39.予兆

「ラウルフィカ陛下」
 王の騎士は主君を見かけるなり、涙を浮かべそうなほど安堵した顔で跪いた。
「我が命をよく守ってくれたようだな。カシム」
「私が陛下の御言葉に逆らうことはありません」
 王が陣を抜け出すのを見逃した形となるカシムの立場は、一歩間違えば国王らしくないラウルフィカへの叱責の代わりに彼が吊るしあげをくらいかねない危険なものだった。日頃の行いというものは大切で、カシムだからこそ諸侯の将軍たちも言い分を聞いてくれたのである。
「陛下……」
「なんだ?」
「お願いがあるのです」
「忠実なる臣下であるお前の頼みならば聞こう。今回の褒章代わりだ。何でも希望を言うがいい」
 ラウルフィカの言葉に、カシムはほんの少しだけ躊躇う顔を見せた。しかし意を決したように、その言葉を口にする。
「御身を抱きしめさせてほしいのです」
 一瞬きょとんとしたラウルフィカは、カシムの言葉の意味が染み込んで我に帰るとくすくすと笑いだした。許す、と一言告げて、自分から騎士の腕の中に寄りそう。ラウルフィカの知るこの真面目な騎士に関しては、下心などあろうはずもない。そもそも男同士であるのだから、騎士が姫君を抱きしめるようには障害はない。
「陛下……よくご無事で」
「心配をするなと言ったはずだ。この通り、私に怪我はない」
 許可を得たカシムは腕の中のラウルフィカの華奢な体を強く抱きしめる。不敬と言われようとも構わず、肩口に顔を埋めた。
 プグナ王を誘惑したことなどをラウルフィカはカシムに話していないが、ラウルフィカの性格上いろいろと大変なことをあの国でしてきたのだろうということは、カシムにもわかっていた。ラウルフィカの体についた傷はザッハールが魔術で簡単に癒して綺麗にしてしまうが、だからといってラウルフィカがまったく傷つかなかったとは思わない。
「騎士として御身を守ることが叶わず、私がどれだけ自分の無力さを嘆いたか」
「だが、そのおかげで私はプグナ王に近づくことができた。軍の方もお前に私の意見を預けて任せることができたのだ。これはあくまでも命令だった。お前が自分を責める必要はない」
「気持ちの上では納得できないのでございます」
「そうか。だがそう落ち込んでもらっても困る。これからもお前には私の騎士として傍にいてもらわねばならないのだから」
「……はい」
 ラウルフィカの言葉に密かに舞いあがり、カシムはようやく主君の身をそっと離す。名残惜しげな彼にラウルフィカがなんだと問えば、咄嗟に思っていたことが口をついて出てしまった。
「陛下、その、良い香りがしますね」
 男に対する台詞ではないような気がするが、カシムが肩口に顔を埋めた際に艶やかな黒髪から漂ってきた匂いは本当に甘くて良い香りなのだ。思わず正直にそれを告げた騎士は台詞を間違えたと青くなったが、ラウルフィカは平然としていた。
「香り? ああ、アラーネア様の香水が移ったか」
 ラウルフィカの唇から平然と紡ぎだされた女の名前に、カシムは思いがけず鼓動を乱された。
「そうそう。今度から私の傍に彼女がいる場合、王妃殿下の警護も頼む。私の妻となったとはいえ元はプグナの王妃、ベラルーダで彼女のことに関して信用できる人間は少ないからな」
「……御意」
 何故主君の口から妻となった女性の名が出ることがこんなにも苦しいのか。その答を出すことを拒むカシムの返答は自然と沈んだものとなったが、ラウルフィカは気づいていなかった。

