っていた。
 そんなナブラの目に留まったのが、それまでも幾度も定期的に肌を重ねていた少年だった。
 かつては少年王と呼ばれていたラウルフィカも、成長するにつれてみるみるその才覚を現していく。ゾルタは表向きラウルフィカを献身的に支える宰相を演じていたため彼の手から執務の全てを取り上げるような真似はしない。元来生真面目なラウルフィカが成長してまで宰相に仕事をまかせきりにするはずもなく、段々と国王自身が執務をこなす量は増えて行った。
 閨で時間を持て余しながら、ナブラがほんの愚痴とも言えぬ愚痴を口にする。それにさらりと相槌を打つラウルフィカに、ナブラはいつしか興味の範疇を超え、本気で惹かれていったのだ。
 仕事の話を持ち込むことを嫌う妻と違い、ラウルフィカはナブラの愚痴めいた言葉も嫌がらずに聞いてくれる。ゾルタの調教により従順ではあったが、その眼には牙持つ獣の鋭さを隠し持っている。
 ミレアスに甚振られた生々しい傷口を晒して自分に大人しく抱かれるラウルフィカに対し、それまでにない感情がこみ上げた。一度気づいてしまえば、その心地良さに浸るのは容易かった。
 ナブラはラウルフィカに溺れ、いつしか彼との時間こそを何よりも大切にするようになっていた。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見る。
 夢の中で彼は王城を自由に飛び回っていた。涼やかな風をその身に感じる。
 窓からそっと入り込んだ一つの部屋の中で、愛しい面影がほんの少しだけ寂しそうに笑う。

 ◆◆◆◆◆

「愛していると言ってくれ」
 思えば、何故あんなにも強くその言葉を望んだのだろう。
 妻にそのように求めたことはない。結婚前はもとより夫婦となってからも。
 口先だけなら何とでも言える。いくらでも取り繕える。だから言葉に意味なんてないと思っていたのだ。
 恋愛はまるでゲームのように面白かった。整った容姿と貴族の身分があれば甘い言葉を囁くだけで簡単に幾人もの女性と肌を交わすことができた。
 それ自体が目的だった日々は、だからその行為の虚しさに気づくことはなかったのだ。自分がやっていることのその先に、何もないことに気づかなかった。
 皮肉にもそれを教えてくれたのは、本当に欲しいものを与えてくれない妻の存在だった。彼女は夫に対し常に自分に関心がないと文句を言うが、それはこちらの台詞でもある。
 私はただ、私に対しての関心を示して欲しかったのだ。
 深い理解でなくていい、完全な把握でなくていい。私がどれだけ真剣に物事に向かっているか、その一欠けらをわかってくれるだけでいい。
 私はただ。
 ――まぁ、それはそうだな。
 ただ、そうして頷いて欲しかっただけだ。こちらの言葉に耳を傾けて、一言小さく頷いてくれれば、それだけで満足だったのだ。けれどその願いを叶えてくれたのは、妻ではなく、そのつもりもなかっただろう若き王一人。
「……ラウルフィカ、愛している」
 そして今はまた愚かにもその先を――彼からの愛情を欲している。

 ◆◆◆◆◆

「あんな人、もう知りませんわ」
 謁見の間で女は呟いた。段上の若き王がそれを聞き、お前はそもそも夫を気にしたことなどなかったのではないかと内心で溜息をついた。

 ◆◆◆◆◆

 公爵領から知らせが届いたのはラウルフィカが婚儀を上げる数日前だ。
「ナブラが死んだそうです」
「……そうか」
 皇帝への不敬から自領地への蟄居を命じられていたナブラが、かねてより不仲だった妻に斬りかかって殺したあげく、自らの城に火を付けて炎の中で笑いながら狂死したという知らせを受けた、その日のこと。
 ラウルフィカが自室で数日後には妻となる女性と寛いでいると、一羽の蝶が、窓から室内に彷徨い込んだ。
 まるで作り物のように見事な真っ白い蝶だ。
「あら、蝶ですか。珍しいですわね」
「そうですか? この時期にはそれほど珍しいものでもないと思いますが」
「白い蝶は、人の魂の化身だと言いますのよ」
 宮廷魔術師長より優れた魔術師である元隣国の王妃は、控えめに微笑む。
「どなたか親しい方が、最期に会いにでもいらっしゃったのかしら」
「私に?」
「ええ」
 それから彼女はラウルフィカの内心を慮るように、少し用ができたと言って部屋を辞した。
 一人きりになった室内で、ひらひらと舞う蝶にラウルフィカがすっと指を差し出すと、まるであらかじめそう望んでいたかのように蝶はその指先に留まった。
 ラウルフィカが窓辺に向かうと、蝶はするりと指先すり抜けて部屋の奥へはいりこむ。鳥のいない鳥籠に自ら飛び込んだその蝶に、ラウルフィカはもう一度指を差し出した。
「おいで」
 蝶は大人しく彼の指に留まる。
 ラウルフィカは窓の外で軽く指を振って蝶を外へと押し出した。
「そしてお行き。お前はもう、この世のどんな柵や体裁とも無縁になったのだから」
 白い蝶が遥かな空へと飛んでいく。

 ◆◆◆◆◆

 夢を見た。
 魂だけでも、あの人に会いに行く。
 そんな、永遠の夢を見た――。

 了.