 ◆◆◆◆◆

「見事な手腕だったな。ラウルフィカ王、実に見事だった」
 詳細を伝えはしていないのにまるで見て来たかのようにラウルフィカの行動を褒めたのは南東帝国皇帝スワドだ。彼は今回のベラルーダ滞在に、心から満足したと言った。
「これでベラルーダはプグナをも取り込み、ますます巨大な国となった。友好国の発展に我が帝国も祝福を述べよう」
 もともとベラルーダを焚きつけてプグナに戦争を仕掛けさせた事実などなかったかのように、スワドはラウルフィカに告げる。ラウルフィカも礼を失しない程度に慇懃に返した。
「陛下のご期待に応えられて私も嬉しく思います」
「よく言う。全て計算通りのくせに」
 皇帝はラウルフィカとアラーネアの華燭の典まではベラルーダに残ると言った。戦の褒章とプグナとの和睦――という名の併呑――を穏便に済ますために、これからの両国の行く末についてはベラルーダ王の婚儀祝いという盛大な祭りを催して民衆に告げることとなる。プグナの元王妃がベラルーダ王の妃となることに関し、余計な口出しをする者はいなかった。ファラエナ王は民衆の感情を左右するほど優れたところのない、いわゆる普通の王だった。彼が死んだところで長い間の領土争いに決着がつくのであれば、プグナの民衆も歓迎した。
「なかなかえぐい手を使ったようだな」
「私は無力な若輩者ですので。卑怯にならねば生きていけないのです」
 プグナの王を嵌めてその玉座と妃を奪ったことは、ラウルフィカの胸に深く刻まれる。決して赦されないことをしたこともわかっている。
 ファラエナ王の乱心はもともと彼の感情を利用しただけであって、仮初めの命を与えて蘇らせたところで誰もがああなるとは限らないとザッハールなどは言うのだが――。それでも、ラウルフィカにとっては忘れてはならないことだと思った。その生き死にで多少の名目は作れても、民衆の感情までは動かせない「普通」の王だったファラエナ。その姿はラウルフィカ自身の鏡だ。もしも歯車が少し違えば、あれはラウルフィカ自身の姿だったろうから。
 いや、もうすでにそうなのかもしれない。
 自分よりも優れた王妃に嫉妬して本来誰よりも信頼できるはずの彼女を遠ざけ、偽りの甘い睦言を囁くラウルフィカに溺れたファラエナ王。彼の弱さは人間が誰しも持つ弱さだ。むしろラウルフィカの方こそそれを知っていたから、ファラエナ王のそうした感情を突くことに成功した。
 かの王の心を掴むことは簡単だった。アラーネアを嫌っていたのだから、彼女と正反対の行動をとればいいのだ。愚か者の対照として理知的な人物を演じるのは難しいが、その逆は容易い。
 ――お前のせいだぞ。お前が私を狂わせた! ラウルフィカ、こうなったら共に死ね!
 その言葉を、彼の想いを、深く胸に刻み込む。
 ラウルフィカはもう二、三言葉を交わして皇帝の前を辞した。入れ替わりに、見知った顔が賓客の部屋を訪れるのとすれ違う。
「レネシャ、お前がどうして?」
「皇帝陛下にお呼ばれしました。ヴェティエル商会の品揃えを気に入っていただけたようです」
「そうか。私の方も先日は助けられた。またよろしく頼むぞ」
「ええ、もちろん」
 いつも明るい少年は、今日もやたらと明るい笑顔で皇帝の待つ部屋へと足を向ける。
 ラウルフィカはスワドにレネシャを紹介した覚えはない。ラウルフィカ自身が懇意にしているのはレネシャとはいえ、ヴェティエル商会の代表者はいまだ彼の父のパルシャだ。
 一体、レネシャはいつ皇帝と出会ったのだろう。
 一瞬そう考えたが、ラウルフィカはすぐにその疑問に構わなくなった。彼が国にいない間、暇を持て余した皇帝が商人を宮廷に呼び付けた可能性はある。スワドの性格からすれば、同じ仕事ができるなら肉だるまのパルシャではなく美少年のレネシャを呼びよせてもおかしくはない。
 現在プグナとの戦の事後処理に追われてラウルフィカはまだまだ忙しい。ささやかな疑問はすぐにそれらに埋もれて消えていった。


40.末路

 ラウルフィカは最後に一度だけミレアスと話をした。
 話とも言えない話を。
「王様よ、あんたは俺に言うことがあるんじゃねぇか?」
「さぁな。お前こそ、言いたいことがあるのではないか?」
 それは前日だった。プグナとの小競り合いは終わっても、軍人の出番は終わらない。若くして上級大将にまで登り詰めた男は、しかし呆気ない程簡単に死んだ。西の砂漠に現れたという、いつもの馬賊退治の仕事などで命を落とした。
 ミレアスはラウルフィカが幼いころから暴力を振るっていたし、ラウルフィカは彼に報復した。その報復にミレアスがラウルフィカをプグナに売り渡したが、それは結局ラウルフィカの計画のうちに組み込まれた。
 その時点でミレアスとしては、もはやラウルフィカと張り合う気力がなくなっていったのだろう。汚い仕事に手を貸しても正々堂々自分の力で成り上がる実力を持つ男と、何一つ持たずに荒波に放りこまれ、汚い策謀でしか何も手に入れられない少年では生きていく世界が違うのだから。恨んでも憎んでも意味がない。
「じゃあな。ラウルフィカ」
「ミレアス」
 背中を向けたまま振り返らないままの体勢で、ラウルフィカはそっと呟く。
「私はお前が憎いが、嫌いではなかった」
「そうかよ」
 短い言葉に込められた意味が重いのか軽いのか、口にした本人たちも知らない。そして、その意味が通じ合う機会は、片方の死をもって永遠に失われた。

 ◆◆◆◆◆

「ナブラが死んだそうです」
「……そうか」
 公爵領から知らせが届いたのはラウルフィカが婚儀を上げる数日前のことだ。
 皇帝への不敬から自領地への蟄居を命じられていた公爵ナブラ卿が、かねてより不仲だった妻に斬りかかって殺したあげく、自らの城に火を付けて炎の中で笑いながら狂死したという知らせを、ラウルフィカはゾルタから受け取った。
 伝えられたその死に様は、同じくラウルフィカが捨てたファラエナ王とも似ている。
「あの男には、陛下の結婚話は刺激が強すぎたようで」
「刺激が強かったのは、皇帝陛下の不興をかったことだろう」
 ラウルフィカの言葉には答えず、ゾルタは一通の手紙をラウルフィカに差し出した。
「ナブラから陛下へと宛てられた手紙です。お読みになりますか?」
「……いいや」
 ラウルフィカは何ともいいがたい顔で拒否の言葉を口にした。死んだ男の言葉なぞ、今更なぞったところで何になろう。
「では捨てますか」
 ゾルタはあっさりとそう言い放ったが、ラウルフィカにはそれも躊躇われた。迷った末に、ゾルタから受け取った手紙を封を開かぬままに、自室のチェストの一段へと放り込む。
 ――愛していると言ってくれ。私を愛していると……。
 ラウルフィカに理想を重ね、それを裏切られた男の末路は自滅。得られない愛を求め過ぎた男は、それを自分が得ることができぬと知ったことで、自らの人生に幕を引いた。
 例えラウルフィカが今更手紙を呼んだところで、もう何一つ、彼には届かない。

 ◆◆◆◆◆

 ゾルタは諦める気などなかった。
「触らないでもらえます? 私はあなたとの結婚を承諾した覚えなど――きゃあ!」
 プグナから連れてこられた王女はゾルタに与えられた。ラウルフィカと同い年のその娘は、気位が高く傲慢で我儘だった。自分の結婚相手が十七も年上の隣国の宰相だということが許せないようで、ひとしきりゾルタに文句を吐いた。
 妻が強すぎると、男は仕事に身が入らなくなるものだとはナブラを見て知っている。しかしそれでなくとも本来誰よりも矜持の高いゾルタは、自分にこの娘をあてがった王と同い年の少女の言いなりになどなるつもりはなかった。
 手首を掴まれて寝台に放り出された少女は、憎々しげにゾルタを睨みつける。
「いきなり何をするのです! 私はこれでもプグナ王女ですよ!」
「だからどうしたというのです? 姫君。プグナ王女だからこそ、あなたは今私の妻となったのでしょう」
 美髯の宰相は十分な色男だが、十代の少女が憧れるような方向の美形ではない。彼との結婚も同衾も拒否した王女を、無理矢理寝台に押し倒す。繊細な薄布で作られた服の胸元を力任せに引き裂いた。
「ヒッ」
「ごちゃごちゃ言うと、鎖で縛りつけますよ」
 まったくの無表情で男は言うと、今度は下衣に手を入れて下着を剥ぎ取った。いきなり秘所を露わにされ、王女の頬に羞恥で赤味が指す。しかしゾルタの行動はそこで留まらず、前置きもなしに少女の割れ目へと触れた。
「ひっ、や、やめなさい! いやっ、やめてっ」
「――ちっ。何が可憐な深窓の令嬢だ。こんなに使いこんだあそこを晒して」
「や、やだぁ。やめてよっ! ああっ!」
 少女の秘部に触れるゾルタの指は決して乱暴ではない。しかし的確に刺激を加えて彼女を昂ぶらせていく。王女にはそれこそが怖かった。彼女がこれまで肌を重ねてきた若者たちとは比べ物にならない男の手つきだ。
「強いて言うなら、こちらは処女のようだが」
 翻弄される恐れと戸惑いの間でそれでも着実に快感を得ていた少女は、不意に男が濡らした指を後孔に入れたことで我に帰った。冷水を浴びせかけられたように震えだす。ゾルタが自らの帯を解く衣ずれさえも恐ろしい。
「そこは、違」
「こちらで我慢しておくか」
「いやぁああああ!」
 乱暴ではないが、手荒としか言いようのない扱いに泣きだした王女を揺さぶりながらその耳元でゾルタは囁く。
「私を恨むのは筋違いというものだ。あなたをこのような目に遭わせたのは、ベラルーダ王ラウルフィカ」
「ラウルフィカ……?」
「そしてあなたの母上だ。本来年の頃から言えば娘であるあなたの夫となるはずだったラウルフィカと結婚して、あなたを捨てた。若い男に走って夫も娘も裏切ったのだ」
「そうよ……お母様が悪いのよ! お父様が殺されるのをそのまま見ていたなんて!」
 もとより事件の詳細を知らされず、人々の憶測と噂話でしか情報を得ることのできなかった王女はゾルタの言葉にすぐに陥落した。美貌の母と顔立ちは似ているが、性格はまったく違う娘である。
「ラウルフィカ王は美しい少年ですよ。本来なら、あなたが彼と結婚するべきだったのに」
「そうよ。あんな綺麗な男の人見た事なかったのに、なんでお母様が……」
 ゾルタの吹きこむ毒に、プグナの元王女はあっさりと染まった。
「お互いの本来いるべき場所に辿り着くために……私に協力してくださいますね? 殿下」
「ええ……」
 ゾルタはこのまま諦める気はなかった。何とかラウルフィカを再び自らの「下」に置くために、策謀を巡らせ始めた。

 ◆◆◆◆◆

「ご安心ください、父上。あなたの商売にかける情熱は、このレネシャが立派に引き継ぎますから」
「レ、レネシャ。お前のその気持ちはありがたい。だが」
「ですからもう何も心配ありませんよ。そこでゆっくりお休みくださいね」
「レネシャ?! 待て! 出せ! わしをここから出すのだ! レネシャ!!」
 ヴェティエル商会では最近姿の見えない商会主のことを気にかける者が増えた。一人息子のレネシャはよくやっているが、若すぎる彼を信用できないという者は多い。
 その不足を補うのは、国王の保証だった。ラウルフィカ王はヴェティエル商会の取引の総責任者をレネシャに任命し、御曹司が父の業績を引き継いで名実共に商会の主となる日は近い。
 しかし姿の見えなくなった先代の主パルシャの行方と、これらの裏側で進行する陰謀については、まだ多くの者が知らずにいた。


41.愛憎

 銀髪の魔術師は名残惜しげに唇を離した。
「陛下……ラウルフィカ様……もっと」
 腕の中に抱き締めた少年にねだる。ラウルフィカは無言で彼の頬に手を滑らせて引き寄せ、呼吸を整えると再び口付けた。
 夜明けが迫っていた。いまや五人の裏切り者たちの中で、ザッハールだけが変わらずにラウルフィカの傍にいる。
 ラウルフィカが王妃を手に入れて結婚したとしても、ザッハールとの関係を切る約束はしていなかった。新妻を放るというわけでもないが、若い娘と違ってアラーネアにそれほど無理はさせられない。
 ここ数日、空いた時間は何日か、ザッハールと共に過ごしていた。
 夜は肌を重ねながら他愛のない話をし、夜明けになれば「ではまた後で」と簡単な約束をして別れる。復讐のための腹黒い計画を練る必要がなければ、二人の逢瀬はただの恋人同士のように熱くも穏やかだ。
 夜明けになればザッハールは自室に戻るために服を身にまとい部屋を出る。ラウルフィカは大概、夜着を一枚だけ羽織ると気だるげに寝台の中から彼を見送る。
「そろそろ……頃合いだな」
 しかしこの日のラウルフィカは違った。中をかきだしもせずにしっかりと着込んだ衣装の端を自分で破く。内股を伝う白濁が隠しきれずに床に落ち、まるで暴漢にでも襲われたような格好になった。
「陛下、一体何を――」
 ぎょっとするザッハールが近寄るのに合わせ、ラウルフィカは彼の胸に飛び込むようにして抱きつく。
「陛下?」
 ザッハールの目が見開かれる。しかしそれは、ラウルフィカが唐突に抱きついたからという理由ではない。
 膝から力が抜け、魔術師は崩れ落ちた。彼は子どものように目を丸くして呆然としていた。
 痛みよりも熱を感じた脇腹から生温い血が流れ続けている。思わず傷口にあてた手のひらを見れば、鮮血の色に染まっていた。
 刃を抜いた際の返り血がラウルフィカの白い頬にまで散っている。
「お前が最初に言ったんだろう。自分の怪我の治療はできない、と」
 それはザッハールにとってはあえて弱味を晒すことで示した忠誠の証だった。今、ラウルフィカはそれを利用して彼を傷付けた。衣装に隠し持っていた短刀で青年の脇腹を刺し貫いたのだ。
「は……はは」
 視界がかすみがかるのを感じながらザッハールは力なく笑う。
「やっぱり……赦してはくれないんですね。ミレアスもナブラ卿も死んだんだから……当然かぁ」
 寂しそうなその笑顔に、無表情のままのラウルフィカの視線が落ちる。
「でも……仕方ないな……離れりゃ良かったのに……俺が、傍にいたかったから……」
「私はお前を憎んでいた」
 ラウルフィカは静かに口を開いた。
「私はあの時に死んでしまいたかったのに、お前が私をこの世界に引きとめた。お前が私の一番近くで私を支え続けた。汚濁に塗れてでも生きていろと、私を縛った」
 他の男たちは、王を裏切り反逆した罪で復讐される。だがザッハールだけは違う。
「お前が、私を穢した」
 恋情と呼ぶには少し不適切な、冷たい熱を帯びた瞳でラウルフィカが言う。
「その上、お前は永遠に、私のものにはならないんだ」
 一度裏切った者は何度でも裏切る。だからラウルフィカにとって、ザッハールは信用するに足りえない。
どんなに心を許しても。どれ程心を捧げられても。
「は……そりゃ逆でしょ……陛下こそ……俺の物には……」
 なってくれないくせに、と。死に逝く男が恨みがましく囁いた。
 お互いに同じ恨み事を、違う言葉で囁いている。
 どちらも相手が、自分のことを本当に愛してはいないのだと思っている。
「ラウルフィカ……」
 掠れる吐息が呼んだ名前に、ラウルフィカは答えずに踵を返した。
「衛兵! 魔術師長の乱心だ!」
「陛下?! そのお姿は……」
 乱れ、白濁を零し返り血を浴びた衣装もそのままに、ラウルフィカは自ら人を呼びに行った。
 仰天する召使たちに慌ただしくなる宮殿。しかしラウルフィカが身支度もそこそこに兵士たちを連れてそこに戻ったとき、銀髪の魔術師の死体はなかった。
「な……何も見つかりません」
「探せ」
 おかしなことに、城中の兵士や魔術師などを総動員しても、その後ザッハールの姿を見かけた者はいなかった。ラウルフィカは確かに刺したとはいえ、死体がなければ確かに死んだとも言い切れない。
 兵士たちは国王を傷付けた者を探さねばどんな罰が下るかと必死で探したがその姿を見つけられない。その一方、城の魔術師たちは何事かを理解した様子なのが気になった。
「宮廷魔術師長――ザッハール殿は優れた魔術師でしたから、恐らく創造の魔術師の目にでも留まったのでしょう」
「創造の魔術師?」
 それはかつて創造神の名を奪い数多の神々に反逆したという強大な力を持つ人間の魔術師。いまもどこかで生きていると言われる、伝説的・神話的な存在。
 彼に拾われたならば生きているだろうと魔術師たちは言い、国王に暴行した犯人が生きていては困るのだと兵士たちは青くなる。
 とはいえ、真実は杳として知れない。
「ザッハール……」
 数々の謎を残しながら、ベラルーダの宮廷魔術師長を務めた銀髪の青年はその生死も定かではないままに、ラウルフィカの前から姿を消した。

 ◆◆◆◆◆

「ラウルフィカ様、あれはなんですの?」
 新しく夫となった少年の部屋にある、中に何も入っていない一抱えもある硝子の箱を不思議に思い、アラーネアは尋ねた。
「ああ、あれですか。飾りたいものがあったのですが、あてが外れてしまったんです」
「まぁ、珍しい。あなたでもそんな失敗をすることがあるのですね。でも、残念でしたわね」
 そう言うとアラーネアはほっとしたように笑った。プグナでは男たちを手玉にとり悪魔のような計算高さを見せたラウルフィカでも物事を読み間違えるのだという事実は、彼女を安心させたらしい。
「ええ、本当に……残念です」
 口元に微苦笑を浮かべ、困った顔でラウルフィカは言った。
 そう、あてが外れてしまったのだ。
 月明かりの下で最も輝く宝石のような銀髪は、銀皿に乗せて硝子箱に飾ればとても美しいと思ったのに。
 本当に残念だ、と。王に不敬を働いた者に科す刑は斬首。斬りおとした首に防腐処置を施すよう、引きつった顔の魔術師にせっかく約束を取り付けた甲斐もない。
 中身のないその箱が置かれたチェストの引き出しには血塗れた階級章と封がされたままの手紙。たぶんこの引き出しを開けることは永遠にないだろう。
 ラウルフィカだってわかっている。今は美しいともてはやされるこの容姿もいつかは衰える。他に取り柄といった取り柄のない自分のことを、その時には彼らだって見向きもしなくなるはずだ。だけどそこまで待つのが癪だった。必ず捨てられるとわかっているのなら、その時を待つより自分の方から捨ててしまいたかった。
 そうすればもう彼らのことを思い出すこともないと思っていた。
 これでようやく――自由だ。もう何者にも思い煩わされることはない。
「……陛下」
 アラーネアに呼びかけられた。素早く笑顔を作って彼女の方を振り返るが、拒むように首を横に振られる。
「アラーネア様?」
「泣きたい時は、泣いてもよろしいのですわよ?」
「何、を……」
 思いがけない言葉に、ラウルフィカの表情も、咄嗟の言い訳をしようとした舌も凍りついた。
「わたくしはあなたとはとても釣り合わないおばさんですから、若い娘のようにそんなに気を遣ってくださらなくても結構ですわ。それより……あまり無理をなさらないで」
「アラーネア様」
「わたくしはあなたが作り与えてくださった愛情だけでもう十分ですから、それよりもあなたの心に正直になって」
 作り与えて――ラウルフィカが真に彼女に恋をしたわけではなく、プグナとの争いをベラルーダに良いように終わらせるために一番都合のよい人物だと、打算第一で彼女を誘惑したことに、アラーネアはとっくに気づいている。恋に浮かれる若い娘ならともかく、アラーネアのように冷静な婦人が、自分が十代の少年から見て若い娘に負けないほど魅力的だと都合のよい自惚れをするはずもない。
「アラーネア様……」
 ラウルフィカは妻となったその女性をそっと抱きしめた。
 彼女を打算で妻に迎えたのは本当だ。だが彼女に、恋でこそないが、好意を抱いていることもラウルフィカにとっては本当だった。
 銀髪の魔術師の首ほどに欲し焦がれたことこそないが、傍にいて安らげる相手だと思っている。そのことに今ようやく気づき、ラウルフィカはこれからは妻となった彼女こそを誰よりも大事にしようと心に決めた。自分が二番目の夫に心から愛されていないと気づいてもラウルフィカに異を唱えることなく従ったいじらしい年上の女性は、例え打算にしろラウルフィカ自身が求めてこの国に来てもらった相手なのだから。
 抱きしめられるのではなく腕の中の相手を抱きしめながら、ラウルフィカは妻の肩口に顔を埋め、静かに涙を流す。
 ここまで来るためにあらゆる人々を傷つけて来た。復讐に利用するために、商人の息子も誠実な騎士も隣国の王も王妃も巻き込んで。自分に愛を求める貴族の感情は弄び、男女問わず誘惑し、他人を自分の都合のいいように動かしてきた。それ以外にも様々な人々の想いを裏切り傷つけ破滅させてきた。
 これからは心を入れ替えよう。人を傷つけることもなく、周りの大切な人たちも傷つけさせることなく生きて行こう。困窮している者は救い、はびこる悪は王として裁こう。それが償いになるわけではないけれど、これからはもっとまともな人間になろう。
 復讐は、もう終わったのだから。


42.螺旋

 プグナとの争いは終わり、国王と元隣国の王妃との華燭の典も無事に終わった。その間に馴染みのある名前がいくつか死後の世界と呼ばれる永遠の夜の国に赴いたりもしたが、長年の懸案を片付けたベラルーダでは喜びの気配の方が強かった。
 皇帝スワドはラウルフィカの婚儀にかけつけてベラルーダ滞在を引きのばしていたが、そろそろ帝国に戻るという。この三カ月ほどの慌ただしさがようやく終わろうとしていた。
 最近体調を崩して籠もりがちになったというパルシャの代わりに正式にヴェティエル商会を継いだレネシャからラウルフィカに手紙が届けられたのは、そんな折だった。護衛のカシムと共に屋敷に招かれたラウルフィカは、まずはレネシャに祝辞を述べる。
 兼ねてよりラウルフィカと親交を持ち、王城の人々にも実力を示して商会の当主として文句を出せない実力を誇示していたレネシャは、ラウルフィカの保証によりすぐに商会主として働き出した。
「商売は順調のようだな。レネシャ」
「ええ。これも全て陛下のおかげです」
 食後のお茶を口にしながら、ラウルフィカはいつでも天真爛漫なレネシャとゆっくりと語り合う。遠国から取り寄せたという紅茶は、今までに味わったことのない風味がする。
 本当は今もまだラウルフィカはザッハールのことを引きずっていたが、それにばかりかまけてもいられなかった。ただでさえ今のベラルーダは大変だ。国に迎えたばかりの王妃に気を配り、ゾルタの助けを受けずに王として振る舞うことに力を注ぎ、最近は疲れが溜まりやすくなっていた。
 だから、自分の体から段々と力が抜けていくことに気づいても、それが何故かなど深く考えようとは思わなかった。
「すまない、レネシャ。なんだか……」
「ああ。ようやく薬が効いてきたようですね」
 あまりにもあっさりとレネシャが言うものだから、ラウルフィカは何かの聞き間違いかと思った。少女のように愛らしい少年は、天使のような笑顔でラウルフィカの背後に命じた。
「陛下を客間に運んでください。カシム様」
「かしこまりました」
 力の抜けた体を騎士の腕に抱きあげられても、ラウルフィカはまだ状況がよくわかっていなかった。背中と膝の裏に腕を回され、姫君を扱うかのようにカシムが自分を抱きあげてもされるがまま。レネシャが当然のようにカシムを使って彼を運ばせた不自然さにも気づけない。
 さすがにおかしいと思い始めたのは、レネシャの案内で通された客間に金髪の青年の姿を見つけてからだった。
「皇帝陛下? 何故ここに」
「やぁ、麗しの王陛下。もちろん、ヴェティエル氏が私をここへ招いてくれたからに決まっている」
 ろくに動かない体をカシムの手で壊れ物でも扱うかのように広い寝台の上に降ろされながら、ラウルフィカは不穏な空気を感じ取る。ヴェティエル商会の当主となったレネシャが、皇帝を招くのがおかしいとは言わない。しかしこれほど高貴な賓客を招いたならば、晩餐の席で顔を合わせるくらいはするはずだろう。ラウルフィカとスワドの立場が逆なら待たされることも考えられたが、普通身分の高い人間を待たせておいて他の相手と晩餐をする屋敷の当主などいない。スワドの格好は今来たという感じでもなく、すっかり寛いでいる。
「レネシャ……これはなんだ?」
 ラウルフィカは状況そのものについて尋ねたのだが、レネシャはもったいぶって、先程口にした「薬」の説明から始めた。ラウルフィカの質問の意図を読み違えたわけではなく、わかっていて焦らしているのだ。
「先程のお茶に仕込ませていただいたのは、手足の力を半分ほどに奪う薬ですよ。多少味に癖があっても、ああして香りの強いお茶に混ぜてしまえばまず気づかれません。それに痺れ薬とは違って、感覚がまったくなくなるわけではないんです。便利でしょう」
 何故そんな怪しげな薬を彼が自分に盛ったりするのか、ラウルフィカは考えたくもなかった。レネシャはにこにこといつもの笑顔のまま、ラウルフィカと同じ寝台に上がった。彼の上に馬乗りになって口付けてくる。
「ん……んん! や、やめろ! 放せ!」
「どうしてです? 薬を盛って相手を操るなんて、陛下だって一番最初に僕にしたことじゃないですか。おあいこでしょう」
 レネシャと出会ってすぐのことを持ち出されて、ラウルフィカは愕然とした。あの時のレネシャはラウルフィカの演技に騙されていた振りをしていたとでもいうのか? 背筋を冷たいものが伝う。
「あ……」
「薬を仕込んであんな演出をしてまで僕の心を捕らえようとした陛下の熱い愛情にレネシャは大変感激いたしました。それならばやはりこちらからの気持ちも受け取っていただかねばと思うのです。ああ、そうそう。陛下が以前より邪魔にしていた父上はもういませんから、安心してくださいね」
「いない?」
「ええ。だって陛下、父上が邪魔だったのでしょう? ですから少し早いですけれど、父上には隠居してもらうことにしました。今頃は別荘の地下牢で冷たくなっていることでしょう」
 ラウルフィカは息を飲んだ。パルシャが最近顔を見せる事すらないと思ったら、まさかそんなことになっているとは。段々と力をつけていくレネシャの仕事振りに何の不満もなかったために、気にかけてすらいなかった。
「殺し……たのか? 自分の父親を……」
「いやですねぇ。僕は単に地下牢に放り込んだだけで、手を下してはいませんよ」
 それで餓死するまで放置したにしろ、手下に手を下させたにしろ、レネシャが実の父親であるパルシャを殺したことには変わりない。
「レネシャ、お前……!」
 目の前でふんわりと微笑む少年が酷く恐ろしい生き物に感じられる。
「ああ、やっぱり薬にしといて良かったですねぇ。さすがに僕の力じゃまだ陛下にすら振り払われてしまいますし。でも、手錠なんて無粋なもので、この綺麗な肌に痕を残すのは嫌ですから」
「……っ、カシム! 助けろ! とっととこの屋敷から私を連れ出してくれ!」
 ほっそりとしたレネシャの指で頬を撫でられながら、ラウルフィカは自らの騎士として忠誠を誓ったはずの青年に助けを求めた。だがカシムは動こうとしない。
「できません、陛下」
「カシム?!」
「私はレネシャ殿の協力者です」
「え……」
 あまりのことに再びラウルフィカは呆然とした。好色なスワド帝が性質の悪い企みに乗るのはまだわかる。だがカシムは何故?
 騎士は切ない眼差しをラウルフィカに向けると、ラウルフィカの上半身を抱くようにして情熱的に口付けた。呼吸を奪われるほど激しいそれに、ラウルフィカは眩暈を覚える。
「陛下……ずっとこうしてあなたに触れたかった」
「……い、いやだっ、放せっ」
 思わずその胸を突き離そうとするが、ただでさえ腕力の差が歴然なのに今のラウルフィカは腕に力が入らない状態だ。たくましい騎士の体はびくともせず、今にも泣き出しそうなラウルフィカの顔を覗き込んだままだ。
「あなたは私を利用するばかりで必要とはしてくださらない。それでも騎士として見てくださるのなら、利用されているだけでも良かった。けれどあなたは、騎士としての私すら必要とはしない。誰も心の底では信用せず、肝心なことはいつも一人でやってしまう」
 幼い頃にゾルタたちの裏切りによって全てを失ったラウルフィカにとってそれは当たり前のことだった。今更そんなことを、人の言葉を疑うことのないカシムに責められるなどとは思わなかった。
「決して信頼してくれない主に仕えるくらいなら、無理にでもあなたを手に入れて憎まれたほうがいい!」
 カシムの吐き捨てる台詞にラウルフィカは声を失う。青年の向ける強い瞳が怖い。
「私の理由は別段言う必要はなさそうだな。見ての通り砂漠の麗人に興味があるだけだ。おっとレネシャ、これを忘れているぞ」
 ずっと部屋の隅の長椅子に寝そべっていた皇帝が腰をあげた。金属を切る工具を持ち出して、レネシャに渡す。何をするつもりなのかと、ラウルフィカはぎくりとした。
「動かないでくださいね。陛下」
 工具を受け取ったレネシャは相変わらず花のような笑顔を浮かべてラウルフィカに声をかける。ラウルフィカの腕をとると、そこにはまっていた金の腕輪を工具で切断した。溶接されていて外せないはずの腕輪は、無残なただの金属片となって敷布の上に落ちた。
「宰相閣下の趣味は知りませんけど、外せない腕輪なんて無粋です。陛下にはこれから色々美しい装いをしていただくんですから。それに道具がなければ調教できないなんて二流の手腕ですよ。本当に逆らえないようにするなら、身体に腕輪をつけるより、心に首輪をつけないと……ね」
 残酷な想像に思いを馳せてくすくすと楽しげに笑うレネシャは、これまで自分が見て来た少年と本当に同一人物なのか? ラウルフィカにはわからなかった。呆然としたままのラウルフィカの服をカシムの腕が剥ぎ、髪をスワドの指が梳く。
 終わったはずだった。復讐はもう果たしたはずだった。
「何故? って顔してますね陛下。逃げられるとでも思ったんですか? どんな理由があれど、一度闇に足を踏み入れた者が明るい世界に帰れるわけがないじゃないですか。陛下はもう十分僕たちを利用したんですから、今度は報いてくださいね」
「レ……レネシャ」
 自分は読み誤ったのだとラウルフィカはようやく気付く。ラウルフィカが王となっても周囲に翻弄されるだけでしかなかった時と同じ年齢であるレネシャが、父であるパルシャを躊躇なく殺すなんて考えていなかった。
 レネシャの実力も真の性格も、追い詰められたカシムの鬱屈がどこに向かうのかも、皇帝の気まぐれも、ラウルフィカは何一つ読み切れてなどいなかったのだ。
「逃げられませんよ、愛しいラウルフィカ。決して逃がしはしませんから」
 そう言って笑う天使のように可愛らしい少年の笑顔は、悪魔のような男たちよりも恐ろしかった。
「諦めるんだな。ベラルーダ王。この坊やは欲しい物は手段を選ばず手に入れる男だ。例えお前にまったく隙がなかったとしても、あらゆる方法でお前を手に入れたはずだ」
「ふふふ。お慕いしております、陛下。あなたの何もかもを手に入れなければ気がすまないくらいに」
 肌をまさぐるレネシャの指が、腕を掴んで拘束するカシムの腕が、にやにやとこの状況を見下ろしながら笑う皇帝の笑みが告げる。これが罪人の末路なのだと。
 ラウルフィカの逃げ場はなかった。どこにも。永遠に。繰り返される罪の螺旋。憎しみが晴れたはずの今でもこの身を焼くのは全てを燃やしつくす劫火。
 抗い、打ち勝ったはずの宿命に、今まさに捕まったことをラウルフィカは薄れゆく意識の中で感じていた。


 了.